宵子

宵子

 1
 夜明け前。街の中をすり寄った弱い風は、つまりはこの街の寝息だと名前を貰っている。まだ宵子が踊っている。とても静かな公園、とても静かなコンビニエンスストア、とても静かな団地、とても静かな住宅街。何の季節も問わず必然的に設けられたその街の静寂は、いつも通りの脈絡を歩いている。当たり前のなかで――眠りながらも――街は、人は、虫は、花は、昨日の訃報をすでに知っている。十階建てのマンション。その五階の左から二番目の部屋。ベランダへの窓が開いている部屋の隣。そこに二人の彼氏彼女がいた。
 彼女は上下ともグレーのスウェットを着ていた。髪は長く、そしてくどい色をしている。まるで金木犀のような色だ。そこから覗ける顔は頬がやや突っ張っており、目は小さく、その位置も互いに離れている。屈んだかのように平らな鼻から唇までの距離は近く、顎が三割も語っていない。小さい。そんな彼女の顔を、涙が埋めていた。それを拭おうとする手の指にはピンク色のこてこてとしたネイルが塗られている。「どうして」、と彼女が言った。何度目かの、「どうして」だった。
 向かい合って、男がいた。男もまた、彼女とよく似た髪色をしていた。しかしその髪は短く切り刈られ、剥き出しの耳には幾つかのピアスの穴があった。肌が若干黒く、彼もまた目が小さい。唇も小さい。服は彼女と色違いのスウェットを着ていた。しかし男の顔はなにも飾られてなかった。ただ咽びながら大粒の涙を繰りかえし流す彼女を正面から、見つめているだけだった。彼氏彼女の、泣き顔と真顔。「どうしてなの」また、彼女が無理やり絞ったような声で男に訊いた。「ねえ、なんで」
 男はそれまで黙っていた上唇を、ようやく持ち上げた。「ごめん」「……でも」
「でも……何?」女がそのまま訊ねる。
 そのとき、吸殻が積まれた灰皿のとなりにあった男の携帯電話がバイブ音を鳴らした。メール。そこには、彼女ではない名前の女が表示されている。「別れたい」、男はそれを無視して、その言葉を言う。
 また、彼女は大量の涙をともないながら喚いた。雪崩れているかのような滑舌で、「なんで」と言っていた。右足を上げては床に叩きつけるのを二回した。鈍い音が鳴る。確実に下の階に響いている。そのまま女は力が抜け、床にしゃがんだ。留まる区切りも見つけられず、涙が溢れてしまう。床にびしゃびしゃと落ちた涙の溜まりを見ながら、彼女は男との日々をひとしきり掘り起こしていた。彼のバイクの荷台、彼がつけていたチェーンのネックレス。削り取られた日々が、化石になっている。「じゃあ」、しゃがんだ頭の上から、男のそんな声と言葉が落ちてきた。「今までありがとな」
 男は去った。彼女はしばらくそのまま泣いていた。時刻は午前四時を終えようとしている。夜明け前、窓から鳥が何羽か鳴きはじめた。声が高い。彼女はすこし顔を上げた。振り向いてみると、宵子が踊るのをやめていた。

 2
 夜明け前。ジャケットの袖をすこしまくり、時計に目をやると午前四時も終わりそうだった。俺は何をしてるんだろうな、なんて俺はコンビニエンスストアの駐車場でそう思い、呟いた。するとそこからこぼれた息が白く色づいていて、どおりで肌寒いわけだと真顔の奥ですこし笑った。そしてすぐ嫌になった。
 いつもとは違う煙草を買った。さっそく一本吸ってみることにした。ライターの火が小さくて、捻り切れてない蛇口の先の雫に見えた。火を点けると、すぐに煙が冬の近い空に首を仰いだ。一口吸う。そして必要以上に吐いてやった。存分に煙を吐きだしてやった。それから俺は頭でうん、と頷いてから「不味いな」と呟いた。
まだ何も終わっていなかった。過ぎってほしくないものに限って、脳裏に過ぎる。書き上がらない長編小説の断片、喧嘩したままの友人、無断で休んだことに怒るバイト先の店長からの留守電、まだ何も終わっていない。次は煙もなく、息を吐く。何だか面白くなって、もういちど煙草を吸って吐いた。煙が四方にただよう。それから何もなく息を吐く。すると白い息が煙草の煙みたいで、ほんのすこし笑える。
 時間をあらためて確認すると、午前五時にまたごうとしている。横断歩道の向こうにある十階建てマンションの辺りで鳥が何羽かいる。夜明け前。宵子が靴を脱ぎ、帰ってゆく。

