帰ってきたきりもり

帰ってきたきりもり

第一章 九月 きりえ 地殻変動

 ごくかすかに爽やかな匂いを感じた。きりえがうしろを振り向くのと、「きりえさん」とやさしげな声が響くのとが同時だった。
 楽屋に招かれたもりのが、笑顔で立っていた。
 どこのスタイル抜群のモデルか女優かと、美人に見慣れているはずの出演者たちが、もりのに見惚れている。久しぶりに会うきりえも見惚れた。
 もりのは肩まで伸びたストレートの黒髪をちょっと上の方でまとめ、上質な白シャツに黒のパンツというシンプルな格好をしていた。パリコレモデル並みのスタイルはタカライシ歌劇団を退団してからも維持している。柑橘の香水を控えめにつけていた。
「大阪までわざわざありがとう」
「評判を聞くと、いてもたってもいられなくて来ちゃいました」もりのは微笑み、「それに明日はみちよさんのお披露目公演を観に行くのでちょうどいいです」
「みちよ、サファイヤ組のトップになれたんやなぁ。よかったなぁ。よろしく言っといてな」
 もりのはうなずいた。
「このあと予定ある?」きりえは遠慮がちにたずねた。
「いや、とくには」
「食事でもどう? ホテルで」
 もりのは少し考えてから、「いいですよ」
 二人が別れてから、もりのは二人きりで食事することを避けていた。きりえは言いにくそうに、「ファンに誤解されへんよう、ルームサービスでもいい?」
「誤解って」もりのは苦笑する。「もう誰も私たちが付き合ってるなんて思ってる人いないですよ。実際、付き合ってないんだし」
「でも、念のため」
「わかりました。食べたらすぐに失礼しますね」もりのはあきらめたように笑った。
「ありがと」
「こちらこそ」
 きりえはもりのを伴い、滞在先のホテルに帰ってきた。別れて一年になる。こうして一緒に帰ってくるのが自然なことのように思えるが、自分だけの錯覚だと心のなかで自嘲した。

 別れを切り出したのはきりえだった。夫婦をテーマにした芝居に出演していたときのことだ。長年連れ添う夫婦の悲喜こもごもを描いた作品で、男女の違いというものを意識させられた。
 男女の結婚生活は、性からくる決定的な違いを持ち寄り、折り合い成長していく、修行のように感じられた。一方もりのだからなのか、同性だからなのか、もりのはパートナーとしてあまりに理想的だった。やさしく、賢く、頼りになり、大人で、いつも自分を大切にしてくれた。セックスの相性も抜群で、飽きることがない。すべてがあまりにできすぎのように感じられた。
 たとえば、結婚生活を送る友人たちは、夫の愚痴をこぼしあい、女同士で共闘意識のような、絆を深めていた。もりのの話となると、のろけ話にしかならなかった。うらやましいとため息をつかれるだけで、話がはずまない。
 時には盛り上がることもあったが、きりえともりの、あるいはどちらかにある種の性的な興味をもっている人が相手だった。
 女優として生きる上で、何かが欠落してしまう不安を感じた。俳優とのラブシーンに抵抗を感じることも、不安要素だった。
「このままじゃあかんと思う。女として、女優として、引き出しを増やしたい」
 休演日に、自宅で愛犬のハルオキとともに寛いでいたときのことだ。きりえは意を決して切り出した。
 もりのは驚いた顔をしたあと、落ち着いたまなざしできりえを見た。
「きりえさんがそう思うならいいですよ」もりのはさらっと言った。
 退団後は、「きりえちゃん」と呼び、敬語もとれていたもりのだったが、後輩の感覚にあっという間に戻ったかのようだった。
「ええの?」きりえは驚いてたずねた。
「ええ」もりのはあっさり別れに応じた。
「もりのちゃんにとって、私ってそんなもんやったん?」きりえはショックを態度に出した。
「自分から言っておいて、ショック受けないでくださいよ」もりのは苦笑した。「そりゃ別れたくないですよ。あなたを愛してるから。でも、新たにチャレンジしたがってるきりえさんを止めるのは、地殻変動を抑えこむようなものですから。つまり、不可能なんです」
「地殻変動……そうかもしれへん」きりえはたとえ話に感心した。
「きりえさんも女優ですね。仕方ないですね」もりのは寂しそうに微笑んだ。
「もりのちゃん」きりえも心から寂しくなる。
「でも、私には持論があるんです。何か大切なものを失ったら、それ以上の素晴らしい何かに出会うっていう」もりのは明るい顔をする。「きりえさん以上の素晴らしい何かに出会えるなんて、想像がつかないけど、楽しみにしたいと思います」
 もりのは深呼吸をひとつすると、立ち上がった。
「じゃ、私はもうここを出ますね」
 きりえはうろたえる。
「もりのちゃん、何もそんな急に」
「もう一緒にいる理由がないから」もりのは静かに言った。簡単に荷物をまとめると、「きりえさんのいないときに荷物を取りにきます。鍵はポストに返しておきますね。これからはただの退団同期としてよろしくお願いします」
 もりのは足早に歩く。心配そうに二人を見ているハルオキの背中を、目線を合わせてやさしく撫でた。
「ハルオキともお別れだね。でも、ハルオキとは変わらず家族だから」
 立ち上がり、きりえを振り向く。
「ハルオキのことで何か役に立てそうなことがあれば、いつでも言ってください」
 そう言い残すと、さっさと姿を消した。
 きりえは自分で言い出しておきながら、ハルオキに抱きついて泣いた。もりのはあまりにも潔く、あまりにもあっけない終わりだった。

 別れたあと、何人かの共演者のアプローチを受けた。
 きりえはモテた。美貌と、ほどよく鍛えた女らしいスタイル、退団して元に戻った豊満な胸、ストイックな舞台人としての姿勢、さりげない知性、気さくでキュートでチャーミングな性格が、共演者を次々と魅了していった。
 その中に、きりえが一目を置く新進気鋭のダンサーがいた。
 共演したのは一年前だ。彼の才能を見抜いたきりえが、コンサートのカンパニーとして招いた。彼はそれをきっかけに躍進した。
 彼のアプローチは積極的だった。彼はきりえを慕い、尊敬していた。才能あるダンサーに好意をもたれるのはまんざらでもなかった。これもタイミングだと、誘いを受けることにした。
 食事は楽しかった。肉体づくりを意識するあまり食材にうるさいのは気になったが、ダンスや筋トレの話は興味深く、身体を気遣い自炊している点は、自分とよく似ていると思った。
 ストイックに高みを目指すプロフェッショナルな姿勢に共感していたきりえは、セックスの相性もほんのり期待していた。しかし、ホテルでキスを交わしたときに漠然といやな予感がした。
 キスは息苦しくなるほど荒々しかった。唇はうすく柔らかさに欠け、太い舌はきりえの小さな口の中で力強く動いた。きりえの口は彼の唾液に濡れた。
 彼は自分で服を脱ぐと、きりえの服を脱がした。鍛え抜かれた筋肉は見る分には素晴らしかった。ちょっと触れると筋肉がありえないほど硬くて素敵だった。しかし、身体を合わせると、気持ちよく感じられなかった。男にしてはきれいな肌をしていたが、四年半も身体を重ねてきたもりのの肌とは比べようもなかった。
 真っ白なもりのの肌はシルクのようになめらかでやわらかかった。筋肉は適度で肌当たりがやさしかった。もりのは産毛だったが、彼の体毛は硬かった。
 愛撫も違った。比べたくはないが、どうしても比べてしまう。彼の唇と舌と指がすることは、きりえの身体には刺激が強かった。大きな胸に抱かれるのは素敵なことだと思うけれど、量感に圧倒された。身長はもりのよりいくらか高いだけなのに、大きな筋肉もあいまって圧迫感があった。いろんなことに戸惑い、気が散っていると、なかなか濡れなかった。
 彼は指でそれを知ると、きりえの膝を立てて脚を開かせ、濡れにくいところを舐めた。上目遣いできりえの顔を見ていた。顔の小さなもりのと比べて、彼の顔はすぐ近くに迫り、生々しく感じられた。
 太く厚い舌をいろんな風に使って舐めまわしたあと、一点に強い刺激を加え続けた。いくらされてもよくならない。そこちゃうねん。そんな風じゃないねん……。心のなかでそうつぶやいた。うら悲しくなる。
 自分の唾液をきりえの潤いと判断した彼は、指を入れてきた。大柄なわりに手はほっそりと小さかったが、関節がごつごつしていた。皮膚も爪も厚かった。きりえは男とのセックスを徐々に思い出す。男に指でされるのは好きじゃなかったのだと。
「指は好きじゃないのかな」自信に満ちた若きダンサーがつぶやく。
 きりえは遠慮がちにうなずいた。
 彼はコンドームを手際よくつけると、きりえの中に入ってきた。身体の準備が整っていなかったので、受け入れるのに抵抗を感じた。
 彼は身体能力を発揮したいのか、アクロバティックな変わった体位を求めた。肉体の可能性を追及したいという感じだった。情緒のないスポーツだった。スポーツのようなセックスを好んだ時代もあったような気がするが、それは今の彼と同じ二十代の頃の話だ。
 彼は激しいダンスのトレーニングをしているかのように、大量の汗をかいた。稽古場や舞台上では気にならなかったが、男らしい汗の匂いが鼻をついた。彼は正常位に戻ると、激しく腰を動かして奥までついてきた。きりえの身体は高まらなかったが、彼がひたむきに奉仕してくれていることに感謝し、感じている演技をした。
 しかし、あるとき急に集中力が途切れたのか、きりえの中で彼はしぼんだ。
 彼は身体を離すと、「ごめん」と詫びた。「萎えちゃった」
「ごめん」きりえも詫びた。
「演技下手」彼はきりえをちらっと見て苦笑し、「誰かと比較しながらセックスするのはよくないよ」
 繊細な感性を本来持つ彼は、きりえの心の動きを見抜いたようだった。
「そうやね」きりえは申し訳なさそうに言った。
「全然感じてなかったよね。俺の身体を見るだけで興奮する女の人も男の人もいるのに」
「そやろな」きりえはうなずいた。
「舞台の相性とセックスは違うもんだね」
「そやな」きりえはため息をついた。
「さてと」彼はさっと起き上がると、「シャワー浴びてきます」
 鍛え抜かれた身体をさらしながら、バスルームに消えた。
 きりえはホテルの無機質な天井を見上げた。何も考えたくなかった。
 ベッドの中で動けないでいるきりえをよそに、彼はさっさと身支度を整えた。
「お先です」彼はきりえを振り返り、「きりえさんのことを舞台人として、人として尊敬する気持ちは変わりません。これからもよろしくお願いします」と礼儀正しく言った。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いします」きりえも礼儀正しく応えた。
 彼がいなくなると、ゴミ箱の中をチェックした。くしゃくしゃのコンドームと、それが入っていた袋がそのまま入っていた。つまみあげると、ティッシュペーパーにくるんで、トイレのサニタリーバッグに捨てた。
 シャワーを浴びた。身体のすみずみを熱い湯で洗い流した。早く家に帰ってハルオキに会いたいと思った。

 次にアプローチを受けたのは、若手舞台俳優だった。長身のなかなかハンサムな青年だった。紳士的な雰囲気もあったので食事した。二人で食事するのは初めてだった。複数の人と話すときは気にならなかったが、話の内容に退屈した。自分は縁に恵まれていて、そのおかげで今の自分の活躍があるというものだったが、多くの有名人と出会ってきたことへの自慢の気持ちにあふれていた。心惹かれる話題はなかった。彼との時間が苦痛だった。彼はホテルに誘ったが、やんわり断った。
 一事が万事、こんな具合だった。きりえはもりのと別れてから、誰とも付き合えていなかった。何が女の引き出しを増やすのだと自分を笑った。

