雨の日のレモンパイ

銀の粒が降る。
ぱらぱらと、時に激しさを増してざあざあと、次から次に降り注ぐ。
秋も終わりに差し掛かる頃のその雨は、降りしきる滴一滴ごとに気温を奪いながら地面へと落ちていくようだ。
元来花屋は室内をそれほど高い温度には出来ないため、いつも水と生花の香りが漂う空間はひやりとしていることが多い。
店の中は、建物を覆うドーム型のガラス窓に雨粒が当たり、静かとは言い難かった。
それでも、雨の日独特の穏やかな気怠い雰囲気はそのままだ。
雨の日には決まった過ごし方がある。
叩きつける雨粒を眺めながら、花々の青い香りが充満する店内で、アトラスはふとそんなことを思い出していた。
――彼女たちと離れてから、どれほどの歳月が過ぎゆくのを見送ったことだろう。
永遠にも思える悠久の歳月、彼女たち以外のたくさんの人々が自らの隣を過ぎていくのを長い間見てきた。
データが断片化しないよう定期的にアクセスをする記憶の中には、まるで今ここで生きているかのような鮮やかな彼女たちの表情が再生され、アトラスの孤独を少しだけ和らげ、時により孤独を深めもした。
雨脚がより一層強まるのを見て、アトラスはレジカウンターに「離席中」の札を立てる。その隣に呼び鈴を置くと、普段全くと言っていいほど使用しない、店の奥の簡易キッチンへ向かう。
自発的な代謝のないアトラスは、適量の水分を摂取することで十分活動することが出来る。
命じる主人が居ない今、生体活動の維持を選んでいるのは他ならないアトラスであったが、それもまたいつでも終えることが出来るとは知っていた。
しかしその選択にいきつくことは不合理であるような気がしてならなかった。
そう感じるのに、突き詰めて考えようとしても回路が混線するばかりでいつも断念してしまう。なぜ自分は白いバラが好きなのか、なぜいつまでも人間の暮らしに添うのか、なぜ……。
答えの出ない問いに眉間を寄せる自分へ、「馬鹿ね」と笑いかける声も「そんなの簡単でしょ」と言い切る声も今はない。
キッチンの奥で埃をかぶっている調理器具は、以前近所の婦人に貰い受けたものだ。娘が新しいものを贈ってくれたが、捨てるのも忍びないということでアトラスの元へやってきた。
料理はしないかしら?お古でごめんなさいね、良かったら使ってください、と風呂敷包みで渡されたそれを、作り付けの棚に仕舞い込んだまま今日まで思い出さなかった。
人間であれば薄情であるというのかもしれない。
今日の大雨の予報は昨日の段階で分かっていたため、買い物は昨日済ませてある。

『雨の日には決まった過ごし方があるのよ。あなたに教えておくわ』

『雨の日だから今日はお菓子を作りましょ、さあ手伝って』

姉妹は同じような口ぶりで語りかけながら、幼い頃の幸せだった記憶ごと反芻するように、アトラスと共に菓子作りに励んだ。

(こうして私が作ることで、あなたたちが確かにいたと、そう思いたいだけだろうか)

思い出を引き継いだアトラスは、一人キッチンで佇む。
自問したところでいつも答えは出ないのだ。精密なAIであるアトラスは、自問自答を始めてしまえば他の思考作業に支障が出る。繰り返される問いはそのまま胸の中に降り積もるだけで、答えはない。
時折拾い返して自問することはあっても、観念的なものを土台に答えと定義してしまうには、それは元々組み込まれている情報に過ぎないと結局そのままにしてしまうことがほとんどだ。
キッチンの隅に置かれた、控えめに言っても小さすぎる冷蔵庫から牛乳、レモン、卵と必要なものを調理台の上に揃えて置いていく。

『さ、これを混ぜて』

記憶の中にあるセラの声が柔らかに告げる。
ふるいにかけた小麦粉と冷たいまま刻んだバターをボウルで混ぜ合わせながら、食することが出来ない菓子をなぜ作ろうとしているのか、アトラスは時折目をぱちくりと瞬かせた。
バターを含んでぱらぱらになった小麦粉の小さな欠片を寄せ集めてひとまとめにする。
まとめた生地をボウルに戻してラップを掛けると、冷蔵庫に入れた。
出来たパイ生地を冷蔵庫で冷やしている間、店に戻って花の様子や、客足を確認する。
が、この雨でわざわざ生花を買おうという人もなかなかいないようだ。呼び鈴が使われた形跡はない。
紅茶を淹れて何口か飲んだ後、キッチンに戻ると、冷蔵庫で休ませたパイ生地を取り出し、器に軽く押し込むように貼りつけていく。
余って器からはみ出た生地を切って綺麗にすると、重しを載せてから電子レンジのオーブンモードで焼成する。
一口しかないコンロに小さな鍋を置いて、卵黄や砂糖などの材料を混ぜ合わせたものを熱しつつ、少しずつ牛乳を入れていく。

