いちご虫の吐く血

なんだか家に帰りたくなかった“なんだか”を根拠にできる、ゆるくパンツを穿いてる暇のない大学生活も終わりが近づいていると思うと、余計に家に帰りたくない、そんな思考を繰り返している内に日付が二ケタになったらしい。最近咳が激しい、喉も痛ければ鼻水のせいでろくに息もできない、でもどこかの器官が呼吸をしているから生きているのだけど脳みそが鉛になったように重い。
新宿駅東口を歩く。お腹が空いた、喉も渇いた、子どもみたいに本能的欲求ばかりが独り言になる。そういえばお金はないし、財布も胃も荒れ果てて、バランス良く物を食べられる状態ではない。駅前はコンビニがない、食べられそうなのは踏みつけられて間もない潤いをもったガムくらいか、もっと歩けばなにかがあるかもしれないのだけれど、どこまでも先まで行くのが億劫……。
あ、信号を渡った所に果物屋さんがある。そこではパインやスイカなどの果物を割りばしに刺して売っている。果物なら食べたい、喉も潤せる、それにお金も足りるだろう。初めて行く。ミーハーな感じというか中国人の観光客みたいだから遠慮していたのだが、今はそれどころではないので急いで信号を渡った。
「いらっしゃーい。もう店片づけるからどれでも百円でいいよ」
「うーん、じゃあ一番高いイチゴがいい」
「やっぱそう来たかぁ? はい、百円ね」
 元値が二百五十円もするんだから即決だった。四つのイチゴが割りばしに刺されていて、他の果物より可愛そうに思えてしまう、ショートケーキにぷるんと乗ったイチゴに生まれたかったはずでしょうに、なんだこれは中国の処刑か。さっそく一口頬張る、見目より新鮮で薄い皮が歯に破られて静かに弾けた。唇からこぼれ出るほど果汁がでてくる、おいしい。
イチゴにしゃぶりつきながら歩く。大学の一年生の頃はアルバイトしかしていなっかた、変なバイトも良いバイトもお金を手にする喜びに溺れる、週七日で働いていたなんて信じられないなんて体力だろう。ふとアルタビルの象徴といえる大きな映像板を見上げて思う。あの時、洋服を買いたい放題、髪の色もしょっちゅう変えて、人と遊ばず承認欲求を満たしてくてるペニスとだけ遊んで、際限ない物欲を街にぶつけて自分に一月分の給料十数万円をかけていたなんて贅沢だったなと。でも、いつからか何もしないでただ眠る日が欲しくなった。自分の時間なんて高尚な物でもない、ただ眠るだけの、意識を自分から離す日が必要になった。
何かつまらないことを考えながら歩いてたから、あっという間に脚が重くなってきた。煙草を吸おうと、再び信号を戻り駅前の喫煙所に向かった。地獄から脱出したばかりのサラリーマンや糸のように細い金髪のお姉さん、人面蜘蛛と蓮を腕に這わせたお兄さん、みんな疲れている、そんな、おどろおどろしい芥だまりのような喫煙所で休む。
鼻づまりのせいで煙草の味が全く分らない。口の中を凝らすが、ますます本来の甘味から遠ざかり、フィルターの商業的な味が舌を刺激する。こうなってみると何のために煙草を吸っているのかますます分らない。すぐに公共灰皿で火を揉み消し、浅く広がる階段に腰をかけて、夏のせいでなかなか始まらない夜の空を見上げた。ビルを後ろから照らす夕日がそろそろ青くなってしまいそうだった。
お金はない、体もだるい。梅雨の時期独特の灰色の淡い湯気が、人々の脇をつたって街全体を眩暈のように包んでいる。そんな日は、特に誰が悪いという訳でもないのに、ひたすら誰でも憎めてしまう。理不尽に頭の中に存在する人を、ねちねち殺す。現実世界で尊ばれる反省・自己犠牲なんて忘れて、頭の中にいるだけで他人を有罪にできる世界。
そんなことして、脳みそが、こぼれ弾でぐちょぐちょになる度に私は幸せ者だと思う。

無差別通り魔殺人を起す人にはなれないと気付く。なぜだろう私が殺した人々は表情を持つ、苦汁がべっとり染み込んでこれはこれは申し訳なくなるほどの表情の持ち主は、私の周りで生きている友人であり恋人であり家族だ。馴染みの笑顔が潰れたイチゴ、さっき食べたように溢れ出るほど赤くなって、喉が焼かれるタバコと酒で焼けた鼻腔にすっぱい死臭が沁みて目が覚める。あぁ、怖いと。
