外側へ向う者

頭上から照りつける太陽熱がコンクリート舗装された地面に反射し身を焦がす。行き場を失った熱気は空間に蔓延し陽炎のように世界を歪めるのだ。まだ僕の学校の定期考査も終わってないような七月の半ばでこれほどの暑さだと、夏本番にはどれぐらいになるか考えるだけでうんざりした。
 僕の通学路の傍には珠川の本流が流れているが別段涼しいというわけではない。それでも、せめて見た目だけでも涼を取ろうと今朝はすこし通学路を外れて川沿いを歩いてみた。
 珠川はいつもと変わらぬ穏やかな表情を浮かべている・・・かのように見えた。
「ん?」
 ふと川の水面に「よくわからないもの」が浮かんだような気がした。あれは・・・黒くて、少し大きな何かだ。水鳥や魚の類ではないだろう。しかし眼を擦ってしっかり覗き込むと黒い「何か」は見えなくなっていた、まるで最初からそこに無かったかのように。
 よくある見間違いというやつだろう。時計を見ると長針が12時から数えて90度を上回っていた。僕は急いで学校へと駆け出した。
学校ではいつもと変わらぬ日常がいつもと変わらぬように繰り広げられた。僕の通う学校、都立沼田高校はまさしく中流の中の中流といっていいだろう。偏差値は50を毎年前後しているし、褒められるような進学実績もスポーツ実績も出せていないが、特段目立つほど悪くも無い。教師も生徒も平平凡凡の穏やかな校風こそが唯一の特徴なのである。
「おは」
「お、黒澤じゃん。おは」
 軽い挨拶を交わし終わる前に予鈴がなった。急いで席に着き授業に備える。

 退屈な講義が終わった。急ぎ足で購買に向かい三個しかないカツ丼を買い求める。毎度買うたびに思うのだが五百円出してこれを買うなら近所のコンビ二でゴツイ弁当を買った攻がいいのかもしれない。すこし後悔を含みながら箸を進めていると近藤君がコンビ二のざるそばを抱えて話しかけてきた。
「うっす。今日も購買か、コスパ悪いぞ」
「世の中の人間がみんな君みたいにざる蕎麦ばっかりで腹が膨れる訳じゃないよ。同じ三百円でもお握り三個の方がよっぽど腹にたまる」
 そんな事を言ってる内に二人とも昼飯を平らげてしまった。近藤翼君はクラス、いや学内屈指の蕎麦好きの変わり者である。彼の興味は蕎麦だけでなく映画や歴史にも及ぶが、そちらの方の話を始めると予鈴が鳴るまで止まらないので皆少し閉口している。しかし、変わり者といっても正常な、異常の域に入らない所に居る辺り実にこの学校の生徒らしいといえよう。蕎麦を五口で平らげた近藤君は口をぬぐい開口一番
「いや俺も空腹なんだが?」
 と返した。
「だったら購買いってドーナツでもかって来たらいいじゃないか」
「違う。蕎麦が食べたいの俺は、冷やしだな。冷やしたぬきですこうしだけ芯が残ってるようなやつがいい。具やツユは二の次で噛むとぷつぷつと切れる歯切れが最高なのが食べたい」
「そんなこと言ったら僕までおなか空いてきたじゃないか。蕎麦手繰りたいな・・・帰り珠川駅前の蕎麦繁行く?」
「よしきた。笹本の奴も呼ぼう」

「そろそろ教室移動だよ、四階のホールだっけ」
「ああ行かなきゃな」
 弁当を片付け第二校舎の四階へと向う途中、神崎涼子とすれ違った。沼田高校の学生で神崎の名を知らぬものはモグリといっていいだろう。肩までかかる黒髪に、瑠璃のように綺麗な瞳。整った小顔には顔のパーツがまるで見るものが一番美を感じるように整頓されている。首から下も黄金比を思わせるようなプロポーションで全男子生徒が彼女を二目見なかったことは無かっただろう。彼女の話はコレだけで終わらない、神崎さんは入学以降のテストで彼女はこの一年近く、一位の座を難なく死守している。また体力測定でも同じなんだそうだ。
眉目秀麗に加え頭脳明晰、身体俊敏ときたら笑ってしまうほか無いだろう。この平凡な学校の中で、ただただ彼女だけが異彩を放っている。しかし不思議なのは、彼女は周囲からの妬みを感じるどころかむしろ最大級の好意が向けられている。あまりにも突出した能力差は羨望を超え崇拝と化したのだろう。教師陣はとんでもない優等生が入ってきたという認識だろう。一つ確実にいえるのは、神崎は入学直後にこの学校のスクールカーストの最上位に君臨したし、それは卒業するまで変わることは無いだろうという事だ。
「美人だよなあ」
「THE高嶺の花」
「僕たちには無縁だね」
「ヒエラルキー上位の連中でも駄目だったらしいし、もうお外につがいが居るんだろうな」
「まああれだけ美人ならね・・・でも少しおかしくない?」
「確かに神崎さんだけ突出してるよな色々」
「なんであんな優秀なのにうちきたのよ」
「あ、言えてる」
「都立でも谷木高校とか私立なら明海とかいろいろ選択肢あったのに、なんでわざわざうちみたいなしょぼいとこ来たんだろう」
「うーん・・・うち二回試験やるでしょ、一回目駄目で二回目は失敗できないとか?」
「それにしてももう少し選ぶんじゃないのかな学校」
「まあよそ様の事情はわからんよ。お、これ席自由でなんか見るのか。つまらなそうだし後ろで寝るか」
 そう言うと近藤君はホールの一番後ろに座った。そして授業中はグースカ鼾をかいて坂野先生に怒られたのであった。
 


