雲は遠くて(3)

101章 正月の信也と心菜と由紀の楽しいひととき

101章 正月の信也と心菜と由紀の楽しいひととき

 2016年、1月3日、日曜日。午後の2時ころ。
気温は16度、風は西南西と穏やかである。

 青木心菜(ここな)と水沢由紀は、京王井の頭線の電車から、下北沢駅のホームに降りた。
乗客たちには、ほのぼのとした、のんびりムードの正月の雰囲気も漂(ただよ)う。

 青木心菜はダッフルコートと白いニット。水沢由紀も暖かいフェミニンなアウター。
ふたりとも、キュートな少女風コーデで、元気でかわいらしい学生のようだ。

 心菜の家は、京王沿線の下高井道駅の近くにある。
由紀の家は、下高井道駅の隣の桜上水駅の近くにある。
二人が通った小学校、中学校、そして都立高校は、その両駅の中間にあった。

 二か月ほど前のこと、由紀は、腱鞘炎(けんしょうえん)で困っていた心菜の、
マンガの制作を手伝っていた。そして、心菜の腱鞘炎が治った現在も、
マンガ制作のアシスタントを続けている。
 
 ふたりは小学生のころからマンガが大好きな、無二の親友であった。
心菜は、1992年3月1日生まれ、身長165センチ、23歳。
由紀は、1991年11月8日生まれ、身長166センチ、24歳。
 
下北沢駅南口の改札口を出ると、心菜は、川口信也に電話をする。

「あ、しんちゃんですか。いま下北の駅に着きました。
今から、ブリキボタンに行(ゆ)きます。それじゃあ、すぐ行(ゆ)きますから!」

 心菜は、信也と、カフェ・ダイニングバーのブリキボタンで待ち合わせをしている。

ブリキボタンは、下北沢駅南口から歩いて2分、セントラルビルの2階にある。

 演劇の街でもある下北沢らしいアンティーク(古美術品的)な空間の、
全25席は、ソファというカフェである。

 川口信也は、フランスの洋裁職人のアトリエ(工房)をイメージさせる個室にいる。
信也は、BLACK(黒)のチェスターコートをソファの脇(わき)において、チェックのシャツと
デニムパンツの服装だった。
信也は、1990年2月23日生まれ、身長175センチ、25歳。

「信也さん、あらためて、あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします!」

 心菜は、テーブルの向かいの信也に、恥(は)ずかそうに頬(ほほ)を紅(あか)らめながらも、
満面の笑(え)みでそう言うと、深々と会釈(えしゃく)をする。

「信也さん、あけましておめでとうございます!わたしも、よろしくお願いします!」

 由紀も、女性らしい魅力的な微笑(ほほえ)みで、軽く会釈をすると、信也にそう言った。

「心菜ちゃん、由紀ちゃん、あけましておめでとう!二人の美女と、お正月とは、
おれもツイているなあ。あっははは。でも、その信也さんはやめてくださいよ。
しんちゃんで言いってば、おれを呼ぶときは。あっはは」

「あっ、そうでしたわよね。つい、緊張しちゃって、しんちゃんなんて、
呼べねくなっちゃって。ごめんなさい!しんちゃん!」

 心菜は、ちょっと困った顔をして、微笑んだ。

「はい。心菜ちゃん、これが、いままでに、おれの親が記録しておいた、
大村智(さとし)先生の、テレビで放映した全部の動画が入っているDVDです」

 信也は、そう言いながら、心菜の前に、ケースに収まっ2枚のDVDを差し出す。

「あ、うれしい。しんちゃん、本当に、ありがとうございます!」

 この正月に、信也と心菜と由紀が、会うことになったのは、
去年の12月19日の、『下北芸術学校・音楽祭り』で、この三人で歓談していたら、
大村智の話で盛り上がったことが、きっかけであった。

 2015年の12月10日に、ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智は、
山梨県韮崎市(にらさきし)の出身であり、同じ韮崎市の生まれの川口信也や両親も、
大村智のその研究や仕事の成果や人柄などに、深い感動を覚えている。

大村智が発見した、微生物から作られた特効薬イベルメクチンは、
1988年からアフリカで配布が始まり、
寄生虫による、盲目になるなどの感染症から、現在も年間3億人を救っている。

 また、そのイベルメクチンは、犬の死亡の原因であるフィラリア症から、
犬たちを救い続けている。

 フィラリア症は、蚊の吸血を媒介として、体内に入り込む寄生虫のフィラリアによって、
引き起こされる症状で、寄生虫が心臓に住み着く病気である。
現在では、犬の寿命が10年延(の)びたといわれていて、愛犬家たちも感謝の声を上げている。

 若くて、かわいい年頃ごろの青木心菜も、家の中でポメラニアンを飼う愛犬家で、
「大村智先生に感謝してますし、先生のお仕事やお人柄には深く感動もしてるんです!
大村先生のことをもっと知りたいんです!
大村先生は、美術に造詣が深くって、絵がとてもお好きで、
美術館もご自宅の近くに建ていますよね。
いつか、韮崎に行って、その美術館で、大村先生の好きだという、
コレクションの絵も鑑賞してみたいです!しんちゃん」と言うのであった。

 そのとき、信也は、「大村先生は、科学も芸術も、創造的な仕事をするためには、
人のマネから入って、それを超えていくことが大事とか言ってますよね。
おれも、同感しますね。まさか、韮崎から、世界に誇れる、偉大な人が現れるなんて、
おれも、すごっく、うれしいですよ。あっははは。
でも、いまや人気漫画家で売れっ子の心菜ちゃんも、
大村先生の大ファンとはね。このことも、おれは、すごっく、うれしいですよ。あっはは。
えーと、それじゃあ、おれのおやじ(父親)が、
大村先生のテレビの放送を、録画して、それを送ってくるから、
そのダビングしたDVDを、心菜ちゃんにプレゼントしてあげますよ」という約束をする。

「え、本当ですか。うれしいです。ありがとうございます。しんちゃん。
あの・・・、こういうときに、遠慮のない、わたしって、破廉恥(はれんち)なんですけど、
いつごろになるでしょうか?そのDVDを、プレゼントしていただけるのは?」

 そのとき、普段と違って、神妙な、しかし、かわいい顔をして、心菜がそう言うので、
「そうだね。今年はもう無理だろうから、お正月!お正月に、どこかでお会いしましょう!
そのときに、大村先生のDVDも、プレゼントさせていただきますよ!あっはは」
と、信也は、笑いながら、そんな約束をしてだった。

 信也と心菜と由紀は、正月だからと、ビールやワインを、飲み物に選んだ。楽しく会話も弾んだ。

「前から、お聞きしたいと思っていたのですけど・・・、
心菜ちゃんって、笑うと、頬(ほほ)に、エクボがでるんですかね?おれ、女の子のエクボって、
始めてなんです。エクボって、心菜ちゃんが、ほら、そうやって笑うときに、
頬にできる、その小さなくぼみのことですよね。
おれって、エクボ見るの初めてなんですよ。なんか、
エクボって、よくわからなかったから、感動しちゃうなぁ。あっははは」

 スウィートチリソースがトッピングの、カマンベールチーズフライをつまみながら、
信也は、ビールを片手に、そう言って、上機嫌になって、笑った。

「やだあ。しんちゃんってば。この右のほっぺたのでしょう?
実は、これこそが、エクボなんですよぉ。
わたし、エクボがでるのって、知られるのが、恥ずかしいんです!」

「でも、心菜ちゃんの、エクボ、かわいいんだもの。わたし、うらやましいわ!
わたしも、ひとつ、欲(ほ)しくなちゃう!」

 由紀がそう言って、隣にいる心菜の肩にかかりそうな黒髪を、指先で、優しくなでる。

 三人は、楽しく笑った。正月の楽しいひと時が、楽しい会話で過ぎていった。

≪つづく≫ --- 101章 おわり ---

102章  信也と竜太郎たち、詩や芸術を語り合う

102章  信也と竜太郎たち、詩や芸術を語り合う

1月16日の土曜日、午後3時。空は青く晴れ渡っているが、気温は12度ほどと寒い。

 渋谷駅のハチ公口を出て左の、忠犬ハチ公像の広場で、川口信也と森川純、
新井竜太郎と、竜太郎の弟の新井幸平の4人が待ち合わせた。

 信也たち4人は、道元坂(どうげんざか)下交差点からすぐ近くのビル2階の、
焼き鳥屋(福の鳥)に入った。

「男だけで、一杯やるのも、たまにはいいもんですよね。
じゅん(純)ちゃん、しん(信)ちゃん、こう(幸)ちゃん、あっはは」

 店内の奥にある個室に入って、テーブルを前に、くつろぐと、竜太郎はそう言って笑った。

 《福の鳥》は、竜太郎が副社長をしているエタナールが、全国展開をしている、
芸能人や著名人にも評判の、焼き上げる炭は備長炭(びん ちょうずみ)の、焼き鳥屋である。

 席数は41席ある。 完全禁煙で、長い厨房を囲むカウンターと、個室の、
おしゃれで落ち着いた空間であった。

「まあ、うちのエタナールと、じゅんちゃん、しんちゃんたちのモリカワとが、
ともすれば、敵対関係になるような、同業の外食産業であるのに、
現在のように大変な友好的な関係にあることを、まあ、お祝いして、乾杯といきましょう!
じゃあ、これからの、みなさまのご発展、ご健康を願いまして、かんぱーい!」

 そう言って、竜太郎は、乾杯の音頭をとって、みんなと生ビールのグラスを合わせた。

「うちのおやじと、竜さんのおやじさんとが、あんなに意気投合しているのが、
おれには不思議いなくらいなんですよ。あっはは」

 森川純が、そう言って、ジューシーな焼き鳥のねぎまを頬張(ほおば)る。

「うちのおやじも、あんな強面(こわもて)に見えるんですけど、けっこうと繊細で、
芸術的なものが大好きなんですよ。じゅんちゃん、あっはは。
又吉直樹さんの芥川賞受賞なんかも、自分の息子のことのように喜んでいたんですから。
あっはは。まあ、うちのおやじには、『企業は、物を作って売るばかりじゃだめだ。
文化を創造するくらいでなければ、企業は時代の流れを生き残れない』
っていう考え方があるんですよ。おれも、十代のころは、それを聞いて、
そんなもんかなぁ!?くらいにいしか思ってなかったんだけど。
最近は、なるほどって、そんな哲学に感心もしているんですよ。
なあ、こう(幸)ちゃん、あっはは」

 竜太郎は、そう言うと、話を弟の幸平にふった。

「そうですよね。うちのおやじは、文化を創造っていえば、
話が大き過ぎいるかもしれないですけど、『人なら、この世に生まれた以上、
自分の物語を作っていくべきだ』とか言うんですよね。
『企業も人の集合体なわけですから、歴史に残るような、世のため人のためになるような、
大きな物語を作っていことが、理想的な企業の姿だ』と言うんですよ」

「なるほど。それで、まあ、うちのおやじとも気持ちとがぴったり合って、
エタナールさんとモリカワで共同出資という形で、
若い芸術家たちを支援したり、社会に送り出すための、
慈善事業のユニオン・ロックの活動が開始されたわけですよね。
そして、その社会的な反響といいますか、注目や相乗効果は素晴らしいもので、
エタナールさんとモリカワも、同業者が羨(うらや)む商売繁盛なんですよね。
でも、ユニオン・ロックを立ち上げたのは、
ほとんど、竜さんのおひとりの企画であったのですよね。
それがまた、すばらしいと、おれなんか、感心しているんです。
竜さんは、ユニオン・ロックによる、
このような宣伝効果とかは、最初から考えていたんですか?」

「あっはは。おれって、もう33歳になるけれど、20代のころは、
エタナールを大きくして、世界的な大企業にすることしか考えていなかった野心家の、
愚(おろ)かな人間だったんですよ。もっと正確に言えば、ちょうど、2年前になりますけど、
じゅんちゃん、しんちゃんたちのモリカワを買収しようと計画したころまでは、
おれは、愚か者だったんですよ。なあ、こうちゃん。あっはは。
そこで、モリカワの社長さんや、しんちゃんやじゅんちゃんたちの、
心の通った経営思想や生き方に、感動して、目覚めたんですよ。
人間って、知らず知らずのうちに、欲に目が眩(くら)んで、
正常な判断力を失ったり、生き方を間違えるもんなんですよね。あっははは」

「竜さんは、若いときから、スティーブ・ジョブズのことが、お好きで、
憧れているわけじゃないですか。ですから、ジョブズも、アップルとかで実現したかったことは、
芸術的なセンスのいい平和な世の中をつくっていこうってことなんですから、
竜さんの生き方には多少の軌道修正はあったとしても、そんなに間違ってなかったんですよ。
ね、竜さん、あっはは」

 そう言って、信也は、信頼の眼差(まなざ)しで、竜太郎を見る。

「あっはは。そう言って、援護射撃をしてくれますか、しんちゃん。ありがとう。
まあ、おれも、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツの意志を継いでいきたいですよ。
インターネットやデジタルを、彼らは開発していたんですからね。
世界中に、良質な芸術を広めていって、心の優(やさ)しい人を、
世の中に、ひとりでも多く増(ふ)やしていくしかないように痛感しているんですよ、おれも」

「そのとおりですよね、竜さん、一緒に、これからも、がんばりいましょう!
おれも、みんなが、とりあえず、世の中の人たちが、
みんな、芸術家か詩人になっちゃえばいいんだと思っていいるんです。
なにも、大芸術家じゃなくても、大詩人になんなくっていいんですよ。あっはは。
美しいことを美しいと感じることができれば、それで、立派に、芸術家だし詩人なんだと思います。
社会に認められるとか、プロになるとかは、また次元の違う、別の話ですけどね。
去年の12月のNHKのEテレなんですけどね。 『課外授業・ようこそ先輩』で、
歌人の斉藤斎藤(さいとうさいとう)さんが、とても、いいこと言っていたんですよ。
おれ、これこそが、詩人の原点だし、芸術の原点だと感じたんです。
斉藤さんは、図書館で、岩波新書の小林恭二さんの『短歌パラダイス』を読んで、
その本の中の、歌人の奥村晃作(おくむらこうさく)が作った短歌に出会って、
それに感動して、歌を作りを始めたそうなんですよ。
その短歌が、どんなのだったか、想像できますか、みなさん!?あっはは」

「どんなの?どんなの?」とか、
「斉藤さんって、名前も斎藤なんだぁ」とか、みんなは口々に言う。

「奥村晃作さんの短歌は・・・、

次々に
走り過ぎ行く
自動車の
運転する人
みな前を向く

・・・というものなんです!どうですか、おもしろいですよね!」

「あっはは、おもしろい短歌だね」と竜太郎は言って笑った。
みんなも、その短歌のストレートさとかに、感心しながら笑った。

「斉藤さん、この短歌にこんな
説明をしています。
『運転する人って、じーと、みんな前を向いているわけで、素敵じゃないですか』とか。
あと、『短歌というのは、別に誰かに何かを伝えようとするもではない」とか、
『もし、あなたが生きていて、ある瞬間に、何かを思ったとき、
何か景色を見て、何かを感じたというときに、
その感じたことは、世の中の、ほかの誰がいいと思わなくても、
あなたが感じたということは、あなたが感じたこと自体に価値がある』とか言ってました。
おれは、こんな考え方こそが、詩や芸術というものの原点なんだ思ったんです。
世の中では、詩や芸術を、難(むずか)しいことに考えすぎて、
普通の人間のものではないものにしてしまっていますからね!
子どもの心や感性でも、やっていけるのが、詩や芸術の原点ですよね、きっと」

「しんちゃんの言うとおりだね。難(むずか)しいもんにしまっているから、
詩や芸術を、みんな、簡単に、手軽に、楽しめなくなっているんだ、きっと。
みんなで、力を合わせて、ユニオン・ロックとかで、人間性の回復の仕事でもしてゆきましょう!」
じゃあ、みなさん、また、カンパーイ!」

 竜太郎がそう言って、みんなと、ビールグラスを合わせた。
みんなは、笑顔で、美味(うま)そうに、生ビールを飲んだ。

≪つづく≫ --- 102章 おわり ---

103章 信也たち、ゲス乙女のことや、男女のことを語り合う 

103章 信也たち、ゲス乙女のことや、男女のことを語り合う

 1月23日の土曜日、午後4時過(す)ぎ。空は一日曇り空で、気温も7度ほどと寒い。

 川口信也と信也の彼女の大沢詩織、新井竜太郎と竜太郎の彼女の野中奈緒美、
その四人が、やきとりと書かれてえる大きな暖簾の、もつ焼きの店に入る。
炭火でモツを焼く煙が、大きな換気扇から、外にモウモウと放たれている。
カウンターと座敷、30席があって、店内は禁煙で、モツを焼く煙もなく、清潔感があった。

 店は下北沢駅(しもきたざわえき)から3分の南口商店街にあった。
信也が課長をしている外食産業の会社モリカワが全国展開している、
『モリモツ』1号店、本店である。

「ストレス解消には、竜さんやしんちゃんや詩織ちゃんたちと、お酒飲んで、
楽しく騒(さわ)ぐのが、一番だわ!」

 予約してあった座敷のテーブルにつくと、奈緒美は、可憐な笑顔で無邪気にそう言った。

 奈緒美は、人気も上昇中のモデル、タレント、女優で、
竜太郎が副社長をつとめるエタナールの、芸能プロダクション、クリエーションの所属だ。
 奈緒美は、1993年3月3日生まれの22歳、身長は165センチ。

「あっはは。奈緒美ちゃんも、いまは、お仕事が忙(いそが)しいから、
人間関係とかでも、大変なんだろうね。
人間関係って、一番のストレスのもとだからね。
まあ、今宵(こよい)は、気を使うことのない仲間だけだから、楽しくやりましょう!」

「竜さんも、しん(信)ちゃんも、優しくって、紳士だから、大好きですよ。
ねえ、詩織ちゃん!」

 奈緒美が、テーブルの向かいの詩織にそう言って微笑(ほほえ)む。

「うん、竜さんも、しんちゃんも、心があったかいよね。思いやりがあるから、好きだわ」

 信也の隣に座る詩織はそう言って微笑む。
ビール風低アルコールのホッピーのジョッキに口をつける。
詩織は、1994年6月3日生まれ、21歳、身長163センチ、
早瀬田大学・文化構想学部3年生、
ロックバンド、グレイス・ガールズの、
ギターリスト、ヴォーカリストである。

 突き出しの漬(つ)け物の茄子(なす)もおいしく、大皿(おおざら)の、
タレ味のシロやアブラ、塩味のカシラやハツなど、
どれも最高に美味(おいし)く、追加の注文もした。

「おれは、男として、詩織ちゃんや奈緒美ちゃんには、
絶対に、いつまでも、幸せでいてもらいたいんだ!ねえ、竜さん!」

 信也が、ホッピーで、上機嫌になって、そんなことを言った。四人とも、ホッピーを飲んでいる。
信也は、1990年2月23日生まれ、25歳、外食産業モリカワの課長、
ロックバンド、クラッシュ・ビートの、ギターリスト、ヴォーカリストである。

「そうだよね。愛する女性を幸せにしたいっていうのは、男としての夢の1つであるわけですよ。あっはは」

 竜太郎も、そう言って、陽気に笑った。竜太郎は、1982年11月5日生まれ、
33歳ながら、外食産業最大手エタナールの副社長で、最高情報責任者、CIOだ。

「わたしも、詩織ちゃんも、竜さんやしんちゃんに、好きな相手だからって、すぐに、
結婚を迫(せま)ったりするような野暮(やぼ)な女の子じゃないですよ。ね、詩織ちゃん」

「うん、そうね、奈緒美ちゃん。結婚することって、愛があればいいとか、
そんな、簡単なことではないと、わたしも姉とよく話しているのよ。
女性は、結婚に、平和な家庭の夢を見るけど。
男性は、仕事や遊びに、夢を見たりするしね。
男女では、考え方や夢が、どこか相反しているのかもしれないわよね。ねえ、しんちゃん」

「詩織ちゃんも、奈緒美ちゃんも、男心を理解してくれるから、
素晴らしい女性なんですよ。それにはいつも感謝しています、あっははは。
おれは、男性も女性も、夢を追いかけたり、毎日を楽しむことが、
まずは1番に大切だと思いますよ。その延長線上に、この人となら一緒に暮らしたいとかの、
結婚とかもあるんだと思いますけどね。ねえ、竜さん」

「うん、男女の関係って、そんな感じかな。
相反する考えや夢があるから、その相互理解から、良質な男女関係も成立するんだろうね。
そして、お互いに楽しくやっていって、その先に、結婚があるのかな。
でも、結婚って、決して、人生のゴールじゃないし、
人生の新たなスタートのようにおれは感じるけどね。
だから、かなりな決心がいるんだろうな!
まあ、結婚したら、それなりの社会的な責任も出てくるよね。
いま、ゲスの極(きわ)み乙女(おとめ)の川谷絵音(かわたにえのん)さんや、
ベッキーちゃんたちなんか、
不倫交際しているとか、マスコミや世間からいろいろ言われて、
すごい騒動で、ゲス乙女のイメージダウンにもなっているけど、
これが独身なら、何も問題ないんだからね。」

「まあ、詩織ちゃん、奈緒美ちゃん、おれも、竜さんも、わがままを言って、
困(こま)らせることもあるだろうけれど、
いつだって、男として、詩織ちゃん、奈緒美ちゃんの幸せを真剣に願っています!
これからも、よろしくお願いしますよ。あっはは」

 信也が、そういって、笑った。

「うん、詩織ちゃん、奈緒美ちゃん、楽しくやっていきましょう!」と竜太郎も言った。

 信也と竜太郎が、あらたまったような顔で背筋をを正して、そう言うものだから、
詩織も奈緒美も、「こちらこそ、よろしくお願いします!」と言って、明るく笑った。

≪つづく≫ ーーー 103章 おわり ーーー

104章  信也と竜太郎、芸術や僧侶の良寛を語り合う

104章  信也と竜太郎、芸術や僧侶の良寛を語り合う

 2月13日、土曜日。朝から晴天で、気温は22度ほど、春が来たようである。

 午後の4時過ぎ。川口信也と新井竜太郎のふたりは、
行きつけのビアバー、ザ・グリフォン(The Griffon )の、9席あるカウンター
で、生ビールを飲み始めている

 ザ・グリフォンは、20種以上のクラフトビール(地ビール)を用意する
渋谷駅から歩いて3分の、 幸和ビルのB1Fにある、39席の、落ち着いた雰囲気のいい店である。

「竜さんとこは、最近の売り上げとかは、どうですか?」

「まあまあ、ですね。それでも、売り上げはジワジワと右肩上がりで、順調ですよ。
おかげさまでね。あっはは。しん(信)ちゃんのところは、どうですか?」

「おれのところも、まあ、順調といっていいんでしょうかね。
お客さんは、みなさん、出費を抑えているようですけど、みなさん、店を利用してくださっています」

「モリカワさんと、うちのエタナールとで、芸術家志望の青少年たちを支援をする、
慈善事業を共同でやっているとかの友好関係は、
同じ外食産業の会社としては、通常ありえないものですから、なぜなのだろう?とか、
雑誌や新聞やテレビでも、話題を集めて取り上げられてるしね、
・・・その結果、いい宣伝にもなって、
世間からも、好意的なイメージに受け取れているんですよね。あっはは」

「まったくですよね。それを1番最初に企画した竜さんの先見性には、
おれは今も感心するんですよ。あっはは」

「たいしたことじゃないですよ。なんでも、1番先に始めれば、注目されるだけのことです。
スティーブ・ジョブスも言っているじゃないですか。『ゼロは積み重ねても10にはならない。
創造力とは、いろんなものを結びつける力だ。』ってね。あっはは」

「うーん。確かに、その通りですよね。竜さん。あっははは。
・・・ところで、竜さん、最近、『ルノワールは無邪気に微笑む』っていう本を読んだんですけどね」

「あっはは、『ルノワールは無邪気に微笑む』ですかぁ!?きっと、しんちゃん、
あのマンガ家の青木心菜(ここな)ちゃんからでも、その本を勧(すす)められたんでしょう?」

「まいったなぁ、竜さん。そうなんですよ。さすが、竜さん、すごい勘(かん)のよさですね。あっはは」

「だって、今やすごい人気の青木心菜(ここな)ちゃんのマンガは、マンガ界のルノワールって、
いわれているくらいじゃないですか。あっはは。おれも大好きですよ。
彼女の繊細な絵のタッチとかは。
そうか、しんちゃん、心菜(ここな)ちゃんともうまくやっているのかぁ。それはよかった!あっはは」

「いやいや、おれには、詩織ちゃんがいますから、そんなに深い付き合いはないですよ。
あっはは。まあ、『ルノワールは無邪気に微笑む』を書ている千住博(せんじゅひろし)さんが、
こんなことを言っているんです。
≪芸術とは、イマジネーションをコミュニケーションしたいと思う心のことです。
つまり芸術とは、気持ちを伝える行為そのもののことなのです。
つまり、人間は本来、みんな芸術的な存在なのだということです。≫とか・・・。
それで、千住さんは、われわれ、人類の歴史を、戦いの歴史だったととらえているようで、
この文章の終わりを、こんなふうにまとめるんです。
≪戦いの歴史とは、そんな《この体験のために芸術家でなくなってしまった人びと》の
歴史なのかもしれません。みんなが失った芸術性、
失いつつある芸術性を回復できればと思います。≫って言ってました。
おれも、人間は、みんな自然の美しさとかに感動できる詩人のはずだって思っているほうなんで、
千住さんのこの考え方には共感するんですよ。」

「なるほど、千住さんっていえば、ヴェネチアのビエンナーレの絵画部門で東洋人として、
初めて優秀賞を受賞した、すばらしい日本画の芸術家ですよね。
おれも、千住さんのお話には共感しますよ」

 そう言いながら、竜太郎は、カウンターの中のバーテンダーに、
ビールをまた1つ注文する。

「どんな子どもや赤ちゃんも、最初はみんな、心も澄(す)んで、きれいなはずですもんね!」

 そう言って、信也は、揚(あ)げたての鳥の手羽を、おいしそうに頬張(ほおば)る。

「人は、子どもからオトナへと、生きているうちに、美しいものを美しいと思う心さえ、
忘れ去ったりする場合もあるんだろうね。しんちゃん。
その原因は、世の中にある、競争や戦争や、
いろいろな生きるための厳(きび)しさもあったりするんだろうけどね。
この前、NHKのEテレの『100分 de 名著』を見ていたんだけど、
日本の僧侶で、誰もが知っている有名な良寛(りょうかん)さんの詩歌とかを
特集していたんだけどね。しんちゃんも見てたかな?
その中で、良寛さんのこんな言葉があったんだよ。
≪暮らしのために生きることをやめ、世捨て人になってみて、初めて月と花を楽しむ、
ゆとりをもって生きることができました。≫とかね。
あと、
≪花は無心で蝶(ちょう)を招いているし、蝶も無心で花を招いています。
花が開くと、蝶がやってきます。蝶が来たときは、花は共鳴するように開きます。
同様に、わたしも相手のことを気にしないまま、あるべきように対応し、
相手もわたしに無理に合わせるのでもなく、
その人なりに自由に振る舞って、
お互いに人としてあるべき、
自然の法則にしたがって、楽しんでいます。≫とかね。
なんて言ったらいいんだろう、しんちゃん。
この良寛さんの言葉って、詩のようなものなんだろうけど、
人間の、自然への対応の仕方とか、考えかたには、
現代人のおれたちでも、感動しちゃうよね。
えーと、たとえば、花は女性で、蝶は男って感じで、楽しく人生を送れたら、
それも理想じゃないかな?しんちゃん。あっははは」

「またまた、竜さん、笑わせてくれますね。
でも、そんな男女も確かに、理想なのかもしれませんよね。
おれも、あのEテレの良寛さんは録画してましたよ。
良寛さんの作る詩は前から好きなんですよ。
1758年生まれだから、もう250年も前の人になるんですね。
徳川幕府の江戸時代の人ですよね」

「きっと、良寛さんは、僧侶として、大変な修行をしていたから、
あんな悟(さと)りのような境地の、深い言葉や詩を残せたんですよね、しんちゃん」

「ええ、おれたちよりも、もっと真剣に人生や自然を見つめてんでしょうね。
子どもたちと、無心になって、遊ぶことが大好きな良寛さんかぁ・・・」

≪つづく≫ --- 104章 おわり ---

105章 back number の ≪青い春≫

105章 back number の ≪青い春≫

 2月28日の日曜日。午前8時を過ぎたころ。春のようによく晴(は)れた空だった。

 川口信也(しんや)と、妹の美結(みゆ)と利奈(りな)は、
9.5畳の、寝転がれる床座のリビングルームで、朝食をとっている。

 現在、信也は、美結と利奈が生活している、
この2DKのマンション(レスト下北沢)から歩いて2分の、
1Kの間取りのマンション(ハイム代沢)で、ひとりで暮らしている。
毎日の食事は、美結や利奈が作ってくれていた。

 檜(ひのき)のローリビングテーブル(座卓)には、
野菜のミルクポタージュのスープ、
マッシュルームとトマトとレタスのサラダ、
皿に盛(も)られたバターが香(かお)るクロワッサンがあった。

 川口信也は、1990年2月23日生まれ、26歳になったばかり。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、卒業。株式会社モリカワの本部の課長。
大学の時から、ロックバンド、クラッシュビートのヴォー-カルやギターもやっていて、
モリカワミュージックからメジャーデヴューして、CDとかの売れ行きも、まあまあ順調だった。

 美結は、1993年4月16日生まれ、22歳。
山梨県、短期大学の食物栄養科(栄養士コース)、卒業。
信也の飲み友だちの竜太郎が副社長をする、
エターナルの芸能事務所のクリエーションのタレントとして、
テレビやラジオや雑誌の仕事をしている。

 利奈は、1997年3月21日生まれ、18歳。早瀬田大学、
健康栄養学部・管理栄養学科、1年生。
信也も在学時に所属していた、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)で、バンド活動も楽しんでいる。

 兄妹(きょうだい)の故郷(ふるさと)の山梨県韮崎市では、両親も元気に暮らしている。

「スープもサラダも美味(うま)そう!このクロワッサンも、おいしいよね!」

 信也は、テーブルの向かいの、美結と利奈にそう言う。

「このお店のクロワッサンは、わたしも大好き!」と利奈は言った。

「わたしも、好き!お値段もお手頃だしね!」と美結は微笑(ほほえ)んだ。

「美結と利奈は料理が上手だからなあ。おれは幸せ者だよ。あっははは」

「ところで、しんちゃん、朝から何(なん)なんだけど、ちょっと、利奈の難(むず)しい質問に、
答えてあげてくれるかしら?」

 ちょっと困ったような表情をして、美結は白い歯をチラッとのぞかせて微笑んだ。

「いいよ。どんな質問なの?利奈ちゃん!」

 そう言って、信也は、温(あたた)かいカフェオレを飲む。

「私が説明するわね、しんちゃん!利奈ちゃんは、宗教のことを、考え込んじゃっているのよ。
それで、わたしに聞いてくるんけど、わたしなんか、無関心なほうだし。
でもよかったわ!しんちゃんなら、いい答えを利奈に言ってくれそうだから。うっふふ。
いまの世の中って、宗教の対立とかで、戦争やテロとかのニュースが毎日のようにあって、
けっして、平和じゃないでしょう、なんでこんな世の中なのかって、利奈は言うの・・・」

「そうかぁ。難しい質問だなぁ、利奈ちゃん、あっはは。簡単に言えば、
宗教ってものは、本来は、より良き人生のための教えであるはずなんだよね。
別な言いかたをすれば、すべての人々が幸福な最善の人生を歩むための道しるべってことかな。
本来は、そんなことが目的のはずの宗教なんだけど、そんな宗教と宗教とが対立し合ったり、
憎しみ合ったりして、戦争とかを続けているのが、これまでの人間の歴史なのかな。
経済的な貧困や、領土の争いとかも、あったりね」

「誰だって、一生懸命に生きているんでしょうけどね。
でも、わたしも、そんな人間のやっていることを見て、すごく愚(おろ)かだなぁって、
ついつい思ってしまうのよ、しんちゃん。
わたしも、愚かなことばかりやっているほうだから、
人のことをいろいろ言える立場ではないんだけど。うっふふ」

 利奈は、信也を見ながら、そう言った。
それから、ミルクティーの入ったカップに唇(くちびいる)をつけた。

「確かに、人間って、愚かなことをする生き物なんだよね。
ペットとかの犬や猫の、動物なんかよりも、
人間は知恵や能力も比(くら)べようもないほど高いもんだから、
その愚かさも、比べようもないほど、大きくて、酷(ひど)いもので、
時には残酷なものにもなるんだよね。利奈ちゃん」

「世の中は、このままじゃ、近未来のSFコミックじゃないけど、社会は荒廃する一方で、
いまに核戦争や環境破壊とかで、人類破滅するんじゃないかなんて、
わたし、お友だちと語り合ったりすることもあるのよ、しんちゃん」

「まあまあ、最悪になるその前に、ちゃーんと、正義の味方っていうのかぁ、
クレヨンしんちゃんのアクション仮面やエンチョーマンのような
世の中を良くしていこうっていう人間たちが、立ちあがって、悪を退治して、
めでたし、めでたし、世界は平和になりました!っていう、
ストーリーが展開されるんじゃないのかな?!あっははは」

「もう、本当にそうなるの!?お兄ちゃんは楽天家なんだから!」

 利奈がそう言った。3人は声を出して笑った。

「ま、今のはジョーク(冗談)だけどね。確かにこんな世の中だと、
何を信じて生きていたらいいのか?わからなくなるよね。
うちの宗教が神道(しんとう)じゃん。
神道って、宮崎駿(はやお)のアニメの『千と千尋(ちひろ)の神隠し』の中に出てくる神様たちで、
世界的に有名にもなったような気もするんだけど。
神道って、仏教が6世紀ころに、日本に伝来する以前からの、
川の神とか山の神とかの、自然界の八百万(やお よろず)の神を信仰したり尊ぶ宗教なんだよね。
自然発生的な、民族的な宗教だから、
理屈っぽいような、堅苦しい教義や教理とかの宗教上の教えは存在しないと言われているんだよね。
まあ、それだけ、世界でも類を見ないような、自由な宗教なんだろうね。
おれが宗教の中でも、神道がわりと好きなのは、そんな自由さと、
あとは、やっぱり『愛』を感じられるからかな。
やっぱり、世界や人類を最終的に救(すく)うものは『愛』だろうからね。
本来の愛というものは、人間を自由にするものであるはずだろうからね。
ちょっと、宗教の話題からそれるけど、利奈ちゃん、作家の村上春樹さんってしているでしょう。
村上さんは、小説のテーマ(主題)に、
人間から愛や自由を奪(うば)おうとするシステム(制度)を取り上げているらしいんだよ。
システムを壁に例(たと)えて『私たちは誰もが、
程度の差はあれ、高くて硬い壁の前に立っています。その壁には名前があります。システムです』
って、エルサレム賞っていうのを受賞したときのスピーチで言っているんですよ。
おれが思うのに、システムには、国家権力とかの政治的なものから、
宗教的なものとか、ごく身近な小さなものまでもふくめたら、数多くいろいろあるんだろうね。
本来は、どんなシステムだって、人間の便利な生活や幸福のために生まれるものなんだろうにね。
それらに、立ち向かって、良くしていくためには、やっぱり、愛や勇気かな。
これじゃあ、まるで、アンパンマンの世界になっちゃうね。
まあ、まじめに言えば、おれたちは、愛の力を信じながら、
音楽とかの芸術活動もしたりしながら、楽しむことも大切にして、
みんなで仲良く力を合わせて、少しでも世の中を良くしてゆきたいよね。
利奈ちゃん、美結ちゃん。あっははは」

 3人は、明るく笑った。

「しんちゃん、 back number の ≪青い春≫って、そんなシステムについて、歌っているのかしら?」

 美結がそう言った。

「あぁ、≪青い春≫ね。いい歌だよね。清水依与吏(しみずいより)さんの才能が爆発しているような、
すばらしいロック・ナンバーだよね。ロック史に残るような名作だね、きっと」

「踊りながら、羽ばたく為(ため)のステージで、這(は)いつくばっていても、
踊らされているのも、随分(ずいぶん)前から分かっていて、それでも、それでも・・・」

 利奈が、≪青い春≫を口ずさんだ。

「テレビドラマの『高校入試』の主題歌だったんだよね。
なんでも、入試制度に一石を投じようとする物語だったらしいよね。
おれ、見たかったよ、残念。」

「3年くらい前の、フジテレビ系のドラマだったのよね。
あのころまだ、back numbeのこと知らなかったから、私も見逃しちゃった」

 美結が残念そうな顔で、信也と利奈に微笑んだ。

「わたしもそのドラマは見たいわ。再放送そのうちやるかもね」と利奈も言った。

≪つづく≫ --- 105章 おわり ---

106章 落合裕子のバンド活動休止と誕生パーティー

106章 落合裕子のバンド活動休止と誕生パーティー

 3月4日、金曜日の午後の6時30分。
よく晴れて、南東の風で、気温も16度ほどで暖かい、一日だった。

 定時で仕事を終えた、川口信也、森川純、川口美結と落合裕子の4人が、
道玄坂(どうげんざか)にあるダイニングバーのビーエイト(BEE8)の、
個室のテーブルで、寛(くつろ)いでいる。

 ビーエイトは、JR渋谷駅ハチ公出口から歩いて5分の大和田ビルB1Fにある120席の、
おしゃれな落ち着いた空間の、イタリア料理で人気のバーラウンジ(バーの社交場)だ。

「じゃぁ、みなさん、きょうも、一日、お疲れ様でした!
今宵(こよい)は、急(きゅう)にお集まりいただいたのですが、
ともかく、和気あいあい、楽しんで過ごしましょう!では、かんぱーい!」

 そう言って、モリカワの課長で、クラッシュビートのリーダーの森川純が、乾杯の音頭をとった。

 仲のいい4人は、琥珀色(こはくいろ)のシャンパンの入ったグラスを合わせながら、
笑顔で、目と目を合わせる。
テーブルには、ボリュームもたっぷりの鹿児島産和牛のローストビーフとかが並(なら)ぶ。

「そう言えば、純ちゃん。今回の会社の書類の紛失の事件が、
真相が、愉快犯(ゆかいはん)で、アイツがやったことだったとはね。
まぁ、あんなに、しっかり管理してある書類が消えるわけがないもんね!」

 信也が隣の席の純にそう言った。

「まぁ、お騒(さわ)がせの、犯人が見つかってよかったよ。あっははは。
アイツは日頃から、おかしな言動にあったヤツだからね。
世の中には、おれらとちょっと違って、
逆切(ぎゃくぎ)れとか、逆恨(さかうら)みとか、嫉妬(しっと)とかで、
他者を困らせて、自分の鬱憤(うっぷん)やストレスを解消するしかない人間がいるんだよね、
しんちゃん、あっははは」

「社員が100人以上にもなれば、そんなヤツもいるわけか、純ちゃん。
おれも、勉強になったよ。愉快犯ってさあ、ネットで調べたんだけど、
自分の未熟さや劣等感の裏返しというか、その逆切れというか、
手段を選ばないで、他人を操作したりして、
自分の存在を主張して、快楽を得ようとするらしいよね、
それが愉快犯の心理らしいよね。
その愉快犯には、人格的に未成熟であるために、
基本的に、他人に対する思いやりや労(いたわ)りの気持ちが欠落していて、
自分の行動に対しては、まるで他人事のように責任を持たないとか、
持ちたがらないとかの、傾向が見られるんだてっさ。純ちゃん。
そんなことじゃ、愉快犯も一般人もあまり変わらないところもあるじゃない、あっははは。
一歩間違えると、おれらも、そんな愉快犯になる可能性もあるかもしれないよね。
あっははは!」 

「しんちゃんの言うとおりだよ、あっははは。
おれも、社長や会社のみんなも、今回の事件は、他人事じゃないって、
いろいろと反省もしているんだよ。あっははは。
ま、今宵は、みなさんが、お疲れのところをお集まりいただいたのですから、
その話は、止(や)めときましょう、しんちゃん。
おれたちが、善(よ)かれと思って、日々の仕事をしていても、
それを心よく思っていない人もいるってこともあるのかね。
人間なんて、ちょっと勉強して、教養を高めて、優秀を気取ったところで、
自己中心とか、自分の欲望とかが無くなって、無私の精神になるってもんじゃないんだから。
思いあがらずに、注意していくことも大切ってことなんだろうね。
今回の愉快犯では、つくづくそう思ったよ、しんちゃん!あっははは」

「まったくだよね、完全な人間なんていないんだ、純ちゃん。あっははは」

「ところで、裕子ちゃん。クラッシュビートのキーボードを、
お休みしたいというお話を、しんちゃんから聞いたんですけど・・・」

 純は、テーブルの向かいに座る落合裕子に、そう語りかけた。

「そうなんです。わたしの個人的なわがままなんですけど、お休みさせてもらいたいんです」

「裕子ちゃんのキーボードは、ロックンロールやブルースの難しいリズムにも、
バッチリと最高のノリで、おれとしては、いつも、とても感動していたんですけどね・・・。
しょうがないですよね。わかりました。また、いつでも、おれたちとやりましょうよ。
約1年間でしたよね。いろいろとありがとうございました!」

「純さん、温(あたた)かなお言葉を、ありがとうございます!また、ご一緒に、
クラッシュビートで演奏することを、わたしも楽しみにしています!」

「よかったわね、裕子ちゃん。またクラッシュビートで演奏したくなったら、
いつでも、純ちゃんも、しんちゃんも、ほかのメンバーも、大歓迎よ!」

 そう言って、川口美結は隣の落合裕子に優(やさ)しい眼差(まなざ)しで微笑む(ほほえ)。

・・・きっと、しんちゃんと裕子ちゃんには、何(なに)かあったんだわ。
きっと、しんちゃんに夢中の裕子ちゃんのことだから、何かが。
裕子ちゃんは、きっと、感極(かんきわ)まって、頬(ほほ)に涙とかで。
お兄ちゃんは、女性の涙に弱いからなぁ。
そんなことで、何かあったから、裕子ちゃんもクラッシュビートのキーボードも、
お休みすることになったんだわ、きっと・・・

 美結は、隣にいる裕子の、きれいで整(ととの)った横顔をちらっと見ながら、そう思った。

 川口美結は、1993年4月16日生まれ、22歳。
2014年の5月から、新井竜太郎が副社長をするエタナール傘下の、
芸能事務所のクリエーションでアーティスト活動を始めていた。

 落合裕子は、1993年3月7日生まれ、もうすぐに23歳。
エタナールの芸能事務所のクリエーションの、
新人オーディションに、最高得点で合格した才女だ。
現在、裕子は事務所を移籍して、
祖父(そふ)の落合裕太郎の芸能プロダクション、トップに所属している。

 美結と裕子は、2年ほど前から、クリエーションの同期でもあって、無二の親友であった。 

「さーて。裕子ちゃん、お誕生日、おめでとうございます!」

 純が、そう言った。

「裕子ちゃん、ハッピー・バースデー!」

 信也が、そう言った。

 信也と純と美結の3人で、クラッカーの紐(ひも)をひっぱり、打ち上げた。

 パンッという音と共に、赤や白や青のカラフルな花吹雪(はなふぶき)が空中に舞(ま)った。

 満面の笑顔で店のスタッフが、メッセージと裕子のかわいらしい似顔絵付(つ)きの、
イチゴと生クリームが盛りだくさんの、バースデー・ケーキをもって部屋に入って来た。

「わーっ、嬉(うれ)しいわ。ありがとう!純ちゃん、しんちゃん、美結ちゃん」

 裕子は、思いもしなかった祝福に、瞳(ひとみ)を潤(うる)ませて、喜(よろこ)んだ。

≪つづく≫ --- 106章 おわり ---

107章 信也と裕子、愛について語り合う

107章 信也と裕子、愛について語り合う

 時は遡(さかのぼ)って、2月28日の日曜日、午後2時を過ぎたころ。

 川口信也と落合裕子は、下北沢駅西口から歩いて4分、
カフェ・MOGMOGの2人掛(が)けのテーブルで向かい合っている。

 MOGMOGは代田5丁目、客席20席の、完全禁煙の、
こだわりの焼きたてパンケーキが人気で、温かな家庭的雰囲気の可愛らしいカフェだ。

「このお店で、しんちゃんと過ごすのも、1年ぶりくらいよね」

 裕子は明るく微笑んで、信也にそう言った。

「そうだよね。あのおときは、偶然、下北(しもきた)の駅の改札で会ったんだよね」

「あれから、もう1年が過ぎるなんて、月日の流れって、早過(はやす)ぎるわ」

「そうだね」 

 信也は、優しい眼差しで、裕子にそう言った。

 ふたりは、同じ、レモンのホットティーを、まず注文した。

 川口信也は、1990年2月23日生まれ、26歳。
早瀬田大学、商学部、卒業。下北沢にある外食産業の株式会社モリカワの本部の課長。
大学時代からの、ロックバンド、クラッシュ・ビートの、ギターリスト、ヴォーカリスト。
作詞や作曲もしている。

 落合裕子は、1993年3月7日生まれの22歳。
落合裕子は、信也の友達の新井竜太郎の会社でもある芸能事務所、クリエーションの、
新人オーディションに、最高得点で合格した才女で、ピアニスト。
現在、裕子は事務所を移籍して、
祖父の落合裕太郎の芸能プロダクション、トップに所属していて、テレビやラジオの出演も多い。
去年の1月頃の、クラッシュ・ビートのアルバム制作から、
キーボード奏者として、バンドの演奏に参加している。
クリエーションに所属している信也の妹の美結とは、同じ22歳でもあり、無二の親友である。

