桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君17
続きです。
桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君17
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鷹雄は、駆け足で山をおりた。
一早く仕事を完成させよう。
そして再び、胸を張って、山神姫の前に立つのだ。あなたが禁を犯してまで救ってくださった私が今度は無数の人々の役にたったのだと、そう報告できるように。
薬典寮に戻る途中、ふと気になって、鷹雄は一度洛外の様子を見て回ることにした。薬典寮と陰陽寮が封じ込めに躍起になっている宮中ですら、病は蔓延しているのだ。対処する術のない民草はいったいどうなっているのだろう。空恐ろしくなりながら鷹雄は先を急いだ。
洛外では、治療を受けられない人々が野ざらしにされていた。病の伝染を恐れてのことだろう。あまりにも酷い仕打ちだが、為す術のない民にはやむなきことかもしれない。見渡せば、そこら中に黒い塊が点在している。近づくにつれ、それらが鼻がまがるような悪臭を放っていることがわかった。正体を知り鷹雄は慄然となる。屍の山だった。鷹雄が傍まで行くと、黒い点が風に撒かれたように一斉に飛び立つ。
これはハエか
放置された死体の山に無数のハエが集って黒くみせていたのだ。折り重なった死体は野犬にでも食われたか、はたまた腐り落ちたのか、損壊が激しい。腕や足、目玉までも失くして、黄色い液が流れていた。白い蛆が数多湧き出して死した肉体を好き放題に食い荒らしている。もはや人の形をなしていなかった。
早く何とかしなくては
鷹雄は死体の山に丁寧に手を合わせると、典薬寮のある大内裏へと走った
朱雀門から大内裏に入り、兵部省を横目に見ながら薬典寮を目指す。途中、治部省の役人が鷹雄を呼び止めた。
「おい、お主、薬典寮の医得業生ではないか」
急いでいるところを呼び止められ、苛つきながらも鷹雄は足をとめる。
「さようでございますが、なにか」
「お主があの藤沢康成か」
役人はそわそわした様子で鷹雄を見る。おかしな話だと、鷹雄はいぶかった。いっぱしの役人が一学生の医得業生の名前まで把握しているとは思えない。
「いいえ、私は康成の同僚で桃井鷹雄と申します」
そういうと、役人は急に興味が失せたように白けた顔つきになった。
「なんじゃ、ただの学生か」
「あの、康成がどうかしたのですか」
「なんと、お主、藤沢康成の手柄を知らぬのか」
「手柄?」
言いたくはないが、康成はあまり褒められるような性格ではなかった。
「そうじゃ、つい先ほど春宮様が、その藤沢の調合した薬湯を飲まれたところ、たちどころに回復されたそうじゃ。今朝方までいつお隠れになるやもと思われておったが、今や元気に蹴鞠に興じておられるらしい」
鷹雄は目を見開いた。
「お主薬典寮に所属しておりながら、そんなことも知らんのか」
あきれ顔の役人をおいて、鷹雄は全力疾走で薬典寮へ向かった。
「康成、康成はいるか」
廂に飛び乗り、どかどかと簀子に上がると、康成と頼光が驚いたように振り向いた。
「なんだ、鷹雄。お前どこに行っていたのだ。泥だらけじゃないか」
のんびりと応じたのは頼光だった。
「そんなことより、康成。薬が完成したとはまことか」
問われた康成は顎をあげ、不遜な顔をしている。
「そのとおりじゃ。春宮様はご快癒あそばされた。お前らの努力が無駄になってさぞかし悔しかろうがな…」
皆まで言わせず、鷹雄は座っている康成にがばりと抱き着く。
「ようやったな康成。素晴らしい。これで病を撲滅できる。康成、お前はすごい男だ」
手放しの賛辞に、康成は鼻白み、力の限り抱き着いてくる鷹雄を引きはがした。
「やめよ。暑苦しい。そう締め上げられては、作業が捗らぬ」
