桜の咲くころ

桜の咲くころ

2009年に書いたものです。再編掲載しました。

 入学式の日のこと。お母さんと一緒に高校へ向かった。家から自転車で三十分かけて通学する予定の距離を、その日は車で向かった。
「サクラ!時間が間に合わないから早く!」
 私の準備が遅いから、母が何度もけしかける。結局、式の始まる少し前にしびれを切らした母が、まだ寝ていた大学生の兄を起こして車で送るように言った。
「さっさと準備しないから起こされたじゃん」
 兄にも文句を言われながら、そんなの横目で気にもしないで準備をした。今日から高校生だもん、おしゃれして行きたいじゃん。少し薄っすらと、リップを塗った。

 うちは母子家庭。母と、大学二年生の兄と、私の三人暮らし。正直裕福ではない。国から援助も貰ってると・・・思う。高校は公立で、とずっと考えていたけれど、結局お金のかかる私立の高校になってしまった。私にはやりたいことがあったから。これから通うことになる高校の推薦をしてくれたのは中三の時に英語を教えてくれていた先生だった。成績がいいから、英語をもっと勉強できる高校へ進んではどうか?と担任に話しておいてくれていた。三者懇談でその話が出て、近所の公立高校に進む予定をしていた私の進路を変えることになる。ずっと、英語の勉強をしたいと思っていた。将来の夢は通訳をすることだった。けど、母にはそれをずっと言えずにいた。そんな私のことを、母は気付いていた。やりたいことがあるのならお母さんに遠慮はしないで・・・、お金の心配ばかりして、今からやりたいことをあきらめてはいけない。母のそんな一言に甘えるかのように、今の高校を受験した。そして今日が、その高校の入学式なんだ。
 私の中学からこの高校に進んだのは三名だけ。二人のことは顔を知っている程度でほとんど話したことはない。女子高なので女の子ばかり。これからどんな高校生活が始まるのか楽しみな反面、友達は出来るだろうか・・・なんて不安もちょっとあった。その高校は市の端のほうにあって、裏には小さな山がそびえてる。少し不便な所にあって、最寄駅からは歩いて二十分ほどかかる。うちから電車で通うとなると一度市内に出て乗り換えが必要だった。直線で数キロの距離が大周りをすることで数十キロに変わる。時間にして一時間ちょっと。だったら三十分かけて自転車で通おうと思った。定期代を節約するのも目的だった。高校の近所には小さいけれど商店街があったり、古い神社があったり。派手ではないけれど、気持ちの落ち着く街だ。
 兄が車を学校の門の前で停めてくれた。白い壁に濃いブルーの屋根、洋館風の校舎が可愛かった。試験を受けに来た時はゆっくり校内を見る余裕はなかったけど、校舎まで広い範囲でゆったりと花壇が広がっていた。そして校舎の入り口の脇に一本の大きな桜の木があった。私の名前と同じ、桜の木は大好き。とても古そうな大きな木だった。式のある講堂はそんな桜の木の脇にある中廊下を抜けた奥にあって、入り口のところで名前を言って、クラスを教えてもらう。私は1-Cだった。プリントを数枚渡され講堂に入る。母は後ろの方にある保護者席に行く。私はその前にある新入学生席へ。振り返り母を見ると、母は笑顔で手を振った。なんだか少し安心する。そして指定された席に座ると、すぐに式が始まった。
 全部で三クラス。それぞれ二十人ほどの少人数編成。つまり一学年が六十人程度と、学年全体でも百五十人にもならない。何故規模が小さいかというのは学校のしくみにある。毎年一年生は九月から次の年の二年生に進級した七月まで、カナダに留学する。カナダにある姉妹校と生徒を交換するしくみで、日本からカナダに留学をしている間は同じようにカナダから日本へ留学生がやってくる。日本とカナダの学校同士が援助をし合い勉強できるシステムで、一年みっちり英語を勉強してこられるわりには個人で留学するよりは安く外国へ行ける。そこが魅力でそこそこ人気のある学校だった。学校負担を考え、補助できるぎりぎりの人数が一年に六十人程度ということだ。試験での倍率はけっこう高く、今回学校から推薦をしてもらえたのはラッキーだった。非常に自由な学校で、制服はあるけれどみんなほとんど着ていない。購入するかどうかも自由で、普段は制服を着崩している人や、完全に私服の人も非常に多い。今の理事になった時、校則はほとんど廃止になったと聞いた。ひどく濃い化粧や派手なアクセサリー、目立つヘアカラー以外は特にうるさくない。制服は初代理事の時に作られたもので、伝統があるので排除はしていない。グレーのブレザーとスカート、襟に校章の刺繍が入った薄いピンクのブラウス、エンジ色のリボンタイが基本の制服だ。卒業生がそんな制服を寄付するシステムもあって、所謂リサイクルでスカートだけを安く買ったりも出来る。私もそれで、スカートとブラウスだけ購入した。卒業した誰かが着ていたもの。だけど一年の留学期間は着ることもないし、ほとんど新品に近いきれいなものだった。入学式くらいは着てみようと、今日はブラウスにスカートを穿いてグレーの手持ちのカーディガンを合わせて来た。そんな私は地味なくらいだった。
 校長先生の話を聞いたり、担任の紹介があったり。式はすんなり進んでいく。最後に今年から異動になった先生の紹介があった。女の先生一名と男の先生一名。女の先生は他校から異動してきた三十代くらいの先生だった。男の先生は、この春から先生になったばかりの新米先生だった。
「前原貴志です、この春教師になったばかり。みんなと同じ一年生です。一緒に勉強しながら高校生活を楽しく過ごせるお手伝いを出来たらと思っています。宜しくお願いします」
 まだ着なれないスーツに黒ぶちの眼鏡。少しくるんと癖のある髪。まだまだ先生って感じのしない笑顔。挨拶が終わり講堂の端の席に戻っていく先生をずっと目で追った。ホッとしたように席に座った先生は、年上っていうよりも、まるで同級生みたいに可愛かった。



 授業は英語がメイン。もちろん国語や数学や普通の学科授業もあるけれど、美術や音楽といった副教科はない。副教科はカナダへの留学中に少し授業時間がある程度だ。その代わり、英語がⅠ、Ⅱ、Ⅲに分かれている。Ⅰは文法を主に勉強し、文章を書くことがメイン。Ⅱは英語で書かれたものを翻訳する。Ⅲはhearingや会話を実践する。三種共毎日授業があり、英語Ⅲを担当する前原先生も毎日授業があった。学生のノリで授業をしてくれる前原先生の授業は人気があって、みんな前原先生のことを名前で、"たかしちゃん"って呼ぶ。実際に授業で前原先生と英語で会話をするわけだけれど、私はいつも、どうしてもはっきりと会話が出来なかった。

 緊張する。
 照れる。
 ドキドキする。

 みんなが聞いてるんだと思うと、英語が上手く話せなかった。このままではいけないのだけれど、どうすればいいのかわからない。英語が好きだからこの学校に来たのに。私の夢は通訳なのに。こんな状態じゃ通訳になんてなれっこない。不安が取れないまま、日々自信を失っていっていた気がする。
 入学して一カ月、お昼休みは自然と一緒に食べるようになったサオリとクミと一緒だった。私とクミはいつもお弁当、サオリは食堂の脇で売ってるパンを買ってくる。サオリが買ってくるのを待って、いつも三人で教室で食べていた。その日は帰ってくるなりサオリが大騒ぎだった。
「ちょっと、どーしよー」
「どしたの?」
 クミが冷静にサオリに聞いた。
「川上にジュースおごってもらっちゃった」
「えーいいなぁ」
 クミと私はおごってもらったことに羨ましく思って、声を揃えてそう言った。
 興奮気味のサオリは続けてこう言った。
「川上ってとこが重要だよね、あたし川上のことマジ好きなんだ」
「え?サオリって川上のこと好きなの?」
「超好き」
 川上っていうのは、英語Ⅰを担当している先生で。前原先生の次に若い男の先生だ。
「でも川上って十歳も年上じゃん?あたしパス」
 クミがサオリに向かってそう言った。
「十歳って、たかが十歳じゃん。芸能人で十歳の歳の差婚とかしょっちゅうニュースでやってんじゃん!」
「でもなぁ・・・あたしは同年代がいい」
「そりゃぁいいよ、クミは中学ん時から付き合ってる彼氏がいんだから」
「まぁねー」
 サオリとクミの言い争いは終わらない。
「ほら、私もうお弁当食べるよ」
 私はそう言ってお弁当の包みを開いた。
「サクラはどぅなの?年上と同級生、どっちがいい?」
 クミが私にそう聞いた。サオリも返事を待つかのように私の顔をじっと見る。
「えー?私を巻き込まないでよ」
 無視してお弁当のふたを開けた。
「ねぇ、どっちかっていうと、どっちがいい?」
 サオリが身を乗り出して聞いてくる。
「えー?」
 どっちでもいいじゃん。そう思ったけど、ふいに頭に浮かんだ。前原先生が。
「ねぇーねぇー?どっち?」
 せかされてふと、返事した。
「年上…かな」
「ほらぁー、やっぱ同級生じゃ頼りないって。大人の男じゃないと」
「なんでよ?十歳も上じゃおっさんじゃん!」
 二人の言い争いは続く。無視して私はおかずの卵焼きを口に運んだ。年上・・・か。どうして前原先生の顔が浮かんだんだろう。かっこいいと思うし、気にはなるけど・・・好きでもなんでもないのに。
 恋は・・・一応したことはある。片想いで終わったけど。誰かと付き合ったことはまだない。もちろんキスとかも、したことはない。クミからは遅いって言われた。だって、付き合ったこともないのに何も経験してるはず・・・ないじゃん。そう言う私にサオリは、言った。あたし誰とも付き合ったことなんかないけど、もう全部経験済みだよ。クミもサオリも仲のいい一番の友達だけど、三人ともいろんなところが違う。考え方も、今まで育った場所も、出逢ってきた人々も。だけど一緒に居て一番楽しい二人だった。
「ねぇー、今度クミの彼氏に逢わせてよ」
 サオリが川上先生に買ってもらったジュースを大事に手に持ちながら言った。
「えー?だって同級生には興味ないんでしょ?」
「それとこれは別でしょ。逢ってみたいもん。ねー?サクラも逢ってみたいよね?」
「うん」
「うーん・・・今度ね」

 付き合うってどんな感じなんだろう。好きな人と一緒に居られるだけで幸せって感じなんだろうか。どんなことでも楽しく感じられる、そんな感じなんだろうか。手を繋ぐってどんな感じだろう。キスをするってどんな感じだろう。私はまだ子供過ぎて、知らない。クミにもサオリにも、こればっかりは聞けない。恋について、私はあまりに無知だった。


 六月の終わり。一泊の旅行があった。七月に入ると試験があって。その後すぐに夏休みに入る。夏休み後半の八月末にはもうカナダへと行くことになる。その前に、カナダでもみんなと楽しく生活できるように・・・友達同士の親睦を深める意味も込めて一泊旅行があるのだ。場所は日光で。一日目は宿泊するホテルへまず行き、昼食後からはメンバー毎に分かれてオリエンテーション。最終集合場所は出発場所へと戻り、宿泊するホテルとなる。メンバーは好きな人同士で何名ででもいい。私はいつもの通り、クミとサオリと三人だった。
「川上がさー。逍遥園の担当だからぜったい行くよ」
 サオリがはりきってる。先生が各ポイントポイントで待っていて、サインをもらえたら次の場所へ行くことができる。十ポイントあるうち五ポイントを選んで行けばいいということで、行きのバスの中で三人で作戦を練っていた。
「他は?何処行く?」
 私は先生から配られていたプリントの地図と赤いサインペンを手にとって二人に聞いた。
「あたしは何処でもいいよー」
 クミは興味なさそうだった。
「ねぇ、どうせならポイントにいる先生で決めようよ。何処に行ったって一緒だし」
「うん、いいよ。東照宮は行かないとだめでしょ。あと、川上先生のいる逍遥園行くでしょ」
 そう言いながら私はサインペンで地図に丸をする。
「あと三か所だよ、どうする?」
「んー、どの先生とこ行こうかなぁ。たかしちゃんって何処だっけ?」
 サオリがそう言った。
「五重塔だったと思う」
 自然と口から出た。
「サクラよく覚えてんね。たかしちゃんとこ行こう。五重塔決定ね」
 なんとなく・・・気になって覚えていた。何処に居るんだろうって。そして私はサインペンで地図の五重塔に丸をつけた。適当に決めた他の二か所も含め、クミとサオリと三人でおしゃべりしながら日光の街を歩いた。一番最初に行った逍遥園では川上先生から鯉のえさをもらって鯉にやった。先生とも写真を撮った。それから行く先々で先生と写真を撮って、けっきょくあまり古いお寺の建物とかその場の風景とか見てない気がする。何処へ行ったかよりも、行く途中にどんな話をしたかとか目的地まで地図を見ながらわいわいやってたことが一番思い出に残ってる。楽しかった。
 前原先生の居る五重塔は四番目に行った。大きなきれいな色の塔で、そこでも先生と一緒に四人で写真を撮った。先生を挟んでクミとサオリが立つ、私は一番端っこだった。なんでだろう・・・隣に行けなかった。そこでは先生のサインをもらうのに、先生との会話が必要だった。他では何もなくサインがもらえたけど、前原先生個人のアイデアでそうなったみたいだった。英語Ⅲの先生らしい、英語での会話だ。全員が英語で会話ができればサインがもらえる。クミもサオリも簡単に済ませた。けど、私はまた…いつもの授業みたいに上手く話せないでいた。
「ほら、サクラ頑張ってー!次行こうよー!」
 クミがはやしたてる。
「ゆっくり話すからよく聞けよ?」
 先生はゆっくりと英語で話してくれる。ちゃんとね、先生が話している英語もわかってる。なんて返事すればいいのかもわかってる。だけど、先生の目が見れなくて、なんだか怖くて話せない。サオリに助けてもらうみたいな形でなんとか返事をして、サインはもらえた。けど、先生はまいったなぁーって言ってるみたいに、困った顔をして笑っていた。自分でも情けなくて、恥ずかしかった。五重塔では、そのせいで他のことはあんまり覚えてない。実はちょっと・・・泣きそうだった。
 最終集合場所のホテルにはけっこう早い時間にたどり着いた。夕食時間まで時間はあるし、ホテルのロビーで三人で話していた。その時、ホテルに戻ってきたのは前原先生だった。
「あ、たかしちゃんだ。思ってたんだけど、今日の服装のがいつもよりかっこよくない?」
 クミが先生を見つけてそっとサオリと私に行った。Vネックの白い長Tに濃い目のブルーのジーンズを履いて黒いベストを着てる。靴も黒いおしゃれなやつだった。
「いつも堅苦しいワイシャツだもんね、やっぱ私服はいいよね。あ、川上のほうがかっこいいけどね」
 サオリはきゃっと照れながらそう言った。
「たかしちゃーん!」
 クミが手を振って先生を呼んだ。
「お、お前ら早いじゃん」
 先生はそう言ってこっちへ来る。四つあるソファの一つに座った。私の斜め前、クミの隣。
「先生こそ、もう帰ってきていいの?」
 クミがそう聞くと、先生は大きくため息をついて見せた。
「まじ疲れた。俺立って待ってるだけだぜ?」
「ほんとだ。先生観光とかできないもんね。ご苦労さまぁー」
 そう言ってクミは先生の肩をもんだ。
「本当だよ。俺もあちこち見て回りたかったー。お前ら何処行ったの?」
 サオリが何処へ行ったとか、行くのに迷ったとかいろいろ話をする。私は・・・聞いているだけだった。
「矢野ぉ」
 ふいに先生が私に声をかけた。
「え?はい」
「お前ほんとおとなしいよな。こいつらくらい自分から話、しなきゃ」
「こいつらって何よー。なんかサクラだけいい子扱いじゃん」
「仕方ないだろ、本当のことだし。ふたりは矢野のおとなしいとこ、ちょっともらえ」
 クミはそれまでもんでいた先生の肩を叩いた。 
「うわぁー痛い痛い!やめろって!」
 先生は慌てて立ちあがった。サオリは大笑いしてる。私も一緒に笑った。
「先生が嫌なこと言うからじゃん」
 クミはそう言いながら大声で笑ってまだ先生の肩を叩こうとする。
「矢野、助けて」
 先生は私の肩を掴んで後ろに隠れるように逃げるふりをした。その瞬間ふと、煙草の香りがした。いつもは学校だからだろうか、煙草の香りなんてしないのに。同級生の男友達みたいにいつもはみんなといる先生が、なんだか急にすごく大人に感じた。

 私は。
 別におとなしくなんてない。

 英語の授業の時は緊張して駄目だったりするけど、そうじゃない時は普通にみんなとはしゃぐし、冗談だって言うし、大笑いだってするし。自分から話・・・するし。無口でもないし、普通だもん。だけど、わかってる。うすうす感じていた。どうしても、いつもの自分で居られない。私が、私じゃない瞬間があるってこと。どうしてだろう。前原先生の授業の時だけ・・・駄目なんだ、私。おとなしいって先生に思われても仕方ない、本当に無口になってしまうんだから。
 ふざけて私に隠れようとする先生に結局その時も何も言えずに何も出来ずに。私はただソファに座ったまま、先生ではなく先生を追いかけるクミを見ているだけだった。


 日光から帰って、試験まで十日ほど。その間も相変わらず英語での会話は上手くできず、授業が終わるたびにため息が出た。自分でも嫌になる。少しずつ先生を見るのも、辛くなってきていた。みんなの目が怖い・・・。英語Ⅲの授業の前には必ず逃げ出したくなる。この日も授業でいつものように上手く英語が話せなかった。クラスのみんなは私が英語で話すのが苦手だと思っている感じで、またか…って表情で私と先生のやりとりを見ている。そんな時すごく泣きそうになる。自分に自信がないことから逃げたくなる。そんな情けない自分を誰にも知られたくなくて、誰にも相談できずにいる。クミにも、サオリにも。こんな気持ちを話せずにいた。

「矢野!」
 その日の放課後だった。前原先生に声をかけられた。中廊下の真ん中で振り返り、立ち止まると先生が走ってきた。
「矢野、帰る前にちょっと時間ある?」
「あ、・・・はい」
「ちょっと中庭行こうか?」
 先生に言われて、頷いた。何を言われるのかって緊張した。ただでさえ、先生が苦手なのに。中庭のベンチに先生は先に座ると、隣に座るようにと手でベンチを二回トントンっと叩いた。
「失礼します」
 そう言って私は隣に座った。
「矢野って・・・英語嫌い?」
 先生の質問には驚いた。いつも授業で英語で話せないことを注意されるだとか、怒られるんだとかばかり思っていて、英語が好きか嫌いかの質問だなんて思ってなかったから。
「いえ、好きです」
「・・・そぅ。あんまり授業の中でも英語で会話してくれないし、今日もなぁ。この間の日光でも苦手っぽかったし、あんまり好きじゃないのかなーと思って」
 緊張して、何も答えられなかった。
「あの・・・さ、それとも矢野は俺のこと、嫌い?」
 その質問にも驚いた。
「いえ、嫌いじゃ・・・ないです」
「そか、よかった」
 先生はほっとした表情をして、そのまま続けて話した。
「九月からは全員カナダだろ?きちんと英語で会話できるできないっていうよりも、海外では自分から英語で話そうって気持ちになれるかどうかってのが一番大事だからさ。矢野はちょっと積極性がない印象があって、ちょっと心配してた」
 先生は授業でみんなとワイワイやってる時とは違う、真剣な表情でそう言った。
「見てたら、友達と話してる時とかは普通っぽいのかなーとも思うし。けど、俺とはあんまりまともに会話いつも出来ない感じだから、よくわからなくて。急に呼びとめてこんなこと聞いて悪かったな」
「すみません・・・」
「いやいや、謝るなって。矢野に何か不安とか自信がないとか、そういうのがあったらいつでも相談乗るし。俺も二年ほどカナダに居たことあるんだけど、凄くいい所だからみんなには楽しんできて欲しいって思うから」
「はい、がんばります」
「うん、だったらいいんだけど」
 せっかく先生が心配してくれたのに、愛想笑いみたいな笑顔しか出せなかった。
「やっぱり何か・・・、違うことでか何か悩みとか、ある?」
「いえ・・・」
 先生がじっと見るから、緊張と照れを隠そうとすればするほど無愛想になってしまう。
「なんか・・・余計だったかな。じゃぁ~気をつけて帰れよ」
 先生はそう言うとベンチから立ち上がった。そして、いつまでもベンチに座ったままの私をじっと見ている。
「あの・・・」
「どした?」
「本当に・・・相談とか、乗ってくれるんですか?」
 座ったまま、先生の顔も見ずにそんなことを私は言っていた。
「え?もちろん、俺で聞けることだったら聞くよ」
 そう言うと先生はまた、ベンチに戻って座る。
「今?それともまたにする?」
 そう聞きながら先生が私の顔を覗き込んだ。
「いえ。あの・・・、ただ」
 そこまで言って私は黙ってしまった。
「ただ・・・何?」
「いつでも話を聞いてくれる人がいるんだって思えるだけで頑張れる時ってあるから。何かあった時は先生が聞いてくれるっていうそれだけで安心できる気がして」
 そう言うと、先生は優しく笑った。
「俺って安心の貯金みたいだな」
「え?すみません」
「・・・ごめん。謝るなよ、嬉しいよ。俺でも頼れる男になれたみたいで、矢野に声かけて良かったって思えるし」
 少し照れてるみたいに、先生は視線をそらしてそう言った。
「私、普段は人と話すの嫌いでも無いし苦手でも無いんです。けど、英語になると、みんなが聞いてるとか発音があってるのかとか急に気になりだして、話せないんです。あんなに英語大好きなのに」
 初めてだと思う。前原先生にこんなにたくさん、しかも自分の思ってることを話したのは。クミにもサオリにも、話したことのない心の内を、自然と話していた。先生が、いつもみんなと騒いでいる時とは違って、真っ直ぐ私だけの話を聞いてくれているって感じたからかもしれない。苦手だと思っている先生に、こんなに話をできる自分も、不思議だった。
「そっか。もしかして自信が無いのかな、自分の英語力とかに。矢野は発音きれいだし聞きとれるし。自信持てたら話せるんじゃないのかな、思った通りに」
「・・・だと、いいんですけど」
「もっと自信持って。とにかく、英語で話す相手が必要だったら俺いつでも相手するし。カナダ行くまでにちょっとでも自信持とう。できる?」
「はい、がんばります」
 返事をしたら先生は私を見て笑顔を作った。
「矢野だけ特別な。携帯番号教えとく。何か聞いてほしい時いつでもかけてきていいから」
「え?」
「悪いことに使うなよ。あと、下心は無いから安心して。さすがに生徒に手は出さない」
 急に先生がちょっと小声になったので、思わず笑ってしまった。
「お、いい笑顔。ほら、携帯出して」
 かばんから携帯を取り出すと、先生は自分の携帯を私の携帯に向けて赤外線で情報を飛ばした。飛んできたデータを開く。先生の名前と携帯番号とメールアドレスと。思いがけず手に入れてしまったものが、これから私の心の支えになるなんてこの時はまだ思っていなかった。
「あ、私の・・・」
 私も先生に送らなきゃ、そう思った。
「いや、いいよ。俺の番号は矢野が困った時に使うためのものだから。俺が矢野のを知る必要はないだろ?矢野も自分の番号俺に知られたくなかったら非通知でかけてきたらいいよ、ちゃんと出るから」
 先生は、そう言った。
「ただし、教えたことは秘密な。さすがに校長に怒られる」
 人差し指を自分の口元に当てて先生は言う。私はそれを見てクスッと笑ってしまった。
「よかった、矢野に嫌われてるんじゃなくて。マジでちょっと悩んだんだから。お前たち初めての俺の生徒だから」

 どうして先生のことを見るのが辛くなっていたんだろう。どうして怖いって思ったりしたんだろう。今この瞬間、私はとてもホッとしている。先生を見ていると安心できる。

「ありがとうございました」
 私がそう言うと、先生は軽く頷いて、今度は何も言わずに廊下のほうに戻って行った。もう一度携帯を見る。登録されている先生の名前。
「まえはら・・・たかし」
 不思議なくらい、名前を見ているだけで安心できた。かばんに携帯をしまって帰ろうと思った。けど、もう一度だけ・・・。また取り出して携帯を開く。アドレス帳にある先生のその名前を、その日は何度も何度も・・・見た。みんなには秘密の、携帯の先生の名前。


 あっという間に七月の試験も最終日。英語Ⅲだけは会話実践の試験なので、試験中の三日間に七名ほどずつに分けて前原先生と実際に英語で会話をする試験だった。で、私は最終日が試験の日だった。先生に携帯番号を教えてもらってから、授業で先生と英語の会話をしたのは数回。試験では十五分~二十分ほど軽い日常会話を実践する。いろんなパターンの会話を書かれたテキストを何度も何度も家で読み返して練習した。家でだとスムーズに話せる。

 大丈夫だろうか。不安だったけど、試験だから仕方がない。逃げるわけにもいかず、私の前に試験を受けた子が教室から出てきて、交代で私が教室に入った。先生と向かい合わせで席に座る。最初の挨拶から全て、教室に入ってからは英語でのみ会話をする。だけど、私にだけなんだろうか。わからないけれど。先生は教室の外に聞こえないようにわざと少し小さな声で日本語で、話しかけてくれた。
「矢野、落ち着いてゆっくり話せばいいから。自信持って」
 私は、頷いて見せた。いつもの授業みたいに、先生の英語の挨拶から会話が始まる。私は大きく深呼吸して、英語で返事をした。先生は優しい笑顔で、そのまま続けて英語を話す。私も、先生の顔を見て、ゆっくりだけど英語で話す。その調子。そう、言ってくれているかのように、先生は笑顔で頷きながらまた英語で話す。不思議と、その日の会話は家で練習している時のようにスムーズに話せた。最初はゆっくりだったのに、だんだんいいスピードで普通に英語で話せている自分が居た。十五分ほど会話をして、試験は終了した。
「矢野、今日やったじゃん」
 また小声で、先生が小さくガッツポーズを見せてくれた。私も笑顔でガッツポーズを見せた。
「やっと安心してカナダに送りだせるよ」
 先生はそう言うと、私の肩をポンっと軽く叩いた。席を立って、私との会話を採点したプリントを黒板の脇にある机に持って行く。
「先生」
 私は思わず声をかけた。
「ん?」
 プリントをまとめて手に持ちながら先生は振り返った。
「Thank you.」
 英語でありがとうと言うと、先生は英語で返してくれた。
「I am not helping anything. All are your abilities.」
(俺は何もしていない。全てお前の実力だよ。)
 先生の言葉に、私は笑顔で一礼して、教室を出た。

