赤えんぴつ

赤えんぴつ

当作品は、あくまで作者の持つイメージで描かれております。
解釈の違い、イメージの齟齬などがある可能性がありますので、予めご了承ください。

赤えんぴつ

西島(にしじま)千恵(ちえ)さんのお宅ですか?』
 夏の蒸し暑い日だった。
 その日彼女は僕の誕生日プレゼントを買いに行くのだと言った。プレゼントを買いに行くと言ったらサプライズじゃなくなるじゃないか、と言った僕に、君は笑ってこう言ったんだ。
 どんなプレゼントか楽しみにしててね、それもサプライズでしょ――って。
 結局押し切られた僕は、君を黙って見送った。
 君が居ない間に部屋の掃除をしておこう。お風呂の掃除もして、洗濯機も回しておこう。そうしたら君はきっと驚いた後、困った顔をしてこう言うんだ。
 私ったらこんなに幸せでいいのかな――って。
 それが僕の幸せなんだよ。君を幸せにする為に僕は生まれたんだ。
 だけどその日掛かって来た一本の電話が、僕の夢を終わらせた――。
立川署(たてかわしょ)の吉田と申します。ご家族の方で間違いありませんでしょうか』
「はい……。夫の貴之(たかゆき)です。ご用件は、なんでしょう……」
 警察から電話が掛かって来るなんて事は今まで一度だってなかったから、僕はその電話を(いぶか)しんだ。
『二丁目の交差点で奥様が事故に()われました。先程緊急搬送され処置を行いましたが、残念ながら――』
「…………は?」
 一回で理解出来なかった。こいつは何を言っているんだろうとぼんやり思って、それから新手(あらて)詐欺(さぎ)だろうかと、そう思った。
「……あの、(おっしゃ)っている意味が――」
『ご心痛お察し致します。お辛いところ大変申し訳ないのですが、手続きや確認などがありますので、大手通(おおてどお)り病院にご足労(そくろう)願えますか』
「や……ちょっと待ってください。千恵が、千恵の身に何があったって――」
『奥様は先程、()()()()()()()()――』
 血の気が引く、という感覚を、僕はその時初めて体感した。本当に身体が冷たくなっていくんだと冷える足先を感じながら思う。
「じょ……冗談、ですよね……」
 胸の辺りが苦しくて、やたらと息ばかりを(ふく)んだその言葉を、相手はちゃんと聞き取れただろうか。
「お、お掛け間違いじゃありませんか? 妻はさっき出掛けて――」
 出掛けたんだ。僕のプレゼントを買いに――。

 死んだ?
 千恵が?
 嘘だ。
 そんな事ある訳がない。
 元気に出て行ったんだ。
 そう、もう少ししたら千恵が玄関を開けて――。

 胸の辺りがざわついた。彼女はどこへ出掛けたのだろう。二丁目の辺りには何があっただろうかと矢次早(やつぎはや)(めぐ)る思考で目の前が(ゆが)んだ気がする。
『……心中、お察し申し上げます……』
 そして不意に全ての流れが止まった。
 何のきっかけがあった訳じゃない。
 ただ底冷えするような胸騒ぎがあっただけだった。
「……や……あの……なん、でしたっけ……」
 真っ白になる頭は、ついさっき言われた事すら記憶してくれなくて、僕は情けないかな同じ事を繰り返し教えて貰う事になる。それでもやっぱり脳は何も()めておいてはくれなくて、僕はただひたすらに病院の名前だけを呟いた――。