「作業?おお、すまなかった。そうだな。たくさん作って大勢の人に飲んでもらわねばな。手伝うぞ、何でも言ってくれ」
洛外の惨状が脳裏をよぎる。道端に打ち捨てられたあの人々を救わなくてはならない。そのためには気の遠くなるほどの膨大な量に薬が必要になるだろう。しかし、康成は、鷹雄の申し出を鼻で笑って一蹴した。
「馬鹿を申すな。あの薬には大層高価な品を大量に用いておるのだ。それに緻密な調合が肝要じゃ。俺以外には決して作れぬ」
「ああ、なるほど。それは大変だ。しかし、お前一人では、限界があるだろう。まず、薬典頭様や医師様の病を直し、薬を調合できる人間を増さねばなるまい。医師様方は長年の経験がおありだ。私のような医得業生には無理でも、経験豊富な医師様方ならすぐに体得されるであろう」
「くどいぞ、鷹雄。俺以外には作れぬと言っておるのだ。それに薬典頭様を治す必要はない」
「治す必要がない。どういうことだ」
そこで康成が、傲岸に宣言した。
「俺が薬典頭だ」
薬典頭といえば薬典寮の最高位であり、位にして従五位下にあたる。宮中への参内も許される貴族の身分だった。驚いて、鷹雄は目顔で頼光に問う。頼光は、困った様子で眉を下げ、口を開いた。
「実は、先の薬典頭様が昨夜お亡くなりになられて、薬典頭の位が空位になっていたのだ。そこへきて、康成がたちどころに春宮様の病を治したから、主上が大層感心なされてね。これからたくさん薬を作らねばならないし、この病の流行が収まるまで、康成が薬典頭の位に就くことになったようだ」
一介の医得業生から一足飛びに薬典頭に任命されるなど、ありえないことだった。今回の流行病がそれほど甚大な被害を招いているという証だろう。
「そういうわけだから、俺はこの医得業生の詰所をでて個室に移る。薬の調合に集中したいのでな。屋敷も内裏のすぐ傍にいただいた。暫くはそっちで調合に専念することになるだろう」
「それで俺が荷造りを手伝っているのだよ」
そう口を挟んだ頼光は、器具を葛籠に入れる作業をしていた。
「ちょっと待て。本当に一人で全てをこなすつもりか。病人は洛中、洛外に溢れているのだぞ。こうしている間にも人はどんどんこと切れているのだ。作る人数を増やして一刻も早く薬を遍く行き届かせなければ」
「ええい、うるさいうるさい。あれは俺にしか作れんと何度言えばわかるのだ。俺は薬典頭だぞ。一介の医得業生風情が俺に命令するな」
「命令など……」
「黙れ、俺はもう行く。頼光、新しい屋敷の場所は知っているな。後からそれを届けてくれ」
尊大に言い放つと、康成はそのまま薬典寮を出て行ってしまった。
「康成は昔から横柄なところがあったが、あの態度はどうにも看過しがたい」
残された頼光が、呆れたように溜息をついた。
「よいではないか。誰にもできぬ薬を作ったのは事実だ」
「まあ、確かにな。これで俺も久々に家に帰ることができる」
頼光が、くっきりと濃いクマの浮かぶ、疲労に満ちた顔をつるりと撫でた。数日間で頼光もげっそりと痩せてしまっていた。
「さて、帰って目が溶けるまで寝るとするか」
これで多くの民が救われる。
鷹雄は胸を撫で下ろした。
しかし、そんな鷹雄の希望は数日のうちに無残に打ち砕かれた
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屋敷にこもった頼光は、高額な費用を支払える大貴族にだけ薬を分け、無辜の民には一行に配ろうとしなかった。
「どういうことだ康成。民に薬が全く届いておらんぞ」
業を煮やした頼光と鷹雄が康成の邸を訪ねた。春宮が快癒してから半月ほどが経っていた。
邸は大層広く、豪奢な造りで、庭にある池には舟遊びに使用される舟が浮かべられていた。
「あの薬を作るには、とても貴重で高価な材料が必要なのだ。そう簡単に手に入るものではないのだ。手に入らねば作りたくとも作れぬのよ」