蕎麦繁は珠川駅前の安蕎麦屋である。今日は近藤君と笹本君の三人で暖簾を潜った。笹本君は放課後になるたび釜田のゲーセンに篭るゲーキチだが、何故か今日は蕎麦を食べる気分になったようだ。
「珍しいね亮ちゃんが蕎麦来るなんて、
今日は釜田いいの?」
「んー来月新しい台来るから節約ちうなんよな。丁度おなか空いてたし」
「りょーちゃんこないだご飯抜いて釜田行ってたでしょ・・・体壊すよ」
「ゆーてだいじょぶよ。あ、おそば来た」
 三人とも頼んだのはこの季節の一番人気冷やしたぬきである。黄金色の揚げ玉に蒲鉾の赤み、若布と胡瓜に葱の青が丼を彩る。
「そりでは・・・いただきまつかね」
 つるつると皆が肩を並べて蕎麦を手繰る。噛む度にぷちんといい歯切れの蕎麦だ。腰については可もなく不可もなくだが、少し酸味に似た清涼感を感じる汁がいい仕事をしている。揚げ玉も胡瓜もみんな混ぜて一気に啜りこむのが楽しい。

 五分もたたぬうちに皆が蕎麦を手繰り終えた、まあ妥当な食べ方であろう。蕎麦が延びたら折角の歯切りも台無しだ。
「ここの冷やしはうまいねえ」
「しかり、毎日食える」
「あーおなか一杯になった」
「そういや君ら聞いたん?」
「何をよ」
 近藤君と声が重なった。すると笹本君は子を低めて
「黒魔術の噂」
 と言った。
「くろまじつう?なんぞそれ」
「なんか女子の間ではやっちょるらしいのよ。なんかおかしな本使って生贄ささげてやるいかにもいかにもした奴が」
「そんな馬鹿なものが流行っちゃうわけないでしょ。誰が撒いたか知らんけどデマにしても嘘にしてもマシなものが幾らでもあるだろうに」
「いやそれがの、屋上で鶏の死体が見つかったらしいんよ。全部雌鳥でなんかそれっぽい魔方陣が血でかかれてたらしいぞ。これは生徒会の坂野先生に聞いたからマジっぽい」
「あーなんか最近ごたごたしてたなセンセ方」
「そそ、ここ数年一番の大問題らしい。まあ僕らには関係ないんですけどね」
「あれ、なんでそれ流行ってるの女子ってわかるの?」
「こっからは噂なんだけどな、今そのなんだっけ、サパトとか言う奴をやってる連中が居て、主催者はなんとあの神崎さまだっていう」
「うわあもっと嘘くさい」
「それはありえない」
「俺にいわれても」
「誰に聞いたのそっちは」
「生徒会の仲間達。あいつらヒネた所あるからこんな話大好きなんよ」
「よく考えたら神崎さん生徒会じゃないんだよな。なんかホラ、入ってそうじゃない?」
「あー確かに漫画やライトノベルのキャラクターじみてるよね。あの優秀さと美貌は。なんか会長ポジションでしょ」
「ぐうわかるわ、神崎さん何部だっけ?吹奏楽?」
「えーと、ダンスだったような気がする」
「明るいしオーラ出てるもんな、やっぱあんな子がそんな黒魔術なんて考えられないわ」
「変な噂も立つもんだな、妬んでる奴が矢がしたんじゃねえのか」
「それにしても変だと思う、だってあの人恨みそもそも買わないでしょ。滅茶苦茶な噂を流す理由はない」
「妬みじゃないの?そんなに人間綺麗じゃないよ。あれだけ綺麗で頭よかったら嫉妬を買わない方がおかしい」
「そんなもんかねえ」
「おーい三人で喋ってるお客さんがた、それそろ昼の部閉めたいんですが」
「ああすいません今出ます」
 店を出ると、再び茹だるような熱気が身を包む。笹本君と近藤君と別れ、帰路についた。
さっき聞いた話がいつまでも耳に残る。黒魔術、まるでゴシックホラーの設定のようなチープな話だ、ありえない。妙に脳裏から離れない空想を振りほどくように歩を駅へと進めていく。心なしか足元がおぼつかない気がしながら僕は家にたどり着いた。
今日は木曜日。一週間の一番退屈でけだるい曜日の上面倒な図書委員の当番日までかぶってしまった。しぶしぶ図書室で仕事をこなしてると、名物司書の秋山先生がお茶を啜り始めた。
「秋山先生、僕にも一杯いただけませんか」
「玄米茶だがいいかね?」
「戴きます。香ばしくて好きですコレ」
 書痴は痩せこけるものという先入観に反して秋山先生の体は歩くたびに部屋が揺れるような振動を起こす巨体である。のしのしと歩きお茶を入れてくれた。
「ホラ」
「ありがとうございます」
「もうすぐ考査だけど君は大丈夫かね?大して優秀ではないだろう?」
「今回もぼちぼちを狙いますよ」
「情けないねえ。実に情けない。覇気の一つももってはどうかね、
あの神崎女史を打ち負かすんだとか言うだけ言ってみればいいじゃないか」
 神崎、その一言で思い出した。
「出来ないことは口にしないほうがいいですよ。そういえば先生、噂だけでも聞いてますか?あの例の黒魔術」
「ああ・・・君のような疎そうなのにまで話が行ってるのか、情報保全体制がからきし駄目だな」
「やっぱりなんかあったんですね。ちょっとでいいから教えてくださいよ」
「うーん・・・タダではなあ」
「駅前の松本楼のカステラ一本でどうですか」