「……こちらです……」
 沈痛(ちんつう)な面持ちを(たた)えた医者に(うなが)されて入ったのは、霊安室という場所だった。飾り気のない質素なその部屋の中央に、白い布で覆われた()()が横たわっている。
「ご準備は宜しいですか?」
 その問いに、はい――と答えられたのかも解らなかった。医者は大仰(おおぎょう)な程張り詰めた顔をしてその布の一部を(まく)る。
 ――千恵だった。
 それは間違いなく千恵だったのだ。
 詐欺でもなく、冗談でもない現実がそこに()る。
「……あの……これ……千恵、ですよね……」
「この度は、大変御愁傷様で御座いました……」
 千恵はやたら綺麗な顔をしてそこに眠っていた。寝ているのだとしか思えなかった。彼女はさっき家を元気に出て、僕にプレゼントを買って来ると言ったのだ。間違いなく、そう言ったのだ。
「……嘘だよ……」
 そう思う気持ちと、良く見てみろ間違いなく現実だろうと思う気持ちが()い交ぜになる。ざわついた胸が僕の思考をまともに働かせる事を拒んで、叫び出しそうにすらなる。それを()らえようと、僕は自分の胸の辺りを強く握った。
 ともすれば膝を付きそうになる足を懸命に突っ張る。そうして居なければ、この受け止めがたい現実が僕を飲み喰らってしまいそうだったからだ。
「……大丈夫、ですか?」
「……信じないよ……僕は信じない……。こんな……ッ……。こんな事ってあるかよ!」
「西島さん、落ち着いてください」
 堪えていたものが(こぼ)れるのは簡単だった。(いきどお)りは僕の口から次々と(あふ)れていく。こんな叫びは千恵には聞かせられない。そう思っているのに、目の前にあるものがとても受け止め切れなくて、僕は天に向って叫んでいた。
「おいどういう事だよ、訳解かんねぇぞ! 何だよ! 何が起きたんだよ! なぁ! 教えてくれよ! なぁ――ッ。答えろ! 嘘だって言えよ!」
 もし神様が居てこれが僕に与えられた試練だとするのなら、あまりに酷過ぎると思ったんだ。
「西島さん!」
「嘘だ! こんな冗談笑えないぞ――ッ。起きてよ、ねぇ! 起きろよ、千恵! 千恵――ッ」
 ――そこからの記憶はあまりない。
 どこか夢の中のような気分だったから、葬式を上げたのかも、納骨は済ませたのかも(さだ)かじゃない。
 ただぼんやり覚えているのは、身体に一切の力が入らなかった事だけだった。
 あの間、僕はどうしていたのだろう。飯はちゃんと食べていたのだろうか、きちんと眠り、朝になれば起きていたのだろうか。