「わたし、クラッシュ・ビートの音楽活動を、お休みさせていただこうと考えているの」

「そうなんだ。裕子ちゃんは、いま、お仕事が、だんだんと増えて、大変だよね」

「そんなことは、あまり関係ないんだけどね。しんちゃん」

「・・・・・・。わかっているよ、裕子ちゃん。おれも、どうしたらいいのか、わからないんだよ、
いまの、おれたちのこの状況を・・・」

「わたしも、辛(つら)いのよ。だから、このまま、クラッシュビートで、純粋な気持ちで、
キーボードの演奏活動は続けられないっていう気持ちになってきているの」

「そうだよね。裕子ちゃんその気持ちよくわかるよ。
おれも昨日(きのう)のなんか、眠(ねむ)れなくて、
ベッドから飛び出して、深夜の街をぶらぶらと歩いたんだよ。
星空がやけにきれいだっだよ。星を見ていたら、涙が出てきちゃってさ。あっはは」

「えーっ、しんちゃん。星空見て、泣いちゃったの!」

「うそだよ。そんなことないよ。深夜はまだ寒くって、
それで、涙腺(るいせん)が緩(ゆる)むんだよ。あっはは」

「あっ、しんちゃん、きっと、本当に、涙出ちゃったのよ。あああっ。うっふふ」

「ま、そう言いうことにしておこう。あっはは。
深夜に、カラフルなネオンに誘(さそ)われて、行きつけのバー(BAR)に入ったんだ。
そのバーのマスターは、アメリカが好きで、陽気で楽しい人なんですよ。あっはは。
実は、おれ、昨夜は、君のことばかりを考えていいたんですよ」

「本当に!しんちゃん。それだったら、わたし、うれしい。
あそうか、それで、星空見て、わたしを思って、泣いてくれたのね。うれしいわ!うっふふ」

「うん。まあ、そういうことにしておきますよ。おれも、裕子ちゃんのことは、大好きなんですから」

「ありがとう、わたしも、しんちゃんことが大好きです」

「でもね、裕子ちゃん。おれ、それだからって、どうしたらいいのか、わからないんですよ。
人が人を好きになるとかの、愛って、何なのだろうとか、
どうしたらいいのだろうとか、考えだしたら、何が正解なのか、わからなくなるんですよ。
おれの考えている、愛とかが、わからなくなっていくんですよ。裕子ちゃん」

「しんちゃんは、まじめなのよ。いい加減な人なら、
衝動的に、浮気なんて平気でするものよ。そして、
動物的な本能なんだから、しょうがないとか言って、自己正当化するのよ」

「おれだって、裕子ちゃんのことは好きだから、そんな気持ちになることもあるよ。
でも、それじゃあ、自分の考えている愛だとかが、その場だけの、
自分の都合で、ころころと変わっていく、筋道の通っていない、
めちゃくちゃな、矛盾(むじゅん)したものになってしまうんですよ。」

「しんちゃんは、まじめなのよ。それがまた、しんちゃんのステキなところだけど。
簡単に『愛している』とかって言われても、わたしは信じられないもん。うっふふ」

「あっはは、そうだよね。愛とか、そのほかの言葉でも、
簡単に大切な言葉を、人は口にするけど、
なかなか、その言葉を信用できない、
なぜか、そんな世の中になってしまっているよね。あっはは。
でも、それにしても、人を好きになるって、時には辛(つら)くなることもあるんだね、裕子ちゃん」

「そうよね。でも、愛って、それが、本当のもので、美しいものなら、辛くても、
きっと、幸せなのよ。ねえ、しんちゃん」

「そうだね。おれは、裕子ちゃんの幸せを、いつも願っているよ」

「わたしも、しんちゃんの幸せをいつも願っているわ」

 信也と裕子は、澄(す)んだ瞳(ひとみ)で、微笑(ほほえ)み合った。

≪つづく≫ --- 107章 おわり ---

108章 信也、吉本隆明の芸術言語論について講演する

108章 信也、吉本隆明の芸術言語論について講演する

 3月27日の日曜日の午後2時。最高気温は16度、青空で暖(あたた)かい。

 ユニオン・ロックの下北(しもきた)芸術学校の第18回の公開授業が、
下北沢南口から歩いて4分の、北沢ホールの3階のミーティングルームで始まるところだ。

 ユニオン・ロックは、ソーシャル・メディア(SNS)を使った、
インターネット上の全国的な規模の学校で、
子どもたちや、夢を追う若者やオトナを対象に、
音楽からマンガまで、芸術的なこと全般を、
自由に学べる『場』の提供や、そのための経済的な援助、その道のプロの育成を展開している。

 そんな長期的展望のユニオン・ロックは、外食産業のモリカワと、
外食産業最大手のエターナルが、1014年9月に始めた、共同出資の慈善事業だ。

「えーと、それでは、『吉本隆明(たかあき)の芸術言語論』というタイトルで、講演を始めます。
1時間くらいで終了の予定です。
このあとは、みなさん、この北沢ホールの芝生(しばふ)の桜の木の下で、
お花見(はなみ)をしましょう!飲み物やつまみも用意してあります。
桜もちょうど満開で、天気も最高の、お花見日和(びより)ですよ。あっははは」

 演壇に立つ信也は、そう言って笑いながら、みんなを見渡(みわた)した。

 定員が72名の満員の会場からは、拍手(はくしゅ)や歓声(かんせい)が沸(わ)いた。

 ミーティングルームに並(なら)ぶ、3人掛けのテーブルは、
女子中高生や、10代、20代の男子たち、
大学生や社会人と、幅広い層で、満席となっている。

 大沢詩織や清原美樹たち、グレイス・ガールズのメンバーや、
信也のバンドのクラッシュ・ビートのメンバーも後ろの席に集まっている。
エターナルの副社長の、信也の飲み友達の新井竜太郎もいる。
いまも信也に好意を持つ落合裕子や、
やはり信也を密(ひそ)かに好きなマンガ家の青木心菜(ここな)も来ている。

「吉本隆明(よしもとたかあき)さんは、、2012年、平成24年の3月16日に、満87歳で、
お亡(な)くなりになりました。詩人だったり、評論家だったり、
日本を代表する思想家ともいわれています。
しかし、その評価は、まだまだ低いなと、おれは思っています。
ちなみに、おれの父親も、吉本さんのファンです。
それと、ネットで知ったんですが、あの『ロッキング・オン』の渋谷陽一さんも、
『僕にとって吉本隆明の影響は巨大であり、
吉本隆明がいなければ、自分で雑誌を創刊しなかっただろうし、
いまのように出版社を経営することもなかっただろう』と言ってます。
そんな、こんなで、いつのまにか、おれも、
吉本に、すごい影響を受けちゃったのかと思ってます。
そんな、たぶん、おれの独断と偏見の吉本論ですが、聞いてください。あっははは」

 信也はそう言って、ちょっと頭をかいた。

「吉本隆明さんは、脳科学者の茂木健一郎さんとの対談の本、
『すべてを引き受けるという思想』の中で、こんなことをおっしゃっています。
・・・『約まり(つづまり)』の仕事として、行きついたところの仕上げとして今からやりたいことは、
集大成としての『芸術言語論』となります。・・・と。」

 信也はそう言うと、みんなをゆっくりとしばらく見渡して、ひと呼吸おく。

「吉本さんの代表作は、『共同幻想論』や『言語にとって美とはなにか』や、
『心的現象論序説』や『最後の親鸞』や『アフリカ的段階について』などがあります。
あと、『カール・マルクス』や『吉本隆明詩集』とかもあります」

 信也のいる演題の左には、幅2メートルの大型ディスプレイがあって、
吉本さんの代表作の本の数々が映し出される。

「吉本さんのこれらの著作は、おれは、天才的な、世界に通用する思想家の仕事だと、
思っているんですけど、正直に言って、おれの頭では、なかなか理解が難(むずか)しいです。
あっははは。でも、『ロッキング・オン』の渋谷陽一さんも難しいって言ってます。あっははは」

「渋谷陽一さんは、『吉本隆明・自著を語る』の最後のほうで、こう言っています。
・・・『共同幻想論』や『言語にとって美とはなにか』や『心的現象論序説』において考えられていた、
『社会って何だろう』『言語って何だろう』『心って何だろう』という基本的な疑問を、
有機的に組み合わせながら繙(ひもと)いていくという、
今そういう状況になってらしゃるっていうのは、すごく幸福なことですよね。・・・と。
この渋谷さんの言葉に対して、吉本さんは、
・・・ええ、我(われ)ながら、自分と自分の問答(もんどう)みたいなところでは、
相当(そうとう)幸福なのかもしれません(笑)。・・・
と言っています。この本は、2005年5月頃の対談だったようです。
吉本さんが亡くなる、7年前あたりですよね」

「さて、おれが、みなさんに、お話ししたい、吉本さんの芸術言語論なのですが、
なんと、それについて書かれた決定版のような本格的な著作は、どうも存在しないようなのです。
このことは、吉本さんにとっても、大変に心残りだったろうと思います。
まあ、でも、幸(さいわ)いなことに、ネットでは、コピーライターとしても有名な、
糸井重里(いといしげさと)が、『ほぼ日刊イトイ新聞』のHPで、2015年1月9日からですが、
『いつでも自由に、何度でも、お聞きください。』って、
吉本隆明さんの講演音声の無料公開をしているんですよね。
さすが、糸井重里さんって、おれは感謝していいます。あっははは」

 信也が笑うと、会場からも、笑い声が上(あ)がる。

「糸井重里さんって、思いやりのあるかたですよね。
この183もの講演は、聞くだけではなく、テキストを読むこともできます。
ダウンロードもできますから、パソコンでゆっくりと読むこともできるです。
吉本隆明さんの考えとかを知りたい人は、ぜひ、ご利用ください!
さて、吉本さんの芸術言語論のことなのですが、
おれは、この芸術言語論こそが、もしも、完成されたのならば、
世界の人々に、平和や幸福や繁栄や希望をもたらすだろう、
ノーベル平和賞級の仕事になっただろうと、想像してしまうのです。
なぜならば、吉本さんの芸術言語論こそが、もしも、完成されたのならば、おそらく、
≪芸術こそが、世界の人々にとって、楽しく幸福で平和な人生を実現に導(みちび)く、
源(みなもと)や根幹(こんかん)だ≫と言うことを証明する普遍的な理論書になるだろうと、
おれなんかは、予想するからです。
おれたちが、一生懸命に考えれば、芸術言語論の全貌も、想像できると思うんです」

「さて、みなさんは、何が理由で、こんなに、人の心も荒廃しているような、
殺伐(さつばつ)とした事件ばかりが多い、
明るい未来も描(えが)けない世の中になってしまっていると思いますか?
その理由を、おれは、芸術というものが、軽視され過ぎいていることに、
大きな原因があると考えています。
吉本さんは、そんな衰退している芸術の復活を願っていたのだと思うのです」

「さて、では、芸術とは何か?ということが問題にもなります。
吉本さんは、芸術言語論で、こう言っています。
≪ぼくが芸術言語論ということで、第一に考えたことは、言語の本当の幹と根になるものは、
沈黙なんだということです。
コミュニケーションとしての言語は、植物にたとえますと、
樹木の枝のところに花が咲いたり実をつけたり、葉をつけたりして、季節ごとに変わったり、
落っこちてしまったりするもので、言語の本当に重要なところではないというのが、
僕の芸術言語論の大きな主張です。
沈黙に近い言語、自分が自分に対して問いかけたりする言葉を、ぼくは『自己表出』といっています。
そして、コミュニケーション用に、もっぱら花を咲かせ、葉っぱを風に吹かせる、
そういう部分を『指示表出』と名づけました。
言語は、そのふたつに分けることができますよ、
ということが、芸術言語論の特色として強調しておきたいことです。≫・・・と。
つまり、芸術活動の価値や根幹(こんかん)には、『自己表出』が大切だと言っているわけですよね。
ですから、芸術とは、『自己表出』と『指示表出』とが、
織(お)りなす絹織物(きぬりもの)ような、その衣服のようなもので、
そんな価値の自己増殖でこそが、文学という言語の美の本質なのだと、吉本さんは言っています」

「さて、この≪言語の本当の幹と根になるものは、沈黙なんだ。≫ということですが、
おれは、ここで、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという哲学者の言葉を連想するのです。
ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で、
『語りえないことについては、人は沈黙せねばならない』と語って、
『語りえないもの』とは何か? を一生問い続けたともいえます。
オーストリア出身で、20世紀初頭のイギリスのケンブリッジ大学で活躍した天才哲学者でした」

「みなさんは、言語を使っても、語りえないものには、どんなものがあると思いますか?」

「信也先生!それは、たとえば、男女間の≪愛≫じゃないでしょかぁ?きゃっはははぁ」

 最前列のテーブルに陣取(じんど)る、華(はな)やな私服の女子中高生たちのひとりが、
元気な声で、信也にそう言うと、グループのみんなは、明るく笑った。

「あっははは。そうですよね。≪愛≫は、語りえないものですよね。あっははは。
ウィトゲンシュタインは、≪神秘的なものは語りえない≫と言ってます。
≪この世界があるということ、その事実が神秘なのだ≫とも言っています。
おれの解釈では、語りえないものは、いっぱいありますよ。
世界の存在も、生きている意味も、なぜ人の心はあるのかとか、神の存在のこととかも。
さて、おれも、難しい話は大の苦手なので、簡単に、そろそろまとめて、終わりにします。
ウィトゲンシュタインがこんなふうに言っているのです。
≪哲学の最終目的は、語りえぬ存在を示すこと。
そして、そのことによって、その神秘的なものを、暗示することである≫と。
おれも、まったく、同感しますよね。みなさんは、どのように感じたり、
お考えになるでしょうか?」

「さて、ウィトゲンシュタインは、≪神秘的なものは語りえない≫と、
吉本さんの≪言語の本当の幹と根になるものは、沈黙なんだ≫という考え方は、
美しいほどに、一致していると、おれは考えるのです。
さて、では、わたしたちに、できることとは、どんなことでしょうか?
おれには、こんなことしか、浮かばないのです。
つまり、ウィトゲンシュタインが語る≪神秘的なもの≫や
吉本さんが語る≪言語の本当の幹と根になるもの、沈黙≫とかを、
第一に大切にすることです。
つまり、自分の中の愛や心を見つめて大切にするってことですよね。
そして、愛や心が、原動力でもあって、また、愛や心を育(はぐく)むものでもある、
芸術的なことを、大切にして、楽しく元気に、日々を生きていくことです」

「ウィトゲンシュタインの哲学も、吉本さんの思想も、
人生が正しく見えるようにしてくれる、貴重な考え方だと思っています。
これで、終わります。
みなさん、きょうは、ご清聴(せいちょう)、ありがとうございました!」

 信也は、会場に手を振って一礼する。会場の拍手は鳴りやまない。

≪つづく≫ --- 108章 おわり ---

109章 ノーベル賞の大村智先生の話で盛り上がる 

109章 ノーベル賞の大村智先生の話で盛り上がる

 4月9日。最高気温は23度ほど、暖かな曇り空の土曜日の昼の12時。

 JR渋谷駅、緑の植木と低い竹垣(たけがき)に囲(かこ)まれた広場の、
忠犬ハチ公の銅像の前に、川口信也(しんや)たちが集まっている。

 信也と、彼女の大沢詩織(しおり)、信也の妹の美結(みゆ)と利奈(りな)、
信也の飲み友だちの新井竜太郎と、彼女の野中奈緒美(なおみ)、
竜太郎の弟の新井幸平(こうへい)、
マンガ家の青木心菜(ここな)と心菜の親友の水沢由紀(ゆき)の、9人だ。

 みんなで、スクランブル交差点を渡ってすぐの、レストラン・デリシャスへ行く。

 デリシャスは、竜太郎が副社長をしている、エターナルの経営で、
世界各国の美味(おい)しい料理やドリンクを提供する多国籍料理のレストランだ。

「ハチ公って、ご主人の亡(な)くなったあとも、10年間も、毎日この渋谷駅に来ては、
現(あらわ)れない帰らないご主人を待ったのね。
ご主人に忠実(ちゅうじつ)なハチ公の姿を想像すると、涙が出そうよ!」

 どっしりと凛々(りり)しく座(すわ)っている忠犬ハチ公を見つめる大沢詩織が、
信也やみんなを見ながらそう言う。

「ハチ公の主人を想(おも)う気持ちには、おれも感動しますよ。
ハチ公は、生前(せいぜん)から、新聞、ラジオなどの報道で、有名になったんですよね。
それで、町の人たちから、ハチ公の銅像を建設しようという声が出始めたんですよ。
この銅像の除幕式には、ハチ公も渋谷の駅長さんと一緒に見守っていたんですよね」

 犬とか、動物が大好きな新井幸平が、大沢詩織にそう言って微笑(ほほえ)む。 

「幸平さん。ハチ公って、何歳で亡くなったんですか?」

 美結(みゆ)が、新井幸平にそう聞く。

「13年間で、13歳ですよ。ハチ公は、蚊(か)にうつされる寄生虫のフィラリアで、亡(な)くなりました」

「ハチ公もフィラリアで亡くなったのね」

 利奈(りな)はそう言って、姉の美結(みゆ)と目を合わせる。

「でも今は、大村智(さとし)先生の『寄生虫による感染症の治療薬の発見』で、
フィラリアで亡くなるワンちゃんが少なったのよ!
利奈(りな)ちゃん、美結(みゆ)ちゃん、由紀(ゆき)ちゃん」

 マンガ家の青木心菜(ここな)は、利奈や美結や、
親友でマンガ制作のアシスタントをしてる水沢由紀(ゆき)と、目を合わせて、そう言った。

「大村先生って、日本のレオナルド・ダヴィンチって、呼ばれているわよね、すごいわ!」

 由紀はそう言って、心菜に微笑(ほほえ)む。

 マンガ家の心菜は、絵画の愛好家としても有名な、
『科学と芸術の融合が人類を幸福にする』を信条の1つにする、
ノーベル生理学・医学賞受賞の大村智を格別に尊敬している。

 信也たち9人は、レストラン・デリシャスの、
白を基調としたお洒落(しゃれ)な個室で、寛(くつろ)いだ。

 テーブルには、ジュースやワインや生ビール、ホタテの生ハム巻きなどの料理も並んだ。

「しんちゃんの故郷(ふるさと)の韮崎市(にらさきし)から、
大村智先生のような、おれたちの希望の光となるような素晴らしい人が現れるとはね!
大村先生の、自分の利益や得(とく)とかは二の次にして、
『若い人を育てる』という未来を見すえる経営哲学には、おれも感動するんですよ。
あと、『自然と芸術は人間をまともなものにする』と言っていることとかにも。
これは、ローマ時代からの言葉だと、大村先生は言ってますよね。
この考え方って、吉本隆明さんの考え方とも、ほとんど一致(いっち)しているよね。
ね、しんちゃん。あっはは」

 エタナールの副社長の新井竜太郎は、そう言って笑った。

「そうですよね。優(すぐ)れた人が考えることは、一致するか、似てくるんでしょうね。あっはは。
吉本隆明さんは、『ほんとうの考え・うその考え』という本の中で、
詩人で童話作家の宮沢賢治の考えや、
フランスの女性の哲学者、シモーヌ・ヴェイユの考えを引用しながら、こんなことを言っています。
『科学でも芸術でも、一流の人の到達する考え方は、その到達点は、
普遍的な真理の場所で、そここそ≪ほんとう≫の第一級の場所だ』と言っているんです。
そして、『いかにして、その真理に近づくかという考えだけがあれば、
そこへ到達できるんだ』とか言っています。
この考え方は、ヴェイユの考えたことで、ヴェイユの最後の到達点らしいんです。
吉本さんは、このヴェイユの最後の到達点を、
『たいへん、わたしたちに希望を抱(いだ)かせます。』と、その本の中で、語っているんですよ」

 そう言い終わると、信也は、みんなに微笑んだ。

「いい話だね。みんなの考えが一致する、そんな普遍的な真理の場所って、きっとあるんだよ。
吉本さんが言うように、希望がわいてくるなぁ!」

 竜太郎がそう言った。

「今度、みんなで都合(つごう)を合わせて、韮崎の大村美術館に行きませんか!
ここからなら、中央高速をクルマで、約2時間30分ですよね。ね、しんちゃん」

 マンガ家の青木心菜(ここな)は、そう言って、信也や竜太郎に微笑(ほほえ)んだ。

「そうですね、心菜ちゃん。いい考えですよね。今度、みんなで、行きますか!
美術館の隣には、みなさんが楽しめるようにと大村先生がつくった、
蕎麦屋(そばや)と温泉もありますよ。先生の自宅も、そのすぐ近くなんです」

 信也は、心菜やみんなを見ながら、そう言って微笑んだ。

 みんなも、美術館行きの話に、盛り上がった。

≪つづく≫ --- 109章 おわり ---

110章 信也と竜太郎たち、吉本隆明を語り合う

110章 信也と竜太郎たち、吉本隆明を語り合う

 5月7日、気温は26度を超(こ)えてよく晴れた土曜日。

 午後の6時過ぎ。川口信也と大沢詩織、そして、新井竜太郎と野中奈緒美の4人は、
渋谷駅から銀座線に乗って銀座駅に降り立った。

 4人は、駅から歩いて2分の、BARのオーパ 銀座店へ行く。

 11席あるBARのカウンターは、木目もきれい、いい木の香りもする。

 BARのオーナーが、木材の町、新木場(しんもくば)を探し回(まわ)って見つけた、
カリンの巨木の一枚板でつくった、こだわりのカウンターだ。
土曜日は、18時から24時までやっている。

 4人は、予約していた4人用のテーブルの、背もたれのある席でゆったりとする。

 川口信也(しんや)は、1990年2月23日生まれ、26歳。身長、175センチ。
早瀬田大学、商学部、卒業。外食産業の株式会社モリカワ・本部の課長をしている。
大学の時からやっている、ロックバンド、クラッシュ・ビートのギターとヴォーカルだ。

 信也の彼女の大沢詩織(しおり)は、1994年6月3日生まれ、21歳。
早瀬田大学、文化構想学部、4年生。身長、163センチ。
大学公認サークルのミュージック・ファン・クラブで結成したロックバンド、
グレイス・ガールズのギターとヴォーカルだ。

 新井竜太郎は、1982年11月5日生まれ、33歳。身長、178センチ。
若くして、国内の外食産業の最大手のエタナールの副社長である。
2013年の12月、竜太郎の指揮によって、
信也の勤める会社モリカワを買収しようとしたが失敗に終わる。
それがきっかけで、竜太郎は森川家と交流を深める。
信也とも、考え方や好みが合って、親(した)しい飲み友だちになっている。

 竜太郎の彼女の野中奈緒美(なおみ)は、1993年3月3日生まれ、23歳。
身長は165センチ、可憐な美少女である。
奈緒美は、竜太郎のエタナール傘下(さんか)のクリエーションに所属している。
モデル、タレント、女優として、茶の間でも人気でも、テレビの出演も多い。

「柑橘(かんきつ)系の果物が美味しい季節ですから。あっはは」と笑って、
なじみのスタッフのバーテンダーが、旬のフルーツのカクテルを勧(すす)める。

 信也たちは同じカクテルを注文した。、小粒の可愛らしい金柑(きんかん)の入っている、
明るいオレンジ色のウォッカ・トニックで、4人は乾杯をした。

 つまみは、フルーツやチーズやソーセージの盛り合わせにする。

「おっ、このカクテル、美味(うま)いね!」

  竜太郎が、そう言って、みんなに微笑(ほほえ)んだ。

「うん、おいしい」とか「うまい、最高!」とか言って、みんなは、目を見合わせた。

「この前の、しんちゃんの『吉本隆明の芸術言語論についての講演』は、よかったですよ。
おれも、吉本さんには関心が高いよ。
吉本さんの仕事のポイント、重要な所となると、確かに芸術言語論になるんだと思いますよ」

 竜太郎が、信也にそう言った。

「あっはは。竜さん、おれの未熟な考えに、お褒(ほ)めを、どうもです。
まぁ、詩なんていうものは、書こうと思えば、誰でも書けるものですよね。
でも、実際の生活や仕事の役に立つものでもないわけで、子どもが書くならなら、
すばらしいと褒(ほ)めることもありますが、大人が書くとなれば、
ほとんどの場合、大人が真剣になって取り組むものではないとかで、
ムダなもの、役立たないものとされてしまうわけです。
それでも、日本はまだまあ、世界有数の『詩』を愛する国なんでしょうけどね。
短歌や俳句をやっている人たちも数多くいますよね。
まあ、おれなんかも、親父(おやじ)が俳句をやっていたりして、そんな環境もあってか、
世界の人たちが平和で暮らしやすくなるのには、
みんなが詩人や芸術家になればいいやって、バカみたいなことを、いつも空想している、
まぁ、夢想家なんですよ。みなさん、ご存(ぞん)じのように。あっははは。
まあ、そんなおれなんですけど、そんなおれを勇気づけてくれるような本が、
最近、たまたま読んだ本にあったんですよ。あっははは。
中沢新一さんの『吉本隆明の経済学』という本なんですけどね。
それを読んで、急速に、吉本さんに親近感を持ったんです。
吉本さんは2012年にお亡(な)くなりになってますから、その2年後くらいの本なんですけどね。
中沢さんは、宗教人類学者で、明治大学特任教授もしていて、
『チベットのモーツァルト 』という本では、解説を吉本さんが書いてるんですよね。
まあ、それだけ、思想的にも親密な関係の中沢さんと吉本さんなんでしょうけど。
『吉本隆明の経済学』は、そんな中沢さんが吉本さんの志(こころざし)を継(つ)いで、
吉本さんの思想をまとめたような本なんです。
まあ、その本の終わりのほうでは、簡単に要約すると、
≪世の中を良くしていくような、そんな未来の革命の実現は、
人間の脳、つまり心の本質であるところの、詩的構造以外の何物でもない、
言い換(か)えれば、詩や芸術を愛する脳や心こそが、
より良き未来を実現する鍵(かぎ)である≫って言っているんですよね。
おれは、まったく、これしかないだろうな!って、吉本さんと中沢さんの考えに、
深く共感しちゃいましいたよ。あっははは」

「わたしも、共感しちゃうわ。しんちゃん!」

 可愛(かわい)らしいショートボブの、詩織がそう言った。

「わたしも、やっぱり、人間に必要なのは、詩とか芸術とかを大切に思う心だと思うわ」

 ふんわりしたロブのヘアスタイルの、奈緒美もそう言って、ほほえんだ。

「おれも、まったく、共感しますよ、しんちゃん。それにしても、吉本さんは、脳や心には、
詩的なものや芸術的なものが不可欠だということを証明するために、
たくさんの論考とかを書いて、知的な格闘をし続けたんだよね。
でも、だからって、詩や芸術をやっている人を、特権階級とかって、
特別扱(あつか)いするんじゃないわけですよね」

「そうなんですよね、竜さん。むしろ、吉本さんは、特権階級や権力とか権威とかを、
自由を阻(はば)むシステムや制度や幻想として、解体しなければと考えていましたからね。
そんな意味では、場合によっては、≪知識も悪だ≫って吉本さんは言ってますよ。
あっははは。
そんな思索(しさく)の結果が、≪アフリカ的段階≫という考え方なんでしょうね。
≪アフリカ的段階≫という考え方は、人類の文明や精神の歴史を、
どこまで掘り下げることができるかが問われている、として生まれたんですよね。
そんな、国家もない、原始的な、アフリカ的段階な社会にとっても、鍵(かぎ)を握(にぎ)るのは、
人間の脳=心の本質であるところの、詩的構造以外の何物でもない、
と、中沢さんの『吉本隆明の経済学』に書いてます。
なんか、難しいお話して、すみませんね、みなさん。
あっははは。もうちょっと続けますと、
『吉本隆明の経済学』にはこんなことも書かれています。
・・・言語も経済も、マルクスの言う意味での≪交通(コミュニケーション)≫であって、
少なく見積もっても、数万年の間、人間の脳=心が生み出した、って中沢さんは書いてます。
・・・その脳=心は、初め、詩的構造として生まれ、そののちも、
この構造を深層に保ち続けてきた、と。
・・・吉本さんは、その根源的な詩的構造の場所に立ち続けることによって、
稀有(けう)な思想家になった、と。
・・・そして、その≪詩人性≫は吉本さんの思想の揺(ゆ)るぎいない土台であった、と。
まあ、そんなことを中沢さんは述べています。
・・・おれは、これまで、吉本さんの思想が、巨大(きょだい)で、偉大で、大きすぎるので、
よくわからなかったのですが、かなり理解できた気持ちになりました。あっははは」

「なるほど、そういう事情で、吉本さんも、『芸術言語論』には、思い入れが強かったんですね」

 竜太郎がそう言う。

「そうなんです。吉本さんは、『貧困と思想』という著書の中では、こんなことを言ってます。
≪芸術という概念、(吉本さんの場合は文学ですが、)それを普遍化してゆけば、
政治問題も経済問題も同じように解(と)けるのだと考えているわけです≫って」

 信也はそう言った。

「なるほど。吉本さんの思想に共感する、おれたちに、さて、
これから何ができるのか?ってことになりそうだね。
まぁ、まぁ、今夜は、飲んで、食べて、楽しくやりましょう!
最初から、難しい話になりましたけど、あらためて、みなさん、カンパーイ(乾杯)!」

 そう言うと、竜太郎はグラスを持った。

「カンパーイ(乾杯)!」

 4人は笑顔で、グラスを合わせた。

≪つづく≫ --- 110章 おわり --- 

111章 子ども的 段階の賛歌 ( ジョバンニや カンパネラのように )  

111章 子ども的 段階の賛歌 ( ジョバンニや カンパネラのように )  

 5月29日、日曜日、朝の9時過ぎに、川口信也はベッドで、
昨夜のアルコールが少し残(のこ)るままだが、爽快(そうかい)に、
朝の陽ざしの中、目覚めた。

 昨夜は、12時ころまで、下北沢の南口商店街にあるバーで、
うまいカクテルを飲み交わしながら、クラッシュ・ビートのリーダー、
会社の同僚、同じ課長職で、親友の、森川純と、二人だけで、
楽しく爆笑したりと、いろいろ語り合った。

・・・純のヤツ、次のアルバムのために、1曲、なんとか、作ってくれとか言って、
おれをおだてんの、うまいよな!
まあ、でも、まてよ、けさ見た夢の続きから、なんとか、1曲、できそうだぞ・・・

「あっははは」

 信也は、ぼんやり、そんなことを思い、
ベッドの中で笑って、起き上がると、パソコンに向かって、
作詞を始めると、午前中には、
メロディーをつけて、大まかながら、1曲を完成させた。
滑(す)らかに流れるようなヴォーカルの、8ビートのバラードで、
美しいメロディーの、信也の代表曲になるような予感があった。

歌のタイトルや構想は、最近、読んでいた吉本隆明(たかあき)の著書の
『アフリカ的段階について』を、ヒントにもした。

ーーー
子ども的 段階の賛歌 ( ジョバンニや カンパネラのように )  作詞作曲 川口信也

朝の目覚めは 夢から覚めたばかりで 現実感がなかった
宮沢賢治の 『銀河鉄道の夜』みたいに 楽しい夢だった 
その主人公の 子ども ジョバンニや カンパネラのように 
おれも 夢の中なのに ひたむきに 熱心に 生きていた

でも おかしいよね  夢の中でも 一生懸命に 生きてるなんて
考えてみると 現実の人生のほうが 夢や希望がない気がする
社会の 問題山積や 困難で 夢や希望は壊(こわ)れていくのかな?
でも ジョバンニや カンパネラのように 元気に 楽しく 生きていたいよね!

 あああ、子どものころって 誰にとっても とても 大切な時期だよね
 その人の 人生の 幸せや 不幸を 決めてしまうくらいに
 愛情の不足とかで 心に 傷を負(お)うなんて こともあるでしょう
 それでも 子どものころのこと 忘れないで がんばろうよ!
 この歌は 人生の中で 最も素晴らしい 子ども的段階の賛歌なんです! 

きょうも 住みなれた 街の風景や 野原や 河原は
沈(しず)みゆく 太陽の光で 紅々(あかあか)と 煌(きらめ)く 
そんな 夕暮れの美しさは 子どものころと 少しも変わらない
やっぱり 子どものころの 気持ちを 忘れちゃいけないんだよ!  

きっと みんな 子どものころなら 感動することが あったはず!
友だちと 遊ぶ 楽しさに 夢中になって 時間も 忘れたよね
その帰り道 大空に 広がる 夕焼けは 美しかったよね
そんな子どものころって やっぱり 誰だって 詩人なんだよ!

 あああ、子どものころって 誰にとっても とても 大切な時期だよね
 その人の 人生の 幸せや 不幸を 決めてしまうくらいに
 愛情の不足とかで 心に 傷を負(お)うなんて こともあるでしょう
 それでも 子どものころのこと 忘れないで がんばろうよ!
 この歌は 人生の中で 最も素晴らしい 子ども的段階の賛歌なんです! 

「子どもを 馬鹿にして 教えてはいけない」 と言う 吉本隆明さん
「人間社会の 理想の可能性を 描(えが)いたり 考える力!」 
そんな 「人間力」が 大切だって 語っている 吉本さん
子どもの 心を持って 生きることが 1番かも知れないよね!

あの マルクスが 資本主義社会を研究した 『資本論』だって  
「個人の 全的な 自由を 実現する」という 理念で 書いたという
しかし 「やむおえず 社会や 集団を 作(つく)らざるをえなかった」
というのが カール・マルクスの ほんとうの考え方 なんだってさ!

 あああ、子どものころって 誰にとっても とても 大切な時期だよね
 その人の 人生の 幸せや 不幸を 決めてしまうくらいに
 愛情の不足とかで 心に 傷を負(お)うなんて こともあるでしょう
 それでも 子どものころのこと 忘れないで がんばろうよ!
 この歌は 人生の中で 最も素晴らしい 子ども的段階の賛歌なんです! 

≪つづく≫ --- 111章 おわり --- 
 

112章 芸術と自然は、人間をまともなものにする

112章 芸術と自然は、人間をまともなものにする

 7月2日、土曜日。朝から青空で、日中の気温は31度と、真夏のようだ。

 午後2時を過ぎたころ、川口信也は、下北沢駅南口の改札付近で、
清原美樹(みき)と小川真央(まお)、岡昇(のぼる)と南野美菜(みな)の4人と、偶然に出会った。

「あらっ、しんちゃん!」

 最初に信也を見つけた美樹が、満面の笑みで信也に声をかけた。

「よーぉ!美樹ちゃん、真央ちゃん、美菜ちゃん、岡ちゃん。こんなところで会うとは!あっはは」

 信也はそう言って、いつものように、さわやかに笑う。

 信也は、バリカンで刈り上げて、てっぺんは長くても2センチほど、前髪は6センチほどで、
夏向きのリーゼントに決めていた。午前中にカットしたばかりだ。1990年生まれの26歳。

 5人は、シティー カントリー シティ (CITY COUNTRY CITY)で、お茶をすることにした。

 その店は、南口から歩いて1分のビルの4階にある、パスタもおいしい、カフェ・バーだ。

 店では、中古アナログ・レコードやCDなども販売している。
すべての中古レコードは、設置してあるターンテーブルで気軽に楽しめる。

 美樹と真央と美菜の3人は、1992年生まれ、同じ24歳だ。
3人は、早瀬田(わせだ)大学を卒業すると、去年(2015年)の4月から、
信也も課長をしている外食産業のモリカワ本社に入社した。
モリカワは、連結決算も、900億円と、順調の優良企業である。

 岡昇は、1994年12月5日生まれ、まだ、21歳。早瀬田の商学部の4年生。
大学のサークル、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の会計をしている。
美菜は、そのMFCで結成したロック・バンドのドン・マイのヴォーカルをしている。岡は交際中だ。
そのMFCでは、信也や美樹たちも、バンドを組んで、楽しくやっていた。

 5人は、「5人用のテーブルがないじゃん」とか言って笑いながら、
店のスタッフに頼(たの)んで、4人用の四角いテーブルに、椅子を1つ足して座(すわ)った。
店内は、正午の開店から18時までは禁煙になっている。店の席数は15席だった。

 みんなは、セットメニューのアップルケーキとコーヒーとかを注文した。

「おれ、この店、好きなんですよ。レコードを自分でかけて聴(き)けるし、
ライヴやお芝居のチラシが置いてあったり、下北(しもきた)らしいですよね!しんさん!」

「岡ちゃん、おれのことは、しんちゃんで、いいんだって。しんさんじゃぁ、語感も変だし。あっははは」
岡ちゃんも、下北が大好きなんだから、来年の就職先は、モリカワに決まりだよな。
おれも、純も、推薦するから。入社を待ってますよ、ね、岡ちゃん」

「こちらこそ、よろしくお願いします。しんちゃん!
おれも、大学を卒業したら、モリカワに就職したいっすよ。
社員の音楽とかの芸術活動に理解がある、そんな環境のいい会社って、なかなかないですよ。
それに、本社に就職できれば、しんちゃんや純さんや、美樹ちゃん、真央ちゃん、
美菜ちゃんとも、一緒なんでしょうからね!うれしいなぁ!あっははは」

 岡はそう言って、天真爛漫(てんしんらんまん)に笑うと、みんなと目を合わせた。

「モリカワは、芸術活動支援の慈善事業のユニオン・ロックの効果で、
世の中に優良企業のイメージが広まっていて、
すごい追い風の順風満帆(じゅんぷうまんぱん)なんですよ。
うちと、竜さんのエタナールは、数少ないホワイト企業って呼ばれてますからね。あっははは」

 信也は、そう言って、どこかいたずら盛(さか)りの子どものように、笑った。

「岡ちゃん、モリカワに入って、一緒にお仕事しましょう!」

 美樹が、そう言った。みんなは、明るく笑った。

 岡が、「ありがとうございます」と言って、ちょっと頭をかいた。

お客の女の子が、アップした女性の瞳(ひとみ)がジャケットの、
B’zの、『LOVE PHANTOM』(ラヴ・ファントム)の中古のシングルCDを試聴して、
その曲が店内に流れる。

「あぁ、わたし、この歌好きなの。愛は幻(まぼろし)なのかしら?って考えさせられる歌詞で、
小説のような深い内容よね!」と、小川真央(まお)が言った。

「B’zは、いいわよね。稲葉さんの声は素敵(すてき)よね。
特に、稲葉さんのシャウトは、わたしのお手本にしたいの」

 南野美菜(みな)はそう言う。

「美菜ちゃんの歌も、十分に素敵な声ですよ。
でも、この『LOVE PHANTOM』は名曲ですよね。
しんちゃんの新曲の『子ども的段階の賛歌』も、
8ビートと16ビートの複合のリズムで、『LOVE PHANTOM』に似た感じですよね」

 岡は、信也にそう言った。

「そうかな。『LOVE PHANTOM』は、おれのより、アップテンポで、
ロックとクラシックが見事(みごと)に融合されている名曲だよね。
松本さんのアーミングやタッピングも決まっていて、最高のプレイだよね」と信也は言った。

「しんちゃんの『子ども的段階の賛歌』も、名曲よ。わたし大好き!
わたし、しんちゃんに聞きたかったんだけど。
やっぱり、みんなが平和に幸福に暮らしていくためには、
子どものころの気持ちを忘れては、ダメってことなのかしら?」

 美樹が信也にそう言った。

「おれ、子どもたちを、極端に美化するわけじゃないんですけどね・・・。
たとえば、この自然界には、もともと善や悪という考えがないように、
子どもたちは、何が善で、何が悪かも、自分で判断できない、
自然児というか野生児のような存在ですからね。
だから、悪いことをする子どももいるわけですけどね。
そんな子供たちの成長には、親や社会の愛情とかが必要なんですよ。
でも、子どもって、やっぱり、その心というか、魂は、無垢(むく)というか、
汚(けが)れがなくて、清浄なんだと思うんですよ。
ですから、子どもたちの感性や感受性は、鋭敏(えいびん)で、豊(ゆた)かで、
自然の中で、自由にのびのび、楽しく遊ぶことに夢中になれるんですよね。
いわば、子どもたちには、芸術家や詩人の資質がもともとあるんでしょうね。
そんな子どもたちが、大人(おとな)になって、平和で楽しい社会を作っていけたらいいなと、
おれは空想してしまうんですよ。あっははは。
大人になっていくと、いろいろな迷妄(めいもう)に、人は迷い込むものですよね。
誤(あやま)った考えを、真実と思い込(こ)んだり、信じ込んだりで、
なんか、違うんじゃないのっていう感じの、大人が多すぎますよね。あっはは。
まあ、そんな迷妄から、子どもたちやみんなを守る、考え方をしていかないと、
明るい未来は実現しないような気がするんですよ。あっははは
そう言えば、ノーベル賞の大村智さんは、『芸術と自然は、人間をまともなものにする。』
と言っていますけど、おれも、自然と芸術、この2つだよな!とよく思うので、
さすが大村先生だなあって、名言だなあって、共感するんですよ。あっははは」

 みんなに、信也はそう語った。

・・・美樹ちゃんも、陽斗(はると)くんと、うまくいっているようで、幸せそうだ、よかったぜ・・・

 微笑(ほほえ)む美樹を見ながら、信也はそんなこともふと思う。

≪つづく≫ --- 112章 おわり ---

113章 信也と竜太郎、本田宗一郎を語り合う 

113章 信也と竜太郎、本田宗一郎を語り合う

 8月6日、曜日。朝から晴天で、最高気温は34度と、猛暑であった。

 午後の5時を過ぎたころ。
ビアダイニング・ザ・グリフォン(The Griffon )の、
9席あるカウンターで、川口信也と新井竜太郎のふたりは、
黒ビールを飲んでいる。

 料理は、店の自慢の、外はパリッと、中はジューシーな、
3種のソーセージをふた皿(さら)注文した。

 ザ・グリフォンは、渋谷駅から歩いて3分の、幸和ビルのB1Fにある。
20種以上のクラフトビール(地ビール)を用意してある。
落ち着いた雰囲気の、39席がある店だ。

「日本の社会が、こんなふうに元気がないのは、ひとことで言ったら、
子どものころにあった純真さとでもいうのかな、
そんな希望や夢を持っていたころの心を失(うしな)っちゃったことが原因なんですかね?!
おれは、はっきりと、そんなふうに感じているんだよ、しんちゃん。あっははは」

「あっははは。そのとおりでじゃないですか。おれも同感します。
しかし、社会のシステムというか、制度というか、その仕組みというのか、
グローバルな競争とか、格差社会は広がるしで、
人々の環境は日に日に厳(きび)しくなっているようで、
ほとんどのみんなの、元気で明るかった子供のころの、純真さや無垢(むく)な心は、
知らないうちに、荒(すさ)んだり、衰弱していくように感じますよね。
ねっ、竜さん!」

「まあ、おれたちの、エタナールとモリカワが、共同事業で展開している、
『ユニオン・ロック』は、こんな世の中に対する、抵抗みたいな感じで始めたんだけどね!
・・・おれの思いつきで始めたことだったんだけど、
社内では、こ企画に反対ばかりだったんだけど、開始できてよかったって、思っているんだよ。
まったく、しんちゃんとか、モリカワさんたちと付き合いだして、しんちゃんたちを見ていて、
童心を忘れないで、大切にしながら、ビジネスをしている人たちっているんだって、
おれ、目から鱗(うろこ)でね、あっははは。
それで、おれのそれまでの価値観とか、思い上がりとかを、すごく反省させられたしね。あっははは。
まあ、その結果、『そうだ、芸術的な慈善事業を興(おこ)して、子どもたちの支援とかにつなげれば、
それは、みんなが芸術的なことの価値についても考えることになったりするだろうとかで、
その結果、社会を良くすることにも役立つんじゃないかな!?』って感じで、
思いついたアイデアだったんだよ、『ユニオン・ロック』は。あっははは」

「それが、ものの見事に的中していますよね。
『ユニオン・ロック』は、芸術活動を無償で支援するユニークな慈善団体として、
大成功で、エタナールとモリカワは、世界からも注目ですもんね、竜さん!」

「でも、同じ業界からは、嫉妬(しっと)や皮肉(ひにく)も多くてね、しんちゃん。あっははは」

「あっははは、あんなの、どうでもいい連中ですよ、竜さん。ああ、おれ、酔(よ)っちゃいました、
あっははは。
竜さん!竜さんも、いずれは、エタナールの社長になるんでしょうけど、
経営者には、絶対に、子どものような、純真な心が必要だと思いますよ。
おれの好きな経営者に、ホンダの本田宗一郎さんがいるんですけどね。
本田さんは、こんな言葉を語っているんですよ。
『技術と芸術の共通点は、自分に忠実であることが、悔(く)いの残らないものを作るための、
最低条件であるという点だ。私が最も美しいと思うものを、
同時代の多くの人もそう思ってくれると信じてきた』ってね、いいことを言っていますよね、
本田さんって、一流の芸術家でもありますよね、こんな考え方ができるんですもん。
おれ、本田さんの言葉で、一番のお気に入りかなあ、これが!
別冊宝島の『本田宗一郎っていう生き方』に載(の)ってたんですけどね!」

「いい言葉だね、しんちゃん、
本田さんも、童心を忘れないで大切にした素晴らしい経営者だったんだね、
おれも尊敬しちゃうな。あっははは」

 信也と竜太郎は、目を合わせて、陽気に笑った。

≪つづく≫ --- 113章 おわり ---

114章 信也、『詩とは、芸術とは何か?』の講演する  

114章 信也、『詩とは、芸術とは何か?』の講演する  

「みなさん、こんにちは!お元気ですか?」

「元気です!しんちゃん!」

 8月20日の午後2時。定員72名の、ミーティングルームの演題に立つ、
身長175センチの、川口信也の挨拶(あいさつ)に、
前列(ぜんれつ)の3人掛(が)けのテーブルの、
小学生や女子中学生や女子高生たちは、可愛(かわい)い歓声を上げる。