「んーカステラ一本来たら仕方ないなあ」
 チョロい。
「とはいっても君らが知ってるだろう話と変わらんぞ。先週の火曜日、屋上の巡回をやった警備員が鶏の血でできた魔方陣らしきものを見つけて緊急職員会議、後引くと面倒だからと学内で解決する方針だけ打ち出され今に至る。そんな所だ」
「えー、隠してるんじゃないんですか?ひょっとして魔方陣から本物の悪魔か異次元のクリーチャーが出ちゃったとか」
「悪魔だってあんなモノで呼ばれたら苦労しないよ。滅茶苦茶だったからね」
「滅茶苦茶?」
「魔方陣だよ。使ってる文字もギリシャ語とラテン語とドイツ語で統一されていないしそれっぽい事書いて見栄えを整えてるだけ。あとスペルミスが三つあった。形式も六芒星と魔法円を合わせたよくゲームだので見かける奴だったし高校生のいたずらだよあんなの」
「先生詳しいですね」
「大学のころオカルト研究会にいたんだよ。まあそれが高じて大学院に行って有名な先生に弟子入りしたり色々あったんだけど、今じゃしがない司書教諭さ。一応釘を刺しとくけど、いくら過去使われた本物の魔方陣を正確に描いて、正しい形式で呪術を使っても悪魔もクトゥルフの怪物も現れないし掃除が大変なだけだからやらないように」
「現れないんですか」
「現れないねえ。まあ僕の先生の説が正しかったらの話だけど」
「大学でオカルトの研究してる先生がいるんですか」
「違う違う、僕の先生は桐藤源一郎っていう社会心理学の教授。あ、元教授だね」
「教授辞めちゃったのですか」
「うんにゃ首になった。まあ元々あの人の研究領域は脳科学が中心なんだけど研究活動を続けるうちに異端の心理学者って呼ばれるようになってね」
「異端だなんてそんな封建的な。魔女狩りじゃないですか」
「異端ってのは馬鹿馬鹿しい呼び方だけど、まあ人間科学の一部門である心理学が科学を否定しだしたらそりゃ学会も黙ってないよ。君は物事が科学的か科学的でないかを判断する基準って知ってるかい」
「僕文系なので理系の知識はからきしです」
「進学してから苦労するぞ。まず定量化、つまり数値化が出来ること。次に同一条件の下同一手法により再現できるかどうか。最後はまあ言説的な話になるけど批判が可能かどうか。コレぐらい覚えておいて損はないぞ」
「数値化に再現の可否ですか」
「そうそう、君たちが受ける考査だって学力を数量化するための操作だよ。僕が学んだ心理学では好意だの傾向だのといった曖昧なものにラベルといって、一だの二だの値を振り分けて定量化するんだ。この操作がによって心理学は科学の一部門として認められているわけだね。社会学も似たようなものだ」
「秋山先生の先生はその操作をしなかったんですか?」
「その程度なら学会で馬鹿にされて済む話なんだけど、『人間の心理の奥には測定不可能、数値化不可能かつ再現不能なものがある』みたいな学説を年に一度の学会で発表してね、まあ当然叩かれたわけなんだが。あと発表直後に謎の失踪を遂げて一年間ぐらいだれも行方がわからなかった。問題視されてた上にコレが重なって大学側も処分せずにはいられなかったわけだね。そこそこ実力があった先生で弟子もそれなりにとってたけど、みんな行き場をなくしちゃって心理学界隈では随分話題になったものさ」
「結局桐藤先生はどうなったんですか?」
「一年か一年半でひょっこり戻ってきてね・・・大学から解雇を言い渡されてたよ。弟子にも恨まれてたし、逃げるように千葉の実家で楽隠居してるよ。一遍顔出して話聞いたけど、あの人の唯一の長所と言える学問への情熱が嘘のように消えていたのは覚えてるな。あれほど固執した自説にも「もうどうでもいい」って感じだったし」
「何があったんでしょう。多分失踪と関係あるんじゃないですか」
「まあそう思うよなあ。僕も問い詰めたんだけど失踪時期のことは頑として話さない。『それは言えない』の一点張りだった。弟子達の間では丁度そのころ起きた東京大停電は桐藤先生の仕業だという馬鹿話が持ち上がってたな。一番若い弟子の須藤君も先生が消えた時期に行動を共にしていたらしいんだけど、あの騒ぎが起きて未だ行方不明なんだ」
「ああ・・・あの未解決事件ですか。いまだに原因不明なんですよね大停電って」
「まあ与太だけどね。実は今桐藤先生の本があるんだけど、読むかい?」
「あ、興味あります」
「家を整理してきたら出てきたんだ。正直研究者じゃないと読み返さないような本だし寄贈しようと思ってね、読み終わったら寄贈扱いで本棚に入れといてくれ。おや?もう七時前だ、図書室しめなきゃならん。じゃあ黒澤君さようなら、次来る時カステラを忘れないように」
「お疲れ様です。さようなら」
 手渡された本を鞄に入れ帰宅する。家族揃って食卓に着き、夕餉を胃に落とし込む。自室に戻って分厚い本を取り出した、考査前だというのにこうやって時間を浪費してしまうのかという気もして、その日は本を開かなかった。