 あの日僕はどうやって――()()()()()()()()()()
     ※
 君の部屋だったドアのノブを握ったまま、僕はそこを開けられずにいた。何度もノブを握っては、(ひね)る事が出来ずに立ち尽くす。
 怖かったんだ。そこを開けたら、今までの事が全部現実になってしまう気がして、そしてそこを開けてしまったら、僕と君との思い出が全部嘘だったと突き付けられてしまうような気がして――それは矛盾(むじゅん)しているのだけれど、どこからが嘘でどこからが本当なのか僕には解らなかったから、その禁忌(パンドラ)の箱を開けてしまう事が恐ろしかった。
 例えば開けたこの部屋に何もなくて、それが全部僕の妄想だったと知る事も辛い。だけれどこの部屋を開けて君の名残りがあった時、君と過ごした事や別れも全部現実だと知る事も、とても辛かった。
 だから僕はそのどちらも受け入れる事が出来なくて、あの日からこの部屋をないもののようにして扱って来た。
 ――だけどね、だけどさ。
 もし仮に君と過ごした毎日が現実で、君の名残りがこの部屋にあるとするのなら、僕がして来た事は君自身をない事にしていたんじゃないかって、そう思ったんだ。
 だから僕は――開けなければならないんだ。
 せめて君が僕の(そば)に居てくれたという事だけは、僕は見なきゃいけないんだ。
 何度か大きく胸を膨らませて深呼吸した僕は、ありったけの力を込めてそのノブを回す。
 君の――()()()()()()
 現実だったんだ――それが最初だった。
 僕の趣味とは違う室内の装飾。女性らしく可憐で愛らしい。それを一通り眺めてから部屋の中に一歩足を踏み入れれば、君の香りがした。
 ロクシタン――だったか、君のお気に入りのブランドの香りだ。一年も経つのにまだ残っているのかと思うと同時に、一年間も放っておいたのかと苦笑が浮かんだ。
 ――ごめんね、放っておいて。
 心の中でそう呟いて、椅子を引き出す。
 君のお気に入りの机。家具屋で見つけて即買いした。
 それから棚へ視線を移して、
『一九七五年から一九七七年』
 と背表紙に書かれたアルバムを引き出した。
 君との最初の思い出は、二十八年も前に(さかのぼ)る――。
     ※
 入園式。君が無邪気に笑う姿があった。ページを(めく)る度、君の思い出が一年一年広がっていく。
 そうだった。お遊戯会(ゆうぎかい)で君はシンデレラをやったんだったね。僕はお城の衛兵役だった。その頃の君を意識していた訳じゃなかったけど、僕は今でも覚えてるんだ。他の事は何も覚えてないのに、君の目が大きくて、あんまり笑顔が可愛くて、本当にお姫様なんじゃないかって馬鹿な僕はそう思ったんだ。
 君の気を引きたくて、リボンを引っ張ったり砂を掛けたり――あの時は本当にごめんね。
 最後のページを見終えた僕は、次のアルバムを引き抜いた。
 小学生の頃の君は、まだ無邪気だ。これは運動会か、こっちは学芸会だろう。この頃の僕は段々君を意識し始めてたんだ。同じクラスになれたと喜んで、違うクラスだったとちょっと()ねたりもした。当たり前のように同じクラスになれてからも、席が遠いとか近いとかで一喜一憂してた――。
 中学生になると、僕の意識はもっと強いものになった。君がどんどん大人びていって、例えばクラスで友達と男の話をしているだけで胸が高鳴ったし、君が友達と運動部の先輩を見てた時なんて、僕はもうそれはそれは悔しい思いで一杯だった。
 だけど僕は格好付けてもいたから、君に素っ気ない態度を取った事もあったね。あれは僕の精一杯の照れ隠しだったと知ったら、君はきっと笑うんだろう。
 次は高校生。
 もう随分(ずいぶん)大人になった君の笑顔が写っている。これはクラスの友達だろうか、学校が違った僕には解らない。体育祭に修学旅行、そして文化祭。僕が知らない君の思い出が詰まっている。この写真の一部に、本当は僕も写るつもりだったんだ。だけど馬鹿だった僕は受ける事すら許されなかった。
 今思えば、君に勉強を教えて貰えば良かったんだとそう思う。そうしたら君と一緒に居られたのに、まだ反抗期の延長戦を気取っていた僕には、それが出来なかった。
 だから君と同じバスだと知った時は天にも(のぼ)る気持ちだった。
尾野(おの)じゃん! うっわ、すげえ久しぶり!」
 一年の頃の夏、僕がそう声を掛けたのを覚えているだろうか。久しぶりなんて嘘なんだ。同じバスだと気付いたのは春先の事で、それから僕は毎晩どうやって声を掛けるかを想像して、家で何度も自然な素振りの練習をしていた。
 だけど君はそれもお見通しだっただろうか。
 あの時君が見せた微笑みは、そういう意味だったんだろうか――。

