幸せを願う樹


 意識が少しずつ遠のいていく。濁流に飲みこまれ、このまま川の底へと消えてしまうのだろうか。だけど構わない。むしろこのまま眠ってしまいたかった。だってもうルネはこの世界のどこにもいない。ルネが存在しない世界に、僕がいる意味なんて無いのだから。
 どれくらいの時間かは分からないけど、僕は意識を喪っていた。誰かが僕の事を抱き上げた。ルネ?
 逆光で顔は見えない。ここはどこだろう。よく分からないけど、意識が朦朧としてそれ以上考えられなかった。手を影に向かって伸ばそうとしたけど力が入らない。その影は、伸ばそうとした僕の手を温かい手でぎゅっと握った。
 そして僕の意識はまた遠のいていった。川底に引き込まれそうになった時の冷たい感覚とは違う。何か、ぽかぽかと温かいものに包まれるような感触に安らぎを覚えながら。そして僕は眠りについた。
  

 ルネに対する記憶がいつ頃からあるのかは覚えていない。ただ、ルネが僕に話しかけるとき、いつも髪を優しく撫でてくれたことは覚えている。そして、「ね、ノエル」と微笑みながら同意を求めるのだ。僕は意味が分からないまま、ただ曖昧に頭を縦に振った。ルネはいつだって優しく、そして口にはしなかったけど、寂しそうだった。僕にはなんとなくそれが伝わった。
 もうひとつはっきり覚えているのは、ルネのベッド脇に置いてあった写真立て。中の写真には、ルネと僕、そして知らない男の人の3人が楽しそうに笑いながら写っている。いつ撮ったものなのかは分からないけど、写真の中のルネは今よりもずっと若く元気そうに見える。
 ルネはこの写真を見るとき、いつも悲しそうな顔をしていた。「悲しい」という感情は当時の僕には良く分からなかったが、辛そうなルネの顔を見るのは嫌だったから、僕はこの写真が嫌いだった。
 一度、僕はこの写真を服のお腹の中に隠した事があった。深い意味があったわけではない。ただ、この写真が無ければルネは写真を見ることも無く辛そうな顔をする事も無くなるのではないかと思ったからだ。だけど実際は違った。
 ルネは必死になって写真を探した。
「ノエル!写真どこにあるか知らない?」
 ルネは縋るような目で僕に聞いた。
「知らない」
 僕は咄嗟に嘘をついた。この家には僕とルネしかいない。今思えば、こんな嘘すぐ気付くはずだ。でもルネは僕の言葉を信じ、部屋中ちらかしながら探し回った。
「ルネ……」
 僕はおずおずと写真をお腹から取りだした。
 こんな筈ではなかった。ルネの悲しそうな顔が嫌だったのに、僕が写真を隠したことでルネをもっと悲しませてしまっていたのだ。
 写真を見たルネはそれを手に取ると、ほっと安堵の息を吐き大事そうに胸に抱えた。
 ルネは僕の行為を決して咎めなかった。今思うと、きっとルネは僕がどうしてそうしたのか理解していたのだろう。幸か不幸か、このあたりから僕の心の中には、人間のような感情が少しずつ芽生え始めていたのだ。
 ルネはいつものように優しく僕の髪を撫でた。
「もうこのような事をしてはだめよ……ね、ノエル」
 僕は曖昧に首を縦に振った。
 どうして「してはだめ」なのか、僕は理解できていなかった。でも、ルネの言葉にはすべて従っていたと思う。あの時を除いては。
 
 この家には、おじいさんがよくルネの様子を伺いに来た。
「ルネ、調子はどうだい?」
 そういいながら、いつも勢いよくドアを開けた。ドアからは、大きな体にとって入り口が狭いからか、最初は顔だけ覗かせる。
「お父さんったら心配性なんだから。元気よ」
 ルネは笑いながら答える。
「そうかそうか!元気が一番!」
 おじいさんは、そう言うといつも体をゆらしながら豪快に笑った。
 おじいさんは、僕にとってルネ以外で知っているただ一人の人間だった。おじいさんもルネと同様に優しかった。そして、おじいさんからは何か温かい空気を感じた。僕にとってこの二人がいる世界が全てだった。
 家から外に出た事は一度も無かったし、出たいと考えたことも無かった。そして、この世界がずっと続くものだと思っていた。
 いつ頃からだろうか。ルネがよく咳をするようになり家から出なくなったのは。ルネはもともと、そんなに外に出ることは無かった。だけどこの頃から一度も出る事はなかったと思う。あの最後の日を除いては。
「ルネ、お医者さんを呼ぶから診てもらいなさい」
 おじいさんが言った。この時は、おじいさんはいつものようには元気でなかった。珍しくしかめっ面をしていたのを今でも覚えている。
「ありがとうお父さん。心配ばかりかけてごめんなさい。ノエルもごめんね、心配かけて」
 ルネは僕の髪を優しく撫でながら言った。何が起こっているのかは理解できていなかったが、たぶん僕は心配そうな顔をしていたのだと思う。今までと違うルネの様子に、不安を覚えていたのだ。
「ノエル、わしがいいと言うまでここから出てはだめだよ」
 おじいさんはそう言い、僕をルネとは別の部屋に移した。
 そのあと家のドアが開く音がし、おじいさんと知らない男の人が話す声が聞こえてきた。お医者さんがこの家に入ってきたようだ。そしてルネの部屋へと入っていく音が聞こえた。
 時間としては10分くらいだったと思う。そしてお医者さんは家を出て行った。
「ノエル、もう出てきていいぞ」
 おじいさんがそう言いながら、部屋のドアを開いた。
「よく言いつけを守ったな。いい子だ!」
 おじいさんは僕を抱き上げ、頭をわしわしと撫でた。
「ルネのとこに行きたい」
 僕がそう言うと、おじいさんは豪快に笑った。
「まったくおまえは、ジョアンと同じで甘えん坊だな。ルネが大好きか」
 ジョアンが誰なのか分からなかったけど、その時はあまり気にならず、ただルネのもとに行きたかった。同じ家にいるけどルネから離されたのは初めてだったから。
 それからというもの、同じような事が何度かあった。そして、ルネの体はどんどん衰えていった。僕は、もしかしたらお医者さんが原因でルネが弱ってしまっているのではないかと思った。
「おじいさん、どうして僕はこの部屋にいないといけないの?」
 ある時僕はおじいさんに聞いた。
「うーん……それはじゃな。その……ノエルが動いたり話したりすると、人を驚かせてしまうんじゃよ」
「どうして?ルネやおじいさんだって動くし、話しだって普通にするじゃん」
「いや……そうなんじゃが……」
 おじいさんは困った顔をした。
「分かった、今度ゆっくり話しをしよう。だから今日はいつもどおりお医者さんが帰るまでここにいてくれんか?」
「うん……」
 おじいさんを困らせるつもりなんてなかった。どうしておじいさんがそんなに困ってしまったのか、よく分からなかった。僕が「特別」だなんて思ってもいなかったから。

 やがて、ルネはベッドから自分では起き上がれないくらい衰弱していった。
 ルネはいつだって僕に優しかった。僕がルネの元に行けば、いつも優しく髪を撫でてくれる。でも、ルネの僕を見つめる瞳は少し変わってきていた。優しい瞳なのは変わらない。だけど、それ以外の別の感情も入っているようだった。
「ノエル……ごめんね」
 ルネはよく僕に謝るようになった。
「ルネ、何を謝っているの?」
 僕はその度に、よく分からなくてきょとんとした。だけどルネは何も答えてはくれなかった。そしてただ大粒の涙をながした。
「ルネ、泣かないで」
 僕はどうしていいか分からなかった。僕は涙を流した事はない。でも、涙を流すのは悲しい気持ちの時だということはなんとなく分かっていた。
 この頃、おじいさんは毎日のように家に来るようになっていた。ルネのために買物し、料理を作ったりしていた。そして僕の話し相手をしてくれた。
 だけど、僕はもうあの質問はしなかった。おじいさんが困ってしまうのは何となく分かっていたから。
 おじいさんは以前にも増して家の中では元気だった。豪快に笑い、料理や洗濯を家中あくせくと動き回りながらやっていた。だけどきっと無理をしていたんだろう。おじいさんの目は赤く腫れていることが多かったから。
 
「……お父さん、ノエルのことをお願いします」
 それが最後の言葉だった気がする。
 その日の事はよく覚えている。窓から見る空の色は、何も無い日常のように青く澄みきっていた。ルネはベッドでしんどそうに吐息を吐いていた。僕はどうすることもできず、ただ側にいた。何日か前から泊り込んでいたおじいさんも、僕と同じようにただ側にいるだけだった。きっと、もう何もできることは無かったのだろう。
「……ノエル……おいで」
 ルネはかぼそく、呟くような声で僕に言ってベッドの中に招いた。僕は少し途惑った。ルネのベッドの中に入ることなんて今まで無かったから。でも、言われるままにベッドの中に体を滑り込ませた。
「……ジョアンは甘えん坊で、いつもこんな風に私のベッドの中に入ってきたたわ……」
 ルネは苦しそうに少し顔を歪ませながら微笑んだ。
「ジョアンって誰?」
 いつだったか、前にも聞いた名前だった。
「……ノエル、あなたはジョアンとは違う……もっとノエルを、ノエルとして愛してあげたかった……ごめんね、ノエル」
 どういう意味なのか、よく分からなかった。でも気にしなかった。ただただ、ルネの胸の中がとても温かくて気持ちよかった。僕はいつの間にか吸い込まれるように眠ってしまった。遠くでルネの声が聞こえた。
「お父さん、ノエルのことをお願いします」
 そんなことを言っていた気がする。
 そして、僕が目を覚ました時、ルネの体は冷たくなっていた。おじいさんの膝の上は涙で滲んでいた。体を震わせ、声を漏らさずにずっと泣いていたようだ。
「おじいさん、どうしたの?」
 おじいさんが泣く姿を見るのは初めてだった。
「……ノエル、目が覚めたのかい……ルネの顔をごらん、とても安らかな顔をしている。今まで、よく頑張ったな」
 ルネの顔を見ると、確かに安らかな顔をしていた。
「ルネ、もう大丈夫なの?」
 ルネは何も答えてはくれなかった。
「……ノエル、ルネは長い眠りについたんじゃ」
「いつ頃目を覚ますの?」
 おじいさんは、僕の頭を優しく撫でた。だけど何も口にはしなかった。僕はルネの「死」を、この時は理解していなかった。そしておじいさんは、ルネの死を口にはしたくなかったのだろう。

 ルネの葬儀は町外れにある川の対岸の「墓地」という場所で行なわれた。
 ルネの体は、狭い小さな箱の中に入れられ車で運ばれた。
「ノエル、外に出たら何があっても決して動いたり話したりしてはだめじゃよ」
 おじいさんにそう言われていたが、初めての外の世界は僕には刺激が大きかった。初めての外の空気、初めての車、そして初めてのたくさんの人達はなぜかみんな黒い服を着ている。すべてが初めてだった。そしていつも側にいたルネは箱の中に入れられ、側にはいなかった。
 おじいさんに抱かれて移動したが、つい視線をきょろきょろさせてしまった。そして、その都度おじいさんに叱られた。
「こら、だめだと言っているじゃろう」
 他の人に聞こえないように小さな声で僕を叱った。しかし、僕はなにがなんだかよく分からず不安だったのだ。そして、叱られてもしばらくしたらまた同じ事をしておじいさんに叱られる。その繰り返しだった。幸い、僕が動いている姿はおじいさん以外には誰にも見られていなかったみたいだけど。
 墓地の中で、一度ルネが入っている箱は開かれた。参列した人達は、それぞれ思い思いにルネに対して何か言葉を発し、箱の中に花などを置いた。
「ノエル、ルネの顔をしっかりと目に焼き付けるんじゃよ」
 おじいさんは僕に囁いた。
「ルネ……長い間おつかれさま。天国で家族3人仲良く暮らすんじゃよ」
 おじいさんはルネの頬を撫で、涙ぐみながら言った。ルネの返事はなかった。
 天国ってどこだろう。僕は分からなかった。でも、ルネが天国と言う場所に行ったことは分かった。そして、「3人」とはルネと僕とおじいさんで、またすぐに会えるものだと思っていた。
 参列者のルネに対する挨拶が一通り終わると、ルネの入っている箱は再び閉じられ、そして土の中に埋めれられた。
 それを見て、僕は思わずおじいさんの腕から飛び降りようとした。しかしおじいさんは僕をぎゅっと抱き締め、降ろしてはくれなかった。おじいさんの方を見ると、おじいさんはただ無言で首を横に振っていた。
 僕は結局、ルネの箱が土の中に埋められるのを黙って見ているしかなかった。
 どうしてこんな事をするのだろう。ルネが目を覚ました時、外に出られなくなってしまうのに。
 僕は不安で胸がいっぱいになった。でも、おじいさんも黙ってみているのだから、きっと間違ってはいないのだろう。そう思っていた。
 一通り作業が終わると、参列者はみなそれぞれ家路へとばらけた。
 僕はおじいさんの腕に抱かれながら、あの家に戻るものと思っていた。しかし途中でおじいさんの足は違う方向へと向かった。
「僕達の家はこっちだよ」
 僕はおじいさんに、家の方向を指差した。
「ノエル、こっちでいいんじゃよ。これからノエルは、わしの家で一緒に暮らすんじゃ」
「どうして?ルネが帰って来た時、誰もいないと寂しいよ」
「ノエル……もうルネは……」
「僕、ルネの帰りを家で待つよ!」
「ノエル、いい子じゃから、わしの言う事を聞いておくれ……」
 僕は強く首を横に振った。
 おじいさんに反抗したのはこれが初めてだった。でも、どうしてもおじいさんに従うわけにはいかなかった。もしおじいさんの言葉に従ったら、もう二度とルネには会えない気がしたから。
「困ったのう……」
 おじいさんは途方にくれた表情で僕を見た。僕は目を合わせず、俯いてぎゅっと口を閉じた。ここで妥協するわけにはいかなかった。
「……分かった、ノエル。ルネの家に帰ろう」
 おじいさんは寂しそうに笑って言った。
 家に着いた時には、すでに日が沈み暗くなっていた。部屋の明かりを点けると、朝家を出た時と同じ景色があった。そこにルネがいない事を除いては。
「ノエル、わしは一度自分の家に戻る。また明日来るから、家から出てはだめじゃよ」
 おじいさんはそう言うと家を出て行った。
 その日は、小さな家の中が広く感じた。ルネはいつ帰ってくるのだろう。たぶん今回は早く帰ってこないだろう。そんな気はしていた。
 することは何も無いため、仕方なくいつもより早く寝る事にした。だけど寝付く事はできなかった。初めて外の世界に出て興奮したからだとその時は思った。でも今思えば、僕は漠然と理解していたのだ。もうルネが戻ってこないということを。
 ルネのベッドに潜り込んでみた。ルネはそこにはいない。でもルネの匂いがした。僕はなんだかほっとして、やっと眠る事ができた。
「ノエル、よく眠れたようじゃな」
 陽射しが眩しくて目を覚ますと、おじいさんが僕の顔を覗いていた。
「おじいさん……」
 おじいさんの顔を見ると、なんだかほっとした。昨日別れてからそんなに時間は経っていないはずなのに。
「ノエル、部屋の整理をするから手伝ってくれんか?」
「うん」
「ノエルは床を雑巾で拭いておくれ」
 床には埃が積もっており、雑巾はあっという間に汚れた。そういえば、ルネがベッドから出なくなってからというもの、ほとんど床拭きはしていなかったのだ。たまにおじいさんが拭くくらいだっただろう。 
 おじいさんは、引き出しから衣服などを取り出していた。だが、手はほとんど動いていなかった。僕と目が合うと、少し困った顔をしながら笑った。
「遺品整理したかったんじゃが、なかなか難しいのう。思い出の詰まったものばかりじゃからな」
「おじいさん、遺品ってなに?」
「うーん、そうじゃな……天国に行った人が使っていたものじゃよ」
「天国ってどこにあるの?」
「ノエルはなかなか難しい事を聞くのう……それは遠くて近い場所じゃ。わしやノエルの胸の中にもある場所じゃよ」
「ふーん」
 僕はよく分からなかったけど、なんとなく頷いた。
「これはジョアンの衣服か……処分できずにずっと持っていたんじゃな」
 おじいさんはまた涙ぐんでいた。なんだか泣いてばかりだ。ルネが家にいた時は一度も涙を見せなかったのに。
「やはり、全部残しておくか……整理なんてできんのう」
 おじいさんはそう言うと、引き出しの整理はあきらめて僕と一緒に床拭きをした。
「これだけは持って帰るとするかのう」
 おじいさんは何か手に取ってそう言った。それを見てみると、ルネが大切にしていた写真立てだった。前に僕が隠してルネを悲しませてしまったやつだ。
 僕はおじいさんの袖を引いた。
「それはだめだよ。ルネが大切にしていたものだから、持って帰るとルネが悲しむよ」
「……うーん」
 おじいさんは大きな溜息を付いた。そして一つ大きく息を吸うと、僕の目線までしゃがんで、ゆっくりと話しかけた。
「いいかい、ノエル。ルネは……ルネはもうどこにもいないんじゃ」
「おじいさん、何言ってるの?ルネはあの箱の中にいるよ。おじいさんだって昨日一緒に見たのに」
「じゃがな、ノエル……ルネはもう動く事も無ければ、話すことも無い。あの箱の中のルネは、ルネであって、もうルネじゃ無いんじゃよ」
「何を言っているのか分からないよ!」
 僕は叫んだ。おじいさんは困りきっていた。
「ノエル……いつかお前も、分かる日が来るはずじゃ……」
 僕は腕を伸ばして、おじいさんの手の中から、写真立てを奪った。
「この写真はルネのだ!持っていくのは、おじいさんだって許さない!」
「ノエル……」
 おじいさんはそれ以上何も言わず、僕を強く抱き締めた。おじいさんの体は小刻みに震えていた。

「わしは、明日役所に行かないといかん。また明後日来るから、この家で待っているんじゃよ」
 そう言っておじいさんは名残惜しそうに部屋を出て行った。おじいさんは僕を一緒に連れて行こうとしたが、僕がこの家を出てしまったらルネが戻ってきたときに一人になってしまうから断った。
 おじいさんが出て行った部屋の中は、とても静かだった。ただ壁に掛けた鳩時計の時間を刻む音だけが、ちくたくと鳴っている。そういえば、ルネはこの鳩時計は修理すれば鳩が奥から出てくる仕掛けになっていると言っていた。結局まだ一度も見ていないから、ルネに修理をしてもらわないといけない。
 ルネがいないとどうしていいか分からなかった。今まで、どういうふうに過ごしていたのか思い出すこともできない。時間が過ぎるのがとても遅く感じられた。
「ルネ……」
 呼んでみたけど返事は返ってこなかった。そんなの当たり前だ。ルネはこの部屋にいないのだから。
 そういえば、あの写真立てはおじいさんが持っていこうとしてテーブルの上に置いたままだった。腕を伸ばして写真立てを掴むと、元にあったルネのベッドへ向かった。ルネのベッドは、ルネの匂いがしてこの家で一番ルネを近く感じた。
 ベッドの中に潜り込んでみると、ルネの匂いがもっと近くに感じられて安心できた。顔から上だけを布団から出し、写真立てを見た。僕とルネと知らない男の人。この男の人は誰だろうか。
 この写真の「僕」は少し僕と違う気がしてなんだか不思議だ。そんな事を考えていたら、いつの間にか眠ってしまい、そして目を覚ました時には朝になっていた。  


「ルネ?」
 朝の陽射しが眩しくて起きると、すぐにルネを呼んだ。だけど返事は無かった。まだルネは戻っていないようだ。とりあえず眠い目をこすりながら家中を回ったみたが、やはりルネはいなかった。
 手持ちぶたさでルネが僕によく読んでくれていた本をパラパラとめくってみた。だけどすぐに飽きてしまった。
「そうだ!」
 僕は雑巾を水で濡らして床掃除を始めた。そういえば、昨日は床掃除を途中までしたけど、中断したままだった。床を磨くのは大変だけど、頑張ればその分綺麗になるので、始めると結構楽しかった。床がぴかぴかなのを見たら、おじいさんはきっと目をまるくして驚くだろう。それにルネはきっと喜んで誉めてくれる。
 床を磨き上げるのには時間が結構かかった。ふと気がついた時には、鳩時計の針は午後2時くらいの時間を指していた。窓の外を見てみると、朝の眩しさが嘘のように暗い曇り空になっている。
 部屋の中もすっかり暗くなっていたので電気を点けると、部屋中が温かいオレンジ色で包まれた。掃除も終わり少し疲れたので一休みすることにした。キッチンの棚から僕用のカップを取り出し、水道の管から水を注いで飲んだ。
 そういえば昨日からずっと水を飲んでいなかった。水を飲むと体全体が潤ってきた。ルネのベッドに潜り込んで休んでみたが、昨日とは違って眠りにつくことは無かった。
 気のせいかもしれないけど、昨日よりもルネの匂いが薄くなっている気がした。ルネはいつ戻ってくるのだろう。もしかしたら戻ってこないんじゃないか。そんな不安が頭を過ぎった。
 おじいさんの「ルネはもうどこにもいないんじゃ」という言葉が浮かんできた。おじいさんは、どういうつもりであんなことを言ったのだろう。そんなはずは無い。だってルネはあの箱の中にいるのだから。
 ベッドから起き上がって部屋中を見回した。そうしたら、どうしてか分からないけど、
いろいろなルネの姿が浮かんできた。
キッチンで料理をするルネ。ルネはアップルパイをよく作った。僕にも切り分けてくれたけだ、僕は口の中に入れても飲み込むことができず、ルネは少し寂しそうに笑った。
 揺り椅子で編み物をするルネ。ルネはよくこの揺り椅子で編み物をしていた。今僕が着ているチョッキも、ルネが編んでくれたものだ。
 ベッドで僕のために本を読むルネ。ぼくはルネが読んでくれた本で、少しずつ言葉を覚えていった。そして、ベッドで僕の髪を撫でるルネ。
 部屋のいたるところにルネはいた。だけどルネは部屋のどこにもいない。
「……ルネ……ルネ!」
 僕はルネの名前を叫んだ。何か言いようの無い大きな不安が僕の胸を締め付けた。ルネに会いたくていても立ってもいられなかった。
 僕はベッドから飛び降りて、ドアへ走った。「この家で待っているんじゃよ」おじいさんはそう言っていたけど、もう抑える事はできなかった。
 ドアを開けると、激しい風と雨が僕に向かって吹き付けてきた。いつのまにか外は荒れた天気になっていた。空を見上げると、黒い雲が大粒の雨をざあざあと降らし、雲の隙間からは雷がぴかっと光を走らせて地面に轟いた。
  
 僕は雨の中、ルネのいる墓地へと走り出した。雨が顔を強く打ちつけ視界がぼやける。また、ぬかるんだ地面に足を取られて何度も転んだ。でもそんなのは全然気にならなかった。ただ足がもつれて上手く走れないのはもどかしかった。
 走っている間に誰ともすれ違わなかったのは、きっと幸運なことだったのだろう。
 川は雨水が集まって濁流になっていた。川を渡り切りルネが入っている箱が埋められている場所に着いた時には、体中泥だらけになっていた。
 やっとルネと再び会うことができる。だけど僕は、ルネの箱を掘り起こす事に躊躇いを覚えていた。「もし箱の中にルネがいなかったら」そんな不安を、ルネと再び会える期待と同じくらい感じていたから。
 僕は不安を掻き消すように顔を何度か横に大きく振ると、両手で土を掘り起こしていった。この作業は思った以上に大変だった。箱は深い場所に埋められていたし、僕の小さい手では一回で掻きだせる土の量は少なかった。それに、箱に近づけば近づくほど不安な気持ちが期待を上回っていった。
 いよいよ土を全部取り除き、後は箱を開けるだけになった。箱を空けたらルネは何て言うだろう。「わざわざ迎えに来てくれたの?」そう言っていつものように、優しく髪を撫でてくれるだろうか。それとも「勝手に家を出てはダメって言ったでしょう」そう言って僕を叱るだろうか。
 僕は勇気を振り絞り、一気に箱を開いた。

 そこにルネはあった。だけどルネはいなかった。
 そして僕は、ルネが「死んだ」ということをこの時理解した。
 おじいさんが言った事は正しかったのだ。
 ルネはもう動くことが無ければ、話すことも無い。そして、僕に向かって微笑みかけて僕の名を呼ぶことも無い。優しく髪を撫でてくれることだってもう二度と無いのだ。
 僕は箱を閉じ、掘り起こした土を元に戻した。なぜかは分からないけど、そうしなければいけないと思った。
 その後の事はほとんど記憶はない。たぶん無意識に家に戻ろうとしたのだと思う。そして川を歩いて渡ろうとしている時に、濁流に押し流された。
 意識がだんだん遠ざかっていく。濁流に飲みこまれて、このまま川の底へと消えてしまうのだろうか。そんなことをぼんやり思った。
 でもそれでも構わない。
 むしろこのまま眠ってしまいたかった。だって、もうルネはこの世界のどこにもいない。ルネが存在しない世界に僕がいる意味なんて無いのだから。


 ふわっと持ち上げられるような感覚で、ぼんやりとだけど意識が回復した。でも眩しすぎて目を開けることはできなかった。何かを掴もうと両手を宙に迷わせたけど、何も触れられなかった。
 ぎゅっと、体を抱き締められるような感触がした。そして、温かくて優しい匂いがした。ルネ?僕はうっすらと目をあけた。逆光が影になって顔を見ることはできない。だけどそこには確かに誰かいた。
「ルネ……」
 僕は声にならない声で呟いた。
 その誰かは、また僕を抱き締めた。体温が伝わってとても温かい。その時の僕は、川で流されて身体中冷え切ってしまっていたから。
 そしてその温かさに包まれながら、僕の意識はまた遠ざかった。

 目が覚めると、そこは真暗だった。体を起こして周りを見回しても、目が暗闇に慣れてなくて何も見えない。
 何があったのかとっさには思い出せなかったけど、すぐに嫌でも思い出された。おじいさんの言葉を無視して家を出たこと、川で溺れて意識を失ったこと、誰かに川から引き上げられたこと、そして……そしてルネが死んだことを。
 僕はもう永遠に眠ってしまいたかった。だけど目を覚ましてしまったのだ。
 少しずつ回りが見えてきた。どうやら、僕は知らない部屋のベッドに寝ていたようだ。そして、僕の体は拭かれ、上にはブランケットが掛けられていた。僕が来ていた服は、ワイヤーに吊らされ干されている。
 起き上がるため足を動かそうとして、側に何かあることに気付いた。それは人の頭だった。ベッドに頭を預け、すやすやと寝息を立てている。きっと僕をここまで運んだ人だ。
 ルネでは無い事は頭では理解していた。だけど「ルネじゃないか」という気持ちがどうしても捨てきれない。
 うつ伏せで寝ているから寝顔は見えなかった。僕はベッドから滑り降りると、いろいろと動き回って位置を変え、なんとかして寝顔を見ようとした。
「きゃっ……」
 何かに躓いて僕が転ぶのと同時に、その人は小さい叫び声をあげた。どうやら、僕はその人の足を踏んでしまったらしい。
 ぱちりと電気が点き、周囲は眩しいくらいに明るくなった。目を擦りながら必死に開けて確認すると、やはりルネではなかった。ルネとは似ても似つかない。
 ルネは綺麗な黒髪をしていたが、この女の子はどちらかというとおじいさんの白い髪の色に似ている。背丈だって、どちらかというと僕に近い。 
「目が覚めたんだ……よかった」
 女の子は嬉しそうに笑った。この女の子は僕の事を心配してくれている。そんな事は分かっていたけど、この時の僕にはこの子を思いやる余裕は無かった。
「良くなんて無いよ!どうしてそっとしておいてくれなかったの?僕は……僕はこんなこと望んでいなかったのに!」
 やり場の無い悲しみと怒りを、この子にぶつけた。
「ごめんなさい……」
 女の子は声を震わせて謝った。
 この子は何も悪くない。僕は怒りをぶつたことで冷静さを取り戻した。でも女の子に謝る気持ちにもなれなかった。女の子のすすり泣く音が部屋に響く。
 気まずい沈黙は、思わぬところから破られた。
「さっきからいったい何を騒いでいるんだい!」
 ドアをばんっと開く大きな音と同時に、怒鳴り声が聞こえてきた。
「サラ、さっき拾ってきた汚い人形、ちゃんと捨てたんだろうね?」
 声の方向を見ると、黒髪の女の人が立っていた。背丈などはルネに近い。だけど、荒々しい表情やしぐさはルネと似ても似つかなかった。
「なんでまだあるんだい。捨てるまで晩御飯は抜きだって言っただろ!」
 その女の人は、女の子を睨みつけた。女の子は怯えたように身をすくめ、何も言葉を発せられずにいた。
「あんたって子は、どうしていつも私に逆らうんだい?」
 そう言うと、女の人は僕の腕を掴んで引張りあげた。そして僕を部屋から連れ出そうとする。
「……お、お母さん、やめて!」
 女の子は、女の人の腕にしがみいた。
「久しぶりに話したと思ったら、私への反抗かい。本当に可愛くない子だね」
 女の子の傷つく気持ちが伝わって来る。僕が女の子に怒鳴った時よりもずっと傷ついている。だけど女の子は泣かなかった。 
「違う……違うの。でもこんな寒い日に外に放り出すなんて、可哀想だよ……」
「人形相手に、いったいなに訳のわからないこと言ってるんだい!」
 女の子は何も言い返せなかった。だけどその代わりに、しがみついていた腕の力を、さらにぎゅっと強めた。
「ふん、勝手にしな!」
 女の人はそう言うと、僕をベッドへと放り投げた。僕の体はベッドの弾力で反発し、横の壁にがつんとぶつかった。女の人が入ってきた時と同じようにばんっと荒々しくドアを閉じ、部屋を出ていく音が聞こえる。
「ごめんね、痛くなかった?」
 女の子が心配そうに僕の顔を覗きこんだ。
「別になんともないよ」
 僕は素気なく答えた。別に強がったわけではない。本当になんとも無いのだ。壁にぶつかった時に体に衝撃は走ったけど、ただそれだけのことだった。
「よかった……ごめんね」
 そう言うと、女の子は僕の頭を撫でた。
 懐かしい感じがする。ルネじゃないのに、まるでルネが隣にいるような感覚だ。
「だから何とも無いって!」
 僕は女の子の手を振りほどいた。煩わしかったわけではない。むしろ、ずっとそうしていて欲しかった。でも、そう思ってしまう自分自身が腹立たしかった。
「ごめんね」
 女の子はまた謝った。
「どうして謝るのさ!何も悪いことなんてしていないのに」
「その……ごめんなさい……」
 そして女の子はまた謝る。なんだか話しているのが馬鹿らしくなり、目を逸らした。
 僕はこの家を出ようと思った。外が寒かろうがなんの問題もないし、この女の子だって、僕さえいなければあの女の人と喧嘩する必要も無かっただろう。 
「ぐーきゅるきゅる」
 変な音が聞こえたので音の方向に目をやると、女の子がお腹に手をあてていた。
「……へへ、お腹が空いちゃった」
 視線が合うと、女の子は少し恥ずかしそうに笑った。
「食べ物だったら、部屋の外に置いてあるじゃん」
「え、そんなはず無いよ。だってお母さん晩御飯抜きだって言ってたし」
「そんなの知らないよ。でも食べ物の臭いは部屋の外からするよ」 
 女の子はドアへ向かい、音がしないようにそっと開いた。
「ほんとに置いてあった」
 女の子は板を両手に持って戻ってきた。その上にはパンとシチュー、それにサラダが追いてあった。
「一緒に食べよ!」
「僕はいらない。お腹空いたりなんてしないし」
「……ほんとに?」
「なんで嘘つく必要があるんだよ!」
 食べ物は少ない。おじいさんは、いつもこの3倍は食べていた。でもだからといって、僕はこの子のために遠慮なんてしない。
 この子の考える事は分からないことばかりだった。そして、あの女の人も僕にはさっぱり理解できなかった。この女の子を大切に思っているのを感じるのに、それとは反対の態度ばかり取っている。
「そういえば、きみの名前は?」
 女の子は、パンを頬張りながら尋ねてきた。
「ノエル」
 僕は素気なく答えた。
「へー、ノエルって言うんだ。いい名前ね。ノエルって呼んでもいい?」
「なんだっていいよ」
「それじゃあ……ノエル!」
 女の子ははにかみながら僕を呼んだ。
 この子はなんなのだろうか。僕には分からない。おじいさんは言っていた。僕は普通とは少し違うから、人前で動いたり話したりしてはいけないって。だけどこの子は、僕が話しても、なんとも思っていないみたいだ。
「そういえば、私の名前まだ言ってなかったね」
「知ってるよ、サラでしょ」
「……どうして知ってるの?」
 女の子は不思議そうな表情で僕を見つめた。
「君のお母さんがそう呼んでただろ!」
「あ、そっか!」
 女の子は納得した様子で手をぽんと叩いた。この子と一緒にいるとなんだか調子が狂う。僕はついさっきまで、ルネを喪った悲しみで胸の中がいっぱいだったはずなのに。
「ねえノエル。私の事はサラって呼んでね」
「うん」
 僕は目を背けて頷いた。どうせこの子の名前を呼ぶ事は無いと思っていたから。
 ここにいても仕方ないから、隙を見て家を出ようと思っていた。
 食事が終わって少しすると、女の子はうとうと眠たそうに目を擦った。
「眠いんならもう寝たら?」
「……うんそうする。でもその前に歯を磨いてくるね」
 そう言って部屋を出て行った。
 女の子が眠った後が家を出るチャンスだ。
 女の子は部屋に戻るとパジャマをクローゼットから取り出し着替えた。そして部屋の電気を消そうとしたが、その動作をふと止めた。
「そうだ、ノエル」
「どうしたの?」
「ベッドにおいでよ。一緒に寝よ」
「いや、別にいいよ。僕はベッドなんて必要ないし」
 正直、煩わしかった。女の子と同じベッドで寝ると、家から抜け出しにくくなる。
「ううん、私が一緒に寝たいの」
 女の子は頭を振った。
「……分かったよ」
 拒否するとかえって勘ぐられてしまうかもしれない。仕方ないから、女の子の提案に従いベッドで寝ることにした。
 女の子は部屋の電気をぱちんと消し、ベッドの中にもぐりこんできた。話しかけてこられたら面倒だと思っていたが、女の子は何も言わず、少ししてから隣からすやすやと寝息が聞こえてきた。
 女の子の体温で布団が温かくなっていた。それに何かいい匂いがする。おひさまの下で干したシーツみたいな匂い。こうしているとルネの温もりを思い出してくる。
 この家を出ることばかり考えていたけど、その後僕はどこにいけばいいのだろう。前の家に戻っても、もうルネはいない。おじいさんの家に行けばいいのだろうか。だけどルネがいないことに変わりはない。
 先の事はこの家を出てから考えればいい。僕はそう思いベッドから出ようとした。
そこで、服の袖口に何か引っ掛かっているのに気付いた。見てみると、それは女の子の指だった。だけど変わらず、すやすやと安らかな寝息は立てている。どうやら僕の服を掴んだまま眠ってしまったみたいだ。
 女の子の指を慎重に外そうとしたけど、思ったより強く掴んでいて簡単には外せなかった。いっそ起きてしまっても構わないから強引に外してしまおうか。一瞬そう思ったけど、女の子の寝顔を見て躊躇った。何かいい夢でも見ているのだろうか、楽しそうに笑っている。
 ついさっき初めて出会っただけの関係だけど、この子は僕が黙って家を出て行くと悲しむだろうか。ルネが僕の前からいなくなってしまった時とは逆に、僕がこの子を悲しませてしまうのだろうか。そんな気持ちが脳裏をよぎった。
 仕方ない、この家を出るのはまた今度にしよう。その気になればいつだって出られるのだから。僕はふたたび布団に潜った。女の子の寝顔を見ると、まだ笑っている。
 この子との出会いが僕にとっての特別になる。本当は、この時からそんな予感がしていたんだ。