「あちこちに化け物が出るらしいよ」
「黒魔術の次は化け物って」
「魔方陣で向こう側から呼び出されたのかな」
「本気にしてるの?」
「見た奴もそこそこ多いらしい」
「どこに出るの」
「学校の周りかな、珠川の方にも黒い河童が出たとか」
「あれ河童なのかな」
「え?お前見たのか?」
「あ・・・いや、数日前登校中に珠川の辺で変なものを見かけただけだよ、すぐに見えなくなったし見間違いかも」
「まあ普通そうだよな、でもただの噂話にしては広まりすぎている。『見たって話を聞いた奴』より『見た奴』の方が多いようだ。一体何が起きているんだろう」
 珍しく真剣な近藤君を見ていると、どこか可笑しくなって噴出してしまった。
「笑うなよ。実際気味悪いじゃないか」
「ごめんごめん、確かになんか変な空気だよね。ぶきみ」
「人の噂も七十五日、はやくみんな忘れていつもの日常に戻りたいな」
 
 放課後になった。普段は特に用事も無い生徒はだらだらと残って馬鹿話に興じるが、何故か皆この場を避けるようにいそいそと帰っていった。玄関ホールは長期休暇にしかない静寂が支配していた。

 帰路の途中、信じがたいものを見つけた。あの神崎さんが学年でもぴか一目立たぬ沢木君と歩いてるではないか。神崎さんは本人の自覚の有無は定かではないが、いわゆるお高くとまるような雰囲気を醸し出している。学年の上下を問わぬSランクと言って良い男子達の誘いを全て断ったという神崎女史伝説はこの学校で知らぬものは無いだろう。その彼女が、目立たぬどころか存在を無視されるレヴェルの空気男子の沢木君と帰路をともにしている。世紀の大ニュースである。断っておくが、沢木君は特段虐められているわけではない。ただ運動も出来ず勉強もぼちぼち、容姿と話術はお察しという男子である。

助平心と好奇心が抑えきれずについ後をつけてしまう。二人は沼田古墳公園に入っていった。これで晴れていたら日光の輝きに緑が照らされ胸のすく壮観が望めるのだが、今日は生憎の曇り空である。今にも泣き出しそうな天気が意味も無く不安を誘う。

一瞬、おかしなものが視界の隅を横切った気がする。視点を動かしたらなにか良くないものが見えてしまいそうな気がする。不気味な雰囲気が背筋に忍び寄る、なんだか嫌だ。怖くなってきた。

そんな事を考えたその瞬間に

いた

木の後ろから

見ている

何かが

黒い・・・・・・

「ひっ・・・うわあああああああ」
 一目散に駆け出してこの公園から抜け出そうとする。恐怖感が全身を麻痺させる。一瞬で駆け出したのは懸命な判断だ。動き続けないとその場に固まってしまいそうだった。背後から気配を感じる。振り返ったら終わりだと本能が叫ぶ。公園を出て駅まで来た。人が出入りしているのを見ると本当に安心する。日が落ちぬうちに真っ直ぐ家に帰った。

include
身体と精神が噛み合っていない

肉体こそは精神と昔読んだ本に書いてあったが、致命的なズレもつ私は一体どうなってしまうのか

いや、そもそも私はこうなってしまう遥か以前から道を違えていたのだ。

人間が育つのは難しい。今の社会では知能、容姿、身体能力、意思疎通能力、空間演出能力、あらゆる数値化の困難な能力が極限求められるが、だれも能力を育成するノウハウが無いのだ。本来ノウハウを構築し機会を与えるべき責任のある人間はその責務を忘れ、無責任なシステムに育てられ教えられた人間に己が無策を棚に上げ成果だけを要求する。

通信技術と輸送技術の発達が世界を網のように包む。若い個体には見えない競争を強いられ、一方的に押し付けられた責務がのしかかり、逃れることもできやしない。

ろくでもない

ああろくでもない、無理だ。私には無理だ。きっと始まりのそのときから私には次が無かったのだろう。美しい過去の世界では、能力競争の相手は目に見えていたし競争の及ぶ範囲も狭かった。なにより過負荷を負わずに済んだのだろう、ぼちぼちや平凡などという単語が、概念が存在を許された牧歌的な時代であったのだから。

人間の価値は血により決まる。血統などという曖昧かつ権威的な妄想ではない。体躯に流れる血液に刻まれた設計図が全てだ。いくら改修しても、どのような優秀なパイロットを搭載しても、どのように有利な情況を演出した所でf104スターファイターではf22にはかなわないのである。

私は諦めていたといえばそれまでだが、最後まで腐り切らずに回りにしがみついていた。偶然の女神がそんな私に機会を与えたのだろう、私はとうとう『無限』に至るチャンスを手に入れた。あの混乱の中で一瞬で決断できた時、二等級がいいところの我が脳髄を心から誉めてやったのを今も覚えている。

仕掛けにも、準備にも、計画にも随分かかったが、ようやくだ。あと少しであるべきものがあるべき場所へと還る。その時に私も、この地上から連れて行ってもらえるのだ。

それだけが、私の希望なのだ
include out


家に逃げ帰り、部屋で息を整えると恐怖感が引いてきた。あれは一体なんだろう、はっきり姿を見たわけでない、だが視界に入った瞬間に身の毛のよだつ恐ろしさを体感した。近藤君の言うとおり、異世界から呼び出された化け物なのだろうか、そんな事を考えている内に一冊の本の存在を思い出した。秋山先生に貸してもらった本はまだ鞄の中にある。

 鞄から取り出した本は黒茶の装丁に金文字で『ネットワーク精神説 神の起源』と書かれている。なかなかのタイトルである。

 先の戦争が終わるか終わるまいかの頃、私は生まれた。食糧難の時代に父母は精一杯努力して私を食べさせてくれたが、どうしてもそれだけではひもじい。私は何時の間にか郷里の山に食物を求め出入りするようになっていた。山には色んな食べ物があった。木の実、団栗、山葡萄、運がいい日は蛇を捕まえることもあった。その年の秋祭りの日、私はいつものように山に入ったがその日の山はいつもとは表情が違ったのだ。ざわざわと木々が鳴き鳥達が飛び立つ。怖くなって逃げ出そうとするも足がすくんで動けない。震える私を救ってくれたのは、神様だった。

「ん?」
 思わず声が出た。これは心理学の本でなく宗教学の本なのか?それもかなりアレな方面の。

 幼い私を助けてくれた山の神様は母のように優しく、そしてどんな人間より美しい姿だった。麓まで送り届けられた私は別れる前に礼を言おうと後ろを振り返ると、まるで最初からいなかったかのように消えていたのだ。その日から、私の探求が始まった。再びあの女神に会うたびに私は寝食を忘れ勉学に励んだ。

 すこし昔話が続いたのでぱらぱらと頁を薦めていくと、ようやく本筋にもどってきた。

 東京大学に入学した私は他の多くの学生同様当時紛糾していた闘争の波に揉まれたのだが、見学がてらバリ封を覗いてみると、そこでまたもや不可思議なものを感じた。今度は人物でなく声だった。当時学内の政治運動を指揮していた森本君のアジ演説の最中に、声が聞こえてきたのだ。あらゆる言語で彼の説く革命を賛美する叫びが、彼の敵対者を罵る罵声が耳の中に流れ込んでくる。しかも、それは私だけでなかった。周囲の人間や演説中の森本君にも聞こえいるようで、彼の演説は勢い怒髪天を貫くように高揚し、その立ち居振る舞いと修辞がますます預言者的、英雄的なそれに変わっていく。正直私は革命云々にはさほど関心が無く、その現象に心が引かれた。一種の集団幻想か何かだと思ったが、それだけでは説明できぬと感じ、心理学の研究に着手した。
 人間の心理、特に思考と脳機能の部分には未知の領域があまりにも多い。思考が脳により行なわれる事だけは間違いないが、思考の範囲は本当に我々の頭蓋骨の中だけに完結しているのだろうか?
 心理学者でありLSDの伝道師であるティモシーリアリー博士はコンピューターの開発により、LSDは不要となったと言った。私は晩年の博士を訪ねその真意を聞いた事がある。コンピューターは独立した一個の機械であり、各自がCPUを搭載し演算するマシーンである。コンピューターを人間の脳に例えるとする、大脳は勿論CPUであり身体はそれ以外の部品だ。我々が人格と呼ぶものはコンピューターの機能を用いるAIというところが一番妥当だろう。
 さて、ここからが問題だ。ではインターネットとは一体なんだろう?最初に言っておくが、今の科学では人間をコンピューターと見立てた場合のインターネットに関わる部分の実存を証明できないし、定量化と再現性を重視する現代科学では永遠に不可能かもしれない。なぜなら、これは我々が住む物質界の事象ではないからである。 

