反射光

 アルバイト終わりにいつものように立ち寄るコンビニエンスストアで、いつものような夕食を買って外に出る。入口近くの灰皿スタンドで一本目の煙草に火をつけた。
 昼間は太陽の光で暖かさを感じていたものの、夜は師走らしい冷えて静かな空気に、煙草の煙か、吐く息か、白い靄を差し込みながら顔を上げると、視界の端に、街灯に照らされて鮮やかな赤色がちらついた。
 視線だけそちらに向けると、駐車場の片隅に女学生の立っているのが見えた。女学生は白いジャージのズボンに、赤色のウインドブレーカーを羽織って、肩から大きなのエナメルバッグを提げていた。そしてその活発な格好に見合わぬ眼鏡を、人差し指の第一関節で位置を直すと、白い息を控えめに吐いた。
 あの女学生は前にも一度見たことがある。
 今立っている女学生との距離は五メートルは離れていたものの、その赤い上着からすぐに見当がついた。
 以前見たのは、今背にしているコンビニの中であったが、すれ違った程度であった。その時の私は会計をしようとレジに向かって歩いており、その女学生とはそのときにすれ違ったのだ。顔は瞬間ほどしか見なかった。彼女は背が低く、その表情までは読み取れなかった。だが、濡れ羽色の、前髪を均一に切りそろえた黒髪に、細い赤縁の眼鏡をかけていたのは見逃さなかった。動揺した。立っているのもやっとのほどに眩暈がした。人が人ならそれは一目ぼれともいうのだろうが、私にとってそれはフラッシュバックだった。目の前が真っ赤に染まった。足が震えた。目を見開いた。鼓動が走った時のように鼓動を速めた。手の先から血の気が引いていき、痺れはじめて、赤かった視界がその外周から今度は白く染まりはじめ――――


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


「キスくらいならいいでしょう」
 二年ほど前のことだ。以前交際していた彼女は、別れた後に、これからは普通の友達ですねという私の言葉にこう返した。
 何も言えなかった。貴女は矢張り変わってしまったのでしょうか。環境に帰られてしまったのでしょうか。それでも私は変わっていないとどこかで信じてました。いいえ、もしかすると、最初から貴女はそうだったのかもしれません。私が気付かなかっただけでしょう。そんな心のうちの何も、言えなかった。
 彼女は片頬をひきつらせて口だけで笑った。

 彼女と別れたのは今から二年ほど前で、その頃私は、希望していた大学のランクを下げ続け、結局国立には入学できたものの、どこか胸に錘を抱えたまま過ごしていた。
大学に入って一か月が経った頃、ゴールデンウィークを利用して、隣県の彼女の家に泊まりに来ていた。その前最後にあったときの彼女の姿、地元を離れる時はあれだけ会いたかった彼女の姿は、私の思い出の膿んだものだったのだろうかとさえ思えるほどに、ゴールデンウィークに見た彼女は、姿かたちこそ変わりはないが、姿かたち以外は変わって見えた。
 生々しい話になる。彼女はそのとき、テニスサークルに属していたが、私はそれを、自分の大学のテニスサークルと同等に見ていたので、彼女の活動を不快感とともに想像した。また彼女は妙なところで大人ぶりたかったのか、サークルの彼らと集まっては酒を飲んでいることを私に話して聞かせた。私は大人というものをもっと上の、せめて未成年だから酒を飲むのだというような人間よりましなものだと思っていたために、彼女のその態度は私を苛立たせた。あるいは私が単に、ことあるごとに酒宴を開こうとする人を嫌っていたからなのかもしれない。彼女がそうした人に属するとは考えたくなかったのだ。私の苛立ちは余計に私の不快感を助長した。
彼女と私との間に壁を感じたのかもしれない。
 金銭面でも社交面でも、劣っていたとは思うが、それ以上に『変化』という能力に劣っていたのかもしれない。私は俗に言う『大学デビュー』を果たしていなかったし、できる能力もまた無かった。変わらない方が安心できた。それは自由に変わる彼女とは分かちがたい気持ちだったのではないだろうか。私はその壁を理由に彼女に別れを告げたのだろう。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


