かくれんぼ

かくれんぼ

静かな港町に住むガラス職人を目指す荒井 桃(あらい もも)。自らの工房を持つ夢を叶えるため有名な職人崎田 元(さきた はじめ)に弟子入りをする。ガラスにひたむきな日々を送っていた桃だったが、ふらりと崖の上の空き家に越してきた陶芸家 神崎 千晶(かんざき ちあき)によってその日々は激変していく。鍵をかけていたはずの過去が次第に開いていくとき、静かな港町に起きる事件。
「死を拒むということは生を拒むことと同じなの……」
人が背負う一生のうちの罪はどれほどあるのか。静かで冷たい港町の物語。ロールプレイングゲーム『Soundmagician』のアナザーストーリー

プロローグ わたしが思うに

私が思うに、『思い出』とは脳が勝手に作り上げた記憶なのだ。
都合のいい事だけカタチにして、あのブヨブヨとしたピンク色の肉塊に糊付けされているにちがいない。
その証拠に時間がたてばたつほど全ては夢だったのかもしれないと感じるのだ
でも、私は覚えている。眩しい白の壁。どんなに目を凝らしてもてっぺんまでは到底見えなかった大きなブナの木。ただ静かに響く波と紙を滑る鉛筆の音。
今でもあのときの風の匂い、感触は思い出せる。
しかし、それすら、その事すらもしかすると夢だったのかもしれない。そんなことをふと思い出すと、時々どうしようもない焦燥感に駆られるのだ。
冷たい雨、土の感触、堤防に座り海を眺めていた彼ーーこれらがすべて幻想に過ぎないとしたら私の過去とはいったいなんだったのだろう。
違う。私は知っている。最初の場面から思い出すことができる。

赤いガラスのペンダント、消毒液の匂い、勝手口にいた父の背中、孤独と不安に踞る心臓の音。
なぜならこれは確かに私の記憶であり、私の過去だからである。

1火傷

「あっ」

溶けたガラスが真っ赤なしぶきをあげて地面に落ちたかと思うとパーンと威勢の良い音を立てて飛び散った。
溶けたガラスが腕に当たったようでチリっと痛みが走る。慌てて持っていた吹き棒を置こうとすると予想通りの声が飛んできた。

「桃、たるんでるぞ。集中しろ。」
「はい!す、すみません。」

声の主はさきほどよりも更に眉間の皺を深くさせて自身の作品へと集中し始める。

ガラス職人への世界の門を叩いて約8年。自分の店をもつという夢を抱いて、高校卒業後に飛び込んだ世界だったが、現実は厳しかった。もともと日の目を見るのはほんの一握りの職人のみ。有名な工房で住み込みで働いていても、吹き棒に触れられる機会はほとんどなく、そのほとんどが掃除や配達などの雑務に追われていた。

展示会に着いていくも、酒の席でお客に御酌をし、時には酔った招待客に持ち帰られそうになるなど、ガラスへひたむきに接したいとおもっていた桃はすぐに工房をやめ、大手企業メーカーの製造に携わる。
だが、大量生産の機械的なもの作りにも魅力が感じられず、その後も転々としながら、最終的に地元の工房へと戻ってきたのだ。

「崎田さん、あの。」
「……なんだ。」
「水、飲んできます。さっきから頭がぼーっとして。」
「……おう。自分で危ないと思ったらすぐに飲めよ。」
「はい。すみません。」

今朝のニュースで20代くらいの女性キャスターが差し棒を伸び縮みさせながら、涼し気な顔で今夏一番の暑さになると言っていたのをぼんやり思い出す。

ああ、彼女はこの工房内の暑さまでは予想できまいと、皮肉めいたことを考えながらふらつく足取りで外に出る。

夏場の工房は詠んで字のごとく灼熱地獄だ。
クーラーのないプレハブは直射日光を受けてまるであつあつの鉄板のような状態になっている。
更に約1200度近い焼炉があり、1日中そのまえをいったりきたりしているのだから、工房内は外気温よりも高い温度になっている。

事務所に入ると美佳子があらっと声をあげた。

「ちょうど今、差し入れを持っていこうとしていたのよ。」
「ありがとうございます。でも崎田さん、今作成中なので飲み物だけ、いただいていきますね。」
「そうなの。ならももちゃんだけでも食べちゃいなさい。それ、中のクリームも溶けちゃうから。」

そういうと美佳子は冷蔵庫から麦茶を取り出して流しに伏せてあったコップに注ぐ。

「わ、おいしそう。これ、この前できたケーキ屋のですよね?」

麦茶を受け取り礼をいうと桃は目をキラキラと輝かせて生クリームが詰まった大福を手に取った。

「そうなの。クリームが甘くなくておいしいのよー。やっぱり桃ちゃんもう食べたことあったかー。」
「狭い漁師町にできたケーキ屋ですからね。長く続けて貰うためにもみんなで大事にしていかないと。」
「そうね、こんな田舎に洒落た店を出してくれるんだからね。もっと町のひとたちで大切にしていかないとね。」

美佳子がそう言って二つ目の大福に手を伸ばしたとき、ガラリと事務所の扉が開いて全身ずぶ濡れの崎田がタオルで体を拭きながら入ってきた。

「あ、崎田さん!すみません!」
大福が口のなかにあるのでフガフガと息が漏れる。
「どうせこんなことだろうと思ってたよ。まったく、食いもんには昔っから目がないんだからよ。」
「あのね、全ての人がお父さんのからだの作りと同じだと思わないでちょうだい!まして桃ちゃんは女の子よ?大切な一番で弟子でしょう?」

美佳子が大福を頬張りながら言うが近くにあったコップでぐいぐいと麦茶を飲み干している崎田にはほとんど聞こえていない様子だった。
美佳子はまたそんな格好でうろうろして、とぶつぶつ文句を言っている。

「家の方にも行ったわよ。久しぶりに行ってみたらまぁひどい有り様だったわ。」
美佳子は呆れたようにため息をついた。
「別に来てほしいなんて頼んだ覚えはないぞ。」
崎田は新しい作務衣に着替える。桃もその横からタオルや濡れた下着を受けとる。

「お仏壇のまわりだけきれいにしたってお母さんは嬉しくないわよ!この事務所と工房も桃ちゃんんのおかげできれいにしてもらってるんだから感謝しないと。」

「あ、いやわたしは特になにも……」

桃の言葉もむなしくその後美佳子の説教が延々と続いた。そのなかでも崎田は返事をしたりしなかったり、のらりくらりとかわし「戻るぞ」とだけ言い残して事務所を出ていった。

「ほんとにお父さんには呆れた!お母さんに先立たれて、さらに一人娘が嫁に行って寂しいだろうと思ってたまに顔を出すといつもこんな感じなの。」
会って早々口を開けば文句ばかりではその場にもいたくなくなるだろうなと思いながらも曖昧に頷いてみせた。

「そうそう、新しいケーキ屋といえば、崖の上の空き家に越してきた人がいるらしいわよ。」
「え……」

久しぶりに美里以外の人間から聞くその言葉に桃はドキリとした。

「若い男の人で、なんでも有名な陶芸家さんだって。」
「そうですか。」
「あんなとこ、この辺の人は誰も近付きたくないと思うのよ。私は早く取り壊すべきだと思うわ。それを借家にしてるなんてどうかしてると思う。」

美佳子はよく笑う人だ。よく笑うぶん、感情が豊かで人のことも自分のことのようにして考えるため、こうして物事にも白黒はっきりつけたがる。

2児の母として貫禄のある見た目とはっきりとものを言う性格は見ていてとても気持ちが良い。しかし、桃は、美佳子のズケズケとした発言が苦手だった。

なにも知らないくせに、と心のなかで思うに留め、話題を変えるべく長男の野球の話を持ちかける。
それがねー、と前の話には興味をなくし野球チームのコーチが変わってしまって長男が練習に行きたがらないと話はじめる。

「あら、こんな時間、友紀の迎えに行かなきゃ。お邪魔しちゃってごめんなさいね。お父さんにもよろしく伝えて。それじゃ。」
そう言うと美佳子は颯爽と帰っていった。

「はあ……。」

思いの外、休憩が長くなってしまった、と思いながらコップを洗う。戻るかと小さく呟いて工房に戻った。

事務所を出るとむわっとした息苦しさを感じた。なんだかいつもよりも空気が湿っていて重い。台風が近いせいだろうか。

工房では崎田が火鋏で飲み口を広げていた。

「遅くなりました。美佳子さん今帰りました。崎田さんによろしくだそうです。」
「……喋りすぎだ、あいつは。」

崎田はむすっとしたように返す。その言葉に思わずふっと吹き出す。

「誰に似たんでしょうね。少なくとも崎田さんではないですね。」
「佳代だ。よくもまぁ口に油つけたみたいに喋れるもんだ。おう、冷えたの避けといてくれ。」
「あ、はい!」

集中だと言い聞かせ、炉に向かった。腕の火傷の痛みはもう気にならなかった。

「おう。なんだ、まだいたのか。」

炉の火を落としたのを確認して明日の体験客用のガラスを調合していたところに声がかかる。

「あとは紫だけなんです。これやってから帰ります。」
「俺がやるからお前は帰れ。」
「でも」
「体調管理も仕事のうちだぞ。無理しても良いことはなにもない。」

情けない
自分がとても情けない
弟子をとらない目の前の師に食いついて食い下がってお願いしたのは自分だ

ももは短く息を吸った
ひゅっと音がする

崎田はもう作業を始めていた

「ありがとうございます。それと、今日はすみませんでした。気がたるんでいました。しっかり入れ換えてきます!明日もよろしくお願いします!」

「おう。」

崎田は目線をやらず短く返事を返す。

桃は工房を出ようとすると やけ酒しすぎるなよ と後ろから声が飛んできた


外に出ると6時をまわっていてもまだまだ明るかった。昼間よりも幾分涼しい。
手早く着替えると砂利を敷き詰めただけの工房の駐車場へ向かう。
銀色のハイジェットが1台止まっていて おや
と思うが あぁ と思い出す。

定休日の今日、父の車を借りてきたのだった。

車体には達筆に 寿司 源 と描かれている

シートに座わり、ハンドルを握ると気を引き締めて車を発進させた。


早く取り壊せば良いと思うのよ


車の窓を開ける

今日はやはり空気が重い

波は穏やかだ

漁から帰って来た船がエンジンを規則的に鳴らしながら船着き場に入っていく

堤防が切れ、海が見え、再び長い堤防の横を走らせていく

対向車はほとんど来ない

海に 入ろう

桃は自宅とは反対に車を走らせていた

2 晩酌

「ただいまぁ。」
「まぁた、お前ぇは店から入ってきやがって!玄関から帰ってこいってあれほどいってんのによ!」
「どうせ今日はてるさんしかいないんだからいいでしょ!あ、てるさんこんばんわ。」
「お前ぇ、てるさんに失礼だろうが!」
「なんだぁ、ほんとに顔会わせりゃ喧嘩ばっかだなお前ら。」

カウンターにはニッカポッカをはいた初老の男が座ってカラカラと笑っていた。
その前では注文のシメサバを切り分ける桃の父が眉間の皺をぐっと寄せる。

「あ、お父ちゃん!また呑みながらやってる!しかも日本酒!」
「うるせぇな、てるさんしかいねぇんだからいいだろうが!」
「なんだよ、俺に失礼なんじゃなかったのかよ、源(げん)さん。」
「しかもそれあたしのじゃん!出して!今すぐ出して返せ!」
「いででで!」
娘に両頬を摘ままれ、大騒ぎをするふたりのやりとりを見た輝(てる)が更に大きく笑い声をあげた。

「ほんっとに油断も隙もあったもんじゃない。着替えてくるから全部呑まないでよ!」

どかどかと足音を立ててのれんをくぐり、店の奥へ向かう娘の姿に、先程摘ままれていた頬をさすりながら、おー痛ぇと源次郎は呟いた。

「あんたら親子見てると飽きねぇよなぁ。」
「こちとらお笑いじゃねんだ。しかしなぁ、あんなはねっかえりじゃ嫁の貰い手がねぇよ。」
「なんだよ源さん、あんた桃ちゃんがどこの馬ともしれねぇ野郎に取られちまっていいってのか?」
「冗談じゃねぇや!大事な一人娘だぞ、ほいほいとすぐにやれるかってんだ。」
「あんたも素直じゃねぇなぁ。それを娘に伝えなきゃ、俺はお前が何よりも大事だぞってな。」
「馬鹿野郎。んなこと言えるか。」

ますます眉間の皺を寄せる源次郎を見て、輝さんはまたカラカラと笑い声をあげた。


「お母さん、ただいま。」
静かに声をかけると母は変わらぬ笑顔を桃に返す。写真の母はいつまでも若くてきれいだ。
父があげたのだろう、煮物らしきものが皿にのせられ、写真の横に供えられている。
「今日は……すごく疲れた。おとーちゃんはあたしの酒勝手に飲んでるし。」

店の方から輝さんの笑い声が聞こえてくる。

着替えよう。お腹すいた そう思い母にまたあとでねと言い残して階段をあがって自室に向かう。

7時になるというのに窓の外は日が沈みきっていないようだった。波の音がいつもより大きく聞こえる。

電気をつけるとちゃぶ台の上に置かれた赤いガラスのペンダントが持ち主の帰りをまっていたかのようにキラッと光った

昨日の夜外してそのままにしてたんだったと思いだし、手に取る。

あんなとこだれも寄り付かないわよ

ふいに昼間聞いた美佳子の声が頭に響く

なにも知らないくせに
なにも知ろうとしなかったくせに
見ないふりしていたくせに

見殺しにしたくせに

ガタン

はっと我にかえり物音のする方を見やる。
桃の作ったガラス作品を並べた棚の上を黄色と白の縞模様の猫が歩いていた。

「へちゃ。びっくりさせないでよ。」

作品に引っ掻けて壊されたらたまらないのでへちゃを掴んで胸元に抱く

「あんた、また窓を勝手にあけたわね。」

みゃーみゃーと甘えた声でなく猫を撫でながら窓を見ると案の定、猫一匹が通れるほどの隙間が開いていた。朝は閉めていったのに。

へちゃは野良猫だった。
家々の屋根を歩き渡り、桃の部屋のベランダに行き着いたところを、泥酔状態で帰って来た桃が見つけ、店の冷蔵庫にあった高級魚といわれているのどぐろの刺身を景気よくあげたところ、こうして気まぐれにやってくるようになったのだ。

『鼻がぺっちゃんこだから、へちゃ!!』と酩酊状態で名付けたことは覚えている。

「そう何度もごちそうが食べられると思ったら大間違いよ。今日は煮干しで我慢しなさい。」

桐箪笥の引き戸を引いて、自作のガラス皿に煮干しを6つおいてやった。

ついでに着替えも済ませ、へちゃを外へ追いやると赤い石のペンダントを身に付け、店へと向かった。

「でな、俺ぁ言ってやったんだよ。てめぇみてぇなケツの青い奴には桃ちゃんは100年早ぇってな!!」

「おう、言うじゃねぇか輝さん。いいぞ!」

「そんでな、100年早ぇかどうかは会ってみなきゃわかんねえなんて偉そうなこといいやがるもんでな。」

桃のいない間にかなりのペースで飲んでいたようで、輝さんは真っ赤になって饒舌に続ける。

「俺はな、その若ぇのに桃ちゃんがどんな子か言ってやったってわけだ。」

自分に興味を持っているらしい下働きの話をしているようだ。
桃はぐっと身を乗り出す

「なんて?何て言ったの?あたしのこと。」

「そりゃあもう、怖ぇヤクザみてぇな見てくれの親父がいて、鉄の棒振り回しながら野郎顔負けでで働いて、酒も喧嘩も強ぇ男のなかの男だってな!」

輝さんが自信満々に言い切るとすぐに大声で盛大に笑う源次郎と青ざめる桃

「桃!よかったなあ!男のなかの男だとよ!ひー、腹がいてぇっ」
「輝さん!あんたのその一言でいつもあたしは婚期を逃してるのよ!しかも、男ってなにさ!」

俺変なことでもいったかととぼけたように言う輝さんに桃はぐったりとカウンターに伏せる。

この仕事をはじめたときから予想はしていたが最近、増して色恋沙汰から遠ざかっている。
このままではまずいと幼なじみの近衛美里(このえみさと)に頼み、何度かコンパなるものにも行ってみたがそのうち馬鹿馬鹿しくなり美里の誘いも断るようになっていった。

「あたしの悪評が、広がっていく……なにも悪いことしてないはずなのに」

がっくりと肩を落とす娘にまぁ飲め、と娘の酒をすすめる源次郎。

「輝さんが牡丹持ってきたぞ。腹が減ってるからうだうだ考えんだよ。ほら、食え。」

大皿には猪肉と人参らしき根菜を照りのあるタレでたいたものが山を作って盛られていた。

「おう、食え食え!今朝捕って絞めたやつだぞ。悩みなんてふきとんじまうほど旨いぞ!」
「いや、悩みを作ったのは輝さんなんですけど」
「細ぇこたぁいいから食え!飲め!」

言われて忘れるはずのない空腹を忘れかけていたことを思いだし箸で肉をとる。
口に運ぶと箸が止まらなくなり、猪肉の山をたいらげた桃に、酒も料理の手も止まったふたりの親父がいた。

3 古傷

久しぶりに見た夢だった。

木々が高い

地面が近い

「ねぇ、あんたはなんでいつもここにいるの?家に帰んないの?」

「家は あるよ。でもここがいいんだ。」

「お父さんとお母さんは?」

「……いるよ。ふたりとも。いつも一緒にいる。」

「じゃあなんで家に帰んないの?」

「ももには教えてあげる。」

「なにを?」

「ここは待ち合わせの場所なんだ。虹がでたら来るんだ。」


ー懐かしい。あの家だ。そうか彼は死んでいなかったんだ。

場面が変わる。まるで映画を見てるみたい。

「……オサム。オサム、あんた足が……!」

血で染まった足。おかしな方向に曲がっている。

「……もも、見て。虹が出るよ。もうすぐ来てくれる。」

「何いってんの。虹なんか、暗くて見えないじゃない!」

「もうすぐ来るよ。待ち合わせに。」

スッと意識が戻る。背筋が寒い。頭もボーッとする。

ふいに腕に小さな痛みを感じた。昨日の火傷は思った以上に深く、水疱ができていた。

工房で働きはじめてからは、傷が絶えず小さな怪我や火傷は放置しておくことが多かった。


まだ4時……
いつもよりもだいぶ早く起きてしまったがまた横になる気にはなれず、外の空気を入れるため窓を開けようとすると窓が開いている。

ベランダをのぞくと手すりの隅にへちゃが座って毛繕いをしていた。

「あんた、また勝手に」

言いかけて足元に何かがあたる。

「あーーーーーーっ」
「ももーーーーっ!」

ももが叫んだと同時に源次郎が勢いよく部屋の襖を開ける。

「お前ぇってやつは、またのどぐろ盗み食いしやがって!」
「あたしじゃない!それは」
「ったく、父ちゃんは泣けてくるぜ。」
「いや、だから」
「寿司屋の娘が魚を盗み食いなんてな、旨い魚もろくに食わしてねぇみてぇじゃねえか、ぐすっ」

源次郎は拳で涙をぬぐう

「俺ぁ、そんなにお前ぇが腹すかしてるなんて思っても見なかったんだ。情けねぇっ」
「減ってないっつーかあたしじゃないってば」
「馬鹿野郎!他に誰が盗み食いなんてするか!」

このバカ親父……

完全に疑われていることは解せないが、へちゃだと知れたら恐らく包丁片手に追い回すだろう。

先が見えたことで益々へちゃの仕業と知られてはいけないと思い、不本意だが結局空腹に耐えかねた自分が頂戴したことにした。

源次郎は益々泣き声を立てて、部屋を去っていった。

その日の朝は情けねぇと涙する源次郎を横目に朝食を作り、洗濯をし、母に手を合わせ家を出た。

波が穏やかだが、昨日よりも空気中の水分量が増えているように思う。

ももの愛車のピンク色の車はこの辺では珍しいので、すれ違う瞬間に見知った顔の住民が手をふったり、会釈をしてくる

ちょうど下り坂のカーブに差し掛かったあたりでずいぶん向こうからこちらに手を降っている人物がいることに気がつく。

船着き場の前まで来ると、手を降っている人物は幼なじみの五島 颯太(ごしまそうた)だった。

黒く焼けた肌に、短く刈られた頭をぼりぼりと掻きながら人懐っこい笑みを浮かべている。

颯太の前で車を止めるとおはようと言って近づいてきた。

「おはよう。あんた漁に出てる時間じゃないの?」

「それがさ、親父の船がダメになって今日はもう海に出られねぇんだと。だからこうして船の修理してたんだ。そしたら桃の車が見えたもんだからな。」

「そうだったんだ。確かに、この時間に颯太と会うのは珍しいよね。」

「そうだな。桃はこんなに朝早いのか?大変だなガラス職人ってやつも。」

ドライバーを片手に感心したように言う颯太がおかしくなり声をあげて笑う。

「久しぶりに会ったからかな、なんかあんた、いっちょまえに漁師だよ。」

「そうかぁ?そういえば美里にもそんなこと言われたっけなぁ。中華料理も作れる漁師なんて滅多にいねぇだろ!」

「そうねー、あんたぐらいよ。」

なんだよそれはと颯太が笑う。つられて桃も笑う。

「で、何か用だった?あたしあんまり時間ないんだ。」

おお、そうだとタオルで汗をぬぐうと颯太は周囲を確認し、声を潜めて、崖の上の家のこと聞いたか?と尋ねてきた。

ドキリとする。しかしなるべく平静を装い答えた

「知ってる。昨日、美佳子さんから聞いた。」

桃の反応が意外だったのか颯太の視線が外れ、一瞬だけ宙をさ迷う。

「そうか。俺はてっきりあいつがひょっこり戻ってきたのかと思ったんだよ。」

「何いってんのよ。オサムは5年前に死んだのよ。」

颯太は怒ったような桃の反応にたじろぐ。

「分かってるって。でもさ、引っ越して来たときから影が薄くて学校もろくに来てなかっただろ?」

言いながら車体に寄りかかる。なんとなく桃の目を見て話にくかった。

「俺らとも一線引いてたし、住む世界が違うっつーかさ。だから、あいつが崖から飛び降りたって聞いたときもなんかテレビでニュースでも見てる感覚だった。」

颯太の言葉を聞いたとたん、桃は腹の奥底がカッと沸くような熱を感じた。そしてすぐにキーを回してエンジンをつける。

「離れて。もう行くわ。」

え?と颯太が聞き返す前に発車させた。
後ろから うわっ と短い颯太の悲鳴が聞こえてきたがお構いなしにぐんぐん速度をあげた。

イライラする 昨日からずっと

ただ無心に工房へと走らせた



その日は忙しかった。夏休みシーズンの三連休初日とだけあり、観光客が多く、一組だけどうしてもと頼み込まれ団体ツアー客を受け入れた。

この町の目と鼻の先には歴史ある温泉街がありほとんどの人はそこを目指しているが、こぢんまりとした漁師町のここもまた、景観や国立公園等があることからシーズンによっては賑わいを見せる。

「おねぇさーん、はみ出しちゃったんだけど、もう一枚ある?」
「すいません、お皿まだですかー?」

「今行きます!あ、お客さんこれから説明するんでちょっと待っててください!」

「ももちゃん、1時から予約の吹きガラスのお客さん来てるわよ。ここはあたしが変わるから。」

「ありがとうございます!お願いします!あ、料金は前払いでいただいてます!」

「オーケー。さぁ、みなさーんこらから皿の絵付けの説明をしますよー!」

繁忙期には美佳子が助っ人で来る。よく通る声とはきはきとした喋りにざわついていた団体客もおしゃべりをやめ、聞き入っている。

「お待たせしました!2名様ですね。吹きガラスはやったことあります?」

「いえ、初めてです。ずっとこの工房に興味があって来てみたかったんです。」
「念願かなってうれしいです!今日はよろしくお願いします!」

嗚呼、なんか嬉しい……


同県の芸術大学に通っているという二人は崎田 元の工房に行きたかったのだという。

初心者とは思えない手つきで火鋏を扱う二人は終始驚き、楽しげに作品をあっという間に完成させた。

さすが芸大生……。あたしより上手だよ。

作品の温度が急激に下がらないように電気釜に入れる。

「作品は宅急便もできるけど、どうする?」

帰り支度をする二人に声をかけると、ショートヘアの子が 取りに来ます、電車で一時間ほどですし と答える。隣にいた背のすらりとした子も頷く。

「了解。今日は崎田さん、サンドブラストの体験さんの方に行ってるの。せっかく来てくれたのに会わせてあげられなくてごめんね。」

「いえ、ここにきてこうして並んでる作品を作者が作った場所でお目にかかれるだけでもいいんです!」

ショートヘアの子がとんでもないというふうに答える。

「あの崎田ブルーをこうして近くで見られるだけで大満足です。」

二人は目に焼き付けておこうと工房内を熱心に見回している。

自分にもこういう時期があった。作る過程はともかく、完成された芸術への羨望の眼差し。

自分もきっと作り出せるという、絶対的な自信。

極めれば極めるだけ、難しい道だと思い知らされるが、これらの熱意なくしては決して飛び込めない世界でもある。

「あなたたち、好きなだけ見ていくといいわ。
崎田さんのお話をしてあげたいところなんだけど、次のお客さんがいるから説明してあげられないんだけど。それでもいいなら気が済むまで見て勉強していくといいわ。」

彼女たちは一層目を輝かせ、礼を言うとまた最初の展示物にもどり各々じっくり鑑賞を始めていた。

「じゃあ、3日後に受け取りでお待ちしてます。お気を付けて。」

最後の体験客が帰ったのは4時を過ぎた頃だった。二人の老夫婦で、かえり際に工房主と軽く言葉を交わし、駐車場に向かっていった。

「はぁ、やっと終わったわ。」
「美佳子さん、ほんとに助かりました!毎度のことですが、この時期はもう二人じゃ限界が……」

来客用ソファーに大の字になりのびてい美佳子は いいのよ と答える

「そもそも。団体客を受け入れる時点で従業員が足りてないのが問題なのよ。弟子をとるとらない行ってる場合じゃないわよ。こんなに忙しいのに!」

美佳子さん、カフェオレでいいですか?と桃が聞くと 俺にもくれ と崎田事務所の扉をあけてが入ってくる。

「まったく、こんなに事業拡大するなら、最初からアルバイトを雇うとか、体験メニューを減らすとかすればいいのよ。お父さん?あたしだってね、家事の合間をぬって来てるのであっていつでもこうしてこれる訳じゃないのよ。」

疲れと暑さとで美佳子も気が立っている。ボランティアで来ているが、あまりの忙しさと言うことを聞かない団体客の対応でかなりの消耗をしたのだろう、心なしか彼女の体も朝より一回り小さくなったように見えた。

美佳子さん、痩せたんじゃないですか?なんていう冗談も今の彼女には気分を逆撫でするだけである。

「団体客を受け入れるっていったのはお前だろうが。俺は一見の少人数でいいって言ったぞ。それを、ホームページだなんだと作って」

「だって、折角のお父さんの作品をこんな田舎に眠らせておくなんて勿体ないでしょ?崎田ブルーを業界人がこぞって欲しているのに、その価値を世間に知ってもらえないなんて悲しいことじゃない!」

置かれたカフェオレを飲み干すと ふーっと息をつき 友紀の迎えがあるから行くわ と立ち上がる。

「桃ちゃん、いつもあなたに迷惑かけてごめんなさいね。お節介って言うのも分かっちゃいるんだけど何せ頑固な親父でしょ?わたしの父だし、あれこれとやりたくなってしまうのよ。」

「うちにも頑固親父はいますから。気持ちは分かります。」

そういうと美佳子は、そうだったわね と豪快に笑いのみ終えたコップをすすいで 息子の迎えのため颯爽と帰っていった。

「言うようになったじゃねぇか。」

にやりと笑うと会計を始める桃に1枚のチケットのような紙を差し出す。

「なんですか、これ。」

受けとると『日本のカタチ~和の食器~』
と書かれていた。

「神崎、……ちあき?」

「おう、お前知らないか?」

「いえ、まったく。」

崎田は だよなぁ とつぶやいて顎を撫でる

「陶芸なんですね、まったくジャンルが違うので今まで気にもとめてませんでした。」

「俺も知らなかったがそこそこ名のあるやつらしくてな、画商に作品を見せてもらったんだが、いやこれがまたすごいのなんの。」

陶芸詳しいんですね ともらったチケットを横において再び電卓に向かう。

「行ってこい、この展示会。仕事は帰ってきてからでいい。休みでも構わん。」

電卓の手がとまる。ガラス職人が陶芸品?似ても似つかないものをなぜ?