 後ろから黒い闇が迫ってくる。僕は捕まらないように必死に走るけど、距離は遠ざかるどころかどんどん縮まってくる。
「ノエル、どうして逃げるの……ねえ、逃げないで」
 後ろから声がする。ルネの声だけど、あれはルネなんかじゃない。もっと別の悪いものだ。
 僕は振り向かずひたすら逃げ続ける。だけど、いくら走ってもゴールなんて無い。やがて追い付かれ、そして捕まってしまう。おそるおそる振り向くと、そこには。
「ねえノエル、大丈夫?」
 目を覚ますと、目の前には心配そうな顔をしたサラがいた。どうやらまた悪夢にうなされていたみたいだ。
「……なんでも無い、平気だよ」
 僕は平静を装ったけど、息が荒くなっているのが自分でも分かる。ルネを喪ってから、よくこの夢を見るようになった。どうしてかは自分でも分からない。こうやってサラにうなされているところを起こしてもらうのは何回目だろう。
「ごめん、また起こしちゃった」
 サラは黙って頭を振った。
「どんな夢にうなされていたの?」
「別に大した夢じゃないよ……」
 サラに話したく無い訳ではなかったけど、上手く説明できる気がしなかった。だって自分でもどうしてこんな夢を見るのかよく分からなかったから。ルネを喪った悲しみはまだ残っている。だけど、それは僕が見る怖い夢とは関係ないはずだ。
「まだ早いから、また寝よう」
 もう今日は寝られないだろうとは思ったけど、僕はそう言って布団に入った。勝手だとは思ったけど、サラに心配もかけたくなかった。
「……うん、そうだね」
 サラはそう言うと、布団に入った。
 ベッドで横になっても、やはり眠ることはできない。サラを起こさないようにゆっくりと何回か寝返りを打ったけど、サラの眠りの妨げになってしまっていたのか、少ししs手からサラが話しかけてきた。
「ねえ、ノエル」
「……ごめん、僕ベッドから出るよ」
「ううん、大丈夫だよ」
 サラはそう言うと、僕の背中に両手を回し、ぎゅっと抱き締めた。
「苦しくない?」
「……うん」
 僕は少し途惑いながら頷いた。そして目が合うと、サラは僕に笑いかけた。これはなんだろう。苦しくないって言ったけど、やっぱり苦しい。でも辛いわけではない。なんだか心臓が締め付けられるように苦しかった。さっきとは別の理由で今日はもう寝られそうに無かった。

 朝になると、穏やかな陽射しが部屋に入り込む。サラは朝が苦手みたいで、この時間になるといつも布団を頭から被り、陽射しから逃れようとする。そんなことしたって無駄なのに。どうせもうすぐサラのお母さんが起こしにやってくる。
「サラ、起きて。朝だよ!」
「……うん」
 起そうとしても、生返事は帰ってくるけどいっこうに起きようとはしない。廊下から足音が聞こえてくる。今日も無理だった。
「サラ!いつまで寝てるんだい!」
 扉をばんっと開く音と同時に、サラのお母さんが大声で入ってきた。サラはその声でびくっとなり、今までの目覚めの悪さが嘘のようにベッドから起き出す。
「ちんたらしてないでさっさと朝ごはん食べな!」
 そう言うと、開けた時と同様にばんっとドアを閉めて部屋を出て行った。サラは急いで服を着替え、髪を梳かす。
「だから起こしたのに」
「ごめんね、ノエル。後で水持ってくるから待ってて」
 不満を呟く僕に対して、サラは申し訳無さそうな顔をしながら部屋を出て行った。だけどどうせ懲りずに明日も同じことを繰り返すのだろう。そして、サラのお母さんも怒っているくせに毎日かかさず起こしにくる。僕にはよく理解できない日常の風景だ。
 サラのおうちは洋服の仕立て屋をしているみたいだ。朝食を食べ終わると、サラのお母さんは町へ行って修理が終わった洋服を渡し、そして新しい注文を取り付けて夕方頃に戻ってくる。サラはその間に家で掃除したり近くの川で洗濯したりする。
「ノエル、お水だよ」
 しばらくすると、サラがそう言いながら部屋に戻ってきた。
「ありがとう」
 僕はコップを受け取って一気に口に流し込んだ。体に水分が沁みわたる。
「本当にお水だけで大丈夫なの?」
「大丈夫だって言ってるじゃん!」
 いったい何回目の質問だろう。きっと心配してくれているんだろうけど、少しうんざりする。そして最近寂しくも感じる。食事なんて必要ない体だけど、もし食事ができらもっとサラと一緒にいられたかもしれない。
「ねえノエル、天気もいいし洗濯が終わったら、川を渡った少し先まで行ってみない?」
「うん!」 
 サラと一緒にいる時間は新鮮なことばかりだ。ルネと一緒にいた時は、ほとんどの時間を家の中で過ごしたけど、今はサラと外出する機会が増えた。だけど、たぶん理由はそれだけでは無い。サラはいつだって僕に、いろいろな事を気付かせてくれる。風に運ばれる緑の生命の匂い、川底が見えるくらい透き通った水、澄み切った空の青さ、些細なことばかりだけど、きっとサラが教えてくれなければ気付かなかった。
 家の掃除も、二人だとあっという間に終わった。サラが朝食の残り物をバスケットに詰めている間に、僕は洗濯物とせっけんを籠に入れる。
「人とすれ違う時は、絶対話したりしちゃだめだよ」
 サラはそう言うと、人差し指を僕の口にあてた。
「分かっているよ」
 そうは言いつつ少し高を括っていた。どうせ人となんてすれ違わない。この家は町から離れているし、近くにある家も数える程しかない。
 川に着くと、サラはいつもどおり洗濯を始めた。僕は、見よう見まねでサラと同じ動作を横で繰り返す。
「ノエル、せっけんはしっかり洗い落としてね」
「うん」
 僕は、言われるままに川の水面に衣服を浸してせっけんを洗い落とした。水面はとても穏やかで、あの嵐の日とは大違いだった。聞いたところ、サラは今日のように洗濯しているところで偶然、川で流されている僕を見つけたらしい。
 洗濯が終わり川辺で洗濯物を干したあと、サラは昼食を取るために平らな石の上でバスケットを開いた。水筒を取り出して、僕に紅茶を入れてくれる。紅茶のいい匂いと、温かい湯気が僕の顔に立ち昇った。水分補給だけだったら水で十分だけど、紅茶のほうが特別な感じがして嬉しかった。
 僕はサラの横に座って一息ついた。洗濯物は風に靡いてゆったりと揺れている。ぽかぽかした日差しのあたたかさがとても心地いい。
僕はずっと疑問に思っていた事を思い切ってサラに聞いてみた。
「ねえ、サラ」
「なに、ノエル?」
「えっと……その……」
 僕は思わず目を逸らした。なんて切り出せばいいか分からなかった。僕はこの時、サラの回答が怖かったんだと思う。  
「ノエル」
 しどろもどろになっている僕に、サラは呼びかけた。サラの目を見ると、にっこり笑っていた。そして僕を持ち上げると膝の上に乗せ、ぎゅっと抱き締め、優しい声で聞いた。
「ノエル、どうしたの?」
「ごめん、大した話じゃ無かったんだけど」
 そう、何も恐れる必要なんて無い。怯える自分が馬鹿らしく感じた。
「サラは僕のこと怖くないのかなって。普通の人形って、話したりしないみたいだし」
「そうね、確かにノエルって不思議ね」
 サラは思案するように少し視線を宙に彷徨わせた。
「あのね、ノエルは覚えて無いかもしれないけど……ノエルを川から掬い上げた時、とっても悲しそうな表情をしていたの。今にも泣き出してしまいそうな表情。それで最初に思ったのが、私が少しでもノエルの寂しさを癒したいっていう気持ちだった。私自身が寂しかったから、勝手にそう思ってしまったのかもしれないけど。いやな事思い出させちゃってたらごめんね」
「ううん、全然平気!」
 やっぱりサラは不思議だ。普通の人だったら、きっとそんなこと考え無い。珍しい人形だったら、見世物にしたり高値で売ったりするはずだ。どうしてか分からないけど、そんな確信がある。
「ありがとう、サラ!」
「私は何もしてないよ。ノエルを拾って家まで運んだだけ」
 サラは恥ずかしそうに笑いながら目を逸らす。なんでか分からないけど、僕はサラのそんな仕草のひとつひとつから目を離せなかった。
「そうだ、今日は川の向こうへ行くんだったわ」
 サラはそう言うと、残りのパンを口に頬張り、バスケットに水筒をしまった。
「ノエル、川の向こうにはきれいなお花畑があるの。いつもこのくらいの季節に咲いてるんだ。きっとノエルも気に入るわ」
「へーそうなんだ」 
 僕はサラの膝から降りて立ち上がった。
 川の向こう。そういえば前に住んでいた家では、川の向こうに墓地があった。ルネは今そこに眠っている。
おじいさんは元気にしているだろうか。もしかしたら、僕がいなくなって心配しているだろうか。だけどルネの思い出が詰まったあの家にはもう戻りたくない。僕は不安を振り払うように首を左右に振り、そしてサラの腕を握った。
「サラ、早く行こうよ!」
 そう言うとサラを引っ張って橋に向かう「ノエル、そんな急がないでも大丈夫だからもっとゆっくり行こうよ。ね?」
 僕はサラの言葉に従わず、ぐいぐいと引っ張った。
「……ノエル、腕が痛いよ……」
 サラの言葉にはっとなり僕は立ち止まった。手を離して後ろを振り向くと、握っていたサラの腕の部分が少し痣になっていた。そんなに強く握っていたなんて自分でも気付かなかった。
「……サラ、ごめん……」
 僕は消え入りそうな声で謝った。
「ううん、大丈夫。でもノエルって意外に力が強いんだね。驚いちゃった」
 僕自身もそんなこと知らなかった。サラを傷つけるつもりなんて全く無かった。でもそんなの言い訳だ。
「ノエル、こんなとこで止まらないで早く行こう!」
 そう言うと、今度はサラが僕の手を握って走り出した。サラは不思議だ。どうして僕にそんなに優しくできるんだろう。そして僕は、どうして同じようにサラに優しくできないんだろう。
 手を引かれるままに林を走り続けると、しばらくして視界が開け野原が現れた。そして、そこには辺り一面に小さくて白い花が咲いていた。
「うわあっ」
 僕は思わず喚声を上げていた。
「ねっノエル、きれいでしょ」
 サラは弾んだ声で僕に話しかけた。
「うん、すごいきれい!」
 僕の声も自然と弾んでいた。だって、こんなきれいな景色今まで見たこと無かったから。
 サラは僕の手を離すと、野原の上にゆっくり寝転んだ。そんなことしたらきっと服が汚れてしまうし、サラがお母さんに怒られてるのではないか。そんな気もしたけど、この場に相応しくない気がしてなんとなく言わなかった。
「へへ……」
 サラが僕に笑いかけた。
「どうしたの?」
「私ずっと思っていたんだ。大切な友達ができたら一緒にここに来たいなって。やっと願いが叶った」
 友達。本で読んだ事がある。確か一緒に遊んだり話したりする事ができる、お互いに心を許すことができる相手のことだ。僕とサラは友達なのか。今まで考えたこと無かった。嬉しいけどなんだか恥ずかしい。
「へへ……」
今度は僕が笑った。
「ねえ、匂いをかいでみて」
 サラが花を何本か摘んで、僕の顔に近付けた。鼻を近づけてかいでみると、なにか甘い香りがふわっと漂ってきた。初めての匂いだったけど、優しく懐かしい感じがした。
「いい匂いがする」
「そうでしょ。花の蜜の香り。なんでか分からないけど、悲しいことや辛いことがあっても、この匂いをかぐと気持ちが安らぐの。不思議でしょ」
「うん……」
 僕は曖昧に頷いた。サラは僕に境遇が似ている。どうしてかは分からないけど、サラにはお父さんがいない。僕にとってのルネと同じように、サラにはお母さんしかいないけど、そのお母さんとはあまり上手くはいってないようだ。サラは今まで、何回この場所に来て寂しさを一人で紛らわしたのだろう。
「ねえ、サラ!」
 僕はサラの袖を引っ張った。
「どうしたの?」
「僕はずっとサラの側にいるよ。だから……」
 つい口走ってしまったけど、何を伝えたいのか自分でも分からなかった。
「ありがとう、ノエル」
 そんな僕に、サラは微笑みを返した。僕の気持ちが伝わったのかどうかは分からないけど、これ以上言葉は必要ないような気がした。

 しばらく二人で寝転んでいたけど、そのうち強い風が吹き出し、花びらが宙を舞った。
「風が冷たくなってる。もうこんなに時間経っちゃったんだ。そろそろ帰ろうか、洗濯物も乾いたと思うし」
 サラはそう言って立ち上がった。僕はここから離れるのが名残惜しかった。
「サラ、また来ようね」
 サラを見つめてそう言うと、サラは笑って頷いた。そしてサラと手を繋いで家路へと向かった。
 家に帰ると、サラのおかあさんが先に戻っていた。
「サラ!あんたこんな遅くまで、なに油を売ってたんだい!」
 サラのお母さんは玄関の前で待ち受けており、ドアを開けるやすぐに怒鳴り声が家に響いた。サラは何か言い返そうとしていたが、口籠もって言葉にはならなかった。何をそんなに怒る必要があるのだろうか。僕は腹立たしくて、サラの代わりに言い返したくなったけど、言葉を発するわけにはいかなかった。
「まったく、あんたはまただんまりかい!もういいから、さっさと手を洗ってきな。これから夕飯の準備するから、ちんたらしてないで手伝いな!」
 サラは黙って頷き、洗面所へと向かった。
「サラ、どうして何も言い返さないの?サラは何も悪いことしてないのに!」
 僕は声を抑えながらも、語気を荒げて聞いた。
「ううん、私が悪いの。お母さんに心配かけちゃって。それに……」
 サラの次の言葉を待ったが、続きは無かった。
「ごめん、何でもない……お母さんの手伝いしてくるから、ノエルは部屋で待ってて」
 それだけ言うと、サラはキッチンへ向かった。
 部屋に戻っても、一人ではする事は無かった。さっきのやりとりを思い出すと、無性に腹がたってしまう。
 だけど怒りだけではない。そもそも、サラのお母さんのあの態度は理解できなかった。だって、サラの帰りが遅いのを心配して玄関で待っていたのだ。それなのに、どうしてあんな口調で怒るのだろう。「心配だった」そのひと言さえあれば、サラだって悲しまずにすむのに。

「サラ、どうしてサラのお母さんはあんなふうにきつく言うの?」
 僕は思い切って聞いてみた。この質問で、サラのパジャマのボタンを付ける手の動きが止まった。
 サラの気持ちは動揺していた。聞いてはいけなかったのかもしれないけど、どうしても知りたかった。もっとサラの事を理解したかった。
「仕方ないの。お母さんにとって私は邪魔だから。私さえいなければ、お母さんは自分のためにもっといろいろできたはずだし」
「何言ってるの?邪魔だなんて思っている訳無いよ!」
 サラは黙って頭を振った。
 邪魔だなんて思っていない。僕はそれを感じているけど、どういう風に伝えていいか分からず、もどかしかった。
「それにサラはお母さんのこと好きなんでしょ」
「うん、大好き……だってお母さんだもん。でも、だからこそお母さんにはあまり迷惑を掛けたくないの」
 サラは、止まっていた指をまた動かし、ボタンをつけながら呟いた。サラの言うことは、分かるけどよく分からない。だって、サラとお母さんがこのままでいいはずなんて無いから。でもサラの気持ちなら少し分かった。僕だって最初、サラに素直な気持ちで向き合うことができなかったから。
「……サラはこのままでいいの?」
 返事は無かった。僕はサラの表情を見ようとしてはっとした。
サラの肩は小刻みに震え、サラの瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。悲しい時や、辛い時に流すもの。ルネが涙を流した時のことが思い出す。でも今回はルネの時とは違う。僕の言葉がサラを悲しませ、涙を流させてしまったのだ。
「サラ、ごめん……僕……」
「……ううん……ノエルは何も悪く無い……ノエルの言うとおりだもん」
 サラはパジャマの袖で涙を拭きながら言った。
「ねえ、ノエル」
 サラは僕に呼びかけた。僕は俯いていた顔をおそるおそる上げ、サラの顔を見た。サラの表情は、いつも通りに戻っていた。
「私ね、臆病だからお母さんと正面から向き合う事ができなかったんだ。だけど、このままじゃいけない事も分かっている……私はノエルが側にいてくれたら、今までより勇気を出せる気がするの。だから私のこと応援してくれない?」
 想像していなかった前向きな言葉がサラから出て、僕は言葉を返すことはできなかった。だけど、首を何度も縦に振って応援する気持ちを伝えた。
「ありがとう、ノエル」
 そう言うとサラは僕を抱き締めた。自分の体の全体が熱くなるような感じがした。嬉しいけどそれだけじゃない。締め付けられるような胸の苦しみもある。それなのに充たされている感じでいっぱいだ。
「ノエル、少し早いけどもう寝ようか。明日からはいっぱい頑張らないといけないし!」
 僕は頷き、サラのベッドの中にもぐった。サラは部屋の明かりを消す、ベッドに入る。
「ねえ、ノエル……」
 サラが声を掛けてきた。
「どうしたの?」 
「今日は大丈夫かな……やっぱり魘されそう?」
 いろいろなことがあってすっかり忘れていた。そういえば、最近ずっと悪い夢に魘されているんだ。
「……どうかな、分からないよ」
 忘れていたとは言いにくかったので、曖昧に返事した。
「あのね、ノエル。昔おとうさんから、よく眠れるためのおまじないを教えてもらった事があるんだ」
 サラの口から初めてお父さんの事が出た。聞きたい事はたくさんあったけど、聞かない事にした。もしかしたらまたサラを泣かせてしまうかもしれないから。
「どんなおまじない?」
「あのね、今日のできごとで、楽しかったことや嬉しかったことを、一つずつ数えながら思い出していくの。そうしたら、いい夢をみながらぐっすり寝られるんだって」
「へー、そうなんだ。それじゃあ、試してみるね」
「うん、試してみて!」
 僕は目を閉じて、今日のできごとを振り返った。
 そういえば、今日の朝もサラはちゃんと起きる事ができてなかったな。まったく仕方ないんだから。あのお花畑、白い花がとっても可愛くて綺麗だった。花の蜜は、とてもいい匂いがした。さっきはサラを泣かせてしまったのは失敗だったけど、でもサラが前向きな気持ちになってくれたのはよかった。
 目を瞑り、1日の出来事を振り返っていたら、隣からすやすやと寝息が聞こえてきた。サラはもう眠りに着いたみたいだ。相変わらず寝るのが早いな。サラの寝息が僕の額にかかって、少しくすぐったかった。
 おまじないの続き。今日は楽しかったこと、嬉しかったことがたくさんあった。だけど一番は、サラが今僕の隣にいること。本当はもうそれだけで十分すぎるくらい嬉しい。目を開けてサラを見ると、なんだか笑っているように見えた。どんな楽しい夢を見ているのだろう。僕はもう一度目を瞑った。
 その日僕は、いつの間にか眠りについていた。どんな夢を見たのか記憶も無いくらいぐっすりと寝てしまった。そして、目が覚めたときにはもう朝になっていた。


「よく寝られた?」
 陽射しの眩しさで僕が目を覚ました時、サラは珍しい事にすでに起きていた。
「うん……」 
 僕は指で目を擦りながら言った。こんなにぐっすり寝たのは、いつぶりだろう。サラは鏡台の前に座って髪を梳かしている。なんだか、いつものサラらしくない。
「サラがもう起きているなんて珍しいね」
「うん……今日からしっかり朝起きようと思って。もっと、お母さんのお手伝いたくさんしたいし」
 サラは、少し頬を赤らめながら言った。お母さんとしっかり向き合おうとしているんだ。なんだか嬉しい。
「サラ、頑張って!」
「うん、ありがとう。朝ごはん行ってくるね。後でお水持ってくるから待ってて」
 サラははにかみながら、部屋を後にした。
 サラがいないごはんの時間は、いつもやることが無くて手持ち無沙汰を感じる。僕ももっとサラのお手伝いができないかな。そう考えながら部屋を見渡すと、本棚に埃が少しかかっているのが見えた。そういえば、サラの部屋には本が結構あるけど、サラが読んでいるのを見た事が無かった。どうしてだろう、今度サラに聞いてみよう。そう思いながら本棚の掃除をした。
 掃除が終わった頃に、サラが部屋に戻ってきた。
「へへ、お母さんのこと怒らせちゃった……」
 目が合うと、サラは少し顔を引きつらせながら笑った。
「どうして怒ったの?」
「分からない……『足手纏いにしかならないし、そんな暇があるならもっと勉強しろっ』て言われちゃった」
「そんなのって酷いよ!サラの気持ちを全然考えてくれてないじゃん!」
「でもお母さんの言うとおりなんだ。私、もう8歳なのに本だってほとんど読めないし」
「えっ、でも部屋に本はたくさんあるのに」
「お母さんが街に行った時に買ってくるの。でも、私には分からない単語がたくさんあってあまり読めないの。お母さん、いつも忙しそうだから聞きにくいし……」
 なんとなく分かった。サラは、いつも忙しそうにしているお母さんに遠慮ばかりして甘えることができないんだ。サラのお母さんにしたって、サラが好きなはずなのに上手くそれを伝えられない。
「サラ、僕は、少しは読めるよ。だから一緒に読もうよ」
「そうなの?ノエルすごい!」   
 サラは感嘆の声をあげた。たとえサラが本を読めるようになったとしても、お母さんとの仲が修復される訳ではない。だけど、そのきっかけにはなるかもしれなかった。
「掃除と洗濯早く終わらせないと。その後、本読むの付き合ってくれる?」
「うん。サラは最初、何読みたい?」
「ええっとね……これ読みたい!」
 サラは本棚から一冊の本を抜き出した。
「昔、お父さんがよく読んで聞かせてくれたんだ。これ、自分で読めるようになりたい」
 その本だけ、他の本と比べてすこし汚れていた。サラはその本をぱらぱらめくると、中から何か抜き出した。
「これ、私のお父さんなんだ」
 そう言って僕の前に差し出したのは、写真だった。覗き込むと、そこには今よりずっと小さいサラと若いサラのお母さん、そして知らない男の人が写っていた。サラを膝の上に乗せ、愛しそうに目を細めながらサラの頭を撫でている。体が大きくて、優しそうな人だ。サラのお母さんは隣で笑顔を湛えながら座っている。笑っている顔は初めて見る。
「お父さん、私が小さい時に病気で死んじゃったんだ」
 サラは寂しそうに笑った。
「サラのお父さんってどんな人だったの?」
「えっとね、記憶はあまり残ってないんだ。だけどすごく優しかったのは覚えてる。私はいつもお父さんの膝の上に乗って甘えていたんだ。あと、もともとはお父さんが洋服の仕立て屋だったみたい。お母さんは街で人気の踊り娘で、お父さんがお母さんのこと一目惚れしたんだって。お母さんのために、洋服を仕立ててプレゼントしたのが知り合ったきっかけだって、昔お母さんが話してくれた。お父さんは結婚しても変わらずお母さんのこと大好きだったみたいで、お父さんがお母さんや私のために仕立ててくれた洋服ってたくさんあるんだ」
「いいお父さんだったんだね」
「うん!」
 サラは嬉しそうに笑った。サラの思い出話を聞かせてもらえて、すごく嬉しかった。サラと大切なものを共有できた気がしたから。
 今度、僕がサラにルネやおじいさんとの思い出を話そう。今はまだ、笑って話す事はできないけど。
 
 その本は、少年が小さい冒険をしながら友達を増やしていく話しだった。難しい単語は出てこなかったけど、サラにはいくつか読み取れないフレーズがあった。だけどサラは、僕が読み方や意味を教えると、声を出しながら楽しそうに読んだ。
 本を読んでいたら時間があっという間に過ぎてしまい、気が付いた時にはもうお昼を過ぎていた。気が付いたのは、サラのお腹がなったからだった。サラのお腹は便利だ。サラのお腹の空き具合をすぐにおしえてくれるから。
「もうこんな時間なんだ。そういえば、お腹空いちゃった……」
 サラは頬を紅らめて言った。
「サラのお腹は、時間を教えてくれていいね!」
「ノエルのいじわる!」
 素直に思った事を口にしただけだった。だけどサラは、語気を少し鋭くして僕を睨む。
「えっと……ごめん」
「ううん、冗談。ほんとは怒ってないよ!」
 サラはいたずらっぽく笑った。僕は安心して胸を撫で下ろした。なんだか、サラは初めて会った時よりも、表情がどんどん豊かになっている気がした。そして僕は、初めて見るサラの表情のひとつひとつに振り回されて、慌てたり喜んだりしている。
「お昼ごはんにしましょ。ノエルもそろそろお水が必要だろうし。あっ、そういえばまだ掃除と洗濯してないわ。本を読む前にするつもりだったんだけど。
 サラは小さく溜息をついた。
「僕も手伝うから早く終わらせよう。その後、本の続きを読もうよ!」
「うん、ありがとう」
 僕はサラと一緒に食堂に向かった。ご飯の時間の中で、お昼だけは嫌じゃない。この時はサラと一緒にいられるから。
 サラはキッチンでパスタを茹でだした。たぶん好物のクリームパスタを作るつもりなのだろう。サラは何も言わないとこればかり食べている。
「サラ、野菜も食べたほうがいいよ!」
「ちゃんと朝と夜食べてるもん。大丈夫よ」
「でもサラ、前にお母さんに怒られてたじゃん。野菜も食べろって」
「……部屋まで聞こえてたんだ。ノエルってお母さんみたい」
「でも、野菜を取らないと体に良くないんでしょ?」
 サラは茹でている鍋を見ながらしばらく考えこんだ。
「分かったわ……今日は野菜パスタにする」
 サラは諦めたように言い、野菜を冷蔵庫から取り出した。なんか悪い事を言ってしまったみたいで、申し訳ない気持ちになった。
「野菜を食べろなんて、お母さん以外に言われたの初めて。ありがとう、ノエル」 
 僕の気持ちを察してかサラはそう言ってくれた。僕は黙って口をへの字に結んだ。
 野菜パスタは思ったよりも美味しかったらしく、サラはしっかり完食した。

 その日もサラのお母さんは、夕方頃に仕事を終えて家に戻ってきた。
「サラ、あんた野菜知らないかい?」
 サラのお母さんは、夕飯の準備をしている時に野菜が減っている事に気が付き、部屋にいるサラに聞きに来た。
「その……ごめんなさい……お昼に勝手に食べちゃった」
 怒られると思ったのか、サラは謝った。
「自分で野菜食べたのかい?」
 サラのお母さんは最初怪訝な表情をしていたが、サラがこくりと頷くのを見て、何も言わずに部屋を後にした。
「怒られるかと思った……」
サラは胸を撫で下ろしながら言った。
「サラは何も悪いことして無いじゃん」
「でも、野菜が無くなっちゃったから、夕飯のメニュー変えなくちゃいけなくなったかもしれない」
 サラはお母さんに対し過剰に反応しすぎな気がする。もしかしたら二人が上手くいかないのはサラの態度にも問題があるのかもしれない。
「夕飯できたから、早く来な!」
 お母さんの声が食堂から聞こえてきた。
「お水、後で持ってくるから待っててね」
 サラはそれだけ言うと急いで部屋を後にした。
 そしてしばらくしてから、サラが部屋に戻ってきた。
「サラ、食堂でお母さんに何か言われた?」
 大丈夫だろうと思いつつも、念のため聞いてみた。
「私が野菜食べちゃったから、メニュー変えなくちゃいけなくなったって……」
「え、本当に言われたの?」
「でも、でもね……お母さん怒っていた訳じゃないと思う。今日の夕飯、私の好きなクリームシチューだったし」
「それって、サラが自分で野菜を食べたご褒美っていうこと?」
「分からないけど……そうかもしれない」
「きっとそうだよ!」
「でも、偶然かもしれないし」
 サラは頑なだ。どうしてお母さんに対してもっと素直になれないのだろうか。
 だけど、言葉に反してサラの表情は少し綻んでいた。


 ぽかぽかと陽射しが暖かく、それでいてそよぐ風はひんやりと肌を優しく触れてとても気持ちよかった。 
 午前中はサラと勉強するのが日課になっていた。教科書は一式、サラの書棚に用意されていた。サラのお母さんが買ったものだ。ほんとうは自分でサラに勉強を教えてあげたかったのかもしれない。教科書のうちいくつかには、大人の人の筆跡で、アドバイスなどが記載されていた。
 その日はせっかくのいい天気なので、テラスに出て勉強しようとサラが言い出した。サラのお母さんは仕事に出ていて夕方まで戻らないし、この家には誰か人が訪ねるようなことも無い。だから僕もサラも少し油断してしまったんだ。
「ノエルってほんと頭いいね!」
 算数の教科書を一緒にしている時に、サラが感嘆の声をあげた。
「ノエルも算数は初めてなんだよね。どうしてそんなにすぐに理解しちゃうの?」
「どうしてって……教科書に説明が書いてあるし」
 僕は途惑いながら答えた。
「えっ、こんな説明じゃ分からないよ……」
 サラは大きく溜息を付いて言った。
 きっとサラが普通なんだと思う。僕は一回読んだ内容は記憶できるし、記憶したら忘れない。だから一緒に勉強を始めた算数だってサラに教えられるてしまう。サラの役に立てるのは嬉しいけど、悩みを共有できないのは寂しかった。
「ほらサラ。ここの部分が計算間違っているよ。もう一回解いてごらん」
「……うん」
 サラは悩ましげに頭を抱えながら、もう一度計算を始めた。
「……やっぱり私には分からないよ」
 サラは教科書を畳むと机に倒れ込んだ。
「諦めちゃだめだよ。本棚にある教科書や本を全部理解できるようになって、お母さんを驚かせたいんでしょ!」
 励ますことに意識が集中しているのと、僕とサラの話し声がノイズになって、人が近づいているのに全然気が付けなかった。そして、気が付いた時にはもう僕達の真後ろに立っていた。
「サラ、これはいったいどういうことだい?」
 僕とサラが同時に振り向くと、そこにはサラのお母さんが立っていた。
「お、お母さん……どうしてここに……」
「今日中にお客さんに渡さないといけない商品、うっかり忘れたから取りに戻ったんだよ。まあそんなことはどうだっていい。それより、この人形なんなのさ?」
「……ノエルは人形じゃない。私の大切な友達なの」
 サラはそう言って、僕を強く抱き締めた。サラの声と抱き締めたその腕は震えていた。
 今さらただの人形のふりをしても手遅れなのは分かっていたけど、僕はどうしていいか分からずただ黙って成り行きを見守るしかなかった。
「凄いじゃないか!意思があるのかい?こんな人形、世界のどこを探したって他に無いよ!」
 サラのお母さんは、興奮していてサラに対して聞く耳を持たなかった。サラは何も言い返せず、ただ僕を抱き締める腕の力にいっそう力を込めた。
「その人形、私に渡しな!売り払えばとんでもない値段になるよ!」
 サラのお母さんは、僕の腕を掴んで強引にサラから奪おうとした。
「お母さん、止めて!」
 サラは必死に僕を掴み、離さないようにした。
 僕はどうしていいのか分からなかった。サラを助けたかったけど、サラのお母さんを傷つける訳にもいかない。それに、二人の強い感情が僕の頭の中に入り込んで頭がぐらぐらする。
「ばんっ」
 弾けるような強い音がした。どうやら、二人が揉み合っている中で僕の右腕が宙を舞い、サラのお母さんの頬に激しくぶつかってしまったようだ。
 サラのお母さんの右頬は赤くなった。そして、口の中が切れたのか、唇から一条の血が滴った。
「……お母さん、ごめんなさい。でも、でも……」
 サラが涙を流しながら、訴えるような目で必死に何か伝えようとした。
「……いいよ。もうあんたなんか、勝手にすればいいさ」
 サラのお母さんがなげやりに呟いた。だけど、サラと同様に目には涙が溢れていた。そして何も言わず、振り返る事も無くその場を後にした。
 どうしてサラのお母さんが近づいている事に気が付けなかったのだろう。サラが気付かないのは仕方ないけど、僕はサラよりずっと耳がいい。だから僕が気付かなければいけなかったんだ。そうしたら、二人が喧嘩する事も無かったしこんなに傷つける事も無かった。
 後悔の気持ちがどんどん溢れ出た。いまさら後悔したって無駄なのは分かっているけど。
「サラ、ごめん……」
「……ノエルは悪くないよ」
 サラはそう言ってくれたけど、両手で顔を覆い表情を読むことはできなかった。そして、声は涙で震えていた。僕はもう、それ以上何も言う事はできなかった。サラを元気にしてあげられるような魔法の言葉は無い事が分かっていたから。
 しばらくして二人で家の中に戻ると、サラのお母さんはいなかった。さっき言っていたとおり、忘れ物を取りに戻りまたすぐ出かけたのだろうか。
 サラは自分の部屋に戻ると、ベッドの上に倒れ込んだ。そして、顔をベッドに埋め、声を押し殺して泣き続けた。
 そういえば、今日の掃除と洗濯をまだしていない。僕の気持ちも落ち込んでいるけど、サラのためにできることをしたかった。
「……サラ、掃除と洗濯しておくね……」
「……ありがとう」
 サラはベッドに顔を埋めたまま言った。
 僕は、そっと歩いて部屋を出ようとした。部屋を出てドアを閉めようとした時、サラはぎりぎり聞き取れるくらいの小さい声で、僕に呟いた。
「ノエル、ごめんね……」
 何に対する謝罪なのか。きっといろいろな意味が込められているのだろう。僕は返事を
せずそっとドアを閉めた。

