銀の橋
かつては「黒人」と呼ばれていた
今はそのルーツをアフリカに持つアメリカ人の事を
African American
と呼ぶ
「華僑」にはこれだけの英語訳がある
Chinese abroad
Chinese residents
ethnic Chinese
hua ch'iao〈中国語〉
local Chinese
overseas Chinese
people of Chinese heritage
resident Chinese
(出典:アルク)
だからこう呼ぼうと思う
Korean Japanese
海峡
1925年
The rolling twenties
ローリング トゥエンティ
「疾走する1920年代」とアメリカが時代を名付けた頃
アジアは混沌としていた。
石炭が急に需要を得て世界各地で盛んに生産、つまりは掘り起こされ、安い人材が危険な現場に駆り出された。
体の小さな子供は狭い穴に入りやすいからと炭坑に送り込まれ、安い労働力は国内の貧困層のみならず植民地にも求められていく。
日露戦争に幸か不幸か勝ってしまった日本は勢いを増し、九州の炭鉱には周辺国からも労働者が集まりつつあった。
大陸のはずれの半島から眺めると広い大洋の手前、すぐ近場に位置する九州の炭鉱は手頃な出稼ぎ先に見えた。地元でトラブって半島を弾き出された男にはちょうど良い避難先に思えた。
斡旋者は幾らでもいた。彼等が提示した条件ほど実際には実入りのいい仕事ではないことに気づいた頃には、監視の目が厳しく簡単には戻れなくなっている。
佐賀県武雄市、1972年に閉山するまでここには西杵炭鉱があり人も金も集まる。
言葉の違いも生活習慣もそれなりに慣れ、ここでの暮らしが日常になった頃、母国から妻子を呼び寄せた。
親子共にここで暮らして3年目の初夏、赤ん坊が生まれると支給される一時金を手に、祖父は夜逃げを決意する。
大した額ではないが汽車賃にはなる。親子5人で夜行に乗れば朝には本州の大阪近くに着けるはずだ。飯場の仕事を休んでお産をしたばかりの女房には僅かな荷物だけを纏めさせた。前の晩まで三交代の仕事に就き、何食わぬ顔で宿舎に帰った男は夜半、誰にも告げず、家族別々に炭鉱の町を出たのだった。
ここへ来るときはよく揺れる小ぶりな船で国を出て海を渡った。今度は汽車の旅だが関門海峡はやはり船で渡る。関門橋が出来たのは炭鉱が閉じたのと同時期の1973年。まだ橋はない。
再び暗い海峡を超える…居場所を失って海を渡るのは2度目だ。今度こそ、生き延びていかねばならない。
銀の橋