『絶対に、焦がしたり沸騰させ過ぎては駄目よ。少しだけ泡が出て、ふつふつ言うぐらいにとどめておくの』

姉のような、母のようなアンネリーの声が静かに寄り添う。
やがて炊き上がったクリームへレモン果汁と生クリームを混ぜると、パイへ流し込むレモンクリームが完成した。
クリームの上に重ねるメレンゲも、姉妹の『卵白は混ぜすぎると分離してしまうから、ほどほどに』という言葉を思い返し、綺麗な角が立つ白い泡を見て手を止める。
既に焼きあがっているパイにレモンクリームを流し込んだ後ヘラで平らに伸ばし、その上に泡立てたメレンゲをゆっくりのせていく。
そうしてクリームのレモン色が見えなくなってから、上のメレンゲをヘラでぺたぺたと軽く叩いて角を立てデコレーションすると、ようやくオーブンに入れることが出来た。
セラやアンネリーと作っている時にはあまり感じなかったが、一人で黙々と作っているレモンパイは手順が多く、随分と時間がかかるように感じる。
余熱したオーブンにパイを放り込んだ後で、焼きあがったものはどうしようかと考えていた。
温かなお茶を用意し、爽やかな香りのレモンパイを頬張るセラの顔。
フォークを器用に使って食べるアンネリーの懐かしそうな顔。
そんな二人の顔をもう一度見られたら、と、メモリーの中だけにしまい込んだ彼女たちの様子を思い出さずにはいられなかった。

「こんにちは」

お客に振る舞おうとも考えていたがこの客足、しかも花屋が作った菓子に手を付ける客など、と、アトラスがカウンターでぼんやり考え込んでいると、あどけない声がドアベルの音と共に響いた。
カッパ姿の小さな女の子がドアの前に立っているのを見て、アトラスは近くにいるはずの親の姿を探す。

「いらっしゃいませ」

便宜上声は掛けたものの、保護者と思しき大人の姿はなく、思わずアトラスはカウンターを出て少女に問い掛けた。

「今日はおひとりでいらっしゃったのですか?」

膝を折って屈み、少女の目線の高さで首を傾げる。

「お母さんが風邪をひいてしまったの。元気になるようきれいなお花がほしいです」

肩口で綺麗に切りそろえた髪が少しだけ濡れている。カッパの袖から出した小さな手のひらに、濡れた百円硬貨が何枚か鈍い銀色で輝いていた。

「申し訳ありません。ここにある花は綺麗ですが、この通り白い花が多いので……ご病気のお母様に贈るにはおすすめできかねますね」

僅かに眉を下げ、アトラスは静かに応える。
少女は少しだけ悲しそうに目を伏せると、何も言わずにこくりと一度頷いた。
そうこうしている間にレモンパイが焼きあがったのか、奥からピーッピーッと間抜けな電子音を響かせてくる。

「……お嬢さん、お菓子は好きですか?」

このまま帰らせるのもあまりに申し訳なく、アトラスは俯く少女に尋ねた。

「……うん、好き」

少女は少しだけ目の縁を赤くしているが、泣いてはいないようだ。

「良ければ、レモンパイを召し上がっていきませんか。私は素人なので味の保証は出来かねますが……雨の日に家族で食べる決まりだったのです」

そう言いながら少女を伴い、甘い香りのするキッチンへ向かう。
切り分けたパイの残り何ピースかは、少女が嫌でなければ母親への手土産にしてもらえばいいかもしれない。売り物ではないから、少女が手に握ったままの硬貨はポケットに戻してもらおう。
強く降りしきっていた冷たい雨はようやくその手を緩め、幾筋かの雨だれが穏やかに窓を流れていくのが見えた。

<了>

雨の日のレモンパイ

雨の日のレモンパイ

雨の日には決まった過ごし方がある。――一人で花屋を営むアトラスの、雨の日の思い出。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-05

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