「思うところは多々あるだろうが、これは社長命令だ。」

「崎田さん、社長だったんですか?」

それは知りませんでしたというと何を今さらとタオルを首にかけ、工房に戻ろうとする。

「桃、ガラスから離れることも大事だぞ。」

知ってたんだ と閉められた扉を見つめる

ここ数日スランプ気味だった。前回始めて行った個展には町の知り合いがほとんどで、すっかり町内会状態になってしまった。

自分の実力不足を思い知らされ、個展からやく半年がむしゃらに作品を作り続けてきたが限界を迎えていた。

帳簿に数字を書き込み、金庫に鍵をかける。

いつもならこのまま工房に戻るのだが、今日は焦る気持ちをぐっと押さえつけそのまま帰宅することに決めた。

このまま作品を作れなくなったらどうしよう

焦りと不安は多忙だった今日の疲労感に追い討ちをかける

「海……入ろ……」

浜辺へと車を走らせていた

4 出会

緩やかな海岸線が続く遠浅の浜辺は道路に面しているので、昼間は海水浴客で混雑するときもある。

今の時間帯に海に入るものはおらず、浜辺には人ひとりいなかった。

スニーカー、パーカーと作業ズボンを脱ぎ捨てタンクトップとショートパンツでザブザブと入っていく。

あたしからガラスを取り上げたら何が残るんだろう

遠浅の海岸は百メートルほど進んでやっと股までの深さになる

そういえば、今朝怒りに任せて颯太にあたってしまった

最低だ……

夕日が海を赤く染め上げていた


「それじゃ、どうも失礼します」
引っ越し業者のトラックが去っていくのを見送り、荷物が運び込まれたばかりの部屋に戻る。

テーブルには『千晶へ』と書かれたブルーの封筒が1枚置かれている。

誰からのものかは察しがつく

ひとりきりになりたくてこんな辺鄙な場所へ越してきたのに、意味がない。

引っ越して早々に目的を最初から潰されたような、最初からそうすることが相手の思わく立ったように思えて、手紙の受取人は青い手紙を乱暴に掴み真っ二つに破りゴミ箱代わりの段ボールへと放り投げる。そしてすぐに携帯電話を取りだし、2回ほど画面をタップする。

呼び出し音がなってすぐに「はい、高萩です。」
と低い男の声がはっきりと聞こえてきた。

「ああ、俺。今業者が帰ったんだけど、荷ほどきにきてほしい。それと、京子さんからの手紙、テーブルに置かせたのお前だろ。」

「申し訳ありません。千晶様が寂しがるといけないからと京子様よりだいぶ前にお預かりしていたものだったので。」

はぁー、とため息をつく。あのな、と言いかけて高萩と名乗った男が言葉をさえぎり続けた

「千晶様の事ですので、中身も確認せず破り捨てているだろうと思いまして、失礼ながらコピーしたものを何枚か用意いたしましたので、早速、本日発送させていただきます。」

淡々とした低い声と用意周到なこの男のにやや恐怖を覚えたが、不機嫌にわかったよと答えるとフッと微笑むのが分かった。

「他にご用件は」

と続いて短く聞く高萩に、千晶は呆れたようにもういい、と答えて電話を切った

昼夜問わずここはとても静かだった

崖下の波のおとがきこえてくるほか、通りからも山道を昇ってこないとここまではたどり着けないため、車の音すら聞こえない。

白壁の教会のような作りの建物は漁師町の雰囲気にはまったく合っていないが、ここだけが別世界のような場所に思えた。

今夜は眠れるかな……

思いながら食料品調達と目的の人物が待つ場所へ向けて車を走らせる。


狭い山道をワゴン車が通ると、道路にまで進出してきた木の枝や蔓が容赦なくフロントガラスにバシバシと当たる。

この辺も整備しておかないと車が傷だらけになるな

500メートルほど走らせると県道とぶつかる。そのまま海の方へと向かった

誰もいないな そう思い、カーナビの画面を見る。
目的地はこの辺りのはずだがナビは案内をやめてしまった

「困ったな……」

車を寄せて止めると詳細を検索するも目的の場所はナビはおろか地図にも乗っていない。

さて どうしたものか

千晶は車から降りると煙草に火をつけながらあれこれと考え始める

目の前には夕日に染まる海岸が広がっていた

絵に描いたように海のど真ん中へ夕日が沈みかけている。波に反射した光が眩しくて目を細める

浜辺には脱ぎ捨てられた洋服と靴があるのみだった

どうしてこんなところに そう思い再び目を凝らしていると海のなかに人影が見えた。

「冗談だろう……」

人影は腰辺りまで海に浸かり、さらに沖へと進んでいく

「ちょ ちょっと君!何してんの!!」

声を張り上げ呼び掛けるが、波の音にかき消されひてしまう。人影は歩みを止める気配がない。

警察 いや、そんな時間はない どうしたら

迷っているうちに人影はどんどん小さくなっていく

「くそっ」

履いていたビーチサンダルを脱ぎ捨て、海へ向かって走っていく。

そのままの勢いで海に入っていくが波のせいで思うように前に進めない。

「ねぇ、ちょっと!待ってっ」


嫌なことがあったときやモヤモヤするとき、海にはいると悪いものが海水に溶けていく

足を浸した瞬間からしゅわしゅわとガスのように全身から気泡が抜けていく

小さい頃父に怒られたときも、美里と大喧嘩したときも、母が死んだときもこうして海のなかにいた。

「ふー……」

深く息を吐いて思い切り吸うとちゃぷんと潜った。

もっと深く と思ったがそれはすぐに物凄いなにかの力で阻止される。

岩にぶつけたかとおもうほどの衝撃だった。
続いてぐいぐいと右腕を引っ張りあげられ、海面へ引き上げられる

驚いて海水を飲み込んでしまう

大きくむせていると「ま 間に合った……」
と男の声が聞こえてきた

振り向くと同い年ぐらいの無精髭を薄く生やした男が泣きそうな顔でこちらをみている。
同時に大きく男の目が見開かれた

桃は訳がわからずただただ咳き込む

「あのっ……話なら聞くよ?何があったかわからないけど話せば楽になることもあるかもしれないでしょ」

「はあ……。いやそんな大したことじゃないんです。」

「大したことじゃないならどうして自殺なんてしようとするの!?」

自殺?だれが?

この男は何をいっているのかと思い大きく瞬きをする。

「え?あれ?」

怒っていたように感じた男がまの抜けた声を出す

しばらくふたりで呆けていると大きな波が頭から振りかぶってきた。

足元からさらわれそうになったがなんとか踏んばり、思わず桃を掴む手にも力を込めてしまった

今度はふたりで海水を飲み込み、むせる

「とりあえず岸に行こう。このままだと二人とも溺れちゃうし。」

へらっと笑う。桃はその笑顔に眉をしかめる。
何故眉をしかめたのかは自分でもわからないが不快だった。

「腕、離してください。これ以上沖には行きませんから。」

あぁ、ごめん と言って離された腕は余程強く捕まれたのだろう、海水に晒されるとヒリリと傷んだ。

そしてふたり無言で岸を目指す。
男は桃の後ろから着いてきた。戻らないように岸までこの状態で着いてくるつもりらしい。


そのまま無言で岸に着くとそのままズボンとパーカーを身につける。相変わらず男は後ろにいる

「なんですか?」

「あ、いや。やっぱりそれキミのだったんだね。この辺に住んでるの?」

長めの前髪が海水に濡れ顔に貼り付いている。そんなことお構いなしに、桃よりも頭3つぶんほどある背丈の男はにこにことして聞いてきた。

さっきは泣きそうな顔してたのに なんなんだ

「はい。」

我ながら無愛想だと思いながらもこの癪にさわる男から離れるためずんずんと砂浜を歩いていく

何故自分がこんなにも腹をたてているのか分からなかった

海に入っていたところを邪魔されたなどと幼稚な理由ではないことは確かだ

分からない 分からないがイライラする

人の笑顔にイライラするなんて最低だと思う


男は気にする様子もなく再び後からついてくる

そしていたって明るい口調で話始める

「あ、俺は神崎千晶っていいます。今日ここに引っ越して来たばっかりなの。そんで用足しのために車走らせてたら海に沈んでく君が見えたから助けたんだよ。俺の早とちりだったみたいだけど。」

どこまでも着いてくるつもりの男に我慢しきれず、ついてくるなと言おうと振りかえる。

離れていると思っていたが振り返った勢いと急に歩みを止めた勢いで思い切りぶつかる

神崎のみぞおちに顔をぶつけ 色気のない声が出た

「あ ごめん。大丈夫?」

「……平気です。」

「あ、なんなら送ろうか?すぐそこに車止めてあるし。」

「……結構です。わたしも車で来てますから。」

「え?あぁそうなんだ。」

身長差のため完全に上を見上げる形になるが、桃は迫力に負けてはいけないと思い、逆光で表情の見えない男をキッと見る

その強い視線に驚いたような表情になった男はなにかをいいかけたが、その言葉を遮り
ついてこないで とだけ言い捨て全力で走り去った。



後に残された男は、物凄いスピードで走り去っていく桃の後ろ姿を呆気にとられながら見つめていた。


心臓と呼吸を落ち着かせようとひとり車の中で深呼吸をする。

あたしはどうしてこんなにイライラしているんだろう。

美佳子さんにも、颯太にも、先ほどあったばかりのしかも溺れているかもしれないと思って助けてくれた男にも

「痛……」

先ほど捕まれていたところが赤黒くなっている
なにやってんだ、あたしは

桃は誰にも分からないほど小さく泣き、すぐにハンドルを握って自宅を目指した



「神崎くんこっちだ。」

呼ばれた方へ向かうと、ガラス細工がずらりと並んでいた。どれも深い青が大胆に細部には繊細に使われている

「これが崎田ブルー。なるほど 吸い込まれそうだ。」
「君の親父さんからつけてもらった名前だ。親父さんは元気か?」

神崎は ええ、まぁ と気の抜けた返事をする

「でも、驚きましたよ。イタリアの店を閉じてこんなところに工房を開いてたなんて。」

崎田は近くにあったビールケースに腰を下ろすと煙草に火をつける

「ずっとおひとりでやっているところはベネチアにいた頃から変わらないんですね。」

人影のない事務所らしき部屋を扉のガラス戸からのぞきこむ。

「いや、弟子はいる。」

まさか と驚いて声をあげるが崎田はゆっくりと煙を燻らせている

「あれだけの才能あるアーティストがこぞって先生のところに弟子入り志願していて全てを断っていたのにも関わらず。ここにきてどうしてまた……」

ほんとはな と崎田は火を消しながら話始める

「ここでもどこでも弟子をとるつもりはなかったんだよ。だが、とっちまったもんはしょうがねぇ。」

多くは語らない崎田から真相を聞き出すのは至難の技だ。崎田を有名にしたきっかけが自分の父でその息子であっても彼は語らないだろう。

そんな気がした

「家が嫌になったか。」

唐突に崎田が切り出した。

そんなんじゃないですよ と笑う

「変わらねぇなお前も。笑うときは心のそこから笑うもんだ。感情を隠すために笑うんじゃねえよ。」

この人にはかなわない

初めて会ったときは、この無愛想な男が苦手だった。

父を前にして笑顔を見せず、賛辞を言わないこの男を子どもの頃は怖いと思った。
しかし、成長するにつれて人は何をどう感じても笑えるのだと知った

人を傷つけても、悲しくても、憎くても、笑えるのだと

「せっかく越してきたんだ。明日また工房に来い。近所のやつらにも紹介するから挨拶をしておくといい。」

そして多くを語らないこの人は多くを聞こうとしない。

「ありがとうございます。ではまた明日伺います。」

そう言って外に向かおうとする

「神崎くん。」

崎田は立ち上がりこちらを見ている

「笑えよ」

工房を出ると雨が降ってきた。あっという間に雨足は強まり雷も鳴っている。

走って車に戻り運転席に乗り込む。

車の天井に叩きつけられるように降る雨の音でまわりの音が聞こえなくなる

通り雨ではない、熱気を含んだ空気が車内にも立ち込める


笑ってるさ いつも

わざとらしくそう思った

車のキーを回し、ライトをつけるとふと夕方の出来事を思い出す。

久しぶりにずいぶん強く『触れて』 しまった
目の前で死なれてはたまらないと思い体が自然と動き出していた。

普段は自制しているが、ああいった場面はそう滅多にない。
見たくないものを『触れ』てもいないのに見てしまうなんて御免だ

しかし、あの強い目はずっと見ていたかった

あの目と対峙したとき腹の底よりももっと奥の方から何かが込み上げてくるようだった

懐かしい目だった 自分を絶望の縁から掬い上げてくれたあの人の目

海でさきほど助けた彼女も同じ目をしていて強く吸い込まれそうだった。そして凛とした媚のない声が耳に残っている

でも、そのうち恐怖のようなものを感じて彼女にいつもの笑みで笑いかけていた

その笑みをみたとたんに彼女は嫌悪感を露にしていた。ああまで露骨に表情に出ると存外傷つくものだ

海に溶けていきそうな儚さが脳裏に焼き付いている

彼女にもう一度会ってみたい

雨の音はますます強くなり、すっと現実に戻される

神崎はそのままアクセルを踏んで狭い道を走らせていった

5 波間


「ほんと、珍しいこともあるものね。」

助手席に座るのは大瓦 美里(おおがわらみさと)。
桃の幼稚園時代からの幼なじみだ。

「人混みは嫌いだけど、あんたんとこのパーティー毎回すごいんだもの。一見の価値ありよ!」

美里の車を運転しているためいつもと違うバンドルサイズにやっとなれてきた頃だった。

町を離れふたりで隣の県を目指し、高速道路を走らせている。

「昨日タイから帰って来たばっかりなのに、パパが無茶言うもんだから」

長い髪の毛を後ろでくるくると束ねている美里は後れ毛を見つけ、バッグからピン止めを取りだした

「紅茶の買い付け?だったんだっけ。タイって有名なんだね。」

「うちが取引してるのはインドの会社。タイには自宅があるから日本にいるよりも動きやすかったの。」

ふぅん さすがだね と前方を走る車を追い越す

「パーティーがあるならあるで帰国前に言ってくれれば桃とこっちの別荘にお泊まりできたのに。しかも迎えもよこさないで!」

美里は頬を膨らませると 聞いてる? と桃の方を向く

「でもこうしてあたしが運転手になってるんだから別に良いじゃないの。」

「そうね。助かったわ。免許は持ってるけど運転はしたことがないから。」

「タクシーでも呼べばよかったんじゃないの?」

「なに言ってるの!せっかく桃と出掛けられるチャンスなのに。積もる話もあるしね。」

桃はそんな事を素直に言う隣に座る人物をちらりと見る

「今、嬉しいって思ったでしょ?」

いたずらっぽく聞いてくる美里は切れ長の大きな目を細めて桃にむけた

「さぁねー。」

同じくいたずらめいた返事を返す

美里が笑うと桃もふわりとした気持ちになった。

美里の家は代々造船所を持つ大企業だ。絵にかいたようなお嬢様であるが本人は竹を割ったような性格のため、中学高校時代は鼻持ちならない輩に目をつけられることも多く、常に敵対していた。

気の強すぎる性格で、時々行き過ぎた行動に出ることもあった

そんな彼女が初めて涙を見せたのは中学の時、クラスの女子何人かで美里を嫌がらせしているグループに仕返しをしようということになったらしい。

敵も多いが、情に厚い美里を慕って集まる人も多かったその中の何人かが彼女にこれからする事を伝えたのだという

女子の短い悲鳴が聞こえると、美里はその中のひとりを突き飛ばしていた

「よけいなことしないで!!」

遅刻で担任から説教を受けていた桃が教室に戻ると美里は桃の横をすり抜け廊下を走り去っていった。

訳がわからず美里を追いかけると、屋上へ続く階段の踊場で見つける

「どうしたのさ。なんかあったの?」

そう言って美里な顔を覗きこむと涙を流していた

見逃してしまいそうなほど小さく泣いている彼女は、はっきりといった

「私は、かわいそうなんかじゃない」

彼女が泣いたのはこれきり。だから時々、彼女が無理をして笑っているようにも見える
気のせいかもしれないが……


他愛もない話をしているうちにあっという間に会場に到着した。

「じゃあ、あたしは車を置いてくるから」
「ありがとう。パパに挨拶してくるわ。あとで4階のドレスルームに来てね。」
「はいよ」


桃は車を地下駐車場へ走らせる。途中警備員に声をかけられ、美里から受け取っていた紙を渡すと駐車スペースまで案内された

そういえば有名なアーティストのパーティーっていってたけど誰がくるんだろう。

「舘ひ○しとか」

なんにせよきっとディナーショーのようなものに違いない。おいしい料理をつまみながら陰からこっそり見ていよう。

そういえば崎田さんってちょっと舘ひ○しに似てるかも などと能天気にホテルのなかへ入っていった



「パパ、来たわよ。」

「おかえり美里。遠いところすまなかったね。」

濃紺のスーツにワインレッドのネクタイをしめたやや小柄な人物は美里の父親の横には線の細い髪の長い女性がいた。

「美里ちゃん、おかえりなさい。長旅でつかれたでしょう?」
ふわりと微笑む笑顔は花が咲くような笑みだった

「ママ、わたしの顔に書いてあるはずよ 疲れてパーティーどころじゃありませんって」

美里はため息をつく

「まぁ、そんなこと言わずに。美里こっちへおいで、こちらは神崎千晶さん。陶芸家さんだよ。」

小柄な父の横にはすらりと背の高い男が愛想よくこちらへ笑顔を向けて立っていた

「はじめまして。神崎千晶いいます。今日はお招きいただきありがとうございます。」

男の見た目通り、声も柔らかさのある声だった

「お父様はあの大京グループの神崎勝さんなのよ。神崎さんのお坊ちゃんに芸術にも長けているご子息がいるなんて知らなかったわ、ねぇあなた。」

美里の母が少し声のトーンをあげて嬉しそうに手を胸に組んで話す。
神崎は ええ、お世話になっております と微笑みながら軽く礼をした

「初めまして、大瓦美里です。お会いできて光栄です。」

美里がそう言って握手のため手を差し出す

「きれいなお嬢さんですね。大瓦さんもこんなパーティー会場でお嬢さんをお一人にしておくのは気が気ではないでしょう。」

さらさらと出てくる言葉は歯の浮くようなものまったが、柔らかい男の声も合間って至って自然に聞こえる。

出された手は握り返されることがなかった
握手においてマナー違反のその行為に
美里は一瞬むっとしたがってそのまま手を戻した


「ご心配には及びません。連れもあとから参りますので。あら、もうこんな時間。連れを待たせていますので失礼します。」

「おや?聞いてないぞ美里。誰だい?」

ホホホと父母の返事も待たずに足早に笑顔を張り付け退室した

すっかり桃を待たせちゃったわ 思いながらエレベーターのボタンを押す



ドレスルームに着くとげっそりとした連れが椅子に腰掛けコンシェルジュの差し出す水を力なく受け取っていた。

「桃、あんたその顔色。一体何があったっていうの?」

しゃがみこんで声をかけると美里の姿を確認した瞬間目をカッと見開き突如立ち上がる


反動で椅子が後ろに倒れるのもかまわず 帰る と言って出口に歩き始めた。

「ちょ ちょっと待って!なにがあったっていうのよ!」

慌てて桃の前に立ちふさがると何かをうつむいてぼそりと呟くが聞き取れない

「こんな立派なとこでやるなんて聞いてない!」

眉を下げたまま叫ぶ。はぁ?と声が出る

「こんなどこもかしこも金ぴかで中にいる人も王様みたいな人ばっかで!!」

わーわーと騒ぐ桃の言葉に笑いをこらえながら必死に頷いて聞く

「やっとのことでここにたどり着いたと思ったらこの人たちに洋服着せられて、後から高額請求とかされたらどうしようって……車をエントランスに着けたときから立派だとは思ってたけど……」