康成はだらしなく脇息にもたれかかり、昼日中から、酒をあおっていた。
「巷では、この流行病は怨霊の呪いではないかと噂されておる。事実、人を溶かす怨霊が出没しておると聞いた。先だってから検非違使たちが夜回りに駆り出される始末だ」
康成は、頼光の言葉には興味なさげに、それがどうしたと返した。
「その怨霊と病は関係あるまい。病は薬で治る」
「その薬が民に行き渡らないから、このような世迷言が流布するのだ」
「できんものはできん。高価な材料費が払えない者には渡せぬに決まっておるだろ」
「では、その材料とはなんなんだ。教えてくれれば調達できるやもしれん」
鷹雄が問いただしても、康成はのらりくらりと言を左右にして、当を得た回答を避け続ける。
そればかりか、
「この薬は俺が苦労して作ったもの。俺一人のものよ。材料も作り方も誰にも教えることはできん。お前は俺が作ったものに真似て、一儲けしようとしておるのだろう。そんなに教えて欲しくば、ここに大金を詰め」
と吐き捨てるように言った。
「そういえば、あの日。お前が薬の調合に成功した日だ。どこかから戻ってきたお前の恰好は酷かったな」
頼光が、何かを思い出すように目を細める。
「そう、お前は泥に塗れて、切り傷や打ち身を山ほど作って帰ってきた。康成、お前、妙薬の材料を探しに行っていたのであろう。さぞや苦労して手に入れてきたのであろうなあ。どこに行っておったのじゃ。その少し後に、鷹雄も泥まみれで戻ってきよった。鷹雄も薬の材料を探し求めておったのか。二人ともが泥まみれで、まこと驚いた」
指摘された康成が明らかに目を泳がせた。
康成が俺と同じ泥まみれだったと
鷹雄は何か引っかかるものを感じた。
「康成」
鷹雄は低い声で康成の名前を呼んだ。恫喝に近い唸り声だった。
「あの薬の材料と配合を言え」
康成はびくりと身体を震わせるが、すぐに気を取り直し大声をあげた。
「お前たち、誰に向かってものを言っている。俺は従五位下の薬典頭だぞ。いつまで同僚気分でいるつもりだ」
「おい、康成、言葉がすぎるぞ」
「黙れ頼光、医得業生風情が俺を呼び捨てにするな。お前はクビだ。さっさと荷物をまとめて薬典寮を去れ。これは薬典頭の命令だ」
癇癪を起した康成が頼光に杯を投げつける。それが頼光の額を割り、赤い血が一筋したたり落ちた。
鷹雄は立ち上がると、無言で室内の棚や調度の類の中身をひっくり返し始めた。
「おい、何をする」
「言え、材料はなんだ」
鷹雄の迫力い圧され康成の目が泳ぐ。その無意識に向けた視線の先が廂の床だった。
「あそこか」
短く呟くと、鷹雄は確信に満ちた動きで、廂に向かう。数度強く足を打ち付けると、板が割れて、中から白い素焼きの徳利が現れた。山神姫の徳利だった。
「なんと愚かな」
柔和な鷹雄が鬼の形相で康成を怒鳴りつける。
「私のあとをつけたのか。山神姫に何をした。事と次第によっては許さぬ!!」
「私はただ、それを持ってきただけだ」
「盗んだのか。なんということをした」
鷹雄は徳利を拾い上げてそのまま立ち去ろうとする。
「おい待て、どこへいく」
「知れたこと。山神姫にこれをお返しするのだ」
「やめろ。今日は権大納言様と兵部卿宮様にお持ちするのだ。すでにお代も頂いてしまっておる」
「徳利の酒は尽きぬはず。高価な材料など大嘘ではないか。金など何にかかるというのか」
康成はゆでたカエルのように真っ赤になった。
「これは神世のもの。ヒトの世に持ち込んではならぬものなのだ。お前は出世のためにこれを盗んできたのか。そんなにまでして出世したいのか。そのうえ金儲けとは。どこまで性根が腐っているのだ」
口を極めて罵られ、康成が唾を飛ばして反論する。
「何を言う。お前とて、この妙薬の力で命を拾ったではないか。自分だけ助かっておいて、他の者に使うなというのか。お前こそ偽善者ではないか」
康成の言葉に、もともと口が達者でない鷹雄は一瞬口をつぐんでしまう。康成は畳みかけた。