 次の日すぐに全ての答案用紙を返却され、三日ほどかけて、それぞれ親を含めた懇談が行われた。私も母と担任と三人で話をした。特に問題も無く、カナダへの留学も心配ないだろうと担任から話があった。そしてすぐ夏休みに突入し、学校は何度か留学前の説明会で行った程度だった。前原先生とは話すこともなく、たまに見かけるっていう程度だった。クミやサオリとは向こうでのホームステイ先を近くにしてもらえたので、夏休み中何度も誰かの家に集まっては、カナダで一緒に何処で遊ぼうとか地図を見ながら話したりした。

 先生の携帯へは電話をしたことはない。メールもまだ一度も送っていない。アドレス帳の先生の名前は何度となく、見た。それだけで元気が出たり、勇気が出たりする気がしたから。だけど、出発する前に一度、電話をかけてみようと思った。明日カナダに行くっていう、八月の終わりの日。凄く緊張したけれど、私に自信をつけてくれたのは先生だから。カナダへ行く前にやっぱり1度、電話をかけてみようと思ったんだ。先生と話したのは、声をかけてくれたあの日だけだったけど、やっぱり何処かで私を頑張れるように見守っていてくれていた。先生に、ちゃんとお礼を言わなきゃって思ってた。だけどなかなか携帯の発信ボタンを押せなくて、時間がだんだんと過ぎていって。気付くと日付が変わりそうな時間だった。0時前、こんな時間に・・・とは思ったけれど、勇気を出して発信ボタンを押した。何度か鳴る呼び出し音。

 ツルルルル・・・
 ツルルルル・・・

 そんな音を聞いているとますます緊張してくる。もう切ってしまおうかと思ったりしている間に、電話が繋がった。
「もしもし?」
 え・・・・・・先生が出た。当たり前だ、先生の携帯なんだから。どうしよう、なんて話そう。
「もしもし?」
 先生の声がする。
「もしかして、矢・・・野?」
 電話の向こうで、先生が私の名前を呼んだ。
「もしもし」
 勇気を出して声にした。
「やっぱり、矢野。どうした?緊張して眠れない・・・とか?」
 ちょっと悪戯っぽく先生がそう言った。
「違いますよ・・・」
 ふてくされたみたいな返事をすると、先生はふっと笑って言った。
「どうしたの?明日からカナダでしょ。早く寝なきゃ」
「はい、でも行く前に一度、先生に電話してみたくて・・・かけちゃいました」
「そっか。お役に立てそうですか?俺は」
「はい、すごく」
「ならよかった。でも、何か不安があるとかじゃぁ・・・無いよね?」
「無いですよ、大丈夫です。ありがとうございます」
「うん。いいよ。世間話でもなんでも、お相手しますよ」
 先生は元気に返してくれる。
「あ・・・でも、何も話すこと、用意してなかった」
 私が思ったままそう言うと、先生は電話の向こうで大笑いした。
「お前なぁー、こんな時間に電話してきて話すことないって・・・」
「え?あ、あの。すみません、遅い時間に」
「うそうそ、まだまだ起きてるけどさ。もぉー。カナダではしっかり頑張れよ。大丈夫かよお前。ちゃんと準備とか出来てんだろうね?」
 先生は電話の向こうで笑っていた。
「ちゃんと・・・やってますよ。明日、行くだけです」
 そう返事するのがやっとだった。どうしてだろう。電話の向こうから聞こえてくる先生の声を聞いていると、自然と涙が出てきた。泣いているのを悟られないように、一生懸命息を殺した。
「明日は見送りに行くつもりだから、もぉー今日は寝なさい」
 先生が、妙に先生っぽくそう言った。
「・・・はい」
「うん。しっかりよく寝て。明日もちゃんと朝ご飯食べて。空港で待ってるから」
「・・・はい」
「May I end the telephone?」
(電話切るよ?)
「・・・Yes.」
(はい)
「Isn't there problem?」
(大丈夫?)
「・・・Yes.」
(はい)
「OK、じゃぁ、おやすみ」
「おやすみ・・・なさい」
 先生から電話を切った。

 まだ・・・切って欲しくなかった。声を聞いていたかった。

 ありがとうございましたって、言ってない。言えてない。涙が止まらなかった。



「なんだか嫌な雨ね」
 朝食を食べようと食卓に行くと、母がそう言った。朝起きてくると、雨だった。これからカナダに向けて出発しようっていう日に、雨なんて。この日は兄も起きてきてくれた。空港まで母と一緒に送ってくれるらしい。
 昨夜はあんまり眠れなかった。どうして涙が止まらなかったんだろうって、考えてたらどんどん時間が過ぎてしまった。それでも明け方少しだけ眠れたけれど、雨の降り始めの音を、空が明るくなりそうな時間に聞いた気がする。
「九時過ぎには出れるようにちゃんと準備してよ」
 母が私にそう言った。
「うん、わかってるって」
 なんだか行きたくない。もちろんカナダでの生活は楽しみにしてる。クミとサオリとも、いっぱい向こうでの予定を立てた。英語の勉強だけど観光もそこそこ出来るし、約一年間住むのだからそれなりに街にも馴染めるだろうと思う。だけど思うんだ。そこには、先生が居ないんだ。って。
 空港は見慣れた顔であふれていた。母と兄は空港に着いて少ししたら帰って行ったんだけど。帰るぎりぎりまで、意外にも兄がうるさかった。
「ほんとに一人で海外生活なんて大丈夫かよ。何かあったら電話入れろよ。」
 母は出る幕がないって表情をして、父親みたいにあれこれ言う兄を笑っていた。
「お兄ちゃんうるさいよ。大丈夫だって、向こうには同級生全員行くんだから」
 クラス毎に集まって、先生から最終の説明を受ける。母と兄と別れてそこに向かおうとした時に、前原先生にばったりと逢った。
「矢野!」
「あ、先生」
「おはよ。昨日眠れたか?」
「はい」
「ほんとに?電話してくるぐらいだからなぁ、ほんとは海外ビビってんじゃないの?」
 先生はいつもと同じ、笑顔で話しかけてくれる。
「そんなことないですよ、もぉ・・・昨日電話なんてしなけりゃよかった」
 緊張するかと思ったけど、よかった、普通に話せた。だけどね。顔はあんまり・・・見れなかったんだ。出発する前に、ちゃんと先生の顔を見て行きたいのに。思いきって、私は顔をあげた。
「あの、先生」
「ん?」
 話しかけようとした時に、集合がかかった。
「なんだよ?」
「いえ・・・いいです」
「そっか?ほら、クラス毎で並んで」
 そう言うと先生は、他の生徒たちにも声をかけながら集団の前のほうへと歩いて行った。そんな先生を目で追いながら、クラスの列にクミとサオリを見つけると、私はそこに走って行った。
「おはよう」
「あー!サクラおはよう」
 二人と挨拶をしながら、でも目は、前原先生を追っていた。どうしても、行く前にお礼を言いたい。最後の説明はほとんど聞いていなかった。ずっと、前のほうに立っている前原先生を見ていた。いつか、きっと。出発の前にタイミングを見つけたかった。先生と話すタイミング。説明が終わると、順にゲートを通って行く。現地まで付き添う先生一人と生徒たちだけ。前原先生とはここでお別れ。だんだんと心臓がドキドキしてくるのがわかる。どうしよう。タイミングが取れない。ゲートに入るのはA組から順に、私のクラスが最後だった。どうしよう。そしてC組の順番になった。ゲートを順に通って行く。もう、すぐに私の番。その瞬間、列を抜けて私は先生のところに走っていた。
「サクラ?」
 後ろでクミが私の名前を呼んだ気がする。
「え?どうした?矢野?」
 先生にぶつかるように走ってきた私に先生はびっくりしていた。
「早く行かないと。矢野?」
 そう言う先生の左腕を掴んで、私は先生の顔を見上げた。落ち着かなきゃ。落ち着いて、昨日電話した時に言えなかったこと、言わなきゃ。
「先生のおかげで私今日カナダに行ける。英語頑張って勉強してくる。頑張るから」
 先生は・・・完全に驚いていたように思う。
「矢野さん、どうしたの?」
 他の先生も、声をかけにくる。みんなもどうしたんだ?って遠目にこっちを見ている。そんなこと、どうでもいい。ちゃんと、お礼を言わなきゃ。
「先生、ありがとう」
 言えた。先生は、優しく笑った。
「矢野さん、早くしなさい」
 担任に肩を掴まれて怒られた。
「すみません、一つだけ」
 そう言うと前原先生は、担任にちょっと待ってくださいと手で合図をして私の話を聞こうと返事をしてくれた。
「何?言いたい事全部言ってからカナダ行け。なんでも聞くよ」
「先生の写メ、撮らせてください。思いっきり元気出るやつ」
 先生は、一瞬ポカンとした顔をして、その後思いっきり笑った。
「矢野ー。お前ほんと怒るぞ。そんなことで列抜けてくんなよ」
 そう言ってる先生は思いっきり笑ってる。それを見て私も笑った。
「ほら、早く撮って飛行機乗って行っちゃえ」
 言われて急いで携帯をバッグから取り出した。
「写メ撮るなら携帯の準備してから走ってこいよ」
「もぉー。先生うるさい」
 携帯でカメラの準備をして、先生に携帯を向けた。
「矢野さん、あなたって何を考えてるの。前原先生も何をしてるんですか。とにかく早くしなさい」
 担任は呆れながら注意する。そして私は、ピースをしながら思いっきり笑ってる前原先生を携帯のカメラで撮った。
「行ってきます、ありがとうございました」
 頭を下げて、前原先生の顔をちらっと見ただけですぐに私は担任にゲートに連れて行かれた。
「矢野!一年後お礼のおみやげ忘れんなよ」
 そう言う先生のほうを振り向くと、軽く手を振ってくれていた。クラスのみんなはもうゲートを通ったあとで、私が最後だった。ゲートの向こうで待ってくれていたカナダまで付き添う先生に背中を押されながら、最後にもう一度振り返って見た前原先生は、担任に注意を受けながらこっちを見てくれていた。
「前原先生、ほんとに学生気分はそろそろやめて貰わないと困りますよ。ちゃんと先生としてしっかりしてください、あなた生徒の友達じゃないんだから」
「はい、わかってます、すみません」
 私がゲートを通ったあと、先生は担任から注意を受けていた。もちろん私も、付き添いの先生に怒られた。クミたちには先生と何をしてたんだ?って散々問い詰められたけど、「内緒」で通した。外はあいにくの雨だったけど、私はとっても晴々しい気分だったよ。



 カナダでの生活は、思っていたよりすんなり馴染めた。一番不安だった英語も、なんとか話せた。いっぱい遊びにもいったし、いっぱい勉強もしたし。パーティーとかしょっちゅうだし、みんな思いっきり楽しむ。そんなカナダの習慣が、だんだんと自分の習慣みたいに染み込んでいく。一日の過ぎるのがあっという間で。一か月の過ぎるのがあっという間で。もちろん初めてだらけの生活に必死だったからかもしれないけど、毎日を楽しむこととか充実感を味わうこととか。日本では味わえなかったことをいっぱい体験している、そんなことをひしひしと感じていた。そのせいだろうか、寂しいとか日本に帰りたいとか思うことはなかった。
 前原先生の写真はデスクに飾ってる。日光で、クミとサオリと四人で撮ったやつ。それを見るだけでホッとするんだ。とてもホッとするんだ。日本からは衣類とか必需品くらいしか持ってきていない。ほとんどカナダのステイ先で準備してくれていたもの。あとは、自分でお小遣いをためては好きなものを買って。日に日に自分の部屋が好きなもので満たされていく。日本でどうしても必要だったものが、こちらでは全く不要だったりする。
 携帯を使うことなんてほとんどない。みんなには毎日学校で逢えるし、放課後はステイ先のママがやってるカフェを手伝ってバイトしていたから忙しかったし。だから携帯は部屋のデスクの引き出しにしまったままだった。空港で撮った写真は、本当につらい時に一回だけ見た。ママのカフェで、お客さんにひどく突っ込まれた。私の接客での英語が全然わからないって。正直凹んだし泣きそうだった。日本で、授業で、一番怖いと思っていた英語の会話で突っ込まれたってのがとても辛かった。ごめんなさいって謝るのが精いっぱいで。ママがお客さんになんとか話をしてくれて事は済んだ。その日ママはいっぱいごちそうを作ってくれて、いっぱい励ましてくれた。だけど寝る前に、どうしても涙が止まらなくて。先生の、ピースしながら笑顔で写っている写真を見た。

 カナダ、バンクーバーと日本との時差は約十七時間。私が朝目覚める時。そろそろ先生は寝る準備に入るんだろうか・・・って思ったり、友達とお酒でも飲んで騒いでるんだろうか・・・って思ったり。毎日の生活の中で、先生を思い出すのは決まって朝目覚めた時。そうやって先生がどうしてるんだろうって想像するだけで、元気が出た。そしてその元気を連れて、キッチンに居るママにおはようの挨拶をしに行く。少しするとパパが起きてきて、頬にキスをしてくれる。
 カナダのパパとママは、子供が居ない。実際には、子供が居た。十三歳で、病気で亡くなったそうだ。女の子で、とても髪の長い子。リビングの戸口の所に写真が飾ってある。毎年こうやって日本からの宿泊客を迎えては、自分の娘みたいに可愛がっている。今年は私が一年だけ、彼らの娘だ。だから朝は元気に挨拶したいって思ったんだ。
 みんな、ステイ先にはいろんなドラマがあって。ただ英語の勉強をするっていうのではなく、全てが自分の大きな財産になる。ねぇ、先生もカナダに居たこと・・・あるんだよね。同じようにたくさん経験をして、たくさん勉強したのかな。
 あっという間に四カ月が過ぎて、大晦日の日の朝。起きてすぐにふと思った。日本はもうすぐ日付が変わる。年が変わる。先生に、メールを入れてみようって。きちんとした時差はわかってないけど、そろそろ日本は一月一日を迎える頃だ。

 Happy New Year

 おめでとうのメッセージを先生に送った。そして私は、おはようってママに挨拶しにキッチンへ行った。カナダでもお正月を迎える準備をママがしていた。カフェは休まず営業しているから、家のことと両方で忙しそうだった。パパと一緒に家のほうの準備をいろいろとした。ニューイヤーパーティーに連れて行ってくれるってパパとママが言ってくれて、ミニの可愛いドレスを買ってくれた。母子家庭の私にも、パパの存在は大きい。私が幼稚園の頃にパパは事故で逝ってしまったので、あんまり思い出が無い。だから、カナダのパパには本当のパパとの面影を重ねることが多かった。
 その日は早めに夕食を済まして、近所のセンターパークへパパとママと三人で出かけた。買ってもらったドレスを着て。もちろん外は寒いので、ずっとパークにあるビルの中で催し物を見たり、演奏を聴いたりした。途中でクミには逢った。クミもステイ先の家族と一緒だった。日付が変わるちょっと前にパークに戻ると凄い人で、熱気で全然寒くなんてない。深夜なのに昼間みたいなにぎやかさで、そのうちカウントダウンが始まる。大人も子供もみんな一緒に大きな声でカウントダウンをして。

 Happy New Year!

あちこちでみんなの歓声があがると、花火がたくさん空に舞った。仮装した人たち。顔にペイントをした人たち。腕を組む老夫婦。風船を飛ばす子供。こんなにハッピーなお正月は初めてな気がする。パパとママと一緒に写真を撮った。部屋に飾ってくれるそうだ。そう言えば。何枚か見た気がする。パパとママと、一緒に写っている日本人の女の子の写真。私が今ハッピーだと感じている瞬間、パパとママも、ハッピーだと感じてくれている。私ね、思ったんだ。日本に帰ったら、もっと、母にも兄にも優しくしようって。
 家に帰ったのは一時半過ぎ。パパとママはまだ起きているみたいだった。先に寝るねとおやすみの挨拶をして、部屋に戻った。ベッドのわきにある小さなライトをつけて、何気に、机の引き出しを開けたんだ。着信のランプが着いてた。メールだ。開くと、前原先生からだった。日本時間で夕方の五時頃に送られていたもの。ちょうど一時間ほど前だ。

 そろそろそっちも日付が変わる頃かな。あけましておめでとう

 シンプルなメールだった。先生からのメールは初めてだった。先生からのメールを見て。カナダに来てから初めて、私は携帯の発信ボタンを押した。前原先生の携帯へ。何度か呼び出し音が鳴って、少しして先生が電話に出た。
「もしもし?あれ?矢野?」
 懐かしい声だった。
「先生?矢野です、あけましておめでとうございます」
「え?あ、おめでとう。びっくりしたよ、電話」
「メールありがとうございました、嬉しくて電話しちゃった。今大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫。元気でがんばってる?」
「元気ですよ。先生は?」
「んー、ちょっと風邪気味」
 そう言うと先生は笑った。
「どう?カナダ、いいっしょ」
「うん、最高。パパもママも優しいし、初めて経験することたくさんあるし」
「お、一気にそんなにテンション高めで矢野が話すってことは、かなり充実って感じだな」
「はい、毎日楽しいです」
「そうか。いいじゃん。英語は?どう?話せてる?」
「はい、もぉ先生の授業なんて必要ない感じですよ、完璧です」
「まじで?俺不要かよ」
「先生クビになっちゃうかもよ、必要なくって」
「そりゃ困るな、今からまた就職活動しないとな」
 冗談交じりで先生が返してくれる。なんだか嬉しくって、私はどんどん話を続けた。
「先生お正月は何してるんですか?」
「えー?家でぼーっとしてる」
「へぇー、そうなんだ」
「実家とか帰ると田舎だからつまんないし。親戚うざいし。今日はテレビ見たりして過ごしただけ」
「先生が生徒にうざいとか、そんなこと言っちゃだめですよ」
「え?今は学校じゃないからいいじゃん。冬休みだし」
「そんなだから生徒にため口きかれるんですよ」
「あのねー、矢野ぉ。お前校長先生みたいだぞそれ、う・ざ・いー」
 子供みたいな口調で先生がそう言った。私は思いっきり笑った。
「あー、矢野。電話、俺からかけなおすわ」
「え?あ、今やっぱり都合悪かったですか?すみません」
「いや、電話代かかるだろ、これ。お前カナダだし。俺からかけなおすから、一旦切るよ」
「あ、・・・わかりました」
 そう言うと電話が切れた。少しして、着信が鳴る。前原先生からだった。
「もしもし?」
「はい、矢野です」
「おぉ。安心してしゃべれー」
「しゃべれって言われると、何しゃべっていいかわからなくなるじゃないですか」
「え?そう?っていうか、いいよ、敬語じゃなくて。敬語だからしゃべれないんじゃないの?遠慮なくぅ」
 先生は本当に友達みたいに話す。
「お前だけだよ?俺に敬語で話すの。みんなたかしちゃ~ん♪とかってまるで先生扱いしないのに」
「あぁ・・・、なんだろう。そう言えば私敬語ですね」
「ほら、かたいかたい。いいよ、今学校じゃないんだし」
「はぁ、わかりました」
 返事をすると先生はクスッと笑う。
「やっぱ敬語だな、お前は」
「すみません・・・」
「いいよ。みんなも元気でやってんの?」
「あ、はい。元気ですよ」
「そっか。やっぱみんな居ないと学校さみしいな」
「そうなんですか?他の誰とも連絡とか取ってないんですか?」
「あー誰とも取ってないね。お前くらい」
「そう、ですか」
「あの、あれだよ。授業で英語レポート送ることになってるでしょ?班毎に週一でメールで送るやつ」
「はい、交代でやってます」
「あれ読むくらいかな、他のやつらの近状知ったりするのは」
「あれって先生も読んでるんですか?」
「読んでるよ、英語担当の教諭は全員」
「そうなんだぁ。じゃぁ今度からもうちょっとがんばろう」
「そうじゃなくてもちゃんとやれよ」
 先生の言葉に私は笑った。
「だって正直面倒くさいんだもん。英語でレポートするの」
「お前カナダに行ってて英語面倒くさいとか言うなよ」
「えー?もぅ辞書片手で必死なんだから、あれ。今週私かぁとか思うと憂鬱で」
「あぁ。でもお前のも読んだけど、ちゃんと書けてるよ。花丸あげちゃう」
「マジですか?よっし♪」
「いいな、お前元気そうでよかったよ。ほんと心配したよ」
「え?なんでですか?」
「行く前泣きそうな電話してくるし、空港では一人走ってくるし」
「あ・・・。あの時はすみませんでした」
「いいよ。俺はいいんだけど。電話越しに泣きそうにされるとさすがにちょっと辛いじゃん」
「え?」
「行く前の日の電話、ちょっと泣いてたでしょ?」

 必死で涙をこらえて。先生に悟られないように息をこらしてたのに。先生にはばれていた。

「泣いて・・・ないですよ」
「そぉ?まぁ、いいけどさ」
「はい、そうです」
 私は泣いてないって、嘘をついた。
「ぅん。今元気ならそれでいいけど」
「なんか、先生のほうが元気なさそう」
「そっか?風邪気味だからだろ?」
「あぁ。ちゃんと薬飲んで治してくださいよ」
「わかってるよ。おふくろみたいなこと言うなよ」
「えー?年下の十代の乙女におふくろは無いと思いますぅー」
 そう言うと先生は笑ってた。
「あ。そうだ先生。紅白ってどっちが勝ったんですか?」
「え?紅白?」
「はい。紅白歌合戦」
「え?あんなの見ないよ」
「えー?年末は紅白でしょ?」
「そればばぁだろ、矢野。やっぱK1でしょ?」
「えー?紅白ですよ。どっち勝ったんですか?」
「知らないよ。ネットとかで配信されてるでしょ、たぶん。探して見ろよ」
「先生役立たず」
「え?役立たず呼ばわり?」
「うちは毎年家族で揃って紅白見るんです」
「そんなの小学生くらいまでだったぞ。お前お子ちゃま」
「お・・・お子ちゃまってひどい。K1なんて何処が面白いんですか?血流れてるのとか私見るのやだ」
「あれは男の熱い戦いとドラマがあるんだよ。子供にはわかんねぇな」
「どーせ私は子供ですぅ。でも先生もガキじゃん」
「俺が?何処が?」
「先生には見えないもん。所詮たかしちゃん♪でしょ」
 先生は黙っていた。あ。怒らせたかな。ちょっと言い過ぎたかな。どうしよう。
「あの、先生?私・・・ちょっと言いすぎ・・・」
 謝ろうとした時、先生が言った。
「いいな、お前ら元気で。なんかこっちまで元気になるよ。電話ありがとな」
「先生・・・?」

 何かあったの?聞きたかったけど、聞けなかった。

「ほら、そっちってマジ深夜でしょ。もう寝ろ?」
「あ」
 私は部屋の掛け時計を見た。二時をまわろうとしていた。
「二時・・・ですね」
「な。早く寝ろ」
「はい、わかりました」
「うん。おやすみ。がんばれよ」
「はい。がんばります」
「おぅ。また帰ってくるの、楽しみにしてるから」

「・・・はい」

「じゃな」
「先生おやすみなさい」
「good night.」
 電話は、先生から切った。



 三月になって、日本では春休みの頃。川上先生がカナダへやってきた。他の二人の先生と三人で、それぞれ三クラスに分かれて生徒との面談だった。カナダでの生活と、勉強のことと。いろいろ話をして、四月からのクラス編成を考えるそうだ。カナダへは九月~翌年の七月という一年制で留学しているけれど、クラスとしては四月でクラス替えとなる。カナダでの授業も、四月からは新しいメンバーでの授業となる。そして日本に帰国した後、日本でもそのままのクラスで二年生として三月まで一緒に授業を受けるメンバーとなる。
「また同じクラスがいいね」
 お昼休み、食事をしながら面談やクラス替えの話をしている時、クミが言った。とにかくサオリは、カナダでの面談が川上先生の担当であることを喜んでいた。
「なんでうちのクラスだけ担任が来なかったんだろうね」
 私はスープをスプーンですくいながら言った。
「いいじゃん、サオリは川上に逢えて嬉しい」
「そりゃあんたはね」
 クミはサオリに突っ込んでそう言うと、続けて言った。
「うちの担任、四月から他の学校行くらしいよ」
「え?そうなの?」
「それで代わりにうちだけ面談は担任じゃなくて川上にチェンジみたい」
 クミがそう言うとサオリが笑顔で言った。
「担任に感謝しないとね~、あんまり好きじゃない先生だったけど」
「確かに」
 クミが返事をする。あんまり、人気のない担任の先生だった。小うるさくって。
 私の面談は二日目だった。カナダのいつも通う高校の、談話室で行われた。
「矢野、どうだ?慣れたか?」
「はい」
「そうか。こちらでの先生からはなかなか評価もいいようだし、その調子でがんばりなさい」
「はい」
 十分ほど、いろいろ話をした。けどよかった。川上先生との面談では、悪いことはほとんど言われなかった。
「ステイ先のお宅からはカフェで働いてもらってるって聞いてるけど、そういうのもいい経験になってるか?」
「はい、楽しいし、学校の友達以外の外国のかたとも話せるので、勉強にもなります」
「そうか、日本、帰りたくないだろ?」
「はい、こっちのほうが楽しいです」
「みんなそう言うんだよな。昨日から面談やってるけど、みんなそう言う」
「そうなんですか?」
「それだけこっちの生活はゆとりがあったり、気持ちがゆったりするってことだろう。あと四カ月で帰国だけど、それまでもっといろいろ経験できるといいな」
「はい、がんばります」