私の頭で顔を持つのは、知っている人だけ、彼らだけで狭い脳内がいっぱい埋め尽くされる幸せ、通り魔とは違って、知らない人を殺す前に知っている人を殺して怖くなる。もちろん私は一般的なとてもいい人だから、知人が血見泥、けちょんけちょんの内臓地獄になって苦しんでいる光景を思い浮べれば気持ちが悪くなってしまう。
通り魔は孤独であるらしいの、事件プロファイリングを読んだら、だいたいの犯人が孤独だったと言っていた幼少期のトラウマ云々。
ふと顔を上げるとあたりが暗くなり始めて、サラリーマンやらお姉ちゃんお兄ちゃんがごわごわ溢れて、信号がパンクしそうになっていた。こういう知らない人を殺しても面白くない、見知らぬ人がこの瞬間に大量に死んで傷ついても私は何も知らないから、関係性が脳内殺人を価値だ。
平日昼間の新宿東口が好きだ。休日は一日嫌い、平日の夜は怖くて歩きたくない、疎外感と没落がある。昼間は魔法が解けたシンデレラが俯いて早歩きし、戦死した男たちが戦争写真さながらに骸を道端に晒している。街全体がお祭りの後のようだ、森のように立ち並ぶビルの提灯が目立たなくなれば、それは朝。駅に近い方は平日でも活気づいているが、歌舞伎町のゲートに入れば夜に向かって皆歩き、寝て、お金を稼いでいるだけ。ここは歌舞伎町ではないが、たった今スカートの中を覗き込んできたサラリーマン、私がただの淫乱だと知っても膣壁さえあれば一応勃起はするのだ、その先はないかもしれないけれど。
白いモヤが街全体にかかっている時がある。目に染みると痛くて、原色だらけの歌舞伎町をじゅわじゅわと湿らせる、なんだ、ずっと向こうのビルから出てきたオッサンの幸せな精液のせいか。なんてファンタジーが真な気がしてならない。歌舞伎町、新宿の東口はみんなの物になって欲しくないなと思う。理論上は公共の物だが。いつまでたっても、たった一人の欲望、それも血肉の味がする方に残酷な程忠実な街でいてほしい。だから休日のこの街が嫌いだ。パンツを堂々と覗く人がいなくなってしまう。
私の脳はまだ喋る。関係があるからこそ傷つけ合うのは否めない、それは価値観の違いだろう、人を傷つけることが好きな人はそうするよう仕向けるだろうし、自分を守ることに必死な人は完璧を求めてそうする。
そんなことはどうでも良い、私念一つ一つを探っていたらキリがない、頭が痛くなってきて鞄を置いた膝に突っ伏す。瞼を閉じて湿気でうねる髪を掻き上げてみた。梅雨の曇りの日は、目が眩んで視覚が鈍くなる分、鼻に入る初夏の匂いに敏感、青臭い、あぁ夏がくる、辛いのは今だけだと思うことにした。
 いい加減、家に帰ろう。鏡すら見ていない、服はおろか下着だって何日同じ物を着ているのか覚えていない。わざわざ満員の電車に乗って新興住宅地の田舎に帰ることは阿保らしさの極みに思えるが、管理されている身分で自分勝手なことばかりできない。それに四方八方に人が居て、常に誰かが目につくから疲れるのかもしれない。帰るしかない、何かが良くなるかもしれない。重低音が響く人の群れを掻きわけて、地下の駅に続く階段を蝸牛はゆっくり這う。
それからどう帰ってきたのかは覚えていない。きっと錆ついたロープウェイになって、軋みながら帰ってきたのだろう。

 玄関のドアを開けると、すっかり暗くなった外が嘘のように、灯が、私の見たくない部分まで照らしだした。私の家は新宿から一時間の片田舎、埼玉にある。サンダルを脱ごうと身を屈めたら、カメの肌みたくなった膝が目について薄く笑った。部屋の奥からは聞き覚えのないテレビの声が響いてきて落ち着いた、あぁ、今日も日本は平和ですねと。
「ただいま」
 いつもは面倒で“ただいま”なんて言わないけれど、幾日かぶりだから呟く。それに気づいた父が嬉しそうに振りむいた。
「おう! 元気か? ドイツ負けちゃったなぁ」
「ねぇー、残念すぎる」
「オランダとスペインかー、なんだかなぁ。ポルトガルが負かされたから俺はオランダ応援するわ! お前もオランダ応援するだろ?」
