新天地へ
旅立ち
何かを示しているような真っ白なジグソーパズルのピースが頭の中にだんだんと現れ、目の前の道がすっと開けた気がして目が覚めた。
朝の白い光に目を細めながら、わたしはゆっくりと起き上がった。
今日は土曜日。会社は休み。なにもかもがお休み。別段すべきこともなく、したいこともない一日。
なのに今日はさっきの夢のせいで、外に出なきゃいけない羽目になった。
やれやれと思いながら、顔を洗い、歯を磨き、その他めんどくさいことをいろいろとこなして、出かける前に部屋を振り返った。
簡素な部屋。白い部屋。白いベッドに、白いレース。白い机。なんにもない部屋。大好きな部屋。さみしい部屋。
最後に鏡の前に立ってわたしと向き合った。黒い髪に地味な顔。地味な服。
なんの色も持たない。
まあいいやと思って、とりあえず、外に出た。
冷たい空気の中に、もう春の匂いが芯に閉じ込められている。もう少しで春。なんにもない、それでも好きな春。
わたしは夢の中に浮かんできたあいまいな形のジグソーパズルを思い出しながら、階段を下りて外の道に出た。
べつに、ジグソーパズル自体が、どうということはなく、ただ、なにもなかったはずなのに、そこから白い形あるジグソーパズルが現れたことが、わたしにとって不思議な気持ちだった。なにもないのに。形あるものが現れたことで、わたしの行き先の、ほんの数歩ぶんだけ、歩く場所を与えられた気分だった。
さて、夢のジグソーパズルは、どの道を指していたのだろう。こっちの方か?反対か?
頭の中にさっき夢で見た光景を思い出す。なにもないところから、現れる・・・。
「こっちだな。」
わたしは右へ曲がった。
夢で方向を指し示したピースはもうこれで終わりだった。夢で教えてくれたことはこれぐらいだけだった。あとはこの瞬間にも、またさっきのように、新しいジグソーパズルのピースが頭に現れてくれるのを待つだけだ。
てくてくと歩いていくと、また分岐点にぶつかりそうな場所が近づいてきた。頭のなかにふわっと、別の形をしたピースが現れた。
そのピースを追うようにして、わたしは左に曲がった。
気づけばもう知らない場所にいた。わたしがこれまで行ったことのない場所にいた。それでも道の分岐点が来るたび頭の中で新しいピースが現れてはわたしを誘導した。
いったん足を止めて、さっきから向かっている方角のはるか先を見やった。
そこは新天地と呼ばれる、高層ビルがひしめき合う場所だった。
わたしの頭の中のジグソーパズルは、どうやらそこへ向かわせようとしているみたいだった。わたしは新天地へ行ったことはない。行きたくもなかった。異常な密度で超高層ビルが密集した場所。いまだに成長を続け、わずかな隙間に工事用の道具がひしめき合う。地上付近は上空から降ってきたゴミがたまりにたまり、そのゴミに隠れてたくさんの人間がたくさんの事をしている。
どこからだったか、誰からだったか、わたしたちはあそこをそんな風に聞いていた。
不思議なことに、新天地という場所に興味を持ったことすらなかった。会社の人間もそう。毎日毎日、誰かの話や誰かのことでみんな頭がいっぱいいっぱいだった。
でも、と思う。もしかしたら、私が望んだことなのかもしれない。こんなところから抜け出したいって。頭の中のジグソーパズルは、結局はわたしが作り出しているのかもしれない。
あの日を思い出す。重く黒い雲が空一面を覆っていたあの日。会社にどうしても行きたくなかった日。それでも行った、あの日。
トイレから見た新天地が、墓標のように突き出たたくさんの黒いビルたちが、とても美しく、そしてわたしを誘っているように見えた。
はあ・・とため息をついてまた分岐点を曲がった。
街並みは少しずつ変わりかけていた。賑やかな風景、落ち着いた風景、それらが終わり、寂しく、暗く、そして危険なにおいのする地区へと入っていった。
いまや新天地はすぐ近くに迫っているようだった。文字通り、たくさんの、予想以上のたくさんのビルたちがわたしに迫ってきているようだった。そして黒い。ビルはどれも全て漆黒の石か何かでできているような、わたしが毎日通うあの会社とは異質な、別世界の物質でできているような気がした。
地上からは小さく見えるたくさんの窓から、白い光がずらっと漏れていて、ここだけ一日中、いや永遠に夜が続いているような気がした。
ふと後ろを振り返ってみると、遠くまで人ひとりいなかった。前を向いてみても誰ひとりいなかった。
戻るなら、今しかないと思った。そう思って体を翻すと、頭の中のジグソーパズルのピースがとたんにふやけてしまった。危ないと思ってまた前を向くと、ふやけたピースがとたんに乾いて元通りに戻った。
あのトイレから見た新天地を思い出した。
あの日、なんの色も持たない、なにもできないわたしを誘った新天地を。
さみしいけれど、こわいけれど、前に進むしかない。もうわたしはどうなってもいい。
それからは大きな道を延々と歩いた。特に分岐点もなく、だだっぴろくくすんだ道を歩いた。誰ともすれ違わなかった。
少し前から聞こえていた工事の音がだんだんだんだん大きくなっていた。空を見上げると太陽はまだ頂点に届いていなかった。お腹が急に減ってきた。
コンビニなんてありそうもなかった。あたりは事務所や、建設現場や、駐車場くらいしかなかった。
わたしは歩き続けた。
工事の音がだんだんと大きくなり今や耳をふさぎたくなるほどになっていた。あたりには巨大な柱が何本も建ち、それらの間にネットが張られ、中で切断したり、溶接したりする音が聞こえる。
ふと、こんなにも巨大で、そして目立つ場所なのに、なぜ、いままで無関心でいられたのか不思議に思った。小さい頃からあった新天地。いつも目の端に映っていたはずの新天地。なのになぜか、それらに関する記憶が全くない。行きたいとも思わなかった。なんの情報も、あの頃の大人たちも、そういえば何も話さないし、教えてくれなかった。気づけば、新天地という場所を、単に知っていた。
それなのに、こうして朝起きてまっすぐ向かっている。
無性に、非常によくないことをやっているんじゃないかと思った。ヤバイこと。頭の中のピースたちが、白い悪魔のように思えてきた。わたしは、なにかよくないものにとり憑かれているんじゃないだろうか?
でも足は止まらない。止めたくない。そうとわかっていても、止められない。
途中何度か道を折れると、たくさんの男たちが道路に座っていた。みんなくすんだだぼだぼの作業服を着て、なにか食べ物を手に持ちながら談笑していた。
あまりにもたくさんいて、道のちょうど真ん中ぐらいしか通れる幅がなかった。
途中で一人の男がわたしに気づき、それにつられて、いろんな男がわたしをじろじろと見だした。わたしは俯いたまま、だんだんとそいつらに向かっていった。
違和感
どうか話しかけられませんようにと願いながら、わずかな隙間を縫って通った。じろじろと脚の部分とかを見られているのがわかった。
ふと、すごくいい匂いがした。焼き豚のような、いい肉の匂い。
思わず振り返って匂いのする方を見てみると、男はサンドイッチのようなものを持っていた。その中に、肉汁がサンドイッチにたくさん染み込むほどジューシーな肉が挟まっていた。
立ち止まるわけにもいかないから、髪を引かれるようにしてそのまま俯いて進もうとした。
そこでさっきちらと映ったものにはっとして、もう一度右手を振り向くと、そこにはコンビニがあった。
店の幅いっぱいにとった看板は大きく斜めにずれていて、工事のせいか店も看板も土埃を浴びてくすんでいた。黄色いネオンで書かれた店の名前はよくわからない英語で、ローソンとか、ファミリーマートとか、そのへんの類ではないことは明らかだった。
男たちはそこで昼ごはんを買ったのだろうと思い、空腹でじっとしていられなくなったわたしは思い切って男たちの隙間を縫い店の中に入った。
「いらっしゃいませー。」
髪の毛がくりくりでぼさぼさのおばさんと、茶髪のけだるそうな顔をした若い男がカウンターに立っていた。
店の雰囲気はローソンとかファミリーマートと同じ類で、コンビニそのものだった。
ふと後ろを振り返ると、外の男の一人がわたしのほうを指さしてにやにや笑いながら他の男になにか言っていた。
すごく怖くなったので、食べ物をすぐに買って出ることにした。スカートのポケットを手で触り、小さい財布が入っていることを確認した。
サンドイッチやおにぎりを売っている棚に行って、さっきのいい肉の匂いのしたサンドイッチを探した。
「ん?」
一つを手に取って、よく眺めてみる。なんだか、普通のコンビニで売るサンドイッチと違う気がする・・・。
パッケージはもちろん、よく知らないところだったし、具材が、特に具材が、なにかヘンなような、なにか、見慣れないような・・・。
「成分」と書かれた欄を見ると、聞いたことのない豚の種類が書かれていた。
急になにかに囲まれている感覚がした。知らないものに、気づけばたくさんに囲まれている・・・。他のサンドイッチの「成分」も、全く知らない食べ物が羅列されていた。豚だけじゃない。野菜と思われるものも、なにもかも、聞いたことのないような名前ばっかりだった。
手に取ったサンドイッチを乱暴に棚に戻し、おにぎりコーナーを見た。
さあっと、鳥肌がたった。
おにぎりのパッケージの中心に、見たこともない具材ばかりが表記されていた。梅、だとか、鮭、だとか、そんなものは一つもない。
カウンターを振り返ると、二人とも各々で何か作業をしていて、わたしを気にしているような感じはなかった。
外の男たちのことは頭から飛んで、わたしは他の商品を漁った。
お菓子類は見たことのあるものが多かった。ただガム類は全く知らない、気味の悪い色をしたものや、いつも見るのとは全然違うパッケージやらがたくさんあった。雑誌類を見たときは目がくらんだ。女性用がないのはわかるにしても、みたことのない雑誌ばかりだった。街の紹介、いい店いいスポットの紹介の雑誌なんかもなく、聞いたことのない出版社で、へんてこなタイトルで並んでいた。ためしにと思って手を取ってみたら、ちゃんとテーピングがされて立ち読みできないようになっていた。
そろそろ出ないと怪しまれると思い、サンドイッチコーナーから、あのジューシーな肉が挟まったものと、ジュースコーナーから適当に、見たことのないフルーティーなジュースを選んでカウンターに持って行った。
合計で六十円だった。
店から出ると、男たちはもういなくなっていた。お昼が終わったんだろうか。
再び歩き出しながら、買ったばかりのサンドイッチの袋を開け、一口齧ってみた。
口の中であの匂い、ジューシーな肉の匂いとそして肉汁がじわーっと広がった。
それはそれは美味しかった。予想以上の美味しさだった。歩きながら必死でかぶりついた。こんなにおいしい肉、いやサンドイッチを食べたのは初めてだった。最高に柔らかくて、でもとにかくジューシーだった。それがサンドイッチのパンと絡んで・・・。
あまりのおいしさに目をチカチカさせながら、わたしは例のジュースに手を伸ばした。
よく見るペットボトルに、全然見ないラベルが貼られ、でもすごくカラフルなフルーツの匂いがあふれ出てくる。キャップをひねるとより濃い匂いがどっとあふれ出た。
ちょっと恐かったけれど、そのまま口へ流し込んだ。
また目がチカチカして一瞬前を見れなくなった。なんて美味しいんだろう!舌全体にちりちりと広がるフレーバーな香り。甘すぎず濃すぎず、舌の上でジュースがとろけた。味わったことのないフルーツの味がたくさんして、それら全部が美味しかった。
「うまい!」
ペットボトルを抱え、サンドイッチを手に持ちながら誰にともなく叫んだ。
見たことのない具材や出版社や、異常に安い値段のことなんて、ぱちんと頭から消え失せた。
陽が少し傾きつつあった。暖色が強くなる西日は嫌いだった。一日の終わりを強制されるような圧迫感がある。
その圧迫感に押されて、わたしは少しずつ焦り始めていた。
いったいどこまでわたしは行くんだろう。単純な疑問が頭の中を巡り始めていた。すぐ近くに見えた新天地のビルたちは、一向に近づく気配がなかった。歩いても歩いても、延々と同じところを歩かされているような気がするくらい、ちっとも近づいた感じがしない。お昼前には、だいたいあと少しで着くだろうと思ってたのに・・・。
急に疲れが押し寄せてきて、工事現場の隅にしゃがんで休憩した。新天地の漆黒のビルは昼前に見たときと変わらない大きさのような気がした。
このまま陽が落ちるとまずい。今すぐ引き返しても、家に帰ることにはもう真っ暗だろう。この季節はまだすぐに陽が落ちるのに・・・。
「なに馬鹿なことやってんだろ。」
そうだ。いますぐ帰らなきゃ。帰って晩御飯の支度をしないと。そしてテレビを見て、晩御飯を食べて、お風呂に入って・・・。
わたしは立ち上がった。脚に疲労がだいぶ溜まっていた。何度か脚を折り曲げてほぐしてから、わたしは再び歩き出した。
誰もいないあんなところに帰るなんてもういやだ。
以前より増して速く歩いた。陽が落ちる前に目的地に到着したかった。その目的地がどこかもいまのわたしにはわからないけれど・・・。
早歩きだったはずが、気づけば駆けていた。早く、早く。陽が重力によってだんだん落ちるスピードが速まっていく。
あたりは工事現場しかなかった。駐車場も、広い道路もなくなっていた。仮設事務所がひしめき合う中、細い、砂利が敷かれた網の目のように広がる通路を、ひたすら頭の中で瞬時に湧き上がるあの白いピースを頼って走って行った。時々作業服を着た男たちとすれ違って、走る私を不思議そうに眺めていた。
暗くなるにつれて、頭の中の白いピースはより輝きを増していった。それとも、だんだん目的地に近づいているからかもしれない。どちらにしろ、だんだん暗くなりゆく中で、心細さを必死に温めてくれる存在になっていた。
走りながら、あのトイレで見た新天地を思い出していた。わたしはいまどのあたりを走っているんだろう。あの景色の、どのあたりにいるんだろう。なんで昼の時にあんなにゆっくりと歩いていたのか、自分に腹が立ってきた。最初からもっと急いでおけば、ここに着いた時はまだ昼ごろだっただろうに。
数時間前のたらたらした自分に舌打ちしながら、再び湧いてくるピースに従って角を右に曲がった。
どん、と誰かにぶつかった。
「すいません!」
反射的に謝りながら、予想以上の衝撃に体がよろけ、がしゃんと大きな音を立ててそばのフェンスにぶつかった。
もう一度すいませんと謝りながら相手を見ると、白いヘルメットを被った男が二人、一人はじっとわたしを見て、もう一人のぶつかった相手は驚いた顔をしながらもわたしを見てすぐににやつきだした。
ぶつかった男の左腕の腕章には現場監督者と書かれていた。隣の男よりもだいぶ歳が上で、にやついた口の間からは何本か歯が抜けており、弛んだ顎の皮が何重もの皺を作っていた。
まずい、と全身で感じた。にやついたその顔だけで、全部がからめとられそうな気がして悪寒が走った。
不穏な夜
「おやおや・・・。こんなところに・・・。誰かお探しですか?よかったら手伝ってあげましょう。」
細めた目が怖い。わたしの値打ちを測るような目でぞわっとした。
「い、いえ。ちょっと急ぎの用で。すいません。」
と言ってそのまま行こうとすると、「それでもねえ」と言って話を続けた。
「もしかして迷子になったんじゃないんですか?あなた、ここの人じゃないでしょ?人を探してるんなら、私ならここらの人は全て知ってるし、事務所に帰ればこのへんの地図もあるからさ。ちょっと、寄っていきませんかね。出鱈目に歩いても、ろくな事起きませんぜ。特に夜はねえ。」
そう言ってにやつきながらもう一人の男を見た。
それでも黙っていると、
「地図のことを心配してるんなら、そのへんのことも全然大丈夫さ。ここいら、常に道やなんかは変わるもんだけど、部下がそのたびに地図を新しくして持ってきてくれるもんでね。だから、なあ、ちょっと寄ってった方がいいって。なあ?」
隣の男は無言だった。わたしも救いを求めて見ても、わたしにも目を合わせようとはしなかった。
ふと、地図くらい見てもいいなと思った。わたしがどこから来て、いまどこにいるのか、新天地まであとどのくらいか。彼の部下が作ったらしい詳細な地図を見れば一発でわかる。そうすれば、どの道を行けば一番いいか・・・。
いや、そんなことわかってるじゃないか。今までもそうだったように、地図なんて持っていなくても、ここまで来れたじゃないか。
「いえ、いいです。」
そう言ってわたしは逃げるようにして走り出した。
「おい、」
男の声はさっきと全然違った。
「おい、追え、追え!」
パズルのピースが頭の中で何度も瞬いた。その度に角を曲がって曲がって、それでも後ろから砂利を踏んで駆けてくる音が離れなかった。
もっと、もっと早く、もっとたくさん瞬いて。そうしないと撒けない。怖くて怖くて、唯一すがっているのがちっぽけな頭の中にあるピースだけで、そんな自分がよけいに情けなくて、涙ぐみながらひたすら走り続けた。
後ろの足音がもうすぐ後ろに迫ってきて、ああもうだめだと諦めたとき、後ろから腕を掴まれた。
「はなして!」
大声で叫ぶと、あたりが急に静かになったような気配がして、余計に恐くなった。ここには味方なんて一人もいないんだ。
「お前、どこに行くつもりだ。」
必死で腕をほどこうとしても、力強い腕はわたしの皮膚に食い込んで離れなかった。
「お前、迷ってるんじゃないな。どこに行くつもりだ。」
「新天地よ。」
そういってきっと男の顔を睨んだ。
男は、わたしと同じくらいの歳だった。暗闇に光るぎらぎらした黒い瞳、顎の周りに適当に生えた髭。そして、口元に短い触手が二本、うねうねと動いていた。
わたしはパニックを起こして声も出ず必死で身をよじって離れようとした。
「新天地?新天地だと?お前、あそこに行ってなにをするつもりだ。あそこがどんな場所かわかっているのか?バカな真似はよせ。とっとと元の場所に帰るんだ。」
こいつ人間じゃない。待って、さっきのあいつは?あのにやついた顔を思い出す。触手は、生えてなかったはず。
見間違いかと思ってもう一度顔を凝視した。
「おい、聞いてるのか。お前、なんでそんなところに・・・。」
ぱくぱく動く口元と一緒に、うねうねと触手が絶え間なく動いていた。
「気持ち悪い・・・。」
わたしは呆然としつつそう言って男を見つめた。それがわたしなりの攻撃だった。やっぱり女だな、とぼうっとした頭で思った。
男は驚いた顔をして、そして掴んだ手の力がふっと弱まった。
その隙に腕を思いっきり振って掴んだ手を剥がし、身を翻してまた駆けだした。
追ってくる音は聞こえなかった。
あたりはもう真っ暗だった。追手が来ないことがわかって一安心して、そばのフェンスにもたれかかって息を整えた。ちょっとひどいことを言ったかなと思って、胸の中が妙にそわそわした。
にしても、あいつはなんだったんだろう。人間じゃなかった。人間に限りなく近い、人間じゃないもの。
コンビニの前の男たちを思い出す。あいつらにも、触手が生えていたんだろうか?店員は?
