巖頭より

 日光駅を出たバスに揺られながら、佐倉は額ににじむ汗を手の甲で拭った。三月も中旬に入り、初春を思わせる斜陽の暖かさがバスの暖房と混じっていた。少し厚着をしすぎただろうかと佐倉は身に着けたメルトン地の黒いチェスターコートから読みかけのペーパーバックを抜き取ると、コートを脱ぎ、開いた本に目を落とした。
 バスはいろは坂をゆっくりと登り始めた。
 大学に進学してまもなく丸二年が経とうとするこの時期に、佐倉操が大学から三県隔てたこの日光に訪れるのは、言ってみれば慰安旅行のためであった。大学の寮で生活する佐倉に、せっかくの大学生活なのだからどこか旅行にでも行って来いと両親に言われ、奥日光に民宿を開く親戚を紹介されたのは実に一年前であった。はじめは遊びに出る余裕はないと断っていたものの、一年経ったつい昨日の未明、ふいに散歩するかのような足取りのまま寮を出ると、鈍行や快速、なんでもタイミングの良い電車に乗り込んで、一日がかりで日光駅に降り立った。それから奥日光に向かうバスに乗ってから小一時間が経っていた。
 佐倉が腕時計を見ると、午後四時をまわっていた。バスはすでに中禅寺湖を過ぎていた。ペーパーバックを閉じ、バスの窓から外を見ると、寂しい枯木の立ち並ぶ平野が広がっている。と、バスの観光者向けであろう運転席近くの天井から下げられたモニターに、戦場ヶ原という文字が浮かび、続いてその写真が表示された。枯木と薄く積もった雪が、高い陽のハイライトを受けた眩しい写真だった。佐倉は、写真よりは今の実物の方が良いだろうといかにも旅行者ぶりながら再び外の景色に目を移した。
 車窓から時々見える木の覆う山や、その渓谷を見ると、標高が次第に高くなることが知れ、それと同時に妙に浮足立つ感じを彼は覚えた。
 バスは湯ノ湖を過ぎると間もなくバスターミナルに停車した。

 バスターミナルから十分歩くと目的の民宿があった。周りのホテルや旅館とは少し離れた、高い木々の茂る林のとなりにぽつんとたった二階建ての民宿は、焦茶色の木造で正面はガラス窓が広々と並んでいた。いまだ雪は胴まで埋まるかと思われるほど溶け残るなか、濃く土色をしたその民宿はよく目立っていた。
 佐倉は正面玄関に呼び鈴がないことを確認して、お邪魔しますと控えめに言いながら引き戸をガラガラと開いた。人の気配はなかった。
 しばらく居心地が悪そうに、玄関の框の端にある何も飾られていない大きな花瓶や、靴箱の上の木彫りのクマなどを見まわしていると、突然にドタドタと足音がし、玄関を曲がった廊下から割烹着姿の女性が現れた。
「あらあ、こんにちは。あなたが佐倉さんとこの…」
「はあ、操です」
「わざわざこんなところまで大儀だったわねえ。ちょっと待ってて案内するから」
 そう言うと割烹着の女性は、今度は反対側の廊下に消え、またすぐドタドタと足音をさせて現れた。
「ついていらっしゃい。靴は持ってきて」
 玄関から真っすぐ続く廊下を女性についていくと、二階に続く階段脇を通り過ぎたところで外に出る勝手口に行き当たった。
「うちは二棟に分かれててね。こっちの北棟はお客様用。あっちの南棟がうちなのよ」
「うちというと、あなたは」
「私があなたの叔母の藤村早苗です。よろしくねえ。あなたの部屋はこっちの客室じゃなくて、うちの元客室だけど、部屋は何も置いてないし綺麗にしてるからいいわよね」
 佐倉の父達男の弟は婿入りのかたちで、この藤村早苗と結婚し、民宿を継いで二代目であった。これまで直接会ったことがなかったが、早苗の歳より若い快活で高い声は、操が民宿を訪ねてからぼんやりと感じていた不安を和らげた。ここにくる途中で、急で申し訳ないが泊まらせてくれないだろうかという連絡は入れておいたし、部屋が用意できなければ他の宿泊施設に泊まるつもりで金を余分に持ってきていたが、その心配はいらなかったようだ。
 北棟の勝手口を出ると、二階建ての、これもまた焦茶色をした木造家屋が建っていた。早苗の話では、もとはこちらの南棟のみで民宿を経営していたものを、早苗の代で継いでから、北棟を新しく建てて客室専用としているようであった。つまり佐倉が間借りするのは、南棟の元は客室として使われていた部屋である。
 南棟の開き戸を開けると、
「あなたの部屋は二階の突当りの部屋よ。荷物を置いたら降りてきて。もう晩御飯の時間よ」
と言って、一人階段横の狭い廊下を早足で歩いて行った。
 六畳間の元客室は少し黴臭かったが、きれいに整っていた。ドアの向かいにある出窓の隣のローボードの上にはすでに懐かしさを感じるブラウン管のテレビが備えつけられており、部屋の中央には真四角の座卓と、真四角の座布団が一枚敷いてあるきりであった。佐倉は数冊のペーパーバックと公務員試験の参考書、それから三日分の着替えしか入っていないバックパックを畳の上に降ろすと、部屋の換気をするため腰窓を開いた。澄んだ冷たい空気が部屋に流れ込むと彼は妙にほっとした心地がし、深いため息をついた。