 溢れかえった灰皿を持ってトイレから出てきた、トランクス一丁の父が元気良く話かけてきた。昨日、開催中のサッカーワールドカップの準決勝で、ドイツがスペインに負けたのだ。私は十年前くらいからドイツチームが好きだったから、父はからかうように言ったのだ。とは言え、私がドイツを好きなことを覚えてくれていたことが嬉しくて、自然と笑顔がこぼれた。父がポルトガルを応援していたことは知る由もないが。母はリビングにあるソファで、大の字で寝ている、母も下着だ、二人のセックスはとても幸せそうで羨ましい。
 自分の部屋に向かう気持ちは晴れない。だらしなく破滅思考であることを誇りに思う私のくせに、部屋がどうなってしまっているのか不安でしょうがなかった。たしか部屋で食べたヨーグルト、あれはきっと腐っているのだろう……アイスのカップもあったし。
部屋のノブを開けようとしたら、ドアの隙間からもくもくと臭ってくる塩辛い腐臭に顔をしかめた。意を決してノブを下げてドアを開けて電気をつける。
「ぅっ」
 驚いて体が固まった、瞬間に恐怖が私を支配した、それはトラウマと言えるほど、生理的に耐えがたいものだった。
その場に立っていられず、幾日ぶりにやっと帰ってきた部屋にも関わらず、何の未練もなく弾かれるように部屋から出てドアを閉めた。頭の中には、ただ一色“ヤツらを殺さなくては”残酷だとか考える間もなく、憎き浮浪者たちを塵ほども残さず殺してやることに全てを懸ける覚はできた。
 再び玄関までよろよろ歩き、自分でかけた鍵を解く。まだ温かいサドルに跨って自転車を夜道に押しこんだ。初夏の夜は、冷蔵庫に入れ忘れたコーヒーゼリーの中に閉じ込められたような気がする、と、小さい頃から思っていたが、頭の中にあるのはヤツらを殺すことだけの今の私には、そんな風情を味わう余裕がない。この道は変質者が多いとか、隣を高級改造車が滑っていったなんて見えていない、家の近くのディスカウントショップの殺虫剤コーナーしか見えていない。私の部屋には本棚とベッドしかない、から、大きく散らかることはないのだけれど、ゴミが多い。捨てそびれた生ゴミや紙、その他もろもろゴミが占める割合がほとんどである。あと少しの化粧品と洋服がベッドの上に置いてある。
そのまま真っ直ぐ進み、お目当てのディスカウントショップに着いた。もうきっと二十三時をまわっているのに、やたらと人が多くて、それも駐車場に座りこんでいる不良たちがわんさか湧いて、駐輪できない。
更年期のおばさんみたくイライラする、いつもはそんなことないのに。唇の下に溜まった濃い汗を、窪みから舐め上げる。彼らの快感は、一般人に不良だと見てもらうことだ。とんだ変態野郎どもの集まりのくせに皆若い顔をしている。とにかくもう彼らはどうでもいいんだ、そういえばこんな不良は久し振りに見た。こちら埼玉ではいまだ不良の中高生が生きがえる温かさを残しているよう。
体が温まったのか、つまっていた鼻水がとろとろと溶け出し、ティッシュなど持っていない私は葛藤する。が、この機会を逃せば次に鼻水が放出されるか分からない、しょうがないのでサマーニットのカーディガンの裾を伸ばして鼻水を処理した。
 零れた鼻水をスカートで拭きながら、そこらへんに適当に自転車を停めて、殺虫剤売り場に足の指を丸めて早く歩み寄り、会計を済ませる。金欠なのに、こんなことに五百円も使った自分が情けない、と誰かが嘲笑してきた。たしかに賢明な判断ではないな……と思いつつ、くの字に曲がった自転車の籠にスプレーを投げて、ハンドルを元の位置に戻して来た道を戻った。
家に着いた。行きより、悪い環境に頭が慣れたのか、あっという間に家に着いた。自転車を止める時、瞼の裏に店の明かりが焦げ付いていて暗闇に溶けない。
照らし出された真っ白な私の頭に、ヤツらが点々ポツポツと絞り出されて、薄い羽を小刻みに振動させて無限に飛んでいる。嘲笑うかのように狭い部屋を飛び回る。そこに私はいないが、羽を休めようと脈打つ壁に止まるたびに頭の何処か、分からない内側のもっと深いところが痒くなる。もう、十枚の尖らせた爪だけでは事足りないほど痒い、血管にリンプンが流れ込んで侵食されているのではないか。脳みそは白い柱の間でのたうち回り、私は頭を抱えて玄関の前にしゃがみ込んでしまう。目を開けてそれは私のイメージであることを確認するが、自分の寝床がまさにその状況になっていると思うと、居ても経ってもいられなくなってドアを開けて、鬼の形相で部屋に向かった。