全然思い出せない。なにせあんなちっちゃい触手、近づかないと見れない。
ふと、コンビニに並んだへんてこな食べ物を思い出した。変わった、でも極上に美味しい食べ物・・・。わたし、食べちゃったけど・・・。
急に怖くなって自分の口元を触ってみた。
なにも、生えていなかった。
「よかった・・・。」
一体、どうなってるんだろう?なにか、さっきから、コンビニのあたりから、何か変だ。微妙にずれているというか、異なっているというか・・・。
そばの事務所の二階の窓が急にがらっと開いた音がして、わたしはまた走り出した。
走りながら、だんだんわたしがわたしでなくなっていくような気がした。あの男も、ここに来たときは触手なんか生えてなくて、ここに住んで、ものを食べ、仕事をするうちに、気づけばあの気味の悪い触手が生えていたんじゃないんだろうか。そして生えてきたころには、もうこの世界に馴染んでしまって、触手の違和感にも気づかないんだ。
もう空気すら吸いたくなかった。口を押さえながら、触手が生えていないか何度も確かめながら、それでも前へ前へ進んだ。
だんだんとがやがやする声や音が聞こえ始めていた。嫌な予感がしつつ、お願いだからそっちへ行かないようにと頭の中のピースに頼んでみても、どうやらその方へ行かなければならないらしく、細い道を出ると大衆酒場が連なる飲み屋街が広がっていた。
赤い提灯がながーい一本道にずらっと並び、ぼうっとしたその赤るい光に照らされて男たちがうじゃうじゃいた。飲み屋はみんなトタンでできたツギハギの簡素なもので、汚れたテーブルが道にまではみ出してそこここに置かれ、作業着のままの男たちがそこで酒を飲んだりなにかつまんだりしていた。
そして案の定、すごーくいい肉の匂いがあたり一面に漂っていた。
いままであんなにも事務所がひしめき合っていたのに、急にこんな開けた場所に出て、しかも今まで避け続けてきたのにこれからこんなにも大量の男たちをかわしていかなくちゃいけないのと思って呆然と突っ立った。
せまい道で突っ立っていると、後ろから押すようにして男たちがわたしの横を通り過ぎて行った。細い目でわたしを舐めるように見た。
これ以上はもう無理だよ、と頭の中のピースたちに言ってみた。ここに立っていても、この道を歩いていても、絶対なにか起きる。
わたしが男だったら。悠々とこの中を歩いてやるのに。テーブルに置かれた酒を適当にかっさらって飲みながら、知らない男に適当に声をかけながら、新天地まで行って見せるのに。
さっきのあの舐めるような目が悔しくて恐くて、やっぱりこのまま進めないよ、ごめんねと呟いて、来た道を引き返した。
頭の中で固く白く光っていたピースたちがどろどろに溶けていくのがわかった。
それでも構わずもとの道を引き返して、適当なところで折れ曲がった。方角的にはあっているだろうから、ここからでも新天地には行けるだろう。
ご機嫌をうかがうように頭の中を覗くと、やっぱりどろどろになったピースだけがあった。
お願い、ここから、この道から立て直して。この道から行けるよう、先導して。
そう願っても、ピースは溶けたままだった。
もういい、ピースなんかには頼らなくったって。新天地までもうすぐなんだから。
そのまま適当に角を曲がり角を曲がり進んでいくと、妙な公園へ出た。
こんなところに公園があるのも変だけれど、妙と感じたのはそこだけじゃなかった。
公園の周りだけ、なぜか植木でずらっと囲まれて、まるで外から隠しているようだった。変わった形の植物だった。一本の太い茎から、手のひらよりも大きい葉っぱが放射状に生え、それが背丈の倍くらいの高さまでどれも成長していた。そしてなんともいえない、渋いような甘いような匂いをじわっと垂れ流していた。
その植木の間から公園を覗くと、何人かの男がうずくまっているのが見えた。遊具に座っているものもいれば、地面に座っているものもいた。
悪い夢を見ているようだった。来てはいけないところに来てしまったな、という感じがした。ここは関わっちゃいけない。
それでもなぜか目が離せなかった。暗闇の中、どうやって遊ぶのかわからないようなピンク色の遊具が、適当にぽつぽつと置かれていて、砂場には地面に座っている黒い人影がたくさんいた。
誰も会話せず、ずっと下を俯いていた。
なぜかみんな子供に見えた。背格好は大人くらいなのに、公園にいるからか、それともさっきうじゃうじゃいた男たちとあまりにも違うためなのか、あまりにも脆く、そしてさっきとは異なる独特の怖さがあった。
ふと、砂場の一人が顔をあげて、こちらを見た。顔は真っ暗で、真っ暗なのにわたしの方を見て笑った気がした。
勇み足
とっさに来た道を戻ろうとすると、足がもつれて転んだ。
手足が急に痺れて思い通りに動かなかった。
すぐそばの草木からさっき以上に強烈な匂いがした。頭がじんじんと痺れ、手足が痙攣してがくがく震えた。目がすごく沁みてきて体の突然の変化に頭が真っ白になった。
公園をちらと見るとさっきわたしを見た奴がゆっくり立ち上がってこっちに来ようとしていた。顔も、体も、真っ暗だった。
わたしは体を転がしながら公園から這い出ようとした。みっともない、芋虫みたいな、人間をやめたような動きをした。
それでも必死に、公園を出て細い砂利道に出たとき、途端に新鮮な空気が肺に入ってきた。
まだ追いつかれそうで地面を擦りながら必死で元の道を這った。後ろを振り向いても誰も追ってはこなかった。
しばらくすると手足の痺れがだんだん薄れてきて、フェンスに捕まりながらよろよろと立ち上がった。
あの植物も、公園も、あそこにいた何かも、全てに悪意があった。わたしを絡めとろうと、人だけじゃなく全部から伝わってきた。
怖かった。人に対して思うものと異なる怖さだった。あそこで捕まっていたらどうなってたんだろう。あの現場監督が、夜は危険だと言った意味って、こういうことだったのかな。
頭の中のどろどろだったピースが乾いて、再び白く輝きだした。
そう、要するに他の道は行くなってことだ。いままで通ってきた場所も、たくさんの危険があったのかもしれない。
このピースのおかげで、わたしは奇跡的にたくさんの危険を回避していた・・・。
「だとすれば・・・、だとすれば!」
心臓がどくどく鳴る。
勝算はある。
なんの勝ち負けかはわからないけれど、わたしは新天地に行くことができる。この頭の中のピースがある限り。他の人は行けなくても、わたしは行くことができる。
体はよれよれだけれど、急に芯から力がみなぎってきた。
「そうか・・・。」
新天地にみんな関心がないんじゃない。関心のある人間がそこへ向かい、帰ってこなかった・・・。
「そして関心のない者だけが残った・・・。」
たくさんのことに無関心な、ちっぽけな自分の周りだけしか関心のない人間が残り、新天地の周囲に街を作った。
「一般的」な世界が、こうして出来上がったってわけか。
どうりで職場がクソつまらないわけだ。
全部がわたしに味方しているような気がした。気分がすごく高揚していた。頭の回転が速い。死ぬほど速い。どんな問題でも解ける。いまなら何でもできる。
「おーい、聞こえるかお前ら。」
気づけば空に向かって吼えていた。あれ、いつもとなにかヘンだぞ。わたし。
「クソ野郎どもが。お前ら・・・」
動悸が急に激しくなって立っていられなくなった。心臓がどくんどくんといままで感じたことのない振幅で波打っていた。
体中から冷汗が吹き出していた。やばい。やばい。やばい。どうしちゃったんだろう。
誰かに聞えたかもしれない。なのに立てない。今立ったら心臓が破れそうな気がした。
そのまま黙って座っていると意識が波打ち際のようにすうっと引いてはまた戻ってきてを繰り返しはじめた。
まずいと本能的に思い、わたしは近くにあった簡易便所に入りこみ、崩れるようにして便座に座りこんだ。
ふっと目を覚ますと緑の壁に囲まれた狭い空間に閉じ込められていた。
びっくりしてバランスを崩して便座からずれ落ちそうになった。
「そっか・・・。」
はっとして口元を触った。
触手は生えていなかった。
頭も体もキンキンに冷えていて、頭の左側がずきずきと痛かった。トイレの匂いが鼻について、最悪の気分だった。
自分の体を見回すと砂だらけになっていた。
壁に手をつきながらゆっくり立ち上がって、緩慢な動作で砂を払った。頭がずきずきと痛む。
脚が重くて凝り固まっていた。昨日丸一日歩いた脚の疲れが凝固してそのまま脚の重みに変わったようだった。
取っ手を回してすこし扉を開け、そっとあたりを覗いた。
しんと静まりかえっていた。空は薄っすら明るく、でも日はまだ出ていないようだった。
ゆっくり扉を開け、誰にも見られていないかあたりを見回した。
どの事務所も黄ばんだカーテンがかけられ、みんなまだ眠っているようだった。
外に出て、新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。頭がずきずき痛んだ。
ポケットから頭痛薬を取り出して、二錠口の中に放り込んだ。服のいたるところから便所のにおいがして、一瞬だけ捨て犬の気分に陥った。誰も拾ってくれない捨て犬。
けれど捨て犬はやがて、野犬になるのだ。
頭痛薬をポケットに入れておいて正解だった。
頭痛特有の痛みは精神に響くから嫌いだった。頭痛が起こったら一秒でも早く消火したいわたしはいつも頭痛薬を持ち歩くようにしていた。
頭痛の日の会社なんて最悪だったっけ・・・。
会社に通っていた頃が遠い日のことのように感じた。
「会社・・・。」
まずいと思って時計を確認すると、ああそうだ今日は日曜だったと思い出した。曜日感覚というか、あちらの世界での曜日というルール自体がもう遠いもののように感じた。
昨日の道に出てあの公園の方を振り返った。怖さも、暗さも、なんにも感じなかった。
今あの公園に戻ったらどうなってるかなと好奇心がわいてきたけれど、もしまだ人がうずくまってたら怖いなと思って見に行くのをやめた。
それに、昨日のあの妙な動悸と高揚、絶対あの、背の高い不気味な草のせいだと思うんだよなあ。
来た道を振り向くと、頭の中にまた、白く輝くピースがふわりと現れた。
まだ見捨ててくれてないんだ・・・。
「しかたないなあ。」
と言いつつ来た道を戻り始めた。なんだかんだ、昨日の一件以来、白いピースたちに頼りがいを感じるようになっていた。
ピースの指し示す通りに歩いていくと、案の定ずらっと酒場が並ぶ通りに出た。
通りは閑散としていた。
赤い提灯はどれも電気が消え、風に吹かれてどれもばらばらに揺れていた。
どの店も電気が消え、人ひとりとしていなかった。昨日あれだけ男たちがうじゃうじゃいたたくさんのテーブルも、昨日のままにごちゃごちゃに置かれ放置されていた。
とりあえずほっとしてわたしは通りの真ん中を歩いた。
どの店からも昨日の残り香が漂ってきて知らず知らずのうちによだれが出てきた。ああなにかあったかいもの食べたいなあと思った。
ぼんやりした頭でつらつらとそんなことを考えながら、延々と歩き続けた。
歩けど歩けど酒場は続いた。
少しずつ太陽が顔を出し、金色の光にこの世界が照らされた。
眩しさに目を細めながらわたしは顔を上げて新天地を見やった。
黒いビルも今は光を浴びて神々しかった。不思議な光景だった。漆黒なのに、輝いていた。光を浴びてもなお消えない影のようだった。
今日中には着くはずだ。いや、着いてもらわないとと思った。昨日は運が良かったけれど、このままもう一日ここで夜を迎えるなんてたくさんだ。
昨日の夜の出来事を思い出して再びぞっとした。朝だとここは本当になんの変哲もない仮設事務所、工事現場の集合地にみえるのに。
はやいとこ抜けなきゃ。
昨日昼間のこのこ歩いて、結局夜あんなことになったことを思い出して、歩くスピードをはやめた。
太陽が白かった。時計を見ると、昨日ちょうど家を出発した時とほぼ同じ時間だった。
ようやく酒場の終わりが見えてきた。遠くの方で、砂利だった道が、急に雑草が生えた荒れた道に変わっていた。それと同時に、店もぷつんと切れたようにそこで終わり、そこからは荒れたトタン小屋のような小さな小屋が連なっていた。
それにしても長い道だった。振り返ってみるとこの通りの入り口らしきものが小さく小さく微かに見えた。
「こんな端っこにまで夜はあいつらがうじゃうじゃいるのかな・・・。」
でも、わたしが男だったら、毎日ここでどんちゃん騒ぐのも楽しかったかもしれない。男で、そして触手が生えても気にしなかったら、の話だけど。
ようやく端っこにたどり着いた。一歩先はもう別の場所だ。
それでも、ここは楽しいだけの場所じゃないだろう。そのうらっかわでは、たくさんの危険が潜んでいる。あの不気味な草に囲まれて、誰かが口も利かず公園にうずくまっている。もしかしたら、ほかにもなにかいたのかもしれない・・・。
振り返って、土埃の舞う通りを最後に眺めた。
遥か遠くまで工事現場と仮設事務所が広がっていた。
「もう二度と来たくないよ。じゃあ。」
そういってまた一歩前へ踏み出した。
ここは延々と広がり続けている。わたしの居た場所にも、いつかは到達するのかな。
なんだか世界の変動の真っ只中にいるような気がした。
新天地はもうすぐに迫っていた。
さっきとはうって変わって、緑あふれる道が続いていた。
「どうしてここは工事しないんだろう・・・。」
道のすぐ脇にはぼろぼろのトタン小屋が並んでいた。扉が歪んだり、あちこちが隙間だらけだったり、小さな窓ガラスがぱりぱりに割れていたりした。
どの小屋の隙間からも植物が縫うように生えていた。
どれもこれも人は住んでいないようだった。夜歩くとここも不気味なんだろうな・・・。
道はずっと一本道のようだった。ずうっとまっすぐに歩けばいいだけだから、楽なものだけれど、どうしてかそううまくいくような気がしなかった。
歩いているうちに、トタン小屋が少しずつ気になりだした。
どうも、こんなにたくさんあるのに、どれもこれもぼろぼろで、人が住んでいないのが不思議だった。この地帯はいったいなんのためにあるんだろう・・・。
足を止め、ひとつの小屋をじっと見てみた。本当に人が住んでいる気配はないし、人が住めるようなものでもない。
ガラスが破れた小さな窓があったので、近づいて中を覗いてみた。
小屋の中は案の定テーブルやら家具などはなにもなく、床や壁は浸食した植物で覆われていた。唯一、台所と食器棚らしきものだけは残っていた。
やっぱり、誰かここに暮らしてたんじゃないかな。でもなんでここからいなくなっちゃったんだろう。そしてどうしてここの再開発を行わないのだろう。わたしならまっさきに潰してビル建てるけどな。
すると新しいピースが頭の中に現れた。方向はまっすぐじゃなくて、すぐ左手の小屋を指していた。
「入れってこと?」
頭の中にそう聞いてみてもそこには燦然と輝くピースがあるだけだった。
妙な胸騒ぎがして急いで小屋に入った。錆びて固まった扉を全体重をかけて引っ張ってようやく人ひとり入れる幅を作った。
中はさっき覗いた小屋とほとんど変わらなかった。しいて言えば台所の位置が右手にあったことぐらいだった。
上も下も横も全部植物に囲まれるのはなんだか気味が悪かった。へんな虫がそばにいそうだったし、昨日の晩のこともあった。
この植物は不気味だとかは感じなかったけれど。
ここからどこへ行けばいいんだろうと思って頭の中を覗くと、ピースはこの位置をまだ指していた。
なにかを感じてそのままじっと息を潜めていると、気のせいか地面が僅かに振動しているような気がした。
下を見てもなにも起きていなかった。なんだか嫌な予感がしてそっとしゃがんで草むらに隠れた。扉はわたしが開けたまま、少しだけ隙間が開いていた。
地響きがだんだん大きくなってきた。もう気のせいなんかではなかった。最初は地震か工事のなんかかと思ったけれど、そうではないようだった。地響きはだんたん大きくなり、なにかがこちらに近づいているようだった。
新天地のほうからだ・・・。なにかがこっちへ来る。怖いのと気になるのとで足と地面がくっついて動けなくなった。
非常にゆっくりだ。どしん、どしん、時計の針よりも遅い歩調。すごく重そうだ。
邂逅
何が来ているんだろう。背の高いやつか、すごく太いやつか・・・。
そんなのに捕まったら、わたしの首の骨をポキンと折っちゃって全部終わり。こんな知らない世界で死んじゃったらどうなるんだろう。誰か探しに来てくれるのかな。王子様とか。
馬鹿馬鹿しくて自然と笑いがこみ上げてきた。昨日の草の影響がまだ出てるのかな?なぜか無敵の気分だった。
振動は一歩一歩大きくなっていた。いまではもう地面からちょっと浮いてるんじゃないかというほどの振動が地面から伝わってきていた。もうすぐ近くにいる。
わたしは限りなくしゃがんで扉を睨んだ。
今までで一番大きい揺れと一緒に、それを見た。重い足取りのそれを。小さい角が二本生えた、緑色の巨大な身体。
大きく、そして太かった。高さは二メートルは軽く超えるだろう。腹は妊娠しているかのようにぱんぱんに丸く膨れ、そのくせ腰周りには贅肉がたくさんの皺を作っていた。そして体中から太く長い真っ黒な毛がぴょんぴょんと生えていた。
そして、それは大きな大きな金棒を担いでいた。
鬼だ・・・。
とっさにわたしはそう思った。見たことなんて、そもそもいるなんて信じてなかったけれど、今わたしの目の前にいるのは、鬼だ。トゲトゲの、すごく重そうな金棒を持っているこれは、どう考えても鬼だ。
あまりの恐ろしさに身体がすくんで動けなかった。今、こっちを見られたら全部終わる。
さっきまでの高揚は吹き飛んで、恐怖に絡めとられていた。
鬼の一歩はとても遅かった。機嫌がいいのか、空を眺めながら歩いていた。ただ、息遣いが、牛のような、でももっと恐ろしい、その躯体に見合った息遣いが、捕まれば容赦ないことを物語っていた。
鬼はそのままわたしのいる小屋を通り過ぎてゆっくりと去っていった。
しばらくすると地面の振動が落ち着いてきた。だいぶ遠くまで行ったようだ。
けれど、必ずまたここへ戻ってくる。だって一本道をただ歩いて来ただけなんだもん。
あの工事現場との境界まで行った後、また引き返してくるような気がした。
いつこの小屋から出よう?もしもう引き返していたら?一本道だから、逃げ出すわたしなんてすぐ見つかってしまう。
それとも、引き返すまでここで待ったほうがいいのかな。その方が追われることはなくなるけど・・・。
そのとき、頭のピースがまた道なりに進むよう指し示した。
今行けってことなのかな。あのゆっくりした歩調が逆に怖かった。
けれど振動が収まっていたので、だいぶ遠くに行ったと判断し、扉の隙間からそっと這い出してもとの通りへ出た。
腰を低くしたまま、鬼の行った方へそうっと見てみると、遠くに緑色の、黒い金棒を持った生き物が見えた。
いま振り向かれるとばれる。いまじゃなくても、引き返した途端、見つかってしまう・・・。
頭を覗いてもピースは相変わらずだった。このピースは方角は示してくれるものの、いつとか、早くとかはちっとも言ってくれない。
見つかるのは時間の問題だと思った。どうしてか、隠れても無駄な気がした。この道にいる限り、必ずばれる。
わたしは全力で走った。でもばれないよう、腰を屈めながら、ひたすら足の回転を早くした。
鬼がこちらへ引き返さないうちに。
これでわたしはもう追われる立場だ。
どれくらい経っただろう。もう走るのは止めて早歩きをしていた。
振り返っても鬼の姿はもう見えなくなっていた。
さっきからずっとこの一本道だった。脇道もなく、似たような小屋が延々と続くだけで、わたしはこの道に飽きかけていた。
新天地はあと少しあと少しと思いながらも全く近づいている気配がなかった。
わたしはこの単調な景色を歩いている間、この世界のことを考えていた。
どう考えてもおかしい。
口元の触手が生えた人間くらいなら、わたしが知らないだけで、もしかしたらいるのかもしれない。でも、鬼だ。あれは鬼だ。作り物なんかじゃない、確かに生きていた。
怖いと同時に、なぜか心が震えた。
新しい世界に踏み込んだ興奮だった。
信じられない。
わたしのいたあの場所、あの会社のある世界と、本当は地続きで知らない世界があった。
まるで異次元、異世界に来たような感覚だった。
でもそれは違う。
この足で、地を歩いて歩いて来ただけで、鬼なんかがいる所へ来た。異次元に飛んだわけでもない。この同じ空の下で、会社のあの人たちが仕事をし、触手がうねうねと動き、そして鬼が歩いている。
すべては一つの世界の下で起こっている。
今まで教え込まれてきた常識がひっくり返ったため、わたしはこれからは出来るだけ頭をまっさらにしようと心に決めた。
ふっと妙なにおいが鼻をかすめた。
どこかすごく不快なもので嗅いだことのあるような、ないような。
振り返ってみて目をこらしても、彼方まで鬼は見当たらなかった。
再び歩き出すと、また変な臭いが鼻についた。
服を嗅いでみてもほんのり公衆トイレの匂いがしただけで、鼻につくのはそれとはまた別の、えぐい臭いだった。
進むにつれて臭いはひどくなっていった。
「おえ、なにこの臭い・・。」
妙な嫌な予感がした。
口で呼吸するくらいになったとき、道の右側が急に開けた。
何の気なしにそこを振り向くと、臭いの原因がそこら中にあった。
たくさんの動物の死体がぐるっと円を描くように太い木の枝に刺さってぶらさがっていた。それだけじゃなく、地面にもあちこちに、体が途中までの動物が足や手をだらんと伸ばしたままへばりついていた。
白っぽい地面には動物たちが引きずられた血の跡や血だまりが一面に飛び散っていて、中でもぐるっと枝を回したその中心部分は少し窪んでおり、そこに黒々とした血がなみなみと溜まっていた。
突然の光景にわたしは吐きそうになって顔をそむけながら目をぎゅっと瞑った。それでもぶらぶら揺れている動物の死骸とそこから血が滴ってぽちゃぽちゃ跳ねる血の池が瞼の裏にこびりついて離れない。
ハエの音がうるさかった。
それでもゆっくりと顔を向けて目を開くと、やっぱり壮絶な光景が広がっていた。
動物はほとんどが角の長い牛だった。巻き角を上にして、舌がだらんと落ちて、中には充血した目を開いたまま刺さっているのもいた。
「あの鬼が餌を食べるところだ・・・。」
それにしてもなんて酷い食べ方だろう。あのへんに転がってるのは頭と片足しか食べてないし、あそこなんか、体が引きちぎられて延びているだけで、食べられてすらいない。
ただの食料用じゃない。遊んでるんだ・・・。
よくよく死体を見ると本当に食べられているのはごくわずかだった。ほとんどの動物は体の一部がただただ損壊していた。手足の間接だったり、首だったり、角が付け根から抜き取られていたり。中にお腹だけが地面にぺたっと着くくらいぺちゃんこに叩き潰されていた。
生き物の体でそうやって遊んでいることが、食べられるよりも、遥かに恐ろしかった。
それが死んでからされたのか、生きているうちにされたのか、そこは重要な気がした。
ぶるっと体が震えてとにかく急ごうと思った。さっきまでなんで呑気に歩いてたんだろうと不思議に思った。
後ろを振り返ると、今まで歩いてきたずらっと延びる道の遠くの方に小さい影があった。
見つかったかな?と思って身じろぎせずに目を凝らした。
影は身動き一つとらなかった。じっとこっちを見ているような気がした。
数秒経った時、影がもごっと動いたと思うと、ウオォォォォォォォォと心臓をえぐるような長い咆哮が耳に弛みながら聞こえてきた。
鬼ごっこ
しまった。
頭が真っ白になった。どうしてあんなところから見えるの。足がすくんで動けなかった。
すると影が猛スピードでこちらへ駆け出した。灰色の砂煙が影の倍もの高さまで上がっていた。さっきまではあんなにもゆっくり歩いていたのに。
もうだめ・・・。もう終わった・・・。
汗が頬を伝って流れた。こんなところで見つかるなんて。だだっ広い草原を見回した。逃げられない。
細かい振動が地面に伝わってきた。蛇かなにか捕食者に睨まれた小さなプレーリードッグをテレビで見たのを思い出した。あの時、なんで逃げないんだろうって呑気にに思ったっけ。まさか自分がそうなる日が来るなんて予想もしなかった。
結局、小刻み震えるプレーリードッグはそのまま丸呑みにされていた。
ふっと新天地を振り返った。あとどのくらいだろう。もしかしたら、あとちょっとなのかもしれない。そうしたら、どこかに逃げ込めるんじゃないかな・・・。
そうしてわたしは走った。諦めながら走った。新天地のビルは相変わらずの高さだった。近づいている気配すらなかった。絶望の走りだった。
後ろからすごく見られているのがわかる。舌なめずりしながら、わたしをどうやって遊ぼうか考えながら、楽しみに震えている。
空気が乾燥していて口の中がからからだった。舌が口内の壁にひっついて息が詰まりそうになる。
後ろを振り返ると、鬼がだいぶ近づいてきていた。ごまのようだった影が今はもう角や金棒のトゲトゲが見えるくらいだった。
わたしの終わりはもうすぐだった。
恐さで数少ない水分が目から滲みだしてきた。なんでこんなとこ来ちゃったんだろう。家に帰りたい。あのなにもない家に。
こんな悪夢からはやく目を醒まして。
目をもうぎゅっと瞑って祈った。次に目を開けばあの白い天井が現れる・・・。白いベッドに、なにもないあの部屋。
けれど無駄だった。何もかもが無駄だった。遠くに聳える新天地に向かって足だけが前へ前へと動いていた。
地響きがすごく大きくなっていた。後ろから鬼のぜえぜえという音が聞こえていた。鬼も疲れるなんてことあるんだとこんな時に妙に面白かった。後ろを振り向きたくても、彼のディティールを見たらもう足がすくんで最後のなにかが切れてしまいそうで必死で振り向くのをこらえた。
急に目の前が暗くなったので驚いて顔を上げると、目の前一面に漆黒のビルが聳え立っていた。
はあっと目が開いた。
来た。
新天地だ。
鬼がもうすぐ後ろにいた。どしんどしんという音、ぜえぜえという音、そしてさっき嗅いだあの不快な臭いが後ろから肩に当たってきた。
今躓けば終わる。あとちょっとで新天地だ。あとちょっと。あの黒いラインがそう。
大地はすぐ目の前でぷつりと切れていた。その先は黒曜石のような、漆黒の石が敷かれていた。
あそこまで行けば。なにか変わるかもしれない。何の根拠もない藁にもすがる思いだ。
すぐ後ろで牛の吼えたような鳴き声が聞こえた。おもちゃをもうちょっとで取り逃がしそうで怒ってるんだ。
足音が早まって近づいてきた。このままじゃ間に合わない。
とにかく足を動かした。前へ前へ。一歩は確実にわたしのほうが速いのに、ゆっくり迫ってくる鬼がどんどん近づいてくるのが分かる。
これじゃ間に合わない。ぎりぎりだめだ。
本当の絶望が体にさっと巡った。だめだ。惜しい。見つかったあの時、数秒でも早く走り出していれば。悔しい。あとちょっとで新天地なのに。
「お願い!」
誰にともなく叫んだ。
「お願いお願いお願いお願い!」
だめだ。
すぐ目の前の黒いラインがぐらっと揺れた。
ぐっと胴体を後ろから掴まれて、頭ががくんと後ろに仰け反った。あっという間にわたしは宙を浮いていた。
時が止まったようだった。鬼に持ち上げられたわたしはこれまで歩いてきたこの草原が一望できた。蜃気楼なのか涙なのか遠くがぼうっと歪んで見える。
下を向くと鬼が笑っていた。白目のない真っ黒な目が細く横に伸びていた。長い毛がプツプツと生えた太い腕がわたしを持ち上げていた。
ぶら下がった体がふらふらと揺れるのを鬼はしばらく楽しんでいた。
すると細く笑っていた目がすっとまん丸になった。もう遊びが終わったんだと知った。
いや、これから本当に遊び始めるんだ。
わたしの身体で。
「いや!」
ぞっとしてわたしは思いっきり体をひねった。びくともしない。
下を見やると観察するように黒い瞳をじっとこっちを見ていた。
その目に唾を吐いてやりたかったけどその後が恐くてできなかった。
「えい!」
わたしはつま先に引っかかってぶらさがった右のパンプスを脚を振って投げ飛ばした。
パンプスは鬼の頭を超えて、大きく弧を描いてゆったりと落ちていった。
クソ野郎。
わたしのバカめ。もっと刺すように脚を振らないと。
苦手な左足を、パンプスが落ちないようにゆらゆらと動かしてタイミングを測った。
鬼は真っ黒の目を開いたまま不思議そうに頭を傾けた。
コイツは頭が悪いに違いない。急にその鬼がガキに見えてきた。子供だから、あんな真似ができるのか。へばりついた死体を思い出した。
せーの。
つま先をぴんと張って鬼の目の下のほうを蹴るようにして脚を振った。
びゅっとパンプスが飛んで開かれた黒い瞳に吸い込まれていった。
ガァァァァと叫び声が上がった。体がふわっと浮き上がった。
時が止まった後、背中から地面に落ちた。衝撃で息が止まる。なにも考えられない。
息を止めたままわたしは冷静に体を立て直した。体を前へ傾け全力で走った。
鬼も叫び声を上げながら後ろからついてくる。
そしてとうとう、新天地にたどり着いた。
ひんやりとした漆黒の石の上をぺたぺたと走る。
鬼の足音が急に聞こえなくなった。
少し走ったところで振り返ると巨大な鬼が息を切らし肩を揺らしながら目の前の黒いラインぎりぎりのところで立ち止まって、わたしを見ていた。
口がだらしなく開き、粘り気のある涎がどばどば垂れていた。動物の血と腐敗のにおいがただよってくる。目はまん丸真っ黒の瞳だ。さっきわたしを掴んだ腕がだらんと垂れていた。太い木の幹くらいありそうだ。
こうやって近くでまじまじと見ると、人間とは程遠いことがよく分かる。たぶん、知性が感じられないのが一番人間と違うところかもしれない。
呆然としているのか、怒っているのか、鬼からはよく表情が読み取れなかった。
わたしは鬼と向き合った。真っ黒な瞳がこちらをじっと見る。
「こっちに来いよ。ほら。」
わたしはそう言って震える手で手招きした。
鬼の目が見開かれてきれいにまん丸になった。
「馬鹿が。」
わたしは吐き捨てるようにそう言った。
鬼がなぜか黒いラインを超えてこないことに安心して、何かの留め金がぱちんと弾け飛んだようだった。
鬼は目をまん丸にしながら体を揺らしはじめた。小さい鳴き声を漏らした。
「食べ物を祖末にするんじゃないってママに教わらなかったの?」
前に一歩踏み出す。目の前の鬼に憎しみが湧いてきた。
「あんな風に食べて。ママ悲しい。ママはそんな風に育てた覚えはありません。」
鬼はだんだんと鳴き声を上げ、地団駄を踏みだした。不思議とこの黒い石に乗っていると振動がほとんど感じられない。目の前の光景が次元を超えた遠い世界に感じる。
「だから、さっさと死んで。孤独の坊ちゃんが。」
鬼がものすごい声を上げて空を見上げた。そして手に持っていた金棒を振り上げた。
見上げるほど空に伸びた金棒が振り下ろされ、一瞬にして黒いラインを越えてわたしのすぐ目の前の石にまで食い込んだ。
とげとげがわたしのお腹のすぐ近くまで来ていた。
思わず後ずさりすると、鬼は金棒を引きずり、なにか鳴き声を上げながら引き返していった。姿がだいぶ小さくなるまで、わたしは地面にへたりこんでいた。
せっかく新天地に来たのに、気分が晴れなかった。殺されかけたのに、鬼になぜか言ってはいけないようなことを言ってしまった気がした。あんな獣でさえ、孤独なんてものを感じるのだろうか。
あの真っ黒に濡れた瞳を見ているとなぜか無性に腹が立ってくる。あの瞳を見るとなぜかわたしとそっくりな気がする。
部屋の鏡で見た、会社のトイレの鏡で見た、あの黒い瞳。孤独に濡れた瞳。
あいつ、遊びたかったんじゃなくて、遊び相手が欲しかっただけなのかな。
豆粒くらいの姿になった鬼を見やった。気のせいだけど、背を丸めてとぼとぼ歩いているように見える。
「まあ・・・。ごめんね。わたしも同じなのにね。」
地面にへたりこんだまま、大切な水分を一粒だけ涙に変えて流した。
途方もない疲れ
涙を拭き、地面にばたっと仰向けに倒れた。
青い空がすぱっと斬られてなくなっている。空にもビルの稜線で象られた黒いラインが見える。ビルが高すぎて空に届いているようだった。
大きく長く息を吐いた。ようやく着いた。長かった。わたしの旅はこれで終わったような気がした。
喉が渇いていた。冷たい水が欲しい。
疲れの溜まった重い脚を曲げてゆっくりと立ち上がった。
おまけになにも食べてない。
手をついてゆっくりと立たないと、意識を持っていかれそうだった。
ぺちゃんこになったお腹を抑えつつ、新天地に向き合った。
道らしい道や標識は見当たらず、たくさんのビルが木々のように所構わず生えて人工の森を作っていた。奥へ入り込むにはその太い幹の間を縫うように通っていくしかないようだった。
首を真上に見上げると遥か上のほうでは明るい小さな窓がたくさんはめられていた。反対に地上付近は巨大な柱ばかりで人のいる気配はなく、店やビルの入り口なんてありそうにもなかった。
「水・・・。水欲しい。」
そう呟いて頭を覗いても白いピースは現れなかった。
「あれ・・・?」
もうゴールしたってことかな。あとは自分でなんとかしろって?