説得は簡単だった。まず、ドレスはあらかじめ自分が頼んでおいたということを伝えた。そして、誰とも話さずただ好きに飲み食いしていていいことも伝える。

途中「舘ひ○しは?」と聞いてきたのは聞こえないふりをした。

会場はすでに人でいっぱいだった。

「桃、何か飲もう。アルコールは今日は飲めないからノンアルコールカクテルでも貰おうか。」

「あたしはともかく美里は飲みなよ。」

美里は少し考えると じゃあ少しだけ と言ってウェイターからシャンパンを貰う

「あたしも美里のパパにご挨拶したいな。」

「いいのよ。今はママとふたりでお客さんのところをまわっているだろうから。」

「え!?ママということは美里のお父さん再婚したの?」

「みたいね。これで3人目。もう好きにして頂戴って思ってるから赤の他人をママって呼ぶのにもなんの抵抗もなくなったわ。」

「そうなんだ。大変なのねいろいろ。」

美里はまぁねと言いながらグラスをぐっと煽りあきれた表情を浮かべていた。

しばらくふたりで飲み食いしていると すぐ戻る と言い残して、中年の男女3人組の所へ行ってしまった
笑顔でなにか言葉を交わしている

桃が騒いでいる間に主催者の挨拶が終わってしまったようだ

美里は別の婦人から声をかけられ、人混みの奥へと案内されていった


空腹はだいぶ満たされた。そしてここにきてやっと有名なアーティストがくるパーティーの意味が分かった

だからあたしを呼んだのね 桃は崎田の展示会に何度か着いていき、見かけた顔が何人かいることに気付いたが名前が出てこない。

人の顔を覚えることは苦手だった

記憶力は人並みだが、よほど印象ある人物でないと記憶に残らないのだ

せっかくの休日、崎田の言い付け通りガラスから少し離れてみることにしたにも関わらず、こんな職人だらけの場では意味がない

美里の姿は完全に見失ってしまった

そっと会場を抜け出すと、人目につきにくい場所を探してロビーからテラスへ出た

晩夏だがまだまだ日中は30度を越える日が続いている

むわっとした暑さがあったが空気がカラッとしていた

会場は3階だったがホテルは小高い山の上を切り開いて作られており、遠くに海が見えた

ガラス戸の向こうではさっきから人が出たり入ったりする音が聞こえる

もう少し人目につかないところをと思い、テラスに沿って歩き出す
建物に沿って作られているようで歩けば3階をぐるりと一周できそうだった

木々の鬱蒼としている方へと向かい角を曲がると男がいた。
手すりに肩肘をのせて煙草を吸っている

人がいたことにギクリとしてすぐに引き換えそうとしたが見覚えのある顔に再度振り返った

途端に気配を感じた男と目が合う

「あ」

男の方が声をあげた

「ちょっとまってよ!」

吸い殻いれにぐりぐりと押し付けながら桃の姿を追う

昨日よりもさっぱりとして見える男の顔はよく見ると鼻筋が通った、きっぱりとした顔だった

まじまじと見つめている桃にもしかすると人違いかと思ったようで急に男は あの…… と畏まったように声をかける

「え、あぁ。ごめんなさい。あの見覚えがあったんですが人違いだったみたいです。失礼します。」

これ以上関わりたくなくて、ぴしゃりとそう良い放つと踵を返して出口へ向かう


男はあんなに印象深い出会い方をして、つい昨日のことなのに冗談かと思うほどももはそっけなく立ち去ろうとする桃に焦った様子で声をかけた

「いや、待ってよ。俺だよ俺。昨日会ったじゃない。」

勘違いとはいえ、命を助けようとして全力疾走で走り去られたことをそんなにすぐ忘れるわけがない。彼女だって覚えているはず。

「なんとなく分かるような分からないような。
ごめんなさい、あたし記憶力悪くて。」

なんて逃げようとしたみえみえの嘘をついてみた

男は顎を撫でながら覚えていてくれたことに安堵する

「昨日はごめんね、俺の勘違いで嫌な思いさせちゃったみたいで。」

まただ

あの不快な笑顔

桃の表情が変わったことに気付いたようで、ぽかんとしている。

あからさまに不快に表情を浮かべているのは自分でも分かったが今更隠せないし、隠そうとも思わなかった。

「いいえ。お気になさらずに。」

「あ、やっぱり覚えてるじゃん。ひどいなぁ知らないふりするなんて。」

しまったと思った
男はニヤニヤしながらこちらを見ている

「いいえ、やっぱり覚えてません。あなたみたいな人、はじめて会いました。」

「ついさっき認めたばっかりなのになにそれ。」
楽しげに笑う男にムカムカとしてきた

「認めてません。」

「きみ、ほんとに面白いね。」

くつくつと笑っていた男から唐突な質問がとんできた

「ねぇ、俺のこときらい?」

「はい」

疑問系で聞き返そうと思ったが心の声の方が先に肯定系で返事をしていた

そっか そうなんだ と言いながら男は声を立てて笑い始める

笑う男は楽しそうだ こんな笑い方も出来るのかと思った

「面と向かって言われると案外気持ちの良いものだね」

男はまだ笑っている

「初対面の人に言うことじゃないと思うけど、あなたはそういう笑い方の方が良いと思います。笑うときは心のそこから笑うものよ。」


その言葉を聞くと男はピタリと笑うのをやめてしまった。

そして見開かれた目でこちらを見る。
長めのまつ毛がかすかに震えている
見覚えのある光景だがつい昨日、こうして海のなかでもこの目で見られたことを思い出す。

「ねぇ、俺たち前にもどこかで会ったことある?」

「え?……だから、昨日海で……」

「そうじゃなくて、もっとずっと前に。」

「さ、さぁ……」

困惑しながら突然真面目な顔で話始める男に困惑する。

「あの、お邪魔してごめんなさい。じゃあ。」

無言になった男が薄気味悪く、その場を立ち去ろうと まって。 と手首をつかまれた。

後ろにひねる形になり、ストールで隠していた昨日のアザが露になった。

桃は手を振りほどきストールを戻す。

男の目線はアザに降り、振りほどかれたてがそのままのかたちでとどまっていた

「それ……。俺が掴んだとこだよね。アザに……なったの?」

言葉は出るが体は振りほどかれたときと同じ体制で固まっている

「違います。わたしの不注意でどこかにぶつけたんです。」

なぜ庇うのか。あなたがやったんだ。責任をとれ。とまではいかないが正直にそうだと言えば良いのだが。
この男の表情を見て伝える気になれなかった

「離してください。これ以上痛んだりしてませんから。」

そんな死の淵を見てきたかのような表情をされれば誰だって罵れなくなるだろう
なるべく関わらないように 穏便に

「嘘だ。どうして俺だって言わないの?そんなに痛みが残るくらいアザにしてしまったのに。」

再び、腹の底から黒いものが込み上げてきた。へそのあたりが冷えていく

何がしたいのか、何を言いたいのかさっぱり分からない

「どうして君は言わないの?俺のせいだって。そんなに俺と関わりたくない?」

まるで小さく震えるようにそうまくしたてる男に うるさい!と叫んでいた。

自分で思ったよりも大きな声が出ていたが言葉は止まらなくなった。
男がビクっと肩を震わせるのが分かった。

「そんなに自分をせめてほしいなら好きなだけ言ってやるわよ!そうですあんたのせいでアザになりました!気分転換のために海に入ってたのもだいなしになりました!」

桃は男に詰め寄る

「俺に関わりたくない?どうして初対面のあんたにそんなこと言われなきゃいけないの?あなたのお名前も知らないのに関わるもなにもないです!」

更ににじみ寄るとぐっと男のネクタイを引っ張って目線のたかさまで下ろし

「バカ!」

と叫んだ。そして逃げた。

我ながら幼稚だとは思ったが、捨て台詞がバカになろうとは……

その後なんとか会場に駆け込み心配して探していた美里が帰ろうか?と声をかけてきたが、着いてきただけの自分の都合で帰るなどあってはならないと思い、なんとかその場をしのいだ。

何故か調子が狂う。

しつこいのは嫌いだ これ以上近づいてほしくない

もともと気が短い方なのは自分でも知っていたが

でも初対面に等しい人に対してこんなに失礼な態度は今までにとったことがない

でもそれは頭にカッと血が昇るようなものではなくてじわりじわりと腹の底から何かが込み上げてくるようものだった

男の笑みを見ているとドロドロしたものがあがってくる

嫌悪感に近いのかもしれないが、そういった感情を持つほど関わってもいない



帰りの車では終止口数の少ない友だちを心配してか、運転変わろうか?などと声をかけてきたため、食べ過ぎたのだと嘘をついた。

またズキッとアザが痛んだような気がした


そして今に至る。

何故か横には先ほどの男がいる。

ふたりで流木に腰掛け、浜辺でビールを飲んでいる

状況がまったく理解できない

先程までもう会うこともないだろうと思っていたのにバカと小学生の喧嘩のように捨てセリフを吐き捨てた人物が

何故?ここに?隣に?

頭がくらくらする

冷や汗をかく桃の横ではなに食わぬ顔でごくごくと喉をならして液体を飲み干そうとしている音が聞こえてくる


つい一時間ほど前のこと

パーティーから帰宅後、父と輝さんと晩酌をしながら軽い夕飯をとっていると携帯電話が鳴った。

画面に崎田の文字が表示されているのを見ると慌てて出る

「もしもし、荒井です!」

「おう、休みのとこ悪いな。今から工房に来れるか?紹介したいやつがいてな。」

店の時計は8時を指していた。こんな時間に崎田から連絡があるのは珍しい。

「行きます。少しだけ飲んじゃったので歩いていくんで30分ほどかかりますが。」

「悪いな、じゃあ待ってるぞ。近所のやつらも大勢来ててな、源さんと輝さんも連れ出してきてくれ。」

そう言われ後ろを見るとすっかり楽しそうに出来上がったふたりが、昔のアイドルの歌を熱唱している

「崎田さん、聞こえますか?あの、連れ出すとめんどくさいことになると思うので私だけでもいいですかね。」

電話口から賑やかな声が聞こえてきたようで崎田ら小さく笑うと、ふたりによろしくなと言って電話を切った

酔ったおじさん二名をかわしながら自宅を出ると、やや秋の空気に似たにおいがした。

昼間の暑さが嘘のようで海沿いならではの少し湿った涼しい風が吹いてくる


半袖にゆったりとしたロングスカートのラフな格好で財布と冷蔵庫からくすねた刺身と一升瓶を入れたトートバッグを肩にかけ歩いていく

刺身は父に見つかり揉めに揉めたが最後は桃がまくしたて半ば逃げるようにして持ち去った

こう毎回刺身をくすねているから、へちゃが忍び込んで食べていたてしても自分が疑われるのは納得できた

海に向かうにつれて少しずつ街灯が少なくなっていくが、船の明かりが増えていき、夜もこうしてみると存外明るかったりする


工房にはたくさんの車が止まっていた

何でもない日にたまにこうして近所のみんなでここに集まり、なんでもない話をしながら空の明るいうちに飲みはじめる

風習とまではいかないが、小さい頃から何度もこんな風に呼び出されては父や母のあとをついていったことがある

予想通りいつもと同じ顔が並んでいた
挨拶をしながら崎田のいる工房へと向かうといっそう賑やかな声がしている

こんばんわと言いかけて信じられない人物を目にする

そしてその人物もまた信じられないといった表情でこちらに気付いた


固まる二人を余所に、美佳子が「昨日、引っ越してきた陶芸家の神崎千晶くんよ!若い子が増えて嬉しいわぁ。」と腕を組んでバシバシと背中を叩く

崎田はなにかを察知したらしく お前ら知り合いか?と尋ねるので まさか!と言おうとした桃の言葉にかぶせて 神崎が間髪いれずに はい、そうです。と答える。

「桃ちゃんもすみにおけないわね~。良い男じゃないの!」

と工房のすぐ脇で定食屋を営む奥さんが言う

「そんなんじゃないですって!」

「桃っていうんだね、名前。スカートも似合うねかわいい。」という歯の浮くようなセリフに頭が真っ白になる。

そして、きゃーきゃーと騒ぐあっという間に酔ったおばさまたちによって二人、缶ビールを持たされ外へ追いやられる

「酒が不味くなる!いちゃいちゃしようってんならあっちでやれ」
なんて始まってもいないのに散々な言われようだ

こうしてなぜかふたりで肩を並べ無言でビールを飲んでいる


昼間のこともあり、そしてもう会うことも話すこともないだろうと思っていた人物にこの短時間で、この短距離で再び再開するなど夢にも思ってもみなかったことだった。

願っていたわけでない。夢なら醒めてほしい。

とりあえずどこかに座ろうか と言われふらふらと着いてきてしまった

先程から神崎は無言で海を眺めている

居心地が悪い

それもそうに決まっている。その原因を作ったのは自分だ

どうしようもなくなった行き場のない感情を手当たり次第にこの男に投げつけた

胡散臭い笑顔は確かに嫌だった

だからといってあんな態度と言葉を他人に投げつけて良いわけがない

今になって自分がしたことに青くなる

今更冷静になって考える

隣で青くなったり赤くなったりしている桃に気付いたのか突然神崎は笑い声をあげた

「借りてきた猫みたいになって、ホントに忙しいね。どれがほんとの君なんだろうね。」

あー、おかしい と言って目尻をぬぐう

しかし桃にはその笑い声が皮肉めいたものに聞こえてしまう

あの と言って立ち上がると神崎の目をまっすぐにみて ごめんなさい と頭を下げた。
膝に額がつくほど体を折り曲げて頭を下げた

神崎の表情は見えない。スカートの裾を握りしめて相手の声を待つ

改めて自分の軽率な言動に恥ずかしくなる

「初対面のあなたにたくさん嫌な思いをさせました。ほんとうにごめんなさい。」

返事はない

波の音と工房から聞こえると賑やかな声だけが聞こえてくる

張り詰めた空気のなか、神崎が動く気配があった

「じゃあさ、お詫びして。」

「え?」

突然の言葉に顔をあげると近距離に神崎の姿があった

「お詫び……ですか。」

謝罪だけで許されるとは思ってはなかった。一発殴られるくらいの覚悟はしている。

「なにをすればいいんでしょうか。」

「いやに素直だね。」

「けじめはつけます。」

キッと目に力を入れ、神崎を見上げると、族抜けじゃないんだから と吹き出された

ひとしきり笑うとそうだなぁと考えてぐっと視線をおろし、桃の目線に合わせる

反射的に身を引くと、含み笑いを浮かべた神崎が言う

「じゃあ、俺のうちの家政婦さんになって。」

「はい?」

予想外の提案に拍子抜けした声が出た

「俺ね、独り暮らし初めてなの。家事全般は全くやったことがなくてさ。」

腕を組んで眉を寄せて言う

「あ、いや。わたし一応端くれだけどこの工房で働いてるんです。だから家政婦はちょっと。」

「知ってるよ。あの崎田さんの大事なお弟子さんだもの。同じ芸術をつくることに携わるものとしてそんな無理はさせられないよ。」

「はぁ。」

「だから君の来れるとき来たいと思ったときだけで良い。俺は会いたくなった時に君に電話をする。でも無理強いじゃない。あくまで君の都合の良いとき、俺の都合の良いときだけ。」

どう?悪くないでしょとにっこり微笑む

お互いの都合の良いようにということかと思う。

「もちろんタダとは言わないよ。ちゃんとお給料も払います。」と条件を付け足してきた。

正直、毎日がほんとうに忙しい。うまくいけばあまり会わずに済むかもしれない。できることならこれ以上関わりたくないのだから。

あれこれと真剣に考えている桃を見て ま、難しく考えないで。と軽く答える

「どう?悪い話じゃないと思うけど。」

「期間は?」

そう聞くと、あぁそうだね。と神崎は顎を撫でながら考える。

「3ヶ月。どう?あまり長くてもお互い生活があるしね。俺もそれまでには少しずつここにも独り暮らしにも慣れていけると思うし。」

正直、長かった。しかし、けじめをつけると言ったのは自分だ。これ以上助平根性を出すわけにはいかない。

「分かりました。3ヶ月ですね。」

「契約成立だね。」

「でも、お金は入りません。来れるときに来るだけでそんなの受け取れませんから。」

「うん、まぁそこは俺の気持ちだと思ってよ。どうしても俺から受けとりたくないっていうなら任せる。」

お金の事なのに任せられても困るというと神崎は笑ってしっかりものだねと言いながら了承した

そう言うと、おおよそ男女が海辺で語らうのとはちがう雰囲気の中の、契約が成立しお互いに握手を交わした。

その様子をずっと見ていた美佳子はしびれを切らしていた。

「なんなのあの握手は!まったく最初の良い雰囲気から突然謝罪会見になったかとおもったら今度は条約成立みたいな。」

「なんだ、良い雰囲気じゃねぇか。」

崎田が焼酎を片手に立ち上がって二人の姿を覗きこむと どこがよ と美佳子に一喝されてしまう。

「桃は当分、恋愛はしないと思いますよ。」

崎田の後ろから颯太が顔を覗かせる。

「なんだよ颯太。お前、桃ちゃん気になってんのか?」

更に後ろから漁師仲間たちの声が飛んでくる。
うるさい とじと目で睨む
おお、怖え と誰かが言うとどっと笑い声が聞こえてきた

そんな外野は放っておく

「崎田さんも知ってるでしょ。あの崖の家の事。村上オサムの事。」

美佳子と崎田に緊張が走ったのを感じた

「あいつはまだ引きずってんのか。」

崎田はこちらに向かってあるいてくる桃と神崎を見ている

「引きずるもなにも、あいつに全部押し付けたのは俺らじゃないですか。」

そう言うと颯太は桃には向かってあるいていく

3人でなにやら話をしている様子を見ながら崎田はあのときの事を思い出していた

あれは、ひどい出来事だった

ひどいなんてものではなかった

誰もが無関心を装い、目と耳と口だけは興味深く動いていた

「まったくいつの話をしてるだか颯太は!あんな昔の話を持ち出して。」

美佳子は思い出したくもないというふうに言い捨ててその場を離れた


「崎田さん!」

桃のよく通る声にハッとする

「なんだよ、お前ら。やっぱり知り合いだったか。」

なんでもなかったかのようにからかう。

「もう番号も交換しちゃいましたよ。ね、桃。」

神崎が微笑んで桃を振り向く

「馴れ馴れしく呼ばないでください!」

「あ、俺も交換してください。おれ、佐伯颯太っていいます。うす。」

「なんであんたまで!?」

3人をみつめながら崎田は四年前の事を思い出す。


村上オサム。

狭いこの町は閉鎖的でよそ者の噂はあっという間に広がっていく。

排他的ではないゆえ、ふらりとやってきたあの一家は特殊すぎた。

息子の目の前で命をたった両親はおそらく死に場所としてこの地を選んだのだろう

絵描きの息子はその莫大な遺産を使うすべを知らなかった。

有名な画家である彼の作品にもまた莫大な価値があり、町全体で一気に息子を持ち上げ始めた。

それに便乗しなかったのはごくわずかな町民であり、ほとんどがその資金を目当てに彼と彼の作品を売り物にしていった

桃はそんな彼に最後まで人として寄り添おうとしたごくわずかな人物だった。

金に目が眩んだ町民から罵詈雑言を浴びせられることもあったが、桃は生活力のない世間知らずで浮世離れしたところのある村上オサムを庇い続けていた


自分も含めて、あの奇妙な家と一家はこうして桃がいることで、害のないものとしてとらえられていた。

そのなかでなにがあったのか、誰も知ろうともしない

「崎田さん?大丈夫ですか?」

桃の声にハッと我にかえる

「あぁ、大丈夫だ。少し飲み過ぎたかな。」

「ふぅん。珍しいですね。」

「お前と一緒にするなよ、ザルが。」

「好きでザルになったわけじゃないです!」


その日の宴会は朝まで続いた

6 色彩


後々聞いた話で、崖の家に越してきたのは神崎だったらしい

急ぎだったため、とりあえず立地の良いそこに決めたのだとか

オサムの命日以外であの家の近くに行ったことはほとんどなかったが、これからはあの家に再び明かりが灯り、新しい家主によって生活が始められるのだと言う

信じられないが、桃は冷静な自分がいることが意外だった。

さんざんわめいて当たり散らしたからかな

朝食をつくりながら考える

そう思うと、神崎に少しばかり感謝した

「お父ちゃん!ほらできたよ、お母さんとこに運んで。」

「おう。」

荒井家は仏前の母にも必ずあさげを運ぶ。

ふっくらと出汁と砂糖で甘くした卵焼きを父に渡すと、股引きに腹巻きがルームファッションの源次郎が線香をつけ、手を合わせる

「母ちゃんよ、桃は誰に似たんだかこんなに態度と胃袋のでっけぇ娘になっちまったな。」

台所の隣に茶の間があり、聞こえてきた言葉に味噌汁とご飯をお盆で運びながら反応する

「間違いなくお父ちゃんだね。ほら、冷めるよ。」

いただきます とふたりで手を合わせて食べはじめるとテレビからは今夜通過する台風の進路図を説明する男性キャスターの姿が映し出されていた

「今夜も遅くなるのか?」

そう言って揚げと水菜の味噌汁をすすりながら源次郎が聞く

「今日は仕入れと配達しかないから昨日より早く帰って来れると思うわ。お父ちゃん今日はどうするの?」

「今夜はこんな天気になるんじゃ店は早めに閉めるさな。あんまり遅くなるなよ。」

「うん。今日は唐揚げにしようと思って鶏肉買っておいたから、なるべく早めに帰ってくる。」

唐揚げか いいな と源次郎はつぶやいて卵焼きを取る

「おう、そういやお前宛に郵便が届いてたぞ。」

朝食後、お茶を入れていると源次郎が玄関からミカン箱ほどの荷物を持ってきた。

誰だろう そう言ってどさりとテーブルの上に置かれた荷物の宛名を確認すると英語の表記が目に飛び込んできた。

「ルッツ……ルッツ先生だ!」

すぐに頑丈に張られたテープをはずして、中身をあける。

イタリア語表記の新聞紙がぎっしりとつまっていてそのまわりのクッション材を避けると、見事なベネチアングラスのシェールライプが入っていた。

「お、すげぇな。」

アートとは無縁の源次郎も珍しく声をあげた

「あたしがイタリアに修行に行ってたときにお世話になった先生だよ。」

ランプを取り出すとそこの方に手紙があるのを見つけた。

取り出して広げるとイタリア語で短くメッセージが添えられていた。

ミミズみてぇな字だな と源次郎は手紙をちらりと見てすぐに読みかけの新聞を広げ始める

簡素なメモ用紙のようなものに 『色を忘れるな』 と暗号のような言葉が書かれていた

確かにルッツの字であったが何故これを自分に送ってきたかはわからない


ランプは水色をベースとしたもので、丸いフォルムに淵が波打っているような形をしていた

上から縁にかけては細かい色とりどりのチップがちりばめられ、海に花を投げ入れたような華やかなものだった

「ステキだなぁ。」

手にとって眺めていると 源次郎が おい、いいのか?と声をかけてきた

時間を忘れて見入っていたようだ

「あ!ヤバい、じゃあ行ってくる!これ、そのままにしておいていいから!」

と言って慌ただしく出ていこうとすると後ろから 気をつけてな と聞こえた来た


外に出ると湿った風が強く吹いていた

そしてピンク色の車に乗り込むと海沿いの工房へと向かって走らせた


煙草の臭いがする 自分の吸っているものとはちがうもののにおいだ

目をあけると あら起きたの? と女は煙を燻らせながら細い指で神崎の髪の毛を弄んでいた

気だるいいつもと同じ朝を迎え、もそもそと起き上がる

「ねぇ、陶芸家ってほんとだったんだ。すごいじゃない。わたしカップが欲しいなー。これとか。」

そう言ってベッドから起き上がると、一糸纏わぬ姿で神崎の名が入った作品を持ち出してくる

「んー、それはだめ。」

「どうして?こんなにたくさんあるんだもの。いいじゃない。」

「あんまり他人にものをあげるの好きじゃないんだ。強い思いがあるものは尚更。」

と答えると女は長い艶のある髪を翻して どういうこと と声を低くする

「そのまんまの意味だよ。俺にあんまり深入りすると良くないよ。」

と肩肘をついて答える

「なにそれ。あたしじゃ満足できなかったってこと?何様のつもり?」

「お互いそういうことだったでしょ?その時その場が楽しければって。」

気に障ったようで女はあっという間に着替えを済ませると

「最低」

と言い捨ててドアを荒々しく閉めて出ていった

タクシー呼ばなくて大丈夫……かな

やはりここでも眠ることができず、昨日工房から帰る途中に電話のボタンを押していた

昨日のパーティーで知り合った子だった

名前は 覚えていない

最初はふたりで話をしていたが気づいたら寝室だった

拒む理由もないのでそのまま今に至る

今回は割りと穏便だったな と思っていると砂利を踏むタイヤの音がした。

さっきの子がタクシーを呼んだのだと思い窓の外を覗いてみる

窓ガラスからピンク色の車が見える。タクシーではなかった

降りてきたのは昨日契約をしたばかりの意思の強いあの目をした子だった。

驚いた
あの子が自分から来るなんて想像していなかった

神崎は自然と桃の動きを目で追う

風が強いようで車から降りると一気に巻き上げられよろめいている。
そしてバックドアをあけて何か大きなものを取り出すと、積んでいた新聞紙が強風に巻き上げられその場に舞う。

慌てて荷物をおろし、バックドアを閉めると踊る新聞紙を集めに走り回るが何枚かは遥か彼方に飛ばされていってしまった。

拾おうとした新聞紙が風で顔に張り付いてきたのを懸命に取ろうとしている

あ、転んだ

ほんとに見ていて飽きない

窓ガラス越しにその様子をみながらクスクスと笑っていた

ノックの音がする

脱ぎ捨ててあった服を手早く着ると、階段を降りて玄関に向かった


「神崎さーん。おはようございますー。荒井です。あけてくださーい。」

ハイエースがとまっているので家にはいるだろう。
しかしなかなか返事がない

なんか、この家で他人の名前を呼んでるなんて変な感じ……

見慣れない小屋も建てられていた

県道からそれた山道の途中、派手な女の人が携帯電話で話ながら歩いていくのとすれ違った。

山道はこの家にしか通じていないので、おそらくこの家から出てきた人物だろう

仕入れ先に行かなければならないため、呼んでも出てこない家主はおそらくぐっすりと眠っているのだろうと思い引き返そうとすると遠くから声がかかった

新しいログハウス調のたてものから神崎がこちらに向かって手を振っていた

「桃っおはよう!」

すべてがはだけているような格好で現れ、一瞬ぎょっとするが先ほどのすれ違った女性を思い出して納得した

「おはよう。これ、崎田さんからです。上掛けにガラスを使いたいと言うことで、無地の白を4枚もってきました!」

ずいっと差し出す 次の仕入れ先との約束まであと10分しかない!