 その日は、サラのお母さんの帰りはいつもより2時間くらい遅かった。理由は分からない。そして、夕ご飯の声をサラにかける事は無かった。だけど、サラの部屋の前に夕ご飯は置いてくれていた。
「サラ、部屋の外にご飯が置いてあるよ」
「……いらない……食欲が無いの」
 サラは、ずっとベッドに伏せたままだ。ぴくりとも動く気配は無い。
「サラ、お昼ご飯も食べてないよ。このままじゃ体に悪いよ」
「ごめんね、でも本当に何も口に入れられそうに無いの」
 こんなことサラのお母さんだって望んでいない。サラがご飯を食べないと、きっと心配だろう。
 僕はとりあえずご飯を部屋の中に運んだ。スープの匂いが部屋に立ち込めたが、サラの反応は無かった。僕では代わりに食べる事はできないので、食べ物を食器から携帯用のバスケットに移した。サラの食欲が戻ったときに食べやすいように、野菜はパンに挟んでサンドイッチにした。だけどスープは入れる容器が無かったので、仕方なくそのまま戻す事にした。
 だけどその日は、結局サラは夕ご飯を口にすることは無かった。サラがベッドから起ききだすのを待ったけど、サラはその後しばらくすると、泣き疲れたのか寝てしまった。
 サラの寝顔を見てみると、目の下が少し腫れていた。ずっと泣き続けていたんだから、無理も無い。サラの世界ではきっとお母さんの存在が心の大部分を占めているのだろう。サラの気持ちを考えると胸が張り裂けそうだった。
 堂々巡りの悩みを繰り返していたが、ふとあることを思いついた。たしかに僕がサラにできることは無い。でも、喧嘩の原因が僕なのだから、僕がサラのお母さんの言うとおりにすれば、喧嘩はおさまるかもしれない。
 部屋の電気を消し、僕はサラのお母さんの部屋へ向かった。部屋の中からは、光が漏れていた。ミシンの音がかたかたと聞こえてくる。どうやらまだ仕事をしているらしい。部屋の中へと入ったことは掃除の時に何回かあるが、サラのお母さんがいるときに入るのは初めてだった。
 僕は少し緊張しながら部屋のドアをこんこんと叩いた。
 足音がドアに向かい近づいてくる。そしてドアがゆっくりと開いた。
 ルネのお母さんが、カーディガンを羽織って現れた。そして僕と目が合うと、少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「まあ、あの娘が来る訳無いしね。何か用かい?」
 用はある。だけど、なんと言って切り出せばよいか分からず、僕はただ俯いた。
「話したい事があるんだろ。中に入りな」
 ぶっきらぼうな言い方だったけど、思っていたよりもずっと温もりを感じた。
「ふう……」
 サラのお母さんは、大きく息を吐くと、ゆっくりと椅子に座った。そして自分の肩を拳で軽く叩く。なんだかとても疲れているようにみえる。
「いつまでもつったってないで、その辺に適当にすわりな」
 僕は促されるまま、ベッドに浅くすわった。サラのおかあさんは、僕に向き合い、観察するようにじっと見据えている。何か話そうとしたが、どう切り出したらいいか分からず、やはり黙ってしまう。
「あんた、ノエルっていうのかい?」
 話しかけてきたのはサラのお母さんからだった。思わぬ事に戸惑い、僕はただ頷いた。 
「ふうん……それじゃあノエル、聞きたいんだけど、あんたいったい何者なんだい?」
「……何者って?」
「なに惚けてるんだ。あんたみたいな人形は普通じゃないだろ。誰がいつ何の目的で作って、そしてどうして今ここにいるのかって事さ」
「……僕もよく分からない。たぶんルネが僕を作ったんだと思う。でもルネが……ルネが病気で死んじゃって、僕にはもう誰もいなくなって、それで……」
 上手く言葉が出なかった。もう大丈夫だと思っていたけど、「ルネ」の事を口に出すと、ルネを喪った時の悲しみや喪失感が甦ってしまった。
「まあいいわ。少なくとも、夜中に鋸を持って人の首を切って回るような、悪霊の憑いた人形では無さそうだしね」
 サラのお母さんは、そう言いながら小さく笑った。笑った顔を見るのは、写真以外ではこれが初めてだ。いつもは冷たそうだけど、笑うと優しい顔に見えた。
「それで話したいことってなんだい?どうせサラのことだろうけど」
「うん……サラと仲直りして欲しいんだ。だってサラはおばさんのこと大好きだし、おばさんだってサラのこと大切に思っているじゃん。それなのにこんなふうに喧嘩するのっておかしいよ!」
 今までが嘘のように、言いたい言葉が自然と口から出てきた。きっと、サラのお母さんの優しい顔を見たからだ。
「……別に喧嘩している訳じゃないよ。お互いにとって、もうこれが一番いいのさ」
「どうして?お互い素直になればいいだけなのに」
「素直ってなんだい?確かにあんたの言うとおり、サラは大切な私の娘だよ。だけどそれ以上に、あの娘を見ていると自分がどんどん惨めになってくるんだよ!」
 サラのお母さんは少し感情的になっていた。でもその言葉には、怒りではなく悲しみが溢れていた。
「親なのにまともに親らしい事をしてやれない……ほんとは、この家を売り払って街に引越した方がいいのは分かっているんだ。そうすれば学校に行かせてやることもできたし、あの娘に友達がたくさんできたかもしれない。だけど私にはそれができなかった。旦那との思い出が残るこの家から離れる事はできなかったし、旦那の仕立て屋も喪いたくなかった。その結果がこのざまさ。娘に碌な教育も与えられないし、一緒にいてやる時間も無く一人ほったらかしている。美味しい物も食べさせてやれない、そして自分自身への苛立ちをあの娘にぶつけてしまう……これからだってずっとそうさ。前に、あの娘に『あんたなんて産まなければよかった』って言った事があるんだよ。それ以来、あの娘は私に心を閉ざしてしまった……当然だけどね」
 目には涙が溜まっていた。その気持ちが、僕の胸にまでひしひしと伝わってきた。悲しみ、喪失感、そして孤独……この人も、僕やサラと同じなんだ。
「だけど、サラはおばさんの事が大好きだよ」
「……もう無理なんだよ。あの娘は旦那に似て、お人よし過ぎるくらい優しい娘なんだけど、頑固な部分だけは私に似ちまった。今更、私に素直になってくれたりしないよ。私も今更、あの娘への接し方を変えることはできない」
 これ以上、もう何も言い返せなかった。
「……人形相手に何言っちゃってるんだろうね、私は」
 感情を吐き出して冷静になったのか、自嘲気味に笑った。
 言うか言わないか、迷った。それを口にすると、僕はまた大切な全てを喪ってしまうかもしれない。でも、そうすれば二人はやり直せるかもしれない。サラがあんなふうに悲しまなくてよくなるかもしれない。僕は思い切って話すことにした。
「おばさん、僕はどれくらい価値があるのかな?」
 おばさんは僕の方を見た。だけど表情は変わらず、何を考えているかも伝わってこない。僕は拳をぎゅっと握り締め、言葉を続けた。
「僕を売ったお金があれば、サラと仲直りできるのかな?おばさんが惨めな気持ちにならないで、サラと素直に向き合えるようになるのかな……僕はそれだったら」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ」
 話している途中で、おばさんは少し怒気を含んだ口調で口を挟んた。
「私だって人形に同情されるほど落ちぶれちゃいないさ」 
 朝と言っている事が違う。最初は僕を売る気でいたのに、もうその気は無いのだろうか。少しほっとしたけど、でもそれでは結局なんの解決にもならない。
 おばさんは机に向き直り、ミシンをまた動かし始めた。がたがたとミシンの動く音が部屋の中で響きわたる。僕は動けずにいた。
 おばさんの本当の気持ちを知る事ができたのは収穫だ。でも、今僕ができることは他に無いのだろうか。
「ねえ、あんたサラに勉強教えてやってるんだろ」
 おばさんは、視線をミシンの針先に向けたまま尋ねた。
「えっと、一緒に勉強しているだけだよ。僕のほうが少し知っている事が多いから、教えられる部分もあるけど」
「ありがとうね。私は勉強なんて小さい頃からしてこなかったからさ。もし余裕があっても、きっとほとんど教えてやれなかったよ。それにあの娘の友達になってくれた。あの娘の表情が最近明るいのは、きっとそのせいなんだね」
「……感謝されることなんて何もして無いよ」
 僕は強く頭を振った。だってサラは、もっともっとたくさん、僕にいろいろな大切なものをくれているから。
「さあ、もう夜遅いんだからあんたもさっさと寝な。子供と人形はとっくに寝ている時間だよ」 
 そんな僕を横目に見て、おばさんは優しい口調で言った。
「うん。おばさんはまだ寝ないの?」
「私もこの服が一段落したら寝るよ。明日も早いからね」
 今日はもう、これ以上話せそうに無かった。部屋を出て、ドアをゆっくり閉める。
「おやすみなさい」
 小さい声でおばさんに向けて言った。ミシン音に掻き消され、おそらく聞こえなかったと思う。部屋の中からは、ミシンの音と照明の光が漏れていた。だけど、この音と光はサラの部屋にまでは届いていない。僕はドアにもたれかかった。この音と光が、そしておばさんの気持ちがサラにまっすぐ届けばいいのに。


 その日おばさんの調子は明らかに悪かった。顔が高熱で赤くなっていて、息もぜえぜえと苦しそうに吐いている。足取りもかなり不安定で、立っているのがやっとといった感じだった。
「おばさん、大丈夫?」
「別にたいしたこと無いよ。少し風邪を引いてしまっただけさ」
「今日は仕事休んだほうがいいよ」
「そうも言ってられないのさ……一番上得意の客に品物を納めないといけないし」
 僕とおばさんの会話を聞きながら、サラは相槌を打つように何度も頷いている。おばさんの事が心配なら自分で話しかければいいんだけど、サラはそれをできない。
 朝食もろくにとらず、おばさんは商品を届けに外に出ようとした。だけど結局、玄関で倒れ込んでしまう。
「そんな体で行ったら危ないよ!それに相手の人にも迷惑かけちゃうよ」
 僕はおばさんの体を支えながら言った。
「その通りだね……少し休んでから行く事にするよ。だけど今日中に商品を届けないと迷惑をかけちまう……こういう商売は信用が一番大事だから、それを喪うわけにはいかないのさ」
「お母さん、私が代わりに行く!」
 声の方を振り向くと、サラが少し顔を上気させながら、声を振り絞っていた。サラが自分からおばさんに話しかけることは滅多に無いので僕は驚いた。
「絶対だめだ!そんなこと許さないよ!」
 おばさんは、その体からは想像つかないような大きな声でサラの言葉を拒否した。サラは泣き出しそうな表情になっていた。無理も無い。勇気を振り絞って口にしたのに全否定されてしまったのだから。
「その客は、その……いろいろと特別なんだよ……あんた達は何も気にしなくていいから。分かったかい?」
 さすがにまずいと思ったのだろうか。あまりフォローには聞こえなかったが、言葉を継ぎたした。
「うん……」
 サラは小さく頷いた。
 その後、僕はおばさんを寝室まで運び、サラはおばさんの額を冷やすために手ぬぐいを濡らして持ってきた。
「3時間経ったら……起こしてくれないかい?」
 おばさんはベッドに横になりながら、僕達に言った。
「うん……」
 サラは心配そうにおばさんの顔を覗きこみながら返事した。
 おばさんはあっという間に眠りについた。きっととてもしんどかったんだ。だけど眠ったあとも吐く息は荒く苦しそうだった。サラはずっとおばさんの側にいて、細めに額のタオルを濡らした。
 おばさんが眠ってから、もう2時間くらいは経っただろうか。だけど相変わらず苦しそうで、回復しているようにはみえなかった。
「ねえ、ノエル」
 サラが僕に顔を近付けて、小声で囁いた。
「なに、サラ?」
 僕はサラに合わせて小声で聞き返した。
「あのね、ノエル……今日、私がお母さんの代わりに街に行って、お客さんのお家に商品を届けようと思うの」
「えっ!でも、おばさんがさっき……」
「しーっノエル。声が大きいよ」
 サラが僕の口を手で塞いだ。
「だって、お母さんこんな状態で外に出たら、風邪が悪化しちゃうもん……もしかしたら、お父さんの時みたいになっちゃうかもしれない……」
 サラが少し涙ぐみながら言った。サラの気持ちは理解できる。でも、おばさんが反対したのもきっと理由があるはずだ。
「サラ、お客さんの家分かるの?それに、おばさんさっき言ってたじゃん……もしかしたら悪い人かもしれないよ!」
「大丈夫、昔街に言った時その家見たことあるから。街ではかなり目立つ大きい家だからすぐに見つけられると思う。それに、その家の旦那さんは確か優しそうなおじさんだったと思うし」
「どうしても行くの?だったら僕も一緒に行くよ。サラが心配だし」
「だめ!ノエルは家でお母さんの看病していて!お母さんを一人きりにするのは心配だし、たくさん人がいる街にノエルを連れて行くのは、私一人で行くより危険だわ」
「だけど、やっぱり……」
「もう決めたんだもん!」
 サラは有無を言わせない口調で僕に言った。確かにサラは頑固だ。こういうところがおばさん似なんだろう。
「サラ、少しでも危ないと思ったらすぐ家に引き返すんだからね」
 こうなったらもう黙って見送るしかなかった。だけど、どうしても不安になる。街に行くのなんて大したことじゃない。おばさんは毎日のように行っているんだから。そう自分に言い聞かせた。
 サラはもう街に行く準備を始めている。バッグに品物を詰め込んで背負おうとしているけど、サラの小さな背中と比較して、明らかにバッグは大きすぎて不釣合いだった。
「ノエル、大丈夫よ。街に行って戻るだけだから、4時間もあれば戻って来るわ」
 そう言うと、心配そうにしている僕を気遣うように笑いかけ、サラは家を出た。


 街へ行くのはどれくらいぶりだろう。もう思い出せないくらい前になる。ノエルの前では平気な振りしたけど、本当は不安で胸がいっぱいだった。だけどそんな事を言っている場合じゃない。
 お母さんは、いつだって頑張りすぎなくらい働いている。私はほとんど何も手伝えず、役に立てていなかった。せめて、こんな時くらいはお母さんの役に立ちたかった。そしてお母さんに「ありがとう」って言ってほしかった。
でもそれは私の我儘だった。だからあんな事になってしまったんだ。

 街は人で溢れていた。大通りを歩くと見渡す限りの人だった。当たり前だけど、知っている人なんて誰もいなく心細い。早くお客さんの家に行って、お母さんとノエルがいる自分の家に帰りたかった。
「お嬢ちゃん、迷子にでもなったのかい?」
 声の方を向くと、果物を売っているお店のおばさんが、私をじっと見ていた。
「ずっと不安そうにきょろきょろしているじゃないか。心配になっちゃってね」
 おばさんは、人の良さそうな笑顔で私に話しかけてくれた。なんだか少しほっとした。
「あの……大きな屋敷に住んでいるスミスさんの場所をご存知ですか?」
「ああ、この道を真直ぐ行くと、途中で道が左右に分かれているから、そこを右に進んで10分くらい歩くとあるよ。大きい屋敷だから、行けばすぐにわかるさ。でもどうしてそんなこと聞くんだい?」
「スミスさんに依頼されている洋服を届けに行くんです」
「えっ、あんた一人でかい?」
 おばさんは目を丸くして聞き返した。どうしてそんなに驚いているのだろう。よく分からないまま、私は頷いた。
「あんたみたいなお譲ちゃんが、一人であんな奴の家に行ったらだめだよ。何されるか分かったもんじゃないよ!」
 おばさんは、諫めるような厳しい口調になった。
「……スミスさんってどういう方なんですか?」
「私は会ったことないけど、碌な噂を聞かないよ。女にだらしが無くて、しかも若い娘から熟女まで見境が無いって話しさ。そんなんだから奥さんにも愛想つかされて、大きな屋敷に一人で暮らしているんだってさ!」
 だからお母さんは、私を一人で行かせたくなかったんだ。それなのに私は、お母さんの言う事を守らずに来てしまった。やはり家に戻ったほうがいい。そう思いながらも、今更なにもせず引き下がるわけにもいかなかった。今日中に届けないといけないって、お母さんは言っていた。あんな体調のお母さんに、これ以上苦労をかけさせたくない。
「お譲ちゃん、悪い事は言わないから家に帰りなさい。ついていってあげたいけど、私もここから離れるわけにもいかないしね」
 おばさんは私に、優しく言った。きっと本気で心配してくれている。
「……ありがとうございます」
 私はそれだけ言うと、踵を返してその場から逃げるように走った。どうしよう。本当は、泣き出してその場に蹲ってしまいたい。だけど、そんなことしてもなんの解決にもならない。
 結局私は、何も決められないままに屋敷に着いてしまった。その屋敷は、街の中央から少し離れた林の中にあった。周囲は高く長い壁に囲まれて、周りに他の家は無い。正門は厚い扉は堅く閉ざされており、中は完全に外から隔離されているようにみえる。セキュリティーは完璧なのだろう。それが余計危なく感じる。
 きっと大丈夫。お母さんは何回も来ているはずなのに、今まで普通に家に帰ってきていたんだから。それに、いくら女の人が好きだからって、私みたいな子供には興味ないだろう。自分の平らな胸に何度もそう言い聞かせる。だけど足がすくんで、どうしてもそこから前に進めなかった。
 何分くらいそこに立ち尽くしていたのだろう。ふと気がつくと、上から何かがぽつぽつと頬に落ちてきていた。見上げると薄暗い雲が空を覆っている。どうやら、雨が降り始めたみたい。しかも、雨脚はどんどん強くなってきた。最初はぽつぽつ降っていただけなのに、もうシャワーみたいに体に降り注ぎだした。このままでは、バッグに入れている洋服まで濡れてしまいそうだ。
 もう躊躇っている暇なんて無かった。バッグを背中から下ろすと濡れないように手で覆い、正門のインターホンを急いで押した。チャイムの音が鳴り、そしてしばらくすると受話器の先から、がさごそと音がした。
「どなたですか?」
 インターホンから、男の人の声が聞こえてきた。中年の男の人の低い声だった。怖いイメージを持っていたけど、優しそうな声だった。きっとこの人がスミスさんだ。 
「あの……仕立て屋の者です……母の代わりに洋服を届けに来ました」
「おお、ありがとう。今扉を開けるから待っていてくれ」
 そう言うとインターホンは切れ、少ししてから扉が自動的に開いた。屋敷の中に入ってしまっていいのだろうか?少し躊躇ったが、誰も来る気配は無かったので、おそるおそる中に入った。
 屋敷の前に立つと、その大きさをあらためて実感した。私の家が10個くらいは余裕で入ってしまうのでは無いだろうか。いくつか見える屋敷の窓は真っ暗で、照明は全く灯っていないようにみえた。
「大丈夫……大丈夫!」自分自身に何回も言い聞かせ、玄関のドアをこんこん叩くと、鍵がかちゃっと開き、ゆっくりドアが開いた。胸の鼓動が緊張で早くなる。
「こんにちは」
 そう言いながら屋敷の中から出てきたのは、口髭を生やした少し小太りの中年の男の人だった。上品なスーツを着ており、髪は綺麗にオールバックしている。身なりはしっかりしているし、それに声も穏やかで、決して評判の悪い人には見えなかった。
「ん?どうしたのかな?」
「あ……こんにちはっ!」
 まだ返事をしていなかった事に気付き、慌ててあいさつした。
「これはまた、小さくて可愛らしいお客さんが来たもんだね」
「すみません、お母さんが風邪をひいているので私が代わりに洋服を届けに来ました」
「ほう、エリザの娘さんか。まあここで立ち話するのも何だから、部屋まで来なさい。雨に濡れて体も冷えているだろうし、紅茶でも出そう」
 そう言うと、スミスさんは踵を返して屋敷の奥へと向かった。
 できれば玄関で洋服を渡すだけで帰りたかったけど、そうは行かなさそうだった。用があると言って、玄関に洋服を置いて帰ろうか。一瞬そう思ったけど、スミスさんは大切なお客さんだから失礼はできないし、噂で言われているような悪い人にも見えなかった。
 屋敷は、こんなに広いのに人の気配が全然しなかった。スミスさんについていくうちに、どんどん奥に引きずり込まれているような気がして、不安でいっぱいになった。
「あの……他に人はいないんですか?」
「ああ、普段は使用人が何人かいるが、今日は休みを取らせているんだよ。私もたまには一人になりたいしね」
 たんたんとした語り口調からは、スミスさんの感情を読み取れなかった。だけど、もし何かあっても誰も助けてくれないことだけは分かった。
「ほら、こっちにいらっしゃい」
 スミスさんが一つの部屋の扉を開くと、私に手招きした。私が部屋の中に入ると、電気を灯けた。部屋が明るくなって、私は少しだけほっとした。部屋には棚がいくつかと、大きなテーブル、そしてそれを囲うように椅子がたくさん並んでいた。
「温かい飲み物を持ってくるから、椅子に座って待っていなさい」
 そう言うとスミスさんは部屋を出ていった。
 一秒でも早く家に帰りたかったから、私はすぐにスミスさんに渡せるようにバッグから洋服を取り出し椅子に浅く座った。部屋の中はひんやりと冷たく、雨に濡れた体から体温を奪われ凍えそうになる。やっぱりノエルについてきて貰えばよかった。そうしたら、こんな不安な気持ちにはならなかったのに。後悔してももう遅い事は分かっているけど。
 スミスさんはなぜか、なかなか戻ってこなかった。
「やあ、待たせたね」
 しばらくしてから、スミスさんがカートを引きながら戻ってきた。カートの上には、ティーセットとケーキが置いてある。
「お湯を沸かすのに時間がかかってしまってね」
 そう言いながら紅茶をティーカップに注いだ。カップからは温かそうな湯気が立つ。
「あの……気を使わないでください。私はお邪魔にならないようにすぐに帰りますから」
「いやいや、私もちょうど退屈していたところなんだよ。少し私との世間話しに付き合ってくれないか?このケーキ、街で一番人気の洋菓子店のものなんだよ。きっとお嬢ちゃんも気に入るよ」
 穏やかだけど有無を言わせない口調だった。そしてスミスさんは机の上にティーセットとケーキを並べ、私の隣の席に座った。
「ほら、食べてごらん?」
「……はい、ありがとうござます」
 ケーキはとても綺麗にレコデーションされていて、食べたこと無いような上等な物だった。フォークでケーキの先端を小さく切り口に運んだ。たぶん美味しいのだろうけど、味わうだけの余裕なんて無かった。
「……とても美味しいです」
「ほう、それはよかった」
 スミスさんは満足げに笑った。
「そういえば、お譲ちゃんの名前は?」
「サラです」
「可愛らしい名前だね。それに、顔もエリザの若い頃によく似ている」
「お母さんとは、昔からの知り合いなんですか?」
「ああ、君のお母さんが街でダンサーをしていた頃からね。私はエリザの大ファンだったんだよ。残念ながら君の父さんと結婚した後ダンサーも止めてしまったがね」
 どう返事していいか分からなかったので、私は曖昧に笑った。でも、かなり昔からのお母さんの知り合いという事を知り、少しほっとした。紅茶を口に入れると、とても温かかった。体の芯までほかほかになるような気がする。
「ほら、これがエリザの若い頃の写真だよ」
 スミスさんは、おもむろに胸ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには綺麗な衣装を着てダンスを踊っている一人の若い女性が写っていた。躍動感に溢れたその写真は、今からは想像もつかない。だけど間違いなくお母さんだった。髪の色や雰囲気は違うけど、目鼻立ちなどは確かに私と似ている。
 ダンサー時代のお母さんの写真は始めて見たから、その写真に心を奪われてしまった。だから、どうしてその写真がスミスさんの胸ポケットに入っているのかという疑問に、その時は気付かなかった。
「洋服を持ってきてくれてありがとう。ところで、君はこの包装の中身は見たかい?」
 スミスさんは、写真を食い入るように見ている私を満足そうに眺めながら言った。
「いえ、お母さんが包装したので見てないです」
「そうか。だったら開けて見てごらん」
「え、でも……」
「私が構わないと言っているんだから遠慮する必要なんて無いだろう」
「……はい、分かりました」 
 スミスさんはどうして私に開けさせようとするのだろう。理由は分からないけど、断る事もできず、途惑いながら包装を開けた。
「わあっきれい!」
 私は思わず感嘆の声をあげた。中にはドレスが入っていた。白いシルクの生地の上に、可愛らしい刺繍が散りばめられている。胸の前は少し開いていて刺激的だけど、膝丈までありそうなスカートはひらひらと波状に広がり、優雅にみえる。
「気に入ってくれたかい。君がもう少し大きくなったら、よく似合いそうだ」
 スミスさんは笑みを浮かべながら言った。なんだろう、その笑みを見てぞっとした。 
 そういえば、この洋服は誰が着るのだろう。噂では、奥さんと離婚したと聞いている。誰か別の人がいるのだろうか。だとすると、私が包装を開けてしまってよかったのかな。
「この服はね、エリザのために注文しているものなんだよ」
 私の疑問を見透かすように、スミスさんは笑みを浮かべながら言った。どういうことなのだろうか。まさかお母さんは、スミスさんの恋人なのだろうか。いや、そんなはずは無い。少なくともお母さんはスミスさんの事を良くは思っていないはずだった。それに、自分へのプレゼント用の服を自身で作るのもおかしな話しだった。
「いや、エリザに似合いそうな服を私が勝手に考えて注文しているんだよ。最近じゃあ、街に大きな仕立て屋ができたからエリザも何かと大変そうだしね。何か役に立てないかと思って、こうやって注文しているんだよ」
「……ありがとうございます」
 そう言うだけで精一杯だった。スミスさんから一秒でも早く逃げ出したい。
「それにしても、君は本当にエリザに似ている。特に、目元や透きとおった白い肌なんてそっくりだよ」
 スミスさんはにじりよって、上半身を私に近付けてきた。私は思わず体を引いた。どうしよう、怖くて膝ががたがた震える。
「どうしたんだい、顔が真っ青だよ」
 私の気持ちを知ってか知らずか、スミスさんは心配そうな表情で尋ねた。
「ああそうか、雨に濡れたから体が冷えてしまったんだね。それなら早く、洋服を着替えた方がいい」
 スミスさんがさらに私ににじり寄ってきた。スミスさんの指先が私の頬に触れる。
「頬も、こんなに冷たくなってしまったね」
 その指先は私のあご、首筋、鎖骨へと少しずつ降りていった。抵抗したくても、恐怖で体が金縛りにあったように動かなかった。そしてその指先は、私の上衣のボタンへと向かい、ボタンはゆっくり、一つずつ解いていった。

10
 おばさんの熱は下がる気配は無かった。でもそろそろ約束の時間だ。どうしたらいいか僕は迷った。サラとしては、きっとおばさんを起こさないでほしいのだろう。おばさんが起きた時には全て終わっていて、安心して休ませたいはずだ。でも、僕は不安で仕方なかった。本当にサラを一人で行かせてよかったのだろうか。
 おばさんは熱のせいか、寝汗をかなりかいていたので、タオルで何度か拭った。そうこうしているうちに、もう約束の時間を30分ほど過ぎてしまっていた。僕は意を決しておばさんを起こす事にした。もしかしたらサラに少し恨まれるかもしれない。でもそんなことは、サラに何かあった場合と比べれば大した事ではない。
「おばさん、起きて」
 おばさんの体を揺りながら、僕は耳元で言った。
「……ん……」
 おばさんは、小さく唸り声を上げたが、起きる気配は無かった。意識が朦朧としているのかもしれない。
「おばさん、もう起きないといけない時間だよ!」
 僕はさっきよりも強く揺すり、大きな声で言った。
「……ああ、もうそんな時間かい……」
 おばさんは目を覚まし薄目を開けた。そしてゆっくりと体を起こし始めた。気だるげなその動作は、まだ回復には程遠い感じだった。
「……ノエル、サラに届ける商品を持って来るように伝えてほしいんだけど」
 僕はどきっとした。どうせ、サラの事は伝えないといけない。だけどタイミングを見計らって自分から切り出したかった。
「その、サラなんだけど……」
「どうしたんだい。呼びにいくだけのことなのに」
「実はサラ……お客さんに商品を届けるために街に行ってるんだ」
「なんだって!」
 おばさんはその言葉を聞くと、血相を変えてベッドから起き上がった。
「サラは、おばさんとの約束を破るつもりなんて無いんだ!ただ、おばさんの体が心配で、少しでも役に立ちたかっただけなんだよ……」
 おばさんは僕の言う事に耳を貸さず、急いで服を着替え外に出る準備を始めた。だけどその途中でベッドの端に膝をぶつけ、倒れ込んでしまった。
「無茶だよ!安静にしていないと」
 僕はおばさんの体を支えながら、外出を止めようとした。
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだよ!あの変態の屋敷にサラ一人で行ったらどんな目にあうか……早く……早く行かないと!」
 その言葉を聞き、僕の体に衝撃が走った。何かは分からないけど、サラが危険な目にあっている。それだけは間違いなかった。やはり、サラを一人で行かせるべきじゃなかったんだ。
「おばさん、僕も行く!」
「あんたが行っても足手纏いにしかならないから、ここで待ちな」
 おばさんは壁を伝いながら必死に立ち上がり、玄関に向かおうとした。
「僕の肩に乗って!僕のほうがおばさんよりもずっと早く走れるから!」
 僕はおばさんの前でしゃがんだ。
「その小さいからだで背負える訳無いだろう」
「背負えるから早く!」
 一刻の猶予もない。こんな問答をしている時間は勿体無かった。
「分かったよ。だけど、無理だったら置いていくからね」
 おばさんはそう言うと、遠慮がちで僕の肩にまたがった。僕はおばさんを肩の上に載せて立ち上がると、玄関を出て街の方向へと全力で走り出した。おばさんを背負っているせいか、いつもより少し足取りが少し重く感じる。でも、そんなの気にしている場合ではない。
「すごい速さだね……これなら30分くらいで街まで着きそうだよ」
 おばさんが背中越しに少し苦しそうに言った。どうやら人が走るよりかなり早いらしい。でも間に合わないと意味が無い。どうしてあの時サラを止めなかったんだろう。後悔したって意味が無いし、まだ間に合うかもしれない。だけど、どうしても後悔の気持ちばかりが頭の中を過ぎる。
 僕の心には黒い感情がある。それは、最近夢の中に出ていない。だけど、もし何かあってサラの笑顔が喪われた時、僕はどうなってしまうのだろうか。
 走っていると、空の上からぽつりぽつりと雨が降ってきた。嫌な雨だ。まるで、ルネを喪ったあの日みたいだ。僕は不安を払拭するため、もっと必死になって走った。

「ノエル、もう十分だよ。降ろしてくれないかい」
 それは、ちょうど街が見え始めた頃だった。雨足が強くなり、僕もおばさんも全身びしょぬれだった。
「まだ目的地に着いてないよ?」
「だけど、このまま街に入ると嫌でも目立ってしまう。それにここからだったら、いくら体調悪くたって十分走れるよ」
「でも……」
「ありがとう。だけど大丈夫だから、お願い聞いてくれないかい?」
 いつもとは違う優しく諭すような口調だった。そんな風に言われたら断る事なんてできない。
「うん……」
 僕はゆっくりとしゃがみ、おばさんを地面に降ろした。
「ほら、今度は私の背中に乗りな。肩から手を離すんじゃないよ」
 そう言うと、僕を背負っておばさんは走りはじめた。僕が走るのよりはずっと遅いけど、
雨に濡れ息を切らしながら走り続ける姿は、おばさんがどれだけサラを大切に思っているのか十分伝わった。
 無事に一緒に帰れたら、サラにたくさん文句を言ってやる。僕とおばさんにこんなに心配かけさせたんだから当然だ。だから無事でいて。僕はおばさんの背中で強く祈った。

 その屋敷の正門に着いた時には、おばさんは体力を使い果たしていた。おばさんはインターホンを続けて何回も押したあと、膝を折ってその場に倒れそうになった。僕はおばさんの肩に手を回して支える。
 間延びするようなチャイムの音が鳴り、苛立つ気持ちを抑えながら返事を待ったけど、結局なんの応答も無かった。今度は僕がインターホンを何回も押した。でも、やはりチャイムの音が鳴るだけで、屋敷からは何の返事も無かった。
「おばさん、本当にここでいいの?」
「……ここに間違いないよ。あの変態、居留守を使っているんだ!」
 おばさんは息をぜえぜえさせながら言った。きっと朦朧としているのだろう、目が虚ろで視線が定まっていない。それに振り絞る声も囁く程度の大きさしかなかった。
「この門を登るから、僕の肩に掴まって!」
 僕は門の扉をよじ登りだした。いくら格子が雨で滑っても、僕の力ならきっと登る事ができる。
「ああ、お願いするよ……」
 おばさんは僕の肩に手を回してしがみついた。でもその力も弱くなっている気がする。(おばさん、あと少しだから頑張って!)
 心の中で呟き、ひたすら上に登った。そして登りきった後、おばさんを抱えて飛び降りた。あと少しでサラにたどり着く。屋敷へとそのまま全力で走った。屋敷の全景が見えてくる。中はかなり広そうだ。屋敷の一室の窓だけ光が漏れていた。きっとそこにサラがいる。
(サラ……もう少しで着くから)
 僕は窓に向かいひたすら走った。

11
 チャイムの音が鳴ったのは、スミスさんの指が私の上衣の最後のボタンを解こうとしている時だった。
 スミスさんの指先はその音に反応し、ぱっと私のボタンから離れた。
「おかしいな、今日は他に訪問者はいないはずなんだが……」
 スミスさんは正門の方向を見ながら首をかしげた。
 誰かは分からないけど、逃げ出すチャンスだった。
(お願い……帰らないで!)
 私の祈りが通じたのか分からないが、少ししてからまたチャイムが鳴った。
 スミスさんは表情を険しくし、忌々しげに舌打ちをした。
「まあ放っておけば諦めるだろう。サラちゃん、それでは続けようか」
 私の方を振り向いて言った。
「……続き?」
 声が上ずり、そう言うだけでいっぱいいっぱいだった。
「ああ、続きだ。このままでは風邪を引いてしまうよ。それに、さっき上衣を脱がしている時に気付いたが、下着もびしょ濡れじゃないか。そっちも早く脱がないとね」
 私は何も言い返せなかった。スミスさんの体がどんどん私に近づいてくる。だけど私は、恐怖で体が震え、逃げ出すこともできなかった。
「ああ、そんなに震えちゃって可哀相に……大丈夫、私の言うとおりにさえすれば、何の心配もいらないよ」
 スミスさんが、また私のボタンに手をかけようとしたその時だった。
「がルネ!」
 窓が割れるような大きな音が部屋中に響いた。何が起こったのかはとっさにはわからなかったけど、少しして窓が割られた事に気付いた。
 そして、その割れた窓から部屋の中に何か入ってきた。それは人と言うには小さすぎた。だけど、それが誰か人のような大きさの物を抱きかかえているという不思議な光景だった。
「サラ、僕だよ。いたら返事して!」
 それは大きな声で私の名前を呼んだ。
 ノエルだ。ノエルが助けに来てくれたんだ。安堵で気が緩み、思わず泣き出してしまいそうになった。
「誰だお前は!」
 ほっとしたのも束の間、心臓が止まりそうになるくらいの大きな怒声が部屋に響いた。それはスミスさんだった。
「人の屋敷の窓を勝手に割って入りやがって、絶対に許さんぞ!」
 部屋の中が一瞬で凍りついた。ノエルが助けに来てくれたのは泣きたくなるほど嬉しいけど、この場の収拾をどうつければいいのか分からなかった。それに、そもそもノエルは人形だから本当はその姿をスミスさんに見られたのはまずかった。
「幼い人の娘に手を出そうとしときながら、偉そうな事言ってるんじゃないよ!」
 スミスさんの声に負けじと、大きな声が部屋に響いた。お母さんの声だ。さっきノエルが抱きかかえていたのは、お母さんだったんだ。
「エリザ?」
 スミスさんの表情からは焦りの色が見えた。スミスさんも、お母さんの存在には気付いていなかったみたいだ。
「サラ、そこにいるんだろう?早くその男から離れな!」
「うん……」
 私はスミスさんの体をすり抜け、お母さんとノエルの元に必死に駆けた。
「エリザ、誤解だよ。私は君の娘が雨に濡れて寒そうだったから、風邪を引かないように着替えさせてあげようと思っただけなんだよ……そうだよね、サラちゃん!」
 どうしてか分からないけど、スミスさんは私を縋るように目で見てきた。だけど目をあわせるのも怖かったから、私は視線を横に逸らした。
 それに気付いたのか、お母さんは病身とは思えない力強さで私をぎゅっと抱き締めた。そんな場合じゃないのは分かっているけど、それが嬉しかった。
「そうかい、だったらこの娘の替えの服はいったいどこに用意してくれてるんだい?」
「まあその、とにかく早く脱がせないといけないと思ったんだよ。エリザ、お願いだ!信じてくれ」
「黙りな変態!私に色目を使うのは今まで我慢していたけど、娘に手を出そうとするなんて、ほとほとあんたには愛想が尽きたよ!」
 お母さんは厳しい口調でスミスさんを罵った。でもお母さんの顔は真っ青で息もぜえぜいしている。立っているだけで精一杯の様子だ。
 そうだ、もとはと言えば、風邪引いたお母さんをゆっくり休ませてあげたかったんだ。それにも関わらず、結局お母さんの言いつけを守らずに勝手に行動して余計迷惑をかけてしまっている。
「エリザ、誤解だよ……その様子だと、風邪引いているんだろ?君は正常な判断ができない状態なんだ。とにかく、今から医者を呼ぶから安静にするんだ。客室のベッドを使って構わないから」
 そう言うと、スミスさんは逃げるように部屋を後にした。
「お母さん……」
 私は呟いた。でも何から言えばいいのか分からなかった。伝えたい事はたくさんある。言いつけを破った事に対して謝らないといけないけど、簡単に許してくれるだろうか。それに助けに来てくれた事に「ありがとう」ってしっかり言わないと。お母さんの体調についても確認しないといけない。
「サラ、おばさんをベッドに連れて行かないと。意識を失ってるよ!」
 ノエルの声で我に返った。顔を覗くと、お母さんは力なくだらりと首を垂れ、目を閉じていた。ノエルが体を支えているから倒れてはいないものの、なんの力も体に入っていなさそうだ。
「お母さん!」
 思わず叫んだ。私はなんて馬鹿なんだろう。大丈夫な筈なんて無いんだ。ついさっきまで高熱を出して寝込んでいたにもかかわらず、この雨の中を駆けてこの屋敷まで来たんだから。
「サラ、大丈夫だから落ち着いて。きっとサラが無事だったから安心して、緊張の糸が切れちゃったんだよ。とにかく、早くベッドに運ぼう」
 ノエルは宥めるように言った。
「……本当に大丈夫かな?」
「うん、大丈夫だよ。僕はお医者さんじゃないから詳しくは分からないけど、命に別状はないよ。そのくらいだったら分かるんだ」
「そうなんだ、良かった……」
 ノエルの言葉を聞いてほっとした。だって、今までだってノエルの言った事は間違ってなかったから。
「あれ、どうしたんだろう?」
 服にぽたぽたと零れ落ちるまで自分でも気付かなかった。どうやら目から涙が溢れてしまっているみたい。緊張の糸が切れてしまったのは、私も同じだったんだ。
「サラったらまた泣いてるんだ。もう、泣き虫なんだから……ほら、早くおばさんをベッドに運ぶよ!」
 ノエルが呆れるように言った。だけど、それとは裏腹にノエルの表情はとても優しく見えた。
「うん!」  
 私は袖で涙を拭い、精一杯の元気な声で答えた。