 川上先生は、先生って感じがした。前原先生とはやっぱりちょっと違う。

 それから少しして。四月の初めのこと。カナダの先生からクラス発表があった。新しいクラスでは、クミだけが同じクラスだった。サオリとは離れてしまったけれど、お昼は一緒に食べようって約束をした。新しいクラスは2-B。日本での担任は前原貴志。前原先生だった。
 その日授業が終わって四時過ぎ。ママのカフェへ向かう前に家に寄って自室の机のデスクから携帯を取り出した。携帯に表示されている日本時刻は朝の九時前。まだ、授業は始っていない時間のはずだ。前原先生に、電話をしてみた。特に用は無いのだけれど、担任が前原先生だと聞いて思わず電話をかけたくなった。何度か呼び出し音が鳴る。
 何度か。
 ・・・何度も。
 呼び出し音だけが鳴って、先生は一向に出なかった。
「朝はやっぱり忙しいのかな」
 私はそのまま携帯を切ってポッケにしまうと、カフェに向かった。その日はママのカフェにクラスメイトが集まっていた。四月からクラスが変わるので、一年お疲れ会の予定だった。ママがカフェ快く貸してくれて、たくさん料理を作ってくれた。もちろん私も手伝った。
「このパイは私が焼いたの、どぉ?」
 自慢するとみんなが次々に食べてくれた。ほとんとママがやってくれたに近かったけど、分量は自分で測ってやった。みんなで騒いで、歌って、一時間ほど経った頃、私の携帯が鳴った。
「あれ?サクラ電話?」
 私が携帯をポッケから出すと、クミが声をかけた。
「うん、ちょっと出てくる」
 カフェの外に出て、私は携帯を開いた。前原先生からだった。
「もしもし?」
「あ、矢野?電話くれてたみたいだけど、出れなかったごめん。何かあった?」
「いえ、すみません。忙しい時間帯でしたよね?」
「いや、ちょっと入学式の準備とかあって」
 そっか。日本では入学式なんだ。初めて前原先生を講堂で見た時のことを思い出した。
「担任が先生になったって聞いたから」
「あぁー。みたいだね。よろしくぅ」
「宜しくお願いします。あの・・・それだけの電話だった・・・んですけど」
「マジで?もぉ・・・何かあったかと思うじゃん。滅多に電話してこないのにかけてくるからさ」
 先生は電話の向こうで笑ってた。
「いつもすみません、タイミング悪くて」
「いやいいよ。でもちょっと、あんま時間取れないんだ。もう切るけどいい?」
「はい。ありがとうございました」
「おぅ。じゃあな」
「はい」
 電話が切れた。


「たかし・・・ちゃん?」
 背後から声がした。振り返ると、クミだった。
「え?たかしちゃん?電話の相手」
 クミは驚いているようだった。そりゃそうだ。
「え・・・っと」
 私は何も言えずにいた。
「なんで、たかしちゃんと電話してんの?ってか、サクラにかかってくんの?」
「え?それ・・・は」
「まさかほんとに付き合ってたの?たかしちゃんとサクラって」
「え?違うよ」
「でも、こっちに来る前空港であんなことあったし、来てすぐとかみんなの噂になってたじゃん?」
「ほんとに何でもないの。ちょっと相談とか乗ってもらってたことがあったくらいで。付き合ったりとかはしてないから」
「そうなの?びっくりすんじゃん」
「うん、ほんとに。ごめんね」
「あたしに秘密は無しだよー。二年も同じクラスなんだしさ」
「うん、わかってる」
 そう言うと、二人、カフェに戻った。


 一年ってあっという間だ。気付いたら七月になっていた。少し前に、薄手の服を少しだけ残して荷物をほぼ日本に送った。帰国の日がせまっていた。カナダで新しく買ったものも、残らず持って帰ることにした。また九月には、私の代わりに新しいステイ客がこの部屋にくるはずだから。
「サクラの名前は日本の国花の桜なのね」
 ある日カフェのお手伝いをしていると、客に出すミルクティーを入れながらママが私に聞いた。
「そうだよ。桜の木のサクラ」
 カップに注がれるティーを見ながら私が答えると、ママは言った。
「うちの庭に、桜の木を植えようかしら」
「え?桜ってカナダでも育つの?」
「どうかしら、わからないけれど。もし花が咲いてくれたら嬉しいと思わない?サクラが毎日そこに居るみたいで」
 ママはにこっと笑った。そして今度はこう言った。
「毎年、七月が来るたびさみしいの」
 私はママに何も言えなかった。そんな時に、なんて言葉をかければいいのか。私はまだまだ未熟な子供だ。
「日本の学校にね、大きな桜の木があるの。今度咲いた時には写真を撮って、ママに送るね」
「楽しみにしてるわ。さぞかし可愛らしい花なんでしょうね」
 ママはミルクティーを私のトレイに乗せながら言った。

 次の休日にはパパとショッピングデートをした。グランビル・アイランドで日本にいる母や兄にお土産をいくつか買って、前原先生にも一つお土産を買った。お昼過ぎに屋台でホットドッグを食べて、パパはどうやらビールを飲むのが楽しみだったようだ。一人残ってカフェで働いているママには、夕食にと、チーズを買った。パパとは、あんまりたくさんお話をしたことはない。いっぱい話をしてくれるママと違って無口だけど、いつも優しく抱きしめてくれる。そんなパパが帰りの電車の中で私に言ったんだ。
「サクラは自慢の娘だよ」
 って。

 帰りたくないよ。
 カナダにずっと居たいよ。

 でも、そんなわがままは通用しない。

 帰国の日。とてもきれいな青空だった。パパとママとは家で別れた。いつも、そうしているそうだ。別れがだんだん辛くなるから、いつも学校に送り出すみたいに玄関まででお別れするそうだ。
「サクラ、行ってらっしゃい」
 ママはいつもの朝みたいにそう言った。涙が止まらなかった。ぜったいにまた、パパとママに逢いに来ようって思った。がんばって笑顔を作って。
「行ってきます」
 って、パパとママの頬にキスをして別れた。学校に集合して、バスで空港まで行く。最後に見るカナダの景色だ。
 飛行機の中は比較的静かだった。みんなやっぱり、それぞれに思いがあって。私は、そんな思いを忘れるかのように、ひたすら無理して眠っていた。


 日本は、カナダよりずいぶん暑い。着くなりみんなグダグダ文句を言っていた。空港のロビーに数人の先生が迎えに来てくれていた。少し離れてそれぞれの親たちが迎えに来ていて、人で溢れていた。私を見つけた母が駆け寄ってきた。
「サクラお帰り~」
 久々に見る母だ。
「ただいま」
 私は母にハグをした。
「お。すっかりサクラがアメリカナイズされてる」
 兄は冗談っぽく言った。そして手荷物を持ってくれた。だけど居ない。前原先生が。
「帰ってくるの、楽しみにしてるから」
 そう言ってくれてたのに。先生が空港まで迎えに来るのが当たり前だと思っていた私が馬鹿だったんだ。そうだよね、空港に来ている先生はほんの数名だもん。前原先生が必ず来るというわけでもない。川上先生だって来てないし。そうこうしているうちに、スーツケースが手元に戻ってきて全員解散となった。兄は車を回してくると言って走って行った。
「ごめん、サクラ。ちょっとトイレ、行ってくるわね」
 母はそう言うと、お手洗いの表示を探しながら歩いて行った。下手に動いて迷うと困るので、私はすぐ近くにあった椅子に座った。デジカメをバッグから取り出して、最後に撮ったカナダのパパとママの写真を見ていた。
「もうカナダシック?」
 背後から声がした。前原先生だった。
「え?先生。来てたんですか?」
「しーっ。内緒な。俺今日は来なくていいって言われてるから」
「そうなんですか?」
 こっそり先生は私の隣に座った。
「あれ?先生眼鏡は?」
「あぁ。あれは仕事用」
「仕事用?」
「俺視力はいいからさ。先生やってる時だけ眼鏡かけてんの」
「どうしてですか?」
「眼鏡無いと、先生に見えないでしょ?」
「んー。そう言われると・・・」
「ほら。例えば就職活動している大学生はリクルートスーツって着るでしょ?他のライバルよりちょっとでも良く、真面目に見えるように。普段は茶髪なのに黒く髪を染めたりとか」
「あぁ・・・」
「それと同じ感じ?俺ってどう見ても先生に見えないから。ちょっとでもぽく見えるように、眼鏡かけてんの。伊達眼鏡ね」
「知らなかった」
「そりゃそうだろ、言ってないから」
 先生はクスッと笑った。
「元気そうだな。おかえり」
「・・・ただいま」
 なんだかちょっと照れた。そしてそのまま少し、何も話さなかった。
「んじゃあ~、俺行くね」
「え?もう?」
「他の先生にばれるとうるさいから」
 そう言うと先生は周りを気にしながらそっと立った。
「また夏休み明けたら学校で」
 そう言うと、行ってしまった。あ・・・。お土産を渡すのを忘れた!追いかけようと思ったけど、母が戻ってくるまではその場を動けない。仕方なく、遠ざかっていく先生の背中をそのまま見送った。それが、約一年ぶりの先生との再会だった。



 夏休み。日本に帰ってから特にすることもないのでバイトを始めた。ずっとカナダでママのカフェを手伝っていたから、日本でも接客の仕事をしようと思った。週に四日だけのファーストフードのお店でのバイト。家からそう遠くないところだったので、朝からバイトに入ることにした。七時から十五時までが私の勤務時間で、それからは深夜まで働ける大学生なんかがバイトに入っていた。朝は、通勤途中のサラリーマンの人たちがコーヒーを飲んで行ったりする。朝早起きしないといけないのが辛かったけど、昼間学生たちで賑わっているのとはまた違って、まんざら朝のバイトも嫌いじゃなかった。時々外国人の人も訪れる店で、決まって一緒に働いている人たちは私に接客を代わってと言った。カナダでずいぶんたくさんの人に親切にしてもらったから、日本でがんばっている外国の人にはできるだけ親切にしたい。そう思っていたせいか、接客は思った以上に楽しかったし経験にもなった。

 いつだっただろう。店に、知った顔がやってきた。
「あれ?矢野じゃね?」
 来たのは中学の頃の同級生だった。
「え?長瀬くん?」
 彼は、私が中学の頃好きだった人だった。三年間同じクラスで、だけどほとんど話したことは無かった。一方的な片想いで終わった中学の思い出。
「矢野じゃん。バイト?」
「うん」
 そっか。近所のお店だから、中学の同級生だったら来てもおかしくないんだ。
「あ、こちらでお召し上がりですか?」
 一応店員なので、接客をした。
「あぁ。持って帰りたいんだけど」
 長瀬くんはチキンとバーガーがセットになったものを注文すると、出来上がるまでカウンターの脇で待っていた。ちょっと、中学の頃より背が伸びている気がする。出来上がったものを手渡しにカウンターから出ると、長瀬くんは笑顔で受け取った。
「さんきゅ。ここ時々来るんだ、宜しくな」
「そうなの?うん、また来て」
 長瀬くんとは、それからも時々店で逢った。

 ある日、バイトが終わる頃の時間を見計らってクミがお店に来た。約束してあったんだ。バイトが終わってそのままその店でクミとお茶をした。
「いいよね~なんか、夏休みの宿題とかなくってさ」
「ほんとだよね、一年の時はカナダに行く前で宿題無かったし、今回は帰ってきてすぐだから無いし」
 クミと二人でのんびりフライドポテトをつまみながら話をした。
「あ、それで。サクラの相談って・・・何?何?」
 興味津々でクミが聞いてくる。今日の約束は、私から電話をした。相談したいことがあるから、今度逢えない?って。二年になってからはサオリよりクミと一緒に居ることが増えた。カナダに行っている間に、付き合っていた彼とは別れたみたいだった。あたしには遠距離恋愛は向いてないわ・・・と、クミは笑って言っていた。
「うん、あのね。前原・・・先生のこと、なんだけど」
「え?たかしちゃん?」
「うん」
「たかしちゃんがどうかしたの?」
「私・・・先生のこと、好きかもしれない」
「え?サクラが?」
 日本に帰って来てから、毎日思っていた。カナダに行っていた頃も確かに写真を見たり、何かあったら先生のことを思い出したりしていたけれど。好きかもしれないって思ったことは、なかった。だけど日本に帰って来てから、気になって仕方がなかった。
「うん、好きなのかもしれないって、思って」
「なんで?」
「わかんないけど、気になって仕方がなくて」
 そう言う私にクミははっきりと言った。
「悪いけど、たかしちゃんはやめといたほうがいいと思うよ」
「なんで?」
 思いがけない返事だった。
「う・・・ん、先生だからとかじゃなくてね」
「うん。なんで?」
「あたしたちがカナダに行ってた間に、いろいろあったみたいよ、たかしちゃん」
「いろいろ?」

 何も知らない。カナダに行ってた間の前原先生のこと。

「あたしの一コ上のお姉ちゃんもうちの学校なんだけど、いろいろ噂あったみたいだよ?」
「噂?」
「うん」
「何?教えて?」
「とにかくね、二回謹慎くらってる」
「謹慎?先生に謹慎とかってあるの?」
「うん」
 クミはジュースを飲んで続けた。
「あたしたちと交代でカナダから日本に留学生が来てたでしょ?その中の一人の子がたかしちゃんを偉く気に入ったらしいのね」
「うん」
「そんで。その子を含んだカナダの子五人くらいが、たかしちゃんに日本の案内してほしいって頼んだらしいんだわ」
「うん、それで?」
「たかしちゃん、優しいじゃん?引き受けたみたいで、約束のとこ行ったら四人は来てなくて、たかしちゃんを好きだって言う女の子だけ来てたんだって」
「うん」
「仕方なくたかしちゃんは二人でいろいろと、その女の子が行きたいって言ったとこ回ったらしいんだけど・・・」
「うん、それで?何?」
「クリスマスの時期でね、イルミネーションが見たいって言ったその子とちょっと遅くまで出かけてたみたい」
「うん」
「それが、見つかっちゃったんだって。うちの学校の関係者に」
「うん。それでどうしたの?」
「相手は未成年じゃん?十時過ぎちゃってて、たかしちゃんが連れまわしたってことになったみたい」
「えー?先生が?」
「うん。かなり怒られて、年末年始は学校来てなかったらしいよ」
「そうなの?でもそれって先生悪く無いじゃん」
「そうかもしれないけど、たかしちゃんは先生だもん。世間はたかしちゃんを注意して当然だし」
「そうだけど・・・」
 なんだかやるせない感じがした。年末年始・・・学校来てなかったんだ。
「あ・・・」
「ん?どしたの?」
 クミが私に問いかける。
「あ、ううん。なんでもない」
 そっか。お正月に電話した時、先生は謹慎中だったってことになるんだ。元気無かったのはそのせいだったのかもしれない。私、先生にひどいこと言った。英語もう話せるから先生は用無しだって。クビになるよって・・・。
「あと一つあるよ。先生の謹慎話」
 クミはしぶしぶって感じだけど話そうとしてくれていた。
「何?聞きたい、教えて」
「ほんとに好きなんだね、そんなに必死になるって」
「え?」
「カナダに居る時、一回電話あったじゃん?たかしちゃんから」
「うん」
「あの時は?もう好きだったの?付き合っては無いって言ってたけど」
「あの時は・・・まだ好きだなんて思ったことなかった」
「そうなの?」
「うん」
「でも携帯番号知ってる仲だったんでしょ?」
「・・・それは、相談に乗ってもらってただけだよ、ほんとに」
「まぁいいけど」
 クミと喧嘩してるみたいな口調になってた。
「ごめん、先生の話、聞かせてもらってもいい?続き」
 私がそう言うとため息ついて、仕方ないなぁって感じでクミは笑った。
「四月にうちの担任になったじゃん?」
「うん」
「でもあたしたちはまだ留学中だから、授業としてはまた一年生を受け持ってたらしいのね」
「うん。私達が一年の時と同じだよね?」
「うん、そう。その一年の中に偉く真面目な子が居たみたいで」
「それで?」
「たかしちゃんの授業ってあれじゃん?フレンドリーっていうか、学生のノリっていうか」
「あぁー、確かに」
「カナダに行ってみてわかったけど、あっちの学校の雰囲気なんだよね。日本の学校から見るとちょっと遊んでるっぽいっていうか」
「うん、わかる」
「それが気に入らなかったんだって、その真面目な子」
「うん。それで?」
「親に言ったみたい。不真面目な先生が居るって」
「不真面目?前原先生って全然不真面目じゃないよ?」
「わかってるよ。でもその子はそう親に言っちゃったみたい。それで問題になって、五月から授業やってないって」
「え?先生なのに授業やってないの?」
「うん。ずっと補佐みたいなのばっかりなんだって。テストの答案用紙の採点やったりとか、イベントごとの準備やったりとか」
「ひどい、それ。先生は凄く生徒一人一人見てくれてて。私が英語話すのに自信が無いこととか不安に思ってるってこと、一番最初に気付いてくれて声かけてくれたんだよ?」
 私は必死になっていた。
「たかしちゃんってそんななんだ?そうなの?知らなかった」
「あ、ごめん。クミ達には言えなかったんだ。先生もあんまり生徒と個人的に関わるのは駄目だろうしってことで・・・。私のこと気になるって、先生が声かえてくれたの」
「ふーん。別に聞いてなかったのとかはいいよ。いいんだけど」
 クミはそこで言葉をとめた。
「何?クミ」
「たかしちゃんのそういう中途半端なところが今まで問題起こしたりしてるわけじゃん?優しいのとか生徒を心配してるのとかって別にいいことだけど、だから何だかサクラの気持ちを応援できない、あたし」
 クミの言うことの意味が私にはあんまりわからなかった。
「なんで?なんでクミそんなこと言うの?」
「なんでって言われても・・・」
「ごめん、クミを責めるつもりはないんだけど」
 謝ると、クミは重い口を開いた。
「これは言うつもり無かったんだけど・・・、一応言っておくね」
「うん、何?なんか怖い」
「うん・・・。カナダに行く日にさ、サクラが先生とちょっと・・・あったじゃん?空港で」
「あ。・・・うん」
「あれもね、実は注意受けたみたいよ」
「うそ」
「う・・・ん。ほんと。九月に入ってすぐ、二週間くらい先生休んだみたい」
「まじで?私の・・・せいだよね、それって」
「まぁ、そういうことになっちゃうかも。先生んとこ行ったの、サクラからだし」
「どうしよう」
「終わったことは仕方ないけど。なんか駄目だよ、たかしちゃんは。やめときな」
 私は、何も言えずに俯いた。先生に迷惑かけてたなんて。
「ただね」
 クミが続けた。
「四月から担任になったじゃん?」
「うん・・・」
「問題になったのに、わざわざサクラの居るクラスの担任になったじゃん?」
「あ、ほんとだ」
「たかしちゃん、かなりサクラをかばったみたいだよ」
「な・・・んで?」
「知らないよ。でも、ちゃんと一生徒としてサクラのこと気になるみたいなこと言ったみたい。よく担任になること校長も承諾したもんだって思うけど」
 クミは大人みたいな口調で言った。私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。先生のこと好きな気持ちと。迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちと。先生の心の中がわからない気持ちと。でも知ってみたい気持ちと。何故私のことが気になるのか、少し期待している自分が居たり。ぐちゃぐちゃだった。
「あたしはね。やっぱサクラにはたかしちゃんをおすすめできない」
 何も言えない私にクミは言った。
「やっぱりたかしちゃんて何考えてるかわからないし。遊んでる風だし。サクラみたいに声をかけた生徒は他にも居るかもしれないし」
「それは無いよ」
「なんで無いって言えるの?」
「だって、私だけだって言ってたもん。携帯番号教えたのも」
 私はむきになっていた。先生を悪く思いたくなかった。
「あたしはね。サクラはまだ誰とも付き合ったこととかないし。キスとかもしたことないって言ってたし。先生の上手い手につかまらないほうがいいと思って・・・」
 クミの言うことにイラっときた。
「先生を悪く言わないで」
 クミはびっくりしていた。
「先生は・・・そんな遊んでるとか、そんな人じゃないから」
 ただひたすら、先生を信じていたかった。



 九月から新学期だ。頭の中がぐちゃぐちゃのまま夏休みが終わってしまった。クミとはあの日喧嘩別れみたいな感じになってしまって、その日のうちにすぐ、電話をして謝った。仲直りはした。けど。
「サクラのことは好きだから。でも、たかしちゃんのことは、あたしやっぱり応援はしないからね」
 そう言われた。

「みんな久しぶりだな」
 朝のホームルームで、一番最初に前原先生がみんなに言った言葉だ。帰国した日に先生に逢ったのは私だけだから、みんなは今日が帰国して初めて先生と逢ったことになる。あたしたちがカナダに行っていた間、先生が授業に出ていなかったこととか、知ってる人がこの中に何人居るんだろう。
「また、みんなに英語教えられるのは嬉しいけど、俺よりレベルアップして帰って来たやつとか居るんじゃないの?」
 先生がそう言うとクラスが沸いた。
「先生より英語上手くなったから先生あたしに負けるよ」
 カナダでもムードメーカーだった子が先生をはやし立てる。
「お、負けねーぞ」
 先生が挑戦を受けます!って表情で答えると、クラスが笑いでいっぱいになった。教室の雰囲気は、一年の時と変わらない。
「たかしちゃん、一応九月からはあたしたち二年の授業はやるみたいよ」
 クミからこっそり手渡しで回ってきたメモを開くとそう書いてあった。振り返ると、三つ後ろの席に座るクミがにっこりしていた。

 先生には聞きたいことがいっぱいあった。迷惑をかけてしまったことも謝りたかった。でも話しかけられなかった。電話をするのも怖かった。メールもできなかった。一年間の間の先生のことを私が知っていると知ったら、先生はどう思うだろう。聞いてはいけない気がして。先生の顔もまともに見れなくなった。でも日に日に、先生のことを好きな気持ちが大きくなっていく。それから毎日、放課後は逃げるように帰った。先生に見つからないように、急いで校舎を出る。学校が見えなくなる距離まで、全力で自転車をこいだ。

 キキーーーッ!

 ある日、家の近くまで来たところで別の自転車とぶつかりそうになって転んだ。相手は大丈夫みたいだった。
「ごめん、大丈夫ですか?」
 ぶつかりそうになった相手が声をかけてきた。倒れた自転車を起こしてくれる。
「すみません、よそ見してました」
 私は謝りながら顔をあげた。
「あれ?矢野だ」
 相手は長瀬くんだった。
「ごめん、怪我してない?」
「うん、大丈夫」
 長瀬くんは私の腕を掴んで起こしてくれた。
「最近、あの店で見かけないね」
「あぁ・・・。夏休みだけのバイトだったから」
 通学バッグを拾いながら返事をした。
「それで居なかったのか。わざわざ時間いろいろずらして、今なら居るかなぁって覗きに行ったりしてのに、全然矢野居ないんだもん」
「え?」
 長瀬くんは笑ってた。私は鈍感だから、その時は長瀬くんの気持ちに気付いていなかった。家は近所だから、自然とその日は一緒に帰った。
「なぁー矢野。今度一緒にどっか行かない?」
「え?何処に?」
「遊びにでもいいし、映画とかでも何でもいいけど」
「う・・・ん」
 あんまり覚えてない。あの日はぼーっとしてたから。何も考えずに長瀬くんに返事をしてしまっていた。
「だったら、連絡またするから、携帯番号聞いてもいい?」
「いいよ」
 私はスカートのポケットから携帯を取り出すと、赤外線で番号を飛ばした。

 あ・・・。

 前原先生からも、こうやって連絡先教えてもらったんだ。目の前には長瀬くんが居るのに、私は先生のことばっかり考えてた。
「じゃぁ、また連絡するね」
 長瀬くんはそう言うと、自転車に乗って走って行った。

 なんか、心が空っぽだった。昔好きだった人。ほんの二年くらい前の私なら、きっと心臓がばくばく言うくらい緊張して、はしゃいでいたんだろうと思う。だけど今は目の前の出来事が自分のことではないかのように頭に入っていなかった。ただ、手に持った携帯を開いて見ていた。
「まえはら・・・たかし」
 アドレス帳の先生の名前を読んでみた。
「何?」
 まさかそこに先生が居たとは知らなかった。後ろから、先生が返事をした。
「え?」
「え?じゃないよ。自分で俺の名前呼んどいて、何だよ?」
「いや、あの・・・」
 上手く言葉が出てこない。
「今の、矢野の彼氏?」
「え?」
 長瀬くんのことだ。
「違いますよ。中学の同級生です」
「ふーん」
「ほんとですよ?」
「何も言ってないじゃん。ムキになんなって」
 そう言うと先生は小さな紙袋を、私に見せた。
「これも、矢野のか?自転車ぶつけた時に落としたんじゃないの?拾って持って来ちゃったんだけど」
 自転車ごとこけたとことか、全部見てたんだ。恥ずかしい。しかも先生が手に持っている紙袋は、ずっと渡そうかどうしようか迷っては、毎日学校へ持ってきていた先生へのカナダのお土産だった。
「カナダのでしょ、この紙袋」
 先生はそう言うと紙袋をまじまじと見ていた。
「それ・・・先生の」
「え?」
「お土産です」
 そう言うと、紙袋を持っていないほうの手で先生は自分を指差して、俺?っていう表情をした。
「そうです、先生に」
「うそ。マジで?」
 自転車のハンドルをギュッと握りしめたまま、私は小さく頷いた。
「あけていい?」
 もう一度私は小さく頷いた。
「え?くま?」
 紙袋を覗き込んで、先生はそう言った。そして中から取り出したくまのぬいぐるみを私に見せた。
「くまです」
「俺こういう趣味は・・・無いつもりなんだけどぉ」
「わかってます。私が欲しかったんです」
「は?これあれでしょ?向こうで人気のキャラのくまでしょ?」
 私は頷いた。
「私が欲しかったんだけど、先生に持っていて欲しかったんです」
「なんで矢野が欲しくて買ったものを俺になの?」
「・・・わからないけど。先生がいらなくなったら私がもらう」
 そう言ったら先生はちょっと笑って言った。
「矢野?なんだか意味わかんないよ?」
 先生はたぶん呆れていたみたいだったけれど、くまの顔を私の鼻にちょこんと当てると言った。
「けどせっかくだから、俺が預かっておくよ。いらなくなるまで持ってていいんだろ?」
「はい」
 紙袋に戻すと、先生は肩にかけていたトートバッグに紙袋をしまった。あんなに避けるように毎日帰宅していた私なのに。やっぱり先生と居られると嬉しくて。何も言わずに自転車のハンドルを手にしたまま、先生の顔を見ていた。先生も何も言わずに、私の顔を見ていた。そして私は、ふと我に返った。
「先生・・・なんでこんなところに居るの?学校からだいぶ離れてるよ?」
「うん・・・まぁ」
 変な返事。私から目をそらして、それから何も言わない。私も何も、言えなかった。
「なぁ・・・矢野」
 呟くように先生が私の名前を呼んだ。
「はい」
「少しで・・・いいんだけど」
「なんですか?」
「ちょっとだけでいいから・・・。今から付き合ってもらえないかな」
 先生の寂しげな表情から目が離せなかった。

 先生と逢った場所から1番近い駅で、二人で電車に乗った。隣同士座席に座る。夕方のこの時間は電車もすいていて、人もまばらだ。全く会話をしない私と先生が、連れだとは誰も思わないだろう。ただ隣同士座っていただけ。切符は先生が買って手渡してくれた。切符は運賃が書いてあるだけだし、何処まで行くのか全然わからない。いくつか駅を通り過ぎていく。少しして。
「降りるよ」
 先生が私に声をかけた。知らない駅。少し離れて、足早に歩く先生を追いかけて行く。何処へ行くんだろう。でも少し歩くと、見えた。
「海!」
 私が声をあげると、ポケットに手を突っ込んだまま歩きながら、先生は振り返って笑った。
「ここね、俺の生まれたとこ」
「先生の?」
「うん。親の家とか、すぐ近く」
 そうなんだ・・・。小さな漁港があって、でもそれほど田舎ってわけでもなくて。東京から少し電車に乗っただけなのに、こんな所があるんだ。
「ごめんな無理やり連れてきて。一人で来るのもなんかしけてるし。海見に行くって宣言してから連れてくのもなんか違うしと思って」
 そう言いながらすたすたと歩く先生を、追いかけるように歩いた。まだ海に入れるんじゃないかってくらいの日差しで、歩いていると汗をかく。テトラポットが並ぶ海岸沿いを歩いて、一番最初に見えたベンチに先生は座った。私も隣に座った。
「夏休み終わったくらいからずうっと来たいと思っててなかなか来れなかったんだけど、今日学校から帰って行く矢野を見かけて、矢野と一緒だったら行けるかなと思って自転車ずっと追いかけてた」
「え?どうやって?走って・・・ですか?」
「うん」
 いつも逃げるように帰るから、かなりスピード出して自転車こいでるのに。先生はそれを追いかけて走ってきたってこと?全然気付かなかった。それにしても。どうして私と一緒だったらここに来れるって思ったんだろう。どうして一人では来られなかったんだろう?