 10代の男子や、大学生、社会人の男女も来ていて、満席だ。
信也と交際して、3年になる大沢詩織や、
3年前に信也と別れた、清原美樹も来ている。
信也のロックバンド、クラッシュ・ビートの森川純や他(ほか)のメンバーも来ている。
信也の飲み仲間で、エターナルの副社長の、新井竜太郎の姿もいる。

 若者や大人たちによる文化・芸術活動の支援を目的としている、
慈善事業のユニオン・ロックの、SNS(Social Networking Service)は、
開始して約2年を経(へ)て、
パソコンとスマートフォンで、アクティブ・ユーザー数は、現在700万人を超(こ)える。

「えーと、ブラジル・リオデジャネイロのオリンピックも、いまさっきは、
男子400mのリレーで、銀メダルを取っちゃいましたよね!
ああいう、精神と身体(からだ)で、自分の限界に挑戦する、
スポーツのお祭(まつ)りも、人を感動させるっていう意味でも、
芸術品なんだなあと、ぼくはつくづく思いました。あっははは」

 信也が陽気に笑うと、会場のみんなからも笑い声や拍手がわいた。

「この授業は、第21回目です!さて、きょうは、
まあ、スポーツ選手なら必ずやっているストレッチのお話から始めます。
ゆっくりと、10秒から30秒ほどと、ゆっくりと筋肉を伸ばして、
疲労回復やリラックスやけがの予防などに役立つ、ストレッチです。
実は、インターネットで調べても、科学的に、なぜストレッチが大切なのか?って、
みなさんに、ほとんど知られていないのが、現状のようです!
このディスプレイの映像や資料は、NHKの『ためしてガッテン』の
『冬の若返りストレッチ術』からのものです。
みなさん、老化の原因物質って、なんだと思いますかぁ?ねえ、そこの可愛(かわい)い、みなさん!」

「わかんなーい!ほら、よく、お刺身とかが、酸化するっていうじゃない。
酸化が老化の原因かな?しんちゃん!きゃっはは」

「ありがとうございいます!みなさん、優秀ですよ!あっははは。そうですよね。
よく、巷(ちまた)では、酸化(さんか)するとか耳にしますよね。
おれなんかも、その程度のことしか、この番組を見るまで知りませんでした。あっははは。
ディスプレイを見てください!筋肉には、このように、繊維質の膜(まく)の形をした、
白くてプルンプルンと柔(やわ)らかいコラーゲンがあるんです。
このコラーゲンが、なんと、糖(とう)と合体して、コラーゲンの糖化が進行すると、
筋肉は和菓子のかりんとうのようにいガチガチに硬くなってしまうんです。
コラーゲンの糖化は、糖尿病や食後の高血糖で加速するなんて、番組では言ってます。
コラーゲンは、全身の組織にあるんですよね。たとえば、骨のコラーゲンが糖化されたら、
しなりもなくなって、このようにぽきんと折れちゃうんです。こわいですね。
こちらは、目のコラーゲンですね。糖化されると、視力が低下します。
皮膚のコラーゲンが糖化されると、しわやくすみの原因になってしまいます。こわいですよね。
ここで、1番大事なことは、身体(からだ)が硬(かた)いと血管も硬いってことですが。
血管というのは、このように、三層の構造になってます。
その二層目は、平滑筋(へいかつきん)ですが、
平滑筋の中のコラーゲンが糖化されてしまうことが、動脈硬化の原因の1つになっているんです。
さて、問題はここなんですよね、みなさん!
ここまで、黒くてガチガチに硬(かた)くなってしまった、
この和菓子のかりんとうのようになったコラーゲンが、
はたして、白くいプルンプルンの柔(やわ)らかなコラーゲンに、戻(もど)ると思いますか?!
どうですか、いつも素敵(すてき)な元気なお嬢(じょう)さんたち、あっははは」

「きっと、戻ると思います!だって、しんちゃん、自信満々で、嬉(うれ)しそうなんだもん!きゃっははは」

「老化を可能な限り小さくする、アンチ・エイジングには、食事をするときは、
野菜を先に食べることによっても、コラーゲンの糖化を遅(おく)らせることができます。
筋肉の中のコラーゲンは、このように網目(あみめ)となって、
蜜柑(みかん)のネットのような構造をしていまして、そのおかげで、
柔(やわ)らかく保(たも)たれています。しかし、血液中に糖の多い状態が続くと、
糖がコラーゲンの網目にベトベトくっついて、そのしなやかさを失(うしな)わせてしまうんですね。
さて、ここからです。主役の登場です!それが、この繊維芽細胞(せんいがさいぼう)なんです。
まだ、コックリと眠っていますよね。あっははは」

 信也は、右手の大型ディスプレイを見て笑った。

「この繊維芽細胞くんたちは、金(かな)づちなのかハンマーなのか持ってますよね。
言ってみれば、わたしたちの身体(からだ)の中の大工さんなんですよ。あっははは。
実は、ストレッチをすると、古いコラーゲンはところどころ傷(きず)つくんです。
繊維芽細胞(せんいがさいぼう)たちは、その傷ついたことに気がついて、古いコラーゲンを捨てて、
糖化でガチガチになったコラーゲンを新しいコラーゲンに入れ替えてくれるんです。
筋肉のコラーゲンの網目を修復してくれました!
つまり、ストレッチをすると、繊維芽細胞たちが働いてくれるんですよね!すばらしいですよね!
あっははは。
まとめますと、ストレッチを続けることで、老化したコラーゲンは若返る!ってことです。
おれも、よくビールを飲んだりするんで、糖化との闘いの日々ですから、
ストレッチは、もう日課です。あっははは。どんなストレッチが、いいかは、
みなさん、ネットで調べたりして、研究してくださいね!あっははは」

「わたし、しんちゃんに、ストレッチ教えてもらいたいです!」と、女子中学生が言って、微笑んだ。

「わかりました、じゃあ、後(あと)で教えてあげね!君たちは、いつも天真爛漫(てん しんらんまん)で、
おれの可愛(かわい)い妹みたいなんだからなぁ!あっははは。
えーと、今回のタイトルは『詩とは、芸術とは何か?』なんだけどさ。
たぶん、おれの自己満足のつまらない芸術論なんだよね!あっははは」

「がんばってー!しんちゃんなら、大丈夫(だいじょうぶ)よ!金メダル、まちがいなし!」

 誰かがそう言って、小・中・高生たちは、一斉(いっせい)に可愛(かわい)い歓声を上げる。

「ありがとう、ありがとう、みんな。君たちからの金メダルをいただいておくよ。あっははは!
さて、いまの世の中、デジタル革命いってもいい、便利さで、
誰でが、昔に比べても、芸術的なことや、趣味にチャレンジしたり、
楽しめるようになったと思うですよね。
けれど、そんな状況とは反対に、世界中では、戦争やテロや難民問題とかのニュースが多くて、
ひとことで言ったら、人の心は、危機的な状況になっているんだと思います。

所得とかの、いろいろな格差とかでも、貧困が生まれて、人の心は荒廃しています!
そんなわけで、みんなの心には、いつも悲しいとか淋(さび)しいとかが、慢性化しているのが、
現代社会なのかな、っていうのは考え過ぎかな。あっははは。

でも、じゃあ、何がいけないんでしょうかね。おれは、明るい未来のある明るい生き方を示す、
明確なビジョン、つまり、構想とか未来図とか未来像とか、理想的な人間像とか、ヒーロー像とか、
つまり、おれらの明るい未来の姿っていうものを、誰もが描けないことが、
まず、1番の問題点かなっ思ったんだよね。おれは。あっははは。

じゃあ、おれは、どんなビジョンを持っているんだって、自問自答したんですよ!
そしたらさあ!あっははは。すぐに答えが出たんだよね。あっははは!
何だと思うかな!そこのスウィング・ボブが決まっている可愛い子!何だと思う!」

「わたしですかぁ!きゃははは。しんちゃんのビジョンっていえば、『みんなが詩人になること』
しかないんじゃないですかぁ。きゃははは」

 スウィング・ボブのヘアスタイルの女子中学生が笑いながらそう答えた。
会場のみんなも明るく笑った。

「ピンポン!大正解だよ。よく、おれのこと知ってるじゃん!
そうなんですよ。おれは、誰もがみんな、詩を書けば詩人だし、
絵を描けば、素晴らしい画家だと思っているんですよ!
だってさ、学校の廊下や教室に貼られているみんなの絵を、じーっと見つめたりしていれば、
おれなんか、じきに、胸がつまって、涙が出てくるんだから。あっははは」

 会場のみんなからは、大爆笑と拍手の嵐。

「なぜ、詩や芸術のテーマなのに、ストレッチのお話をしたかと言うとですね!
ひとことでいったら、おれらが生きているこの自然界に逆(さか)らっては、
幸せには生きることができないように、この世界はできているってことなんだと思います。

みなさんには、古い時代の話なので、知らない人も多いでしょうけど、
画家としても有名で、1970年の万博博覧会では、この『太陽の塔』をつくった、
岡本太郎さんは、こんな世の中で、『失(うしな)われた自分を回復するための、
もっとも純粋で、猛烈な営(いとな)み。自分は全人間であるということを、
象徴的に自分の姿の上にあらわす。そこに今日(こんいち)の芸術の役割があるのです。』
ということを、知恵の森文庫の≪今日の芸術≫でお話になっています」

 そういって、色鮮やかなディスプレイの『太陽の塔』を、信也も見つめる。

「芸術には、岡本さんの言うような役割があると、おれも思います!しかし、現代社会では、
そんな芸術が、やたらと、国が褒(ほ)めたたえて賞の授与の対象になったり、
何々賞とかの対象になったりで、どんどん高級化されたり、栄誉の対象となったりして・・・、
2015年には、ゴッホの絵画、この『アリスカンの並木道』は79億円超で落札されましたけど。
商品化できるものが芸術だとか、そんな先入観が、知らないうちに、頭の中にインプットされ、
埋め込まれてしまうのじゃないでしょうか。マインドコントロールとかの、
一般社会で言われる心理操作というのは、
案外簡単に、普通の人がひっかかちゃうものだと思います。

さて、おれは、やっぱり、ひとことで言ったら、人間と自然との友好関係を修復することが、
現代の衰弱して、無力になっているような、われらの芸術の復活になると思っています!
1番始めに、ストレッチのお話をした理由は、その自然界の仕組みに、驚くとともに、
自然に対する敬意というのかな、尊敬や感謝の気持ちを強く感じたからです!
その自然の中で、活躍する人たちと言いますか、
いまはちょうど、オリンピックで、盛り上がってますよね!あっははは
男子団体総合や男子個人で、金メダルに輝いた、内村航平さんにも熱いものを感じました。
金メダルにこだわるのもおかしいですけど、そこから感動的なドラマが生まれますよね。
あの内村さんも、ぼくから見れば、すごい芸術家です!
つまり、人は自然の中で、身体(からだ)を動かして、活動することによって、
芸術家になるんだし、芸術活動をやっていくんですよ。
と言うか、人は、生まれた赤ちゃんのときから、人を喜ばす、芸術家なんですからね。
そんな誰にでもあるはずの、芸術家の芽とでもいうものを、すくすくと伸び伸びと育ててゆく、
そんな学校の教育こそが大切ですし、みんなが自分の力を信じて、個性を生かして生きることが、
本来のといいますか、幸せを目指せる生き方なんだろうって、おれは思うんです!あっははは」

 信也がそう言って一息ついて、演台に用意されたグラスの冷えた水を飲む。
そのあいだ、拍手が鳴りやまない。

「生命なんて、とても誕生できないはずの、過酷な環境の、この広大な宇宙の中で、
生命にとって最適な大自然に恵(めぐ)まれた、奇跡の星が、この地球です。
そんな大自然と人間の相互関係って、どんなものなんでしょうか。
それを、わかりやすく、普遍性、つまり、いつの時代でも通用する言葉で語っているのが、
19世紀の哲学者のカール・マルクスが26歳で書いた『自然哲学』なのだと思います。
『自然哲学』は、晩年の大作『資本論』の根幹をなす思想といわれています。
詩や芸術を尊ぶ心の大切さが、瑞々しい感性で語られていると、おれも感じています。
『資本論』には、資本主義の分析に追われるうちに、そんなマルクスの初心が、
消え失せてしまっているようで、歴史的にも多大な誤解を生んでしまっている気もします。
吉本隆明さんが、『マルクスの自然哲学』っていう文章で、わかりやすく語ってくれているので、
その吉本さんの文章をコピーしてお配りしました。若い人には、ちょっとばかり、
難(むずか)しい内容ですが、お時間のある時にでも、読んでみてください」

 会場からは、拍手がわいた。

「吉本さんが敬愛していて、おれも尊敬している詩人で童話作家の、
みなさんもよくご存(ぞん)じの宮沢賢治は、こんなことを言ってます。
『世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない』って言葉です。
『農民芸術概要(のうみんげいじゅつがいようこうよう)』って中の言葉ですが、
おれの心にも、衝撃(しょうげき)というか、心を凍(こお)らせるような言葉なんです。
吉本隆明(たかあき)さんは、『詩とは何か』という著書で、
『詩とは何か、それは、現代社会の中で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、
かくという行為で口に出すことである。こう答えれば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては
充分である。』と語っています。
おれは、実はこれまで、吉本さんの言うこの詩の定義がわかりませんでした。あっははは。
そこに、つい最近、さっきの宮沢賢治の言葉が、ぴったりくるって思ったんです。あっははは。
『世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない』って言葉ですけど、
これこそは、全世界を凍らせる言葉であり、究極の詩かもしれませんよね!あっははは。
まあ、詩も芸術も、もっと身近なテーマでいいんだと思います。
世界中凍(こお)っては、氷河期に突入してしまいますからね。あっははは」

 会場のみんなもっ笑った。

「お話をまとめますと、マルクスにしても、宮沢賢治にしても、吉本隆明さんにしても、
人間は、自然や他者との、豊(ゆた)かな交流や共感や交感の中でこそ、幸福に生きられるのだと、
言っていると、おれは感じています。そこに詩や芸術も生まれるのだと思います。
・・・これで、きょうのおれのお話は終わりにしたいと思います。
きょうは、世田谷区の、たまがわ花火大会ですよね。
朝方の大雨や、にわか雨もありましたけど、本日は予定通りの花火大会がきっと実現できます!
きょう、ここにお集まりのみなさまには、ご案内の地図にある場所に、
シートになりますけど、観覧席をご用意してあります。
きょうは、7時から開幕で、花火は打ち上がります!みなさんで、楽しいひとときを過ごしましょう!
夜空の大音響の色鮮やかな花火は、真夏の芸術です!あっははは。
それでは、これからも、みんなで、いつも元気に、いろいろと楽しくやってゆきましょう!」

「しんちゃんと、いっしょに、花火を見れるなんて、最高です!」

 女子学生が、そう言った。会場からは拍手が鳴りやまなかった。

 この講演で、配(くば)られた、吉本隆明の著作の『マルクスの自然哲学』は、下記のものだった。

ーーー
『マルクスの自然哲学』

 自然に対して何か働(はたら)きかけを行うと、必ず人間のほうも変容してしまいます。
「もうひとりの自分」になってしまう。マルクスの『経済学・哲学草稿』のなかの言葉でいえば、
「有機的自然物」になってしまう。

<中略>

 人間が自然(外界)に働きかけたとき、心身ともに ── つまり精神的にも物質的にも ── 
どういうことが生じるかという問題は、ぼくの知っているは範囲では、
マルクスしか言及(げんきゅう)していません。

 マルクスは、「人間が精神的ないし身体的に自然に働きかけると、
自然は価値化する」といっています。人間が働きかけると、ただの自然でなくなって
「価値的自然」になる。人間の延長線になって、人間の役に立つような価値を生じる。
したがってそれは、人間の身体の延長線になる、とマルクスはそこまでいってます。

 ではそのとき人間はどうなるかというと、人間は逆に自然になっちゃうんだといってます。
マルクスは「有機的な自然」という言葉を使ってますけれども、有機的な自然になってしまう。
どういう意味かといえば、自然に働きかける人間は、そのとき「人間」ではなく、
機械ないし筋肉の行使者といったような「有機的自然」になってしまうということです。

 価値化された自然というのは人工的な自然である、というふうにいうならば、
それは経済的価値になったり文学的価値になったりする。
反対に、人間は自然が収縮(しゅうしゅく)したものになる。
つまり、人間の身体は自然そのものと同じかたちになってします。
自然のように狭(せば)まってしまうといったらいいんでしょうか、
あるいは自然のように広(ひろ)がってしまうといったらいいのか、
ともかく人間が自然に働きかけると、人間の身体は自然と化してしまう。
これがマルクスの自然哲学の考え方です。

 人間および自然に対する考察として、ここまでいった人はいないんじゃないかと思います。

(川口信也からの説明)
有機体とは、生命現象をもっている個体のことです。ですから、有機的とは生命的ということでしょうか。

    ーーー  以上は、吉本隆明 著、「日本語のゆくえ」、光文社知恵の森文庫からの引用です ---

≪つづく≫ ---  114章 おわり ---

115章  信也が連載マンガの主人公になる

115章  信也が連載マンガの主人公になる

 7月17日の土曜日。よく晴れた青空の午後2時を過ぎたころ。

 川口信也が運転するホワイトパールのトヨタのハリアーが、
都道311の環八(かんぱち)を走ると、世田谷区の砧(きぬた)公園駐車場に止(と)まった。

 助手席(じょしゅせき)には、淡(あわ)いピンクで、細(ほそ)いラインの、
ペンシル・スカートが可愛(かわい)い、マンガ家の青木心菜(ここな)が乗っている。

「しんちゃん、今年の4月だったんですけど、わたしのお友だちが、
この美術館の中のフランス料理のレストランで、ウエディングパーティをしたんです!」

 駐車場のすぐ隣(となり)には美術館がある。

「この公園の中のファミリーパークは、1000本近い桜の名所ですからね。
4月じゃぁ、お花見にも最高だったんじゃないですか?心菜(ここな)ちゃん」

「そうなんですよ、ソメイヨシノやヤマザクラとか、満開で、とても素晴らしかったんです!」

「あっははは。それは、ほんに、すてきな結婚式ですよね!」

 ふたりは、自然の豊かな公園内を15分ほど散歩して、
美術館内にあるフランス料理のレストラン、ル・ジャルダンに入った。

 開放的なガラス張(ば)りの店内は、明るく、美しい緑(みどり)の公園の風景を楽しめる。

 2時から5時までが、ティータイムなので、ふたりは紅茶とケーキのセットを注文した。

「ところで、心菜(ここな)ちゃん。おれをモデルにしたマンガを描きたいっていうお話(はなし)ですけど。
あっははは」

 ダークグレーのポロシャツが、いたずら盛(ざか)りの少年っぽい感じの信也である。

「そうなんですよ、しんちゃん。わたしのマンガって、巷(ちまた)では、ルノワールって、
言われているじゃないですか。しんちゃんのイメージって、
そのルノワールの絵の中に登場する男性像にピッタリなんですよ。
それで、ずーっとしんちゃんがモデルの主人公の物語を構想していたんです」

「あっはは。でも、ルノワールって、女性の美を描(えが)いた画家って感じがするけれど、
男性をそんなに描いてましたっけ?」

「そのとおりです。ルノワ-ルは、永遠の女性美を追い求めたような画家だと思います。
でも、しんちゃんは、そのルノワールの中の女性たちが恋い焦(こ)がれる男性像に近いのだと、
わたしは思っているんです!つまり、しんちゃんには、わたしから見ると、
ルノワールの中の女性たちの相手として、ふさわしい、
とても貴重(きちょう)な不思議な気品があるんですよ、ぅふふ」

「ああ、なるほど。なんか照(て)れくさいような、うれしいような。
でも、お話は、ちょっと複雑な気がするけど。あっははは」

「しんちゃんって、いま、26歳ですよね。
でも、こうやってお会いしていても、時々、16歳みたいに感じちゃうときがあるんですよ。
それって、なぜなんでしょうね!失礼な言い方で、ごめんなさい」

「失礼だなんてことないですよ。あっははは。
おれなんか、15や16歳のころの、感受性が1番に鋭くって豊かなころが、
おれにとっては、1番に人間らしい生き方をしていたと、いまでも感じているんですよ。
それだから、若く見られたって、それはたぶん、自然なんですよ。あっはは」

「はぁ、その考え方って、しんちゃんの哲学ですよね!すごいと思います!ぁっははは」

「そういえば、18世紀に生きて、56年間の生涯(しょうがい)の哲学者の、
フリードリヒ・ニーチェがこんなことを言っているんですよ。『人の物の見方(みかた)は、
人それぞれに違う。なぜなら、立場が違えば、見方は変わるし、その人の欲望でも、
ものの見方は変わる』ってね。こんな当たり前のようなこと、実は、15歳のおれでも感じていたけどね。
でも、ニーチェって人は、その15歳の感受性で、生涯、人生について考え続けた人だったんですね。
おれは、そんなニーチェに共感するんですよ。
自分の感性に誠実で、世の中の権威や価値観に反抗するところなんかは、
まるでロックンローラーの精神の元祖(がんそ)みたいですよ。あっははは。
こんなものの見方から、ニーチェは、『<物事には本質がある>という考え方は絶対ではない』とか、
『真理は何でもって証明されるのか?・・・要するに利益(つまり、わたしたちに承認されるためには、
真理はどのような性質であるべきかという前提)でもってである』とか言っているんですよ。
ニーチェの『神は死んだ』という言葉は有名ですが、ニーチェは、彼独特の、ものの見方から、
これまで絶対的な価値だとしていた宗教とかを、徹底的に批判したりしたわけです。
しかし、これまでの価値観を否定する態度は、ニヒリズムといわれていて、
確かにニーチェのような徹底(てってい)したニヒリズムには、むなしさや暗さや虚無感を感じますよね。
ねえ、心菜(ここな)ちゃん。あっははは。でも、ニーチェは、このニヒリズムを徹底させたその先に、
見えてくるものを『永遠回帰』の世界として詩に表現したんですよ。
ニーチェは『今のこの瞬間が永遠に回帰するって言うんです。
回帰って、1周してもとへもどるってことですよね。あっははは。
時間が流れることには意味がないって言うわけです。このおニーチェの考え方は、
キリスト教的な時間のイメージとは正反対なんですよ。キリスト教では、天地創造があって、
人類の進歩があって、ゴールに向かって、よりよく生きて、その歴史が終わるとき、
すべての人は審判を受けて、善人は神の国に入ることができるっていうことらしいですから。
ニーチェの場合は、そんなキリスト教の直線的なイメージとは正反対に、
円のイメージに近いんです。円には始点も終点もないんです。時間は進んでも進んでも、
どこにも近づいていないし、何からも離れていない。等しく無価値なような状態が永遠に続くんです。
ニーチェはこのような時間のイメージを永延回帰と表現したんですよ。
まあ、ニーチェは、哲学を芸術の一種と考えていた人なんです。
『哲学は論理の正しさがどうのこうのと言うものではないし、そもそも哲学は学問ですらない』
って言っています。『われわれ哲学者は芸術家と取り違えられるほうが、
嬉(うれ)しい』とも言っています。ニーチェは、第1に、人間はどうあるべきかとかの、
生き方こそを重要視するんですよ。
だから、論理がどうだからとか、真理だからという考え方はしないんです。
そうですよね。ニーチェは、ハナッから、論理も真理も、信用してないんですから。あっははは。
長々(ながなが)とお話しして、ごめんね!心菜(ここな)ちゃん』

「いいのよ、しんちゃん。お話、おもしろいわ!!もっと、しんちゃんのこと知りたいし!」

 そう言って、心菜は微笑(ほほえ)むと、おいしそうに紅茶を飲む。

「ニーチェには『超人』という考えがあるんですよ。代表作の『ツァラトゥストラ』には、
『人間は、動物と超人のあいだにかけわたされた1本の綱(つな)である』という一節があるんです。
『動物が進化して人間が生まれた。それと同様に、人間には進化の道筋の先に超人がある』っていう
イメージなんでしょうね。つまり、ニーチェは、『人間にはまだ可能性がある。
人間を乗り越えた先に、超人という、より人間らしい人間を想像したんでしょうかね!あっははは。
まあ、ね、心菜(ここな)ちゃん。おれら、みんな、超人になれない、発展途上の人間なんだから、
おれでも、ニーチェさんでも、欠点だらけなんだろうけど、おれは、ニーチェは好きだな。
もう2年前になるけど、第2回目の下北芸術学校の公開授業で、
清原美樹ちゃんが、ニーチェについて語ってくれて、それから、おれもニーチェが好きなんだよ。
あっははは。ニーチェは、最終的に、芸術的な生き方を提唱しているしね。
わたしたちは、誰もが芸術家ではないかもしれないけれど、実はこの世界を生きることは、
いつでも困難にも価値を見つけるくらいのポジティブ(肯定的)さで、
自分の新しい価値観を作ることだったり、クリエイティブ(創造的)なことだったりするんだと、
ニーチェは言ってるんです。
いつも子どものように喜んで、高みを目指して、
夢や希望を捨てないで、気高(けだか)く生きていこうって言っているんですよ。
自由な人生、希望に満ちた人生、自分で自分を認める人生、楽しい人生とかを実現するための、
芸術的な生き方をしていこうってね!」

「すてきだわ!ニーチェがすてきというよりも、しんちゃんが、すてきだわ!」

「あっはは。ありがとう、心菜(ここな)ちゃん。でもさあ。ニーチェの言う
『世界のあらゆる価値観は、わたしたちの解釈(かいしゃく)のうちにある』って、
『権力の意志』っていう著書でいっているんだけど、そんなふうに、絶対的な真理や価値観などが、
存在しないとなると、いったい、おれたちは、何を頼りにしたらいいのかって、ふと思うよね」

「うんそうよね。ニヒリズムよね。いっさいが無意味と思えたりするしね、しんちゃん」

「そこで、おれは、思ったんだよ。ニーチェが、同じ時代に生きていた
ロシアの作家のドストエフスキーの『地下室の手記』を読んで、感銘したっていうんだ。
ドストエフスキーといえば、著書の『白痴(はくち)』の中で、主人公に、
『美は世界を救(すく)う』という有名な言葉を言わせているんだけどね。
おれなんかも、バンドやったりして、芸術的なことをやっていると、
『美に出会う』とでもいうのかな、そんな瞬間があって、それに、人生のすべてを賭(か)けても、
惜(お)しくないような、幸福感というのか、充実感というのか、快感かな、愛かな、
神秘的で偉大な何かの力とでもいうのかな、そんなものが、
『美に出会う』とでもいう瞬間を体験することがあるんですよ。
心菜(ここな)ちゃんも、マンガ描いていて、そういう瞬間てあるでしょう!?」

「あります。幸せな瞬間よね。そうよね、それって、美との出会いよね。ぅっふふふ」

「みんなが、芸術家っぽくなれば、そんな『永遠の美』とでも呼ぶような体験ができて、
世の中も、だんだん良くなるような気がするんだけどね。あっははは。
そういえば、美と出会う、そんな幸福感や高揚感っていうのは、若いころの誰かに恋して、
ときめいていたときの感じにも似ってるかな。あっははは」

・・・もう、しんちゃんたら、わたしが、あなたに、こんなに、ときめいているのに・・・

「そうそう、しんちゃんがモデルのマンガの主人公って、こんな感じなんです!
しんちゃんが、快(こころよ)く、承諾(しょうだく)してくれるなんて、夢のようにうれしいです!」

 色彩も鮮(あざ)やかなイラストを、青木心菜(ここな)は差し出した。

「すげーぇ、カッコいいじゃん。それに、おれに似てるじゃん!あっははは」

「だって、しんちゃんがモデルのロックバンドのマンガだもん!」

「まあ、よろしくお願いします。心菜ちゃんのマンガで、おれも、バンドも超有名になったりして!」

 ふたりは、明るい声で笑った。

☆参考文献☆別冊宝島・まんがと図解でわかるニーチェ・監修・白取春彦・宝島社

≪つづく≫ --- 115章 おわり ---

116章 マンガの『クラッシュ・ビート』が連載開始される

116章 マンガの『クラッシュ・ビート』が連載開始される

 10月8日の土曜日。午後2時。曇り空で気温は22度ほどである。
 
 下北沢駅北口から歩いて3分の、商店街から静かな通りに入ったところの、
建物の1階に、緑の植物や動物たちのぬいぐるみで、とてもメルヘン的な、
『森の中の小さな隠れ家』をイメージしたカフェの、
『cafe tint (カフェ ティント)』はある。

 『ティント』は、彩(いろど)りという意味で、彩りあふれる料理やデザートを、
楽しんでほしいという思いからつけている。

 ソファー席には、川口信也や森川純、高田翔太(しょうた)、岡林明(あきら)たち、
ロックバンド、クラッシュ・ビートのメンバーと、マンガ家の青木心菜(ここな)と、
親友でマンガ制作のアシスタントの水沢由紀、
大手、マンガ雑誌、三つ葉社の編集者の青木葵(あおい)、7人がいる。

「みなさま、きょうは、お忙(いそが)しいところを、
お集まりいただいて、ありがとうございます!」

 若くて初々(ういうい)しい編集者の青木葵が笑顔でそう言って、話を続ける。

「青木心菜(ここな)先生の新(あら)たな連載マンガ『クラッシュビート』も、
おかげさまで、スタートできました。ありがとうございます!」

 みんなからは、拍手がわいた。

「このマンガ、『クラッシュ・ビート』には、クラッシュ・ビートのみなさまと、
株式会社のモリカワさまとエタナールさまのご理解が、必要、不可欠でございました。
そのタイアップも、見事(みごと)に、みなさまの全面的なご協力で、
実現いたしました。本当ありがとうございました!」

 マンガ家、青木心菜(ここな)の担当編集者の青木葵(あおい)は、
みんなに満面の笑顔でそう言うと、深々(ふかぶか)と頭を下(さ)げる。

 「まあ、何と言ったらいいのかな、とかく、タイアップという
相乗効果をねらう、協力や提携というものは、商業的手法として、
芸術性を求めるヨーロッパやアメリカなどでは、ネガティブなイメージを伴(ともな)うもの
なんですよね。しかし、経営学者のピーター・ドラッカーは言っているけど、
企業にとって利潤が重要であることは認めてはいるけど、
『企業の経営目的は、利潤ではなく、顧客(こきゃく)の創造である』と言っているんですよね。
つまり、企業の目的も、ロックバンドとかのミュージシャンの目的も、マンガ家さんの目的も、
顧客や観客や読者の創造であるって言ってもいいと思うんですよ、おれは。あっははは」

 クラッシュ・ビートのリーダーでドラマーの森川純がそう言って笑う。

「人を楽しませて、なんぼ、とか、どの程度、とか、言うけれど、
人を楽しませることが目的のエンターテイメントならば、
楽しませないことには価値はないと思いますよ。
おれらの音楽も、エンターテイメントや娯楽の要素があるんだし、あっははは」

 そう言って笑うのは、ベーシストの高田翔太だ。

「そうそう、芸術性の高さがどうだこうだとか言って、知識や論理を自慢げに語るようなのは、
本当につまらないよな、楽しくないし、元気も出ないよ。なあ、翔(しょう)ちゃん、あっははは」

 と言って、笑うと、ギターリストの岡林明は、チョコバナナミルクティーをおいしそうに飲む。

「わたし、お笑いの明石家(あかしや)さんまさんが好きなほうんです。さんまさんが、
『おれらは、楽しんでいるとこ見せて、なんぼ。まじめに努力しているとこ見せて、どないするねん!?
結局、自分が楽しんでいれば、相手も楽しい気分になる!』ってこと言ってますけど!」

「それは、大正解よね、由紀ちゃん!さすがは、サンちゃんだわ!
わたしも、マンガは楽しんで描(か)いてるもん!」

 青木心菜(ここな)は、親友の水沢由紀と目を合わせて微笑(ほほえ)む。

「ところで、第1話の『クラッシュ・ビート』は、大変おもしろく、読ませていただきました!心菜ちゃん。
おれたちをモデルにした、あのロックバンドのこれから先の、未来は、どうなっていくんですかね!」

 そう言って、ギターとヴォカールの、川口信也は、心菜に微笑んだ。

「これって、絶対に、ここだけの秘密ですけれど。
友情とロックの情熱で結束も固いクラッシュ・ビートは、
いろいろと笑いや涙ありの苦労や、成功や失敗とかを乗り越えながら、
世界的なロックグループに成長していくんです。
たとえば、あのビートルズのように、ビッグになっていって、
世の中の平和やみんなの楽しい人生にも貢献(こうけん)していくっていう、
ストーリーの展開なんです!いまのところ。うっふふ」

 そう言って、心菜は、みんなを見ながら、少女のように目を輝かせて微笑んだ。

「なんだか、それじゃ、現実のおれたち、クラッシュ・ビートと、違って、偉大だよな。
おれたちも、マンガに負けてられないって気になるよな!あっははは。
よし、おれたちも、夢を大きく持って、ビッグなロックバンドを目指して行こうか!あっははは」

 信也は、そう言って、森川純や高田翔太や岡林明と目を合わせた。
みんなは、声を出して明るく笑った。

「あくまで、マンガは、フィクションですから、虚構ですから。
マンガの原型やモデルは、クラッシュ・ビートのみなさんたちですけどね。うっふふ。
毎回、マンガの最後には、『このマンガは、すべてフィクションであり、
実在の人物・団体等とは一切関係ありません。』って明記しますから。
読者にも誤解を持たれないように、誰にも迷惑がかからないようにと、
実名は、一切使用していないのです」

 心菜は明るい笑顔で、そう言った。

 マンガの中では、川口信也は、河口信也だった。森川純は、守川純。
高田翔太は、鷹田翔太。岡林明は、丘林明。そんな名前になっている。

≪つづく≫  --- 116章 終わり ---

117章  信也たち兄妹(きょうだい)、ボブ・ディランを語る

117章  信也たち兄妹(きょうだい)、ボブ・ディランを語る

 10月16日の日曜日、午前8時過ぎ。空模様は曇(くも)っている。

 川口信也(しんや)と姉妹の美結(みゆ)と利奈(りな)は、2DK(部屋2つ、リビング、キッチン)の
マンション(レスト下北沢)のリビングで寛(くつろ)いでいる。

 信也は、ここから歩いて2分のところも、マンション(ハイム代沢)を借りている。
そこは、部屋1つと、キッチンと、バスルームに洗面所、南側にはベランダの、
1Kの間取りだ。駐車場はない。
信也のクルマは、こちらのマンションの地下の駐車場にある。

 朝や夕の食事に、ここにやって来る信也だ。

「お兄ちゃん、ノーベル文学賞にボブ・ディランが選ばれたけど、
ボブ・ディランって、どんなふうにすごいのかな?」

 利奈が、そう言った。利奈は早瀬田大学2年生、19歳だ。

「そうだね。まずは、ロックシーンに、大きな影響を与えていることかな?
それがなんで、文学賞なのっていう、世間の論議もあるけどね。
ノーベル賞には、芸術的な部門としては、文学賞しかないのだから、
ミュージシャンとかは、これまで対象外のはずだったのけどね。
おれは、芸術のジャンルにこだわらずに拘束(こうそく)されないことは、ポジティブで賛成ですよ。
あっははは。
賞の設立者であるアルフレッド・ノーベルの遺言によれば、ノーベル文学賞は、
『理想的な方向性』の文学作品を生み出したものに与える、となっているだってさ。
ノーベル賞って、たとえば、ビートルズのジョン・レノンのロックンロールをつらぬく、
ラヴ・アンド・ピース、愛と平和の思想と、ほとんど同じなんだろうからね。
文学とかの狭いジャンルに、こだわるんじゃなくって、
広く、愛と平和に貢献した芸術の活動家に、ノーベル賞は贈られるべきだと思うよ。
アルフレッド・ノーベルだって、おれの意見には、賛成だと思うけどな。あっははは」

 信也は、少年のように輝(かがや)く 瞳(ひとみ)で、笑った。信也は26歳。

「そうよね。ノーベルさんだって、そんな狭(せま)い考えで、ノーベル賞を設立したんじゃないのよ。
そういえば、ビートルズのドラマーのリンゴ・スターは、いまもお元気で、
今年も7月7日の自分の誕生日には、平和と愛を祝福するためのイベントとして、
世界中のファンに向かって、『ピース&ラブ!と言ってください!』呼びかけたのよね!
わたし、感動しちゃったわ!」

 美結がそう言った。美結は23歳。

「でも、あれってさ、なんで、ジョンが『ラブ&ピース』で、リンゴが『ピース&ラブ』なんだろうね!
まあ、特に意味はないんだろうけどさ。あっははは。
ボブ・ディランは、楽曲の制作においては、詞先(しさき)か、曲先(きょくさき)かといえば、
詞先(しさき)の人で、『リズムもメロディも、すべてをなくしたとしても、
ぼくは歌詞を暗唱できる。重要なのは、メロディじゃない、歌詞だ。』っていってるんだよね。
あと、『どういう言葉を使うのか、言葉をどういうふうに働(はたら)かせるのか、
歌でも詩でも、大事なのはそれだ。』とかと言っているですよ」

「へーえ。ディランって、やっぱり、文学的だったんですね。お兄ちゃん」と、利奈が微笑(ほほえ)む。

「歌を作るようになったときは、すでにたくさんの詩を読んでいたんだってさ。
ディランの歌作りの目的の中心は、ロックやポップスのスターと違(ちが)って、
ヒットチャートで成功を収(おさ)めることではなかったらしいからね。
『大衆文化の多くの場合、短い時間ですたれる。葬(ほうむ)り去られる。
ぼくは、レンブラントの絵画と肩を並べるようなことをしたかった。』なんて、
芸術的な夢を語っているからね。すごい人だと思うよ。おれもディランに見習いたいね。あっははは」

「わたしには、ディランの歌って、特に歌詞が難しかったりするんだけど、
やっぱり、すごく芸術家的な人なんでしょうね」と、美結(みゆ)も言う。

「ディランは、ロサンゼルスで『自分を天才だと思いますか?』ってインタヴューされたとき、
『天才?紙一重の言葉だね。天才なのか、頭がおかしいのか?』って、
ユーモラスな返事をしているのさ。あっははは。
あと彼は、『詩を書くからって、必ずしも詩人じゃない。ガソリンスタンドで働く人にも、
本物の詩人はいるよ。』とか、言っていたりね。
あと、『ポピュラーソングは、数ある芸術の中でも唯一(ゆいいつ)、
その時代の気分のようなものを表現できる。だからこそ人気があるんだよ。』とか言ってるしね。
考えかたが、冷静で客観的とでもいうのかな。やっぱ、すごい、ビッグなアーティストだよね」

「天才って感じだわ」と、美結。

「やっぱり、すごいわ」と利奈。

「ディランは、『流行なんかどうでもいい。時代の動きは思っている以上に早い。
流行は追いかけるものではない。自分で新しく作るものだ。』とも言っていて、
これなんか、芸術的活動をするみんなへの貴重なアドバイスだよね。
なにしろ、あのブルース・スプリングスティーンがこんなこと言ってるんだから。
『ボブがいなかったら、ビートルズもビーチボーイズも、セックスピストルズも、U2も、
マーヴィン・ゲイも傑作(けっさく)アルバムを作ることができなかっただろう。』ってね」

「お兄ちゃんも、このマンガを読んで、元気出して、がんばってください!」

 そう言って、利奈が、毎週木曜日に発売の『ミツバ・コミック』を信也に差し出す。
そのマンガ雑誌には、第2回『クラッシュ・ビート』が載(の)っていて、
信也やクラッシュ・ビートのメンバーたちがモデルの主人公たちが、表紙を飾っている。

「ありがとう、利奈ちゃん。このマンガは、おれも楽しみなんだ!元気も出るマンガだよ!あっははは」

 三人は、声を出して笑った。

☆参考文献☆
CROSSROAD・20代を熱く生きるためのバイブル(サンクチュアリ出版)
自由に生きる言葉(イースト・プレス)
現代思想・5月臨時増刊号・ボブ・ディラン(青土社)         

≪つづく≫ --- 117章 おわり ---

118章 芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯!

118章 芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯!

