放たれる

「あたしね、自由が好きなの」
 私が憧れた彼女には、へんな口癖があった。仄暗い洞窟みたいな私の心のなかに、彼女——和泉の言葉はしみ出た地下水の一雫のように響き渡り、彼女の笑顔は差し込む一条の陽光のように底を照らした。
 卒業式の日。それは、巣立ち行く若者たちが、限りのない真っ白な「自由」と、覚悟と責任という「制約」を手にする日。
 そんな卒業式を明日に控えた放課後の教室は、しんと静まり返っていた。時間と空間をさまよって漂流した教室のなかに、私と和泉だけが取り残されているみたいだった。
「ねえ小夜子、知ってる? 『自由』って、ミズカラニヨルって意味なんだって」
 自らに由る。自分の意思で選び取って、決断をすること。
 視線を落として、なんとはなしに眼鏡を弄んだ。「知っていることを知っていると言えず我慢している」ときに出るという、どうやら私の癖らしいその所作を見て、和泉は相好を崩した。
「なんだあ、やっぱり知ってたんだ。小夜子は物知りだなあ」
 私はあいまいに笑った。自分では笑ったつもりであったが、うまく笑えていただろうか。和泉の目には、口角がちょっと痙攣したくらいにしか見えなかったかもしれない。
 彼女はいつもいつも、私の胸の奥の、とっても柔らかいところをくすぐる。彼女だけだった。こうやって温かく私を包み込んでくれるのは、ほかならぬ和泉だけだった。屈託なく笑う彼女を見ると、私は自分という存在がこの世界に許されているように思えた。
 私は和泉を盗み見た。春の雨に濡れる桜の花びらのように、彼女の唇が夕陽を受けて明媚な光を放っていた。私はその唇を見つめながら、自分の唇に指先で触れた。その骨張った硬い指先とはちがうであろう、彼女の唇の感触を想像して、私の心はぎこちなく揺らめいた。
「……どうして自由が好きなの?」
 私の問いに、和泉は両手を広げて応えた。
「だってそうじゃない? 自分の意思で自分の道を決める、一度しかない自分の人生なんだから。明日は卒業式、私たちがついに自由を手にする日だよ。職業選択の自由、宗教の自由……それから、恋愛の自由!」
 彼女は両手を広げながら、机と机のあいだでくるくる回った。「自由って、素敵なことだよね」
 レンアイ。私は彼女の口から放たれた言葉を舌の上で転がしてみた。私がその言葉を口にしたら、きっとレンコンの亜種のように聞こえるだろう。
 そうだ、明日は卒業式だ。進学の関係で、和泉とは離ればなれになることが決まっている。私は家庭の事情で卒業後すぐに就職することになっているが、和泉は東京にある服飾の専門学校へ行くらしい。
 やっぱり和泉はすごいなあ。彼女はそうやって、自分の意思でやりたいことをやって、言いたいことを言って、行きたいところへ行ってしまう。そこに私は追いつくことができない。あいまいに笑って、黙って眼鏡をいじくることしかできない。自分という檻のなかに閉じ込められたまま。
 いやだな、と私は思った。こんな惨めな自分のまま高校を卒業して、和泉と離ればなれになるのは、いやだった。
 和泉みたいになりたい。
 和泉みたいに自由になりたい。
 レンアイ。何気なく言ったであろう和泉のその言葉は、私の心の奥底にはっきりと深く根を降ろした。その歪んだレンアイは、私の心から養分をどんどん吸い取って、ぶくぶくに肥えてしまうだろう。誰の目にも触れない暗いところで、私の「レンアイの亜種」は、その根を膨らませ、葉を茂らせ、真っ白な花を咲かせる。
「卒業、しちゃうんだね。あたしたち」
「……うん」
「どう、小夜子? 高校生活、楽しかった?」
 なにも知らない彼女は、そのままの笑顔で訊ねてくる。
 きれいな瞳。
 その視線に、息を呑む。
「……うん」
 私は時間をかけてうなずいた。それを見た和泉は、「よしよし」と満足そうに目を細める。
 楽しかったよ、和泉。当たり前でしょ。
 だって、こんなにたくさん、あなたとお話できたんだから。
 和泉と過ごした時間。それらはすべて、私にとってかけがえのないものだ。一緒にカフェに行ってバイト先の先輩のグチを聞いたり、一緒にケーキ食べ放題に行ってお腹こわしかけたり、一緒にカラオケに行ってあなたの歌声を聴いたり。どれもささいなことだったけれど——和泉にとってはささいなことだっただろうけれど、私にとっては大切な思い出。私の人生に彩りを与えてくれた、宝ものの思い出。
 和泉、あなたはどうだった?