 別れてからも、もりのはきりえの舞台を観に来た。楽屋をたずねるもりのは、華やかな芸能人の中にいても、抜群のスタイルが目を引いた。いつも爽やかで穏やかでやさしげな空気をまとっていた。きりえは未練を感じた。
 しかし、もりのは楽屋をたずねたあとは早々と姿を消した。ゆっくり話す時間もなかった。もりのはきっと誰かと付き合い、充実した時間を過ごしているのだと感じ、きりえの胸は痛んだ。
 そんなとき、きりえを最大の不幸が襲った。
 愛犬のハルオキが末期がんに侵されたのだ。そのことをもりのに伝えると、献身的にハルオキの闘病に付き添った。きりえは秋から年末にかけて、舞台出演が目白押しだったのだ。
 ハルオキのそばにはいつももりのがいた。もりのの存在が心強かった。
 年が明け、ハルオキが安らかに旅立ったときも、もりのがそばにいた。その夜、もりのは別れてから初めて、きりえの家で夜を明かした。
 十四歳のハルオキは、きりえの人生の相棒だった。悲しんでばかりではハルオキも浮かばれないと、茫然自失になりそうになる自分に厳しくふるまい、仕事に打ち込んだ。
 しばらくして、ハルオキのお墓参りにもりのを誘った。もりのは愛車のSUVにきりえを乗せた。二人はハルオキの思い出話に花を咲かせた。
 お墓参りのあと、お礼をしたいと食事に誘った。もりのは少しためらってから、「彼女がいるから、食事はできません」と断った。
 きりえの心臓はギュッとしめつけられた。
「あ、そうなんや」きりえはやっとのことで言った。「今日はありがと」
 茫然としたまま自宅へ帰ってきた。部屋に入ると、自分を抱きしめた。激しい嫉妬の感情につかまった。あほやな、ときりえは低い声でつぶやいた。最愛の相棒をうしなって間もないのに、色恋の生々しい感情があることに驚いた。

 もりのは舞台の感想を、繊細な感性と的確な表現力で伝えた。久しぶりに接するもりのの洞察と知性に感心した。
 年を重ねるごとに美しさに磨きのかかるもりのを盗み見た。フォークとナイフをあやつる指先は美しく、右手の薬指には見たことのないホワイトゴールドのユニセックスデザインの指輪をはめていた。食べ物を丁寧に咀嚼する口元や喉の動きは官能的だった。自分よりも親密な距離でもりのを見つめる誰かの存在を思うと、胸が痛んだ。
「とってもおいしかったです。ごちそうさまでした」もりのは笑顔で言った。
 食器を片付けると、「じゃ、帰りますね」もりのは上質な黒のかばんを手に取った。
「もう行くん?」きりえはあわてて立ち上がった。
「ええ」もりのは申し訳なさそうな顔をした。付き合う相手に誠実なもりのらしい態度だった。
「彼女は幸せものやな」きりえは努めて微笑もうとした。
「そう思ってくれてるといいんですが」もりのは彼女を思い出したような、やさしい笑顔を浮かべた。
 きりえはドアまでもりのを送った。もりのは斜めうしろを振り返り、爽やかなまぶしい笑顔を浮かべた。
「きりえさん、公演がんばってくださいね」
 ドアを開けようとする腕をきりえは反射的につかんだ。そのままもりのの背中を抱きしめた。
 もりのは身体をこわばらせ、戸惑ったような声を出す。
「きりえさん……困ります」
「ごめん」
 きりえは言葉とはうらはらに、身体を離さなかった。懐かしい背中の感触と、柑橘のまじった甘くやさしい匂いに、胸がしめつけられる。ああ、この人が好きだと思う。
「もう行かなきゃ」もりのはかすれた声で言った。
「もりのちゃんやないとあかんねん」きりえはしがみついた。
「きりえさん……」
 もりのの肩が温かいもので濡れた。驚いてきりえを見ると、声を殺して泣いていた。もりのはとっさにきりえを抱きしめた。
 きりえは胸の中で静かに泣いた。もりのはきりえの長い髪をやさしく撫でた。大きくて温かなやわらかい手だった。このままとけあいたい。そう願うとまた泣けてきた。長いまつげを濡らしながら静かに泣いた。
 もりのは髪を撫でながら、涙を拭うように口づけをした。ふっくらとやわらかなもりのの唇の感触だった。きりえは自分の鼓動が高まるのを、もりのの鼓動も同じくらい早く打つのを感じる。
 もりのを抱きしめたままその背中をドアに押し付けた。覚悟が決まっていた。なんと思われようと、この人を手に入れたいと思った。
 唇にキスしようとすると、もりのは首をのけぞらしてかわした。
「私には恋人がいるんです」もりのは切なそうに言った。
「わかってる」きりえはやわらかな首筋にキスをした。「もりのちゃんにとって私がどんな存在でもいい。もりのちゃんやないとあかんねん」
 もりのは目をちょっと伏せて、静かに言った。
「私を美化してますよ。私に何を求めてるのかわかりませんが、あなたと付き合ってた頃の私じゃないんです。今もあなたのファンだけど、もう愛してません。あなたが名残惜しく感じてる私は、あなたを愛してた頃の私なんですよ」
 きりえは愛していないとはっきり告げられて傷ついたが、「愛がなくてもいい。もりのやったら」と言い、ドアに押し付けた。
 もりのはしばらく驚いた顔をしていた。
「セックスしたいんですか?」
 きりえは目を伏せてうなずいた。
「愛がなくてもいいの?」
 きりえは寂しく感じたが、もりのを見てうなずいた。
「そこまで言うなら喜んで抱きますよ」もりのは淫らな目つきをする。「あなたの身体は好きだから。その素敵なワンピースがよく似合ってて、したいなって思ってたから」
 きりえは赤くなった。
「虚しくなっても知らないから」
「うん」きりえはもりのの言葉に痛みを感じながらも、身体がうずいた。
「電話しなきゃ」
 もりのはため息をついて身体を離すと、鞄の中からシルバーのスマートフォンを取り出した。
 いつの間にスマホに切り替えたんだろうと、きりえはぼんやり見ていた。物持ちのいいもりのは長年ガラケーを愛用していたのだ。
 もりのは予約していたホテルを丁重にキャンセルした。
「もう一件」もりのは窓辺に向かって歩きながら電話をかけた。元気? よかった。すっごくかわいい。たまんないな。早く会いたいな。留守番ありがとう。抑えた声だったが、愛情があふれていた。
 きりえはいたたまれなくなってバスルームに入り、顔を洗って心を落ち着けた。楽屋でシャワーを浴びていたので、そのままガーゼ素材のパジャマに着替えた。
 きりえは窓辺のソファでワインを飲みながら、もりのがシャワーから出るのを待った。シャワーから出たもりのは、タオルをターバンのように髪に巻いていた。エキゾチックな顔立ちとあいまって異国の王子のように見えた。肩にかかるくらいの長さの黒髪を乾かすと、色気の漂う美女になった。
 王子にも美女にも見えるもりのは、うす灯りのもと黙って立っていた。きりえの方へ静かに近寄り、手を取ってベッドサイドに行くと、肩を抱き寄せた。唇にかるくキスをすると、足元にひざまずいた。
 パジャマの上着をそっとめくりあげると、胸のふくらみから引き締まった腹筋にかけてふっくらとした唇でやさしくキスしながら、パジャマのパンツをおろす。肌の感触を楽しむように、温かくやわらかな手でおしりと太ももを撫でまわした。
 きりえをベッドサイドに座らせると、長い腕を伸ばしてふわふわの枕をとり、きりえがリラックスできる背もたれになるように重ね置いた。太ももをそっと押し開き、内ももにやさしく唇をあてた。
「きりえさんのここが好き……」とつぶやき、脚のつけねにかけてふっくらとした唇となめらかな舌と指で時間をかけて愛撫した。
 下着に唇をあてるとたっぷりと濡れていて、シーツを湿らせていた。もりのは下着の上から唇でやさしく愛撫した。唇が押し付けられる感触と熱い吐息にきりえは陶然とする。
 きりえはもりのが愛しくてたまらなかった。豊かな髪をくしゃくしゃにしながら、奥行のある形のいい頭を撫でた。
 もりのは下着をとると、両脚をやさしく撫でながら脚のつけねを唇でくすぐり、「きりえさんのここも好き……」かすれた声でささやき、たっぷり濡れたところにキスをした。
 両脚を自分の肩に乗せ、すみずみまでやさしく舐めたり吸ったり、繊細な刺激を加えたりを繰り返した。きりえは両脚でもりのの頭を挟みこみ、腰をふるわせてイッた。
 もりのは裸になると、きりえのパジャマの上着をとり、ベッドに押し倒した。背中の産毛にそってやさしく舐めた。わき腹にキスしながら、長くやわらかな指先で乳房を愛撫した。わき腹から肩、乳房に唇をはわすと、「きりえさんのここも大好き」とささやき、まわりから乳首をやさしく舐めた。乳首を口の中に大事そうに含むと、吐息をもらしながらやさしく舐めたり吸ったりした。
 微笑みもやさしい語らいも、見つめ合うこともなく行為に没頭した。もりのは愛のないセックスだというが、きりえは肌をあわせて確信した。もりのは私を愛してると。愛情がしみわたり、幸福感でいっぱいになった。
 もりのはきりえの乳房を唇で愛撫しながら、長くやわらかな指を濡れたところに入れた。手のすべてで愛おしんだ。
 もりのの背中にしがみつくと、役作りのために少し伸ばしていた爪が背中に食い込んだ。肌がかわいそうだと一瞬思ったが、あとが残るようにさらに爪を立てた。きりえがイクと、もりのは眉根を寄せて全身を震わせ、呼吸を一瞬とめてから、大きく息をついた。二人は全身にうっすら汗をかいた。
 きりえはもりのが愛しくて、もりのを抱きたかった。しかし、もりのは拒んだ。ルールのようだった。きりえを切なそうに見つめたあと、仰向けになり、ひとりで始めた。布団の上からそれが感じられた。
 好きな人の高まる様子を目にし、感じるのはたまらなかった。きりえは拒まれるのを覚悟で、もりのを抱きしめた。抵抗はなかった。高まるにつれて息遣いが荒くなり、顔と身体を押し付けてくる。きりえは髪にキスをし、背中をやさしく撫でまわした。身体をふるわせてイッたとき、もりのの唇から自分の名前がもれた気がした。きりえの腰はもったりと重く、鼓動は早く打っていた。
 もりのは呼吸が落ち着くと、そっと身体を離した。「ありがとう」はにかんだようにちょっと笑った。
 二人はそのまま眠った。きりえはすぐに眠れなかった。眠るもりのを見つめた。何度も肌を重ねたいと思った。身体だけの関係を望んでいるわけではないが、もりのを再び手に入れるための手段を選ぶつもりもなかった。