「あぁ、ありがとう。いつでもよかったんだけどね、こんなに早く来てくれて嬉しいよ。一緒におちゃでも」

「そうですか!ありがとうございます!じゃ、またよろしくお願いします!毎度!」

「え?あ、ちょっと。」

最後のは実家の寿司屋を手伝っているうちについた癖だ。

車を発進させてから神崎へ手を揚げてニッと挨拶をすると猛スピードで山道に消えていった。

そして、再び山道をあるいていた女性とすれ違うがもう時間のない桃には振りかえる余裕すらなかった。

携帯電話が鳴る

崎田からだった

あー、どうしよう 県道まで出ると電話は鳴りやんだ

急いで路肩に止めてかけ直す

「おう、忙しいとこすまねぇな。」

「あ、すみません!今から仕入れ先に行くんです!」

「おお、そうか。さっき神崎くん用に持たせたガラスあるだろ。あれ、色つきなんだよ。」

「ええー!もう届けちゃいましたよ。」

「まぁ、見れば分かるから使わねぇだろう。俺から連絡しておくから仕入れ先からの帰りに悪りぃんだが引き取りにいってもらえるか。」

「分かりました!とりあえず仕入れ先に向かいます!」

崎田の返事を待たずに切ると、すぐにハンドルを握り直すと坂道をぐんぐんのぼっていった


「千晶様、一通り終わりました。他になにかご入り用なものはございますか。」

いつものスーツではなく作業着姿の初老の男がタオルで手を拭きながら土を練る神崎へと声をかける

プラスチックトタンの小屋にはクーラーを着けておいたが、さすがに土を練る時には全身を使うので汗だくになる

「何度見てもこの菊練りというものは美しいですね。お見事です。」

まるで菊の花びらのようなひだを作りながら練っていく技法だ

「これくらいかな。あぁ、高槻ありがとう。今日はこれから台風がくるらしいから早めに退散したほうがいい。」

「かしこまりました。食事は作りましたので温めてお召し上がりください。」

高槻はそういうとペットボトルの水を渡す。

あぁ と気のない返事を返して水を受け取ると熱をもった掌にひんやりとして心地がよかった

「突然飛び出したと思ったらこんなところにいらっしゃったのですね。よくこんな場所を見つけましたね。」

高槻は白髪混じりのしっかりと後ろに固められた髪の生え際をタオルで拭くと丁寧にたたむ

まぁ、色々とね。と言って水を飲む。

「勝様には詳しくはお伝えしていませんよ。時間の問題だとは思われますが一度ご自分でお話になるのも必要かと。」

「必要だったらやってるよ。まぁ、不幸の体質はどうしたって治らないのさ。どんな薬でもどんな名医でも。」

ボトルを置くと、練った土にかけておく布巾を絞る

「千晶様、わたくしはいつもお側におりますよ。」

差し出がましいことを申し上げました。と礼をすると高槻は去っていった

小さい頃から父親のような兄のような存在の高槻は大きな家のなかでの灯火だった

風の音が強くなってきた。雨は降っていない。

ろくろを回し、土としばらく遊んでいたが一度ペダルから足を離して回転を止める

ふっ と短く息を吐いて再びろくろを回す
作品作りに集中し始めるが昼間の桃の姿はいつまでも消えなかった。

また会いたい と考えろくろを回し続けた



崎田の工房では配達を終えた桃が作品を作っていた。

仕入れ先との時間にも間に合い、トントン拍子に進んだことで作品を作らせてもらえることになった。

崎田は隣町のホテルからの依頼品を作っている

今度町おこしの一貫で近隣の様々なジャンルのアーティストをあつめた作品展を行うことになっていた

出展作品は1人1点のみ

小さな作品展だが県内外からも多数の客が来るイベントだ

ギリギリまで悩んでいた桃だがルッツからランプが届いたこともあり、申請用紙にランプと記入をして提出してきた

大体の形と大きさのイメージはできている。

溶けたガラスを大きくとると炉で表面をならしていく

少しずつ吹いては再び炉に戻し、吹くを繰り返していくと次第に30センチほどの球体が出来上がった。


その球体に砕いたガラスのチップを転がしてつけていく そして再び炉に入れる

その作業を大きさのちがうものを含めて6つほど作り、今日の作業を終えた
集中していたため無意識のうちに歯を噛み締めていたようで顎が疲れている

崎田は早々に帰宅していた。作業中に声をかけられたことはなんとなく覚えている。

工房の電源をチェックしてシャッターをおろすと風が物凄いいきおいで吹き込んできた

そしてしょっぱいしぶきが雨に混ざって飛んでくる。海上は大しけだ。夏の終わりに最近は台風がくることが多かった

厚い雲に覆われているため、日暮れはいつもよりはやい。外は真っ暗だった。

「やばいな。早いとこ帰ろう。」

帰り道に通る船着き場と堤防の道は台風の時に高波のため封鎖されてしまうことが多い。そうなると山を登って隣町から回り込むルートしか残っておらず、いつもの倍時間がかかるのだ。

おそらく父も腹をすかせて唐揚げを待っていることだろう

あたしもお腹へったわ

しかし桃は重要な用事を思い出してしまった

「げっ。ガラスの交換……。」

仕入れ先へ間に合ったことで安心感からかすっかり頭から抜けていた

おそらく崎田がいれば明日でも構わないと言うだろう。しかし、その日のことはその日のうちにするという独自のルールを持つ桃は先延ばしにはしたくなかった。
状況が状況でも今日のうちに届けたい。

事務所の戸締まりをして段ボールを荷台に積み込むとピンク色の車を走らせた。

「続いてお天気をお知らせします」とラジオから流れる声にザザッと時折ノイズがまじる。

車の外はバケツをひっくり返したような雨でワイパーが追い付かず前がほとんど見えない。

お父ちゃんに電話してなかったな


ふと思うが今はそれどころではない。とにかく、堤防横の道が通行止めになっていないことを祈って前方のほとんど見えない道を走らせていった


船着き場まで来ると投光器の明かりがぼんやり見えてきた。減速するとカッパを来て誘導灯を持った颯太にとめられた。

窓をあけると雨風が吹き込んでくる

「もう通れなくなった!?」

颯太はヘルメットを押さえながら窓に寄る

「今しめようと思ってたとこだ!まだ通れるけど気をつけて行けよ!」

風の音で聞こえにくいが颯太が大きな声で言うとさっと車から離れてはやく行けと誘導灯を振る

「ありがとう!あんたも気をつけてね!」

そう言ってぐっとアクセルを踏んだ。

時折大きい波が道路に入ってくるが雨は先ほどよりも若干小降りになってきた。風は相変わらず強い

視界も少しよくなり、堤防脱出のためにぐんとスピードをあげて やっと山道に差し掛かると木々のお陰で雨はほとんど吹き込んでこなかった

県道から側道に入り長い木々のトンネルを抜けていくと目的地に到着した。

家には明かりがついていない。

留守ならばと思い、ダッシュボードから紙とペンを取り出すと簡単な置き手紙を書いてポケットにつっこんだ。

そして車のドアをあけると強風でそのまま勢いよく開き反動で運転席から転げ落ちた

「いったぁ。」

頭を尖った砂利にぶつけたようだが、強風と雨に晒されてなりふりかまっていられず荷台から段ボールを取り出して玄関のすぐ横にある資材入れにまで走って運んだ

オサムがよく業者に頼んだ資材をこの穴から受け取っていたのを思い出して、開けてみたところ予想通り中は空っぽでふたを閉じると部屋に荷物が入る仕組みになっている

置き手紙と一緒に押し込み急いで車に戻ろうとすると、白壁の家のとなりに建てられていたログハウスから明かりが漏れている

そのままログハウスに歩いていく

ここまでぐっしょり濡れてしまえばもうこれ以上濡れたところで何一つ気にならない

「神崎さーん!」ドアをノックしてみたが、小さなすりガラスの窓では、なかに人がいるかどうかは確認できない

戻ろうと思ったところで「桃ちゃん?」と声をかけられたような気がした

風の音かと思ったが振り向くと神崎がいた

頭にタオルを巻いていたが暗くて表情がよく見えない
「どうしたのこんな、ってうわ!」

驚いた声と同時に頭がじんじんと痛む。そして生暖かいものがこめかみを伝っていくのが分かった。

桃ちゃん!と手をぐいぐい引かれながらログハウスの中へ連行された。

中に入ると真新しい木の良いか香りがした

頭が痛い こめかみが熱い

神崎は桃の手を離すとパッとランタンに明かりをつける

「ごめんね、新築なんだけどまだ電気とおしてなくてさ。」

と言って振り替えると 桃! と目を見開いて駆け寄ってきた

「頭、痛い……」

砂利で頭が切れたのだろう。血がドクドクと流れ出ている

「と、とにかく止血を!!これで押さえてて!」

神崎が頭に巻いていたタオルを渡される。雨でしっとりと湿っていた。

なんだかここ最近怪我が多い。死に至るほどではないが。

バタバタと大慌てで棚をひっくり返す神崎の姿を痛む頭で見つめていた



風が強く窓ガラスを揺らす。

オオオオっと風鳴りが聞こえる

神崎によってきっちりと巻かれた包帯と貰った痛み止の市販薬のお陰でほとんど痛みを感じない。

「すみません。ガラスを届けに来ただけのはずなのに。」

濡れた服が乾くまでということでTシャツとズボンを借りて履いている。

「それにしても驚いたよ。俺が崎田さんでも明日で良いって言うと思うよ。危険だしね。こんな嵐の日にしかも血塗れで立ってたから一瞬俺に恨みのあるやつが化けて出てきたのかと思った。」

笑いながらコーヒーの入ったカップを自分と桃の前に置く。

ありがとうございます。と受け取るとほわりとコーヒーの匂いと温かさが雨風に当たり、怪我で血を少し失って冷たくなった体をじんわりとあたためていく。

「夏とはいえ、暦の上ではもう立秋で秋が始まってるんだよね。日中の暑さは秋なんて思えないけどさすがに雨風に当たると冷え込むよ。」

そう言いながら隣の椅子にかけてあった綿毛布の膝掛けを渡す。

桃の洋服は暖炉をたいて乾かしている。部屋はかなり暖かくなっていたが、今夜の気温と自分の体感温度的にはちょうど良い。

至れり尽くせりだ。

「あたし、家政婦らしいこと何一つしてないわ。しかも神崎さん、なにか作業中だったのに。」

膝掛けにくるまると椅子の上で体育座りをして、体温確保を確保する

その様子を見てふっと笑う神崎が いや、ちょうど終えたところだったんだよと言いコーヒーを一口啜る

「陶芸家でしたよね。どうしてこんな町に越してきたんですか?」

「んー。理由は特にないかな。強いて言うなら仙人修行的なかんじかな。」

「はあ。え、仙人?」

「そう。仙人。」

向かい合うテーブルにひじをのせて微笑む

やっぱり変わってるなこの人 とひそかに思う

「俺ね、人を不幸にする体質なの。」

「不幸……ですか。」

「そう。関わる人がみーんな不幸になっちゃうの。」

「それはなんとかの椅子的な感じのものですか?座ると死ぬ、みたいな。」

「うーん。まぁそんな直接的じゃないんだけどね。実際関わるというより、触れられると死んじゃうんだよね。あはは。」

「はぁ。そうなんですか。」

「そう。だからなるべく人と深く繋がらない仙人修行みたいなことができる場所を探してたらここを見つけたって訳。」

神崎はまるで昨日の食べたもを話すかのように淡々と楽しげに言う

「あれ、驚かないの?桃ちゃん俺にあんなとこやこんなとこ触られてんのに。」

「誤解を招く言い方はやめてください。」

冷静なんだねー。とへらへらした神崎が嬉しそうに返す

「人っていつかは死んじゃいますからね。」

「意外と達観してんだね。」

それはそうだけど、そのいつかを俺によって終えられていくんだよ。その人にはまだまだ先があったかもしれないのに、そんなのって不公平でしょ?

達観してるのは事実かもしれない

少なくとも人の死に対峙したことはあるが達観できるほどではない。

脳裏にオサムの姿が浮かんだ。母親と父親を目の前で亡くし、養子に引き取られて虐待を受け続けてきた。そして崖の上から飛び降りたオサム。

「不公平ですよ。当たり前です。あたしたちっていつだって不公平なんだと思います。」

そのなかでなんとか形を繕いながら生きているのだと思う。

家族、友人、知り合い、他人と形に入れていくことで平静と公平を装っている

不公平じゃないと困るのだと思う。みんなが公平な世の中ほど恐ろしいものはないだろう。

そして知らずのうちにその不公平さは当たり前になっているのだ。だから生きるとか死ぬとかも不公平であって当然だ。

「大袈裟に言うと、誰かが老衰で死んじゃって、でも世の中公平だから悪いことした人も、戦争て今まさにっていうひともみんな老衰で死ぬとしたらそれこそ大変なことになると思う、んです。」

まぁ例えが少し大雑把すぎますけど、つまりはそういうこと

ごくっとコーヒーを飲むと忘れていた空腹が音をたてて知らせる

神崎は何事かを真剣に考えている

反応がないので、あのーと声をかけると 弾かれたように顔をあげた

「俺、時が止まってたよ。すごいね、桃ちゃん、いくつだっけ?」

「あ、24です。」

「え、俺と3つしか変わんないの?」

そうみたいですね。と答えると本題を切り出した。

「神崎さん、夕飯ってもう食べました?」

「いや、まだだけど。」

「わたし、今日含め諸々のお礼にご馳走します。あ、もちろんこれで家政婦チャラに何て思ってませんよ。三ヶ月間けじめはきっちり着けますから!」

「嬉しいけど、ここ電気もガスもまだなんだよ。あと冷蔵庫は母家の方もここも空っぽで。」

「大丈夫。あたしたちはここで待ってるだけで良いんです。」


そう言って携帯を取り出すと手早く電話を掛け始める。

呼び出し音が鳴ってすぐに相手が出る

「お前大丈夫だったか?あのあとかなりでかい波が見えたから、やっぱり行かせるじゃなかったと思って心配してたんだよ。」

「ありがとう。大丈夫よ。それより、今日あんたのとこやってるでしょ?」

「もちろんだ。うちは年中無休だ。たとえ雨が降ろうが槍が降ろうが火のなか水のなか」

颯太の言葉を切って よかったー。じゃあ注文お願い。と言う

「神崎さんラーメンでもいいですか?」

「うん。なんでも。」

「神崎……ってお前あの家にいんのか!?」

「仕事だもん、しょうがないじゃない。じゃ、よろしくー。あ、餃子と炒飯もつけてね!」
たぶん30分くらいで持ってきますよ。と言いながらコーヒーを飲む

「ねぇ、桃ちゃん。敬語やめない?あと俺のことも千晶って呼んでほしいなぁ。」

「でも初対面の人に対してそんな馴れ馴れしくできないです。あと一応年上なので。」

さらりとかわされる 本心だろう

「うん。一応ね、でもさもう初対面じゃないでしょ。名前で呼んで。敬語も禁止。はい、言ってみて。」

「うーん。じ、じゃあ、神崎。」

「いいね!なんか一気に新密度が上がった。」

「はぁ。そうですか。」

間もなくしてドアがノックされる

颯太だ!とひらりと椅子から降りてドアをあけるとずぶ濡れの颯太が立っていた

神崎は目の前の人物が席をたっただけなのに、明かりを失ったように景色が殺風景になったように感じた

桃のカップに目を落とすと、先ほどまで前に座っていた人物を振りかえる

笑っていた

思えば彼女が笑っているのは始めてみたかもしれない

とても楽しそうに、嬉しそうに笑っている
その笑顔は自分に向けられているものではないことが少しだけ悲しかった

玄関では賑やかにやり取りされる声が響いていた

そして玄関を閉めるとニコニコと桃がお盆を持って歩いてくる

「お待たせしました!冷めないうちに食べましょう。ここのラーメンうまいんですよ!」

テーブルにはラーメンから炒飯、餃子に炒め物までさまざま並べられていく。

「たくさん頼んだね。美味しそうだ。」

神崎は奥からお茶をボトルで持ってくる

桃は変わらずほくほくとした笑顔で礼を言って受けとる

桃の食べっぷりには驚愕したが、満たされた彼女は終止にこにことしていた

「桃はよく食べるなぁ。おれなんかラーメン一杯で満足だよ。」

「そんなOLみたいなこと言って。モヤシみたいな体して。」


食器をすすぎ終わり、お盆にふせておくと手を拭きながらお互いの話を少しした

他愛もない話もたくさんした

桃の話はたいていどこのなにが美味しいとか不味いとかだったが嬉しそうに話をする彼女から神崎は目が離せなかった

このまま時間がとまれば良いのにとも思った

桃の目が一層懐かしさを帯びて、あのときの感覚に戻りかけていた

ランタンの明かりに照らし出された薄暗い部屋は様々な色彩にあふれて見えた

「げっ。唐揚げ忘れてた!」

唐突に叫ぶと桃はばたばたと帰り支度を始める

何故、唐揚げをおもいだして帰らなければいけないのかは分からない

引き留める理由が思い付かず、ただこの時間が終わってしまわないように繋ぎ止めたい

「桃、今日はもう遅いし泊まっていきなよ。」

引き留めていた。今日は彼女にいてほしい。

この時間が終わってしまうのが寂しい


「あー、でも唐揚げが。」

まだ言うか。何故唐揚げにこだわるのかは分からない。

もう一押ししてみる

「俺ね、眠れない日があるんだ。普段もほとんど眠れなくて。今夜は桃がいてくれたら眠れる気がする。」

少々卑怯だが、情の厚い彼女のことだから承諾してくれるかもしれないと思う

神崎としては夜をともにとか、単純に寝るまで一緒にいてほしいとかどちらの意味で受け取ってもらっても構わなかった

桃はしばらく考えると携帯電話を取り出してどこかへ連絡している。

誰かに謝っているようだった。

「だからごめんっていってるじゃない。もう、輝さん呑んでるならその辺の魚でも食べてて。じゃあね。」

電話を切ってもぶつぶつとなにかを呟いて怒っていた

「神崎さん、眠いんですか?」

「え?あぁ……眠いわけではないんだ。ただ眠れないだけで。」

唐突に聞かれ返答に困っていると おでこ貸してくださいといわれる

「あたしの母親から小さい頃教えて貰ったおまじないみたいなもんです。怖い夢を見たときとか眠れない時に今もやってるんですけど、案外眠れるんですよ。」

自分の思惑と違う方向へ行きそうな雰囲気だが へぇと言いながら 敬語、と言うと素直に前髪をあげて額をさらけ出す

桃はあ、そうかと言って でもこれって慣れないなぁとこぼす

そしてテーブルをはさんで桃は神崎の額に手をのばすと 牛 と指で額に3回書く

「こうして、牛って3回書くんです。ほら、緊張したときに掌に人って字を書いて食べるでしょ?あれと同じです。」

「どうして牛なの?」

「さぁ。理由は分からないですけど母はずっと牛を書くと良いって言ってたので。」

これでよし。と言って額から指を離そうとすると手をふわりと掴まれた

一瞬、神崎の目に強い光があるのに気がついたが知らない振りをする

「明日も早いんです。もう帰らないと。大丈夫!いい夢が見られるはずだから!!」

早口になっていた

見透かされてはいないだろうか 無邪気さを装えただろうか
眠れないと言った神崎の真意がなんとなく見えてこの場を立ち去ろうと焦る

掴まれた手は徐々に力が抜けていく

「そうだね。今日はありがとう、気をつけてね。」

先ほどの切迫した様子は跡形もなく、またへらっと笑った神崎に見送られた


雨はもうすっかり止み、風がうなりをあげて吹いている。

雲の流れが早く、切れ切れに月が見えかくれしていた。

7 漁火

神崎とそんなやりとりがあった台風の日からは忙しい日々が続いた。

夏休みシーズンがあけ、体験客が減ると企業やホテル、個人経営の店舗からの注文が殺到し、制作のほかに配達と仕入れ、合間を見て自分の作品作りも行っていきあっという間に3ヶ月が過ぎていた

その間、何度か神崎の手伝いとして掃除や洗濯などに行ったものの用事のみ済ませて帰ってくることがほとんどだった。

正直、桃はあの日からなるべく距離を持つようにしていたが神崎は一層桃へ歯の浮くような言葉を並べ、あまつ隙あらばところ構わず触れてこようとする。

その手と言葉をなんとか交わしながら過ごしてきた

幸い神崎から電話をしてくることはなかったが彼はすっかりこの町に溶け込んでいて地元の人やそうでない人が何度か家に出入りしている姿も見かけた

つい3日ほど前にも掃除洗濯の手伝いにいったばかりだった

夏の面影はほとんどなく、活気を徐々になくしていくような海沿いの町特有のこの空気感が漂い始める

本当の日常が戻ってきたような、地に足がついたようなそんな気がする季節はいろんなことに丁寧になれた

そんなこの季節、母の命日である今日は父と墓参りに行く

ピンク色の軽自動車を走らせていくと山の上にこの地域の集合墓地はあった

途中、ミカン農園の細い道を抜け道にしていくと、母の墓に近い駐車場へ止められる


母は病死だった。小学2年生の時に亡くなっているが母の死に際をあまりはっきりと覚えていない。

病室で会う母の記憶しかなく、いつも会うたびに照れ臭かったのは覚えている。
家にいなかったのがあたりまえだったのでそうした距離感が幼いながらにあり、母に我儘を言ってはいけないとそう思った

後に父から、そんな娘の姿に母が心を痛め、自分をよく攻めていたと聞かされたのはつい最近のことだ

いつものように花を水を取り返え、線香をたいてい父と揃って手を合わせた

いつも仏壇の前の母にはよく話しかける父も、墓前では無口になる

ふたりが母の墓前に来ると、花と線香があげられていた

おそらく美里と颯太で来てくれたのだろう

父は 母ちゃんよかったな と声を掛けていた

車に戻りながら 今年はこの日に来れないかと思った と話をすると 父は最近の娘の忙しさを知ってか、そうだな 来れてよかったじゃねぇかと言った

本当はオサムのところにも行きたいが、父とは一緒に行けなかった

秋の日は暮れるのも早い。日曜日の午後の日差しはもう夕方の色になりつつあった。

帰るとすぐに夕飯の支度をした。
父は店に出ているので、忙しい時には手伝いに出る。
7時をすぎると少しずつ客足も途絶え、入れ代わりのように輝さんがのらりくらりとやってきた

部屋に戻り、窓ガラスをカリカリと引っ掻いているへちゃを部屋に入れ、煮干しをあげると、外からキンモクセイの香りがしてきた。

「あんたは毎日、なにを思って過ごしてんのかな。ねぇ。」

話しかけるが煮干に食らいついている

そういえば先生にお礼と連絡をしてなかったな

ルッツからランプを受け取ってから、せっかくなので電話ではなく手紙をしたためようと思っていたがそのままずるずると先送りにしていた。

毎日のことや、近況報告や作品作りの状況なども書こうと思ってはいるが文章にするほどのこともなく、夏は毎日がダラダラと流れていくようでそんな内容を文字にする気には到底なれなかった

煮干しを食べ終えテーブルの上を陣取りごろごろとし始めるへちゃを撫でる

窓の外の黒い海には漁火がたくさん見える
颯太もあの光の中にいるだろう。1度だけ夜の漁に連れていって貰ったことがあったがまわりの漁船の明かりが賑やかで何かのお祭りのように賑やかだった