 私と一緒にいて、楽しいと思ってくれた?
「小夜子がそう思ってくれてたなら、あたしは満足だ」
 私は自分のつま先を見つめた。和泉はそういう子だ。自分の楽しみは二の次で、他人を喜ばせることばかり考えている。私が楽しければそれでいいんだ。
 ……じゃあ、和泉は楽しくなかったのかな。
 よほど不安そうな顔をしていたんだろう、和泉は私の表情を見ると、私の頬に手を当てて、諭すようにささやいてくれた。
「小夜子が楽しければあたしは楽しいし、小夜子が嬉しいなら、あたしも嬉しいの。小夜子が悲しかったらあたしも悲しいんだから、そんな顔しないでよね」
 ぺちん。頬に当てられた手で、そのままおでこをたたかれた。
「あたしも楽しかったってこと。小夜子ならわかってくれてると思ったのに」
 おどけたように頬を膨らませる。
「……うん」
 私は和泉にたたかれたおでこをさすった。そんな私の仕草を目にして、彼女はいたずらに微笑む。
 甘い痛み。私の心を撫でるようにくすぐる、和泉の言葉と動作、そして表情。
 私はこれで充分だった。卒業式の前日、だれもいないふたりきりの教室で、私と和泉は笑い合っている。私にとってはそれだけでよかった。これもまた、私の人生を彩る思い出のひとつになっていくんだ。
 でも——ひとつだけ願いが叶うなら、この時間が永遠に続けばいい。和泉と過ごすこの時間が、私のすべてになればいい。
 和泉はどうかな。
 私のささやかな願い、受け止めてくれるかな。
「そうだ、小夜子は? 小夜子の好きな言葉はなに?」
「わ、私? 私は……句点、かな」
「クテン?」
 和泉は不思議そうに小首を傾げた。
「『まる』だよ、『まる』」
「『まる』……?」
 彼女はそう言って、右手の人差し指と親指で輪っかをつくり、私の目の前に掲げた。
 きれいな指。
「作文とかで使う、あのちっちゃな丸のこと?」
「そう」
「へえ!」彼女は心底驚いたようだった。「あんな丸のこと、好き嫌いで考えたことなかった」
 ふつうはそうだろうな。やっぱり私はどこか異常なんだと思う。どこか歪んでいて、壊れていて、狂っている。
「なんで? なんで丸が好きなの?」
「それは……」私は逡巡した。「……制約だから、かな」
「セイヤク?」
 彼女は異国の言葉でも聞いたように、私の言葉を繰り返した。
「言葉は句点を超えて存在することはできないの。句点があれば、それは言葉の終わり。そして句点がなければ、物語は語られることができない。物語のなかでぜったいにないといけない言葉なんてないけれど、句点は使うのがルールでしょ。それが言葉の制約であり、限界なの」
「……?」
「わからないよね」
「うん、ごめん、ちょっとわかんなかった」彼女は正直だ。もし私だったら、あいまいに笑うことしかできないだろう。
「でも、小夜子、制約とか限界とか、そういうのが好きってこと?」
「そういうことかな。不安なんだ、『ここまで』って言うのが決められていないと」
 物語の限界、言葉の制約——それはつまり、そこから先は何かを伝える手段がないということ。伝達手段がなければ、自分の感情が漏れ出ることもないし、逆に言えば、誰かの言葉で傷つけられることもない。
 いわば檻のようなもの。自分の感情と、外の世界との、はっきりとした境界線。
 十数年間、私はそうやって生きてきた。
「やっぱり小夜子はすごいね。あたしの知らない本、たくさん読んでるもんね」
「べつにすごくなんか」
「大学行かないなんて、ほんとにもったいない。小夜子頭いいんだから、ぜったいにすごいひとになるのに」
「……」
 和泉に悟られないように、スカートに隠れた膝頭の青あざをさすった。でも、和泉はやっぱり勘が鋭い。わずかに揺れ動いた私の心の機微を、感じ取ってしまう。
「あ、ごめん……ちょっと無神経だったかな。事情はよく知らないけれど……小夜子、ほんとうは進学したいのに、就職するんだよね」