「しばらくは安静にしておきなさい。まったく……無理ばっかりするからこんな高熱になってしまうんだよ!」
 お医者さんは、ぶつくさと文句を言いながら風邪薬を置いて帰っていった。お母さんは相変わらず、起きる気配はない。でも、さっきよりは少し息遣いが楽になっているような気がした。
 それから少しして、街の仕立て屋が来て、私とお母さん用の衣服を何着か置いてった。親切心か、もしくは後ろめたさなのか分からないけど、スミスさんが手配してくれたようだった。
 お母さんの額に乗せていたタオルを水に浸して絞り、再び額の上に乗せなおした。こういう風にお母さんを看病するのは初めてだった。
 今回ほど高熱で無いにしても、今までだってお母さんも風邪を引いた事があったと思う。だけど、私の前ではそんな素振りを一度も見せたこと無かった。反対に、私が風邪を引いた時はいつだってつきっきりで看病してくれた。それに私が怖い夢に魘されている時には、手を握ってくれた。
 どうしてお母さんの愛情に、今まで気付けなかったんだろうか。自分からは何も行動しなかったにも関わらず、愛されてないなんて思い込んでいた自分が恥ずかしい。
「サラも疲れているんだから、少し休んだら?僕が代わりに看病するよ」
 ノエルが私の裾を引張りながら言った。
「ノエル、ありがとう。でも私は大丈夫だから、お母さんの看病させて」
「サラがそうしたいなら構わないよ。だけど無理はしちゃだめだよ」
「うん……」
 ノエルの優しさのせいで、また泣きそうになってしまう。でも、もし泣いてしまったら、またノエルに呆れられてしまう。そのため、話しを切替えることにした。
「ノエル、今日はいろいろごめんね。それに、ありがとう」
「何が?僕はおばさんについて来ただけで何もして無いよ」
 ノエルは視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。 
「うん、でもありがとう」
 私はノエルに思いっきり抱きついた。
「サラ、苦しいから止めてよ」
「ふふ、止めないよ!」
 ノエルは私の腕を振り解こうとしてみせたけど、ほとんど力は入れてなかった。私はもっと強くノエルを抱き締めた。
「それじゃあ、もういいよ!」
 ノエルは相変わらずぶっきらぼうな口調だ。だけど怒っている訳じゃない。ノエルは、照れ隠しをする時いつもこういう口調になる。
「そういえばサラ、あの人に何されそうになったの?サラが勝手にここに向かったこと伝えたらおばさんの血の気が引いていたし、僕だって少しは心配したんだからね!」
「あの、えっと、そのね……」
 思わぬノエルからの切り返しに詰まってしまった。ノエルは本当に何があったのか想像つかなさそうだ。事実を話せばいいだけだと思うのに、なんだか口にするのが恥ずかしかった。だからといって、さんざん心配かけたノエルに答えない訳にもいかなかった。
「その……服を脱がされそうになって……」
 途中からは消え入りそうな声になってしまった。きっと顔は紅潮している。鏡を見なくても想像はついた。
「え、それだけ?」
 ノエルは拍子抜けした様子で言った。
「それだけっていうけど……」
「サラ、シャワー浴びる時だっていつも服を脱いでるじゃん。確かにサラの気持ちを無視して脱がすのは怒っていいと思うけど。でも、てっきりもっと酷いことされていると思ってた。心配して損したよ」
 ノエルは心底ほっとした表情で朗らかに言った。ノエルに悪気は無いのは分かるけど、不満な反応だった。
「でも私にとっては大事だったんだもん!ノエルの馬鹿!」
「え、そんな……」
 ノエルは言葉を喪ってうなだれた。どうして責められたのか本当に分からないんだ。ノエルは純粋で優しいから、私を自分のことのように心配し、そして安堵してくれたのだろう。
「冗談だよノエル。ごめんね」
「……ほんとうに冗談なの?」
「うん、ほんとう」
「そう……」 
 少し釈然としないような表情を残しつつ、胸を撫で下ろしていた。
「それじゃあ僕も少し休むよ。だけど何かあったらすぐに起こしてね。あと、勝手に部屋を出たらだめだからね!」
 そう注意し、ノエルはお母さんの寝ているベッドの隣に滑り込んだ。
「あ、ノエルちょっと待って!」
 私は眠ろうとするノエルを呼び止めた。
「なに?」
 私は身を乗り出し、ノエルの頬にキスした。
「今の何?」
 ノエルはキスした頬を触れながら、不思議そうに聞いてきた。
「えっとね、大好きな人に好きって気持ちを伝えるための行為なんだって。前に読んだ本に書いてあったんだ」
「えっ、そんな本あったっけ?」
 ノエルは不思議そうに尋ねた。そういえば、その本はノエルが昼寝している時にお母さんの部屋に置いてあったのを隠れて読んだものだった。
「あったよ。ノエルが忘れているだけだよ!」
 声が過剰に大きくなってしまった。
「へえ、そうだっけ……まあいいや……その……僕もう寝るから」
 ノエルは素っ気なくそう言うと、布団の中に頭ごともぐりこんだ。そしてすぐに、すやすやと寝息が聞こえてきた。あっという間に眠りについてしまったみたいだ。
 ノエルをどちらかというと弟のように思っていた。だけど、こんな風に迷惑ばかりかけていては、反対に自分が妹みたいだ。それに勉強も教えて貰ってばかりだし。
「ふう……」
 私は小さく溜息を吐いた。
 お母さんの安らかな寝顔が見える。そういえば、お母さんの寝顔を見るのは初めてかもしれない。いつも私の前では働いている姿しか見せないから。体に滲んでいる汗を拭き、額の上に載せているタオルを水に浸して置き直した。隣のノエルは、あどけない顔でぐっすり寝ている。
 お母さんの寝顔を見ていると、自分まで眠くなってきた。緊張していた状態から解き放された影響もあるのだろう。そして、私はいつのまに眠りについてしまっていた。

 どれくらい寝ていたのだろう。何かゆっくりと揺れるのを感じて目を覚ました。
「起きたのかい?」
 声が聞こえたほうを向くと、お母さんの顔がそこにあった。どうやら、ベッドの上にかぶさって寝てしまっていたらしい。
 私は目を擦りながらゆっくり体を起こした。
 そうしたら、何かがぱさっと体から落ちた。それは毛布だった。お母さんが私にかけてくれたようだ。
「お母さん……」
 お母さんの顔を見て一瞬ほっとしたけど、何を言っていいか分からず口籠もってしまった。言わないといけない事は、たくさんあるはずなのに。
「ごめんなさい……」
 結局、出た言葉はそれだった。約束を破ってごめんなさい。心配かけてごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい。いろんな意味があったけど、結局そのひと言しか出せなかった。
「最初の発声がそれかい……」
 そう言うと、お母さんは大きな溜息をついた。
「ほら、頭を出しな」
 お母さんは憮然とした口調でそう言った。きっと叩かれるのだろう。だけど仕方ない、私が悪いんだから。目をぎゅっと瞑り、おそるおそる頭を前に差し出した。
「謝らないといけないのは私の方だよ。ごめんね、サラ」
 そう言うと、私の頭を優しく撫でた。お母さんの思わぬ行動に戸惑い、どうしていいか分からず体が強張ってしまった。
「サラ、お前はいつのまにか我儘一つ言わず、何かあったら私に謝ってばかりの娘になってしまったね。でも私はそんなの望んでいなかった。普通の年頃の娘みたいに、我儘言ったり、親に反抗してみたり、そんな普通の生活を送らせてあげたかった。だけど私は、生活するための金を稼ぐだけで精一杯で、ろくに甘えさせてあげる事もできなかった。私は母親失格だね」
(そんなこと無い!)そう大きな声で叫びたかった。だけど言葉にならなかった。涙がとりとめも無く溢れ、口を開けても声にはならなかった。言葉が出ない代わりに、頭を横に振って必死に否定した。
 お母さんはずっと私の頭を優しく撫で続けてくれた。これからはもっと素直に言いたいことを言おう。お母さんに我儘だって言うし、自分の気持ちだってしっかり伝えよう。
 どれくらいそうしていただろう。お母さんが、ふと思い出したように聞いてきた。
「そう言えば、ノエルにしっかりお礼は言ったのかい?」
「えっと、うん。たくさん心配かけちゃったから」
「そう、ならいいけど。ノエルがいなかったら間に合わなかったよ。いい友達を持ったね」
「えっ、ノエルはただお母さんについて来ただけって言ってたよ?」
「……そう、言って無いのかい。ノエルは、この街まで私を背負って必死に走ってくれたんだよ。それに屋敷に入るのも手伝ってくれたし。私一人ではあんたを助けられなかったよ」
 そんなこと聞いてない。ノエルも私と同じくらい素直じゃないんだ。
 ノエルは相変わらず、あどけない寝顔でぐっすり眠っている。その寝顔が涙でにじんで見えなくなった。
「ノエルが起きたら、たくさんお礼を言うんだよ」
 お母さんの言葉に、私はただ黙って頷いた。
「あと、スミスの変態野郎に世話になるのは少し癪だけど、今日はこの屋敷に泊まろうか。まだ体調良くないから動くのがしんどいし、それにスミスには言い含めておかないといけないことがあるしね」
「……なに言うの?」
「もう金輪際あんたには近づかないこと。それでも、近づいてきたらすぐ私に言うんだよ。ぶっ殺してやるから」
「うん」
「あと、ノエルの事は一切口外しないこと。スミスの言うことなんて誰も信じないとは思うけど、念のため言っておかないとね」
「うん」
「それに今後も私が仕立てた服を定期的に買うこと。本当は慰謝料を分捕りたいくらいだけど、今回は何もされてないからね。口惜しいけど、スミスから来る注文は馬鹿にならないし、それくらいは慰謝料代わりにいいだろ。この屋敷に泊まるのは嫌かい?」
「ううん、大丈夫。お母さんとノエルがそばにいるから」
「そうかい……なら良かった。少し疲れたから、また寝るよ……そうだ、お腹は空いてないかい?」
「大丈夫」
「今は大丈夫でもその内お腹が空くだろ。スミスに何か用意させておくよ。さすがに変なものは入れて無いと思うけど、注意して少しずつ食べるんだよ」
「うん」 
 今日1日だけで、今までの1年分以上話したかもしれない。お母さんが話しかけてくれるのが嬉しい。今までも気にはかけてくれていたのだろうけど、口にはしてくれなかったから。
「ねえ、お母さん」
「……なんだい?」
「その、あの……」
 なかなか切り出せない。素直になろうと決めたばかりなのに、口籠もってしまう。
「……また今度にするかい?」
「ううん、あのね……今日一緒に寝てもいい?」
 なんとか言えた。でも緊張で額から汗が出た。拒否されたらどうしよう。どうして他の子達は、こんなこと平気で言えるんだろう。
「いったい何かと思えば……これからはいくらだって構わないよ。だけど、今日だけはだめだ。私の風邪がうつっちゃうから」
「でも、ノエルだってお母さんと一緒に寝てるもん」
「この子は風邪うつる心配なんて無いだろ」
「でもこの部屋にはベッドが一つしかないし、別の部屋で寝るの怖いんだもん。スミスさんは変態だから何するか分からないし……」
「まあ、気持ちは分かるけど」
「それに、お母さんさっき、いくらでも我儘言っても構わないって言ってたもん……」
「あれはそういう意味じゃなかったんだけどね……」
 お母さんは、必死に食い下がる私に対し、呆れたように大きく溜息をついた。
「……分かったよ。その代わり、背中を隣り合わせにして寝るんだよ。寝返りを打ったらだめだからね。まったく……私の風邪がうつっても知らないから」
「うん!」
 結局、その日は私とお母さんとノエルの3人で同じベッドの上で寝た。ベッドは少し狭かったけど、布団はとても温くて気持ちよかった。
 お母さんの心配したとおり、私にも風邪がうつり翌日熱を出してしまった。だけどこの日の出来事は、この後風邪がうつったことも含めて、私にとって忘れることの無い思い出となった。

12
 ずっと側にいた。だから、毎日の小さな変化に気がつかなかったんだ。だけど確実に、少しずつサラは変化していた。いつの間にか、僕が見上げるサラの目線は高くなっていき、そしてサラの体は大人の女性へと近づいていった。
 だけど僕は何も変わらなかった。肉体的な成長なんて無い。でもそれは別に構わなかったんだ。もし僕がサラとずっと一緒にいることができたら。そして、僕とサラの関係が永遠に続くのだとしたら。
 でも僕の中の黒い感情は、そんな気持ちとは裏腹に僕の心を蝕み続けていた。そして何かきっかけさえあれば、爆発的に増殖するための準備はできていたんだ。

 ユタと初めて会ったのは、染料に使うためサラと花を一緒に摘んでいる時だった。
 誰かが花畑に近づいてくる足音が聞こえた。それ初めて聞く足音だった。
「サラ、誰か近づいて来るよ」
「うん。誰だろう……ノエルは動かないでね」
「分かってるよ」
 足音はどんどん近づいて来た。その軽やかで快活な足取りからすると、若い男の人だろうか。そろそろ林を抜けてこの花畑に到着しそうだ。
「おっ、ここか!期待以上だ!」
 遠くから声が聞こえてきた。やはり若い男の人みたいだ。ここからだと横顔しか見えないけど、サラより少し年上くらいに見える。
 その男の人は花畑の中に足を踏み入れて、姿が見えなくなった。
「どうしよっか?」
「悪い人では無いと思うけど……お花はもう十分摘めたし、気付かれないようにそっと帰ろうか?」
 サラと顔を見合わせながら、ひそひそ話した。
「それじゃあ、ノエルは籠の上に乗って。歩いて帰る訳にはいかないし」
「サラ、運べる?」
「うん、大丈夫だよ」
 サラは小さくガッツポーズをした。確かに今のサラなら問題なく運べるだろう。なんとなくそれが少し寂しかった。
 僕は花が摘まれた籠の上に乗ると、サラは籠を背負い、男の人に気付かれないようにそっと花畑を抜け出した。
 脇道まで行くと、その男の人の後姿が結構近くで見ることができた。男の人は、ルーペを手にしゃがみながら熱心に花を観察している。こちらに気付く様子は全く無い。
「何やってるんだろうね」
「うーん、そうだね……」
 サラは男の人に視線を奪われながら、少しずつその場から離れていった。もし何事も無くサラがここから離れられていたなら、きっと何の接点も無く終わっていたんだろう。だけどそうはならなかった。
「きゃっ」
 がくんと籠が地面に転がり落ち、僕は宙に投げ出された。サラは花畑に落ちてしまったようだ。どうやらサラが何かに躓いて転んでしまったらしい。
 さすがに気付かれてしまい、男の人は僕達のほうに駆け寄ってきた。サラは無事だろうか。心配だけど、今動く訳にはいかなかった。人形の自分がもどかしかった。
「君、大丈夫?」
 男の人はサラに手を差し出した。それが口惜しい。いつもなら自分の役目のはずだ。
「……大丈夫です、すみません」
 サラは、地面にぶつけてしまったお尻をさすりながら、照れ笑いを浮かべた。
「……えっ?あ……そう……」
 何でだろう。サラと視線が合った後返事するまでに間があったような気がした。返事も何だかぎこちない。
「おっ、頭の上に花びらがたくさん付いてるよ!」
 男の人は笑いながらそう言い、サラの頭の上の花びらを指で摘み、取っていった。
「あ、きっと籠に摘んでいた花がこぼれちゃったんだ!」
 サラは小さく叫び声をあげた。
「ああ、あの籠か。大丈夫、たいしてこぼれ落ちていないみたいだよ。ところで、どうしてそんなたくさん花を摘んでいるの?」
「衣服の染料に使用するんです。この花は水に浸して少し手を加えると、とても綺麗な紫色が出せるんです」
「へー、そうなんだ!初めて聞いた!」
 地面に転がり落ち身動きせず黙っている僕を横に、いつまで二人は話しているつもりだろう。苛立ちが募ってくる。
「あなたは何しにここに来たんですか?」
「ああ、俺は植物学者を目指しているんだ。とは言っても、まだ学生だけどね。今、フィールドワークでこの花を観察しているんだ。この花はね、非常に限られた地域にしか生息しない珍しい花なんだよ。あ、それと自己紹介が遅れちゃったけど、俺はユタっていうんだ。君は?」
 二人の会話を横目に、僕はゆっくり立ち上がった。もうこれ以上人形のように黙っているのはうんざりだ。
「あーっ!」
 サラは叫んで立ち上がり、走って僕に飛びついた。
「……びっくりした!急にどうしたの?」
 男の人は、驚いた様子で声をあげた。
「あの、えっと、用事を思い出したので、急いで帰らないと!途中ですみません」
 サラは男の人にぺこっと頭を下げると、籠を急いで担ぎ、僕を抱きかかえながら小走りでその場から逃げ出した。そして駆けながら、男の人が視界から外れるまで何度も後ろを振り返った。
「もう見えない。大丈夫だよ」
 僕がそう言うと、サラはやっと走るのを止めた。走りつかれたのか息は少し荒い。
「もうっ!ノエルったらどうして立ち上がったの?」
 サラは僕を地面に降ろすと、じっと睨んだ。
「サラが悪いんじゃないか。僕が地面に転がっているのに、あいつとずっと話していたりなんてするから!」
「仕方ないじゃない……話しかけられているのに逃げ出したら、かえって怪しまれるし。もうっ、ノエルはそんな事を怒ってたの?」
 サラはあきれたように大きな溜息を付いた。
「……『そんな事』じゃないよ……」
 僕は聞こえないように呟いた。自分でもよく分からなかった。どうしてあいつとサラが話しているのがあんなに腹立たしかったのだろう。いや、腹が立っただけじゃない。あいつがサラに笑いかけるのを見たら、胸が締め付けられるように苦しかった。
「ノエル、もうあんな事しちゃだめだからね」
 俯いている僕を見て、サラは僕の頭を撫でながら優しく諭した。
「うん……ごめん」
 僕は謝った。僕だって分かっているんだ。サラやおばさんの前以外で普通に振る舞うのがどれだけ危険なことなのか。
 サラは僕の手を繋ぎ、ゆっくり歩きながら家路を歩いた。サラの手は柔らかくて温かかった。この手を絶対離したくなんて無かった。
「サラ……」
「なに、ノエル」
「ごめん」
「もういいよ、ノエル。私もごめんね、ノエルのこともっと考えればよかった」
 サラはそう言い、握った手の力を少し強めた。僕は反対に、握る手の力を弱めた。僕もサラの手を強く握りたかった。でもそうしたら、サラの手を壊してしまいそうな
気がした。

13
 あいつが家に来たのは、それから2日後のことだった。
「すみません」
 ドアをこんこんと叩く音と同時にその声は聞こえてきた。その時、おばさんは街に商品を売りに出ていて、家の中は僕とサラしかいなかった。
「あの人だ、どうしよう?」
 サラは少し困った顔で僕を見た。
「あんなの無視すればいいよ。放っておけばそのうち諦めて帰るよ」
「でも、悪い人では無さそうだし……」
「ほとんど話してないのに、そんなの分かる訳無いじゃん!」
「でも……」
 サラはまだ迷っている。僕に意見を求めながら、どうして僕の言う事を聞かないんだろう。サラの優柔不断な態度が腹立たしかった。一方で、あいつの事になると些細なことにも苛立ちを覚える自分に違和感があり、余計もやもやした。
「誰かいませんか?」
 あいつが、もう一度ドアを叩きながら尋ねてきた。
「ノエル、やっぱり出るよ。何かあっても、ノエルがいてくれるから心配無いし」
 結局、そう言いながらドアへ向かった。サラはずるい。「僕がいたら心配ない」なんて言われたら、それ以上は止めることなんてできる訳無いのに。
 ドアをかちゃっと開ける音が、玄関から聞こえる。
「はい、何でしょうか?」
「あっ、前に花畑で会ったお嬢さん。よかった、探してたんだ」
「あの、先日はどうも……私に何か用でしょうか?」
 サラは少し警戒気味に聞いている。万一サラに何かあったら、僕が助けないといけない。僕は二人に見られないよう、壁をつたいながらじりじりと近づいた。
「君に教えて欲しいことがあって探していたんだ。あの白い花、染料に使うんだよね?どうやって色素を抽出するのか教えてほしいんだ」
「それなら、方法をお伝えするよりも実際にして見せたほうが分かると思いますけど、今家には私しかいなくて……」
 サラは少し困ったように、あいつに話した。
「あっ、ごめん!君しかいないならまた出直すよ。邪な気持ちなんて無いから!」
 あいつは慌てふためいた様子で話しを遮った。
「……その、よかったら他にご家族がいる時にでも、実演してみせて欲しいんだけど」
「それなら大丈夫です。でも、お母さんはお昼だいたい街に出ているんで、すぐには難しいかも」
「俺、今街の安宿に泊まってるんだ。この辺に当いるつもりだから、都合いい時に連絡くれないかな?」
 そう言って、あいつは胸ポケットからメモ用紙とペンを取り出し何か書き出した。
「これが宿の連絡先なんだ」
 そう言ってメモ用紙をサラに渡した。これを渡し終えたらあいつも帰るだろう。そう思ったけど、あいつはもじもじして、なかなか帰ろうとしなかった。
「あの……まだ何か?」
 サラも怪訝に思ったのかあいつに尋ねた。それでいい。さっさと家から出るように促すべきだ。
「……その、前に聞きそびれちゃったんだけど、君の名前を教えてくれないかな?知らないとなにかと不便だし」
 あいつは照れくさそうに頭を搔きながらサラに尋ねた。「サラの名前なんてこいつになんの関係もない。教えちゃだめだ!」僕は心の中で叫んだ。
「えっと、サラです」
 僕の心の叫びは無情にもサラに通じず、あっさりと教えてしまった。
「そっかあ、サラって言うんだ。可愛い名前だね。それじゃあサラ、連絡頼むよ!」
 そう言うと、あいつは踵を返し逃げるように走り去った。そしてサラは、その姿をしばらく黙って見送った。
「ふう……」
 サラは小さく溜息を付くと、ドアをゆっくりと閉めた。
「サラ!」
 僕が真後ろで大きい声で呼ぶと、サラはびくっとしながら振り向いた。
「ノエル……いつの間に後ろにいたの?」
「そんなことどうだっていいじゃん!それより、なんであいつとまた会う約束なんてしたの?」
「仕方無いじゃない……断る理由無いし。それに、あの人はきっと悪い人じゃないよ」
 サラが口を尖らせる。
 そんなこと分かっていた。別に、あいつが悪い奴だなんて思っていない。そんなの、サラよりも僕のほうが感じている。だけどそんな事じゃないんだ。あいつはサラに対して特別な感情を抱いている。好意なのは分かるけど、僕の中には存在しない感情だから、それがどういうものなのかはっきりは分からない。
 そしてサラも、微かだけどそれに近い感情をあいつに対して抱いている。それが僕を不安でたまらなくさせた。
「もういいよ!」
 僕はサラを睨み、それだけ言って部屋に戻った。僕を呼び止めようとしているのか、サラが何か言っているのが遠くで聞こえる。だけど、耳には入らなかった。自分の黒い気持ちを抑えるのだけで精一杯だったから。
 僕はサラのベッドの上に身を投げた。サラの匂いがする。大好きな匂いのはずなのに、胸が苦しかった。
「……ねえ、ノエル」
 サラが後ろから僕を呼ぶ。僕は大きく寝息を立て、寝ているふりをした。
「ノエルは何を怒っているの?私はどうしたらいいの?」
 サラは構わずに話しかけ続けた。僕は寝ているふりを続けた。サラを無視したい訳では無い。自分自身サラにどうして欲しいのか分からなかった。サラを僕だけのものにしたい。だけどサラに友達が増えるのを邪魔したくなんてない。サラは僕に会うまではずっと一人で寂しかったんだ。だから、サラに新しい友達ができるなら応援しなくちゃいけない。
 でもあいつだけは嫌なんだ。どうしてか分からないけど、サラが僕から遠いところへ行ってしまいそうな気がするから。
「ノエルと話せないの、喧嘩するよりずっと辛いよ……」
 サラが悲しそうに言い、部屋を後にした。もしかしたら泣いていたのかもしれない。だけど僕はどうしても振り向けなかった。サラごめん。サラを悲しませることなんてしたくは無いのに。

「いったいなんだい、このどんよりした空気は……」
帰ってくるなり、おばさんは開口一番言った。
「なんでもないよ、お母さん」
 サラが食卓に夕食のお皿を並べながら力無く笑った。僕は椅子に座りながら、ただ俯き食卓の一点を見ていた。
「なんでもないっていう雰囲気じゃないだろ。二人とも喧嘩でもしたのかい?こんな辛気臭いと私の食欲まで失せるよ。まあどうせ些細な原因だろ。早く仲直りしてしまいな」
 おばさんが溜息をついた。だけどこれは喧嘩ですら無いのかもしれない。僕が一方的にサラを無視しているのだから。
 僕がふと視線を食卓から上げると、僕を見ていたサラと目が合ってしまった。サラが何かを言おうと口を開きかけた瞬間、僕は急いで視線を逸らした。そんな気まずい雰囲気を解消するためか、いつも聞き役に回っているおばさんが、珍しく話しをサラにふってきた。
「私が留守にしている間、何かあったかい?」
「えっと……ううん、特に何も無かったよ」
 僕は驚いてサラを見た。いつもだったらどんな些細なことだって嬉しそうにおばさんに話すのに、今日家に来たあいつの事を忘れているとは思えなかった。きっとおばさんに話さないつもりなんだ。僕と仲直りするために、もうあいつに連絡を取るつもりは無いのかもしれない。だけどそんなの絶対良くない。
「サラ、お昼頃に家に来た人のこと忘れてるよ!」
 僕は意を決してあいつの事を口に出した。
「えっ?」
 サラはどうしていいか分からない様子で、狼狽した表情を浮かべた。
「ほら、あの人だよ。おばさんが家にいる時に、一度来たいって言ってたじゃん」
「ん?誰か家に来たのかい?」
 おばさんがサラを見つめ、質問した。
「うん……植物学者を目指しているっていう学生の方が家を尋ねて来たの。野原に咲いている白い花の、染料としての使い方を教えて欲しいって」
「それで何て返答したんだい?」
「お母さんもいる時ならって……」
「別に私はいる必要ないだろ。その作業なら、私よりサラのほうが上手なんだから」
「でも……」
 おばさんは、途惑った表情のサラをまじまじと見て、何か勘付いたようだった。
「サラも、いつのまにそんな事を気にする年頃になったのかい。親としては嬉しいような寂しいような複雑な気分だね」
「えっ?お母さん、何言ってるの!そんなんじゃないよ」
「別にいいじゃないか、いたって普通のことだよ」
「だから違うって!」
 サラとおばさんが言い争っている。だけど、おばさんは何だか楽しそうだった。なんだろう、自分からあいつの事を言い出したのに、すごい気持ちがもやもやした。言った事は間違えていないはずなのに。
「僕、もう寝るから」
 僕は椅子を飛び降りて部屋へと歩いた。足がとても重く感じる。サラとおばさんが僕を呼び止める声が後ろから交互に聞こえてきた。だけど僕は聞こえないふりして部屋に戻った。
 今はもう怒ってなんていない。ただ、ひたすら悲しかった。まるで自分だけ取り残されたような気がした。僕が人形だからだろうか、サラとおばさんの会話の意味は分からなかった。きっとこれから分からない事がさらに増えていくだろう。そしてサラは最後には僕から離れてしまうんだ。
 なんだかとても疲れていた。ほとんど動いていないはずなのに。そして僕はいつのまにか眠ってしまい怖い夢を見たんだ。

 サラの後ろから黒い闇が迫る。サラは捕まらないように必死に走るけど、距離は遠ざかるどころかどんどん縮まってしまう。
「サラ、逃げて!」僕は夢の中で叫ぶけど、サラの耳には届かない。
「サラ、どうして逃げるの……ねえ、逃げないでよ」
 後ろから声がする。誰の声だろう。聞き覚えがある声のはずだ。だけど声がくぐもっていて良く分からない。サラは後ろを何度も振り返り、何か叫びながらひたすら逃げ続ける。でも、いくら走り続けてもゴールなんて無い。やがて追い付かれ、そして捕まってしまう。
「ねえ、お願い。やめて……」
 黒い闇に両手で握りしめられ、宙に浮いた状態のサラは泣きながら悲しそうな表情で哀願している。だけどその黒い闇は、その握る手の力をじわじわと強めていく。
「やめろ!」僕は夢の中で必死に叫ぶけど、その闇にも声は届かない。
 サラは意識を失い、そしてサラの骨が軋む音が聞こえる。これ以上強く握られるとサラが死んでしまう。
「やめろ!」僕は必死に叫びながらその黒い闇の前に立った。そして上によじ登り、両腕をサラから引き剥がそうとしたけど、力が強くて全然歯が立たない。
「どうして止めようとするんだよ。ただサラを一人占めしようとしているだけなのに」
 黒い闇は、僕をあざ笑った。僕はその声が発せられる方を睨みつけた。僕は黒い闇の顔を見て愕然とした。そこには信じたくない顔があった。身近すぎて直接見る事はない、だけど鏡を見たらいつだって目の前に存在する顔。黒い闇は僕自身だった。

「ノエル、しっかりして!」
 目を覚ますと、目の前にはサラの顔があった。
「やめろっ!やめろっ!」
 僕は必死に叫び、目の前にある宙を両手で引っ掻き回した。その時の僕は、きっと夢と現実が混同してしまっていたのだと思う。
「ノエル、大丈夫。ただの夢だから!」
 サラの言葉にはっとなり、僕は少しずつ冷静さを取り戻していった。そう、夢だったんだ。だからサラはこうして無事僕の隣にいる。
「ノエル、少し落ち着いた?」
 サラは僕を抱き締めて言った。サラの温もりと心臓の鼓動が僕に伝わり、僕を安心させた。それから少しして、僕ははっとし、サラの体を押しのけた。
「……もう大丈夫だから、僕に触れないで」
「え、でも……」
「サラ、僕の言う事を聞いて」
 反論しようとするサラの言葉を遮った。サラを傷つけてしまうことくらい分かっていた。でも、サラを僕自身の黒い闇から守るためにはこうするしかなかった。これはただの夢じゃない。このままではいつか僕自身の手でサラを壊してしまう。そんな確信があった。だから距離を置かないといけないんだ。
「……わかった」
 サラは僕から目を逸らし、頷いた。
「サラ、僕は床で寝るね」
 僕はサラのベッドから出て、部屋の端に寝転んだ。サラはもう何も言わず電気を消した。静まりかえった暗い部屋の中で、サラのすすり泣く声が響いた。今日はもう寝られそうになかった。体はだるいのに、頭の中は妙にはっきりとしている。
 僕は両手で耳を塞ぎ、寝返りを打った。サラの寝ている姿が見えた。僕に背中を向けるように寝ている。どうしてこうなってしまったのだろう。僕はただ、サラの側にずっといたいだけなのに。同じ部屋にいるのに、サラが遠かった。

14
「それじゃあ、行って来るよ」
「行ってらっしゃい」
「今日、確か例の人が来ることになっているんだろ。しっかり対応しな」
「……うん」
 サラが返事する。おばさんを玄関で送るいつもの風景だ。僕は、サラから少し距離を取っておばさんを送り出す。サラは心あらずといった感じで、おばさんが玄関のドアを閉める前に自分の部屋へ戻った。
「ノエル、行って来るよ。何も無いとは思うけど、何かあったらサラのこと頼むよ」
「うん」
 僕は力無く頷いた。
「二人とも元気ないけど、まだ喧嘩しているのかい?」
 おばさんの問いかけに、僕は黙って俯いた。
「はあっ、ノエルの反応も同じかい。サラに聞いても『何でもない』としか言わないし、これじゃあ対処のしようが無いよ」 
 おばさんが眉間に皺を寄せてそう言った。サラもおばさんにほとんど話していないみたいだ。だけどそれは仕方無いだろう。どうしてこうなってしまったのか、サラは分からないのだから。
「ノエル……いつでも相談にのるから、一人で思い悩むんじゃないよ」
 おばさんは僕の耳元でそう囁き、寂しそうに笑って玄関を後にした。僕の事を心配してくれている。当然サラの事も。僕は、サラだけではなくおばさんにまで心配をかけてしまっているんだ。だけど相談なんてできない。僕がサラを壊してしまうかもしれないなんて、おばさんに言える筈が無い。

 部屋に戻ると、サラは服を着替えて仕事の準備に取り掛かっていた。もうサラは仕事を覚え、裁縫の腕前はおばさんに引けを取らない。そういえば、前は僕が勉強を教えていたけど、いつのまにかそういう機会も減っていた。
「掃除と洗濯しとくね」
 僕はサラの目を見ないで言った。
「うん、ありがとう」
 サラが返事する。今も事務的な話はできる。だけどそれだけだ。そういえばもうずっとサラの笑顔を見ていない。いったいどれくらい見ていないんだろう。
「ねえ、ノエル……今日どうする?」
 漠然とそんな事に思いを巡らしていたらサラから問い掛けられ、はっとした。
「えっ何が?」
「今日あの人が来るけど、ノエルはどうするのかなって……」
「僕も一緒にいる。おばさんにも頼まれているし」
「そう、分かった」
 サラは少し安堵した表情を浮かべた。気まずくなったきっかけがあいつだから、僕が一緒にいる事を拒否すると思ったのかもしれない。でも、あいつと顔を合わせたくなんて無いけど、二人きりにするのも嫌だった。
「ノエル、あの人の前で動いちゃだめだからね」
「そんなの分かってるよ!」
 僕の声は苛立ちを抑えられていなかった。サラが僕を心配してくれているのは、よく分かっているのに。だけどもし何かあった時、動いてはいけない自分がいていったい何ができるんだろう。そんなジレンマを感じないではいられなかった。
 