 きりえは髪を繰り返し撫でるやわらかなぬくもりを感じて、目を覚ました。もりのが撫でるのをやめないように、寝たふりをした。髪に触れるぬくもりがなくなったかと思うと、唇にやわらかな感触がした。指は唇をやさしく物欲しそうにさまよった。
 きりえの鼓動は高鳴った。もりのはどんな顔をしているのだろう。目を潤ませ、唇を半開きにしているのだろうか。確かめたいが、目を開けることはできない。恋人同士に戻ったかのようなやさしい時間を終わらせたくなかった。
 そのとき、小さな電子音が響いた。もりのは触るのをやめ、ベッドから外に出て電話に出た。
 きりえが目を開けると、遮光のドレープカーテンを少しだけ開けておいた窓から、朝のやさしい光が差し込んでいた。もりのは背を向けて電話をしていた。真っ白な裸の背中には自分が残した赤いあとがあった。もりのの肌は繊細で、あとが残りやすかった。
 やさしい小さな声で話していた。ありがとう。すっごくかわいい。たまらない。何か困ったことはない? ありがとう。早く会いたいな。
 電話を切ると、ベッドに戻ってきて、下着とパジャマをつけた。きりえと目が合うと、「ごめん、起こしちゃった?」
「何時?」
「六時半です」
「ちょうどええわ」きりえは微笑んだ。
「コーヒー飲む? インスタントだけど」
「ありがと」
 もりのはポットの水が温まるのを待つ間に、顔を洗って歯を磨いた。
 きりえも下着とパジャマをつけ、バスルームが空くと顔を洗って歯を磨いた。
 部屋に戻ると、もりのはソファに座って大きな窓から見える景色を楽しんでいた。きりえの気配を感じると、爽やかな笑顔を浮かべた。「大阪城がこんなに近くに見えて、縁起がいいね」
「そやろ」きりえも明るい笑顔を浮かべた。ソファの反対側に座り、テーブルの上のコーヒーをひと口飲んだ。「おなか空いたから、ルームサービスとるね」
「ありがとう」
 きりえはコンチネンタルブレックファストを頼んだ。
「今日の入りは何時?」
「十時かな」
「九時半までいていい?」もりのは遠慮がちにたずねた。
「いいに決まってるやん」
「よかった」
 きりえは爽やかでやさしげなもりのを見つめた。恋人に戻ったかのように感じて切なかった。
 もりのはコーヒーを飲み終わると、きりえのコーヒーカップと一緒に片付けようとした。きりえはその手にそっと触れた。
「あれ、まだ飲んでた?」
「触れたかっただけ」
 もりのはきりえを見つめ、コーヒーカップをテーブルに置いてソファに座った。
「私じゃないとあかんって、今でも思ってる?」もりのはかすれた声でたずねた。
「昨日よりもっと思ってる」
「ほんとに身体だけの関係でいいの?」
 きりえは長いまつげに覆われたまぶたを伏せてうなずいた。
「こっちにきて」もりのは熱っぽいまなざしできりえを見つめた。
 きりえはドキドキしながらもりのに近寄る。長い脚をぽんぽん叩き、「こっちを向いて座って」とささやいた。
 きりえが脚にまたがるようにして座ると、もりのはきりえを見上げてその頬をそっと撫でた。それから大きな手を後頭部にあてて引き寄せ、深くキスをした。きりえはふっくらとやわらかな唇となめらかな舌、つるつるの小さな粒ぞろいの歯の感触を味わった。いくらでも唇をあわせ、舌を絡めていられそうだった。
 もりのは唇を離すと、「どうして私じゃないとあかんって気づいたの」とささやいた。
 きりえは紅潮した頬をさらに赤くした。
「誰と比べたの」もりのは細いあごから首筋にかけてキスしながらささやいた。
「そんなんええやん」きりえは髪を撫でながらささやいた。
 もりのは背中を撫でながら、豊かな形のいい胸のふくらみを唇で愛撫した。パジャマのボタンを外すと、「誰がむしゃぶりついたんだろう」とささやき、乳首をそっと口の中に含んで吸い、なめらかな舌で愛撫した。
 きりえはもりのの色っぽい伏し目を見つめ、形のいい頭を撫でながら静かにあえぐ。
「なんとなくわかるけど」もりのは淫らな顔で見上げた。「当てようか」
「そんなんどうでもええやん」きりえはもりのの首筋を撫でながらささやいた。
「ダンサーの壱岐くん」もりのは当てた。
 きりえは驚いてもりのを見た。
「当たっちゃった」もりのはため息をつくと、きりえの乳房にすべすべの頬を寄せ、やさしくキスをした。「なんとなくそうなんじゃないかなって思ってた。共演したとき、彼はあなたにベタ惚れだったし、あなたもまんざらでもない風だったから」
 もりのはきりえをベッドに横たえた。
「こんな風に朝の光のなかで、じっくり舐めまわされたのかな」もりのはひとりごとのようにつぶやいた。
「明るいとこでせえへんわ」
「壱岐くん、見事な筋肉ですもんね。誰だって一度はしてみたいって思うでしょ」
「もりのちゃんも?」
「私はそうでもないな。やわらかな肌の方が好きだから。彼の肉体は鑑賞するくらいでいい」
「私もそうやってん」きりえはささやいた。
「他にもいっぱいしたの?」もりのは耳にやさしくキスしながらささやいた。
「彼と一回だけ」きりえは正直に応えた。
「ほんとに?」もりのは驚いた目できりえを見た。「こんな色っぽい身体なのに。持て余さなかった?」
「別に持て余さへんわ。性欲強くないもん。もりのと違っていい人に出会えへんかったし」きりえはぷいっとそっぽをむいた。
「こっち向いて。私も同じだから」もりのはやさしい笑顔を浮かべ、ギュッと抱きしめた。
「うそや」
「彼女がいるなんてうそ」もりのは微笑む。「愛してるのは、きりえちゃんだけ」
「愛してないってはっきり言ったくせに」きりえは甘くにらむ。
 もりのはきりえを愛しそうに見つめ、唇にキスをした。
「愛してなかったらこんなことできないよ」
「慰めはええよ」きりえは真剣な目でもりのを見た。「もりのちゃんには彼女がいるし、私とは身体だけの関係やん」
「そこまで言うなら、背中に爪あとつけないでよ」もりのは甘く笑った。
「ほんまごめん!」きりえは顔を真っ赤にして謝った。
「嬉しかった……」
「ほんまに?」
 もりのはうなずくと、パジャマの上着を脱いでベッドに横たわった。細く長い指を真っ白な胸のふくらみにあてた。「ここにあとをつけて」
「もりのちゃん……」
 きりえは吸い寄せられるように、もりののやわらかな肌に唇をあてた。キメの細かななめらかな肌は、甘い匂いがした。長い首筋から肩、鎖骨、そのあいだのうすいほくろに触れるか触れないかのキスを吐息とともにし、乳房に唇をはわせた。もりのは感じたときの声を出す。きりえがなめらかな舌でうす桃色の乳首を転がすように舐めたとき、ドアのチャイムが鳴った。
 もんもんとしながら急いでパジャマを着た。ルームサービスの朝食がセッティングされる。客室係の女性がいなくなると、微笑みを交わした。
 再び裸になると、ベッドの上で抱き合ってキスをした。
「トースト風味」もりのは笑った。
「紅茶の味もする」きりえも笑った。
 きりえはもりのをやさしく愛撫した。もりのが飢えているのがわかった。自分を心の底から求めていた。乳房やわき腹や内ももといった白い肌のデリケートな部分を強く吸い、あとを残していった。長い脚を開いて、たっぷりと濡れたところを手で触れると、とろとろに熱くなっていた。きりえは唇と舌でやさしく愛撫しながら、もりのの感じている顔をそっと見つめた。愛しい思いがあふれた。指のはらと舌とで長い時間をかけてやさしく愛撫しつづけた。もりのは首をのけぞらせ、シーツをつかんで昇りつめた。
 もりのは呼吸が整うと、きりえに微笑んだ。
「はぁ、気持ちよかった」
「私も」
「ひとりでするのと全然違う」もりのはつぶらな瞳をうっとりさせた。
 きりえはもりののわき腹をつねった。
「なんでつねるの」もりのは痛そうな顔をした。
「うそつき。相手いたくせに」
「だから、ほんとにうそなの」もりのは笑った。
「なんでそんなうそつくん」きりえはもりのを疑わしそうに見た。
「やってみたいと思ったなら、本気でやり切ってほしかったから」もりのはやさしく見つめた。「つらかったけど、本気で別れたし、彼女がいるってうそもついた」
「こうなるって思ってた?」きりえは唇にキスをした。
「何も考えてなかった」もりのは苦笑する。「出たとこ勝負ですよね」
「ほんまに私に好きな人ができてたかもしれへんよ」きりえはもりのの手に自分の手を重ねる。
「そのときは、私にも好きな人が現れるから大丈夫。あなた以上の人が」もりのは明るい顔をした。
「ずいぶん前向きやな」きりえは感心した。
「そうでも思わないと、やってらんないでしょ」もりのは髪をかきあげた。「それで女優としての引き出しはできたの?」
「しょうもないこと言ったわ」きりえは苦笑した。「経験のためにお芝居があるんやなくて、経験をお芝居に生かすのが役者やのに」
「うん、私もそう思う」もりのはさらりと言う。「役を生きる上で大切なのは想像力ですよね。自分で経験できたらもちろんいいけど、限界がある。いろんな追体験のやり方もあるし。だいたい、サイコパスを演じるのにサイコパスである必要がないように、既婚者の役や娼婦の役をやるのに、そうである必要はないもの」
「ごもっともです」きりえは素直にうなずくと、急に悔しくなり、わき腹をこづく。「最初からわかってたみたいやな」
「わかってたよ。でも、地殻変動中のきりえちゃんを止めるなんて無駄だから、自分でわかってもらうしかないかなって」
「省エネの意地悪」きりえは笑い、そっともりのを見つめた。「また一緒になってくれる?」
「どうしようかなぁ」もりのは腕を組んだ。「きりえちゃん、インタビューでこんなこと言ってたし。女の引き出しが少なく、経験してないことだらけ。結婚もしてみたいって」
「えらい要約やな」きりえは苦笑した。「あれは誘導された面もあるんやで」
「ふうん」
「それに、もりのちゃんやったら結婚してみたいんやから」
「嬉しいな」もりのは心から嬉しそうな顔をした。
「だから、一緒になろ」
「う~ん、どうしよう。女優さんだからなぁ」もりのは長い指で自分のあごをつまむ。「役者さんは多情多感だし、経験にどん欲だし、また引き出しがどうのこうのと言い出すかもしれないし……」
「もりのちゃん!」きりえはもりのの小さな顔を両手で挟んでにらんだ。
「そんなきれいな目でにらまないでよ」もりのは赤くなった。「ドキドキするんだから」
 きりえは目を伏せてキスをした。
「わかりました」もりのは微笑んだ。「一緒になりましょう」
「もう簡単に手放さんといてよ」きりえはもりのの手を握る。
「いえ、手放しますよ。かわいい子には旅をさせないと。興味をもったなら、とことんやってきなさいって。というわけで、手放すので勝手にやってくださいね」
「意地悪」きりえはむくれた。
「冒険したくなったきりえちゃんを引き止めるのは至難の技で、エネルギーと時間の無駄なんです」
「省エネ」
 もりのは困ったような顔をする。「う~ん、そうだなぁ。私にいたらないところがあって他の女性に興味をもったのなら、がんばって引き止めるよ。でも、男性に興味を持ったらどうしようもない。私は男性にはなれないから。きりえちゃんはノンケの女優さんだからなぁ。誘惑がいっぱい」
「もりのちゃんやないとあかんって思い知ったんやから」きりえは首筋の匂いをかぎ、やわらかな肌に口づけする。「こんな両性的なわけわからん人おらんもん。他の男も女も代わりにならないって致命的やわ」
「それって凄くないですか」もりのは喜んだ。
 きりえはやわらかな肌に何度もキスをした。
「そんなことされたら、またしたくなっちゃう」もりのはうっとりした。
「もう時間ないから我慢して」きりえはささやき、耳たぶを甘噛みした。
「感じちゃうからやめてよ」もりのは羽ぶとんにもぐりこんだ。すぐにひょこっと顔を出すと、とろけそうな顔をした。「あんなきりえちゃん初めて。もりのじゃないとあかんねん……だって」
「思い出さんといてよ」きりえは真っ赤になる。
「独占欲も意外にあるんだね。あんなに爪をたてて……色っぽすぎる」
「人をいじめて楽しんでたやろ。ひどいわ、人を追い込んで」
「いじめるつもりはなかったけど、楽しかったです」
「もりのめ!」きりえは頭をかるく叩こうとした。
 もりのはその手をさっとつかむと、甘いまなざしで見つめた。
「きりえちゃん、この一年でさらに色っぽくなったね」
「そう?」きりえは照れ笑いを浮かべた。
「どうしようもないくらい色っぽいな。キュートでチャーミングなんだけどふとしたときに哀愁があり、しっとりとした色香が漂ってる」
「やった」きりえは素直に喜ぶ。
「ますます夢中になりそう」もりのはため息まじりにつぶやいた。
「もりのちゃんもきれいで色っぽいやん。モテるやろ」
「ええ、まあ」
「ほんまに彼女いないん?」
「お芝居うますぎだったみたい」もりのは苦笑した。
「右手の薬指に指輪つけてたし。左利きのもりのちゃんにとって、右手の薬指ってそういうことやん?」
「サイズ的に中指に入らなかっただけ」もりのは笑う。
「昨日も今朝も甘い電話してたやん」
「ああ、あれ」もりのは笑った。「たしかに、かけがえのないものを見つけてた」
 きりえは目を見開く。
「かけがえのないって……彼女よりすごいやん」
 もりのは長い腕を伸ばしてスマホを手に取った。待ち受け画面を見せた。二匹の若猫がじゃれあう写真だった。クリーミーな色合いの茶白とキジ白で、口元にこげ茶色のほくろ模様があった。
「めっちゃかわいいやん! 兄弟なん?」
「でしょ、オスとメスの兄妹だよ」
「名前は?」
「大きい方がかずまで、小さい方がふさえ」もりのはニヤニヤ笑った。
「うわ、あの一馬と房絵かいな!」きりえは爆笑した。
 もりのは笑ってうなずいた。幕末の商人の町・大坂を舞台にした作品の登場人物だった。堂島の伝説の米相場師の弥太郎をきりえが演じた。弥太郎の妹が房絵で、もりのはその許婚で名門商家三男の“あほぼん”の一馬を演じた。房絵とともにトレードマークの大きなほくろをつけ、愛嬌満点のバカップルぶりを炸裂させたのだ。
「猫ちゃん、顔は愛らしいけど、ほくろ模様が愛嬌あるなぁ」きりえは喜んだ。
「ちなみに、かずまとふさえはひらがなだから」
「かずまとふさえと一緒に暮らしてるん?」
 もりのはうなずいた。
「ハルオキと会えなくなるのが寂しくて、きりえちゃんと別れてすぐに。職場の同僚が猫を保護して譲渡するボランティア活動をしてて、譲渡会に何気なく行って出会ったの。一目惚れですよ」
「そうやったんや」きりえは愛しくて目を細める。もりのと猫の写真を交互に見た。
「昨日と今朝の電話はその同僚からです。私が留守の間お世話してくれて、写真も送ってくれて」
「ええ同僚やな」
「ほんとに」
「かずまとふさえに早く会いたいわ」
「仔猫の頃から散歩したり、ドライブしたりで、アウトドアキャットになったよ。ハルオキとしたみたいにあちこち旅行できるよ」
「ええね、ドライブしよ」きりえは嬉しそうな顔をした。
 もりのはとびきりの笑顔を浮かべた。