 和泉は申し訳なさそうに目を伏せる。ううん、と私はかぶりを振った。そんなこと、和泉が謝ることではない。私の事情なんて、あなたは知らなくていい。だから、和泉、そんな顔はやめて。私なんかのために哀しまないで。太陽みたいに明るいあなたの笑顔を、私はずっと見ていたいの。
「でも、自由もいいかもしれない。自分で選び取って、自分で決めて生きていく。そこにあらかじめ決められた限界なんてないし、制約なんてない」
 私はじっと和泉を見据えた。彼女はまだちんぷんかんぷんという様子で、呆けた表情で私を見つめている。桃色をした薄い唇のあいだから、並びのよい白い歯が垣間見える。
 きれいな口。
 私はその隙間に吸い込まれていきそうな、甘い眩暈を覚えた。自分の脈動が早くなるのを感じた。声が震え出す。
「ねえ和泉」
「ん?」
 彼女は私を見つめながら、小首を傾げた。
「どうしたの、小夜子?」
 私の唇はからからに乾いていた。酸みたいな味のするぬるい生唾を飲み込んだ。
 制約から解き放たれる。そこにあるのは自由。
 ——自由って、素敵なことだよね。
 それは和泉が教えてくれた。
「私ね、和泉のことが好きだよ」
 私の震えた声が教室に響き渡った。彼女の表情が一瞬で冷えて固まったように見えた。しかしすぐに温度を取り戻し、いつもの笑顔に戻った。
「なによ急に……。私も小夜子のこと好きだよ。これからも仲良くしようね」
「ちがう」
 私は和泉を見つめた。
「ちがう、そうじゃないの」
「……なにがちがうの?」
「付き合って欲しいの」
 今度はほんとうに、彼女の表情から温度がなくなった。私という存在をこの世界に許してくれるもの、この世界につなぎ止めてくれるものは、その瞬間に目の前から姿を消した。
「……あたしたち、女の子同士だよ。どういうこと?」
 突き放すような声色。異質なものを見るような視線。
「そのまんまの意味だよ」それでも私は平然として言葉を放った。「和泉と付き合いたいの、手を繋いで街を歩いて、一緒にミスドのドーナツ食べて、ショッピングしてかわいい洋服とか買って、それで」私は言葉を止めることができなかった。句点はどこだ。「お互いの部屋に行って、キスとかして、おっぱい触ってあそこ触って、それで、繋がりたいの」
「……」
「繋がりたいの」
 私は繰り返し言った。このまま卒業したくないという思いが、私にここまでさせたのかもしれない。後悔はなかった。私は自由になりたかったんだ。和泉みたいに、自分の言いたいことを言って、やりたいことをやって、伝えたい思いを伝えて——後悔はなかったはずなのに、私の感情に急に句点が穿たれたみたいに、それ以上言葉を発することができなくなっていた。
 和泉は一歩後ろに退いた。そして、「ごめん」という一言。
 私は視線を落として眼鏡を弄んだ。そのとき、私の心と和泉のいる世界とのあいだに、はっきりと境界線が描かれているのが見えた。
「あたし、付き合ってるひとがいるの」
「……そうだよね」
「すごい優しくて、いいひとで、頼りがいがあって、それで……男の子、で」
 彼女は力なげにうつむいた。長い髪がはらはらと垂れ下がった。
 きれいな髪。
 艶やかな輝きを放つキャラメルブラウンの髪から、私は目が離せなくなった。いますぐ彼女のもとへ駆け寄って、きれいな髪の上から、優しく頭をかき抱いてあげたい——そして、いますぐぎざぎざに切り刻んで、和泉の泣く顔も見てみたい。どんな顔で泣くんだろう。きっと、泣き顔もきれいだろうなあ。
 私の心の中のどこか深いところで、ぴちゃん、と雫がこぼれ落ちた音が聞こえた。
「あと、あたし、そういうの無理だから」
 そう吐き捨てるように言うと、和泉は小走りに教室を去っていった。
 私はその後ろ姿を、いつまでもいつまでも見つめていた。


 その日の夜、私は自分の部屋の椅子に座りながら、スマートフォンを手に取っていた。部屋の電気も点けずに、画面の明かりだけが闇に浮かび上がる。仄暗い水の底に沈んだような私の心を照らしてくれるのは、スマートフォンの着信履歴に並んでいる、ひとつの名前。