 それからバスで君と喋るようになって、大学受験が近付いて来た。大学なんていける柄じゃない、そう思ってた僕に君が進学を希望していると告げた。大学でやりたい事があるんだと。それから僕は親に頭を下げて塾へ通う事を了承(りょうしょう)して貰った。気でも違ったのかとかやる気を見せるのが遅いとか罵倒(ばとう)されたりもしたけど、馬鹿は馬鹿なりに頑張ったんだ。あんなに勉強に打ち込んだ事は、後にも先にもなかった。
 だから合格通知を受け取った時、僕は大声で叫びそうになった。これで四年間君と一緒に居られるとそう思ったんだ。
 大学へ進学して、僕はちょっとばかり絶望した。田舎の高校と違って都会の大学にはファッション雑誌に出て来るような男が一杯だったからだ。
 だから僕は一生懸命バイトしてお金を貯めて、ファッション雑誌も沢山(たくさん)読んでお洒落(しゃれ)をした。君の気を一時すら他の男に取られたくなくて必死だった。君が他の男を見てる度わざと話し掛けて気を()らす。君が他の男と一緒に居るのを見つける度、そこに混ざろうとした。
「……あ、軽井沢だ……」
 アルバムに貼られていた思い出に、ページを捲っていた手が止まる。
 あれも夏の事だった。サークルメンバーで一泊二日のキャンプに出た。もうその頃になるとサークル内でも付き合ってる人たちがいたりして、僕も少し夢見てた。君と付き合う事が出来たら――なんて思う度、君が僕と? お姫様のような君と衛兵の僕が付き合うなんて事あるんだろうかと、不安にもなった。
 だけど僕は決心したんだ。君に告白をしよう。振られたとしても後悔するよりマシだなんて少し強がって――。
 そうしてチャンスが来た。軽井沢に行ったあの日、あの時、皆がそれぞれバラバラになって、僕と君と二人きりになった。
「あのさ――」
 ソフトクリームを食べている君にそう話し掛けた時、あんまり顔が近くて――。
 気付いた時には、キスしてた。
 ――何やってんだ馬鹿、順番が違うだろう。
 咄嗟(とっさ)にそう思ってももう遅い。僕は自分をぶん殴りたい気持ちになった。動揺と緊張で吐き気すらする中、やっと言えたんだ。
「……付き合ってください」
「……順番、逆だね」
 僕を罵倒するでもなく嘲笑(あざわら)うでもなく君はそう言って、
「貴之くんらしいね」
 優しい微笑みを浮かべながら、ソフトクリームを食べた――。

 それからはずっと幸せだった。君が傍に居るだけでも幸せなのに、君が僕の彼女になったのだから、その気持ちは言うまでもないだろう。
「あのね、海外留学……する事にしたんだ……」
 だけど、だからなのか、そう告げた君の表情は、見た事もないくらい曇っていた。
「海外……?」
「そう。ずっと夢だったんだ。海外に行って、本場でちゃんと勉強するの。現地に居た方が英語も身に付くし、将来の為になるかなって……」
「……え、どれくらい?」
「……二年。でも、でもね? 二年経ったらちゃんと戻って来るよ? 浮気も絶対しない。貴之くんとは離れちゃうけど……あ、毎日手紙書くよ! 電話は……お金掛かっちゃうから……あ、えっと……。でも、でもね――」
 僕が引き留めるとそう思ったんだろう。確かに僕は嫉妬深いし、情けないかな男としての度量もない。勿論(もちろん)君が離れて行くのは身を引き裂かれるくらい辛かった。
「いいよ。僕の事は気にしないで、行っといで」
 だけど、僕の所為(せい)で君がそんな暗い顔をするのは、もっと耐え(がた)かった。
 だから格好付けた。本当は泣いて(すが)って行かないで欲しいと言いたかったけど、こういう時強がってしまうのも、また男なんだ。