「なぁー矢野」
「はい」
「カナダ、楽しかった?」
「はい、楽しかったです」
「いいな。俺も行きたいなぁ」
「遊びでですか?」
「いや、なんでもいいけど。日本は・・・もぅいいや」
「・・・今日、なんか先生が先生じゃないみたい」
「え?どういう意味?」
「先生っていうより友達の愚痴聞いてるみたい」
 私がそう言うと先生は笑った。
「あぁー、もぉ先生とかいいよ。友達が愚痴ってると思ってて」
 先生は、大きく伸びをして。そのままベンチにごろんと横になった。座る私のすぐ横に、先生の顔。私を見上げてにこっと笑うと、先生はそっと目を閉じた。

 ・・・どうしよう。

 逃げ出したくなるくらい、ドキドキした。息ができないくらい、苦しかった。
「なぁ。俺ってさ」
 先生が目を閉じたまま言う。
「先生むいてないかな」
「どうしてですか?」
「まぁ・・・ね。いろいろあんだよ」
 そう言うと、先生はかけていた眼鏡を外して手に取った。寝転がったまま眼鏡を見つめて、そして続けて言った。
「こんな眼鏡かけたくらいじゃ、先生っぽさなんて、やっぱ出ないよね」
 私は何も言わずに、眼鏡をじっと見ている先生を見ていた。すると先生は体を起して立ちあがると、手に持っていた眼鏡を海に向かって投げた。
「あ」
 私は思わず声が出てしまった。
「眼鏡・・・」
 立ちあがって眼鏡が飛んで行ったほうへ私は行こうとした。そんな私の手を、先生が掴んだ。
「いいよ、もう要らないから」
「でも」
 そう言う私に先生は首を振って、いいよって表情を見せた。
「何か・・・あったんですか?」
「別に」
「私、子供だし、役に立たないと思うけど。先生の話聞くくらいならできますよ」
 そう言う私の手をまだつかんだまま、先生はじっと私を見た。
「だって今日は、先生は先生じゃなくて、愚痴ってる友達なんだもん」
 先生は、クスッと笑った。私の手を離すと、ベンチに戻って座った。
「じゃぁーさ。今日は友達として、俺の話聞いてくれる?」
 私はちょっと上から見下ろすような態勢で答えた。
「いいよ。なんでも聞いてやるよ」

 先生は。
 他の先生とは違う。

 注意ばっかりしたり、偉そうに授業したり。まるで自分が私達より上の人間だって言ってるような、そんな大人たちとは違う。いつも目線が同じで。時々ひどく年下みたいに子供に見えたり。今日みたいに、弱い自分を見せたり。
「学校・・・楽しい?」
 先生は、海を見たまま。私のほうを見ずに質問する。
「なんで?」
「えー?どうかな?って思っただけ」
「わかんない。楽しい時もあるし、だるい時もあるし」
「だな。たしかに」
「先生は?先生やってて楽しい?」
「んー。正直だるい。やめよーかなーって思ったりする」
「え?まだ先生になったとこなのに?」
「だよね。一年半しか経ってない」
 ポツリポツリと話す。私もなんだか脱力感の中、海を見ながら話してた。
「けどさ。俺の性格上、先生は無理だわ」
「なんで?」
「先生ってさ。生徒に冷たそうに見えるじゃん?ほんとに生徒のこと考えてんのかよ?みたいなさ、実際公務員の中の先生っていうただの職業なわけだし」
 先生の言葉に、なんとも返事ができなかった。返事をする代わりに、先生を見た。真剣な顔で、こっちを見ていた。
「でもそれができるって、先生側からすると凄いって思うんだよね」
「どういう・・・意味ですか?」
「俺はね、自分のプライベートなこととか気持ちとか、先生やってる時にも出ちゃうんだよ。隠せないんだよね」
「・・・気持ち?」
「そう。みんないざ学校から離れると、それぞれ悩みとかもあったりするわけじゃん?けどそれを生徒の前で見せるのは違うし、ポーカーフェイス装ってなきゃいけない」
「うん」
「それができるからみんな、先生はロボットみたいに見えんだよ。お前らから見たらつまんない大人に見えるかも知れないけど、俺からしたらみんな凄いと思うよ」
「そうなんだ?上手くわかんないけど」
「俺はさ、それができないから。強くないんだよね、実際。すぐ凹むしさ。自分の気持ちを隠そうとすればするほど、お前らと騒いだりするしか逃げ方がわからなくて。結局上から注意されたりするし。だるいよ、マジ」
 そう言うと先生は笑った。大人みたいだけど、子供みたいだった。私たちと同じように、先生だって悩むことあるんだ・・・。そう思った。
「同じように・・・生きてるんだもん」
「へ?」
「先生だって、人間だし。何でもできる人もいれば、できない人もいるし」
「あ・・・そうだよな」
「先生は、私に勇気をくれたし。元気もくれるし。いろんなこと、教えてくれてるよ?」
 そんなことしか、言えなかった。先生は何も言わないし、にこりともしなかった。
「ねぇ・・・先生」
「ん?」
「先生を、やめないでよ?」
 私のほうが泣きそうだった。いや、もう泣いていた。
「矢野?ごめん。変な話して」
「私先生が居なくなると困る」
「どうして?」
「困る・・・から」

 海が、きらきら光ってた。泣いていたから、景色はにじんでいたけれど。きれいだった。心が落ち着く感じがした。先生にずっと聞きたかったこと、謝りたかったこと。今なら全部言える気がする。

「先生?」
「ん?」
「私、聞いたんだけど・・・。私がカナダに行っていた間の先生のこと」
 先生は、じっと私を見ていた。私の涙はもう、止まっていたと思う。先生も聞こうとする表情で私を見ていた。
「何を・・・聞いた?」
「カナダの・・・留学生の話とか。一年の子が、先生を悪く言った話とか・・・。謹慎受けてたこととか」
 先生は無表情だった。
「うん。そう」
 先生はそう返事をしただけだった。
「でも。一番最初に迷惑をかけたのは、・・・私だよね?」
「矢野が?」
「うん。カナダに行く日に。先生に迷惑かけた。空港で」

 気持ちは落ち着いていたはずだった。なのにだんだんと先生の顔が見れなくなってきた。目をそらして、下を向くしかできなかった。

「ごめんなさい」



「先生、あの後怒られたって」



「学校も休んだって聞いて」



 少しずつしか話せなかった。息苦しくて。ずっと謝りたかっただけなのに。



「全然知らなくて」



「お正月に電話した時も、先生謹慎中だったなんて知らなくて」



「私は先生からいっぱい元気もらったのに」



「ごめんなさい」



「ごめんなさい」



 ただ謝った。それが一番言いたかったことだから。べンチに座ったまま。通学バックを膝の上で握りしめて。落ちていく涙を自分の手の甲に感じながら。ただ謝った。



「矢野・・・」



「ごめんな」



 先生が頭を撫でていてくれてたのは知ってる。私が泣きやむまで、撫でてくれていた。
「嫌な思い・・・させてたんだな」
「え?」
「ごめんな」
「ううん、嫌じゃない。だって、先生のほうが辛いこといっぱいあったのに」
 先生は首を振った。
「俺が矢野に声をかけたのが駄目だったんだ、きっと」
「どうして?」
「俺を頼っていいみたいな、ちょっとかっこいいフリを俺がしたから。中途半端に矢野に邪魔な存在になってた。きっと」
「先生は、邪魔じゃないよ?」
「ううん。やっぱ駄目だ、俺。生徒にかまいすぎるのは駄目だって言われてたのに、心配だったからさ、矢野のこと。俺の昔と似てて」
「先生と?」
「うん。俺も昔、人前で話をするのとか・・・全然駄目だったから」
「先生が?」
「みんなの前で、国語の授業とかでさ、教科書読むのとかも無理だった。照れくさいとか恥ずかしいとか、変に固まっちゃって」
「あ・・・。私と、一緒」
「だろ?矢野が同じだって気付いて。声をかけずに居られなかった。頑張って欲しいって思って」
「・・・先生は、どうやって話せるようになったの?」
「高校をね、一年で辞めた。」
「自主・・・退学、ですか?」
「うん。それで、一人でカナダ行った」
「え?」
「馬鹿だろ?英語話せないのにカナダ行ったんだぜ?」
 涙は、止まってた。先生の話を聞いていたかった。
「親に内緒で学校辞めたからさ、すんげぇ怒られて。しかもカナダ行くとか言ってる俺をおやじ殴るしさ」
「どうして、カナダだったんですか?」
「辞めた高校の掲示板に、ポスターが貼ってあったんだ。カナダのホームステイの。何処でもよかったんだけど、たまたま見たそこの景色が好きだったから、海外に行きたかったわけでもないのに、ここでいいや・・・みたいな単純な考えでカナダにした」
 それを聞いて私は少し笑った。
「馬鹿だろ?」
「単純」
「だろ?」
 先生も笑顔だった。
「内緒でおふくろが少しお金を用意してくれて。自分でやりたいこと頑張りなさいって。たいした金持ちの家でも無いのにさ、協力してくれて」
 私は頷いて返事をした。
「カナダで無茶苦茶英語勉強して。向こうのやつらに馬鹿にされないように必死だった。けど、楽しかったし、勉強になったし。人前で話せなかった俺って何だったんだろう?ってくらい、自信も勇気もついた」
 知らなかった、先生の過去。私と似た、生徒だったんだ。
「だからさ、矢野にも、どうにかカナダ・・・行って欲しかったんだ」
「先生・・・」
「毎日授業のたびに泣きそうになってんのも知ってたし。それを乗り越えないとカナダへの留学が却下される場合もまれにあるから。手を貸したかったんだ」
「うん。私ちゃんと、行けましたよ?カナダ。先生のおかげで」
「だな」
「うん」
「でも結果的には、矢野の気持ちを苦しめてしまったわけだし」
「それは・・・」
「たぶんね、俺が変に手を差し伸べなくても、きっと矢野は自分で乗り越えられたよ」
「そんなことないです。先生が居たから」
「ていうか。矢野を助けてるつもりで。結局俺もお前に頼ってたりしたからさ」
「え?」
「矢野じゃないと、こんな話できないし」
「わた・・・し?」
「親父とは喧嘩したまんまで、全然逢ってなくて。だからここにもなかなか来れなかったけど、矢野とだったら来れるかなぁーって思った」
「どうしてですか?」
「なんでだろ。ダチにも電話できない時とか、携帯開くと矢野の名前が目につくんだよね。見るだけで結局俺からはかけられないんだけど」
 私と一緒だ。
「見るだけで・・・安心する」
 そう言うと、先生は答えた。
「あ、そう。そんな感じ」
「それって、私が先生の安心貯金みたいじゃないですか」
 そう言うと先生は笑った。
「なんだよ、だったらお互いさまじゃん」
「私・・・先生の安心貯金でいいから。学校・・・辞めないでください」
「ありがとう。でもね、俺は矢野に助けてもらうわけにいかないから」
「どうしてですか?」
「俺だって男だし。一応プライドあるし。俺はお前の先生だし」
「なんか・・・先生ひどい」
「何が?」
「どうして最後に自分が先生ってこと、強調するんですか?」
「だって、そうでしょ?」
「だったらどうして。自分の弱いとこ見せたり、一人で来れなかった所へ私を連れてきたり、友達として話を聞いてくれって言ったりするんですか?」
「矢野・・・?」
「私が子供だから?勝手に着いてきて都合よく話を聞いてくれるから?」
「違うよ、矢野」
 私の腕を掴もうとする先生の手を、自然と振り払って私は立った。
「私が先生のこと好きな気持ち、知ってて遊んでるんですか?」
「え・・・?」
 先生は驚いていた。
「矢野?」
「私、先生のこと好きです。好きなんです。考えないでいようって思っても先生のことばっかり考えて。でも辛い時は先生のこと思いだすと元気が出て頑張ろうって思える。だから、先生が困ってるんだったら手を貸したいし、頼って欲しいって。何もできないかも知れないけど、そう思って・・・」
「矢野」
 先生も立ちあがって、私をじっと見た。
「今言ったことは聞かなかったことにするから」
「なんで?」
「俺のことをそういう風に思っちゃいけない」
「なんで?」
「そういう気持ちにさせてしまったんなら、俺謝るから」
「なんで謝るの?」
「俺は、矢野の、先生だから」
 涙と怒りと切なさとでぐちゃぐちゃだった。
「なんで先生とか言うの?」
「俺は先生に違いない。学校辞めるなって言ったのは矢野のほうでしょ?」

 どうして冷静にそんなこと言うの?
 私の気持ちは迷惑なの?

「先生は、私のこと・・・嫌い?」
 先生は、何も言わずに首を振った。
「好・・・き?」
 今度は、全く動かなかった。きっとそれが答えだ。だけど、YesなのかNoなのか、わからない。はっきり聞きたかったのに。
「クミの言ったとおりだ」
「え?」
 前原先生は、やめといたほうがいい・・・。頭にクミの言葉が浮かんだ。
「さようなら」
 私はそう言うと、ベンチまで歩いてきた道を引き返した。
「矢野、送るから」
 先生は慌てて着いてくる。
「ひとりで帰ります」
「矢野!」
 先生が呼ぶから、立ち止まって振り返った。でもね、もう先生の顔、見れなかった。
「ひとりで。・・・ひとりで帰りたいんです。ほおっておいてもらえませんか?」
 先生の返事を待たずに、私はそのまままた歩き出した。先生は追ってこなかった。



「くそ・・・」

 ベンチに腰掛けて、先生は自分の膝を叩いた。
「ごめん、矢野」
 振り向くことなく帰った私は、その後ベンチで先生が泣いていたことなんて知らない。
「俺だって、・・・好きだよ」



 いっぱい。いっぱい先生のことを知った。昔のこととか、先生の弱いところとか。悩んでいることとか、思っていることとか。嬉しいはずなのに。辛かった。周りにばれないように涙を無理やり止めて。電車に乗って家まで帰った。母も兄も居なくてよかった。そのままベッドで泣いた。
 どれくらい時間が経ったんだろう。外はすっかり暗くなっていて、母がご飯だって呼ぶ声で起きた。泣きはらした目・・・ばれちゃうだろうか。
「今欲しくないから、もうちょっとしてから食べる」
 ドアを少し開けて返事をすると、キッチンから母の声が帰ってくる。
「もぉー面倒くさいなぁ。後でだったら、自分で用意して自分で後片付けまでやってよー!」
「わかってるよ」
 そう返事をしてドアを閉めた。真っ暗な部屋で、携帯が光っているのが目に付いた。バイブのままだった。着信、知らなかった。入っていたのは、先生からのメールだった。
「今日はごめん」
 それだけ。それだけが、ずるいよ。

 その日私は。そのまま先生の名前をアドレス帳から消した。今日一番の勇気を振りしぼって。



 毎日、何をしていただろうって思う。何もしていないうちに日が暮れて、夜になる。そんな感じの毎日。
「ぼおーっとしてんね、最近」
 クミに言われた。お弁当を食べてる途中で、手が止まっていたみたいだった。
「たかしちゃんのことは早く忘れなって。まぁ毎日顔見ちゃうわけだから辛いとは思うけど」
 クミには、先生とのこと、少しだけ話していた。
「うん、わかってるよ」
「たかしちゃんもさ、最近つまんないよね」
 クミが言うこと、わかる。最近は、みんなと授業中に盛り上がったりしなくなった。他の先生みたいに、淡々と授業をする。周りのみんなも、つまんないってよく言ってるし。考えたくないけど、考えてしまう。先生は今、きっと。先生になろうとしてるんだって。私にはわからないけど。他の先生みたいに、悩み事とかあっても生徒には悟られないようなロボットみたいな先生になろうとしてるんだって。そんなの前原先生じゃないよ。かっこ悪いよ。そう思った。

 十月になって、長瀬くんから電話があった。うちの文化祭に遊びに来ない?って。
「えー?マジで?行くぅー」
 クミとサオリを誘った。長瀬くんも友達と三人らしかったので、二人を誘ってみた。
「私はさ、川上がいるから本当なら行かないんだけどぉ」
「だったら、やめれば?サクラと二人で楽しんでくるから」
「うそだよぉ。今回はちょっと浮気しちゃおう♪」
 サオリとクミははしゃいでいた。うちは女子高だから、滅多に出逢いとか無いし。
「それにしてもサクラも隅に置けないね」
 サオリが言った。
「何が?」
「喜多波高に彼氏居たなんて」
「え?彼氏じゃないよ?」
 サオリは勘違いしていたようだった。だって、サオリは私と先生のことを全く知らないし。
「いいっていいって。途中で二人きりにしてあげるから、楽しもうね~」
 サオリは完全に勘違いしている。
「だから違うってば」
「まぁいいじゃん、去年はこの時期カナダだったし。別の学校の学祭行くって初めてだもん。楽しもうよ」
 クミは上手く話をごまかしてくれた。

 文化祭の日。学校の門の所に着いて長瀬くんにメールを入れた。すぐに迎えに行くからって返事が来た。
「久しぶり」
 長瀬くんと逢うのは、自転車でぶつかった日以来だった。あの日。先生と海に行った日以来だ。
「長瀬くんってかっこいいじゃん。サクラの昔好きだった人なんでしょ?」
 クミがこっそり耳元で言った。男女共学の高校だから、うちの学校とはまた雰囲気が違う。パンフレット見ながらいろいろ案内してくれて。六人で写真撮ったり、食べたり飲んだり。そう言えば今の学校では、こんな楽しみ方できないんだなぁって思った。男の子はいないし、入学していきなり留学だしね。久しぶりに思いっきり笑った気がする。長瀬くんの友達も面白い人で、六人すぐ仲良くなった。
「ねぇ、矢野。二人でちょっと、抜けない?」
 長瀬くんがこっそり耳元で言う。みんなには聞こえていなかった。
「でも・・・」
「いいから」
 賑わう廊下の真ん中で、手を引っ張られてみんなと逆のほうへ二人で走った。
「何処行くの?」
「プラネタリウム」
 長瀬くんは走りながら返事をした。
「プラネタリウム?」
 視聴覚室を使って、何処かのクラスが手作りしたプラネタリウムだった。
「なんかさ、本物には負けるけどきれいなんだって」
 長瀬くんは笑って言った。
「へぇー」
 暗くした部屋の中に椅子が円形に並べられて。中央に手作りのプラネタリウムがあった。
「間にあった。もうすぐ始まるはず」
 長瀬くんは空いてる席を探して連れてってくれた。ちょっとわくわくした。プラネタリウムなんて見たこと無い。
「ただいまより始めたいと思います。手作りの星空ですが、ご堪能ください」
 女子生徒のアナウンスで、部屋が完全に真っ暗になった。ふわぁ~っと部屋の中央から光が溢れだして、部屋中いっぱいの星空になった。わぁ~!ってそれぞれに声があがる。
「きれい」
 真っ暗な教室の中を、ただ光が星のように広がっていた。
「カナダの空みたいだ」
 こんなだった。去年見たカナダの星空。少し田舎の町だったから、夜になるときれいな星空が見れるんだ。懐かしかった。パパとママを思い出した。元気かなぁ。そんなことを思いながら見上げていると、長瀬くんが私の手を掴んだ。暗い中で隣を見ると、長瀬くんは私をじっと見ていた。そのままずっと。手を繋いだまま光の星を見ていた。五分ちょっとの短いプラネタリウムだった。終わるとゆっくり部屋の灯りがついて、最初部屋に入った時くらいの薄暗さになった。長瀬くんの顔も、繋いだ手も、見えるくらいの明るさだった。
「あれー?長瀬。彼女?手なんて繋いじゃって」
 一人の女の子が話しかけてきた。私は急いで、手を離した。
「うっせーな、違うよ」
 長瀬くんは立ちあがってそう言った。他にも女の子が来て、冷やかす。私は少し俯いていただけだった。
「やめときなよ、長瀬の彼女が可哀想じゃん」
 誰かがそう言うと、みんな冷やかすのをやめた。
「行こう、矢野」
 長瀬くんに声をかけられて、頷いた。部屋を出て、廊下を歩いた。長瀬くんの少し後ろを、歩いた。途中長瀬くんは、立ち止まると廊下の窓から外を眺めた。私も隣に立って外を見た。運動場が見える三階の廊下。見下ろすと人がいっぱいだった。
「さっきはごめんね」
「え?」
「みんな勘違いとかしてて」
「ううん、大丈夫」
「あと・・・。ごめん、手、繋いで」
 私と長瀬くんだけ時間が止まったみたいに、廊下の窓から外を見ていた。後ろを賑やかに通って行く生徒の声がする。
「俺の・・・。本当に、俺の彼女に、なってくれない?」
 長瀬くんが顔を近づけて、そう言った。
「返事は、急がないから」
 突然の、好きだった人からの告白だった。


 
 クリスマスに、カナダのパパとママからプレゼントが届いた。薄いピンク色のマフラーとクリスマスカード。嬉しくてすぐ、電話をかけた。国際電話になるから、普段はかけないのだけれど。直接声が聞きたかったし、お礼も言いたかったし。
「サクラ?元気にしてるの?」
「うん、ママ。メリークリスマス」
 最初にママが出て、交代でパパとも話した。
「サクラ、日本で彼氏はできた?」
 ママの問いに、Noって答えた。長瀬くんとは、結局付き合わなかった。嫌いなわけではないけれど、その時の私は、長瀬くんの気持ちに正面から向かい合う自信が無かった。彼氏いない歴十七年。また、悲しくも記録が更新された。
 カナダのパパとママの声を聞いてから、思っていることがあった。
「え?カナダの大学?」
「うん、あっちの大学、受けたら駄目かな?」
 年が明けてすぐ、私は母にそう相談した。
「カナダでステイしていた所にね、語学中心に受講できるコースのある大学があって、日本人も多く行ってるの」
 そう言うと、すでに取り寄せていたパンフレットを母に見せた。
「日本でももちろん通訳になるために勉強はできるけど、どうせなら向こうでちゃんと勉強してきたいって思って。そのまま仕事できるなら向こうに長期で移り住んでもいいかなって」
 母は、パンフレットを手にとりながら聞いている。
「でも、難しいんじゃないの?向こうの大学って」
「だから今から準備したいの。高校はあと一年通える。向こうの大学は九月からだから、高校を卒業してから半年弱勉強する期間があるのね。その間に頑張りたいの」
「でもねぇ・・・」
 母は、すぐにいい返事をくれなかった。
「お願いします」
 初めて母に、頭を下げた。
「ちょっと、考えさせて」
 母はそう言っただけだった。