 いままでたくさんお話したなあ。楽しいことはとびきり楽しそうに、哀しいことはほんとうに哀しそうに、彼女は私に語りかけてくれた。私はほとんど相槌ばかりだったけれど、彼女と話しているとほんとうに嬉しかった。大切なこともくだらないことも、彼女はたくさん私に話してくれた。
「和泉」
 なんとはなしに彼女の名前を呼んでみた。その呼び声はしかし、水底に沈む部屋の闇に溶け出して、誰に届くこともない。
 私の心に根差した、真っ白な一輪の花。
 枯らしてはだめ、と思った。この花を枯らしてはだめ。私の心に芽吹いた花を、大切な和泉との繋がりを司る花を、ぜったいに枯らしてはいけない。
 でも、和泉はそれを拒絶した。私と一緒にこの花を育んでいくことを、彼女ははっきりと拒絶したのだ。もうこの花に水をあげられない。和泉の寵愛という水を失った花は、静かに私の心からなけなしの養分を搾り取って、叶わなかった私の愛の色に染まる。
 この世界は檻のなか。生きると言うことは、その檻のなかに在るということ。すべては句点の向こう。自分の感情は閉じ込めて、自分の都合は押し込んで、ただ他人の言うことに従って生きていく。私は十数年間、そうやって生きてきたんだ。そうすれば先生は褒めてくれるし、両親も少しだけ安心してくれる。それ以外にない。私が生きる理由は、それ以外にないんだ。
 ——小夜子。
 和泉が私を呼ぶ声が聞こえた。鈴の音が鳴るような、胸の奥に響き渡る声。私と言う存在をこの世界に知らしめる、福音のような声。
 私は気づいた。和泉に拒まれた世界なんて、なんの意味もないじゃないか。和泉なしで生きていくことなんて、なんの理由もないじゃないか。
 ——小夜子。
 生きていれば制約ばかりだ。大人はみんな自分勝手で、子どもの私に自分の都合ばかり押し付ける。もううんざりだ。私は和泉とともに在りたい。こんな檻のなかではない、もっと自由な世界。
「小夜子!」
 階下から男の怒鳴り声がした。いまさっき聞いた私を呼ぶ声は、和泉のものではなかったんだ。私の父親だという男が、また泥酔してわめいているんだろう。母親だという女が、まるで発狂しているようなやかましさで男を罵倒している。母親の悲鳴が聞こえた。何かが倒れ込むような、大きな物音がした。そのあと、少し階下が静かになった。母親の罵倒する声は聞こえなくなった。父が怒りにまかせて床を踏みしめる足音だけが、私のいる部屋にまで壁を伝って響いてくる。
「お父さん、お母さん。明日、高校の卒業式なんだ。私、卒業するんだよ。ここまで育ててくれて、ほんとうにありがとう」
 今日までなんども練習を重ねてきた言葉を、きっと受け取られることのないその言葉を、暗い部屋のなかで反芻してみる。私のか細い声は部屋の闇のなかに溶け出していき、空虚な余韻だけが残された。
「喜んでくれるかな。『卒業おめでとう』って、言ってくれるかな」
 一瞬だけ、両親の喜ぶ顔が浮かんだ。しかしそれもすぐに消えてしまう。きっとひとはそれを、「幻想」と呼ぶ。
「小夜子!」
 また男の怒号が聞こえた。その声と足音で、父親が階段を昇って来ようとしているのがわかった。私はベッドに飛び込んだ。記憶がよみがえる。わけのわからないことを怒鳴りながら暴れ回る男。まるで言葉の通じない怪物。その光景を思い返すたび、身体じゅうの痣や傷が悲鳴をあげるように痛んだ。
「——ッ!」
 ふとんを頭からかぶり、声にならない声をあげた。
 もううんざりだった。
 ここではない。ここではないんだ、私と和泉が在るべき世界は。
 こんな鉄の檻に囲まれた場所ではない。和泉の髪の色みたいに煌めいて、和泉の奏でる声のように優しくて、和泉自身のように自由な世界。
 和泉みたいになりたい。
 和泉みたいに自由になりたい。
 ねえ和泉、どうすれば自由になれるの?
 檻に囲まれた制約ばかりの人生のなかで、あなたのように自由になるにはどうすればいいの?
 あなたと繋がれば、私は自由になれると思っていた。でもあなたはそれを拒んだ。檻のなかの惨めな私と、檻の外の自由な和泉。私にはもうどうすることもできないの?