 君を(はる)か遠くに見送ってからの僕は、もぬけの(から)のようなものだった。授業も身に入らず、ダラダラと毎日を過ごしていた。学校へ行って、バイトをして家に帰ってテレビを見て寝るだけの毎日。あれだけ気合を入れていたお洒落もくすみ、ジャージで毎日学校へ通う。
 そんな僕を見かねた友人がこう言ったんだ。
「そんなに会いたきゃ行きゃいいじゃん」
 会いに行く? 僕が? 君に?
 そんな簡単な事を僕は見落としていたんだ。
 そうだ。会いに行けばいいじゃないか。お金を貯めて、今度の夏休みに会いに行こう。
 初めて降り立った海外は、もう何と言うか、空港の匂いから違っていた。視界に映る人映る人外国人ばかりで、
「凄いね、外国人だらけだよ」
 迎えに来てくれた君に、そんな間抜けな事を言ったのを覚えている。
 君に会いに行った二日間の旅は収穫も多かったけど、同時に君との距離を少し感じもした。スラスラと英語を喋る君は凄く輝いて見えて、尊敬もしたし、そして何より――自分の不甲斐(ふがい)なさを感じた。
 そんな事を言ったら君はきっと(なぐさ)めてくれただろう。そして少し、罪悪感を抱いたかもしれない。だから僕は、この時の気持ちは墓場まで持って行こうと決めたんだ――。
     ※
 数年前の日付が書き記されたアルバムを引き抜こうとして、ふと手が止まる。
 邂逅(かいこう)はとても有意義(ゆういぎ)で楽しいものだったけれど、ここから先はずっと今へと近くなるからだった。
 ――受け止め切れるだろうか。
 その不安が僕の指先をか細く揺らす。アルバムの背に何度か指を掛けようとして、結局引き抜く事が出来なかった。
 苦し(まぎ)れに机の引き出しを開ける。ごちゃごちゃとした引き出しは、見た目に寄らない君の大雑把(おおざっぱ)な性格を思い起こさせる。細かい事はあまり気にしない性格だったと目を細めた僕の視界に、小さな指輪ケースが留まった。
「……懐かしい……」
 ティファニーのそのケースは、僕が彼女にプロポーズした時に送ったものだった。アクセサリーケースにしまっておけばいいのに――とその雑な扱いに(とが)りそうになった唇は、そこに入っていた物たちによって押し(とど)められる。
 そこには、彼女が海外に行っている間に送った僕の手紙が収められていたからだ。
 そしてその他にも、彼女にとって大切なものなのだろうと思える物が詰まっていた。どれも僕にはガラクタに見えるけれど、例えばこれはおばあちゃんに貰ったお守りなのだと見せて貰った事がある。こっちのプラスチックのネックレスは、初めて貰ったクリスマスプレゼントだ。これは軽井沢へ行った時の切符、海外留学していた間の物もしまってある。
 細かい事は気にしない性格なのに、こういった思い出はずっと溜め込んでおく癖もあったと、懐かしい気分になった。
     ※
「……あの……」
 社会人を始めて三年目の夏、僕は一度たりとも入った事のない店のショーケースを眺めていた。
「はい」
 小洒落(こじゃれ)た制服を来た店員さんは、店の格式に似合った明瞭(めいりょう)な発音をする。
「婚約指輪って……どれくらいのものを買うもの、なんでしょうか」
「ご予算で御座いますか?」
「はい……。給料三ヶ月分って聞いたんですけど……。あれ、それって結婚指輪の方、でしたっけ……」
「左様で御座いますね。ご婚約指輪でしたら、皆様大体、十万円から二十万円以内の物をご購入されていらっしゃいますが、ご希望のご予算は御座いますでしょうか」
「……あ、いや……。そっか、やっぱりそれくらい掛かります、よねぇ……」
 正直きつかった。十万も二十万もポンと出せる程の稼ぎはない。それにきっと君は、数万円の指輪でも喜んでくれるだろうとは思う。
 だけどやっぱり――。
「これ。これにします」
 ひと目見た時から気に入った指輪があった。無駄な装飾はない、だけどどこか気品のあるシンプルなデザインの指輪は、君を思い起こさせた。
 値段は少々――いや、相当懐を寂しくしたが仕方ない。
 この指輪には、僕の覚悟が詰まっているのだ。