ドアを開ける、いいか? 誰かに聞かれた。私は無言で頷く。
 そこには……蛾と小蝿が我がもの顔で我が部屋を占拠している、地獄絵が現実と化していた。怖気ずこちらも殺虫スプレーで対抗する。予めビニールを破り何度か空吹きしたのは、部屋に入った瞬間からヤツらと戦うためだった。それが功を奏した。明かりをつけて戸惑い、定位置から逃げ惑うヤツらに、必死の初弾を浴びさせることに成功した。縦四連射の超強力ジェットスプレーが部屋中を凶悪な霧一色にする。
理科室の薬品を全て一つのビーカーに混ぜたような、不健康で無機質な苦い臭いが部屋に充満する。が、そんな違和感は一瞬で消え失せ、ヤツらが次々に床に落ちていくことが楽しくて仕方なかった。
 私の頭の中にある衝動が爆発した、アレもコレもアイツもコイツもみーんな絶命していく。生きるも死ぬも私の右手にかかっている。頭の中で行う殺戮が現実になった。誰も私を責めない、意気揚揚と笑うヤツらはみんな私に殺されるために存在するのだ。滲みでた脂汗を手で拭い、カーディガンとスカートを脱いで欲望を解放する。
飛び回る蛾と小蝿、実際にはスプレーで噴射しているのだが、大きな鋏で体を雑に切り開いて硫酸を流し込む妄想をしながら、私は殺す。
数週間前に二匹の蛾が交尾をしていたことがあった、お互いの尻を接合し、必死に床を這っている姿を見て寒気がした。私の居住空間というか唯一一人になれる、はたまた裸にもなる自身の生気がべっとりと沁み込んだ部屋で、やけに目の大きな茶色の蛾が生命を営んでいたのだ。寒気はおろか嗚咽を感じた、内蔵が一瞬で固まって目玉が黒く塗りつぶされたような気分になった。
その時私はついつい嘔吐してしまった、滋養をつけようと食べたコンビにで買った油くさい鶏のから揚げが、ずっと胃に蔓延っていて、空気を吐き出すたびに下品な脂が口から洩れていた。そんなだから吐瀉物は、赤茶色した香辛料のきいたゼラチン状の鼻を劈く異臭を放つものだった。
あぁ、これはその時の私が生みだした抜け殻か、体が思い通りに機能しないことが心苦しくて、きっとそのままにしておいたのだろう。その吐瀉物を今になって見てみる、目が悪いので顔を近づけてみると腐った土砂のような臭いがした。小さな穴がたくさん開いている。さらに顔を近づけてみる、片手に殺虫剤を持った私は、虫以外の物が出てこない限り今は最強、リミッターが外れた勇者だ。
穴の正体は蛆虫の通り穴だった、吐瀉物は一週間かけて蛆虫の餌になっていたのだ。おいしそうに群がる蛆たち、これは共存している蛾が私に吐かせた恩恵で、食物連鎖というのか、大量の小蝿と蛾たちとが上手く私を利用して栄えていたのだ。素晴らしい、命というのはこうも強欲なのか、と感心しながら右手のスプレーを当てがい、力いっぱいスプレーを吹きかけた。
飛んでいる虫を殺しても気がつかなかったが、このスプレーは相当過酷な殺戮をする。つるつるの乳白色だった蛆虫が、数秒もすると真っ黒になるのだ、それも燃やされたように表面はかさかさ。まるで焼け焦げた死体のように体の端と端を上につんと上げて、表情なく死んでいく。その穴から何が起こったのか? と、慌てふためいた中で晩餐中だった蛆虫たちも噴き出してきた、吐瀉物は乳白色のタワシみたくなった。マニュアル通りにスプレーを吹き付ける。すると、同じように焦げていった、馬鹿だなと思う。その疑いのない低能さに心底笑う。
再び立ち上がり、あの黒こげになった無様な姿に、平和めいて飛んでいる阿呆どももしてやりたくて私の勢いはどんどん増していく。リビングから聞こえるテレビの音が楽しくて、普段テレビなんて興味がないけれど、鼻もいかれて目も痺れて、唯一正常な耳だけが人間らしい情報を私に与え続けていた。なんて気付く由なし。

何分たったのだろう、いや体感時間はそれ以上だ。もう主顔で飛び回っていたヤツらは一匹もいなくなっていた。