 母からはいい返事がもらえないまま、二月に三者懇談があった。私と母と、前原先生と。変な組み合わせ。普段の学校での状況を先生から聞いて、母は先生に質問した。
「例えばの・・・話なんですけど」
「はい」
 先生は母の話を聞く。
「うちの子、カナダの大学とか・・・先生なら行けると思いますか?いろんな面で」
 母の口からそんな質問が出るとは思っていなかった。先生も驚いていた。そして私の顔を見て、先生が言った。
「カナダの大学行くつもりなのか?」
 私は、小さく頷いた。
「どう思われます?」
 母は、真剣に先生へ質問をしていた。
「実際、行ける行けないの判断は僕はできませんし、軽々しく返事はできませんが」
「はい」
「あくまで僕の意見です。矢野なら、大丈夫なんじゃないですかね」
 そう言って、先生は私を見て微笑んだ。
「成績はいいです。僕は主に実践会話の英語の授業をしてますが、一年の時より全然実力も上がってます。他の…えぇと、文法能力や翻訳能力の試験も学年上位で終えてますから・・・」
 先生は試験の結果を表にしたものやグラフにしたものを母に見せながら説明をした。
「僕でよければ、なんでも聞いてください。頼りないかも知れませんが、向こうの大学のこととか、調べたりはできると思いますので」
 先生がそう言うと、母は頭を下げた。知らなかった、母があの後も大学のこと考えてくれてたなんて。
「お母さん、ありがとう」
 帰り道、自転車で走りながら母に言った。
「ほら、よそ見しながら自転車こいだら危ないでしょ」
 母はそう言いながら笑って私を追い抜いて行った。

 その後すぐに春休みになった。本格的に勉強を始めたくて、塾にも通うようになった。やっぱりお金がかかるので、バイトもした。カナダのパパとママともしょっちゅう話をした。インターネットのカメラとイヤホンを買って、それで実際顔を見ながらいっぱい話をした。今、カナダの家にステイしている私の後輩も、時々話をした。相談を受けて、そして励まして。日本を離れて不安になる気持ちもいっぱいわかるから、時間を忘れて話しては、よく怒られた。そしてあっという間に、私は高校三年生になった。

 入学式の日は、午後から私たちの始業式になる。一時に学校に着けばいいのだけれど、お昼前に学校に行った。桜の木の写真を、撮ろうと思ったんだ。カナダのママに送るって約束したから。兄に性能のいいデジカメを借りて、遠目から撮ったり花をアップで撮ったりしていた。
「矢野?何してんの?」
 声をかけたのは前原先生だった。
「あ。写真撮ってんの」
「見りゃわかるよ」
「あぁ、あのね。カナダのママに、桜の木の写真を送るって約束したから。それで」
 そう言うと先生は手を差し出した。
「貸してみ。矢野も一緒に撮ってやるよ。そのほうが向こうのママも喜ぶっしょ」
「あーほんとだ。先生たまにはいいこと言うなぁ」
 デジカメを先生に手渡して私は桜の木の下に立った。
「お前なぁ。そんなこと言うと不細工に写るよ?」
 そう言って先生はカメラを私のほうに向けた。
「何澄ましてんの。もっと笑えよ」
「うるさいー。先生ちゃんと撮ってよ?」
 久しぶりに先生と普通に話した。カメラの画面を見ながら先生は笑顔だった。
「はい」
 撮り終わると、先生はデジカメを差し出した。
「ほら」
 なかなか受け取らない私にカメラを突き出す。
「ねぇ、先生も撮ってあげるよ」
「え?俺はいいよ」
 そう言って先生の手からデジカメを受け取ると、先生の背中を押して桜の木の下へ行かせた。
「せっかくスーツで決まってんだから、たまにはいいじゃん」
「えー?なんで俺?」
 そしてカメラの画面を見た。そのまま思いっきりズームのボタンを押した。
「笑って!先生」
「笑えるかよ」
 そう言う先生は小さくピースをした。その姿に笑えた。そして、画面に大きく写る先生の写真を、私は撮った。
「先生今度は一年の担任なんだって?」
「そうだよ」
「ってことは。一年間は先生を辞めないね」
「え?」
「前に辞めたいって言ってたじゃん。でもさすがに担任になったんなら、一年間は辞められないじゃん」
 私がそう言うと先生は頭をくしゃくしゃといじった。
「嫌味か、それ」
「もぉー、やめてよ。せっかく髪ちゃんとしてきたのに」
「あぁ・・・ごめん。今日ヘアスタイル気合い入ってんな。くるくるじゃん」
「うるさいなぁ。ちょっと巻いてきただけだよ」
 バッグから小さな折りたたみのミラーを取り出して、髪を直した。それを見て先生が言った。
「可愛いよ」
 心臓が止まるかと思った。
「せ・ん・せ・い」
「ん?」
「そう言うこと言わない。気を持たせるようなこと言わない。あたしまた泣くよ?」
 いつからかなぁ。こんな風に先生に言えるようになったのは。全部を受け止めて、話せるようになったのは。
「一年生の子の心をもてあそぶ様な発言だけは、禁止だからね」
 そう言いながら私は先生の胸のあたりを叩いた。
「わかってるよ。そんなことしませんー。俺はいい先生だから。ほんと、いい先生過ぎて大人気」
「ばっかじゃないの?」
 ほんと、馬鹿だよ先生は。デジカメとミラーをバッグにしまうと先生にお礼を言った。
「先生写真ありがとね。カナダのパパとママもきっと喜ぶと思う」
「おぅ。んじゃな」
 片手を上げて先生は職員室のほうへ歩いて行った。



 三年生になって、あまり遊ぶ時間が無くなった。クミもサオリもクラスが変わってしまって、お昼休みには逢えるけど、それ以外ではあんまり一緒につるんでない。学校が終わると7時まで家の近所のスーパーでレジのバイトをして、その後七時半から九時半まで塾だった。だからなかなか放課後は遊べなかったんだ。塾から帰ってから夕食を食べて、寝る前も少し勉強した。最初は体を心配していた母も、言っても聞かない私をほおっておくようになって。でもやりたいことが見つかって、それに向かって頑張ることを苦だとは思わなかった。夏休みは今まで以上に勉強する時間もバイトの時間も増やせる。一日のスケジュールはびっしりだ。
「そんなに頑張ってもカナダの大学に必ずしも行けるってわけじゃないんだろ?」
 兄は意地悪っぽく言う。
「うるさいなぁ。ちょっと自分の就職が決まったからって、偉そう~」
 兄は不況の中、早くに就職先が決まっていた。ずっと母を楽にしたいって頑張ってたから。きっとそんな兄を神様はちゃんと見てたんだ。私のことは、神様はどうするつもりだろう。好きなように海外に行かせてもらって、これからまた行こうとして。母に無理言ってる私を、カナダの大学には行かせてくれないんだろうか。
「バイト、行ってくるね」
 兄にそう言うと、昼過ぎに家を出た。バイトが終わるといつものように塾へ。電車で移動している時に携帯のバイブが動いてるのに気付いた。見てみると知らない着信だった。誰だろう。電車の中だったし、知らない番号だったので出なかった。休みは夏季集中で来る学生も多い。塾内の模試も近づいていたのでみんなピリピリしてる。うちの高校は英語の授業がメインだから、それ以外の教科を塾で補って勉強することに私も必死だった。その日、塾で授業を受けている間にも一度携帯に着信があった。バッグの中で振動が響くので、すぐに拒否で止めた。周囲の目を気にしながら携帯を開くと、さっきの番号だった。誰だろう・・・気味が悪い。その知らない番号からの三回目の着信は、塾を出てすぐだった。駅に向かって歩いている時に鳴った。さすがに今度は出てみることにした。
「誰?」
 電話に出るなり、私は怒った口調でそう言った。悪戯だったとしたら、その相手に負けたくないと思って、強気に電話に出てみたんだ。
「え?俺・・・」
「だから、誰?悪戯だったらやめてください」
「俺だよ、前原」
「え・・・、せんせ・・・い?」
「うん・・・」
 ほんとだ。先生の声だ。そっか、前に先生の番号を消してしまったから、番号が出ても誰だかわからなかったんだ。
「あ、すみません」
「いや、何度もかけて・・・ごめん」
 私が謝ると、先生も謝った。
「あの・・・何か・・・」
 先生の声が小さいので、立ち止まって携帯に集中して聞こうとした。
「いや、うん・・・」
「え?どうしたんですか?」
「今、外?車の音とか聞こえる」
「あぁ、塾の帰りで。大通りだからうるさいですよね。ちょっと移動します」
 そう言いながら私は路地へ逃げるように入り込んだ。
「ここだったら大丈夫ですか?先生」
 問いかけたけど、返事は無かった。
「もしもし?先生?」
「うん、ごめん。いいや」
「え?先生待って。どうしたんですか?」
 無言のまま、でも電話は繋がったまま。先生が何か言ってくれるのを待った。
「先生?」
 先生が、かすかに息をしてるのは伝わってくる。何かあった気がする。
「たかしちゃん?」
 初めて私は、名前で先生を呼んだ。そしたら。先生は小さな声で言った。



「矢野・・・。

 今から、逢える?」



 泣いてる。ぜったい先生は泣いてる。
「何処に行ったらいい?」
 いっぱい泣いてる。
「ねぇ、先生?」
 泣きながら先生は答えた。
「海」
「海?」
「前にお前連れてきた、海」
「あ、先生が生まれたとこね?わかった、行くから」
 話しながら私はもう走っていた。駅の近くまで行って電話を切って。慌てて切符を買った。あの日一人で帰ってよかった。帰りも先生に切符買ってもらってたら、駅の名前とか覚えてなかった、きっと。
 あの日。先生と喧嘩して、一人で帰ったあの駅の名前を運賃表から探して切符を買った。電車の中から、あの日見た風景を見ながら、先生の生まれた場所へと向かった。

 駅に着いたのは十時を回っていて。あたりは真っ暗だし、人っ気もあんまりないし。なんとなく覚えている記憶だけで海までの道を走った。あった。あの日一緒に座ったベンチ。けどそのベンチには先生は居なかった。
「何処?先生」
 携帯をバッグから取り出して、先生の着信にリダイヤルした。そしたら。近くから着信の音が聞こえた。え?何処かで携帯が鳴ってる。鳴るほうへ音だけを頼りに歩いた。すると、少しして着信音が途切れて先生が出た。
「もしもし?」
 電話で話しながら歩いてきた先生が、目の前に居た。
「先生?大丈夫?」
「ほんとに・・・来てくれたんだ」
「来るよ、どうしたの?先生」
「ほんとに・・・矢野?」
「何言ってんの?」
 暗い中で、先生が顔を近づけて私を見た。
「矢野だ」
 そう言うとニッコリ笑って、私に倒れこむように私を抱きしめた。
「先生?」
「ごめん、ちょっとだけ」
 やっぱり・・・また泣いてる。
「先生、どうしたの?」
 先生の抱きしめる力が強くって、動けなかった。
「ごめん、矢野。少しでいいから」

 こんな時。大人の女性だったら何か声をかけるんだろうか。抱きしめる先生を、抱きしめ返したりするんだろうか。私はただ立っているだけで。泣いている先生の振動だけを体で受け止めていた。

 小さく息を殺すような先生の泣き声が。

 耳元に聞こえる。

 真っ暗な中。

 波の音も耳に入ってこなかった。

 ただ先生の泣き声が、私の心にも苦しかった。

「親父が・・・死んだんだ」
 そう言ったあと、また声を殺して泣いた。少しして。震えながら先生は、私から体を離した。
「ごめん」
 先生はそう言うと、反対を向いた。たぶん、涙を拭いてる。私に見せないように。なんで何も言えないんだろう。何か声をかけたかった。そっと。右手を伸ばして、先生の背中のシャツを掴んだ。そしたら先生はゆっくりと振り返った。私は先生のシャツを掴んだまま動けなくて。俯いた。だけどその掴んだ手を、先生は自分の手で包むようにそっとシャツから離して握りしめてくれた。
「ありがとう」
 顔の位置が私と同じになるように少しかがんで。左手で私の右手を握ったまま、自分の右手を私の頭に乗せた。
「ほんとにありがとう」
 すごい顔して泣いてる私の涙を、じっと見ながら先生は優しく微笑んだ。そして先生が指で私の頬の涙を拭った。泣きやめない私を、もう一度先生は抱きしめた。今度は優しく。自分の胸で。

「親父とは、高校辞めた時以来逢ってないんだ」
 私が泣きやむのを待って、先生は話をしてくれた。あのベンチで、二人で座って話した。
「おふくろとはたまに連絡取ってたけど、親父とは完全に縁が切れてたから」
 私は何も返事をせず、じっと先生の顔を見て話を聞いた。
「凄い頭の固い親父でさ。高校の教師やってんだよね。だから俺が高校を辞めたの、気に食わなかったんだ」
 懐かしそうにふっと先生は微笑む。
「俺が先生になろうって決めたのはきっと親父の影響だと思う。同じ職業について、俺のこと認めて欲しいって何処かで思ってた。そしたら俺の勝手な行動も全部、許して貰えるんじゃないかって。安易すぎる考えだけどね」



「けど・・・」



「立派な教師にもなれなくて。親父にも面と向かって逢いにも行けなくて。この場所に来るのが精一杯で。親の家には一歩も近づけないままだった」



「まだ親父には謝れても無い。親孝行も出来てない。俺たったひとりの息子なのに」



「脳梗塞だってさ。真面目に頑張りすぎなんだよ、あの親父」

 先生は落ち着いていた。もう泣いてもいなかった。むしろ優しい笑顔だった。
「ごめんな、矢野に迷惑かけて」
 私は首を振った。
「遅くなっちゃうよな、送ってくよ。まだ電車あるはずだから」
「ううん、一人で帰れるから。先生は家に戻らなきゃ」
「でも、お前の親にちゃんと話しないと。もう十一時半だぞ?」
「大丈夫」
 私は先生の腕を掴んでそう言った。
「私、先生の役に立てた?」
 先生は優しく頷いた。
「うん、ありがとう」
「だったらいい。お母さんにはいくら怒られても平気。先生は早くお父さんと仲直りしてこなきゃ」
 先生は、私の頭に手をやると優しく言った。
「駅までだけでも、送らせて。心配だから」
 私は大きく笑顔で頷いた。

 家に帰ると0時を思い切り回っていて。もちろん怒られた。ファミレスで勉強してたと嘘ついて。連絡入れなかったこととか思い切り責められた。携帯の振動には全く気付いていなかったけれど、何度も母と兄から着信が入っていた。
「ごめんね。今度からちゃんと連絡入れます」
 先生と話をして。お父さんのことを聞いて。母と兄には、迷惑かけちゃいけないって心から思った。

 次の日すぐに先生から電話があった。いろいろと忙しいと思うのに。ほんの少ししか話せなかったけど、声が聞けてよかった。何度もありがとうって言う。私、何もしていないのに。電話を切ってから、急に照れくさくなった。今頃になって、先生に抱きしめられたこととか。先生の体温とか。先生の腕の力とか。煙草の香りとか。いろんなものが思い出されてくる。先生は大変だったのに。不謹慎だけど、好きでいっぱいになってしまった。でもそんなことを考えている暇はないし。先生のことをどれだけ思っても、叶わない恋だってわかってるから。あの時先生は私のことを好きで抱きしめたわけではないんだよ。辛いことがあったから、誰かに寄りかかりたかっただけ。そう、頭の中に理解させるのが精一杯だった。
 なのに。
 なのに先生はタイミングが悪すぎるよ。八月になってすぐにまた、電話が入った。私からは連絡をしないようにしていたのに、まさか先生からかかってくるなんて思ってもいなかった。
「もしもし?矢野?」
「はい、こんにちは」
 バイトのお昼休みの時だった。たまたま休んでいる時だったから、電話にすぐに出ることができた。
「あのさ、この前迷惑かけちゃったし、お礼がしたくって」
「え?何のお礼ですか?」
「ほら、来てくれたでしょ?海まで」
「あぁー、うん」
 私は、何も興味がないふりをした。そういうふりをしていないと、ドキドキしてしまうから。
「嫌じゃなかったら、映画・・・見に行かない?」
「映画ですか?」
「うん。嫌じゃなかったら」
「嫌じゃないですけど」
「けど、何?」
「デートですか?それ」
「デート・・・みたいな授業だな」
「授業?」
「まぁ聞けよ。洋画って、当たり前だけど台詞が英語だろ?」
「はい」
「日本語の字幕が画面の下に出ちゃうけど、出来るだけ読まないようにして台詞を聞いて映画を見るんだ。意味がわかりづらい時だけ字幕読むようにしてね」
「はい」
「それってけっこう聞く勉強になるから、一緒に行かないかなぁーと思って」
「はぁ・・・。先生って頭いいんですね」
「なんで?」
「映画見て、英語の勉強が出来てって、一石二鳥じゃないですか。思いつかなかった」
「あのなぁ、馬鹿にすんなよ。俺これでも国家試験に受かった公務員、先生だからね?」
「でもいいんですか?先生が生徒を映画なんて誘って。また謹慎くらいますよ」
「冗談やめてよ、謹慎は簡便だな」
「でしょ?」
「でも、なんか矢野はもぉ生徒って感じしてないし」
「え?」
「なんかさ、俺って生徒の前ではかっこつけちゃったりとかすんだけど、矢野の前ではもぅいいかなって思えるし。生徒って感じしないんだな」
「なんですか?それ、もぅいいかなって・・・」
「友達とさ、いるみたいな感覚なんだよね。素で居られる」

 ・・・それって、どういう意味ですか?

 心を許してくれてるってことですか?

 やっぱり、先生に期待をしてしまう。そういうの、やめて欲しいって思う反面、やっぱり嬉しい。電話の向こうで、先生はまだ、話を続けた。
「前にさ、おやじのことがあって実家に全然帰ることもできないくせに、"実家に帰ると親がうるさいからうぜー"とかって強がってお前に言ったことあんの。電話で」
「そう・・・でしたっけ?」
「うん。普段は俺ってそんな感じで、なんか強がったりとかしちゃうんだよね」
「うん・・・知ってるよ」
「やっぱり?矢野にはばれてんな。なんか、矢野には別にそんな風にしなくてもいいなって思えるんだよね」

 先生の言葉が、先生を諦めようとしている私の気持ちを揺さぶる。もう、先生のことは先生としか見ないようにしようって思っていたのに。

 その日私は、塾を休んだ。クミと約束をして、近所のファミレスで一緒に夕食を食べた。
「で?たかしちゃんのこと、もう一回頑張る気なの?」
 クミはお姉ちゃんみたいに、話を聞いてはいつも助言してくれるから。その日も、先生との電話のことをクミに話した。
「うーん、正直悩んじゃった。好きには違いないけど、もう諦めようって思ってたのに」
「そっか。でも映画、約束しちゃったんでしょ?」
「うん。英語の勉強になるのは確かだから」
「だけどさ、映画ならあたしとだって行けるわけじゃん?たかしちゃんとじゃなくてもさ」
「そうだけど」
 注文した料理が運ばれてきた。おなかはすいてるけど、なんだか食べる気になれなかった。どうしたらいいんだろうって、気持ちがすっきりしないから。
「食べるよ」
 クミはさっさとフォークを取ると、パスタを食べ始めた。
「前はさ、応援出来ないって言ったけど」
 クミはパスタをフォークでくるくるしながら、目線をそらしたまま話す。
「ん?何?」
「うん。前はね、たかしちゃんやめとけって言ったじゃん。けどさ、あと半年もしたらあたしたち卒業するんだよね」
「うん」
「そしたら、先生と、堂々と付き合えたりするわけじゃん?」
 
 クミは、いつも一歩先の話をする。いつも。今必死な私と違って、冷静にこれからのことを考えながら話してくれる。卒業したら、なんてこと考えたことなかった。
「本当にサクラがたかしちゃんを好きで、もし、たかしちゃんもサクラのこと好きだったりするんだったら、応援するよ、あたし」
 そう言うとクミはパスタを口に運んだ。
「ほんとに?」
「あたしは知らないけど、サクラが知る限りたかしちゃんはいいやつなんでしょ?」
「うん。本当に。先生は優しい素敵な人だよ」
「だったらいいんじゃない?映画、行ってきなよ。英語の勉強だから堂々と行けるんでしょ?」
「うん」
 返事をして、私もパスタを口に運んだ。
「あとはたかしちゃんの気持ちかぁー」
「え?」
「聞いたことあるの?サクラのこと好きかどうか」
「んー。一回・・・ある」
「そうだったの?そんで、返事は?なんて?」
「嫌いじゃないって言ったけど、好きかって聞いたら答えてくれなかった」
 去年の・・・夏のことだ。あの日、私は先生を諦めるって決めた。
「一回ちゃんと、聞いてみたいね。でも生徒との関係以上に心開いてそうなサクラ相手でも、生徒は生徒だからなぁー」
 そう言うとクミはストレートティーのストローを口に運んだ。

 映画の日は楽しみで楽しみでしようがなかった。お昼過ぎに待ち合わせ。早くに目が覚めて、何を着て行こうか昨日散々迷ったのに、まだいろいろ考えて。今まで先生と逢う時はいつも突然だったから、こうやって約束をして逢うのは初めてだった。
「授業・・・だけど、デートじゃん」
 朝から私は浮かれていた。

 携帯が鳴ったのは十時頃。クミからだった。
「サクラ!大変!」
「おはよー。何?どしたの?」
「あのね、サオリが、退学になった」
「え?」

「どういうこと?サオリが退学って、何したの?」
「あたしもびっくりしたんだから」
 まだ家には兄がいたので、部屋のドアを閉めた。
「で、何なの?」
「あたし全然知らなかったんだけど、サオリって川上とちょっと付き合ってたみたいなのね」
「え?サオリが?確かに好きって言ってたけど」
「でね、どうやらサオリ、妊娠二カ月って」
「え?妊娠?なんで?」
「なんで?って、そういうことしたからでしょ」
「え?サオリが?誰と」
「あんたアホでしょ、川上!」
「えー?それで退学なの?」
「うん。川上は九月から別の学校に行くって」
「サオリには?電話した?」
「ううん、まだ。逢いに行ってみようかと思って」
「あ、私も行く」
「でも今日ってたかしちゃんと映画なんじゃないの?」
「うん、まだ時間あるから」
「わかった。じゃぁ一緒に行こう。あたしも正直、一人で逢いに行く勇気なくて」
 珍しくクミも動揺しているみたいだった。

 急いでクミと逢った。前にバイトしていたお店の前で待ち合わせして。サオリの家は何度か行ったことがある。マンションがいっぱい立ち並ぶ中の1棟に住んでる。五階だったと思う。連絡は入れずに行ったけど、サオリは家に居た。ちょうど家族の誰もいなくて、一人だった。
「家を出るなって親に言われてて、ちょーうざいよ」
 サオリは平然としていた。
「聞いたよ?妊娠ってまじ?」
「クミはいきなり本題に入った」
「マジ。もぉー信じらんない」
 サオリは冷蔵庫からジュースを取りだした。
「あ。部屋入ってて、これ持って後から行くから」
 サオリはコップを棚から取り出しながら言った。
「私手伝うよ」
 駆け寄ると、サオリはカップを私に手渡した。サオリの部屋で、三人向かい合うみたいに机を囲んで座って、最初に話を始めたのはやっぱりクミだった。
「どういうことよ?妊娠って。しかも退学とか、相手が川上とか。全部まじなの?」
「うん。ほんと」
「いつから付き合ってたの?」
「三年になってすぐ・・・くらい」
 クミはどんどん質問する。
「ねぇ、クミ。なんかあたし怒られてるみたい」
 サオリはクミにぼそっと言った。
「そりゃ怒るよ。何やってんのよあんた」
 手は出さないけど、完全にクミは怒ってる。
「うん、ごめん」
「川上は?なんて?」
「おろせって」
「え?」
 思わず声が出た。私のほうを見て、サオリは言う。
「そりゃそうでしょ。自分の学校の生徒に子供産ませるわけにいかないじゃん」
「そうだけど、ひどいよ・・・」
 クミは私をちらっと見てからサオリに聞いた。
「あんたは、どうすんの?おろすの?産むの?」
「あたしは・・・産むって決めたから」
 三人、そのまま無言になってしまった。少しして、クミが言った。
「産むっていっても、簡単じゃないよ?おろせって言われたってことは、結婚は・・・ないんでしょ?サオリのお父さんとかはなんて言ってんの?」
「そりゃ、おろせって」
「でも育てるの・・・大変じゃん。サオリ、大学行ってやりたいことあるとか言ってなかったっけ?」
「大学は、行かなくてもいいよ。それよりこの子を産んで育てたい」
 サオリの言葉を聞いて、あることを聞いてみたくなった。
「どうしてサオリは・・・産みたいの?」
 結婚もしないで、やりたいことを諦めてまで、どうして産みたいの?泣きそうになってる私に、サオリは微笑んだ。そしてゆっくり、言ったの。
「川上の子供だから」

 私にはわからなかった。
「どうしてサオリは産んで育てたいんだろう」
「え?」
 帰り道、クミと二人の時にクミにそう言ってみた。
「おろすのも、確かに辛いことだけど、どうして産んで育てたいんだろう」
「ねぇサクラ?」
 クミは立ち止まって真剣な顔で言った。
「もし、・・・もしよ?あんたがたかしちゃんの子供を妊娠したら・・・どうする?」
「私?」
「うん。どうする?やっぱり産む?」
「私・・・そんなことしないもん」
「いや、だから、もし・・・って言ってるじゃん」
「もしでも・・・ないもん」
「ないって、たかしちゃんのこと好きじゃないの?」
「好き・・・だよ」
「だったら、そういうことだって考えるでしょ?」
「考えないよ」
「考えるよ。サクラってほんと子供」
「なんで?」
「たかしちゃんと居て、触れたいとか触れられたいとか、キスしてみたいとかされたいとか。思わない?」
 立ち止まったまま、クミと完全に向かい合っていた。
「手を繋ぎたいとか、ずっと声を聞いてたいとか、いろいろ思わない?」
「だからって・・・そんなこと聞かれたくない」
「え?」
「私、行くね」
 クミの質問には答えないまま、私はその場を走り去った。なんでよ。サオリも、好きだからってどうして簡単に妊娠とかしちゃうのよ。どうして簡単に産んで育てるとか言うのよ。クミも、どうしてそれをたかしちゃんと私に例えるのよ。やめてよ。