 3
 夜明け前。人を殺した。廃れたデパートの三階。ほこりまみれの窓ガラスに散った彼の血に目をやる。僕が、殺した。まだ奥歯がうるさい。誰かに見られているかもしれない。こんなところで、人を殺してしまった。右手にある感触が、今になって激しい動悸をもたらしてくる。ナイフ。血だらけの、ナイフ。今まで彼だった死体に、今まで流れていた血。僕はナイフを床に落としてしまう。それでも右手には彼の血がこびりついてしまっていて、心情に凪を作ることができない! 
 僕はとりあえずその現場から走って逃げ、その廃れたデパートから外へ出た。誰かに見られるかもしれないから、右手をポケットに突っ込んで、とりあえず逃げた。十階建てのマンションを通り過ぎる。横断歩道の信号が赤だ。その色が、血に似ている。そう思って、また僕が殺した彼の死体が、投げつけられたように脳内全面に貼りだされる。どうすることもできなくて、過去に戻れないということをこの瞬間に誰よりも、今までの僕よりも思い知らされて、そして思い知って、次は、次は、と考え込もうとしてもできなくて、何の意味もないけれど叫びたくなったから、僕は叫ぶ! 僕はまるで今に殺されそうな悲鳴のような声で、叫ぼうとした。
 けれど、叫ばなかった。叫べなかった。叫ぼうとしたら、それを食い止められた。横断歩道の赤が点滅している。コンビニエンスストアの駐車場にいる男が僕を見ていた。僕が人殺しだとばれたのかもしれない。しかし、だからどうするかは何も考えられなかった。行動に起こせなかった。
 僕の向こうで、宵子が踊っていたのだ。なぜか笑っている。なんで笑っている? 信号が青になり、変に落ち着いてしまった僕はのそのそと道を歩きはじめる。宵子が踊っている。けれど僕が渡り終えた頃には消えていて、宵子はもう見えない。
 そのまま歩くと、公園が見えた。何となくその公園に向かう。どうしてか、僕はあれほど人を殺したという実感を覚えていたというのに、今は不自然なくらい夢見心地になっていた。まるで閃光だ。僕は夢を見ていたのかもしれない。ポケットから右手をだし、もういちど手の平を広げてみたらやっぱり血痕が大きく残っていて、夢ではないと失望させられる。けれど、それまでだ。さっきまでの興奮が、今はない。作れていなかった凪が、今は心にたたずんでいる。
 僕はブランコに座って、すこし揺れる。これからどうしよう、と僕はブランコの錆びたチェーンを握りながら考える。夜明け前。宵子が踊っていた横断歩道より向こうの十階建てのマンションの壁から、すこしだけ陰が除かれはじめている。夜がゆっくり、なのか速いのかわからないけれど色が剥げていっている。まるで神様か誰かに慰められているように。ブランコに揺られながら考えた未来なんて、多分実現しない。僕がこれからどうなるのか、何となくわかっている。公園の出入り口から見える横断歩道の信号の青が、点滅しはじめる。宵子はもう見えない。信号が赤になり、その色がまるで。


 夜明け前。気がつけば、また夜が終わりそうだ。朝をすこし先走って電線に止まった数羽の鳥を、街は目をやる。刳り貫かれたような丸い雲の色が、朝の一秒一秒が摘まれてゆくにつれて分かってくる。街灯の明りも、それに比例して見えなくなってくる。街中で踊っている宵子は、もうすぐ帰るだろう。夜明け色が、廃れたデパートの窓ガラスに映される。コンビニエンスストア前の横断歩道をすり抜けてゆく。公園の誰もいない錆びついたブランコを風で揺する。十階建てのマンションにも、夜明け色は平等に配られる。五階にも届く、窓が開き、カーテンの踊り方がわかるその部屋にも色は滑りこむ。上の階の大きな騒音で目が覚めた子供は、閉じていたカーテンを両手でひらける。そして、ちゃんと夜明け色は飛びついてくる。
 夜明け前。もうすぐ午前は五時となり、街はすこしずつ瞼を上げてゆく。