「バーカッ! ざまーみろ」
と言い放つつもりだったが、その前に、喉に血玉が当たって、強く弾けたように咳が出た。
「ゴホッ、ゲ、ゴホっゴホ!」
止まらない、肺胞が潰れた? そのくらい肺から気管支にかけて猛烈に痛い、痛い。冷静になれないくらいの痛さに、床の不潔さなんて考えず座り込み、頭を支えられずに額を着けた。最近風邪気味で咳きこむことが多かったが、そんな終わりの見える柔い咳ではなく、このまま永遠に咳が止まらないのではと思わせるほど、強力な力で私の気管支を圧し付けた。
「ガッ! ゲホっ、う!」
心臓から込みあげてくる、熱い流れに不吉を感じて部屋を飛び出し、トイレに駈け込んだ。いきなり首の表面が痒くなって、一旦上に頭を反らしたらその反動で、おもいっきり喀血した。嘔吐よりもっとさらさらした、金魚すくいのビニール袋を口の中で爆発させたような感覚。こんなに酷く血を吐いたのは初めてだ。便器の中の水が、絞り出されたトマトの苦しみを伝えるために湧きあがってきた。
私は恐怖で泣いた、目はもともとスプレーの影響で大分潤んでいたが、慣れない場所から流れ出る血、口内を満たす鉄の味に、恐ろしくて涙が止まらなかった。
死にたいとしょっちゅう考えるが、いざ死を地肌に感じると、ただただ恐ろしさに身を震わせることしかできなかった。便座に掴まって曲げた膝をマットに押しつける。とたんに今まで自分が行っていたことが、どれだけ残酷で気色の悪いことかと、止めどない自虐の波に飲み込まれた。だいたいマスクもつけず、窓も開けずに連続噴射すればこうなることは必至だろう。喉の粘膜のあちらこちらに、噛み千切られるような激痛が走る。言うなればハブを飲みこんだような、気管支の柔い粘膜にハブがぎりぎり噛み付いてくる。どんな風に死ねるか分からないけれど、きっと死んでしまう、それも皮膚の下が削られることで。なんて恐怖だ! 
自分もあの虫たちのように黒こげになって死んでしまうのか、虫、いや虫の先に見えた大きな傷口に喘ぐ人間の顔が、私を探して背後まで来ている気がしてさらに泣いた。便器に溜まった水が、東尋坊の荒波だったら、私は迷いなく飛び込んでいた、なんてことできるはずない。むしろトイレの暖灯に包まれた安心も涙の成分の中にはある。

「ちょっと、あんた何してるの?」
「ぅあッ! 大丈夫! 大丈夫だから入ってこないで!」
「ほんと? 声おかしいけど……きゃ、きゃあ! なにそれっ?」
さすがに異変を感じたのか母親がトイレに入ってきた。さっきのとおり下着姿、右手には赤い携帯電話が握られている。私の吐いた血だまりをみて相当驚いたらしく、ガラガラの声が楽譜から外れたように高くなっている。すぐに私の肩を持ち叫ぶ。
「ねぇ! どうしたの? もう、だから煙草吸いすぎるなって言ったのに! この馬鹿ッ!」
「ちがうよ、煙草じゃない……ゴホッ、ゲホッ……ホ、風邪がひどくて」
母親は背中をさする。何日ぶりに話したのだろう、そんなことも分らないくらい顔を見せていないのに、帰ってきていきなり心配をかけるなんて。とんだ親不孝者だ。やんわりと背中をさする母、私が咳きこむ度にぽんぽんと背中を叩いて痰の切れを良くしてくれる。親には感謝しているつもりだったけれど、こうして触れられている時が、一番親の温かさを感じる。さっきとは違う涙が、とめどなく流れる。それでも喉は痛い、まだハブはのたうち回っているのか。
ふと頭に浮かんだ光景、弟は喘息持ちで、小さい頃、夜中にしょっちゅう発作を起こしていた。その度に母は飛び起きて弟の背中をさすったり、温かいお茶を用意していた。それを寝たふりしながら見ていた。普段私にだけ鬼のように恐い母が、弟に特別優しくしていることが悲しくて、羨ましくも妬ましくも思った。何も見なかったことにして枕に顔を押しつけるけれど、心に何本の矢が間もなく突き刺さってくる、それを冷静に処理できるほど大人ではなかった。子供ながらの孤独や妬みは母親に殴られる度に増大していった。ついには、発作で苦しむ弟の背中を、わざと強く叩いて咽させ、母が来たら優しくさすって良いお姉さんぶるなんて意地の悪いこともしていた。