 その日。とりあえず、先生との待ち合わせ場所には行った。先生のほうが少し遅れて来た。
「矢野」
 全然先生には見えない、カジュアルな服装の先生だった。
「どうしよっかな、映画まで時間あるんだけど」
 何も言わない私を、先生はじっと見つめる。川上先生とサオリのこと、知らないんだろうか。
「どうした?元気ないけど」
「ううん、何も」
「体調悪い?」
「大丈夫」
「そう?時間までどっかでお茶でもする?」
 そう言って私の腕を掴もうとした先生の手を、思わずはらってしまった。
「嫌だ」
 先生は驚いていた。
「え?ごめん、何か・・・あった?」
 俯いたまま、私は首を振った。
「ごめんなさい、先生。帰ります」
「うん、いいけど。気分悪い?」
「大丈夫」
「だったら送って行こうか?」
「大丈夫です」
 先生の顔を見ながら強く言ってしまったから、先生はやっぱり驚いていた。
「大丈夫じゃないでしょ?何があった?俺に関係すること?」
「違う。とにかく帰ります。さようなら」
 頭を下げて帰ろうとする私を先生は追いかけてくる。
「矢野」
 どうしてかな。先生が怖かった。触れられるのが、怖かった。私を呼ぶ先生を残して、私は走って逃げた。先生は追いかけては来なかったみたいだった。だけどすぐにメールが届いた。
「逢って話すのが嫌だったらメールでも電話でもいいから、なんでも言って。聞くから」
 何を言いたいのか。何を話したいのかもわからないよ。ただあの瞬間、先生から逃げたかった。


 クミともサオリとも、先生とも連絡を取らないまま夏休みは終わった。それぞれ向こうからの連絡はあった。私が、電話にも出なかったし、メールも返さなかっただけ。残りの夏休みは、ただひたすらバイトへ行って、ただひたすら勉強した。だから、久々にクミや先生と逢うことになる学校へ九月からまた行くのが憂鬱だった。三年のそれぞれのクラスではサオリの噂でもちきりだった。退学になったことはみんな知っていた。その理由も。川上先生が他校へ異動になったことも。
「ねぇ、サクラはサオリと仲良かったよね。あれから川上とサオリって・・・どうなの?」
「結婚しちゃったりすんの?」
「サオリは退学なのに、川上は教員免許とか取られないんだね。男って得じゃない?」
「ほんと、やりたい放題だよね」
 周りのみんなは適当にいろいろ言う。
「知らない、最近逢ってないから」
 私はみんなの噂話から逃げてばっかりだった。声をかけようとするクミからも逃げていた。そして、先生からも。また以前のように、授業が終わると先生から逃げるように学校を出て帰った。

 その日は待ち伏せていたクミと、まんまとはち合わせた。校門を出た所で、クミは待っていた。自転車を押しながら通り過ぎようとしたけれど、クミに自転車を掴まれてしまった。
「サクラ、今日はちょっと、話させて?」
 無理に帰ろうとしたけど、無理っぽかった。
「サクラに謝りたくて。ごめんね、なんか、たかしちゃんとのこと変に例えたりして」
「いいよ」
 そう返事をしてみたものの、クミの顔は見れていなかった。
「サクラが純粋にたかしちゃんのこと好きなのを知ってたのに。本当にごめん」
「いいってば」
「あの日あれからどうした?映画、行ったの?」
 私は首を振った。
「なんで?楽しみにしてたじゃん」
「行きたくなくなったから、帰った」
「え?じゃあ他の日に?」
「ううん、映画には行ってない」
「そうなの?」
「うん、じゃぁ、私帰るね」
 そう言って、自転車に乗ろうとしたけど、クミはハンドルを離さなかった。
「それって、あたしのせいかな?余計なことサクラに言っちゃったからかな?」
「違うよ」
「あたしがサクラのこと子供だとか、いろいろ言ったから・・・」
 私は、ハンドルを持つクミの手を外した。
「違うよ。先生に逢うのが怖くなっただけ」
「なんで怖いの?」
「触れられるのとか・・・怖いって思えてきてしまって。逢いには行ったけど逃げて帰ってきちゃったの。もうそれから逢ってない」
 クミは何も言わなかった。
「自分でもよくわかんない。でももう・・・なんか先生のことはどうでもいいし。先生の手、はらっちゃったし。きっと嫌われたと思う。だからいいの」
 それだけ言って、私は自転車に乗って学校から立ち去った。その後、クミが先生の所に行ってたなんて、知らずに。



「お待たせ。お前が俺に用って珍しいな」
 クミが先生を訪ねて行ったのは英語のリスニングルームだった。
「先生に話があって、ちょっとドア閉めてもいいですか?まずいですか?」
「え?」
「川上みたいなことになったらまずいから・・・先生も謹慎、前にやってるし」
「お前相変わらずきついな」
 先生はそう笑って言いながら部屋のドアを閉めた。
「サクラのことなんですけど・・・」
「矢野?」
「たかしちゃんは、サクラのこと、好きですか?」
「唐突だな。なんでそんなこと聞くの?」
「サクラはたかしちゃんのこと、好きだから」
 先生は、黙ってクミの顔を見て頷いた。
「サクラの気持ちを知ってるんなら尚更、たかしちゃんはどうなの?」
「なんだよ、矢野に頼まれて来たのか?」
「サクラは関係ない。あたしが勝手に聞きに来ただけ。言って欲しくなかったら、先生の答えはサクラには言わないから、教えて」
 先生は、返事をしないで一番前の席に座ってクミの顔を見上げた。
「たかしちゃんは、サクラのこと・・・好き?」
「先生が生徒に好きとか、言っちゃだめでしょ」
「先生とか生徒とか抜きで。どうなの?」
「それ。俺の気持ち聞いてお前は何をしたいの?」
 クミの質問には答えずに、先生は反対にクミへ質問をする。
「サクラは、今先生のことが怖くなってる」
「俺を?」
「川上とサオリのこと、たかしちゃんならもちろん知ってるでしょ?」
 先生は黙って頷く。
「サオリはあたしともサクラとも仲良かったから。サクラはサオリが妊娠したことすごくショック受けてる。サオリが産むって言ってることも。だから。同じ先生とそうなってしまったサオリと自分をちょっと重ねてしまってると思う」
「重ねてるって?」
「もし、たかしちゃんとサクラがそういうことになったら・・・って」
「俺と矢野が?」
「もしそうなったらどうする?って、あたしがサクラに聞いてしまったんだ。そしたら怒りだして。その日ってたかしちゃんと映画を見に行く日だったんだけど、逢いに行ったけど先生が怖くなってしまったって」
「それで帰ったのか・・・」
「あたしのせいだから。本当にサクラは純粋にたかしちゃんのこと好きなだけだったのに。いろんな不安を与えてしまったから。たかしちゃんの気持ち、聞いてみたくて来ました」
「そう」
「ねぇ。たかしちゃんはサクラのことどう思ってんの?」
「それはね。矢野以外の人には言えない」
 先生は優しい笑顔でクミに答えた。
「それが答え?」
「そう、答え」
「サクラのこと、本当に大事に思うなら。好きな人を怖いって思う気持ちをなくしてあげてよ」
 クミは先生のいる机に両手をついてそう言った。
「たかしちゃん、サクラとあの日以来連絡取ってる?」
 先生は首を振る。
「あたしも、サオリもなの。サクラは誰とも連絡取って無くて。閉じこもってしまってるから。たかしちゃんしか頼れないの。助けてあげてよ」
 先生は黙って立ちあがると、クミの頭に手をやった。
「そういうことは、お前ら心配しなくていいの。俺がなんとかするから」
 先生の顔を見上げるクミの頭をポンポンっと軽く叩くとこうにこっと笑って言った。
「教えてくれてさんきゅうな。お前らいい友達同士やってるよ」
 クミはそのまま泣いた。
「こんなとこで泣くなってー。怪しまれるから」
「だって。たかしちゃんってかっこいいじゃん」
「はぁ?」
「サクラがたかしちゃんのこと好きだって言うの、わかった気がする」
 クミは思いっきり泣きながら先生にそう言った。先生は笑って、教壇の奥の棚からティッシュを持って来た。
「だから泣くなってー」
 泣きながらティッシュを握りしめて、クミは笑ってた。



 先生には、個人的にはもう逢わない。

 電話はしない。

 メールもしない。

 学校ですれ違っても、挨拶しかしない。

 そう、決めていた。学校が終わるとまっすぐバイト先へ向かう。それから塾へ行って、家に帰る。クミと話をしたその日も、そのはずだったなのに。塾が終わって、ビルを出てくると、先生が居た。
「ごめん。吉岡にここ、聞いた」
「クミに?」
 先生は、学校の帰りだったみたいで、スーツ姿だった。私と先生が話しているのを、塾のみんなが見ながら通り過ぎる。
「私は何も用がありません、帰りますので」
 先生の前を通り過ぎて駅へ向かった。だけど先生は着いてくる。
「なぁー矢野。俺のこと、そんなに怖い?」
 声をかけられても無視して歩いた。
「ねぇ、俺のこと、そんなに怖い?信用できない?」
 しつこい。そう思ってすたすた歩いた。
「先生でもなんでもいいよ。無視だけはやめてくれないかな。俺のことも、吉岡たちのことも」
「え?」
 どうして知ってるんだろう。クミたちのことまで。そう思って、立ち止まった。振り返らなくても、先生はそっと、私の前に先回りするように歩いてきた。ゆっくりと先生の顔を見ると、凄く優しい顔をしていた。
「なぁ。傍にくらい、居させてよ」
「なんで?」
「矢野のこと、好きだから」
 突然知ってしまった、先生の気持ち。先生は、子供みたいに照れくさそうに笑ってた。

 だけどね。きっと私・・・、怖い顔してた思う。必死に自分の気持ちを押し殺していたから。目をそらして立ち去ろうとしたのに、先生は顔を覗くようにして言う。
「少しぐらい、話させてよ。矢野?」
 卑怯だよ。先生は。もう先生のことはただの先生だと思おうとしているのに。笑顔で声をかけてくるなんて。
「帰るのが遅くなると母が心配するんで・・・、帰ります」
「そっか。そうだよね、それはまずいよね」
 私は黙って頷いた。はたから見たら、きっと、女子高生ナンパしてるみたいに見えるよ、これ。先生は全然先生みたいじゃなくって。
「じゃぁ、後で電話するね」
 友達みたいに言った。

 とにかく目が合わせられなかった。小さく頷いて、また私は逃げるように先生の前から立ち去った。ドキドキして。
「矢野のこと、好きだから」
 その言葉が耳から離れなかった。肩から掛けたバッグをギュッと握りしめるように持って、駅まで走った。電車の中で携帯を手に持って。いつかかってくるんだろうって。なんて言ってかかってくるんだろうって。出るのが怖いくせに、待ち遠しくて。家に帰ったらお母さんにお風呂に入りなさいって言われたけど、勉強してからにするって言って部屋に閉じこもった。ベッドに座って、膝の上に携帯を乗せて。どれくらい待っただろう。全然時間経ってないのに、もう何時間も待ってるみたいな感覚になる。忘れようとしてるくせに待ってる。そんな自分がわからなくなる。

 少しして・・・携帯が鳴った。

 先生だ。

 ドキドキしながら電話に出た。

「もしもし?矢野?」
「・・・はい」
「さっきごめんな、あんな所で待って」
「いえ」
「無理にでも逢わないと、話できないと思って。ほんとごめん」
「はい」
 私はただ、先生が話すたびに淡々と返事をした。
「さっき言ったこと・・・本当だから」
「さっき?」
「矢野のこと、好きだよ」
「・・・なんで?」
「なんでかな」
 二人少し黙った。先生が鼻をすする音が聞こえる。耳にくすぐったかった。ただドキドキして、何も言えなくて。
「ずっとさ・・・思ってたんだよね」
 ベッドの上で膝を丸くして、ゆっくりと先生が話しだすのをただ聞いていた。
「俺、先生だし。何も思ってないふりをしないといけないって。前に矢野が俺のこと好きだって言ってくれた時すっげー嬉しかったのに。でも受け入れちゃいけないって」
「だったら・・・」
「ん?」
「どうして好きとか言うんですか?」
「ほんとだよな。どうしてだろう。今矢野は勉強一生懸命やってるし、カナダへ行くことも夢を叶えることも応援したいって思うから、そうやって頑張ってる時に本当なら俺の気持ちなんて言うべきじゃなかったのかもしれないけど」
「けど・・・なんですか?」
「もし・・・まだ矢野が俺のことを思ってくれてるんなら」
「思ってる・・・なら?」
「先生としてサポートするだけじゃなくて、一人の男として、矢野の夢を一緒に叶えたいし。傍に居て支えてやりたい。俺で力になれるならいくらでも力になりたい。・・・そう思う」
「・・・どうして?」
 先生はくすっと笑った。
「矢野のこと好きだからって、言ったじゃん」
「先生前に、私が先生を好きだって言ったこと、聞かなかったことにするって言ったじゃん。だから私、もう先生のこと好きになるのやめようって。所詮先生と付き合うとか無理だし。もう個人的にメールするのも電話するのもやめようって、思ってたとこなのに」
「うん」
「なのにどうして今頃そんなこと言うの?」
 必死で、電話越しに先生に聞いた。涙が溢れてきて、涙声だった。
「矢野・・・、ごめん。もうそんな思いさせたくないから。泣いてそうやって辛そうなの見たくないし。だから、俺も気持ちに素直になろうと思って」
「でも・・・」
「でも、どした?」
 自分でもあまり何を言ってたかなんて覚えてないけど。泣きながら、声にならない声で話した。
「でもね。先生と私は、付き合えないでしょ」
「どうして?」
「だって、先生と生徒じゃん」
「そうだよね」
 何故だろう、先生は優しく返事をする。とても大きな問題なのに。
「俺思うんだけど。矢野って本当に大人だよね」
「私が?」
「うん。すんげぇ大人だよ」
「私クミにもしょっちゅう子供って言われますよ。まだキスもしたことないし」
「え?そうなの?」
 先生は小さく笑ってる。
「ほら。そんな子供相手に恋愛なんて先生だってしたくないでしょ?」
「またそうやって自分の気持ちに嘘つく」
「嘘なんてついてない」
「矢野が十七で、俺が二十五だから。矢野が生徒で俺が先生だから。そういうきちんとしないといけないところ一番わかってて、冷静に判断しようとするから。だから矢野は本当はすんげぇ大人なのに自分を子供だって言ったりして現実から逃げようとするんだよ」
「逃げてないですよ?」
「ううん。逃げてる。でもそれは大人の冷静な考えがもたらしてる結果で。本来矢野の歳だったら絶対好きな気持ち優先しちゃうのに。実際俺の歳でもそうだし」
 先生が難しい話をするから、涙がだんだんと止まってきた。
「矢野のこと尊敬するよ」
「なんで?」
「自分の気持ちよりも、自分や周りの状況とかちゃんと全部を理解した上で行動できるじゃん。判断できるじゃん。俺なんて無理だよ。もう今電話しながら自分が先生だってこと忘れてるし」
「そうなんですか?」
「うん。俺今すっげー矢野に逢いたいもん。今すぐ逢いに行きたいもん。行って抱きしめたいもん」

 先生がそんなこと言うから。もう無理だって思った。

 気持ちを抑えるのも我慢するのも、無理だって思った。

 苦しくて。涙が止まらなくて。



「矢野。俺本当に矢野のこと好きだよ」



 何度も電話越しでそんなこと言うから。先生のこと先生だなんて思えなくなって。携帯が濡れちゃうくら泣いて。そんな私を電話の向こうで先生は待ってくれるから。優しくて。初めて先生に抱きしめられたいって思った。



「先生・・・逢いたいよ」



 本当に先生が逢いに来た。三十分くらいして、マンションの下に居るって電話があった。お母さんがお風呂に入ってる時でよかった。こっそりと家を抜け出して、エレベーターに乗った。先生は、乗ってきた車の前で立って待っていた。笑顔で。



 十二月になって、本格的にカナダのどの大学へ進むのか決めなくてはいけなくなった。先生がカナダに居た頃の友人に資料を頼んでくれて、目標がやっと定まって、カナダのパパとママの家の近くの大学を最終的に選ぶことにした。
「また付き合わせちゃった、ごめん」
「いいよ。これでやっと落ち着いたじゃん?あとは勉強がんばって卒業するのみって感じ?」
「だね」
 あれから・・・、先生と付き合い始めた。みんなには内緒で。あ、クミだけ知ってる。三年になって先生が一年の担任になってくれたおかげで、学校ではあまり顔を合わせない。逢わなくていいから、お互い意識することもなく、変に周りに怪しまれなくてすむ。相変わらず塾とバイトは続けてるから、先生と逢えるのはたまにだった。それでも電話とメールで繋がっていられる。今までみたいに遠慮しなくていいって思うと、それだけで安心できた。
「どうする?今日これから時間あるんだったら、どっか行く?」
 この日は、久しぶりに先生と二人で逢えた日だった。
「どうしよっかな」
「予定あるんだったら・・・いいけど」
「ううん、ないよ」
「なんだよー」
 先生は私の頭をくしゃくしゃってした。
「だったらどっか行こうぜ」
「もぉー。髪いじらないでって。ぐちゃぐちゃになるじゃん」
 バッグから小さな折りたたみのミラーを取り出して、髪を直した。それを見て先生が言った。
「大丈夫、可愛いよ」
 あ。前にもこんなことがあった。あの時はドキドキして、心臓が止まるかと思ったんだ。今日は。なんだろう・・・。素直に嬉しいって思える。鏡を見ながら髪を直す私を先生がじぃーっと見てる。
「何?」
「まだ、キスは駄目なの?」
「駄目」

 先生とは付き合ってる。だけど先生と生徒の一線は越えないでいようって思った。そう先生に伝えると。最初は何も言わずにいたけれど、少しして返事をくれた。
「矢野らしいな」
 って。
「そういうとこが、好きなんだけどね」
 って。
「そんな付き合い方じゃ、嫌いになる?」
「ううん、ならない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
 先生の隣を歩くのにやっと慣れた。ドキドキすることもあるけど、自然でいられる。先生の車の助手席も。時々ふっと香る香水も。繋いだ手の温もりも。たまに感じる煙草の香りも。安心する。
「ねぇ、先生は私の前に付き合ってたのっていつ?」
「え?いいじゃん」
「教えてよ、聞きたい」
「矢野は?」
「私は・・・これが初めてだから」
「だったよねー」
「知ってるくせになんで聞くの?最低」
 思いっきり先生は笑う。
「ねぇ、前はいつ?」
「うーん。先生になる前」
「へぇー。どんな人?」
「だから、いいじゃん」
「どんな人???」
「一コ年上の・・・小学校の先生してたやつ」
「年上だったんだ!?」
「ぅん」
「今度は年下なんだ!?」
「だからなんだよ?」
「ううん、なんでもないよ」
 どーでもいい。特に意味もない。過去とかどうでもいいし。今私と居てくれるんなら、それでいい。
「今日も映画行くの?」
「んー。どうしよっか」
 先生とはいっぱい洋画を見た。前に先生が言ってた英語の勉強も兼ねて。今まであんまり映画館に行くことなかったけど、最近はいっぱい見てる。今日は何処に連れてってくれるんだろう。クミやサオリとだったらいつも買い物ばっかだし。先生はいろんな所に連れてってくれる。今日はまだ行き先も決まらないまま、表参道をぷらぷらと二人で歩いてた。
「先生行きたいとこないの?」
「実は一カ所行きたいとこあるんだけど、いい?」
「うん、いいよ。何処?」
「青山にある・・・教会なんだけど」
「教会?先生ってクリスチャンじゃないよね?」
「違うよ、そうじゃなくても教会は入れるだろ?」
「そうだけど」
「俺さ、カナダに居る頃よく友達と教会行ったんだよね」
「あ、私もパパとママに連れてってもらったことあるよ」
「向こうの教会っていろいろイベントやってて楽しいだろ?」
「うん、お祈りして、歌も歌ったことある」
「ゴスペル?」
「・・・かな、よくわからないけど」
「なんだよそれ、行ってる意味ないじゃん」
「だって、パパとママに着いて行ってただけだから・・・」
 先生は着ているパーカのポケットに手を突っこんだまま、クスクス笑った。
「青山のね、ル・アンジェって教会なんだけど、カナダから帰ってからも時々行ってんの」
「そうなの?」
 先生は頷いた。
「最近行けてないから、行きたいなーと思って。時間あるならイルミネーションきれいだから、それくらいの時間まで居てもいいかなって」
「へぇー!見たい!」
 
 これからも先生と一緒に居られますように。教会で祈った。カナダへ行くこととか大学のこととか。お願いしたい事はいっぱいあるけれど、ただ、先生とのことだけを祈った。なのに。十二月はこの日を最後に先生と逢えなかった。クリスマスも、大晦日も、お正月も。ずっと先生はカナダに居た。


「なんで?なんで先生がカナダに行くわけ?」
「仕方ないだろ?向こうの先生が体調壊して入院することになって、俺代わりに行くことになったんだから」
 十二月の中頃、突然先生のカナダ行きが決まった。カナダに居る先生の代わり。先生は一年の担任だから、仕方がないのもわかってる。とりあえず一月中頃まで。でも納得いかなくて駄々こねてた。
「だってー。クリスマスもお正月も全然一緒に居られないじゃん!」
 先生からの電話に出たら、突然のそんな話で。勉強してたのも途中でやめて、必死で思うことを先生に言ってた。
「そんな急だと行く前に逢うこともできないじゃん。またあの教会行きかったのに」
 半べそかきながら。わがまま言ってるってわかってるけど、ただ思うことを先生に言ってた。
「嫌だよ・・・」
 かっこ悪い、私。
「明日行っちゃうなんて。・・・急すぎるよ」
 デスクに広げたままの参考書や英語の辞書が急に空しく思えてきた。携帯を耳にあてたまま、バッグに入っている手帳を片手で取りて、こっそり挟んである先生と二人で写っている写真を手に撮った。この前教会で撮ったやつ。
「なぁー、矢野」
「ぅん?」
「嫌だって言ってくれるの、嬉しい」
「何それ」
「行かないでって言われてるみたいだから、嬉しい」
「じゃぁ・・・行かないで」
 そう言うと、先生はふふって笑った。
「今笑った。ひどい・・・」
「ごめん。可愛いなと思って」
「さっきから文句ばっかり言ってんのに、先生馬鹿じゃないの?」
「俺、馬鹿だもん。好きだって想われてるの感じるだけで嬉しいもん」
「今日は私、全然先生の好きが感じられない」
「そう?俺矢野のこと好きだよ?」
「そんなの嘘っぽく聞こえる」
「めちゃくちゃ好きだよ」
「嘘。カナダ行っちゃうくせに」
「どしたの?今日は子供みたいだよ?俺一カ月くらいで帰ってくるのに」
 わかってるよ。自分でも思う、子供だよ、今日の私。でも行って欲しくないんだもん。離れたくないんだもん。今までだったら自分の気持ちいくらでも抑えられたのに、この日はどうしても抑えられなかった。
「ちゃんと、向こうからメールもするから。ネットで話せる時間も作るから」
「嫌だ」
 私がそう言うと。先生がね、電話の向こうでため息ついたのが聞こえた。まずいって思った。怒らせてしまったかもしれない。わがまま言いすぎたって、焦ったけどもう遅いよね。でも謝ることも出来なくて、ただ私は無言だった。
「ねぇ、矢野」
 先生がゆっくり話すから、何を言われるんだろうって何だか怖かった。
「お前は、あと半年くらいでカナダに行くんだろ?」
 私は返事ができなくて、ただ電話の向こうで見えない先生に、頷いた。
「向こう行ったらなかなか日本に帰ってこれないだろうし、そのまま向こうで働くことも考えてるんだろ?」
 また・・・私は頷いた。電話の向こうに居る先生には見えていないのに。
「だったら、クリスマスも正月も、居られるだけお母さんと兄弟と、一緒に居る時間大事にしてほしいって俺は思う」
 その時。台所のほうからお母さんとお兄ちゃんが大笑いしてるのが聞こえた。何の話をしてんのかさっぱりわからないけど。楽しそうだった。
「ここずっと塾とバイトと、休みの日は俺と一緒で。あんまり家族で一緒に過ごしてないだろ?」
 そう言えばそうだった。先生と付き合い始めて、逢うことが普通になってて。
「俺とは、こうやって電話でも話せる。毎日でも話せる。けど、意外と近くに居ても家族とって、一緒に居ない時間が多かったりするだろ?」
「うん」
「俺はずっと居なくなるわけなんじゃないし、一カ月カナダに行くだけなんだから、ちょうどいい機会だと思って、家族で時間作れよ」
「う・・・ん」
「頼むよ・・・俺はそうしたくても出来なかったから。矢野は家族大事にしろよ」
 涙が瞳に溢れだして、胸が苦しくなった。でも泣いちゃ駄目だって思った。
「先生?」
「ん?」
「明日、学校あるから送りに行けないけど・・・」
「うん、いいよ」
「もう今日も時間遅いから逢えないけど・・・」
「いいよ、俺明日行くんだぜ?準備で手一杯だし」
「あ・・・、なのに電話長引いて。ごめんなさい」
「うん、・・・いいよ」
「勝手に怒ったりばっかりでごめんなさい」
「うん」
「クリスマスの日、お母さんとお兄ちゃん誘って教会行ってくる」
「おう、いいじゃん」
「早く帰って来てね」
「OK」
「先生ありがとう」
「あはは、なんだそれ」
 電話の向こうで、先生も少し泣いてたの・・・知らなかった。いつもは先生のほうが子供みたいなのに、ほんとに馬鹿みたいに駄々こねてる私に優しくしてくれた。やっぱり先生が居なくちゃ駄目だって思ったんだ。だからこそ。離れても大丈夫で居なきゃいけない。だって今度は、私がカナダに行くんだから。先生と離れ離れになってしまうんだから。たった一カ月逢えないぐらいでこんなじゃ、カナダの大学になんて行けない。
「先生?」
「何?」
「カナダで超美人な人を見かけても、ナンパとかしちゃ駄目だからね」
 そしたら先生は笑った。
「大丈夫。俺の彼女はすげー怖ぇから」
 電話を切ってすぐ、泣いてたのがばれないように鏡でチェックして、台所へ行った。
「何ー?さっき凄く楽しそうだったけど、何話してたの?」
 テンション上げて、お母さんとお兄ちゃんの間に割り込んで行った。
「見てこれ、鍋が噴火して最悪なんだよ」
 お兄ちゃんが大げさにお鍋を見せて言った。
「うるさいなぁー、ちょっとシチュー温めすぎただけでしょ」
「え?シチューって噴火すんの?」
 そう言いながらコンロのほうに目をやると、シチューがあちらこちらに飛び散っていた。
「何これー。超最悪じゃん、お母さん何やってんの?」
「もぉ、二人揃って言わなくてもいいでしょ、今掃除してんだから」
 床に飛んだシチューをお母さんは一生懸命拭いていた。なんだか最高に楽しくていっぱい笑った。
「ほら、サクラも雑巾持ってきて手伝ってよ」
 お母さんがあたふたしてるから余計に笑えたよ。ありがとね、先生。