 私が自殺しようと思った理由。理由の理由。そんなものをわざわざ言い残して死ぬなんて恥ずかしいと思った。だから結局、置手紙の一つとして書かないことにした。ある日突然自殺していた、それだけの情報だけでいいだろう。両親は隣室で眠っている。私は首吊り用のロープをカーテンレールに巻きながら、今までの人生で思い残すことはないかなどを暢気に考えていた。一つだけあった。そうだ、自作の詩は捨てておこう。見られると死んだ後でも死にたくなるだろうから。私はカーテンレールにロープを吊るしたあと、机の引き出しに入れておいたノートを手にとった。無作為にページを開くと、これまで自分が突発的に綴ってきた詩が書かれている。一ページ、一詩。そう決めてある。書いているときは勢いで押し切っちゃうけれど、いざ読み返してみると拙い。けれど、特別な羞恥心も生まれない。過去の私と、今の私について考える。きっと今の私が詩を書いたとしても、ここに並べられた詩とよく似ているものだろうと思う。私は、昔の私が書いた詩に、共感していた。笑ってしまう。けれど、笑えない。どのページの詩も、大体言い包めてしまえば「死にたい」と言っているのだから。やっぱり、笑ってしまう。
 ひとしきり読んでいたら、何だかこれは残しておいてもいいかな、なんて気分になってきた。そうだ、なんならこの(なんちゃって)詩集を置手紙代わりにしよう。多分読まれている間は死にたくなるだろうけれど、もう死んじゃってるし。また私は笑った。さて、死ぬか。私はノートを机に置き、いちど水を飲みにいった。グラスに水道水を注ぐ。そして一気に飲み込む。どうして水なんて飲んでいるのか、私はわからなかった。いや、わかっていた。さっきから無性に喉が渇く理由、きっと私は、怖がっているのだ。首を吊るということに。自殺するということに。
 私は部屋にもどり、何回か息を整えた。呼吸し、呼吸し、深呼吸をし、また呼吸し、何となくまた深呼吸し、呼吸して、呼吸して、呼吸して、噎せた。ところで隣の部屋の住人がうるさい。たしか金髪のカップルだったと思うけれど、なにをこんな時間から話しているのだろう。興味はないけれど、私の自殺する瞬間を見られるのは困る。私は椅子をロープの前に持って来、その上に立った。椅子の上に立って眺めてみる部屋の景色は、ただ高さが変わっただけだというのに、いつもと違った。いつもは顔を上げて見ていた掛け時計も真っ直ぐで見える。俯瞰して自分の部屋を眺めながら死んでゆくのも悪くないかもしれない。何もないこの部屋でも、何かあるように思えてくる。

 逃げないで 宵子
 逃げないで 宵子
 私が追いかけるわ 今から 
 だから夜の崖で待ってて ねえ宵子 
 背中をぽんと押して ねえ宵子

 私は、自分で書いた詩を詠んでいた。たしか題名は「夜明け前」だった。時間を確認すると、詩の題名どおりの時間だった。私は椅子から降りて厚いカーテンを左右に投げ、窓をあけた。するとレースカーテンが風で踊りだした。笑っている。意味もなく。私はベランダに出て、夜明け前の街をただ傍観した。夕暮れのような夜明け色をしている。街は、街のままで、電線に並んだ鳥もなにも変わらない。いつも通りで、当たり前なのに、私は――私たちは――あまりその景色を見ない。よく意味がわからないけれど、「美しいな」なんて思えてきて、私が自殺しようと思った理由にも、なんの暗喩も無いことに気づいて、またすこし笑って。 きっと朝になるだろう。すこし息が白くなっていて、煙草を吸ったあとみたいな気分になって、私は窓を開けっぱなしにしたままもう一度、

 椅子の上に立ったとさ。     END

宵子

宵子

【短編】夜明け前。何の季節も問わず必然的に設けられたその静寂の中で、宵子は踊り、去ってゆく。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-06

Copyrighted
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