 あいつが来たのは、午後2時を少し回った頃だった。
「こんにちは!」
 あいつの大きな声が玄関から聞こえてくる。インターホンがあるのに大声で呼ぶなんて、がさつな奴だ。サラはぱたぱたと走り、玄関へと向かう。僕は作業場の部屋にある椅子にあらかじめ座り、あいつが来るのを待つ。
「このお菓子、街で買ってきたんだ。口に合うか分からないけど」
「そんなに気を使わなくて結構です。いつもしている事を、ユタさんに横で見学して貰うだけですし」
「いや、でももう買ってきちゃったし。受け取って貰えないと困るんだ」
「……それじゃあ、ありがたく頂戴します」
 サラとあいつのやり取りが玄関から聞こえてくる。「いつまで話しているんだ、早く来いよ!」僕はそう叫びたくなるのをこらえた。
「この部屋です」
 サラの声が、部屋の前にやっと来た。
「それじゃあ、失礼します」
 あいつが部屋の中に入ってきた。そういえば、こいつを正面から見るのはこれが初めてだった。日に焼けた褐色の肌や、サラよりも頭一つ分以上大きい体はとても頑強に見える。意思の強そうな瞳や、すっと通った鼻筋、きらっと輝く白い歯はおそらく美男子の部類に属するだろう。
「適当に椅子に腰掛けてください」
「うん、それじゃあ……ってどうしてここにベッドがあるの?」
「母の寝室も兼ねているからですけど……なにか?」
「ああ、そうなんだ。いや、別に驚くことでは無かったね!」
 こいつはよく分からない挙動不審な動作をしている。サラは怪訝な表情であいつを見た。「よし、いい調子だ」僕は心の中で呟いた。
「それじゃあ、ここに座らせてもらおうかな」
 こいつはそう言って僕の隣の椅子に座った。「僕の隣に座るな!」そう思ったのが伝わったのか、こいつは僕に視線を向けた。僕はどきっとしたが、ぴくりとも動かずただの人形のふりを続けた。だけど、こいつは視線を僕から外そうとしなかった。そして、僕に手が伸びようとしたその瞬間、サラが口を開いた。
「前に摘んできた花は、すでに水にさらした上で外で乾燥させています。今からやるのは、樽の中に乾燥させた花を入れ、水に浸して衣類に染色させる作業です」
「なるほど、了解」
 そう言うとこいつは僕に向けていた手を引っ込め、サラの座っている方向に体ごと向けた。間一髪だった。こいつに触られたからって何か感付かれる事は無いとは思うけど、一抹の不安は感じていた。
 サラは染色の作業を始めた。とても真剣な眼差しで作業をしている。きっと、こいつが見学していることなどもうほとんど気にかけていないだろう。
 こいつの方をちらっと見ると、サラに負けじと真剣な眼差しでじっと一点を見つめている。だけど、その視線の先に衣類は無かった。そこにはサラの横顔があった。「この野郎!」心の中で罵倒し、僕は両拳をぎゅっと握って怒りをひたすら抑えた。
「はあ……」
 サラが額の汗を拭いながら、大きく息をついた。どうやら、染色作業がひととおり終わったみたいだ。
「後は衣類を干すだけです。その後、裁断などをしますけど染色はもう関係ないです。あの……何もお相手できていませんが、こんなので大丈夫だったでしょうか?」
 サラがこいつの顔をちらっと見て言った。
「ん……あ、ああ、十分!染色作業、初めて見させてもらって感動したよ。染色ってとても大変な作業なんだね。何気なく着ている衣服も、こういうふうに一枚一枚丁寧に作られているんだ。これからは、衣服を作ってくれている人に感謝しながら着ないと!」
 感想を求められ、こいつは少し焦っていた。サラの横顔しか見てなかったんだから当然だろう。
「いえ、たいていの衣服は工場とかで大量生産されている物ですよ!」
 サラは、こいつのずれた感想に対し思わず笑っていた。
 サラが笑った顔を見るのはどれくらい振りだろう。でもその笑顔は、こいつに向けられたものだ……僕に向けられたものではない。それが悲しかった。
「ところでさ、話しは変わるけどこの人形って何かな?」
 こいつは、僕の方を見ながらサラに尋ねた。僕はどきっとしたけど、屈託の無いその笑顔は他意は無さそうだった。
「……どういう意味でしょうか?」
 サラが明らかに警戒した声で、こいつに聞き返した。そんなに警戒したらかえって怪しまれてしまいそうだ。だけど、サラに演技力を求めるのは無理だろう。
「いや、純粋に、すごい精巧にできている人形だと思って。関節は指一本まで動かせるようにできているみたいだけど、操り人形ってわけでも無さそうだし不思議だなって」
「ただの人形です。ユタさんの思っているような特別なものではありません」
「ふーん……」
 こいつは納得のいかない感じで、僕の事をひょいと持ち上げた。そして、いろんな角度から僕の事をじっくり見る。僕は屈辱を感じながらも、されるがままの状態になった。横目で見るとサラの表情が強張っていた。
「ねえ、この人形少しだけ借りられないかな?絶対乱暴に扱わないからさ」
 こいつは、サラの表情の変化に全く気付かない様子で尋ねた。
「だめ!」
 サラは間髪をいれずこいつの依頼を拒否した。そしてその大きな声に自分自身で驚いてはっとした様子だった。
「ごめんなさい……その、この人形は特別なものなんです。だから人に貸したりはできません。ごめんなさい」
「いや、全然構わないよ!こっちこそ何も知らず無神経なお願いをしてしまったみたいでごめん」
 こいつは申し訳なさそうな表情でサラに詫びた。そして、僕を椅子にそっと戻した。やはりこいつは悪い奴では無いんだろう。
「思い出の詰まった人形なのかい?」
「いえ、思い出というか……ノエルは大切な友達みたいな存在なんです」
 適当に相槌を打てばいいだけなのに、サラは生真面目に答えた。少し頬を紅らめているのは、人形遊びを未だにしているように思われるのが恥ずかしいからだろうか。
「え、ノエルって言うのかい、この人形は?」
 こいつは、なぜか驚いた表情を浮かべた。
「そうですけど」
「だとすると、この人形はノエルの樹から作ってるのかい?」
「いや、それは……分からないです」
「それじゃあ、なんで『ノエル』っていう名前をつけたの?」
 サラは困りきって何も言えなくなり、俯いた。さすがに、僕が自分の事を「ノエル」って紹介したなんて言える筈が無い。
 そういえば、僕はどうして「ノエル」と言う名前なのだろう。ルネがつけてくれたということ以上には、今まで考えたことは無かった。二人の会話からすると、おそらく樹の名称からとったのだろう。だけど、「ノエル」という樹がどういった特別な意味を持つかまでは分からなかった。
「君はノエルの樹は知ってのかい?」
 サラは俯いたまま頭を振った。
「そうか……ノエルの樹はね、普通の樹ではないんだよ。さっきの白い花のように、特定の地域にしか生息しない樹で、どのような条件で生息するのかは、未だに解明されていないんだ。だけど、普通の樹では無いと言われる一番の理由は別なところにある」
 そこまで言ったあと、こいつは言いよどんだ。何だろう、嫌な感じがする。だけど僕は聞かなければいけない気がした。
「特別な理由ってなんですか?」
 サラは焦れてきたのか、こいつに尋ねた。
「ノエルの樹はね、その……人や動物の気持ちを感じる事ができるみたいなんだ。ノエルの樹はとても優しい樹でね、悲しんでいる人が側にいると優しく包み込むような癒しの香りを出したとも言われている。また、生き物が好きで、甘い蜜や果実を作り、周りには常に何かしらの動物が側に寄り添っていたみたいなんだ」
「そうなんですか」
 サラが驚きで目をぱちくりさせながら聞いている。僕も、初めて聞く話しに興味を抱かずにはいられなかった。だけど、それ以上に「これ以上聞いてはいけない」というアラームが僕の頭の中で鳴っていた。嫌な予感で胸の中がいっぱいになる。
「だけど、どうして過去形なんですか?」
 サラが尋ねた。それは僕も気になっているところだった。
「もうノエルの樹は世界に一本しか存在しないんだ。そしてその樹はもう、さっき話したような樹では無くなってしまっている。これはあくまで言い伝えで、真偽は定かではないんだけど……」
 まだこいつは言いよどんでいる。だけど、最後まで聞かない方があるいは良かったのかもしれない。僕達は聞き、そして後戻りできなくなってしまったのだから。
「お願いします。教えて下さい」
 サラが真剣な眼差しでこいつに頼んだ。
「うん、あくまで言い伝えなんだけど……昔ノエルの樹で人形を作った人形作家がいたみたいなんだ。どうしてかは分からないけど、ある日その人形に魂が宿った。人形作家は魂が宿った人形を、自分の子供のように愛したんだって。だけどその人形作家は、ある時病気にかかり死んでしまう。そして人形はある商人の手に渡った。魂の宿った人形は、商人が行く街の先々で見世物にされた。人形はこれに対してどう思ったかは推測しかできないけど、商人の欲望や街の人々の興味と嘲笑の的にされ続けてとてもつらかったんじゃないかな」
「そんなの酷すぎる……」
 サラは涙目になって呟いた。
 僕には、もうほとんどサラを気に掛ける余裕は無くなっていた。これは今初めて聞く話しだ。だけど僕はそれを知っている。いや、知っているというより、むしろ心の底に蓋を閉じて封印していたものが、どんどん溢れだすような感覚だった。これ以上聞きたくない。だけど、耳を塞ぐこともできなかった。
「うん、酷い話だね。その人形は、人への憎しみが募っていったんだろう。だけど人形はずっと耐え続けたんだ。ある事実を知るまでは」
「ある事実ってなんですか?」
「人形を唯一心から愛してくれた人形作家のことさ。その人は、実は病気で死んだ訳ではなかった。商人に殺されたんだ。商人はどうしても人形が欲しかった。だけど、人形作家はどんな条件をつけても、首を縦には振らなかった。だから人形作家を殺した。そしてその事実が、ある時人形にばれてしまった」
「それで、どうなったんですか?」
 サラが固唾を飲んでこいつに尋ねる声が、頭の遠くで聞こえる。僕の中で黒い何かが溢れ出し、それを抑えるだけで一杯一杯だった。
「その人形はその商人を殺した。いや、取り込んだというべきなのかな。今まで抑えこんでいた感情が一気に爆発し、それが樹としての際限無い成長へと繋がった。その場所で根を張り樹へと形を変えた人形は、周囲の全ての生物を見境無く吸収したんだ。商人だけでなくその街の人々、動物、植物、全てを吸収し、巨大な黒い樹になった。でもそれだけじゃない。それからしばらくして、それ以外のノエルの樹は全部枯れてしまったんだ。理由は分からないけどね。そして現在残っているノエルの樹は、唯一その黒い巨大樹だけで、その樹は未だに成長を続けているんだって。まあ、あくまで言い伝えだから、どこまでが本当か分からないけど」
 僕はもう、自分の中の黒い何かを抑える事ができなかった。自分の意思に関わらず、体がびくびくと痙攣し、椅子から転がり落ちた。
「ノエル!ノエルしっかりして!」
 サラの声が遠くから聞こえる。目の前にいて僕を抱き締めているようだけど、僕の感覚は完全に麻痺していた。そして、自分の意思ではどうしようもなく、両方の手足から幹が伸び出して部屋の中にあるものを取り込もうとした。
「サラ、危ない!早く離れるんだ」
 こいつは何が起こったったのか分からなく。最初呆然としていたようだが、我に返り僕からサラを引き離そうとしているみたいだ。
「離してください!」
 サラは叫び、こいつの手を振り解こうとする。
 「だめだサラ、僕から離れて」そう言いたいのに声にならなかった。このままでは僕がサラを壊してしまう。そんなのは絶対嫌なのに。
「お願い、いつものノエルに戻って!」
 サラがおそらく、僕を強く抱き締めている。だけど何も感じなかった。こんなにサラが近くにいるのに、そして僕がこんなに強くサラを感じたいと願っているのに何も感じられない。
 僕の頬に、何か温かいものがぽたぽたと流れた。それはサラの涙だった。サラの両目から、大粒の涙が零れ落ちている。何でだろう、僕の体は何も感じないのにサラの涙の温かさだけは、はっきり感じた。「サラ、泣かないで……」僕は心の中で呟いた。そして、意識が途絶えた。

 15
 目が覚めた時、目の前にサラの顔があった。心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。
「ノエル、大丈夫?」
 意識がまだ朦朧とする。どうやら僕は、サラを壊さないで済んだみたいだ。僕はゆっくりと起き上がった。
「無理に起き上がっちゃだめ!ノエルは一日中寝てたんだよ……」
 どうやら、日にちを跨いでしまったらしい。窓の外を見ると、ちょうど陽が登りはじめる時間のようだった。サラの顔を見ると、安堵の気持ちが広がるのと同時に、怒りがこみ上げてきた。
「サラ、どうしてあんな無茶するんだ!」
「無茶って?」
「なんで僕から離れなかったんだよ!あの時、下手したら……下手したら僕が君を壊してしまったかもしれなかったんだ!それなのに……」
「大丈夫、ノエルはそんな事しないよ」
 サラはそう言って笑った。サラは僕を信じてくれている。だけど、それはかえって僕には辛かった。だって、僕自身が僕を信じられないのだから。
「それより、ユタさんどうしよう……」
 サラは呟いた。そうだ、あいつの問題があったんだ。だけど、それはもう些細なことのように感じる。あいつは悪い人間ではない。もちろん気をつけた方がいいけど、今すぐ僕達に害を与えるようなことをするとは思えなかった。
「あいつ、何か言ってた?」
「ごめんって……自分のせいでノエルが発作を起こしてしまったと思っているみたい。まだノエルの全てはばれていないと思う。今はただ、発作を起こす事がある人形っていう感じなんじゃないかしら」
 サラの言うとおりだとしたら、このまま放置も危ない気がした。そもそも、「発作を起こす人形」だと思われているとしたら、まるで悪霊が乗り移った呪いの人形みたいじゃないか。
「ユタさんはまた来るって言っていたから、その時に上手くフォローしておくね」
 サラが自信ありげに言う。だけど、その自信がどこから涌いてくるのか正直分からなかった。サラを信じているけど、サラの説明能力については正直疑問を抱かざるをえなかった。
「ねえ、ノエル」
 サラは、今までとはうって変わって真剣な眼差しになり、僕に話しかけてきた。
「どうしたの?改まって」
「私……ノエルの事が大好きだから。上手く言えないけど、その……それだけはノエルにも知っておいてほしいの。たとえ世界がノエルの敵になっても、私だけはずっと味方だからね!……変なの、何大袈裟なこと言ってるんだろう、私……」
「……うん、サラ変だよ」
 僕は素気なく言った。サラは恥ずかしそうに両手で顔を覆っている。胸が苦しくてたまらない。僕だってサラの事が大好きだ。他の誰よりも、サラが大好きだって言える。だけどいつかこの思いが抑えられなくなって、サラを壊してしまう。
 サラの方を見ると、よっぽど恥ずかしかったのかまだ両手で顔を覆っている。きっと今の言葉を告げるだけでもたくさん勇気がいたんだろう。それなのに僕は、サラと勇気を出して向き合うことができない。
 僕は臆病で卑怯だ。僕が本当に恐れているのは、サラを壊してしまうことじゃない。それをサラに知られ、サラが僕から離れてしまうことがなにより恐いんだ。だから僕はこの黒い気持ちを必死に隠そうとしている。
 サラに告白しよう。サラみたいに勇気を出して自分の気持ちを伝えよう。その結果、サラが僕から離れてしまうかもしれない。だけど今だってたくさんサラを傷つけてしまっている。サラが傷つくより、僕が傷ついたほうがましなんだから。僕は、両拳を強く握った。

16
「こんにちは。昨日話した事、ちゃんと考えてくれたかい?」
 そう言ってユタさんは家に入って来た。もう一週間くらい続けて家に来ている。
「また来たんですか……」
 私はうんざりしたように返事した。心は少し痛むけど、ここで気を許すわけにはいかない。そうしたら今までの努力が無駄になってしまうから。
「そんなに邪険にしないでよ。俺は決して冗談で行っている訳じゃないんだから」
「正直、迷惑なんですけど」
「サラ、君はあの人形がどれだけ危険な代物か理解できていないんだ。正直、俺は最初ノエルの樹について噂レベルでしか知らなかった。だけど昨日大学の教授に連絡とれて、いろいろ確認したんだ」
「何か言ってましたか?」
「ああ、少なくとも事実確認はできた。ノエルの樹はやはりもう世界に一本しかない。そして、その樹はいまだに成長し続け、辺り一面を草一本生えないような不毛地帯に変貌させている。その樹がもとは人形だったっていう伝承が本当かどうか分からないけど、少なくともノエルの樹は非常に危険なんだ。あの人形も君に危害を与えるかもしれないんだよ!」
「そうですか。でも前に説明したとおり、私の人形はその樹と関係ありません。私の父がこの辺りの木を伐採して作ってくれた形見なんです。前はその人形に付いていた植物の種子がたまたま発芽してしまっただけです」
「いや、そんな訳無いだろ!どうして君はそんな頑なに嘘を付くんだ!」
 どうやら無理があったみたいで、結局ユタさんを納得させる事はできなかった。だからといって、ノエルの事を告白することはできない。
「だとしても、ユタさんには関係無いですよね」
「うっ、それはそうだけど……」
 ユタさんが言い淀んだ。上手くすると、あと少しで退き下がってくれるかもしれない。
「よく分からないけど、学生さんってそんなに暇なんですか?もっと別にやるべきことってあるんじゃないですか?」
「俺の研究は一切関係ないよ……ただ、君の事が心配なんだ。それは理由にならない?」
 思ってもいなかった言葉が出た。ユタさんの何かを訴えるような真剣な眼差しは、決して冗談で言っている訳では無い。そんな目で見詰められた事は無かったので、身体が硬直し、思考回路も完全にショートしてしまった。
「えっと……それは理由になります……かね?」
「……また明日も来るよ」
 ユタさんはそれだけ言うと、私から目を逸らして家を後にした。どういう意味だったんだろう。ユタさんは優しいから、私が危険な目にあうかもしれないのを放って置けないということなのだろうか。けど、あの時の眼差しはそれだけとは思えない。けど、私の単なる自意識過剰かもしれない。けど……。
 胸が熱かった。こんな気持ち知らない。ただ分かっているのは、今はそんなこと考えているいる場合では無いということだった。
 私はあることを決意し、ノエルに話すために部屋に戻った。部屋に戻ると、ノエルと一瞬視線が合った。だけどノエルはすぐに視線を逸らす。最近はずっとこんな感じ。前みたいに険悪では無いけど、なんだかぎくしゃくしてしまう。ノエルはずっと思い詰めた表情をしていて、何か私に言いたそうにしているけど、結局何も言ってこない。
「ねえ、ノエル」
「……なに?」
 ノエルは気の無い返事を返した。
「あのね……ユタさんにノエルの事を話そうかと思うの」
「えっ!」
 ノエルが驚いた様子で振り向いた。やっぱり怒るだろうか。
「ごめんなさい、結局ユタさんにノエルのこと上手くはぐらかすことができなくて……でも、ユタさんは悪い人では無いと思うの!ノエルの事だって、ちゃんと話せば分かってくれるし、他の人にだって黙っていてくれる!……と思うし……」
 少し言い訳がましく、私は口を畳み掛けた。ノエルからはなかなか返事が聞こえてこなかった。ちらっと見ると、ノエルは腕を組んでじっくり考えているようだった。少なくとも怒っている様子は無い。
「うん、いつまでもあいつに付き纏われるのも嫌だし、仕方ないか……」
 ノエルが呟いた。
 なんだろう、承諾してくれたのに胸がもやもやした。確かにユタさんに説明して納得してくれれば、もう家に来る事は無いだろう。だけど、私はそこまで考えていなかった。
「サラ、次あいつと会う時は、僕も同席するよ」
「そう……ありがとう」
「あと、話しは僕がするから。その方があいつに対しても説得力ありそうだし。サラは一切口を挟まなくていい」
「うん……」
 ノエルの有無を言わせない口調に私は頷くしかなかった。確かに私よりノエルのほうが上手く説明できるし、その方が理にかなっているのかもしれない。
 だけどなぜだろう、胸のもやもやが鈍い痛みに変わっていた。
「ねえサラ、顔色悪いけどどうしたの?」
 ノエルに尋ねられ思わずはっとした。いつの間にか物思いに耽ってしまっていたらしい。
「ううん、なんでもない。これで全部上手くいくね!」
 私は笑顔を作って言った。だけど、顔は少し引きつってしまっていたと思う。

「こんにちは」
 ユタさんの声が玄関の外から聞こえてきた。立ち上がろうとする私を、ノエルは手で静止した。そして代わりに、ノエルが立ち上がり玄関へと向かう。きっとノエルの私に対する「一切口出しするな」という意思表示なのだろう。しばらくして、部屋のドアがかちゃりと動いた。
「こんにちは!」
 ユタさんが部屋に入ってきて私に挨拶した。私は小さく会釈で返した。
「さっきあの人形が僕を迎えてくれたよ!いったいどうなっているの?本当に信じられない!」
 ユタさんは興奮を抑えられない様子で私に尋ねた。その横を、素知らぬ顔でノエルは通り過ぎ、そして私の横に座った。
「あなたも適当に腰掛けてください」
 ノエルは、ゆっくりとした口調で席をすすめた。ユタさんの方を見ると、完全に体が硬直し、目が大きく開いている。
「どうしたんです?座ってくれないと話が進められませんよ」
「あっ……どうも……」
 ノエルの再度の勧めで、やっとユタさんはぎくしゃくとさせながら腰を下ろした。ノエルは驚くほど自然体だ。もし私だったら、きっと話しを切り出すまでに相当時間がかかっただろう。
「つまり、こういうことです」
「えっ……?」
 思わず声を出てしまったかと思ったが、それは私ではなくユタさんの声だった。声を出していたらシンクロしていたと思う。
「分かりませんか、仕方ないな……」
 ノエルは大きく溜息を吐いた。自分の口から話しをすると言っておきながら、どうやらノエルはユタさんに細かい説明をする気は無かったようだ。いや、本当は口を聞くのも嫌なのかもしれない。
 ノエルは簡潔に、私との出会いから今に到るまでの話しをユタさんに話した。ユタさんは最初、ただただ頷くばかりだったが、そのうち平常心が戻ったのか、相槌を打ったり、合間に質問を挟んだりし始めた。
「いやあ、そんな事が起こりうるのか……目の前にいなかったら、絶対信じないよ!」
 ノエルの話が終わっての第一声はそれだった。ユタさんの目は好奇心で輝いており、まだ聞きたい事がたくさんあるのか、そわそわしていた。
「これで少なくとも、僕にはサラを危害を加える意思は全く無い事だけは理解いただけたと思います。だからもう、あなたがこの家に来る必要は無くなりましたよね?」
 意味が分かるまで、私もユタさんも少しだけ時間がかかった。同じくらいのタイミングに理解したようで、私がはっと気付いた時に、ユタさんが私を見詰めてきた。私は否定するため、必死に頭を振った。
「サラは僕に何も言ってませんよ。僕は人よりずっと耳はいいんです。だからドア越しに全部聞こえいただけです。サラの事をずいぶん心配してくれているみたいで、ありがとうございます」
 ノエルが皮肉交じりの口調で言った。まさかこんな言い方もできるなんて知らなかったので私は驚きを禁じえなかった。
「いやあ、そんな……ははっ」
 ユタさんは気まずそうに頭を搔きながら笑った。
「それでは、もうサラの安全は確認できたと思うのでお引き取りください。あっ、あとこの事は他言無用でお願いします。世間に知られたら、僕だけではなくサラにも迷惑がかかってしまうので」
 ノエルは最低限言いたいことだけを言って追い返そうとした。
「ちょっと待ってよ!聞きたい事はまだあるんだ」
 無下に扱われている事をさすがに感じたようで、ユタさんは少し怒り気味に言った。
「まだ何かあるんですか?」
「あるさ!そもそも前に君は発作みたいな症状起こしていたけど、あれは何なんだい?君がノエルの樹で作られた事による副作用じゃないのかい?」
「あれは、あなたが僕自身知らなかった過去を無神経に掘り起こしたせいです。だけど、あの時だって、結局発作を抑える事はできました」
「次に同じ発作が起きた時、大丈夫だって言い切れるのかい?」
「大丈夫だよっ!……そう、大丈夫さ……」
 ノエルは自分に言い聞かせるように言った。だけどその言葉とは裏腹に、俯き加減のその表情は、今にも泣き出しそうに見えた。
「本当に大丈夫って言い切れるのかい?君自身も本当は、自分がサラを傷つける事を恐れているんじゃないかい?」
 ノエルの泣き出しそうな顔が見えていないのだろうか?ユタさんは詰問するような口調でたたみかけてきた。
「やめてください!」
 私は思わず口を挟んでしまった。ノエルとの約束を破ることになってしまうが、ユタさんのノエルを責める口調にどうしても我慢できなかった。
「ユタさんにノエルの何が分かるんですか。ノエルは絶対そんなことしません!それは幼い頃からずっと一緒にいる私が断言できます。何も知らない人が、勝手な事を言わないで下さい!」
「ごめん……確かに言い過ぎたよようだ」
 ユタさんはノエルの方を向いて素直に謝った。だけどノエルの泣きそうな表情に変化は無かった。ノエルはしばらく俯いたままだったが、いきなり立ち上がるとドアへと駆け出した。
「待って、ノエル!」
 私の声も届かなかったのか、ノエルはそのままドアをばたんと閉めると部屋を後にした。
「サラ、ごめん。君にも迷惑かけてしまって」
「いえ、そんなことは……」
 ユタさんの謝罪に、なんて返していいか分からず途惑った。ノエルを傷付けたのは確かに腹が立ったけど、ノエルの対応も良くない部分はあった。それに、ユタさんの言葉は私の事を心配してくれてものであったのだから。
「俺、今日はもう帰るから」
「分かりました、玄関まで送ります」
 玄関までの距離は短いけど、その間の無言の時間は息苦しく感じた。話すことはあるはずなのに、どの話題もこの場に似つかわしくないと感じた。
「サラ、少しいいかな?」
 玄関に着くと、ユタさんはドアを開けて親指で外の方向を指して言った。
「大丈夫ですけど、ここではだめなんですか?」
「少しだけだからさ」
 ユタさんは私から視線を逸らした。きっとノエルに聞かれたくない話しなんだろう。
 ユタさんは何も言わず歩き家の裏手に回った。ここは家の中からは死角になっている。ノエルからは見えない場所だし、さすがに声を出してもノエルまでは聞こえないだろう。
「あの、話しって何ですか?」
 私は少し警戒気味に聞いた。
「いや、その……ノエルとは関係無い話しなんだけど、もし聞かれちゃったらすごい恥ずかしくてさ……」
 いつもの快活口調ではなかった。ユタさんが何を話したいのか分からず、私は首を傾げた。
「その……こんな事になっちゃったし、俺がまた来たら迷惑かな?」
「いえっ!全然迷惑じゃないです」
 私はとっさに否定した。ノエルはきっと、ユタさんが家を訪れるのを嫌がっているだろう。だけど、「迷惑」なんて言ってしまったら、もう二度とユタさんに会えなくなってしまうかもしれない。
「良かった!」
 ユタさんは心底嬉しそうな表情で大きく息をついた。
「どうしてそんなに喜んでいるんですか?」
 私はユタさんのそんな様子を見て思わず笑ってしまった。
「君に嫌われてしまったんじゃないかと思って、とても心配してたんだよ」
 ユタさんは急に真剣な顔になった。こんな真剣なユタさんの顔は初めてだった。
「君が心配だからこの家に通っているのは事実だ。だけどそれだけじゃない。君にただ会いたくて来ているという部分もあるんだ」
「えっ……」
「初めて会った時のこと覚えている?」
「はい……」
「花畑で君が転んで、籠に摘んだ花を頭から被っていた。笑っちゃうような出来事だったけど、俺はその時笑う事できなかった。君がまるで、花の妖精のように見えたから。俺はその時からずっと、君が頭から離れないんだ。気がつけば、君のことばかり考えている」
 胸が張り裂けそうになるくらい苦しかった。ユタさんは変わらず真剣な表情で私を見詰めている。苦しいのに、なぜか視線が張り付いてユタさんから逸らす事ができない。
 ユタさんは私の両肩を不器用に掴んだ。ユタさんの手は少し震えていた。顔がどんどん近づき、そして少ししてから遠ざかった。唇に何かが触れた気がした。だけど最初は、何が起きたのかよく分からなかった。
「ごめん……また来るから」
 それだけ言ってユタさんは走り去った。ユタさんの後姿がどんどん遠ざかっていき、やがて見えなくなった。ユタさんの姿が見えなくなってから、私はその場にへたり込んでしまった。胸が熱くなぜか分からないけど涙が溢れだした。
 こんな気持ち始めてだったから、どう扱えばいいのか自分でも分からなかった。だからこの時は、ノエルの事を考えてあげられなかった。この時、もし私がノエルの事をもっと考えてあげられていたなら、そしてノエルにもっと優しくできていたなら、あんな別れをしなくて済んだかもしれないのに。

17
「サラを壊してしまうかもしれない。僕はそれが怖いんだ」サラにそれをちゃんと伝えようと決意したのに、僕はなかなかサラに言い出せずにいた。何回か伝えるために話しかけようとした。そしてサラは、その都度僕に笑いかけて話しを聞いてくれようとした。
 僕はその笑顔が凍りついてしまうのが恐かった。もしかしたら、もうその笑顔をもう二度と僕に向けてくれなくなってしまうかもしれない。サラは優しいから、真剣に僕の悩みに向き合ってくれると思っているのに、どうしても最悪の可能性が脳裏をよぎってしまった。
「あのね……ユタさんにノエルの事を話そうかと思うの」
 サラが僕にそう言ってきたのは、僕が自分の中でそんな悩みに対し自問自答を繰り返ししていた時だった。思ったとおり、サラはあいつの事を上手くはぐらかせなかったようだ。だけど仕方ない。サラが嘘を付くのに向いていないことくらい、分かっていたことなのだから。
 僕は少し悩んだ。あいつは悪い奴ではないから、口止めさえすれば僕の事を他人に言いふらしたりはしないだろう。だけど、あいつはサラに対して好意を抱いているし、そんな簡単に引き下がるだろうか。
「いつまでもあいつに付き纏われるのも嫌だし、仕方ないか……」
 僕がそう言うと、サラの顔色が曇った。サラは分かりやす過ぎだよ。サラもあいつに好意を抱いている。サラの分かりやすくて素直な性格は好きだけど、こういう時は辛かった。今までずっと一緒にいて、ずっといろいろな気持ちを共有してきたのに、サラのあいつに対する思いだけは決して共有できないから。
「あと、話しは僕からするから。その方があいつに対しても説得力ありそうだし。サラは一切口を挟まなくていい」
 僕はサラの顔色の変化に気付かない振りをして、言葉を続けた。
「うん……」
 サラは消え入るような小さな声で返事して、首を縦に振った。「サラ、ごめん」僕は心の中で謝った。サラの気持ちは分かっているのに、あいつをサラから引き離そうとしている。だけどそうでもしないと、僕の心の中の黒い塊が、僕を飲み込んでしまう。
 その翌日、あいつは家にやって来た。出迎えるため立ち上がろうとするサラを制止し、僕が代わりに玄関へと向かった。ドアを開けると、あいつが少し緊張した様子で立っていた。
「あれっ、サラは?」
 サラの姿が見えず、代わりに人形の僕が目の前にいるので、あいつはかなり面食らった様子だった。
 僕は黙って踵を返し、サラのいる部屋へと戻ろうとした。どうせ部屋の中で話さないといけないのだから、この場でこいつに話すのが煩わしかった。
「えっと、家に上がっていいのかな?」
 あいつは途惑いながらも僕についてきた。「やはりついて来たか」ここで引き下がるような奴では無いことくらい分かっていたけど、僕は舌打ちしそうになった。
 部屋の中に入りサラを確認すると、こいつは興奮を抑えられない様子でサラにいろいろ尋ねだした。それに対しサラは困った様子で黙りこくっていた。
「あなたも適当に腰掛けてください」
 僕はサラの隣に座ると、こいつに席をすすめた。僕が言葉を発したのを聞き、こいつは驚きのあまり完全に体が硬直し、目を大きく見開いた。
 そんなこいつの様子を無視し、僕は今までの経緯についてできるだけ簡潔に、必要最低限のことだけを話すように努め、そして僕について口外しない事と、もうこの家には来ないことを求めた。
「本当に大丈夫って言い切れるのかい?君自身本当は、自分がサラを傷つける事を恐れているんじゃないかい?」
 こいつがそう言ったのは、僕の説明が終わった後だった。僕が発作を起こした時、サラを傷つけてしまう危険性についてこいつは指摘してきた。そしてそれは僕自身が一番恐れている事でもあった。
「そんな事はありえない!」そう自信を持って言い切れたならどれだけ楽だろうか?だけど僕はそれを言えなかった。そんな自分自身が情けなく、悲しくてやりきれない気持ちにさせられた。
 僕に代わり、横にいるサラがこいつに対して反論してくれた。だけど、僕はそんなサラを置いてその場から逃げ出した。こいつの言葉よりも、僕を庇おうとしてくれるサラの言葉の方がずっと僕の胸に突き刺さったから。
 それから少しサラと話した後、あいつは家を出た。サラも一緒に出るらしい。きっとあいつは、僕の事を悪く言うつもりなんだろう。別にそんなの構わない。
 今日はっきりと分かった事があった。それは僕が全然成長していないということ。サラの身体は成長しどんどん大人になっていく。だけど僕は人形だから一切成長しない。それは身体の話しだけでは無かった。サラは身体の成長に比例するように心も成長している。だけど、僕はずっと同じところにいる。
 たとえ僕がサラを壊してしまう事が無かったとしても、こうしてどんどん離れていってしまうのだろうか。そして、最後には僕の前からいなくなってしまうのだろうか。僕は、いても立ってもいられないくらいの強い焦燥感に駆られた。
 僕は立ち上がり玄関に向けて走り出した。サラに会いたい。サラに触れたい。そして、サラと話がしたい。玄関のドアを急いで開け、僕は外に飛び出した。サラとあいつの話し声が家の裏手から聞こえて来た。僕は走ってそっちへ向かった。何かしたいわけでは無いし、何かできる訳でもないのに。
 サラとあいつの会話は途絶えていた。だけどその時、僕にはその理由を考える余裕は無かった。
 
 僕はそこから一歩も動く事はできなかった。
 あいつはサラの両肩に手をかけ、そしてサラの唇に自分のを合わせていた。前にサラが言っていた。それは大切な相手に対してその気持ちを表現するための行為だって。
「ごめん……また来るから」
 あいつはそれだけ言うと、僕のいる方向から逆に向かって走り去った。
 そして、サラはその場にしゃがみこんだ。サラの瞳からは涙が溢れていた。だけどそれは、痛い時や悲しい時に出るものと違うことくらい明らかだった。
 胸が苦しい。今までに無いくらい苦しかった。苦しすぎて息もできない。こんな苦しいなら、僕の胸なんて無かったらいいのに。そして、そして僕に感情なんて無かったならこんな思いをしなくてすんだのに。
 サラが部屋に戻ったのはそれから小一時間くらい経った後だった。
僕はその間、ただ立ち尽くしてサラの事を離れて見ることしかできなかった。
 部屋に戻ってからのサラは、まるで抜け殻のようだった。僕だってとても話す気分ではなかったけど、サラの事が気になって仕方なかった。
「サラ、ぼうっとしてどうしたの?」
「ううん、何でもない」
 そんな意味の無いやりとりが繰り返される。だけど、「何でもない」なんていえる状態で無いのは明らかだった。サラは、視線を宙に彷徨わせていると思ったら、今度は大きく溜息をついたり、クッションを抱き締めたかと思えば放り出したり、そんな無意味な行動を繰り返していた。
 きっとあいつの事で頭がいっぱいなんだろう。そんなサラなんて見たくはなかった。
「ねえっ、サラ!」
 僕は痺れをきらし、サラの袖を引張った。
「サラ様子が変だよ!いったいどうしたんだよ!」
「えっ……いや、何でもないの」
 サラはまるで、僕がそこにいる事に初めて気が付いたかのように驚いていた。そして返事は、相変わらず「何でもない」の一点張りだ。自分が惨めだった。僕はずっとサラのことしか考えていないのに、サラの視界に僕はいない。
「サラ、あいつに何かされたんでしょっ!」
 僕は、掴んでいたサラの腕を強く掴んだ。本当は何があったかなんて知っている。だけど僕はサラに否定してほしかったんだ。サラにはそんな気が無いにも関わらず、無理やりあいつにされたんだって言ってほしかった。
 だけど「そんなこと無い」ってサラが言うのは分かっていた。その言葉はサラの口から聞きたくなんて無かった。でも「何でもない」なんて言われ、秘密にされるのはもっと嫌だった。
「ううん、本当に何でもないのっ!」
 サラは慌てた様子で、必死にあの時の事を隠そうとした。
「嘘だっ!サラはあいつに何かされたんだ!どうしてそれを隠すの?サラに何かあったら、僕は絶対にあいつを許さない!」
 僕は引き下がらなかった。いや、半分暴走して引き下がれなくなっていた。
「っ……ノエル、腕が痛いよ……」
 サラの声で僕ははっとした。僕はいつの間にか、手加減できないくらいサラの腕を強く掴んでしまっていた。僕はすぐに手を離したけど、サラが袖をめくると、僕が掴んだ部分には僕の手のあとがはっきりと痣として残っていた。
「もうっ!あとがついちゃったじゃない……」
「サラ、ごめん……」
「ううん、いいよ別に。私の事はほんと気にしないで。ユタさんには何もされて無いの!その……私が勝手にいろいろ考えちゃっているだけで……ノエルには関係ないから」
「……へえ、僕には関係ないんだ……」
 その言葉は、他のどんな言葉よりも残酷だった。確かにサラとあいつの問題なのだろう。僕が入り込む余地なんて、ほんとは最初から無かったんだ。
「……サラには、僕は必要ないんだ」
「えっ違う、違うよ!そんなつもりで言って無い!」
 サラは、はっとした様子で否定した。
 だけどもう限界だった。僕はサラが大好きだ。それなのに、その気持ちが強いほど、サラが遠ざかった行くように感じる。そして好きすぎるから、裏切られたと感じた時つらくなり、サラを憎んでしまう。
「……サラなんて……サラなんて大嫌いだっ!」
 僕は叫ぶように大声で言った。僕は最低だ。
この瞬間は、僕はサラを傷つけたたかったんだ。僕がサラのことで傷ついたのと同じくらい、サラを傷つけたかった。たとえどんなかたちでもいい、僕でサラの気持ちをいっぱいにしたかった。
 僕はサラの顔を見ることなく部屋を出て行った。サラは泣いていたのだろうか。どうしてこんなことばかりしてしまうのか、もう自分でも分からなかった。
 せめてこの時、サラの顔だけでも見ておけばよかったのかもしれない。この後僕は、見ることの無かったサラの悲しむ顔を想像し、苛まされ続ける事になった。

