感想「エドガー・A・ポーの短編小説『ウィリアム・ウィルスン』を読んで、、、謎の良心」
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エドガー・A・ポーの短編小説「ウィリアム・ウィルスン」を読む。この作品は、「バートン紳士雑誌」の1839年10月号に「アッシャー家に崩壊」に引き続き掲載された小説である。今回、自分が使用したテキストは、佐々木直次郎訳による新潮文庫の文庫本である。以前、ある中古本専門店で購入した本で、平成七年十月十五日八十九刷改版と印刷されている。元の所有者がこの本をどのように保管していたのか分からないが、多少、日焼けをしてしまったようで、どのページも微かに茶色くくすんでいる。
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ポーの「ウィリアム・ウィルソン」ような作品の系譜は、文庫本の極めて簡潔な解説によると、後のロバート・ルイス・スティーブンスンの「ジキル博士とハイド氏」ような作品へと通じるということである。二重人格を主題にした物語である。自分は「ジキル博士とハイド氏」も読んだことがあるので、この2つの作品を比較してみたが、第2の人格の描かれ方は全くと言っていい程に異なっている。
「ウィリアム・ウィルソン」の第2の人格は、第1の人格とは全くの別人である(血縁関係も無い)。しかし「ジキル博士とハイド氏」の第2の人格は、第1の人格であるジキル博士が自ら調合した薬を服用した結果の肉体的変化と変身であり、第1の人格と同一人物である。「ウィリアム・ウィルソン」の第2の人格は、第1の人格の意志では動かす事の出来ない超越的な人間として描かれている。しかし「ジキル博士とハイド氏」の第2の人格は、第1の人格の知識と技術が作り出した人間である。「ウィリアム・ウィルソン」の第2の人格は、第1の人格の生活や言動に関して、絶対的な類似の存在として描かれている。しかし「ジキル博士とハイド氏」の第2の人格は、第1の人格の生活や言動に関して対極にある、完全な負の存在として描かれている。「ウィリアム・ウィルスン」の第2の人格は、時間的空間的に同一の場所に第1の人格と存在している。しかし「ジキル博士とハイド氏」の第2の人格は、第1の人格であるジキル博士と共に、時間的空間的に同一の場所に存在することは出来ない。「ウィリアム・ウィルスン」の第2の人格は、エピグラフからも分かるように、第1の人格の良心の顕れである。しかし「ジキル博士とハイド氏」の第2の人格は、第1の人格である高邁なジキル博士の心深くに潜む醜い欲望の顕れである。
(3)
ポーの「ウィリアム・ウィルスン」について書く。この短編小説は、一人称の視点から描かれており、書き手は、自分の名前を「さしあたり、ウィリアム・ウィルスンという名」として、作中に主人公として登場している。つまり、「ウィリアム・ウィルスン」は本名ではないのである。
ウィリアム・ウィルスンは、生涯の十歳から十五歳までを、あるイングランドの村にある、大きな、不恰好な、エリザベス風の建物の学校で過ごすのであるが、そのうちにある一人の生徒の様々な面が、自分と同じであることに気付く。つまり、ある一人の生徒が同じ洗礼名と姓を持っていること、二人が同じ日にこの学校に入学したこと、二人の誕生日が同じ1813年1月19日でること、二人の背丈や体つきや顔立ちが奇妙にさえ似ていること、以上のこれらの事柄を認める。さらには、このもう一人のウィリアム・ウィルスンは、服装や言葉や動作において、自分を完全に模倣していることを認める(後々の参考のため、ウィリアム・ウィルスンともう一人のウィリアム・ウィルスンの異なる点について、一つだけ書く。ウィリアム・ウィルスンはその学校において、さほど年上でない者全部に対して権力を揮っていたのであるが、一人だけ力の及ばない例外の生徒がいた。それがもう一人のウィリアム・ウィルスンであり、良心に関しては、彼の方が優位に立っているのである)。ある晩、ウィリアム・ウィルスンは、自分の懐いている怨恨をもう一人のウィリアム・ウィルスンに嫌というほど思い知らせてやろうと決心して彼の寝室に忍び込むが、彼の寝顔を見たとき、彼の自分に対する様々な共通点や執拗な模倣は、果たして人間の力だけでできることであろうか?という畏怖の念に打たれ、ウィリアム・ウィルスンは学校を去る。