 ……そうだ。わかったよ、和泉。
 私があなたのように自由になるためには、この檻を壊せばいい。この世界に巡らされた制約ばかりの檻、それを壊してしまえばいい。ただそれだけでよかったんだね。そうすれば、私と和泉を隔てる鉄の檻はなくなる。私は私の望む世界へ、和泉の望む私に、自由になれる。
 そうだよね、和泉?
「……」
 和泉からの返事はない。でもいいんだ、じきに私も和泉のいる世界に行ける。だから待っててね。私はもうすぐ自由になるの。そんな私を——和泉、ずっと見ていてね。
 私は祈るようにその言葉を繰り返す。私の心に根差した花は、真っ赤な愛の色に染まっていく。
 足音が部屋の前で止まったのがわかった。悲鳴のような歪んだ音をたてながらドアノブが傾いた。
「和泉、私ね——」

   ○

「——ここにいるよ」
 学校の屋上。
 ここから見る街の眺めは、なんだか知らないべつの場所のように思えた。
 遠く西の空はまるでカルシウムの炎色反応みたいに、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。三月の肌寒い風が髪をなでる。知らない街の知らない地平線が、はっきりと私と世界とを分かつ。
 今日は卒業式の日。高校生活最後の日。
 巣立ち行く若者たちが、限りのない真っ白な「自由」と、覚悟と責任という「制約」を手にした日。
 遠い惑星に迷い込んだみたいに静かだった。卒業式も終わり、お互いの門出を祝い合う生徒たちの騒ぎ声が、惑星の大気のいちばん外側をなでるように響く。ぜんぶ他人事だ。私にとってはぜんぶ無関係だ。あるいはその逆か。この惑星にひとりぼっちでいる私のことなんか、世界にとっては関係のない他人事なんだ。
 そう、世界は私とは無関係。私が胸のなかにどんな想いを秘めていようと、一分一秒違わず、世界は回り続けている。
 その正しく公平な世界のなかで、卒業式は粛々と執り行われた。和泉はたくさんの友人たちと言葉を掛け合い、卒業を祝い合っていた。私はその輪のなかに入らなかった。たびたび和泉がこちらを気にするそぶりを見せたが、私は応えないようにした。私の望むのは一時(いっとき)の慰め合いではない。和泉と一緒に永遠の自由を手に入れることなんだ。和泉、あなたならわかってくれるよね。これはあなたのためなんだよ。
 そして、やはり両親は式に来なかった。それももうどうでもよかった。私という物語のなかで、句点の場所はもう決まっている。あとはそのときを待つだけだ。
 式が終わったあとに向かった屋上で、私はオレンジ色に煌めく夕陽を見た。
 鞄からスマートフォンを取り出し、画面に映った時刻を確認した。
「そろそろかな」
 電話アプリを呼び出して、着信履歴にたくさん表示されている、ひとつの名前に触れる。しばらくのコール音のあとに、『もしもし』と電話口から声が聞こえた。
『小夜子? どうしたの?』
 電話の向こうからでも、和泉は私の心臓に触れる声でささやいてくれる。
「……ううん、なんでもない。ちょっと声が聞きたくなっただけ。和泉、いまどこにいるの」
『そう? 小夜子から電話なんて珍しいね。部活の最後の集まりが終わっていま帰るとこ。このあと……待ち合わせがあるから』
「……うん」
 私は視線を落とし、眼鏡を弄んだ。
 何も知らなければよかった、と思った。知らない街の知らない空。すべてが他人事でできている世界。
「卒業おめでとう」
『うん、小夜子も卒業、おめでとう……小夜子、昨日はごめんね』
「どうして謝るの」
『突然だったからつい……あたし、そういうの、まだわからなくて』
 まだ、と言ったのは、きっと彼女の優しさだ。「あたしにはわからない」ではなく「あたしには『まだ』わからない」。異質なものに対しての、否定ではなく単なる無理解。でもその「まだ」が永久に訪れないことは私にもわかっていた。本質的には同じ拒絶だ。
「いいよ。私もごめんね」
 長い沈黙があった。
『……小夜子はどこにいるの』
「自由が見える場所だよ」
『……え?』
「自由が見える場所だよ。和泉も来る?」
 ふたたび沈黙があった。
『どういうこと? 自由が見える場所って?』
「和泉」
『なんかへんだよ、小夜子。そうだ、このあと時間ある? ちょっと会おうよ」
「だめだよ。和泉には、行くべきところがあるでしょ。逢うべきひとがいるでしょ」
『でも——』
「私にも行くべきところがあるの」
