自転車で、空を飛べるよ弥生ちゃん。
いい加減にしてほしいのだけど、弥生ちゃんの虚言癖はああしてもこうしてもどうしても治らなくって、今や親にも見放されているらしかった。
弥生ちゃんは息をするように嘘を吐く。
弥生ちゃんの嘘で傷つき、泣いている人を見たことがある。
弥生ちゃんの嘘に怒り狂って、弥生ちゃんの頬を叩いた子を知っている。
弥生ちゃんの嘘が原因で恋やぶれた人、長年の友情が潰えそうになった人もいた。
けれど弥生ちゃんは、筆箱を学校の池に捨てられ、体操着を便器に落とされ、仲間はずれにされてクラスで孤立しようと、嘘を吐くことをやめない。やめられないと言った方が正しいかもしれない。高校生になった今でも、弥生ちゃんは変わらず嘘吐きだ。
「自転車で飛べるの」
空をね。弥生ちゃんは笑った。
弥生ちゃんの嘘というのはどれもこれも、このレベルの嘘である。夢みたいな話。空想のたぐい。猫となにやらしゃべっている姿を目撃したことがあるから、激しい思い込み体質でもあるのかもしれない。虚言は妄想の産物。猫の目線に合わせて跪き、にゃあにゃあと発する弥生ちゃんはとびきり強烈だった。わたしったら「ひえっ」なんて、情けない悲鳴を上げちゃったもの。
ともあれ、弥生ちゃんは自転車で空を飛べるそうだ。
弥生ちゃんのとなりに立っているスーツの女の人が、弥生ちゃんをちらりと見た。午後六時の電車は混んでいて、弥生ちゃんの話につき合っていたら周りの他人にわたしまで変な子って思われるのではと不安になったけれど、弥生ちゃんはかまわず言葉を並べ立てていく。
「漕ぐでしょ、ペダルを、こう、思いっきりさ。脚がアニメみたいにぐるぐるの渦巻きになるくらいね、それでしばらく走るのよ。平らな道でも大丈夫なの。下り坂だともっと高く飛べるけど、二階建ての家の高さなら平らな道からでも余裕。翼はないわ、天使じゃないもの」
電車が駅に止まる。
電車を降りる人がいる。
新たに乗りこんでくる人がいる。
弥生ちゃんのせいか、乗車率過多な車内に充満する二酸化炭素のせいか、頭が痛くなってきた。
「ねえ、今度一緒に飛んでみない?」
「飛ばない」
わたしは首を横に振った。
弥生ちゃんは「ざんねん」と言ったけれど、残念がっているようには思えないほどの無表情だった。「なら、青虫に米粒をくっつけてみるのはどう?」と聞かれたので、わたしは無言のままメールを受信した風を装ってスマートフォンを見た。
青虫に米粒をくっつけるって、なに。
思ったが、問いたださなかった。また弥生ちゃんのチンプンカンプンな脳内劇場が開幕したら、厄介だった。
「そうそう、近い内に蛾の鱗粉を集めようと思うの。今、わたしが描いている絵があるでしょ。色を塗った上にふりかけたら楽しそうじゃない。わたし毒に耐性あるのよ。だから毒蛇も毒蜘蛛も、触れるの」
弥生ちゃんの話に真剣に耳を傾けてはいけない。頭がこんがらがってくるから。
わたしと弥生ちゃんは地元から電車で一時間以上も離れた私立高に通っている。美術に特化した学校のため、おなじ中学から入学したのはわたしと弥生ちゃんと、弥生ちゃんの嘘により失恋した過去を持つ関野さんだけである。
当然、関野さんはわたしたちに近寄ってこない。弥生ちゃんがいるから。最近ではわたしがひとりでいるときでも、関野さんは話しかけてこなくなった。
わたしは、弥生ちゃん以外に友だちと呼べる子がいない。
弥生ちゃんは、弥生ちゃんの悪い癖が高校でもすでに露わになっているから、クラスで孤立するのも時間の問題かもしれない。
弥生ちゃんは冥王星に彼氏がいる。
弥生ちゃんは海の中でも息ができる。イルカとしゃべれる。
弥生ちゃんはチェリーソーダを飲むと星の形をした涙を流せる。
弥生ちゃんは毒に耐性がある。
弥生ちゃんは自転車に乗ったまま空を飛べる。
エトセトラ、エトセトラ。
「山本さん聞いて。わたしアフリカでタランチュラを捕まえて、ブローチにしたことがあるの。素敵でしょ」
弥生ちゃん、ねえ、弥生ちゃん。
大切なものを失くしてまでも、嘘吐くことをやめられない弥生ちゃん。
だからわたしはこう言うの。
「へえ、すごいね。弥生ちゃん」
自転車で、空を飛べるよ弥生ちゃん。