何かに導かれてようやくここに来たけれど、来てどうするのかなんて、なぜかさっぱり考えていなかった。終点に着いたら、何かが当然のことのように起こると思っていたのに・・・。
急に知らない土地におっぽり出された気がした。なんだかんだ、ここに来るまでは一人じゃないような気がしていたのに。
「おーい。」
ここじゃ声も反響しなかった。漆黒の地面とたくさんのビルは、表面はつるつるなくせに光だけでなく音も全部吸い込んでいるようだった。
ふらっと一歩前に進んだ。ぺたっ。
そういえば、さっきまで履いていたパンプスは・・・。
後ろを振り返ると、あの鬼に掴まれた場所にそれぞれで転がっていた。地平線の彼方まで見やっても鬼の姿は見られなかった。
転がったパンプスがわたしを惹いた。まるで捨てられて悲しんでいるように思われた。ここまでずっと一緒だったのに・・・。
おまけに腕時計もちぎれてなくなっていた。
取り返そうと思って一歩引き返した。
草原の遠く地平線が蜃気楼のせいか揺らいだ。
「いや・・・。」
このラインを超えたくない。鬼はどこに行ったんだろう。目を凝らしても全然見えない。
妙な胸騒ぎがして取りにいくのをやめた。裸足でもこの地面なら大丈夫だろう。時計が無くても、どのみちもう会社のことを気にするような段階ではなかった。
ごめんねと言ってわたしはふらふらと新天地へ入っていった。
肉体がもう限界だった。
鬼の緊張が解けたせいか、疲労のせいか、空腹のせいか水分が足りないせいか同じ色同じようなビルの単調な景色のせいか、目の前がぼうっとしてものすごい眠気が襲ってきた。
眠い。今すぐここで寝たい。どうなってもいい。どうせ誰にもばれない。さっきから人のいる気配がまったくしない。だからこそ安心して気が緩んでしまう。
ビルがあまりにも雑然と適当に生えているので、先が全く見えない。
「通り」すらない街なんて聞いた事もなかった。
ひたすら脚を動かした。ここで倒れると、もう立ち上がれない気がした。それは嫌だった。せっかく来たんだから。
振り返ると黒い柱がうじゃうじゃ生えていた。今まで来た道が全くわからなくてぞっとした。さっきまであんなに嫌だったのに、あの草原がもう一度見たいと渇望した。ここはたくさんに囲まれて窒息しそうな、よく考えるほどパニックに陥りそうな気味の悪い場所だった。
ふと立ち止まった。立ち止まってしまった。前も後ろも同じ景色だ。だんだん自分がどこを向いているのかわからなくなってきた。わたしは今右を向いたっけ?それとも後ろを振り返って目の前の景色があるんだっけ?
どっちを進んだらいいかわからない。頭の中のピースを探した。ピースなんてわけのわからないものは最初から無かったかのように何も現れなかった。
呼吸がだんだん苦しくなってきた。空気がない。空気を求めて上を見上げた。ビルに切り取られて米粒ほどの空しか見えなかった。
全く同じ景色に見えても、脚を止める事はなかった。
必ず、このまま奥へ入り込んでいけば、必ず何か出てくる。いいものにしろ悪いものにしろ。そう信じるしかなかった。
ぺたぺたと静かな世界に足音だけが微かに響く。
少し彩度が上がったような気がして上を向くと、壁と壁が反射し合って細い夕陽がわたしの目に射し込んできた。
「日が暮れる。」
唐突にさみしさが襲った。誰かに後ろからそっと肩を抱いて欲しかった。
ぺた。
わたしは足を止めた。いままで蓋をしてきた感情が、どっと溢れそうになったのでこらえるのにしばらく時間がかかった。
しばらくじっとしていると、射し込んだ夕陽の光線が傾いてゆき、蒼く暗い、生まれたばかりの闇に少しずつ沈みだした。
静かだった世界に、わたし自身の音さえも消えて、完全な静寂に包まれた。
遥か上空ではあの小さく明るい窓の内側におそらくたくさんの人がいるというのに、ここは全く、夜になりだしても人が動き出す気配がなかった。
だんだん濃くクリアになっていく上空のたくさんの窓を眺めながら、自分が文字通り外部の人間、歓迎されていない人間なんだなあと改めて認識した。
あの窓の中が羨ましくて、前へ進むことなんてもうどうでもよくなって、冷たい地面に座り固いビルの壁に背をもたれてじっと見ていた。
眠っていたのか、それともずっと起きていたのか、たまたま意識が微かにあった時、近くでパチンと音がした。
正確には、パチンパチンと何かが小さく細かく爆ぜる音が聞こえた。
さっとあたりを見回す。静寂の中に服がこすれる音がする。
ゆっくりと立ち上がって、音のした方角を掴もうとした。音はたぶん、左手付近から聞こえた。
妙に音が響かないここで、その音はそこそこくっきりと聞こえた。すぐ近くのはずなんだけど・・・。
足音を立てないよう踵を上げて、そばの壁に沿ってゆっくりと歩いた。
角に来くると立ち止まって、そっと奥を覗いた。
隣のビルの壁に、横長の白い蛍光灯がついていた。蛍光灯は周りを覆う小さく白い格子に守られてあたりを照らしていた。
誰かいないか、周りと、後ろを振り返って確認した。
わたししかいない。
まだきょろきょろとあたりを確認しながら、そっと蛍光灯に近づいていった。
なるほど、さっきの音はこれか。暗闇に反応して明かりがついただけ。誰か来た訳じゃなくてほっとした。
すぐ近くまで来てよく観察した。わたしの背よりちょっと高い位置にくっついている。どこにでもある普通の蛍光灯だった。眩しくて一歩下がった。
それにしても、どうしてここだけにあるんだろう。あたりを見回した。他に蛍光灯がひっついている壁はなかった。
普通、蛍光灯はその下の何かを照らすためにあるけれど、なにも、扉のようなものもなにもなく、のっぺらとした壁にこれだけがぽつんと取り残されていた。
「君も一人か・・・。」
この森に取り残され、毎夜毎夜自分の小さな管轄区を照らし続けるこの蛍光灯がたまらなくさみしそうに見えた。蛍光灯に同情するようなった自分も悲しかった。
それでも狂おしいほどにこの蛍光灯が愛おしかった。たぶんここへ来ていつの間にか狂ったんだろう。
わたしは恋人の頬に優しく触るようにして蛍光灯を覆う格子に触れた。汚れなんかなくつるつるでひんやりとしていた。
どうしたって扉なんかないよね、と自分に聞いた。蛍光灯の下の壁は文字通り壁で、巨体を支えているこの壁に、扉があるなんて疑惑をかけるのは失礼な気さえした。
そう思いつつ、強度を確かめるようにそっと蛍光灯の真下の壁を押した。
がちゃりと大きな音が響いて、簡単に扉は開いた。
扉の奥はすぐ壁だった。その代わり、左手に地下へ続く階段があった。
扉が開いて一番驚いたのは、この蛍光灯はつまり意味があったということだった。なんだか妙にさみしくって裏切られた気がして、よかったね、と吐き捨てて中に入った。
階段は地下一階ほどまで続き、そこにまた、今度は重そうな、いかにも業務用のくすんだ白い扉がついていた。扉の上にはぽちっとした赤い蛍光灯が煌々としている。
開いた扉を閉めるべきか迷ったけれど、取っ手の類は見当たらずつるつるしていたので出られなくなると困ると思いそのまま開けておいた。
もう一度外へ顔を出して、誰にも見られていないことを確認してから、階段を下りていった。
蛍光灯から届いた光によれば、この階段も外と同じ石でできているようだった。ただ、天井は石とは違い、巨大な空調ダクトが縫われ、たくさんの細いパイプが整然と並び、それらが白い漆喰にごてごてに塗られていた。
「中は普通なんだ・・・。」
ビルの内部を少しでも覗けてほっとした。なあんだ。じゃあ、あの会社と作りは同じ。新天地のビルはもっと、特別なものだと思っていた。外から見れば、ビルそのものが生き物のように脈づいているように感じた。まるでもとから生えていたビルに人間たちが住んでいるような錯覚があった。
そうして天井を眺めながら、それでもゆっくりと、下に向かっていた。そもそも開いているかどうか。
扉は厚くそして頑丈そうだった。この扉には大きな取っ手と鍵穴があった。何度も乱暴に開けられたのか、扉に接する壁はところどころ白いコーティングがはがれていた。
奥に誰かいないか扉にそっと耳をつけてみる。ひんやりとした冷たさが耳を通して体に伝わってくる。
中から話し声がすぐそばで聞こえた。それでもくぐもっていてよく聞こえない。扉の向こうは通路か何かかと思っていたけれど、どうやら部屋になっているらしかった。女の人二人がぼそぼそと、時々会話が途切れながらも、それが日常であるかのように再びどちらかがまた話しだして・・・。
声を聞いているうちにだんだんと意識が遠のいてきて脚の力が抜けびくっと体が震えた。危ない危ない。
一応、コンコンとノックした。そして返事を待たずに、取っ手を回した。どうなってもいい、もう限界。
がちゃっと音がして、重い扉はゆっくりと開いていった。
目の前に二人の人間が現れる。どちらもこっちを見て固まっていた。
二人ともぱっと見は人間のようだった。四十代くらいのおばさんが二人、カウンターに立つ一人は体が大きくて腕が太い。座っている方の一人は目が大きくてそのぶん大きい隈が垂れ下がっている。
どちらも目をまん丸にしていた。
「怪しい者じゃ、ありませんので・・・。」
ごめんなさいと言ってその場で倒れた。
昏々
目を開けるより先に耳が開通したようだった。ぼそぼそ声が聞こえる。しかしどうしてこんなところに・・・、とか、何か食べさせないと・・・とか、どうやらわたしを心配してくれる人たちのようだった。
ご飯と聞いてわたしは驚かさないように、それでもさっと起き上がった。
「あの、何か、食べるものありませんか?」
一見すると、ここはバーというか、ラウンジのようだった。どっちも行ったことないけど。座布団が敷かれた小さな座敷にわたしは寝かされていた。
「お金、少しだけならあります。」
二人はわたしの方を見て少しの間固まっていた。今この判断で、もしかしたら、この人たちの人生や、運命が変わることだってあってもおかしくない。なにせ、わたしは正規ルートでここに来たわけじゃない。わたしになにかしら手を貸したとしたら、後で問題になるのかもしれない。
「もちろんだよ。いまサンドイッチ作ってるから。」
答えるまでの僅かな間でまだ警戒されているのが一瞬で伝わった。それでもわたしに手を差し伸べてくれる覚悟がやんわりと伝わってきた。
「お金なんていらないよ。倒れてる人がいたら助けるのが義理ってもんだい。」
「しかも目の前で、ですしね。」
わたしは自虐的にそう言った。
カウンターに立つおばちゃんは高い声で二つ笑ったけれど、二人ともこの状況にまだ戸惑っているようだった。
しばらくして、サンドイッチとフルーティーな飲み物が運ばれてきた。
あの味を思い出して胃がきゅっと締まった。失礼と思いながら腕の太いおばちゃんがテーブルに置く前にお盆からジュースを取って一気飲みした。
腕の太いおばちゃんは少し驚いた後振り返ってカウンターに座るおばちゃんに「あらまあ。」と言って笑った。
いまは人のことを気にできる余裕がなかった。何を思われてもいいから目の前の冷たいドリンクとサンドイッチが欲しい。
コップを一気に飲み終わって乱暴にテーブルに置くとサンドイッチに取りかかった。
カツサンドだった。会社近くのコンビニにあって、あの工事現場のコンビニにはなかった、普通のカツサンドだった。
わたしはカツサンドを頬張りながら隣で驚いてわたしの食べる姿を見ているおばちゃんの口元を遠慮なく見やった。
触手が生えていた。
一瞬にして気持ち悪さが全身を巡ってカツサンドが逆流しそうになるのをなんとかこらえた。それでも嘔吐いて涙が出てきた。
「大丈夫大丈夫。誰も取りゃしないからさ。」
とわたしの背中をさすってくれる。後ろで触手がうねうねと動いているかと思うとぞっとしたけれど何も考えないよう必死で努力した。この人たちはいい人この人たちはいい人。
でも、人なのか。
違うのは触手だけか?
服の中は?その身体は?
たくさんの疑問がじゅわっと湧いてきた。でも今は親切にされている。例えこのカツサンドを食べて触手が生えたとしても、わたしはこれを食べる。
今度はゆっくりと噛んで食べるようにした。「そうそう、ゆっくりね。」と背中から声がかかる。
それでもカツサンドは、美味しかった。カツは衣がさくっとしていて熱い肉汁があふれる。本当にできたてだった。
もぐもぐと食べながら、もしかしてと思った。わたしが触手生えていないのを知って、サンドイッチをわざとわたしの知っているやつ、食べなれたカツサンドにしてくれたのかな。
継ぎ足されたジュースに小さく会釈してまたがぶがぶ飲んだ。ドリンクもたぶん普通のオレンジジュースだった。これも、わたしに合わせてくれたのだろうか。
一瞬でカツサンドを食べ終えると、再び強烈な眠気が襲ってきた。座敷にゆらりと倒れるところを、すんでのところでおばちゃんに引き止められた。太い腕でがしっと掴まれる。
「あんた、たくさん寝ていいから、せめてちょっと着替えた方がいいよ。できれば体も洗った方がいいけどさ・・・。」
「は、はあ・・・。」
なにより今は眠かった。カロリーを摂取して頭がふわふわしていた。
出された朱色のなにか柄の入ったワンピースを手にとってまたぼうっとしてから、ゆっくりと服を脱いだ。
一応座敷から出て服を脱いだけれど、服がこすれるたびにあの草原の砂がまたぽろぽろと溢れてきた。だいぶ払ったつもりだったのにな。
ぱっと二人のほうを見ると、二人とも砂を凝視していた。
「あの、すみません・・・。床汚しちゃって。」
というわたしに二人はしばらくなにも返さなかった。すると腕の太いおばちゃんが
「あのさ、ちょっと確認しときたいんだけどね、あんた、どっから来たんだい?」
頭の中の白いピース。あれはいったいどこに行っちゃったんだろう。
「わたしは、草原の向こうから歩いてきました。でも、詳しくは寝てから話します。」
用意された服を着てから、脱ぎ散らかした服をたたんだ。砂や汗で汚れて、しかも公衆トイレのにおいもする服をたたみながら、どうせわたしの体もこんなんなんだろうなと思った。
思いながら、そのまま座敷に這ってぱたっと寝た。
喉が渇いて目が覚めた。店は腕の太いおばちゃんだけになっていて、カウンターに座ってくつろいでいた。
「お水、ありますか?」
さっきよりも寝起きは格段によかった。よかっただけに、無礼な頼み事をしにくかった。
「あ?ああ。あるよ。ちょっと待ってな。」
時間は真夜中あたりのようだった。
「あの、わたしどれくらい寝てましたか?」
「いや、一旦起きてから、そうだねえ、まだ四時間くらいしか経ってないよ。」
コップに水道の水を注ぎながら背中で答える。
「はい。」
「ありがとうございます。」
コップを受け取るとがぶがぶ飲んだ。首筋に汗が流れる。
「ちょっと暑いかな?今温度下げるから。」
「ありがとうございます・・・。」
再び重い眠気に殴られてがくんと頭が揺れる。
「大丈夫かい?」
と苦笑するおばちゃんにはいと答えて引きずるようにして座敷へ戻りまた眠った。
次に起きたのは夕方の頃だった。ほとんど丸一日寝たことになる。
目が覚めたまま横になっていた。これからのことを考えていた。
もう会社に戻っても働けないな。わたしが失踪したとかで、騒ぎになってないかな。置き手紙とかでも置いていけばよかった。でも、案外騒ぎになんてなってないのかも。
そもそも、どうやって帰るんだろう。またあの道で帰るのはごめんだ。今度こそ鬼に殺される。今度こそ。あの草原に入ったら、今度はほんの微かなにおいや姿だけで見つかるだろう。
でももう一方で、全てが投げやりな自分もいた。ここまで来たし、来れたなら、あとはどうにでもなろうと。あの家や会社に誰か待っていてくれる人もいないし、会いたい人もいないし。
汗で服と下の座布団がぐっしょりだった。温度下げてくれるって言ったのに・・・。
ゆっくりと目を開けた。茶褐色の木で組まれたありふれた天井と電球があった。電球のカバーももらった服と同じ朱色だった。あのおばちゃんはこの色が好きなのかもしれない。
今は全てがどうでもよかった。それは虚脱感から来るものじゃなく、どうとでもなれという、後ろを振り返らない強さである気がした。これからどうなるのか、全くわからない。そのことが何よりも楽しく、生きているという実感が手のひらに確かにあった。
完全回復だ。
伸びをして、ゆっくりと起き上がった。
お店には誰もいなかった。
あのおばちゃんを探してカウンターのあたりをうろうろすると、わたしの服と置き手紙がカウンターの裏に置いてあった。裏に置いてあることが妙に嬉しかった。店の裏側まで来てもいいという許しに見えた。
手紙はお風呂に入れという内容だった。座布団のカバーも洗うから外しといてとも書いてあった。
手紙を読んでいるとこれからここに一時的にせよ住むことになっているようなへんてこな感覚に襲われた。
お風呂でシャワーを浴びた。変な石鹸と乾燥したサボテンみたいなのがある以外は普通だった。洗濯機は、少し古そうだったし、知らない会社の製品だった。
人は大きく違う環境の方がきっと慣れやすい。さっきから、いや、ずっと前の、あのコンビニに入った時から感じていた、ほんの少しの違和感がずっと頭にこびりついていて、なかなか溶け込めない。
下着から何から何まで用意してくれていから、それに着替えて、さっぱりして出てきた。
店の通路で脚を伸ばした。どこもかしこもかちこちに固まっていた。鬼の手から落下した衝撃で脇腹が痛んだ。
塊まった脚をもんだり伸ばしたりしてしばらく遊んだあと、カウンターの席に座ってぼーっとした。
しばらくすると眠くなってきてまた座敷に寝転がった。
一滴の疑問
体をゆさゆさと揺らされて目が覚めた。
「おい、そろそろ起きなよ。」
それだけ言うとまたカウンターへ戻っていった。さすがに寝過ぎて怒ってるのかな。背中を丸めてゆっくりと立ち上がった。
カウンターに例のサンドイッチとオレンジジュースが置かれていた。目を擦りながらゆっくりと向かい、
「何度もすみません。もう出て行きます。」
と半分夢の中で呟いた。
「出て行くったって、どこに行こうって?このへんのこと、なんにも知りゃしないのに。」
おばちゃんはどうやら機嫌が悪いのか怒っているようだった。さすがに人の家で自堕落すぎたかな。
わたしはそれに答えられなかった。はい・・・と曖昧に返してサンドイッチに手をつけた。
食べ終わるまでお店は静かだった。聞きたい事がたくさんあったし、これからのことも相談したかったけれど、それは向こうも同じことだった。
「新天地で、死ぬくらい危険なことってありますか?」
サンドイッチを食べ終わってジュースを飲み干して、口の中がようやく何も無くなった時に、わたしから口を開いた。
「上にいるときは大丈夫だけど、地上付近は危ないよ。ここらの辺境はまだなにもないけど、中枢区はなにがいるかわかったもんじゃない。」
吐き捨てるようにそういった。
「なにがいるかって、なにがいるんですか?」
わたしの脳裏にあの鬼がいた。
「落ちに落ちぶれた人間か、それ以外か、その間くらいさ。」
そう言ってはじめてこっちを見てにやりと笑った。どこまでが冗談なのか分からない。
魑魅魍魎話のついでに、わたしも話す事にした。まだお互い探り合っている状態での会話は等価交換で行われる。
「ここのもっと端っこに、草原があるのは知ってますか?」
「まあ・・・、一応は。」
やっぱりなにかあそこがマズイことを知ってるんだ。
「行ったことあります?」
しばらく考えてから、いや、ないねと答えた。
「小さい頃、本当にぎりぎりの縁が見えるところまでは行った事があるよ。それでも、周りの子たちには大層驚かれたよ。度胸試しみたいなもんなんだ。あそこは。あれ以来、みんなわたしを見る目が変わった。それぐらいのことなんだ。それでも、この森の、ビルの森の外には出れなかった。ああ、懐かしいなあ。あの日から、私の人生が変わった気がする。」
「どうして、危険だって分かってたんですか?」
「まあ、言い伝えというか、なんと言うか。中枢区の幽霊話みたいな眉唾もんさ。草原に一歩でも入るとなにかがやってくるって。それでも未だにあそこへは向かえないね。それはこの辺のみんなそうなんじゃないかな。大人になってもまだあの頃の恐怖がこびりついてるんだよ。」
やっぱり、鬼のことは知らないんだ。
「わたしは、その草原を渡ってきました。」
おばちゃんの目を見て言った。この話がまた、この人の人生を変えるかもしれないと思いながら。
「そこに、なにがいたか、知りたいですか?」
おばちゃんは天井を見上げて軽く笑った。
「人間ってのは恐ろしいもんでねえ。あの草原を見たとき、ちびりそうに恐かった。なのに、あの時の光景が忘れられないんだ。いまでも鮮明に思い出せる。なぜって、わくわくしたからだよ。恐いけど、それでも何があるか、胸が高鳴る。いま、あんたと話しながら、あの日の光景が目に映ってるんだ。」
「それで、今日までずっと思ってたんだよ。あそこには何がいるのかって。だから、見たんなら、教えてちょうだい。」
そうしてわたしは鬼のことを話した。鬼の詳細なディティールも、鬼の餌場も、掴まれたことも、パンプスのことも。
「どうりで裸足だったわけだ。最初は、誰かに拉致されて、最後に草原に放り投げられたのかと思ったよ。だから何も聞かなかったわけだけど、まあ、どっちがよかったのか、わからんね。」
そう言って屈託なく笑った。つられてわたしも笑った。
「なら、その靴はあの草原に転がってるのかい?」
「ええ・・・、そうですね。鬼が拾ったりしてない限り。最後振り返った時は寂しく転がっていました。」
「そうかい・・・。」
と呟いて暫くの間お互い黙りこくった。
話してみてわかったのは、おばちゃんもわたしと同じだということ。この広い世界の、すごく小さなところで生きてきた。わたしが新天地に興味を持たなかったように、おばちゃんも草原の向こうを気にしない。新天地の中枢の方も聞いた事くらいしかないようだった。
それは不思議なことではなかった。わたしの隣に住んでいる人も、ここの近所の人も、同じようなものだろうから。
「はて・・・。」
そう言っておばちゃんは静かに黙り込んだ。今まさにおばちゃんの何かが開かれようとしているのがわかった。重く錆びた、閉ざされてきたなにかが、今轟音を立ててゆっくりと開いている。
「じゃあ、」おばちゃんの視線が宙を漂う。
「じゃあ、あんたが来た、草原の向こうって?あんたどっから来たんだい?」
おばちゃんはわたしにではなく自分に驚いていた。なぜ草原の向こう側を気にしなかったんだろう?少し考えたら疑問に思うはずなのに、と。
新天地に向かいだした、あの日のわたしと同じだ。
「草原の向こう側には、ここの何倍も広い街が延々と広がってます。ここを囲むように。延々とって言っても、もしかしたらそれも、たぶん違うと思いますけど。ここと同じような人間がもっともっといます。たくさん建物もあります。でも真っ黒じゃないですよ。いろんな色のいろんな建物があります。ここよりももっと低いけど。わたしはそこから来たんです。ある日急に興味が湧いて。新天地に。」
白いピースのことについては伏せた。あまりにも現実味のない話をすると話全体を疑われかねない。言いながらでも確かに、あのピースは湧いて出てくる感じだと思った。
おばちゃんはしばらくの間黙っていた。
「あんたにはこれがない。」
そう言ってさっきからうねうねと動き続ける自分の触手を指差した。じっと見ていられなくて俯いて「はい」と言った。
「草原のすぐ向こうには、正確には工事現場があるんですが、そこの男にはありました。でも、わたしの住んでいるところはなかったですね。わたしもそうですけど。だから、草原が全ての境界ってわけでもないのかも。」
「ふーん・・・。」
「気持ち悪い?」
「いえ。」
「ただ?」
「まだ慣れてはないです。」
「そうね。」
と言って笑った。話している間にずいぶん老けたような気がした。元気がみるみるうちに溶け出していったようだった。
「ちょっと、いろんなことをいっぺんに聞いてしまって、混乱してるね。小さい頃から、これがついてたからね。あんたの顔を見たとき、こっちもびっくりしたよ。そんな触手のないつるつるの顔、初めて見たからね。ないってことが考えられなかったんだ・・・。どうしてわたしは、あの草原の向こうがどうなってるのか、考えもしなかったんだろう。せいぜい草原にいるなにかを考えるだけで、不思議と興味すら持たなかった。そうなると、他にもいろいろ知らないことがあるね。いまたくさんそれが湧いてきてるよ。何も知らない自分にいまびっくりしてる。」
