紅葉の海(連載)
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広縁にある椅子に腰を下ろすと、しんとした部屋に思わぬ大きな音が響いて驚いた。他に宿客はいないのだろうか……。森閑とした部屋の端っこで窓の外を眺めていると、染まりすぎた紅葉が風に吹かれて、地面に落ちる音さえも聞こえてきそうであった。
木場くんが風呂に行くと言って部屋を出てから、ずいぶん経った。ふいに彼が「何だかこの宿はこわいよ」と、宿の門をくぐった時に言った言葉が思い出されてぞっとした。
窓の外には思い思いに染まった木々が所狭しと並んでいるのが分かる。少し窓を開けて見ると、冷たい風が、中の温い空気をかき混ぜて消えた。私はその風に金木犀の匂いを感じた。秋も深まり、冬の訪れが今にも聞こえてきそうだというのに、季節外れの金木犀の香りは私の鼻をくすぐる。
広縁の椅子で、ぼうっとしていると急に地面が揺れるような轟音がして、はっとした。思わず椅子から滑り落ちそうになった所を、危うく肘掛を掴んで回避した。すると轟音に続くように、ぱあんと甲高い音と眩い光が窓に映って、一瞬で消えた。あとには残響と残光が残っている。私はどきんとしている心臓を押さえながら、窓から顔を覗かせた。紅葉の中、そこには一本のレールが伸びている。どこまで続くのか、先は真っ暗で見えなかった。
風呂から戻った木場くんに、
「君のせいでずいぶんこわい思いをした」というと、
「君は小心者だから」と言った。
「君が最初にこわいと言ったんだよ」
「ああ、それは女将さんが、キッとこっちを睨んだからね」
「ほんとうかい」
「そんな嘘は言わないよ」
「なんか変な宿だな」
彼は私の前に立って窓を大きく開け、夜風に吹かれている。何を思っているのか、濡れた髪が、くるくるとうねり、顔を隠していた。すると不意に窓の桟を掴んで、身を乗り出した。驚いて、しかし動けずにいると、
「何かいるよ」
と彼が言った。
「何か?」
「うん、何かがレールを横切った」
「たぬきだろう」
「ケモノのように思えたけれど……」
「………」
「お湯はどうだった?」
「なんだか匂った」
「お湯がかい」
「ああ。……、そうそう、なんかこの匂いに似ている」
そう言って彼は目を閉じた。「ぼくはこの匂いが苦手だ」
「金木犀か」
苦手だと言った彼は、しかしいつまでも目をつぶって匂いに身を委ねていた。
私は彼がそのまま落っこちやしないかと不安に思ったが、そのまま風呂へと向かった。
紅葉の海(連載)