たゆたうように

妻が体を壊してから、僕はこれまで以上に「ゆっくりとした」計画を心がけるようになった。
以前東京で仕事をしていた頃に、東京観光がしたいという母のためにオススメスポットを詰め込みすぎ、分単位のスケジュールをこなした結果、途中で母が具合が悪くなってしまったことがあるくらい、ほっとくと僕は短時間でいかに効率的に多くの場所を回るかを重視した旅行プランを立ててしまう。これは性格なのだから致し方ない。
妻もこのことは十分にわかっており、結婚する前から、出かける計画を立てるときには、
「私は乗り物酔いをしますし、ご飯を食べればおなかが痛くなりますし、長時間歩くと靴擦れしますし、眠くなるとだだをこねますよ」
そう毎回念を押してきたし、実際彼女は出かければ乗り物酔いをするし、腹痛を起こすし、靴擦れするし、眠くもなるのだった。
そんな彼女と、独身時代からいろんな場所に行った。彼女は特に動物が好きで、動物園や水族館、花鳥園や牧場にも行った。
でも妻が体を壊してからしばらくは、とても旅行どころではなかった。僕の車に二人で乗るときというのはもっぱら病院への送り迎えのためだったし、治療と薬の副作用で、余暇に使うような体力はほとんど彼女に残っていなかった。
それでも病状がなんとか小康状態になってきた頃、主治医から言われたのだ。体力もだけれど、気力を取り戻すことも必要ですと。だから僕は久しぶりに遠出する計画を立てた。ゆっくりと起きてから、南に向かって海沿いをドライブし、高台の公園近くにあるそばの名店に寄って帰ってくる。健康な30代後半男性である僕ならば、なんなら自転車で行って帰ってこれるような、たいしたことない距離だ。それでも、念のため途中で休憩できるような喫茶店も何件か調べた。
そばにしたのには理由があった。彼女は元々そばが好きだったし、胃への負担も少ないから車での往復でも酔いにくい。すっかり食が細った彼女だったが、そばであれば、なんとか一人分完食できるのだ。

その日、僕は万全の態勢だった。車も掃除してあったし、水筒に白湯も入れておいたし、いつも出がけになくて探してしまう車のキーも、前日の夜からしっかり玄関の下駄箱の上に置いておいた。いつも彼女に口うるさく持ち歩くよう言われていたハンカチも、ちゃんと鞄じゃなくてポケットに入れた。
何より心配した彼女の体調も、朝時点では良好で、僕は何よりもそのことに胸をなでおろした。道中も、助手席の妻は時折うとうとしながら、それでも一度も休憩することなく片道1時間半のドライブを終えた。僕は舞い上がる気持ちを抑えて、彼女の手を引いて駐車場から公園へ登る石段をゆっくりと上がった。
ゆっくりと鴨せいろを口に運ぶ彼女の向かいで、板そばを3枚平らげて、僕は窓の外を眺めていた。
「あなた」
呼ばれて視線を戻すと、妻が微笑んでいた。
「おなか一杯になりましたか?」
「うん。おいしかった。まだ食べれるけどね」
「もう。いつもそうなんだから」
くすくすと笑って、再びそばに箸をつけた。
木漏れ日差す中で笑う彼女は美しくて、僕は少し泣きそうになった。

たゆたうように

たゆたうように

そっといたわり合う、夫婦。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-05

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