 11月5日、土曜日。気温は20度ほど、南東の風が吹く、晴天だった。

 午後の4時。川口信也と彼女の大沢詩織、新井竜太郎とその彼女の野中奈緒美の4人は、
JR山手線(やまのてせん)の恵比寿(えびす)西口駅から、歩いて2分の、
老舗の焼鳥店『たつや』の『地下店』に、右手の階段を降(お)りて入った。

 『たつや』は、駅前とは思えない昭和的雰囲気の赤ちょうちんの大衆酒場だ。
BS-TBSの『吉田類(るい)の酒場放浪記』では、
「辰年の辰の日に開業した恵比寿で朝の8時から飲めるもつ焼き店」と、紹介された。

 店の赤ちょうちんや赤い看板には、『やきとり たつや』と書かれてある。
『とり』は『肚裏(とり)』のことで、『肚』は胃の意味で、『とり』は内蔵を指している。
ボリュームと噛(か)みごたえのある、もつ焼きが人気の、
気取らずに、ふらりと入れる居心地のよい店だ。

 信也たちは、予約していたテーブルに落ち着く。飲み物は、みんな、黒ホッピーを注文する。
氷を入れないので、風味のある、濃い味わいを堪能できる、いわゆる三冷ホッピーだ。
『三冷』とは、ホッピーと焼酎を冷蔵庫、ジョッキを冷凍庫で冷やした飲み方だ。

 つまみは、もつ焼きや枝豆や煮込み豆腐、ポン酢でサッパリのがつ刺しや、
たこぶつ、イカ刺し、あじのタタキとかを注文した。

川口信也は、1990年2月23日生まれの26歳、身長175センチ。
早瀬田大学、商学部卒業。外食産業の株式会社モリカワの本部の課長。
ロックバンド、クラッシュ・ビートの、ギターリスト、ヴォーカリストでもある。

 新井竜太郎は、1982年11月5日生まれ、34歳、身長は178センチ。
外食産業の最大手のエタナールの副社長。
同業他社のモリカワに対するM&Aに失敗して以来、
川口信也とは飲み仲間として親しいつき合いをしている。
 
 大沢詩織は、1994年6月3日生まれ、22歳、身長163センチ。
早瀬田大学、文化構想学部、4年生。父が大沢工務店を経営、次女。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、ギターリスト、ヴォーカリスト。

 野中奈緒美は、1993年3月3日生まれの23歳、身長165センチ。
野中奈緒美は、新井竜太郎が副社長をつとめるエタナール傘下(さんか)の、
芸能プロダクションのクリエーションに所属。人気のモデル、タレント、女優。

「ボブ・ディランが、ノーベル文学賞に選ばれて、光栄ですって、返事をしたそうだよね、しんちゃん」

 竜太郎がそう言った。

「あっはは。しばらく沈黙を守っていたよね。
ボブ・ディランのことだから、権威とかを嫌(きら)って、返事をしなかったのかな?
とか、おれ、ふと思ったりしたんですけどね。でも、よかったですよ。光栄ですって言って。
なんでもかんでも、いたずらに、権威や権力に反抗するのも、子どもっぽいですからね。
あっははは」

「わたしも、ディランのノーベル文学賞の授与(じゅよ)の決定は、すごっく嬉(うれ)しい!」

 詩織は、微笑(ほほえ)んで、そう言うと、信也と竜太郎と奈緒美と目を合わせる。

「歌とか、芸術って、平和に役立つのよね!ラブ&ピース、
これからの世の中には、1番に大切なものだと思うんだけど、わたし」

 奈緒美が、つぶやくような声でそう言った。

「そうだよ、奈緒(なお)ちゃん、そのとおりだよ。最近読んだ本なんだけど、
池上彰(いけがみあきら)の『おとなの教養』って本の中では、
『すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる』とか書いてあってね。
池上さんは、2013年に、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学を視察したんだけど、
世界のトップクラスのこれらの大学では、リベラルアーツ教育が基本なんだってさ。
リベラルアーツって、リベラル(liberal)は自由で、
アーツ(arts)は、技術、学問、芸術を意味するんだよね。
だから、リベラルアーツの意味は『人を自由にする学問』ってことなんだよね。
マサチューセッツ工科大学では、ピアノがずらりと並んで、音楽の勉強をしていたんだってさ。
この大学では、科学技術の最先端を研究しているんだけどね。
池上さんが、なぜか尋(たず)ねると、そこの先生が、こんなことを言ったんだってさ。
『最先端の科学技術をいくら教えても、世の中に出ていくと、
世の中の進歩は速いものだから、だいたい4年で陳腐化(ちんぷか)してしまう。
4年で古くなるものを大学で教えてもしょうがない。社会に出て新しいものが出てきても、
それを吸収し、あるいは自(みずか)ら新しいものを作り出してゆく。
そういうスキル、つまり、技能や力量を、教えてゆくべきでしょう』ってなことを。 
それが、教養であって、リベラルアーツであって、音楽もそのひとつであるってことなんだよね。
おれも、よくわかるんだよね。この考え方は。みんなも共感するでしょう!」

 ちょっと酔って、上機嫌(じょうきげん)で、竜太郎がそう言うと、
みんなは「うん、うん」と頷(うなず)く。

「あの哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、
『芸術の本質は、生存、つまり人生の肯定や祝福や神聖化にある』ということを言っていますよね。
晩年は、ロシアの作家のドストエフスキーに傾倒して
『ドストエフスキーは何という救いの力を持っていることか!』と言っていますよね。
ドイツの文学者のゲーテとかにも傾倒していたニーチェみたいに、
人生や芸術について、考えつくした思想家は、今でもなかなかいないと、おれは思いますよ。
つきつめて考えれば、人生には何が大切かってことになりますかね?
まあ、芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯(かんぱい)でもしましょう。
じゃあ、竜さん、詩織ちゃん、奈緒ちゃん、
芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯!あっははは」

 「カンパーイ(乾杯)」と、4人は、元気よく、黒ホッピーのジョッキを合わせた。

☆参考文献☆

おとなの教養・池上彰・NHK出版新書
ニーチェ全集・第6巻・付録・理想社

≪つづく≫ --- 118章 おわり ---

119章 信也たち、マンガ『クラッシュビート』を語り合う

119章 信也たち、マンガ『クラッシュビート』を語り合う

 11月25日、金曜日。最高気温は11度ほどで、空はよく晴れた。午後6時30分。

 信也と、青木心菜(ここな)と水沢由紀と青木葵(あおい)の4人が、
下北沢駅南口から歩いて1分の、もつ焼きともつ料理の居酒屋の『もりかわ』の
テーブル席に集まっていた。店内は完全禁煙で、席数は39席。

 川口信也は、外食産業大手のモリカワで課長をしていて、
ロックバンド・クラッシュビートもやっている、26歳の独身だ。

 青木心菜は、そのモリカワと、同業の外食産業最大手のエターナル(eternal)が共同の、
芸術活動を広く援助する活動の慈善事業、ユニオン・ロックから育った、24歳の人気マンガ家だ。

 水沢由紀は、心菜の幼馴染(おさななじみ)で、親友で24歳だ。
2015年の12月、由紀は、腱鞘炎(けんしょうえん)で困(こま)った心菜の、
マンガの制作を手伝って、その後も、心菜の腱鞘炎が治(なお)った現在もアシスタントをしている。

 青木葵(あおい)は、大手マンガ雑誌三つ葉社の、心菜の担当編集者で、25歳だ。
心菜と由紀とは、価値観も合うらしく、親友の付き合いだ。

 信也は生ビール、女性たちは梅サワーやぶどうサワーとかを注文する。
料理は、とりあえず、塩とタレのもつ焼きや、もつの煮込みにした。

「ここの店は、東京を中心に、40店舗以上を構(かま)える居酒屋『もりかわ』の1号店なんですよ」

「わたしのうちの駅のそばにも、『もりかわ』がありますよ。
おいしいから、家族でよく利用しています」
 
 心菜がそう言って、信也に微笑(ほほえ)む。
心菜は、京王沿線の下高井道駅の近くに住んでいる。

「信也さん、おかげさまで、『クラッシュ・ビート』は、10月6日の連載開始から、大人気の、
大反響なんですよ。いまでは、毎週木曜日発売の『ミツバ・コミック』の、
看板(かんばん)なんですよ!」

「カンバンですか!あっははは。それは良かった」

 そう言って、信也は、興奮気味な葵(あおい)の言葉に、少し照(て)れながら、笑った。

「しかし、虚構が現実を超えるってことは、よくありますよね。あっははは。
人って、きっと、物語が好きなんですよ。混沌とした解答の見つからないような現実よりも、
うその世界でもいいから、何か、夢見ていたいんでしょうかね。
うその世界でも、それで、幸せを感じたり、元気が出るとしたら、
そんな虚構やうそのような世界でも、それを選んじゃうような気がしますよ。
今回の、アメリカの大統領選挙なんかでも、トランプさんは、
ヒラリーさんよりも、そんな点で、人々を引き付けていたような気がしているんですよ。
トランプさんは、ヒラリーさんよりも、魅力のありそうな、物語を描いたって感じで。あっははは」

「現実の世界って、ある意味、怖(こわ)いし、殺伐としていますもんね。うそのような、
虚構の世界にだって、ついつい、憧(あこが)れたり、魅力を感じたりすることがあるわ」
 
 そう言いながら、由紀が、きれいな瞳で、信也に微笑んだ。

「現実の世界って、過酷だったり、厳しいことが多いからね。
まあ、マンガの『クラッシュ・ビート』も、
おれや、現実の、実際の、おれたちクラッシュビートを超えてゆくような、
そんなパワーのある、元気の出るような、そんな人気マンガになって欲しいですね。
おれたちも、マンガに負けないように、がんばるけどね!
音楽やマンガも芸術も、そんな現実を乗り越えるためにあるんだろうからね。あっははは」

「信也さん、ありがとうございます。これからも、わたしたち、ベストで、楽しいマンガにしてゆきます。
このマンガは、信也さんや、森川純さんとか高田翔太さんや岡林明さん、
そんなクラッシュビートのみなさんが、素晴らしい個性の方々だからこそ、誕生したんです。
みなさんの活躍があるからこそ、生まれた、信也さんたちが、モデルのマンガなんです!
おかげさまで、連載開始から、感動したとか、共感したとかの、膨大(ぼうだい)な数の声が、
もう、毎週、編集部には寄せられています。
ファンの方々は、信也さんがモデルの主人公のキャラクターとかに、
自分を重ねあわせて、それで感動したり、涙したりや共感しているんです!」

 編集者の青木葵(あおい)は、笑顔でそう言いながら、澄んだ瞳を輝かせる。

「あっははは。それは良かったですよ。おれも、このマンガは大好きなんです。
あっははは。おれがモデルなんでしょうけど、あの主人公は、おれよりも、
行動力や才能もある感だよ。あっはは。
キャラクターも、みんな、かっこいいですよね。マンガなんだから、当然ですけど。
ストーリーも、ハラハラドキドキの展開で。
毎週、楽しみですよ。あっははは。
心菜(ここな)ちゃんも、由紀ちゃんも、よくあそこまで、マンガを作りこみましたね。
ついつい、おれなんかでも、感情移入してしまうような、
強烈な個性のキャラクターに、マンガの主人公たち、登場人物が仕上がってますよ。あっははは」

「しんちゃん、褒めていただいて、とても嬉しいです!」

 心菜は満面の笑みで、信也を見つめながら、そう言った。

「しんちゃん、ありがとうございます」

 由紀も笑顔でそう言った。

「おれも、マンガの『クラッシュ・ビート』からは、勇気をもらっている感じですよ。
この音楽業界って、天才的な人が多いんですよ。だから、ついつい、
おれの才能なんか、たかが知れたものって考えてしまうんだけど。
いや待て、おれたちも、がんばろうって、気になってくるマンガですよ!あっははは」
 
 信也たちは、楽しいひと時を過ごして、このマンガの今後を語り合ったりした。

≪つづく≫ --- 119章 おわり ---

120章 クリスマス・パーティーでラモーンズをやる信也たち

120章 クリスマス・パーティーでラモーンズをやる信也たち

12月23日の祝日の金曜日。曇り空。

 午前11時から、信也たちの会社の、モリカワ・ミュージックが主催する、
『ハッピー・クリスマス・パーティー』が、下北沢駅南口から歩いて3分の、
ライブ・レストラン・ビートで始まっている。

 舗道から10段の階段を上(あ)がったエントランスには、
高さ2mはある、華(はな)やかなクリスマス・ツリーが飾(かざ)ってある。

 そのライブハウスの、1階と、ステージを見おろせる2階のフロアの、280席はほとんど満席だ。
1階フロアの後方には、ひとりでも楽しめるバー・カウンターがある。

 ホールは、高さ8mの吹き抜けになっている。ステージのは、間口が約14m、
奥行きが7m、天井高が8m、舞台床高は0.8mだ。

 20年以上も下北沢で営業しているこのライブハウスは、
1013年2月から、信也が課長をしている外食産業のモリカワが経営している。

 いろいろなアーティストの演奏を楽しみながらの、
高級レストランのような料理やドリンク、レベルの高いスタッフのサービスも好評だ。

 招待客には、レコード会社やテレビ、ラジオ、雑誌などのメディアの人びと、
演出家、脚本家、プロデューサーたちも出席している。

 きょうのチケットには、招待で配布したものと、予約販売したものとがあった。

 オープニングには、沢秀人(さわひでと)が率(ひき)いる、30名以上のビッグ・バンド、
ニュー・ドリーム・オーケストラによる、ブルー・クリスマスやホワイト・クリスマスの演奏があった。

 1973年8月生まれ43歳の沢秀人は、
テレビドラマの音楽を制作で、レコード大賞の作品賞を受賞したこともある。
1013年の春までは、このライブ・レストラン・ビート の経営者だったが、
現在は音楽活動に専念している。

「心菜(ここな)ちゃんには、おれは、かなわないっすよ。しんちゃん。あっははは。
『信也さん公認で、わたしが描(か)いているマンガのクラッシュ・ビートのことで、
取材させていただきたいんですけど』って、突然に電話が来て、
いろいろと、しんちゃんのことを聞かれたんだからね。あっははは」

 そう言って、明るい表情で高らかに笑うのは、信也の高校や中学からの幼なじみの省吾(しょうご)だ。
現在は、山梨県韮崎(にらさき)市で、父親の会社を手伝っている。

 久々の再会でもある省吾と信也、そして、マンガ家の青木心菜とそのアシスタントの水沢由紀と、
マンガ雑誌三つ葉社の編集者の青木葵(あおい)の5人は、
1階フロアの後方にあるバー・カウンターで会話を楽しんでいる。

「しんちゃんと、省吾さんたちが、ラモーンズに憧(あこが)れて、熱心にコピーしては、
バンド活動してたって、いろいろとお聞きできたんです。
それって、マンガにしたら、とても素晴らしいお話なので、
さっそく、クラッシュ・ビートの5話から、しんちゃんの高校生時代ということで、
物語を開始したんです。そしたら、読者のみなさんから、おもしろいって、大反響なんです!」

 そう言って、心菜は、信也や省吾や由紀や葵に微笑(ほほえ)む。

 ラモーンズは、アメリカで1974年結成された、いわゆるパンクのロックバンド。
ロンドン・パンク・ムーブメントに大きな影響を与えた。
しかし、アメリカより、イギリスで評価が高いバンドだ。
14枚のスタジオアルバムを残して1996年に解散した。
『ローリング・ストーンが選ぶ歴史上最も偉大な100組のグループ』においても第26位と健闘している。

「まぁ、ラモーンズ、『ブリッツクリーグ・バップ(Blitzkrieg Bop)』なんかは、なんと1976年の2月に、
デビュー・シングルとして発表した楽曲なんだけど、いまから40年前にもなるんだけど、
おれのなかでは、古びないよな。むしろ、そこいらの歌よりも、新しい感動があるんだよ。
2001年に41歳の若さで亡くなったジョーイ・ラモーンは、
この歌を『革命を告(つ)げるときの声であり、自分たちのことを自分たちでやるべきだと、
パンクスたちに告げた戦闘命令でもある』と説明しているけどね。
おれは思うんだけど、時代を超えて人に感動を与えるような芸術の創造には、
原始的な力とか、野性的な力とでもいうのかな、そんなパワーが作品に必要な気もしますよ。
ネットなんかで調べると、野性って、自然のままとか、本能のままの性質とか、
粗野で生命力にあふれている様(さま)とか、ってありますよね。
まあ、ジャンルはいろいろでも芸術の本質には、それらが不可欠なんだと思います。
きっと、そういったものが、ラモーンズにはあるから、彼らの本能的で野生児的なサウンドには、
おれはいまでもストレートに感動するんですよ。
シンプルな3つだけのコード使いや、パワフルな超絶のスピード感は、
若さばかりで、未熟な、おれたち高校生にも絶大な魅力だったよね。省(しょう)ちゃん!あっははは」

「まったくだよね、しんちゃん。凝った技巧とか、高い知性とか教養とかって、いたずらに、
頭でっかちになるだけで、芸術の本質からは、どんどん離れていくようだよ。あっははは」

 省吾はそう言って笑って、熱いコーヒーを飲む。

「わたしも、ラモーンズのことは今回初めて知りました。
このバンドのよさは、子どものころのような純粋さが、
ストレートに伝わって、蘇(よみがえ)るような感動があるところなんでしょうかしら?」

 由紀はそう言った。

「そうそう、それだわ!マンガのヒットする要素もそんなところですもの!
読んで楽しい娯楽性って、きっと、子どもの心に帰れる状態なのかもですよ!
わたし、ロックは大好きだけど、ラモーンズって、シンプルだけど、
ワイルドで、ロックンロールのエッセンスが凝縮してる感じですよ!」

 葵(あおい)が、そう言ってうなずく。

「そうなんですよ。葵ちゃん、心菜ちゃん、由紀ちゃん。
みんな、ロックがよくわかっているな!あっははは。
さあて、省ちゃん。きょうはせっかく来てくれたんだから、
ステージで、久々に、ラモーンズをやってみようじゃん。
ドラムは、うちらの森川純ちゃんがやってくれるから。あっははは。
ベースギターは、うちらの翔(しょう)ちゃんが貸してくれるし。
たぶん、クラッシュ・ビートのみんなが一緒に演奏したがるよ!
みんな、ラモーンズは好きだから!あっははは」

「よーし、しんちゃん、やろうか。クリスマスには、ふさわしくないだろうから、
3曲くらいにしておいて。あっははは」

 省吾が声高らかに笑った。みんなも笑った。

☆参考文献☆
オンライン百科事典・Wikipedia・ウィキペディア  ジョーイ・ラモーン

≪つづく≫ --- 120章 おわり ---

121章 『君の名は。』と、子どもの心や詩の心

121章 『君の名は。』と、子どもの心や詩の心

 よく晴れた、風も穏(おだ)やかな正月の、2017年、1月3日。気温は12度ほどだ。

 川口信也と、大沢詩織、岡昇(おかのぼる)と 南野美菜(みなみのみな)の4人は、
朝の渋谷駅ハチ公前広場で待ち合わせをした。

 ハチ公前広場から、スクランブル交差点を渡って、
西武百貨店の裏にある渋谷シネパレスまでは、歩いて約3分だ。
その映画館で、信也たち4人は、10時40分に上映する、
新海誠監督の青春アニメ『君の名は。』を観(み)た。

 朝いちの上映時間だったおかげか、信也たちは指定席券を無事に購入できた。

 落ち着いた雰囲気の内装やフロアの館内。座席も座り心地がよい。笑顔のスタッフの応対もいい。

 現在、国内や海外でも大ヒットとなっている『君の名は。』。
アニメ映画の興行収入ランキングでは、現在、『君の名は。』は
『千と千尋(ちひろ)の神隠し』と『アナと雪の女王』に次ぐ、第3位で、
国内の1500万人以上、8人に1人が劇場で観ている、とメディアの情報だ。

 『君の名は。』を観たあと、信也たち4人は、そこから歩いて1分の、
イタリアン・レストランの『オッティモ(ottimo)』に行って、昼食をとりながら寛(くつろ)いでいる。
オッティモは、地上8階、地下2階、テナント数は121店のSHIBUYA(渋谷)109の7階にある。

「このオッティモって、『君の名は。』の中で、
瀧(たき)くんがアルバイトでウエイターをしていた、
あのイタリアン・レストランになんとなく似ていますよね!」

 そう岡は言って、おいしそうにピザを頬(ほお)ばり、赤ワインを飲む。

「ああ、瀧くんがウエイターしていたあの店ね。確かに似ているかな、岡ちゃん。
ここのスタッフは、瀧くんがしていたような蝶ネクタイはしてないけどね。
瀧くんのあの店、敷居が高そうな店だったよね、。あっははは。
まあ、われわれの仕事場のモリカワも、けっして敷居(しきい)が高くなくって、
本当の意味で、堅苦しくなく寛げる、カジュアルなイタリアンレストランを目指しているんですよ。
そして、絶品と言ってもらえるようなピザとかのある、
美味(おい)しい本格的イタリアンを食べてもらえる店!というコンセプトで、
このオッティモも全国展開しているんですよ。
みんなの力で、こんなモリカワを、さらに大きくしていきたいですよね。あっははは」

 そう言って信也が笑うと、みんなも笑顔で目を合わせたりした。

 信也は26歳、早瀬田(わせだ)大学、商学部を卒業。
現在、外食産業やライブハウスで急成長の株式会社モリカワ本部の課長をしている。
大学からのロックバンド、クラッシュ・ビートの、ギター、ヴォーカルもやっている。

 信也と詩織、岡と美菜、それぞれにカップルであり、この4人はみんなモリカワの社員だ。

 詩織は22歳、早瀬田大学、文化構想学部、4年生。今年3月には大学も卒業で、
信也たちがいるモリカワ本社に就職が内定している。

 岡昇も22歳、早瀬田大学、商学部、4年生。今年3月に大学も卒業で、
信也たちのモリカワ本社に就職が内定している。
過去には、信也の現在の彼女の大沢詩織にフラれたこともあった。
そして、信也には、詩織を紹介するという偉業(?)を成しとげていて、
そんな岡は、信也と詩織と、別に仲がいい。

 美菜は24歳、早瀬田大学、商学部を卒業、2015年4月から、
信也たちのモリカワ本社に勤めている。

「おもしろい映画だったわ!
でも、瀧(たき)くんと三葉(みつは)ちゃんの二人が何度も入れ替(か)わったり、
元に戻(もど)ったり、目まぐるしいんだもの。
1回じゃよくわからなくって、もう1度見たいくらいよ」

 美菜が岡にそう言って、微笑む。

「そうだね、また観(み)よう、美菜ちゃん。DVDもそろそろ出るんじゃないかな」

 天真爛漫な子どものような澄んだ瞳で微笑む岡。

「『君の名は。』は話の展開に、スピード感があったよ。
あれって、観客の集中力を高める効果を、ねらったんじゃないかな」

 信也がそう言って、みんなの笑顔を眺めながら、赤ワインを飲む。

 赤ワインでほろ酔いの上機嫌(じょうきげん)なのは、信也と岡だ。
詩織は、フレッシュオレンジの香るオレンジジュース、
美菜は、フレッシュレモンのコカコーラを飲んでいる。

「何度も涙腺が緩(ゆる)んでしまう映画よね!
年齢や世代を超えて、支持されているっていうものね!でも、なぜなのかしら?しんちゃん!」

 そう言って、信也に、明るく微笑む詩織。

「新海監督は、よくいろいろと勉強している人だと思うよ。
やっぱり、天才には、努力とひらめきが必要なんだろうね。あっははは。
『君の名は。』のモチーフ(題材)の、夢の中で誰かと出会うとか、
夢の中で男女が入れ替わるとかの、こうした物語の設定っていうのはね、
いまから、1000年以上も前の・・・、鎌倉幕府が成立する前のころかなぁ、
平安時代にまでさかのぼる、日本文学の伝統的のモチーフや主題だったんですよ。
みなさんなら、知ってることかもしれないけど」

 信也がそう言うと、みんなは「知らなかったですよ」「知りませんでした」とか言って笑う。

「あっははは。ちょっと、文学の講義みたいになるけれど。
『とりかえばや物語』なんてのは、そんな男女が入れ替わる有名な物語だよね。
あと、平安時代の女流歌人の小野小町(おののこまち)は、
古今和歌集の中でこんな歌を詠(よ)んでるんですよ。
『思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚(さ)めざらましを』っていう歌だけどね。
訳すと、『あの人のことを思いながら、眠りについたから、夢にでてきたのだろうか。
夢と知っていたなら、目を覚(さ)まさなかっただろうものを。』っていうんだけどね。
いい歌だよね。あっははは。おれたちの心にも、すごくわかるし、共感があるよね。
これが、1000年以上も前の歌だもんね!いい芸術は、時を超えて、
いつまでも、人の心に感動を呼ぶってことだよね」

 信也はしみじみとそう言った。

「そういえば、新海監督は、NHKの『クローズアップ現代』で語ってましたよ。
≪夢で真実を知るというのは、ずーっと、日本の文学や実際の生活の中で、
繰り返し語られてきたし、ぼくらの実感でもあるんですよ、今でも。≫とか。
≪夢で、本当に好きなのは誰なのかを知るとか、そういう僕らの実感みたいなものに、
まあ、この物語がマッチしたんじゃないかと、1つ思いますね。≫とか言ってましたよ。
さすが、新海さんは、すごいとおれも思いましたよ。しんちゃん!」

 そう言って、信也と目を合わせて微笑む、岡だ。

「新海さんは、やっぱり、子どものような澄んだ視線で、世界を見ている人って感じで、
やっぱり、芸術家や詩人的って感じがするんだよね。やっぱり、おれの持論のようなもんで、
人間、子どものころの童心を忘れたら、ダメなんじゃないかな?
そんな子どもの心を忘れてしまったら、人生を楽しめなくなると思うよ。
新海さんのデビュー作は、地球と宇宙の超遠距離恋愛の『ほしのこえ』だけど、
『ねえ、わたしたちは、宇宙と地球に引き裂かれる恋人みたいだね。』と、
主人公の男女が同時に語るセリフがあるけど。あれは、とても象徴的で、印象深いよね。
新海作品に通底する、心が通じているのに、届かない、もどかしさ。そんな心の通い合いは、
この1作目から描かれているんだよね。
新海さんは、29歳のときなのかな、
ゲーム会社でCG(コンピューターグラフィックス)デザイナーをしていた新海さんが、
会社を辞(や)めて作ったのが、
自分の悩みから、解き放たれる転機になったという、この『ほしのこえ』なんだよね。
新海さん、ご本人は、テレビで、こんなことも語ってるよね。
『とにかく、作りたいという衝動だけだったんですよね。それと同時に、
いろんなことがうまくいっていなかった時期ですよ。
いろんな人間関係とか、友人関係とか、会社との関係とかだったりして。
何か、もう≪言いたいことがあるんだ≫と、・・・何があったんだろう?でも、
とても恥ずかしいんですけど、≪ほしのこえ≫って、
最後、≪ぼくはここにいるよ≫という言葉で終わるんだけど、もしかしたら、
単純に、そういう気持ちだったのかもしれない。
誰にも見られていないような気持ちもあったし。
だれにも届いていないような気持ちもあったし。
何か言えることがあるし。届けられるものがある。
そんな気持ちだけがあるし、衝動だけがあって、≪ほしのこえ≫は作り始めた。』
そんなふうに新海さんは語っていましたよ。
そんな『ほしのこえ』は、2002年に、下北沢にある短編映画専門館の『トリウッド』で、
監督・脚本・演出・作画・美術・編集などの作業をひとりで行った自主製作の、
約25分のフルデジタルアニメーションとして、初上映されたんだよね。
そのときの会場で、新海さんは挨拶して、そのときの拍手が、生まれて初めての自分への拍手で、
いまでも創作のモチベーションになっているって、新海さんは語っているけどね。
やっぱり、子どものような行動力や好奇心や感性がなければ、
こんな創造的なことはできないことなんだろうね」

 信也はそう言って、みんなに微笑んだ。おいしそうにピザを頬張って、赤ワインを飲む。

「そうですね。子どものように澄んだ感性を感じます。
ストーリーもすごくいいけど、映像美が、これまでにない美しさです!」

 美菜がそう言う。

「そうだよね。映像が、圧倒的に美しくて、精緻で、リアルだよね。
日本で活動するアメリカのギタリストのマーティ・フリードマンさんが、クローズアップ現代で、
アニメーションの世界のエディ・ヴァン・ヘイレンだって言っていたもの。
エディ・ヴァン・ヘイレンは、ロックのギターの世界では、
デヴューした直後から、卓抜(たくばつ)したタッピングとかの技術やテクニカルで、
そのあとに続く音楽に、長く、影響を与えたんだよね。
新海さんのアニメはそれに等しいって、マーティさんは言うんだ」

 赤ワインに気分もよく酔って、陽気な笑顔で岡はそう言った。

「おれも、あのクローズアップ現代は見ていた。マーティ・フリードマンさんは、視点が鋭いよね。
Jポップとかの音楽評論家としても、おれは感心するしね。
マーティさんが、『1番大事なコンセプトをお祖母(ばあ)ちゃんがいう』って言っていたよね。
『土地の氏神(うじがみ)様を古い言葉で『ムスビ』って呼ぶんやさ。この言葉には深い意味がある。
糸をつなげることも結び。人をつなげることも結び。』とか、お祖母(ばあ)ちゃんはいっている。
 『君の名は。』では、遠く離れた二人を結ぶものとして、
組紐(くみひも)が象徴的に描かれているじゃない。
運命の赤い糸を連想させるような組紐だよね。
それが効果的に使われて、観客に、人との結びつきとか、思い出させたりして、
感動を呼んでいるだよね、きっと。人生にとって、出会いがいかに、大切なことかって。
それと、三葉(みつは)が、神社にお供(そな)えする口噛み酒(くちかみざけ)。
その口噛み酒を瀧(たき)くんが飲んで、過去にタイムスリップして、三葉(みつは)ちゃんや
町の人たちを避難させる行動をとるよね。
そして、みんなを、彗星(すいせい)の隕石の落下という災害から、救うことになる・・・。
あれって、瀧くんが、勇敢にも、時間を巻き戻して、更新するようなことだろうけど。
そして、社会人になって、オトナっぽくなった、瀧くんと三葉ちゃんが再会する。
壮大なスペクタクル(光景)の、感動的なアニメだよね」

 信也は、みんなを時々見ながら、そう話した。

「新海誠さんと、詩人で芥川賞作家の川上未映子(かわかみみえこ)さんとの対談の番組があって、
それがものすごく良かったの!
川上さんが、新海さんにこんなことを聞くの。
『イノセンス(純粋さ)というと、監督の場合は、いつの、どの景色を思い出します?』って。
新海さんは、『ぼくは、12~13歳かもしれないです』って答えていたわ。
あとね、川上さんは、
『秒速35センチメートル』の中の主人公のセリフで、
『僕たちは精神的に似ていた』というセリフを指摘して、
それを、『僕たちは似ていた』では済ませられない人なんだなと思ったって、おっしゃってる。
川上さんの指摘は、鋭いなって、感心しているの!
川上さんは、新海さんに、『精神的に似ているんだ』っていうことを、おっしゃりたいんですねって。
そんな気持ちが、そのセリフにはすごく出ているって。なんか、微笑ましくて、おかしくって、
楽しくって、未来への希望や力も感じる、素敵な対談っていうか会話よね。
新海さんは、そんな川上さんの指摘に、はっとして新たな自分を再発見したような、
驚きの表情をしてたわ。うふふ。
いまの混乱しているオトナの社会に対する、子どもの心、詩の心、そんな感じのする対談だったわ。
そして、新海さんはこんなこと言ってたわ。
『1本の映画が、長い時間軸の1曲みたいな、
そんな1曲を聞いたあとみたいな気持ちになって欲しい。』って。
新海さんのアニメには、モノローグ(ひとりごと)使うところが多いんですって。
それについて、新海さんご自身で、
『状況を客観視たりして、未知の巨大な悪意を持った人生みたいなものに、
立ち向かったり、乗り越えたりしようみたいな気持ちがあるってことで、
それは、サバイブ(困難を乗り越える)ことなのかも。』とか、おっしゃっていた。ね、しんちゃん」

 詩織が、信也や岡や美菜(みな)に、微笑(ほほえ)みながら、そう語った。

「うん、あの番組ね、『SWITCHインタビュー達人たち』だっけ、おれも見たんだよね。
女優の吉田羊(よしだよう)さんのナレーションが、
『新海の描く世界は、心をかよわせながらも、会えない、通じない、届かないといった、
若い男女のせつない恋物語が多い。心の距離感を風景や情景を巧みに使いながら、
描き出す新海マジックは、若者はもちろん、かつて若者だった世代をも虜(とりこ)にする。』
ってあったけど、心に残る、すてきな語りだよね。
『新海作品の特徴の1つ。映像美。特に背景の美しさは見る者の心を癒(いや)す。
夜景や雲、そして夕暮れの道。記憶の中にある原風景を緻密に再現することで、
印象的な風景を作り出す。』とかのナレーションも良かった。
川上未映子(みえこ)さんは、
『人が生まれる意味とは何なのか?人が死ぬとはどいうことなのか?』とかの、
『普段の生活では見過ごしがちな、根源的な問いを、鋭い感性で描いてきた。』
とかも、ナレーションっで言ってたよね。
川上さんって、おれも、個性的で、すてきな人だと思うよ。
子どものころ、自分の誕生会で、
≪詩に向かっているのに、なぜ喜ぶの?≫と言葉に出すと、まわりが引いていたっていうよね。
それで≪自分の考えを言葉に出してはいけない≫って思ったそうなんだ。
そんな思いを抱えていた小学4年生の時、何でもいいから作文を書くという国語の授業があって、
その教師のひと言が大きな転機となったんだってさ。
≪いつも、くよくよとして、いつか、みんなは死んでしまうとか、それだったら、
誰よりも先に死んでしまいたい≫とか考えていたんだってさ、川上さんは。
自分が思っていることはそうだったから、それを作文に書いたんだって。
川上さんは、『それまで、子どもが≪死ぬ≫とか≪何で産んだのと?≫いうと、
嫌(いや)がるんですよ、オトナは。それで、ドキドキしながら作文を読んだんですよ。
そしたら、すごく褒めてくれた先生がいて。名前を呼ばれて、立ちなさいって言われて、
≪また、言われるんだろうな≫と思ったら、先生は、
≪それは、先生にも分からへん。でも、考え続けるのはいいこと≫ってくれて、
拍手してくれて、すごく、うれしかった』って、そんなふうに語ってましたよ。
それを聞いていた、新海さんは、
『川上未映子(みえこ)さんが誕生した瞬間かもしれないですね』って言っていたし。
川上さんは、『本当に思っていることは言葉にしていいし、
共有してくれる人がいるんだ。肯定されたことが大きかった。
トイレで、すごく泣いたことをおぼえています。うれしくて、恥(は)ずかしいし。』
とか言ったいましたよね。
オトナの世界と、子どもの心や詩の心が、対決しているような感じの、
すばらしい対談だったですよね。
新海さんは、この対談に先立って、こんな解説をしてましたよね。
『作家というのが、アイデアを組みだしてくる水源のようなものと、
それいかにを紡(つむ)ぐかという技術。
そんな水源と技術の両輪で回っているように見える。』って言ってたよね。
『その両輪のバランスがどのようになっているか、すごく興味があるし。
その2つを組み合わせて、このうえなく、うまく見合わせているようにも見えるし、
その組み合わせ方というのも作品ごとに変化しているようにも見える。
そんな雰囲気を本を読んでいると、とても感じる。
作家としての生きかたを少しでも垣間(かいま)見ることができるとうれしいです。』とか言って、
新宿にある川上さんの自宅を新海さんは訪問したんだよね。
とても、興味深い貴重な対談だったので、しっかり、録画してありますよ。あっははは」

「ほんと、楽しい対談だったわよね、しんちゃん!
川上さんが『そのぉ・・・。、新海さんは、絵は得意だったんですか?」とか聞いたわよね!」

「そうそう、そしたら、新海さんは、
『たとえば、クラスで、2~3番目くらいには、うまいなくらいの気分はあったんですけど。』
とか言っていたよね、詩織ちゃん。あっははは。
新海さんは、『背景とかが好きだったんです。人間にはあまり興味がなかった。
人間を描くことには興味がなかった。』とか言っていて、
『もう風景画ばかり描いていたようなこと言っていて。その色も好きだった』とか言っていて。
川上さんが、『何に、1番にひかれていました?』って聞いたら、
新海さんは、こんなふうに言っていました。
『ぼくは、雲の形と、雲の色でした。雲の絵を、水彩絵の具で描いてました。
曇って難しい素材だと思います。
曇って漠然と描くと、本当に漠然とした雲になる。
子どもに雲描いてと言ったときポカポカと言った雲になるじゃないですか。
ああいうものが、オトナになっても、力量はあっても、ああいう印象になったりする。
でも、曇って、気象現象の総体じゃないですか。
そのバックグラウンドには、上空でどれくらい強い風が吹いているのか?とか、
寒いのか?とか。そういうことが、なんとなく、体感があると、いい雲になるような気がします。』
と、こんな内容だったかな。
雲について、こんなに真剣に考えている新海さんって、素敵だよね。ねえ、岡ちゃん」

「そうですね。新海さんって、芸術家の心の持ち主ですよね。
ほんと、飾(かざ)り気がなく、ありのままなで、
素朴でいいなあって、おれは思いましたよ。新海さんも川上さんも、
子どもらしさを失っていない、オトナの方たちで、詩人だし、芸術家だし、
人間らしいってことですよね。混迷の時代を、良くしていきたいって願う、
きっと、ぼくらの仲間って感じの人たちですよね」

 岡がそう言うと、みんなは、笑顔で、「そうだね」と言ったり、拍手をしたりした。

☆参考・文献・資料☆

NHK クローズアップ現代 『想定外!?君の名は。メガヒットの謎』
NHK Eテレ SWITCH インタビュー達人たち 『新海誠×川上未映子』

≪つづく≫ --- 121章 おわり ---

122章 芸術的な生き方をちょっと考えてみるのもいいのかも?

122章 芸術的な生き方をちょっと考えてみるのもいいのかも?

 3月18日、土曜日。一日中よく晴れていた。最高気温は16度ほど、
南南東からの風で、春らしい暖かさだ。

 夕焼けもきれいな日暮れどき、川口信也と、森川純、大沢詩織、菊山香織の4人が、
居酒屋『もりかわ』の、予約していたテーブル席に集まっている。

 もつ焼きともつ料理の居酒屋『もりかわ』は、
外食産業大手のモリカワが全国展開している。現在は40店舗以上ある。
信也と純は、モリカワ本社の課長だ。
菊山香織も、去年の2016年、早瀬田(わせだ)大学を卒業後、
モリカワの本社スタッフだ。
大沢詩織も、この3月、早瀬田(わせだ)大学卒業のあとは、
モリカワの本社スタッフとしての就職する。
4人そろって、モリカワ本社の社員となるわけだ。

 居酒屋『もりかわ』は、下北沢駅南からも、モリカワ本社からも歩いて4、5分ほどだ。
完全禁煙の店内の39席は、ほぼ満席だ。

 信也たちは仕事のあとのゆったりとした気分で、飲み物や料理を店のスタッフに注文した。

 モリカワの本社には、2015年の春に、早瀬田大学の卒業生、清原美樹と小川真央や、
水島麻衣や山下尚美、森田麻由美たちも、入社している。
下北沢のモリカワの本社は、そんな若い女性たちで、華(はな)やかだ。

「まあ、まあ、しんちゃん、詩織ちゃん、香織ちゃん、きょうもお疲れ様でした。ではでは。かんぱーい」

 そう言うと、純は、生ビールのジョッキを手に持った。

「純ちゃん、みなさん、きょうもお疲れ様でした!かんぱーい!」

 信也がそう言う。4人は、楽しそうな笑顔で、
テーブルの炭火でもつを焼きながら、生ビールのジョッキで乾杯をした。

「しかし、何と言ったらいいのだろうか、ねえ、みなさん、
モリカワの本社には、おれや純ちゃんや、高田翔太に岡林明という、
クラッシュビートのメンバー全員や、グレイス・ガールズのメンバー全員の、
清原美樹ちゃん、平沢奈美ちゃん、水島麻衣ちゃんたちも、
入社して、2つのロックバンドの全員が、集まってしまったんだから、笑っちゃうよね。
というかさあ、こういうのを不思議な縁(えん)というのでしょうかねえ。あっははは」

 そう言って、信也が、持ち前の楽天さで、明るく笑った。

「そうよね。それだけ、モリカワっていう会社が、魅力的なのよ!うっふふ」

 いつも信也と仲のよい、彼女の大沢詩織は、そう言うと、みんなに微笑(ほほえ)む。

「入社した人、みんなが言っているけど、本社のオフィスって、ゆったりと広いでしょう。
窓は大きくて、日もさんさんと入ってくるし。快適な仕事の環境なのよね。
この4月からは、岡昇くんも、詩織ちゃんと同じく、本社に入社よね。
岡くんの彼女の南野美菜ちゃんも、昨年から、本社でわたしたちと仕事をしていて・・・」

 いつもどこかお洒落(しゃれ)な、グレイスガールズのドラムもしている、菊山香織がそう言った。

「あっははは。どうも、早瀬田からモリカワへの入社の流れは当分続きそうですよ。
ミュージック・ファン・クラブのメンバーからの、
そんな相談のメールや話も、おれには、しょっちゅうあるもの。あっははは」

 純が、そう言って笑いながら、ちょっと頭をかいた。

「モリカワで働く社員は全員、正社員じゃないですか。
正社員登用制度で、パートやアルバイトや契約社員から正社員へ転換する人もいるし。
そんなふうな、働き手の立場に立った会社って、いま、なかなか無(な)いんじゃないですか」

 大沢詩織がそう言った。

「うちのおやじは、今年の8月5日で63歳になるけどね、
精神的な若さでは、おれも負けるくらいに少年のように若々しいんですよ。あっははは。
たとえば、日本一のホワイト企業として有名な、
岐阜県にある電気設備資材などを扱っている会社の、
の創業者の山田昭男さんとかの考え方に、影響受けたり、感銘しているんです。
その経営方法も、納得がいけば、どんどんマネしているんです。あっははは。
残念なことですけど、『未来工業』の創業者の山田昭男さんは、
2014年に、82歳で、お亡(な)くなりになられましたけどね」

 未来工業は、1965年創業の建築用電気資材メーカーで、社員は約780人全員が正社員。
60歳時の年収のままで一切減額せずに、本人の希望に応じて、70歳定年制を採用している。
年商314億円(2013年3月期)。経常利益は39億円。
創業から2013年3月期までの平均経常利益率は13%を超えている。
しかも、創業以来49年間、売り上げ目標を立てたこともなく、赤字決算になったこともない。
毎朝8時半始業で、1時間の昼休みをはさみ、午後4時45分終業。
午後5時前には大半の社員が退社する。
1日の業務時間は7時間15分が基本で、残業禁止はもちろん、仕事の持ち帰りも禁止。
おまけに年間休日も140日+有給休暇40日(育児休暇は最大3年)で、
社員を信頼するから、タイムカードもない。
厚生労働省から『日本一休みの多い会社』として表彰されている。
休みが多くて働きやすく、かつ利益率の高い中小企業なので、『社員が日本一幸せな会社』と
呼ばれることもある。

「純ちゃん、未来工業って、製造業なのに、制服もないというよね。
どこの会社にもあってあたりまえの、朝礼も、
『管理職の自己満足にすぎない』と、社長の山田昭男さんは言って、
どの部署でも行われていないらしいし。
でも、純ちゃん、森川誠(まこと)社長が、未来工業を見習っているっていのは、
とてもいいことだと思うよ。モリカワの朝礼を廃止になったし。あっははは。
まあ、われわれのモリカワのすばらしいところは、
未来工業の山田昭男さんが言ってる、
『つまらい常識を捨てられないから、会社は儲からない。仕事はつまらない』とか、
『社員のみんなが、自分の頭で、常に考える』とかを、取り入れて、実践しているところですよ。
森川誠社長にしても、未来工業の山田さんにしても、
会社経営を、まるで芸術作品の創造のように考えているんだろうなって、
おれは思うんですよ。純ちゃん」

「まあ、そんな感じだね。あっははは。
山田昭男さんの場合は、若いころ、演劇に熱中していたっていうじゃないですか。
だから、きっと、その魂というか精神というか、心というか、芸術家なんですよね。
山田昭男さんの名言には、いろいろあって、おれも感心するんですけど、
『日本人の正直さを信じている、』とか、
『社員をいかに<やる気>にさせるかで会社は決まる』とか、
『会社は社員を幸せにする場だ』とか
『いま、派遣労働者の労働条件の改善が社会問題になっているけど、ウチはすべて正社員。
基本的に経営者は、定年まで勤めたいと考えている、
大多数の真面目で純粋な従業員の思いをすくい取ってやるべきでしょう』とか言ってますよね。
あと、『未来工業のいろいろな取り組みは、すべて社員の不満を解消するとともに、
社員を感動させるためにやっていることばかりだ。
感動は人を喜ばせる。喜んだ社員は一生懸命に働いてくれる。
会社のためにやってやろうという気持ちになる。
そうして頑張った結果が、お客様を感動させ、事業を発展させることにつながるのだ』とも言っている。
山田昭男さん言葉は、芸術家的だと思うよ。しんちゃん、詩織ちゃん、香織ちゃん」

 森川純は、笑顔でそう言いながら、信也や詩織や香織たちと目を合わせる。

「やっぱりね。今の世の中には、社会も企業も個人も、
芸術的な生き方を、ちょっと考えてみるのもいいのかも?っていう気がするんですよ、おれは。
もちろん、みなさんも、同感だと思いますけどね。あっははは。

2012年の3月の、いまのような春に亡くなられた、吉本隆明(よしもとたかあき)さんは、
芸術的な言語について考えることを、ライフワークのようにしていましたけど、
こんなことを言っていました。

『インターネットや携帯を使って、いくらコミュニケーションをとったって、
本物の言葉をつかまえたという実感が持てないんじゃないか。』ってね。
吉本さんは、言葉の本質的なことについて、さらに、こんなふうにも言っています。

『言葉というものは、コミュニケーションの手段や機能だけではない。
それは、言葉の枝や葉の問題であって、根幹(こんかん)は沈黙だよ。』と言っています。

あと、『言葉とは、内心(心のうち)の言葉を主体として、自己が自己と問答することです。
自分が心の中で、自分に言葉を発し、自分に問いかけることが、まず根底にあるんです。
友人同士で、ひっきりなしに、メールで、いつまでも他愛のない、おしゃべりを続けていても、
言葉の根も幹(みき)も育ちません。それは貧しい木の先についた、貧しい葉っぱのようなものです。
言葉の本質は、沈黙にあること。そのことを徹底的に考えること。』
吉本さんは、『若い人に言えるとしたら、それしかない。』って、
言葉の本質について、こんなふうに、本に書いてました。

この吉本さんのお話と、美しいハーモニーを奏(かな)でているような、名言が、
もうひとつあるんですよ。名言って、けっこう長くって、
こうやって、コピーして持っているんです。あっははは。
ちょっと聞いてください。
あの哲学者のニーチェの言葉なんですが、
『芸術的な本能が、人を生かす』ってことで、こんなふうに言ってます。

『わたしたちの感覚を魅了し、わたしたちに快感や感銘を与えるものは、
いつも、単純さ、見通しのよさ、規則正しさ、明快さという特徴を持っている。
現実には、わたしたちの眼前にあるものは、カオス(混沌や混乱)だ。
それを単純化したり、論理を与えたり、規則づけたりすることで、
わたしたちは物事を整理し、ようやく理解している。
いや、そういうふうにしてしか、人はいっさいについて、理解も納得も認識もできないのだ。
つまり、事象そのものに手を加えて、論理的で芸術的なものにすることでのみ、
人はこの世界の中で生きてゆくことができる。これはまさしく本能というべきものだろう。』ってね。
吉本さんも、ニーチェも、芸術的な生き方こそが、
人間らしい生き方だって、言っているようですよね」

 信也は、牛革(ぎゅうがわ)のカードケースに入れておいた、
2冊の本のページのコピーを見ながら、そんなふうに、みんなにゆっくりと語(かた)った。

☆参考・文献・資料☆
1. 『毎日4時45分に帰る人がやっているつまらない「常識」59の捨て方』
  著者 山田昭男・東洋経済新報社
2. 山田昭男の名言 厳選集|名言DB リーダーたちの名言集【インターネット】
3. withnews 日本一休みが多い会社 未来工業【インターネット】
4. 『超訳 ニーチェの言葉(2)』から『生成の無垢』(認識論・自然哲学・人間学)編訳 白取春彦
5. 『芸術言語論への覚書』  著者 吉本隆明  李白社
  
≪つづく≫ ---122章 おわり ---

123章 ≪Memory 青春の光≫を語りあう信也と裕子

123章 ≪Memory 青春の光≫を語りあう信也と裕子

 4月14日、金曜日。気温も21度ほどで、よく晴れた一日だった。

 日も暮(く)れた6時半ころ、川口信也と落合裕子のふたりは、
渋谷駅のハチ公改札口の近くの忠犬ハチ公像で待ち合わせをしていた。

 ふたりは、そこから歩いて3分くらいの、道玄坂をちょっと裏に入った
レストラン・バーのBEE8 (ビーエイト)に向かった。

 ふたりは、予約していたカウンター席で寛(くつろ)ぐと、
熟(じゅく)したレンガ色の赤ワインの入ったグラスを合わせて乾杯した。

 笑顔が素敵な女性のスタッフには、牛リブロースステーキや、
トマトとバジルチーズのマルゲリータや、小海老のアヒージョや、
いちご・ブルーベリー・ラズベリー・ぶどうなどが盛り沢山(たくさん)の
ベリーモヒートを注文した。

「この店に来るのも、1年ぶりくらいになるよね」と信也は言った。

「そうよね。ちょうど1年くらいになるわね。
このお店で、去年の3月4日に、しんちゃんと純ちゃんと、
美結ちゃんに、わたしの誕生日のお祝いをしていただいたのよ。
ちゃんと覚えているわ。
1年間くらい参加させていただいた、
クラッシュビートのキーボードの休止もこのお店でお話させていただいたんだわ。
しんちゃんは、わたしの誕生日を覚えていてくれて、花束を届(とど)くんですもん。
とても、うれしかったわ!」

「あっははは。また裕子ちゃんが、クラッシュビートのキーボードに戻(もど)ってきてくれるかな?
っていう期待もこめて、おれは贈らせていただいたんですよ」

「しんちゃんは、≪モーニング娘。≫の≪Memory 青春の光≫は知っているでしょう。
あの歌が発売されたのが、1999年2月だったんですよ。
わたしは、小学校に入学したばかりの1年生だったんですけど、ませていたのかしらね。
≪Memory 青春の光≫をピアノで弾きたい!って心の底から思って、
それからピアノ教室にまじめに真剣に通い始めたんです。
なんとなく、おませで、おかしな子どもだと思うでしょう!
しんちゃんも。うっふふふ」

「そうなんですか。あの≪Memory 青春の光≫は、≪モーニング娘。≫の歌の中でも、
ぼくも好きですよ。あの曲は、♭が6個の、E♭マイナーで、
16分音符は、はねて弾く感じだし、難しいですよね。
まあ、あの歌の哀愁やリズム&ブルース的なノリのよさは、
たとえば、ビートルズのポール・マッカートニーの『イエスタディ』のような名曲の水準ですよね。
あれを作った、つんくさんは、天才的な人ですよ、おれも尊敬しちゃいます!」