第二章 三月 ちぎり もふもふ

 ちぎりは感慨深い面持ちで、ソファに座っていた。もりのの家に自分がいることが不思議だった。
 マンションは二十三区内にあった。ドアを開けると、ミルクがかった色合いのキジ白と茶白の仔猫が迎えてくれた。愛らしい顔立ちだが、口元に香ばしい色合いのほくろ模様があり、微笑みを誘う。キジ白の小さい方がふさえで、茶白の大きい方がかずまだと紹介された。
「うわぁ、かわいい! いつから飼ってるんですか?」ちぎりは顔を輝かせた。
「半年前かな」もりのは少し寂しそうに微笑んだ。
 ちぎりはもりのの寂しそうな表情が気になりながらも、「家に帰ったらこんなにかわいい生き物がいるなんて最高ですね」
「うん、たいてい一目散に帰ってきちゃうよ」もりのは足元にまとわりつく仔猫をやさしく撫でた。白い手は指が長く大きかった。美しくやさしい動きにちぎりは見惚れた。
 ちぎりが部屋に入ると、仔猫がちぎりの足にすり寄ってきた。
「かずまとふさえと遊んでいいですか?」ちぎりは仔猫と遊びたくてうずうずした。
「遊んでくれるの? ありがとう」もりのはカシャカシャ音のするトンボが糸の先についたおもちゃを渡した。ちぎりは臨場感ある動きを仔猫にしてみせ、夢中にさせた。
「お~じゃらすのうまいね。猫飼ったことあるの?」もりのは感心した。
「犬だけですけど、昔からいろんな動物と遊ぶの得意でした。どんな動きをすれば楽しいか、なんとなくわかるんです」
「きっとやさしいんだね」もりのは目を細めた。
「いやいや、私がきっと動物的なんですよ」ちぎりは端正な美しい顔にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「たしかに」もりのは笑うと、「ワインを飲もうと思うんだけど、ちぎりちゃんはどうする? 温かい飲み物もいろいろあるし、遠慮なく言ってね」
「じゃあ、温かい飲み物をお願いします」
「ハーブティーでいい?」
「いいですね」ちぎりは明るい笑顔を浮かべた。
 ちぎりが仔猫と遊んでいる間に、もりのはカモミールティーを用意した。
 もりのはちぎりに部屋着を手渡し、自分も着替えると猫の世話に取りかかった。仔猫はごはん目がけて猛ダッシュし、ちぎりはひとりになった。
 部屋を観察する。簡潔に整った心地よい部屋だった。明るい木目調の家具で揃えられ、どれも新しかった。猫のためのしゃれたキャットタワーや爪とぎが置いてある。猫はもりのからごはんをもらうと、思いおもいの場所でくつろぎ、愛らしい手で顔を洗った。
 上質な部屋着に身を包んだもりのは優雅で、猫のトイレを掃除する様子さえおもむきがあった。歌劇団を退団して数年経つのに、抜群のスタイルも、所作の美しさも保っていた。優雅な立ち振る舞いはどこまでも自然で、学ぶところがあると、ちぎりは謙虚に受け止めた。
 もりのはワインの入ったグラスをリビングテーブルの上に置くと、ちぎりの隣に座り、やさしげなまなざしを向けた。
「せっかくだし、乾杯しましょう」ちぎりはティーカップを持ち上げた。
 小気味いい音を立てて、乾杯した。
「いやあ、人生っておもしろいですね」ちぎりはかみしめるように言った。
「うん?」
「もりのさんの部屋にお邪魔してるのがおもしろくて」
「そうだね」もりのはワインを一口飲んだ。
 
 ちぎりは自身のエメラルド組トップスターお披露目公演の東京千秋楽を終えた翌日、夕方の早い時間にふらりと映画館に入った。上映時間は少し過ぎていた。有名ファッションデザイナーのドキュメンタリー映画だった。
 上映が終わり、ちぎりが立ち上がろうとするのと、もりのがゆっくりと歩きだすのとが同時だった。スタイルがありえないほどよかったため、目にとまった。
 横顔を見て女優のような美人だと思ったが、何かが引っかかりじっと見ていると、その美人が振り返り、「ちぎりちゃん?」やさしい声で話しかけた。独特のエキゾチックな顔立ちとやさしげな話し方に、肩まで伸ばした黒髪の美人がもりのだと気付いた。
 もりのはちぎりを食事に誘った。車で来ているため、よかったら自分の家の近くのおすすめの居酒屋で飲もうと。ちぎりは新幹線で宝石に戻る予定だったが、おもしろそうなので誘いに乗ったのだった。

 二人はゆったりと夜を楽しんだ。しっとりとしたジャズを聴きながら、ワインを飲むもりのは色気があった。ちぎりは元気な仲間たちと騒いで盛り上がるタイプだったが、穏やかな会話も時折の沈黙も心地よく感じた。もりのはちぎりの周りにいないタイプで、新鮮だった。
「今日はありがとう。すっごく楽しい。でも、忙しいのにごめんね」
「いえいえ、こちらこそ」
「トップは大変でしょ」
「いや、それがトップになってから元気になっちゃって」
「大したもんだね」もりのは微笑んだ。「誰か支えてくれる人でもいるの?」
「いっぱいいますよ」ちぎりは明るい表情をした。「組子のみんな、お客様、スタッフさん、みんなパワーをくれます」
「そういう意味じゃないんだけどな」もりのは甘く笑った。「付き合ってる人とかいないの?」
「いませんよ」
「そうなの?」
「不器用なんで、トップやりながら付き合うなんて物理的にも気持ち的にも無理です」
「へえ、そうなんだ」もりのは意外そうな顔をした。
「私はきりえさんみたいに余裕がないんです」ちぎりはついきりえの名前を口にした。
 もりのは困ったような顔をした。長い指を落ち着かなげに動かした。
「あれ、もりのさん……」ちぎりはまずいことを言ったかもしれないと頭をかいた。
「そっか、ちぎりちゃんは知ってたんだよね。私ときりえさんとのこと」
 ちぎりは劇団の人気のない場所で、二人が情熱的なキスをしているところを見かけたことがあった。身体を求め合うようにキスする光景はインパクトがあり、脳裏に焼き付いていた。
 ちぎりはちょっと赤くなり、「はい」とうなずいた。
「きりえさんはたしかに余裕の塊のような人だよね。あの人だけ一日四十八時間あるんじゃないかって何度も思ったもん」もりのはなつかしそうな顔をした。
 過去を振り返るようなもりのの言葉に、ちぎりはハッとした。部屋を改めて見渡すと、家具やカーテン、家電のすべてが真新しく、独り暮らしを始めたばかりという雰囲気だった。
「別れたんですか?」
 もりのはうなずいた。「半年前にね」
「ああ」ちぎりは頭をかいた。「それで猫を?」
「きりえさんと別れるとハルオキとも会えなくなるから。それが寂しくて」
「すみません、変なこと聞いて」
「気にしないで」もりのはやさしく言った。
「よかったら何があったか聞かせてもらえますか」
「こんなこと人に話すようなことじゃないけど」もりのはちぎりを見つめ、「でも、ちぎりちゃんなら聞いてほしいかも」
「聞かせてください」
「うん」もりのは一呼吸置くと、「きりえさんは女優としての引き出しを増やしたいって言って、別れ話を持ち出したの。それで弱い私はその言葉をまともに受け入れ、そのまますぐに家を出たんだ」
 もりのは抑えた声で静かに話し始めた。

 二人で暮らしていた港区のマンションを逃げるように出ると、もりのは銀座のホテルにチェックインした。どのようにしてここまでたどりついたのかわからなかった。
 荷物を置くと、ベッドの上に遭難した登山家のように倒れ込んだ。外はうだるような残暑だったから、遭難したのは夏山だ。岩ばかりの裸の山で、太陽の強烈な光にさらされ続けたようだった。火傷した肌が痛む。水を飲む気力もない。熱射病のように身体がだるかった。様々な考えと思いがうずまいて頭がにぶくうずき、吐きそうだった。
 きりえから別れ話を切り出されるのではないかという漠然とした予感はあった。才能豊かな男性ダンサーと共演したことがきっかけだと感じていた。
 歌劇団を退団して、様々な出会いを経験する中で、きりえに変化が訪れることは予想できた。それでも乗り越えられると思っていた。けれど、自分以外の人間に興味を持ち始め、女優として女としての新たな経験を得たい、チャレンジしたいと思っているきりえを引き止めることはできなかった。
 別れを受け入れたときのショックを受けたきりえの顔が思い出される。あがけば、少しは引き止められたかもしれない。魅力的な身体も、慈しむような美しいまなざしも、素晴らしい心も、しばらくは自分に向けられ、寄り添ってくれたかもしれない。もりのは性急だった自分の行動を少し後悔するが、どうしようもない。いずれ起こることを先延ばしにする方がつらく、耐えられなかった。
 もりのは自分の身体を抱きしめる。これが世の理、諸行無常なんだと何度も言い聞かせる。泣きたくないが、とめどなく涙があふれた。さっきまで一緒に過ごしていたきりえの大好きな表情が次々と脳裏をよぎった。
 きりえの幻影をはらうために、どこかのバーで飲みたいと思った。やるせなくお酒を飲んでいれば、男だか女だか、誰かしらが声をかけてくるのはわかっていた。自分に気がある複数の心当たりもあった。けれど、投げやりな情事はしたくなかった。上質な恋愛でなければいけない。そうでなければ、きりえと過ごした貴重な日々に失礼だと思った。
 きりえのいないときに、自分の荷物を全て取りに行った。ハルオキが留守番をしていた。ハルオキをやさしく撫で、ありがとう、元気でね、ずっと家族だよと何度も語りかけた。ハルオキは穏やかなやさしい目をもりのに向け、手を何度も舐めてくれた。ハルオキのぬくもりが、心を慰めた。
 荷物を車に積み終わると、ゆっくりとアクセルを踏んだ。きりえとハルオキに出会い、かけがえのない時間をともにできた。それで十分だと感謝した。オレンジ色の太陽が目にしみて、涙が出た。
 きりえは恋人であり、家族であり、友であり、人生の良き先輩だった。きりえはもりのに影響を与えていた。よく食べること、よく眠ること。そうして身体を健康に保っていれば精神も健全さを保てる。それでなんでも乗り切れるとよく言っていたものだ。
 食事にも住環境にも無頓着なもりのだったが、きりえの言うところの完全栄養食の豚汁と粕汁をひたすら食べ、インテリアも素材にこだわり心地よく整えた。そんなことをしているうちに、きりえにかまけて友人関係が閉じがちだったのが開かれ、野良猫を保護して里親に出すボランティア活動にいそしむ同僚と友人になり、二匹の愛猫に出会った。
 仔猫のいる暮らしに夢中になった。きりえとハルオキを思い出さない日はなかったが、心は穏やかだった。
 これまでどおり、きりえの舞台を観劇し、後輩の出ている舞台を一緒に観劇することもあった。会うと好きだと思い知らされ、心が乱れた。だから食事に誘われても断った。
 秋にハルオキが重い病に侵されたと聞いたとき、全身から血の気が引いた。ハルオキは大事な家族だった。忙しいきりえに代わってハルオキと闘病した。頻繁にきりえの家を訪れ、動物病院にハルオキと通った。ハルオキに心をくだきながら、きりえの部屋に男の気配がないことをさりげなく感じとったりもした。
 ハルオキは苦しい治療に耐えたが、年が明けて間もなく、虹の橋をわたった。もりのはきりえとともにハルオキを看取った。穏やかに逝ってくれたことがせめてもの救いだった。
 ハルオキのお墓参りのあと、食事に誘われた。自分に対するきりえの未練のようなものを感じたが、気のせいだと打ち消した。仮にそうだとしても、弱っているところにつけこむようなことはしたくなかった。
 それでとっさに、彼女がいるから食事に行けないとうそをついた。きりえがショックを受けたのはわかったが、それでいいと思った。ハルオキという長年のパートナーを失ったきりえが、これからどうなっていくのか。気持ちを立て直し、正しい道を見極め、進んでほしいと思った。