ふと晩酌用のビールを切らしていたことを思い出し、財布を片手に玄関から外にでる

「寒い」

思いの外風が冷たかったことに 両腕をささりながらサンダルをペタペタとならして酒屋へ歩く

堤防の横を通と波の音が聞こえてきた

夏と秋では波の音が違う

以前、友人にそういった話をしたところ誰からも共感を得られなかった

海が変わったわけではなく、季節を感じる自分の耳がそうさせているのだと思う

街灯と民家の明かりをたよりに歩いていくと車のライトが後ろから当たった

狭い道なので堤防側にくっつきそうになりながら車をよけると、過ぎ去っていった車が減速しながら止まった

ライトは一段消したまま運転席から誰かが降りてくる。そしてそのままこちらへ向かってきた

「やっぱり、桃ちゃんだ。」

神崎だった。とても久しぶりに会ったような気がする。3日ほどしか会わなかったのに。

ひょろひょろとした体型が一層痩せて見えたが近づいてみると頬がやや痩けていた
この短期間でいったいなにがあったのか

「後ろ姿が見えて、サイドミラーで確認したらやっぱりそうだった。まだ忙しいの?」

低くて柔らかい声は少し渇れているようだった

「忙しけど、神崎。あんたどうしたの?なんだか別人みたいよ。」

「そうかな?眠れてないからそのせいかもね。」

「ご飯も食べてるの?今にも折れそうでこわい。」

「俺、最近夜ほとんど家にいないんだ。なにかしらは口にしてる……と思う。」

「そうなんだ。」

何故彼が夜家にいないのかは眠れないと桃に迫った日を思いだし検討がついたが深くはきかないことにした

なんとなく会話が終わってしまう。

いつもの飄々とした雰囲気がないせいか、話題も見つからない

すぐにその沈黙は神崎によって破られた

「桃が、遠くなった。」

「遠く?どういうこと?ついこの間会ったばっかじゃない。今もこうして」

「そうなんだけど、気持ちが遠い。でも近すぎるとよくない。」

「それって、前に言ってた関わると死ぬっていう話?」

「覚えてたんだね。」

「あんなこと突然言われて鵜呑みにできないけど、嘘ではないと思ったから。」

「そっか。まぁ、どちらでもいいよ。」

神崎の言葉に投げやりなものを感じて桃はふと眉をしかめる

いい加減な冗談をよく言う彼だが、こんな一面は普段の神崎からは珍しい
ほんとうにこの三日間で何があったのだろうか

彼は全てを諦めきったようなそんな雰囲気だった

「あと一ヶ月したら契約はおしまいだね。」

表情は暗くて見えないが相変わらず声に覇気がない もともと柔らかいトーンの彼の声がさらに頼りなく聞こえる

「できるだけ手伝いに行くから。」

そう言うと 待ってる と言ってどこかに行く途中だったのかと聞かれた

そのまま車で酒屋までのせてもらい、家の前まで送って貰った

あっという間に到着したので会話らしい会話もなくそのまま車から降りる

買ってきたビールを2本渡すと ちょうど切らしてたんだ と言って笑顔で受けとると じゃあまた
と走り去って行った

突然大きな怒鳴り声が響き渡る

「誰だ!?今のやつ!どこの馬の骨だ!?」

振りかえると店の暖簾の前に父の姿があり、顔を真っ赤にして震えている。
輝さんが日本酒の入ったコップを片手によろよろと外に出てきて神崎の車が走り去った方を見ながら言った

「源さん、桃ちゃんも一端の女だっつーことだ。」

「一端じゃなくて女です。」

「俺ぁ認めねぇぞ!あんな軟弱男!イカタコナマコのほうがよっぽど噛みごたえがあって骨があらぁ。」

自分でもうまいことが言えたと思ったらしく鼻をふくらませて父は言った

「あの人は崖の家に越してきた陶芸家の人。崎田さんの知り合いで、たまたまそこで会ったから送って貰ったの。ビール切らしてたでしょ。」

父と常連がなにやら言い合っているのを横目に早々に部屋へ移動した。

ベランダにでて手すりによりかなりながらビールをあけるとまたビールの酵母とキンモクセイの香りが混ざり会う

頭を波の音でいっぱいにして缶をひたすら口へ運んだ

神崎の言葉がじわりと心に広がる

「近すぎるとよくないか。」

確かに人の距離感は人それぞれだが、こうして改めて言葉にされるとあまり気持ちの良いものではない。

オサムはよく桃に自分の近くにいるように言っていた。台所に立つのも、窓を空けるのも、時にはトイレに行くときにも手と目と心の全てが離れまいと桃を探してさまよっていた

正直、その距離感には参った

そして次第にオサムは桃の身体と心のどちらもを離さないようになっていった

オサムはもともとよく笑う子どもたった。
垂れがちな目をきゅっと細めて笑うあの笑顔はつられてこちらが笑顔になるほど印象的なものだったがある日を境に徐々に笑顔が消えていき、とうとうその命さえも自らのてで消してしまった

ついさっき会った神崎の姿がオサムに重なるようだった

彼は疲れていたのだとそう思うことにした。

次の日からは作品作りに没頭した。いくつものガラスの球体を海のそこから湧き出てくる泡のようなイメージでつなぎあわせていく。

気泡を入れたガラスは透明や水色、群青色などの
球体に水のような儚さを表現している

あっという間に日が暮れる。
父にはしばらくの間遅くなると告げているので夕飯の電話がかかってくることもなく、集中して作品作りを続けていた

一段落する頃には8時を過ぎていた

もう一作業しようとしたが、神崎から珍しく着信があった
画面を開いてどきりとする
一瞬迷って、慎重にボタンを押した
折り返し掛けるが呼び出し音のみがなる

忙しくて出られないのだと思い、電話を切るがやはり様子が気になり崖の家に向かうことにした


到着するとログハウスのほうの2階にぼんやりと明かりがついている。

「こんばんわー!」

玄関の前で声を張り上げるとゆらりと2階で影が動いた気がした

ノックをするが応答がない

桃は嫌な予感を感じて、ドアノブに手をかけ中に入る

前に来たときよりも生活感が一層なく、新築らしい木の香りがする

薄暗いなか玄関で靴を脱ぎもう一度名前を呼び掛けてみるが応答は相変わらずない
しかし人の気配はする

2階へと続く階段をのぼっていくと正面のドアから光が少し漏れている。ここにいるのだろうか。

鼓動が信じられないくらい早くなっていた
もし、彼がオサムのように自らの命を……と考えると体温はひどく下がり、全身からはいやな汗がどんどん出てくる

ドアノブを回すと静かにゆっくりとドアをあけた。

やはりそこには家主がいた。が、半身をベッドに預け崩れ落ちそうな姿勢で荒く呼吸をしている。

ただ事ではない神崎の様子にドアを勢いよくあけると肩を叩き、ゆすって声をかける

うなり声を小さくあげ、呼吸は荒く繰り返されている

顔色が悪い。すぐに額と首もとに手を当てると身体は信じられないくらい熱かった。

物音と皮膚の感触に気がついた神崎がうっすらと目をあける

「神崎!いったいいつからこんな状態だったの!あたしにつかまって立てる?せめてベッドに」

「桃……。来てくれたんだ。」

と朦朧としながらも立ち上がった神崎が言った。

そして崩れるようにベッドへたおれこむ。桃も巻き込まれるがずるずると這い出てきて布団を手早くかけると1階へ走り、その辺にあったビニールとタオルを使って氷枕を作った。

「神崎、答えて。いつからこんな状態だったの。」

あのあとすぐに医師に来てもらった。風邪と過労とのことで一時間ほど点滴を受けた

薬も投与され、落ち着いてきたようだ
目を閉じて規則的に呼吸を繰り返している 顔色もいい

てきぱきとベッドサイドのテーブルに看病グッズを並べていきながら聞く

「ずっとだよ。桃と会ってからずっと。」

「なにさそれ。人のこと疫病神みたいに言わないでよ。」

そう言うと目を閉じながら神崎は小さく笑った

「作品作りに煮詰まってさ、ずっと家に帰らないでフラフラしてたらこうなった。」

うっすら目をあけると天井を見つめながら言った

それで昨日会ったときにあの状態だったのかと納得した

「あえて家出の期間は聞かないことにするけど、あたしが気付かなかったら野垂れ死んでたわよ。」

この家で人が死ぬのはもう嫌だ。
今だって建物は違えど、ここにはなるべく来たくない。

「そんなに見つめられたら穴があいちゃうよ。」

思い出しじっと見つめていたようで、いつの間にか神崎がこちらに顔を向けていた。そしてふっと微笑む

そのなんとも頼りない笑顔がオサムと重なって見えて話始めていた

「あのさ、この家って昔あたしの幼馴染みが住んでいたのよ。その人もからだが弱くてさ、こんなふうにしょっちゅう看病に来てたの。」

神崎はふと真顔になり
「それ、聞きたくない。」

と言って背を向けてしまう

「な、なんでよ!」

「その男は桃の恋人だったんでしょ?」

背中を向けたまま声だけをこちらに向ける
表情は見えないが、面白くないというような声色だ

正直オサムとの関係は恋人と言えるものだったのかは分からなかった。

「だとしても神崎には関係のないことだよ。」

そう言うと、ピクリと神崎の肩が揺れた

だって本当の事だ。この数ヵ月でこんなふうに気軽に会話を交わせるようにはなったが神崎はまだまだ余所者なのだ。

むしろ余所者でいてほしい。こんな悲しいこと知らない方がいいに決まっている。なのに知っていて欲しい。そう思って過去のかけらをひとつだけ取ってみた

「関係あるよ。そうじゃなきゃ、こんなふうに3ヶ月とかなんとか理由をこじつけてまで会いたいとは思わないよ。」

そしてゆっくり起き上がりこちらをじっと見つめてくる

その目の感情のなさにひやりとする。無言のまま手が延びてくると手首を掴まれ引っ張られる

前につんのめるようにして神崎に倒れこみ驚いて見上げると神崎の顔がすぐそこにあった
徐々に顔が近づいてくる 思わず顔を背けると首筋に顔を埋められがっしりと抱き抱えられた

「何をしてても誰といても桃の事ばっかり考えててさ。それを紛らわすために夜はなるべくひとりにならないようにしてたけど、なんか今までみたいに誤魔化せなくて。」

逃げられない 抵抗ができないと思うほど強い力だった
何かにすがり付くような、かすかに震えているような気もした

嗚呼、あたしはこれを知ってる

抑えのきかない溢れてくる感情が触れあっているところからどんどん流れ込んできた

「誤魔化すのも辛くなってきた。」

それはとても悲しい感情だった
絶望にも近いそれはよくオサムが桃に触れるときに流れ込んでくるものと同じだった

あたしは馬鹿だな と抱きすくめられながら冷静に思う
こういう時、拒んで突き放して置いた方がいいのに

「ねぇ、何を考えてるの?嫌なら振り払って逃げなよ。前にも言ったよね。俺に関わると不幸になるって。」

そんなことを言うくせに一層力を込めてくる
でもなぜこの男を強く拒まないのだろう

「君のそういうところが分からない。近くにいるようで、気が付くとすごく遠くにいて、こんな俺でも受け入れてくれるんじゃないかって思うと、急に拒まれて。もしかしたら桃も俺の事を好きなんじゃないかって勘違いしそうになる。」

「距離感云々を言ってたのは神崎でしょ?そもそもどうしてこういうことするのかも分からない。」

自分が思っていたよりも低く冷静な声が出た

「さっき、関係ないって言われてすごく腹が立った。なんとも思っていない人に言われたってそんな言葉、これっぽっちも響かないのに桃に言われるとすごくいやだ。確かにね、これ以上近づいてほしくないのは本当。でも遠くなるのはもっと嫌だ。」

「神崎、言ってることがよくわかんないよ。」

ふと腕の力が緩んだ。桃はパッと手をついて起き上がり離れる。そしてくるりと振り返り言った。

「3ヶ月間、お手伝いはする。でもこれ以上を望まれてもそれは不可能だよ。」

「どうして?」

「どうしてって……。」

「言ったじゃないさっき。不幸になるのが嫌なら逃げなよって。でも君はそうしなかった。」

神崎は再び、こちらをじっと見つめながら言う

「桃と一緒にいたい。桃が好き。すごく自分勝手なのは分かってる。でも桃と一緒にいたい。これが正直な気持ち。」

覚悟はしていたが目線と言葉の真っ直ぐさにたじろぐ。

「む、無理です。そ、そもそもあたしらそんなに会ってもいないし、時間だってそんなにたってないじゃない。」

「これからたくさん一緒にいればいじゃない。それに好きだって思うのに時間なんか関係ないよ。」

先程まで点滴をうけてぐったりとしていたとは思えないほどハキハキと話す

「あ、あたしはもう辛い思いはしたくないの。逃げてるって思うならそれでもいい。でも軽々と信じたり、期待したり委ねたりできない。そんな簡単なものじゃないの。」

なぜこの男にこんなことを言っているのだろうか。ただこの場を早く立ち去りたいだけなのに。

「神崎にこの前近づくなって言われて正直少し傷ついた。でもそれは恋愛感情とかじゃなくって、自分を否定された、拒絶されたと思ったからだと思う。」

オサムが死んだときに深く繋がりすぎてしまったことを後悔して、他人との距離を間違えないように過ごしてきた。けれどそれは虚しいことだった。そして全てが自分本意にしか過ぎない考えだったということにも気づいた。

だからこそ些細なことにもすぐに傷つき、それすらも避けようとする。浅いところのもっと手前の方でしか生きられなくなっていた。

神崎はじっと考え込むような表情をしている

「関わると不幸になるっていうのも信じていない訳じゃないよ。だから、あんたと関わりすぎて不幸になりなくないからってわけでもない。あたし自身の問題……なんだと思う。それに他人を巻き込みたくない。ごめん、なんか上手く言えないけど。」

人が人の死に対峙するとき、それらは決してみなきれいなものではないはず。時間が解決してくれるものもあればそうはいかないものもある。

自分を縛るものがなんなのか、わかりかけているがはっきりと見えていない今、何をしても何に対しても自信がないのだ。

「お互い訳ありなもの同士で上手くいくとは思わない?誰にでも踏み込んでほしくない部分ってあると思うけど、俺はそれが人を不幸にするってところで桃は過去から抜け出せないところ。普通の人よりもその範囲が広い者同士ならお互いに距離感を間違えることもないと思うんだけど。」

神崎は言った。

「さっきからむちゃくちゃなこといってるね、俺。でもさ、桃と一緒にいたいのは本当。でもこういう体質だから距離はある程度とっておかないといけない。」

きっと彼も自信がなくて不安なのだろう。実際に彼と関わって不幸になった人物を見たことはないが彼の言う体質が本当だとしたらとても辛いことだと思う。

「強く、何度も触れることでどんどん影響を受けてくるんだよ。そこへ感情がながれこんでくるものならもうその人は少しずつ命を侵食されていく。」

そんな非科学的なことがあるのだろうか。それでは一体彼は何人の死と対峙してきたのか。冗談なんかではないと思う。

死神のようだ

そう思った

「こんな体質なのにそれを告げないで何度も触れようとするなんて厚かましいにもほどがあるでしょ?でも自分で自分の気持ちに気付いたからには桃には伝えておかなきゃいけないと思った。それを聞いた上でどうするかは桃に決めてもらう。でも今じゃなくていい。桃が迷ってても悩んでても触れようとするけど。」

「それってすごくずるいじゃない。」

「そうだね。俺ってずるい男だよ。だから不幸に染まる前に上手に俺から逃げてよ。」

そう言うと神崎はカラカラと笑った

そして 時間はたっぷりあるから と言ってベッドから起き上がろうとするので慌てて押し戻しそのまま神崎の家をあとにした

どちらにしても今はまだ前に進めない。決められない。かといって中途半端も嫌だ。

上手に逃げる

まるで鬼ごっこか、かくれんぼのようだと思った

8 異変

秋が深まり、海沿いの町はますます人影をなくしていった。この時期になると日中でも海にはいるのはさすがに寒いので、堤防の上でよくビールを飲む。

漁から帰って来た颯太や地元の友達が加わることもあるが、たいていはこうしてひとりのんびりと1日の疲れを癒すようにして飲んでいた。
しかし、今年は隣に神崎がいる。仕事が終わって堤防に座っているとふらりとやって来て当たり前のように腰掛けふたりで飲む。

隙あらばすり寄ってくる神崎をかわしながらも、それ以上踏み込んでくることもなく距離感は常に一定だった。

時々、神崎の方が先に来ていることもあった。毎日出はないが、どちらからともなく申し合わせたように、まるでずっと前からそうしていたかのように秋と冬の間のこの時期を過ごしていた。


そして、よくうちの寿司屋へもくるようになった。
もともと人当たりのいい性格のため、初めは追い払おうとしていた父はもうすっかり手懐けられていた。お父さんといつの間にか呼ばれ、まんざらでもない様子の父を睨む。そして、焼きもちをやいているだのと輝さんに囃し立てられる。

毎日がそんな穏やさを見せていたが、この小さな海沿いの町に異変が起き始めていた。

それはとても天気のよい朝のことだった。いつものように工房へ向かって車を走らせていると数台のパトカーとすれ違う。珍しいと思い、そのまま車を走らせていくと船着き場の手前で警察に車を止められた。

「何かあったんですか?」

「この先の崖の下で亡くなった方が見つかったんです。検問してますのでご協力お願いします。」

「崖……。崖って白い家のあるところですか。」

「え、あぁそうです。地元の方には霧が丘って呼ばれてるみたいですけど」

人が死んだ
またあの崖で

心臓の音が強い、早く鼓動を打ち過ぎて痛みのようなものを感じる

顔色が悪かったようで警察官が大丈夫ですか?と声をかけてくるのにやっとの思いで声を絞り出して返事をした。

「あの、車の中を少し拝見させていただきます。」

警察が車内を調べている間、すぐに工房へ電話をかけた。

「もしもし、どうした?」

「崎田さん、今朝崖のしたから遺体が上がったって」

「あぁ知ってる。大瓦さんの奥さんだそうだ。崖の上から飛び降りたらしい。 」

「え。美里の……お母さん?」

予想外の名前だった。そしてすぐにパーティー以来会っていない美里の顔を思い出す。

そもそも桃は美里の母親の顔も声もほとんど知らない。中学の時、前に1度だけ自ら車を運転して部活動帰りの美里を迎えに来たあの人だろうか。しかし、あれから何回か奥さんが変わったという噂も聞く。もう顔も名前もわからなかった。

だとしてもどうして美里の母親が。

「大瓦さん、これで3回目の再婚だったらしいぞ。詳しいことは知らねぇが。」

「そうですか。」

四年前の事を崎田ももちろん知っている。

「どこ行くつもりだ?」

「え?」

「お前のことだ、また鉄砲玉みてぇに飛び出してって大瓦の娘さんとこいくつもりだろう。」

「鉄砲玉って……。今すぐは行きませんよ、仕事が終わったらって」

「桃……、今回のことは4年前のこととは関係がないぞ。いらん世話かもしれないがな、お前はもう前に進まなきゃならねぇんだ。」

知ってはいるし、自分にもそう言い聞かせたい。
もちろん四年前のオサムの飛び降り自殺とは無縁だということも。
しかし、美里の母親と聞いていてもたってもいられなかった。同じく母親を亡くしたものとして。

その日は何をやっても上の空だった。
ガラスを何個かダメにして崎田からも久しぶりの渇が飛んできた。


なんとか1日を乗り切るとすぐに美里へ電話をかけた。
呼び出し音は鳴るが留守電に切り替わる。

何度か繰り返すが折り返しかかってくる気配もない。

彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。血の繋がりはなくとも母が亡くなりきっと思い詰めているにちがいない。。

自分が母を亡くしたときはまだ小学生だった。親戚や近所の人たちが大勢集まっているのが嬉しかったが、こどもながらにもう母には2度と会えないのだと出棺の際に母の顔がちらりと見えてそう感じた。

きっと美里も寂しくて空っぽで、取り残されたような気持ちかもしれない。こんなときにそばにいてあげられないのが悔しい。

すると手に握りしめていた携帯が鳴った。
すぐに画面を確認すると神崎からだった。

いつもの調子でもしもし、今朝のことなんだけど、と話始めるその声に、緊張感がないことが少しだけ桃をホッとさせた。

「霧が丘で飛び降りた人がいるの知ってるでしょ?なんだか朝起きたら大変なことになっててさ、いきなり家に警察が来てご同行おねがいしますとか言われて」

「神崎あんた何したの?」

「いや、実はうちの前の崖で亡くなった人と面識があって、それで警察からあれやこれや事情聴取受けるはめになっちゃって。まぁ俺もまるっきり白とは言い切れないからあやふやな言い方してたら、ややこしくなってきちゃって朝から今までみっちり取り調べ受けてたんだよ。」

「美里のお母さんを知ってるの?」

神崎は美里……としばらく考えて、声をあげた。

「大瓦さんの娘さんね。確かにそんなような名前だった気がするなぁ。桃、知り合い?」

「知り合いも何も幼馴染みよ、小さいときからの。ついこの間、あんたとばったり山の上のホテルで会ったでしょう?大瓦グループのパーティーがあって、着いていったときには元気そうだったのに。」

「そのパーティー俺もいたよ。」

そうか。だから彼はあの場にいたのか。ああしてテラスで偶然あっただけで会場内にもいたらしい。

「俺も一応賞をとってる陶芸家の端くれとして招待されてたんだよ。桃には会場の外で会ったからお互いに同じパーティーに来てるなんて思ってなかったんだね。美里ちゃんとやらにもあってるし。」

電話口でざわざわとした雑踏の音やサイレンの音が聞こえる。歩きながら話しているのがわかった。


「そうだったのね。ねぇ、さっき白じゃないっていってたけどもしかして神崎の体質のこと警察の人に話したの?」

「まさか。言ったところで信じてもらえるはずがないよ。ますます疑われるだけでしょ。ただ自分でも俺が原因じゃないとも言い切れないから曖昧な言い方してたみたいでさどんどん坩堝にはまっていっちゃって結局この時間。」

桃は恐る恐る聞いてみた。
「まさか強く触れるようなことしたんじゃ……」

「うーん。触れたと言うか、淋しいっていうから1度だけ相手した。断る理由もないし。」

くらりと目眩を感じた。
触れるどころではなかった。

「あ、あんたね。」

この間自分に熱烈な告白をしておきながら、間髪いれずに親友の、しかも母親に手を出していたとは。この男の貞操観念は一体どうなっているのだろうか。

「あ、違うよ桃。来るもの拒まず去るもの追わずで生きてきたもんだから、周りからよく言われるんだけど俺、そっちの方にはめっぽう緩いみたいでさ。でも、気持ちが伴ってないししたのは1回だけだったからそこまで俺の影響は受けないはずなんだよ。たぶん。」

「ごめん、話題がずれるんだけど1回だけ話を整理させてもらっていい?えーと、この前あたしのことを好きだと言ったのは聞き間違いではないですね。」

「うん。」

「一緒にいたいと。気持ちに気付いた以上伝えなくてはいけないと言いましたね。」

「うん、言ったね。」

「では、この言葉は愛の告白ではなく、気持ちの告白だったということでしょうか。」

「違うよ、愛の告白だよ。ねぇ、さっきからどうしたの。敬語になっちゃって。」

「えーと、あのですね。あなたは愛の告白をした相手がいるというにも関わらず他の異性とからだの関係を持った……とそういうことですね。」

「それ、さっき警察に聞かれたのと全くおんなじ!あはは!」

「あはは、じゃない!神崎さん、自首してください。」

「何言ってるの、桃まで俺を疑ってるの?あ、もしかして焼きもち?」

「やかましい!あんたがやってないとしても、あんたと関係を持ったことのある女が恨みつらみを募らせて突き落としたとしか考えられないわよ。」

「 ひどーい!人を遊び人みたいに」

「遊び人みたいじゃなくて遊び人でしょうが!」

「あ、そうやってあげあしとるようなこと言ったらダメでしょ。俺、桃に嫌われたら生きていけないよ。」

「そうですか。」

もともとヘラヘラとした男だと思ってはいたが、人と人とのボーダーのようなとろこには絶望的なまでにルーズだった。

「冷たい!なんか最近桃がますます冷たい!」

「あのね!あたしは美里からの電話を待ってたの!あんたのそんな話聞くために携帯をにぎりしめてたわけじゃないの!連絡しても出てくれないし、話するだけでもこういうときって少し元気になれたりするのよ。」

すると神崎がきょとんとした声で言った。

「美里ちゃんに会いたいの?今一緒にいるよ。これから車でそっちに帰るから桃の家までふたりで行くよ。」

混乱した。何故美里が神崎と一緒にいるのか、パーティーで知り合ったとしても母親の不倫相手と一緒に……。混乱し、状況もよくわからなくなった

「え?何言ってるの?なんであんたが美里といるのさ。」

「なんだかわかんないんだけど、美里ちゃん、俺と大瓦さんのこと知ってたみたいでさ、警察に証言しに来てくれたんだ。やっぱり女の子ってすごいよね。ぎょっとするようなことも淡々と話しちゃうし、知らないような素振りでいて全部知ってるんだもん。桃とは大違い。 」

さらりと言われた失礼な言葉は流した

「美里に変わってよ!あぁなんだか混乱してきたわ。」

その後も何度か変わるように要求するが、はぐらかされるようにして電話を切られてしまった。

そしてそのままそわそわしながら自宅で待つ。父は仕入れのため今日は不在だ。

そうこうしているうちに二人はやって来た。

寿司屋の暖簾が出ていないのを見て玄関から声が聞こえて急いで降りていくと、予想外に美里はにこにこと明るい表情だった

「桃、どうしたの?」

よほど自分の方が思い詰めたような表情をしていのだろう。なにか声をかけたかったのに逆に美里から聞かれてしまっていた。

「とにかく上がって。今日はお父ちゃん仕入れで帰ってこないから。」

あれほど心配していたのに正直何を話しかけていいかわからなくなった。神崎がいることは大きな問題ではないが、桃の予想に反して美里はいつも通りで、とても身内を亡くしたようには見えなかった。

「そういえば、桃の家にこうして入るのははじめてだなぁ。」

居間に座る神崎を横目にもう1度だけちらりと美里を見る。表情はいつもと変わらない。

「なぁに?わたしの顔に何かついてる?それとも、母親が死んだのによくこんなに平然としてられるって思ってる?」

「驚いてる。いつもと変わらないように見えて。今朝から美里のことが心配で心配で仕方なかったんだよ、大丈夫?」

「何が?」

「何がって……。」

あえて明るく振る舞っているのだろうか。美里はいつも通りの口調で聞き返す。

「ね。だから言ったでしょ?桃は心配性すぎるよ。」

「あんたは黙ってて。」

神崎を睨み付ける

「ほんと、昔から桃は変わってないよ。世話好きで、人情深くて、たまに自他の区別がつかなくなるくらいなりふり構わず飛び出して。あのね、わたしのお母さん、って言っても3人目だけど。実はそんなに面識がなかったのよ。だから会っても建前でママとか呼んでたけど、今朝のこと聞いてもそんなにショックじゃなかった。自分でも薄情だと思うけど。」