「よかったわ。しんちゃんに、わたしのこと、理解してもらえたみたいで!
わたし、最近も、≪Memory 青春の光≫をピアノで弾きながら、
心に想うのは、正直に告白すると、尊敬している、しんちゃんのことなんだから!うっふふ」

「あっははは。ぼくも、裕子ちゃんのことは、尊敬していますし、いつも気になってますよ。
お互いに、かなり、音楽的な価値観とか似ていますしね・・・」

「しんちゃんに、そう言ってもらえると、本当にうれしいわ!
でも、わたしって、しんちゃんみたいに、心が、まっすぐじゃないし、強くないんです!」
どうしたらいいんでしょうね?しんちゃん」

「あっははは。おれも、強がっているだけで、本当はかなり弱いんですよ、裕子ちゃん。あっははは」

 二人は、目を合わせて、明るく笑う。

≪つづく≫ --- 123章 おわり ---

124章 中島みゆきの『恋文』をカヴァーする信也

124章 中島みゆきの『恋文』をカヴァーする信也

 5月4日のみどりの日の午後1時ころ。気温は22度ほど。やさしい南風が吹いている。

 マンガ家の青木心菜(ここな)は、明大前(めいだいまえ)駅、京王(けいおう)線ホームの、
ガラス張(ば)りの明るい待合室で、親友の水沢由紀を待っている。

 心菜がちょっと待っていると、ピンクベージュのワンピースで、由紀はやって来る。

 着心地の良さそうな半袖(はんそで)のカットソーと、
ギャザースカートが一緒になったようなデザインのワンピースの由紀。

「由紀ちゃん、かわいいワンピースね。ピンクベージュでしょ?すてきだわ。
でも、わたしのピンクと同じ色じゃなくって、良かったわ!うふふ」

 心菜はそう言って笑った。

「心菜ちゃんのワンピースも春らしくってすてき!ここのスリットが、繊細でセクシーなスカートね!」

 由紀が天真爛漫な笑顔でそう言った。

「あら、そうかしら。ありがと!由紀ちゃん」

 落ちついたコーラルピンクの、ふんわり柔らかいシルエットのワンピースの心菜。

 ふたりは渋谷駅から歩いて3分ほどの、ライブハウスのイエスタデイ(Yesterday)行くところだ。

「きょうの、しんちゃんたちのライヴは楽しそうよね」と由紀が言う。

「うん。今日のライヴのオープニング曲は、
中島みゆきさんの『恋文』のカヴァーですって。由紀ちゃんと一緒に、ぜひ聴きに来てね!って、
しんちゃんがメールしてくれた!楽しみよね!」

 心菜と由紀は目を見合わせて笑ったりしながら、京王線ホームからエレベーターに乗り、
地下1階の井の頭(いのがしら)線ホームで、渋谷駅方面の列車を待つ。

 ふたりは各駅停車の渋谷行きに乗車すると、ドア近くのシートに座(すわ)った。
渋谷までの所要時間は、12分くらいだ。

「しんちゃんからこの本をいただいたの。
この本、いまはもう絶版で、アマゾンなら中古本が売っているんですって」

 1990年に出版された朝日文庫の『中島みゆき全歌集』を、
ライトブルーのショルダーストラップ付きのハンドバックから、心菜は取り出す。

「しんちゃんって、熱烈な、中島みゆきのファンだというのは、意外よね!心菜ちゃん」

「ちょっと、ユーモラスなトピックスよね。うっふふ。
硬派なロッカーのイメージが強い、しんちゃんは、
高校生の時は、アメリカのパンク・ロックバンドの、ラモーンズのコピーをしていたし、
日本のバンドでは、ブランキージェットシティや、
ミッシェル・ガン・エレファントをコピーしていたもんね。
まさか、中島みゆきさんに、ラブレターを出すほど心酔しているというのは、ちょっと意外だった。
でも、しんちゃんって、そんな、ひとつの形にこだわらない、
全方位的なところが魅力なのかも。由紀ちゃん」

 青木心菜は、川口信也をモデル(主人公)にした連載マンガの、
『クラッシュビート』の絶好調もあって、
人気マンガ家だ。親友の水沢由紀も、心菜の腱鞘炎がきっかけで、
マンガ制作のアシスタントや心菜のマネージャーをしている。

 心菜は、1992年3月1日生まれの25歳。
由紀は、1991年11月8日生まれの25歳。ふたりは、小、中、高校が同じ、幼なじみだ。

 心菜の家は、京王線の下高井道(しもたかいどう)駅の近く。
由紀の家は、その下高井道駅の隣の桜上水(さくらじょうすい)駅の近くにある。

「しんちゃんって、中1のときに、2002年暮れの紅白歌合戦を見ていたら、
中島みゆきさんが初出場で『地上の星』を歌っていて、それがかっこよくて、
それから熱烈なファンになったのよね。
みゆきさんが出たあの紅白歌合戦のときは、わたしも心菜ちゃんも、かわいい小学5年生だったわ!」

 そう言って由紀は心菜に微笑む。ふたりは車窓の外を流れる景色を眺(なが)めている。

「あの紅白で、みゆきさんが、黒部ダムの地下トンネルの中で、『地上の星』を熱唱していたのって、
つい先日のように思えてくるよね。それだけ強烈な印象もあるのよね。由紀ちゃん。
あの紅白の翌年(よくとし)から、しんちゃんは、みゆきさんの歌なら、
なんでもを聴くようになったんだって。
2003年の新年からは、ニッポン放送で、
『中島みゆき ほのぼのしちゃうのね』というラジオ番組が始まったんだけど、
でも、その放送時間が、月曜日から金曜日までの平日の午前10時30分から、
10時40分だったんだって。それだから、中1のしんちゃんは聴くことができないのね。
それで、しんちゃん、ニッポン放送気付けにして、みゆきさん宛(あ)てに、
詩のような短編小説に、手紙をつけて送ったんだって。
その小説、小学校のとき、好きになった文学好きな女の子へ捧げるために、
パソコンを使って書いたんだって。
それを、プリンターを使って、ホチキスで止めただけの簡易な自家出版の本だって、
しんちゃん、言うってたけど。
でもすごいわよね、しんちゃんって。やっぱり、早熟なのかしら!あっははは」

「そうだったんだ。しんちゃんって、文学少年だったのかあ!うふふ。
その、みゆきさん宛てに送ったという短編小説はなんというタイトルなの?心菜(ここな)ちゃん」

「タイトルは、『雲は遠くて』って言ったわ。わたしも読みたい!って言ったら、
これはいまのところおれの極秘事項にしてあるからって、断(ことわ)られちゃったわ。
連載マンガの『クラッシュビート』に、このエピソードを使っていいかしらって、きいたら、
こんなエピソードでも、心菜ちゃんのマンガの制作に役立つのなら、
自由に使っていいですよって、しんちゃんはやさしく言ってくれたわ。
でも、中島みゆきさんが関係するようなエピソードだから、
作品に使用するのは難しいかもいれないねって言っていた、しんちゃんは。
みゆきさんは、藤女子大学の文学部の国文学科を卒業しているのよね。
折り紙付きの文学少女って感じ。
小学生の時に好きだった文学少女の女の子には、結局、ふられたんだって、しんちゃんは。
そんな心の痛手もあって、しんちゃん、
みゆきさんには、好意や関心を持ってもらえるように、
自分の年齢も中1だってことも、手紙には書かないし、明かさなかったのよ。
中1じゃあ、大人の女性のみゆきさんには相手にされないだろうからって。
おかしいわね。由紀ちゃん。うふふ」

「恋するってことは、愛するってことは、心と心との関係で、魂と魂との関係ですものね。
この世に生を受けた命と命が、奇跡的な確率で出会うことができた、その歓(よろこ)びですものね。
だから、年齢差はどうでもいいことだし、、どんな障害だって、
愛し合うことができるとすれば、その男女には関係ないものよね。
ましてや、文学や音楽を大切に思ったりできる、価値観の近い、
同志的な関係なら、なおさらね。心菜ちゃん。」

「そうよね。みゆきさんの歌の『命の別名』には、命の別の名前は心のことって、確かあって、
あの歌もすばらしいわよね。あんなふうな奥の深い、いい歌をたくさん作れるから、
みゆきさんって、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代って、
4つの世代で、チャート1位に輝くことができたアーティストなのよね。
そんな40年間も活躍しているアーティストは、中島みゆきさん、ただひとりなんですって。
この『中島みゆき全歌集』の解説は、
詩人の谷川俊太郎(しゅんたろう)さんが書いているのよ。それがすごくいいの!由紀ちゃん。
もう立派な、私たちの日常にも、世界にも通用するような、わかりやすい芸術論になっているのよ。
この谷川さんの解説の最後は、
『歌は決まりきったことばに新しい感情を与える。
そして誰もが知っている慣(な)れきった感情に、新しい言葉をもたらす。
歌を書くものも聞くものも、そうやって未知の≪私≫を発見し続けていくのだ。』
っていう言葉なんだけど、たとえば、何か創造的なことに挑戦するとか、
芸術的な活動を楽しんだりすることや、
平凡(へいぼん)な毎日の生活や仕事に励(はげ)んだりすることも、
つきつめれば、新しい自分と出会ったり、何か新しい発見をしたりする、
そんな日常にささやかな歓びを見つけるための、旅の連続のようなものだと思うのよね。由紀ちゃん」

「そうね。心菜ちゃん。何のために生きて、何が歓びや楽しみかっていえば、
行き着くところは、そういう、なんていうのかな、自己発見のような、
なにか新鮮な、新しい気持ちになれたらいいなっていうか、
新しい自分に出会えたらいいなっていうか、
そんな小さな希望とかの、日々のささやかな実現のようなことだと、わたしも思う」

「そうそう、日々新たに!だわね。由紀ちゃん。
この谷川俊太郎さんの解説には、ほかにも、おもしろいこと書いてあるんだ。
『何年か前に中島みゆきに会った時、私の書いた
≪うそとほんと≫という短詩がいいと言ってくれたことがある。
≪うそはほんとによく似ている/ほんとはうそによく似ている/うそとほんとは/
双生児 うそはほんととよくまざる/ほんとはうそとよくまぜる/
うそとほんとは/化合物 うその中にうそを探すな/
ほんとの中にうそを探せ/ほんとの中にほんとを探すな/うその中にほんとを探せ≫
という詩である。のちにある対談の中で彼女は《あそこまで言われちゃうと、私、
ナンにもやることないんだけどさ》と言って、
それは私の書いてくれたものをほめてくれるというよりは、彼女自身の書きかた、
歌いかた、ひいては人間観を語っているようで興味深かった。』
って谷川さんは、この本に書いてるのよ。
この話も、時間を超えて普遍的で、いつの世にも通用するような、芸術論だと思うわ」

「ニーチェの言葉に、有名な≪真実なんてない、ただ解釈があるだけだ≫があるくらいよね、
うそもほんとも、真実も虚偽(きょ ぎ)も、ひとの都合(つごう)や好みで決まったりするものね。
ニーチェとかが説く、芸術論のように、芸術的なことを愛好して、たくましく、
楽しく生きたほうがいいんだって、わたしも思うわよ。
ニーチェの芸術論と、谷川俊太郎さんや中島みゆきさんの考え方は、
とても近いという気がするわ。
芸術を大切にして生きていこうとしていると、
自然とその考え方も似てくるんでしょうけど。ね、心菜ちゃん」

「しんちゃんが、ニーチェに共感するのは、ニーチェが、哲学を芸術ととらえて、
熱く、文学的に自らの思想を表現したからですもんね。
やっぱり、わたしたちも芸術を大切にして、人生を楽しくしてゆくしかないのかもね!由紀ちゃん」

「そうよね、芸術を楽しんで、そこから学んでいくしかないのかも、心菜ちゃん。
だって、いまの世の中も社会も、どこまでが夢なのか、どこまでが現実なのか、
なにが真実なのか、正しいのかが、はっきりしないような、定(さだ)まらないような、
幻のような、幻想のような、錯覚のような、幻覚のような、
そんな、なんていうの、難(むずか)しい言葉でいえば、イリュージョン(illusion)かしら。
イリュージョンで成り立っているような世の中だって気がしてくるもの」

「暗(くら)い事件やニュースが多いものね。
そうそう、みゆきさんのことで、谷川さんのこの解説に、こんなおもしろい話もあるの。由紀ちゃん。
『中島みゆきは私との対談の中で、こんなふうに語っている。
《たとえば、誰かがうんとあたしのことを思ってくれるとするでしょう。
でも、どんなに思ってくれたとしても、それ以上にあたしを思う人が必ずいるわけ。
それはあたし自身なの、あたしがあたしを1番好きなの。
・・・(自分の嫌いなところなんか)いっぱいあるけれど、全部ひっくるめてすごく好き。》
どんなに自己嫌悪を口にする人でも、自己愛は隠れているものだと思うけど、
こういうふうにあっけらかんと自分ののろけを言う人は珍しい。
だがこれは額面通(がくめんどお)りに受け取っていいと私は思う。
彼女の虚構や演技の底には、臆面(おくめん)もない自己陶酔もあるのだ。
自己肯定の強さ、あるいはもっと端的に言えば、
うぬぼれは歌い手にとって有利に働きこそすれ不利に働くことはない。
それは歌というものを支える生命力そのものと言えるからだ。』
ねえ、由紀ちゃん。この谷川さんの話は、ほんと、役に立つ芸術論よね。
わたしたちのマンガの創作も、自己肯定してないと、やってゆけないものね。
わたし、すっかり感心しちゃたの。しんちゃんも、この谷川さんの解説の言葉に、
すっかり感心しちゃっていて、ぜひ読んでくださいって、
わたしに、この『中島みゆき全歌集』をプレゼントしてくれたのよ」

「自分のこと大好きだっていう、みゆきさんって、かわいくって、愛(いと)おしいひと!心菜ちゃん!」

「しんちゃんも、みゆきさんのこの自己愛には、すごく共感するって言っている。
またあのニーチェだけど、ニーチェが説く≪自己中心主義こそが、人間らしい生きかたである≫
という考え方にも、近いって。自己中心主義って、自己中っていわれるくらい、
良いイメージがないけれどね。
ニーチェの自己中心主義というのは、『自分を愛せる人間が、他人を大切にできる』とか、
『自己への愛(自己愛)を通して、はじめて他者を愛せる』とか、
『自分を愛せない人間に、他者を愛することはできない』という考え方なのよね。
自分を最も価値があると位置づけるわけで、とかく世間では『利己主義』ということで、
悪いイメージしかないけれどね。
でも、よくよく考えてみれば、自分を愛するってことは、自分という≪自然≫を愛することで、
大自然の中の1部の、自分の体や心を愛して大切にするってことで、これって、
やっぱり、1番に大切にすべきことだって、しんちゃんも言っているわ。
自己愛って、具体的には、日常生活の中で、こまめにストレッチをして、
体や心のリフレッシュをするようなことだって言ってた、しんちゃんは。
そのとおりだと思うわよね。
わたしたちも、脳内物質のセロトニンも出て、心のバランスもとれて、
心のコリもとれるストレッチが大好きよね!由紀ちゃん」

「うん。自己愛の基本は、ストレッチかしらね!」と、由紀は涼し気な眼差しで、心菜に微笑んだ。

 午後1時30分を過ぎたころ、心菜と由紀は、渋谷駅からスクランブル交差点を渡って3分ほどの、
ライブハウスのイエスタデイ(Yesterday)に着く。

 1階の入り口付近のオープンテラスのテーブルには、川口信也と彼女の大沢詩織や、
クラッシュビートやグレイスガールズのメンバーや、
信也の後輩たち、早瀬田大学のミュージック・ファン・クラブの学生が集まっていて、
コーヒーや紅茶やドリンクを飲んだりしながら雑談を楽しんでいる。

 信也たちのモリカワが経営するイエスタデイは、2012年の9月にオープンでは、
このタワービルの2階だけのスペースであった。現在は拡張(かくちょう)して、
1階と2階の広々としたスペースと、緑に囲まれたテラスのある、
料理や飲み物やライヴ演奏を楽しめる空間として、渋谷の気軽な憩(いこ)いの場になっている。
キャパシティ(席数)も100席から200席に増(ふ)えている。

 天井の高いステージには、黒塗りのグランドピアノや最新のキーボードや、
ドラムやアンプが置いてある。

 午後2時30分。信也たち、クラッシュビートのライヴは始まる。

 ライヴのオープニング曲は、中島みゆきのカヴァー曲の『恋文』だ。

「おれって、実は、中1の中学生のころから、中島みゆきさんの大ファンなんです。
きっかけは、2002年12月のNHKの紅白歌合戦で、
中島みゆきさんが『地上の星』を歌っているのを見たことなんです。
かっこいい女性がいるもんだな!って感動しちゃたんですよ」

 クラッシュビートのヴォーカルの川口信也は、満席の会場に向かって、そんな話をする。
会場からは拍手や笑い声や歓声が沸き起こる。

「まあ、おれ、そのとき、まだ中1ですからね。
中島みゆきさんには、それ以来、相当に熱を上げ続けています。
熱烈なファンになった、2003年の2月だったかなあ。
あのころ、みゆきさん、ラジオの番組で、
『中島みゆき ほのぼのしちゃうのね』というをやっていたんですよ。
でも、その放送時間が、平日の月曜日から金曜日までの午前10時30分から、
10時40分だったんですよ。おれは、中1で、学校じゃないですか。
みゆきさんの番組を聴くことができないのね。
いまでは、ユーチューブとかに、誰かがアップしてくれるんで、聴けるんでしょうけどね。
あっはは。それで、ニッポン放送気付けで、
みゆきさんにラブレターみたいなものを書いて送ったんです。
もちろん。みゆきさんからは、返事はもらえなかったんですけど・・・。
でも、2003年の彼女の歌に、『恋文』というアルバムが出たんです。
おれ、それを聴いて、歌詞を知って、びっくりしたんですよ。
おれの書いたラブレターへの返事じゃないか、これはって。
まあ、そんなことありえないんでしょうけど。
歌詞の中のリフレインの、
『(アリガトウ)って意味が、(これっきり)だという意味だなんて、気づかなかった』
なんていう言葉は、まったく、おれが書いた手紙への返信になっていて、
このみゆきさん歌は、聴くたびに、いつも、
おれへ優(やさ)しいささやきのように、おれの心に届(とど)くんです。
いつの日か、この真相は、みゆきさんに直接聞いて確かめたいです。
では、聴いてください。中島みゆきさんの名曲です。『恋文』・・・」

 ラテンのリズムを得意とする落合裕子の細(ほそ)い指が、やさしく、鍵盤に触(ふ)れる。

 イントロの、グランドピアノの哀愁がただようメロディが、フロアに鳴り響(ひび)く。

 ゆったりとした心地の良いリズムと、大人の哀愁にあふれるメロディの、
バラード『恋文』を、信也は、透明感あふれる独特な声で、心を込めて歌い始める。

 原曲『恋文』のレコーディングはアメリカ、ロサンゼルスで行われている。
その原曲にできるだけ近い演奏の実現のために、
このライヴ演奏には、クラッシュビートのメンバーのほかに、
早瀬田大学のミュージック・ファン・クラブ(MFC)の学生たちが参加した。
バイオリンが5名、チェロも3名。軽快なパーカッションは岡昇。
キーボードも女子学生が弾いた。

 この熱いパフォーマンスのライヴ演奏に、
最前列のテーブルの席の心菜と由紀のふたりは、
何度も涙で、瞳(ひとみ)を潤(うる)ませた。

 鳴りやまない拍手と歓声の中、アンコール曲は、
再び、この濃厚で美しい演奏の『恋文』のカヴァーだった。

☆参考・文献・資料☆
1. 中島みゆき全歌集  1990年版 朝日文庫
2. まんがと図解でわかるニーチェ 別冊宝島
3. 思想するニーチェ 秋山英夫 人文書院
4. ニーチェ入門 竹田青嗣(せいじ) ちくま新書
5. 体を芯からやわらげる健康ストレッチ 永岡書店
6. 中島みゆき - 音楽プロダクション - Yamaha Music Entertainment

≪つづく≫ --- 124章おわり ---

125章 中島みゆきを語る信也や詩織や美樹や真央たち

125章 中島みゆきを語る信也や詩織や美樹や真央たち

 6月3日の土曜日、よく晴れた気温26度ほどの夏日の、正午(しょうご)を過ぎたころ。

 信也と詩織、美樹と陽斗(はると)、真央と翼(つばさ)の、カップル、6人が、
モワ カフェ(mois cafe)の2階席のテーブルをかこんでいる。

 下北沢駅南口から、人でにぎわう商店街の小道を入って、
静かな住宅街の裏路地にあるモアカフェは、駅から2、3分。
築40年の民家を改装した 一軒家で、高い天井(てんじょう)の屋根を支えている梁(はり)に、
古民家らしい風情(ふぜい)もある。玄関左手には赤松の木がそびえる。
おしゃれで落ちつける、リノベーション・カフェの、客席は40席ある。

 窓から陽の光がはいる2階の部屋のテーブルで、6人はゆったりと寛(くつろ)いでいる。

 川口信也は、1990年2月23日生まれ、27歳。
2012年の春、早瀬田大学商学部を卒業後、外食産業のモリカワ本部で課長をしている。
ロックバンド、クラッシュ・ビートのギターとヴォーカルもやっている。

 信也と交際中の大沢詩織は、1994年6月3日生まれ、22歳。明日からは23歳。
今年の2017年の春、早瀬田大学、文化構想学部を卒業後、モリカワ本部に入社したばかり。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、ギターとヴォーカルもしている。

 清原美樹は、1992年10月13日生まれ、24歳。
2015年の春、早瀬田大学、教育学部卒業後、モリカワ本部に入社している。
グレイス・ガールズのリーダーで、キーボードとヴォーカルをしていている。

 小川真央は、1992年12月7日生まれ、24歳。
2015年の春、早瀬田大学、教育学部卒業後、モリカワ本部に入社している。

 美樹と交際している松下陽斗は、1993年2月1日生まれ、24歳。
2016年の春、東京芸術大学の音楽学部、ピアノ専攻を卒業と同時に、
ソロ活動を開始して、その卓越したテクニックと音楽的センスで、
クラシック界やポップス界から注目されている人気の若手ピアニストだ。

 真央の交際相手の、野口翼(つばさ)は、1993年4月3日生まれ、24歳。
2016年の春、早瀬田大学、理工学部を卒業後、モリカワ本部に入社して、
IT・情報技術関係の仕事をしている。
翼と真央は、早瀬田大学の音楽サークル、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)で親しくなり、
翼から真央は、ギターを教(おそ)わった。

「ではでは、明日(あした)から23歳になる詩織ちゃんの健康と幸せを祈願しまして、
詩織ちゃん!お誕生日、おめでとうございます!では、みなさま!かんぱーい!」

 信也が笑顔でそう言って、乾杯の音頭(おんど)をとった。

 6人は、テーブルにあるボリューム満点の肉料理にもピッタリの、
よく冷えたカールスバーグ生ビールのグラスで乾杯をした。

 みんなは楽しい雑談や、気さくなジョークに大笑いしたりしながら、
先月の5月4日のライヴで、信也がカヴァーした、中島みゆきの『恋文』に関するあの話になった。

「ねえ、しんちゃん!あなたが、中1の3学期のときに、ニッポン放送気付けにして、
中島みゆきさん宛(あ)てに送ったという短編小説って、どんな物語だったのかしら?うっふふ」

 美樹が、悪戯(いたずら)っぽい瞳で微笑(ほほえ)みながら、やさしい声で信也に聞いた。

「あっははは。あれね、あれはいま読み返しても、ぼくの生涯1度っきりの名作なんですよ。
書いたと当時は、名作だという意識はまったくなかったんですけどね。
でもね、文学少女のみゆきさんが、ぼくの小説を読んでくれていないはずはないって、
いまは確信しているんですよ。
それで、その感想と、おれへの返事が『恋文』に違いないと思うんです。あっははは。
おれも、ある意味、アホというか、バカですよね。何もそれを実証する証拠もないのに、
そう確信してしまっているんですから。あっははは。
まあ、ぼくのその短篇小説は、反響も多いので、
近いうち、未熟な部分とかを推敲(すいこう)して、
みんな誰もが読めるように、ネットで公開しちゃおうと思ってます。あっははは」

「わたしにも、まだ見せてくれないのよ!しんちゃんってば!」

 詩織が、かわいく、ほっぺたをふくらませて、信也を見る。

「あっははは。詩織ちゃん、真っ先に、公開するときは、詩織ちゃんに見てもらいますから。
なんか、非常に、今となっては、おれもいいオトナだし、作品を見せるのって、
照(て)れるんですよね。中1のときと違って。あっははは。
えーと、物語はですね。シズオっていう名前の音楽大好きな少年が、山梨県の親元を離れて、
東京の定時制高校へ通いながら、深夜営業もやる音楽のライヴもできるカフェバーで、
バイトしたりする、そんな日常の物語って感じなんですよ。
そこに、若い男女の恋愛やちょtっとした事件もあったりするんです。
あと、中1の水準ですけど、魂とかの哲学的な考察もちょっと出てきたりします。あっははは。
あと、これは偶然なんですけど、ぼくの小説には、ちょいの間だけど、犬が出てくるんですよ。
みゆきさんも大好きなワンちゃんが。それも、みゆきさん、気に入ってくれてるのかな?あっははは」

「へーえ。すごいわ!しんちゃん、中1で、そんな物語を書いたのね!尊敬しちゃうな!わたし!」

 そう言って、ほんとうに尊敬のまなざしになって、笑顔で信也を見る、真央。

「あっははは。おれって、生まれたときから、オタクだからね。スポーツも好きだけど。
マンガやアニメの影響なおのか、誰にも邪魔されることもなく、
自分の空想の世界を楽しんだり、構築することに、幸せを感じるタイプの人間で、
物心がつく小学4年生くらいから、そんなオタクなんですよ。おれの記憶する限りでは。
でも、そんな、揺るぎのない自分の世界を持てるというオタクな考え方で生きているって、
けっこう、たくましく生きて行ける、絶好の秘訣か持って、最近、見直しているんですよ。
こんなふうな、価値観の多様化や混迷の時代ですからね。あっははは」

「そうですよ。しんちゃんって、やっぱり、すごいと思います。
おれも、アーティスト的な視点からも、しんやんって、尊敬しちゃいますね!
おれは、クラシック音楽コンクールとかで、いくつも、第1位とか取らせていただきましたけど、
プロのピアニストとして、何が最も重要かと言えば、
個性とといいますか、オリジナリティーなんですよ。
いかにして独自の世界観やイメージを持てるかが、創造には大切なんですよね。
ごく普通のありふれたエリートのような技能や能力だけでは、
他者を感動させたりできないんですよね、しんちゃん。
だから、おれ、しんちゃんや、中島みゆきさんのようなアーティストを尊敬します!」

 陽斗(はると)は、信也に親しみと尊敬を込めた笑顔で、そう言った。

「まあ、オタクのおれが、みゆきさんの歌とかを聴き込んで、
やっとわかったようなこともあるんですよね。
みゆきさんの新潮文庫の歌集には『愛が好きです』というのがあるじゃないですか。
みゆきさんは、ほんとうに、『愛』を大切に思ってでですよね。
みゆきさんの歌では、愛をテーマとした歌が、
『愛だけを残せ』とか『愛と云わないラブレター』とか『I love you 答えてくれ』とか、
おれが知るだけでも10曲以上はあります。
どの歌も、おれは好きなんですよ。中には、あっ、これも、おれのことを歌ってくれているのかな!?
なんて思えてきてね。でも、そんな、うぬぼれの強い男は、みゆきさん、きっと嫌いなんですよね。
みゆきさんには、絶対に嫌われたくないですよ。あっははは」

「そうですよね、しんちゃん、ラブ&ピースなんて、軽く言えば、笑われるような社会ですけど、
人間から、『愛』を削除したしまったら、
地球上で、1番に、獰猛(どうも)で野蛮(やばん)な生き物になってしまうのでしょうね」

 容姿からして、繊細な理系な雰囲気の翼(つばさ)が、そう言って信也に微笑(ほほえ)む。

「まあ、みゆきさんって、『愛』について、どんなふうに考えているのかっていうのは、
ぼくにとっても大きな謎(なぞ)であり疑問なんですけど。
最近、いろいろと調べているうちに理解できた気になったんでよ。
『夜会vol.4金環蝕』という本の中にある、
『北の国から』などで知られる倉本聰(くらもとそう)との対談で、
みゆきさんはこんなことを言っているんです。
こんなふうなことを・・・。
≪『夜会』はね、みんなが楽しくなってくれればいいと思っているのね。
たとえば、見に来てくれているお客さんが、冬の中にいるとするでしょう。
でも、その人の中に絶対に種子(しゅし)はあるのね。
水をやればきっと、根や芽を出すのよ。
『夜会』に来て、ほんのちょっぴりでも、
根や芽を出す種子を持っている気分で帰って欲しいと思うの。≫
こんなことを言っているわけです。
これって、みゆきさん特有のサービス精神の表(あらわ)れでしょうし。
このサービス精神は、別名をみゆきさんの好きな『愛の表現』と、
言ってもいいのだと思いますよね。
『恋文』の歌詞にしたって、
みゆきさんは、ぼくの中の『種子』から、
芽や根が出て、育つように、サービスしてくれたんだなって、今は思っているんです。
つまり、みゆきさんは、きっと、おれに向けて、
「あなたも、夢を追いかけて生きてください!」って言っているような気がします。
それだけでも、おれはうれしいですよ。
ぼくも、そんな、みゆきさんの『愛』をしっかりと受けとめて、
これからも、夢を追っていきたいと思っています。
夢を見失っちゃうと、つまらないですもんね!
・・・まあ、中2のときに出会った『恋文』の歌詞には、ほんとうに、びっくりしたんですよ。
歌詞の始めの、
≪探(さぐる)るような目で恋したりしない
あなたの味方にどんな時だってなれる
試(ため)すような目で恋したりしない
あなたのすべてが宝物だった≫
というところなんですけど。
これって、恋文を書いている、おれの目が、
探るような目だったり、試すような目だってことなんですよね。
みゆきさん自身の目のことじゃないんです。
こんな詞を書けるところが、みゆきさんって、驚くほど、するどいんですよ。
確かに、あのとき、おれは、たぶん、ほとんど、未知の世界のみゆきさんですから、
探るような目や試すような目になりながら、それでも、熱い恋心をいだきながら、
恋文というかラブレターを、みゆきさんに書いていたんだと思う。
まあ、その歌詞の次に来る、あなたの味方にどんな時だってなれる、
あなたのすべてが宝物だった、は、そんなおれへのメッセージだと、
おれは感じて、そう考えています。おれには、もったいないほどの、
とてもありがたい言葉で、うれしくって、夢見てるような気持ちになってしまいます。
あっははは。
勇気や力がわいてくる言葉で、『愛』のある言葉って、
こんな不思議なパワーがあるんだと実感するんですけどね。!
みなさん。あっははは」

「なるほどね。よかったわね!しんちゃん。
きっと、みゆきさんは、しんちゃんに向かって、
しんちゃんの種子が元気良く育つようにと、『恋文』を書いてくれたんだわ!」

 詩織がそう言った。みんなは、明るく笑った。

☆参考・文献・資料☆

1.夜会vol.4金環蝕 中島みゆき 角川書店
2.中島みゆき最新歌集 1987~2003 (朝日文庫) 文庫

≪つづく≫ --- 125章 おわり ----

126章 ボブ・ディランの『コーヒーもう一杯 』を聴く信也

126章 ボブ・ディランの『コーヒーもう一杯 (One More Cup of Coffee)』を聴く信也

 6月10日の土曜日の午後3時過ぎ。

マンション(ハイム代沢)のリビングのソファで、 ひとり、川口信也は、ひさびさに、
パソコンの、Windows Media Player に入れてある『コーヒー もう一杯』を聴いている。

 信也が、2014年の12月から借りているハイム代沢は、
リビングが1つとキッチンと、バスルームに洗面所、南側にはベランダがある、1Kだ。
このマンションには駐車場はない。

 信也の愛車トヨタのハリアーは、信也の妹の美結と利奈が暮らしているマンション、
レスト下北沢の駐車場に置いてある。その駐車場までは、歩いて2分とはかからない。

 休日の午後のひととき、信也がソファでくつろぎながら聴いてる、
『コーヒー もう一杯』は、イントロが哀愁のあるヴァイオリンで始まる、
そのアレンジも美しい、ボブ・ディランのバラードの名曲だ。

 1976年にリリースされたボブ・ディランの『欲望』というアルバムの中に、
『コーヒー もう一杯』は入っている。
神秘的で美しい女性との別れを、詩情のある言葉で語るその歌詞は、聴く人の心に深く響く。

 アルバム『欲望』には、当時のディランの実生活における苦悩が反映されているようだ。
アルバム収録曲には、妻の名前をそのままタイトルにした『サラ』という歌もある。
当時のディランの妻であったサラ・ディランと過ごした愛の生活を心のままに回想するような、
切ない歌だ。

 ディランとサラは、アルバムリリースの翌年の1977年に離婚している。
その原因は、当時、ディランのバック・コーラスをしていたキャロル・デニスという女性との、
ディランの浮気が原因といわれている。

 現在、ボブ・ディランは、2人目の奥様のそのキャロル・デニスとその娘と共に、
幸せな生活を送っているそうだ。

・・・ディランの歌の中でも、この『コーヒー もう一杯』は、
≪人生ってものは、どこまでも不思議な愛や恋や世界に満ちた、
神秘的な旅のようなものだぜ!≫と言っているような放浪の歌で、おれは特別に好きだなあ・・・。

・・・聖人のようなディランも、女性には苦労があったんだよね。おれも女性には気をつけないと。
あっははは・・・。

・・・しかしまあ、女性は神秘的な存在だって認識では、
女性の存在が、歌作りとかに不可欠の、インスピレーションや霊感の源だという認識では、
ディランもおれも、近いというか、とても似ているという気もする。あっははは・・・。

 信也は、焙(い)りたての熱いコーヒーを飲みながらそう思った。

 朝から、信也は、昨日、アマゾンから届いた中古の本の、
『バターになりたい ― 遠藤みちろう対談集』を読んでいた。

・・・この本読んで、なんか、スターリンのみちろうさんの人柄がかなり分かった気がするなあ。
彼の生き方そのものが、好奇心が旺盛な子ども心の100%のような、
すなわち、ポップなパンク・ロックに限りなく近いような、青春であったり、
いくつかの恋愛があって、それも失恋で、それが歌作りのきっかけであったり・・・。

・・・そして、みちろうさんは、パティ・スミスのファースト・セカンドアルバムに、
最も影響を受けたとは、新発見だった。彼女のサード・アルバムからはダメだとも言っているけど・・・。

 信也はさっそく、午前中にアマゾンで、パティ・スミスのCDの、
ファーストとセカンドとサードの3枚を、合計1500円で購入したばかりだ。

・・・パティ・スミスといえば、アメリカ女性で、1946年12月30日生まれで、
今年で70歳かあ。
彼女は、ボブ・ディランを尊敬していて、2016年の去年の末には、
ノーベル文学賞を受賞した、親友でもあるボブ・ディランの代役で授賞式に出席したとはね・・・。

・・・みちろうさんも、なんだかんだと、詩や文学に関心の深い人なんですね。
パンクのライヴでは、かなりなハードなパフォーマンスで、おれもびっくりだけど・・・。

・・・みちろうさん、この本の『あとがき』で、
「なんで、オレはうたを歌ってんだろう?」とか言っているけど、
おれも、あらためて考えさせられたですよ。

・・・結局、歌や芸術は、真剣に生きていこうとするその中から、
自然と出てくるもんなんだってね・・・。理屈や技術とかじゃないんだよね。
1番に大切なのは、直観的なひらめきや、
瞬間的に思い浮かんだ着想とか、まあ、霊感のようなもので、
まあ、インスピレーションかな。あっははは・・・。

詩織が、午後4時ころに来るのを待ちながら、そんなことをぼんやりと思う信也であった。

☆参考・文献・資料☆

1.バターになりたい―遠藤みちろう対談集 ロッキング・オン (1984/12)
2.ボブディラン、女性遍歴の中から生まれた名曲の数々!祝ノーベル文学賞!
http://fu3-akaneko.com/673.html

≪つづく≫ --- 126章 おわり ---

127章 All We Need Is Love (愛こそはすべて) 

127章 All We Need Is Love (愛こそは すべて) 

 7月7日の土曜日。真夏のような晴天で、南風、気温も34度ほどと暑い。

 午前11時を過ぎたころ。

 川口信也は、女優として人気もある沢口貴奈(さわぐちきな)と、
待ち合わせの約束をしている≪農民カフェ 下北沢店≫へ向かって歩いている。

そのカフェは、下北沢駅の西口から、200メートルばかりの、
徒歩で2分の、民家をそのまま改装したような一軒家ダイニングだ。

 沢口貴奈(さわぐちきな)は、信也が課長をする外食産業のモリカワの傘下(さんか)の、
芸能事務所モリカワ・ミュージックに所属する売れっ子の女優だ。 

 沢口貴奈は、1993年、11月7日生まれ。23歳。身長161センチ。

 川口信也は、1990年2月23日生まれ。27歳。身長175センチ。

 信也と貴奈(きな)は、知り合って、ちょうど10年の月日が経(た)つ。

 信也は山梨県の韮崎(にらさき)市に両親の家がある。
 
 貴奈は、韮崎市に隣接(りんせつ)する甲斐市(かいし)竜王(りゅうおう)に両親の家がある。

 信也が高校3年生のときには、貴奈は中学2年であった。

 そんな当時、信也は、高校の文化祭やライブハウスなどで、ロックバンドの演奏をやっていた。

 貴奈は、ロックファンで、信也のバンドの追っかけでもあった。貴奈は、中2にしては、
スタイルもいい大人っぽい少女だった。
信也のバンドが出演する文化祭やライブハウスを、よく追っかけて、見に行っていた。

 ふたりは、アドレス交換もしたりして、メールもよくしていた。
ふたりは、すっかり、意気投合していた。
貴奈のほうは、信也に恋心をいだいていた、信也にはほかに好きな女の子もいた。

 そんな貴奈に、お互いに社会人になったばかりのある日、信也から、
≪貴奈なら、いまの会社勤めより、うちのモリカワミュージックっていう芸能事務所に、
所属してさあ。
女優やタレントっていう仕事をしてるのほうが、きっと楽しいかもね。
貴奈なら、そんな芸能界って向いているんじゃないのかな?≫というメールがあった。

 貴奈は、≪そうね!しんちゃんと同じ下北沢に住めるんだもの、
わたし、女優に挑戦してみようかしら!≫と、歓(よろこ)んで、メールで信也に返事をした。

 そんな調子で、またたく間に、東京にやってきて、現在モリカワミュージックに所属して、
現在、貴奈は、約3年という短い期間で、売れっ子で注目の人気女優になっている。

 貴奈は、店内で待っていた。ふたりは、田舎にいるような個室席でくつろいだ。
アイスティーやスープカレーなどを注文した。

 「しんちゃん、すばらしい曲をつけてくれて、ほんと、ありがとう!
しんちゃんって、やっぱり、すごい才能があるよね。
わたし、しんちゃんのことが、好きになるばかりだわ!」

「あっははは。貴奈ちゃんの詩がいいんだよ。まさか、ビートルズの名曲の
≪All You Need Is Love≫(愛こそはすべて)と、思わず間違えるような、
≪All We Need Is Love≫ (愛こそはすべて)なんていうタイトルの歌を作るとはね!
驚いたよ。あっははは。 
おれもね、こんな世の中を、平和に良くしていくためには、≪愛≫が1番に大切なんだろうなって、
つくづく感じていたところなんだよ。
ビートルズのは、≪All You Need Is Love≫は、1967年のシングル曲で、
ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では、
362位にランクされているんだよね。
あの当時は、世界もまだのんきなムードだったのかな、
テロや格差とかの貧困や自然破壊とかの問題も、
世の中のシステムそのものが、どこか人間的じゃないとか、
疑問視されたりね、そんな現代的な問題の山積も、
あの当時は今ほどじゃなかったから、のんきだったんだよね、きっと」

「そうなのね。ビートルズのころは、いまよりも、平穏だったのかしらね。しんちゃん」

「貴奈ちゃんや今を生きる若い人たちって、問題が山積で、かわいそうだと思うよ、おれは。
ビートルズのあの≪All You Need Is Love≫(愛こそはすべて)の詞の内容は、
≪あなたたちには愛こそが必要≫だって、感じだと思うけど、
いまはそんなのんきな雰囲気じゃないよね。
今度の貴奈ちゃんのデヴューーシングルの、
≪All We Need Is Love≫ (愛こそはすべて)のように、
≪すべてのわたしたちには、愛こそが必要≫なんだよね。
まあ、むずかしいこと言ってごめん。
貴奈ちゃんは、すばらしい詞を作ったよ。センスがあるよ。
おれの曲作りは、なぜか、ビートルズの歌が、頭の中にあって、
ビートルズに似ないようにと、苦労したけどね。あっははは」

「しんちゃんの曲は、ほんと、イカしていて、最高よね。
歌っていても、すごく感情を入れやすかったの。ありがとう、しんちゃん!
あの歌詞は、しんちゃんのことを思いながら、作っただけなのよ。
わたし、しんちゃんのことが、いつまでも大好きなのよ。あっははは」

 貴奈は、そう言って頬を紅(あか)くする。

「ありがとう。おれだって、貴奈ちゃんのことは、大々、大好きだよ。
まあ、この歌で、貴奈ちゃん、歌手デヴューするんだけど、
デビューシングルとして、オリコンチャートでも、かなりいいとこまで、
ランキングでいけると思うよ」

「しんちゃんの作ってくれた曲、大人のバラードっぽくって、かっこいいから、好き!
きっと、みんなも気に入ってくれるわ!」

 貴奈は、瞳を輝かせて信也を見る。

「いつのまにか、貴奈ちゃん、歌もうまくなったよね」

「あら、まあ、しんちゃん、ありがと!うっふふ」

「貴奈ちゃんの歌手デヴューが楽しみだね!あっははは」

 ふたりは明るい声で笑った。

ーーー

All We Need Is Love (愛こそは すべて)

作詞 沢口貴奈
作曲 川口信也


一日の 終わりを 告げる 大空の 夕焼け
真っ赤で きれいな 夕陽が 静かに 沈んでいく・・・
やさしい風も吹くわ あなたと わたしの 住む街
  
わかっていたの わたし 始(はじ)めから
わたしには わたしの 行く道があるんだもの
あなたには あなたの 行く道があるんだもの・・・

わたしたちは まだまだ 若い 青春の真(ま)ん中だもの!
幸せの 人生のゴールを目指すなんて 早すぎるんだし・・・
それぞれの 道を歩くことは ごく自然なことだから・・・

わかっていたの わたし 始(はじ)めから
わたしの愛は 本物だけど きっと叶(かな)わないだろうって・・・
でもね 止(と)められなかったの この気持ちは・・・

いまも この出会いが 運命的 神秘的って 信じているわ
愛されることの 大切さ 愛することの 大切さ
あなたと 出会って 生まれて 初めて 知ったんだもの!

わかっていたの わたし 始(はじ)めから
でもね あなたを いつも いつまでも 愛しているわ
あなたへの愛は 永遠なのよ!愛こそが すべてだもの!