「お前の言うように、洛中洛外で未だ毎日数多の人間が死んでおるのだぞ。これがあればその者たちが助かるのだ。お前は、自分の情人大事さに民を見捨てるのか。そもそもこれは神世のものだと。では、神とはなんだ。人を救うものではないのか。そうであるならば、神のものを用いて何が悪い」
打ち捨てられ、朽ち果てた遺体。疫病を恐れた家族に捨てられ、野で最後の時を待つほかに術のない病人たち。生きながら絶望の中で朽ちていくその姿が眼裏に浮かび、鷹雄の意志を鈍らせた。
「お前が是というなら、これからはその酒をただで民に配ろうではないか。それともお前は、目の前の救えるはずの命を見捨てるのか。お前はそれでも医得業生か。お前の医術はなんのためにあるのだ」
鷹雄の迷いを見透かすように、康成は猫なで声で更に言い募る
「どうだ鷹雄、もはや手の施しようのない者も救えるのだぞ。此度の流行病の被害はすでに人の手でどうにかできる範疇を超えておる。ならば神の力に縋ってもよいだろう。そのための神であろう。神は苦しみ喘ぐ民草をお見捨てになろうか。神ならば、いや神なのだから、この酒を用いてもお許しくださるに違いない。そうでなければ一体神とは何なんだ」
「神とて万能ではない」
「万能でなくとも、病を癒す手立てが、今、ここにあるのだ。神は、己の情人のみを助けて、その他の者は見殺しにするのか。お前は自分さえ助かれば、その奇跡の力を人に分け与えることもせず、さっさと手放してしまうというのか。わかっておるのか、鷹雄。いまや民草を見捨てるのは神ではない。お前だ。自分一人を安全な場所に置いて、正義を振りかざし、その結果、お前こそが無数の死体の山を築くのだ。性根が腐っているのはどっちだ」
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山神姫と苦しみ喘ぐ人々の姿が二重写しになって、鷹雄の脳裏をぐるぐると巡る。凄惨な死にざまの人々の助けを求める無数の腕が、鷹雄の四肢に絡みついた。
見捨てることなどできるわけがない
徳利を持った鷹雄の腕がだらりと下がった。我が意を得たりとばかりに康成がほくそ笑む。
「鷹雄、わかってくれたか。早うその徳利をよこせ」
ああ、と呻いて、鷹雄は康成に顔を向ける。
「度し難い。どうしようもない」
そう言って、鷹雄は徳利を持つ腕を上げた。
「どうしようもない……んなわけあるか、バカ野郎!!」
叫んだのは明らかに光顕だった。
康成はその剣幕に驚き、ひっと短い悲鳴をあげた。
「ふざけんなよ。なにがしょうがないだ。神に縋る?その前にやることあんだろう。そんなの逃げてるだけじゃねえか。簡単に神様に丸投げする前に血反吐はくまでやってみろよ。てゆーか、鷹雄!お前何様なんだよ。一人で何百人、何千人の命背負い込んだ気になってんのかよ。そんなの誰だってできねえよ」
急に叫び出した鷹雄に康成と頼光は目を丸くして奇異の目を向ける。
もしや頭がおかしくなってしまったのか
「鷹雄はお前だぞ?」
「わかってるよっ、あんたはちょっと黙ってて」
思わず言って聞かせるように口を挟む頼光に向かって、光顕は八つ当たりする。
「おい、なあ、鷹雄。聞いてるのかよ。無理なら無理って言っていいんだよ。今は駄目でも千何百年か後には、ちゃんと治療薬はできてるから。神頼みなんかしなくても人間はちゃんと自分らで何とかするんだよ。そりゃ今はたくさんの人が死んじまうよ。でも、その人達の命を無駄にするほど人間はバカじゃない。わけのわかんねえ感じ悪い神様信じるより、人間の可能性を信じろ!!」
そう怒鳴り散らすと、自らの額に指を突き込んだ。気持ち悪いことに、指はまるで沼地に突き込むように、ずぶずぶと額の奥、体内へと潜っていく。予想以上に、いや、それを上回る激痛が走る。頭の芯がくらくらして、生理的な涙が浮かんだ。それでもやらなければいけない。指で触れる自分の肉の感触が気持ち悪い。光顕は涙目になりながら額の奥を探る。すると指先に何か固いものが触れた。