18
「ノエル、こんな所で何しているんだよ!」
 振り向くと、あいつの顔があった。嫌な奴に会ってしまった。
 僕はここ数日、サラとほとんど顔を合わせていなかった。日中はずっと、何をするとも無く庭でぶらぶらして時間をつぶした。そして夜、サラの部屋の電気が消えるのを確認してから戻り、部屋の片隅で寝た。
 こいつが話しかけてきたのは、僕が庭でぼんやりと空を眺めている時だった。空の透き通るような青さは、ほんの少しだけ僕の心を癒してくれる。
「一人でいたら、他の人に見られた時まずいんじゃないか?」
 僕はこいつを無視し、再び空を見上げた。
「おいノエル、何無視してるんだよ」
 こいつは後ろから、僕の頭を両手で挟んで持ち上げてきた。そして空中で方向転換させられ、強引に視線を合わてきた。
「もうっ!放っておいてくれよ。お前こそなんでここにいるんだよ。サラに会いたいなら、さっさと家に入れよ!」
 僕は空中で必死にもがいた。
「まあそうなんだけど……ノエル、最近サラの様子どうだ?」
「そんなの自分で確かめればいいじゃないか」
「そうなんだけどさ。そう単純にもいかないんだよ。まあ、お子様には分からない話しだとおもうけどな」
「知ってるよ。サラに無理やりキスしたんだろ」
「えっ……どうしてそれを。でもわざとじゃないんだ!」
 こいつはの顔がどんどん赤くなっていった。
「どうでもいいけど早く降ろしてくれよ」
「あっ……ああ、そうだな」
 こいつはやっと僕を地面に降ろした。粗暴な奴。こんな奴はやっぱりサラに似合わない。
「わざとじゃないんだ!俺はあの時、ただ自分の気持ちを伝えたかっただけなんだ。ただ、サラの瞳を見ていると、どんどん吸い寄せられてしまったんだ。あれは不可抗力だ!あんなの抑えられる訳無いんだ!」
 僕にはよく分からない感情だ。だけど、こいつが自分勝手な言い訳ばかり並べているのだけはよく分かった。 
 この時、僕はこいつにささやかな仕返しをしてやろうと思った。
「ふうん、だからか……」
「何がだ?」
「サラの様子がここ数日おかしい理由だよ。すごい傷つけられた感じなんだ。僕もどうやって慰めていいか分からなくて、もうお手上げ状態なんだ」
「えっ……そうなのか?」
「だからもうサラには近づかないでほしいんだ。それがサラが立ち直る一番の方法だと思うし」
「くそっ。なんてことだ……傷つけたくなんて無かったのに。サラに謝らないと!」
 こいつは大股で家に向かい歩き出した。僕の話しを聞いていなかったのだろうか?
「待ってよ!サラの前から姿を消すのが一番だって言ってるじゃん!」
「何言ってるんだよ。俺が傷つけてしまったなら、俺がなんとかするしかないだろ!」
 こいつは僕に一瞥くれると、威勢よく玄関のドアを叩いた。今さら撤回するのも間に合わなさそうなので、僕はただ成り行きを見守るしかなかった。
 壁に体を隠し玄関の方向を覗いていると、サラが家の中から姿を現した。
 まだあれから数日しか経っていないのに、ずっと会っていないかのような気がする。ちゃんと食事を摂っているんだろうか?少し痩せたように見える。玄関で少しあいつと会話を交わした後、二人で家の中へと消えた。
 僕は、二人が今どんな会話をしているのか気になって仕方が無く、うろうろと家の周囲を歩き回った。あいつは僕よりずっと潔かった。僕にはあの二人について、何も口出しする権利なんて無い。
 小一時間程して、あいつは家から出てきた。僕はまた壁の陰に隠れた。あいつの朗らかな笑い声が聞こえてくる。サラも笑っているようにみえる。そして少ししてから、サラは小さく会釈すると玄関のドアを閉め家の中に消えた。
 それを確認してから、あいつはこちらに方向転換し大股で歩いてきた。僕は急いで庭の中央に戻ると、何も見ていなかったかのような素振りで草をいじり始めた。
 僕の真後ろまであいつがずんずんと近づいて来る。
「おい、ノエル!」
 そう言うと、あいつは僕の頭を両手で掴み、持ち上げた。宙で反転させられ目の前にあいつの顔がある。
「な、なんだよっ!」
「それはこっちの科白だ!おかげで恥をかかされたじゃないかっ!」
「何のこと言っているか分からないし」
 僕はそう言いながらも目を逸らした。ちらっと視線をこいつに戻すと、まだ僕を睨みつけていたので慌てて視線を戻す。
「……サラと喧嘩でもしたのか?」
 こいつは僕をゆっくり降ろすと尋ねてきた。さっきまでとは打って変わり、優しい口調になっていた。サラがこいつに何か話したのだろうか。
「話す義理なんて無いよ」
 僕がそう言って首を横に振った。そうしたら、僕の頭の上にがつんと拳骨が落ちてきた。見上げると、こいつが仁王立ちになって僕を見下ろしている。
「お前がそんなだからサラを悲しませるんだよ!」
「うるさい、関係無いじゃないかっ!」そう思ったけど、口には出せなかった。こいつの言うとおりだと、僕だって分かっていたから。僕は踵を返し、その場から離れようとした。
「……サラ、泣いていたぞ」
 背中越しに言われ、僕は思わず立ち止まった。そんなの簡単に想像つく。言われなくたって、サラは泣き虫だからきっと泣いていると思っていた。だけど、直接聞くとやはり胸が痛い。
「どうして好きな子を泣かせてるんだよ。お前男だろ、それでいいのかよ。男だったら、好きな子には笑っていて欲しいものだろ……サラを笑わせるの大変だったんだからなていうか半分苦笑いだったし」
「うるさいっ!何も知らないくせに!」
 僕は大声で怒鳴った。何も分かっていないくせに好き勝手に言いやがって。僕がどれだけサラを大切に思っているか、どれだけ傷つける事を恐れているか知らないくせに。
 溜まっていた鬱憤が一度に溢れ出し、僕は夢中で全ての思いを吐き出していた。
 どうしてだろう、サラに思いを告げる事にはあんなに臆病なのに、こいつにには包み隠さず何でも話す事ができた。こいつは僕の敵のはずなのに。

「ノエルもいろいろ大変なんだな」
 こいつはぽつりとそう呟いた。僕は怒鳴り疲れ、息をぜえぜえさせながら、その言葉に少しだけ満足していた。同情して欲しい訳では無かったけど、全てを吐き出せたことでこいつに対して少し素直になれたんだと思う。
「それで、ノエルはどうしたいんだ?」
「……サラと仲直りしたい。サラの側にずっといたい。だけどこのままじゃいつかサラを壊してしまうかもしれない……もう僕には、どうしていいか分からない」
「うーん、そうか」
 じっと上を向き、悩ましそうにしている。どうしてこいつは僕のためなんかにこんなに悩むのだろう。不思議な奴。
「ノエル、実は前に話したノエルの樹について、話しの続きがあるんだ」
「続き?」
「ああ、ノエルの樹って言う巨大樹があるのはお前も聞いていたんだろ?これもあくまで噂に過ぎないんだが……その巨大樹は、百年に一度果実を成らせるっていうんだ。『真実の実』と呼ばれていて、その果実を手に入れたら、どんな願いも叶うって。まあ、都市伝説みたいなもんだとは思うけどな」
「ふーん、そうなんだ」
 こいつはどうしてそんな話を引き合いに出したのかだろうか。僕だってそんな話しを信じるほど楽観的では無いし、そこに行けという話しでは無いだろう。そんな僕の思いは完全に裏切られた。
「なあノエル、一緒にそこへ行かないか?」
「……えっ?」
「俺も信じている訳では無いけど、そこにいけば何か分かるかもしれない。それにノエルだって、サラと少し距離を置くいい機会になるだろ。きっと、近くにいることで見えなくなってしまっていたものだってある。それに気がつくいい機会だろ」
 確かにその通りかもしれない。だけどなんでこいつと一緒に旅しないといけないんだ。
「いいアイデアかもしれないけど、なんで一緒に行かないといけないんだ?君となんてお断りだね」
「ほーっ!そんな事言っていいのか。だいたいからしてノエル、お前どうやって一人で旅するつもりだよ?お前みたいな不審な人形が外を出歩いていたら、あっという間に警察に掴まるぜ?それに、ノエルの樹への行き方だって全然知らないだろ?」
 こいつは意地悪な顔で僕に言った。すごく腹は立つけど、言われてみるとその通りだ。言い返せないのがもどかしかった。
「分かったよ。だけど君はいいの?サラのそばにいたくて、ここにずっと滞在しているんだろ」
「……どうして分かったんだよ」
「僕は耳が普通よりいいだけじゃ無い。人の気持ちが分かるんだ。上手く言えないけど、相手の喜びや悲しみみたいないろいろな感情が伝わってくる。だから、君のサラに対する下劣な気持ちだって分かるんだ」
 別に気持ちなんて感じ取ら無くても、こいつの動作や態度を見ていたら誰だってすぐに分かる。だけど嫌がらせで言ってみた。
「俺の気持ちは純粋だ。下劣な気持ちなんて全く無い!ことも無いが……」
 こいつは慌てた様子で否定と取れるような、取れないような言い訳をした。単純な奴。嫌いなはずなのに、伝わってくる気持ちはなぜかサラの気持ちと同様、心地よかった。
「ああ、そうだよ!サラといたいから、ここにいるんだよ。それが悪いかよっ!」
 こいつはもう完全に開き直っている。
「だけど悲しんでいるサラを見るのは辛いんだよ。その理由がノエルにあるんだったら協力してやるしかないだろ。それに植物学者の端くれとして、もともとノエルの樹は興味あったしな」
「サラの悲しい顔を見たくないのは僕だって一緒だ」
「ああ、利害が一致してるな!」
 にやっと笑ってこいつは言った。利害は一致しているだけど、僕のほうがずっと利がありそうだ。だけどそんなことあまり気にしないんだろう。心底こいつが羨ましかった。もし僕にこいつみたいな広い気持ちがあれば、なんの憂いもせず、サラと一緒にいられるんだから。

19
「ノエル、気をつけてね」
「うん……サラもね。身体には気をつけてね」
「サラ、大丈夫さ!俺が一緒に行くんだから!」
「ユタさん、ノエルの事よろしくお願いします」
 出発する日は天気が良かった。秋が深まり、周囲の樹木も少し色付き始めている。冷たい風が吹き、サラの薄い長袖では少し寒いかもしれない。
 サラには、ユタと旅に行く事を前日の夜に伝えた。目的地がノエルの樹である事や、往復で2ヶ月くらいかかる旅であることは伝えたけど、真実の実については伝えなかった。
 なかなか言い出せなかったのは、サラの反応が怖かったからだ。サラが何でも無いように承諾するのは嫌だったけど、強く引きとめられても困ってしまう。だけど本心では、サラが止めてくれる事を期待していたんだろう。だから、サラが迷った挙句に承諾した時は、少し悲しかった。
「ノエルが自分の過去を知りたいのは当然だよ。だから、私の事は気にしないで思う存分旅をして来て」
 サラはそう言って僕を励ましてくれた。僕はただ黙って頷くしかなかったんだ。
 
「サラ、必ず帰ってくるから待っててね!」
 僕は玄関で見送るサラに、思わず言った。僕の寂しい気持ちと同じくらい、本当はサラも寂しがっている事が伝わっていたから。
「お前は大袈裟なんだよっ!それじゃあかえってサラが心配するだろうが!たかだか2ヶ月の旅ぐらいで」
 ユタは僕の頭を掴み、拳でぐりぐりしてきた。それを見たサラは笑い声を吹きだしている。サラの見送る顔が笑顔になったことで、僕は少しほっとした。
 家から離れる時、僕は何回か振り返った。そしてこいつも僕と同じくらい後ろを振り返っていた。その都度サラは、僕達に手を振り返してくれた。
「おい、何回振り返るつもりだよ。これじゃあ全然進めないだろ!」
 こいつは、自分の事を棚に上げて僕に言った。
「それは君だって同じだろ!だいたい、サラは君との別れなんて惜しんでない。僕にはそれが分かる。だけど僕との別れは惜しんでいるんだから仕方無いじゃないか!」
「は?何言ってるんだよ。サラは俺との別れを惜しんでいるんだよ!だからあんなに何度も手を振り返してくれるんだ。どうやらお前は、人の表面的な部分しか理解できないようだな」
 そんな下らないやり取りを途中でしていたら、気がついて振り向いた時にはもうサラの姿は見えなくなっていた。
「サラが見えなくなっちゃったじゃないか!」
「いつまでも未練がましいんだよ。お前は!」
 僕がこいつを睨みつけると、こいつはまた拳で僕の頭をぐりぐりしてきた。こんな粗暴な奴と2ヶ月も一緒にいないといけないかと思うと少しうんざりする。
「そうだノエル、おまえいつも俺の事よそよそしく呼んでいるよな。これから2ヶ月相棒になるんだから、名前で呼べよ。そうだ、『ユタ様』とかで構わないぞ」
 そういえばこいつの事はずっと「きみ」と呼んでいた気がする。深い意味は無いけど、なんとなく名前で呼ぶ事に抵抗があったからだ。
「なんで敬称をつけないといけないんだ。ユタで十分だろ」
「それじゃあユタでいいよ。よろしくな、相棒!」
 そう言ってこいつは屈託の無い笑顔を僕に向け、拳を突きつけてきた。なんだろうこいつのことなんて嫌いなのに胸が温かくなる。
「仕方ないな、分かったよユタ」
 僕は拳をこつんと合わせ、ぷいと視線を逸らしてた。

「ノエル、そろそろ人通りのある道になるから、俺のバッグの上に乗れよ」
 一つ目の街に近づいてきた頃、ユタが僕にそう言って腰を下ろした。
「ほら、ちゃんとお前が乗りやすいように、少し改造してやったんだからな」
 確かにユタのバッグは普通と少し違っていた。バッグの上が平たいクッションになっている。また、クッションにはベルトがついていて、そこに足を通しさえすればバッグが揺れても、振り落とされにくい構造になっていた。
「へーっ、なかなかやるじゃん」
「違うだろっ!そこういう時は、まず『ありがとうございます』だ」
 ユタの言葉は無視し、僕はバッグの上に乗ってみた。クッションは柔らかくて、人のお尻には負担は少なそうだった。人形の僕にとっては関係無いけど。ベルトの中に足を突っ込んでみると、しっかり固定されていい感じだった。
 ユタは僕を乗せたバッグを背負い、勢い良く持ちあげた。バッグと僕を合わせると結構重いはずなのに、そんな素振りは全然見せなかった。
「ねえ、ユタ……」
「なんだよノエル」
「あのね、花を摘みに行く時とかに、籠に入ってサラに背負ってもらって、よく一緒に行ったんだ」
「ああ、今のこんな感じか?」
「うん。サラが僕を背負った姿は、きっと傍目から見て絵になっていたと思う。サラはどんな恰好しても可愛いし。だけど、ユタが僕を背負っている姿って、傍から見るとちょっと無様そうだね!」
「この野郎……俺が敢えて考えない振りしていたことを……覚えておけよっ!」
「ユタ、僕達相棒なんだからそんな呼びするなって」
 ユタは怒りながら、背負ったバッグを揺さ振ってきた。僕にはそんなの全然聞かないのに。僕はユタが嫌いだ。だけど少し好きだ。僕はユタに対しても、サラへの気持ち同様、相反する複雑な感情を持ち始めていた。そして僕は、この気持ちをどうすればいいか分からなかった。

 宿に着いたのは、夕方を少し過ぎた頃だった。街中の外灯のネオンが灯り、レンガ敷きの道路をオレンジ色に照らしていてとても幻想的に見えた。この街は相当大きいみたいで、船や列車のターミナルになっているらしい。
「ふーっ……疲れた、もう一歩も歩けない!」
 ユタはベッドに寝転がって言った。無理も無い。今日一日で20マイルくらい歩いている。バッグと僕を背負いながらなんだから、相当疲れたはずだ。
「ユタ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない……だけど明日からは列車になるからな……なんとかなるだろ」
 ユタは息も絶え絶えといった感じで言った。
宿に着いたばかりだけど、ユタに一つ頼まなければいけないことがあった。ずっと胸の奥にしまっていたけど、ずっと忘れることができなかった、いや、忘れてはいけないことだった。
「ユタ、実は僕、明日寄りたいところがあるんだけど」
「……寄りたいところ?どこだよ、あまり寄道はしたくないんだが」
「僕を作った人の家。もう死んじゃったけど、行って確かめたい事があるんだ」
「えっ、誰だよそれ!言われて見ると、ノエルにも産みの親みたいな人がいるんだよな。俺もすごい興味あるんだけど!」
 ユタはがばっとベッドから跳ね起きて聞いてきた。さっきまでの様子が嘘のようだ。
「ルネって言うんだ。知らないだろうけど」
「えっ、ルネ博士?あのルネ博士か?でもノエルみたいな人形を作れるとしたら、あの人以外考えられないよな……本当かよ……知っているに決まっているだろ!あの人を知らない植物学者なんて、モグリみたいなもんだよ」
 ユタは目を輝かせて話している。思わぬ事態に僕は途惑った。ユタの反応もそうだけど、それ以上にルネがそんなに有名だなんて思ってもいなかったから。
「ユタ、ルネはそんなに有名な人だったの?」
「ああ、すごい人だよ。幼い頃から神童と呼ばれていて、いろいろな研究機関からオファーをもらっていて、将来を最も嘱望されていた研究者の一人なんだ。それなのに、全てのオファーを蹴ったっていうのが彼女の凄いところさ。さらに凄いのが、徹底したフィールドワークや研究によって、様々な未知の生態系について明らかにしていったところさ」
 ユタはまるで自分の事のように、自慢げにルネの事を話し出した。嬉しいような、嬉しくないような複雑な気分だった。そこには自分の知らないルネがいた。
「そしてワクチンの発見!俺が子供の頃、世界中で疫病が大流行したんだ。疫病に対して効き目のあるワクチンが無くて、大勢の人が亡くなった。だけど、彼女はある植物の根にその疫病に耐性がある成分が存在することを突き止め、そしてワクチンの大量培養に成功したんだ。彼女のそのワクチンで多くの人が救われた!……まあ、一番救いたかった人は救えなかったみたいだけどな……」
 急にユタの歯切れが悪くなった。僕はユタの袖を引っ張って、続きの催促をした。
「……ルネ博士の旦那と息子も、その疫病に罹っていたんだ。彼女はきっと最愛の家族を救いたい一心だったんだろう……だけど間に合わなかったんだ。そして彼女は研究の世界から姿を消した。その後の彼女については、俺も全然知らない」
 ユタの話しで納得いった。ルネの部屋に飾ってあった、3人で写っている写真は旦那さんと二人の子供のものだ。ルネはずっと大切そうにその写真を持っていたけど、その理由も今だったら分かる。そして、僕がその子に似ている理由も。
「やっぱり僕はそこに行かないといけない。ユタ、僕に付き合ってくれない?」
 ユタは即答しなかった。どうしてだろう、あんなに興味を持っていたのに。
「ノエル、お前の気持ちは分かるけどあまり過去に囚われるなよ。ノエルは前に進まないといけないと思う」
「ユタ、違うんだ。もうルネの事は大切な思い出として心にしまっている。僕は他にしないといけない事があるんだ」
 ユタは溜息を一つついた。どうするべきか、少し迷っているように見える。
「分かったよノエル。相棒の依頼なら仕方ない。だけど場所は分かっているんだろうな?お前しか知らないんだから」
「うん、だいたいの場所は分かっている!ユタ、ありがとう」
 ユタが僕のお願いを聞き入れてくれたこと、そして僕が初めて素直にユタに「ありがとう」と言えたことが嬉しかった。ベッドの方を振り向くと、ユタは夕飯も取らず、すでに熟睡していた。
 少し早いけど僕も寝る事にした。電気を消し部屋が真暗になると、いろいろな事が頭を過ぎった。一番最初はサラのこと、そして二番目は明日のことだった。明日の事は、考えると不安で胸がいっぱいになった。行きたくない気持ちはあるけど、逃げてはだめだ。ユタの気持ち良さそうな寝息と反対に、僕は結局朝まで寝られなかった。
 
20
 翌日、僕達は列車に乗ってルネの家の方へ向かった。初めて乗る列車はとても新鮮だった。車窓からの景色は目まぐるしく入れ替る。遥か地平線まで続く小麦畑や、大小さまざまな街の風景などは僕に世界の広さを教えてくれた。だけど目的地に近づくにつれ、不安な気持ちがどんどん膨らんでいった。
「ノエル、元気ないけど大丈夫かよ?」
 ユタが心配そうに僕に尋ねる。自分からお願いして、あえて寄道して貰っているにもかかわらず情けない。
「うん、大丈夫だよ!」
 僕は努めて普段どおりに振舞おうとしたけど、返事とは裏腹に不安な気持ちが動作に現れてしまっているみたいだった。
 最寄と思われる駅に着いたのは、午前10時くらいだった。地図を見た限りでは、目的地はここから10マイルくらい行った先だろう。だけど一時間おきに路線バスが走っているみたいなので、それに乗ればあと小一時間で着きそうだ。
 僕はサラの家の近くでサラに拾われた。だから川の上流にルネの家はあるはずだった。そしてルネが埋葬された墓所は川の側にあった。調べてみた限りでは、墓所が川の側にあるのは今向かっている場所以外無い。だけど地図に載っていない墓所がある可能性もあった。
幸い目的のバスはほとんど待つこと無くやって来た。バスに乗って40分程行った先の墓所で僕達は降りた。
「ここであってそうか?」
 ユタは僕に尋ねた。正直よく分からなかった。墓所はずっと昔に行っただけだし、その時は周りの景色を覚えるだけの気持ちの余裕なんて無かった。
 僕はバッグから飛び降りると、墓所に向かって駆けた。そこにはたくさんのお墓が並んでいるけど訪れている人は誰もいなかった。墓所の記憶はほとんど無いけど、ルネの墓はよく覚えている。それに、きっと墓石にルネの名前が刻まれているはずだ。僕は墓をひとつひとつ見て回った。ユタは僕に追い付くと、何も言わず同じようにお墓を探してくれた。
 見つけたのは僕が先立った。そのお墓は綺麗に掃除されていて、脇には花が添えられていた。ついさっき誰かが来たのだろう。墓石にはルネの名前が刻まれている。
 ここにルネが眠っている。そう思うと胸に迫るものがあった。昔僕はこのお墓を荒らしてしまった。ルネの死を理解できなかったから。僕は心の中でルネに謝り、今までのことを報告した。そしてユタの冥福を祈った。ユタは僕の横で一緒に祈ってくれた。
 墓所から河川敷をゆっくり歩くと、10分程で家に着いた。家の窓からは照明の光が漏れている。きっとあの人がいる。
 僕は玄関のドアを叩こうと腕を伸ばしたけど、手がすくんでしまった。会いたいけど会うのが怖かった。
ユタが僕の肩を励ますように叩く。不思議な事に、ユタがいてくれると勇気が湧いてくる。僕は思い切ってドアを強く叩いた。家の中から人の足音がし、少ししてからドアが開いた。
「どなたかな?」
 家から出てきたその人は、ユタと目が合うと尋ねた。
「今日は!その、私では無くこいつがあなたに用があるみたいなんですが」
 僕は躊躇いがちに一歩前に出ると、その人のズボンを引っ張った。
「……ノエル……ノエルなのか?」
「……うん、おじいさん」
 優しそうな目元は間違いなくおじいさんだった。だけど、僕の覚えているおじいさんからはだいぶ変わっている。年をとったせいなのだろう、皺や白髪が増えていた。だけどそれ以上に体型が変わっていた。僕の知っているおじいさんはすべてが大きかった。だけど今は、しぼんだ風船のように痩せてしまった。
「……ノエル、もっと近くで顔を見せておくれ」
 おじいさんは最初驚きで声を喪った様子だったけど、我に返ると絞り出すような声で僕に話しかけた。僕は思い切っておじいさんを真正面から見て、そしてはっとさせられた。おじいさんの目からは大粒の涙が溢れ出していた。そしておじいさんは、僕に向かって両腕を伸ばすと、強く僕を抱き締めた。
「……おじいさん、ごめんなさい」
 僕はそう言うだけで精一杯だった。
 僕はルネが死んだとき、喪失感でいっぱいだった。だからおじいさんのことを考えられなかったんだ。サラと出会い、心の傷が癒されていく中でおじいさんの事を思ったこともあった。だけど気付かない振りをした。サラから離れたくなかったし、ルネを喪った悲しみを思い出したくなかったから。
 きっとその間、おじいさんはずっと一人でルネの死と向きっていたのだろう。一人でお墓を守り、そして僕の事をずっと心配してくれていた。 
「おじいさん、ごめんなさい……ごめんなさい……」
 僕は呪文のように何度も繰り返した。
「いいんじゃ……ノエルが無事だったなら、それでいいんじゃ……」
 おじいさんは、謝る僕の頭を何度もさすってくれた。その指先は、痩せ細っても昔と変わらず優しく、そして温かかった。

 この家は、ルネがいなくなった今でも昔と全然変わっていなかった。ルネと一緒に寝たベッド、ルネが料理を作っていたキッチン、ルネが編み物をしていた揺り椅子。全部ルネがいた頃のままだった。僕は思わずベッドに寝転んで顔を埋めた。微かにルネの匂いが残っているような気がした。きっとおじいさんが一人で掃除して、この状態を維持しているのだろう。
「ノエル、話しをゆっくり聞かせてくれんか。さあ君も入りなさい。たいしたおもてなしもできず残念じゃが」
「はい、それじゃあ……」
 ユタは遠慮がちに家の中に入る。おじいさんはキッチンで紅茶を注ぎ、ユタと僕の前に置いてくれた。
 僕はおじいさんに、今までの事をたくさん話した。僕が川の下流に流されたこと、サラと出会ったこと、そしてサラと過ごした日々。そしてユタのことも少しだけ。話し出したら、色々な記憶が鮮やかに思い出され、僕は一人で話し続けていた。だけどおじいさんは、目を細めながらとても楽しそうに僕の話に耳を傾け、頷いてくれた。
 気がついた時には、いつの間にか日が暮れて外が薄暗くなっていた。
「もう夜か、すっかり日が短くなってしまったのう。ノエルもユタ君も、今日はこの家でゆっくりしなさい。今日はわしが腕によりをかけて料理を振舞って差し上げよう」
 おじいさんはユタのために、たくさん料理を作った。だけど美味しくなかったのだろう、ユタは料理を絶賛するその口振りとは裏腹に、ずっと顔が引き攣っていた。 
 その日の夜は、ユタは客室で、僕とおじいさんはルネの使っていたベッドで寝た。ベッドで仰向けになって寝ると天井が見える。昔、ルネと一緒に見た景色だ。今はルネの事を思い出しても苦しくは無く、ただ懐かしかった。そして妙に目が冴えてしまった。
「ノエル、起きているか?」
 暗闇のなか、おじいさんが僕に話しかけた。おじいさんも眠れないのだろうか。
「うん、起きてるよ」
「そうか……少し話しをしてもいいか?」
「うん」
「真実の実を探してると言っておったが、本気か?」
「……おじいさんは何か知っているの?」
「詳しい事は何も知らんし、信じてもおらん。そんな噂話を信じるのは、現実から目を背けようとする弱い人間だけじゃよ」
 おじいさんは大きな溜息をついて言った。暗闇の静寂の中、その音は大きく響く。おじいさんが何を意図しているか分からず、僕は返事できなかった。
「ずっと寂しい思いをさせてすまなかった。わしはずっとお前に詫びたかったんじゃ」
 何を言っているのだろう。おじいさんは何も悪くない。おじいさんを一人にして出て行った僕が悪いのに。
「……わしはルネを止めなければいけなかったんじゃ。死んだ人間は生き返ったりなどせん。そんなこと分かっていたんじゃが、夫と息子を喪った娘の姿があまりにも不憫で、止められんかった。ルネがそこに行き何を持ち帰ったのかは分からん。じゃが、わしが止めなかったせいでお前を悲しませることになってしまった。それもルネと同様、一番大切な者を喪うという悲しみを」
 僕はルネを喪った時、絶望しこの世界から消えて無くなってしまいたいとさえ思った。だけど今思うと、いいことだってたくさんあった。おじいさんと会えた事だってそうだし、おばさん、そしてサラに出会えた事もそうだ。ユタとの出会いだっていつかは良い思い出になるかもしれない。
「おじいさん、そんな事無いよ。僕はルネにとても感謝してる。それにルネは心は弱かったのかもしれないけど、とても優しかったんだ……僕はルネが大好きだったし、今もそれは変わらない。だから自分やルネを責めないで」
 返事の代わりに、おじいさんは大きな音で鼻を啜った。
「おじいさん、僕はあの樹のもとに行きたいんだ。おじいさんの言うとおり、真実の実は存在しないのかもしれない。だけどそこに行けば、何かが分かりそうな気がするんだ。だからその……ごめん」
「ノエル、お前は優しい子だ。わしを一人にしてしまう事を気に病んでいるのかもしれんが、そんな必要なんて無いんじゃ」
 僕の気持ちを分かっていたんだ。おじいさんは寝返りを打ち、僕の方を向きながら話を続けた。
「ノエルはわしにとって孫みたいなものじゃ。だからノエルがいなくなった時心配じゃった。悪い人間に捕まって酷い目に合わされているんじゃないかと思って気を揉んだ。じゃがこうして元気な姿を見せてくれた。そしてとても立派に成長しておった。それが分かっただけで本当に十分なんじゃ。ノエル、行ってきなさい。そしてまた、お前のさらに成長した姿を見せておくれ」
 おじいさんが僕の頭を撫でてくれた。おじいさんの手は、その気持ちと同じくらい温かかった。僕はその温かさに包まれながら、いつの間にか眠りについていた。それは久しぶりの深い眠りだった。僕は夢を見た。起きたらもう内容は忘れてしまったけど、ルネも、おじいさんも、おばさんも、そしてサラもみんな夢の中で楽しそうに笑っていた。

21
 翌日、僕達はおじいさんと別れを告げて家を出た。おじいさんは僕達が見えなくなるまでずっと手を振り続けてくれた。僕も何回も振り向きおじいさんに手を振った。今回はユタからの妨害は無かった。
「おじいさん、いい人だったな」
 途中、ユタがぽつりと呟いた。
「うん、だって僕のおじいさんだもん!」
 僕は少し誇らしげに言った。
「ああ、そうだな」
 ユタは笑いながら返した。その笑顔に嫌味はなかった。ユタはやはりいい奴だ。
 樹の場所は、今の場所からだと地球儀の裏側あたりに位置していた。そこに行くには、列車に3回乗りついで最寄の飛行場に行く。そして飛行機も2回乗り継ぐ。そこからは公共の交通機関が無いので、ヒッチハイクで車で近くまで向かい、最後はひたすら歩くしかないらしい。
 飛行場まで向かう道のりはなかなか快適だった。人前ではただの人形の振りを続けないといけないので少し窮屈だったけど、高速で走る列車の旅はわくわくするし、車窓からの景色も新鮮だ。だけど少し疲れることもあった。
 道中で気がついたのは、ユタは女の人からもてるということだ。多くの女の人たちはユタとすれ違うと色目を使ってきた。僕にはそれがびしびしと伝わってきたけど、ユタは全然気がついてないようだった。
 その空気を感じるだけでも面倒だったけど、中にはかなり積極的な女性がいた。その女の人とは列車の中で遭遇した。
「あの、隣空いてますか?」
 話しかけてきたのはユタと同じくらいの若い女の子だと思う。だけど化粧が何層にも渡って施されているのではっきりは分からなかった。他にもっと空いている席があるのだから、僕としてはそっちに行ってほしかった。隣に座られたら、車窓の景色を楽しむこともできない。
「ああ、構いませんよ」
 ユタは爽やかな笑顔で言った。まあこれは断る理由も見つからないし仕方無い。隣の席に座ったその子からは濃い香水の香りがした。鼻の利く僕にとってはかなりきつかったけど、ユタも同じのようで、鼻をひくつかせてしかめっ面をしていた。
 その子は、ユタにいろいろと他愛の無い会話をしてきた。ユタも最初は愛想良く付き合っていたけど、途中から疲れてきたみたいでほとんど生返事になっていた。
「その人形とても可愛いいですね。少し見せてもらっていいですか?」
 突然話題が僕のほうに振りかかってきた。
「いやっ、見せる程の人形では無いですよ!」
「迷惑ですよね、すみません……私ったら子供じゃ無いのに人形に目が無くて、みんなからも幼いって笑われるんです。迷惑だったらいいですので、さっきの事は忘れてください」
 その子は上目遣いでユタに謝った。
「まあ迷惑では無いんでよかったらどうぞ」
 ユタは僕の迷惑を顧みず、その女の人に僕を手渡した。
「きゃあっ、可愛い!思わず抱き締めたくなっちゃいますっ」
 その子は僕をぎゅっと抱き締めた。香水の香りを押し付けられて辛かったけど、それよりうんざりしたのがその子の気持ちだった。この子は内心、僕のことをこれっぽちも可愛いなんて思っていなかった。恐らく人形を可愛がる自分に陶酔するタイプなのだろう。
「大事な人形なんで、そろそろいいですか?」
 僕の気持ちを察してか、ユタがやっと助けの声を入れてくれた。
「やだ、私ったら……あまりにも可愛かったんでつい……ごめんなさい」
 その子は恥ずかしそうに頬を紅らめながら僕をユタに返した。頬の色を自在に変えるなんて、なんて芸達者なんだろう。僕の頭の中では、この女の人に対し、一周回って畏敬の念すら覚えた。
 結局その子は目的地の駅で降りるまで、ずっとユタに話しかけてきた。そして列車を降りるときには、ユタに連絡先を記載したメモを手渡して席を離れていった。
「もてもてだったね、やるじゃん!」
 女の子が見えなくなったのを確認し、僕はユタにからかい半分で言った。
「……勘弁してくれよ」
 ユタはうんざりした声で呟いた。ユタの顔には明らかな疲労の色が浮かんでいる。
「だけど少しは嬉しかったんじゃない?」
「……最初はほんの少しな。ノエルも女の子に抱き締められて嬉しかったんじゃないか?」
 見当はずれも甚だしかった。
「冗談じゃない、あんな香水臭くて性格も変な人なんて!」
「おっおう、そうか……」
 ユタが少したじろいだ。
「サラとおんなじ女の子だとは到底思えない。サラは石鹸の匂いがしてもっとたくさん嗅ぎたくなる。だけどあの子のは、もう二度と嗅ぎたくない嫌な臭いだ」
「ああっ確かにサラはいい匂いがするよな!」
 ユタは腕を組み、無駄に大きく頷いた。
「それにサラは優しくて素直で、性格に裏表なんて無い。あんな腹黒くて計算高い女の人とは全然違う!」
「えっ、あの子そんなに裏表あったのか?」
「それにサラのほうがずっと可愛い。笑ったときの表情とか、嬉しい時や照れている時の仕草はあの作り物とは全然違う!」
「ノエル、お前とはたくさん語りあえる気がする。肌の潤いとか弾力性も大違いだよな!」
 ユタは同意を求めるように僕に言った。確かにサラの方があの子より少し若そうだ。だけどそれは重要なことだろか。僕はルネが好きだ。ルネはサラと違って年老いていたけど、僕はルネの笑う顔が好きだった。ルネは笑うとき、口元の皺が目立ったけど、それは何だか優しい感じがした。おばさんだってそうだ。おばさんはサラのためにいつも頑張って少し疲れた感じがするけど、僕はそんなおばさんも好きだ。
「ユタ、それは違うよ。若くなくても別の魅力があるんだ。もっと女の人のいろんな面を見るべきだよ」
 想定外の返事だったのか、最初ユタは途惑った様子で黙りこんだ。そして少し経ってからひと言僕に呟いた。
「ノエル、おまえって深いな。男として尊敬するよ」
 ユタが言った事は良く分からなかったけど、互いのサラに対する気持ちを改めて確認できたのは嬉しかった。
 そして、そうこうしているうちに僕達は目的の飛行場にたどり着いた。

