林檎の木
三題話
お題
「守るべきもの」
「林檎」
「家庭の事情」
毎日のように通るこの道。その途中には小さな空き地がある。
以前は家が建っていたけれどそれはもう取り壊されて跡形もない。大きくそびえ立っていた林檎の木も今では切り株となっている。
ふらりと空き地へ踏み込むと、あの時の光景が頭をよぎった。
ざわざわと流れる風。僕は切り株の前にしゃがみ、断面を手のひらでゆっくりと撫でた。
ささくれが刺さって痛みが走る。ずきりと響く鋭い痛みは、ここへ来た時の胸の痛みに似ていた。
◇
僕達はとても仲が良かったように思う。年が四つ離れた弟はその時六歳だった。
両親は共働きで、いつも僕が弟の遊び相手となり面倒を見ていた。
とある土曜日のことだった。朝ごはんを食べ終わるとすぐに外へ飛び出して、眩しいほどの朝日を浴びて二人ではしゃいだ。
その日はかくれんぼをすることにした。
まずは僕が鬼。弟が隠れる番。
スタート地点は家の玄関の前。
鬼はそこで百まで数える。
僕が玄関の方を向いて数え始めると、弟はばたばたと足音を立てながら離れていった。
……きゅーじゅはち、きゅーじゅきゅー、ひゃーく!
振り返って動き出した僕はとりあえず家の庭などの敷地内を調べて、ここにはいないことを確かめてから外に出た。
大抵隠れる場所はいつも同じだ。弟が隠れるであろう少ない選択肢を一つずつ潰してゆく。
そして……
「あーあ、見つかっちゃったー」
「いや、向こうから普通に見えてたから」
弟がよく登って遊ぶ、大きな林檎の木を見上げる。
でもこれは近くに住むのおじいさんのものだから、見つかったら怒られてしまう。
特に、兄である僕が。
でも毎年僕達に林檎をくれるし、普段からとても優しい人なんだ。
「ほら、早く降りてこい。危ないだろ」
「大丈夫だよー。あ、お兄ちゃん見て。花が咲いてるよ」
弟が指差す先に、小さな白い花があった。
「ああ、ホントだな」
こんなことくらいで興奮する弟は、まだまだ子供だなと思う。そういう僕もまだ子供でしかないけれど。
「うわっ」
「あ……」
弟は木の上で両手を離したがためにバランスを崩して、危ないと思った時には弟の体は宙に浮いていた。
すぐに鈍い音が僕の耳に届いて、弟の声は届いてこなかった。
こういうときはまるでスローモーションのように見えると聞いたことがあるけど、そんなことはない。全てが一瞬の出来事で、僕は弟の姿を視線で追うことすら出来なかった。
地面に堕ちた弟は、ようやく事態を把握した僕が駆け寄って声を掛けても、動くことはなかった。
まるで時間が止まってしまったかのようにその場に佇む。
世界は色を失い僕の目の前は真っ暗になってゆく。
その中で、じわじわと溢れ出す赤色だけがやけに鮮やかに見えた。
◇
今でも昨日のことのように思い出される光景。
初めの頃は毎日のように泣いた。みんなから優しい言葉で励まされたけど、これは僕の責任だ。毎日思い出して、毎日後悔の念に駆られた。
どうして助けられなかったのか。
どうしてその瞬間に身体が動かなかったのか。
どうして……弟を守ることができなかったのか。
今ではもう涙も出ない。
十年という月日は、とても長い。
僕は二十歳となり、大人になった。
今日も、林檎の木に触れてから、僕は弟がいる病院へ向かった。
…
あの日から弟は目を覚まさない。
たくさんのチューブで機械に繋がれている弟の身体は、十六歳のものだ。
弟の頭に触れ、頬に触れ、少しつまむ。
柔らかい感触は昔のままだった。
パイプ椅子に腰掛けて、弟の左手を両手で握って、いつものように話し掛ける。
「ほら、お兄ちゃんはここにいるぞ」
林檎の木