 気づけば右手に持っていた煙草の火は、フィルター近くになってほとんど燃えている気がなかった。私はもう少し、いまだ白い息を規則的に吐いている女学生を視界の隅においておきたくなって、二本目の煙草に火をつけた。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


 私は片手間にホットのミルクティーをレジ袋から取り出して口につけた。
 横目に見ると、女学生は両手で携帯電話をもてあそんでいた。携帯電話を真剣に操作する人はなかなかいない。
 そもそも女学生ではないかもしれないが、見たところ私よりも年下のようであったから、そう思ったのだ。
 女学生はそこで一度、右手の人差し指、その第一関節でメガネの位置をただした。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


 赤い縁の眼鏡。私の抱いた第一印象と言えばそれだった。それから、歳には似合わぬ低い背と、癖のかかった長い髪。髪は濡れているように黒く、腰の位置まで伸びていた。
 初めてその姿を見た時こそ、特別思うことこそなかったが、それからしばらくして彼女と付き合うことになって以後は、それがひどく可愛げに見えた。
 今でも十分そうではあるが、当時から私は恋愛経験が豊富なほうではなく、人に恋愛感情を抱くとなると殊に神経を過敏にすることが自分でも明らかだった。だから、交際し始めた後になって、彼女の周りに男の影がまるでないことは、嫉妬心に駆られやすい私を心底安心させた。
 二人の仲は周りから見ても悪くはなかったのだろうと思う。学校の授業が終われば、連れだって近くのコンビニエンスストアに寄った後に、菓子をつまみながら歩いて彼女の家まで帰った。受験生という立場もあるため、冷え込む季節に入ってからは以前ほど頻繁ではなかったが、それでも休暇を利用しては、勉強会という名目で無遠慮に彼女の家に上がり込んでいた。彼女の母親とも自然と顔を合わせることがあったが、私はその母親の表情に、たいして邪険に思う風なところも見受けられなかったため、それに甘んじていた。
 それから今のように、二人とも地元を離れて大学に進学するまで、関係も比較的良好に進めることが出来たことは、私のこれまでの経験から言っても、それきりだった。
 彼女と過ごすうちに気づいた癖がいくつかあった。
 なにか気まずいものを見たり聞いたりしたときや、自分の失態を晒したときに、片頬をひきつらせて、口だけで笑うのだ。私にはそれも可愛いものに見えていたが、その嘲笑の対象がだれなのかはいつもきまって分からなかった。
 それから、私が彼女の癖のある長い髪を指先で遊ぶのを、彼女は好いていたようだった。一通りクルクルと髪先をいじった後に頭をなでると、私を上目遣いでただじっと見た。
 また彼女は、私が家に行くとたいていの場合、自室に敷いた布団の上に寝転がりながら私を待ち伏せていた。私も特別することがなかった時には添うように横になり、時にはそのまま帰る時間まで寝ていたこともあった。そのくせ私を詰る時となると、もっと出歩いて遊びたいと言うのだった。
 私にとって付き添って寝転がる行為は特別嫌うべきことではなかった。彼女が仰向けになって漫画を読んでいるときなどは、それを横目で見て、その小さな鼻筋や、大きな目の挙動を見ては楽しんでいた。
彼女の歳のわりに幼い顔を見ていられるならば、どこにいたってかまわなかった。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


 女学生はいまだにそこにいた。
 彼女はその風貌から、なにか運動部の活動の後で、両親の迎えを待っているらしかった。外にいるよりコンビニの中にいた方がまだ心持ちがいいのではないだろうかと思っていたが、おおかたもうすぐ着くという両親の返事をあてにして、寒い中一人で外に立っているのではないだろうか。七分通りその予想は当たっている気がした。だが親の言うことは、緊急以外ではたいていあてにならないのだ。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