「わぁ、凄いよ! 綺麗だねぇ」
 いつものデートの後、僕たちは東京タワーへ立ち寄った。偶然を(よそお)ったというか、ついでに寄って行こうよ的なスタンスを(たも)ち続けた僕だったが、プロポーズはここですると決めていた。
 残念ながら雨模様だったけれど、それでも一面真っ黒の中に浮かぶ夜景はロマンチックそのもので、これぞプロポーズに相応(ふさわ)しい絶好のロケーションだと思う。
「あれ何の建物かなぁ?」
「あー……何だろうねぇ、あの方向は新宿かなぁ?」
 なんて平静を装ってみるけど、僕の心臓はさっきから高鳴りっぱなしだ。
「綺麗だなぁ……。うっとりしちゃうねぇ。晴れてたらもっと綺麗なんだろうな……」
 そう言って目を細めた君に、僕は今だとそう思った。
「あのさ」
「ん?」
 だけど、真っ直ぐ目を見詰められた途端、昨晩あれだけ考えた台詞が全部飛んでしまった。真っ白になった頭の所為で、言葉が上手く出て来ない。
「えっと……あのね、その……あーと……」
「何なに、どうした。どうした」
 面白がってそう言った君の言葉に、僕は勝手に追い込まれていく。
「もう、付き合って長いじゃん……。最初は、あ、いや……最初とかいいか。長くなっても、ね。あの、ほら……もう何年になるかな……。幼稚園からだから……いや、そんな事はどうでもいいか……。あの、ほら――」
 上手く言葉が出て来なくて、情けなくて泣きそうになる。こんな時でも僕は駄目人間なのかと、唇を噛んだ僕は――。
 ぶっきらぼうに、指輪ケースを差し出した。
「……け、結婚……し、しませんか……」
 宜しければ、なんですけど――と、訳の解らない事を言った僕の手に、柔らかく暖かなものが触れる。
「……今度は順番……間違えなかったね……」
 顔を上げれば君が微笑んでいて――。
「……何で貴之くんが泣いてるの……?」
「違うよ……っ。雨、雨だよ……ッ」
 二人して、幸せで(にじ)む夜景を眺めた。

 あの日から僕の人生は更に幸せになっていった。
 こんなに幸せなのはおかしい、きっと夢だと何度も頬をつねり、君に笑われる事を繰り返す。
 本当に夢のような時間だった。
 あまりに幸せ過ぎて、僕は時々不安になったんだ。朝目が覚めた時、全部なくなっていたらどうしようと夜眠る前に思った事は、一度や二度じゃなかった。だけどそんな夜に限って君は起きていて、僕の隣で僕を見詰めてるんだ。だからそういう夜は、今度は僕が微笑んだ。そうすれば明日目が覚めた時、必ず君が隣に居てくれるような気がしたからだった。
     ※
 引き出しにケースを戻した後、立ち上がった僕は壁に掛かったままの洋服をそっと撫でてみる。一年も掛けっぱなしだったのに、埃ひとつ付いていない。
 君の、僕のお気に入りだったスカート。この上着を可愛いねと言ったのはどっちが最初だっただろう。毎週末、僕と出掛ける度に君はこのスカートを()いていた。
 そのまま、抱き締めてみる。
 洋服から君の香りがした――。
 何も変わらない、君の大好きだったロクシタンの香り。
「――――ッ」
 最初は殺していた声がどんどん大きくなった。
 足に力が入らなくなって、その場に崩折(くずお)れる。
 君の洋服を抱きしめたまま、僕は――。

 君を失って初めて、泣いた。

 そうして僕はやっと気付いた。
 あの時から僕は、千恵の為にも僕の為にも泣いてやらなかったんだという事を。僕の心も身体もこんなに痛みを、苦しみを哀しみを感じていたんだという事を。情けないかな一年経ってやっとそれを吐露(とろ)出来たんだという事を、張り裂けそうになる胸の痛みで実感した。

 どうして君だったんだ。
 何であの日だったんだ。
 僕はまだまだ君に伝えたい事が山程あって。
 ずっと、ずっと隣で笑っていてくれると信じてたのに。
 そう、どれだけ泣き叫んでも、どれだけ後悔しても。
 君は戻って来ない。
 どれだけ、どれだけ。
 君を愛していたと叫んでも――。