これだ
鹿王がくれた水晶玉だ。光顕はそれを摘むと迷うことなく体内から取り出した。なぜだかわからないが、やり方は分かっている。その水晶玉を床に思い切り叩きつけながら、光顕は叫んだ。
「天津ヶ原の神々よ、伏して御願い申し上げる」
叩きつけられた水晶玉が粉々に割れ、飛び散った無数のかけらがキラキラと光を放つ。やがてその光が一点に集約して直径三十センチほどの眩く光る円ができた。
「山神姫の徳利、しっかりきっちり返すから、山神姫を許してくれよっ」
そう叫んで、その円のなかに徳利を投げ込んだ。後ろで康成が悲鳴をあげるが気にしない。
『しかと受け取った』
円のなかから声が響く、洞窟で聞いた若い男の声だった。
『ことは成れり』
一言そう告げると光はすうと何か吸い込まれるように消えていった。気が抜けた光顕はその場に崩れ落ちる。ここまでの行程にエネルギーは使い果たされていた。
疲労感、半端ない
今にも寝入ってしまいそうだったが、頼光の鋭い声がそれを許さなかった。
「何をするっ、やめろ、康成っ」
その声に振り返ると、そこには不吉に光る太刀の刃があった。
「鷹雄、貴様なんということをしてくれたのだ。ええい、忌々しい。お前はいつもそうじゃ。どこまでもどこまでも俺を馬鹿にし、邪魔だてをしよって。この偽善者めが」
常軌を逸した康成の目がぬらぬらと不気味に揺れていた。
しまったっ
思う暇もなく、康成の凶刃がふり降ろされた。濡れたように光る太刀の刃を首元に感じた瞬間、光顕の視界は一瞬にして暗転した。
猛烈な力で後ろ襟を捕まれ、光顕は後方に投げ捨てられた。
なんだ、なんだ、どうなってるんだ
自分の置かれた状況が分からず、目を白黒させる。訝しげに辺りを見渡すと、光顕はまた宙に浮いた状態で空に投げ出されていた。傍には涼しい顔をした鹿王がいる。
「ちょっと、扱いが雑じゃないか」
「魂ごと切られる寸前だったのだぞ。もっと感謝するがいい」
足下をみると、確かに事切れた鷹雄の姿が見える。頼光と康成はその遺体をどこかに隠すつもりのようだ。
「でも、徳利は神世に返せたよな」
「そうじゃな」
「俺の選択は正解か?」
「正解か否かは私が判断するところではない。ただ、よりマシな結果を生む一つの要因にはなったかもしれぬのう」
「なんだよ、もっと手放しに褒めてくれていいんじゃない」。
調子に乗りながら、ふと光顕は都に来ているはずの山神姫とその中にいる鈴のことを思い出す。
「そういえば、山神姫はどうなってるんだ」
「神籍剥奪は免れたが、しかし……」
言葉を濁す鹿王に、光顕は唇を尖らせた。
「なんだよ、はっきり言えよ」
鹿王はまたむう、と唸って扇を開いた。
「口で説明するより実際に見た方が早かろう」
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そう言うと、扇を大きく左右に振る。すると、景色がぐるりと巡り、一瞬にして夜が訪れた。場所までも移動していた。光顕と鹿王はどこかの辻の上に浮いている。屋敷の間を巡る見覚えのない場所。
「どこだ、ここは」
「まあ、見ておれ。鈴の踏ん張りどころじゃ」
やたら鈴の負担が大きい。山神姫のなかに入っているのだから仕方がないのだろうが、雷に打たれ、目を潰され、この上さらに何を踏ん張れというのだろう。
光顕は全て終わったあかつきには、鈴に女の子が喜びそうな何か旨いモノでも食べさせてやろうと心に誓った。
「ほら、やってきた」
辻の端に橙色の灯りが見える。夜歩きをする雑色が持つ松明の光だ。見ているとその雑色のすぐ後ろ、松明の光が作った影の、最も闇の部分がもぞりと動き出す。雑色は未だそれに気付いていない様子だった。影は好き勝手にうごめき、やがて一つの人型になった。
山神姫だ!