 22
 僕にとって、初めての飛行機はとても刺激的だった。加速して離陸する時の宙を浮く瞬間は、楽しいような怖いような不思議な感覚だった。それに、席が空いていたので人の目をあまり気にしないで自由にできた。だけどユタは機上でずっと顔色が悪かった。どうやら飛行機が苦手なようだ。ずっと俯いたまま、何かぶつぶつと呟いている。
「ユタ、大丈夫?」
 僕が小声で聞くと、ユタは強張った笑顔を返すけど、かなり辛そうだった。
 結局、飛行機が着陸する時にはユタは廃人のようになっていた。緊張しすぎたせいで、頭が痛いらしい。飛行場ロビーのシートに座った後、彫刻のように動かなくなった。あともう1回飛行機を乗り継がないといけないけど大丈夫かと心配だった。
「大丈夫だ……ノエル、行こうぜ」
 ユタは全然大丈夫そうじゃない顔でそう言うと、搭乗口へと先に向かった。悲壮感漂うその後姿は、不覚にも少し痺れた。
 乗り継いだ飛行機は幸い最初よりもずっと飛行時間が短く、3~4時間くらいで目的地にたどり着いた。だけどその頃にはユタはもう自分ひとりでは歩けず、添乗員さんの肩を借りながら飛行機を出る羽目になった。僕の肩を貸してあげられないのが少しもどかしかった。
 飛行場から見た外の景色は、僕達が暮らしている場所と全然違っていた。照りつける太陽の眩しさも比較にならないし、歩いている人達の服装も僕達と全然違う。僕は早く外に出たいと思ったけど、ユタはまた飛行場ロビーのシートに倒れ込んでいた。今度はシートを何席か独占し、恥も外見も無く仰向けになって寝ている。
 どうせこれからの旅は長い。そしてこれからは体力をひたする削る行程になる。僕はユタの回復を気長に待つ事にした。
 結局その日は、飛行場に近いホテルに泊まった。
ユタは僕に少し自分の過去を語ってくれた。ユタの両親は仲が悪く、少し前に離婚したこと。そんな両親の側にいるのが嫌で、逃げ出すように全寮制の高校に通っていたこと。ガールフレンドがいた時もあったけど、仲が悪い両親を見て育ったため本気で付き合えなかったこと。サラだけは一目見ただけで本気で好きになったこと。幼い頃から飛行機が大の苦手だったことなど。ノエルの樹はずっと前から興味はあったけど、飛行機がネックになって今まで行けてなかったようだ。
「僕のために、無理して付き合ってくれたの?」
「そんな訳無いだろ。こういうのはタイミングなんだよ。俺だって、いつか行きたいとはずっと思ってた。だけどなかなか踏ん切りがつかなくてさ。そういう意味じゃノエルには感謝しているくらいさ」
 ユタは笑いながら言った。その笑顔には少し生気が戻っていた。
「ユタ、いろいろありがとう」
 旅の開放感のせいか、僕は素直にユタに感謝の気持ちを伝えることができた。
「ああ、俺もありがとうな」
 ユタは茶化さずに返してくれた。
「今日はもう寝もうぜ、明日からまた大変だからな。飛行機よりはずっとマシだけどな」

 ユタは電気を消すと、あっという間に眠りについた。横からユタの寝息が聞こえてくる。僕は天井を見ながらこの旅を振り返った。旅は思っていたよりずっと楽しい。驚きの連続だし、今まで知らなかったユタの一面も知る事ができた。いや、僕は今まで知ろうとしなかったんだ。僕にとっては、サラといる世界が全てで、それ以外は邪魔だと思っていたから。
 だけど最後に思うのはやはりサラのことだった。サラは今頃どうしているだろう。サラに旅の事をたくさん話したい。サラは僕の話を聞いたらくれるかな。
そして僕も、いつの間にか眠りについていた。

 翌日の朝、僕達は食糧を大量に買い込んだ。この街を出ると食糧を簡単に調達できなくなるかもしれなかった。味よりも日持ちして栄養価が高そうな加工食品を優先して買った。ここの食物は僕が今まで見た事が無いものばかりだった。特に果物や野菜は知らないものばかりで、見ているだけで楽しかった。
 ただ、実際に口に入れるユタは慎重にならざるをえないようで、一つ一つ手に取り、吟味しながら決めていた。そんなことしても何か分かる訳でも無いし、ただの気休めだと思うけど。
「食糧も2週間分は買ったし出発するか!」
 お店を出た後、ユタは威勢よく言った。たしかこの後はサパタという街までは車が通っていて、そこから先は廃道をひたすら歩く行程のはずだ。
「ヒッチハイクするの?」
「乗せてくれる車があったらな。金はあまり無いから、車がつかまることを願おう。いいか、たとえ言葉は通じなくても笑顔は万国共通だ。フレンドリーな笑顔が大切だからな!」
「ユタがでしょ?僕がハッチハイクする訳にはいかないんだから」
「それば、そうだな」
 ユタはサパタの街名を翻訳辞典を見ながら紙に大きく書き、大通りの歩道脇で目立つように掲げた。
掲げたのはいいけど、笑顔が良くなかったのか車は全然止まってくれなかった。普段どおりに笑えば誰かしら止まってくれるんだろうけど、ユタの笑顔は固すぎて、人を寄せ付けなかったのだろう。
「笑わなくていいから普通にヒッチハイクしようよ」
 結局、ユタが笑顔を失ってから一時間くらいで車が止まってくれた。その車は僕達の近くで止まってくれた。車の窓から体を乗り出して話しかけてきたのは初老のおじさんだった。伸ばした黒い髭と、日焼けした褐色の肌が印象的だ。
 ユタは車に駆け寄り、片言とジェスチャーでサパタの街に行きたいと告げた。それに対し、おじさんは返事を返した。
「これはたぶん、『いいよ』って事だよな?車に乗ろうか」
 ユタは小声で言った。
「ううん、どうしてあの街に行きたいのか尋ねているんだよ。あの街に行っても何も無いよって」
「お前、どうしてそんなこと分かるんだよ」
「翻訳辞典でこの国の言葉覚えたから。全部聞き取れるわけでは無いけど」
 ユタは驚愕した表情で僕を見た。たぶんおじさんからは、ユタは変人にしか見えなかっただろう。
ユタはノエルの樹に向かおうとしている事を伝えると、おじさんは露骨に嫌そうな表情で返事を返した。
「だめだって?」
「……ううん、乗るのは構わないけどあんなところ興味本位で行くべきじゃないって……呪われた樹だから……」
 おじさんの言うとおりなんだろう。辺り一帯の養分を貪欲に吸収し続け、不毛地帯に変えてしまう樹なんて誰も望んでいない。そして僕はその分身だ。
「よかったな!それじゃあ、お言葉に甘えるか!」
 僕の沈んだ気持ちを知ってか知らずか、ユタは声を弾ませ、片言のお礼を言いながら車に乗り込んだ。おじさんはユタの思わぬ反応に少し途惑ったようだったけど、何も言わず車を発進してくれた。 
 おじさんの話では、このスピードで進むとサパタの街には10時間くらいで着くようだ。車内でおじさんは、いろいろとユタに話しかけてきた。「どこから来たのか」「何の目的でノエルの樹に向かおうとしているのか」「自分には娘が5人いるので、一人嫁にどうか」など、話しは多岐にわたりその都度僕が小声で通訳した。おじさんは、最初とっつきにくい印象だったけど、話してみるととても親しみやすい人だった。僕も会話に混じりたかったけどさすがに我慢した。ユタは翻訳辞典を片手に必死に返事していたが、途中からは疲れきり、「自分には心に決めて人がいます」など、冗談を真に受けた回答をしていた。  
「サパタの町は昔、この国で有数の大きい都市だったんだ。だけど、ノエルの樹の根が街の近くまで侵食し、郊外で農作物もほとんど育たなくなった。その結果、たくさんの人が街を捨てて出て行ってしまった。残念だが、自分達もいずれ街を出なくてはならないだろう」
 おじさんは途中、寂しそうな表情で言った。おじさんはサパタの街の住民で空港がある都市には不足している生活用品を買うために来ていたらしい。僕は居た堪れない気持ちにさせられた。
「ノエルの樹はこの土地の人達にとってどういう存在なんですか?」
 ユタが尋ねたところ、おじさんは少し黙り込んだ。生活を脅かされているし、「呪われた樹」と話していたくらいだから、良く思っている筈は無い。だけど、嫌いだと即答できるほど単純でも無いようだった。
「……言っただろ。呪われた樹さ。その樹は俺達から生活の全てを奪った。ここ何年か成長は止まっているみたいだが、またいつ活発になるかは分からん。今度そうなった時にはサパタの街も間違いなく飲み込まれるだろう……昔軍隊が出動して焼き払おうとしたこともあったが逆効果だった。成長が一段と早くなっただけだったよ」
「すみません、嫌なこと聞いて」
 ユタが申し訳無さそうに謝ったが、おじさんは聞こえてないかのように片手をハンドルから離し、自分の髭を撫でながら遠い目をした。 
「……ノエルの樹は昔、信仰の対象になっていたこともあるんだ。もちろん、今ある樹では無く、もっと昔俺のじいさんが子供の頃の、大きさ以外は普通の樹と同様に植生していた時代だ」
 おじさんは苦虫を噛んだように眉間に皺を寄せながら言った。
「この辺りは昔から旱魃が多くてな。ノエルの樹はそんな時の数少ない水の供給源だったそうだ。逆に大雨が降った時は水をたくさん吸収し洪水にならないようにしてくれたそうだ。それにノエルの樹はとても甘い実が生り、その実は商品としてもかなり重宝されたらしい。そんな樹に対して、昔の人達は敬意を抱いて信仰の対象として祀っていた……爺さんは生前よく言っていたよ。『ノエルの樹は悪くない。だから決して憎むな』ってな。俺達はどこかで神様の逆鱗に触れてしまったのかもしれん……」
 
 サパタの町に着いたのは陽が沈んだあとだった。おじさんは、自分の家に泊まる事を誘ってくれたけど、それは遠慮して街にあるホテルの前で降ろしてもらった。車で移動した感じでは街の規模は大きそうだけど、その割に人は少なかった。ホテルも、2割くらいしか部屋は埋まっていないようだった。
「ああ……今日もへとへとに疲れた。もう翻訳辞典は当分見たくない……」
 ユタがベッドに体を投げ出しながら言った。
「だけど今日一日でずいぶん話せるようになったね。おじさんもいい人だったし」
「ああ、そうだな……」
 ユタは遠い目で呟いた。もしかしたらユタも、おじさんの話を思い返しているのかもしれない。ノエルの樹って何なのだろう。僕はその日、なかなか寝付くことができなかった。ユタもまた眠れないのかベッドの上で何度も寝返りをうっていた。
 翌朝、僕はきつい陽射しで目を覚ました。昨日カーテンを閉め忘れたのは失敗だった。この街の陽射しはサラの家とは大違いで、眩しいだけではなく照りつけるような熱さだ。起きて隣にいるユタを見ると、体中から汗を吹きだし、肌は一日にして真赤になっていた。それでも起きないユタはすごい。
 僕達はチェックアウトを済ませホテルを出た。日中に見る街の景色は、思っていた以上に寂しかった。ホテルに接する道路は、広いにもかかわらずほとんど車は通っていなかった。補修もろくにしていないのか、コンクリートはいたる所に罅が入っている。道路に隣接している店は、半分以上は既に廃屋になっていそうだ。おじさんの寂しそうな顔が思い出された。
「……まああれだな。空港のある街で食糧調達しておいて良かった」
「うん、だけど水はもう少し用意しようか」
 ユタの、ポジティブなのかよく分からない言葉に僕は返事した。
 ここからは、サパタにある廃線となった鉄道の駅まで行き、線路沿いにノエルの樹がある方向へひたすら歩き続ける。40マイルくらい歩くと、ノエルの樹の最寄となるザイツという街の駅に着くので、そこからは街の旧地図を頼りに10マイル程歩くらしい。
「ねえユタ、ここからは自分で歩くよ。あと荷物は僕が持つ。食糧とか寝袋が入ってるから結構重いし」
「いや、俺が持つ。ここは女子供が出る幕じゃない。お前は自分の心配だけしな!」
 サパタの廃駅で、ユタは威勢よく言った。だけど、5マイルも歩かないうちにユタはへとへとになった。けど無理もない。荷物は20キロくらいはあるし、それにこの熱さだ。しかも廃線となった線路はところどころで隆起したり草が生い茂っていて、思った以上に足場が悪かった。
「僕、荷物を持ちたい気分なんだ」
 僕がそう言うとユタはやっと荷物を僕に渡した。だけどユタはふて腐れて、その日は僕にほとんど話しかけてこなかった。
 結局その日歩いた距離は15マイルくらいだろう。街の明かり一つ無い場所なので、日が暮れる前に僕達は線路の上に寝る場所を確保し休むことにした。線路上だと遮蔽物が無いため朝の陽射しは相当きついだろうけど、見晴らしはいいので何かあったときに対応が取りやすいと思ったからだ。
「なあノエル、別に怖い訳じゃないけど、猛獣とかこの辺にいるのかな?」
 ユタはランプに灯を点け、不安そうな表情で尋ねてきた。
「分からないよ。ノエルの樹の周辺は草一つ生えないって聞いたからいないと思うけど、この辺りはいるかもね」
「交代で見張った方がいいかもしれないな……俺とした事がうっかりしてた……身を守る武器は何も準備して無い」
「そんな心配しなくて大丈夫だよ。猛獣程度なら僕が追い払うから。そんなに怯えていたら、ゆっくり休めないよ」
 僕はユタの小心さを鼻で笑うように言った。まあ、ユタは普通の人間だから猛獣が怖いのは仕方ないけど。
「くそっ、お前恰好良すぎだろ!重い荷物だって軽々と持てるし、猛獣も恐れないなんて卑怯だ。俺はお前を認めない!」
 ユタは理不尽な怒りを僕にぶつけてきた。
「気に障ること言ってごめん、僕が悪かったよ。お詫びに少し離れたところで寝るね」
「いやいや、その必要は無い。俺達は相棒だから側にいないと意味ないし」
 ユタは必死に頭を横に振った。
 結局その日は、ユタの寝袋の隣にシーツを敷いて寝た。僕の言葉に安心したのか、ユタは熟睡し朝まで一切目が醒める事は無かった。逆に僕の方は、周囲に危険が無いか気を配ったせいであまり寝られなかった。
 
 翌日、僕達は思った通りきつい陽射しに目を覚まさせられた。日焼けで赤くなっていたユタの体は、皮が剥け始め少し褐色がかかった色に変化している。ユタの肌の色が日に日に変わっていくのは見ていてなんだか面白かった。
「よし、今日は最低20マイルは進むぞ!」
 出発の準備が整った後、ユタは威勢よく声を出し当然のように僕の前に荷物を置いた。ユタはもう、無駄な意地を捨てたのだろう。
 その日は、前日と比べると順調に進む事ができた。ユタが最初から軽装だったこともあるけど、道路沿いに余計な遮蔽物が無くなったのも理由としてあった。5マイルほど歩くと、もうそこに雑草や木などは生えていなかった。ただ無機質な線路だけが、その先の道を示していた。
 線路は山間に沿って作られていたため、見える景色は荒涼とし乾ききった土と岩ばかりだったけど、途中のいくつかの場所で捨てられて無人になった街の風景が見えた。
「ほら、道草してないでさっさと行くぞ」
 立ち止まりそうになる僕に対し、ユタはこつんと頭を叩いた。
 廃墟の街並は僕の心に刺さった。遠くない昔、街にはたくさんの人達が暮していた。だけど、ノエルの樹によって平穏な生活が奪われてしまったんだ。僕の意思でこんな結果を招いたという訳でも無いけど、心がとても苦しかった。
 僕達はその日、ユタの宣言どおり20マイルを少し超えるくらい歩いた。だけど僕達は素直に喜ぶ事はできなかった。歩き疲れたのもあったけど、それ以上に土と岩ばかりの灰色以外色の無い世界を歩き続けたのが精神的にこたえたからだ。
 その日の夜は、ユタは昨日のような不安な素振りを見せなかった。草一本生えていないような場所で猛獣が襲ってくることなど無いし当たり前かもしれない。だけどそんなところも寂しかった。
「なあ、ノエル」
 ユタが寝袋から僕に話しかけた。音一つ無い世界では、ユタの声がいやに響いて聞こえる。ランプの炎がゆらゆらと揺れ、僕達の影もそれに合わせ踊るように揺れている。。影を目でゆっくり追いながら、僕は口を開いた。
「……なに?」
「明日にはノエルの樹にたどり着けそうだな」
「うん、ユタがへばらないで歩けたらね」
「ああ、そうだな」
 ユタは僕の冗談を流し素気なく答えた。横を見ると、ユタは何事か考えるようにじっと宙の一点を見ていた。しばらくして、ユタは再びおもむろに口を開いた。
「なあノエル、樹に着いたら分かる事だけど……ここにはもう何も無いのかもしれないな」
「えっ、それってどういうこと?」
「……いや、悪かった。あまり意味は無いんだ。何も無いところを歩くと、気分が滅入ってな。明日もあるし、もう寝るか」
 ユタはそう言うと、寝袋の中に顔を埋めた。
 なんとなくユタの言いたい事は分かった。この場所はあまりにも寂しすぎる。そしてその中心にあるノエルの樹にだって、願いを叶えてくれるような「真実の実」なんてきっと存在しない。
 でも僕には一つの予感があった。その予感は、ノエルの樹に近づけば近づくほど確信に近づいていく。それは「ノエルの樹はかつての僕だった」ということ。僕にはこの樹に関する記憶など無い。だけどノエルの樹に触れれば、記憶が甦るかもしれない。
 今日はなんだか疲れた。もしユタが一緒にいなければ、途中で行く事を諦めていたかもしれない。僕はゆっくり目を閉じサラの事を想った。旅に出る前はサラとぎくしゃくした状態が続いたけど、今はサラの笑顔しか思い浮かばなかった。

 残念な事に、その日は朝から空がどんよりと曇っていた。そして、雨が降ったり止んだりというぐずついた天気だった。ユタは雨具を頭からすっぽり被り、ぬかるんだ道を水溜りを避けながら歩いた。ここの気候では、天気が良すぎても暑くて大変だけど、悪くてもそれはそれでしんどい。
 だけど不幸中の幸いで、ザイツの街の駅には歩いて2時間くらいで着く事ができた。駅の看板はプラットホーム上に落ちており、もう文字もほとんど消えかかっていた。前日僕達は思っていた以上に進む事ができていたみたいだ。その駅はぽつんとプラットホームだけ地上に顔を出していて、周囲に他の建物はひとつとしてなかった。土に飲まれてしまったのかもしれない。
「ふうっ、やっとここまで着いた。だけどここから先は線路みたいな目印も無いし、慎重に行かないとな」
 ユタは、額から流れ落ちる雨水と汗をタオルで拭いながら言った。
「大丈夫だよ。ノエルの樹がどの方角か何となく感じるから。だけど足元には気をつけないとね」
「ノエル……お前ナビゲーション機能までついているのかよ。俺がいない方がかえって早く着いたかもな」
 ユタは呆れたような、そして落胆したような声で呟いた。
「そんな事無い。ユタがいないと僕はここまでこれなかった。とても感謝しているよ」
「はいはい、そうですね……」
「ユタ真面目に聞いてないでしょ!」
「いや、聞いてますよ。ノエル様にそう言っていただいてとても光栄ですって」
 ユタは投げやりな口調になっていた。何を言っても聞く耳を持たないだろうから、それ以上何も言わなかった。だけどこの旅が終わったらたくさん「ありがとう」って言おう。
 そこから先は、僕が先導して歩いた。もう人工の構築物なども一切見えず、まるで砂漠を歩いているような錯覚に襲われる。こうやって歩いているうちに、駅のプラットホームが埋もれずに残っていたのが奇跡だったことが分かった。本当ならここにだって街があったはずだ。その全てをノエルの樹が飲み込んでしまったのだろう。
 途中で霧が発生し、その霧は進むにつれてどんどん濃くなっていった。そして少し先さえ見えなくなった。まるでノエルの樹が僕達が来るのを拒んでいるみたいだった。僕は歩きながら何度も後ろを振り返った。ユタは疲れているようだったけど、しっかりと後ろをついて来ている。だけどもしここでユタを見失ったらもう会えないような気がした。
「ユタ、大丈夫?」
「大丈夫だって!そんなに心配なら手を握ってやろうか?」
 ユタは冗談半分にそう言った。僕としてはそれくらいしたい気分だったけど、ユタが意地を張っているなら僕も合わせないといけない。僕はその後も、後ろを振り返りながらも歩き続けた。
 もうどれくらい歩いただろうか。先が見えないと距離感も全然つかめない。かなり進んでいる気もするし、全然進んでいない気もした。こんな状態で歩き続けてユタも本当は疲れきっているに違いない。息も相当上がっている。だけどなんの文句も言わずひたすら歩き続けた。
 それは突然のことだった。霧が切れて視界が開けた。僕は目の前にあるものを見て、思わず立ち止まった。
「おいノエル、何止まってるんだよ」
 後ろからユタが声をかけてきたけど、目の前にあるそれを確認するとユタの足も止まった。
 目の前には大きな樹があった。僕達はもうノエルの樹に着いたんだ。だけど僕達が思わず立ち止まったのは、ただ目的地に着いたからという訳ではなかった。
 目の前にあるノエルの樹は、ただただ大きかった。こんな巨木は今まで見た事が無い。幹の太さもすごかったけど、樹高も天まで届くのではないかと思えるくらい高かった。
 そして何よりその樹は禍々しかった。樹の色はまるでこの世の全ての不幸を体現したかのようにどす黒く、そして樹の形は幹の太さからは想像できないくらい歪に曲がりながら空に向かって腕を伸ばしている。樹の真下からは根が放射状に伸びているが、根の一部はまるで地中から吸えなくなった養分を空中から奪おうとするかのように、地上に迫り出している。
「……これはすごいな……」
 ユタは思わず呟いていた。
「……うん」
 僕は頷いた。
 呪われた樹と言われるのも納得だった。この樹は、見ただけで人を呪われた気にさせる程不吉な雰囲気を持っている。だけど僕はそうは感じなかった。 なぜか分からないけど、歪に曲がったその樹の姿は、呪いというよりもむしろ悲しみを一身に表しているように見えた。
 僕は樹の幹に近づくため、一歩前に右足を出した。
「おい、ノエル。これ以上進んだら危なくないか?」
 ユタは後ろから僕の肩を掴み、静止させようとした。
「ありがとう。だけど大丈夫だよ」
「そうか。まあノエルがそう言うなら、きっと大丈夫なんだろ」
「だけどユタはここで待っていてね。僕が大丈夫だからって、ユタもそうとは限らないし」
 ユタは何か言おうとしたけど、僕はそれを遮って歩き出した。少し気がひけたけど、このままではユタもついて来てしまうかもしれないから仕方ない。
 近づいていくと、この樹の大きさには改めて驚かされた。ここまで大きくなるまでにいったいどれくらい養分を吸い続けたんだろう。いや、吸収したのは養分ではなく、人の負の感情なのかもしれない。もともとのノエルの樹は、こんな姿では無かったはずなのだから。
 幹まで近づいたけど、僕は躊躇してなかなか触れる事はできなかった。この樹の記憶を知るためにここまで来たけど、それが良い記憶では無いことくらいは分かりきっていたから。だけど同時に、この樹の記憶を自分が受け容れないといけないという思いは、いっそう強くなった。僕はこの樹の分身などでは無く、きっと僕自身がこの樹なんだから。
 僕は勇気を出して手を前に出した。そしておそるおそる掌を幹に近付けていく。あと数センチで幹に触れるところまで手を伸ばした。だけどどうしてもそこから先は伸ばせなかった。
「いつまでそうしてるんだよ」
 突然後ろからユタの声がした。僕は驚き、思わず幹に触れそうになった。ぱっと振り向くと、ユタは僕の真後ろにいた。
「待っててって言ったのに!」
「待たせ過ぎるからだよ」
 ユタはこつんと僕の頭を叩いた。
「躊躇うのは分かるけど、こういうことは思い切って前に踏み出すんだよ!そうしたら意外に上手くいくもんだ。現に、俺もここまで来て全然大丈夫だったし」
 ユタはにやっと笑って言った。ユタのせいで、僕の張り詰めた空気はゆるんでしまった。なんだか緊張していたのが馬鹿らしくなってくる。
 僕はひとつ大きく息を吸ったあと、ゆっくりと吐き出した。そして掌を前にかざすと、ゆっくりと触れた。
 想像していたのとは違い何も起こらなかった。僕は少し躊躇したが、腕に力を入れ樹に触れている掌を強く押し当てた。だけど何も起こらない。僕は拍子抜けし掌を樹から離そうとした。その瞬間、不思議な感覚に襲われた。電流のような刺激が樹から僕の体に入り込み僕の体を駆け巡る。
 そして、自分のものではないと思われる記憶の波が、僕の頭の中に洪水のように溢れた。不思議だ。それは僕の記憶であって、僕の記憶では無い。そこから僕の意識はぷつりと切れ、別の世界へと運ばれていった。

22
 僕にいつから意識が芽生えたのか、自分でも定かではない。一番古い記憶は、その人が僕に話しかける声。何を話しかけていたのかは分からない。だけど、その人の声はとても優しく穏やかで、聞いていて気持ちよかった。僕はいつしか、その人が僕に話しかける日課を待ち詫びるようになっていた。
 僕はその人のため、春にたくさん花を咲かせ、そして秋にはたくさんの果実を実らせた。その人はきっと喜んでくれたと思う。その人は春や秋だけでなく、葉が茂って虫が付く夏や、枯葉がすべて落ちた冬にも僕のもとへ来て優しい声で話しかけ続けてくれた。そしてそんな穏やかな日々がこれからもずっと続くものだと思っていた。
 転機が訪れたのは、ある夏の夜だった。その日は天気が悪く、大雨が大地に降り注ぎ、宙では何条もの稲妻が漆黒の空を切り裂くかのように走っていた。そしてその稲妻のうちの一条が、僕目指して落ちてきた。そして幹に直撃し、一部が折れて地上に落ちた。だけど別に大した話しでは無いはずだった。そんな事は日常的に起きる風景の一部のはずだったから。
 翌日は、昨日の大荒れの天気が嘘だったかのように雲ひとつ無い良い晴天になった。空からは太陽の光が僕向けて降り注ぎとても気持ち良かったのを覚えている。その人は、朝早くに僕の元を訪れた。そして、いつものように僕に話しかけてくれたけど、その口調はつもと少し異なっていた。それはいつもと同様、優しくて穏やかだったけど少し哀しみが混じっているように感じた。そして、その人は戻る際に地面に落ちた僕の欠片を拾い、家に持ち帰った。それが僕が最初に樹だった時の最後の記憶になった。
 次の記憶は、僕が人形になった後のもの。その人は、僕の欠片を削り一体の人形を作った。人形となった僕の体内には何本もの糸が張り巡らされ、その人の指の動きに合わせて動く構造となっていた。
 人形になってからの記憶も、いつからあるか定かではない。はじめからあったような気もするし、途中で芽生えたような気もする。樹の時も、人形になった時も、その人は僕の事を「ノエル」と呼び続けたことには変わりは無かった。だけど人形になった後の僕は、樹だった頃よりもずっと幸せだった。僕はずっとその人の側にいることができたし、その人は僕にたくさん話しかけてくれ、言葉も少しずつ分かるようになってきた。そして僕に外の世界も教えてくれた。
 その人は僕を連れて街に出て、人形劇に使った。通りを行き交う人達の多くは、僕達を見て足を止めた。その人の指の動きに合わせて僕の身体が精巧に動く姿は多くの人達を魅了した。そして劇が終わると、観衆からたくさん拍手と喝采を浴びた。僕にはそれがとても幸せな瞬間だった。僕を見て観衆のみんなが楽しそうに笑い、喜んでくれる。そしてその人もとても嬉しそうだった。
 その人はみんなからコルベおじさんと呼ばれていた。僕は外の世界を通し、おじさんの事を少しずつ理解した。有名な人形作家であり大きな劇団に所属していたこと、劇に対する方向性を巡って他の劇団の人達と対立し劇団を退団したこと、おじさんは有名になるのでは無く、街の人達に喜んでもらえるような人形劇を目指している事など。
 おじさんは街の人達にはじめから好かれていたみたいだけど、僕を人形として使い始めてから人気はさらに広がった。だけど一方で、その人気を快く思っていないような人達もいた。
 ある日のこと、おじさんが少し目を離し街の人達と話していた時、誰か知らない人が僕に近づいてきた。そして僕を籠から取り出すと、ハサミで僕の糸を何本か切り逃げるように走り去った。
どうしてそんなことをするのか、その時の僕はよく分からなかった。結局その日はそれ以上は何も起こらず、おじさんは家路についた。だけどその理由は翌日になって分かる事になる。
 翌日おじさんは、街で人形劇をするため僕を連れて家を出た。
その日の街の雰囲気はいつもと少し違っていた。街中が人で溢れとても賑わっていた。そして街の主要な通りにはたくさん出店が並んでいて所狭しと商品が並んでいる。子供達は手に様々な色の風船を持ち街のいたるところを走り回っている。その日は年に一度のカーニバルの灯だったのだ。
 おじさんの人形劇を見にくる観衆もいつもよりずっとたくさんいた。
「こりゃあ少し緊張しそうだな、ノエル」
 おじさんは僕に話しかけた。確かにその時のおじさんの手は、緊張で震えていたように思えた。だけど僕は何も返さなかった。反応しないのが当たり前だと思っていたから。
 人形劇で、おじさんは最初僕以外の人形を使った。さっきの言葉が嘘みたいに、おじさんは人形を流暢に動かし、満場から拍手喝采を受けた。そしていよいよトリに僕を使おうとする。
 おじさんは、僕の糸が切られている事に事前に気が付くことはできなかった。そして普段どおり僕を操ろうとした。おじさんは糸が何本か切られている事に劇の途中に気が付き、みるみる顔が青ざめていった。そして不自然な動きをする僕に対し、観衆からも
ざわつきの声が上がり出した。
 こんなの初めてのことだった。いつもはみんな楽しそうに人形劇を見ているのに、今は白けな様子で僕達を見る。コルベおじさんは泣きそうな表情になっていた。僕は何とかしてコルベおじさんを守りたかった。
 そしてその時、僕は初めて自分の意思で動いた。僕には、コルベおじさんの手の動きに合わせてどう自分が動けばいいのか分かっていた。だから僕は、あたかも糸が普通に繋がっているかのように動いて見せた。コルベおじさんは途中で気持ちを持ち直し、白け気味だった観衆のみんなも最後には大きな喝采と拍手を僕達に送ってくれ、成功のうちに劇を終わらせる事ができた。
 劇が終わった後、おじさんは何事も無かったかのように普段どおり家路へと着いた。だけど、家に着くや否や僕を籠から取り出し、僕の事を強く抱き締めた。
「ノエル、ありがとう……ありがとう……」
 おじさんの目からは涙が溢れ出していた。僕はそんなおじさんに、どう返せばいいのか分からなかったけど、その時僕の中で感情のうねりが一気に広がった。おじさんの役に立てたのが嬉しかった。もっと、もっと役に立ちたいと強く思った。
 だけど、僕のそんな気持ちとは反対に、おじさんはそれ以降僕を操り人形として使う事はなくなった。今までどおり、いや今まで以上に僕にはいろいろ話しかけてくれたし、街にだって連れて行ってくれた。そして僕は、そんなおじさんに対して少しずつ反応を返すようになった。だけどおじさんは僕の事を使ってはくれない。
「ノエル、お前がただの人形では無い事を気付かれる訳にはいけないんだ。もし気付かれたら、お前を利用しようとする悪い人間が必ず出てくるから」
 おじさんはそう言って、不満げな反応をする僕を嗜めた。だけど僕にはそれが良く分からなかった。僕が精巧に動くだけで観衆はあんなに喜ぶんだから、僕が自分の意思で動いたり話したりしたら、きっともっと喜んでくれる。そうしたらおじさんだってもっと拍手喝采を受けられるのに。
 不幸な事におじさんの不安は的中した。カーニバルの時の人形劇を見ていた人の中に、僕の動きに違和感を感じた人がいたのだ。今となってはもう確認する術もないけど、その人は僕の糸を切った人の仲間だったのかもしれない。
「初めましてコルベさん。私、マイクと申します」
 ある日、その人は突然家にやって来た。
「何か用ですか?」
 おじさんは扉を半分だけ開き、怪訝な表情でその人を見た。
「そんな冷たい態度は良くないですよ。人の出会いは一期一会を大切にしないと!」
 小さく開いた扉から覗いて見たその人は、高級そうな服装を身に纏いすらっとした体型をした紳士のように見えた。だけどそのねっとりとした話し方や薄笑いを貼り付けた表情、どんよりとした黒い感情などは僕に嫌悪感を感じさせた。
「私は街で商売を営んでいるのですが、コルベさんとお話ししたい事がありうかがいました。コルベさんにとっても決して損な話しでは無いので、少しお時間をいただけませんかね?」
「私はあなたと話したいことなど無い。お引取り願おう」
 おじさんはそう言うと、扉を閉めた。
「コルベさん、お願いしますよ!話を少し聞くだけでいいんです」
 扉を閉めたにもかかわらず、向こう側からその人は大きな声でおじさんを呼び続けた
おじさんはその声を無視し、踵を返し部屋へと戻った。
 おじさんの判断は間違っていなかった。後で知る事になるけど、この人はまるで悪魔のような本性を備えた人間だった。だから決して接点を持ってはいけなかったんだ。だけど僕達には、この人から逃れる術なんて無かった。
 その後、その人はおじさんの元に何度も足を運んだ。うんざりしたおじさんは、最後には根負けし話だけ聞く事にした。そこでなされた話しは僕からするとつまらない内容だった。その人はおじさんに対して美辞麗句を並べ立て、おじさんへの支援を申し出たのだ。それは、おじさんの卓越した技能を後世に残すため街に職業学校を作ってはどうかという提案であり、そのために必要な費用は全額その人が無利息で融通するということだった。
 おじさんは最初話を断ったが、その人は何度も提案しその熱意に次第に押されていった。そして最終的に、おじさんの家を担保にその人からお金を借り、職業学校を作る事になった。職業学校とは言っても別に大きな建物ではない。街にある建物の一室を借りて改装し、生徒を集めて教育する程度のものだった。だからお金だった借りなくてもなんとかできたはずだ。おじさんがその人からお金を借りたのは、義理立てのつもりだったのだろう。
 だけど結局、職業学校は作られなかった。それはおじさんが突然病死してしまったからだ。おじさんは、その人と出会ってしばらくしてから体調を崩した。きっとその人は、おじさんの飲み物に毒をもっていたんだろう。それはたぶん、数回に分けて少しずつ飲み物に溶かしたのだろう。おじさんはそれに気付かなかった。そして僕も、それに気付いてあげることができなかった。
 おじさんが感づいた時にはもう手遅れだった。毒は体中を侵し、おじさんは立つ事もできなくなっていた。お医者さんを家に呼んで診てもらったけど、受け取った回答はただの「過労」だった。きっと街のお医者さんにも、もうあいつの息がかかってしまっていたんだ。
「ノエル……私が馬鹿だった。あんな奴の言う事を真に受けてしまうなんて」
 おじさんは息を引き取る間際、僕に対して息も絶え絶えに話しかけた。
「ノエル……いいか……奴の目的がこんな小さな家のはずは無い……きっとお前が目当てなんだ……ノエル、早く逃げるんだ……」
 だけど僕は、おじさんの言う事に従わなかった。おじさんを放って家を出ることなんてできなかったし、僕にはここ以外居場所なんて存在しなかった。それに、おじさんが死んでしまうなんてこと、僕は考えられなかった。
 そんな僕の思いとは関係なく、結局おじさんは死んでしまった。そしてその後、どいゆは本性を表した。
 身寄りのないおじさんの葬儀は、そいつが中心になって執り行われた。そいつは沈痛な面持ちで駆けつけた街の人達に挨拶し、自分がどれだけおじさんと仲が良かったか、そしてその死を悼んでいるかを吹聴して回った。
 それが嘘であることなど僕には分かりきっていたけど、街の人達の大半はそいつの言う事を信じたようだった。でもそれも仕方なかったのかもしれない。おじさんには奪いたくなるような財産らしき財産など一見無かったし、街の名士であるそいつがおじさんの財産目当てで嘘つくなど考えられなかったのだから。
 抵当に入っていたおじさんの家とその中の遺品は、結局全てがそいつの物となった。
「……ふん、碌な資産も無いな!」
 誰もいなくなった後、そいつはこの家に一人残って遺品整理をしながら呟いた。おじさんの物が、大切な思い出が僕の目の前でそいつに荒らされていく。僕は「やめろ!」って叫びたかった。だけど我慢しておじさんの言いつけを守り、ただの人形のように身じろぎしなかった。
「まあ、こいつらはそこそこの値で売れるかな。どこがいいのかさっぱり分からんが、有名な人形作家だったようだし」
 そいつは、陳列棚に入っている人形を無造作に取り出しながら言った。
「これが、噂のやつか……」
 そして最後に、おじさんのベッドに置かれていた僕を掴んで言った。
「おい、聞こえているか?」
 そいつは僕の頬を何度か叩いた。だけど僕は反応を示さなかった。
「……まあ、とりあえずこいつだけ持ち帰るか」
 そいつは僕だけを車の後部座席へ投げ入れるとおじさんの家を後にした。そして連れて行かれたのはそいつの屋敷だった。屋敷は僕が今まで見たことが無いほど大きく、立派なものだった。
 だけどそこで僕がされた仕打ちは、屋敷の雰囲気とはかけ離れたものだった。そいつは、僕の反応を引き出すために、僕の服を脱がすとあらゆる事を試みた。水槽の中に一日中入れたり、ナイフで僕の体を刻んだり数え上げたらきりが無い。僕はどんなことをされても決して反応しなかった。そいつが悪い人間であることなど分かりきっていたし、思惑通りになど反応したくなかったから。
「まさか、ガセネタじゃないだろうな……」
 何をしても反応しない僕に、その人はついに匙を投げ出すように呟いた。
「仕方ない、もうあのボロ家もろとも売り払うか……お前が望むなら、あの家はお前のために残してやろうと思ったんだが」
 意味も無くぽろっと漏らした言葉だったんだろう。だけど僕には今までのどのような仕打ちよりも心に響いた。僕にはもう、おじさんとのつながりはあの家しか無かったから。
「……お願い……家を売らないで」
 僕はついに言葉を発した。
 最初そいつは、突然の出来事に驚いたように目をぱちくりさせていた。しかしそれも束の間、すぐに歓喜の表情へと変わった。
「やった!ついに話しやがった!正直半信半疑だったが、本当に意思がある人形だったととはな。これでさらに大儲けできそうだ!」
 その時のそいつの喜んだ表情は決して忘れられない。すべての欲望を体現したかのような醜悪な笑みは、忘れられないくらいぞっとするものだった。