それから数時間くらい、お互いの話をした。それぞれの場所で生きる、それぞれの人生のはなしだった。どちらも、自分のすぐ周りのことのはなしばかりだった。
「さて、そろそろ行かないと。」
おばちゃんは口をつぐんだ。あたりにさあっと静けさが広がった。わたしはカウンターの椅子を引いて立ち上がった。からからとした渇いた音だけが響いた。もう行ってしまうの?と問いたげにおばちゃんはわたしを見つめた。換気扇近くの小窓からぱりぱりした明るい光が漏れだしていた。もう、ここにいる必要が無くなった気がした。
遡り
「行くって、どこへ?」
「新天地の中枢です。とりあえずそこに行ってみます。」
おばちゃんは少し黙った後、
「不思議だねえ。さっきから、あんたの話を聞いてると、自分がここへ連れてこられたみたいな言い方をするね。はるばる新天地まで来て、どこへ行けばいいかわからないやつなんているもんかね。まあ、無理には聞かないけどさ。変な嘘なんてついてもそれは無駄だよ。」
そう言って悲しそうにまたわたしを見上げた。わたしは何も言わなかった。
おばちゃんは少し俯いた後、決心するようにぐっと顔を上げた。
何を言おうとしているかわたしには、この旅に出たわたしにはわかった。
「あのさ、」
そう言ってわたしを見上げた瞳は、彼女が初めて草原を見たあの少女の瞳と同じだった。外の世界に触れた瞬間の、あの輝き。
「じゃあ、わたし、もう行きますね。」
そう言って振り返らずに白い扉を開けた。
「待ちな。」
一声そう言うと、カウンターからがさがさと音を立てながらこっちにやってきた。さっきの少女はもういなかった。
「これ、大事に食べるんだよ。水分補給もしっかりね。ここは相当辺境だから、だいぶ歩かないとなにもないよ。本当はパスポートさえあれば、上から行けるんだけどね。ごめんね。」
そう言っておばちゃんは天井の遥か上を見やった。認証を通したパスポートがあれば、ビル間を網のように繋ぐ上空の廊下を通れるらしい。わたしがおばちゃんのを使うと一発でアウトだ。わたしも、おばちゃんも。
「いいえ。招かれざる者なんですから。最初からわかってます。おばちゃんのせいじゃないですよ。それに、こんな、食べ物まで・・・。」
麻でできた荒い手提げ鞄には、サンドイッチとパン、それからおにぎりと、ボトルのジュースが二本入っていた。
「ほんとはもっと入れたかったんだけどね。あんまり重すぎてもだめだろう?旅ってものは。」
「・・・ええ。そうです。そうですよ。おばちゃんはもうちょっとやせないと。」
そう言って二人で笑った。別れの時が来たんだ。
「じゃあ、気をつけてね。」
「はい。」
「また来ます。ありがとうございました。」
手提げ鞄を両手に持って、深くお辞儀をした。
最後に小さくおばちゃんに手を振り返して、重い扉を閉じた。どぉんと音がして二人は分断された。
扉の前でまだわたしは突っ立っていた。この扉を隔てておばちゃんがいる。この扉を開けるだけで、また会える。もう一度開けて、ずっとここにいると抱きつこう。さみしさがこみあげてくる。拳をぎゅっと握って耐える。じっと耳を澄ます。何をしているんだろう。今日という日をどう過ごすんだろう。
何も聞こえなかった。わたしは引き返して、とぼとぼと階段を登った。
薄い扉を押すと、再びビルの樹海が現れた。朝日の光の帯とビルの柱が絡まり合ってたくさんの幾何学模様を描いていた。
一歩踏み出した。あたりは静寂に包まれていた。振り返ると、蛍光灯は役目を終えて眠っていた。
店が棲みつくビルを見上げた。ここのどこが田舎なんだろうと思った。中枢区はどんな風になってるんだろう。
最後に蛍光灯と店のある方を眺めて、断ち切るようについと離れた。
「あー。首いてー。」
もう迷うようなことはかろうじてなかった。おばちゃんの店が入っていたあのビルから出ていた上空の細い廊下は、他の廊下と川の流れのように合流し、最後は太い道となって中枢区へ続いていくらしい。そのために何回も見上げてはあのビルから続く空中廊下の軌跡を絶えず確認する必要があった。
首が疲れて痛くなってきたのでしゃがんで柱に首をもたれかけた。お尻に朝特有のひんやりとした冷たさが伝わってくる。朝日の温もりが夜の冷たさを追い出そうとやっきになってあちこちで風が生まれている。
上を見上げたままため息をついた。おばちゃんはあの廊下を辿っていけさえすればいいって言ってたけれど、実際はそれがかなり難しい。奥に入れば入るほど、大小様々な廊下が入り乱れてくる。それもたくさんの階層にわかれて上に下に好き勝手に繋がり合っていて、一つの地点からだと廊下が次にどこに繋がってるのかわからない。だからその辺をうろうろしてようやく次に続く。
「きりがないな。」
それでもこの作業を放り投げることはできなかった。あの廊下が、辿ってきたあの廊下だとわかっているから、方角がわかる。目印を一旦放棄すれば最後、自分がどっちを向いているのかすらわからなくなる。そうなったら、本当におしまいだ。
手提げ鞄からジュースを取り出して、一口飲んだ。ひんやりしたオレンジジュースだった。冷たさが喉を通って体がしゃんとした。
じっと耐えるようにしてそこから延々と廊下を辿った。進めば進むほど集中力を要求された。一度でもぷつりと切れたら、わたしの命もぷつりだ。時々見失っては、いやな汗をかきながらもう一度ゆっくり振り返って丁寧に元の廊下を洗い出した。
気づけば上空はもう廊下が密集していて、空はほんの僅か、所々染みのようにあるだけで、真っ昼間だというのにあたりは暗く、空気は淀んでいた。
辿ってきた廊下の場所を頭に刻みつけて、少し休憩した。
「確かに、あそこは田舎だったな・・・。」
あの店があった辺りではまだきちんと空があった。まさかここまで複雑になっていたなんて。てっきりビルがひしめいているだけだと思っていたのに。空が廊下たちでべたべたに塞がれて、妙にそわそわしてしまう。空がないだけでこんなに不安になるとは思ってもいなかった。下手すると、鬼に追われているときよりも今は恐いかもしれない。
恐い。
「こんなとこじゃ、変なのがいてもおかしくないな・・・。」
落ちに落ちぶれた人間か、それ以外か、その間くらい。
中枢区にはそんなのがいるとおばちゃんは言っていた。
嫌な汗が流れる。
廊下が密集する一方で、ビルの密集具合は心なしか少なくなっているように感じた。通りというものすらなかったあの田舎と比べて、ここはビルとビルの間隔が広く、時には車二台ぶんは通れるくらいの道も見えた。
ふと、明かりがちらっと見えた。吸い込まれるようにして戻って見ると、ビルの壁の十メートルくらいの高さに扉がひっついていた。
「なんであんなとこにあるんだろ?」
行ってみたかったけれどさすがにつるつるの壁を十メートルも登るのは無理だった。
仕方なくあきらめて先に進んだ。
もはや正しい廊下を追えているのか自信がないまま、ただひたすら廊下の流れそのものを追いかけるようになっていた。
中空ではさっきからだんだんと賑やかさが増してきていて、ビルの壁のあちこちに扉を見かけるようになり、またあんなにつるつるぴかぴかの美しい漆黒だったビルの壁や床に、べったりした黒い汚れが目立つようになってきた。
「だんだん汚れてきたな。」
一人嫌な顔をしてあたりを睨んだ。近くのビルの壁を指で削って見てみる。煤のような黒い汚れが指に付着した。
中枢へ向かうほど、全てが新しくなくなっていくような気がした。
四角い時間
どのくらい時間が経っただろう。もう特定の廊下を辿るのはやめた。道幅は車が四、五台は横に並んで走れるくらい太くなっていて、その道路から脇に沢山の細い路地が流れていた。
そして、今までの道のりと違ってあたりはうるさくなっていた。
ビルの壁のそこら中、高いところや低いところにいろんな大きさ、形の扉があった。そして扉の上には必ずよくわからない字で書かれた看板がネオンのような光で光っていた。扉だけじゃない。落書きも多かった。読めない文字、気味の悪い絵、斜線で描かれる光、小さな大量の者たち。それらが静かにわたしを待ち伏せしている。
臭いもひどかった。一度嘔吐いて壁に立ち止まった。薄い肌色のゴミ袋にぱんぱんに詰まったゴミが道に適当に放り投げられていた。ゴミ袋に入っているならまだしも、生もの、たぶん生ものが、地面や壁にまでべったりと張り付いていた。おそらく、みんなそれぞれの扉からゴミをここに不法投棄してるんじゃないかなと思った。
そんなうるさくて静かな道をひたすら中枢に向かって歩いていった。
かろうじて見える廊下の隙間の空からは、もうすぐで日暮れだと教えてくれた。
また夜がやってくる。
街灯なんてなくてもそこら中のネオンで明るかったけれど、夜こんな劣悪な場所で寝たくはなかった。
「せめて上に登れればなあ。」
ひしめく廊下を見上げた。でもそれは簡単な話じゃない。たくさんの廊下の上に廊下があって、その上にも・・・。
まあ、周りの環境は頑張って呑み込んだとしても、夜になったら何が出てくるか、わかったもんじゃない。そこが一番恐かった。
この広い道路もまた恐かった。おそらく、この道をもうまっすぐに進んでいくだけで、中枢区に向かえるだろう。それはいいけれど、このだだっ広い道路の隅っこに、ビルに沿って歩くわたしをどこかで誰かがじっと見つめてはいないかと恐くなる。後ろを急に振り返ってみても誰もいないけれど、また前を向くと背中の後ろに誰かが立っているような気がして、また急いで振り返る・・・。勝手に恐怖を増幅させてしまう。
しばらく歩いていると、重そうな扉が強引に閉まられたような、乱暴な音がどこからか響いてきた。
歩みを止めてじっと耳を澄ましてみる。響いた音はそれきりだった。
再び歩きだした。なにかがマズイ気がしてきた。
それから何度か扉の開く音が聞こえた。それでも遠くの方だけだった。
延々と歩き続けた。あれだけ嘔吐いていた臭いにも鼻が慣れ、この場所自体にも慣れ始めてきていた。生ゴミが散らばる環境で平気でサンドイッチを食べた。鼻がマヒしていて味はよくわからなかったけれど、よく噛んで食べた。
そうしているうちに、疲れがじわじわと押し寄せてきていた。脚を前に出す作業が億劫になり、自然とスピードが落ちた。それでも、そこら中に新鮮な生ゴミや古い生ゴミがへばりついているため、休憩するどころか、壁に手をつくことすらできなかった。
大きなあくびをして立ち止まった。もうだめ。もう寝たい。あたりをあちこち振り返って少しでも寝れそうな場所を探したけれど、汚いゴミがそこら中にへばりついていてさすがに横になることは今のわたしでもできそうになかった。
道路の先をみやった。ゆるやかなカーブを描いて、まだまだ先まで続いているようだった。
ふっと後ろを振り返った。
がらんとした通りが眩しい扉まみれの壁に挟まって底なしの道のようだった。
また始まった。鳥肌が立つ。気のせいなのに、一旦何かがいるように感じてしまうと自分でその恐怖に引きずり込まれていく。
「もういや。」
ぎりぎりまで張りつめようとしていたものが伸びきってしまった。もう、どこかの扉に入ろうと思った。地上近くにくっついた扉で、できればあのおばちゃんの店の扉と同じようなやつがいいな。
道の反対側も睨みながらしらみつぶしに探してみても、なかなか見つからなかった。あったことはあったけれど、扉が小さかったり、とりわけ臭いゴミがへばりついていたり、不気味な落書きがされていたりと、入るにはためらわれるものばかりだった。
それからどのくらい経ったか、脚の疲れも喉の乾きもお腹の減りもなにも感じなくなった頃に、ようやく入れそうな扉を見つけた。
くすんだ白い扉でシンプルな長方形の扉。ネオンもない。ゴミもついてない。落書きもない。大きさは子供の背くらいしかなかったけれど、地面と接地して扉があるのは珍しかった。
なにより、その扉にはちゃんと取っ手がついていた。他の扉にはない、外の者を歓迎する徴があった。わたしにとって、それはおばちゃんのお店にもあった、蛍光灯と同じ作用を持っていた。
まあ、おばちゃんも半ば冗談で、まさかと思って付けていたみたいだったけれど。
しばらくそのままぼうっと突っ立っていて、このままここにいても意味ないやと我に返った。あたりを見回して誰も見ていないのを確認した。
取っ手を回してぐっと押した。
ガチャンと大きな音がなって、息を吹き返したような風を起こして扉が開いた。
ゆっくりと扉を開けていく。少しずつ空間が現れる。灰色の通路が見えた。明るい蛍光灯が眩しい。少しずつ奥が見えていく。少しずつ、少しずつ・・・。
手が止まった。
なにかがこちらに向き合って立っていた。
わたしは取っ手を持ったまま固まった。
灰色の狭い廊下の突き当たりに、真っ黒な子供がこちらを向いて立っていた。黒いというより、闇に近い。口は大きくタコのように突き出していて、髪は後ろにきゅっと束ねられていた。全体的に前に尖った顔の形をしていた。そして同じように真っ黒な、長方形のサングラスをかけていた。手は後ろに組まれ、わたしをじっと見ていた。
不気味だった。工事現場の公園にいたあれを思い出した。
「入りなさい。」
低い声でそう言われて自然とわたしの体は従った。屈んだまま廊下に入っていく。
「おじゃまします・・・。」
礼儀だけでも伝わって欲しいと思って顔を見ても、サングラスからは何も読み取れなかった。
どぉんと重い音を立てて扉が閉まった。
それはわたしから目をそらして、手を後ろに組んだまま、突き当たりの廊下を右に曲がった。
天井に頭を打たないように注意しながらあわてて後を追いかけた。
角を曲がると、狭い廊下に繋がって小さい部屋が現れた。
淡い灰色の部屋で、高さはわたしの背よりも少し低い。おそらく完璧に立方体な部屋に、格子に入れられた蛍光灯が部屋の六面すべてに嵌め込まれていてほの明るく光っていた。
部屋の真ん中には同じような色の長方形のテーブルがどんと置かれており、そこに雑然と工具や回路基板やケーブル、そして書類で埋もれていた。
まるで秘密基地のようだった。
「入りなさい。」
廊下に突っ立っていたわたしを部屋に招いた。
黒いそれは椅子に座っていた。テーブルを挟んで二つしか椅子がなかったから、仕方なくもう一方の椅子に座った。
ちょうど向き合うような形になって、それも狭いから、余計に妙な圧迫感と恐怖感が増してしまう。さっき隠れていた腕の部分には肘から肩の辺りまで吸盤のようなものが小さく並んでいた。
思わず顔を反らして部屋を見渡していても、その間ずっとこちらを見ていた。
気まずくなって、いよいよ顔を合わせると、相手が口を開いた。
「なんの用だ?」
「え・・・。」
なんでわたしに聞いてくるんだろうと思ったけれど、そういえば自分でここの扉を開けたんだった。
「あ、あの、少し疲れているので、ちょっと、休ませて頂ければ・・・。」
言いながら、やっぱりここはやめようという気になっていた。こんな狭い部屋じゃ横になって寝れない上に、得体の知れないものが側にいて安心して寝れるわけない。
失敗した・・・。心の中でそう思った。
おいしい異文化
「本当にそれだけか?誰からここを聞いた?」
「はい?いえ、たまたま見つけて入ってしまったのです。」
なんだって?こんなに疲れてるのに、他に理由なんてあるはずないじゃない。そもそも、誰かって、ひとりぼっちのわたしに紹介してくれる誰かなんて誰もいないよ。
何かが、引っかかる言い方だったけれど、今はもうどうでもよかった。早くここを出て、次の扉を探さないと。
「そういうことなので、変なところに入ってしまって、ごめんなさい。じゃあ、お邪魔してすみませんでした。」
そういって軽く礼をして、椅子から立ち上がった。天井が低い。
「変なとこで悪かったな。おまえ、本当に何の用もないんだな?」
変な言い方だった。何か用があってこんなとこにくるやつなんているんだろうか。
わたしはうんと頷いて、そのまま出て行こうとした。
「おい、どこ行くんだ。」
嫌な予感がした。
「どこって、外に行くんですよ。」
「だから、外に行ってどうするんだって。」
「どこか寝床でも探しますよ。」
一刻もはやくここを出たかった。とにかく、相手が真っ黒なのが恐かった。
「馬鹿か。あるわけないだろ。お前、いま何時だと思ってる?あと少しで・・・、なんでこんな時間にほっつき歩いてるんだ?」
「別に、何だっていいじゃないですか・・・。」
寝床なんてあるわけない。ここの人にそう言われたら、ほんとにないんだろうな。細い糸が切れた気がした。体が急に重くなってきた。
「寝るだけだな?お前、本当になんの目的もないんだな?」
こっちの台詞だわと喉までこみ上げてきた。なんでわたしが疑われなきゃいけないのか意味が分からなかった。強盗だとでも思っているんだろうか。もうこんな話はやく終わらせたい・・・。
「ええ・・・。」
あたりがぼうっと暗くなったような気がした。
ああ。
限界が来た。タイミングが悪すぎるぞ、わたし。
「なら、一晩だけなら泊まらせてやる。奥に部屋がある。そこを使え。」
声がわんわん頭に響いて何を言っているか・・・。
暗く深い海の底から眩しい水面へと泳いでいくようにゆるやかに目が覚めていった。
はっとして跳ね起きた。あたりを見回すとそこは倉庫のようだった。相変わらず同じ灰色の棚が整然と並び、その廊下に寝かされていた。下を見ると薄いピンクの毛布が敷かれ、白く分厚い布が体に掛けられていた。
棚には机と同じようにいろんな工具や器具が置いてあった。
ゆっくりと起き上がった。天井が低い。
いったい何時間経ったんだろう。だいぶぐっすり寝れた気がする。
扉を開けると、さっきの立方体の部屋に出た。
黒いのが椅子に座り、サングラスの代わりに細い縦長のレンズをかけて何か作業をしていた。
「おはようございます。」
「おはよう。ぐっすり寝たな。」
「どのくらい寝てました?」
「一日半だ。」
一日半。わたしの傍をあっという間に時間が通り過ぎていく。やっぱり、おばちゃんの店でも、完全に疲れがとれたわけじゃなかったんだ。
それでも、今はだいぶしゃっきりとしている。
「あ。」
そう言って黒いのは手を止めて立方体の別の側面にある扉を開け奥に消えていった。扉がゆっくりと閉じた。
しばらくすると、
「おい。扉を開けてくれ。」
と向こう側から聞こえてきた。仕方なしに取っ手を回してやると、両手に大皿二つぶん、食事を持って立っていた。
「腹減ってるだろ。」
うんと黙って頷いた。持ってろと言われ大皿を手渡された。その間に黒いのはテーブル上の散らかった物を隅っこによせてなんとか二人分のスペースを作った。普段からここでご飯食べてるのか・・・。
皿を眺めてみると、よくわからないものがぎっしりと詰まっていた。知っている食べ物と微妙に違う。
またこの感覚だ。似ているけれど微妙に違う。
例えばこのエビだかカニだかに似ているもののフライ。何フライだろうこれ。脚がめちゃくちゃある。例えばこの紫色のつぶつぶした豆腐に似た何か。すごいつぶつぶしててぞっとする。その他野菜なんかも、絶対にキャベツでもレタスでもないとわかるけれど、すごく近いものの千切りや、断面に豹のような黒い斑紋のあるトマトだったりがあったりした。とにかく、皿の上には異文化が盛り盛りだった。
つまり、おもてなしということだ。
昨日の深夜、不法侵入した上に不躾な態度を取ったわたしに。
いったい何回お世話になるんだろう。わたしなんかにこんなにしてもらって、この旅にそれに見合う意味はあるんだろうか。
「おい、出来たぞ?」
不思議そうな顔でこちらを向く。気づけばまたサングラスをかけていた。もう、黒いことやなんかに対して恐怖感はなかった。
「はい。」
「いただきます。」
あらゆる料理を躊躇無く食べた。たくさんの脚が口の中で跳ね、豆腐のつぶつぶが口の中でうねったけれど、半ば期待していた通り、味は格別だった。
「おいしい。」
話す時間がもったいなくて最低限しか言えなかった。ひたすら食べた。だされた水もごくごく飲んだ。水は普通だった。
「よく食べるな。」
顔を上げると小さい腕を組み感心した様子でこちらを見ていた。
「普段はこんなんじゃないんですよ。ただ旅で疲れてて・・・。」
「旅って、いったいどこから来たんだ?田舎か?それに、あんたあれがついてないね。」
そういって顎で顔の方を指した。
「あなただってついてないじゃないですか。」
そう言って顎で顔の方を指した。
「そりゃあお前、俺は・・・。」
と笑った瞬間口をつぐんだ。
「お前、本当にどっから来たんだ?」
話せば長くなる。それでも、出来るだけ簡単にいままでの道のりを話した。白いピースの話はやっぱり伏せた。その間、相づちを挟む事も無く、黙って聞いてくれた。
「ひゃー。」
話し終わると、そう言ったきり俯いて黙りこくってしまった。
それから暫くの間お互い何も言わなかった。
「それで、どうしたいんだ?これから。」
わたしにもわからなかった。ただ、どうしてか新天地の中枢に行く必要があるような気がしていた。
「中枢か・・・。」
苦笑いしながら反復した。
「なんですか?」
「いや、難しいなと思ってな。ここからじゃ行けんぞ。」
「行けない?」
「ああ、上に登る必要がある。」
上。上層部。新天地の美しい本当の姿。
会社のトイレで見た、あのビルたち。
とうとうその時が来た。
行きたい。行ってみたい。
「でも、パスポートがないと・・・。」
「そうだな。」
そういってにやりと笑った。さあっと世界が開けていくように、自分の瞳孔が開いてゆくのがわかった。
「なにかいい案でもあるの?」
カチリ、新しい時代の音
見ての通り、俺は技術者だ。新天地の技術者って言ったら、たいそう重宝されて、給料もいいってもんじゃないくらいだ。ただな、あいつら、あの空の監獄に閉じ込められて人生が仕舞うまで働き詰めなんだよ。実はな。俺もそうだった。欲しい物はなんでも手に入ったけど、まあ、ふわふわしてたんだよ。文字通りな。いったんそのふわふわが嫌になっても、逃げられる事はできん。優秀な人材に加えて、機密事項をしこたま頭に抱えたやつなんて、どっかへ行かせることなんてできるわけないからな。
でも俺はここに堕ちてきた。
本当に落ちたんだ。天空のトイレの窓をぶち破ってな。
ありゃあ、最高の景色だったな。今でも鮮明に覚えてるよ。
俺はあの時世界を一望できた。風を浴び、太陽の日差しに刺されながら、天と地が交わる果てまでを見た。
不思議なことに、思い切って飛んだ時、新天地以外に世界が広がってるって、初めて気づいたんだ。馬鹿だなあって思ったよ。いっつも同じ景色を見てるはずなのに、本当は全然違ったんだ。
なに?いや、落ちても平気だ。俺の身体は丈夫なんだ。そういう種族なんだよ。
えーと、それでだな、この底辺に落ちて、俺は細々と稼業を続けててな。依頼されるものなら何でも作る。何でも屋って感じだな。武器以外ならなんでも作る。そうやってお客が世界と関われる武器を作ってるんだ。
「そして、パスポートもな。」
「作れるの?」
「話を聞いてなかったのか。俺はあのクソ天国にいた技術者だぞ。パスポートくらい朝飯まえさ。」
「ほんとに?すごい!」
「まあまあ、ただ、朝飯まえなのはちょっと言い過ぎで、少し時間がかかる。二、三日必要だ。昨日から取りかかってるから、明日か明後日には作れるはずだな。」
すごいなあと思った。わたしが必要なものを昨日から見越してたのか。
「その間どうする?」
それからパスポートが出来上がるまでは素敵な日々だった。恐ろしくて外には出れなかったから、というかここの居心地が良かったから、ずっとここにいた。食器を洗ったり、洗濯したり、掃除をしたり、食事を手伝ったり、ここに居させてもらう最低限のことはした。それ以外の自由な時間は、ここにあるたくさんのおもちゃで遊んだ。頭に被るディスプレイだったり、対話できるマシンだったり、小型犬のロボットや、その他使い方すらわからないものが倉庫も含めてたくさんあった。面白そうなものを取ってきて、一通り遊んで、時には使い方を教えてもらって、そうやってごろごろと一日を過ごした。
時々お客さんが来ることもあった。客が来ると出口に一番近い蛍光灯が淡いピンク色に変わる。わたしもそれで知られたんだ。ピンクに変わると無言で倉庫の方を顎で指す。わたしは黙って頷いてそっと倉庫に隠れる。最初の頃はどきどきした。会話がところどころ聞こえてきて、「なんかよお、おめえの家、変な臭いしねえか」とか言っている気がして、その度に息を止めて存在を消した。甲高い声や低い声いろんな客が来たけれど、柄の悪そうな奴らばっかりだった。
「こんなところに柄のいいやつなんて居るわきゃない。」
と言われた。
「恐くないの?体小さいのに。」
「余計なお世話だよ。俺、頑丈だって言っただろう。本当に、なにされても大丈夫。あいつらも手を出すだけ無駄って知ってるんだ。」
驚いた。そういう生き延び方もあるんだ。
そうしてわたしはごろごろし、彼はパスポートを作った。技術的なことを聞きたくて、結局は白いピースのことについても話した。話を聞くと彼はペンシル型の機械を置いて、腕を組んで中空を見つめた。
「うーん。」
「疑ってる?変な物やってないよわたし。」
「ほー。そっちにも変な物ってあるんだな。ここいらのはやばいぞ。死んでなお体が生き続けるくらい強力なやつがあるんだ。でも、そういうのは聞いた事ないな。」
「技術的にも無理?ここなら人の頭の中をいじれる何かありそうだけど。」
「いや、あるっちゃああるが、そこまでクリアに制御できるもんかね。」
「上で新しく開発したのかも?」
「まあ、絶対ないとは言い切れんが、新天地からそんなに遠く離れた場所の検体を選ぶとは思えないんだな。あいつら、プライドが自分のいるとこと同じくらい高えから、新天地しか興味ねえんだよ。それに、ここから、あんたのいた場所まで相当距離があるだろ。そこまで何か信号を送ろうとすれば、相当でかい増幅装置がいるだろう。まあ、でかくなるのはそこにいれる石だけどな。」
「石?」
「ああ、石というか、宝石かな。紅い宝石だ。宝石としての価値も高いから、みんなこぞって欲しがるんだ。確かにあれは本当に美しかった。俺もあそこにいた時にこんなにちっちゃいそれを実験で使ったことがあるんだが、実験のことなんて忘れてこの石と暮らしたいって思ったほど魅力的だったんだ。恐ろしいほどな。こんなひとかけらで、実験施設を何個も買えるくらい高いんだな。これが。」
彼は何度も親指と人差し指を近づけて細い隙間を作った。
「ただ、新天地に来てから、急になくなったってのが妙だな。ただ、うーん、やっぱりわからん。」
「そっか・・・。ありがとう。」
いつものように倉庫で眠っていると、肩をとんとんと叩かれて目が覚めた。思い瞼を開けると、煌々とした明かりに照らされて彼がわたしを見ていた。
「できたぞ。」
「いいか、あんまり時間がない。パスポートの証明書は半日ごとに変わるんだ。つまり・・・」
彼は腕時計を見た。腕時計なんて着けてたっけ。眩しくてよく見えなかったけど、ラバー状の黒いベルトが生えている黒い時計のようだった。よく見ると、いつもと違う服装だった。全身真っ黒だけれど、工事現場の人達が着ていたような、すこしだぼだぼの服を身にまとっていた。
「・・・おい、聞いてるか。最大まで時間が使えるように、今さっき作ったばっかりだから、あと十二時間弱ある。」
彼はわたしを見た。
「それまでに中枢へ行け。」
わたしは彼の顔を見たままうんと頷いた。駆け足で別れのときが近づいてくる。パスポートなんてもういらないのに。ここにいるだけでいいのに。ここが旅の目的地でもいいのに。そう喉まで出かかったけれど、彼の決意に満ちた顔、わたしが出て行くのに、なぜか彼が一番緊張していた、その顔を見ると、言い出せなくなってしまった。
「おい、起きろ!時間がないぞ。さっさと着替えろ。途中までは送ってやる。それまでに上の仕組みを全部教えるから、頭に叩き込んでおけよ。」
そう言って扉をばたんと閉めた。わたしは何も言わずそれでも一応急ぎながら彼お手製のパジャマを脱いだ。ぱさっと脱ぎ捨てると、扉の隙間から漏れ出た光が暗闇の中わたしの身体をほの白く光らせた。白く伸びた手先と脚を眺めるとどうにもわたしの身体が女っぽくてしてしかたなかった。わたしの身体がここに居たがっているような、何かを惹き付けようと、惹き付けたいと思っているようだった。
落ちた前髪を指で耳にかけ、ゆっくりと服を着た。
扉を細く開けて、外の様子を伺う。
「大丈夫だ。」
そう言って彼が先に外へ出た。わたしは最後に小さな部屋を見回した。扉が開いている時も、入り口の蛍光灯は淡いピンクに光っていた。狭い部屋だったけれど、明るくて楽しくて、温かかった。素敵な場所だった。
背を屈めながら、ここへ来た扉を再びくぐった。
外に出ると、思ったよりも空気が冷えていた。ぶるっと震えると、
「大丈夫、これから死ぬほど暑くなるからな。」
といってにやりと笑った。
太い道路を駆けるわたしのスピードは遅かったけれど、一歩の歩幅は彼の倍あったからちょうど良かった。
「上に行く道はたくさんある。そこの梯子からでも、向こうの梯子からでも行ける。でも直接上の方まで続いてるのは結局は一つか二つに絞られる。中層が一番やっかいなんだ。梯子の迷路だ。しかも入り組んだたくさんの隙間にいろんなやつが巣食ってるからな。最悪だよ。」
たったったったと静かに足音が響く。
「いいか、パスポートにつきっきりだったもんだから、上のこと何にも教えてなくてすまない。いいか、上ってのはとにかくこことは全然違うとこなんだ。何もかもが新しく、そして常に変わっていく。ルールも、システムも、人も。あいつらの言葉を借りれば、常に上昇しているんだ。この新天地のビルみたいにな。だから、」
「えっ?ここのビルが上昇するって?」
「言ってなかったか?ここのビルの真っ黒な石、あれは成長してるんだ。誰もどこから伸びてるかわからない。でも確実に伸びてる。俺が上にいた間で階段一つぶん伸びたな。不気味でしかたなかった。」
このビルの骨格は自分たちで作ったものじゃなく、自然に出来たものを利用してたんだ。ここは。新天地のあの景色は石が成長して勝手にできたってことか・・・。
「あそこにはいろんなやつがいるもんだから、そこまで変な事をしない限り怪しまれることはない。ただ、独特の雰囲気というか、暗黙のルールみたいなのがあるんだよ。あそこには。あいつらは絶えず上昇したいわけで、どんなにいろんなやつがいたとしても、その点は気持ち悪いほど同じなんだ。あちこちにそういう雰囲気がはびこってる。」
「なるほど。それを心掛けれて振る舞えばばれにくいわけね?」
「そうそう。ちょっと気分悪くなるかもしれんが。まあ、ある程度は我慢しないと。金はパスポートにある程度入れておいた。ほとんどがただで飲み食いできるんだが、そんなやつはいないんだ。」
「なるほどね。ありがとう。」
いつかこの借りを返すよ、と言いたかった。
「ここだ。やっとついた。」
上を見上げると、幾重にも入り組んだ廊下を絶妙にすり抜けるように隙間がぽんと空いていた。その全くの虚空に、ぱちぱち光る白い粒がたくさん張り付いていた。
「・・・あ、星だ。」
久々に見た星空に向かって、点になるまで梯子が伸びていた。
「え、これ、ずっと上まで続いているの?」
「ああ、そうだ。たくさんの廊下をすり抜けてここまで到達してるんだ。」
「さあ、登るぞ。」
「えええーー!?」
「登れないよ!」
「仕方ない。ここしかないんだから。」
そう言って彼は小さい手を上げてやれやれとして、何も言わず先に登り始めた。
「あ、そうだ。」
そう言って登りかけた梯子を降りてわたしの傍へやってきた。
「なに?」
「ロープで結んでおく。万が一梯子から滑っても大丈夫なようにな。」
本当に登るんだ・・・。ぐいっと首を上げてもう一度見上げた。相変わらず星が瞬いている。とても綺麗だ。
「うん。わかった。」
運命共同体というやつか。彼にわたしを捧げよう。
彼の吸盤
手を上げて少し抱きつくような格好にすると、彼はわたしの腰に小さい手を回して、わたしたちをロープで結んだ。
「じゃあ、行くぞ。ロープがぴんと張らないようについてこいよ。」
真夜中の冷えた鉄にしがみついた。梯子に渡された鉄棒は細く、身体を傾けると簡単に折れそうだった。
滑るような速さで上へ上へと登っていった。規則正しいリズムで一歩一歩上がっていく。入り組んだたくさんの廊下を下から見上げ、そして見下ろしていった。
いつも下側しか見た事のなかった廊下の上側は透明の半球ドームに覆われていて、ほの青く光るまっすぐな直線が二本、道に沿って流れていた。
「ねえ、これ、こっちから見えるってことは、向こうから見てもわたしたちばればれなんじゃない?」
「まあ、そうだな。元はビルがここまでしかなかったから、みんな上を見上げて空を見てたりしたんだ。ビルの成長に伴って廊下を作って、さらにその上にも、ってな具合で、このへんならもうなにも見えないから、今は誰ももう上を見上げんよ。」
それでも誰かがふと気配を感じて振り返るようにこっちを見はしないかとひやひやしたけれど、そもそも誰も廊下を通らなかった。
もうどれくらい登ったんだろう。規則正しく登り続けるのが難しくなっていた。手足が重く、掴まっているのがやっとだった。
自分のペースで登っていると、ロープがぴんと張った。
「おい、大丈夫か?」
少し遠くの方で彼の声が聞こえた。
「だいぶ疲れた。」
一番辛いのは休憩ができないことだった。一休みということでしゃがんでゆっくりしたかった。ここじゃ止まっているだけでも力を消費してしまう。
「あとちょっとだ。」
そのとき風がびゅうっと吹き込んできた。
この穴の真上からどんと落ちてきたようだった。重い風に必死で耐えながら、あとちょっと言った意味が分かった気がした。
あとちょっとと言いながらも、また気が遠くなるくらい登り続けた気がする。それでもペースを緩めずに登り続けた。少しずつ空気が新鮮になっていくのが肌でも感じられた。
梯子を登っていた彼の足音が突然小さくなった。
上を見上げると、脚を掛けてどこかへ降り立とうとしていた。
彼が真上からいなくなると、ほの明るい空と、梯子の終点が見えた。
いよいよだ、そう思った。これからだと。
あと少しなのに、梯子を握る手に力が入らない。上へ進むのを拒否するように腕が震える。わたしは俯いて歯を食いしばりながら登った。
梯子に手をかけた時、冷たい風が手の甲を撫でた。見上げると、空がすぐ近くに迫っていた。
もう体はなにも感じなくなっていた。そのまま梯子を登ると、ようやくこの長いトンネルを抜けた。俯いた顔を上げると、彼方まで広がる世界にわたしは包まれていた。
空はいっぱいに広がり続け、遠くから金色の光が零れ出していた。遥か遠くまで空と地が続き、最後にはそれらが交わって線になっていた。こんなに美しい光景を見たことはないと思った。太陽の光に刺されながら涙が出てきても、それでも目を見開いて全てを焼き付けた。
「ちょうど夜明けに間に合ったな。」
彼は漆黒の石でできたビルの屋上にいた。わたしも脚を掛けてそこへ降り立った。脚が限界まで疲れていたからその場で崩れ落ち、仰向けに横たわった。
屋上といったものの、本当の屋上はまだ上で、ちょうどこの地点でビルがくびれて、ここから梯子が続くこの一部だけがまだ伸びていた。梯子はその本当の屋上まで、延びていた。
そして、その屋上から一本の渡り廊下が生え、横に伸びていた。
ずうっと辿っていくと、今いる高さよりも、何倍も高い一本の直立したビルに向かって延びていた。ここだけじゃなく、周囲にぽつぽつと生えている他の背の高いビルからも、廊下がその一番高いビルへ延びていた。
「そう、あれが中枢区だ。」
わたしの視線の後を追って言った。
「あそこにいたの?」
「うん。あのてっぺんあたりだな。」
「・・・すごいね。」
しかし、本当に凄い光景だった。今いる場所でさえ、体験した事のない高さだった。雲なんてわたしたちよりも全然低い場所に浮かんでいる。それなのに、まだその何倍も高いビルがあるなんて。
「でも、ずいぶん遠いね。」
とてつもなく巨大なのは遠目から見てもわかるが、遠目から見て大きさがわかるくらい、遠い場所にあった。透き通ったこの朝でさえ、少し霞んで見える。
「ああ、だから、歩いて中枢に行くっていったときは、たまげたな。」
わたしもたまげるね、と言って笑い合った。こんなに高い場所で笑っているのも面白かった。声が空一面に発散してゆく。
「あれ、見えるか?」
そう言って真上の廊下を指した。
「あれに乗っていけば、すぐ着く。歩きなんかよりも断然速い。」
ぼうっと廊下を眺めていると、不思議なことに気がついた。
「あれ、あそこまでどうやっていくの?」
確かに、廊下の付け根あたりの真下、こちらが見上げてちょうど見える所に小さな正方形の扉らしきものが付いていた。もちろん閉まっていたけれど、問題はそこだけじゃなくて、梯子がそこへ続いていないということだった。四角く伸びるビルのうち、廊下の生えている面と反対側に梯子は伸びていた。
「ここからが本番だな。」
寝転んだまま彼を見上げた。
「どうするの?」
「鍵は持ってるんだ。」
そう言ってポケットから自転車の鍵みたいなのを取り出した。
「でもどうやってあそこまで行くの?」
「そうだな、この吸盤を使ってみようと思う。」
そういって彼は二の腕に生えた吸盤をそっと見せた。
「ただ、やったことないけどな。こんな吸盤で自分の体重、支えられるもんかね。」
「それで、ここまでわたしを連れてきたの?」
「それでって、そんな考えでってことか?ああ、もちろんだよ。」
「もし出来なかったらどうするの?」
「この梯子を降りるしかないな。まあ、俺は飛び降りればすぐだが。」
「・・・マジ?」
「なんだそれ?」
「・・・・ほんとに?」
「ああ、だから今から本番なんだ。まあ、頑張るから、見といてくれよ。」
そして彼が再び梯子に手をかけるのをぼうっと眺めていると、早く来いと言われた。
「見といてくれって。」
「傍でって意味だよ。」
梯子を登るのは、もしかしたら今まで以上に大変だったかもしれない。少し休憩できたとは言え、腕はまだぷるぷる震えるし、なにより、自分がいまどこにいるかがはっきりわかるのが怖かった。おまけに風が強く、そして冷たかった。手がかじかんでしっかり掴めているかさえよくわからなかった。でももう、進むしかなかった。それしか頭になかった。
「よし。着いた。」
少し時間が経ってわたしも彼に追いついた。下を見るとさっき休憩していた場所が小さく見える。見上げた時はそうでもなかったのに、案外高さがある。手のひらにじわっと汗がにじんだ。
「よし、ロープを外すぞ。」
わたしと彼とを結ぶロープがほどかれる。いま梯子を握りしめるわたしは、また世界でひとりぼっちだ。
彼はほどいたロープを梯子に括り付けると、結び目を何度も確認した。
「別に死ぬ訳じゃないが、落ちたらまたここまでこなくちゃいけないからな。」
二の腕の吸盤で張り付いて扉の下までゆき、鍵を開けて中に入る。次にロープの結び目を解いてわたしの体に括り付ける。その状態で梯子から飛び降りるとくるっと反対側へ回って扉の真下にぶら下がる形になる。あとはわたしがロープを辿って登っていけばいい。
そういう計画だった。
「文句あるか?」
死んだ目をしているわたしにそういった。
「たぶんないです。」
「よし。なら行くぞ。」
梯子から身を乗り出して真っ黒な腕をできるだけ縦にして壁にくっつける。ゆっくりと体重を傾け、ぽんと足を離した。
「お。」
「やった!」
彼は二の腕の吸盤に支えられて壁に張り付いていた。
「いや、だめだ。」
吸盤はゆっくり剝がれていった。彼はその様子をじっと見つめていた。そしてずるっと滑った瞬間、彼は落ちていった。
ロープがぴんと張り、梯子全体が揺れる。彼はロープに引っ張られて梯子に衝突するような形になり、再び離されないよう必死でしがみついた。
「大丈夫?」
「大丈夫。」
再びわたしのところまで戻ってくると、
「いけるかもしれない。」
と彼は言った。
「ビルの壁と相性がいいんだ。壁がつるつるなおかげで、ちょっとの間ならなんとか持ちそう。」
じゃあ、本番だな、と言って腕を接着しためらいなく足を離した。
べりべり腕を引き離しながら移動する様は不思議な光景だった。彼がいなかったら、今頃わたしはどうなってたんだろう。
そのうちに彼は裏側に回り姿が見えなくなった。移動するのは大丈夫そうだったけれど、あの状態で鍵を開けられるだろうか。廊下のすぐ下側にある扉までは、彼の手を伸ばしてぎりぎりかもしれない。
それから長い時間が経った。ロープは横に伸びたまま、時々揺らいでいた。太陽は今や完全に地平線から離れ、ちょうど私の背中のすぐ後ろにいた。時々吹きつける強風で飛ばされそうになった。
不安で、静かな時間が流れた。
痛みのない別れ
ロープがぴんと張った。はっとして思わず掴んだ。
ロープはそのまま横に伸びていた。再びぴんとはった。今度は二度。
ごくりと唾を飲み込んだ。成功したんだ。彼は無事廊下に入れた。あとはわたしが向こうへ行くだけ。一番難しい所はもう終わったんだ。
そう、一番難しい所は終わった。道は開けてるんだ。そう言い聞かせた。
心なしか、さっきよりも風が強くなっている気がする。横に張ったロープが大きく揺れる。ロープは一本しかないから、わたしは命綱なしでここを渡らなくちゃ行けない。
「大丈夫。」
どう考えても大丈夫ではなかった。風は強く、手は汗でぬめり、腕も限界だった。
「やっぱり無理だよ!」
風にかき消されないように大声を上げて彼に言った。何も返ってこない。
「ねえ!」
ロープがもう一度ぴんと張った。聞こえているのか、それとも急かしているのか、わたしにはもうわからなかった。
ぐうっと恐ろしさが沸き上がってきて、梯子を握りしめたまま目をぎゅっと瞑った。
そして、ゆっくりと目を開けた。進み続けるしかないんだ。こんなところまで来てしまったわたしには、もうそれしか残っていないんだ。
試しに梯子に乗せた足を離した。ぶらんと垂れ下がり、手だけで体全部を支える。案外大丈夫だった。再び足を梯子に乗せて、片手ずつ服の横で汗を拭いた。
「よし。」
固い結び目を解くのも一苦労だった。片手で梯子を握りしめながら、もう片方の手で少しずつ結び目を解いていく。
ようやく緩まってきたところで、体を傾けてロープを梯子の手すりに抑えながら慎重にほどいた。万が一失敗して解けた時に手を離すとロープだけが向こうに行ってしまう。
梯子から完全にロープが離れた。もしいまこのロープを手放せば全てが終わる。
次にロープを胴体に巻き付けようとした。そうすれば飛び込んだ衝撃で手が滑っても大丈夫だろうという計画だった。でも片手で梯子を持ったまま、自分の体に巻き付けて固く結ぶなんて芸当はわたしにはできなかった。
もういいと思って、できるだけロープを繰り、ためらいなく梯子から飛び降りた。
落下と同時に裏側まで回されたロープに引っ張られ遠心力で限界まで腕に力がかかる。予想以上の速度と回転に向こうまで着いた時に耐えられないと察した。
世界がぐるんと回り、勢いが止まらず反対側をさらに超えてわたしはビルを飛び出した。
あっと思う間もなく壁に衝突した。体全体が重い衝撃を受け、予想通り衝撃に耐えられず握ったロープがずるずると滑り出した。真下は何も無かった。
お願いだから止まってと願いながらずるずると滑る手に力を入れ続けた。
それから何度か振幅した後、わたしは扉の真下にぶら下がっていた。あと数センチ。それでわたしの旅は終わっていた。体は完全に宙に浮いていた。
上を見上げると黒い顔がこちらを向いていた。
「やった・・・。なんとか耐えたよ。」
「いま引っ張るから待ってろ。」
十センチずつか、それぐらい、少しずつ、それでも着実にわたしは引き上げられていた。腕はもうとっくに限界だったけれど、そんなことはもう平気だった。一番大変な時はもう越えたんだ。
ロープにしがみつきながら、わたしはとうとう、中枢区へ繋がる廊下に入っていった。
「はあ、はあ、さすがに疲れたな。」
わたしと彼は廊下に敷かれたふかふかの蒼い絨毯に横たわっていた。
「よく扉開けられたね。」
「鍵は開けられたんだが、扉を開けるのがね。飛び込んで無理矢理入ったよ。」
「ええー。痛くなかった?」
「頑丈だからな。」
二人で息を整えていると、
「さあ、もう行かないと。時間がないぞ。」
そう言って彼は黒い腕時計を見た。
「もう少ししたら、あそこからたくさん人が来るからな。見つかったらまずい。」
廊下が延びる反対側を指した。それは梯子が掛かっていた細く四角いビルの中身だった。
初めて漆黒のビルの中身を見た。内側も漆黒の石のままで、廊下の半球ドームから届く太陽の光に照らされて薄明るい。四角い部屋の中央に、蒼い光の完璧な円に縁取られて、ぽっかり穴が開いていた。
「あそこから上がってくるの?」
「そう、次々とくるんだ。まあ、向こうにもあるから、乗ってみるといい。さあ、本当に時間がない。もう行け。」
わたしたちは延々と続く廊下を見た。
ここに這い上がって来たとき真っ先に目に飛び込んできたのが、この銀色の機械だった。廊下の傍に置かれたそれは、どう見ても自動改札機だった。
「わたし、これ知ってる・・・。」
「そっちにもあるのか?少し前まではもっと複雑だったんだが、いかんせん一人認証するのに時間がかかるっていうんで、こんな簡単なやつになったんだ。おかげで、パスポートを作りやすくなったってもんだ。」
「こんな大事なところ、簡単になっていいの?」
「その代わりに、半日でパスポートを更新する羽目になったんだ。だから、今日の昼まで。あと六時間弱しかない。」
昼になるまでに、全てを終わらせてくるんだ。彼はそういった。まるで昼のシンデレラだな、と思った。わたしがシンデレラというのもおかしいけど、昼というのも色を持たないわたしらしい。
「パスポート持ってるか?」
わたしはポケットから取り出して掲げた。
「よし、使った事あるんなら、わかるだろ?かざせばいいだけだ。廊下は、突っ立ってるだけで運んでくれるから、大丈夫だ。向こうに着いたら、あとはなんとかなるだろう。まあ、よく、ここまで来れたな。」
いまだに足ががくがく震えていた。腕もパスポートすらずっと持っていられないくらい限界だった。これからも、これからが大変なのに、わたしはもう、そんなこと全てがどうでもよくなっていた。
「ここでお別れなの?」
「ああ、そうだな。俺は向こうには行けない。もう、戻れない身だからな。」
わたしは俯いて下にぽっかりと口を開けた扉を見つめた。
「あれ・・・。」
重大なことを忘れている気がした。
「あれ、どうやって帰るの?」
ロープは目の前にあり、梯子は相変わらず真反対にある。
「ああ、そりゃもちろん、飛び降りるんだ。」
時が一瞬止まったようだった。あの計画は一方通行だったんだ。行けばそれで終わり。帰りの計画なんてなかった。最初から、わたしを送り届けるためだけの計画だった。
「うん?頑丈だから、落ちても大丈夫なんだぞ。」
「そういう問題じゃない!」
目の前の彼がうるさかった。消してしまいたかった。こんなわたしのために、ここまでしてくれて、わたしは一体どうすればいいのかわからなかった。
「な、なんなんだ一体・・・。」
「じゃあ、もう行くからな。まあ、楽しんで来いよ。」
そう言って彼はポールに結んだロープを解き始めた。だめだ、あと少しで終わってしまう。どうしよう。どうしよう。わたしはどうしたいんだろう。
彼はロープを綺麗な輪っかにして肩に担いだ。
「扉と鍵は閉めてくれよ。ばれちゃまずいからな。」
「パスポートが通るまでここにいたら?もしかしたらこれ、使えないかもしれないよ。」
言ってからしまったと気づいた。
「ああ?疑ってるのか?絶対大丈夫だよ。それにどのみち、お前はここから帰れないからな。俺がいてもいなくても変わらんよ。それより、扉は絶対ちゃんと閉めるんだぞ。見つかったら元も子もないからな。俺が飛び降りたらすぐに閉めてもう行くんだ。」
違う、わたしはそんなこと思ってるんじゃない。
ぽっかり開いた穴に手を掛けて、彼はいよいよ飛び出そうとしていた。その穴はまるでわたしの心にできた穴のようだった。わたしは服をぎゅっと握りしめた。このまま終わってしまっていいんだろうか。
「いや・・・、よくない。わたしまだなにもしてない。」
「ま、まって。」
わたしは彼の小さい手を引っ張った。
棘を隠した銀色の卵
そのままわたしは柔らかい絨毯にひざまずき、不思議そうに振り返った彼の顔を両手で引き寄せた。そして額に唇をつけた。廊下に迷い込んだ風が頬を撫で、ドームの上から降り注ぐ光がわたしたちを包んだ。
「ありがとう。」
わたしはこのくらいのことしかできなかった。
「あ、ああ、楽しかったよ。あ、そうだ。時間を知れないだろ。この腕時計持っていけ。」
心なしか顔が赤くなっているような気がして、わたしも恥ずかしくなった。受け取った黒い腕時計を俯いたままありがとうと言って着けた。
「また会おう。」そういって、彼は扉を持つ手を離した。
彼は恐ろしいスピードで落ちていく。恐くなってすぐに扉を閉めた。またひとりぼっちになってしまった。
鍵を締めて、わたしは立ち上がった。落ち着かせるように胸を抑えた。いまだにどきどきする。
目の前には銀色の機械と、そして遥か先中枢区まで続く廊下が待っていた。
「いよいよだ・・・。」
そこになにかがある。そう信じて、ここまでやってきんだから。
パスポートをかざすと、ポンと柔らかい音がした。その他は別段なにも変化はなく、わたしはそのまま機械を通り過ぎた。後ろを振り返っても機械はそのままだった。あまりにも呆気なく許可が降りてしまって拍子抜けしてしまった。
彼は無事着地できただろうか。
機械を通った先にはもう絨毯はなく、代わりに黒いゴムのような素材が敷かれていた。そして中央に一人分の幅くらいのレーンがあり、その傍に、梯子を登っている時に見たほの青く光る直線がすうっと奥まで引かれていた。
レーンの上に乗ると、滑るようにしてゆっくりと床が動き出した。
だんだん加速していったにも関わらず、ほとんどなにも感じないくらい絶妙な加速だった。ドームの半球に時々嵌められた黒いフレームが驚く速さで通り過ぎてゆく。
廊下を覆うドームが透明になっていたから、たくさん生えているビルや雲やときおり鳥の群れを見下ろすことができた。
「そりゃあ、いい気になっちゃうな、これ。」
神様が地上を見下ろすとこういう風に見えるんだなと思った。
しばらくすると、ゆっくりと上昇を始めたのがわかった。もっと早いうちから上昇した方がよかったんじゃないかなと思った。目の前に聳えるそれは、それくらい大きかった。
こんなに巨大なものは見た事がなかった。今まで見てきたビルが子供のように見える。幅はいままでの何倍あるのだろう。頂上は真上を見上げてもよくわからないほど遠い。
彼はビルが成長していると言ったけれど一体何年かかったらここまで大きくなれるんだろう。わたしがずっと見つめてきた新天地の漆黒のビルはこいつだったんだろう。
鬼に追われていた時を思い出した。あの時は新天地がまだまだ遥か遠くにあって絶望したものだけど、それはこの一番大きいビルをずっと見ていたからだった。
「そりゃあ、届かないよ。」
鬼に追われていたあの頃のわたしにそう言った。ああ、全てが遥か遠い昔のことのような気がする。とても永かったなあ。
気づけば、廊下はものすごい傾きで上昇していた。必死で上がっているけれど、それでもどうあがいても終点に着くまでに衝突しそうだ。
ビルの壁が目の前に迫ってくる。よく見ると滑らかな表面ではなかった。本当に岩のように所々でごつごつしていて、その窪みや出っ張りにたくさんの鳥が羽めいていた。雲よりも高い高いところにこうして鳥たちが宴を開いているのは不思議な光景だった。彼らも上へ上へと目指すうちにこんな所まで来てしまったんだろうか。限られた場所でしか羽を休める事ができないのに、それでも彼らは楽しそうだった。
だんだんとスピートが緩まってきた。今やほぼ垂直に登っていた。傾きに従って足下が調整され、のっぺりしていた床が階段上にぎざぎざに伸びていた。振り返ると同じようにずらっと階段が続いていた。
自分のためだけにこの床たちが調整されていると思うと小気味よく、にやにやしていると、遠く後ろのほう、まだ上昇が始まっていない廊下のあたりに人影が見えた。時々目の前を横切る黒いフレームのせいでよく見えなかったけれど、確かに誰かいた。どんどん人がやってくるという彼の言葉を思い出した。
時計を見ると七時すぎだった。ついさっきまでこの世界を自分一人のものにしていたのに、そうでないことが嫌でも突きつけられたような気がした。あと少しで到着だ。
「どうしよう・・・。」
再び自分がひとりぼっちに放り込まれた感覚に襲われた。梯子で一人になっていた時よりも激しかった。誰かに頼りたかった。彼に頼りたかった。でもそれは違うことも頭の隅でちゃんとわかっていた。これはわたしの旅なんだ。わたしの意思でここに来たんだから。
そう思うと少し落ち着く事が出来た。それでも不安なのは変わらず、手が細やかに震える。
そしてとうとう、この時が来た。見上げると分厚いビルの壁が切り抜かれ、真っ暗に口を開けたそこへ廊下が続いていた。まるでビルが廊下を捕食しているようでぞっとした。緩やかなスピードのまま上昇していき、わたしをその口の中へ運んでいった。
一瞬暗闇になったと思うと次の瞬間には巨大なホールが目の前に現れた。
「わっ。」
急に床が止まりわたしは放り出されるようにして一歩前へ踏み出した。
廊下の入り口と同じような黒いゴムのような素材に降り立つと、アーチ型のゲートのすぐ下に例の自動改札機があった。後ろからすぐに誰か来そうで慌ててパスポートを取り出して掲げた。入り口と同じようにポンと音を立てて簡単にわたしを中枢区へ入れた。
ゲートをくぐると、天井まで球体に切り取られた巨大なホールが迎えた。ああ、とうとう来たんだと、胸の底からふわっと興奮が巻き上がった。あのトイレで見つめたあの場所へ、死にそうな思いをして、いろんな人に助けられ、わたしは今立っている。
ホールは見た事も無いほど巨大だった。おそらくこのビルの幅いっぱいを使って作られたんだろう。反対側にあるゲートがすごく小さく見える。高さも相当あり、会社が一つまるまる入りそうだった。ホールは二階建てになっていて、一階と二階を繋ぐ階段が円の中心付近から斜めにずらっと延びていた。一階にも二階にも、その円の縁にそって今くぐってきたようなゲートがたくさん並び、二階はそのゲートに向かって放射状に廊下が延びていた。このビルの大きさを思い出した。ここは空間が潤沢にあるんだ。
ホールは全体的に柔らかい銀色に包まれ、床には毛艶のよさそうな銀色の絨毯が敷かれていた。銀色の卵に優しく包まれて、不思議とこんなわたしでも歓迎されているように感じた。
一階にも二階にも人はまばらにいたけれど、わたしを気にすることもなく、それぞれがリラックスしたようにゆったり歩いていた。
「なんだここ・・・。」
なぜだかとても心地よかった。さっきまでの緊張が一気に解かされていった。こんなことなら言ってくれればよかったのに。そう彼に呟くと、中枢区は誰でも歓迎するような場所だと言っていたのを思い出した。そして、そんな場所で彼が窓を打ち破ってまで逃げ出したことも。
「あぶないあぶない・・・。」
決して油断しちゃだめだ。この柔らかな銀色も、気分がぼうっとしてくるこのホールも、そう感じさせるよう作られているだけ。ぷるぷると頭をふって靄を吹きはらした。
「さて、どこに行こう。」
そこはすごく重要な問題である気がした。彼はどこに行けなんて一言も言わなかった。なぜならこれはわたしの旅だからだ。それに、どこが終点なのか、わたしですらわかないのだから。
ぐるりと首を回してみると、不思議なことに気づいた。ここには出口がない。ここに入ってくるゲートはたくさんあるのに、ここから出て行ける場所がない。
どうやってみんなここから出て行くんだろうと思って、とりあえず二階を見に行ってみることにした。円の中心付近にある階段の傍まで来てみると、階段も、わたしを運んできた廊下と同じようなレーンが敷かれていて、そこに乗ると自動的にわたしを二階まで運んでくれた。
「わっ。」
しかしこれ、急に止まるところをなんとかして欲しいな。ぞんざいに放り出されているような感覚がする。
二階は一階よりもすこし小さいフロアになっていた。小さくなった分廊下がここまで延びてくるから、下から見て廊下が放射状に延びてるのが見えるんだな。
けれど、二階は一階にないものがあった。フロアの中心より少し奥に、絨毯と似たような銀色をしたカウンターらしきものがあった。コーヒーでも一杯頼めそうな雰囲気だったから、近寄ってみると、白いスーツを着た銀色のロボットが突っ立っていた。高さは二メートルくらい、手足はすらりと長く、顔は白いシルクハットに隠れて見えない。
「こんにちは、お嬢さん。ここは初めてですかな。何に致しましょう。」
ロボットの声は少し内部の金属に反響してエコーがかかっていた。
「ええと、」
そう言ってカウンターを見ると、金属のプレートに文字が刻まれていた。見たこともない文字だった。その横におそらく値段だろう、数字が並んでいた。いくつかがゼロを指していた。彼の言葉を思い出した。
「じゃあ、これ。」
プレートの中段あたりの値段がゼロでないやつを適当に指差した。何か食べたかったから、それが食べ物であることを願った。
「はあい。」
男の声なのかよくわからない妖艶な声で返事をすると、くるりと背を向いて何かを作り出した。
器用になにかしているようで、あっという間に「どうぞ。」と紙に包まれたなにかを手渡された。ぱっと見はホットドックのようだった。
するとロボットがじっと見つめているので、「ありがとう。」と言ってみたけれど、何も言わずじっとこちらを見ていた。
「え、なに。」
シルクハットをじっと深く被って疑うようにこちらを見ていた。
「あ、支払いか。はい。」
そう言ってパスポートを掲げると、右腕の白いスーツを巻くって、腕にくっついた長方形のディスプレイをパスポートに近づけた。ポンと再び柔らかい音が鳴った。
「ご利用ありがとうございました。」
彼はそう言うと再びじっと突っ立っていた。
薄気味悪くてその場をすぐに離れた。
渡されたものを見ると、どう見てもホットドックのようだった。硬めのパンにウインナーが挟まっている。
一口食べてみると、味はホットドックだった。確かにホットドックだったけれど、今まで食べたことないほど美味しかった。とにかくジューシーで、そしてくっきりと解像度の高い肉の味だった。パンも最高の焼き加減だった。外はぱりぱりで香ばしく、中はふかふかに柔らかかった。
「はは、おいしい。」
想像を超えたおいしさに打ちのめされていると、ふと視線を感じて振り返った。
あのロボットがじっとこちらを見ているような気がした。
ロボットに背を向け、フロアの縁の手すりに手を掛けてぽりぽりと食べながら一階を見下ろした。
あらゆるゲートから次々といろんな生命体が降りてくる。この世界にはいろんな種族がいるものだとウインナーを齧りながら感心した。わたしのような人みたいなのもいれば、脚が何本もあるもの、草原の鬼を小さくしたみたいなのもいた。色も様々で、ピンクは少なく、緑は多かったけれど、虹の一つや二つは作れそうだった。
わたしがホットドックを食べながらぼうっとしている間に気づけば本当に人が増えていた。
そしてそれぞれがみんな、一階でも二階もみんな、同じ方向へ向かっていた。
みんなが向かうそこは確かにゲートがない場所だった。ぐるりとゲートが並んでいるけれど、一部だけ、二、三、ゲートが抜かれたようにそこだけは何も無く壁だけがあった。
一階、二階それぞれに同じ場所にあるそこへみんなぞろぞろと集まっていた。
食べ終わると、ホットドックを包んでいた紙をぐしゃりと潰してポケットに押し込み、みんなの集まっている方へ向かった。
ふっと振り返ると、ロボットはもうわたしの方を見ていなかったのでほっとした。
ちょっと不気味だったな、あいつ。
しばらくみんなと一緒に待っていると、目の前の銀色の壁が音もなく開き、巨大な円筒状の空間が現れた。高さは数メートルありそうで、わたしたちなんか余裕で入れる大きさだった。円筒内には縦すじに太く蒼い光が二本引かれていて、床の方も見た事のある蒼い光の完璧な円が縁取られていた。
なるほど、あのビルの中にあったやつだ。彼がいずれ乗るだろうと言っていたのは、こういうことだったのか。しかし、あのビルの中にあったものとは、大きさが全然違う。あれは人一人入れるくらいの大きさだったけれど、これは小規模の宇宙船に見えるほどの大きさで、ここにいる全員軽く収まるだろう。
先頭からぞろぞろと入っていったので、わたしもその中に入っていった。
噛みつきたくなるくらい王子さま
扉が再び音もなく回転して閉まると、ふわっと浮いた感覚のあと、すぐにまた減速してすぐに扉が開いた。どうやら一階についたようだった。再びいろんな種族がぞろぞろと入ってくる。それでも中はまだまだ余裕があった。
再び扉が閉まる中、どうやらやってしまったようだなと思った。上へ行きたかったのに、これは下へと向かう宇宙船らしい。再びふわっと浮いた感覚と同時に、不安も一緒に沸き上がってきた。
さっきよりも少し長い間下降すると、ゆっくりと減速して扉が開いた。何人かが降りたので、わたしも便乗して降りた。
降りた先は青いカーペットが敷かれた一本の通路になっていて、その側は白い壁に囲まれてあたりを見回すことはできなかった。そして通路の途中に、またあの自動改札機があった。
宇宙船に乗らずにそのまま待っている人がいたので、わたしもその列に再び並んで上行きのが来るのをじっと待った。腕時計を見た。七時半だった。大丈夫大丈夫、まだまだ時間がある。
しばらくすると、壁が音もなく開いた。さっきは床にあった蒼い光の円が、今度は天井に描かれていた。
「これでわかるのか・・・。」
隣の切れ目の女の人にちらと見られた。あんまり独り言は言わないほうがいいらしい。久々に普通の女の人が隣にいると思ってさっきまで安心していたのに、こっちを向いた時にあのうねうねとした触手が生えているのを見て急に気持ち悪くなった。なんでだろう。人にすごく似てるから余計に気味が悪いのかな。それにしても、本能的に、生理的な不快を感じるのは自分でも不思議な反応だった。他に変わった種族はたくさんいるのに。
ただ、新天地には触手のない人間より触手のある方が圧倒的に多いのは確かなようだった。人間が一人くらいいてもいいと思うんだけど。
再び例のホールを一階、二階と渡りいよいよ上昇しだした。あの切れ目の人はホールの一階で降りていった。
最初に乗ったところへ戻ってくると、いよいよここからは知らない場所へ行くんだった。扉が閉まり、蒼い光にぼうっと包まれると、さっきとは比べられないほどの速さで上昇が始まった。
ぐぐぐと頭を抑えられながら、本当にどこで降りようか迷っていた。どこか適当なところで降りるべきなのか、それとも一番上まで行ってみるべきなのか。
だんだん上昇する速度が緩やかになり、完全に静止した後扉が開いた。
何人かが降りたもののほとんどはまだ乗っていた。「もう、こうなれば直感しかないな・・・。」と心の中で呟いた。
天井にある蒼い光の円はまだそのままだった。扉が閉まると、またものすごい加速をしてくれた。本当に宇宙に飛び立とうとしてるんじゃないかと思うほど重力がのしかかってくる。そして再び緩やかになり、扉が開いた。
急な加速、緩やかな減速、急な加速、緩やかな減速。胃袋の中に収まったホットドックが重力でもう一度咀嚼されて、本当に気持ちが悪い。恐ろしい勢いで上昇するくせに、何度も何度も扉は開き、そして相変わらず蒼い円は天井にあった。「どんだけ上に行くのよ・・・。」と心の中で愚痴をこぼした。実際にこぼすとホットドックまでこぼしそうだったので心の中だけで我慢した。
人はまだまだ中に乗っていて、扉が開くたびに少しずつこぼれていった。
ごくりと唾を飲み込んだ。ぐちゃぐちゃになったホットドックが上がったり下がったりぐるぐると回っている気がする。いよいよもう限界が来そうだと思った。一歩動けば中身が出そうだった。
その時また緩やかに静止して、扉が開いた。わたしは精一杯普通の表情を装いながら、新鮮な空気と安定した地面を求めて這い出した。
宇宙船を出てすぐに壁に手をつき、胃のむかむかが収まるのを待った。何人かがこちらを見ているような気がしたけれど、今はそれどころじゃなかった。
胸を抑えていると、
「大丈夫ですか?」
と声を掛けられた。振り返ると、背の高い男の人が立っていた。身長はわたしより断然高く、髪はほどよい金髪、肌は少し焼け、真っ白なきれいな歯を持っていた。何より触手がなく、顔立ちが整っていてかっこよかった。
「い、いえ、大丈夫です。なんでもないです。」
そう言ってその場を立ち去ろうとすると、またホットドックが胃袋から上がってきそうな気配がして壁に手をついて立ち止まってしまった。まずい、この人の前で吐きたくないとなぜか思った。
「気分が悪いんですか?一緒に医務室へ向かいましょう。」
と言いそのままするりと腰に手を回された。声が低く落ち着いていた。わたしの体はその腰に置かれた手に素直に従った。
さっき降りた場所とは違い、なにもかもが真っ白だった。通路も、壁も、白くつるつるしていた。
腰に手を回されながらパスポートを掲げ二人で自動改札機を通った。
よく見ると白衣を来ていて、医者なのかと最初は思ったけれど、なにか嗅いだことのない、薬品かなにかのにおいが鼻をかすめて、どうやら科学者かなにかの類だと感じた。
わたしは顔を上げて、この男の人の顔をまじまじと見つめた。どうやら本当に触手が生えていないようだった。その他の体の部分を見ても、変なところはなく、ここに来てはじめて見た、わたしと同じ人間のようだった。
「人間は初めてです?」
と言って他人向けの微笑みを浮かべた。それがとても、なんというか、人の心に刻みつけるような笑顔で、本当にかっこよく、そしてそれはあくまでもわたしはこの人にとって他人なんだと否応なしに気づかされる、哀しくそれでも嬉しいような、とても複雑な微笑だった。
「は、はい。い、いえ。わたしも、人間なので・・・。ただ、ここに来て初めてというか、あ、いや・・・。なんでも、ないです。」
なんだろう、これ。胸に手を当てると鼓動がとても速い。いまなにか聞かれたら、全部答えてしまいそう。でもなにか聞いて欲しい。全部さらけ出して答えたい。この人に認めてもらいたい、そういう想いが突然きゅうっと心を締めつけてきた。
腰に回した手に自然と体重を預けてしまう。心も体も、全てを預けてしまいたい。
ああ、恥ずかしい。こんな天空で、わたしはなにをやっているんだろう。そう思っていても、体の芯がぼうっとして、いまのこの瞬間が狂おしく幸せに、感じてしまう。
そっと横顔を覘きながら、押されるままについていった。どの道を通ったか、もうさっぱりわからず、それでも何の不安もなかった。
「はい、どうぞ。着きましたよ。」
そう言って押されるままに医務室へと入っていった。医務室は曲がりに曲がった細い通路の奥で、入り口には簡易的なソファが置いてあった。
中を伺うと真っ白なベッドが三つ、奥に向かって並んでいた。ベッドにも、この医務室にも、誰もいなかった。
それぞれのベッドの頭のほうには窓がついていて、そこから燦々と光が射し込みベッドに伸びていた。
とても静かだった。ここだけでなく、このフロア全てから音が排除されたように静けさに包まれていた。しんと横たわる真っ白で無垢なベッドがわたしを、わたしたちを呼んでいるようだった。わたしは振り返ってその人を見た。その人はわたしを見つめ返した。エメラルド色の瞳をしていた。
わたしたちはお互いを見つめ合ってこれからのことを合意しあった。
目線を切って背中を向け、ベッドの傍へ行き立ち止まった。鼓動がうるさい。後ろからゆっくりと近づいてきて、わたしの体のラインをゆっくりとなぞった。
体がしびれてはあと吐息が漏れた。こんなわたしがいたことが驚きだった。どこかに眠っていた強引なわたしが、じゃあ今からはわたしの番ねと無理矢理バトンタッチして出てきたようだった。この人に触られてたまらない気持ちでいっぱいだった。
後ろから抱きしめられて、わたしは思わず天井を見上げた。跳ね上がったわたしの無防備な首に頭を預けて囁いた。
「僕も驚いたよ。ここで人間を見たのは君が初めてだ。ねえ、いつきたんだい?」
わたしはどこから話そうか、どこから話せば楽しんで聞いてくれるかを考えた。
「ええっと・・・。」
ふと外を見やると、ひときわ大きい鳥が一匹、こんなにも高いところを悠々と飛んでいた。この鳥はどうやってここまで来れたんだろう。わたしはどうやって、ここまで来たんだろう。
小さな扉を掴んだ手をぱっと離して遠ざかっていく彼を思い出した。
腕時計を見た。八時すぎだった。
彼はこんなことのために手を離したの。振り返って瞳を見つめた。彼は不思議そうな顔をして遠くを見ていた。
「ごめんなさい。仕事に行かなくちゃ。体調はもう大丈夫。ありがとう。」
そう言って体を振り払って医務室から飛び出した。ああ、ばかばか。わたしの人生で一番輝いていた瞬間だったのに!なんで台無しにしてしまうかな。いま戻ってもまだ間に合う。追いかけてこられたら、そのときはもう、だめかもしれない。追いかけてきてほしい。でも逃げなきゃ。分裂した二つの気持ちに揺れながら、それでも走った。ざっとした方角くらいしかわからず、ひたすら通りを曲がった。
走りながら、工事現場で追われたのを思い出した。あの時のほうが楽しかったかな。いまは自分のせいで走ってるわけだから。
後ろを振り返っても誰もおらず、追いかけてはきていないようだった。それが嬉しいのか悲しいのか、ああ、結局遊ばれただけだったんだな、と心のどこかで思った。
あれ、この通路見たことある、と思って進むと、再びあの宇宙船のある空間に出た。
「やあ、待っていたよ。」
わたしは彼につかまった。
無垢な王子様
「ここは一体どこだと思う?」
小さな子に出すクイズのようだった。何事も無かったように優しい声で突然尋ねられて、なんて答えればいいのかわからなかった。
「ここはね、すごく高い場所なんだ。君みたいなのでも、一応わかるだろ?ここがどれだけ神聖な場所か。」
話しながらさっきまでの優しい表情がみるみる歪んでいった。いまはもう、わたしを憎んでいるような、そんな風に睨んでいた。
ついさっきとは全然違う雰囲気にわたしの可哀想な心はついていけてなかった。急にそんな目で見られて、わたしはよほど悪いことをしてしまったんじゃないかと思い足がすくんでしまった。
「君、さっき仕事があるっていったね。仕事ってなにかな?君なんかに与えられる仕事なんてないよ、ここには。」
「な、なに?」
わたしはまだ信じられなかった。ついさっきまでのわたしたちの、あの音の無い、二人だけの世界がまだ瞼の裏に残っていた。
「さっきのは、ごめんなさい。でも、ちょっと、時間が。」
「時間なんてもうどうだっていいんだよ。君はもう、ばれてしまったんだからね。」
ゆっくりとわたしの方へ近づいてきても逃げることはできなかった。どのみち、ここしか出口はないようだった。
「上まで来てもらう。」
右腕をぐいと掴まれて、わたしはあっけなく拘束された。
宇宙船の扉が音もなく開くと、どんと背中を押して乱暴にわたしをその中へ突き飛ばした。あまりの違いようにわたしはついていけなかった。あの腰に手を添えてくれたことがまだはっきりと思い出せたので、今の出来事とでぐちゃぐちゃに混ざって気分が悪くなった。
彼が入り、「上階まで。」とどこかに言うと蒼い光が紅色に染まった。
ものすごい加速が始まり、わたしは壁に手をついて、押しつぶさんとする力に必死で抗った。
「虫が入った。」
彼は上を向いて誰かに言った。
加速が収まっても、まだ滑るように上昇していた。おそらくものすごいスピードで上がっているに違いない。それなのにもう何分も経っている。どれだけ上がるんだろう。
「どうして、わたしを侵入者だと思うの?パスポートだって、使えたでしょ。」
彼は無言だった。まるでいないかのような振る舞いだ。けれどしばらくしてから、急に口を開いた。
「お前の腕時計。その盤面に、マークが刻まれてるだろう。」
腕時計を近づけてよく見ると、盤面の中央上に、横長の細い線と、その上に小さな樹のようなものが生えているマークが確かにあった。
「そのマークを描いてるところを、隣で見てたんだ。レジストだって、あいつは言った。こんな塔なんて潰れちまえって、広く平らな外の世界に憧れるってな。まあ、そんなクソみたいな考えを持ってるやつはあいつしかいないね。」
もう笑うしかなかった。こんなとてつもなく巨大で複雑な建造物にいて、腕時計の盤面に刻まれた小さなマークなんてものが意味を持つなんて。さすがに彼もわたしも気づけなかったな。
「お前、会ったんだろう。会ったってことは、ここにはいなかったってことだ。なあ、知ってるだろ?飛び降りたの。あいつなら、パスポートくらい朝飯前さ。あと・・・、四時間か。更新の時が楽しみだな。それまで遊ばせてもいいが。」
口に手を当てて本当に楽しそうだ。
「わたしを医務室に連れて行ったのは、どうして?」
馬鹿なわたしはそれでも聞きたかった。まだ何かにすがっていた。わたしの心はまだ、この人に期待していた。さっきの胸のどきどきが、忘れられなくて。せめてあの出来事だけでも、本当かどうか、確かめたかった。
「ああ、あの時はお前がまだ虫だって知らなかったからね。本当に一人の人間の女性だと思ってたんだ。残念だよ。」
「俺をだましやがって。」
そう吐き捨ててそれからは一度もわたしのほうを見はしなかった。