 彼女との馴れ初めと言ったものは、今では恥ずかしいことばかりであって、しかしたまに思い出すときにはそれがひどく幸せだったものに思われた。
 その時分は丁度高校の文化祭が終わり、高校三年間の集大成を飾った私たちのクラスでは海岸近くでバーベキューをしようと企画していた。私の地元は有名な港町で、私の家も、自転車を二十分も走らせれば最寄りの海岸までは行ける位置にあった。海岸とはいえ、そこは東北の港町なので、夏になっても海水浴に海へ行こうとする人は少なく、たいていの場合は海水に足を浸してそのさらさらした冷たい砂が、足の裏をなでるのを楽しむくらいのものだった。
 七月が終わるころ、そのバーベキューは開かれた。私は家の位置上都合が良かったため、進んで道具の協力を申し出ていた。場所は砂浜から少し離れた、夏草の茂る丘の上だった。コンロや炭を運んではクラスの人たちになにかと感謝やら相談やらをされたが、私は荷物を運ぶだけ運んで、自分ひとり折り畳みのいすに座っていた。青白い海と砂浜を背景に、夏の暑さに浮かされた若者が準備を進めていく光景を眺めていた。私はなにかと感傷的になりたがった。
 とはいえ一人を平均以上に好む私にも仲の良い友人たちがおり、その折には彼らといくつかあるコンロを回ってはつまみ食いを繰り返していた。いわゆるナントカ奉行を執り行う甲斐性や気概のなかった私にとって、そのバーベキューは非常に楽で楽しかった。

 コンロの上に何も載らなくなり、あたりが青暗くなってきたころになると、仲間たちは砂浜の方へ降りて行って手持ち花火などをやりだした。私は体力のない方だったのもあってか、妙な疲れを感じて、丘の上にとどまったままだった。億劫になっていた気持ちを少し振り絞って、私が持参していたコンロや鉄板などを片付けることとした。元から裏方に徹するのが私の好みであった。仲間は私を意に介さずに楽しんでいるようで、離れた丘の上にも花火の音にまぎれて嬌声が聞こえた。
 大方片付けも終わると、私はぼんやりと、また折り畳みの椅子に座った。大人数で遊んだ時などは決まって一人を楽しみたかった私には、その時間もつまらなくなかった。今更彼らの中に入って花火を振り回すことも、私には十分にできる交友の余裕があったが、あえてそれをしなかったのは、どこか胸の中に待てという気持ちが働いていたからであった。なにを待っているのかなどは私にもわからなかったが、果たしてその機は訪れた。

 すでに少しの反射光もないほどに夜の帳は落ちていた。携帯電話を家に忘れてきた私には時刻を確認することもできなかったが、深夜に差し掛かっていたのが感ぜられた。
 そろそろ向こうに参加してこようかと思い始めたときになって、ひとりの人影がこちらに向かってくるのに気が付いた。向かってきたとはいえあまりに暗くてそれが人なのかさえ危うい私は、懐中電灯でその影を照らした。彼女だった。
 彼女は前髪をゴムで上に留め、赤縁の眼鏡をはずしていた。私はなにかを待っていたはずであるが、彼女であろうかと思った。
 その時には私は、すぐ近くの屋根のついた休憩所のベンチに腰を下ろしていたが、彼女は私の姿を認めると、その隣に座った。
 彼女が何を考えてそうしたかはいまだに分からないことであるが、待っていたのは彼女のことであったと納得していた私は他愛のない話を切り出した。
 私はてっきり、あの仲間の中に加われとでも言われるのかと思っていたが、どうにもそうした気配がないので、あてどない会話を続けた。もとより彼女の姿は見知っていても、それまで話をすることは全くなかったため、私は気恥ずかしさを感じて、場所を変えたり、手でビニールのボールをもてあそんだりしながら、彼女との話をなんとか続けようと苦心した。
 私は話そうと思えば話せる性質ではあったが、あの時ほどなにかを引き留めようと会話をつなげたことはなかった。私も夏の空気に浮かされたのだろうかと、饒舌の裏で思っていた。
 彼女の方ではそうした冗長な話を特別苦しくも思っていなかったのだろうか、私の話に生返事をすることはなく、さも面白そうに私の話を聞いた。

 私はそれでも、その雰囲気当てられながらも、話の方向を二人の関係に落とし込むことが出来なかった。彼女が何を思ってそこにいるのかわからなかった私は、それほどの勇気というものを持ち合わせていなかった。