この年になっても、なにかを傷つけることが自分の感情表現になっている私は、あの時と何も変わっていない。
「ご、めん……」
「もう、しゃべっちゃダメ。あんた何処に居たのか知らないけど、パパも心配してたのよ? 鰹の一本釣りでもしてるんじゃないって、ハハハ!」
 母は便所の床にべったりと座りこんで、私はいまだに便器に手をかけて血だまりに向かって話している。
「ぐっ、ゲホ、してないよ。ほんと、ごめんなさい」
「あした病院行きな。あんた油っぽい臭いする、風呂入りなさいよ? あーもう超きたない」
 私が喉の痛みと戦っている間、母はずっと父や弟の話、職場の愚痴を楽しそうにしていた。
 それから母に水をもらって、喉の痛みもだいぶ落ち着いたので風呂に入った。家族は全員風呂に入り終えたらしく、色々な種類の毛がゆっくり風呂釜に浮かんでいる。新宿の漫画喫茶の、正方形の潔癖タイル風呂とは違って、赤や黄色や黒の黴が不規則に滲む汚い風呂だ。
母が好んで入れる芸能人ご用達の数万もする高い入浴剤は、バラの花びらが何重にもなってフェロモンを振り撒いたような妖艶な香りがする。久し振りに良い匂いという物を嗅いだ、心なしか鼻のとおりも良くなった気がする。体を動かす度に水が揺すり合う色っぽい音が籠る。母の黒いレースの下着が今になって、美しいなと思った、けれどもう弟も妹もいらないな。
 なぜこんなことになったのか? なんだか全てが上手くいかない気がしたから、生理のせいにする、血を溜めるために体のめぐりが悪くなっていたから。その血だってたった今吐き出してしまったわけで、一週間分も溜まっていないはずだ。もう一度便器に溜まった血を思い出す、水と混ざって、表面は透き通って見えた、生理の血とは違う新鮮な感じだったなと思う。ふと新宿の駅前で考えていたことを思い出した、みんな死ねばいいとか、そんな感じだったっけ。あまり良く覚えていない。
湯気が小窓へ漂って消えていくのをひたすら眺める。新宿を行き交う人々の速さが幻のようだ。……奥歯になにか詰まっている? 舌先を尖らせてみる、うがいをしてみる、しかし一向にとれる気配を見せない。
左奥歯だけ歯茎から浮いている様な、むず痒い感触に耐えられない。最終手段、風呂場に持ち込んだ歯ブラシの毛先で掻き出すことにした。
あと、あと少し……
「ぃたっ!」
強く力を込めすぎて歯茎から血が出てしまった。歯ブラシにはさっきより薄まった血が少量付着している。と、その中に、さすがに血の代償ということもあって奥歯の詰まりの正体が姿を現した。小さくて白い粒? ゴマほど大きくない。何だ、これは検討もつかない。 
とにかく蟠りがとれたのだからよしとしよう、と、また新たな蟠りができてしまったのは言う間でもない。一体これは何だろう?
 考えが煮詰まるにつれて私の体も煮詰まってきた。爽快な、水っぽい汗が頬をつたって気持ちが良い。むくみが溜まった脚を下から上に丁寧にマッサージしてやる。おなかも、早く生理がきて体は軽くるように、とさする。
あ、イチゴの種だ。百円で買えたおいしいイチゴ。ふと、閃いた。歯ブラシについた赤い血、待望の血。それがイチゴの果肉を連想させたのだ。二つの過去が乗った歯ブラシを眺めて考える、なんだか私が食べたのはイチゴじゃなくて、誰かであるかもしれないと。もちろん吐いた血はその誰かのものだったのかと。そんなことを考えると、なんだかんだ笑顔が浮かぶ頭の中の人々に申し訳なくなった、そして虫たちにも。

 
                        

いちご虫の吐く血

いちご虫の吐く血

堕落没落孤独な女子のしどろもどろな独り言を小説にしてしまう試み。 虫が苦手な方、ご注意ください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-10

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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