悪の基準
読破時間の目安:5分
あらすじ:
悪の基準が極端に下がった、平和な世界で子どもたちはどうグレるのか
読破時間の目安:5分。 あらすじ: 悪の基準が極端に下がった、平和な世界の平和な一幕
僕は、生まれついての悪だった。
その事に初めて気づいたのは僕自身ではなく、周りの人間だった。
或いは、物心ついた頃からずっと僕は恐怖の対象で、それに僕自身が気づいていなかったに過ぎないのかもしれない。
ある日、僕の一挙手一投足に周りが震え、怯え、視線を伏せていることに気づいた。
僕がその場に入るだけで空気が弛緩し、凍てつくのを感じた。
初めの頃は、自分を避けるように、見てはいけないもののように扱われることに不快感を覚えたりもした。しかし、それ故に苛立ち、自分を拒む溝が深まるのを数度繰り返すうち、
諦めに近い形で、それを受け入れることにした。
受け入れてしまった後は楽だった。
僕はありとあらん限りの暴虐を働いた。
たかだか中学生の僕を、親も、教師も、誰も止めることは出来なかった。
この世界は自分のためにある。
気づけば周囲の怯えた眼差しに、苛立ちではなく快感を覚えるようになっていた。
「せんせー」
僕は昼過ぎの教室、最後尾の机から、チョークを黒板に削りつけていた教師に声を投げた。教師の肩がぴくりと強ばり、予想通りの反応が僕を喜ばせた。
「どうした、阿久根」
努めて声色を低く抑えようとした反動で上擦った声で鳴きながら、教師が振り向いた。他の生徒達が互いに、掠れるようなか細い声で話し始めた。「おい、やばいって」「あいつ、今度は何をするつもりなんだ」「おれ、クラス変えたい…」
僕はゆっくりと起立し、不適な笑みを浮かべながら言った。
「今のところ、理解できなかったんでもう一度読んでもらっていいですか」
クラスのざわめきが更に大きくなった。「あいつ、復唱を要求したぞ」「なんてやつだ」「怖ぇ…マジ怖ぇ…」
教師は苦々しい表情で「いいだろう」と答えた。
「あと」
僕が付け加えると、クラスが静まり返った。僕が次に、どのような要求を浴びせるのか、恐れ半分、期待半分で待ち構えているようだ。
「あまりよく聞き取れなかったので、ゆっくり話してもらえないでしょうか?」
手に持ったチョークを強く握りしめた拳をわなわなとさせながら、教師は小さな声で「分かった、ゆっくり話そう」と返し、教科書を数ページ戻しながら黒板に向かった。
僕は満足げに着席し、板書された内容を一字一句逃さぬよう写し始めた。
我ながら、よくやるものだ。授業中に勝手に起立する生徒などこのクラスには僕しか居ないし、ましてや復唱を要求するなど開校以来、前代未聞の事態だろう。
加えて復唱の仕方にまで注文をつけたと両親が聞けば、卒倒するか、その場に崩れ込んでむせび泣き始めるのではないか。
親を泣かせるくらい、僕は何とも思わない。そんな事は過去に何度もあったのだから。
あれは10歳の夏休み、近所の公園で壁にゴムボールを投げているのを見つかった時だったか。
「公園の壁になんて事をするの、ひどいじゃない!」と怒られ、確か
「壁なんてデカい顔して突っ立ってるだけじゃねぇか。むしろ、あいつはボールを投げつけられる事を喜んでるんだよ。それに、壁が痛もうがゴムボールがすり減ろうが、俺には関係ないね」と返したのだった。
母は「なんて子なの」と嘆いた。
しかしその頃には既に、僕は自分の世界を完成させていた。
親の理解も干渉も必要ない、僕は僕の好きなようにやる、と決めていた。
それから僕の生活は荒れた。燃えるゴミ箱にお菓子の袋を捨てたり、隣の生徒が落とした消しゴムを拾わなかったり、朝の挨拶を一言で済ませたり。そういえば、ヘルメットもせずに自転車に乗った事もあったっけ。アレは傑作だった。
やがてそんな姿を見ていた後輩から「あなたに付いていきたい」と話しかけられる事が増えた。彼らも自分なりに家庭内で悩みを抱えて苦悶していた。
僕の鮮烈な生き様は彼らの心を打った。氷雪混じりの暴風が吹き荒れる中、僕の居る場所は彼らにとって、唯一心休まる場所だったのだろう。
仲間を得た僕の悪行は次第に苛烈さを増した。
クラスメイトから借りたお金を3日も返さず、無免許でレンタル自転車に乗り、チリンチリンを激しく鳴らしながら町中を法定速度内で疾走した。
気づけば後輩から「やっぱ阿久根さんのチリンチリンは、他の奴らとは違いますよ。なんていうか、俺らは無敵だって思えるんです」と言われるようになった。