 部屋の窓を開けたまま、一階に降り、階段横の廊下を歩いていくとすぐにダイニングキッチンが見つかった。ダイニングテーブルの一番手前の席に背を向けて座っている、禿げ頭の恰幅のいい男は、私の叔父である藤村幸男であるとすぐに知れた。それからその真向かいには見た覚えのない少女がうつむいて座っていた。スマートフォンを弄っているらしかった。
「あなたはそこに座って」
と台所に向かう早苗が指さした席は、少女の隣であった。
「どうも」佐倉が言う。
「こんにちは」少女が言う。
 こちらを一瞥してそっけない返事をすると少女はまた手許のスマートフォンに目を落とした。次いで、
「久しぶりだなあ操君」
「そうですね、もう小学校以来ですか。しばらくよろしくお願いします」
 叔父の孝雄とは初対面ではなかった。
「いやこちらこそ。お前もちゃんとあいさつしなさい」
 孝雄が少女に向かって言うと、少女は伏し目がちに佐倉を見たが、また視線を落とすと「……花です」とだけ言った。
 夕食は民宿であるだけあって、豪華ではないが満足できる味だった。食事の最中ひっきりなしに孝雄と早苗は佐倉に学校のことだとか実家のことを聞いてきたが、花は始終無口で、一人食べ終わるとそそくさと自室に戻った。

 久しく長い会話をしていなかった佐倉は、自室に戻ると急に疲れを感じて座布団に座ると、座卓に頬杖を突いた。いまだ開け放っている窓からはときおり鋭い冷気が流れ込んできていた。澄んだ空気とは反対のぼんやりとした頭をもたげながら、今更になってなぜ自分はこんなところまでやってきたのだろうかと操は考え出した。環境を変えれば捗るかと思われて公務員試験の参考書を持ってきたものの、つい昨日までのその意気込みも今は一片も感じられなかった。
 明日はまた違う心地だろうと早めに床につくことにし、窓を閉め、押し入れから布団を引っ張り出して敷き終わるころ、部屋のドアが軽く叩かれた。どうぞと返事をすると、花が開き戸から顔をのぞかせて中を見回した後、体を滑り込ませるようにして音もたてず入ってきた。部屋着らしいスウェットのパーカーを羽織っていた。
「話の相手になってくれませんか?」
「はあ、僕でいいなら」
「この辺年が近い人あまり住んでなくて。話し相手に困っていたんです」
 少女は出窓の棚に座った。佐倉は座布団に胡坐に座りなおした。
「その割にさっきはそっけなかったみたいだけど」
「だって恥ずかしいんだもの。お父さんもお母さんもいたし。わからない」
「ふうん。君は高校生なの」
「今は春休みなんです。操さんは大学生?どうして来たの?」
「どうしてって…。どうしてだろう。落ち着いて勉強できるかなと思ったんだけど」
「真面目なんですね」
「真面目じゃないよ。ここに来てからさっぱりやる気が出ないんだ」
「それじゃあ私と遊んでくださいよ。息抜きも必要でしょ?」
 花は窓辺から座布団に座る操を見下す形になっていたが、巧みに上目遣いで微笑んでいた。風呂上りで生乾きの黒髪が、着崩したパーカーから露わになっている肩口に一房、さらりとかかった。白く透き通る肌と黒髪のコントラストが夜空に映えた。
 佐倉はまた疲れを感じていた。今すぐ眠りにつきたかった。
「ごめん、今日はもう寝るよ」
「じゃあ寝るまででいいから話を聞いてよ」
「…わかった。途中で寝たらごめん」
「いいよ。ねえ、スマホ持ってないの?」
「あるよ、アプリはあんまり入っていないけど」操はバックパックを指さした。
「よかった。それじゃあID教えてよ…」
 佐倉は話半分に、いつ寮に帰るか考えていた。あまり長居する必要もない。寧ろこのまま参考書に手がつかないなら早く帰るべきである。いっそのこと、観光もそこそこに明後日あたりに帰ってしまおうか…。
 重く閉じかかる目にぼんやりと立ち上がる花の面影が移ったのを最後に、佐倉は妙な暖かさに包まれる心地を感じながら眠りに落ちた。

巖頭より

巖頭より

ふと旅に出た青年。 旅先でであう人に青年は心を揺り動かされる。 ※連載中です。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-06

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