 私の行くべきところ。それは和泉が教えてくれた。
「和泉、私ね……自由になるの」
 何度目かの沈黙。電話口からは、私が屋上でいま聞いているのと同じ、卒業生たちのたてる雑音がかすかに漏れ聞こえてくる。
『……自由? 自由って、どういうこと? 小夜子が昨日言ってた、丸だとか、制約とか限界とかの話?」
「そう。そうでもあるし、自由は和泉が好きなものだよね」
『そうだけど……』
「和泉が好きなもの、私も好きになりたいの」
 屋上に吹く風は、次第に冷たくなってきた。三階建ての校舎の屋上からは、生徒の姿は小豆くらいにしか見えない。
「和泉が好きなものに、私はなりたい」
『ちょっと待って、小夜子。その話はもうやめよう? いまどこにいるのか教えて』
「生きてると制約ばっかりだよね。ああしなさいとか、こうしなさいとか、あれはだめとか、それはだめとか。決められたルールに従って、敷かれたレールに沿って、ただただ手と足を動かしていればいいの。私はその方が楽だった。なんにも逆らわず、すべては無関係な他人事だと思って、感情は檻に閉じ込めておけばよかった。そうすれば先生は褒めてくれるし、親は束の間は安心してくれる。私はそれでよかった」
 すべては句点の向こう。どんなに声高に自分の感情を叫んでも、句点の向こうの外の世界には届かない。
『小夜子』
「でも、ほんとうはちがったんだね。ほんとうに私が声を聞いて欲しかったのは、先生でも両親でもなかった——和泉、あなただったの。昨日あなたに告白して、よかったと思ってる」
『ねえ、小夜子』
「和泉、見てて。私はいまから自由になるの。何事にも縛られない自由な世界へ羽ばたくの。和泉言ってたよね、職業選択の自由、宗教の自由……それから、レンアイの自由! 自由って素敵ね、どんな苦しみからも悩みからも解き放たれて、私は和泉の好きな私になるの」
 和泉、私を見てて。
 そしてあなたも、私の好きを受け止めて。
 だって、私はこんなにもあなたのことが愛おしいのだから。
 ねえ和泉、「自由」の意味って知ってる? おおむかしでは「わがまま放題」の意味だったんだって。自由が好きな和泉なら、私の最後のわがまま、聞いてくれるかな。
 私は立ち上がった。屋上の縁から覗き込むと、ちょうど真下に彼女の姿が見えた。
『小夜子! いまどこにいるの? お願い、答えて!』
 電話の向こうで和泉が叫んだ。
 きれいな声。
 瞳、指、口、髪、声——彼女のすべてが愛おしい。そう自覚したときから、私の物語から句点という制約はなくなっていた。世界は無関係ではなくなっていた。檻の鉄棒はへし折られ、私の感情は外の世界に放たれていった。
 和泉、愛してる。
 愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる
「愛してるよ、和泉」
 でも物語はいつか終わりが来なければならない。制約に縛られないあなたの自由な物語にも、私が句点を打ってあげる。私があなたを閉じ込めてあげる。やっぱり自由は怖いの。私と一緒に、二人だけの檻のなかに入りましょう? 私は和泉の好きなものになるんだから、和泉も私の好きなもの、受け止めてくれるよね。
 もう「制約」じゃない……これは私と和泉の、二人のあいだの「誓約」だよ。
 スマートフォンを足下に置いた。電話の向こうでは、まだ和泉の声が私の名前を叫んでいた。
「すぐにそこに行くよ、和泉。だから、私を見ててね」
 下のほうで誰かがなにかを叫んだのが聞こえた。でももうそれも、またすぐに他人事になる。私は和泉の物語に句点を穿ち、彼女を閉じ込め、私たちだけの檻のなかで永遠に暮らすのだ。
 和泉が見上げたのが見えた。
 私の視線と彼女のそれが重なった。
 私の両脚は屋上を離れた。その瞬間に、私は自分だけの檻から放たれる。

放たれる

放たれる

和泉、私は自由になるの。自由って素敵——それは和泉が教えてくれた。 「小説家になろう」にも掲載中。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-03

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著作権法内での利用のみを許可します。

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