All We Need Is Love (わたしたちに必要な すべては愛)
All We Need Is Love (愛こそは すべて)

≪つづく≫ --- 127章 おわり ---

128章  I LIKE ROLLING STONES (わたしは転がる石が好き)

128章  I LIKE ROLLING STONES (わたしは転(ころ)がる石が好き)

 7月15日の日曜日。真夏のような、晴れわたる上空で、気温も34度ほどだ。

 午後1時を過ぎたころ。
川口信也は、下北沢駅南口から歩いて3分、
世界最高レベルの、レコーディング・スタジオ・レオのミーティング・ロビーのドアを開けた。

 信也の彼女の大沢詩織たちのロックバンド、グレイス・ガールズが、
3枚目となるサード・アルバムのレコーディングをしているところだ。

 グレイス・ガールズは、ファンにも恵まれて、人気もあった。
しかし、メンバー全員、他に主となる仕事があるという、
音楽活動であるので、アルバム作りのペースも、ゆっくりとしたペースだ。

 2013年10月13日に、デヴュー・アルバム、 『Runaway girl(逃亡する少女)』
セカンド・アルバムは、2015年5月の『恋のシチュエーション(Situation of love)』
そして、サード・アルバムは、 『 I like rolling stones (わたしは転がる石が好き)』だ。

「しんちゃーん、こんにちは!」

 そう言いながら、テーブルでくつろいでいたメンバーの、
清原美樹や大沢詩織、菊山香織、平沢奈美、水島麻衣の5人は、
みんな笑顔で立ち上がって、信也を迎(むか)えた。

「みなさん、こんにちは。レコーディングも順調に、最後の1曲の、
『 I like rolling stones 』となったと聞いて、
おれも聴きに来ましたよ。みなさんのレコーディングの現場に立ち会えて、
とても光栄に思っています」

「今回、わたしたちの、サードアルバムが完成できますのも、
しんちゃんたちのご協力があったからだと思います。
なんといっても、アルバムのタイトルにもさせていただいた、
『 I like rolling stones 』は、しんちゃんが作(つく)ってくださったのですから!
ありがとうございます!しんちゃん!」

 清原美樹は、笑顔でそう言って、頭を下(さ)げた。

 ほかのメンバーのみんなも、「ありがとうございます!しんちゃん!」
と満面の笑顔で、そう言って、頭を下げた。

・・・美樹ちゃんやほかのみんなもだけど、このバンドって、
どうしてこうも、美しい顔かたちとスタイルの女性ばかりが揃(そろ)ったんだろうか?
グレイスっていう言葉が意味している、
上品とか、優美とか、神の恵みとかが、ぴったりくる女性たちだよな。
ビジネス的には、もっともっと売り出せば、いくらでも稼げるんだろうけど、
それはしないという、経営方針の、
われらの、モリカワとモリカワミュージックか、それでいいんだろうけど・・・

 午後3時を過ぎたころ、サード・アルバムのタイトル曲の、
『 I like rolling stones (わたしは転がる石が好き)』の、
レコーディングは始まる。

 イントロは、ギターーから始まる。信也がギターで作った曲だ。
この曲への思いを、リードギター担当の水島麻衣に、
冗談交じりに、ちょっとだけアドバイスした、信也だ。

 もちろん、信也は、この歌を、ボブ・ディランの最大のヒットシングルの、
『Like a Rolling Stone(転がる石のように)』を、意識していていた。

 それだけ、いまの時代と、真正面から向き合うような思いで作った、ロックバラードだった。

 信也は、レコーディングのための司令室の、コントロール・ルームで、
グレイスガールズの演奏を見守った。

 ヴォーカルの詩織は、リズムギターもやりながら、
この歌を、しっかりと自分の歌にしていた。

「こんな感じかな」とか言って、これまでに3回、
詩織の前で、ギターの弾き語りで歌った信也だ。

 演奏は、優秀なレコーディング・エンジニアや、
5人の彼女たちの、最良のコンディションで、
最高にすばらしく、かっこいい、ロックナンバーに仕上がった。

 演奏を終了した直後は、熱気と歓声に、スタジオは包まれた。

---

I LIKE ROLLING STONES
(わたしは転がる石が好き)

作詞&作曲 川口信也

楽しかった デートの 帰り道 
ふと 足もとの 小石を 転(ころ)がす わたし
なぜって? 特別な 意味なんて なにもない

わたし 子どものころから 石ころが好きだった
晴れた日 河原に 転がる たくさんの 石ころたち
石ころって 自由で 気ままで 平穏で 楽しそう

だから わたしは 転がる 石が好き
So I like rolling stones

石ころや 自然の世界は 教えてくれる 
人が作る 観念や思想に  絶対なものなど 無(な)いって
そんなものに 縛(しば)られないで 自由に生きようって

つらいこと 苦しいことが あっても
そんな 悩みは 人の心が 作り出したもの
心の幻(まぼろし) 心の囚(とら)われ すべては 空(くう)だから

だから わたしは 転がる 石が好き
So I like rolling stones

いろいろな 言葉や 論理や 思想って
ひとの 幸せのための ツール(道具)の はず なのに
ひとの 不幸や 戦争を するために 使われている

あなたと わたしが 交(か)わす 愛の言葉 愛のすべても
その愛に とらわれたとき 苦しみのもとにも きっと なる
いつも この愛や 人生が 神秘で あることを 大切に しましょう

だから わたしは 転がる 石が好き
So I like rolling stones

わたしたちの からだが 自然から できているように
わたしたちの 魂(たましい)は 宇宙から できているのね 
なにものにも とらわれない 心は 幸せの 最高の 境地

みんなで 果てしない 夢や 希望を 追いかけよう!
美しく咲く花 やさしく吹く風 すべての自然の恵みは
いつも やさしく そんなふうなこと 語りかけている

だから わたしは 転がる 石が好き
So I like rolling stones

ーーー
☆参考・文献・資料☆

1.寂聴訳 絵解き般若心経  瀬戸内寂聴  朝日出版社
2.『般若心経』 2013年1月 版 (100分 de 名著)  佐々木閑(ささきしずか)

≪つづく≫ --- 128章 おわり ---

129章 下北沢・ビアフェスティバル・2017

129章 下北沢・ビアフェスティバル・2017

 7月22日、土曜日、午後3時。よく晴れて、気温は33度ほどの夏日だ。

 下北沢駅北口では、入場無料の 『下北沢・ビアフェスティバル・2017』が、
土日の2日間、開催されている。

 ビールが50種類、ビールと相性も抜群のおつまみ、フードもそろった、極上の2日間だ。
特設ステージではスペシャルなライブ演奏も楽しめた。
南米ブラジルのサンバやボサノヴァに乗って、みんなは踊り始める。そんな大盛況だ。

「幸夫(ゆきお)ちゃんと、一緒に一杯やるのも、ひさびさですよね。
きょうはビールとサンバで、最高っすね!」

 川口信也は佐野幸夫に笑顔で言う。

「うまい!しんちゃんと飲めると、またビールが格別のうまさですよ。あっははは」

 そう言って笑って、幸夫は白い泡のジョッキのビールを飲んだ。

佐野幸夫は、モリカワが経営する下北沢の『ライブ・レストラン・ビート』の店長をしている。
1982年9月16日生まれ、34歳。長身は179センチ。

 このビアフェスティバルは、地域活性化も目的で、外食産業のモリカワも協賛している。
モリカワの社長やたくさんの社員たちの姿も見られる。

 ビールもおつまみやフードも、それぞれのブースで直接現金で購入するシステムだ。
信也たちが楽しんでいる、飲食スペースには、テーブルやベンチが多数設置してある。

 「しんちゃんって、小説も書くんですね!すごい才能だと思います!」

 幸夫の彼女の真野美果(まのみか)がそう言って、
ジョッキを両手でさわりながら、信也に微笑んだ。

 美果は、1988年10月10日生まれ、28歳。身長、163センチ。
涼し気な目元が魅力的な清楚な顔立ちで、つややかな髪が肩にかかるほどある。

「あっははは。ありがとうございます、美果ちゃん。
でも、おれの場合は、才能っていうよりか、必要に迫(せま)られて、
すべてのことは、やっているんですよ。その結果、能力が身につくっていうとこですよ。
あっははは。
小説の場合は、おれって、小学校のころは、女の子との付き合い方って、
わからなくって、片思いばかりだったんですよ。あっははは。
それが、子どもながらに、かなりつらい経験なんですよね。あっははは。
それで、誰に相談すればいいってものでもないので、
市立図書館とかに行って、やっと見つけたのが、
子ども版の絵付きでの『若きウェルテルの悩み』だったんですよ。
あっははは。
あれって、ゲーテの書簡体小説じゃないですか。
青年ウェルテルの、親友の婚約者ロッテに対するかなわぬ恋の悩みと、
その自殺を描くいているんですよね。いまでも恋愛小説の古典とも言われてますけど。
おれは、そこで、よし、おれも、ゲーテと同じくらいに恋愛で辛(つら)いんだから、
こんな小説くらいなら、おれだって書けるさ!って、
何をカン違いしたのか、小説を書く決心をしたんですよ。
そして、3回ほど書き直して書きあげたのが、
400字原稿用紙約100枚の『雲は遠くて』っていう小説だったんですよ」

「そして、しんちゃん、その小説を、中島みゆきさんに贈ったのよね。
中1の3学期のときに、ニッポン放送気付けにして、中島みゆきさん宛あてに。
その短編小説って、どんな物語だったのかしら?って、つい想像しちゃうの。
でも、しんちゃん、わたしにもその小説を読ませてくれないのよ」

 信也の彼女の大沢詩織は、ちょっと不満げに頬をふくらませる。

「あ、それは、詩織ちゃん、ごめん、ごめん。時期が来たら、
その小説はネットで公開するから、それまで待ってね。あっははは」

「しんちゃん、実は、おれも、ゲーテは大好きで尊敬しているんですよ。
あの人の有名な言葉に、
『女性というものは銀の皿(さら)だよ。そこへ、われわれ男性が、
金の林檎(りんご)をのせるのさ。』
とか、
『恋愛と知性とは関係ない。私たちが若い女性を愛するのは、
知性のためではなく、美しさ、若々しさ、いじわるさ、人懐(ひとなつ)っこさ、
個性、欠点、気まぐれ、その他一切のあらわしようもないもののためだ。
彼女の知性を愛するのではない。』
とか、
ありますよね。女性のことや人生をよく理解している人の言葉だって、
おれは感心してしまうんですよ。ゲーテは人生の達人ですよね。あっははは」

 そいうって、いつも陽気な幸夫は、上機嫌に笑った。

「それって、ゲーテの集大成の『ファウスト』のラストに出てくる言葉と、
リンクというか共鳴する美しい言葉ですよね。
『永遠にして、女性的なるもの』と、ゲーテはファウストのラストで言っていますけど。
『永遠』を神秘的なもの、『女性的なるもの』を愛と考えて、
つまり、『永遠にして、女性的なるもの』とは、
女性のかたちをとった理想を意味するのであって、
『永遠の女性が、われらを、より高いところへ導(みちびき)きゆく』という意味の言葉は、
人類の希望を語って、示唆しているように、おれも思うんですよ。
男は、女性にはかなわないってとこですかね!
男たちが主導の世の中は、いつまでも、こんな困(こま)った状態ですからね。
幸夫ちゃん。あっははは」

「そうだよね。女性には、男はかないませんよ、しんちゃん。あっははは」

「ゲーテさんって、18世紀に生きた人なんでしょう。
そのころの人が、そんなに女性を尊重してくれているって、すごいことよね!」

 詩織がそう言った。

「きっと、先見の目のある偉大な人なのよね!詩織ちゃん」と美果も言った。

 幸夫と信也と詩織と美果の4人は明るく笑った。

☆参考・文献・資料☆

1.ゲーテに学ぶ幸福術 木原武一 新潮選書
2.ゲーテに学ぶ賢者の知恵 適菜 収(てきなおさむ) 大和書房
3.ゲーテとの対話(中)  エッカーマン 著 山下肇 訳 岩波文庫

≪つづく≫ --- 129章 おわり ---

130章 日本人やゴッホの自然観、ゲーテの語る自由

130章 日本人やゴッホの自然観、ゲーテの語る自由

 8月19日の人気の『多摩川花火大会』は、
雷雨など、大荒れの悪天候のため、中止となった。その順延もない。

 花火を楽しみにしていた信也たちは、気分を変えて、
≪チーズタッカルビ≫を食べに行くことにした。
渋谷駅から山手線に乗って、傘も持って、韓流の街といわれる新大久保に向かった。

 そのメンバーは、次の12人だった。

 川口信也、1990年2月23日生まれ、27歳。身長175センチ。
 信也の彼女の大沢詩織(しおり)、1994年6月3日生まれ、23歳。身長163センチ。
 信也の飲み友だちの新井竜太郎、1982年11月5日生まれ、34歳。身長178センチ。
 竜太郎の彼女の野中奈緒美、1993年3月3日生まれ、24歳。身長165センチ。
 森川純、1989年4月3日生まれ、28歳。身長175センチ。
 純の彼女の菊山香織、1993年7月26日生まれ、24歳。身長163センチ。
 信也の妹の利奈(りな)、1997年3月21日生まれ、20歳。身長166センチ。
 利奈の彼氏の菊田晴樹、1997年3月30日生まれ、20歳。身長177センチ。
 信也の妹の美結(みゆ)、1993年4月16日生まれ、24歳。身長171センチ。
 美結の彼氏の沢口涼太、1992年10月8日生まれ、24歳。身長184センチ。
 岡昇(のぼる)、1994年12月5日生まれ、22歳。身長173センチ。
 岡の彼女の南野美菜(みな)、1992年4月4日生まれ、23歳。身長170センチ。

 チーズタッカルビは、韓流の街といわれる東京・新大久保が発祥で、
日本のオリジナルといわれる。
韓国料理の定番のタッカルビに、溶かしたトロトロのチーズと絡(から)めた料理だ。

 タッカルビは、鶏(とり)肉や野菜や、棒状の餅(もち)をトッポギを、
コチュジャンや砂糖を使って、鉄板で甘辛(あまから)く炒(いた)めて作る。
タッカルビの≪タッ≫は、鶏肉のことだ。

 予約していた、市場タッカルビ(シジャンタッカルビ)は、
JRの新大久保駅から歩いて4分ほど、祥栄ビルの1階にある。
雨のぱらつく、日暮れの6時を過ぎたころ、みんなは店内に入っていった。

「きょうの花火が中止とは、ついてないですよね。
今夜は、楽しくやりましょう」

 この店の予約もした純が、テーブルについたみんなに笑顔でそう言った。

「純さん、この店は、おれも来てみたかったんですよ。楽しくやりましょう!」

 竜太郎がそう言って笑った。

「そうそう、楽しくね。あっははは」と信也も笑った。

 ほかのみんなも、「確かに!」とか「楽しみましょう!」とか言って、笑った。

「チーズタッカルビって、おれも初めてなんだけど、生ビールに合いそうだよね」

 信也がそう言った。

「日本って、花火を打ち上げて、夏の夜空を楽しんだりして、
平和なイベントを大切にする国民よね」

 そう言って菊山香織は、肉と卵がとろけるようにおいしい、和牛ユッケを楽しむ。

「日本って、太古の昔から、大自然と友だちのようにして、
生きてきたらしいわよ、香織ちゃん」

 美結(みゆ)がそう言って微笑(ほほえ)んだ。

「大自然と友だちかぁ。そんな感じかなぁ、確かに。
四季の変化やその美しさとか、世界でも数少ないほどの、
ゆたかな自然の環境なんだろうね、日本は!」

 美結の彼氏の沢口涼太がそう言う。

「そんな日本に生まれてこれて、おれも幸せですよ!あっははは」

 岡昇がそう言って笑う。

「確かに、ホントよね。気候や降水量とかの水にも恵まれてるから、
植物も豊富だったりね。わたしも、日本人でよかったと思う!」

 そう言って、岡の彼女の南野美菜(みな)が微笑む。

「日本人って、仏教なんかが入ってくる前の、大昔から、
自然の豊(ゆた)かな恵(めぐ)みに感謝したり、
崇拝(すうはい)したりしていたんだよね。
また、その反対に、地震や津波や雷や台風なんかがあったりで、
人知の及ばない、不可知な存在として、自然を畏怖(いふ)したりもしていたし。
そんな大自然を『カミ』として、祀(まつ)ってきたんですよね。
それが、いまも、神社でやっている信仰の神道(しんとう)ですよ。
その神にしても、地域によって、いろいろと違いがあったりしてね。
山の神や川の神とか、いろいろあって、
八百万(やおろず)的に、増えちゃうんだよね」

 生ビールをおいしそうに飲みながら、竜太郎が、
時々みんなを見ながら、そんなことをゆっくりと話した。

「竜さんって、やっぱり、副社長だから、お話もすばらしいですよ!
でも、八百万(やおろず)的って、どういう意味なんですか?」

 信也の妹の利奈(りな)が、無邪気になんのこだわりもなく、竜太郎にそう言う。

 「あっははは、利奈ちゃん。さすが勉強熱心ですね。
八百万的っていうのは、数が非常に多いってことですよ。
ほら、あの宮崎駿(はやお)のアニメの『千(せん)と千尋(ちひろ)の神隠し』は、
八百万の神々が出てくる、とても楽しい映画だったよね。あっははは」

 みんなも、飲み物や料理を楽しみながら、明るく笑い合った。

「神道(しんとう)って、宗教として認識しいる人って、少ないんじゃないですかね。
神社に、神を祀(まつ)る、神棚(かみだな)や祭祀(さいし)はあるけれど、
守るべき戒律も、明文化されている教義もないし。教祖も創立者もいないし。
ほかの宗教の一神教とかと比べると、宗教としての要素が希薄ですよね。竜さん」

 純は、そう言って、竜太郎を見た。

「そうですよね。神道は、それだから、何々教(きょう)ではなくて、道(みち)なんでしょうね。
道とは、つまりは、人の歩むべき道や姿とかで、
人の在り方を表示(ひょうじ)しているのでしょうね。純ちゃん」

「神道って、おおらかで、いいですよね。自然の中の自然の営みのすべてには、
神が宿るって感じなんでしょうね。だから、教義も戒律も必要ないんだだろうし」

 そう言って、利奈の彼氏の菊田晴樹は、竜太郎に微笑む。

「どこから、どこまでが、神道の『枠(わく)』だというものがないのよね。竜さん。
それだから、なんにでも、対応できるし、仏教や儒教でも道教でもキリスト教でも、
どんな神様にしても、神道の立場からすれば、
畏(おそ)れ多い外国の神様という感じで、受け入れられるのよね。竜さん」

 奈緒美が、彼氏の竜太郎にそう言いながら微笑む。

「そう言えば、わたし、ゴッホの絵が好きなんですけど・・・。
『星月夜』とか、『夜のカフェ・テラス』とかは特に好きですけど。
そのゴッホも感性が鋭い人だったから、日本の浮世絵に感激したそうです。
そんな絵からも、日本人の生活感や自然への考え方を読み取ったらしくって、
日本人のそんな自然観を見習わねければいけないって、
弟のテオに手紙に書いているのよね。
やっぱり、ゴッホって、偉大な画家ですよね」

 信也の彼女の詩織がそう言って、みんなに微笑んだ。

「おれも、ゴッホは好きだなぁ。絵や音楽とかの芸術でも、宗教にしたって、
本来は、人を自由にしてくれるもので、元気にしてくれるもので、あるはずだよね。
本物の芸術や宗教ならばね。
おれの好きなゲーテも、自由については、いいことを言っているんですよ。
『最高の自由とは何か?最高の自由とは、好き勝手やわがまま放題のことではない。
最高の自由とは、人と人のつながりを意識しながら、
自分を高めて、生きていこうとする意志のことである。
最高の自由とは、人々が生きている間だけではなく、
そののちの人々の安全まで考えることで、
ずっと先の人々のことまで考えないのならば、虫けらに等しい。』
とか言っているんです。
要するに、人をおもう、愛や想像力のない人には、
本当の自由はありないってことでしょうかね」

 信也はそう言って、生ビールをうまそうに飲んだ。

「おれも、ゲーテもゴッホは好きだな!」とか
「わたしもゲーテやゴッホ大好き!」とか
「ゴッホも、ゲーテもいいよね!」とか
「確かに、ゴッホやゲーテはすてき!」
とか、みんなは言った。

そして、楽しく飲んだり食事もして、時間は過ぎていった。

☆参考・文献・資料☆

1.ゲーテの言葉  一校舎比較文化研究会編 ナガオカ文庫
2.一個人 保存版特集 神道入門  KKベストセラーズ

≪つづく≫ --- 130章 おわり --- 

131章 ゆずの『夏色』と『栄光の架橋』を歌う信也 

131章 ゆずの『夏色』と『栄光の架橋』を歌う信也

 9月10日の日曜日の午後3時ころ。

 咲く草花にも秋の気配を感じるのに、気温は29度にもなる猛暑だ。

 川口信也と彼女の詩織、信也の妹の美結と、沢口貴奈と落合裕子、
青木心菜(ここな)と水沢由紀の7人が、
高田充希(みつき)の≪カフェ・ゆず≫に集まっている。

 充希は、沢口貴奈の親友で、この夏に、自分の土地にある家を改装して、
≪カフェ・ゆず≫を開店したばかりだ。

 高田充希は、1993年3月14日生まれ、24歳。身長158センチ。

 店は、下北沢駅の西口から200メートルほど歩いて2分ほどの、
一軒家ダイニングで、クルマは6台も止められる。
店内には、カウンターと4人用の四角いテーブルが6つと、
黒塗りのYAMAHAのアップライトピアノもあって、ミニライブができるステージもあった。
フローリングの木の床(ゆか)も真新しい。

 数日前に、マンガ『クラッシュビート』の実写版の映画化が決定したばかりで、
「充希ちゃんの≪ゆず≫で、みんなで集まってお茶しない?」ということになったのだ。

 マンガ『クラッシュビート』は、青木心菜と水沢由紀がふたりで描(か)いている。
毎週木曜日発売の『ミツバ・コミック』の人気連載マンガだ。

 実写版『クラッシュビート』の制作は、
外食産業大手のエタナールとモリカワが中心となって決まった。
映画『クラッシュビート』製作委員会が創設された。

 その物語の『クラッシュビート』は、連載中のマンガも映画も、
ストーリーや登場人物はほぼ同じで、結末も決まっていない。

 実写版『クラッシュビート』は、英米の人気の映画シリーズの
『ハリー・ポッター』のような、長期間のシリーズ化を計画している。

 物語は、人々の明るい未来を心に描(えが)くことも困難な現代社会が舞台。
そんな絶望的な状況の中で、人間には、≪芸術≫が大切だと考えて、
立ち上がる人々がいた。
芸術を愛する彼らは彼女たちは、
芸術には、人の心に、他者や自然への愛を育てる力があると、
人間らしい生き方を回復させる力があると確信している。
その輪は、たちまち、世界中にひろがる。
芸術を愛する彼らや彼女たちは、人の心と心のつながりをひろげていく。
その行動は、世界中に、愛や思いやりの輪をひろげてゆく。
彼ら彼女たちは、芸術が人の心にあたえる力を、どんな困難があっても信じているのだ。
そんな活動の中心になる人たちが、
ごく普通の人間の、信也やバンドのクラッシュビートやその仲間たちという設定の物語だ。

「しんちゃん、みなさん、クラッシュビートの映画化は、
ほんとうにおめでとうございます!映画の公開が待ち遠しいわ!」

 高田充希(みつき)は、テーブルに紅茶やコーヒーを運びながら、
笑顔でそう言う。

「ありがとう。充希ちゃん。でも、なんかね。あっはは。
おれや、おれらのバンドがモデルのマンガや映画のほうが、人気絶頂なので、
なんか、微妙な心境のおれたちですよ。あっははは」

 信也は、そう言って、とぼけた顔で笑った。

「お兄ちゃんたちのクラッシュビートだって、人気はあると思うわ!
ただ、ちょっと前のようにCDとかは、売れにくくなっているのは確かなんでしょうけど」

 信也の妹の美結はそう言った。

「ほんとにそうよね、美結ちゃん。CDも売れない環境よね。
いまは、無料の音楽聴き放題のアプリとかも、
ネットで探せば、いくらでも見つかるみたいだし」

 落合裕子がそう言って微笑(ほほえ)む。

「充希(みつき)ちゃん、ゆずの『アロハ』は売れてるのよね!わたしも買っちゃったけど。
わたしも、すっかり、ゆずのファンよ。うっふふ」

 充希より1つ半ほど年下の、充希と仲のいい沢口貴奈(きな)がそう言った。

「ゆずの20周年のベストアルバムだからね。おかげさまで、売れたみたいよ。貴奈ちゃん」

 充希は、ゆずが大好きだ。この店の名前もそれで、『ゆず』だ。

「ゆずの『夏色』とか『栄光の架橋』とか、おれも大好きですよ。
『夏色』なんて、少年のころにもどったような気分にさせてくれる歌だよね!あっははは」

 信也はそう言った。 

「しんちゃんって、少年の心を忘れない人だから、
わたしたちも、しんちゃんを主人公にして、マンガを描きたかったのよ。ねえ、由紀ちゃん」

マンガ家の青木心菜(ここな)はそう言って微笑(ほほえ)む。

「そうなんです。しんちゃんって、マンガの主人公にピッタリだと思います。
映画でも、しんちゃんが、ご自分で、しんちゃんの役を演じていただきたかったです!
わたしとしては」 

 心菜とマンガを制作している心菜の親友の、水沢由紀はそう言った。

「おれは、役者なんて無理ですよ。セリフって覚えるの苦手(にがて)だもの。あっははは」

「あの・・・、しんちゃんにも気に入ってもらえるような、
けっこういい音の出る、ギブソンのギターがあるんですけど。
しんちゃんは、ゆずの『夏色』も『栄光の架橋』も、
弾き語りがとても上手だって、貴奈ちゃんから聞いたんですけど。
もし・・・、聴かせていただけたら、すごく、うれしくて、わたし、幸せなんですけれど」

 充希(みつき)がそう言った。充希も椅子(いす)に座(すわ)って、
みんなとの会話を楽しんでいる。

「しんちゃんのゆずの歌、わたしも聴きたいです!」と、女優や歌手をしている貴奈が言った。

「わかりました。じゃあ、『夏色』と『栄光の架橋』を歌わせてもらいますよ。
おれも好きだから、たまに歌ってますから。あっははは」

 ステージに上がった信也は、拍手のなか、ギターの弦をちょっと調節して、
カポタストと3フレットにつけた。

 イントロのハンマリングも見事に決めると、16ビートの『夏色』から歌った。
 そして2曲目は、『栄光の架橋』を、信也は、胸に熱いものを感じながら、歌った。
 
≪つづく≫ --- 131章 おわり ---

132章 りんりんと 歌っているよな 虫の声

132章 りんりんと 歌っているよな 虫の声

 10月8日の日曜日の午後。秋らしい穏やかな風も吹く、青空だ。

 信也と竜太郎と、少年と少女の4人が、≪カフェ・ゆず≫のテーブル席に来ている。

 ≪カフェ・ゆず≫のオーナーは、24歳の独身の女性、高田充希(たかだみつき)で、
自分の親の土地にある家を改装して、この夏の8月1日に開店したばかりだ。

 充希(みつき)は、その顔かたちも名前も、いま人気の女優で歌手の、
高畑充希(たかはたみつき)にそっくりなので、この下北沢では大変な評判だ。

 高田充希は、1993年3月14日生まれ、24歳。身長158センチ。

 店は、下北沢駅の西口から歩いて2分、
一軒家ダイニングで、駐車場もクルマは6台止められる。
店内は、カウンターと、4人用の四角いテーブルが6つ、
黒塗りのYAMAHAのアップライトピアノ、ミニライブができるステージもある。
茶色のフローリングの木の床(ゆか)も新しい。

 テーブルの、信也と竜太郎の向かい席で、福田希望(ふくだりく)は、
小学5年の11歳。白沢友愛(とあ)は、小学4年の10歳だ。

 上機嫌で笑顔のかわいい、希望(りく)と友愛(とあ)のふたりは、
先日行われた、実写版の映画『クラッシュビート』のオーディション選考で、
希望(りく)は主人公の信也役を、友愛(とあ)は信也の親友の女子生徒役に決まった。

「みなさん、おめでとうございます。
『クラッシュビート』は、わたしも楽しみにしているんです。
物語の設定が、大人になっても、少年や少女のころの感覚を大切にして、
大人になっても、牧歌的な、自然の世界や人々との、心の交流を大切にしていこうっていう、
そんなパラダイムシフトで、世の中を良くしていく人たちの物語ですよね。
そんなストーリーを思うだけで、ワクワクしてきちゃいますよ。
わたしの大好きな『ゆず』の歌も、そんな少年少女の心や世界を大切にしているところに、
すごく共感するんです」

高田充希(たかだみつき)は、コーヒーやジュースを運びながら、笑顔でそう言った。

「充希(みつき)ちゃん、いつも、ぼくたちの応援をありがとうございます。
ぼくのヘタな俳句を、飾ってくれたんですね。あんなのでいいんですか?あっははは」

 信也はそういって照れ笑いをする。

 店の壁には、信也が作ったばかりの、鈴虫の絵がついている俳句が飾(かざ)ってある。

「≪りんりんと 歌っているよな 虫の声≫
味があって、奥が深くって、すてきな俳句だと思いますよ。
まるで、松尾芭蕉の世界のようですよ、しんちゃん、うっふふ」

「それは、ちょっと、ほめ過ぎですよ。充希(みつき)ちゃん。
鈴虫の声が、歌っているようで、その自然な歌唱法は、
歌いかたの手本のようだと思ったんです。あっははは。
まあ、こんな、どこかおかしな、おれがモデルの映画が作られることになるとは、
いまだに不思議なんだけれど。あっははは。
だけど、希望(りく)くんも、友愛(とあ)ちゃんも、『クラッシュビート』のオーディションの合格、
本当に、おめでとうございます。おれも最高にうれしいですよ、あっははは」

 信也がそういって笑った。

「わたしたちも、最高にうれしくって、感動しっぱなしです」

 小学4年なのに、整った顔立ちで、女性の色気も感じさせる白沢友愛(とあ)は、
満面の笑みでそう言った。

「ぼくは、この映画の信也さんがモデルの役をいただけて、
ぼくの人生が決定的になったような気もしているんです。
みんなからいろいろ祝福されたりして。まだ映画の撮影も始まっていないですけど。
なんか毎日、気持が舞い上がってます。あっははは」

 福田希望(りく)は、そう言って、天真爛漫な笑顔になった。

「希望(りく)くんは、ぼくの小学校のころに、そっくりな気がするよ。
ぼくは、好きなことだけに、とても夢中になって、
ほかのことは、のんびりのマイペースなタイプでね」

「へーえ。やっぱり似ているんですね。ぼくもそんなタイプです」

「希望(りく)くんも、友愛(とあ)ちゃんも、ホントおめでとうございます。
この映画は、10年くらいの期間で完結する予定なんですよ。
その意味では、あの『ハリー・ポッター』のような映画になるって、
考えてもらえればいいと思います。
まあ、物語といいますか、ストーリーにともなって、
登場人物たちも、きちんと毎年、年齢(とし)をとっていく、
そんなシリーズにしたいと思っているんですよ。
ですから、希望(りく)くんも、友愛(とあ)ちゃんも、
学業との両立も大変だと思いますが、
その点も、ぼくたちが全面協力してゆきますので、
お互いに無理をしないで、楽しくやってゆきましょう
そして、このシリーズを成功させましょう!」

 竜太郎がそう言って、みんなに微笑んだ。

≪つづく≫ --- 132章 おわり ---

133章  乃木坂小学校・合唱団の子どもたち

133章 乃木坂(のぎざか)小学校・合唱団の子どもたち
 
 11月5日の日曜日の午後の2時。

 朝からは太陽のまぶしい青空だ。気温は14度と、肌寒い。

 私立(わたくしりつ)・乃木坂(のぎざか)小学校・合唱団の子どもたちが、
≪カフェ・ゆず≫に集まっている。
店ののオーナーは、24歳の独身の女性、高田充希(みつき)だ。
充希(みつき)は、名前も、その顔かたちも、人気の女優・歌手の、
高畑充希(たかはたみつき)にそっくりなので、下北沢では評判だ。

 ≪カフェ・ゆず≫は、下北沢駅西口から200メートル、歩いて2分の、世田谷区北沢2丁目にある。
一軒家ダイニングで、店の入り口には、クルマ6台の駐車場がある。
店内は、16席あるカウンターと4人用の四角いテーブルが6つあって、キャパシティーは40人だ。
黒塗りのYAMAHAのアップライトピアノもあって、ミニライブができるステージもある。
自分の親の土地にある家を改装して、この夏の8月1日に開店したばかりなので、
テーブルも椅子(いす)も、フローリングの木の床(ゆか)も新しい。

 店内は、私立・乃木坂小学校の子どもたちでいっぱいだ。

 私立・乃木坂小学校という小学校は、現実には実在しない。

 つまり、撮影が開始されたばかりの、超大作映画の『クラッシュビート』シリーズの、
第1作に登場する、架空の小学校なのだ。

 撮影所は、この≪カフェ・ゆず≫から、歩いて5分ほどの、世田谷区大原1丁目にある。
撮影所には、乃木坂小学校のセットが建設され完成していた。

 広い敷地の撮影所で、外食産業大手のエタナールとモリカワが、
共同で設立した映画製作会社の『ハイタッチ(high touch)』の所有だ。

「やあ、みんな、おそくなって、ごめんなさい!」

 そう言いながら、すまなそうな笑顔で、
川口信也は、≪カフェ・ゆず≫の扉(とびら)を開けた。

 信也の彼女の大沢詩織も、マンガ家の青木心菜(ここな)と、
親友でマンガ制作のアシスタントの水沢由紀も一緒だ。

 4人は、≪カフェ・ゆず≫の駐車場にとめた、
信也のトヨタのスポーツタイプのハリアーに乗ってきた。

「乃木坂小学校の合唱団のみなさん、こんにちは。
わたしは、『クラッシュビート』の原作者の青木心菜(ここな)です!
みなさんにお会いできる、きょうを楽しみにしていました!」

 心菜が明るいさっぱりとした笑顔でそう言うと、
子どもたちの拍手や歓声でいっぱいになった。

 子どもたちの中に混じって、合唱団のまとめ役で先生役となった沢口貴奈(きな)がいる。
沢口貴奈は、信也と同じ山梨県の育ちで、信也とは10年以上の付き合いだ。

 ハイタッチ撮影所のスタッフの若い男女も、子どもたちの付き添いで店に来ている。
午後4時には、子どもたちを連れて、
親御(おやご)さんたちの待つ撮影所に戻(もど)る予定なのだ。

乃木坂小学校の合唱団の団員数は、30名だ。
3年生は6名、4年生は8名、5年生は7名、6年生は9名。

 『クラッシュビート』のオーディション選考で、
そのモデルが川口信也の、主人公役の信也の役を射止めた、福田希望(ふくだりく)は、
小学5年の11歳だ。

 映画の中の11歳の信也の、親友の女子生徒役の永愛(えま)の役に決まった、
白沢友愛(とあ)は、小学4年の10歳だ。

 希望(りく)と友愛(とあ)のふたりには、ここに集まる子どもたちの中もで、
格別なオーラのような、スター的な輝きがある。

「しんちゃん、さっそくなんですけど、子どもたちに、歌の歌いかたのコツとかがあったら、
簡単でいいんですけど、教えてあげて欲しいんです」

 みんなは好きなのドリンクとかを飲みながら、歓談して、落ち着いたころに、
合唱団の先生役の沢口貴奈(きな)は、テーブル席の隣の信也にそう言った。

「まだ、子どもたちは、変声期とかのからだの成長が激しい、
真っただ中かもしれないからね。無理をして、声を出したりしたら、ぼくも心配なんですよ。
まあ、そう思って、子どもたちに、歌いかたの教本を持ってきました。
今持ってきますね!」

 そう言うと信也は、クルマから、福島英(ふくしまえい)が著者の、
『ヴォーカルの基礎』という本を持ってくる。

 そして、子どもたちに全員に、プレゼントとして、その本を配った。
持ってきていた。

 福島英先生は、東京都渋谷区千駄ヶ谷で、現在も、
ボイストレーニングのブレスヴォイストレーニング研究所を開設している。

 信也は、ユーモアをまじえて、子どもたちを笑わせながら、歌いかたを話した。

 お腹(なか)から声を出す感じで、大ざっぱにとらえて、
腰回(こしまわ)りが膨(ふく)らむようなイメージの、全身呼吸のイメージをしながら、
腹式呼吸で歌うとよいこと。

 腰は、体をささえて、立つ、歩くという支点の要(かなめ)であること。
歌うときも、腰は軸(じく)や芯(しん)とイメージするとよいこと。
そんな深いポジションをイメージするとよいこと。
リズムも、腰で刻むとよいこと。

 自分で吸うのでなく、空気が入ってくるようにするような、
鼻呼吸と口呼吸を分けない、そんな全身呼吸のイメージの自然体の呼吸がいいこと。

 歌う際には、首や肩の力みに注意して、
常に上半身の力は抜くこと。猫背もよくないこと。

 高い音域になるほどに、つい上がってしまう声帯やのどでは、
お腹から声は出ないのでよくないこと。
高い音ほど、のどを下げておくこと、
声帯も胸のへんにあるとイメージしておくとよいこと。

 歌うときのポジションや芯(しん)は、常に、胸や腰のあたりの、
低い、深い位置にキープすること。そんなイメージが大切だということ。
高い音というものは、お腹の力をうまく使って出すものだということ。

 そして、のどや声帯にけっして負担がかからないようにすること。
いつも気持ち良い範囲で歌うこと。

 ギターの弦も無理に引っ張ると切れてしまうように、
のどや声帯も、無理は禁物(きんもつ)だということ。

 ヴォーカリストにとっては体は楽器だということ。
声帯で生じた声を、体に自然な感じで共鳴させて、美しい音色を得ることなど。

 日々の練習が大切だということ。

そんなことを、信也は子どもたちに、ユーモアをまじえて楽しく笑わせながら、話した。

 日も暮れる午後の5時、子どもたちと信也たちの、楽しいひとときが終わる。
近い日に、必ず、「またこの店で会おう」と、再会を約束し合った。

 詩織と二人だけの、家路へ向かうクルマの中で、信也は、ふと、こんなことを話した。

「乃木坂小学校って、かわいくって、いい名前の小学校名だよね、詩織ちゃん。
よく思いついたよね、心菜(ここな)ちゃんと、由紀ちゃんのふたりで。
現実にありそうな小学校名だけど、不思議と無いんだよね。あっはは」

「そうよね。かわいい名前だわ。心菜ちゃんと、由紀ちゃんって、『乃木坂46』が大好きで、
それで思いついたって言ってたわ。うふふ」

「乃木坂って、東京の赤坂にある、ごく普通の坂なんだけどね。
なぜか、おしゃれな感じの、かわいい名前だよね。あははは」

 二人を乗せた、トヨタのハリアーは、イルミネーションにきらめく夜の街を走り抜ける。

☆参考・文献・資料☆

『ヴォーカルの基礎』  著者 福島英(ふくしまえい) (株)リットー・ミュージック

≪つづく≫ --- 133章 おわり ---

134章 信也と詩織のクリスマス・イヴ

134章 信也と詩織のクリスマス・イヴ

 12月24日、日曜のクリスマス・イブの夜。

 信也と詩織は、二人とも、暖(あたた)かなコート姿で、
港区北青山三丁目、東京地下鉄(東京メトロ)の、
表参道駅(おもてさんどうえき)で下車して、表参道の舗道(ほどう)を歩いている。

 片道2車線、車(くるま)や人々が行き交う、表参道の、
1.1km全域の街路樹には、
2017年の今年、7年ぶりに、イルミネーションが点灯している。

 欅並木(けやきなみき)150本を、消費電力の少ないLED90万球が、
温(あたた)かみのあるジャパンゴールド色に彩(いろど)っている。

 今年は表参道が整備されて90年になるので、LED90万球が装着された。

「わたしが憧れているのは、ずーっと、マライア・キャリー、一筋(ひとすじ)なのよ。

「マライアの歌はやっぱり、最高だと思うよ、詩織ちゃん。
おれは、そんな詩織ちゃんが、やっぱり、大好きだなぁ。」

「ありがとう、しんちゃん。じゃあ、しんちゃんの好きなヴォーカリストは誰になるのかな?」

「おれって、いろんなヴォーカリストを、
いいなって思うからね。特定できないんだよね。欲ばりなのかもね。あっははは。
でも、そうだね。やっぱり、子どものころに強烈な影響を受けたっていえば、
ビートルズのジョン・レノンとかポールマッカートニーとか、
レッドツェッペリンのロバート・プラントとかかな。あっははは」

「やっぱりね、でも、ロバート・プラントさんも、のどを痛めたっていうから、
しんちゃんも気をつけないとね!」

「ありがとう。詩織ちゃんもね。歌っていると、つい精一杯に叫んだりして、
シャウトしたくなるんだよね。だから、お互いに、のどには気をつけようね!」

「うん、そうよね、しんちゃん。しんちゃんがお勧めの、福島英(ふくしまえい)さんの、
ヴォーカルトレーニング方法は、のどにもやさしくって、わたしも、とてもいいと思っているの」

「おれも、ヴォイストレーニングは、独学だけど、福島英さんの本にはお世話になっているのさ。
あっははは」

「しんちゃん、今夜は、アンドレア・モティスさんのクリスマス・ライヴに行けるなんて、
夢のようだわ!嬉(うれ)しくって、昨夜なんかなかなか眠れなかったんだから。あっはは」

「おれも、今夜のイヴは、詩織ちゃんと素敵なジャズを聴きたかったのさ。あっははは」

 これから二人が行く、表参道駅から歩いて8分ほどの、
南青山のジャズ・クラブ『ブルーノート東京』では、
アンドレア・モティスのライヴがあった。

 世界的にも注目されている、彼女はキュートな歌声のジャズシンガーであり、
トランぺッターでもある。

「詩織ちゃん、さあ」

「何?しんちゃん」

「イエスキリストさんって、やっぱり、偉い人で、いいことっているんだよ。
最近、読んだばかりの本に書いてあったんだけどね。
ウェイン・ダイアーって人の書いたアンソロジーなんだけどね。
その本の中で、イエス・キリストは、こう言っているんだ。
『あなたがたは、心を入れ替えて、幼児のごとくありなさい。
さもなければ、天国に入ることはかなわないであろう』ってね。
この言葉で、イエスは、どんなことを言っているのかというとね、詩織ちゃん。

『素直な心を取り戻せるのは、あなたのなかの永遠の子ども』だって、言っているんだってさ。
『この永遠の子どもが、人の外見ばかりを見ることをしないで、
愛をもって、すべてのものを、すべての人を見る、その対応や方法を知っているってこと』なんだよね。

イエスは、なにも、おれたちが、幼稚で、未成熟で、未開で、
無教養であればいいと言っているんじゃなくって、
『人を裁(さば)いたりしないで、愛して、受け入れて、誰にもレッテルをはることもしないで、
人の作った垣根や価値観とかも、少しも気にかけることもしないで、
そんな幼児のような、きれいな心を忘れないようにしよう』と言っているんだよね。

そんな子どもの、純真で神聖な愛や、とらわれない無垢(むく)の心こそが、
天国行きの切符(きっぷ)なんだってさ。

おれ、そのイエスの考え方を知って、かなりイエスという人間が理解できたような気がしてさ。
感動しちゃったんだよね。あっははは。

この話をしたらきっと、詩織ちゃんも、やっぱり、おれと同じように、
感動するだろうなって、思っていたんだよ。あっははは」

「そうなんだ・・・。しんちゃんは、いろんな本読んで、すごいと思うわ。
わたしも、もちろん、いまのキリストさんの考えには、感動しちゃたわ。
そのアンソロジーを書いた、ウェイン・ダイアーさんも、すばらしい人よね」

「この世のなかで、大切なものは、やっぱり『愛』なんだよね」

「うん、『愛』が1番だと思うわ。そう言ってくれる、しんちゃんが、わたしも、大好きなのよ!」

「おれだって、詩織ちゃんが、大好きだよ」

「ありがとう。しんちゃん」

☆参考・文献・資料☆

静かな人ほど成功する  ウェイン・W・ダイアー  幸福の科学出版

≪つづく≫ --- 134章 おわり ---

135章 クラッシュビート・メンバーたちの新年会

135章 クラッシュビート・メンバーたちの新年会

2018年、1月4日、正月の木曜日。
北風が吹いて、気温は10度ほどだが、晴れわたる青空だ。

 渋谷駅から歩いて1分、道玄坂の『天ぷら森川・渋谷北口店』で、
バンド、クラッシュビートのメンバーたち4人だけでの新年会が始まている。

 『天ぷら森川』は、外食産業のモリカワが、
東京や主要都市に40店舗を展開する天ぷら専門チェーン店だ。

 クラッシュビートのメンバー全員は、下北沢にあるモリカワ本社で課長職をしている。

 川口信也(しんや)は、1990年2月23日生まれ、27歳。早瀬田大学の商学部卒業。
クラッシュビートの、ギター、ヴォーカル。

 森川純(じゅん)は、1989年4月3日生まれ、28歳。早瀬田大学の商学部卒業。
父親は、モリカワの社長の森川誠(まこと)。
クラッシュビートのリーダーで、ドラマー、ヴォーカル。

 岡林明(あきら)は、1989年4月4日生まれ、28歳。早瀬田大学の商学部卒業。
クラッシュビートの、リードギター、ヴォーカル。

 高田翔太(しょうた)。1989年12月6日生まれ、28歳。早瀬田大学の商学部卒業。
クラッシュビートのベース、ヴォーカル。

 予約しいておいた座敷カウンター席は、堀こたつ式の、純和風な設(しつら)えの畳(たたみ)で、
ふんわりの座布団で寛(くつろ)ぎながら、
カウンターの中の板前の技(わざ)も堪能(たんのう)できる。

「そういえば、あの紅白の安室奈美恵ちゃんの『HERO』は、よかったよね!」

 上機嫌に、日本酒で酔っている純は、みんなにそう言って笑った。

 『HERO』は、2016年、NHKのリオデジャネイロのオリンピックとパラリンピックのテーマソングで、
神聖なオリンピックにふさわしいスローテンポと、軽快なダンスビートの構成の名曲だ。

「安室ちゃんも、あのラスト紅白の『HERO』で、みんなもヒーローになれるんだから、
夢をあきらめないで、がんばってね、そんなメッセージをこめたかったんだろうね、純ちゃん」

 信也がそう言って、熱燗の徳利の日本酒を、純のグラスに注ぐ。

「近ごろのみんなは、夢や大志を抱くの、忘れているみたいだからね。
そう言う、おれも、おれたちもそうなんだろうけどね。あっははは」

 高田翔太もそう言って、日本酒に酔って顔を赤らめて、明るい声で笑う。

「そう言われてみれば、たぶん、幕末の志士たちのような、
命をかけてるような夢や大志って、持ってないよね、おれたちは。あっははは。
でも、この日本酒ていうのは、日本男子の伝統というか、
歴史というか、心意気というのか、そんなものを感じる酒だよね。やっぱ。あっははは」

 岡林明もそう言うと、笑った。
 
「ネットで見つけた情報だけど。安室ちゃんは、引退したら、好きな音楽が聴ける、
小さなジャズクラブを作ってみたいと言っているらしいよ。
大きな店じゃなくって、親しい友だちが気軽に集まれる音楽サロンのようなものを」

 森川純は、そう言って、ごま油でカラッと揚(あ)がったエビの天ぷらをほおばった。

「ジャズかぁ。ジャズもいいよね、純ちゃん。
おれたちってさ、普通に仕事しながら、音楽もやってるじゃん。
だからかわかんないけど、音楽で食っていくとかまでは、
結局考えないから、好きな音楽だけやっていきたいと思うわけじゃん。
そうすると、おれも、ジャズって、究極の楽しい音楽っていう気がしてくるんだよ」

 そう言って、信也はみんなに微笑(ほほえ)む。

「音楽やって、それを、みんなに聴いてもらったからって、
それで世の中が変わるほど、世の中は甘(あま)くはないもんね」

 森川純はそう言って微笑む。

「まあ、たまにケンカもするけど、気の合うオレたちだもん。
楽しくバンドを続けていこうよ。あっははは」

 高田翔太がそう言って笑った。

「しかし、おれたちのクラッシュビートも、マンガと映画の人気が、
おれたちよりも、人気になっちゃってしまって、
最近は、ライブはやらないんですか?って、問い合わせも頻繁(ひんぱん)でこまるよね」