直感的に確信し、光顕は息を呑む。鹿王の使う不思議の力のせいか光顕には、夜目にもはっきりその姿が見て取れた。
人型は影の動きそのままに雑色の後を追っていく。しかし、山神姫の姿は、伝承で聞いたモノとは全く異なっていた。着ている着物は、雷に打たれた時のもので、煤けて破れ今やただの襤褸切れになっていた。美しかった髪は焼け焦げて無惨な状態だ。剥がれたヒトの皮膚の下から、山神姫本性である化生の毛並みが現れていた。赤い瞳が爛々と光り、獣のようにはっはっと荒い息を継ぎながら涎を垂らす口元からは、黄色く濁った牙が見え隠れしている。
完全に正気を失っている
光顕は声を張り上げた。
「なんでこんなことになってんだよ!」
鹿王も些か青ざめながら、口元を扇で覆う。
「正直、わからぬ。神籍に戻った山神姫がなぜ山に帰らず、未だ洛中を徘徊しておるのか。このままヒトに害を為せば、また堕ち神になってしまう」
山神姫は一定の距離をとって雑色の後をついて行く。しかし、それ以上の行動を起こそうとはしなかった。何度か足を止め、身体を不気味に揺らしながら、何かを振り払う動作を繰り返している。
「お…お……あ…うあ」
山神姫は黄色い粘液をまき散らしながら、苦しみの喘ぎをもらした。
「鈴じゃ」
鹿王が呟いた。
「鈴が山神姫のなかで、ヒトを襲うのを止めておるのだ。今、山神姫は化生の本性に戻っているのだから、理性もなにもないはずじゃ。その本能を制するは、並大抵のことではないぞ。鈴は、山神姫を止めるだけで精一杯じゃ。もう、それほど力も残っているまい。どこまでもつかじゃなあ。しかし、山神姫はなぜ山に戻ることをこれほどまでに拒むのじゃろう。」
では、いずれ鈴が力尽きれば、山神姫は人間を襲い、鈴も山神姫も堕ち神となって、また永遠に彷徨うことになるのか。
眉を顰める鹿王に、光顕は間の抜けた声で問いかけた。
「あのさ、現時点での問題は、山神姫が何で山に戻らないかってことでいいか?」
鹿王は、何を今更という呆れ顔で光顕をみる・
「その通りじゃ」
「今の山神姫って、まだヒトを殺してないんだから堕ち神じゃないんだろ」
「しかし、鈴が力尽きれば、遅かれ早かれ墜ち神となりゆくであろう」
「じゃあさ、じゃあさ、今の山神姫の本体をこの箱の中から外に出したらどうなるの」
光顕の問いかけに、鹿王は僅かに眉を上げその真意を探ろうとする。
「あのどろどろが大量発生とかしたりするのか?」
「いや、本体が治まっているのだからそれはなかろう。しかし、どうなるか。正直、検討がつかぬわ」
ふうん、と呟いて光顕は思案顔になる。
「そしたらさ、ちょっとさ、出してみないか」
「何をじゃ」
「だから、山神姫だよ」
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