 あっという間に冬休みになって。クリスマスには予定通り、母と兄と三人でル・アンジェ教会へ行った。兄はちょっと面倒くさそうだったけど、来年は私はカナダだから一緒にクリスマス過ごせないしって言って、無理やり誘った。母は牧師様の話を真剣に聞いていた。年末には今年も家族そろって紅白歌合戦を見て。年が変わって新しい一年の始まりを家族で過ごした。
「お兄ちゃんってさ、初詣一緒に行く彼女とか、居ないわけ?」
 一日にお煮しめ食べながら聞いてみた。テレビを見ているフリをして無視する兄を見て母は言う。
「こりゃ、居ないね」
 二人で大笑いすると兄は横目でちらっとこっちを見て言った。
「お前こそ、彼氏とか居んのかよ?」
「私は・・・居ないよ」
「なら偉そうに言うなよ、ガキ」
「もぉー正月から喧嘩とかやめてくれる?」
 母にも兄にも、先生と付き合ってることは言ってない。やっぱり・・・相手は先生だし。
「はい、年賀状届いてるよ。分けてくれる?」
 家族分、束になった年賀状を母が私に手渡した。
「もぉー、食べてるのに」
 文句を言いながら年賀状の束を受け取って、順番に仕分けする。母と、兄と、私のと。
「あ、サオリからだぁー、可愛ぃー年賀状!」
 一つ一つ裏面を見ながら順に仕分けていると、一枚、外国の消印のがあった。
「え?カナダ・・・」
 先生からだった。
「ん?どしたの?」
 母が聞いてきたけど、何もないとごまかした。急いで全部を仕分けて、自分の分を持って部屋に戻った。先生から届いてるなんて。しかもカナダからわざわざ送ってくれたものだった。イングリッシュ・ベイの風景写真のハガキに、手書きでメッセージが書かれていた。

 Happy new year.
 (あけましておめでとう)

 This year is year when it challenges a new thing.
 (今年は新しいことに挑戦する年だね)

 I am with you.
 (僕が一緒に居るから)

 Therefore, I want you to be relieved to you and to challenge.
 (だから安心して挑戦していって欲しいと思う)

 from Takashi


 声に出して読んだ。何度も読んだ。思いがけない年賀状に、先生に逢いたくなった。
「今って、向こう何時だっけ?」
 頭で一生懸命計算しようとするけど全然頭回らない。たぶん、夕方とかかな。携帯を取り出してかけようと思ったけど、やめた。どうせなら向こうが日付変わる頃にしよう。まだ三十一日のはずだから。
 その日の夕方。ベッドに座って携帯を手に取った。膝の上に先生の年賀状を置いて、発信ボタンを押した。呼び出し音がなんだかくすぐったい。
「Yes,・・・あ、はい。俺」
「先生?」
「あ、うん」
「あけましておめでとう」
「え?おめでと」
「そっち、日付変わった?」
「あぁー何時だ?えと、うん、ついさっき」
 先生は、時間も忘れて何かをしていたっぽい返事だった。
「年賀状届いたよ」
「あ、ちゃんと届いた?よかった」
「ありがとう、すごく嬉しい」
「それくらいはね」
 先生は優しく笑った。
「なんか、静かだね。独り?」
「あー、学校。居残り」
「え?ニューイヤーパーティーとか行ってないの?」
「行ってない。最悪だよ、マジだるい」
「えー。そうなの?何の居残り?」
「うーん、いろいろ。ほら、みんな家族とかとの時間あるからさ。俺独りだし、いろいろ引き受けてたら年越し独りになっちゃった」
「馬鹿だなぁ」
「うっせぇな」
「まだまだ時間かかるの?」
「うーん。もうちょっとで切り上げるつもりだけど」
「そっか。無理しないでね」
 先生はくすっと笑った。
「なんか、ずいぶんと優しいね」
「え?そんなことないよ?」
「さては寂しくて泣いてたな?」
「はぁ?毎日楽しすぎて先生のことなんか忘れちゃいそうだよ?」
「そうなの?」
「あはは、うそ。泣いてはないけど、やっぱりちょっと寂しいかな」
「毎日メールしてんのに?」
「メールは嬉しいけど、やっぱり逢いたいもん」
「嬉しいこと言うね、ありがと」
「ねぇ・・・先生」
「ん?」
「今年もよろしくね」
「おぅ。こちらこそ」
 他愛ない話をして。電話を切って少しぼぉーっとしてた。どれくらいぼぉーっとしてたんだろう。するとお母さんが呼ぶ声がした。夕食の時間だ。ちょっと前にお昼食べたとこなのに。こんなお正月、先生に怒られちゃうね。年賀状の先生のメッセージをもう一度声に出して読んでみる。うん、離れていても大丈夫。きっと大丈夫。今年私に出来ること、頑張っていこうって思った。ふと窓の外を見ると、陽が沈もうとしている。カナダはこれから朝なのに。日本はもう夜になる。不思議だね、先生。こうやって電話で普通に話せるのに、遠く離れてるんだね。携帯のデータフォルダを開く。ずいぶん前に撮った先生の写真。空港で撮ったピースしてる写真。その写真にピースをして笑ってみた。
「サクラー、先食べるよー」
 お母さんがまた呼んだ。
「はーい、今行く」
 携帯を置いて、カーテンを閉めて部屋を出た。

 二日はクミと初詣に行った。カナダの大学へ行けるようにお祈りしておかないとね!そう言って誘ってくれたのはクミだった。電車も駅も人でいっぱいだ。クミも大学受験を控えているので二人で湯島天満宮へ行った。学問の神様として有名な神社だ。実は、高校受験の時もここへ来た。無事今の高校へ入れたから、きっとこの神社でお参りすれば大丈夫。長い階段を上って、所狭しと境内に人の行列が出来る中、はぐれないようにクミと手を繋いで並んだ。
「クミ、センター試験もうすぐだね」
「そうなの。もぉー、どうしよう」
「今頃焦ってどうすんのよ」
 そんなことを言いながら二人でお参りを済ませて、その足で渋谷へ行った。買い物客でこちらもいっぱいだった。
「私、お母さんと、お兄ちゃんからもお年玉ふんだくってきた」
 そう言ってクミにピースサインをするとクミも笑って言った。
「あたしは昨日親せき回りしてきたよ」
「マジで?」
 あちこちセールのお店を回って、夕食も一緒に食べて帰った。いつも行くファミレスで、買い物した紙袋を席の端に置いて座った。
「あー疲れた」
 店員が置いて行った水をぐっと飲んで、クミが言った。
「買い物っていいね、やっぱ。ストレス発散!」
「あはは。めちゃくちゃ買ったよね」
 注文を聞きに来た店員に注文を済ますと、クミがちょっと小さめの声で聞いた。
「ねぇ、サクラってたかしちゃんと渋谷デートとかすんの?」
「えー?先生とは渋谷は・・・たまに。誰かに見られると困るから、ほんとたまに」
「ふーん。いいなぁー。あたしも大学受かったら絶対彼氏作る」
「クミならすぐできるよ、誰とも仲良くなれるし」
「あー、でもね。友達は出来るけど恋人に発展しないんだよね、いつも。元彼は珍しく彼氏になったけど」
「へぇ、そうなんだ」
「サクラはどーなの?カナダ行っちゃったらたかしちゃんと遠恋になっちゃうじゃん」
「う・・・ん」
「あ、やっぱちょっと寂しい感じ?」
「うん、不安」
「何が?たかしちゃんの浮気?」
「えー?それも無くは無いけど、私が耐えられるか心配」
「あ、サクラのほうがね」
「うん、ちょっと自信ない」
「でもさ、一年カナダ行った時離れ離れだったじゃん?あん時はまぁーまだ付き合ってなかったけど」
「うん」
「今回この一カ月も大丈夫だったわけだし」
「そうだけど」
「あー、ごめん。暗くさせちゃった。大丈夫だって、あんたたちは」
「そうかな」
「うん、たかしちゃんが寂しくないようにしてくれるよ。電話とかメールとか」
「う・・・ん」
「とにかくおなかすいたー。早く来ないかな」
 三日からはまたバイトを入れていたので、その日はめーいっぱいクミと楽しんで帰った。



 次の日曜日に帰るよ。

 先生からメールが届いたのは二十日のことだった。一カ月って言ってたのに、とっくに一カ月は過ぎていた。病気の先生はとっくに元気になってるでしょ?遅いよ。そうメールを送ったら、まぁいろいろ忙しいんだって。って返事が返ってきた。日曜日だから迎えに行くねって約束をして、帰ってくる飛行機の便と時間を聞いた。やっぱり嬉しい。高校は、すでに卒業前で授業もほぼ終わりって感じだった。最後の試験が数日前にあって、三年は自習時間が増えた。みんなそれぞれに試験勉強をしてる。先生が帰国する日はセンター試験の日だった。私は受けないけど、クラスのほとんどがピリピリしてる。その間私は、学生ビザの取得方法だとかいろいろ調べていた。一年の時の留学は学校側がある程度手配してくれたけれど、今回は自分で全てやらなくてはいけない。先生からもいろいろ聞いて準備したりした。だけどこの数日は何をやっても手につかなかった。久しぶりに先生に逢えることが、待ち遠しかったから。
 日曜日は早くに目が覚めた。先生が日本に着くのは夕方なのに。バンクーバーからの直行便。成田着の飛行機だ。いつも通りその日もバイトを入れていた。家に居たら、待ち遠しくて時計ばっかり見てしまいそうだったから。三時までバイトで、その足で成田に向かった。先生が乗った飛行機は5時半到着予定なので、それでも時間があまるくらいだ。
「早く帰ってこないかなぁー」
 空港までの電車がずいぶん長く感じられた。飛行機はほぼ予定時刻に到着し、少しずつ乗客が降りてくる。その中に先生を見つけた。
「ただいま」
「おかえり」
 なんだろう。・・・妙に照れた。
「だいぶ待った?」
「ううん、そんなことない」
 そう言うと先生は私の頭に手をやって、片手で私を抱きしめた。
「とりあえず東京まで戻ろうか」
「うん」
 先生の手荷物を少し持って、一緒に電車に乗った。
「何?今日おとなしいじゃん」
「え?いつもだよ」
「相変わらずじゃん、その照れ隠し」
 照れ隠し・・・その通り。すごく嬉しいのに、素直になれなくて。先生の顔を見てあっかんべーをした。
「ぶはは、かぁわいぃー」
 東京までの電車の中ではカナダの話をたくさん聞いた。懐かしい風景が思い出されるような話ばっかりだった。お正月に電話した時とても忙しそうだったのに、そんな仕事の愚痴は全くなく。楽しい話ばかりしてくれた。そうこうしていると東京に着いた。
「じゃぁ、先生私はこれで」
「え?帰んの?」
「え?だって」
「だってじゃないよ、飯付き合ってよ。腹ぺこぺこだし」
「いいの?」
「何がいいの?だよ」
「疲れてるかなーとか、帰って荷物整理するのかなーとか、思ってたから」
「そんなのどうにでもなるよ。飯食ってこーよ。それとも何か食べた?」
 先生に聞かれて首を振った。実はおなかぺこぺこだった。先生に逢うまでは緊張して気にしてなかったけど、今日もバイトハードだったし、おなかすいていた。
「じゃぁー決まりね。何食べに行こうかな」
「先生の食べたいものでいいよ」
「あぁーご飯食べたいな」
「定食とか、そういうの?」
「あ、いーねー。でもその前に荷物うちに置きに帰ってもいい?目黒だからそんな遠くないっしょ?」
「先生って目黒に住んでんの?」
「あれ、知らなかったっけ?」
「だって行ったことないもん。学校までけっこう遠いんだね」
「まぁーね」
 先生の住むマンションは駅からそう遠くない場所にあって、ビルや飲食店を抜けて行く。
「うちより立派なマンションだ」
 マンションの入り口で思わず出た一言だった。
「えー?矢野んとこのマンションもきれいじゃん」
「でもこんな高そうなとこじゃないもん」
「まぁーどぅぞ」
 エレベーターで上がっていく、四階だ。エレベーターを降りると通路が左右に分かれていて、左の通路の奥から三つ目が先生の部屋だった。
「寒いでしょ?入ってちょっと待ってくれる?」
 いいんだろか。入ってしまって。思わず入り口で立ち止まってしまった。
「どした?」
「あ・・・えと」
「何もしないよ、何考えてんの?矢野がキスさえさせてくんないんでしょ?」
「そうだけど」
「入らないならそこで待っててくれてもいいけど」
「・・・寒いから・・・、入る」
 そう言うと先生は笑った。入ると、リビングと別で部屋が一つあった。
「広いね、先生贅沢してんじゃん」
「なんかねー、カナダから帰ってきて部屋探そうと思ったら狭いとこ無理だった」
「あ、それわかる気がする」
「だろ?向こうってワンルームでも広いからね」
 奥の部屋へ先生が荷物を置きに行った。覗いてみると、ベッドのある部屋だった。
「先生ってきれいにしてんね」
「まぁ一応、一カ月居ないのに散らかしてくのもどうかと思って」
「そういうことか」
「なんだよ、普段からきれいだよ」
 小さなキッチン、テレビとソファ、たくさんある雑誌やCD。なんだかいろいろと見てしまう。
「着替えたいからちょっと待ってね」
 ベッドのある部屋で声がした。
「うん」
 棚に小さな観葉植物とか置いてある。ちょっと・・・元気がなかった。そっか、一カ月一人ぼっちだったから。
「ちょっとカップ借りまーす」
 先生には聞こえてないだろうけど。小さな声でそう言って、キッチンにあるカップに水を入れた。こぼれないように、ゆっくり鉢に水をやった。ピンクの鉢がなんだか可愛かった。そしたら先生が後ろから手をまわして、カップを持つ私の手を取った。
「あ、勝手にごめん」
 私がそう言うと、先生は後ろから抱きつくようにして私の肩に顔を乗せた。頬と頬がくっついて、ドキドキした。
「よかった、枯れてなかった」
 背中が温かかった。ドキドキが止まらなかった。頬が熱くなる。動けなかった。
「ありがとね、水やってくれて」
 そう言うと先生は私から離れてカップをキッチンのシンクに置いた。先生の顔が見れなくて、目をそらした時に目に入ったんだ。
「あ・・・」
 ベッドの脇のサイドデスクに置いてあるくま。
「私の・・・くま」
「え?あぁ、預かってるやつね」
「ちゃんと置いてくれてるんだ」
「まぁ、あれは矢野の代わりだからね」
 そう言うと先生は、私が前に先生に手渡したのと同じ紙袋を私に差し出した。
「はい、これ俺からのお土産」
「え?」
 開けてみると、同じくまのぬいぐるみだった。
「なんで・・・黒いの?」
「俺が黒が好きだから」
「でもこれっていろんなカラフルな色があったでしょ?なんでよりによって黒いくま?」
「いーじゃん、要らないなら返して」
「いやぁだ、要る」
「俺が矢野のくま預かってるから、矢野は俺のくま預かっててよ」
「うん、毎日抱きしめて寝る」
「え?その歳で抱きしめて寝るとか・・・ないでしょ」
「先生だと思って抱きしめて寝る」
 先生はクスッと笑った。
「いいけどさ」
「大事にする」
「腹減ったよ、飯行こう。車出すから何処でもいいよ」
「何処でも・・・って、さっきご飯食べたいって言ってたじゃん」
「いいよ、矢野の食べたいもので」
 久々の先生との会話はやっぱり楽しかった。先生とは和食のお店へ行った。横浜のほうまで、車で連れてってくれた。落ち着いた雰囲気だけど、若い人で賑わっているお店で、二人がけの席に前後に座った。
「ねぇ、いつまでそのくま持ってんの?」
 あれからずっと、私は手にお土産のくまを持っていた。
「なんか・・・持ってたいから」
「でもさすがにちょっと、恥ずかしくない?ここでは」
 そう言うから、ちょっと拗ね気味に紙袋へしまった。先生はまたクスって笑う。
「なんか今、子供見てるみたいな目だった」
「子供じゃん、矢野は」
「もぅ大人だよ、もうすぐ十八になるもん」
「え?誕生日だっけ?」
「うん、あ、そう言えば私、先生の誕生日知らない」
「俺も」
「先生はいつ?私は二月三日」
「え?節分じゃん。俺は五月二十日」
「春だ」
「今頃誕生日教え合うって・・・どうだよ?」
「ほんとだ」
 思いっきり笑った。

 夕食を食べて、少し外を歩いた。やっぱり横浜の夜はきれい。
「寒い?」
「寒いけど、平気」
「何だそれ。寒いのか寒くないのかわかんないじゃん」
 先生はそう言って私の肩を抱いた。
「寒いけど、もうちょっとだけ時間いい?」
 先生はちょっと真面目な顔で言った。
「うん、何?」
「話したいこと、あって」
「話したい・・・こと?」
「うん」
「なんか、嫌なこと?」
「ううん、反対・・・だと思う」
「何?」
 先生は勿体つけてなかなか言ってくれなかった。
「寒いじゃん、早くぅ」
「聞きたい?」
「先生が話したいことあるって言ったんじゃん」
 先生はクスクス笑う。
「ごめん、言う。っていうか、聞いて?」
「うん、何?」
「俺もね、七月からカナダ行く」
「え?」
「正式に決まった」
「何が?」
「カナダ校の教員に。人事異動ってやつ?」
「え?ほんとに?」
「去年の秋くらいに申請して、今回代員教諭でカナダに行かされたのが俺ってのも、このこと絡んでたんだ」
「ほんとのほんとに?」
「ほんと。ちゃんと正式に出たから、おかげで今回一カ月ですぐ帰れなかった、ごめん」
「ほんとに?」
「もぉ~、何度も言うなよ。ほんとだって」
 それ以上言葉が出なかった。嬉しくて。
「だから、矢野にもカナダの大学入ってもらわないと、困るんだけど?」
 私は頷いた。
「頑張ってくれたら、また向こうで一緒に居られるから」
 私はもう一度、頷いた。
「嬉しい?」
 何度も頷いた。
「もう、先生と離れなくて済むの?」
「うん、そゆこと」
 私は思わず先生に抱きついた。涙が止まらなくて。今まで、離れ離れになることが不安でしかたなかったから。
「おい、矢野?」
 私はわんわん泣いた。嬉し涙でこんなに泣いたのは初めてだと思う。先生はそっと頭を撫でてくれた。そしてぎゅっと抱きしめてくれた。



「えー?マジで?たかしちゃんやるじゃん!」
「ちょっとクミ、静かにしてよ」
 次の日のお昼休みにクミには話した。先生もカナダに行くことになったこと。
「たかしちゃんは本当にサクラのことが好きなんだね、うらやましいよ」
「へへ」
「へへ、じゃないよ」
「何がなんでもカナダの大学行くんだ」
「うん。がんばってよ。向こうでラブラブしてきなよ」
「え~?」
「だって、もうその頃には先生と生徒じゃなくなってるし。サクラは一人暮らしで、たかしちゃんも一人暮らしで。そのうちお互いの部屋を行き来するようになって、そしたらいっそのこと一緒に住む?みたいなことになって・・・」
「もぉ、クミやめてよ」
「いいなぁ~。あたし絶対邪魔しにカナダ遊びに行っちゃうかんね」
「あはは、でも来て来て。待ってるし」
「サクラも七月からカナダでしょ?」
「うん、住むとこ見つかるまではパパの家にステイさせてもらう」
「たかしちゃんはどの辺住むの?」
「あぁ、今居る先生の住んでるとこをそのまま引き継ぐみたい。だから高校の近く。もう契約してきたんだって」
「すごいなぁ~。たかしちゃんってそんな行動派だったんだね」
 私もね。なんだか夢みたいで。いっぱい嬉しいのに。もしかしたら何かで私がカナダに行けなくなっちゃうんじゃないかとか、想像しちゃう。いいことばっかり続くから、何か悪いことが起きるんじゃないかとか。日が経つにつれて素直に喜べなくて、不安が募っていく。



「聞いてる?矢野」
「え?」
「なんだよ、今日せっかくお前の誕生日なのに。ずっとつまんなさそう」
「あ、ううん。そんなことない」
「何?なんかあった?俺なんかした?」
「ううん」
「ほんとに?」
 今日は私の誕生日で、学校が終わってから先生が私の買い物に付き合ってくれてた。それから一緒にご飯食べて、ケーキ食べて、お祝いしようって。
「俺に隠しごととか、やめてよ?相談も乗るし、俺の嫌なとこあったらはっきり言って欲しいし」
 先生は前より思ってることをはっきり言ってくれるようになった。先生って感じは全然しない。学校から一歩出ると、同じ目線で同等の立場で話をしてくれる。誕生日のプレゼント悩むから、誕生日は矢野のやりたいことに付き合うよ。そう言ってくれた。セールも最終だからいっぱい買い物したいって私は返事をした。いつも行くお気に入りのお店で、セーターを手に取って、見ているようで見ていなくて。そんな感じで居る私に先生はしびれを切らして声をかけたのだった。
「ねぇ、先生」
「ん?」
「二人きりになりたい」
「え?買い物は?」
「いい。二人きりになりたい」
 そう言って私はセーターを棚に戻すと、店を出た。
「ちょっと、何処行くの?」
 足早に歩く私の後を先生がついてくる。
「わかんないけど、二人きりがいい」
「矢野?どうしたの?」
「泣きそうだから、人の居ないとこがいい」
 先生はちょっと戸惑っていた。
「なんで?泣きそうなの?」
「後で言うから、どっか行きたい」
 そう言うと先生は私の腕を掴んで通りのほうまで歩いた。急いでタクシーを停めて、私を奥に乗せると自分も隣に座った。
「目黒まで」
 先生はそう行き先を告げると、私の肩を抱いてずっとさすってくれていた。泣くのは必至で我慢した。でも震えて動けなかった。何も話せなかった。ただ先生が、そろそろと肩を抱いていてくれた。着いたのは先生のマンションだった。ここへ来たのは二回目だ。前より少し散らかってる。雑誌とか、脱いだ服とか。
「ごめん、今日来るとは思ってなかったから散らかってるけど」
 リビングのソファに座ると先生が頭をポンっと叩いた。
「最近はよくわがまま言ってくれるよね」
 にこっと笑ってそう言った。急いでヒーターを付けて、キッチンでお湯を沸かし始めた。なんだろう、ちょっと落ち着いてきた気がする。この部屋は先生の香水と煙草の香りがするからだ。
「大丈夫?」
 私の隣に座ると、先生がそう聞いた。私は何も言わずにただ頷いた。
「何か、話せる?聞くから」
 頷いて返事をした。先生はじっと、私が話すのを待っていた。
「あのね・・・」
「うん」
「不安」
「何が?」
「最近いいことばっかり続くから、これからは悪いことが起きるんじゃないかって」
「例えば・・・どんな?」
「私がカナダに行けなくなるとか」
「ほぉ」
「先生はやっぱり日本の学校に戻されることになるんじゃないかとか」
「ほぉほぉ」
「もっと何か悪いこと…起きるんじゃないかとか」
「どんなこと?」
「・・・先生は、そのうち」
「そのうち?」
「私のこと好きじゃなくなるんじゃないかとか」
 やっぱり涙が出てきた。だって、不安で不安で。我慢してたのに。どんどん涙が溢れて止まらなくて。止まらない。
「サクラ」
 先生が、私の名前を呼んだ。そして、初めてキスをした。短いけど、優しいキスだった。私の初めてのキスだ。唇が離れても、まだ感覚が残っていて。私を見ている先生が涙でぼやけてた。
「カナダには絶対行ける。俺もずっとカナダの高校に居る。そして、俺はサクラのこと嫌いにはならない。ずっと好きだから」
 そう言うと私を抱きしめた。
「大丈夫、安心して。傍に居るから。一人にさせないから」
「ほんとに?」
「ほんとに。だって俺、サクラが居ないと駄目だもん。俺が離れられないもん」
 その後もいっぱい泣いた。先生の胸でいっぱい泣いた。
「安心するまで、泣いていいよ。サクラ」
 先生の温もりと、サクラって呼ぶ声が優しくて。今度は私から先生にキスをした。先生は照れたように笑って、キスをし返した。
「いいの?キス解禁で」
「いいの」
 少しして、キッチンで目についた。
「あ。先生、お湯が沸いてる」
 キッチンでやかんが噴いていた。
「サクラ、何飲む?」
「ミルクティー」
「ミルクティー?」
「あ、ティーパックと牛乳があれば自分で作る」
「あぁ、どっちもあるよ」
 もう気持ちは元気になってた。不安が吹っ飛んだ感じだった。単純だなぁって思う、自分のこと。先生がサクラって呼ぶそれだけで嬉しくって。今まで一線を引いて、避けるようにしていた先生とのキスが、こんなに安心させてくれるなんて。私は急いでティッシュで涙を拭いてキッチンへ行った。