「きりえさん、もりのさんのことを求めてるんじゃないかな」ちぎりはつぶやいた。「もりのさんもわかってるんじゃないですか?」
 もりのは首をそっと振った。
「未練があるのは私のほう。そんな私が話したから、ちぎりちゃんにそんな風に感じさせたのかも」
「そうじゃないと思う。なんとなくだけど」ちぎりは色素のうすい涼やかな目で見つめ、「きりえさんに本当の気持ちを話したらどうですか?」
「それは絶対にしない」
「どうして?」
「どうしてって……きりえさんはノンケだから。ノンケで通じるよね?」
「ストレートってことですよね。もりのさんときりえさんは長く付き合ったんですよね?」
「四年半かな」
「そんなに付き合っておいて、ノンケですと?」ちぎりは思わず笑ってしまった。
「絶対ノンケなの。きりえさん、私以外の女性にまったく興味ないから。私がきりえさんを感応させちゃったんだと思う。きりえさんのことが大好きで、付き合いたいって思ってたから」
「それってある意味すごくないですか」ちぎりは感心した。「その気がおありでない、だいぶ先輩のスーパースターのきりえさんをものにするなんて」
「ものにするなんて言い方やめてよ」もりのは軽くたしなめた。
「下世話な言い方してすみません」
「ごめんね、きりえさんのことになると、つい熱くなっちゃうみたい」
「やっぱりまだきりえさんに思いがあるんですね」
「そうだね」もりのはため息をついた。
「きりえさんに気持ちを伝えればいいのに」
「もう自分からは行かないって決めてるの。きりえさんから来てもらわないと、本物じゃないように思えて。きりえさんは情に厚い人だし、やさしい人だから。私の感情を自分の感情と思ってほしくないの」
「なんとなくわかりました。でも、きりえさんはもりのさんを求めてると思います。根拠のない直観ですけど。だから、きりえさんの心の声にも耳を澄ませてくださいね」
 もりのはちぎりを眩しそうに見つめ、うなずいた。
 ちぎりは冷めたハーブティーを一口飲み、ため息をついた。「切なくなっちゃった」
「どうしてちぎりちゃんが」もりのはちょっと笑った。
「二人の気持ちになっちゃったみたい」ちぎりはうつむき、しんみりため息をついた。
 その唇にふっくらとやわらかなものが触れた。もりのの唇だった。
 もりのは唇を離すと、「やさしいね、ちぎりちゃんは」とささやいた。
「ももも、もりのさん!」ちぎりは細い顔からはみ出そうなほど目を大きく見開いた。
「ごめん、つい」
「びっくりするでしょ」ちぎりは頬をピンク色に染めながらも冗談めかして笑い、汗をぬぐう手振りをした。
「ごめんね」もりのは髪をかきあげた。「ちぎりちゃんがあまりにもきれいでやさしかったから」
「もりのさんって意外な角度から来るからびっくりしますよ」
「変な角度だった?」
「キスの角度じゃなくて、なんていうか意外性に満ちてるってことです」ちぎりは笑った。
「ああ」もりのも笑った。
「ところでもりのさんはどうなんですか? ノンケじゃないですよね。あんな風に不意にキスできるくらいだから」ちぎりは冗談めかしてたずねた。興味を持ったのだ。
「両方だったんだけど、きりえさんと付き合ってから男性に一切興味もてなくなっちゃった」もりのは苦笑いした。「ちぎりちゃんは?」
「男性も女性もたしなみました」
「たしなんだんだ」もりのは笑った。「相変わらず言葉のセンスがおもしろいね」
「そんなつもりはないんですけど、よく言われます」ちぎりはニヤッと笑った。
「ちぎりちゃんと話すの楽しい」
「私も楽しいです」ちぎりは明るく応えた。
 もりのはちぎりを見つめた。その目には誘うような色気があった。
「ちょっとなんですか、そのエロい目つき。ドキドキしちゃうじゃないですか」ちぎりは感じたことを口にした。
「やらしいことを考えてたから」
「もりのさんったら」ちぎりは困ったように、「どうしましょ」とつぶやいた。
「こうしましょ」
 もりのはささやき、ちぎりをソファに押し付けるようにしてキスをした。ふっくらとしたやわらかな唇をちぎりの形のいい唇に何度もあわせ、なめらかな舌を絡ませた。唇と舌が立てる音と官能的な感触に、ちぎりの身体はうずいた。
 自然ともりのの身体に腕を回していた。もりのの顔はとても小さく、整ったパーツも小作りだったので、座っているとコンパクトに感じられる。しかし実際は、長身で身体が大きかった。華奢なちぎりはすっぽり包み込まれる。厚みもあり、温かかった。きりえがもりのに夢中になったのがわかる気がした。
 もりのは白い首筋に唇をはわせた。気持ちよくて身を委ねたくなる。きりえが感じたことを体感しているようだった。理想の男性に大切に扱われるヒロインの気分になる。男役である間はオフでも男らしくありたいと思っているちぎりには、困った展開だった。
 ちぎりは身体をそっと離した。
「だめだった?」もりのはやさしく見つめた。
「どうしてこんな展開に?」ちぎりはちょっと笑って突っ込んだ。
「したくなっちゃった」
 ちぎりは目をこれ以上ないというくらい見開いた。
「もりのさん、軽い!」
 もりのは髪をかきあげた。「誰とでもするわけじゃないから。きりえさんと別れてからこんな気分になったの初めてだよ。人肌が恋しくなっちゃった」
「またまた、お上手なんだから」ちぎりは茶化した。
「ちぎりちゃんって不思議な人だよね」もりのはちぎりのやわらかな髪をさりげなく撫でた。「繊細な青年も似合えば、毅然とした女性も似合う。コミカルな三枚目もすごく似合うよね。いったいどれが本当のちぎりちゃんなのかな」
「いっぱい観てくださってるんですね」ちぎりは感激した。
「好きな役者さんだから」
「うれしいです」ちぎりは心から喜んだ。「私も、もりのさんの男役好きでしたよ。ナチュラルにかっこよくて、どんな衣裳もお似合いで。その中でもシンプルなソフト帽とスーツ姿がほんとにかっこよくて。スタイリッシュで大人の色気にあふれて、娘役のリードも抜群にうまくて」
「ちぎりちゃんだって素敵じゃない。私よりも男役としての経験が上だし、男役を極めてるんじゃないかな」
 もりのは話している間、ちぎりの髪をやさしく撫でていた。ときどき耳や首筋に触れた。ほとんど愛撫のようで、ちぎりの身体はうずいた。もりのはそれに応えるように、そっと首筋にキスをした。ちぎりは吐息をもらしながら、「その前にお風呂に……」とささやいた。
「あ、じゃあ、先にどうぞ」もりのはちぎりを浴室に案内した。
 ちぎりはシャワーを浴びながら、「その前にお風呂」ってやる気満々やんと自分に突っ込みを入れた。身体のすみずみを洗い、自分がほんのり潤んでいることを知った。