 僕は、そいつが主催する人形ショーに参加する条件でおじさんの家を譲られることになった。実際にそのショーに参加してみると、それはおじさんの人形劇のように楽しくは無く、辛くしかなかった。
 何千人も収容できるような大きな劇場で、僕は意思を持った人形として文字通り「晒し者」にされた。別に何か特別な芸をした訳ではない。ただ求められるままに話をし、動いただけだった。それだけなのに、僕の一挙一動が観衆の興味や笑いの対象になった。
 大勢の観衆の遠慮の無い視線と嘲笑、そして悪意に晒され続けることで僕の心は傷つき、そして歪んでいった。それとは裏腹に、そいつの主催するショーは大人気となり開催回数やその規模もどんどん大きくなっていった。
「僕、もうこんなの辞めたい」
 僕がそいつにそう告げた時、もう限界だったんだ。だけどそいつには僕の気持ちを理解する気などなかった。
「何をふざけたことを言っているんだ!これからがもっと稼げるだ。この調子だと、もっと、もっと大金が入るんだからな」 
 僕は何回も懇願したけど、際限の無い欲望に突き動かされ、そいつは僕を金儲けの道具として使い続ける。そして観衆は僕を滑稽な人形と見下して下卑た笑いをする。
 僕の中で得体の知れない黒い気持ちがどんどん大きくなった。
 
 そしてそれはある日爆発した。それはショーが終わった夜のことだった。
「ねえお願い、おじさんの家に帰してよ!」
 僕はそいつの袖を引っ張りながら、慌しく動き回るその人に追いすがって懇願した。それは忙しさのあまりにうっかり発した失言だったのかもしれない。真偽は定かでないけど、そいつは決して口にしてはいけないことを発っしたんだ。
「いい加減にしろ!邪魔な奴だな。そもそも、もうあいつの家なんてとっくに売り払っている。もうお前の帰る家なんてどこにも無いんだよ!」
「……えっ……でも……残してくれるって約束……」
 僕はそいつの告白に言葉を喪った。
「人形との約束なんて守る訳無いだろ、馬鹿らしい!」
 そいつは僕の手を振り解き、部屋を出て行こうとした。
「……返してよ……」
 自分自身の意思なのか分からないけど、僕の手は異形なかたちに成長しそいつに向かって伸びた。そしてそいつの体を掴み持ち上げた。
「……ひっ……」
 そいつは恐怖に顔を歪ませ、空中で必死にもがいた。
「返してよ……おじさんの家を返してよ……おじさんを帰してよ」
 そいつは足をばたばたとさせながら、何か必死に叫んでいた。だけど僕の耳にはもう何も届かなかった。
 そう、返して貰わないといけないんだ。おじさんの家だけでは全然足りない。僕から奪った全てを返して貰わないと。そいつが僕を使って得た財産も。それでも全然足りない。そいつが不当に得た地位や名声だって奪わないと。だけどそれでも全然足りない。
 もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと……

 そこから先の記憶は、断片的にしか無い。ただひたすらに、際限の無い渇きを癒すために周囲にある全てのものを吸収し続けた。いくら吸収したって、その渇きは決して癒されないのに。
 僕はいったいどうしたかったのだろう。ふと思う事がある。僕は本当にこんなことを望んでいたのだろうか。もう分からない。
 ある日、一組の家族らしき人達が僕のもとを訪れた。男の人と女の人、そして小さい男の子。男の子は、僕が人形だった頃よりも少し大きいくらいだろうか。男の子はこんな姿の僕を全然恐れず、無邪気に周りを走り回っていた。女の人は僕の一部を削って採取した。その時女の人の手が僕に触れ、気持ちが伝わってきた。その人はおじさんみたいに優しい気持ちを持った人だった。
「なんだか、こんな姿になってしまったことを悲しんで泣いているみたい……」
 帰ろうとする間際、女の人はそう呟いた気がした。確かにそうかもしれない。だけどもう、元の姿に戻ることなんてできないんだ。

 それからどれくらい経った後だろうか。その女の人は一人で僕の元を訪れた。そしてその時、心の中は大切な何かを喪った悲しみでいっぱいだった。
「ねえ、お願い……私を救って……もし本当に真実の実が存在するなら……私の子供を……ジョアンを生き返らせて!……ねえ、お願いだから……」
 その女の人は僕にしがみつき、泣きながら哀願した。それはきっと藁にでもすがるような気持ちだったんだろう。その女の人の姿は、おじさんを喪った時の僕の姿に重なった。
 僕はこの人のために何ができるんだろう。分からないけど、僕ができることをしてあげたかった。そして、僕自身もこの人と一緒に変わりたい、そう願ったんだ。

23
「おいノエル、大丈夫か?」
 目を醒ますと、目の前にはユタの心配そうな顔があった。瞼は動かせるけど、手足には力が入らなかった。どのくらいか分からないけど、僕は意識を喪っていたらしい。
「……うん」
 僕は、なんとかそれだけ答えた。
「この野郎、心配させやがって!」
 ユタは安堵の表情になり、大きな溜息を一つついた。
「心配かけてごめん」
「まあ、無事ならいいけどな」
 ユタは照れ隠しするように目を逸らして頭を搔いた。

 ユタの話しでは、僕は樹に触れてから少しして、意識を喪って地面に倒れたらしい。そして2時間くらい意識が戻らなかったようだ。その話を聞いて、とても不思議な感じがした。
 2時間が長いのか短いのかは分からないけど、その間に、僕の頭にこの樹が記憶として残していた膨大な情報が入り込んだんだ。一生分の経験が凝縮されたものかもしれない。そしてそれは、僕の中にあった混沌としたいろいろな気持ちをすっきりさせてくれた。
「……ところでさ、真実の実について何か手掛かりはあったか?」
 ユタは遠慮がちに尋ねた。そういえば、この旅の一番の目的はそれを探すことだった。ユタは僕が人間になるために、一緒に探してくれている。だけど今となっては些細なことのように思えた。
「ああ、それなら分かったよ」
「えっ、本当にあったのか?どこにあるんだ?」
「あえて言うなら僕の心の中かな。世間で噂されているような、願いを何でも叶えてくれるような代物では無いけど」
「うん?何だよそれ、さっぱり分からないんだが……」
「きっとユタもそのうち分かるよ!」
 僕は笑いながら言った。
 ユタは首を捻り、悩ましげに首を捻っている。確かに僕の言葉だけでは理解できないだろう。だけどそれ以上は説明できなかった。僕自身もう少し自分の気持ちを整理したかったから。
「ねえユタ、早くサラに会いたいな……サラのもとに帰ろうよ」
「……まあ、ノエルがそれでいいならそうするか……」 
 ユタは釈然としない感じで曖昧に頷いた。

「なあ、この樹って俺が触れても大丈夫かな?」
 帰り仕度をしている時にユタが尋ねた。
「ユタはこの樹が怖いの?」
「馬鹿、そんなわけないだろ!なんとなく聞いてみただけだよ」
「それじゃ、早く触りなよ。折角ここまで来て何もしなかったら、もったないもんね」
「ああ、そうだな。それじゃあ、さくっと触ってくるわ!」
 ユタはなんでもないような素振りで樹に近づき、手を伸ばした。だけど、あと少しのところで手を引っ込めた。
「……大丈夫だよな?」
 ユタは振り返り、僕に尋ねた。
「やっぱり怖いの?」
 ユタのリアクションが楽しくて、つい意地悪で挑発してしまう。それはちょっと前の僕の姿と同じなのに。
「怖い訳無いだろ!」
 ユタは、ばればれの強がりをしてみせる。その言葉とは裏腹に、ユタの手はそれっきり樹には全然伸びない。ユタの額からは汗が滴り落ちていた。
 僕は気付かれないように足音を消して、そっとユタに近づいた。ユタは集中していて、僕の行動に全く気付かない。そのまま真後ろに行ったが、その間ユタは微動だにしなかった。僕はユタの背中に向かいジャンプし、両手で思いっきり押した。 
「うおっ!」
 ユタは奇声を上げながらも必死に体勢を維持しようとし、空中で手をばたばたさせたが、それも虚しく結局樹に手を付けた。そして即座に手を引っ込め、バランスを崩して地面に倒れる。
「ノエル、何するんだよ!」
 ユタは振り向きながら言った。その形相はかなり鬼気迫るものがあり思わず笑った。
「ほら、何も起こらないでしょ?」
「え?ああ、そうだな……」
「ユタが怖がって愚図愚図してるからさ、僕が背中を押してあげたんだよ」
「怖がってなんて無い……ていうか、言葉通り背中を押すなよ。発破かけるにしても、もう少し別の方法があるだろ!」
「さっきの仕返しだよ!」
「おい、あれは違うだろ……俺はお前を勇気付けてやろうと思ってやったのに……」
 ユタは納得のいかない顔をしていた。確かにその通り。ユタは僕のためを思いしてくれたけど、僕はユタに意地悪しただけだ。
「……ユタ……ありがとう」
 僕はしゃがみこんでいるユタに手を伸ばした。
「……どうしたんだよ、改まって」
 ユタは僕の手を取りつつ、訝しげに尋ねた。僕は腕に力を入れユタを引き起こす。
「ユタ、僕にとってサラは特別なんだ。だからユタが僕達の前に現われてサラと仲良くなった時、サラが奪われてしまう気がして嫌だった。それは今も同じで、サラを僕から奪おうとするからユタは嫌いだ」
 ユタは僕の突然の告白に、戸惑った様子だった。だけど、気を取り直したのか、すぐに言い返してきた。
「奇遇だな、俺も一緒だよ。俺が一生懸命アプローチしても、サラはいつもお前のことばかり考えている。お前は俺にとって邪魔だから嫌いだ」
「うん、そうだと思った。だけど、僕はユタのこと嫌いなだけじゃないんだ。一緒にいるとわくわくするし、ユタのお節介なとこや、不器用だけど一生懸命なとこは好きだ」
「……奇遇だな、俺もノエルのこと好きでもあるぜ」
 ユタはぽつりと呟き、僕の前に拳をつき出した。ユタはそっぽを向いているからどんな表情をしているの見えない。きっと照れているんだろう。僕はこつんとユタの拳に自分の拳をつき合わせた。
「よし、それじゃあ行くか。サラも俺達のこと待っているしな。せっかく旅しているんだし、帰りはちょっと寄道して観光を楽しむか」
「ユタの苦手な飛行機が待ってるけどね!」
「おい、忘れていたことを思い出させるなよ……」 
 ユタは情けない顔をして溜息をついた。
「そうだ、ユタに一つお願いがあるんだけど」
 僕はふとある事を思い出し、ユタに話しかけた。
「まだ何かあるのかよ」
 ユタはぶっきらぼうに尋ねる。
「帰りの途中、おじいさんに手紙を書こうと思うんだ。今度僕の所に遊びに来てって……その手紙を僕の代わりに出してくれないかな。手紙の出し方とかよく分からないし」
「別に構わないけど、今度またノエルから会いに行けばいいだろ。別に遠くないし」
「僕にもいろいろ都合があるんだよ。お願い」
「まあいいさ」
 ユタはそれ以上何も言わず了解してくれた。 

 帰りの旅は、行きよりもさらに楽しかった。ユタは博学で、旅先で色々なことを教えてくれた。食べられる茸の識別方法といった実用的なことから、女の人の年齢の見分け方といったどうでもいい話まで多岐にわたった。
 旅はとても楽しかったけど、ふとした瞬間にサラを想った。綺麗な花を見たとき、小さな女の子とすれ違ったとき、干されている洗濯物を見かけたとき、そして青空を見上げている時。今は僕が想う時いつだってサラは楽しそうに笑っている。

「なあ、ノエル」
 列車を降り、旅の終着点に向かって歩いている時にユタは話しかけてきた。夕焼けが僕達が歩く道を茜色に染め、サラへと向かう道標を示している。
「なに?ユタ」
「俺さ、その……真実の実は存在するかもって思ってたんだ。そりゃあ何でも願いを叶えてくれる実なんて、普通はありえないさ。だけど、ノエルがいるなら真実の実があってもおかしくないと思ったんだ。ノエルの持っている心って、どんなものより凄いと思う。ノエルがサラのこと大切に想ったり、優しくしたくなったりするのは、きっと他の何よりも奇跡だと思う。だからさ……」
 ユタはそれ以上、口にしなかった。
「ありがとうユタ。僕も今はそう思う。だから僕はサラと向き合えると思っているんだ」
 僕はユタを見て笑った。
「ああ、そうだな……」
 ユタはぽりぽりと頬を搔いた。

 家に着く時には、もう辺りもすっかり暗くなっていた。そんな中で、サラの家の灯火が眩しいくらいに明るかった。僕達は玄関の扉の前まで来たが、そこで足を止めた。
「どうしたんだよ。チャイム鳴らさないのか?」
 ユタが不思議そうに聞いてきた。
「……ユタが押してよ」
 一刻も早くサラに会いたい気持ちはあったけど、同時になんだか気恥ずかしかった。
「ああ、なるほどね」
 ユタは僕の方を見てにやりと笑った。自分の気持ちが見透かされているようで腹立たしい。
「仕方ないな、代わりに押してやるか……」
 そう言うと、ユタはなんの躊躇いも無くチャイムを押した。家から、ぱたぱたと足音が聞こえてくる。この足音はサラに間違いなかった。
 僕は思わずユタの足の後ろに身を隠そうとした。
「おい、何隠れようとしているんだよ!」
 ユタはそう言うと、僕の体をがっしりと掴みひょいとドアの前に持ち上げた。
「ユタ、止めろよ!」
 僕は宙で一生懸命ばたばたもがいた。だけどユタは面白がり、降ろす気は一切無さそうだった。
 かちゃっとドアが開くと、そこからサラが出てこようとする。僕は一瞬目を逸らした。だけどすぐに視線を戻してしまった。僕の目の前にはサラが立っていた。
「ノエル……」
 サラが呟いた。
 ほんの2か月ほど離れていただけなのに、目の前にサラがいるのが信じられない。だけど、栗色の髪の色、じっと僕を見つめる大きな瞳、驚いたように少し開いた口、僕の名前を呼ぶ声、優しい匂い、その全てがサラである事を証明していた。
「サラ、ただい……」
 僕が言おうとした矢先、サラは僕をユタの腕から奪い、ぎゅっと抱き締めた。
「ノエル……お帰りなさい……」
 サラに抱き締められると、サラの温もりと心臓の鼓動が僕に伝わって来る。僕はそれだけで幸せな気持ちでいっぱいになり、ずっとこうしていたいと思った。
「……あの、俺もいるんだけど」
 後ろからユタが、気まずそうに呟いた。
「きゃっ」
 サラはユタの存在に気付き、小さく叫んだ。
「最初からいたのに、『きゃっ』は無いだろ……傷つくなあ……」
 ユタは俯いて大きく溜息した。 
「ごめんなさい……私ったらノエルが目の前にいたものだから驚いて」
「まあ仕方ないさ、今はこんなもんだろ。ノエルに負けないように頑張らないとな」
 ユタは僕を見ながら言った。
「うん、ユタの努力もまだまだってことだね。これから精進しないと!」
「……この野郎、調子に乗りやがって!」
 ユタは僕の頭を小突こうとしたけど、僕はサラの胸にもぐって回避しようとした。
「……卑怯だぞ、こいつ……」
「ユタさん、暴力は止めて下さい!」
 サラは状況がよく飲み込めないまま、ユタを叱咤した。
「違うんだサラ、こいつが悪いんだ……」
 少しいじめすぎてしまったかもしれない。ユタは肩を落とし力なく呟いてた。
 だけどこれくらいだったら許されるだろう、ユタにはこれからチャンスがいくらでもあるんだから。

「帰るの知らなかったから、大した料理用意できないけど……」
 その日の夕飯は、サラとおばさん、それにユタと僕の4人で一緒にした。僕は水しか飲めないけど、4人で囲う夕餉の食卓はなんだか温かくて、一緒にいるだけで幸せだった。
 ユタが話題の中心になって、旅であった出来事などを身振り手振りや多少大袈裟な脚色などを交えながら話している。そしてサラやおばさんは楽しそうにユタの話を聞いた。
 不思議だ。少し前の僕だったら、サラの視線を集めるユタに、きっと嫉妬していただろう。サラにも腹を立てていたかもしれない。だけど、今はそんな気持ちは湧かなかった。楽しそうに話を聞いているサラを見て、嬉しくさえ思う。
「ノエル、なにいい子ぶってるんだよ?」
 ユタが急に僕に話を振ってきて、はっとした。
「こいつ、人形のような可愛い顔して、本当はかなり腹黒い奴なんですよ!」
 ユタはサラとおばさんの方を見ながら言う。
「そんな事無いです。私達の方がユタさんよりずっとノエルとの付き合いは長いけど、ノエルは裏表なんて無いしとても優しい子です。ユタさんがノエルに何かしたせいじゃないですか。ね、ノエル!」
「うんっ!」
 内心舌を出しつつ、僕は屈託の無い笑顔をつくって大きく頷いた。
「おいおい、ちょっと待ってよ!」
 ユタは旅での様々なエピソードを交えながら必死に反論した。
 あまりの必死さに僕はつい笑ってしまう。サラもおばさんも一緒に笑った。もう誰も内容なんて聞いていないのに、ユタだけは顔を真っ赤にしてひたすら反論し続けていたのが、僕達の笑いをさらに誘った。

 その夜、ユタはサラのお父さんが使っていた部屋に泊まる事になった。
「あの……僕、街の宿屋に泊まるんで、ほんと結構ですから……」
 ユタはそう言って何度も辞退したけど、おばさんが泊まる事を強く勧めた。
「今から街に戻るの大変だろ……あんたは大事なお客さんだしゆっくりしていきな。万が一娘に手を出そうとしたら、ただじゃすまないけどね!」
 結局、ユタはおばさんに押し切られてしまった。
「くっ……ここじゃあ興奮して、かえってゆっくりできないぜ……」 
 ユタはぶつぶつ呟きながら部屋に消えた。ユタもいろいろ大変そうだ。

 僕はサラの部屋に入ったけど、どうしていいか分からず部屋の片隅でそわそわさせた。
 旅に出る前は、僕はサラと喧嘩して部屋の片隅で寝ていた。もうサラと仲直りしているけど、僕からサラのベッドの中に入り込むのは何だか気恥ずかしかった。
 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、サラは何事も無かったかのようにベッドの上でパジャマに着替えようとしている。
 僕はとりあえず、しみが気になる振りをして壁の一点をじっと見詰め続けた。
「ねえノエル、何しているの?」
 振り向くと、サラはもうパジャマに着替え終わっていた。
「あ……その、壁のしみが気になって……」
「なにそれ、変なノエル!」
 何がおかしいのか、サラは楽しそうに笑っている。もしかしたら言い訳が少し不自然だっただろうか。
「ノエル、来て。一緒に寝よ?」
 予期しない言葉が急にサラから発せられ、僕はどきっとした。まるで僕の悩みが無意味だったかのような自然さだった。
「えっと……うん……」
 僕は俯き加減にベッドに歩み寄ると、ベッドに飛び乗り、布団の中にいっきにもぐりこんだ。
「何だか、ノエルと一緒に寝るの久しぶりな気がする」
 サラも掛け布団の中にもぐりこみ、僕をぎゅっと抱き締めながら言った。
「うん……そうだね」
 僕は胸をどきどきさせながら、小さく返事した。
「ねえノエル、ノエルの旅の話を聞きたいな」
「えっでも、それはさっきユタが話してたじゃん」
「うん……だけどノエルの口から聞きたい」
 サラがいたずらっぽく笑いながら言った。サラの言葉は嬉しかった。僕もサラとたくさん、たくさん話したかったんだ。

 僕は旅の出来事を、ひとつひとつ身振り手振りをつけながら一生懸命話した。ユタみたいにユーモラスに話題を展開させる事はできないし、さっきユタが話した内容と重複してしまう部分もあった。
 だけどサラは、僕の話しをまるで初めて聞くかのように真剣に聞いてくれた。そしてある話では一緒に悩み、ある話しでは一緒に笑った。それは僕にとって、時が経つのを忘れてしまうほど楽しく、いつのまにか僕の口調にも熱が籠もっていた。
「それでその時…」
 話しをしながら、ふと横を見てみるとサラはいつのまにかすやすやと寝息をかいていた。
 さっきまで身を乗り出して話しをしていたせいか、掛け布団が上半身からはがれている。今はそれ程寒くないけど、明方にかけて冷え込むから、このままだと風邪をひいてしまうかもしれない。
 壁時計を見てみると、すでに夜の1時を過ぎていた。僕はサラを起こさないように慎重に身を起こすと、掛け布団を引張ってサラの上にそっと掛けた。
 僕は寝ているサラの顔をじっと見た。僕の目にサラの寝顔を焼き付けたかった。いや、寝顔だけではない。サラの全てを記憶したかった。何かいい夢でも見ているのだろうか、サラは楽しそうに笑っている。サラは初めて出会った頃からずいぶん成長しているけど、寝顔は全然変わっていない。
 
 サラは僕にとってどういう存在なのだろうか。ふと思った。
 サラは僕にとって気を許せる大切な友達だった。一緒にいるだけで楽しくて、ずっと側にいたいと思う。
だけどそれだけでは無い。
 サラは僕にとってお姉さんだった。僕が辛い時や悲しい時、ずっと側にいて励ましたり勇気付けてくれたりした。だけど妹のような気もする。サラは臆病なくせに無鉄砲だから、よくひやひやさせられた。スミスさんの時だって、僕とおばさんが間に合わなかったらどうなっていた事だろう。
 もしかしたら恋人みたいな部分もあったかもしれない。サラがユタに関心を持つのが嫌で酷く当たってしまったこともあった。それに、サラのちょっとした仕草や笑顔がいつだって僕をどきどきさせた。
 そしてお母さんでもあった。サラは僕をたくさん抱き締めてくれた。サラの胸の中はいつだって温かくて優しい匂いがした。不安な時や寂しい時だって、サラが抱き締めてくれると大丈夫な気がしたんだ。

「……サラ」
 僕はサラの耳元で囁いた。
「んっ……」
 サラはくすぐったそうに少し体を逸らし手で耳を抑える。
 サラの頬を指でゆっくり押してみた。ぷにっとした感触とともに、僕の指は少しサラの頬に沈む。
「……だめ……もうこれ以上無理だよ……」
 サラは寝言を呟く。僕は声を殺して笑った。
 サラが僕にとってどういう存在なのかは結局分からない。だけどいつだって、サラの行動、仕草、表情、声、温もり、心臓の鼓動、その全てが愛おしかった。
 僕は指をゆっくり戻した。そしてそっとベッドを抜ける。壁際に歩きスイッチを押すと、照明は消えて部屋の中は暗くなる。だけど、窓から射す月明かりによってサラが眠るベッドは、うっすらと光って見えた。
 僕は部屋のドアを開けて廊下に出た。
 そして、音が出ないようにゆっくりとドアを閉めた。

22
「ねえ、サラ」
 ノエルの私を呼ぶ声が聞こえる。
 眠っていたのだろうか、気がつくと目の前にノエルの姿があった。ここはどこだろう。明るくて穏やかな場所だけど、周囲を見渡しても、そこには何も無い。ただノエルだけが
私の前に立っている。
「あれ、ノエル、ここはどこ?」
「ここはサラの夢の中だよ。少しだけ、僕がサラの夢の中に入らせてもらってるんだ」
「えっ……ノエルそんな事もできるの?すごい!」
 驚く私を前に、ノエルはただにこにこ笑っている。
「あのねサラ。サラに伝えたいことがあるんだ。ずっと言いたくて、でもなかなか言えなかったこと。今なら言えると思って」
「ノエルったらどうしちゃったの?旅は終わったんだし、いくらでも話す時間はあるのに」
 ノエルからの返事は無かった。さっきと同じく、ただ笑顔だけを返す。
「サラ、僕は人間になりたかったんだ。サラが成長して、どんどん僕から離れていってしまう気がして寂しかったんだ。僕が人間にさえなれれば、サラとずっと一緒にいられると思ったんだ」
 悩みを打ち明けているのに、ノエルの口調はとても穏やかだ。
 私は、ノエルがずっと悩んでいたことを気付いてあげられなかったのが悲しかった。 
「ごめんね、ノエル。ノエルが何を悩んでいるのか、ずっと気付いてあげられなくて」
「ううん、サラは何も悪くないよ」
 ノエルは笑って首を横に振った。
「サラ、僕は真実の実を探すために旅に出たんだ。それは、どんな願いでも叶えてくれるという魔法の実。もちろん信じてはいなかった。だけど信じたい気持ちもあった。それに、これ以上サラと一緒にいると、僕の中の黒い気持ちがサラを傷つけてしまう気がして怖かったんだ。そしてそれは今も変わらない。たとえ今は大丈夫でも、これから先僕は君を傷つけてしまうことがあるかもしれない」
「そんなこと無いよ!ノエルは私を傷つけたりなんてしない!」
 私は大声でノエルの言葉を否定した。だけどノエルは否定も肯定もせず、話しを続けた。
「結局、真実の実は存在しなかった。だけどこの旅で、僕はもっと大切な物に気づく事ができたんだ」
 何だろう、周りは優しい光に包まれているのに、私は不安な気持に駆り立てられた。ノエルがどこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな予感。
「サラ、サラが朝に目が覚めたとき、僕の変わった姿を見て驚くかもしれない。だけど悲しまないでほしいんだ。それは僕が望んだ姿だから。僕はいつだってサラの側にいる。サラが悲しい時、嬉しい時、幸せに包まれる時、どんな時だって僕はサラを見守っている。だからサラには、振り向かないで前に向かって歩いてほしいんだ」
「何言ってるの、ノエル!私達これからもずっと一緒だよね?」
 私はノエルの肩を掴んで叫んでいた。
「サラ、僕分かったんだ。世界に真実は存在しないのかもしれない。だけど、僕のこのサラに対する気持ちは真実だって。僕はサラが幸せそうに笑ってくれると、それだけでとても嬉しい気持ちになれるんだ」
 嫌だ。ノエルと離れたくない。
 私はノエルを引き止めようと必死に言葉を探したけど、ただ頭の中をノエルとの思い出が走馬灯のように駆け巡り、いい言葉は何も浮かんでこなかった。
「あのね、サラ……大好きだよ」
 ノエルはそういうと私に顔を近付け触れると、照れくさそうに笑った。
 それはキスだった。
 だけど、私は最初何が起こったのか分からなかった。
 ノエルの笑顔が、体が、透明な光に溶けて輪郭が薄くなっていく。手を伸ばしても、もう触れる事はできなかった。
「お願いノエル、待って!」
 私は必死に叫んだ。だけどその声も空しくノエルは光の中に溶け、そしていなくなった。

 眩しさで目が覚めた。陽の光が窓から射しこんでいる。
 私ははっとなり、ベッドから上半身を起こすとベッドの横を見た。だけどそこにノエルの姿は無かった。
 パジャマに何滴か水滴のしみが付いている。それで初めて自分が泣いている事に気付いた。あれはただの夢では無い。
「ノエル?ねえ、ノエル、どこ?」
 胸が不安で高鳴る。部屋を見回し、震える声でノエルの名を何回も呼んだけど、どこからも返事は無かった。
 急いでカーディガンを羽織り、ベッドから出ようとした。だけどノエルがどこにいるのか想像つかない。
 気が動転していたため気付くのが遅れたけど、ふとある違和感を覚えた。
 窓の外からは、葉ずれの音がさらさらとさざ波のように寄せては返している。優しいその旋律は、意識しないと気付かないくらい小さいものだけど、間違いなく今まで無かった音だった。
 私は走って玄関に向かい、そして急いでドアを開けた。
 それは目の前にあった。
 普通だとありえないし、たとえ言われたって信じないと思う。だけどそれがノエルである事を、私は見た瞬間理解した。
「ノエル?」
 問いかけたけど、返事は無かった。
 私は定まらない足取りで、躓きそうになりながらそれに向かって歩いた。
 見たことも無いような幹が太く、大きな、大きな樹。
 陽の光に透けて、その樹の葉は美しく輝いている。 
 膝が震え、立っていられなかった。私は樹の幹に向かい、縋るように転んだ。
「ねえ、ノエルなんでしょう?」
 やはり返事は無い。
「ノエル……ノエル……ノエル……ノエル!」
 ぽろぽろと溢れ出す涙を拭わず、私は必死に叫んだ。
 だけどその樹は、私に話しかけてくれることはない。優しくて悲しい旋律を奏でるだけだった。

24
「ねえ、おばあちゃん」
 耳元で下の孫娘が私を呼ぶ。だけどその声は遠くに感じた。
「お姉ちゃん、おばあちゃん寝てるよ!」
「ペペ、あまり大きな声出しちゃだめよ」
 上の孫娘が妹を嗜めているけど、その声も遠くに聞こえる。
「寝かせといてあげましょ。おばあちゃん少し疲れちゃったのね」
「うん!だけどおばあちゃんってほんとこの揺り椅子が好きだよね」
「椅子というよりこの樹が好きみたい。たくさんの思い出が詰まっている樹なんだって」  
 上の孫娘だろうか。ずり落ちていたブランケットを肩の上までかけてくれた。 
「ふふ、おばあちゃんきっと楽しい夢でも見ているのね」
 孫娘達の足音が離れていく。
 意識はあるけど、私は眠っているのだろうか。
「サラ、ねえサラ」
 誰かが私の名前を呼んだ。
 誰だろう。なかなか思い出せないけど、とても、とても懐かしい声。
「サラ起きてよ。もう、お寝坊さんなんだから」
 重い瞼をうっすら開けると、そこにはノエルの顔があった。
「……ノエル……ノエルなの?」
「サラったら、まだ寝ぼけてるの?今日は花を摘みに行く約束してたじゃん」
 ノエルが笑いながら私の手を取った。
「ノエル……ノエル!」
 ずっと、ずっと会いたかった。
「サラったらまた泣いてるの?相変わらず泣き虫なんだから」
 ノエルが呆れた声で呟く。だけど目は優しく笑っていた。
「だって……ずっと会いたかったんだもん……」
「サラ、僕はずっとサラの側にいたんだよ。これからもずっと一緒だからね」
 そう言うとノエルは私に微笑む。

 ノエルの樹はそっと風に靡き、葉が何枚かゆっくり、舞い落ちた。

完 

幸せを願う樹

幸せを願う樹

人形でありながら意思を持つノエルは、その所有者であるルネと平穏な日常を一緒に過ごしていた。しかしルネはやがて病にかかり、ノエルを残して亡くなってしまう。絶望したノエルはこの世界から消えてしまいたいと思ったが、サラという一人の少女と出会い、心を通わせることでノエルにとってのかけがえのない大切な存在へと変わっていく。 子供だったサラはやがて成長し、ユタという少年に対して淡い恋心を抱く。一方、ノエルは人形のため成長することは無かった。ノエルは、サラが自分から離れてしまう気がして不安・孤独を抱く。そして、自分のサラに対する愛情が憎しみに変わりやがてはサラを壊してしまうのではないかと危惧する。サラとの仲が気まずくなる中、ノエルはサラとこれからもずっと一緒にいるために人間になりたいと願う。 そして、ユタとともに自分のルーツおよび、願いがなんでも叶うという「真実の実」を探すための旅を始める。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted