天際のホームワーク
天際のホームワーク
お題『精霊馬』『氷の音』『くずきり』
健一郎の祖父――津田義三郎が死んだのは、去年の冬の事だった。
折しもその冬で最大の寒波が小さな農村を襲った日で、朝、顔を洗う為に洗面台に立った時だったと、健一郎は祖父と同居していた叔母の和子から聞いている。齢九十にしては快活で、このままだと二百歳まで生きそうだといつも笑い話の種になっていたが、寄る年波には勝てず、心臓発作を起こした後、搬送された病院でそのまま息を引き取ったと聞いた。
ピンピンコロリで良い親父だったわ――と、葬式で言ったのは健一郎の伯父、智志だった。
義三郎の子供は五人兄妹で、三人の男児、二人の女児に恵まれた。長男である智志は一度大学で実家を離れているが、元来のんびりした性格であった為どうにも都会に合わず、就職を機に戻ったと父から聞いている。その際、こっちの事は俺がやるから、お前らは好きに生きろと言われたようだったが、その後色々あって、智志は近場に家を立て、離婚し出戻った次女の和子が祖父の身の回りの世話をしていたらしい。
健一郎の父、良昭は三男坊で、昔から自由奔放、自分の好きな事ばかりしていた性格だったから、言われた通り――無論言われなくても――田舎に帰る事はせず都会で暮らしている。
ピンピンコロリ――誰の手も煩わせず綺麗に寿命を全うした祖父の最期は、何事も一本筋だったからと葬式で笑い話になる程、あっさりしたものだったらしい。
――死ぬ時は死ぬ。
何とも祖父らしいと、健一郎は思ったものだった。
そんな健一郎にとって祖父とは、田舎という言葉を聞けば一番に思い出すような存在だった。夏休みにしか会えない間柄ながら、悪い事をすれば親より先に怒られもしたし、その分良い事をすればその何十倍と褒められた。幼かった健一郎にすれば田舎は冒険の待っている場所でもあったから、そこに住む祖父は、やはり思い出の一番に来る。
その祖父、義三郎の初盆がやって来た。
その日はペンキを流し込んだようにはっきりとした夏空だった。熱気に育てられた入道雲が、水色一色の空にコントラストを与えている。その雲の尻は、立ちはだかる山並みに切り取られてしまっていた。
何日も続く猛暑にもセミ達は負けていない。ミンミンというよりはジュワジュワと聞こえる大合唱が、夏の厳しい日差しとはまた別に汗を誘う。
健一郎は祖父が住んでいた家の居間で、額から滲んだ汗を手の甲で拭った。
じっとしていても汗が吹き出る。扇風機からの風は酷く中途半端に熱気を混ぜっ返すだけで、あまり役に立っていなかった。
親族総出で初盆の準備が進められる中、一番手先が器用だからという理由で健一郎は精霊馬の作成を任されている。精霊馬を作るのに手先が器用も何もないだろうとは思ったが、元来プラモデルを作る事が大好きだった性もあって血が疼く。元よりじいちゃん達が行き帰りに乗るものだと思えば、腕が鳴るのも事実だった。
奥の台所では、健一郎の母親を含め女性達が振る舞いの為の食事を作っている。長生きしただけではなく、この辺りの人達とは交流が深かったせいもあって、準備する食事の量も盛大なものになるようだった。
「ケン! これどうすんの?」
庭の砂利が擦れるサリサリした音を聞いて、健一郎は作成中の精霊馬から顔を上げた。そこには白い軽トラックと、そこから下りて来たのだろう次男、明宏の姿があった。
「あ、それなら台所だってばあちゃんが」
幾つも積まれたダンボールを見て今日使う物だろうと察した健一郎は、片手で奥を指差す。
「台所? マジかよ。結構あんだぞ」
筋肉質な肉体を持つ明宏にもこのところの猛暑は堪えるようで、帽子の下の顔が大きく歪んだのが解る。白いタンクトップからはみ出た肩には汗の煌きさえ見えた。
「祐樹! おい、祐樹!」
明宏は一直線にこちらへ向かって来ると縁側に片手を突き、健一郎の隣で寝転がりスマホを触っている自分の息子の足を叩いた。
「いたっ! 何すんだよ」
「大袈裟なんだよ。ゲームしてる暇あったら運ぶの手伝え」
「はぁ? 何で俺が。っていうか、俺ケンちゃんの見張りなんだけど」
今時の子、と言うべきか、高校二年生にもなれば不満も躊躇なく口に出せるようにもなるのだろう。祐樹は頭だけを上げ、口元を大きくへの字に曲げた。
「何にもしてなかっただろうが。それに、お前が私立受けたいって言った時、じいちゃんが真っ先に味方になってくれたの忘れたのか。ちょっとは恩返ししろよ」
明宏の家は然程裕福ではない。だから息子には公立高校を受けさせるつもりだったのだが、当の本人である祐樹は私立を希望。しかし大学まで出すのであればそんな金はない。その話を聞いた祖父は、子供の道を閉ざす大人があるか、と大激怒し、三年間の授業料をポンと支払ったという経緯がある。
「解った! 解ったよ!」
痛いところを突かれたからなのか、有無を言わさずに掴まれた足首に観念したのかは解らないが、祐樹は参ったと言わんばかりに声を上げ、起き上がるとサンダルに足を通した。
それでもしっかりスマホは持って行く辺り、逞しいと健一郎は思う。
「ユミちゃん、お饅頭は何時頃だったかしらねぇ」
「あ、それならもう少しで届くよ」
「お母さん味見して!」
そんなすったもんだの間にも、廊下を行き交う女性達の声が聞こえる。あのおっとりした声は長女、聡子のものだろう。それに答えたのは、いとこの由美子だ。それから祖母に助けを求める和子の声もする。
ただでさえ五人も子供が居るのだから、孫、ひ孫と合わせるとかなりの数になる。それに加え近所の人も顔を出すだろうから、相当忙しいのだろう。これは自分も手伝った方が良いかもしれない――。
「ケンちゃん、これなぁに」
廊下の方を眺めながらそう思った健一郎に、幼い声が届く。
視線をやれば、いつの間に来ていたのか、はとこの友梨佳と貴之がちょこんと鎮座している。二人は由美子の子供で、義三郎からすればひ孫になる。
「これ、ひこうき? かっこいいねぇ」
来年から幼稚園に通う貴之は、辿々しい言い方で精霊馬を指を差し恍惚の表情を浮かべている。
「お、知ってんの? 飛行機だよ。格好いいだろ?」
正確に言えばそれは貨物機ではあったのだが、自作の精霊馬が褒められた事が嬉しくて、貴之の頭をぐりぐりと撫でてやる。
「ケンイチロウちゃん、指先器用なのね」
貴之の姉である友梨佳は小学校に通っている。女の子は皆こうなのか、随分大人びた性格で、おませの友梨佳と言われる事もあった。
「ねぇねぇ、なんでひこうきつくったの?」
半袖シャツの裾を引っ張られ、健一郎は貴之の顔を見る。
「これはね、じいちゃん達が天国から帰って来る時に乗る乗り物だよ」
「帰って来るの?」
そう聞いたのは友梨佳だ。
「そう。お盆になると帰って来るんだけど、天国は遠いだろ? だから早く帰って来れるように、こうやって乗り物を作ってあげるんだ」
「おじいはこれのってくるの?」
そうだよ――と、健一郎は大きく頷く。
「解った! 天国にも夏休みがあるのね! あたし達も飛行機乗って来たもの!」
友梨佳は閃いたとばかりに両手をパチンと鳴らす。
「な、夏休み?」
面食らったのは健一郎で、突然何を言い出すのかとそう思った。
「だってそうでしょ? あたし達も夏休みだもの。夏休みは、みんな乗り物に乗ってお出掛けするのよ。乗り物に乗るって事は、ほら! やっぱり夏休みなのよ!」
大人びていてもやはり小学生なのだろう。傍から聞けばとんでもない理論ではあるのだが、本人は至って真面目にそう思ったようだった。
「そうだね。天国も夏休みなんだよ、きっと。だからじいちゃん達が帰って皆の顔を見れるように、早く作ってあげなきゃね」
友梨佳の大真面目な顔に否定するのも大人気ないと感じた健一郎は、笑いを堪えながらも真面目に頷いて見せる。
「もぉ! ちょぉ暑いんですけどぉ!」
その時、玄関から若い女性特有の甲高い声が居間に届いた。
「あ! リンちゃんだ!」
色めき立ったのは子供達だ。凛は健一郎のいとこで、長男智志家の一粒種だ。今時の高校生らしくコスメやファッションに躍起になっているが大の子供好きで、まだ幼いはとこ達にも大人気という、将来有望なお嬢さん、というのが健一郎の感想である。
「あ、ケンちゃんちょっと聞いてよぉ。このクソ暑い中、部活とかマジ有り得なくない?」
リンちゃん――と駆け寄り足に纏わり付く子供達を上手く裁きながら、ジャージを来た凛は足早に居間に入って来た。
「部活だったの」
「そう! 今日じいちゃんの初盆だからって早く帰して貰えたけどさ、このクソ暑い中汗掻く事するとかマジ有り得ないんですけど」
信じらんない――そう言いながら、凛は冷蔵庫――それは何故か縁側に設置されている――を開ける。子供達は凛の足に抱き着き、中身を楽しげに見ていた。
「大変だね――」
「ちょっとケンちゃん! お馬さん出来たの?」
高校生でも大変な事があるもんだと、もう遠い昔の出来事に思いを馳せようとした健一郎の労いと、苦情にも近い問い掛けが重なった。
見上げればそこに居たのは由美子で、片手にお盆を持っている。
「あぁ、あとちょっと」
「あとちょっと……って何それ! 何作ってんの!」
「え? あ、貨物機と自転車……」
「はぁ? 道理で遅いと思ったわ! 何遊んでんのよ! っていうか、だから祐樹を見張りに付けたのに、あの子何してんの!」
「ママ、ひこうきははやいんだよ? ケンちゃんのひこうきはかっこいいひこうきだもの、おじいもビューンってかえってくるよ」
自信作なのに怒られた――そう思った健一郎に助け舟を出したのは、何と貴之だった。貴之は何故か凛の足に半分隠れ、まるで怒られるのを覚悟しているかのように母親である由美子を見上げている。
「ママもはやくおじいのおかおみたいでしょ? だからケンちゃんがんばったのよ?」
そんな風に言われてしまっては、由美子も無碍に怒れない。
「……解った。それで良いから、盆棚に早くお供えして来てよ。それから、これ子供達と食べて」
非常に間があったが、苛立ちを表していた肩がゆっくりと下がり、同時にお盆がテーブルに置かれる。
「あ、葛切りじゃん!」
一番先に声を上げたのは凛で、我れ先にとテーブルの前に座る。健一郎は茄子で作った自転車にハンドルを付けてから立ち上がり、
「凛ちゃん葛切り好きだったっけ?」
と問い掛けながら、盆棚に作った精霊馬を供える。
「何か最近好きになったらしいんだよ。前はそんなババ臭いのは嫌いとか言ってたんだけどな?」
由美子と入れ替わりで、凛の父親である智志が居間へやって来た。智志は片手に麦茶の入った瓶を、もう片方にグラスを四つ持ち、それをテーブルに置いて腰を下ろす。嫌味の交じる声に凛は葛切りから父親へと視線を向け、
「しょうがないじゃん。好きになっちゃったんだから」
そう言って唇を尖らせた。
「そういや、じいちゃんも好きだったよね、葛切り」
盆棚に手を合わせていた健一郎は、振り返って居間へ戻る。
「あぁ、そうだったな。風邪引くとこれ食えば治る! とか言ってたっけ」
そんで本当に治るんだよ――智志は懐かしそうに目を細めた。
「あ、スイカだ!」
「お、貴之スイカ好きか!」
庭では健一郎の父良昭が氷の入った盥を持ち、スイカを持った明宏が答えている。
「キンキンに冷やしてやっからな。冷たいスイカはうまいぞぉ!」
盥に水が注がれ、氷を割るサクサクという小気味良い音がし始める。
「スイカも良いけど葛切りも食えよ!」
子供達は現れたスイカに興味を奪われたようで、縁側へ駆け寄ると良昭と共に川から帰って来た他の子供達と一緒に、わあきゃあとはしゃいでいる。智志の声は、結果として無視される形になった。
「……あれ? お前そんな食べ方してたか?」
やれやれと言わんばかりに首を振った智志は、ふと娘の食べ方に目を留める。
「え? あ……ほんとだ……」
食べていた手を休め、凛は不思議そうに瞬きをした。
「……そういや……親父もそうやって食べてたなぁ……」
その言葉に、健一郎は祖父と葛切りを食べた時の事を思い出した。
添えられた黒蜜ときな粉を全部葛切りへ掛けた健一郎に対し、義三郎は黒蜜の入った器にきな粉を掛け、葛切りを蕎麦のようにして食べていた。
なんでかけないの――そう、聞いた事がある。義三郎は目尻を下げ、半分は酢醤油で食べるんだと言った。
それが何故だかとても狡い事のように思えて、じいちゃん、ずるい――幼かった健一郎はそう口走っていた。義三郎はその言葉に心底驚いたように目をまん丸にした後、そうだな、じいちゃんは狡いなと言って声を上げて笑った――。
「おじい、かえってきた?」
不意に掛かった声に、健一郎は回想から現実へと意識を戻した。貴之は身体を半分健一郎へと預けながら、満面の笑みを浮かべている。
「……え?」
「ひこうきでビューンでしょ? おじい、もうかえった?」
健一郎は反射的に盆棚を見た。
盆棚には、きゅうりで作った貨物機がある。早く帰って来れるよう、健一郎が丹精込めて作った貨物機だ。
――いや、早過ぎんだろ。
帰る時は真っ直ぐ帰る――。
何事にも一本筋だった、祖父の笑顔が思い浮かぶ。もしかすると待ち切れず、あの世で今か今かと精霊馬の到着を待っていたのかもしれない。
――じいちゃんらしいや。
「ねぇ! 天国にも宿題はあるのかしら? 大爺ちゃまはどんな自由研究するのかな? あたし、いい案があるのよ! 大爺ちゃまにも教えてあげるわ!」
真っ青な夏空を見上げながら、大真面目に言った友梨佳の言葉に、その場に居た全員が声を上げて笑った。
じいちゃんもきっと笑っている。
俺と葛切りを食べた、あの日と同じように――。
(了)
天際のホームワーク
この作品は「夏の三題噺ったー」様(URL : http://shindanmaker.com/255926)からお題をお借りしました。
表紙画像 : いもこは妹 様 http://www.pixiv.net/member.php?id=11163077
この場をお借りし、御礼申し上げます。