 もりのは灯りを消して常夜灯だけにすると、ちぎりをそっと抱き寄せた。シャンプーの匂いがする髪に唇をうずめた。唇にそっとキスをすると身体を離し、パジャマを脱いでいった。「ちぎりちゃんも脱いで」とささやいた。
 ちぎりはもりのに言われるままに黙って着ているものを脱いでいった。ふと目を上げると、もりのは裸になっていた。
「もりのさんすごい」思わずつぶやいた。
 もりのの美しい裸体に圧倒された。肩は広くウエストは引き締まり、おしりは少年のように小さく、長い脚をしていた。豊かな胸は形がよく、乳首はきれいな色と形をしていた。白い肌は光沢があった。性を超越した美しさと色気だった。
 ちぎりは裸になるともりのの方に歩みより、もりのの身体をまじまじと見つめた。
「すっごい美乳ですね」
「はっきり言うね」もりのは苦笑した。
「そりゃ言うでしょ」
「ちぎりちゃんもきれいだよ。肌が真っ白」もりのはささやいた。
「もりのさんも真っ白じゃないですか」ちぎりは自分の身体を見てため息をついた。「トップになってからどんどん痩せて、胸もぺったんこになっちゃった」
「すごくきれいだよ、ちぎりちゃん」もりのはそっとキスをした。
 ベッドに入ると、もりのはちぎりをそっと抱き寄せた。もりのの温かく量感のある身体が押し付けられ、ちぎりの鼓動は高鳴った。
「話しておきたいことが……」ちぎりはそっと切り出した。
 もりのはやさしげな顔でうなずいた。
「今夜かぎりです。私は器用じゃないから付き合ったりできません。もりのさんにもそんな気はないでしょうが」
「わかってる」もりのはやさしく言った。
「私は男役の間は男でありたいと思ってます。だから、そんな風にお願いします」
 もりのはうなずいた。
「それと……イキにくいんです、私。だからつまらないと思いますよ」ちぎりはもじもじした。
 もりのはやさしく微笑んだ。「イクかどうかはそれほど大切なことじゃないよ。そんなこと考えてたら楽しめないよ。そんなのどうだっていいじゃない。楽しもう」
「そうですね、楽しみましょう」ちぎりはほっとしたように笑った。
 もりのはちぎりの上になり、深く口づけをすると、髪を撫でながら首筋に唇をはわせた。ふっくらとしたやわらかな唇は熱をおびていた。もりのは長い指で胸をやさしく愛撫し、うすいピンク色の乳首をそっと舐めた。
 ちぎりはあえぎ声をあげた。女っぽく自分の耳に響き、そんな声を出したくないと思う。それなのに、やさしく繊細な愛撫が気持ちよくて出てしまう。自分の声に気が散っていると、枕もとにのばした右手にふわっとしたものが触れた。
「あったかいものが、もふもふしてる」ちぎりは思わずつぶやいた。
「もふもふ?」もりのは顔をあげた。「あ、かずまとふさえ」
「かわいい!」ちぎりは仔猫を撫でた。「邪魔しにきたの?」
「どうだろう。楽しそうだからきたんじゃない」もりのは笑った。
「やきもちじゃないの?」
「さあ、猫と暮らしてからこういうことするの初めてだから、こんなかずまとふさえみるの初めて。あ、そういや、同僚のとこの猫ちゃんは、裸の彼に飛びかかっちゃったらしいよ。セックスしてるときに。たぶん腰の動きにじゃれちゃったんだろうね」
 もりのは笑った。
「彼氏怪我しなかったんですか?」
「ひっかかれて血が出たらしい」
「かわいそう」
「ほんとにね」
 もりのは笑いをおさめると、ちぎりをそっと見つめた。
「私からもひとつ話しておきたいことが」
「はい」
「セックスって、同性でも異性でも男役も女役もないと思うの。相手を思いやって、二人でいろいろ工夫して、気持ちよくなるだけというか。だから、ちぎりちゃんの男役のさまたげにならないと思う」
 ちぎりはもりのの言葉に耳を傾けた。
「なるほど。そうかもしれませんね」
「リラックスして楽しもうね」もりのはやさしく言った。
「はい」ちぎりは微笑んだ。
 ちぎりはもりのの愛撫に身を任せた。やさしく丁寧な愛撫だった。気持ちよくて声が出たが、もう気にしなかった。もりののセックスのやり方はエレガントだった。そっともりのを見ると、ヨーロッパ映画のラブシーンのように絵になっていた。セックスという行為が美しく感じられる。これまで恥ずかしくて舐めてもらうのに抵抗を感じていたところも舐めてもらい、快感にめざめた。やわらかな指先が繊細な愛撫をかさね、ちぎりは昇りつめた。
 もりのを抱くのも素敵だった。どこを愛撫しても感度がよく、感じ方は妖艶だった。あえぎ声はひかえめで上品でかわいらしかった。ちぎりは愛しさを感じた。もりのは身体をふるわせてイッた。
 もりのの呼吸が落ち着くと、ちぎりはもりのを嬉しそうに見つめた。
「きれいな目だね、ちぎりちゃん」もりのはささやいた。
「イケたことに感動してるんです。すっごく嬉しいです」ちぎりは顔を輝かせた。「もりエロ先生のおかげです」
「もりエロ先生って……」もりのは苦笑した。
「もりエロ先生すごかったです」ちぎりはニヤニヤする。「あんなにスカッとイカせていただけるなんて」
 もりのは笑いを含んだ声で、「私がすごいんじゃなくてあなたの身体がすごいんだよ。すごく感じやすいんだね」
「そんなこと初めて言われました」ちぎりは赤くなった。
「ちぎりちゃんの身体はすごく感じやすくてデリケートなの。セックスの相手にはちぎりちゃんのペースに合わせてもらって、やさしくしてもらってね。ちぎりちゃんは気遣いやさんだから、相手のペースにあわせてばかりで自分の希望を伝えてないでしょ。二人で楽しむにはそういうやり取りも大切だよ」
 もりのはやさしく言った。
「やっぱりもりエロ先生だ」ちぎりは感心した。
 もりのの身体の上になり、「この唇も」とキスをし、「この指も」と長い指に触れ、「ここも」とうす桃色の乳首にキスをし、「ここも」と心臓のあたりを撫で、「誰かだけのものになるのはもったいないですね」とささやいた。
 もりのはちぎりをやさしい目で見つめた。
「でも、きりえさんとはすごくお似合いだし、応援してます」
「ありがとう」もりのは微笑んだ。「どうなるか本当にわからないけど、なんだか勇気をもらえた」
「よかった」ちぎりは明るく笑った。

第三章 九月 もりの アウトドアキャット

 二十日近くに及ぶ大阪公演を終えたきりえは、千秋楽翌日の午前中に東京に戻ってきた。
 東京駅八重洲口ロータリーの指定の場所にきりえは立っていた。落ち着いたオレンジ色のシフォン素材のブラウスに、くるぶし丈の白のパンツという装いだった。セミロングの柔らかな髪に、整った華やかな目鼻立ちの、群を抜く美人だった。
 もりのはきりえの姿に胸を高鳴らせた。車をゆるやかに停める。
 きりえはもりのと目を合わせると、照れたように笑った。素早く車に乗り込む。
「お待たせ、きりえちゃん」
 もりのはすぐに港区のマンションに向けて出発した。
「迎えにきてくれてありがと、もりのちゃん」
 もりのはきりえをちらっと見た。艶のある美しさをたたえていた。
「おかえり、きりえちゃん」もりのはやさしい声で言った。
「ただいま、もりのちゃん」きりえはもりのを見つめた。
「おかえり、きりえちゃん」
「ただいま、もりのちゃん」きりえは笑う。「なんで二回言うん?」
「またこんな風になれたのが嬉しくて」
「うん」きりえは大きな目を細めて幸せそうな顔をした。
「公演お疲れさま。疲れたでしょ?」
「全然」きりえは笑った。「タカライシみたいにショーがないから、全然体力いらんねん。力余ってるくらいよ」
「ほんとに?」もりのはあきれたように笑った。「さすがきりえちゃん」
 信号につかまったところで、もりのは左手できりえの髪を撫でた。細い髪はやわらかく、形のいい頭はまるめた手のひらにフィットした。きりえの感触を実感する。
「もりのちゃんの手、あったかい」きりえは長いまつ毛を伏せて気持ちよさそうにした。
 もりのはきりえが愛しくてたまらなかった。左手をやわらかな頬にすべらせ、指先でそっと唇に触れた。
「指にグロスついちゃうやん」
 もりのは指に少しついたグロスを唇につけ、色気を含んだ目できりえを見た。
「間接キスしちゃった」
「ほんまにもう」きりえは恥ずかしそうに目を伏せた。
 信号が青になったので、左手を脚の上に戻した。ルーズなボーイフレンドジーンズを履いていた。
 きりえはもりのの左手に自分の右手をそっと重ねた。もりのはその手を包み込んだ。
「大好き」きりえはギュッと手を握った。
「大好き」もりのはため息まじりにつぶやいた。「幸せ」
 きりえの自宅に着くと、宅配ボックスに届いていた荷物をもりのが運び、きりえは車に積んでいた荷物を運んだ。
「二人ってええね」
「そうでしょ」もりのは微笑んだ。
 玄関のドアを閉めると、きりえはもりのを抱きしめ、首筋の匂いをかいだ。
「もりのちゃんに会いたかった」
 やわらかな感触とやさしい匂い、甘いささやき声に、もりのの胸はしめつけられ、身体の芯からしびれる。
「会いたくてたまらなかったよ」
 もりのは大きな手できりえの小さな背中を撫でた。シフォン素材のブラウスをとおして、やわらかく温かな肌を感じる。
「ベッドに行きたくなるね」きりえは首筋にそっと唇をあてた。
「行こうよ」もりのはいい匂いのする髪に顔をうずめた。
「その前にいろいろちゃちゃっと片付けるわ」
 きりえは身体を離した。もりのの身体はうずいていたので離れるのはつらかったが、「手伝うよ」と笑った。
 二人は換気と荷解き、洗濯を手際よくこなした。
「コーヒー飲む?」きりえがたずねた。
「ありがとう」
 もりのはペーパードリップで淹れたコーヒーを一口飲むと、「きりえちゃんのコーヒーは最高」と微笑んだ。
「豆がちょっと古いねんけど、ゆるしてね」
「おいしいです」
 大きな窓から爽やかな風がそよぎ、リネンのカーテンをかすかに揺らしていた。きりえはソファに座るもりのの長い脚をそっと撫でた。手のひらで太ももから内もも、脚のつけねにかけて味わうように。股間をやさしく包むように何度か撫でると、ジーンズのボタンをはずし、ジッパーをおろした。
「ドキドキする」もりのは吐息をもらす。
「そやね」きりえは艶やかに微笑んだ。
 きりえはもりのの下着に触れた。
「濡れてるんでしょ」もりのは恥ずかしそうな顔をする。
「ばっちり」きりえは甘く笑う。
「あなたにこんなことされたら……」
「もりのちゃん、感じやすいんやから」
「あなたのせいでしょ」
 きりえは下着の上から愛撫した。ルーズフィットのボーイフレンドジーンズといっても中は窮屈で、愛撫はぎこちなかった。そのぎこちない動きが愛おしく、もりのは感じた。
 きりえは下着から手を離すと、たっぷりと濡れた指を舐めた。
 もりのは息をのんだ。
「なんてことするの」
「ん? 味わっただけやけど」
「エッチ」もりのは赤くなった。
 きりえは照れたように笑い、「ベッドに行こか」と誘った。
 もりのはうなずいた。
 もりのをベッドに横たえると、きりえは濃厚なキスをした。くたっとした白のコットンシャツの胸元のボタンをはずし、匂いとぬくもりを確かめるようにして唇をはわせた。もりのはしびれるような快感を味わった。きりえはジーンズと下着をとると、唇に何度もキスをしながら、濡れた音をたてて愛撫した。
 もりのはあえいだ。
「もりのちゃんのここ、あったかいね」きりえは艶っぽい表情でささやいた。
 もりのは背中に腕をまわし、ブラウスとシルクのキャミソールをたくしあげ、すべらかな肌に触れる。熱くなった肌が、撫でるほどに手のひらに吸い付く。ブラジャーのホックを外してそっとめくりあげ、豊かな胸を唇で愛撫する。きりえの感じたときの声が鼓膜を刺激し、もりのはさらに感じる。
「もりのちゃん、ちゃぷちゃぷしてる」
「うん……」
 きりえは濡れたところを唇と舌で味わうように愛撫した。長いまつ毛を伏せて高い鼻をうずめるようにしていた。もりのがそっと見つめていると、美しい瞳がもりのをとらえ、「見んといて」と恥じらった。
 目を閉じると、感覚がより研ぎ澄まされる。もりのは浅い吐息を繰り返し、眉根をギュッと寄せてイッた。
「鮮やか」
「もりのちゃんのことはよく知ってるねんから」
「ほんとに」もりのはうっとりした顔できりえを見た。「すごく気持ちよかった」と長い指できりえの唇にそっと触れた。
 きりえは目を伏せて照れたように微笑んだ。
「きりえちゃんもしよっか」
「私はあとで、もりのちゃんの家でして」
「今はダメ?」
「したいねんけど……」きりえはもじもじする。
「おなかすいちゃった?」
「さすがもりのちゃん」きりえは笑った。
 もりのは粒ぞろいの小さな白い歯を見せて笑った。「お昼の時間だもんね。行こっか」
「うん」きりえは顔を輝かせた。