 一週間ほどで卒業式だった。講堂に入る前に教室へ集合だった。みんなそれぞれ写真を撮ったりしてる。担任もこの日は着飾ってきていて、みんなで冷やかしたりした。涙というよりは笑顔の卒業式になりそうな感じだ。九時半過ぎ、教室に前原先生が顔を出した。
「あ、たかしちゃ~ん!」
 誰かが声をあげた。
「そろそろ講堂へお願いします、出席番号順に列で入ってください」
 担任にそう言うと、先生はチラっとこっちを見た。にっこり笑うから、私も笑い返した。そしたらすぐ、先生は隣のクラスに声をかけに行った。担任が全員を講堂へ連れて行く。講堂にはすでに保護者や列席者が着席していて、卒業生の席だけが空いていた。入ってすぐに先生を見つけた。教員席の後ろのほうに居た。三年前に見た時とは違って、先生の顔してた。

 卒業式は、あんまり寂しいと思わなかった。これから旅立つための出発点みたいな気分だった。

 強くなくちゃいけない時があることも。
 弱くてもいい時があることも。
 いろんなことを教えてくれた先生と、私にとっては今日でお別れじゃないからかもしれない。



「サクラ、この後どうすんの?」
「先生とデート」
「え?まじで?」
「うん、約束してんの」
「そっかー。んじゃ、また連絡するね」
「うん。私もする」
 クミとはハグして別れた。
 先生に、式が終わったら来てと言われた場所がある。屋上に続く中央階段。屋上の手前の踊り場で待ってるって、言われてた。用がない限り誰も来ない屋上への階段。そう言えば初めて登るかもしれない。みんなが階段を降りて行く中、私だけが登っていく。最後の屋上への段は、誰も登らない。ゆっくり登っていくと、踊り場の隅に置かれた机に先生が腰かけていた。
「遅かったね」
「クミと話してて」
 屋上のほうを見ると扉の前には使われていない機材がいくつか置いてあって。天窓から光が差し込んでいた。
「初めて来た、ここ」
「そう?俺毎日」
「何しに?」
「隠れて煙草吸いに」
 それを聞いて思いっきり笑った。
「中学の男子みたいじゃん」
「そう笑うなよ、一応学校で煙草って・・・ねぇ、隠れてしか吸えないじゃん」
「だから先生はガキなんだよ」
「うっさいよ」
 そう言うと先生は改まって立ちあがり、座っていた机に置いた紙袋から取り出したものを手渡した。ピンク色がいっぱいの小さな花束だった。
「卒業おめでとう」
「え?これ」
「目立つからこんな小さいのしか用意できなかったけど」
「ううん、ありがとう。嬉しい」
「それと・・・これも」
 もうひとつ紙袋から取り出した。小さな・・・白い箱。
「あの、大それたもんじゃないから」
 白い箱をそっと受け取った。
「ただ、プレゼントしたかっただけだから」
 開けてみると、可愛いリボンのデザインの指輪が入ってた。
「ほら、付き合ってると彼女に指輪プレゼントしたりするじゃん?せっかくだから今日渡したくて」
 嬉しくて何も言えなかった。その分先生がいっぱいしゃべった。
「誕生日にでもよかったんだけど、やっぱりほら、今日からのほうがちゃんと付き合える記念日でもあるし。・・・とか、さ」
 そう言う先生に、指輪の入った箱を返した。
「え?なんで?」
 箱を返した私に戸惑って先生は立ちあがった。私はそんな先生を見て、左手を差し出した。
「付けて」
 そう言うと先生は安心したように笑って箱から指輪を取りだした。そしてそっと、指にはめてくれた。
「先生ありがとう」
「うん、けど、もうその先生っての、やめない?」
「んじゃ、・・・たかし、ちゃん」
「それじゃ他のみんなと一緒じゃん」
「じゃぁ・・・。たか・・・、し」
 照れた。初めて名前を呼び捨てで呼んだ。そしたら先生は優しく微笑んだ。
「おめでとう、サクラ」
 そしてこの先生の秘密の場所で、こっそりキスをした。先生はそのあと私の手を取ってそのまま階段を降りて行く。
「え?ちょっと」
 手を繋いだまま、一階まで降りて行った。
「先生、まだみんな居るよ?手なんて繋いでったら・・・」
「ほら、また先生とか言う」
 先生はそう言いながら正面の門まで続く花壇の前で立ち止まった。
「え?サクラ~」
 クミが私を見つけた。他の友達も、何人かこっちに来る。
「先生、手」
「いいじゃん」
 先生からもらった指輪を付けたまま、そして花束を持ったまま。先生と手を繋いだまま。クミたちに冷やかされた。
「吉岡、俺たちの写真撮ってよ」
 先生はクミにそう頼んだ。
「いいよ。抱き合っちゃってもいいよ」
「えー?サクラたちそういうことなの?」
 周囲の友達にも冷やかされ、なんだかもうどうにでもなれって感じだった。
「吉岡、他の先生に見つかったら俺殺されるから、早く」
「はいはいはい」
 クミは急いでデジカメを用意してくれた。学校で撮った最初で最後のツーショット写真。その後みんなでも写真を撮った。



 四月になって、クミは大学生になった。私は相変わらずバイトと塾通いだった。先生・・・いや、タカシは、六月いっぱいまでは今まで通り、私が卒業した高校の先生だ。入学式は、桜の木を見に高校に遊びに行った。タカシも先生四年目で、この春から新しく来た先生に声をかけたりしていた。
「サクラ、来てたの?」
「うん、桜を見に」
 そう言って桜の木を指差した。
「きれいに咲いたな、今年も」
 二人で桜の木を見上げた。
「うん。・・・あ、今年新しい先生来たんだね」
「あぁ、俺がカナダ行くから代わり」
「なんか、初々しいよね。初めてタカシを見た時もあんなだった」
「え?そぉ?もうちょっと頼もしかったでしょ?」
「いやーぁ、挨拶超緊張してたし。私見てたんだから、挨拶のあと席に戻ってすっごいホッとした顔で座ってたの」
「マジで?」
「うん、子供みたいで可愛かったの覚えてる」
「うわぁー、最悪。見てんなよそういうの」
 照れるタカシを見て思いっきり笑った。
「でも私、今だから思うんだ」
「何を?」
「きっとあの時からずっと、私タカシのこと好きだった」
「え?」
「ちゃんと好きだと思ったのはカナダから帰ってからだったんだけど、たぶん違う」
「違うって?」
「入学式に初めて見たあの時から、きっとずっと、タカシのこと好きだったんだと思う」
「そうなの?」
「うん、そう言えばいつも気になって。タカシが携帯番号教えてくれて声かけてくれた時あったじゃん?」
「うん」
「あの時も、何度も携帯の名前見て。見るたびホッとして、嬉しくて」
 そう言ってまた、桜の木を見上げた。いっぱい花びらが散ってる。
「じゃぁ俺たちは初めて逢った時から相思相愛だったんだ」
「え?」
「俺が初めてサクラを見たのも入学式だよ」
「うそぉ?」
「結構ぎりぎりで講堂に入ってきて、お母さんと目で合図し合ってたでしょ?」
「え?そうだったっけ?」
「そうだよ、うわぁー中学上がりって子供~って思ったね、あれ見て」
「何よそれ」
「うそうそ、可愛かったの。妙に。だから覚えてる」
 タカシはスーツのポケットに手を突っ込んで、こっちを見てる。
「初々しくて。でもどっかキラキラしてて。声をかけたきっかけは英語のことだったけど、でも最初っからなんとなく気にはなってたから」
「そーだったんだ・・・」
「うん、そうだよ」
 なんか、懐かしい。
「サクラ・・・」
「ん?」
「いいね、サクラって名前。この桜の花びらをふっと思い出す。誰がつけたの?」
「お父さんみたい」
「そっか。きっと桜みたいに優しい人だったんだろうな、サクラのお父さんって」
「だと嬉しいけど」
 その時他の先生がタカシを呼んだ。
「前原先生、始業式の準備、そろそろ始めないと」
「あ、はい」
 タカシは慌ててポケットから手を出すと返事をした。それを見て私は笑った。
「まだまだ新米だね、ガキみたい」
「うっさい。気をつけて帰れよ」
「うん、この後サオリに逢ってくる。赤ちゃん産まれたの」
「えー?マジ?写メ送ってよ、見たい」
「うん、わかった」
「じゃぁ行くわ」
「うん、がんばってね、新米先生」
「うっさい!」



 桜の木を見るたびに思い出す。初めてタカシを見た日のこと。それからずーっと、大好きなタカシのこと。大好きな、私の名前と同じ桜の木は、私の大好きな人を思い出させてくれる。



「うわぁー、サクラもクミも久しぶりー」
 サオリは産院からすでに自宅に帰っていた。部屋はすっかり子供中心の部屋に変わっていた。勉強机が無くなって、代わりにベビーベッドが置かれてる。可愛い色合いのおもちゃが少し、籠に入っておかれていたり。なんだか甘いミルクの香りがする。
「きゃぁーめっちゃ可愛いじゃん」
 クミがベビーベッドを覗き込んで言った。私も一緒に覗き込んだ。眠ってる。まつ毛が長くって色白で、ふっくらと可愛い。
「ねぇ、もう名前決まったんでしょ?何にしたの?」
 クミが赤ちゃんのほっぺをゆっくり触りながら言った。
「あのさ、サクラの名前・・・ちょっともらったんだけど」
「え?」
 サオリは私の横に立って赤ちゃんの頭を撫でながら言った。
「あたしさ、馬鹿ばっかりやって親に迷惑かけてばっかだったじゃん?だからせめてこの子にはいい子に育ってほしいなぁーって思って」
 赤ちゃんを見つめながらサオリはとても優しい表情をしていた。
「けど、なんでそこで私の名前になるの?」
 私はサオリに問いかけた。
「ほら、あたしってこんなだから親身になってくれる友達って少ないじゃん。クミとサクラが唯一の親友って感じ?まぁークミはあたしと似たとこがあるから、素直に真面目なサクラの名前をちょっといただこうかと。ほら、春生まれだし」
 そう言うとクミはサオリに殴る真似をする。
「あたしだって真面目だよー」
「わかってるよ、でもサクラには負けんでしょ?」
「まぁね」
 みんなで赤ちゃんを見た。
「・・・チエリって言うの、名前」
 サオリがふっと名前を言う。
「チエリ?どこにサクラが入ってんの?」
 クミが問いかける。
「チェリーからもじった」
「チェリー?さくらんぼ?」
「そそ。サクラは花だから、チエリは実のほうってことで」
「何それー。サオリらしい発想だね、それ」
 クミは大笑いしてる。
「まぁおいしそうに可愛く育つでしょう、きっと」
 サオリはそう言うと眠っているわが子を抱き上げた。
「すっかりお母さんだね」
 私がそう言うと、サオリはふふっと笑った。
「次はサクラの番かなぁ。たかしちゃんとどーなん?」
「え?」
「前はさ、子供のこととか受け入れられないっぽかったけど、もういつでも堂々と結婚できるんだよ?たかしちゃんの子供とか、欲しくなってきた?」
 サオリの質問はいつも唐突すぎるんだよ。しかもデリカシーないって言うか。相変わらず答えられないでいると、クミが代わりに答えた。
「駄目駄目、サクラは何でもゆっくりだから。この分だと結婚はあたしのほうが先だな」
「相手もいないのによく言うよー」
 クミにサオリは突っ込んだ。
「あ、そだ。サオリ、私赤ちゃんの写真撮らせてもらいたいんだけどいい?タカシが見たいって」
「え?いいよ。た・か・しが見たいのね~?どぞ」
 サオリは、からかいながら赤ちゃんを私に手渡した。
「え?サオリが抱いててよ」
「どうせならサクラが抱きなよ、撮ってあげる」
 まだ小さくて柔らかくて温かくて、腕の中にすっぽりと入ってしまう小さな命を胸に抱いた。ちょっと緊張した。でも、涙が出そうなくらい嬉しかった。
「可愛いね、赤ちゃんって」



 タカシと付き合って初めてのタカシの誕生日は一緒に居られなかった。
「マジで?タイミング悪すぎね?」
 タカシはそう言った、顔は怒ってなかったけど。カナダの大学へ一度足を運ばなくてはいけなかった。向こうから指定してきた日時がタカシの誕生日とかぶっていたのだ。
「大学のことだから仕方ないし、まぁー諦めるけど」
 そう言ってタカシは拗ねた。タカシの部屋に来る頻度が増えて、まるで自分の家みたいに落ち着く場所になってる。今日もバイトが終わってすぐにここへ来た。タカシはまだ学校から帰ってなかったけど、鍵は一つ預かってる。勝手に部屋に入って、勝手にタカシを待っていていい存在で居られるってやっぱり嬉しい。
「ちょっとパパたちのとこにも行ってきたいから一週間くらい滞在してくるけど」
「うん、わかった」
 そう返事をしながらやっぱり拗ねてる。バッグから教材を取り出して、タカシはベッドルームにあるデスクへと向かった。学校が終わると早く帰ってくる分、いくつか家で出来る仕事は持って帰ってくる。
「今日も仕事いっぱいあんの?」
「ううん、今日はこれチェックしとくだけ」
 その間に夕食を作った。一緒に食べるのも習慣になった。
「あ、今日の旨い」
 いつもいっぱい食べてくれる。夕食が終わると私が勉強をさせてもらう。タカシの部屋には本がいっぱいあるから、どれも参考になるものばかりで助かる。
「ねぇ、カナダで面接やって、それで大学行けるか決まんだろ?」
 タカシは、デスクを借りて勉強している私の所へ来て、そのデスクの隅に腰かけるとそう聞いた。
「うん、そうみたい」
「そっか。やっとだな」
「うん」
 普通に返事していたつもりだったけど、タカシには何かいつもと違うって思えたんだろう。カラ返事になってる私に続けて声をかけた。
「何?なんか嬉しくなさそうだけど?」
 椅子に座ったまま、私はタカシを見上げた。
「なんかぼぉーっとして、最近集中できないんだ」
「どして?」
「わかんない」
「俺・・・邪魔、だったら出かけてくるけど」
「ううん、そういうんじゃないよ」

 
 自分でもわからないことばっかり。バイトに行ってても勉強していても、いつもぼーっとしている感じがする。嫌なことも何もないのに、何処かに大きなもやもやを抱えてる。何だかわかれば解決もできるのに。
 その日はちょっと、自分でもどうしていいかわからなかった。体調は悪くないのに気分が悪い感じ。開いていた辞書を閉じて、私はそのままデスクに顔をうずめるようにした。
「大丈夫?」
 タカシは心配そうに私の背中に手をやった。
「震えてるよ?サクラ?」

 カナダの大学へ行って、将来は通訳の仕事をしたい。それが私の夢なのに。最近だんだんと、どうでもよくなってきた。
「私・・・」
「ん?何?」
「カナダ行きたくない」
 デスクにうずくまったままそう言った私の背中に置いたタカシの手が、一瞬動いたのがわかった。何言ってんだろ、私。
「どうして?」
 タカシは背中に手をやったまま、しゃがんで私の傍で問いかける。
「何かあった?」
「わかんない、行きたくない」
「・・・でも、サクラが行きたいって決めたんだろ?」
 私は、何も返事をしないままタカシに抱きついた。転ぶように倒れこむタカシに抱きついたまま、タカシの胸に顔をうずめた。
「行きたくない、大学とかどうでもいい。タカシと一緒に居たい、それだけ」
 それが私の本心だったのか、単にわがままを言いたかっただけなのかも自分でわからない。子供が駄々をこねるように、ただタカシに抱きついていた。
「じゃぁ、やめる?」
 タカシは冷静に答えた。
「カナダの大学行くの、やめればいいよ。俺は、向こうの学校行くけどさ」
 抱きつく私の背中をそろそろとさすっているのがわかる。
「そしたら一緒には居られなくなるけど、それでもいいならカナダの大学やめればいい」
「嫌だ、一緒に居たい」
 顔は上げられなかった。わがまま言ってることが自分でもわかっていたから。そんな私からそっと離れるように立ち上がると、タカシはそのままベッドに座った。その足元で、ただ私は俯いているだけだった。
「なぁーサクラ、これ以上俺を苦しめんなよ」
 ぽつりとタカシが言った。
「どんだけサクラがわがまま言おうが無茶言おうが、俺は何でも受け止めるつもりだけど。お前自身ががんばらないといけないとこまでは、俺踏み込めないからさ」
 声が冷静だけどちょっと怒ってる。いつもとは違う。
「お前のこと応援したいし、いつも一緒に居たいし、そういう気持ちはお前と同じつもりだったんだけど、俺の勝手な勘違いだったんかな?」
「え?」
「お前自分のことしか考えてないでしょ?」
 かろうじて見上げて見たタカシの顔は大人の男の人だった。怖かった。子供を叱るみたいに、冷静だけど怒っている顔をしていた。
「お前が卒業するまでは、お前が大学に入るまでは、お前がカナダでの生活落ち着くまではって、いろいろ考えて、俺がお前に少しでも負担にならないように合わせてきたこととかって無駄だったのかな?」
「そんなこと・・・」
 ベッドに座ったまま体を前に屈めて、目の前に居る私の左腕をぐっとタカシは掴んだ。
「お前は俺の理想で、すんげぇ年下なのに尊敬できて。だからお前の笑顔を壊したくないって思った。俺の勝手な感情とかでお前に無茶したくなかったし。大切にしたいって思った。そはお前だからだよ」
「タカ・・・シ?」
「お前だから・・・」
 タカシが掴む腕の力は痛いくらいだった。
「タカシ、痛いよ」
「じゃなかったら、とっくに壊してるよ」
 そう言うとタカシは私を抑え込むようにキスをした。そしてそのまま、力任せに私を抱いた。押さえつけられた体は動けない。タカシの指が、唇が、私の体をなぞるたびに心臓が飛び出しそうだった。怖いくらいだった。タカシに抱かれるのはこの日初めてではなかった。けど、こんなのは初めてだった。そしていつもより長いキスは、なんだか切なかった。
 私はやっぱり子供だって思い知らされる。なんだかんだいって、どれだけ無茶苦茶にされようが、抱きしめられると安心する。怖いくらいに強い力でも強引なキスでも、そこから伝わってくるタカシの感触に安心する。お母さんに抱かれる赤ちゃんみたいに。



「ごめん」
 タカシは私を抱きしめたままそう言った。涙が流れて止まらなかった。仰向けに寝転がる私の上に重なるように体を起してタカシは言った。
「俺いつでも傍に居っから」
 ますます涙が流れた。
「私・・・ね、大学へ行くよりも、将来の夢よりも、タカシを選びたいって一瞬思った」
 そう言うとタカシは笑って、
「ありがとう」
 って言った。
「嬉しいけど、でもそれじゃ俺の居る意味がない」
「意味?」
「好きで、俺のこと思ってくれるのは嬉しい。けど俺はお前の夢とか諦めさせるために傍に居るんじゃないから。お前がさ、これからやりたいことをやっていくその平行線上に俺が居られるんなら、意味はある」
「うん」
「お前も、俺にとってそういう存在で居てくれる?」
「うん」



 やっぱりね。タカシにはいっぱい元気とか勇気とか貰う。三年前から私全然成長できてない。けどそれでいいってタカシは言うんだ。俺が居る限りお前はそれでいいってね。私は幸せな人だと思う。こうやって傍に居てくれる人がいて。進みたい道に向かって進んでいて。小さな幸せかも知れないけれど、大切なものを今いっぱい感じてる。



 カナダへ行く日はとても暑い日だった。大学への入学も決まり、七月の初め、私はカナダへ旅立つことになった。
「よかったわ、先生が一緒で」
 カナダへ行く日、タカシは自分がカナダへ行く日をわざと合わせてくれていた。
「いえ、飛行機が一緒ってだけですから。幸い矢野の大学はうちの高校の近くですし、以前ステイしていたダニエルさんのお宅も近くですから、何かあれば遠慮なく言ってください」
 タカシはそう、母に挨拶をした。ちゃんと大学に通って、しっかりと足に地をつけるまでは、二人が付き合っていることは話さないことにした。隠すつもりはないけれど、母には心配かけたくなかったから。



「カナダへは勉強しに行くんでしょ?」
 出発の数日前、タカシは意地悪っぽくそう言ってた。私がタカシの彼女であることに変わりはない、けど一線をちゃんと置いてくれるつもりみたいだった。
「もちろん甘えたい時は甘えてくれていい、先生で居て欲しい時はいくらでも教えられること教えるし?サクラの都合のいいように使っていいよ、俺のこと」
「私は・・・普通にタカシの彼女でいたい」
「わかってるよ。サクラは俺の彼女です。けど、ちゃんと勉強もしてください」
「何よ、急に先生みたいな口調で」
「だって俺教師だもん」
 タカシが無理に私を抱いたのはあれ一回きりだった。いつでも私の気持ちを優先してくれる。
「ほんとに俺はサクラをサポートしたいの。彼氏として、友達として、先生として、いろんな立場でサクラが必要な時に一緒に考えたい」
「そう言ってくれるの嬉しいけど、私はタカシに何もしてあげられてない気がする」
「そんなことないよ。俺前に言ったでしょ?お前のこと尊敬してるって」
「そうだっけ?」
「教えられることいっぱいあるよ。お前見てると俺ガキだったなぁーとかって思うしさ。ほんとに」



 この日空港へは母しか来られなかった。兄は就職したばかりで仕事休めなかったし。サオリはまだ子供が小さいし。クミは、寂しくなるから見送りには行かないって言った。
「たかしちゃんって、なんか日本人っぽくないんだよね」
「え?どこが?」
「高校が向こうだったんだっけ?なんか向こうで高校生の時にいろいろ覚えたんじゃないの?女の扱いとか」
 クミはそうやって私をいつもドキドキさせる。
「どうしよう、もしそうだったらなんか・・・私みたいな子供の相手ずっとはしてくれないよ、きっと。ふられちゃうよ」
「あはは、大丈夫だよ、たかしちゃんのサクラへの入れ込みはかなりだよ。ロリコンの気とかあんのかな、サクラって癒し系で可愛い系だし」
「何それ?ロリコンとか超気持ち悪いこと言わないでくれる?」
 クミとは前日まで電話でこんな風に話をした。いつもと変わりない他愛ないやりとりだったけど、寂しくなるから見送りには行かないって言ったクミらしい時間を過ごさせてくれた。それが嬉しかった。
「離れ離れになんのは寂しいけどさ、サクラはたかしちゃんついてるし、不安なく行ってこれるね。がんばってきなよ」
「うん」



「じゃぁお母さん、行ってくるね」
 そう言うと、母は笑顔で頷いた。空港のロビーで母とは別れた。急に不安とか寂しさとかが押し寄せてきた感覚がした。でも母には見せたくなくて、背を向けたまま振り返らずにゲートに入った。涙が止まらなくなりそうだったけど、大丈夫。隣にはタカシがいるから。それからずっと、手を繋いでいてくれた。飛行機の中ではタカシとあんまり話はしなかった。きっと気を使わせてしまっていたと思う。時々こっちを見ては、頭を撫でてくれたりしていた。カナダまでは九時間弱。ほどよく効いてるエアコンの空気が少し喉に痛くて眠ることもできなかった。っていうのは表向きの理由で、やっぱり何処かで不安が離れなかったのかもしれない。ぐったり疲れるほど飛行機での時間が長く感じられて、タカシも随分眠そうな顔をして飛行機を降りた。
 空港へはパパが迎えに来てくれていた。タカシが一緒なのも話してあったので、一緒にパパの車に乗った。ママはカフェをお休みして、たくさん料理を作って待っていてくれた。
「サクラ、お帰り」
 ママは痛いくらいに私を抱きしめてくれる。パパとママにタカシは、私の在籍していた高校の教師で、今は恋人だと話した。私は照れくさくてたまらなかったんだけど、ママは喜んでタカシにハグしてた。
「そうそう、サクラ。桜の木をね、植えたんだけど」
「え?ほんとに植えたの?」
「そうよ、注文して取り寄せたの」
 そう言うとママは私の手を取って裏庭に連れだした。パパとタカシも後をついてくる。
「見てほら、少しだけど咲いたのよ」
 きれいな薄いピンクの花びらだった。
「これからうちにステイしにくる日本の子たちにも見せたいの。この桜の花を見て頑張って欲しいなって思うわ。サクラたちの国の花だもの」
「うん、ママ、素敵」
「それよりサクラのほうがもっと素敵になったわ」
 何度も何度もママはハグしてくれる。
「サクラはほんとにみんなから愛されてんな」
 タカシがそっと言った。
「うん、ほんとに」
「でも俺がサクラの一番だから」
 そう言うとタカシはにっこり笑った。
「何?日本語で話されるとわからないわ」
 ママがタカシの言ったことを聞きたいと言ったけど教えなかった。
「ママには内緒」



 これから始まることがいっぱいある。カナダでの生活も、大学での勉強も、タカシとのことも。不安だらけだけど、今私はとても幸せだから。こんなに恵まれてることなんて一生に何度もないんだから。いつかみんなにお返し出来るように頑張ろうって思う。この桜の木みたいに、何度も花を咲かせて、みんなの心に安心を与えられるような人になれたらそれでいい。私の名前は、桜の木の"サクラ"なんだから。

桜の咲くころ

重複掲載 : 魔法のiらんど

作者、英語は話せません。文中の英文に間違いがあったらごめんなさい。 にのみやあい*

桜の咲くころ

出逢いは16歳のとき 桜の咲く春のこと・・・ それからずっと 私は先生のことが 好きでした

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-08

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