 子供のように大声で泣いて、泣いて――。
 一年も経って(ようや)く、僕は君を失った事を痛感した。

 どれだけの時間をそうやって過ごしていたのか、外から聞こえるひぐらしの音で僕はやっとそこから顔を上げる事が出来た。
 窓から照っていた光はいつの間にか夕焼けのそれになっている。
 ご飯――作らないと。
 沢山泣いた所為なのか、場違いとも言える空腹を感じた僕はぼんやりとそう思う。君が居なくなってから、僕は一人でご飯を作れるようになったんだ。まだ君ほど上手ではないけれど、職場の人に振る舞ったら少しは褒めて貰えたんだよ。
 そんな事を思いながら視線を移せば、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった洋服が目に留まる。
 ――怒られる。
 咄嗟にそう思ったのがおかしくて、その場で少し笑った。

 そうして、僕は思い出したんだ。
 やっと、思い出す事が出来た。
 君との思い出は全部夏の事だった。君と初めて出会ったのも、君に想いを告げた日も、キスしたのもプロポーズだって全部全部、夏だった。
 そして君と別れたあの日――高く澄み渡ったその大きな夏空に、煙突から立ち上がる君の名残りが雲を描いていた事を、その美しいコントラストを――僕は思い出したんだ。
     ※
「夏、好きだなぁ」
 家計簿を付けていた君が、ふとそんな事を言った。先程まで電卓とにらめっこしていた筈の顔は、いつの間にかベランダへ向けられている。
「何で? 暑いだけじゃない。汗掻くし、すぐびちょびちょになっちゃう」
 僕は(かじ)ろうとしていたアイスを口許(くちもと)から離して顔を(ゆが)めた。
「貴之くん、汗っかきだもんねぇ。でも私は好きだなぁ。お日様が元気だと嬉しくならない? ワクワクするっていうか、頑張ろう! って気になるんだよね」
「……千恵ちゃん変わってるね」
「変わってていいの。だって私には()()()()だもん。それにね、私にとって貴之くんは、太陽みたいな人なんだよ? だから太陽が大好きなんだ。お天気を見ても、貴之くんを見ても元気になる。うん、元気があれば何でも出来る!」
 そう言って笑う君の手には、夏の太陽を思わせる赤えんぴつが握られている。
 僕は、君の方が太陽のようだよ――という言葉を飲み込んだ。
     ※
 ――カナカナカナ。
 外から(すず)やかな声がした。
 カーテンを開け窓の外を眺めれば、黒く切り取られたビルの山に落ちていこうとしている夕日が、辺りを真っ赤に染めている。それを眺めながら、僕はそっと、あの日君が僕に買ってくれたネックレスのチャームを握り締めた。
 ――大好きだった君はもう、居ないんだね。
 そう考えただけで痛む胸に、また出そうになった涙をぐっと押し込める。
 遠く聞こえる夕焼けチャイムが、今日の終わりを告げていた。
 もう陽が落ちる。
 夜が来て、僕はまた少し泣きそうになるだろう。
 君が居ない隣を見詰めて、胸が少し痛むだろう。
 だけれど朝はまたすぐにやって来る。
 君を思わせる太陽が、また明るく(とも)るんだ。
 だから――。
 歩いて行こう。
 君を思い出にするなんてまだ僕には出来そうにないけれど、それでも歩いて行こう。
 一人でも、頑張るんだ。
 二人で過ごした日々は胸の中にずっとあり続けるのだから――。

 さよなら、さよなら。
 僕の大好きだった人。
 さよなら、さよなら。
 僕の夢のような日々。
 さようなら――そして、ありがとう――。

 太陽(それ)を、胸に――。

(了)

赤えんぴつ

この作品は、赤えんぴつ様の楽曲「それを胸に」をモチーフとさせて頂きました。
表紙画像 : いもこは妹 様 http://www.pixiv.net/member.php?id=11163077
この場をお借りし、御礼申し上げます。

赤えんぴつ

君と僕の夢物語は、二十八年前に遡る。 さようなら、そしてありがとう――。 それを、胸に。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-07

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work