美里は出されたお茶を両手で持ちながら話す

「パパの性分も困ったものよね。まぁわたしはもう大瓦グループから独立して働いているし、好きにすればいいと思っていたから、今朝のことに関して言えばショックというより、驚いたって感じが近いかな。」

言葉通り、美里の表情からは落胆のような感情は一切感じられない。
おそらく、本人の言うとおりなのだろう。父の再婚相手だとしても、自立をしている今ではほとんど赤の他人に等しい。
思い上がりも甚だしいことだ。美里本人がそう思っているのに、自分で勝手に母親を亡くすつらさを共有しようとしていた自分が恥ずかしい。

「でもパパはかなり落ちてるの。今、血眼になって死んだ原因を探してるわ。夫婦仲はよかったみたいなんだけど。」

「そう。大変だったね。ほんとに、何も力になれなくてごめん。」

「いいのよ。わたしは桃の方が心配。霧が丘はオサムが飛び降りた場所だから。」

ドキリとした。
それがあった過去ではなく、そのストレートな言葉にだった。

「あそこは人を死に誘う何かがあるのかもしれないわ。」

「美里ちゃんて、以外とスピリチュアルなとこあるんだね。意外だなぁ、もっと現実的な人だと思ってた。」

桃に睨まれて沈黙を守っていた神崎がヘラヘラとしながら言う

「そうかしら?わたしはあなたたちが仲良くなってた事の方が意外だわ。まぁ、わたしの母親と関係があったことも含めてもう少々のことじゃ驚かないわ。で、どこまでいったの?」

「は?」

「は?じゃないわよ。付き合ってるんでしょ?あなたたち。」

「うん。」

「バカ!神崎!違うよ何言ってるの。ちょっとした手違いでこうなってるだけ。それ以上もそれ以下もありません!」

「まぁ詳しくは神崎くんに聞いてるからわかるけどね。」

「あたしからすればこうしてこの3人がうちにいることの方が違和感よ。」

面白がるような視線をよこされ、美里をムスリと見返すと笑い返される。同時に着信音がなり、誰かと通話をしながら席をたって玄関の外に出ていった。

ほんとうに身内が亡くなったとは思えないほど美里はいつも通りの様子だ。
血が繋がっておらず、顔もほとんど合わせていない形だけの親であればこうもさっぱりと考えられるのだろうか。

わたしはきっと無理だ。
人が死ぬということはどこの誰であっても悲しい

身内や知り合いなら尚更だ。

だからこそオサムの死は自分には大きすぎた

「桃。」

すぐ横に神崎がいた。向かい合わせに座っていたのにいつの間にかすぐ近くにいて、額に手を当てられていた

「大丈夫?」

無意識のうちに思わずパッと神崎の手を振りほどく 少しだけ神崎の表情に陰りが見えたような気がしたが、気付かない振りをした

「大丈夫だから。ちょっと考え事してただけだよ。」

そっかと笑顔になると戻ってきた美里が仕事が入ったので帰ると言い、神崎に車を出してもらえないか頼む

そのままふたりを見送るが、神崎はこちらを向かず車を発進させていった。

神崎のワゴンが見えなくなると
桃はそのまま工房へと車を走らせていった

9 幽霊

「おい、桃。お前やばいぞ。」

声の主は中華鍋をふりながら言う。

工房の休憩時間で颯太の店へ行き、ラーメンを注文して待っているとそんな言葉がとんできた。

「なにが。」

カウンターに突っ伏してラーメンができるまで惰眠を貪る。

「いや、何がじゃねぇだろ。その顔、幽霊が店に入ってきたかと思った。思わず足下確認したぞ。」

タンメンの野菜を炒める匂いが漂ってくるも、食欲が全く沸かなかった

「……ここ最近、作品展に向けて一気に詰め込んでるからかな。なんか眠れないし、食べられない。」

がしゃんと鍋を落とすような音が聞こえると後ろ向きで中華鍋を振っていた颯太に頭を両手でがっちりつかまれる。
そしてそのまま上にぐいぐい持ち上げられた。

「桃!医者紹介してやる!お前が食べられないなんて相当悪くなってるぞ!今日もおかしいとおもったんだよ!いつもならラーメンと中華丼だろ!?馬鹿みたいに食うのに。青い顔して、頬もこけてきたぞ。」

「痛い……、あんた今馬鹿って言ったわね……。」

いつもなら怒鳴り返すところも睡眠不足からか力が入らない。

「でも、あと一息なのよ。こうでもしないともう次いつになるかわからないから。」

あれから、美里の母親は自殺で断定された。原因は分かっていないにも関わらずだ。

大瓦グループは一時全国ニュースでも取り上げられたが、すぐに世間の興味は失われていった。

美里とは前よりもかなりの頻度で会うようになり、何度か桃の作ったガラス製の茶器を美里の経営する都市部の店で取り扱ってもらったりもしていた。

一方神崎はあれ以来ぱったりと会っていない。
季節は冬になりもう堤防でのビールも寒くてできないのだが、堤防を通る度に少しだけ探してみるがその姿を見つけることはできなかった。
そして桃の実家の寿司屋にも、工房にも来なくなり、連絡もつかない。

それなりに有名な作家のため、忙しそうにしていることも多いようだったが一ヶ月近く音信不通になることは今までなかった。

美里にも聞いてみるが首をかしげていた。

あのとき、神崎の手を振り払ったとき見せた彼の顔を思い出す。
一瞬だったが、暗いものが瞳を掠めたような気がした。

あのときの神崎は下心のようなものなんてなかったはずなのに、過剰に意識していたせいか、なかば条件反射のように手を振り払っていた。

神崎以外だったらそんな反応しただろうか

死神のようで、謎めいていて、それでいてどこか人を引き付ける印象の彼の姿がずいぶんと遠退いていった。顔も声もあまり、思い出せない。


「あれから千晶さんとはどうなんだ?」

颯太は堤防での晩酌で何度か会い、それ以来神崎のことをそう呼ぶ。

「どうもこうもありません。もう、あんたまでそういうこと言わないでよ。でも一ヶ月ちかく連絡取ってない。」

「あの人たまにいなくなるよな。有名な陶芸家だからいろんな所に呼ばれてるらしいんだけど、その間どうやって生活してるんだろうな。ほら、生活力0っぽいだろ。あのひと。」

「たぶん、全国津々浦々に女がいるんだよ。で、家もあってさ。子どももいたりして。」

皮肉めいたことを言ってみた

颯太もそんな感じするよなと頷く

「千晶さん、なんでこの町に来たんだろうな。陶芸が盛んなわけでもないし、ましてそれに使う土がとれるとかも聞いたことがないし。」

そういえばそんな話は1度もしたことがなかったかもしれない。
いつも大事な話や身内の話になるとそれとなく返事をして話題を変えていた。
聞かれたくないように思えてあえて詮索はしなかったが、神崎に対する謎は深まっていった。

「確かにそう。ついこの間まで随分と堤防で話をしてたんだけど神崎のことって仕事や家のことくらいであとはほとんどなにも知らないのよ。」

「だよなぁ。でも、あの遊び人で人たらしな正確は秘密主義って訳でも無さそうだし。」

「言いたくないことがあるのかもって思うときはあってさ、そういうときはあんまり深くは聞かなかったよ。本人もヘラヘラしながら曖昧に返事してたし。」

「へぇ。俺には千晶さんが隠し事してるようには見えなかったけどなぁ。桃は変なとこ鋭いからなぁ。」

そう言うと出来上がったどんぶりが目の前におかれる。
まったく沸かない食欲にとりあえず箸だけ伸ばしずるずると啜るがそれ以上はもう食べられなかった。

「ごめん、颯太。やっぱり食べらんないわ。せっかく作ってくれたのにごめん。」

「……桃。お前まさか妊娠とか」

「してません。」

「即答かよ。」

「じゃあそろそろ仕事に」

そう言ってカウンターから立ち上がろうとするとふわりとからだが宙に浮くような感覚に襲われる。
一瞬なにが起きたのかわからなかったが、バランスを崩し、膝から崩れ落ちる。

次第にさざ波のような音が大きくなって視界が一気に暗転した。

床に頭と体を強か打った感覚とともに意識は遠退いていき、颯太が呼び掛ける声が聞こえたような気がした。


救急車のサイレンが聞こえる

意識が少しずつ上昇し、ゆっくりと目を開けた

いつもと違う天井が見える。

何となく病院だと分かり顔を横に向けると父が今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめていた。

お父ちゃん来てくれたんだ……

颯太のところでラーメンを食べようとして、でも食欲がなくて仕事に戻ろうとしたら倒れたんだっけ

「桃!お前って奴は……」

「……あたし、倒れた?」

なんとなく状況理解ができた。

すると父はすすり泣きをしながら消え入りそうな声で言った。

「ばかやろう……」

そんな父を見て、大袈裟だなぁと思い、力なく笑って見せた

母が死んだ日以来だろうか。お葬式の日に勝手口に出て、喪服姿でひとり子どものように泣いている父を見たのは。

普段の父から涙なんてものは縁のないもののように思える。
しかし、親族が集まるなかひっそりと勝手口に出ていった父を追っていくと、顔をくしゃくしゃに歪ませながらあとからあとから出てくる涙を拭くこともせず、拳を握りしめて声をあげて泣いていた。

そんな父の姿を思いだし、急に胸がぐっと詰まるような感覚になりじんわりと涙が浮かんできた。

「心配かけてごめんね。父ちゃん、店は?」

かきいれ時のはずなのに、ここに父がいるということは店も閉めてきたのだろう。
今朝早くにも漁協から魚を仕入れて来ていたと言うのに

「……桃。俺ぁな、母ちゃんが死んだときにお前だけは何があっても絶対に死なせるようなことがあっちゃならねぇと思ってやってきたんだ。」

情けないぐらいに肩を落としながら俯いてそう話し始める

「だからよ、頼むから。頼むから、無茶だけはしないでくれよ。頼む。」

謝るかのようにさらに項垂れる父を見て、白髪が増えた髪の毛や、少しだけ小さくなったような肩が震えていて、堪えきれず泣いてしまった。

ぶっきらぼうな父が頼むと頭を下げる。どれほど自分のことを心配してくれたのか。

「お父ちゃん、心配かけて、ごめんね。」

声を振り絞ると父も盛大に鼻をすすりながら頷いた。

いつもひねくれたことしか言わない父の思いがひしひしと伝わってきた。

嬉しかった。

ほどなくして看護婦さんが来ると父の姿と自分を見比べて あらあら と笑いながら点滴と検温をしていく。

「荒井さん、申し訳ないんですが面会が9時までなの。もしよければ仮眠室があるからそっちを使ってもらって大丈夫ですよ。」

ショートヘアの少し体格の良い看護婦さんはそう告げる。
起き上がって父の準備を手伝おうとするとふたり係でベッドに押し戻された。

「あなた、過労で倒れたのよ。病人なんだからベッドからまだ出ちゃダメ。ねぇ?おとうさん。」

「ほんとうにマグロみてぇな奴ですみません。なんせ、寿司屋の娘なもんですからチャキチャキ動くように育てたのは俺なんで。」

「そうね、働き盛りなのは分かるけど、体を壊しちゃもともこもないわよ。」

そうして父は明日の朝様子見に来ると言い、仮眠室へむかうため、看護師と病室を出ていった。

支度をしながら、何度も振り返り 一人で大丈夫か?と聞かれたので大丈夫だと答える。

そうして病室はがらんとした静けさに包まれた。


空きがここしかなかったのか、立派な個室だった。窓からは町の明かりが見える。地元の病院ではなく隣町のほうまで運ばれたのだろう。

サイドテーブルには父が買ってきたのだろうコンビニの袋に飲み物やら缶詰めやらが入っていた。

その横にケータイが置かれ、ライトが点滅しているのでひらいてみると美里と颯太や崎田から電話やメールが山のように入っていた。

友達や近所に住む人からも電話があったようだが
音信不通の人物からの連絡はなかった。

「はぁ。」

ため息をつくとテーブルにケータイを戻しもぞもぞとベッドに戻り横になる。

少し起き上がっただけだったが頭がくらくらする。

過労なんて自分には縁のないものだと思っていたが、こうも体が言うことを聞かないのはやっかいだ

そうして目をつむりながらだるい頭で色々と考える

ふいに神崎の姿がはっきりと目に浮かんできた

堤防で夕日に照らされ、スッと通った鼻筋と少し、癖のある髪の毛が淋しそうにけれどもその瞳にはしっかりとした光が宿りかけていた

嫌われたのだろうか
それとも、このまちを離れようとしているのだろうか

どちらにしてもこの一ヶ月、ずっともやもやとしていた。
そして、こんな時でも連絡がなかったことにひどく落胆した

触れた人を不幸にさせる体質をもつ彼をいたずらに怖がりはしなかったが、自分のはっきりとしない臆病な思いのせいで何度も傷付けていたのかもしれない

過去にいつまでもこだわっている自分でも、嫌な顔せずに側にいてくれた

再び涙腺が緩んできた

「……弱ってるなぁ。」

次から次へと涙がこぼれる。気づき始めている気持ちを必死で押し殺す。

いつから自分はこんなに弱くなってしまったんだろう

完全に体力の戻りきっていない体にはまだ深い眠りが必要だった。
泣きつかれてそのまま眠ってしまった病室は静けさを取り戻す。


病室の扉の外では漏れてくる嗚咽がだんだんと静かになってくるのを聞いていた人物がいた。

どれくらいここでこうしていたのだろう。

美里から連絡を受けすぐに車を飛ばして病院へ向かった。

『人殺し……』
『どうしてお前なんかが助かって雪江が』
『人殺し』

ガンガンと頭の中に響く声

またやってしまった

触れすぎた
近すぎた
想いすぎた

心臓が動悸で破けそうだった
呼吸がうまくできない
口のなかも乾いてくる

どうか無事で……命だけは奪わないで……

病室の消灯時間はとっくにすぎていたが美里から病室を聞いていたので案内を頼りになんとかたどり着く。

走って息は切れ切れになりドアノブに手をかけたところでハッと我にかえる

会ったところでどうしようというのか

何をどんな顔で言えば良い

前のように感情をみせずに笑いながら口先だけのことを言っておけばいいだろうか

嫌だ。

いつのまにか近くにいるのが当たり前になっていた笑顔に、当然のような気がしていた。


彼女は驚くほど自分の影響を受けなかった。
聞きたいことはたくさんあったにも関わらず、なにも会わずにそばにいることを当たり前としてくれていた。

だからこそ、触れたい。

目尻を下げて笑う笑顔と、楽しそうな笑い声。
ふたりでいるときは全てが自分のものだった。

その全てが自分に向けられていると思うと、この上ない幸せとなんともいえないくすぐったさを感じた。しかしそれと同時にもっと近くにありたいと思う。目尻を指でなぞり、いろんな表情が自分に向けられ、小さい体をすっぽりと抱きしめたらどんなに幸せだろうか。

しかし、彼女はそうではなかった。

自分の思い違いにすぎなかった。

振り払われた手が全てだった。

……拒絶

彼女は自分を見てどんな表情をするだろうか

そう思うとドアノブにかけられた手はそれ以上動かせず、項垂れるようにしてドアの前に立ち尽くす。

するとドアの向こうから小さくすすり泣く声が聞こえてきた。

ハッとして顔をあげる

すすり泣きは次第に嗚咽を伴いはっきりと泣き声へと変わっていった

「……桃」

小さく、ドアの向こうで泣いているであろう人物に声をかけた

ほんとうはすぐにでも抱きしめて、泣いている彼女のそばにいたい

苦しいのだろうか
何があったのか

ドア1枚しかないのに、まるで開くことのない鉄の門のように感じられた

「……桃」

もう一度声をかける
今度はひどくかすれた声が出た

拳を握りしめて立ち尽くしているといつの間にか泣き声は静かになった

もうこれでおしまいにしよう

これ以上彼女を自分のエゴで不幸にさせるのはやめよう

いつの間にか神崎の心は渇ききっていた

こんなにもつらいことは今までになかった

逃げ出したい、でもそばにいたい

こんな感覚は初めてだった。

物音をたてないように静かにドアを開ける
個室になっていて窓からは町の明かりが視界に飛び込んできた。外からの光で病室は月明かりのようにぼんやりと明るかった

そしてベッドには静かに胸を上下させながら、少し痩せた桃が眠っていた

呼吸器などはついておらず点滴があるのみだった。

その様子にひどく安堵する

大きな事故でも、病気でもなさそうだった

近づいて床に膝をつき、眠る桃と同じく目線を低くすると、少し痩せて浮き出た顎のラインが際立った


先程まで泣いていたためか、目許も少し腫れている

こうして近くにいることがこんなにも苦しいことだとは思わなかった

諦めようと思ったばかりだというのに、再び胸がじんわりと熱くなる

最初は体の関係だけでも、単純に家政婦のようでもどちらでもよかった
文字通り都合のよい関係であれば、自分の影響はほとんど受けない
後腐れもない

今までもそうして女の子とつき合ってきたしこれからもそうしていくものだと思っていた

眠れない夜は誰かの体温があればいい。
たとえそれが男でもよかったのかもしれないが、自分にはそっちのけはないので、自然と女の子を誘うかたちになっていった

会ったときに面白い目をした女の子だと思った

まるで子どものようなまっすぐに相手を見る目、引き込まれそうな黒目の奥には深海のような静けさと豊かな心情の色が見えた

会うたびに引き込まれていき、不思議と自分の影響を受けにくいことも分かった

そんなところにもますます興味を引かれる

原因は分からないが、会って他愛のない話をするたびに生きている事や毎日に色味が入り、こんな自分でも今までのことを含めて、ゆるされるのではないかと思うようになった

ぼんやりとそんなことを考えていると

桃の横顔をじっと見つめていると 小さくうなり声をあげ眉間にぎゅっとしわがよる

なにか悪い夢でも見ているのかもしれない

少しだけ、最後に少しだけ

そう言い聞かせてそっと手を伸ばし眠る桃の頭を撫でる

寝付けないでいる子どもに親がそうするように優しく何度も

想いはどんどん溢れる
これ以上触れてしまうとまずい

そうしてゆっくりその手を離す

「桃、元気でね。」

耳元で静かにそう言うと立ち上がろうとした

これで全ておしまいだ

今までと同じく、忌まわしい死神としてのうのうと過ごしていこう

途中で疲れはててしまったなら、投げ出してしまってもかまわないのだから

自嘲めいた笑みを浮かべ、振り返り立ち去ろうとすると

相変わらず眉間にしわを寄せたままだが、次の瞬間瞼がふるりと動いて、ゆっくりと閉じられていた瞳が開けられる

神崎は驚きにその場から動けなくなった

2、3度視界をさ迷わせた後、神崎の姿をはっきりと見つめる

大きく目を見開いている神崎の姿をとらえると、後から次々に溢れてくるものを止められなくなった。

ただただ泣きじゃくる

神崎は桃の流す涙の理由が分からなかった

しかし、その涙に希望なようなものも見えた気がした

すると小さく、しかしはっきりとしたあの声が聞こえてきた

「どこにいくつもり。」

こんなに弱々しい声だっただろうか。

「……どこにも、いかないよ。」

気がつくとそう答えていた。

ついさっきまで考えていたことが、桃の声と視線と涙によって簡単に覆されてしまう

だめだ、本当のことを言わなくては

「でも、ずっといなかったじゃない。」

涙はまだ流れている。拭くこともせず、そのままこちらを見ている

「うん。これ以上はダメだって思ったから。」

正直に言おう
そうしたら彼女はどんな反応をするだろうか
一筋の希望にすがってもいいだろうか

「……ダメじゃない。」

反ってきた言葉に耳を疑う

「……ダメなんて決めつけないでよ。あたしは、なんにも言ってない。」

そうだ。彼女は何も言わなかったし聞かなかった。

そうさせなかったのは自分だった。

そうして都合が悪くなって、離れていって。

そんな虫のいい話あるわけがない。

自分勝手にも程がある。
ここに来て思い知らされる。
自分はなんて身勝手なんだろうと。

そうしてまた勝手に解釈しようとしている

「ごめん。勝手でごめん。」

そう言うと桃は強く涙を拭いて、くるりと窓の方を向いてしまった

彼女の表情が見えなくなる

小さく泣いている桃の背中をどうすることもできず見つめていると、ふーっと深呼吸をする音が聞こえた

「本当に勝手すぎる。」

こちらに背を向けたままだ

「いきなり連絡が取れなくなったと思ったら、のこのこ来ておいて元気でねなんて勝手すぎる。」

「何がしたいのかさっぱりわかんない。好きっていったと思えば女の人のとこにいたり、連絡が取れなくなったと思えばこんなとこに来たり」

桃は矢継ぎ早に話す

「でもね……手を振り払ったときの、神崎の顔が焼き付いてずっと頭から離れなかった。こんなふうに神崎のことを責め立ててるけど、あんたはなにも悪くないんだよ。」

「勝手なことばっかりいって勝手なことばっかりやってるあたしの方がよっぽど勝手。」

そう言うとばさりと頭から布団をかぶってしまった


桃は耳を貸してくれるだろうか

何も言わなければまたねじれたままだ

「桃。……桃、聞いてくれるかな」

返事はなかった

「俺の昔の話。こんなにひねくれちゃった訳。」

白いシーツの山を見つめながら話はじめた

「この体質に気付いたのは小学生の時だった。体が弱くてさしょっちゅう入院してたんだけど、そのときお世話になった看護婦さんがすごく好きで、入院生活のなかで実の母親以上に母親みたいな存在だった。その人、お腹のなかに赤ちゃんがいてさもうすぐ生まれるんだっていつもいとおしそうにお腹を撫でてて、嗚呼この人の子どもに生まれてこれたら幸せだっただろうなって子供心に思ってた。」

立ったまま、膨らんだ布団を見つめ、続ける

「実の親はほとんど会ってないから、高槻に育てられたようなもの。だからこそ、すごくそのお腹の子が羨ましかった。けど、その人、子どもを産んですぐに死んだ。詳しくは聞いていないけど病気だって。」

神崎の声はどこか淡々としていた

「ショックでしばらく学校にも行かなかった。そうしてるうちに一人っ子だと思ってた俺に腹違いの兄貴と姉がいることが分かって、その人たちがよく遊びに来るようになった。年は兄貴が6つ、姉が4つ上で、そういう俺の気持ちにすぐに気づく人達だった。寂しかったからそんな二人にすぐになついて、心の拠り所にしてたのに半年もたたないうちに二人とも、就寝中の不審火で死んだ。」

桃は気になり、少しだけ顔をのぞかせるとすぐにこちらを見ている神崎と目があった。
表情がない

「それからだよ、仲良くなった人に次々と良くないことがおきはじめて、大切だと思えば思うほどその人達は命を落としていく。」

「……。」

思わず起き上がる
彼がどうやって今日まで生きてきたのか、それは想像を絶するものだった

「桃、信じられないと思うけど、こうして人の命を吸って今日まで生きてきたんだ。だから」

「だからあたしも死ぬって言うの?」

「……そうだよ。」

なぜか心臓が熱くなる。血が1ヶ所に集まってくるのを感じる。

「違う、違うよ神崎。あたしは生きてるよ。」

そんな諦めた目で見ないでよ
心を殺さないでよ

「毎日の中に神崎が加わって、堤防でビールを飲んだり、みんなで朝まで騒いだり、道ですれ違って挨拶したり、あたしはその全部が大事。きっと神崎じゃなきゃそう思えなかった。あなただから、大事なんだと思う。」

目眩を必死にこらえる

「抗えない巨大な何かがそうさせているのかもしれない。けど、あたしは神崎に、会えて、……よかったって思ってる。」

少しずつ視界が細かく揺れ始める。
やはりまだ回復しきれていなかった

「でもね、女遊びも大概にしないと、病気に……」

またさざ波の音が大きくなってきた。

ぐらぐらと眩暈がして目をぎゅっとつむる

神崎の声は聞こえず、表情も分からない

再び倒れるようにベッドへ横になると急激な睡魔が襲ってくる
まったく過労というものはやっかいだ

最後のひとことをと思っているうちにそのまま意識を手放した


「バカだなぁ。桃は……。」

涙がこぼれる。


よかった、桃と会えて
よかった、生きていてくれて
よかった……


こんな自分でも生きていていい、出会えてよかったといってくれる人がこの世中にいた。

生まれてはじめて、魂を持ったような気がした

それはひどく重く、あたたかく、繊細なものだった。

この日、はじめて声をあげながら神崎は泣いた

10 足跡


翌朝には目眩やだるさもほとんどなくなり、即退院ができたお陰で、作品展にも間に合った

退院後、訪ねると神崎はまだ霧が丘の家に住んでいた
以前にも増して過剰なスキンシップをとろうとしてくるため、その度に無理やり引き剥がし、激怒しながらかわしているが気持ちをお互いに伝え合ったことで誤解が生じるようなことはなくなった