 森川純はそう言って、頭をかきながら笑う。

「ライブかあ、ああいうのって、準備もいろいろ大変で、やる気起きないよね。あっははは」

 信也がそう言って、みんなの目を見る。

「なんか、おれたちのこのわがままって、ビートルズに似ていない?
レコードは売れまくっていたのに、
コンサート活動の終了させたビートルズみたいな感じだよ。
ネットで調べると、ビートルズの、シングル、アルバム、ビデオの売り上げは、
6億枚とか載っているけどね。
そうすると、おれたちの音楽は、いまのところ、60万枚くらいは売れてるから
ビートルズの1000分の1くらいは、売れているけどね。
わがままさだけは、ビートルズと同じだね。あっははは」

 岡林明が、そう言った。

「いまからでも、ビートルズに追いつけるかもよ。あきらめずにがんばろうよ。あっははは」

 信也がそう言って笑った。みんなで大笑いをした。
 
≪つづく≫ --- 135章 おわり ---

136章 ≪カフェ・ゆず≫で歓談する、G ‐ ガールズ

136章 ≪カフェ・ゆず≫で歓談する、G ‐ ガールズ

 2月3日の土曜日、午後2時を過ぎたころ。

 朝から曇り空。北北東の風で、最高気温は8度と寒い。

 ≪カフェ・ゆず≫に、ロックバンド、グレイス・ガールズ (愛称、G ‐ ガールズ)の
メンバー全員が集まっている。次ぎのアルバム作りのためのミーティンングも兼(か)ねている。

 清原美樹(きよはらみき)は、バンドのリーダーで、キーボード、ヴォーカル。
1992年10月13日生まれ、25歳。
早瀬田(わせだ)大学、教育学部卒業。外食企業・モリカワ本社に勤務。

 大沢詩織(おおさわしおり)は 、ギターとヴォーカル。
1994年6月3日生まれ、23歳。
早瀬田大学、文化構想学部卒業。外食企業・モリカワ本社に勤務。

 菊山香織(きくやまかおり)は、ドラムとヴォーカル。
1993年7月26日生まれ、24歳。
早瀬田大学、商学部、卒業。外食企業・モリカワ本社に勤務。

 水島麻衣(みずしままい)は、ギターと、ヴォーカル。
1993年3月7日生まれ、24歳。
早瀬田大学、商学部卒業。外食企業・モリカワ本社に勤務。

 平沢奈美(ひらさわなみ)は、べースと、ヴォーカル。
1994年10月2日生まれ、23歳。
早瀬田大学、商学部卒業。外食企業・モリカワ本社に勤務。

 ≪カフェ・ゆず≫は、小田急線の下北沢駅の西口から歩いて2分、世田谷区北沢2丁目にある。

 一軒家ダイニングで、店内は、16席のカウンター、4人用の四角いテーブルが6つ、
キャパシティーは40名だ。店の前には6台分の駐車場がある。
 
 ミニライブができるステージもあって、YAMAHAのアップライトピアノが黒く光(ひか)る。

≪カフェ・ゆず≫の女性のオーナーは、高田充希(たかだみつき)で、
人気の女優で歌手でもある、高畑充希(たかはたみつき)に名前も容姿(ようし)も似ていると、
下北沢では評判だ。

 その高田充希(たかだみつき)は、1993年3月14日生まれ、24歳。
≪カフェ・ゆず≫は、親のが所有する土地にあった家を改装して、
去年の2017年の8月1日に開店したばかりだ。

「けどけど、G ‐ ガールズのみなさんって、同じ大学の卒業で、
同じ会社のモリカワさんの、それもこの下北沢の本社に、
みなさん、お勤(つと)めてっていうのは、
すっごく、珍(めずら)しいことよね。うっふふ」

 テーブルに紅茶やコーヒーを運びながら、オーナーの充希(みつき)は、
そう言って、みんなに微笑(ほほえ)んだ。

「そうなんですよ。運命的なくらい、不思議な感じもします。ねえ、みんな。あっはは」

 大沢詩織がそう言って笑う。

「まあ、よく考えてみると、わたしたちがみんなモリカワに就職しているのは、
社長さんのご次男でもある森川純さんのリクルート力(りょく)、
その熱意があったからかしら?」

 清原美樹はそう言って微笑み、温かい紅茶を飲む。

「純さんは、わたしたちのミュージック・ファン・クラブの良き先輩だしね。
お人柄もすばらしいし、男らしいし。
そんな純さんとお付き合いしている香織ちゃんが羨(うらや)ましいくらいだわ」

水島麻衣はそう言って、菊山香織に微笑(ほほえ)む。

「あら、まあ、純さんは、きっと今ごろ、くしゃみしているわね。あっはは。
でも彼って、わたしから見ても、なんていうのかなあ、フェアというか、公平というか、
バランスがいいというのか、信頼できる人なのよね。
お付き合いし始めてから、5年くらい経つんだけれど。
そんな誠実さは、変わらない人だわあ。うふふ」

 菊山香織は少し照れて頬を紅(あか)らめながら、そう話した。

「それはそれは、ごちっそうさま!あっはは」

 平沢奈美は、そう言って無邪気に笑う。

「純さんもだけど、信也さんとか、あとクラッシュビートのみなさんも全員だけど、
フェアだし、公平だし、バランス感覚もいいし、さすが、音楽やっている男性たちって感じで、
好感持てる人たちばかりよね。だから、自然とモリカワに集まっちゃうのよ、きっと」

 清原美樹はテーブルのみんなを見ながらそう言って微笑(ほほえ)む。

「モリカワの経営理念は、『会社経営はシンフォニー≪交響楽≫!
みんなで力を合わせて、愛にあふれる、美しいハーモニー≪調和≫を奏(かな)でよう!』ですけど、
わたし、この経営理念が大好きなんです」

 みんなの話を聞いていた、オーナーの高田充希が子供のような笑顔でそう言った。

 「わたしも大好きです!とても芸術的な経営理念だわ!」とみんなも口々にそんなことを言った。

 店内は女性たちの明るい笑いに包まれた。

≪つづく≫ --- 136章 おわり ---

137章 信也と心菜が、ベンジー(浅井健一)を語る

137章 信也と心菜が、ベンジー(浅井健一)を語る

 3月17日、土曜日、午後4時を過ぎたころ。気温は12度、上空はよく晴れていた。

 川口信也と青木心菜(ここな)は、JR渋谷駅のハチ公口改札で待ち合わせて、
歩いて5分の、道玄坂のモスバーガー近くの、
吉田ビル地下1階にある、ビーピーエム・ミュージック・バー(BPM Music bar)に入った。

 二人は予約していた広いカウンター席に座(すわ)った。
店内は、高い天井と白の壁、観葉植物の緑が目にも優しい、
おしゃれで明るい雰囲気だ。

二人は、人気のショットドリンクをスタッフに聞くと、同じ人気のショットドリンクを注文した。

「それでは、まずは、しんちゃんの主題歌の完成に、乾杯よね!
しんちゃん、すばらしい歌の完成、おめでとうございいます!」

 青木心菜がそう言って、信也に微笑んだ。
心菜は、信也がモデルの主人公の実写版『クラッシュビート』の原作者のマンガ家だ。
マンガ『クラッシュビート』を好調に雑誌に連載している。

「ありがとう、心菜(ここな)ちゃん。映画の主題歌ってことで、なかなか完成できなかったけど、
やっと、納得のいく作品に仕上がりましたよ。あっははは」

「そうよね。実写版『クラッシュビート』の主題歌なんですから、
映画のヒットにつながるんですもんね。そんな責任の大きさを考えたら、
ちょっと、大変よね」

「いやーあ、ちょっとどころじゃなかったですよ。なんで、こんな責任のある、
大仕事をおれがやるんだろうってね。
つい弱気になって、主題歌は、誰かほか人が作って欲しいなあとか思ったり。あっははは。
映画第1作の製作の予算が、130億円でしょう。それも驚きだしね。
その現場のセット作りとか、その制作にかかわる人が1600人になるとか聞くと、
もしも、興行(こうぎょう)的にでも、
失敗したら、どうなるんだろうとか考えちゃってね。
今回の主題歌作りでは、ロックンロールの原点とは何か?とかって考えましたよ。
BLANKEY JET CITY(ブランキー・ジェット・シティ)とか、浅井健一さんからは、
あらためて、いろいろと、学びましたよ。ベンジーはやっぱり最高ですよね。あっははは」

「ベンジーは、椎名林檎(しいなりんご)ちゃんからも、≪歩く芸術≫って言われるくらい、
尊敬されているんですもん。絵も描いていますけど、天才的な人だと思いますわ!
わたしも、一応、プロのマンガ家だけど、ベンジーは、
わたしのさらに天上の人で、雲の上のような人で、大天才だと思って、リスペクトしていますわ」

「ベンジーは、何とも言いあらわせない、すばらしい絵を描くよね。
ペンタッチも、そんお色彩も、天才的だと思うよ。
世間じゃ、そんなふうに騒いものだよね。不思議なくらいに。
ミュージシャンの暇つぶしの余技くらいに思っているのかな。
でもそんなもんじゃないよね。ピカソ級の大天才だと思うよ。おれはマジで。あっははは。
ベンジーは、少年の心を持ったまま、オトナになっているっていう感じで、
おれの生き方の理想でもあるし、それこそ、ロックンロールの本道でもあるし。
あのゴッホとかでも、生前は絵がさっぱり売れなかった言うじゃない。
天才のモーツァルトも、貧困の中で生涯を終えたり。世間は芸術がわからないんだよね」

「そうよね。みんな生活することに精一杯なのよ。心のことなんか、その次の次あたりで」

「だよね。お金や地位や権力とかって、やっぱり魅力なんっだろうかね。あっははは」

「人間の幸せって、目に見えない心のありかたとかに、実はあるのにね」

「そのとおりだよ。心菜(ここな)ちゃん。あっははは」

 信也が笑って、心菜も明るく笑った。

 実写版『クラッシュビート』の主題歌は、8ビートとパワーコードがさく裂の、
下記の『子どもの心のままならば』で、映画は今年の2018年秋に公開が予定だ。

ーーー

子どもの心のままならば    作詞&作曲 川口信也

子どものころの 青い空 光る風 草や木の野原
子どものころは 自由気ままに 無心に 遊んだ
毎日は いつも 感動的 奇跡的 楽しい日々だった

オトナになっても そんな 子どもの 心のままならば
オトナになっても きっと幸せに 生きてゆけるのさ

子どものころは 大自然とか 美しいものとか 好きだった 
子どものころは ほのぼのと 明るい未来も 夢見ていたよ
子どものころは 楽しい日々は どこまでも続く 気がしていた

オトナになっても そんな 子どもの 心のままならば
オトナになっても きっと幸せに 生きてゆけるのさ

子どものころは なんでも 楽観的に やってゆける 気がしてた
子どものころは 自然や宇宙に 不思議や奇跡を 感じていた
子どものころは 愛でも 信じていられた 世界を信じていたから

オトナになっても そんな 子どもの 心のままならば
オトナになっても きっと幸せに 生きてゆけるのさ

≪つづく≫ --- 137章 ---

138章 ロックンロールと仏陀(ブッダ) 

138章 ロックンロールと仏陀(ブッダ)

 2018年の4月22日の日曜日。
午後2時。最高気温は27度と真夏のような暑さだ。

 第45回となる、ユニオン・ロックの下北(しもきた)芸術学校の公開授業が、
下北沢南口から歩いて4分、北沢ホール3階のミーティングルームで始まるところだ。

 ユニオン・ロックは、ソーシャル・メディア(SNS)を使った、
インターネット上の全国的な規模のバーチャル学校で、
夢を追う若者やオトナや子どもたちを対象に、
マンガや音楽や小説など、芸術的なこと、広く全般を、
自由に学べる『場』の提供をしている。
そのための経済的な援助、その道のプロとしての育成までの援助も展開している。

 そんな長期的展望のユニオン・ロックは、外食産業のモリカワと、
外食産業最大手のエターナルが、1014年9月に始めた、共同出資の慈善事業だ。

 ユニオン・ロックの活動は、優良企業というイメージや共感を生んで、
モリカワとエターナルの成長に、世間も驚くほどに、寄与(きよ)している。

「きょうは、お集まりいただいて、ありがとうございます。
きょうで、第45回なんですよね。この公開授業も。
毎回、国内や海外の国にも、インターネットで公開していて、
その反響すごいようですけど。まあ批判は1%に満たない、ちょっとで、
大部分は好評のようですけど。あっははは」

 演壇に立つ信也は笑いながら、みんなを見渡した。

 定員72名の満席の会場からは、拍手と歓声が沸わく。

 演壇に近い前列の、3人掛けのテーブルには、
撮影も順調の超大作映画『クラッシュビート』に出演中の、
乃木坂小学校の合唱団の子どもたちが集まっている。
3年生6名、4年生8名、5年生7名、6年生9名の、30人だ。

 その子どもたちの中に、合唱団の先生役の沢口貴奈(きな)もいる。
沢口貴奈は、信也と同じ山梨県の育ちで、信也とは12年くらいの付き合いになる。

 大沢詩織や清原美樹たち、グレイス・ガールズのメンバーや、
信也のバンドのクラッシュ・ビートのメンバーも後ろの席にいる。

 『クラッシュビート』の原作者でマンガ家の青木心菜(ここな)と、
心菜の親友でアシスタントの水沢由紀もいる。

「今回、みなさんにお配(くば)りしてある本は、つい先日に、
ぼくがセブンイレブンで、立ち読みして、あっこれいいな!って、買っちゃった本なんです。
税抜きの本体価格が499円なのには、よくできっている本なので、ちょっと驚きました。
あっははは」

 会場のみんなも明るい声で笑った。

「それでは、この宝島社の『マンガでわかるブッダの教え』をテキストにして、
『ロックンロールと仏陀(ブッダ)』のお話を始めます」

 拍手がわいた。

「こんなに日本では、繁栄して、よく知られている仏教が、なぜ発祥の地のインドでは、
繁栄できなかったのかって、誰もが思いますよね。どうもその原因は、
仏教が、人種差別を身分制度カースト制に断固として反対したからのようです。
国連人権委員会も、インドのカースト制度の差別を、
人種差別の1つであると明記していますからね。
しかし、まあ、カースト制を、断固拒否したからこそ、仏教は世界的な宗教となったんでしょうね」

「さてさて、本題の、ロックンロールとブッダの話に入ります。
えーと、希望(りく)くんは、人生って、なんのためにあると思いますかぁ!?」

 最前列のテーブルに、福田希望(りく)がいる。

 『クラッシュビート』のオーディション選考で、
川口信也がモデルの、主人公の信也の役を射止めた、
福田希望は、小学5年、11歳の少年だ。

「人生って、楽しむためにあると思います!」

 希望(りく)は元気な声で答える。

「うん、それが正解っていえるでしょうね。みなさん、テキストの32ページを見てください。
右下に、ブッダの言葉があります。
ブッダも『自分の変化と成長を楽しめ。もう、外に楽しみを求めるな』って言っています。
これって、非常に的確な人生論なんですよね。
図解にもありますように、外に楽しみを求めることとは、評判や成果や収入を意味します。
評判などの外的要因は、自分の努力でもコントロールできないんですよね。
ですから、そのため、心を乱す原因にもなります。
一方、自分の変化と成長を楽しという、自分の内面を重視する生き方はどうでしょうか?
やりがいや美学や充実感など、その行為を通じて、≪心地よい≫と感じられることを、
続けてゆけば、どんな状況になっても、心は安定するのではないでしょうか?
たのしく生きるための実践法として、ブッダも≪心地よさ≫を追い求めよう!って言っているんですよね。
ブッダ、すなわちお釈迦様は、紀元前250年前後の人ですから、2250年も昔の人なんですよね。
そんな人が、現代人に、生き方を教えられるなんて、天才としかいいようがありませんよね。
あっははは」

 会場のみんなも明るく笑う。

「ええと、じゃあ、希望(りく)くんのお隣りの、いつもかわいい友愛(とあ)ちゃんに、お聞きしますけど。
友愛(とあ)ちゃんが幸せになるには、どうしたらいいんだろうね?どんな答えでもいいんだけど。
あっははは」

 映画の中の11歳の信也の、親友の女子生徒役の永愛(えま)の役の、
白沢友愛(とあ)は、小学4年の10歳。

「自分だけの幸せではなくって、友だちとか、まわりの人の幸せも考えてあげることだと思います!」

 希望(りく)の隣に座っている友愛(とあ)は、
一瞬、目を丸くして、びっくりするけど、オトナの女性っぽい魅惑的な笑顔で答えた。

 希望(りく)と友愛(とあ)には、格別なオーラ、スター的な輝きがある。

「そうですね。さすがだね、友愛(とあ)ちゃんも希望(りく)くんも。
では、みなさん、60ページを見てください。
ブッダは、『幸福は分け与えても、減るということはない。』って言っているんですよね。
図解には、こう書いてありますね。
『幸福を他人に分け与えることは損ではなく、結果的に自分のためになる。』って。
また、『与えることによる2つの利点』として、
その1つは『失うことに対する不安がなくなる』とありますね。
つまり、自分の財産に対する執着が減ったり、自分が困ったときには助けてもらえるという、
期待が生まれて、失うことに対する不安が消える、と。
もう1つは、与えた幸福が、恩返しとして返ってくる、と。
つまり、助けられた人は、自分が幸福になったときに、人を助けようとするんですね。
そうして、幸福の輪が広がり、与えた幸福が返ってくる、ということです」

「さて、ロックンロールのことですけど、あの、ブランキージェットシティの、ベンジーこと、
浅井健一さんも、よくおっしゃってるんですけど。
かっこいいロックンロールを作ったり歌ったりしたいんですよね。
そんな音楽で、元気や楽しみや幸福をもらったりもしているからです。
だから、ベンジーも、そんな音楽で、人に、元気や楽しみや幸福をあげられたらいいなって。
これって、ブッダの教えと同じですよね。あっははは。
ブッダも、マジ、本物のロックンローラーだなあって、おれは思っちゃうんです。あっははは」

 会場も明るい大爆笑になった。

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☆参考文献☆ 『マンガでわかるブッダの教え』 宝島社

≪つづく≫ --- 138章 ---

139章 ロックンロールはリアルなラブ&ピース

139章 ロックンロールはリアルなラブ&ピース

5月5日の子どもの日。青空のおだやかな南風で、気温も24度ほど。

 午後2時から、信也たちのクラッシュビートのライヴが、下北沢駅西口から歩いて2分の、
ライブ・レストラン・ビートで、開催(かいさい)された。
ゲストには、G ‐ ガールズ(グレイス・ガールズ)も出演して、
1階フロア、2階フロア、280席の満員の会場は、最高に盛り上がった。

 午後5時、ライブが終わって、打ち上げの飲み会が、
≪カフェ・ゆず≫で、店は貸し切りで、始まっている。
≪カフェ・ゆず≫は、ライブ・レストラン・ビートと同じ、世田谷区北沢2丁目にあった。
一軒家ダイニングで、16席のカウンター、4人用の四角いテーブルが6つ、
キャパシティーは40名。
ミニライブもできるステージもあって、YAMAHAのアップライトピアノが黒く光ひかる。
店の前には6台分の駐車場がある。

≪カフェ・ゆず≫の女性のオーナーは、3月14日に25歳になった高田充希(みつき)、
人気の女優で歌手でもある、高畑充希たかはたみつきに名前も容姿ようしも似ていると、
下北沢では評判だ。

「しんちゃんの新曲の、『ロックンロールはリアルなラブ&ピース』は最高だよね!」

 生ビールで満面の笑みでいい気分の佐野幸夫(ゆきお)が、
隣(となり)の席の川口信也にそう言った。
佐野幸夫は、ライブ・レストラン・ビートの店長で、いまも俳優になる夢も胸に秘めている。

「うん、しんちゃん、あの曲、最高のロックンロールですよね!私も大好きです!」

 信也にそう言って微笑む、佐野幸夫の隣に座る真野美果(まのみか)は、
1988年10月10日生れの29歳。佐野と美果の交際も6年になる。

「ありがとうございます。美果ちゃん、幸夫ちゃん。あの曲は、おれも気に入っているです。
映画の『クラッシュビート』のサントラ(挿入歌)を作ることになって、
おれも全力で作ったんですよ。
そうだ、佐野さんと美果ちゃんがそう言ってくれるんで、すごく嬉(うれ)しいから、
あの歌、弾き語りでやっちゃいますよ。聴いてください!あっははは」

 生ビールで上機嫌(じょうきげん)の信也はそう言って、ステージに行くと、
ギターを取って、椅子に座(すわ)り、マイクに向かった。

「ええと、みなさん、きょうのライヴは、ホント、最高だったと思います。
いまさっき、佐野さんと美果ちゃんが・・・、
新曲の『ロックンロールはリアルなラブ&ピース』がいいって、褒めてくれたんですよ。
あっははは。
そのお礼ってわけでもないですけど、ここで弾き語りで、あの曲歌っちゃいます。
映画とマンガの、バーチャルの『クラッシュビート』は、
まるでビートルズのように、最高のヒット曲、ロックンロールで、
世界制覇していっちゃうわけですけど、
おれたち、リアルで現実のクラッシュビートも、
そんなバーチャルな彼らに負けちゃいられないな!と思って、
おれはこの歌作りました。あっははは。
では、『ロックンロールはリアルなラブ&ピース』を聴いてください!」

 店内に、拍手と歓声が上がった。
 クラッシュビートやG ‐ ガールズのメンバーや、
マンガと映画の『クラッシュビート』の原作者の、マンガ家の青木心菜(ここな)や、
親友でアシスタントの水沢由紀たちも来ていた。
以前はクラッシュビートのキーボードをしていた落合裕子も来ている。

 信也は笑顔でみんなを見ると、印象的なリフで始まる、
ややテンポの速い8ビートのロックンロールを、シャウトも決めて歌った。

ーーー

ロックンロールはリアルなラブ&ピース / 作詞・作曲 川口信也

奇想天外な 夢を見たんだ 自分が死んだらしくって
友だちたちが 集まって 葬式を上げているんだ
「おれの葬式しているらしいけど おれ まだ 死んじゃいないじゃん!」
そう聞いたけど おれを見て 友だちは だまって 笑うだけなのさ

人生は 作品のようなもので 人は 芸術家のようなものだから 
空想家といわれても 人生は 愛のある 幸福なものにしたい 
どんな困難も 乗り越えられるのが アバンギャルド ならば
それが ロックンロール!かっこいい ロックンロール

I had a dream that I am dead
おれは 自分が死んでいる 夢を見たんだ
Rock'n Roll is a real love & piece
ロックンロールは リアルなラブ&ピース

ビートルズの ジョン・レノンは 言っている
「ぼくには ロックンロールだけが リアルだった」
「15歳のとき ロックだけが ぼくを とらえたんだ」
ロックンロールは 希望や喜び勇気も くれる

「空想家と思うかもしれないけど 想像しなければ 
この世界に 愛も 平和も 幸福も 実現もしないよ
君も そんな想像のできる 仲間になろうよ」 と
ジョン・レノンは 『イマジン(Imagine)』で 語っている

I had a dream that I am dead
おれは 自分が死んでいる 夢を見たんだ
Rock'n Roll is a real love & piece
ロックンロールは リアルなラブ&ピース

☆参考文献☆
ジョン・レノン/ラブ・ピース&ロックンロール   エイト社
ジョン・レノン詩集『イマジン』   平田良子・訳  シンコーミュージック

≪つづく≫ --- 139章 おわり ---

140章 信也と竜太郎、バーで歓談する

140章 信也と竜太郎、バーで歓談する

 5月26日、土曜、午後4時を過ぎたころ。よく晴れた青空だった。 

 信也と竜太郎は、久々(ひさびさ)に予約していた、
ザ・グリフォン(THE GRIFFON)渋谷店のカウンターで、生ビールを飲んでいる。

 店は、渋谷駅から歩いても2分で、クラフト生ビールが数多く揃(そろ)っている。

「ここのソーセージはうまいですよね!」と信也は竜太郎に言った。

「うん、このソーセージとさあ、このキャベツの漬物の、ザワークラウトっていったっけ、
ビールとぴったりだよね!さすが、渋谷の人気店だ。あっははは」

 そう言って、竜太郎も笑った。

 竜太郎は、1982年11月5日生まれ、35歳の独身。
身長178センチ。優(すぐ)れた頭脳と スキル(技能)で、
社長が父親ということもあったかもしれないが、
若くして、外食産業最大手のエタナールの副社長だ。
こうしてほろ酔いのいい気分でも、店の人気の分析も緻密にしている。

 川口信也は、1990年2月23日生まれ、27歳。
急成長している外食産業、株式会社モリカワの、本部の課長。
またロックバンド、クラッシュビートの、ギターリスト、ヴォーカリスト。
また信也をモデルにした主人公が活躍する、マンガ『クラッシュビート』や、
その実写版映画『クラッシュビート』で、最近の信也は時の人になっている。

 2013年12月、信也が課長をしている外食産業のモリカワに対して、
M&A(買収)をしかけた竜太郎たちエタナールだったが、それは失敗に終わる。
それ以来、妙に気が合うことから、信也と竜太郎は、仲のいい酒飲み仲間だ。

「あっははは。しんちゃんは、おもしろいよな。しんちゃんと酒が無かったら、
おれも、生きていても、たぶん、つまらなくって、死にそうだと思うよ。あっはは」

「でも、よかったですよ、竜さんも、マライア・キャリーを好きなんで。 
アレサ・フランクリンが1位で、マライア・キャリーが79位っていうのは、
おれ、ホント、納得いかないんですよ。
彼女の持つ18曲の全米No.1シングルは、ビートルズに次いで歴代2位なんですよ。
それは、女性アーティストとしては堂々の1位なんだし、
ソロ歌手としては、エルヴィス・プレスリーと並(なら)ぶ歴代1位なんですもんね。
それなのに、『ローリングストーン誌が選ぶ最も偉大な100人のシンガー』では、
同じ女性なのに、アレサ・フランクリンが1位、マライア・キャリーが79位なんですからね」

「おれも、マイオール(My All)とか、ウィズアウト・ユー(Without You)とか、
彼女のバラードは、特に好きですよ」

「あの彼女の歌唱力は驚異的ですよね。神秘的な域ですよ。
実は、竜さん、彼女の歌を聴いていると、いまも、彼女の歌唱力にはふと憧れるんですよ」

「歌うことが好きな人なら、誰でも憧れるんじゃないかな、マライアの歌唱力は、
きっと天才だからね、しんちゃん」

「そんな彼女も、人生では、けっこう、悩みも多くて、普通の人生のようですもんね」

「人生で、何が大事かって、本当のところ、お金(かね)でもないし、
地位とか名誉でもなし、物質的なものとかでもないよね。
何かに感動するとか、何かを愛おしく思うとか、そんな優(やさ)しさとか、
愛のようなものに、自分の心が触(ふ)れたり、感じることだよね。
そんなことを、おれも、よく思うよ。
だから、しんちゃんが言うように、みんなで幸福に生きるためには、
人は、誰もが、芸術家のように生きるべきなんだろうし、
人生は、結局は、その人の作品なんだよね。
だから、芸術って、そんな世界の実現のためにも大切な活動なんだよ。
人を思う想像力や優しい心を育てるためには、芸術が大切だと思うよ。
その中でも、ロックンロールは、アバンギャルドな芸術だよね。しんちゃん」

「そうですね、おれも、そのとおりだと思います、竜さん」

 信也と竜太郎は笑った。

≪つづく≫ --- 140章 おわり ---

141章 音楽に世の中を良くするパワーはあるのか?

141章 音楽に世の中を良くするパワーはあるのか?

 6月3日、日曜日、午後2時。青空で真夏のようで、最高気温は28度。

 川口信也が講師を務める、下北(しもきた)芸術学校の第47回の公開授業が、
定員72名のミーティングルームで始まったばかりだ。

 場所は、下北沢南口から歩いて4分の、北沢ホールの3階だ。

 会場の3人掛けのテーブルには、中高生や大学生や社会人の男女の、
幅の広い層で、満席だ。

 大沢詩織や清原美樹たち、グレイスガールズのメンバーや、
信也のバンドのクラッシュビートのメンバーも来ている。
クラッシュビートでキーボードをしていた落合裕子や、
マンガの『クラッシュビート』を描(か)いているマンガ家の青木心菜(ここな)と、
親友でマンガ制作のアシスタントを水沢由紀も来ている。

 下北音楽学校は、ユニオン・ロックが主催するインターネット上のバーチャルな学校だ。

 ユニオン・ロックは、ソーシャル・メディア(SNS)を使った学校で、
子どもたちや、若者やオトナを対象に、音楽からマンガまで、芸術的なこと全般を、
自由に学べる『場』の提供や、経済的な援助、プロの育成などを展開している。

 ユニオン・ロックは、外食産業のモリカワと、外食産業最大手のエターナルとの、
共同出資の慈善事業だ。1014年9月に始まった。

 そんな慈善事業、ユニオン・ロックの利用者は、現在、パソコンとスマートフォンを合わせて、
300万人を超えている。本日の授業も、インターネットで生中継されている。

「えーと、今回は、『音楽に世の中を良くするパワーはあるのか?』というタイトルで、
すごいタイトルつけちゃったなって、自分で困ってるんです。あっははは」
まあ、1時間くらいで終わらせます。あっははは」

 ワイヤレスマイクを片手に演壇に立つ信也は、明るく笑って、みんなを見渡(みわた)した。

 72名の満員の会場からは、拍手と歓声が沸(わ)く。

「今回のテーマで講演する、その理由からお話ししますと。
若いみなさんたちから、単刀直入に、
『音楽って世の中を良くできるんですか?』
『生きている意味って、なんですか?』
『何を目的に生きたらいいのですか?』
『楽しく生きるのにはどうしたらいいですか?』
などなど、そんな、同じような質問が、おれ宛(あ)てに数多く寄せられるんです。あっはは。
困(こま)っちゃいますよね。あっはは。
それでもって、おれの考えをまとめた講演を1度しておこうと思ったんです。あっはは。
では、お配りしてある、テキストを見ながら、おれの話を聞いてください。」

「おれも、思春期のころの高校生のときだったですけど、
この世界はどうなっているのだろう?とか、宇宙の果てはどうなっているのだろう?とか、
なぜ生きているのだろうか?とか人生とは何だろう?とか、考えたわけです。
まあ、君たちと、同じように、漠然と考えては、楽しんだりしてたんですよ。
でも、それで、深刻には悩みはしなかったな!あっはは」

「わたしたちも、悩んだりはしません!」

 最前列にいる、セミロングのヘアスタイルの清純な女子高生がそう言って、
ケラケラ笑った。会場のみんなも笑った。

「まあ、考えても、答えが出るような問題でないですよね。話を簡単に進めるために、
稲盛和夫(いなもりかずお)さんの言葉を引用します。この人は、今年で86歳になります。
大変に立派な人だと、おれも尊敬しています。あの京セラやKDDIの創業者です。
また、日本航空名誉会長でもいらっしゃいます。
『稲盛和夫の哲学』という本がPHP文庫から出ています。
その中で、57ページですが、稲盛さんは、『私は魂というものを信じています。』と言ってます。
稲盛さんは、おれたち人間は、魂と肉体から成り立っていると考えてます。
稲盛さんは、魂というと、眉をひそめる人がいるかもしれないと言って、
魂のことを意識体とも呼んでますけどね。
稲盛さんは、おれたちの人生は、魂の修行の場だと考えているようです。
この世の中というか、人生においては、魂、意識体は、修行しながら、死ねば、
また新しい生命に宿(やど)って、現世、いまの世の中に出てきて、
新たな修行をすることになるって、稲盛さんは言っています。
本の64ページでは、稲盛さんは、こう語っています。
『そういうことの繰り返しで、人間性を高めていき、
ついには、神々(こうごう)しいといわれるような如来(にょらい)のレベルまで心が美しくなってゆく。
そこまで行くと、仏教では輪廻転生しないといわれています。そのように、意識体というものは、
自分だけで終わるわけではなく、次に自分が生まれ変わるものに移っていきます。
したがって、自分の心、品格、人格を高めていくことは、単に自分1個だけの問題ではなく、
次の代への責任でもあるのです。」
文は、前へ戻りますが、稲森さんはこうも語っています。
『なぜ転生するか。それは現世でつくりあげた人格が不十分で、
次の現世でもっと心を磨(みが)きあげる必要があるためです。』と。
輪廻転生という言葉の意味は、『死んであの世に還った霊魂(魂)が、
この世に何度も生まれ変わってくること』だそうで、仏教とかの宗教用語ですよね」

 「ええと、稲森さんは、仏教の臨済宗妙心寺派円福寺で、僧侶(そうりょ)となるための出家の儀式の、
得度(とくど)をして、僧侶としての身分の僧籍(そうせき)を得ているそうです。
おれなんか、仏教でもキリスト教でも、宗教の話は、いくら理解しようとしても、
いつまでも理解できないことばかりで、チンプンカンプンで、
よく理解できないんですよ。あっははは」

「そんな、しんちゃんが好きです!」

 さっきの最前列にいる女子高生がそう言った。

「あっはは。ありがとう!まあ、宗教の話は、抜きにしたほうが、
おれの講演の場合は、いいのかも知れないんです。
世界の平和ために、役立つ、そんなパワーは、音楽にはあるか?といった話ですから。あっははは。
まあ、おれも、高校生のときに、おれたちって、魂のようなもので、
どこかにある『魂の海』のような世界からやって来ているんだろうな!ってことくらいは、
考えましたよ。何かの宗教とかには、まったく、頼(たよ)りもしなし、参考もしないでね。
直観というか、インスピレーションだけでね。そのくらいのことは誰にだって思いつくと思います」

「おれも、魂のことを時々考えるんですよ。おれも、しんちゃんや稲盛さんに同感します!」

 最前列に座る、爽(さわ)やかなショートヘアスタイルの男子高校生がそう言った。

「あっはは、そうですか、それは良かった。ちょっと、空想や想像をふくらませれば、
誰だって、思いつけるような、むずかしい話じゃないですよね。あっははは。
まあ、そんなわけで、おれも、この稲盛さんのお考えには、全面的に共感しますし、賛成なんです。
音楽作りとか、ほかの芸術活動でも、そうでしょうけど、
心や魂を磨(みが)いて、創作に向かうしか、良い作品作りなどは、できないわけですからね。
有名な心理学博士のウエイン・W・ダイヤーも、その著書の『ザ・シフト』の26ページでは、
こんなことを語っています。
『この人生の旅で最大のレッスンは、自分は生死を超えた永遠の魂の存在だと、
意識することなのです。
肉体とは、精神(魂)の本質であるエネルギーが形をなしたものです。』と。
まあ、魂の存在とかって、神の存在と同じように、
その存在証明をするとは、人間には不可能に近いことのように思います。
しかし、魂の存在すると、仮定したり、想像しないことには、この世界の謎が解決できないのだと、
おれには思えるのです。魂については、稲盛さんのお話のように考えれば、
すべてが、おれには解決するように思えるのです。
みなさんにも、この話にご理解いただけえば、うれしいです。
こういう魂の話の観点から考えれば、良い音楽は、おれたちには必要であり、
良い音楽には、人々や世界を、幸福へと導(みちび)くパワーがあることを、
ご理解していただけるだろうと思います。
あと、もうひとつですが、お話をさせていただいて、この講演を終了したいと思います。
2012年に87歳でご逝去(せいきょ)された詩人で思想家の吉本隆明さんが、
『生涯現役』という著書の194ページですが、こんなことを語っています。
『身体論にはメルロ=ポンティをはじめいろいろありますけど、
ぼくはマルクスの身体論が1番いいんじゃないかなって思っています。
要するに精神であれ肉体であれ、人間が外界に対して働きかけ外界が変形して
価値が生じると、人間は生きた有機的な自然に変化する。
要するに人間が有機的な自然に変化しなけりゃ外界に働きかけることはできない、
そういう自然哲学です。外界が価値化する。
つまり、自然が人間の肉体の延長線になるということと同時に、
人間も有機的な生きた自然というふうに変わっちゃうんだと。
働きかけた瞬間に相互がそう変わるっていうことですね。自然が価値化して人間も変わる。
それは、いまでも1番妥当なんじゃないかなと思っています。
マルクスは大雑把(おおざぱ)なように見えて、
自然と人間の相互関係を実にうまくいっていると思います。』
以上が、吉本さんの語っていることですが、この自然と人間の関係って、
音楽作りにも、ぴったり当てはまるんですよね。
楽器の演奏とかにしても、自然が人間の肉体の延長線になるということと同じであり、
人間も、有機的な生きた自然の楽器と一体になるって、ことですからね。
有機的という意味は、生物体のように生命を持つのと同等だ、
といった意味になりますから。
音楽を作る立場からいえば、CDにしても、インターネットで楽曲を配信するデジタル音楽にしても、
自然が人間の肉体の延長線になるということと同じだし、
人間も有機的な生きた自然というふうに変わることなんですよね。
吉本さんが言うように、音楽を作るってことは、そして、音楽を鑑賞するってことは、
自然が価値化して人間も変わるってことだし、
自然と人間の相互関係が、実にうまくいっているということなのだと思います。
そんなわけですから、おれたちは、これからも、みんなで、音楽を愛して、
魂というか心とかも大切にして、磨(み)いていけばいいんだと思います。
そして、まあ、このように、音楽に世の中を良くする絶大なパワーはあると、おれは考えています。
以上で、きょうの講演は終わりにします。みなさん、ありがとうございました!」

 信也は、笑顔で会場に手を振る。沸(わ)き起こる拍手は鳴りやまなかった。

---
☆参考文献☆
1.『稲盛和夫の哲学』  稲盛和夫  PHP文庫
2.『ザ・シフト』 ウエイン・W・ダイヤー ダイヤモンド社
3.『生涯現役』 吉本隆明 洋泉社

≪つづく≫ --- 141章 おわり --- 

142章 夏目漱石とロックンロール

142章 夏目漱石とロックンロール

 6月10日、台風5号の影響で、朝から曇り空だ。

 下北(しもきた)芸術学校の第48回の公開授業が、川口信也の講師で始まっている。

「えーと、みなさん、お忙しいところをお集まりいただいて、ありがとうございます」

 そう言って信也は、ワイヤレスマイクを持って微笑(ほほえ)んだ。

「2005年のTBSの新春ドラマの『夏目家(なつめけ)の食卓』は、ご覧になった方もいると思います。
おれも、あの番組を見て、夏目漱石のファンになって、それから『坊(ぼっ)ちゃん』とか、
読んだんですよ。あのドラマでは、互いに惚れてはいるものの、かんしゃくもちの漱石を、
本木雅弘(もとき まさひろ)さんが演じて、勝気な妻の鏡子(きょうこ)を、宮沢りえさんが演じて、
その出会いから波瀾万丈(はらんばんじょう))だったり、ドラマのラストは、
晩年の漱石と陽だまりの縁側にいる鏡子のひとこと、『あなたが、いちばん、大好き!』
で終わる、そんな、ほのぼのとした名作でした。
樹木希林さんや所ジョージさんも出ていて楽しかったですよね。あっははは」

「前回の『音楽に世の中を良くするパワーはあるのか?』は、
精神世界のことなど、ちょっとスピリチュアル過ぎたかな?と感じましたので、
その続きということで、お話しをさせていただきます。
また、お配りしてあるテキストをご参考にしてください」

 72名の満員の会場から、拍手と歓声が沸(わ)く。

「まあ、実際のところ、スピリチュアルな問題の、
魂とか神とか死んだらどうなるのとかのことは、
科学的にも明確に証明できることでもないんですよね。
ということは、スピリチュアルなこととは、
個々に人々が想像していることに過ぎないということなんだと、おれは考えています。
しかし、まあ、こんなことは、人それぞれに、体験や経験として、
心や魂のことを考えたりしているわけですよね。
たとえば、本気で真剣に人を好きになったりして、それが考える、きっかけになったりして」

「ですから、こんなスピリチュアルなことを考えることは、誰かに強制されることでもないですよね。
たとえば、自分が、どこからこの世界にやって来て、これからどこへ行くのか?とかも、
自分で考えたり、想像したりすればいいのだと思います。神様のことも同様で、
どのように考えるかは、個人の自由の領域だと考えます。
まあ、そんなことに、迷っている方があれば、ご参考になるかなと思って、おれも講演しています」

「1749年生まれの、ドイツの文豪のゲーテは、そんな体験から『若きウェルテルの悩み』を書いて、
作家デヴューしてますよね。その後、詩人、思想家、芸術家として、
82歳で逝去(せいきょ)されるまで、大きな業績を残している人のようです」

「ゲーテの言葉にはこんなものもあります。
『心が開(ひら)いているときだけ、この世は美しい。
おあえの心がふさいでいるときには、おまえは何も見ることができなかった』
ゲーテ自身に、そういう反省があって、こんな詩が生まれたそうです」

 「きょうのお話は、そんなゲーテにも劣(おと)らない作家の夏目漱石についてのお話で、
『夏目漱石とロックンロール』というタイトルにしました。あっははは。
えーと、ロックンロールについては、おれがリスペクトしている、おふたり、
ブランキージェットシティのベンジーこと浅井健一さんも、
B‘z(ビーズ)の松本孝弘さんも、『かっこよさやかっこいい』ことをあげてますが、
それって、外面からじゃなくって、中から出てきているもの、心から出てきているもの、
ということ言っています。これには、まったくおれも同感なんです」

「夏目漱石という人も、そんな意味では、音楽家ではないですが、
ロックンロール的な生き方をした人だと感じています。
たとえば、出世コースを歩いていた漱石ですが、そんな競争を途中で放棄するんですよね。
40歳で、ドロップアウトして、朝日新聞社に入社し、小説家の仕事に専念します。
そんな漱石の心情を表す、漱石の有名な言葉があります。
『死ぬか生きるか、命のやりとりをする様(よう)な維新の志士の如(ごと)き烈(はげ)しい精神で文學を
やって見たい。』
これは、門弟の鈴木三重吉宛の書簡に、漱石が書いたものです。
おれは、ロックンロールの精神も、そんな維新の志士のようなもんだと思うんです。
じゃないと、かっこいいロックンロールはできないもん。あっははは」

 会場のみんなも明るく笑った。

---
☆参考文献☆
1.いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ 手塚富雄 講談社現代新書
2.夏目漱石と明治日本 12月臨時増刊号 文芸春秋
3.松本孝弘 ビッグストーリー B‘z研究会 飛天出版

≪つづく≫ --- 142章 ---

143章 夏目漱石とロックンロール(その2) 

143章 夏目漱石とロックンロール(その2)

6月23日の土曜日、午後の4時を過ぎたころ。

 朝から曇り空。最高気温は23度ほど。

 下北沢にある≪カフェ・ゆず≫に、川口信也と信也の彼女の大沢詩織(しおり)、
新井竜太郎と竜太郎の彼女の野中奈緒美、川口信也の妹たちの美結と利奈の6人が来ている。

「利奈ちゃんは、もう4年生かぁ。早いもんだよね」

 ウィスキーのハイボールでご機嫌(きげん)の竜太郎が利奈にそう言う。
オレンジジュースのグラスに触れる利奈の細い指を、竜太郎は愛(いと)おしそうに見る。

「就職も近いんですよ、竜太郎さん。あっはは」と利奈は笑う。

「利奈ちゃん、管理栄養士になんだから、うちの会社のエタナールか、
しんちゃんの会社のモリカワの、どちらかで、就職は決まりでしょう。
その選択は、利奈ちゃん次第だけれど、よろしくお願いしますよ。あっははは」

「利奈は、山梨に帰って、就職しようかなって言ったりしてるんですよ。
山梨にも、モリカワとエタナールの支社があって、そこへ就職もできますけどね」

 そう言って、信也も氷とソーダ水で琥珀(こはく)色のハイボールを楽しむ。

「迷っているんです。就職は、東京か山梨かって。あっははは」

「どちらに決まっても、エタナールもモリカワも、、利奈ちゃんを待ってますよ。あっははは」

 竜太郎がそう言って笑うと、テーブルで寛(くつろ)ぐ、みんなも笑った。

「この前の、『夏目漱石とロックンロール』は、意外な切り口というか、話だったよね、しんちゃん。
おれも、夏目漱石は好きな作家だけど、彼をロックンローラーとは見たことなかったよ。あっはは」

 竜太郎が、信也にそう言って、陽気に笑う。

「かっこいい、生き方したり、考え方をするのが、ロックンロールの原点だと思うからですよ、
竜さん。たとえば、ビートルズに敬愛され続けた、エルヴィス・プレスリーですけど。
エルヴィスって、その功績からキング・オブ・ロックンロールと呼ばれますけど、
エルヴィス・プレスリーの音楽のスタイルは、黒人の音楽の、
リズム・アンド・ブルースと、白人の音楽の、
カントリー・アンド・ウェスタンを合わせたような音楽といわれていますよね。
それはその当時の、深刻な人種差別を抱えていたアメリカではありえないことだったんです。・
ですから、エルヴィス・プレスリーの塑像した音楽は、画期的なことだったんです。
夏目漱石にしても、イギリス文化の研究で、イギリスに、留学に行ってこいってなったんですけど、
漱石は、イギリス滞在中、そのイギリスの工業や経済発展のために、
自然や労働者を破壊している現実に、幻滅して、絶望するんですよね。
イギリス文学にも、深く、幻滅して、絶望して、
よしそれなら、本当の文学を、おれが創造しようて、出世とかどうでもよくなって、
社会的な地位や名誉もない、なんの保証もないような、作家として、スタートするんですよ。
他人や社会的な価値観とかで、物事を判断するんじゃなくって、
子どもの時のような自分の澄んだ感性で、物事や真実を見て考えることが大切なんですよね。
そういば、子どものような目や耳を持っていたといわれる天才ピアニストのグレン・グールドが、
夏目漱石の芸術論のような小説の『草枕』を愛読してますけどね。
でも、グレン・グールドは、ビートルズを評価していなかったようで、それが、おれには不思議ですけど。
嫉妬のようなものもあったかもしれないですね。あっははは。
話は脱線しましたけど、ですから、音楽を愛してやまない、エルヴィス・プレスリーと、
文学を愛してやまない、夏目漱石には、おれは、生き方として共通性を感じたり、
かっこいいなあって思ったり、おれはこの二人を尊敬しちゃうんです」

「なるほど、おれも、しんちゃんの考え方には、まったく同感だよ。あっははは」

 竜太郎が、そう言って、子どものように笑う。

 「わたしも、しんちゃんの今の話に同感します」とか言って、
みんなも明るく笑った。

 「そだね!」と、≪カフェ・ゆず≫のオーナー、高田充希(たかだみつき)が、
言ったら、みんなで、大笑いとなった。
高田充希は、人気女優の高畑充希(たかはたみつき)に似ていると評判の魅力的な女性だ。

≪つづく≫ --- 143章 おわり ---

144章 モーツァルトのエピソードに感動する信也

144章 モーツァルトのエピソードに感動する信也

 8月12日、日曜の朝の10時ころ。
 
 信也は、8月3日の金曜日に録画しておいた、NHKの『ららら♪クラシック』を見ていた。
『モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク』というタイトルだ。

 ロックンロール大好きの信也も、モーツァルトは特に敬愛している。

 モーツァルトが31歳のときに作曲した『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は、
植物の学者で、ウィーン大学の教授で、貴族の、
ニコラウス・フォン・ジャカンに贈られたという説が有力だ。
 
 モーツァルトは、ジャカン家と、家族ぐるみの親しい交流をしていた。

 ジャカンには二人の息子がいた。長男は父と同じ植物学者。
次男は、アマチュアの歌手でピアノも弾き作曲も手がけた。

 ジャカン家にたびたび遊びに来ていたモーツァルト。
なかでも弟のゴットフリートとは無二の親友だ。
この二人が一緒に作曲したとされる作品も少なくない。
ゴットフリートは、ちょっと不良で、気まぐれに女性を追いまわす遊び人でもあった。
それを見かねたモーツァルトが説教をしたこともあったとか。
そんな面倒見のいいモーツァルトであった。

 モーツァルトはこの兄弟と≪友情記念帳≫を交換していた。

 モーツァルトが書いた直筆(じきひつ)のメッセージが残っている。

「僕が君の、本当に誠実な、友だちだということを忘れないで。」(モーツァルトより)

 そして、ゴットフリートからモーツァルトへは、こんな言葉がおくられた。

「心を欠(か)いた天才に価値がない。
愛!愛!愛!それこそが、天才の真髄(しんずい)なのだ。」(ゴットフリートより)

「ゴットフリートは、モーツァルトの中に、愛情にあふれた真の芸術家というものを、
おそらく見出だしたんでしょうね!そのことを示す言葉だと思うんですね。
メロディのもとは愛だな。あの友だちは本質を見抜いていたのかな?」

 番組の中で、このように、吟味(ぎんみ)するように語るのは、
ピアニストで作曲家の宮川彬良(あきら)さんだ。

 ・・・モーツァルトって、やっぱり、愛にあふれた人だったんだろうな!
それは、愛イコール詩であって、詩情にあふれた人だということで・・・。
愛や詩情が豊かでなければ、想像力も創造力も豊かでないわけで。
愛も詩情も、芸術家にも普通の人にも大切なことさ。
そういえば、瀬戸内寂聴(じゃくちょう)さんの書いた子供向けの絵本にも、
『やさしいということが、人間には1番すばらしいことです。
他人を思いやるということは、想像力があるということ。それが愛です。』ってあったしなぁ!
いまの世の中、やっぱり、そんな大切な愛が希薄なんっだろうなぁ・・・

 信也は、自分で入れたコーヒーを飲みながら、そんなことを思いめぐらした。

---
☆参考文献☆

1.NHK ららら♪クラシック・選『モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク』
   初回放送・2017年9月22日
2.未来はあなたの中に  瀬戸内寂聴 朝日出版社

≪つづく≫ --- 144章 おわり ---

145章 ラッパーのケンドリック・ラマーと、信也

145章 ラッパーのケンドリック・ラマーと、信也

 9月1日、土曜日、朝の10時。台風の影響なのか、雨もぱら曇り空で、空気
も涼(すず)しい。

 10時を過ぎたころ、歯科医院の受付を担当する女性から電話がかかってき
た。

 きょうの朝の10時に、予約をしていたのを、すっかり忘れていた、信也だ。

「すっかり忘れていました。また次の土曜日の8日の10時に予約できるでしょ
うか?」

「はい、予約できます。それでは、次の8日の土曜日の10時でよろしいです
ね」

 そんな電話。

・・・1か月前の歯の検診だったので、きょうの予約を、すっかり忘れてしまった
なぁ・・・

 川口信也は、気分転換に、
先日の8月29日に録画した、NHK『おはよう日本』を、テレビで見る。

 地上波初登場の、現在31歳、ラッパー、ケンドリック・ラマーのインタビュー。

・・・ケンドリック・ラマーは、トラウマになるような危険な経験が転がっている街
で育ったけど、
『非行に走らずにいられた唯一の理由は父さんが常にそばにいて、
おれの人生に関わってくれたからさ』って言ってる。やっぱり、家族の愛。

そして、2002年の夏、16歳のとき、ケンドリック・ラマーは、レーコーディング・
ブースという、
安全な避難所を見つけたんだ。ブースに入って、ラップに夢中になったんだも
んな。
ここにも、《愛》の力が働いたってもんさ。音楽は、愛そのものだから。

そして、2014年には、グラミー受賞曲の『アイ(I)』とかの、
《まず自分を愛そう!そうしなくちゃ、他人も愛せない!》というポジティブなメッ
セージの、
誰からも愛されるラッパーになっていく。

やっぱり、人生で、1番に大切なのは、《愛》の力なんだろうな。
どんなに、ちっちゃな《愛》でも、ささやかな、個人的な《愛》であっても。

《愛》は、この世界の神秘だし、
奇跡でもあって、《愛》こそが、人生の幸福を実現してゆく、不思議なパワーな
んだろうな!