彼の言っていたことが、ようやく分かった気がする。彼が窓から飛び降りるなんて半ば狂気じみた行動をとった理由も、今はちゃんとわかる。辛かったんだねと、異常なのはここだよと、今度はわたしが彼を慰めたい。
ここは、本当にクソだ。
「ねえ、本当にわたしが虫だと思ってるの。」
「さあさあ、あと少しで到着だ。みなさんが今か今かと待ち構えてるから、そこで何でも聞けばいい。」
こいつはそのみなさんと仲良しの相当上の立場にいるのかもしれない。
「頭の中の白いピース。ジグソーパズルのピースみたいなやつ。知ってる?」
「お前、なんでそれを知ってる?」
「おい、停止。」
ずずず、と重力が被さってきて気怠そうに宇宙船は停止した。
「一体どういうことだ?なんで知ってる?外のお前が・・・。いや、ありえない。お前、本当にここに居るのか?まさか、お前なんかが、俺よりも上に居るのか?」
「わたしだけじゃない。彼も、あんたなんかより上に居たんだよ。」
「はは、面白いな、お前。何言ってんだ、全く。」
「わたしは、面白いよ。いま、この状況がね。あんたの人生がもうちょっとで、全部終わっちゃうんだから。今か今かと待ち構えてるのは、誰の味方だろうか?さあ、早く行きましょう。お前があと何分で地に堕ちるか測ってるんだ。」
そうしてわたしは腕時計を見やった。八時二十分だった。小さなマークは相変わらずそこにちゃんと刻まれていた。彼が知り、わたしが歩いてきた世界。そしてここの誰もが知らない世界。
「ついさっきまではわたしも遊びだった。多少発達不足でも、全体として優秀であればいい。わたしを突き飛ばしてもいい。わたしだって同じだ。こうやって下に来てあんたみたいなのを遊びにくるんだからな。」「ただ、彼を侮辱した奴は、わたしたちは許さないことにしてるんだ。」
「お前はもう逃げられない。地に堕ちて済むと思うな。」
わたしはそうやって彼を睨んだ。ポケットの中にある最低限のアクセス権しか持たないパスポートをぎゅっと握りしめた。
「ふん。何の根拠もない。」
「今からその根拠を確かめるために向かうんだろう?だったら早く行こう。」
わたしはため息をついてみて、それから宇宙船の壁に全体重を預けた。もうどうにでもなれ。
「上階へ。」
再び上昇が始まった。ああ、やっぱり意味がなかったな。彼の言ったようにしてみたけれど。ちょっとはうまくいったと思ったのに。
しばらく上昇が続き、何かが千切れたわたしは半分演じた自分になりきっていて、あと何分でこいつが地に堕ちるだろうと時々腕時計を見ては時間を確認していた。
するとくるっと回ってこちらに向き合った。
「彼のことは謝る。申し訳ない。今回ばかりは、見逃して頂きたい。俺は、彼の技術力に嫉妬してたんだ。本当は、尊敬してる。」
紅い光に照らされた瞳は微かに潤んでいるのか、てらてらと光っていた。わたしはその瞳を目にしてうんざりした。
「ああ、わかったわかった。もういいから出て行け。」
本当にそう思ったので手をひらひらさせてあっちへ行けとした。
「止め。」
がこんと速度が落ちたと同時に紅い光がもとの蒼い光に転換した。また重力に押されてじりじりと停止し、扉が開いた。
「本当に、僕は、彼が憧れだったんです。いま、はっきりわかりました。僕は・・・。」
わたしはもういいというようにまた手をひらひらと振った。彼は子犬のような顔をしたまま従順にどこかへ行った。
「え・・・?」
宇宙船の扉が開いたまま、わたしは呆然と立ち尽くした。
宇宙船はなにも返さずただひたすら口を開けていた。
天空のラボラトリー
しばらくすると扉が閉まり、わたし一人を乗せてゆっくりと上昇を始めた。
しかし、と再び宇宙船に体を預けて考えた。
いまこうやって自由の身になったのは、ひとえにあの、白いピースのおかげだ。あいつの狼狽ぶり。よほどのものなんだろうか。わたしにとってはこの旅の始まりだけど、ここにとっても重要な何かなのか。
ゆっくりとした上昇の中で、ふと思いついた。
「上階へ。」
さっきみたいに上の方に向かって言ってみたけれど、上昇速度が速くなることも紅くなることもなかった。はあとため息をついた。
それにしても、上階ってどこだろう。この塔に入ってきた場所自体がもう上階と言っていいくらいの高さだと思うけど。いまどのあたりにいるんだろう。あいつはあとちょっとで着くとか言ってたけど。
それからしばらくの間は停止と上昇を繰り返した。誰も乗ってこなかったものの、再び気分が悪くなりだしていた。
はやくてっぺんまで着いてほしい。気分が悪いだけでなく、誰もいないこんな場所に閉じ込められると、いやでもさっきの事を思い出してしまう。あの医務室の出来事が、とても恥ずかしかった。あんな偽物でさえ、わたしの何かの扉が開きかけていたのが、悔しくて恥ずかしかった。
気のせいか、宇宙船が少し揺れだした。いよいよ到達するのかと思った。しかし揺れはどんどん大きくなり、立っているのがやっとで近くの手すりにしがみついた。床の方から低い連続した音が響き、振動だけでなく、重力がじわじわと身体中にのしかかってくる。
そしてどんと足下で大きな爆発音がした。びっくりするほどの力で急に押さえ込まれた。衝撃が強すぎて声が出ないくらい、猛烈な加速だった。
衝撃は一瞬の出来事だった。すぐに減速を始めたのか、身体がふわっと軽くなった。服が重力から開放されてわたしから離れようとしていた。そして再び重力がくっついて服がだらんとぶら下がり宇宙船は停止した。
天井にあった円く蒼い光が消え、わたしの足下に点灯した。
てっぺんだ。
ゆっくりと扉が開き、少しずつ開いた隙から喧噪がこぼれ入ってくる。思わず一歩さがって構えると、扉はいままでと全く違う景色を運んできた。景色につられるまま、わたしは外へ出た。
いままでのフロアと違って、目の前からずっとずっと奥まで見渡せた。右側の壁に縦長の大きな窓が奥まで延々と並んでいて、朝の白い光が射し込んでいた。
たくさんの生き物が働いていた。彼の部屋にあったような、一つたりとも整理されていないいろんな器具や書類に埋もれたデスクが見渡す限り続いていた。いろんな種族が、その間を行ったり来たり、誰かと話し合っていたり、とにかく見た事も無いくらい広い部屋いっぱいに忙しそうだった。
そしてそこへ入る目の前の通路自動改札機が置いてあった。ただ、なにかが違う。
よく見ると、パスポートをかざす場所の近くに小さなディスプレイが付いていた。それが何をするのかはわからないものの、おそらく最低限のアクセス権しかないパスポートをここで普通にかざしてもうまくいくような気はしなかった。
わたしは思い切ってかざすべきか悩んだ。宇宙船のこちら側とこの部屋とはひょいとくぐり抜けられる程度のしきいでしか囲まれていなかったけれど、しきいのすぐ向こうのデスクに二メートルくらいのイカみたい生き物が座っていて、くぐればすぐにばれてしまいそうだった。
「ねえ。」
喧噪にかき消されて聞こえていないようだった。
「ねえ!」
わたしは身を乗り出してイカみたいなのに聞いた。イカはこっちをゆっくり振り返った。
「ちょっと、急いでるんだけどさ。あの、白いピースの件で。上に用事があるんだ。虫が入ってさ。パスポート盗まれちゃったんだ。はやくしないと、いろいろとまずいの。ここ、通してくれない?お願い。」
イカはゆっくりと頭を傾けた。わたしは自動改札機を指差した。
「ここ。分かる?通して。」
するとイカは足だと思っていた足まで届く長い腕をぶらんと持ち上げて自動改札機の下に触れた。
ポンと音がして扉が開いた。
「ありがとう!」
わたしは軽く礼を言って、急いでいるように小走りで通路を走った。
にやにやが止まらなかった。話が通じたかどうかわからないけれど、とにかく簡単だった。
なんだかわかってきたぞ、とわたしは心で呟いた。しかしたったっと走ったあと振り返ると、あのイカが顔をじっとこちらに向けて見ていた。
まずいまずいと思いながらも、どこへ向かえばいいのかわからなかった。ただひたすらに奥へ奥へと進んでいった。
ここはどうやら本当のてっぺんではない気がした。こんな雑多なオフィスが新天地のてっぺんだとは思えないし、彼の言った上階ってことなんだろう。
とすれば、どこかにまた上に行く宇宙船の扉があるに違いなかった。
わたしはきょろきょろと見回しながら延々と続く通路を歩いた。宇宙船の扉はひたすら壁と同化していてどこにあるのか近づいてやっとわかるくらいだった。でもよく見ればわかるはず。扉を探すんじゃなくて、その空間を探したほうがいいと思った。
しかし前方後方左右のどの方向も忙しそうで、わたしなんか誰も気にしていなかった。再び振り返ると、遠くのイカはデスクに向かっていた。
あれ、なんだろう。
わたしは大きく息を吐いた。ああ、なんて、落ち着くんだろう。
ここに来て、初めて、誰にも見られていないと感じた。こんなに人がいるのに。喧噪の中、歩きながらまた大きく深呼吸した。一体わたしは今どれだけの高度を歩いているだろう。こうやって歩いていると、ここのフロアの一員になった気がする。今日も朝から大忙し。わたしも腕を捲くってその気になった。
ようやく一番奥に到達しそうだった。奥側の壁にも窓が並んでいた。さっきから右側の窓からの景色を見たくって仕方が無かったけれど、さすがに目立つと思ってなんとか耐えてきたから、今度ばかりはこっそり見てやろうと思った。
だんだん奥に近づいていくと、喧噪は静まり、デスクの数も少なくなっていった。奥の壁際はどうやら休憩スペースのようで、椅子やらテーブルやらソファーが適当に置かれていた。
ふっと端の方を見やると、左側の奥隅、左側の壁と奥の壁が交わる本当の隅っこに、喫煙室のような、柔らかいガラスに包まれた小さな部屋があった。
振り返るとやっぱり誰もこっちを気にしていなかったので、とりあえず小部屋は置いといて、休憩スペースに入り奥の窓に近づいた。
「わあ、すごい。」
目がくらむほどの高さだった。世界が一望できる。新天地を越え、鬼のいた草原を越え。
「あ・・・。」
そう、わたしのいた、わたしたちのいる街まで。
会社のトイレで見た、あの美しい新天地のビル。ここから出たいと切に願ったあの日。いまわたしはここにいる。わたしは窓に手をついてあの日こちらを見たわたしを見つめ返していた。
後ろから聞こえてくる喧噪が夢のようだった。どうしてわたしは今あの街にいないんだろう。旅の間ずっと忘れてきた、忘れようとしてきたことが、今こうしてわたしに結びついてくる。こんなに離れた場所まで来て、そこまで来てしまったからこそ、今こうやって二つの世界が一続きだったことを嫌でも知る。新天地、いやあの工事現場のあたりから、わたしのいる街とは違う世界に踏み入ったと、思い込んだ。そう、思いたかった。わたしがこうして旅をする間、現実のほうも動いているなんて考えたくもなかった。けれど本当は同じ時間を共有し、同じ空を共有している。
確かにあそこには会社があり、わたしの家がある。窓に手をついたままため息もついた。この旅が終わったら、わたしはどこへ帰るんだろう。あそこへ帰るのかな。こんな距離、また歩きたいとは思わないけれど。
でも、歩きさえすれば、元の場所に帰れる。それは目の前の景色が嫌でも教えてくれる。わたしが自分の意思でここまで来たこと。帰る場所も、自分の意思で決められること。
はっと我に返って後ろを見た。たぶん、誰も見ていないと思う。でもこれ以上ずっと突っ立っているのはまずいかもしれない。
とんと窓をついて手を離した。まだ旅は終わってない。なにが終わりかわからないけれど、とにかく終わるまではその先は考えない。
窓に広がる世界から目を離し、側のガラスに包まれた小部屋に向かった。
近づくとほんのりと曇ったガラスの扉が音も無く開いた。促されるがまま部屋に入ると、扉は再び静かに閉まった。
広さは人が三、四人立てばいっぱいになる狭さだった。文字通りこの広いフロアの隅の隅っこに作られた部屋だった。休憩スペースとを仕切る右側と後ろの扉のある面は曇りガラスが張られ、左手は透明な窓、そして前方の左半分は窓、右半分の面は柱のような漆黒の石で覆われていた。
「なるほど。」
ようやく見つけた。見つけたはいいけれど、どうやったら宇宙船が来てくれるのか、さっぱりわからなかった。ボタンらしきものもない。
まあいいやと思ってビルの角から世界を眺めていると漆黒の扉が音も無く開き、さっきよりもずいぶん小さい宇宙船が口を開けた。
扉が開いたままわたしはしばらくその場に立っていた。さっきはビルのある一面からしか眺められなかったけれど、いまはガラスが交わってできたビルの角にいる。だから、さっきよりも、もっと広く、もっと近い場所で見渡せた。こちら側では草原が遥か彼方まで続いていた。その遥か奥の方に、見間違いか、橋が架かっている気がした。ただあまりにも遠くて霞んでいるためよくわからない。でも、あれがもし本当に橋だったとしたら、この距離を考えると、新天地のビルくらいにとてつもなく高く、そして広い巨大な橋になる。
ぽんと音がして急かされたので、後ろ髪引かれる思いで小型宇宙船に乗り込んだ。今度は蒼い光でなく、乳白を入れたような淡い黄金の光が小さい宇宙船を満たしていた。
今度の上昇はさっきとは大違いで、とても上品な上がり方だった。重力がのしかかる感じもとても少なく、極めて滑らかに、静かに加速していった。
しばらくすると、ゆっくりと減速をはじめ、停止した。天井に灯った光は相変わらずだった。まだてっぺんではないということだ。
そのまま乗り過ごそうと思ったけれど、宇宙船に零れ込んで来たにおいをかいでわたしはためらいなく宇宙船から降りた。
そこは壁も床もプラスチックのような半透明な乳白色でつるつるとしていた。高さは数メートルはありそうで、さっきの医務室のあった迷路のような場所と違い、相当奥までまっすぐ通路が走っていた。そして、医務室に連れて行かされたあいつと同じにおいが、あの薬品のにおいが、このフロアに充満していた。
たぶん、あいつはここにいる。もう戻ってきてるかな。でも、あいつがここにいるってことは、彼もここに居たということになるんじゃないのかな。彼が研究していた場所、それがここじゃないのかな。
腕時計を見た。
十時半を指したアナログな針の側に、あのマークが刻まれていた。
ここでリスクを冒すのはまずい。もう一度あいつに出会ったら、今度こそ終わり。でも引き返すなんて考えはこれっぽっちもなかった。ここまでわたしを引き上げてくれた彼に恩を返すのだ。彼のことを知っている人が必ずいる。彼のことを想っている人が必ず。
通路をぼうっと歩いていると、各部屋で全然違うことをしているような気配がした。音だったり、においだったりで、なんとなくわかった。ある部屋はドリルの音、何かがバタバタする音、生臭い匂いがこぼれてくるのに対して、ある部屋では何人かが静かに話し合っていたり、白い壁に囲まれて見えないけれど、どの部屋にも何かがいて、ここが活発に活動している気配が伝わってきた。
「やあ。」
すぐ目の前の十字路の右手から、突然人がぬっと現れた。人というか、人間じゃなくて、まるで二メートルはありそうな褐色の樹木が立っていた。足の先端に行くに従って太い根のようなものがどんどん細くなり、それぞれがぴくぴく動きながら後ろの方に伸びていた。
びっくりして固まっていると、
「ごめんね。驚かせてしまって。でもねもう、全部ばれてるよ。上でちょっと待っている人がいるから。案内するよ。」
ああ、見つかっちゃった。さっきとは違って、丁重なおもてなしだった。どんな言い訳も通じないとわかった。わたしはうんと頷いた。子供の頃にあった、悪いことをしていたのが完全にばれていた時のような決まりの悪さと、これからこっぴどく怒られそうな予感と恐怖で胸がいっぱいになった。
「でも、ちょっと不思議なんだな。どうして一番上まで行かずに、ここで降りたの?」
「このマーク、知っていますか?」
わたしは腕を上げてマークを見せた。
彼はふふと笑った。わたしは一発でぴんときた。
「覚えているんですね?」
「ああ・・・、覚えているよ。これを私に持ってきた奴がいたんだ。レジスタンスがいるってね。」
少し黙ったあと、
「彼は、元気かい?」
と聞いた。わたしはあえて黙って見返した。
すると、彼は、わたしを見たまま泣いていた。
「ええ。彼は元気です。わたしをここまで連れてきてくれました。」
「本当かい?彼は元気にしているんだね?彼は頑丈だと自分でよく言っていたけれど、本当に頑丈だったんだね。本当によかった。」
しばらくぐすんとしていたけれど、振り切ったように一つ咳をして、
「こっちへ来て。彼の部屋を見せてあげよう。」
そう言ってくるりと回って右へ曲がって歩き出した。滑るといったほうがいいかもしれない。
「ずっと、気になっていたんだ。あの窓から飛び降りた日は忘れないよ。けれど、生きていたんだね。彼は。ちゃんとやっているんだね。僕は、本当にうれしいよ。ありがとう。」
彼は立ち止まってわたしにお礼をした。お礼かどうかは曖昧だったけれど、ここに来た甲斐はあったと思った。彼を想っていてくれる人がちゃんといた。それがなぜかわたしにとって嬉しかった。
「ここが、彼の部屋だ。いまは僕の部屋だけど、あの日のままにしてある。」
「あの、あなた以外にも、彼の事・・・。」
「うん。言っておくよ。慎重にね。あの事件はここじゃタブーだ。誰も触れちゃいけないんだ。いろんな意味でね。それでも、彼のことを忘れていない人はいるんだ。」
よかったねと、彼に呟いた。あなたはこんなにも想われているよ。
部屋は壁と同じく半透明な乳白色で、角が丸くなった四角い部屋に、同じような色で同じように角が丸いうねうねしたテーブルが中央から全体に伸びていた。そんな変わったテーブルの上にはやっぱり、あの部屋と同じようにいろんな書類や器具、機器が雑に置かれていた。
「彼の家と同じです。」
「はは。ここにいるみんなこんな感じだよ。」
わたしはテーブルと同じ種類であろう小さい椅子に座って背にもたれかけた。
「ここにいたの・・・。」
「ああ・・・。」
わたしたちに想い想いの時間が流れた。
椅子の側には樹でできた小さい棚があり、その中にはお手製とみられる時計や、小さなディスプレイの部品やら、小物がたくさん置かれていた。きっとお気に入りをここに入れていたんだろうな。
ふっと下段を見ると、工具用と見られる錆び付いた小さな斧が横たわっていた。顔を上げると彼はテーブルの上の書類に目を通していた。
わたしは手のひらサイズの斧を拾って後ろの腰に差した。
ばれてしまった以上、わたしはもうここの住人じゃない。
ここにいる全員が敵だ。
「じゃあ、そろそろ行こうか。」
「それでも、わたしを連れて行くんですね。」
「うん。ごめんね。こればっかりは、僕の首が飛ぶからね。文字通り。」
わたしは彼を睨んだ。
古の塔で告白を
天井に灯った黄金の光が足下に移り、扉が開いた。
「さあ、僕はここまでだ。幸運を祈る。」
「ありがとう。」
「じゃあね。」
彼は悲しそうに微笑んでいた。どうしようもないことなんだ。わたしも、彼も。
宇宙船の扉が閉まると、くるりと振り返って目の前の大きな扉に向き合った。それはそれは大きな扉だった。高さは二メートルくらい、幅は五メートルもありそうだ。真っ黒な樹でできた扉に、樫の樹でできたような細長い取っ手が両手についていた。
このフロアには窓もなく、黒い絨毯が敷かれ、目の前の扉しかどうやら行き先はないようだった。
さあ、本当の頂上だ。
わたしは重そうな扉に全体重を預けた。
扉は絨毯と擦れながらゆっくりと開いた。
中は大きな会議室だった。奥に向かって楕円形に伸びる一枚のテーブルに沿って、背もたれの高い同じく真っ黒な椅子がずらっと並んでいた。部屋全体には明かりがなく、右側の一面に広がるガラスの窓から光が射し込んでいた。
そしてその窓の側で、スーツを着た一人の男が立って外を見ていた。
逆光のせいでよくわからないけれど、横顔を見る限り五十代くらいの人間のようだった。でも何か違和感があった。けれど目を凝らしてみてもよくわからなかった。
「まったく、待ちくたびれたよ。」
そう言ってやれやれというように窓から景色を見ながらゆらゆらと歩いた。わたしはまだ目を凝らして違和感の正体を探っていた。全体のバランスが変なのかな?似ているのに違う。触手を見た時の何倍もの嫌悪感が背中まで走ってぶるっと震えた。
「どれだけ寄り道すれば気が済むんだ。さっさとここまで来ればいいものを。楽しかったか?」
もしかして、あの医務室のことも。
「いつから気づいてたんですか?」
「気づくか。はは、面白いな。君は。」
「君に見せたい物がある。君が行きたいと願ったところだ。来なさい。」
そう言って会議室の奥の方へ歩き出した。わたしは何も言わず彼のあとを追った。
会議室の奥の漆黒の壁には、細い切り目が入り小さな扉が切り抜かれていた。男が手で押すとくるりと回って真っ暗な部屋が現れた。男がくぐって入ったのでわたしも同じようにして入った。
扉を閉めると柔らかい光が灯き、右手に見慣れた扉が現れた。まだ上があるのか。
じっと待っていると扉が開き、さっき乗ってきたよりももっと小さい宇宙船が現れた。二人が乗り込むと相手と触れ合うかどうかぎりぎりの狭さだった。
宇宙船はゆっくりと上昇を始めた。男は一言も話さなかった。
しばらくすると速度が落ち、がこんと雑に停止した。
扉が開くと、そこは風が吹き荒れる外の通路に繋がっていた。細い通路が奥二、三メートルほど続き、そこで柵が張られて終わっていた。左手側は漆黒の壁がまだ上に伸び、右手は断崖絶壁に沿って銀色の柵が張られていた。感じたこともない遥か下に地が広がっていた。
通路の奥まで行くと、男は左手の壁を見上げた。通路のちょうど奥には梯子が掛けられ、上に続いていた。
「登るぞ。」
男はゆっくりと右手から梯子につかまり登り始めた。
梯子は今朝登った梯子よりも頑丈そうだった。けれど吹きすさぶ風があの時よりも強くそして凍てつく冷たさだった。
手すりを握るとあまりの冷たさに痛みが走った。上を見上げると男は黙々と登り続けていた。わたしは勝手に震える歯を食いしばって後に続いた。
梯子を登っていると、漆黒の石の表面がてらてらと濡れていることに気づいた。よく見ると壁に沿って水が流れていた。
「触るなよ。猛毒だぞ。」
男が下を向いて吼えた。びっくりして手を放しそうになった。
目を凝らしてもなんてことのない水のようだった。それにしても一体どういうつもりだろう。なぜ注意したのか?てっきりわたしを、どうにかするつもりだと思っていたのに。
あっという間だったのか、それとも相当登ったのか、気づけばもう梯子が終わっていた。濡れた石に手をつけないよう慎重に登りきった。もう指先の感覚も寒さもなにも感じない。体の震えももう止まっていた。
登ったそこは、正方形に近い平らな場所で、その左奥ではさらにまだ漆黒の石と梯子が細く伸びていた。
男がスーツのポケットに手を入れて下界を見下ろしていた。
男のいる場所とわたしの立つ場所から、幹のように太い漆黒の石が腰あたりまで生え、そこから中空に大きな窪みを作り、そこに真っ黒な水溜まりができていた。そしてその水溜まりから脈打つように黒い液体が流れ落ちていた。
「ここの石は大地の水を吸い上げて大きくなる。自身の成分を水に溶け込ませながら、石全体で地下の水を一番上まで押し上げるんだ。そして自らが押し上げた黒い水を頭から被り、少しずつ少しずつ成長していく。その成分が生きる物全てにとって猛毒になる。このビルができるまでに、何人が死んだか。ここは毒の結晶なんだよ。まあ、石になってしまえば大丈夫だが。」
男は相変わらず下界を見下ろしていた。
「じゃあ、この水って・・・。」
勢いよく吐き出し続ける水溜りを見つめた。
「ああ、そうだ。今も大地からここまで汲み上げている。」
地下の水をこの高さまで吸い上げているなんて、信じられない。
「ここは、本当に、すばらしい場所なんだ。」
男はそこで振り返ってわたしを見た。
初めてまじまじと男の顔を見た。触手もない。普通の、五十代くらいの人間の顔だ。なのに、その顔を見た時に猛烈な吐き気に襲われた。生理的な嫌悪感。わたしの身体のどこかが彼の異変に気づいている。
思わず顔を背けて息を整えた。男は気にしていないようだった。
「お前はさっき、いつ気づいたのか聞いたな。」
わたしは男の顔をみないよう俯いたまま「ええ。」と答えた。
「気づいたんじゃない。最初からお前を監視していた。」
「最初って?」
わたしは振り返った。どこからだろう?このビルに入る前から?彼と会っている時から?