しかし、自分はまだ神崎の想いには答えられない

彼もそんな自分を知ってか知らずかストレートに気持ちを伝えてくるが、ゆったりと構えていてくれた

その事がとてもありがたい
そして、申し訳ないと思いながらも、今は神崎のそういった気持ちに甘えることにした



作品展は予想以上の集客数だった。
すべてに圧倒されながらも、ブースに来た客一人一人と丁寧に話をする

海のそこから吹き出てきたようないくつもの泡のなかには優しい電球の光が灯り、不思議と海中にいるような静けさに包まれるようなそんな作品が桃の作った『浄化の青』というタイトルの作品だった。

約3ヶ月ちかくをこの作品に費やしてきたため、今回を逃してしまうことは今後の作品作りへも影響を及ぼしかねない

回りの人物も作品も崎田の品評会へついていったときに見覚えのある人物と作品ばかりで、無名の作家は桃ひとりだけであった。

ガチガチになっている桃を励ますため神崎と美里が早々に駆けつけていた。
二人の顔を見ると少し緊張が抜けたが、後から来た颯太の余計な一言でさらに緊張が増し、これまでになったことのない腹痛に襲われ、桃はトイレに駆け込んでいった

美里が颯太を叱咤しているのを神崎が宥めているうちに投票が終了する

押し潰されそうなプレッシャーのなか、『浄化の青』は作品展始まって以来の投票数を獲得し、見事最優秀賞を受賞した。


「ウソ…………」

「『浄化の青』を出展しました荒井さんには、協会より賞金50万円が送られます。」

「やったね、桃!おめでとう!」

「神崎、ありがとう。」

「俺は?俺の飯がなかったらこんな大作作れなかっただろーが。」

「はいはい、ありがとう。第一発見者にも感謝しています。」

「おう。じゃあ今夜は奢れ!」

「おう、いいじゃねぇか!桃、普段世話になってる工房主にも今が返し時だぞ。」

「崎田さんまで!」

わいわいとやっていると美佳子さんも駆け付けてきてくれたようだ。
次男の祐太くんも一緒だ。

ひとりで作り上げたと思っていたが、そうではないことをこうして人に囲まれてじんわりと胸に熱いものがひろがる。

感謝を伝えたい人がたくさんいる
それはとても幸せなことなのだと思う


ふとあたりを見回すと美里の姿がなかった

そろりと宴会の話で盛り上がる輪から外れると美里を探しに会場を歩き回る。
メインのテントから外れた倉庫のプレハブを通りかかったとき甲高い声が聞こえてきた

それは美里の声で、ひどく怒っているようだった
おそらく電話でやりとりしているのだろう

相手は分からないが、こんな美里を見たのは中学のあのとき以来だ。

ひどく感情的だった

美里はこんな風に感情を露にする姿を見せたがらなかった
だから泣いている姿を見たのもあれきり

存外涙もろい自分とはまったくちがい、いつも物事を客観的にみていて、そこに感情論が入ることはほとんどない

このままみんなのところへ戻ろうかと思っていると

電話を切って突然こちらに向かって歩いてきたのでばったりと鉢合わせする形になってしまった

「……美里、何かあった?仕事でトラブル?」

偶然を装い、聞いてみる

「あら、聞かれてた?そう。うちの部下がへましちゃってね。」

にこりと笑う美里は電話を力強く握りしめていた

「それより!桃、おめでとう!!お祝いしなくっちゃね!今度、神崎くんの家で颯太と四人でなんてどう?」

「いいけど何で神崎の家で?うちの店でもいいよ。お父ちゃんにとびきりの握ってもらうし。」

「あら、それじゃあだめよ!あたしたち3人がお祝いしたいの。うちでも良いんだけど、今取引先のからのゲストが来ててさ、颯太のところは長居できないし、残すは神崎くんのとこしかないじゃない。」

「そもそも神崎に聞いてみないとわかんないんじゃ……」

「そりゃあ、大好きな愛する桃のためただもの。きっと二つ返事ですオーケーするに決まってるわ。」

そう言うと二人で会場に戻り、その旨を美里が神崎へ説明するとニコニコと機嫌よく快諾していた。

「ベッドメイキング念入りにしておくよ。」

「なんで!?」

「決まってるじゃない、また過労にでもならないように俺が桃をたくさん癒してあげるんだ。」

「いいです、結構です、間に合ってます。」

「千晶さん、俺も癒してー。」

「君はそのへんで寝てていいから。」

「ひでーー!!」

そんなやりとりに誰もが笑顔を見せる。幸せな時間だと思った。


その夜、部屋で携帯電話のボタンを押す。

しばらく呼び出し音がなると懐かしい声が聞こえてきた。

「Pront……もしかして……桃か?」

「はい!お久しぶりですルッツさん。この間はランプをありがとうございました。」

「電話をしてきたということは、何か掴めたんだね?」

「はい。自分の表現したいものが分かった気がします。こんなに全身全霊をかけてものを作ったのははじめてです。何日間もすごく悩んで、フラフラになりながらまるで自分を削りとるみたいにして作ったものでした。」

「全てのアーティストがそうとは限らないが、桃の性分にはピッタリの作り方じゃないか。あのランプは使っているのかい?」

「いえ、もったいなくて。父が魚を捌く時に手元を照らすのにちょうどいいなんて言って持っていこうとするもので慌てて取り上げたんです。」

ある日仕事から帰ると、店には不釣り合いな見覚えのあるランプが天井から吊るされていた。

父が得意気にその下で魚をさばいているものだから今すぐ外せと激怒して、部屋にしまってある

「それは残念だ。ぜひとも私のランプで日本の寿司を照らしてもらいたいものだよ。」

「先生の作品の価値がまったく分かってないんです、うちの父……。」

「桃、作品の価値というのは使ってこそわかるんだ。誰が作ったかは大事ではない。作り手の思いを使い手が少しでも感じられて、長く大切に使ってもらえてはじめて物としての命を持つんだとわたしは思う。だから、しまってしまうのではなく使ってほしい。」

前に崎田からも同じ事を言われたことがあった。

誰が作ったかではなく、どのようにして作ったのかが大事なのだと。

「そういえば、ハジメは元気かい?」

「はい。この間も工房を閉めたあとに大宴会が始まって結局朝まで飲んでました。」

そうか とルッツは笑う

「そうそう、桃。頼みがあるんだ。もし、君がよければなんだが。」

夜は深くなっていく。電話口に桃は懐かしいイタリアの風を感じたような気がした。



作品展から無名の新人の受賞を聞き付けて、マスコミから取材やインタビューを受ける日が続いていた。

工房も世間では冬休みに入り、忙しい日々は続いていた。

そうしているうちにあっという間に11月も終わろうとしていた。


その日の夜は仕事を終えた各々が神崎の家へ酒や料理を持ち寄りながら集まっていた。

「神崎くん、大きいお皿とかある?」

「そこの棚にあるやつ使って。この前作ったばっかりのものなんだ。」

「颯太!あんたこれつまみ食いしたでしょ!あたしだって我慢してたのに!」

「うるせぇなー。いいじゃんかよ1つくらい。千晶さんもなんか言ってやってくださいよー。」

「お腹を空かせたあの桃が我慢をしているんだよ?今すぐ吐き出して。」

「いや、あの……俺じゃなくて。」

「こら、男ども。油売ってないで働きなさい。」

四人でキャンプにでも来たかのように賑やかに準備をする。
こんな時間がいつまでも続いてほしい、そう思ったのは自分だけではないはず。

神崎はオサムの家をほとんど倉庫代わりのように使っているようで、こちらのログハウスが母屋になっていた。

「あのさ、これ。今日のお礼にみんなの作ってみたの。これで乾杯しない?」

「あら!素敵なタンブラーじゃない。これ、私たちに?」

「うん、色は美里が赤。颯太は黄色。神崎はピンク。」

「なんで千晶さんピンク?」

「颯太くん、野暮なこと聞くもんじゃないよ。ありがとう、桃。桃の名前と一緒の色だ、君もタンブラーも大切にするよ。」

「ちょっと、神崎くん深読みしすぎじゃないの?」

「そんなことないよ。女の子から言われるなんて男としてはこの上ない幸せだよ。」

女好きのイメージから無意識にピンクを選んでいたが、本人が嬉しそうにしているため解釈は本人に任せることにした。

「じゃあ改めて、桃の受賞と私たちの出会いを祝して、乾杯!」

「桃、おめでとう。」

「ありがとう!」

グラスを寄せてきた神崎へ礼を言い、グラスを合わせる

それからは四人で他愛のない話をしながら大いに笑い合った。
まるでずっと前からの知り合いだったかのように冗談を言い合い、真面目な話をして、また賑やかに語り合う



あの日、ここで起きた事がウソのようで、この賑やかで気だるい空気の中にいることが心地よかった。

夜も更けてきた頃だった、美里がお手洗いに行ったきり戻って来ない。

部屋から離れたところにあるようだが、屋外ではない。サンルームの横に作られているため、一旦屋外へと出る。

あまり酒に強くない美里を心配していたが、美里自信もお茶やジュース類を選んで、アルコールはほとんど飲んでいなかった。

「あいつ、酒に弱いんですよ。今日は珍しく飲んでたから。」

「え?そう?あたしには控えてたように見えたけど。」

「心配だね。少し様子を見てくるよ。ふたりはここにいて。」

そういって神崎は玄関から出ていった。外からサンルームのある方へとまわっていくつもりのようだ。

賑やかだった室内がふたりいなくなり急にがらんとした空気になった。

後片付けをし始める桃を横目に颯太は飲みかけの缶を揺らしながら話を始める

「俺さー、美里には千晶さんみたいな人がいいんじゃねぇかなって思うんだよ。」

「何よ、突然。あんた、美里のこと好きだって言ってたじゃない。諦めるようなこと言って、颯太らしくもない。」

洗い物をまとめながら返事をする。

「俺さ、この前もう一度美里に言ったんだよ。そしたらさ、あいつ何て言ったと思う?俺じゃ、あいつには不足なんだと。そうまで言われてすがり付こうとしてる自分も情けなくなってきてさ、そしたら千晶さんと一緒に車にのってどっかにいくとこ見かけて、今もこうして追いかけていくのはあの人だろ?」

缶をあおる。颯太、酔っぱらってるの?と聞くが首を横にふる。

「でも、あの人は桃のことが好きだろう。」

「え」

「お前!悔しくないのか!美里に神崎さんとられちまうんだぞ!俺みたいにフラれちまうんだぞ!」

「ほら、水。あんた、酔ってるわね。酒癖悪い男は嫌われるわよ。」

そういって颯太のタンブラーに水を汲んで差し出す。
颯太は据わった目で受けとると一気に飲み干した。

そして間髪入れず言う

「お前はどうなんだよ。」

「え?」

「お前は神崎さんのことどう思ってんだよ。」

思いがけない人物からの思いがけない質問だった。
改めてどうかと聞かれるとなんとも答えにくい。
神崎の気持ちに甘えてきたが、恋愛感情として結び付いてはいないと思う。

「こ、……このまま。が、いいなって。」

はぁ!?と颯太がすっとんきょうな声を出す

「このままがいいってのは、相手にいちばん言っちゃいけない言葉だぞ!戻りこそしないものの、進展もその先の未来も望めないなんてはなから突きつけられた相手は立ち直れなくなるんだぞ。ひどいぞ、それは。」

ごもっともだ。まさか颯太に諭される日が来ようとはおもってもみなかった。
それは今までオサムを守っていたと思っていた自分を真っ向から否定した言葉だった

中途半端な気持ちがいちばん相手を傷つけるなんて知っていると思っていたが、今まさにそれを繰り返そうとしている自分がいたことにはっとする

「……そうだよね。過去から抜け出せないなんて言い訳よ。最近知ったのよ、あたしすごく言い訳ばっかりしてるって。前はこんなんじゃなかったはずなのに。」

ため息をつくと、頬杖をつきながら神崎が言う

「俺も。でもさ、俺らってずるいんだよな。なんでこんなに世の中って理不尽なんだろうって思う。でも、実は自分もそういうずるさの歯車にのっかってたりするんだよな。オサムの自殺がいい例さ。口先だけだったこの町の野次馬どもと一緒。相手のこと考えてるようで、実は自分が何よりいちばん大事なんだ。」

オサムはこの町に吊し上げられ、無防備な彼は身を守る術を知らずして地面へと叩きつけられた。

世の中の理不尽さを知らずに真っ白で何者にも染められずに生きていた彼は結局いろんな人の手によって引き裂かれ、利用され、死んでいった

「めんどくせぇことなんかなくなっちまえばいいのにな。」

颯太があまりにもなげやりに言ったその言葉がずきんと胸を刺す。

そんな風に生きられたらどんなに楽だろう
人の優しさを疑ったり、言葉の裏をよんでみたり、そんなことをしなくても生きていける強い心

自分は大切にしたい。その思いは捨てられないし、捨てる必要のないものだと思う。だからこそ、疑心暗鬼にならずに、しっかり向き合える心。そんな当たり前の事こそが大事なのだと。
ふとそんなことを思った。

「それにしても遅いな、二人とも。俺も様子見てくる。」

そういって立ち上がろうとするとフラフラと覚束無い足取りで玄関へ向かう。

「そんな千鳥足になってこっちが心配よ。一緒にいくわ。」

そう言って二人で外に出る。
室内との温度差にぶるりと震え、上着を持ってこなかったことを少し後悔した。

波の音が聞こえてくる。
サンルームには明かりがついていた。

「なんだよ、千晶さんもいないじゃん。」
「ふたりともどこにいったんだろう。」

不穏な空気が流れ始める。

すると突然、悲鳴が聞こえてきた。

「聞こえたか?今の声……」
「あっちの崖の方からよ!」

「美里!」

悲鳴の聞こえた方へと急ぐ。

夜の森はねっとりとした闇に包まれていた

この森はオサムとよくかくれんぼをして遊んだ場所だ

鼓動が早くなる

「颯太!まってよ!」

「何してんだよ!こっちだ!」

気持ちも足取りも重いが、ぐんぐんと進んでいく颯太についていく

そうして目の前がぱっと開けた
見覚えのある場所だ


霧が丘の崖の手前まで行くと人がふたり、うずくまっているのが見えた。

「美里!神崎もいるの!?」

何があったのだろう。ふたりとも動かず、その場に呆けたようにしてじっとしている。
急いで近づいていくが、視線もよこさずそのままだ。

「お前ら何してんだよ!心配したんだぞ!」

腰を抜かしているように見える美里を支えている神崎はずっと一点を見つめている

「おい!聞いてる」
「警察だ。……桃、警察を呼んで。」

今までに聞いたことのないような神崎の低い声だった。

視線の先には首をつった人の姿があった

黒い大きな影が力なく風でゆらゆらと揺れている

「ひっ」

衝撃的な光景に一瞬呼吸ができなくなった

月明かりにぼんやりと照らし出されたそれはおおよそ人間とは思えないほど力なく物質的で、そこに命がないことをはっきりと表している

「なによこれ……」

「みての通りさ。」

「こ、こいつ……。前島だ……前島侑哉。なんで……」

すると美里が顔を覆いながら震える声で話始める

「……トイレから戻る途中に、森の方へ誰かが入っていって、それで……跡をつけてみたの……そうしたらこのブナの木に」

切れ切れに話す美里の声は震えていた

「悲鳴を聞き付けて駆けつけてみると美里ちゃんがいてね。さぁ、とにかくこの場を離れよう。桃、警察に連絡してくれる?颯太くんは美里ちゃんを。家についたら戸締まりをしてくるからみんなは母屋から出ないで。まだどこかに誰かがいるかもしれない。」

てきぱきと指示を出す神崎に言われ、ショックで固まっていたが冷たくなった指先でなんとかボタンを押して警察へ電話をかける。

まただ……
また霧が丘で

「はい、◯◯警察です。事故ですか?火災ですか?」

「あ、あの……」

長い長い夜になった


サイレンの音がなり響き、赤色灯で辺りはものものしい雰囲気だ。

第一発見者の美里と神崎は警察から取り調べを受けていた。
ふたりとも、前回のこともあり警察署まで同行することになり、颯太と二人で霧が丘がものものしい雰囲気になっているのを窓から見ていた。

自分達も聴取を受けるが、発見者と発見時の様子を聞かれただけで、すぐに解放された。

父へ連絡をすると今すぐ迎えに行くと言っていたが、神崎が戻るまではこの家にはいなければいけない。
ひどく心配した様子だったが、努めて明るく返し、明日の朝には戻ることを伝えて電話を切った。

颯太もひっきりなしにかかってくる電話に向かってずっと話をしている

神崎と美里は大丈夫だろうか。
特に神崎はこの家の持ち主でもある。前回のことにも関与しているだけに警察もそうそう見逃してはくれないだろう。

それにしても今回の事が偶然だとしても、不幸体質を持つ彼のまわりで起きることが多い。
それに、なにより死体を前にしてもなお平然として冷静にいられる神崎は暗くてよくわからなかったが、おそらく顔色ひとつ変えていない。

この二つの人の死が不幸体質によるものだとしたら、自分達はとっくに影響を受けているのではないだろうか。

神崎が前島雄也と面識があったかは定かでないが、強く思って触れないと影響を受けないはずのその力が進化してきているのだとしたらそれはなんの意味があることなのだろう。

神崎をいたずらに苦しめ、ひとりにし、人間らしい感情を忘れさせるプログラムのようなものだとしたら……

一体その力は何を目的としているものなのだろう

ふとブルーシートのかけられた遺体が警察車両へ運ばれているのが目にはいってきた

「前島、あいつ奥さんも子供もいるらしいぞ。」

電話に一区切りついた颯太が頭の後ろで手を組んで椅子の前足を浮かせてゆらゆらさせながら言った

「知ってる。子どもを認知しないまま、借金つくって遊びまくってるって。この間、隣町で派手な女つれてあるいてるとこ見かけたわよ。」

「こう言っちゃなんだけど、日頃の行いってやつだよなぁ。俺なら自殺する前に、もっかいやり直せるチャンスを見つけるな。」

「あんた、意外と堅実よね。そういうところ、女心をくすぐるよ。美里にもそこを見せていけばいいのに。」

ガタン と音がして颯太は椅子から立ち上がりこちらへやって来て一緒に窓の外を眺める

「……そうだなー。」

気の抜けたような返事をする颯太だったが、それ以上は喋ろうとしなかった

「美里たち、大丈夫かな……」

「待ってようぜ。今はそれしかできないんだからさ。」

「うん」

小さく頷く。
もっと誰かとしゃべりたいのに、無口ではないはずの颯太はそれ以降話かけても返事をするのみで部屋はサイレンの音や外のざわつきが聞こえるのみだった

話していないと、過去に囚われたかのようになってしまいそうだった。

前島雄也が首をつったブナの木はオサムとかくれんぼをしたときに二人でよく登っていた場所だった。そしてそのすぐ前にある崖はついこの間、美里の母親が飛び降りた場所であり、その前にはオサムとオサムの両親が身を投げた。

どうして霧が丘でばかりこんなことが起きるのか

幽霊などは信じていなかったが、偶然にもこうしてこの場所で死者がでることには浮かばれない魂があるのだろうかと考えてしまう

頭がごちゃごちゃだ

神崎の影響を受けているとしか思えないほどこの場所では最近次々と人が亡くなっている

彼のせいだとは考えたくない

人の死に慣れていると言っていた人が、子どものように泣くはずがない

何よりも彼は自分の影響を恐れて、みずからこの地を去ろうとしていた


信じたくはないが、起きたことも事実

夜が明け始め、東の空が明るくなり始めていた

11 決断


翌日の昼頃に帰宅した神崎は憔悴しきっていた。

美里は署まで父親が迎えに来たそうだ。

颯太もひどく疲れた様子だったが、店があるからと、神崎が帰宅するとすぐに帰っていった

「帰って来て、びっくりした。てっきり二人とも帰ったものだと思ってたから。なんだか、嬉しいよ。」

神崎はそう言うとコップに水を汲んで飲み干し、そのままソファにたおれこんだ

「長かったね。一睡もしてないだろうからそのままゆっくり休んで。」

そう言って帰ろうとすると手首を掴まれた

「側にいて」

腕を顔にあてながら言われた

「誰かがいるとゆっくり休めないじゃん。」

「むしろ逆だよ。今は桃にいて欲しいんだ。誰でもいいってわけじゃなくて。」

本当のことを言うと自分も眠ることができなかったため休みたかった。
そのまま神崎の眠るソファの横に座ると、掴まれていた手首を持つ手の力がゆるゆると抜けていった

細い髪質の神崎のつむじが、見える。茶色に染めたふわふわした毛は触ったら気持ちがよさそうだ。

今回は相当こたえたのだろう。取り調べで自分の体質の事を話せないだけに、連続して起きた霧が丘での自殺の弁明は大変だっただろう。

「今回はさすがに、疲れた。」

眠っているものだと思っていたが、ポツリと呟いた声が聞こえてきた

「2度目だし、ややこしくなってるのかなって思ってた。……死因はなんだったの?」

「んー、首の圧迫による窒息死。事件でも事故でもない、自殺だって。」

誰がどうみても事件性はないだろう
むしろこちらは被害者なのにと思った

「ねぇ、あのブナの木。オサムとの思い出がある場所だったの?」

突然の質問だった
神崎は目をつむったままだ

「そうよ。小さい頃よくここいらの森でかくれんぼをしたの。オサムは隠れるのが上手で、なかなか見つけられなかった。」

彼は本当に隠れるのが上手だった。
狭い森のなかを一日探し回っても見つからず、仕舞いには帰ってしまったのではないかと思い、オサムの家を覗いたこともあった。

「後から聞いた話で、かくれんぼのときは決まってブナの木の上から自分を探すあたしを見てたんだって。そうして、見つかりそうになるとさらに上に登って身を潜めてたって。」

オサムと恋人のように過ごしていた時にもよく二人で森のなかを散歩した。彼は決まってあのブナの木を目指して歩く。そして、そのすぐ横にある崖を寂しそうに見つめていた。

「オサムは体が弱かったからあまり外に出たがらなかったんだけど、霧が丘の崖にはある日を境に毎日のように行くようになってたわ。」

「何かあったの……?」

「……」

過去の蓋がとれはじめているいま、こうして、この場所に住む彼には全てを話そう

むしろ、聞いて欲しい そう思った

「……これ、だれにも話したことないの。」

「うん。首突っ込んでひっかき回したのは俺だから。それに、桃のことがもっと知りたい。聞かせてくれたら嬉しい。」

時々、目の前の人物がとても大きな存在のように感じるときがある

何かが許されるようなそんな気持ちになる

「長くなるけど。」

「話して」

その言葉に頷いて話始めた



「……もともと、彼はいろんな事が欠如してたの。感情表現も極端で、人付き合いなんかは皆無。自分の視界に入った人間すら興味がないようだったから、小さい頃からオサムと過ごしてきたあたしに対してはその執着心や依存心を全て剥き出しにしてきたの。この人からは逃れられないとかそんな風に思うときもあった。正直今思い出すだけでもゾッとするほど。」

神崎はうっすらと目を開けて黙って聞いている

「霧が丘に両親と遊びにいって、偶然出会ったときからの付き合いよ。恋人とか友達とかそういうくくりにすることが難しい距離感になっていって、オサムから求められることと自分の気持ちにうまく整理がつけられないでいたの。たぶん、オサムも察してたと思う、だからこそどんどんエスカレートしてきて目も手も声も体も離すまいとしてたんだと思う。」

あのときのオサムには恐怖も感じた。
自分が守ってあげなくてはと思っていた、薄命そうな少年がいつのまにか力の強い男として自分の前にいたのだ

それに気づいた時、彼は執拗に桃と関係を結びたがった
気づいた桃がどこにも行かないように、縛り付けるかのように会うたびに求められた

「そんな日が続いて、オサムの心と体がバラバラになり始めているのをもう止められなかった。なるべく外に出ようって誘うと、最初は渋々ついてきた感じだったんだけど、そのうちに毎日のように霧が丘の崖へ行ってはブナの木のしたに座ってじっと海の方を見つめてた。」

まさか彼がその数ヵ月後にその身をそこへ投げようとうは到底考え付かなかった。

「オサムはその数ヵ月あとに霧が丘の崖で遺体となって見つかったわ。損傷が激しくて見せられないほどだった。」

今でも鮮明に思い出せる

イタリアから帰国したばかりだったが颯太から連絡を受け急いで霧が丘に向かい、親族だと嘘を言って規正線のなかに入れてもらった

すぐにブルーシートがかけられたそれがオサムだと分かり、シートをはずそうとしたところを刑事に見ない方が良いと止められた

「あたしのいない半年の間、オサムがどんな風に過ごしていたのかは分からない。けど、イタリアに行くことを決めたとき、あんなにあたしを離すまいとしてたオサムがいってらっしゃいって笑顔を見せたのよ。そもそも、その時点で異変に気付くべきだった。」