僕はコンビニで買ったオリジナル・コーラを浴びるように飲みながら「ふん、他の奴らのチリンチリンがなってねぇだけさ」と吐き捨てた。
「おい阿久根さん、コーラ何杯目だ?」「中学生でコーラを、しかもトクホじゃなくてオリジナル・コーラ飲んでる人なんて、阿久根さんしかいねぇよ」「やっぱ阿久根さんはカッコいいな」最近チームに入った新入りが呟き、羨望の眼差しを僕に向けていた。
「さとし!」
僕は声の方を振り向いた。
日のあたる穏やかな公園のベンチに20人ほどたむろっていた僕らに向かって、冴えない中年男性が歩いてきた。父だった。
「さとし、頼む。こんな事は止めてくれ」
僕はちっと舌打ちすると、ベンチから腰を上げた。
「おい、おっさん。阿久根さんを下の名前で呼ぶとは良い度胸だ」
「LINE交換した後、既読スルーしてやろうか?」
「それとも、酷い言葉を浴びせてやろうか?」
嘲笑まじりにメンバーの何人かが立ち上がり、僕と父の間に入った。僕は彼らの肩に手を置き、無言で制した。
「すげぇ、肩に触れたぞ」「阿久根さん、やっぱすげぇな」陰で何人かが囁き合った。
「なんの用だ、親父」
「こんな日当りの良い公園で、何をやっているんだ」ベンチに近づいた父は異臭に気づいて立ち止まり、苦虫を噛んだような表情で鼻を手のひらで覆った。
「この匂い…お前、まさかコーラをやってるのか」
「放っておけよ、僕の勝手だろう…」
「ふざけるな!こんなところを見て、母さんがどれだけ悲しむと思っているんだ」
「うるせぇ!」
メンバーが心配そうに阿久根を見上げる。なかでも最も僕に心酔し、ナンバー2を自称していた男が「阿久根さん、こいつ、締めましょうか?」と言いながら立ち上がった。
僕はその提案には気を向けず、父の目を真っすぐ見た。
それは、見覚えのある目だった。
それは、まだ首も座らず、か弱く泣く事しか出来ない赤ん坊の自分を抱きかかえ、暖かく包むような優しい目だった。
それは、小学校の校門で記念撮影をした直後、僕に向けた誇らしげな目だった。
その目には今、涙が浮かんでいた。
大の男が目に涙を浮かべ、大勢の不良の輪に飛び込み、我が息子を正そうとしている。
その目には恐怖、使命、悲壮、諦め、愛があった。
その中には、今の自分では到底理解できない感情もあるのかもしれない。子を想う親の気持ちとは、何なのだろう。
僕にはその答えが分からず、故に、父の目を見据える事が出来なかった。
僕が視線を外したのと同時に、父がもう一歩踏み込んだ。
メンバーが一斉に僕に視線を向ける。そして、誰かが呟いた。
「阿久根さん、どうしたんですか?」
それを皮切りに、雪崩のように無数の声が挙がり始めた。
「え、まさか、阿久根さん辞めちゃうの?」
「マジかよ」
「おいおい、親父に説得されて戻っちゃうの?」
「うわ、なんか思ってたのと違うなあ…」
これまで築き上げて来た土台が、彼らの声と共に崩れ去っていくのを感じた。
僕は悪行で基礎を固め、その上に悪行の城を築いた。
悪行を辞める事は呼吸を辞めることに等しく、僕の胸は見えない手に握りしめられるように苦しかった。
そして、誰かが言った。
「阿久根さんって、そんな悪じゃないんじゃね?」
ぶちり、と何かが切れた。
それは僕の脳が左右に裂かれた音だったかもしれないし、或いは脳と感情、思考と直情だったかもしれない。
気づけば僕は絶叫しながら、父を突き飛ばしていた。
父は30センチほど吹っ飛び、公園の柔らかい芝生のうえに尻餅をついた。
その場にいた誰もが言葉を失って息をのんだ。そして、メンバーから雄叫びが上がった。
「うおお、阿久根さんがついにやったぞ!」
「突人罪は未成年でも懲役5年だったよな?」
「阿久根さんは俺たちとは違う、ルールなんかじゃ止められねぇんだ!」
「さすが阿久根さんだ!」
「やっぱ、俺たちが思ってた阿久根さんだ!」
僕は父に背を向けた。狂乱状態で総立ちになっていたメンバーを見回し、宣言した。
「野郎ども!走るぞ」
僕らは自転車に股がり、チリンチリンの爆音を轟かせながら、静かに公園を去った。
小鳥の美しいさえずりが響くのどかな公園には、ゴミ一つ残っていなかった。
悪の基準
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読んでもらえてうれしいです、ありがとうございます!
よければ他にも短編を書いているので、読んでみてください!
下記のブログにもまとめていたりするので、遊びにきてくださいね〜
http://mypage.ameba.jp/