そういえば、瀬戸内寂聴(じゃくちょう)さんのあの言葉は、
数ある名言のなかでも、最高の名言だよな。

《やさしいということが、人間の1番すばらしいことです。
他人を思いやるということは、想像力があるということ。それが愛です。》

愛=想像力=やさしさ、っていう感じで、簡単明快でいいよ。・・・

 録画を見終わって、そんなことを思う信也だった。

 信也が見た録画は、2018年7月28日、新潟県の苗場(なえば)スキー場で
開催の、
『FUJI ROCK FESTIVAL』に出演したケンドリック・ラマーが、
日本の地上波で初めて受けたインタビューだ。

 ケンドリック・ラマーは、ヒップホップアーティストで初の『ピュリツァー賞』を受
賞する。
1943年に設立されたピューリッツァー賞の音楽部門は、
クラシック音楽作品が受賞するのが言わば常となっており、
クラシックやジャズ以外の作品が選ばれるのは今回が初。
ヒップホップに限らず音楽史全体において特別な意味合いを持つ石碑を打ち
立てた。
同賞の委員会は、ケンドリック・ラマーの4目のスタジオアルバムである
『DAMN.』について、
「現代を生きるアフリカ系アメリカ人の複雑な人生を捉え、土地や文化に根付く
本物の言
葉やリズムのダイナミズムを統合した高水準な楽曲を収めた名作」と評価す
る。

「音楽を通じ社会の苦悩をメッセージとして発し続けるケンドリック・ラマーさ
ん。
若者たちに自ら考え行動することを訴えています。」

 そう報告する、NHK・文化部の斎藤直哉さん。

「ライブで曲を歌うと、肌の色や民族の異なる多くの人が来る。
これが究極の目標です。
2時間のステージに、存在するのは、争(あらそ)いではなくて、
《愛と幸福感》だけなんです。」

 と、ケンドリック・ラマーは語る。

「銃撃事件が絶えない、カルフォルニア州、コンプトン地区。
この全米で最も危険といわれる場所で、ラマーさんは生まれ育ちました。
ラップを始めたのは、友人が銃撃されるなどの、過酷な現状を訴えたいとの思
いからでした。」

 と、文化部の斎藤さん。

「僕たちは自分たちでは手に負えない環境で育った。
ヒップポップは、僕にそうした感情を表現するチャンスをくれた。
他人がどう思うかは関係なく、吐き出さなければいけない感情だったんです。」

 と、ケンドリック・ラマー。

「代表曲の《オールライト(ALRIGHT)》。やり場のない思いをつづりながら、
それでも、俺たちは大丈夫さと語りかけます。
この曲が思わぬ広がりを見せます。全米に広がった《差別撤廃運動》、
そのデモで、人々が歌い始めたのです。
この動きはアメリカを越(こ)えて世界にも広がりました。」

 と、文化部の斎藤さん。

「僕の作品や音楽で学んできたことは、僕自身のためだけではなく、
逃げ場のない街に育った子供のためだったんです。
今はコミュニティーにとどまらず、世界中に伝えることができると思います。」

 と、ケンドリック・ラマー。

「なぜ彼の歌が支持を集めるのか、
専門家は、かつて時代を動かしたアーティストとの共通点を指摘しています。」

 と、文化部の斎藤さん。

「年配の方々にとってのボブ・ディランが、今の若い人たちにとってのケンドリッ
ク・ラマーである、
というふうに言っていいんじゃないかなと思うですよね」

 と語る、慶応義塾大学・大和田俊之教授。

「公民権運動やベトナム戦争に揺れた1960年代。世界中の若者が、
ボブ・ディランさんの《風に吹かれて》などの曲を通じて、自由と平和を訴えたよ
うに、
いま、ラマーさんの曲が若者のシンボルになっているというのです。」

 と、文化部の斎藤さん。

「ケンドリック・ラマーの言葉を通して、音楽だけでなく、《世界とつながる感覚》
を持つ
若者が増えているような気がしますね。」

 と語る、大和田教授。

「ラマーさんの音楽は、日本でも多くの人の心をつかんでいます。
今年(2018年)の『FUJI ROCK FESTIVAL』、
どしゃ降(ぶ)りの中、多くのファンが詰めかけました。」

 と、文化部の斎藤さん。

「伝えたいメッセージは《自己表現》なんです。感情を表に出すことを恐れては
いけない。
ぼくのストーリーが、普通の小さな男の子のストーリーになり、
日本の若い少年少女のストーリーになる。
ヒップホップは世界にい広がっていくはず。いつかは火星にだって。
それは誰にも止められない。音楽の力です。」

 そんなことを、おだやかな眼差しの笑顔で語る、ケンドリック・ラマー。

「はい、ピュリツァー賞受賞ということで、ま、たとえば、暴力反対、
差別撤廃というような、その直接的なメッセージを描いているっていうふうに、
感じたのかなという方もいたかもしれませんが、どちらかというと、
現状をありのままに描いていましたよね。」
 
 と話す、高瀬耕造(たかせこうぞう)・キャスター。

「そうえすよね。社会がこう変わるべきという、方向性を示すのではなくて、
感情を吐露している、印象でしたね。」

 と話す、和久田麻由子(わくだまゆこ)・キャスター。

「そして、まあその、《大丈夫だ、おれたち大丈夫だ》という、
前向きなメッセージも添えているところが、印象でした」

 と話をまとめる、高瀬耕造・キャスター。

「はい。世界中の若者から絶大的な支持を集めるケンドリック・ラマーさんにつ
いてお伝えしました。」

 と番組締めくくる、和久田麻由子・キャスター。

---
☆参考文献☆

1.NHK 総合 『おはよう日本』 2018年8月29日 ケンドリック・ラマー 特集
2.未来はあなたの中に  瀬戸内寂聴 朝日出版社
3.グッド・キッド、マッド・シティー (ユニバーサル ミュージック)・ライナーノー
ツ・小林雅明
4.トゥ・ピンプ・ア・バタフライ (ユニバーサル ミュージック)・ライナーノーツ・・
高橋芳明

≪つづく≫ --- 145章 おわり ---

146章 若い日の 夢追いかける 秋高し

146章 若い日の 夢追いかける 秋高し

 9月21日、金曜日。一日中、雲り空で、気温も19度ほど。

 川口信也は、会社の帰りに、高田充希(みつき)の≪カフェ・ゆず≫に寄っ
た。
店内には、客が7、8人いる。

 店は、下北沢駅の西口から歩いて2分ほどだ。

 充希は、この去年の夏に、自分の土地にある家を改装して、≪カフェ・ゆず≫
を始めた。

 高田充希は、1993年3月14日生まれ、25歳。身長158センチ。
川口信也は、1990年2月23日生まれ。28歳。身長175センチ。

 店は、一軒家ダイニングで、クルマ6台の駐車場がある。
フローリングの床(ゆか)の店内には、16席あるカウンター、
4人用の四角いテーブルが6つ、
ミニライブができるステージもあり、黒塗りのYAMAHAのアップライトピアノがあ
る。
キャパシティーは40人。

「充希(みつき)ちゃん、また、おれの俳句を飾ってくれて、ありがとうございま
す。
充希(みつき)ちゃんのすてきな絵も添えてくださって。
ほんと、よく自然の自然の美しさを見ていて、
それを上手に描いてるなぁって感動します。
きっと、おれの俳句たちも、よろこんでますよ。あっははは」

「しんちゃんの俳句は、すてきですよ。こちらこそ、ありがとうございます」

 店の壁には、去年、信也が作った俳句の、≪りんりんと 歌っているよな 虫
の声≫と、
先日作ったばかりの、≪若い日の 夢追いかける 秋高し≫が、
どちらも、充希(みつき)が描いた絵付きの色紙で、飾(かざ)ってある。

 どちらの俳句も、信也が山梨に住む友人から、「俳句作ってほしい」と頼(た
の)まれたものだった。
毎年10月にある韮崎市の文化祭に出展するための俳句だった。

「いまは、音楽活動で、精一杯で、俳句も作る気がしないんだけれど、
俳句の松尾芭蕉は、芸術家として尊敬しているんですよ。あっははは」

「ああ、それで、しんちゃんの俳句は、どこか、松尾芭蕉に似ているんですね!
うっふふ」

 そう言って笑う、独身の女性高田充希(みつき)は、名前も、顔かたちも、
人気の女優で歌手の、高畑充希(たかはたみつき)によく似ている。この下北
沢でも評判だ。

「あっ、そうですかね。こんどの俳句も、芭蕉の生前の最後の句といわれる、
≪旅に病(やん)で夢は枯野をかけめぐる≫の影響を受けている気もします。
あっははは。
芭蕉って、たえず、新し創造を目指して生きていた人で、そんなところを尊敬し
ていて、
見習いたいって、いつも思うんです。
芭蕉は『古人の跡(あと)を求(もと)めず、古人の求めたるところを求めよ』と教
えているんですけど、
なるほどな、そんな新しさを求めて、創造していくことが大切だよなって、思うん
ですよ。あっははは」

---
☆参考文献☆

1.芭蕉ハンドブック  尾形 仂(おがた つとむ) 三省堂 

≪つづく≫ --- 146章 おわり ---

147章 映画『クラッシュビート・心の宝石』、大ヒットする

147章 映画『クラッシュビート・心の宝石』、大ヒットする

 10月7日、日曜日、午後2時を過ぎたころ。
朝から青空、気温も30度と季節外(はず)れ。

 下北沢駅西口から歩いて2分の、高田充希(みつき)の店≪カフェ・ゆず≫に、
川口信也(しんや)と彼女の大沢詩織(しおり)、
超大作映画の『クラッシュビート』で、子どもたちの合唱団の先生役の沢口貴奈(きな)、
この映画の原作者でマンガ家の青木心菜(ここな)とマンガ制作アシスタントの水沢由紀、
そして、雑誌・週刊芸能ファンの記者の杉田美有(みゆ)、の6人がテーブルを囲(かこ)んでいる。

「この度(たび)は、『クラッシュビート』の大ヒット、おめでとうございます!
きょうは、この映画の主役のお二人(ふたり)で、いまやスター的存在の、
主人公の信也さんの子ども時代の役の、福田希望(ふくだりく)君と、
白沢友愛(とあ)ちゃんを、労働基準法の関係で、お呼びできなかったんですよ。
それがとても残念なんですけど、本日は、よろしくお願いします。」

 満面の笑みで、 敏腕(びんわん)記者の杉田美有が、みんなを見て一礼する。

「この映画の大ヒットも、美有(みゆ)さんが、映画の取材をしてくれてたからですよ」

 青木心菜(ここな)がそう言って、微笑む。

「そんなことないですって。青木先生の原作の素晴らしさとか、沢口貴奈さんや子どもたち、
出演者のみなさんも素晴らしくって、話題が盛りだくさんの超大作映画だからですよ」

 原作者の青木心菜と、心菜の親友でアシスタントの水沢由紀は、
この超大作映画のすべてを気に入っている。

 2018年9月2日、日曜日、催(もよお)された『クラッシュビート・心の宝石』の、
プレミア上映会の大成功に始まって、大ヒットとなって、
いまや日本中に、ファンの興奮と熱気が渦(うず)巻いている。

「あのう、この映画のタイトルの『心の宝石』なんですけど、
この点について、もうちょっと、お話をお聞きできたらなあって思います。
わたし個人としては、とても素敵な言葉だなあって、思ってるんです!」

「『心の宝石』っていうのは、実は、おれが作ろうって思っている歌のタイトルなんですよ。
なかなかできなくて、未完成な歌なんですけどね。あっははは。
それが、いつのまにか、映画の1作目のタイトルになっちゃったんです。あっははは。
簡単に言えば、『心の宝石』って、子どもたちの心のことですよ。
純真で無垢な、感動することに敏感で繊細な、そんな子どもたちの心のことです。
まあ、映画の公開前も、子どもたちを、あんなふうに擁護するような、
大人たちの生き方を批判しているよう映画は、
現代のおとな社会を否定する考え方を子どもたちに植え付ける、
極めて危険な映画だとか言って、みんなして批判する映画批評家たちや、
一部の大人たちもいましたからね。あっははは。
そんな危険な考え方なんて、まったくないんだし。あっははは。
おれは、この社会で生きていて、ストレスや欲望で、
心も体(からだ)も、疲労や消耗で、ボロボロにすり減(へ)って、
楽しいことばかりを追いかけていた子どものころの、
純真で無垢な、澄(す)んで輝(かがや)く宝石のような心を失ってはいけないよっていう、
主体性っていうか、アイデンティティー(identity)っていうか、
時間がたって、おとなになっても、何歳になっても、
いつまでも、同じであり続けようよ!って言いたいんですよ。あっははは 」

「そうですよね。信也さんの考え方は、すばらしい!
やっぱり、この映画の主人公よね!感動しちゃうわ!」

 そう言って、雑誌・週刊芸能ファンの記者の杉田美有(みゆ)は笑う。みんなも笑った。

≪つづく≫ --- 147章 おわり ---

148章 心の宝石

148章 心の宝石

 12月14日、土曜日の午後4時過ぎ。快晴だけど、気温は10度ほどで肌寒い。

 川口信也と落合裕子は、渋谷駅から歩いて3分、
道玄坂の鳥升(とります)ビルにある、Bar Geranium(バーゼラニウム)で待ち合わせた。
 
 川口信也は、1990年2月23日生まれ、28歳。
早瀬田大学、商学部、卒業。外食産業のモリカワの下北沢にある本部で課長をしている。
大学時代からのロックバンド、クラッシュビートのギターリスト、ヴォーカリスト。
バンドのほとんどの作詞や作曲をしている。

 落合裕子は、1993年3月7日生まれの25歳。
裕子は、信也の飲み仲間の新井竜太郎が副社長をする外食産業大手のエターナル傘下の、
芸能事務所・クリエーションが主催のピアニスト・オーディションに、最高得点で合格した才女だ。
現在、裕子は事務所を移籍して、祖父の落合裕太郎の芸能プロダクション、トップに所属する。
裕子は、2015年の1月から約1年間、キーボード奏者としてクラッシュビートにも参加していた。
クリエーションに所属している信也の妹の美結とは、同じ歳(とし)の、親友である。

ジャズからクラシックまで、演奏の幅も広く、各賞を受賞などで、人気ピアニストとして、
テレビやラジオの出演も多い。

 信也と裕子は、予約していたカウンター席に落ちつくと、
レモン入りの山崎12年のハイボールを2つ、
自家製ローストポーク、アスパラソテー・生ハムのせを注文した。

 禁煙の店内の席数は、カウンター10席、ソファ4席で、14席だが、ひとりでも落ち着ける店だ。

「ではでは、裕子ちゃんのピアノ・リサイタルの大成功に、乾杯しましょう!」

「ありがとう!しんちゃんたちの映画『クラッシュビート』の大ヒットにも乾杯!」

 落合裕子は、日々の研鑽(けんさん)を続けて、第一線のピアニストに成長していた。
この12月9日の日曜日には、東京都墨田区に、すみだトリフォニー大ホールにおいて、
1801席のチケットは完売し、ピアノ・リサイタルを大成功のうちに終わった。

「裕子ちゃんのピアノは、アルゲリッチの再来とは、マスメディアよく言われるけど、
本当に情熱的で、アルゲリッチよりも官能的というか、女性らしさを感じるよ」

 マルタ・アルゲリッチは、アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。
世界のクラシック音楽界で、最も高い評価を受けているピアニストの一人だ。

「本当ですか。しんちゃんに、そう言って褒(ほ)められると、最高にうれしいです!
わたしは、しんちゃんの考え方が大好きで、『自分らしくあろう』っていつも思っているんです」

「自分らしくあることって、大切だよね。でも、ロックをやってきた人たちは、
ほとんど、同じようなことを言っていると思うよ。
いま、公開中のクイーンのフレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』が、
異例の大ヒットをしていて、クイーンを直接知らない、10代や20代の若者たちも、
クイーンに熱狂しているんだって、先日のNHKのクローズアップ現代でやっていたもんね。
そのフレディ・マーキュリーは、まさに『自分らしくあろう』って言っていたそうだよ。
あと、そうだなあ、ロックやっていた人じゃ、忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんは、
『子どものころに夢中になった気持ちが、僕は1番大事だと思っていますから』って言ってるし。
あと、佐野元春(さのもとはる)さんなんかは、
『僕は10代は1番輝いていて、一瞬にして、聖なるものと邪悪なものを、
見分けられる重要な時期だと思っていた』って言っているよね。
だから、おれの考え始めたことでもないんだよね、子どものころの心が大切とかって。
あっははは」

「そうなんだぁ。でも、わたしには、しんちゃんの存在が、わたしに、とても勇気を与えてくれるわ!
いい意味で、子どものころのままの心でいられる気がするんだもの」

「裕子ちゃんに、そんなふうに言われるなんて、光栄ですよ。
おれも、裕子ちゃんから、勇気をもらえる感じだよ。あっははは」

「しんちゃんと、わたしって、やっぱり似ているのよね!」

「そうだね、似た心を、同じような心の宝石を持っているってことだよね。
おとなになるにしたがって、なくしてしまう人も多いんだけどね、裕子ちゃん」

「そうよね、大切にしましょうね!心の宝石を、しんちゃん」

---
☆参考文献☆

1.ミスター・アウトサイド 長谷川博一編 大栄出版
2.NHK/クローズアップ現代 (2018.12.06.) 

≪つづく≫ --- 148章 おわり ---

149章 信也と竜太郎、サピエンス全史やホモ・デウスを語る

149章 信也と竜太郎、サピエンス全史やホモ・デウスを語る

 2019年1月5日、土曜日。
年の暮れから晴天が続いている。日中の気温は13度ほど。

 高田充希(たかだみつき)の≪カフェ・ゆず≫では、
川口信也たち仲間の新年パーティが始まるところだ。
店のキャパシティーは40席あるが、ほぼ満席だ。
店は、下北沢駅の西口から歩いて2分。
一軒家ダイニングで、店の前にはクルマ6台の駐車場。
店内は、全面喫煙、フローリングの床(ゆか)で、16席のカウンター、
4人用の四角いテーブルが6つ。
ミニライブ用のステージと、黒塗りのYAMAHAのアップライトピアノもある。

 信也たちのクラッシュビートのメンバーや、信也の彼女の大沢詩織たち、
G ガールズ(グレイスガールズ)のメンバーも全員参加だ。
信也と飲み友だちのエタナールの副社長の新井竜太郎も、
彼女で人気女優の野中奈緒美と来ている。

 信也の妹たち、美結(みゆ)と利奈(りな)もいる。
人気ピアニストの落合裕子、漫画家で『クラッシュビート』の原作者の青木心菜(ここな)、
漫画制作アシスタントの水沢由紀は、おしゃれなドレスで、パーティに華(はな)を添(そ)える。

 179センチの長身、スーツがよく似合う佐野幸夫が、
満面の笑みでミニライブ用のステージに立つ。

「みなさん、明けましておめでとうございます。佐野幸夫(さのゆきお)です。
わたしも日頃は、ライブ・レストラン・ビートの店長ですので、
いろいろなライブの司会もさせていただきますけど、
このように、栄(は)えある新年パーティの司会をさせていただけることを、
心から光栄に感じています。では、みなさまのご健勝とご多幸、
そしてご発展を願いまして、乾杯をさせていただきます。
ご唱和(しょうわ)のほど、よろしくお願いします。
おめでとうございます!乾杯!ありがとうございました!」

 拍手や笑い声に包まれて、店内はさらに華(はな)やいだムードとなる。

 佐野は、去年、パートナーとなったばかりの真野美果(まのみか)がいる、
ステージまじかのテーブルに着席する。

「悠香ちゃん、おれは、マンハッタンがいいな」と、新井竜太郎はカウンターの
中の女性バーテンダーに言う。

「悠花ちゃん、おれも、マンハッタンね」と竜太郎の隣のカウンターに座る信也は言う。

 24歳の沢井悠花(さわいゆうか)は、白の開襟ブラウス、
黒のベスト風エプロンがよく似合う。優しい笑顔で、シェーカーを振る姿も華やかでかっこいい。
去年の11月から悠花は、≪カフェ・ゆず≫でバーテンダーをしている。
評判もよくて、女性客も多い。
オーナーの25歳の高田充希(たかだみつき)とも、とても相性が良い。
2017年の夏にオープンした≪カフェ・ゆず≫は、現在、
充希と悠花のほかに、2人のスタッフがいるほどに繁盛している。

 マンハッタンはバーボンウイスキーがベースのカクテルで、
バーボンと白ワインが原材料の甘いベルモットに、
薬草系のキリっとした香りの苦味のあるアンゴスチュラ・ビターズを加え、
チェリーを添えた可愛らしい女性にも歓(よろこ)ばれるカクテルだ。
カクテルの女王とも呼ばれる。

「しんちゃん、紅白は見ましたか?」と竜太郎が言った。

「見ましたよ。なかなか見ごたえあったですね。特に、椎名林檎ちゃんと宮本浩
次さんの『獣ゆく細道』には、胸がジーンときましたよ。林檎ちゃんはさすが魅
力満点で優雅でしたね。
エレファントカシマシの宮本さんも、さすがロッカーで、迫力の熱演でカッコよかったですし」

「林檎ちゃんはおれも好きだなぁ。いつまでも、すてきで、色っぽいしね。あははは。
おれは今回の紅白では、米津玄師(よねづ けんし)に注目してたんだよ。
米津さんは、しんちゃんより1つ年下になるのかな?」

「そうですね、おれが28歳、米津さんは27歳じゃないかな。今年はまた1つ年取るけれど」

「おれも今年は、37歳になるよ。しかし、いくら歳をとっても、
やっぱり子どものころの気持ちを忘れてはいけないんだろうね」

「『幸福論』を書いたアランは、『無心に遊びに夢中になる、
子どもほど美しく幸福な存在はないだろう』って、言ってますし、
ドイツの文豪のゲーテは、
『私たちは、子どもから生きることを学び、
子どもによって幸せになる』って言ってますよね、竜さん」

「『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の本で話題の、
イスラエルの歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリさんも、
人間が幸せかどうか?を最も大切な問題としているよね。
これからの未来は、生命を自在に操(あやつ)るバイオテクノロジーや、
人口知能(AI)で、人間の体や脳や心のあり方が、
想像がつかないほど大きく変わるだろうって言ってるし」

「おれも、NHKのクローズアップ現代でハラリさんの特集を見ましたよ、竜さん。
ハラリさんの考え方は、この資本主義体制や、
お金にしても会社や国家や法律や宗教や正義とかにしてもは、
実は全てフィクションであるって、言い切ってますよ。
つまり、人間が想像力によって作った物語や作り話のようなフィクションなのだと。
ネックス証券の松本大(まつもとおおき)が、
『今の資本主義や貨幣経済に代わる新しい概念というもの、
みんなで抱えることができる共同のフィクション。
単なるフィクションではなく、共同で持てるフィクションを作る必要がある』
って言ってましたけど。そのフィクションって、子どもの心を忘れずに生きることかな?
って、おれは思っていますよ」

「おれも、そうだと思うよ。中沢新一さんが、ある本の中で、未来の革命の鍵(かぎ)は、
人間の脳=心の本質をなしている詩人性にあるって、言ってるでしょう。
その本の中では、『人間の現存在は、その根底において詩人的である』という
ドイツの哲学者ハイデッガーの言葉を引用したりして。
そんな意味でも、子どもたちは、みんな詩人なんだと思うよ。あっははは」

「最近の世の中は、人口知能(AI)に囲まれているせいか、データ至上主義に
なりがちで、
子どものような豊かな感性や感情が消耗しやすいですよね。竜さん」

「まったくだ。おれも会社じゃ、合理主義や効率主義、
データ至上主義とかばかりに陥(おちい)っているような社員には、
『もっと、自分にも他者にも思いやる優しい感情を大切にしないとだめだよ』って教えてるんだ。
みんな、子どものころのことって、忘れていくばかりなのかな。
しかし、おれも、しんちゃんが言うように、子どものころって、黄金のような輝く時間だったと思う。
まさに、心の宝石って感じかな。あっははは」

「おれも、子どものころの記憶は、輝くような日々だったって感じです。
いまも心の宝物って感じで。
いつまでも、いくら歳を取っても、そんな日々を過ごしたいし、
それは心の持ち次第で、実現可能だと思うんですけどね。竜さん。あっははは」

「そのとおりだよ。未来に必要なフィクションは、
子どもの心を大切にして生きることかもしれない。
動物行動学者で京都大学名誉教授の日高 敏隆(ひだかとしたか)さんは、
『人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか、世界を認知し構築しえない』ってね。
学者も研究者も、われわれも、何か探って、
新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるんだ、ってね。
そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、
それによって新しい世界が開けたように思うんで、それは新鮮な喜びだって言っているよね。
人間はそうしたことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだってね。
そんなことに経済的な価値があろうがなかろうが、
人間が心身ともに元気に生きてゆくためには、
こういう喜びが不可欠なんっだって、言っているよね 」

「イリュージョンですかぁ。 幻想や幻影ってことですよね。
ハラリさんが言っている、
『実は全てフィクション』ということと、ほとんど同じですね。
そうか、人間は、そういう動物なんですかね。竜さん。あっははは」

「そ、だね!」と言って、竜太郎も笑った。

 2019年1月1日のNHK・BS1の『サピエンス全史/ホモ・デウス』の番組のラストでは、
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリさんは、
『いま気にかけていることは、次の時代を生きる子供たちのことだ』と、こんなことを語っている。

『子どもたちは歴史上初めて、成長したときにどんな世界になるのか、
分からない時代になるのです。将来働く環境や人びとの絆(きずな)が、
どんなものになるか、想像もつかないのです』

『ではどうしたら良いですか?』という質問に、

『最も大切なことは、自分自身を知ることだと思います。
月並みかもしれませんが、自分が何者であるかを理解することです。
テクノロジーを追い求めるだけでなく、現状に満足する方法を学び、
自分の内なる考えを理解することに時間を使うべきなのです。
あなたの心はどんな声を発していますか?
あなた以外にあなたを理解できる人は誰もいません。
ほかの誰もあなたの頭の中をのぞいて見ることはできないのです。』

☆参考文献☆

1.吉本隆明の経済学 中沢新一 編著 筑摩書房
2.NHK/クローズアップ現代 (2017.1.4.)
3.NHK/BS1/衝撃の書が語る人類の未来『サピエンス全史/ホモ・デウス』
(2019.1.1.)
4.幸福論 アラン 白水ブックス
5.ゲーテの処世術 鈴木憲也 編著  KKベストブック 
6.動物と人間の世界認識 日高敏隆 ちくま学芸文庫

≪つづく≫ --- 149章 おわり ---

150章 米津玄師(よねづけんし)を語る、信也と竜太郎

150章 米津玄師(よねづけんし)を語る、信也と竜太郎 

 2019年2月1日、金曜日、午後7時。

 店のドアの横には、インスタ映(ば)えもする、『Cafe and Bar ゆず』の、
LEDのネオンサインが青く輝いている。

 仕事帰りの、信也と竜太郎が、カウンターの席で寛(くつろ)いでいる。

 24歳の女性バーテンダーの沢井悠花(さわいゆうか)は、
手際(てぎわ)も良くシェーカーを振い、ふたりにマンハッタンを作る。

「悠花ちゃんのその笑顔を見ながら飲むマンハッタンは格別だからなぁ」と竜太郎は言う。

「竜さんは、褒(ほ)めるのお上手ですよね」

 悠花は爽(さわ)やかな目元(めもと)で微笑(ほほえ)む。

「おれには言えないセリフですよ。そう思っていても、照(て)れちゃうし。あははは」

 信也がそう言って笑う。竜太郎も悠花も笑った。

「米津玄師の話だけど、彼って、宮崎駿の作品のような世界が作れたら、それが理想だって、
『ロッキング・オン・ジャパン』で語っているんだよね」と竜太郎。

「ああ、それって、俺も読みましたよ。わかる気がしますよね。彼の音楽聴いていても、
米津さんも、子どものころの記憶とか大切にしていることが、よくわかる気がしますからね」

「米津さんは、ジブリみたいになりたいって語っていてね。ジブリって、間口が広くって、
子どもでも、オトナでも楽しめるわけだしね。ああいう間口の広い世界を作れるというのは、
人の潜在意識を呼び起こすものも、ちりばめられていて、それは難しいことだし、
世界一美しいことだから、そういうものを僕は作りたいって、語っているよね。
そんな米津さんには共感するけど」

「おれも、そんな米津さんの言葉には、まったく同感しますよ、竜さん。
彼って、音楽の素晴らしさは、ネガティブな部分からしか出てこないって言っているんですよね。
編集長の山崎洋一郎さんも、本当にそうだよねって同感してましたよね。
世の中も、実際には、ネガティブで、否定的、消極的、そのものですからね。あっははは。
米津さんは、『もの作りは孤独からしか生まれてこないって僕は思っていて、
結局自分の美意識を信じるしか道はないというか』なんて言ってるけど、それも同感ですよ」

「米津さんって、まだ27歳と若いのに、リアリストで、現実をよく見ているよね、しんちゃん。
その視点のユニークなところは、やっぱり『ロッキング・オン・ジャパン』で、
『ぼくは周(まわ)りにいる人間を常日頃バカにしているんですよ。
バカにすればするほど、自分をバカにするってことになってゆくって思うんですけど。』
なんて言っていて、笑っちゃうくらい、おもしろい発言だよね」

「米津さんは、『人と人とは絶対にわかり合えないものであるというのがぼくの根幹にはある』
って言ってますけど、まあ、そう考えて、人と付き合えば、対人関係で傷つくことも、
少なくなるんでしょうしね。そんなとこも、リアリストですよね。
芸術家としてみても、現実と夢を見ることとのバランスが非常に優れているって思いますよ」

「全(まった)くだよ、しんちゃん。あっははは」

「米津さんは、『Lemon(レモン)』を作れたおかげで、《普通にならなきゃならない》
《普通でありたい》っていうコンプレックスみたいなものが、
1個浄化したんだろうなっていうのがありますね。』と語ってますけどね。
また彼は、『上品と下品って、世の中にあるものを敢(あ)えてふたつに、
二項対立して分けた時に、下品な方向に恥ずかしげもなく行ける人間になりたいって、
思ったんですよね。そっちのほうが楽しいから。そっちのほが、もっと、
下品の中にあるいろいろなものが、自分の中に入ってきて、それが掻(か)き混(ま)ざって、
また新たな音楽になる。長く音楽を作っていくにあたって、
ものすごく大事な大切なプロセスっだと思うんですよ。』
なんて語ってますけど、この言葉なんかは、音楽作りの参考になりますよ。
『Lemon』の中に入っている『はい』らしい掛け声は、米津さんの声で、
そんな下品のプロセスから生まれたんでしょう。あっははは。
『自分のみっともなさのようなものを音楽で見せることはずっとしてきたんですけど、
それをもっとダイレクトにやることが1番必要なことかな、みたいに考えてはいて、
そう思いながら曲を作ってたら、ほんと何も考えていなかったんですけど、
《はい》とか自分の声を入れている自分がいて。』とか語ってますからね。
インタビューする編集長の山崎洋一郎さんが
『なんかクソみたいな気分の《はい》が入っていると思ったら、
そういうことね』って言って笑ってましたよね。
おかしいですよね、竜さん。あっははは」

「わたしも、『Lemon』は大好きな歌なんですけど、あの掛け声は子どもの声かと思ってました。

 カウンターの中で、ふたりの話を聞いていた悠花(ゆうか)が笑顔でそう言った。
白の開襟ブラウス、黒のベスト風エプロンが、女性バーテンダーらしく可愛(かわい)い。
去年の11月から悠花は、≪カフェバー・ゆず≫のバーテンダーをしている。
評判もよくて、女性客も多い。

「悠花ちゃん、おれ、マンハッタンのおかわりね!おれも、あの『Lemon』の掛け声は何!?
って思ってたけど。そうなんだ、米津さんの声か。あっははは」と竜太郎は笑う。

「米津さんは、『ロッキング・オン・ジャパン』で、1ページを使って『かいじゅうずかん』という、
怪獣のイラストが掲載される連載を描(か)いてましたよね。
その28回の最終回のイラストの、その怪獣の名前は《かいじゅう》で、人間の姿をしていて、
横を向いて、姿勢もよく立っている、可愛(かわ)いくて寂しげな女の子の姿をしているんですよね。
『体のつくりは人間とまったく違うが、見た目は人間そのもの。
話す言葉も、感覚も人間と同じで、自分自身、自分のことを人間だと思っている。
自分が《かいじゅう》であることも知らずに死んでいくことも多い』という米津さんの解説があって。
その編集後記には、編集長の山崎さんが、そのイラスト見て、
『僕は本当に感動しました』と語って、『米津玄師は、怪獣の本質を知り、
人間の本質も知り、その上で、コミュニケーションを取り合いながら、
どこかへたどり着こうよ、という決意をしたんだと思います。
怪獣と人間とを分ける価値基準もない、未来の光景のようで廃墟でもあるような、
暗闇のようで光にあふれている。思い出の残像のようだけど何よりも確かな、
そんな世界へともう恐れることなく歩き出そうとしているのだと思います。』って語ってるんですよね。
そんなふうに、2015年ころに、山崎さんは、米津さんの才能を高く評価しているんですけど。
米津さんも当時、『自分が普通になって、幸せに暮らすためには、《サンタマリア》を作って、
普遍的な音で、普遍的な言葉で、何かを表現するってことしか残ってなかったんですね。』
と語っていますよね。こんな米津さんの生き方や発言からは、
やっぱり、米津さんも、心とでもいうのか、魂とでもいうのか、愛とでもいうのか
目には見えない、語ることも難しい、
そんな何かを大切にしていたんじゃないかと考えるんですけどね」

「米津さんは、『昔から人とのコミュニケーションがうまくとれない人間で、
そういう軋轢(あつれき)の中で暮らしてたんですけど、高校の時とかほんとにひどくて、
クラスメイトが外国人どころか、動物にしか見えない。
もしかしたら噛(か)み殺されるかもしれない。ヤバいからすみっこのほうでじっとしていよう、
ということをずっと思ってて・・・ほんとに嫌(いや)で。
専門学校は、高校に比べたら自由じゃないですか。別に行かなくてもいい。
そう思ってたから1年で辞めるんですけど、で、ボーカロイドっていう素晴らしい
砂場を見つけて、そこでずっと遊んでたんですね、誰の視線も気にせずに。
1年くらい遊んでいたら、やっぱり反動っていうか。自分はもともと、
人とコミュニケーションとれない、そういうところで生まれ育った人間であって、
だから、ブカロ界隈の友達もほとんどいないんですよ。』とか語っているよね。
2015年のこんな対談に対して、インタビューの山崎さんは、『米津君は生まれたときから、
疎外感と孤独感、その一方で、持っている巨大な才能のふたつを行ったり来たりする、
綱渡りのような半生(はんせい)を歩んできたんだと思うよ。』って言っているよね。
まあ、いまの世の中がこんなふうに、おかしいから、米津さんの考え方や、
生きる姿勢のほうが普通になっているよね。しんちゃん」

「やっぱり、米津さんを見ていても思うけど、子どものころのある時期のころが、
オトナになっても、忘れてはならない、幸福に生きるための原点なんだと思うんですよ。
現代社会では、そんな子どものときの心を、いつ日か、失ったり、不要なものとしたりして、
まったく無くしてしまう人間が多いんでしょうね」

「おれもそう思うよ、しんちゃん」と竜太郎。

「そうですよね、わたしも、しんちゃんの子どものころの心が大切、
っていう考え方が大好きです!幸せに生きるための原点ですよね!」と悠花も微笑んだ。

☆参考文献☆

 ロッキング・オン・ジャパン 2012年 7月号、8月号。
                   2013年 8月号。
                  2015年 11 月号、12 月号。
                   2018年 12月号。

≪つづく≫ --- 150章 おわり ---

雲は遠くて(3)

雲は遠くて(3)

愛と 自由と 音楽と 共に 成長していく、現代と 同時 進行の、若者たちの 物語。 <詩と散文と音楽の広場> http://otoguroippei.g1.xrea.com/

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-04

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 101章 正月の信也と心菜と由紀の楽しいひととき
  2. 102章  信也と竜太郎たち、詩や芸術を語り合う
  3. 103章 信也たち、ゲス乙女のことや、男女のことを語り合う 
  4. 104章  信也と竜太郎、芸術や僧侶の良寛を語り合う
  5. 105章 back number の ≪青い春≫
  6. 106章 落合裕子のバンド活動休止と誕生パーティー
  7. 107章 信也と裕子、愛について語り合う
  8. 108章 信也、吉本隆明の芸術言語論について講演する
  9. 109章 ノーベル賞の大村智先生の話で盛り上がる 
  10. 110章 信也と竜太郎たち、吉本隆明を語り合う
  11. 111章 子ども的 段階の賛歌 ( ジョバンニや カンパネラのように )  
  12. 112章 芸術と自然は、人間をまともなものにする
  13. 113章 信也と竜太郎、本田宗一郎を語り合う 
  14. 114章 信也、『詩とは、芸術とは何か?』の講演する  
  15. 115章  信也が連載マンガの主人公になる
  16. 116章 マンガの『クラッシュ・ビート』が連載開始される
  17. 117章  信也たち兄妹(きょうだい)、ボブ・ディランを語る
  18. 118章 芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯!
  19. 119章 信也たち、マンガ『クラッシュビート』を語り合う
  20. 120章 クリスマス・パーティーでラモーンズをやる信也たち
  21. 121章 『君の名は。』と、子どもの心や詩の心
  22. 122章 芸術的な生き方をちょっと考えてみるのもいいのかも?
  23. 123章 ≪Memory 青春の光≫を語りあう信也と裕子
  24. 124章 中島みゆきの『恋文』をカヴァーする信也
  25. 125章 中島みゆきを語る信也や詩織や美樹や真央たち
  26. 126章 ボブ・ディランの『コーヒーもう一杯 』を聴く信也
  27. 127章 All We Need Is Love (愛こそはすべて) 
  28. 128章  I LIKE ROLLING STONES (わたしは転がる石が好き)
  29. 129章 下北沢・ビアフェスティバル・2017
  30. 130章 日本人やゴッホの自然観、ゲーテの語る自由
  31. 131章 ゆずの『夏色』と『栄光の架橋』を歌う信也 
  32. 132章 りんりんと 歌っているよな 虫の声
  33. 133章  乃木坂小学校・合唱団の子どもたち
  34. 134章 信也と詩織のクリスマス・イヴ
  35. 135章 クラッシュビート・メンバーたちの新年会
  36. 136章 ≪カフェ・ゆず≫で歓談する、G ‐ ガールズ
  37. 137章 信也と心菜が、ベンジー(浅井健一)を語る
  38. 138章 ロックンロールと仏陀(ブッダ) 
  39. 139章 ロックンロールはリアルなラブ&ピース
  40. 140章 信也と竜太郎、バーで歓談する
  41. 141章 音楽に世の中を良くするパワーはあるのか?
  42. 142章 夏目漱石とロックンロール
  43. 143章 夏目漱石とロックンロール(その2) 
  44. 144章 モーツァルトのエピソードに感動する信也
  45. 145章 ラッパーのケンドリック・ラマーと、信也
  46. 146章 若い日の 夢追いかける 秋高し
  47. 147章 映画『クラッシュビート・心の宝石』、大ヒットする
  48. 148章 心の宝石
  49. 149章 信也と竜太郎、サピエンス全史やホモ・デウスを語る
  50. 150章 米津玄師(よねづけんし)を語る、信也と竜太郎