数ヶ月の後、ウィリアム・ウィルスンはイートンの学生になり、学校の規則などものともしない愚行の三ヵ年を送る。ある日の夜更け方、骨牌と酩酊のため狂ったように興奮した乱痴気騒ぎの絶頂の時、その部屋に突如として一人の男が現れ、ずかずかと苛立たしくウィリアム・ウィルスンに歩み寄って腕を掴み、耳元で「ウィリアム・ウィルスン!」とささやく。酔いと興奮はさめ、そのささやきから叱るような厳しい警告を認めた時には、その一人の男はもう部屋にはいない。
その後、オックスフォードに移ったウィリアム・ウィルスンは、そこでも悪行の生活に身をゆだねる。つまり、賭博者の陋劣な術策の達人に成り下がり、仲間の学生連中から金を巻き上げ続けたのである。ある夜、クレンディニングという若い成金の貴族相手のいかさまが頂点に達した時、賭け事が行われた部屋の扉が開けられ、そのための風で部屋の蝋燭の灯が全て消え、突如、真っ暗な部屋の真中に一人の男が現る。そして彼は、ウィリアム・ウィルスンのいかさまを言葉で暴く。暴き終えると、その男はすぐ部屋から出て行く。
イートンやオックスフォードにおいて、悪行の最中に突然として現れた一人の男に関して、ウィリアム・ウィルスンは「彼は何者であるのか?彼は何処から来たのか?彼の目的は何であるのか?」と何度も問う。そして、生涯の十歳から十五歳までを過ごした学校における、もう一人のウィリアム・ウィルスンと同じ人物であると認めざるをえない(P89)。
その後、ローマに移り、ウィリアム・ウィルスンはナポリの公爵ディ・ブロリオの邸宅で開かれた仮面舞踏会に出席する。そこで、年齢のため耄碌したディ・ブロリオの、若く、美しく、浮気な細君を捜し求めて彼女の方へ進み寄った時、その刹那、一人の男がウィリアム・ウィルスンの肩に手を触れ、耳元でささやく。ウィリアム・ウィルスンはその男の何時もの(?)の邪魔に怒り狂い、彼を舞踏室の隣りの小部屋に引きずり込み、剣による決闘を行い、彼を突き殺す。
あるイングランドの村の厳かな学校においては、ウィリアム・ウィルスンは、もう一人のウィリアム・ウィルスンと共に生活をしていた。しかし、イートンやオックスフォードやローマでは、ウィリアム・ウィルスンはもう一人のウィリアム・ウィルスンとは、共に生活をしていない。これらの場所におけるもう一人のウィリアム・ウィルスンの突然の現れ方、その描写は、時間や空間を超越している趣がある。
(4)
この小説のエピグラフから、書き手はこの物語の数々のエピソードともう一人のウィリアム・ウィルスンによって、「良心」というものをテーマにして表現しているように思われる。そのエピグラフにおいて、「良心」を、「恐ろしきもの、妖怪」とも言い表している。もう一人のウィリアム・ウィルスンによって象徴されている「良心」は、例えば、他者の尊厳を守って悪を追及するような検察的な(?)良心ではない。また、例えば、罪に苦しんだり迷ったりする人間をどこまでも弁護するような良心でもない。小説の書き手はその文章中において、もう一人のウィリアム・ウィルスンを、「私の悪魔であり悪の本尊」と表現している(P89)。「気高い性格と尊厳な叡知、一見偏在していて全知全能であるように思われる」とも言い表している(P90)。
ウィリアム・ウィルスンは、極めて厳格なプロテスタントの環境で教育を受けてきたと考えられる(P63)。そして、彼の悪行とエピソードは「飲酒、賭博、姦通」である(もっとも、最後には、ウィリアム・ウィルスンはもう一人のウィリアム・ウィルスンを剣で刺し殺してしまうのだが)。エドガー・A・ポーの短編小説「ウィリアム・ウィルスン」をより良く理解するためには、ポーがこの物語を書いた当時のプロテスタント環境における「飲酒、賭博、姦通」の事情を調べる事が望ましいように思われる。
感想「エドガー・A・ポーの短編小説『ウィリアム・ウィルスン』を読んで、、、謎の良心」