 砂浜から聞こえる花火の音もまばらになり、仲間の数人が戻ってくるようになると、私たちの会話は次第に先細り、そして仲間が荷物を整え帰りはじめる頃になると、私も別の友人との話に花を咲かせていた。
 仲間がすべて帰った後に残ったのは、畢竟私と彼女だけであった。
 私は予備の懐中電灯を彼女に預け、そのまま彼女との会話を再開させた。私は携帯電話を持っていなかったのもあり、友人の電話を、彼の帰り際に借りたので、親の車が来るにはまだ時間が残っていた。彼女が残っている理由は知れなかった。もしかすると私に合わせているのだろうかとも思った。だが、後から分かることだが、彼女の家は浜辺から遠く離れたところにあったため、単に迎えが遅れているだけであったのかもしれない。
 私たちの会話は専らクラスの人のこととか、家族のこととかであった。あの人はなんだか話しづらいとか、私の弟はこんな奴だとかいうことであった。ときに沈黙の訪れることもあったが、不思議と苦しくはなかったのもあり、私は彼女の次の言葉を聞くまで黙っていることもあった。私は彼女の顔が見たかったが、わざわざ懐中電灯を彼女の顔に当ててまでそれを確認することも悪く思われたので、ただ真っ暗な空を見つめたまま遠くの波の音を聞いた。
 しばらくして私も彼女も迎えが到着したため、私と彼女の会話もそれまでとなった。私が心のどこかで期待していたことこそなかったものの、彼女との距離を詰められただけでも十分な成果に感じた。
 帰り際になって彼女は、私の貸していた懐中電灯を返すと言った。だが、彼女はその言葉を失態であったというように語尾を濁した。私はとっさにその懐中電灯は預けておくから後で返してくれとまで口にした。懐中電灯などもはや車に乗って家に帰るだけの私たちにとっては必要のないものであり、私もなぜ預けるなどと言ったのかと反芻したが、彼女は私の不可解な言葉を受け取って、懐中電灯を持ったまま、帰って行った。

 後日私はその懐中電灯の件で彼女と待ち合わせ、そのまま家に送り、帰路の途中で見た夏祭りのポスターを指さし、彼女を誘った。私が彼女に交際を申し出たのはその夏祭りであったが、むしろそれは私の思い出には蛇足にすら覚えた。
 それだけあの夏の海の夜が、私にとってもっとも純粋な気持ちで見られる幸せの思い出だった。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


 私の目の前に一台の車が停まった。私はコンビニの駐車場を前にして煙草を吸っていたのだから当然であった、その車は女学生の親のものであるようだった。
 女学生は両手で持っていた携帯電話を上着のポケットに入れると、早歩きでその車の助手席へ向かって歩いた。
 彼女の横顔に小さな鼻筋と、赤縁の眼鏡の奥の大きな目が見えた。


 あの女学生は前にも一度見たことがある。


別れを告げる日以前に、最後に会ったのは、私の家だった。家族は私をいれて四人であったが、両親は共働きで、弟は中学生であったので、平日なら夕方になるまで家に誰もいないことが多かった。私たちもその頃には大学受験を終え、合格証書を受け取ったことに、納得はしないでも安堵していたころだった。
私の部屋のベッドの上に並んで座って、他愛もない話から、これからの二人の関係まで話した。そうした話のあとには決まって彼女を横から抱きしめた。彼女の見慣れた顔立ちや、小さな体や、癖のある髪のその先までもが尊く感じられた。
 先の二人の関係という話に何も結論を出せないままに、彼女を最寄りのバス停まで送っていった。バス停を背にして、彼女は寂しそうな顔を見せた。それからただ寂しい、嫌だと言った。私は一層彼女への愛情を募らせた。執着心を抱いた。当時から彼女は、滅多に私に対する感情を言葉にすることはなかった。
短いキスの後に、私は最後に見る私の好きだった彼女を送り出した。


 あの女学生を、前に何度見たことだろう。


 私が最後に吐き出した煙草の煙と、目の前を通る名も知らない女学生の吐いた息とが、静かな冬の夜の中で混じった。
 私は片頬をひきつらせて、口だけで笑った。

反射光

反射光

ある男の思い出話

  • 小説
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更新日
登録日
2016-01-06

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