 ロードサイドのカフェで軽く食事したあと、もりのの家へ行った。
 ドアの前できりえはそわそわした。
「なんかドキドキする」
「どうして?」
「かずまとふさえ、受け入れてくれるかなぁ」
「大好きになるよ」
 ドアを開けると、ミルクがかった色合いの二匹の若猫がごろごろ喉を鳴らしながら、おなかをみせて背中を玄関にこすりつけるようにして転がっていた。
「なにこれ、めっちゃかわいい!」きりえは両手で口元をおおって感激した。
「ほらね、やっぱり歓迎してる」
「え~おなか空いてるんちゃうん」きりえは謙遜した。
「猫はね、すごく耳がいいんだよ。楽しそうな話し声が聞こえて、会う前から嬉しくなっちゃったんだよ」
 キジ白のふさえがきりえの脚にすりすりした。
「すりすりしてくれてんの? おばちゃんうれしいわ」きりえはしゃがんでふさえをやさしく撫でた。
「おばちゃんはないでしょ」もりのは茶白のかずまの頭を撫でながら苦笑した。
「この子らからしたらおばちゃんやん」きりえはふさえの濡れた鼻に鼻キスをした。
「この子がもしかしてふさえちゃん? ほくろ模様が愛らしいわ」
「さすが、よくわかるね」
「兄ちゃんの弥太郎やで」きりえは男役の声で名乗った。
「あんたがかずまか。義理の兄ちゃんの弥太郎やで」とかずまにも話しかけた。
「へえ、なんだっか?」もりのも自分が演じた役で応じた。
 二人は顔をあわせて笑った。
「あの頃からもう八年くらい経つんだね」もりのはしみじみ言う。
「ほんまやなぁ」きりえもしんみりする。
「まさかきりえさんとこんな風になれるとはね」もりのは唇にそっとキスをした。
「あの頃はあんなにかわいかったのになぁ」きりえは甘い微笑みを浮かべた。
 二匹の猫は、しっぽをピンと伸ばして得意気にきりえを部屋に案内した。かずまはもりのの身長ほどの高さのある白いキャットタワーに駆け寄ると、背伸びして麻縄の爪とぎで爪をといだ。ふさえは俊敏にキャットタワーの頂上に登った。
「めっちゃええのん持ってるね」きりえは二匹にやさしく話しかけた。
 手を伸ばしてふさえを撫で、「ふさえちゃん、高いとこ好きなん。もりのちゃんより大きいね」
 きりえは中腰の姿勢でかずまより高いところにある爪とぎで自分の爪をといでみた。かずまはキャットタワーに駆け上がると、きりえを見ながらより高いところで爪をといだ。
 きりえはやさしく目を細めて笑った。「対抗してるんやろ、かずま」
 もりのはかずまとふさえと戯れるきりえを見つめながら、幸せにひたった。
 かずまもふさえもきりえを気に入ったようだった。抱っこされるのが好きなふさえはもちろん、抱っこが好きじゃないかずまも、きりえの胸におとなしく抱かれた。
「相性いいね」もりのはしみじみした。「きりえちゃんのこと、大好きだよ」
「ほんま?」きりえはかずまに鼻キスして喜びながらも、「人なつっこいだけちゃうん」と謙遜した。
「ううん、絶対に相性だよ」もりのは猫にするようにきりえの頭を撫でた。
「猫ちゃうで」きりえは笑った。
「私がもちろんかずまとふさえを選んだんだけど、かずまとふさえに選ばれた感じもするんだよね」
「それ、わかるわ」きりえは遠くを見つめて、切ないほどにやさしい顔をした。「ハルオキもそうやったもん」
「ハルオキに選ばれたんだね、きりえちゃんは」もりのはきりえをやさしく見つめた。
「なんか散歩したなったわ」きりえは明るい笑顔をつくった。
「みんなで行こうよ」
「そやった、この子たちは散歩好きの猫ちゃんなんやね」
「そうだよ」もりのは立ち上がった。「行こう」
 もりのは手慣れた様子で二匹の猫にハーネスとリードをつけると、キャリーバッグにそれぞれを入れた。もりのはかずまの、きりえはふさえのキャリーバッグを持った。
「二人っていいな」もりのはしみじみつぶやいた。
「一人じゃ大変やろ」きりえは笑った。
 もりのは車を十分ほど走らせて公園に行った。日暮れ間際だったため、家族連れは少なく、カップルの姿が目立った。
 二匹のお気に入りの木の下で立ち止まった。
「木登りさせるから、きりえちゃんはふさえのリードを頼むね」
 二匹はしなやかな動きで木に登ると、気に入りの枝の上でたたずんだ。
「さすが猫ちゃんやなぁ」きりえは感心した。「猫ちゃんの散歩もおもろいね」
「うん」もりのはうなずいた。「気に入ってくれた?」
「毎日でもしたいわ」きりえは嬉しそうに微笑んだ。
 半時間ほど公園で過ごすと、車に乗り込んだ。マンションの近くのスーパーにきりえが晩ごはんの食材を買い出しに行った。後部座席のかずまとふさえの方を見た。それぞれのキャリーバッグはシートベルトに固定されてある。キャリーバッグにはメッシュ状の小窓があり、顔がうっすら見えた。
「素敵な人でしょ」もりのはやさしく話しかけた。たまたまだろうが、二匹はうなずくように目を細めた。
 部屋に着くと、二匹は競うようにそれぞれウッドチップの入った猫用トイレに入った。ふさえはうんちを、かずまはおしっこをした。
「散歩んときにせんと、がまんしてたん?」きりえは笑った。
「この猫砂が大好きなんだよね」もりのはレジ袋をとりだし、専用スコップで排泄物を処理した。
「へえ、こういう風に掃除するん」きりえは真面目に観察した。「今度させてな」
 かずまとふさえは用を足すと、にゃあにゃあ鳴いた。
「ごはんちゃうん?」
「うん、あげるね」
 もりのはプレミアムフードをあげた。二匹はカリカリと小気味いい音をさせて食べた。きりえはその様子を近くで見つめ、「おいしそうなごはん食べてるねんね」と話しかけた。
「私たちもごはんにしよっか」
「今夜はしゃぶしゃぶやで」きりえは明るい笑顔で言うと、「準備しとくから、もりのちゃんお風呂入り」
「ありがとう」
 きりえは台所に立つと、手際よく準備した。もりののお風呂は烏の行水タイプだったが、お風呂から上がる頃には、きりえはおもちゃで猫と遊んでいた。
「はやっ!」
「こんなん料理ちゃうもんなぁ」きりえはキリのいいところで遊びおえると、「お風呂もらうね」
 もりのは二匹の愛猫と遊びながら、きりえを待った。きりえはすぐに出てきた。裸にタオルをまいただけの姿に、もりのはドキドキする。
「なんか着るもんかして」
 きりえはもりのの方に歩いてきた。
 もりのはきりえのために用意したシルクのパジャマを手渡した。
「新品やん、ありがと」
「色っぽい」もりのは熱っぽい目を伏せて、首筋と谷間のしずくを唇ですくいとった。
 きりえは頬を上気させ、「ごはん食べよ」とくすぐったそうに笑った。
 ソファに座ると、赤ワインで乾杯した。二匹の猫は牛肉に反応したが、もりのはあげなかった。「ネギが入ってるからあげられないの」と申し訳なさそうに言った。
「ごめんね」きりえも申し訳なさそうに言った。
「ほんじゃ、第一投目いくで」きりえは牛肉をさっと湯にくぐらせ、もりのの器に入れてあげた。「やっぱり第一投目はごまだれやで」
「きりえちゃんのごまだれは最高」もりのは目をつむって味わった。
「ねりごまをちょいたしすると、普通のごまだれが大変身するねん」きりえは得意気に言うと、自分も頬張った。「おいしいなぁ」
 きりえの唇のはしにたれがついていた。もりのは可愛くて仕方なかった。キスするように舐めとると、「おいしい」とつぶやいた。
 きりえは照れたような顔をした。
 もりのはこのまま愛撫したいと思ったが、きりえは完全に食欲に走っていたのでがまんした。気持ちのいい食べっぷりだった。牛肉も白菜も長ネギも椎茸も白滝も豆腐も、こんなに幸せそうに食べられたら本望だろうと思った。
 もりのはワインを飲みながら、きりえの美しい瞳や豊かな表情、白い歯やピンク色の歯ぐき、ほんのり赤くなった耳たぶや官能的に動く口元と喉をそっと見つめ、大好きなこの人と早くセックスしたいと思った。
「もりのちゃん、どしたん?」きりえは甘く笑った。「やらしい目して」
 もりのはきりえの唇にそっとキスをした。きりえはやさしくキスをかえした。
「お行儀悪いなぁ、もりのちゃんは」
 もりのはキスを止められなくなる。
「もりのちゃん、ガツガツしてる」きりえはキスを受けながら、甘く笑った。
「もうがまんできないよ……」もりのはかすれた声でささやく。
「お豆腐と白菜さらってからにしよ」きりえはやさしく笑う。
「豆腐に負けた」もりのは肩を落とした。
「ごはんは最後までちゃんといただかな」
「はい」もりのはきりえの身体を解放すると、豆腐と白菜をきれいに食べた。
 もりのは率先して片付け、いそいそと寝支度を整えた。さあと言わんばかりのもりのの手をとり、きりえはリビングでくつろぐ二匹の猫に「もりのちゃんかりるね」とやさしく言った。