「うわあ・・・」
 なんとなく気づいていたが、やはりという感じだった。しがない高校生の知能でも学会から追放された理由がわかる。

 以下先述のインターネットにあたる部分を精神界と呼称する。いわゆるオカルトと呼ばれる物事、神、妖怪、悪魔、天使、魔術、超能力などは全てこの精神界と密接な関係がある。妖怪はなぜ夜に出没するのか?それは人間が本能的に闇を恐れるからである。夜の闇への恐怖が集積し何らかの形で物質界に影響を及ぼしたとしよう。人々の恐怖が物質界で形を得る事もあり得るしそれを打ち払う超人的な能力が宿る英雄が生まれるのもまた考えられる。余談であるが、今の妖怪は必ずしも夜に出没するわけではないようだ。これは人間のライフサイクルが変化したことや恐怖の対象が闇という根源的なものから、対象をもたない恐怖へと変化したことなどが考えられる。
 神についても似た事がいえる。強い信仰により、願われた通りの姿形能力を持ち現界したものが神なのではないかというわけだ。信仰は伝承となり、神は伝えられてゆく。私がこれを確信したのは、私が山の女神に会った日は村祭りの日で、純朴な村人達が山の神様への信仰をささげていたことに加え姿を消したのは村祭りが終わった時間帯だったことがあげられる。
また、東大での一件もこの仮説により説明がつく。多くの学生達は森本君に自らが望む指導者像を仮託した。また彼らが脳裏に描いた世界観があの東大紛争というかつて無い感情が高揚し、想像的、形而上的概念と現実的物質的空間が錯綜する舞台が期せずして成立し、私たちの耳に彼を賛美する声が聞こえたのだろう。
太古の信仰や怪物への恐怖など、ほぼ全てがこの精神ネットワーク仮説により解説できるだろう。問題はこの証明だ。今は精神ネットワーックにアクセスし物質界に何らかの影響を与えることは困難である。何故なら近代科学の発達により、この世では起こるべくして起こること以外起こりえないという『常識』が遍く浸透しているためである。心のうちに、無意識に『非科学的な』とか『あり得ない』といった認識がある場合はその意識が精神界に作用する。このことが精神ネットワーク仮説の証明を困難にしている。

一気に読みきってしまった時にはもう真夜中になっていた。面白い仮説だ、今日の体験もこれで説明できるだろう。だが一つだけ分からないことがある。この本が正しければ精神界と物質界は交叉しない事になる。現に著者の桐藤さんも、一九六九年以降国内で精神界との交叉が見られたと思わしきケースは著しく少ないと断じている。ではなぜ沼田高校とその周辺でそんな現象が起きたのか。わからない。考えるうちに、瞼が重くなっていった。


おーい黒澤君、起きなさい黒澤君」
「あ、すみません寝てました」
「全く、その様子だと昼休みから図書室でグースカ寝ていたね。帰りのHRがもうすぐ始まるからすぐ行きなさい」
「はい、では先生また来週」
「カステラ」
「机に置いてます」
「よろしい」
 昨日の夜更かしが昼下がりに効いてしまった。駆け足でクラス目掛けてはしって居る内に、なにか水道が漏れたような音がした。

 耳を劈く悲鳴がそこら中から沸きあがる。突然非日常に放り込まれたようだ、恐怖に引きつった表情をした生徒達が駆け出してくる。その向こうには

 いた
 形容の出来ない形状の、恐怖を掻き立てるビジュアルが廊下に、窓に、教室に、天井に、あちこちから無数に湧き上がる! 
 足が竦み身動きが取れなくなる前に逃げ出した。昨日の経験から学べたようだ。頭上から緊急警報が鳴り響く。聞いている間もなく走り抜けると秋山先生とぶつかった。

「先生!大変です!」
「緊急警報が出ているね、なにがあったんだい?」
「怪物が・・・学校中に・・・」
「怪物?それは・・・渡した本は読んだかい?」
「昨日読みました」
「なら話は早い!それらが出てくるメカニズムはあの本に書いてる通りの筈だ。人間の抱く恐怖が恐怖通りの形を得て姿を見せ怖がらせる。だがそれだけだ、心配ない。十年前に人的被害が出なかったと証明されている」
「十年前?」
「大停電だ。あの時は都内各所で怪物の目撃情報が相次いだ、夜に起きた停電だったから闇への恐怖がかさ増しされて怪物どもが現界したのだろう、まあもちろんそれだけじゃないのだが」
「でもなんで今日は大丈夫なんですか」
「考えてもみたまえ、東京都下一千万の恐怖感情の総量と高々八百人程度の学校にある恐怖の総量、比べるまでもない筈だ。それに今の時代ではあいつらに出来ることなど人を怖がらせる程度だ、大したことは無い。それより問題はパニックだ、訳がわからなくなって窓から逃げる生徒でも居たら大変なことになるぞ」

「魔方陣だ、アレから化け物どmpが出てきたんだ!もうお仕舞いだアーーーーー」
 叫び声が聞こえる。その叫びに呼応するように混沌は爆発する。ただ叫んだ声の主は何処か楽しげだった。あの声を出したのは・・・
「今の生徒は怖がってないぞ、なら何故あんな事を叫ぶ?・・・そうか!」
 秋山先生が声の方向へ駆け出す。上だ。
「黒澤君も来てくれ、今は私と居る方が安全だ」

 声の主を追い屋上へ。黄昏時の屋上には、この学校の女王、神崎涼子さんと彼女に似つかわない陰気な生徒、沢木清十郎君が天を見上げていた。

「君たちが魔方陣事件の犯人だな!そしてこのパニックを起こしたのも、何故こんなことをした、そしてどうやって心理投影現象を引き起こした!」
 温厚な秋山先生が激昂して怒鳴る。沢木君だけ振り返り

 そして
 これ以上無い不気味な笑みを見せた

「流石は桐藤源一郎先生が最後まで同行を迫った一番弟子だ、もう気づかれてしまった・・・」
「何故君がそれを知っている?あれは桐藤先生の私邸に居た人間しか知らない筈だ」
「やっぱり、ガキの姿になっても影の薄い人間は薄いままってことですかね。敦子さんに振り向いてもらえなかったわけだ」
 秋山先生の目が見開き、口が半開きになる。そして沢木君の口調も態度も明らかに異常だった。
「お前は・・・須藤?須藤信一!そんな・・・その姿・・・」
「十年前俺は先生と一緒にいた。それを聞けば想像がつくだろう」
「でも・・・先生の研究では現代に起きた心理投影現象は集団幻覚程度の影響しか起こらない筈だ、その姿の説明はつかない」
「ああ・・・あんたは居なかったからな、十年前先生が何をしたのかしらない筈だ」
「先生はその話になると頑なに口を開かない、聞き出せなかった」
「当たり前だよ。軍事機密だからな」
「軍事機密!?」
「俺と先生は防衛軍の施設で実験してたんだよ。当然極秘だしそれは首になった後も同じだ。防衛軍と経済省の合同プロジェクトとして立案された計画でな、下準備やその研究は戦前から行なわれていたらしい。霊的国防計画とか機密書類に書いてたな」
「そんなことが・・・」
「要は古い神様を引っ張り出して戦争の道具に使おうって話だったが引っ張り出し方と神様について少し調べがつきかけた所で終戦だ。研究は米軍に引継がれた。そこで起きたのがフィラデルフィア実験事故だ。電子装置の暴走で二十人死んだ」
「昔の話はどうでもいい、先生が関わったプロジェクトは一体なんだったんだ」
「ああ・・・昔からあんたせっかちだったな。発電計画だよ。要は人間の精神や想像力は無限のエネルギー源であるとお偉方は考えた。そこで有事の際のエネルギー供給に使えないかというわけで日本で唯一その分野を専攻していた学者を呼び寄せて数十年ぶりに研究が再開された。でも先生の目的は違ったんだ」
「まさか・・・いつもの・・・」
「そう、先生は金も名声も研究もどうだってよかった、ただ子供の頃に会った山神様にもう一度会いたかった。それだけだったんだよあの人の情熱は。そして、事故が起きた」
「大停電は先生が起こしたのか・・・」
「電子機器を用いて精神界と物質界をつなげてエネルギーを発電機に流し込むわけだ。その過程で精神界とアクセスできるだろう?先生はその穴に飛び込んであっちに行こうとしたのさ」
「でも駄目だった。そうだな」
 悔しそうに沢木、いや須藤氏が眼を落とす。
「人間の思考や感情は制御できるものじゃない、そんな当たり前のことを見落としていた。装置は暴走してその場に居る人間に精神界の暴風が吹きつけた」
「そしてお前はそんな姿になったのか」
「ああ・・・俺はその時期ずっとガキの頃にもどって人生やり直してえって思ってたからな。願いはかなったけど、中身は変わらなかった。そして、もう一人願いが叶った人間が居た」
「先生の願いは・・・」
「そう、無限の空間の向こう側に居る永遠の存在の一人、名も無き山の女神様をこっちに呼び寄せたんだよ。そしてその女神様は・・・ここにいる」
 神崎さんを見る。人間離れした神々しさの正体とは・・・つまり・・・
「いくら強固な願いで呼び寄せたとしても、受肉することは無い筈だ。彼女はそのうち消えてしまう」
「ああ、その通りだ。とりあえず停電の混乱に紛れて先生と俺は逃げ出した。その時色々くすねていってさ、想像界とこっちを接続する機器とかね」
「そうか・・・なぜこんな少数で心理投影現象が起きたのか疑問だったが、それを使ったんだな。ここにその装置を設置すれば後は精神的高揚や暴走状態を起こせば心理投影現象が起きる。魔法陣も安っぽい噂もみなそのための舞台演出というわけか。しかし何故だ、何故君がそんな事をする」
「彼女だよ、異界から来た名も無き女神様が故郷に帰りたがっている。そのついでに俺もつれてって貰おうと思ってな」
「お前・・・あっちに行くつもりか。よせ、もうこっちに戻れなくなるぞ!」
「戻りたくなんか無い!」
 須藤氏は絶叫した。感情の爆発につられるように、世界が・・・歪む。
「俺は今の姿みりゃわかるように、ガキの頃から何やらしてもからきし駄目でさ、でも世間体だの見栄だのプライドだの欲だのを支えに勉強してあんたらが居る大学にまではいけた。でもそこに何があったと思う?」
 世界が燃えている。夕焼け空と紅蓮の地獄が交互に映し出される、須藤氏の心の景色だろうか。
 紅い
 痛い
 悲しい
 寂しい
 そんな声が脳裏に響く。
「俺より遥かに優秀な連中がわいわいきゃっきゃ楽しんでてさ、ハタチ超える頃には『ああ、なんか全部違うんだな』って思えてきた。このままなーんも出来ないままでのた打ち回って人生お仕舞いかと思うと辛くてさ、辛くてさあ!」
「須藤・・・」
「そんな時、この世界とは違う、無限の世界があるって聞いたら・・・惹かれない方がどうかしてるよなあ。おれはだからあの先生の弟子になったんだよ。もう此処は嫌だった。言葉も分からねえジャリンコの頃から頭も力も顔もド底辺でな、回りに恵まれて運よく生き延びられただけの負け犬でも、向こういったら救われるって本気で信じたんだよ俺は。ああ・・・俺の話はもういいや。彼女の話だ。なあ、そこの・・・黒澤だったっけか」
「え・・・」
「神崎さん、美人だろ。成績抜群でスポーツ万能、学校中の人気モンだ。どう思う?」
「うーん、羨ましいといいますか・・・」
「馬鹿かお前。おかしいと思わなかったのかよそんな漫画のキャラクターみたいな人間が居てたまるか。この子はな、簡単に言うと神様だ。神様ってのは端的に言うと人間の希望の集積体、願望が投影された存在でもあるわけだな。つまりどういうことだと思う?」
「神崎さんは、願望の集積体ってことですか?だから皆が憧れる・・・」
「よく出来たな、偉いぞ。正確には『こうなりたい』とか『こんな人が居たらいい』って感情をそっくりそのまま映し出してるような感じだ。もっとも人間なんて出鱈目だからその人間より生まれた神様の方も出鱈目なんだけどな、だから神話の女神様は美人が多いんだよ」
「彼女をどうする気だ、須藤」
「何度も言ってるだろう。帰すんだよ、故郷に。先生と話し合って決めた事だ、彼女には自我が生まれていた、こっちで消えてなくなるのは嫌だと泣きつかれたらあんただってその気になるさ。もうそろそろ頃合だな、神崎さん!」
 神崎さんが振り返る。その姿は、今まで見たどの女性、いや人間より遥かに美しかった。想像界・・・人間の思念のネットワークが現界している、誰かが抱いた美の想念が彼女に流れ込んでいるのだろうか。
「仕上げです、昔ながらの手法でお願いします!」
 神崎さんはマイクを持っていた。無機質な電子機器も彼女が持つと神秘の霊装に見える。
「皆さん、聞こえますか?」
 綺麗な・・・鈴の音のような美声だった。声に込められた霊力は聞くものの魂を掴む。
「今、屋上に描かれた魔法陣により異界への扉が開き怪物が校内に現れています。でも大丈夫、私が昇って門を閉めてきます。その様子を、見ていてください」
「何を・・・」
「先生も言ってたろ、見えたものから情報が構成されるんじゃない、情報が構成されてから物が見えるんだって。ほら、見てみろ」
 指差された先には・・・丸い空の中心に、ぽっかりと穴があいているようだった。今の言葉で与えられた情報により、遡ってあの景色が構成されたのか。その向こうにあるものは・・・・・・
「あれが・・・精神界・・・ 」
 光の輪の向こう側で、極彩色の花が優雅に舞っている。その次の瞬間には、酒池肉林の豪宴が写る、さらにその次は・・・かつて、誰かの抱いた空想が、欲望が、希望が瞬く間に写り変ってゆく。まるで巨大な映画を見ているようだ。

気がつくと二人はフェンスの外側に居た。
「さあ須藤さん、行きましょう」
「お供します、向こう側での新生活の始まりですな」
「待て須藤!行くな!」
「残念だけど先輩、そいつは無理な相談です。先生によろしく」
 天の輪から金色の燐光が一直線に差し込み二人を包む。二人は並び揃って足を空に伸ばし、そして

  精神が/肉体が

水がスポイトで吸い取られるように一瞬で/木の葉がひらひらと舞うようにゆっくりと

 昇っていった/落ちていった

結局発見された死体は須藤氏のものだけだったそうだ。沼田高校の集団パニック事件は幻覚剤が用いられた悪質な犯罪と断定されたが、魔法陣と神崎涼子の話が意図的に排斥されたような記事が書き並べられていた。結局須藤氏はただ死んだだけだったのか、それとも・・・
「陰気な顔をしているな。考査の出来がさぞわるかったのだろう」
「あんな滅茶苦茶の後に考査をやるんですから酷くもなりますよ」
「普段怠けているからそんな目に逢うのだ。反省しなさい」
「そういえば先生・・・須藤さんは結局ただ自殺しただけだったのでしょうか」
「それは誰にもわからないよ。確かに彼の肉体は壊れてしまったが、人格がネットワークに接続できなかった証明にはならないからね」
「あっちの世界ってやっぱ素敵なんでしょね・・・」
 そんな事を言うと、ぽんと頭を本で叩かれた。
「精神界は確かに無限の空間だろうが、人間が生きていく場所とは到底思えないよ。これを見てごらん」
 PCで再生された動画は、徒郎を組み憎悪を叫ぶヘイトスピーカー達の動画だった。
「これも」
 資本主義の巨塔が崩れ落ちる有名なニュースだ。
「これ」
 ヒゲゴジラが水中で瞑想している。
「想像界が無限ってことは、こういう奴の想像もながれこんでくるってことさ。僕はそんなところ行きたくないね。第一、誰かのっ思考なんて見たくもないし見せたくも無い」
「そんなもんなんでしょうかね」
「そうだよ。君はすこし刺激に当てられて現実感を失っているだけだ。下の蕎麦屋にでもいって蕎麦でも手繰ってくるといい。後の仕事は僕がやるよ」
 図書室を追い出されてしまった。仕方なく玄関ホールに行くと笹本君と近藤君が喋っていた。
「帰り?」
「たくない」
「じゃあなにしよう」
「おなか空かない?」
「行きますか」
 外に出ると、夏本番の暑さがじりじりてりつける、強烈な直射日光を浴びて体が現実に引き戻されたかのようだ。僕はなんだか、おなかが空いてきた。
                終

外側へ向う者

外側へ向う者

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-30

Copyrighted
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