彼が最後に見せた笑顔はかくれんぼをして遊んだあのときの笑顔と同じだった

あたしが帰ってくるのを待つのだろう

ブナの木でそうしていたみたいに


両親が目の前で飛び降りる前に彼に言ったように

「オサムの両親は、あたしたちが中学生にあがった頃、彼の目の前で崖から飛び降りたわ。そのときにこの場所で待ち合わせをしましょうって言われたんだって。どういう意味かは分からないけど、彼が自らの命を両親と同じ霧が丘に投げ捨てる原因はその言葉にあったのだと思う。」

ちらりと神崎を見ると、先ほどとおなじく黙って静かに話を聞いていた

その様子を見て続ける

「それからの彼の暮らしぶりは、危ういものだったわ。どちらも芸術家だった両親が残した遺産とオサムの引き取り手で親族が揉めに揉めて、一時養護施設へと預けられていたの。そこでも施設の中で暴れまわったり、自傷行為なんかが耐えなくて、いろんなところを転々としながら18歳になるとここへ戻ってきた。」

「あたしは彼のいろんな噂を耳にしていたけど、嬉しかった。小学生の時に母親を病気で亡くして、いつも側にいて励ましてくれたのはオサムだったから、彼が帰ってきてくれて嬉しかった。今度は自分が彼に何かしてあげられるって、そんなふうに思ってた。」


母親が死んで、無条件に一緒にいてくれたのはオサムだった。

子どもながらに母親のいない日々を寂しく思い、泣いていた父の姿を思い出すと母のことを自分から話すのはやめておこうと思えた

でも、積み重ねてきた我慢や寂しさ、不安は解消されることがなかった。

そうした捌け口のない感情から思春期を迎えると父とも毎日のようにぶつかり、家出をしてはオサムの家へ転がり込んでいた

ようするに傷をなめあっていただけなのだ

お互いの行き場のない感情をお互いに吐き出せる場がほしかっただけ

オサムの家では夜通し話をしたり、小さい頃のように森で遊んだりしながら過ごしていた

「あたしたちはそんなふうに過ごせればよかったの。母親を失ったあたしの気持ちを誰よりも理解してくれるのは両親がいないオサムだって思ってたから。だって、目の前で両親が死んでいくのを見たのよ。それって、そんなのってあんまりじゃない。」

そうだ。

誰もが耳を疑うようなそんな作り話みたいに話、現実にあったらきっと当事者は壊れてしまうだろう。

可哀想。

口々に誰もが言っていた

そうだ。可哀想に決まっている。

自分よりもひどい目にあってきたのだから。


「可哀想……。」

オサムは可哀想。

だから優しくしなくては

お世話をしてあげなくては

話を聞いてあげなくては

一緒にいてあげなくては


「だって、そうしてあげなきゃダメだったんだもの。オサムはあたしより可哀想なんだから。」

自分の声にハッとする


自分よりも可哀想で、弱くて、何もかもを失ったオサム。

あなたといてホッとできたのは、そんなあなたを見てあたしが優越感に浸ってたから。

オサムに比べればあたしは不幸なんかじゃない


「桃は残酷だね」

オサムの声がした気がして振りかえる

突然立ち上がってあたりを見回したのに神崎が驚いた様子で声をかけるが聞こえない

「もも、どうしたの?」

「自分がオサムより可哀想じゃないって思いたかっただけなんだ。同情すら、してなかったんだ。ずっと利用してただけなんだ……」


『そうして彼は絶望する』

今度は頭のなかで何かがそう言う

自分の声だ

なんてひどい声

「……桃?」

今度は、神崎の声だ

でも遠い


「……知ってたのよ。オサムはあたしがいなくなったらどうなるか。オサムよりも不幸じゃないって言い聞かせて。」

そうだ。知っていた。

だから逃げた。

もう、嫌になった。

怖くなった。

疲れてしまった。

「……あたし、オサムを見殺しにしたのね。あたしが殺したんだ……!」


『あたしは全部知っててやった』

頭に響く自分の声

「桃!しっかりして!」

肩を揺すられた

神崎はつかんでいた肩をそっとはなす

「……どうしよう、あたし。オサムを殺したんだ……」

焦点が合わない

過去の蓋をあけたくなかったのはオサムの死へのショックや、彼との日々を思い出したくなかったのではない。

わかっていてやった自分が彼を自殺に追い込んだことへの恐怖や事実を認めたくなかったからだった。

あまりにも利己的な自分に笑が込み上げてくる

過去を思い出したくないから?
前に進めない?

オサムが聞いたらどう思うだろう。

あの垂れがちな目を細めて、冷徹な笑みを浮かべて嘲笑うのだろうか

それとも、興味をなくしたように軽蔑の眼差しを向けるだろうか

彼は全て知っていたのだ
あたしの思いも、考えもすべて


なんて愚かだ
人を利用して、人の命を奪っておきながらのうのうと生きている自分

「…………」

体に力が入らない

体温もひどく下がっている


カタカタと震え始めたのが分かり突然、肩と頭を抱え込まれるようにして抱き締められた

そして子どもをあやすかのように背中をさすられる

「桃。俺の声聞こえてる……?」

小さく頷いた

大きな手のひらに撫でられる背中がじんわりとあたたかい

「君の過去にあったことがどれ程のものだったのか、分からない。でも町中で噂に残るほど大きな事件だったんだよね。でも渦中にいるものは大きな事件でした、で片付けられるほど簡単なものではない。」

神崎はゆっくりと話す

「前に桃が言ったよね、人はいつか死ぬって。全くその通りだよ。人だけじゃない、この世にあるものはいつか老いて、朽ちて、消えていく。それが普通のことなんだ。」

さすられているところから体温を取り戻していく。

「だから、俺はオサムが死を選んだことはいわゆる普通のことなんだと思うよ。」

「……人が死んでるのよ。自殺が普通なんて考えられない。」

「まぁ、聞いてよ。オサムはさ、聞くところの生い立ちからして、もはや彼の寿命と運命が決まっていたんだと思う。よく、20数年間生きてこれたよ。普通はきっともっと早々にどこかで力尽きている。でもそうじゃなかったのはそれは桃のお陰。」

「彼を理解して、側にいようとしてくれる人なんて、君をのぞけば誰もいやしないよ。大雑把な言い方すると、面倒事に巻き込まれなくないってのが町の人の本心。それでみんなはうまい具合に君とオサムを……利用したんだよ。」

利用という言葉にズキリと胸がいたんだ

「今こうして桃が自分で自分を攻め始めているのだって、利用していた人たちはきっとなんにも考えていなかったと思う。中には気づいていてもなおそうしていた人間がいるかもしれないけど。」

「……利用したのはあたしの方よ。オサムを見下してたの。自分よりも可哀想な子って。」

「そんなこと言ったら、俺は?この不幸体質も可哀想って思うから今日まで一緒にいてくれたの?すべて同情?」

神崎と一緒にいたのは同情?

「……違う。」

始めはそんな体質を信じていなかったのにこうして一緒にいるのは神崎の心から笑った本当の笑顔が好きだからだ。

心底楽しそうに笑ったときにふと見せる笑顔。

他愛のないはなしをする時間も好きだ

二人で話をしていると時間があっという間に過ぎていく

そうした会話の中のふとした長い沈黙も大切な時間だった

「神崎と一緒にいる時間が楽しいって思えるからいた。」

そう言うと神崎は満足そうにこちらを見下ろして言った

「ほらね。人はね、相手が持っていて自分が持っていないものに惹かれるんだって。長く付き合えるってことは良いことも悪いことも含めて相手が大事だったり、大好きだったりするっていうこと。」

「同情は悪いことじゃないよ。自分と相手を比べることもそう。ほんとうにしちゃいけないのは、相手に自分が感じたことと同じくらい嫌で、悲しい思いをさせることだよ。この体質の俺が言うなってはなしだけどね。」

「……それでも、そうだとしても。あたしがオサムの引き金を弾いたのよ。それは変わらない。」

神崎はゆっくりと体を離すと少し顔を近づけ柔らかい表情で答える

「だとしたら、桃はそれを忘れないことがオサムへの償い……になるんじゃない?さっきも言ったけど、彼はもうとっくに力尽きていたんだ。そして自分で死を選んだ。厳しいこと言うようだけど、それは誰のせいにもできないよ。結局、始まりも終わりも人間は生きてる以上自分で選択していかなきゃいけないんだからね。」


諭すような瞳がこちらをまっすぐ向いている

「そう考えるといろんな事が決まってるように思えて癪にさわるんだよね。つまりは、神様が決めたレールを一生抗いながら生きていくってこと。」

そうだ。

ほんとうにそうだ。

神崎の言うとおりだと思いたい。

今はそう思うことにしたい。

「なんだか、あたしたちってものすごいカッコ悪いのね。」

生きていくことに格好なんて大切じゃないのだ

抗い、もがきながらも生きる

そのことがほんとうに大切なのだ

「そう。俺たちってものすごいカッコ悪いよ。でも、そういうやつが一番格好いいんだよ。それに、誰かを変えようなんて大それたことしようなんて無理な話。みんな違ってるからそれでいいんだと思う。だってねぇ、こんな深刻な話して桃に説教じみたことしておいて俺の頭のなか今桃にチューしたいなぁってずっと考えてんだから。」

そういうとニコニコしながら神崎はぐっと顔を近づけてきた

「何いってんの!」

慌てて両手で口許を隠すとそのまま手の甲に軽く唇で触れられた

不意打ちに両手を反射的に口許から離すと、がら空きになったところへ神崎が素早く動く

顔を背ける間もなく唇が軽く触れる

唖然としている間、啄むようにして角度を変えながらなんども触れられた

どれくらいそうされていたのだろうか

身動きが全く取れなかった


そのうち、ちゅ と音をたてて名残惜しそうに離れると呆けている自分を見て神崎が満足そうに微笑む

「ね?だから言ったでしょ?その人がほんとうに考えてることなんて、だれにもわからないし誰にも変えられないんだよ。」

「な、なにすんの!!せっかくあんたのこと見直しかけてたのに!!」

「何するのって、もうお互いの気持ちは知ってるじゃない。何を今さら。これでも自制した方だけど……?じゃなきゃここで押し倒してる。俺、寝てないからすごいよ。」

「何が!!?」

「何がってそんな野暮なこと言わせる?要するにが……」

「あー!いいです!!言わなくても何となく分かりますから!はぁ、どうして神崎と話をしてるとこうなるのかな。」

ため息をつきつつも、なんとなく気持ちが軽くなっているのを感じた

こんな時だからこそ今の気持ちをそのまま伝えたい、そう思った

「……神崎、ありがとう。今すごく気持ちが楽になったような気がするの。誰かに話して懺悔を聞いてもらって、少し救われた。キス以外は。ありがとう。」

こんな風にまっすぐに気持ちを言葉で表に出すことが今までにあっただろうか。

照れくさはあるが、今はほんとうに目の前の男に感謝をしている

神崎はふわりと笑うと どういたしまして と短く答えた。



その後、一緒に眠ってほしいと渋る神崎を無理矢理寝室に押し込み、ハイジェットにエンジンをかけて自宅へ向けて走らせた

父がひどく心配した様子で店の前でうろうろとしている様子を見て、再び心がほわりと暖かくなり、なんだか泣きたくなってきた

自分ひとりで生きているつもりでいたが、大間違いだった

あたしには家族がいる、師がいる、そして友人がいる。関わったすべての人のおかげで自分は今ここに生かされている。

もっと早くに、それに気付いていればオサムを救えただろうか

いや、その考えこそが間違いなのだ

車を降りて、父の顔を見たとたんに涙腺が壊れてしまったかのように次から次へと涙があふれてきた

子どものようにワンワンと声をあげてなく自分を見た父は何も言わず、大きくて武骨な手でぐしゃぐしゃとかき混ぜるように頭を撫でてくれた

そうだ……この手がいつもあたしを助けてくれた


こういう時に、父は多くを言わず、多くを聞かず、黙ってただただ側にいてくれた

しゃくりあげながら父に今までのことをはなそうとするが上手く言葉としてつながらなかった

「母ちゃんも心配してるぞ。」

そういって店から奥に通された。




鮨屋の明かりがついている。

今夜は暖簾を出していないようだった。

客は崎田ひとりだった。源次郎が刺身を切ってさらに盛り付けていく

「ここんとこ、物騒な事が続いてるなぁ。また霧が丘か。」

お猪口には並々と酒が注がれている

「……おう、そのことなんだがな。若い陶芸家の野郎が越してきただろ。」

「神崎くんとことか?」

「そうそう。そいつな、最初は桃のまわりをふらふらしやがるケツの軽い奴だと思ってたんだがな、何度かうちの店に来ては新作だなんだと徳利やらおちょこやら皿だなんだを置いていきやがるんだよ。」

「ほー。いや、源さん。彼はそんなに自分の作品を安売りするようなやつじゃありませんよ。まして他人にあげるだなんてあまり聞いたことがない。」

「そうなのか?俺ぁあんたらの言う芸術うんぬんはからっきしだからな。ただのいけすかねぇ野郎だと思ってたんだが、これまた話してみると案外性根のいいやつでな。」

「桃には気軽に受けとるもんじゃねぇなんて怒られちまうし、この間はイタリアのなんたらってとこから届いたこいつで魚を捌いてたらよ、鬼みてぇな顔して怒鳴られたんだよ。」

「おいおい、源さんこのランプ。ルッツの作品だろ?なんだ、あいつ桃にこんなもの送ってたのか。」

「なんだかわかんねーが、価値のあるものらしいぞ。」

「ルッツは桃に何か言ってたんですかい?」

「いや、一緒に来てた手紙は真面目な顔で見てたが……」

源次郎は手をとめて自分のお猪口を煽る

すぐに崎田がからになったお猪口に酒を注ぐ

「それでな、その土野郎なんだがな。前にどっかで会ったことがあるような気がしてならねぇんだよ。」

「ほう。神崎くんが。」

「波奈は医者を目指してたんだが、そんときに見てたっつー患者がよ、確か神崎っつー子どもだったんだよな。4歳くらいだったか……。」

「まさか。」

「俺もな、記憶違いだと思ってたんだが、この間見つけたんだよ、ほら。」

そういうと1枚の写真をとりだし、カウンターの上においた。

そこには研修医として白衣を着た桃の母親の波奈とベッドに座ったあまり表情のない神崎にそっくりの男の子が写っていた。

「……間違いない、神崎くんだ。」

「やっぱりな。このときには桃がもう波奈の腹にいてな、でもそんなことお構いなしに、毎日この子どものために走り回ってたんだよ。」

笑顔の波奈とは対照的で虚ろな表情でこちらを見る男の子はまさに幼いときの神崎だ。

始めて大京グループのパーティーに呼ばれたときの事を思い出す。

実年齢よりも一回り小さく見える体が頼りなく、その虚ろな目は常に大人たちの表情を伺っているように見えた。

体が弱く、長い間の病院生活のせいだと言っていた神崎の父はその無表情の少年に挨拶を命じた。

少年は言われるまま前に出て、笑顔を張り付け機械的な挨拶をする。

子どもらしくない、というよりも人間らしさがない、そう感じた。
少年の姿は極端に感情が少なかった。

「俺もこっそり波奈の勤める大学病院に行ったことがあってな、1度だけこいつと会ったことがあるんだが無表情で無口でなに考えてんだかわかんねぇよえなやつだったなぁ。それでも波奈の話じゃ、最近よく笑うようになったって。あいつと過ごすようになってから少しずつあの土野郎も変わってきたんだと。」

「そうだったのか……。しかし、驚きだね。もうとっくの前に神崎くんと桃は出会っていたなんてね。」

「あいつらにはこの事は話してねぇ。運命だなんだって簡単にくっつかれちゃたまんねぇからな。」

そういうと再びお猪口をぐいと煽る

「源さん。あいつのこと気に入ってるんだろ?」

崎田が笑いながら言うと、源次郎は眉間のシワをいっそう深めた

「ふん。そんなんじゃねぇよ。あんなケツの軽そうな野郎。」

「素直じゃねぇなぁ。」

「うるせぇ。」

崎田はカラカラと笑ってふと真顔になった

「……ところで、桃は大丈夫だったかい?」

源次郎はさらに眉間を寄せてお猪口を見つめながら言う

「昼頃に帰ってくるなりワンワン泣いて大騒ぎだった。何があったかは聞いてねぇが、4年前のことを思い出したのかもしれねぇ。」

「そうか。よりによってあの場所で2度も人が死ぬなんてな。……だが、4年前のことは誰のせいでもない。」

「あぁ。……波奈が死んでから特に思春期の桃は手がつけられなかったがな、崖の家の野郎には正直なところ桃のことで俺も救われてたんだと思う。あのときはもとに戻れないとこまでいっちまうかと思ったくらいだ。」

「桃とオサムのふたりでたまにうちの工房にも来てたからなぁ。桃は親父の愚痴ばっかりこぼしてたぞ。」

崎田は盛り付けられた刺し身に箸を伸ばす。

「けど大体が源さんを心配してるような話だったなぁ。なんだかんだ言ってもあんたら親子の素直じゃないとこは脈々と受け継がれてんだな。」

「ったりめーだ。俺の娘だぞ。ふにゃふにゃしたこんにゃくみてぇな奴等とは違うんだよ。」

「源さんよ、そこは素直に喜べよ。まったくほんとに素直じゃねぇなぁ。」

鮨屋源の灯りは遅くまでついていた


翌日、桃は目を覚ますとこめかみ付近からのガンガンとした鈍い頭痛を感じた。

時計は11時を回っている。

今週は土日で休みを貰っていたため、日曜日は久しぶりにゆっくりしようと思い予定は入れていなかった。

昨日、泣きじゃくる自分と部屋まで着いてきてくれた父。

落ち着いたところで忘れていた眠気が襲ってきてベッドにた折れ込むと、父が布団をかけてくれた。

風邪で寝込んだ時や、こんなふうに落ち込んで帰ってきた日は敏感にキャッチしてほどよい距離感をとりながらもあれこれと様子を見に来たりするのが父だった。

昨日はベッドに入った時点でそこからぷっつり記憶が途切れている

久しぶりに父の前であんなに泣いた

責任や罪悪感からがんじがらめになっていた自分が少しだけゆるされたような気がした

そうして父の顔を見たとたんに押さえていたものがどっと込み上げてきた

前に進める気がする

そう思えたのもきっと神崎のお陰だろう

メールをしてみようかとふと思った

ケータイを手に取ると画面に着信履歴が一件残っていた。

番号からして国際電話だろう

となると、思い当たる人物はひとりしかいない

返事を先伸ばしにしていたため、催促の電話がかかってきたのかもしれないと思い、画面をタップし、掛けなおす。

そこではたと気付く

日本とイタリアとでは8時間の時差がある。
日本の方が進んでいるので、逆算するとイタリアは現在夜中の3時だ。

そんな時間に電話がなってしまえば迷惑なことこの上ない。

急いで電話を切ろうとすると、呼び出し音が消え、かわりにけたたましい音楽と雑音が混じったものすごい音が聞こえてきた。

「Ciao? Forse cercavi Momo?(もしもし?もしかして、桃?)」

そう話す声の主は聞き覚えのある甲高い声だった

「ミシェル!?あれ、なんで?ルッツ先生の携帯でしょ?なんであんたが出てるのさ。」

「失礼ね!あんたがなかなか返事を寄越さないからこうしてあたしが寝ずの番をして電話を待ってやってたんでしょうが!まったく、久しぶりに声が聞けたと思ったらその言いぐさはなに?」

「寝ずの番って、ミシェル、あんたクラブでどんちゃんやってるだけでしょうが。」

「そうよ!これから男どもをひっかけて朝まで騒ぐんだから。で?桃、あんた来るの?来ないの?」

急に話題が変わりなんのことを聞かれているかわからなかったが、ミシェルも落ち着いて話をするために場所を変えてくれたようで、後ろの騒音が聞こえなくなった。

「聞いたんでしょ?先生が、ぎっくり腰でしばらくは身動きが取れないから個展の手伝いをしてほしいって。」

「は?」

「なにとぼけてるのよ。だからあたしがこうして寝ずの番をしてあんたからの返事を待ってたんじゃないの。」

「いやいやいや、待ってよ。ルッツ先生から連絡がきて、またイタリアに来て勉強し直してみないかって提案されたのは事実だけど……」

「あたしもリディアもそれぞれに仕事があってなかなか先生のところまで手が回らないのよ。それに、大事な作業はほとんど自分でやるつもりでいらっしゃるみたいであたしたちには触らせてくれないの。まったく、弟子は桃ひとりじゃないっていうのに!」

「はぁ。」

「なによその気の抜けた声は。それで、この間冗談半分で桃を日本から呼び戻しましょうか?っていったら本気にしちゃってさ。あんたなら先生の個展の大事な工程のところを任せられるみたいよ。」

「いや、あのさ」

「なによ。」

「なによじゃないでしょ!?あんたはまたそうやってホイホイあることないこと言って!あたしだってこっちで……」

仕事があるのだと言いたかったが、何故か言葉が続かなかった。

「桃、あんた賞を取ったって?先生から聞いたわよ。でも、今のあんた正直なところ行き詰まって身動きがとれなくなってるんじゃない?」

このミシェルという派手なイタリア女はいつもこういう時に鋭いところを突いてくる。

「1度高みに登り詰めるとさらにその上を目指すのって血を吐くほどの思いをしないといけなくなるの。あたしも経験済みよ。」

「ち、血はさすがに……」

「あら?じゃあ、とりあえず一回ぽっきりの経験ができたから満足ってことね。それなら日本でぬくぬくしてるといいわ。」

今回、自分で自分を縛っていたことから抜け出すことができた。
それは、やっと、前に進めるようになったということ。

前の自分と今の自分では比べ物にならないくらいいろんな事に前向きになれる気がした

昨日の彼の言葉が頭によぎる

「……期間は、どれくらい?」

「そうね、だいたい半年ってとこかしら?もしかしたらそれ以上になるかもしれないわ。桃、やるからには」

「ミシェル、あんた日本のつまみが好きだったわよね。」

「え?……ええ。好きよ、特にスモークサーモンのジャーキーみたいなやつ。あれは絶品よ。」

「……わかった。まだ、崎田さんになにも相談してないから明日にはっていうのは無理だけどなるべく早く返事をするから。準備ができたらサケトバをスーツケースに入るだけ持ってくわ。」


「そう。待ってるわよ!あんたもサケトバも。あ、それと、今回のことはルッツ先生から崎田にも連絡が行ってるらしいから、あとはあんたの返事待ちだったってことよ。それだけ伝えておくわ。じゃあね!」

「え!?なにそれ!そんなの聞いてな……」

電話はすでに切れていた

崎田さん、何も言ってなかったじゃない。

もしかしてあたしじゃ役に立たなかったから?
だからまたイタリアに行って修行してこいってこと?


崎田とルッツはこの世界では人間国宝にも等しい人物だ。その二人の仲の良さは桃も知っている。

通じていてもおかしくはないが、崎田が自分に秘密でそんな大事な話をすすめてしまうだろうか


休みを貰っていたが、まだ頭痛の残る頭を押さえながら起き上がりのろのろと着替え始めた

「お父ちゃん、あたしちょっと崎田さんとこ行ってくるから。」

父はお昼時の観光客に寿司を握っていた

「なんだ、もうからだはいいのか?」
「うん。久しぶりにピーピー泣いたらスッキリした。じゃ、いってくるね。」


そう言って店から出ていく。

空はカラリと晴れていて寒い日だった。

ピンク色の愛車にエンジンをつけると冷たいハンドルをグッと握っていた車を発車させた


休日の今日は、海辺を歩く観光客の姿がちらほらと見える。
漁協は休みなので、船着き場はがらんとしているが、近くにある干物を売る店や、地魚料理の店の並ぶ広い駐車には観光バスが3台ほどとまっていた。

船着き場を通りすぎるときに颯太の姿を探すが、休みの今日はもちろん見当たらず、あれから連絡をとっていないことを思い出す。

堤防を過ぎると海が太陽の光を受けてキラキラと輝いているのが見えてきた。



ここ数日でほんとにいろんな事があった。

そして、過去との和解のきっかけもつかめた

あらためて神崎の姿と言葉を思い出すとやや逆立っていた気持ちが、なだらかになっていくのを感じた


「お互いの気持ちはわかってるんだから」

そう言われた事を思い出し、もうこれ以上は誤魔化す必要も隠す必要もないのだと思った

かくれんぼ

かくれんぼ

小さな漁港のある町に住むガラス職人を目指す荒井 桃(あらい もも)。自らの工房を持つ夢を叶えるため有名な職人崎田 元(さきた はじめ)に弟子入りをする。ガラスにひたむきな日々を送っていた桃だったが、ふらりと崖の上の空き家に越してきた陶芸家 神崎 千晶(かんざき ちあき)によってその日々は激変していく。鍵をかけていたはずの過去が次第に開いていくとき、静かな町に起きる事件。 「ももは人の死に慣れすぎた……」 人が背負う一生のうちの罪はどれほどあるのか。静かで冷たい港町の物語。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-10

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  1. プロローグ わたしが思うに
  2. 1火傷
  3. 2 晩酌
  4. 3 古傷
  5. 4 出会
  6. 5 波間
  7. 6 色彩
  8. 7 漁火
  9. 8 異変
  10. 9 幽霊
  11. 10 足跡
  12. 11 決断