 もりのはきりえの上にそっと覆いかぶさると、うす灯りに照らされたきりえを愛しそうに見つめ、ほどよく厚みのある形のいい唇をついばむように何度もキスをした。
「唇はれたらどうしてくれるん」きりえは甘く笑った。
「きりえちゃんの唇だなって実感してたの」
 きりえはもりののうなじに触れながら、半ば開かれた口になめらかな舌をさしいれ、やさしく食べるようなキスをした。
「この方が実感できるやん」
「うん……」
 二人は何度もキスを味わう。
「大阪で会ったときと全然ちゃうね、もりのちゃん。こないだは余裕たっぷりやったのに」
「こないだだって、ほんとは余裕なんてなかったよ」もりのはため息をつく。「あなたに抱きしめられたとき、必死で抑えてたんだから」
「そうなん?」きりえは愛しそうに見つめる。「すぐに来てくれたらよかったのに」
「あなたに本気で来てほしかったから、がんばってお芝居したの……」
 もりのは額からまぶた、高い鼻、やわらかな唇、細いあごにかけて軽い音をたてて口づけし、首筋に顔をうずめるように唇をはわせ、甘くやさしい肌の匂いをかいだ。
「なんかふわふわするで」きりえが笑った。「このふわふわの生き物なんや?」
「ん?」もりのがきりえの枕もとをみると、かずまがきりえの顔に自分の身体を押し付けるようにして眠っていた。
「かずまだ」もりのも笑った。
「こんな風にくるん?」
「うん。楽しそうに見えるのかやきもちなのかわかんないんだけど」
 きりえの身体がこわばった。身体の熱が引いていく。
「誰かとしたん?」きりえはもりのの身体をそっと離し、静かにたずねた。
「え」もりのは口ごもった。
 二人は向かい合った。
「したんやね」
「あ、うん」もりのは小さな声で応えた。
「彼女いないって言ってたのに。うそやったんや」きりえは傷ついた顔をする。
「うそじゃない。彼女なんていない」もりのは本当のことを言った。
「じゃあ、セックスだけの人?」
「そんな人いないよ」
「でも、こういうことあったんやろ」
「一度、こういうことがあっただけ」もりのは正直に応えた。
「やっぱり女の人?」
 もりのはうなずいた。
「私の知ってる人?」
「知ってるといえば知ってる人」もりのはあいまいに応えた。
「OG?」
「いや……」
「現役なんや」
「うん……」
 きりえは真剣な表情で考え込むと、はっとしたように、「まさか、ちぎりちゃん?」
 あまりの勘の鋭さに、もりのは言葉を失った。
「うそ、ほんまにちぎりちゃんなん?」きりえは大きな目を見開いた。深くショックを受けたようだった。
 もりのはどうしていいかわからず、おろおろした。
 しばらくして、きりえが口を開いた。
「もりのちゃんから誘ったんやろ」
 もりのは否定しなかった。
 きりえはため息をついて起き上がると、ベッドを抜け出して寝室を出た。もりのが後を追うと、すでに着替えていた。
「何してるの」
「帰るわ」
「ちょっと待ってよ」もりのはあわてた。
「今夜は一緒におられへん。ごめんな」きりえは静かに言った。
「そんな」
「相手があささんとかりょうさんとか、男の人ならよかった」
 あさとりょうは、現役時代に色気のある男役として人気を博したOGだった。
「なんで?」
「もりのちゃんが誘われて受け入れたんやなって思える」きりえはうつむいた。「ちぎりちゃんなんて、もりのちゃんが誘ったんやってわかるもん。もりのちゃんが積極的に欲情したんやなって」
 もりのは何か言葉にしようとするが、うまく言えない。
 きりえは寂しそうな顔をした。
「私はあかんかった。もりのちゃんやないとあかんかった。でも、もりのちゃんは私以外の女の人に感じることができたんやね」
「きりえちゃん……」
「想像してまうねん。もりのちゃんがやさしく触ったり、情熱的にキスしたりしてるところ。もう無理やわ」
「そんな、無理って」もりのは青ざめた。
「もりのちゃんと一緒におられへん」きりえは背を向けると、スマホをさわりタクシーを呼び出そうとする。
「お願い、帰らないで」もりのは背中から抱きしめた。
「触らんといて」きりえは腕をほどいた。
「きりえちゃん……」
 きりえはもりのを見上げた。美しい瞳は、手負いのネコ科の動物のように孤高の色を浮かべていて、もりのを寄せ付けなかった。
「あのとき言ってくれたらよかったのに。大阪に来てくれたときに」
「あのときは、忘れてた」もりのは小さな声で言った。
「忘れてたって」きりえはふっと笑うと首をふった。
「ほんとだよ」
「あのときはもりのちゃんの言葉を全て受け止める覚悟ができててんよ。だけど、もりのちゃんは私と同じやって言ってくれたやん? 愛してるのは私だけやって。すごく嬉しかってんよ。喜ばせておいて落とすのやめてや」
「愛してるのはきりえちゃんだけだよ……」
「めちゃくちゃ言ってるやんな。もりのちゃんとちぎりちゃんがそうなったのは別れてたときの話やし、別れのきっかけをつくったのも私やねんから。でも、自分でもびっくりするほど嫌やねん」きりえは大きくため息をつく。「どうしていいかわからへんから、今夜は帰る。こんな気分のまま寝たら、仕事に響くし」
 もりのは立ち尽くしていた。きりえがこのまま遠くに行ってしまいそうに思えた。
「じゃあ、帰るね」きりえは靴をはくと、静かにしているもりのをちらっと見た。
 もりのは顔をつまらせていた。
「どしたん、顔がさらに短くなってるで」きりえはそこまで言うと、息をのんだ。
 もりのは頬をぬらして泣いていた。
「もりのちゃん?」きりえは目を見開いた。「え、泣いてんの? 泣かんといてや……」
「もういなくならないで」もりのは涙をぽろぽろ流した。
 きりえはもりのの方へ駆け寄った。
「いなくなんてならへんよ。今夜一緒にいられへんだけで……」
「あなたがいなくなるの、もう耐えられない」
 きりえは慈しむようなまなざしをしていた。
 もりのはひたむきな目で、「あなたに別れを切り出されたとき、どれほどの思いであなたのもとを去ったか。あなたを手放したくなかった。でも、執着は愛情と違うから、愛情は手放すことだって思うから、必死でそうした。身が引き裂かれそうなほどつらかったよ」
「そうやったんや……そんなに大事に思ってくれてたん……ありがと」
 きりえはもりのの涙をそっと拭った。白い肌は泣いたせいでピンク色に染まっていた。
「座ろっか」きりえはやさしく手をとり、ソファに座った。
「私が未練たっぷりなんわからんかったん?」きりえはもりのの目をのぞきこむ。「ほんまにすぐに思い知ったわ、もりのちゃんと一緒にいたいって」
「もしかしたらって期待はしてた。でも、自分からは行かないって決めてたの」
「私の本気を確かめてたんよね」
 もりのはうなずいた。「ノンケのきりえちゃんが私と付き合ってくれたのは、感受性が豊かでやさしいからだと思ってた。私の思いに感応したというか。だから今回は私から行かないって決めてた」
「もりのちゃん、肝心なことわかってへん」きりえはにらむ。「もりのちゃんのことが好きやったから付き合ったに決まってるやん。普通わかるやろ?」
「うん……」
「ほんま、ちゃんとわかってくれてんの?」きりえは厳しい口調だったが、表情はやさしかった。
 もりのはうなずいた。
「ときどき、手のかかる子やなぁ」
 きりえはもりのの顔を自分の胸に押し付けるようにして抱きしめた。もりのは目をつむった。温かくやわらかな感触に、鼓動が高鳴る。
「なあ、なんでちぎりちゃんやったん?」
「言わなきゃダメ?」
「聞きたないけど、聞きたい」
「映画館でばったり会ったの」
「へえ、なんかのドラマみたいやん」
「奇遇だよね」
「それで?」
「ごはんを一緒に食べて、いろいろ話してたら、きりえさんと別れたことに気づいて慰めてくれたの」
 きりえは相づちを打つ。
 もりのは咳払いをひとつし、「やさしくされたら、人肌が恋しくなって。ちぎりちゃんは信頼できそうな気がしたし」
「そうやったんや」きりえは静かにつぶやき、虚空を見つめた。
「きりえちゃん?」
「うん? 聞いてるで」
「なんか変だよ」
 きりえは寂しそうに笑う。「うん、ちょっときつかってん」
 もりのの胸はしめつけられる。
「大丈夫やって」きりえは明るく笑う。「それより、ちぎりちゃん美形やったっていうのもあるやろ。もりのはけっこう面食いやもんな」
 もりのはきりえが笑ってくれたことにほっとする。
「こんなきれいな人と付き合っちゃったら面食いにもなるよね」
「お上手やね」
「今日は一緒にいてくれる?」もりのはおずおずとたずねた。
「帰らへんよ」きりえは髪にキスすると、「ほんまは帰る気なかってん。ちょっと頭冷やそうと思っただけ」いたずらっぽく笑い、「ちょっともりのをこらしめたかってん」
 もりのはほっとした顔をした。きりえは頭をよしよしと撫でた。
「長いこと付き合ってるのに、見たことないもりのちゃんやったわ」
 もりのは困った顔をした。「あきれた?」
「いつも冷静なもりのちゃんが感情的になってくれてうれしかった」
 もりのは胸に頬をうずめた。
「かわいいなぁ」きりえは奥行のある頭をやさしく撫でた。「仔犬みたいな顔は反則やで」
 きりえの胸と手の感触が気持ちよくて、もりのは目をつむる。甘い匂いが鼻腔をくすぐり、悩ましい気分になる。ブラウスの上から背中とウエストのくびれをそっと撫でる。やわらかなうっとりするような感触だった。豊かな胸のふくらみを唇でやさしく愛撫すると、髪を撫でるきりえの指に力が入り、吐息がもれる。
「無垢な仔犬とちゃうんやった」きりえはちょっと笑った。
 きりえはもりのをベッドに誘った。
 着ているものを脱いで、ベッドの中で抱き合った。
「もりのちゃんと裸で抱き合うの気持ちいい」
「とろけそうです」
「もりのちゃんってときどき後輩ぶりっこするやんな」きりえは笑った。
「後輩時代が長かったから、つい敬語になっちゃうんです」
「あの頃のもりのちゃんもかわいくて好きやったよ」
 きりえは首のうしろに手をまわし、濃厚なキスをした。やわらかな唇と絡みつく舌の感触に、もりのの身体は熱くなる。
 きりえは唇を離すと、美しい瞳に淫らな色を浮かべ、もりのをじっと見つめた。それだけでもりのの身体はどうしようもなくうずく。もりのはギュッと目を閉じて軽くイクと、きりえの身体にもたれかかった。
「え?」きりえはキョトンとした。
「軽くイッちゃった」もりのは恥ずかしくなる。
「まだ何もしてへんのに?」
「あなたのきれいな目を間近に見ると、もうダメ。いつも実はする前から軽くイッてるんです」
「もりのちゃん、すごいなぁ」きりえは感心した。
「男じゃなくてよかったってつくづく思います。あなたの中に入ったらすぐにイッちゃうから」
「も~なんてこと言うんっ」きりえは赤くなり、もりのの形のいい額を指先ではじいた。
「大好きです」もりのは耳元でささやくと、首筋にキスをした。
 きりえの身体は熱くなり、吐息をもらす。美しさに磨きのかかる成熟した身体や、深い官能に夢中になり、もりのはやさしく愛撫をかさねる。長くやわらかな指でやさしく豊かな胸を撫でながら、ふっくらとした唇となめらかな舌で乳首を愛おしむ。
 もりのが豊かな胸をしつこいくらい愛撫すると、きりえが乱れる。
「たまんない……」もりのは切ない吐息をもらす。
「たまんないのは私のほう……」きりえの息は浅く、早くなる。
 もりのの唇と指先はきりえの身体を降りていく。太ももから足指にかけて唇をはわせ、しゃぶるように愛撫する。
 きりえは呼吸を乱し、腰をまわすように動かす。もりのは内ももに唇をあてる。内側から濡れていた。それを舐めとると、つけねのまわりを時間をかけて愛撫した。
「もりのちゃん……」きりえはたまらなさそうな声を出す。「舐めて」
「え?」もりのは思わず愛撫を中断する。きりえの言葉に興奮し、「なんて言ったの? よく聞こえなくて」
「もうじらさんといて」きりえは恥ずかしそうな顔で、「舐めて」とささやいた。
「喜んで」もりのはやらしい顔で笑った。
「居酒屋ちゃうねんで」きりえは笑い、わき腹をつねった。
 とろとろに濡れたところを、唇でやさしく愛撫した。きりえは芯から気持ちよさそうな声をあげた。首筋に顔をうずめて抱きしめながら、長くやわらかな指をきりえの中に入れた。きりえはもりのを深く呑み込み、強く締め上げた。
 どうにかなりそうなほど感じながら、きりえの求めに応える。昇りつめるきりえをしっかり受け止める。もりのも波にのまれ、身体をふるわせた。
 二人は向かい合い、満ち足りた表情を浮かべた。
「気持ちよかった」きりえはささやいた。
 もりのはうなずいた。
 きりえはもりのの上に覆いかぶさった。華奢なきりえは、肩幅の広いもりのを、自分の腕の中に閉じ込めるようにしてキスをした。
「もりのちゃん、執着ってあかん?」
「理想を言えば、あかんよね」
「私、けっこう執着してるねんで」きりえは色気を含んだ目で見つめ、深くキスした。
 もりのの心はわしづかみにされる。
「どうしよう、嬉しい」もりのはとろけるような笑顔を浮かべる。「グッときちゃった」
「私も、もりのちゃんなら嬉しいねんよ。どんなもりのちゃんも好きやねん」
「きりえちゃん……」
 きりえは髪をやさしく撫でる。
「もりのちゃんとなら大丈夫やって思うねん。どんな感情も、いい方向を見失わないって。本質的に健全で前向きやからな、私たちは」
 もりのはうなずいた。
「もう難しいことはええやん」きりえは微笑む。「二人の時間を満喫しよな」
「うん」もりのはうなずくと、もじもじする。
「どしたん?」
「明日早い?」
「はやないよ」
「私を抱いてくれますか?」もりのは遠慮がちに言った。
「そのつもりやったよ」きりえは愛しそうに微笑んだ。

 リネンカーテンにそそぐやわらかな太陽の光と、かずまとふさえの騒々しい鳴き声で、二人は目を覚ました。起きた気配を察知した二匹は、ベッドの上に飛び乗った。ごろごろ喉を鳴らしながら互い違いに二人の頬にすりすりした。
「ごはんねだってるんやろ」きりえは笑った。
「そう。ハルオキより訴え方が派手でしょ」
「だいぶにぎやかやな」
 きりえはふさえの香ばしいほくろ模様をやさしく撫でた。もりのはかずまのほっぺたをぷにぷにいじった。
「ありがとう、もりのちゃん」
「うん?」
「かずまとふさえに出会ってくれてありがとう」きりえは澄んだ瞳をしていた。
「うん」もりのの胸は熱くなる。
「こんなかわいい生き物がいる暮らしって最高やね」きりえは二匹を見て、目を細めた。「ハルオキのこと思い出さない日はないねん。心のなかにずっとハルオキがおってな、犬や猫との新たな出会いなんて想像できへんかった」
 もりのはうなずく。
「もりのちゃんが出会ってくれてたおかげで、自然と新しい一歩を踏み出せそうやわ」
「だったら、それもハルオキのおかげだね」もりのはふさえごときりえの頭を撫でた。「ハルオキのいない暮らしに耐えられなくて、それでかずまとふさえに出会ったんだから」
 きりえはもりのを愛しそうに見た。
 もりのはやさしく微笑んだ。
 もりのの頬に、ひんやり湿った小さな肉球が乗せられた。かずまだった。渋い顔つきだった。
「はいはい、ごはんにしようね」
「手伝うで」
 笑いながらベッドを出ると、裸の身体にパジャマを着た。
 二匹はリビングに勢いよく駆け出した。

帰ってきたきりもり

帰ってきたきりもり

「めくるめくきりもり」の続編。退団後も二人の関係はうまくいっているのか。三年半後の、きりえともりのを描きます。全3章、完結済。※大人の女同士の恋愛を描いてます。※この作品は架空の物語です。実在の人物、団体とは一切関係ありません。モデルを特定し、現実と混同しないようお願いします。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2015-12-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 九月 きりえ 地殻変動
  2. 第二章 三月 ちぎり もふもふ
  3. 第三章 九月 もりの アウトドアキャット