「最初は、最初だ。お前が会社に居た時からな。」
最初から。わたしの旅の最初から。
「え・・・。」
「はは、そうだよ。君が会社にいた時から、君はここに来るように誘導されていたんだよ。」
「何を言ってるか、」
「まあ、端的に言えば、君の言う白いピース、ジグソーパズルのピースだったか?そんな風に見えるんだな。それだよ。そのために、我々の実験の検体になったのだ。君は。」
「実験?何の?なんでわたしが?」
わたしの旅は。この旅の意味は。
男は舌打ちした。「質問が多いな。」
「なあ、見てくれ。」
男は腕を広げてみせた。凍てつく風がスーツの袖を激しく打つ。
「お前ならどうする?この高さがあったら。
この高さを利用しない馬鹿なんていないだろう?ここはただのビル、無用な石の塔なんかじゃない。ここならなんでも視ることができる。我々はずいぶんも前から、ここを利用し、あらゆる波長を照射して様々な実験を行ってきた。この一番高い所でな。」
男は梯子の上を指した。どうやらそこが本当の頂上、てっぺんらしい。
「その中でまあ、君は行動の制御に関する実験に関わっている。特に相当遠隔地の生物をどれだけ正確に制御できるか、そこが知りたかったんだ。」
視る?なにを見る?行動の制御?なぜ?最先端の研究とやらの一環?疑問が次から次へと湧いてくる。でも一番聞きたいのは。
「じゃあ、なぜわたしが、その検体に選ばれたの?」
「ふむ・・・。」
男はしばし考え込んでいた。黒い水は相変わらずごぽごぽと吹き出し、鋭い風がわたしたちに吹きつけてきた。ああ、ここは人が来てはいけない場所だったんだとふいに知った。天空で繰り広げられる自然の出来事に、ちっぽけなわたしたちは関わっちゃいけない。
男はちらとわたしのほうを睨んだ。そして大きくため息をついた。
毒の濾過作用とコンタミネーション
「まあ、いい。我々は今回の実験を行うために、ちょうど良い検体を探していた。好奇心がある者だ。好奇心がないとだめだ。仮に照射が成功しても、行動に移りにくいからな。我々はこの塔から好奇心の強い者を探索していた。そんな時に、お前が引っかかったんだ。お前は新天地という存在に気づいただけでなく、あまつさえ憧れすら抱いた。その強い好奇心が一発でここのシステムに引っかかった。格好の検体だ。覚えているだろう?」
会社のトイレで見た、あの時だ・・・。あの日。新天地のビル群を美しいと感じた日。ここから出たいと、あそこへ行きたいと強く思った日。わたしが見つめた時、気づいた時、向こうもわたしに気づいたんだ。
そうか・・・。あの時から始まってたのか、この旅は。
「今の技術だと、近距離ですら正確なイメージは投影できない。ましてや遠距離だと、そもそも何かを投影できるかすら怪しかった。」
男はそこで言葉を切ってわたしを見た。
「よく、ここまで来たな。お前が家を出て通りを歩き始めた時、我々は歓喜した。あの遠隔地まですばらしい精度で照射できたんだ。それがお前の言う、白いピースの正体だ。ずっとお前の頭に照射し続け、お前はそれに従った。」
まるでわたしは教え込まれた道を通って迷宮を脱出しようとしているネズミみたいだ。わたしの旅は結局そんなものだったのか。小さな箱庭でみんなに笑われながら見られていた、そんなくだらない劇だったのか。なにが悔しいって、わたしが自分の意思でそのくだらないイメージとやらにつきあったことだった。
「何回も死にそうになったんだよ。」
「ああ、その時点で実験はもうほぼ終了してたからな。あとはほとんどどうでもよかったんだ。だがまさか、ここまで来るとはな。本当にすごいよ。」
まただ。こいつらと話していると本当に自分が虫かネズミかに思えてくる。それもよくやった虫かネズミだ。よくやった、虫。よくやった、ネズミ。
「じゃあ、なんで新天地に入ってから止めたの?」
男は少し黙った。
「一つは、技術的な面がある。ここ漆黒の石はなかなか透過しなくてね。いろいろ照射するにもいろいろと工夫がいるんだ。ましてや行動の制御なんて複雑なことはまだできないんだ。全く。もう一つは、ここも含め新天地はまた別の機構でいろいろと制御していてね。その兼ね合いで止めた。」
なら、新天地での行動は見られていない・・・?それともその別の機構の方で見られてた?
「いや・・・。」
なにか違う。わたしのことなんかじゃなく、もっと重大な見落としが。それもたくさん・・・。わたしのことじゃなく、もっと全体の・・・、全体のたくさん・・・。
男は黙ってわたしを見つめていた。
「待って待って、えと・・・えっと・・・なにしようとしてるの?」
目の前の男が急に恐ろしく感じてきた。なんでこんなことをこんなに自然に話せるの。
「だ、だって、わたしじゃなくてもできるんでしょう?それ。その実験。それになに?視てるって。あなたたち、自分の住むところの外にまで、なにやってるの?わたしたちの、新天地の外に住むみんなの、知らないところで勝手になにを視てるの?一体なんの権限があって・・・。」
「はははは。やっぱりお前は、このシステムに選ばれただけあるな。さあ、あとは?何がある?何でもいっていいぞ。」
男は楽しそうにゆらゆらと揺れだした。その揺れ方が人間的でなくわたしはまた得も言えぬ恐怖に襲われた。
「ふざけるな!あんたたち・・・。」
あまりにも問題が大きすぎて頭がいっぱいだった。事態はわたし個人の旅や問題なんかよりはるかに大きかった。わたしひとりで対処できるような問題じゃなかった。
「我々は、単なる利己的な研究だけでこの装置を使ってるわけじゃないんだ。お前たちのためでもあるんだ。」
男は諭すようにゆっくりと話した。
「なんでもかんでも見て?変態。」
「視てるだけじゃない。我々は、この塔、中枢区から見える範囲全ての者の好奇心を抑制している。」
知らない間に、なにかされていたってこと?時が止まったようだった。この男の言っている事が理解できなかった。
「抑制?好奇心を?そんなことできるの?」
「ああ、できる。」
「でも、なんのために?」
「いままで、一体何度文明が滅んだと思う。」
唐突な質問だった。
「数えきれない。その度に皆がまた一からやり直す。そしてまた崩壊する。なぜか?それは好奇心があるからだ。お前は抑圧されているから知らないだけだ。本来の好奇心の激しさを。あの、恐ろしさを。自身の身を滅ぼし、文明を滅ぼす。人が生きていくためには、文明が続くためには、こうやって人工的に抑圧し調整してやっとバランスが保たれる。実際、我々がこの抑制を初めて以来、一度も文明の崩壊もなく、静かな世界だ。」
自分の子を見つめるように世界を見渡した。
「好奇心を抑制すれば、皆自分の周囲のことにしか興味がなくなる。行動力が鈍り、毎日の生活でいっぱいになる。遠く離れた場所のことなんて誰も気にしない。自分たちの過去なんて誰も気にしない。お前なら気づいてたんじゃないか?旅の前から、そしてこの旅の先々で、不思議に思ったことがあるだろう?」
「なにを言っているか・・・。」
好奇心と興味。新天地の存在。つまらない会社。自分たちの周りのことばっかりのみんな。誰もあんなに目立つ新天地に興味を示さなかった。新天地で出会ったあのおばちゃんはどうして草原の向こう側を疑問に思わなかったのか。わたしが草原の向こうから来たと言った時不思議そうな顔をしたのか。
新天地はただの美しいビル群じゃなかった。知らない間にわたしたちはみんなやられていた。会社の人も、あのおばちゃんも。
「あいつも、そうだ。お前にパスポートとその腕時計をくれたやつだ。あいつだって、ここから飛び出したくせに、結局はこの新天地の最底辺で暮らしてただろう?お前は不思議に思っていたはずだ。どうして抜け出したのにまだすぐ近くに住んでいるんだろうってな。私はすぐにわかったよ。」
「どういうこと?」
「新天地は特に、強力に抑制している。ここ、中枢区を守るためにな。だからあいつはここを出た後すぐにそれに絡めとられたんだろう。知らず知らずのうちにな。馬鹿め。中枢区の内部では、好奇心を抑制していないが、その代わりに、まあ、目の前の研究に全ての好奇心を集中させるように、少し工夫している。ここは好奇心の強い者達が集まっているから、制御を誤れば致命的になる。好奇心が他へ向いてしまうことは許されない。ここは、ここだけが、文明が進歩しているまさにその場所だ。ここさえ守れれば、他が短絡的な行動や生活をしていても文明は進歩し続けるんだよ。」
「いまもこの瞬間も、ここの全ての人達に、その好奇心を抑制してるの?」
わたしは天空から下界を見渡した。
「ああ。もちろんだ。常に。片時も止まることはない。」
「そんなこと、本当にできるの?」
「ああ、できる。人の好奇心なんてものは、実は極めて単純な仕組みでできているんだ。だからこそ強力で、恐ろしい。その代わり、制御も驚くほど簡単だった。ただ、ここから見える範囲全ての者に影響を与えるには、それなりの物と技術が必要なんだが、ここはあらゆるものが入ってくるんでね。物も技術も。特にここの技術者たちのレベルは驚くべきものだ。」
「その人たちにも知らせてないんでしょ?このこと。」
「もちろんだ。」
「いつから、こんなことしてるの?」
わたしは大きく深呼吸した。開いた口にここの風が入ってくる。
「いつから?お前が生まれる前、この文明が生まれた直後からだよ。我々も最初は疑っていたが、本当に効果があった。見ろ!この景色を。争いの狼煙は上がっているか?誰かの悲鳴が聞こえるか?兵器は?血の湖は?こんなに静かな世界はない。結局、お前たちはそれでよかったんだ。この世界の歴史を知らず、仕組みをしらず、他に興味を持たず、自分たちだけの間だけで全てを完結させる。お前の住んでいた場所でも、あの工事現場でも、草原に住む鬼も、新天地で暮らす全ての者も、そしてここにいる者たちも。結局はこの広い世界を理解しようと、興味を持つこと自体、我々の許容範囲を超えているんだ。必ずほつれが生まれ、歪みが生まれ、そこから全ての崩壊へ加速していく。局所的な範囲で生きるからこそ、その中で互いに調整し、バランスを取り合える。その結果がこの景色だ。」
男はそこで一息置いた。だいぶ疲れているようだった。
「今回の行動の制御も、その一環だ。ここから好奇心を抑えていても、それでもなお、お前のように好奇心の強い者が現れる。そういったやつらはここに興味を持ち、そしてここへ来ようとする。そんなことは、許されない。ここに来るまでにそいつらの行動を強制的に制御し排除する。その実験のためにお前は選ばれたんだ。本当にうまくいった。お前たちは好奇心に導かれ頭の中で指し示す道に従わざるを得ない。お前たちの性質をうまく利用した、なかなかいいシステムだと思わないか?さすが我々の技術者だ。」
「何も知らない技術者ね。」
彼も、知らなかったんだろう。いや、彼だけじゃない。ここにいる全てだ。医務室で会ったあいつは、少し知っていそうだったけれど。だからこそ、あいつはあの白いピースの話しで動揺したのか。確かに、あれをこの中枢区で話せるのは、ほんの一握りしかいないだろう。下手したら、ここが崩壊しかねない話だから。しかし、むしろあいつがこんなに重大な話を知ってたって、あいつ相当上に居たんだな。
「ねえ、どうして、わたしにそこまで話すの。」
男は少し黙った。
「こっちへ来い。」
石に当たって砕け散る黒い水を被らないよう慎重にゆっくりと男の方へ歩いた。
「止まれ。」
わたしは黒々と水が溜まる窪みの側で立ち止まった。
「両手をその中に沈めろ。腕までだ。」
男はスーツの胸ポケットをまさぐり、黒い銃を取り出した。
「自分は兵器を使ってもいいわけ?みんなのこと勝手にこんなにしといて。」
「仕方ないんだ。これしかないんだ。さあ!早くしろ!」
男は銃をこちらに向けた。震えている。男を見ると男の身体自体が震えだしていた。
「撃つぞ。」
わたしはゆっくりと体を水溜りに向けた。目の前で見るとよけいに恐ろしかった。死者の世界にそのまま繋がっているような気がした。
ゆっくりと腕を上げ、真っ黒な水面のすぐそばまで近づける。男の方を振り返ると、銃口から暗闇が広がっていた。男は目を細めてわたしを狙っていた。
「つけろ!」
「ねえ、どうしてこんな」
「いいからつけろ!」
わたしは水溜りに手のひらを広げたまま固まっていた。水溜りはわたしの生命を吸い取ろうと大きな口を開けているようだった。この驚くべき自然現象の渦にわたしの全てを巻き込もうとしているようだった。まるでわたしの旅はここが最後だというように。
わたしは必死で逆らった。もはやこの男との戦いでなく、このビル、この石の塔との戦いだった。
「いや。いやだ・・・。」
いきなり後ろからどんと背中を押された。え・・・と思っている間に自分の手のひらが真っ黒な水溜りに沈み、腕がどんどんと呑み込まれて見えなくなった。
運命
振り返ると男の顔がすぐそばにあった。気づかないうちに後ろに周っていた。荒く生暖かい息遣いがわたしの首筋に当たる。
「はは、これでお終いだ。はは。」
「嘘でしょ・・・。」
わたしの腕が、肘のあたりまで飲み込まれていた。
「お前はもう終わりだ。」
後ろから声がする。自分が死ぬなんて。この旅で全てが終わっちゃうなんて。
「なんで。さっき猛毒だって、注意してくれたのに・・・。」
「あんなとこで死なれたら困るからな。誰にも見られずにお前を殺すには、ここしかもう残ってないんだ。お前は事故死だ。無知ゆえの、事故死だ。」
わたしは振り返り、窪みに溜まった猛毒の液体を手で払い男の顔へぴしゃっとかけた。
「う、お、お前・・・。」
男は銃を持った腕で顔にかかった液体を拭いた。その隙にわたしは銃身を掴み男の手からもぎ取り、そのまま空へ投げた。
「おおおお、おまえええ!」
男は半分目を開けたまま腕を広げわたしに飛びかかった。わたしは恐くてしゃがみながら、けれど同時に後ろに手を回し腰の斧を抜き、そのまま男の右足首に振り下ろした。
振り下ろされた斧は足首の付け根と足の甲との間に入っていった。驚くほど柔らかく、ばしゃっと音がして皮膚を切り割いて入っていった。まるで中に水を抱えたゴム袋を切り裂いた感覚だった。
すると斧が食い込んだ場所から緑や紫の液体がどばどばと吹き出してきた。絵の具を水に溶かしたような薄い色で、吹き出す度に緑と紫交互に違う色が出てきた。
「う・・うわ・・。」
わたしは急いで斧を引き抜いて液体から飛び退いた。わたしはまじまじと男を見た。やっぱり人間じゃなかった。
「う、がああああ!」
男は斧が刺さった足をかばいながらどんと横に倒れた。
「いったい、何だっていうの・・・。」
男の足からはまだ傷口から緑と紫の薄い絵の具が規則正しいリズムで吹き出していた。
ふと自分の腕を見ると、肘の辺りまで両腕が真っ黒に染まっていた。何度擦っても落ちない。手のひらも真っ黒だった。あの毒、ここの石の成分だ。
「だめだ。時間がない。」
わたしはさらに上に続く梯子を見上げた。
「おい、やめろ!」
男が叫んだ。わたしは斧を持ったまま構わず梯子に手を掛けた。
「やめろ!おい!わかってるのか!全部台無しにするんだぞ!やめろ!」
「抑制だって?勝手に?みんなの頭の中を見たり制御したり、そんな権利が!あんたのどこにあるっていうの!どう考えても間違ってるのに、なんで気づけないの!」
わたしは梯子を登った。毒が回るまでどれだけかかるのか知らないけれど、おそらく時間がない。
「待て!聞け!いいから聞いてくれ!お前がすることは、全てを変えてしまう!わかってるのか!あの鬼だってそうだ!どうしてあんな凶暴なやつがどうしていままで生き延びてこれたと思う?お前がその装置を破壊したら、あの鬼だってただじゃすまないぞ。人はどれだけ犠牲を払ってでもあの鬼を排除する。それが好奇心だ。今こうやってあらゆる者の好奇心を抑えているから、ぎりぎりのところであの鬼に気が向かず、恐怖でまだ押しとどめていられるんだ。」
わたしは梯子を登る手を止めた。
「あの鬼はこの文明が生まれた時にすでにいた。凶暴だが、数少ない前の文明の生き残りだ。お前は、それでもいいというのか!」
あの鬼の寂しそうな背中を思い出した。誰も遊んでくれる相手がいないんだ・・・。「それだけじゃない!お前がしようとしていることは、この一つの文明を崩壊に向かわせるだけじゃない!ここには、この中枢区だけは、どれだけ文明が崩壊しても残ってきた!だからこそここだけが、今までの多くの崩壊した文明の知識と歴史が守られている!ここだけが、唯一安全な場所なんだ!その装置を破壊すると今までの全てがおしまいなんだ・・・。あらゆる者がここへ押し寄せ、我々が丁寧に慎重に扱ってきたことを塵にするだろう!それでいいのか?ここは単に高い場所じゃない!お前は数多の文明の重みを想像できるか?その重みを想像しろ!」
「でも・・・。」
「なあ、知りたくないか?この石が成長する仕組みは驚くべきものだろう?この世界には驚くべきことがたくさんある!ここにはそれらに関する記述が山のようにある!あの鬼のことだって、詳細に書かれた書物がある!前の文明のことだって、太古の昔の歴史まである!どうやって今のこの世界が出来たか、ここで知ることができるんだ!お前なら知りたいだろう?お前ならその価値がわかるだろう?ここまで来れたお前になら!なあ、ここに住まないか?解毒剤なら下の実験室にある!好きなだけここにいていい!知りたいことを好きなだけ調べていい!だから降りてこい!毒が回らないうちに、はやく実験室へ行くんだ!」
わたしは振り返って男の顔を見た。男はしっかりとわたしを見返した。
「いや、違う・・・。」
「どのみち、もう無理なんだよ!」
わたしは男に説得した。
「このままずっと抑え続けられると思う?わたしはそうは思わない!」
ここまで、こんなところまで来たわたしには。いろんなことを感じながら、ここまで来た。
「彼が飛び降りたのが始まりだよ!なぜ彼は飛び降りた?ここは、より強く制御できてたんじゃなかった?なのに、彼はここに嫌気が差し、平らな外の世界に憧れた!このマークを作ったんだよ!あの時から気づくべきだったんだ・・・。どれだけ抑えようとしても、必ず彼みたいなのが出てくる。好奇心を抑制しても新天地に気づく人たちが現れるように、ここでも、きっとこの仕組みを気づく人が現れる!時間の問題なんだよ!あなたたちが抑えれば抑えるほど、そういった人たちは増えていくんでしょう?だから行動の制御なんかまで開発して無理やり排除しようとしたんでしょう?そんなことしても、根本的な解決にならないよ!あなたたちのシステムは最初から完璧じゃなかったんだ!早く気づいて、止めるべきだった!それに・・・!何が文明だよ!わたしたちを虫か実験材料のように扱って!勝手なことして・・・、一体誰のための、何の文明だよ!」
そう言って吐き捨てた後、わたしは梯子を登る手を早めた。この男は毒が回るまで時間稼ぎをするつもりだ。ちゃんと聞いていたら何もしないままわたしは死んでしまう。
「じゃあ、どうすればいいっていうんだ?我々が間違っていたとしても、お前がその装置を破壊したら、また振り出しに戻るだけだ!お前は何も見ていないからそんな悠長なことが言えるんだ!お前の行動がどれだけ悲惨な結果を迎えるか、私は知っている!ここに見える景色が今こうやって落ち着いたのは我々のおかげなんだぞ!己の歴史を知らない小娘が・・・!」
「わたしたちに歴史から目を背けるようにしたのは誰だよ!その結果がこれじゃない!その結果がここにいるわたしじゃないか!わたしがここにいるのは全てあなたたちが招いたことじゃない!その結果を受け入れろ!」
梯子はもうすぐで終わりだった。もうすぐで新天地の、本当の頂上だ。そしてわたしの旅の最後だ。
男から何か返事が返ってくることはなかった。わたしは振り向かないまま梯子を登りきった。
この中枢区、いや新天地の頂上は、一辺が二メートルほどのほぼ正方形の平らな石の床になっていた。その右側の隅に、小さなドーム型の装置が床にひっついていた。
わたしは斧を抜いてそのドームに振り下ろした。ドームは薄い膜でできていてあっさりと破けた。
手で膜を破り広げると、たくさんの細くこまかい銀色の金属部品に囲まれて、わたしの両手の拳を合わせたよりも大きい、深紅に光る宝石が嵌め込まれていた。
宝石の表面はたくさんの光が反射し合って美しく明るい光が踊っていた。けれどその最深部では深紅の暗闇が心臓の鼓動のように脈打っていた。
わたしは一瞬だけその宝石に目を奪われた。あなたは女でしょう?とその宝石が言ってきた気がした。宝石の魔力なんて信じなかったのに。わたしにはそんなもの感じるはずないのに。
視界に自分の真っ黒な腕が映ってはっとした。わたしはもう、終わりなんだ。自分が死ぬ前にはやく、この旅を終わらせないと。
わたしは大きく斧を振りかぶった。一度で仕留める。刃が欠けてもいい、いいから一度で叩き割るんだと自分に言い聞かせた。
斧は空中で停止していた。
「割れ・・!割れ・・・!」
どうしてわたしは振り下ろせないんだ。宝石はもうただの石にしか見えない。なのに、どうして。
「くそっ・・・!割れ!いけ!」
悔しくて悔しくて涙が溢れ出てくる。どうしてもあの男の言っていた事が頭から離れられなかった。この行為は、わたしの行動は、間違っているのか。ならわたしは、なんのためにここに来たのか。どうして死ななくちゃいけないのか。
「違う!違う!やっぱりこんなの間違ってるよ!絶対間違ってる!このままで、いいはず、ない!」
わたしは思いきり斧を振り下ろした。
新天地へ