美術室の僕等

美術室の僕等

Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---1

「赤銅色…」
真っ赤に焼ける夕焼けを見て電気炉から取り出したばかりの熱い銅板を思い出すあたり唯月(ゆづき)の頭の中はまだ美術室に置き去りになっているのかもしれない。夕焼けと同じ赤銅色の銅板を見たのは部活ではなく美術の授業の時間だがこの際そんなことは関係ない。美術室にいる時間ばかりが唯月の中には色濃く映し出され、それ以外の時間でも部活のことを考えてしまうのは恐らく先生から課された白い悪魔の所為だろう。
「那珂ちゃん先輩?」
不意に隣から名前を呼ばれて振り向いた。高校生にしては甘ったるい子どものような声と他に誰も使わないその呼び方からは振り向かなくても声のぬしを当てることは容易だった。
「…告春(つぐはる)。何してるの?」
橋の上で1人黄昏を眺める唯月に話しかけてきたのは同じ美術部の1年生・真宮告春。身長は160センチ前後の唯月とたいして変わらずいつも隣に立つと目線があった。
「夕日綺麗だなあって。那珂ちゃん先輩は?」
「デザインが決まらなくて…」
「ウエディングドレスの?」
ウエディングドレスという名の白い悪魔。事の発端は今日の部活動の時間だった。唯月はいつも通りスケッチブックに向かってアイデアスケッチをまとめていた。
「那珂、ちょっと来い」
先生に呼ばれた時点で良い報告があることはまずない。恐る恐る先生の前に立ったところで目の前にウエディングドレスデザインコンテストのチラシを差し出された。
「次の課題これな。頑張れよ」
美術部ならではのデザインコンテストには様々な種類がある。着物、iPhoneケース、Tシャツ、再婚報告用はがきなどなど。その中で唯月がデザインしているのがウエディングドレスなのだ。人生1度の大チャンス。女の子の憧れ。夢。考えれば考えるほど何を描けばいいのかわからない。
「やっぱ実際見てみるのがアイデアわくよ。俺iPhoneケースだったけどネットでいろんなの見てるもん」
1年の告春が2年の唯月に対してこんなにもフランクに話すのは美術部内で実力主義が重視され、上下関係をがあまり意識されないからだ。上手なものは先輩後輩関係なく評価される。だから告春のようにフランクで自由な人間が出来上がってしまうのだ。部内に上下関係がないとはいえ年齢に差があることは確かであるため告春のような奴はよく思われない場合もある。唯月はそういうのをあまり気にしないから告春に懐かれてしまっているのかもしれない。
「見てるよ。ネットで探したりして。でもウエディングドレスって難しいよ。浴衣やTシャツみたいに色があるわけじゃない。全部形だけで表現するなんて私は苦手だな」
もともとカラーコーディネートが得意な唯月は絵葉書や着物などの色彩バランスを問われるものが得意だった。今回ウエディングドレスのデザインに回されたのは色に頼らず形だけで表現する力を養えという顧問の粋な計らいだろう。唯月自身はそんな計らいいらないと困っているのだが。
「じゃあさ、実物見にいこうよ!やっぱドレスは立体だもん。後ろからも上からも見ないと」
「そんなのどうやって」
「大丈夫。俺に任せて!」
告春は今度の日曜日に時計台の前集合ね!と勝手に決めて陽気に走り出した。まだ唯月はイエスともノーとも言っていないのに。全く自由な奴だと呆れながらも告春が何を見せてくれるんだろうと期待している自分に気づいた。告春は何も考えていないちゃらんぽらんなようで(実際そうなんだけれど)突発的で独特な行動や思いつきが大当たりするときがある。今回も当たってくれればいいのだけれど。
「あ、那珂ちゃんせんぱーいっ!こっち!」
時計台の足元でまるで久しぶりに再会する親戚を見つけた子どものように大声で自分の名を呼ぶ姿が恥ずかしくて唯月は足早に告春のもとへに近寄った。1人で待っているのかと思いきや隣には告春を必死に落ち着かせようとしている女の子が1人立っていた。女の子としてはいたって平均的な背丈。白くて華奢な手足。背中まで伸びた黒髪。赤いラインの入った紺色のワンピースに身を包んだ少女はまるで白雪姫のようだった。
「この子同じクラスのかんなちゃん。お母さんがブライダルショップのオーナーさんだからお店見せてもらおうよ」
「あんたって奴は…」
自分なんかのデザイン案のために突然お店を伺ってもいいんだろうかと思ったけれどもう告春は話を通してしまっているらしい。
「告くんと同じクラスの美代かんなです。よろしくお願いします」
かんなは礼儀正しく唯月に自己紹介をした。唯月も慌ててかんなに向き直った。
「那珂唯月です。急にごめんね。告春が無理言ったんじゃない?」
「いえ。うちのお店がお役に立てるなら嬉しいです」
「ありがとう」
じっとしていられない、というふうにうずうずとしていた告春が解き放たれたように声を上げた。
「それじゃ、行っきましょー!」
なぜか1番テンションが高い告春。かんなについてお店に到着するとそのテンションはさらに高さを増した。入ったお店は女の子の憧れブライダルショップであり、決して告春が好きミリタリーショップではない。が、告春は楽しそうだった。
「あんまり騒がないでよ。恥ずかしいから」
「すごいよ那珂ちゃん先輩!これなんかすごくない?」
唯月の忠告を聞き入れる様子もなく店の中を巡り、すごいを連発する。かんなはなんとか止めようとするが何せ相手は自由奔放極まりない告春だ。止めようとして止まるものではない。
「告春、あんたは子どもか!他にもお客さんいるんだからちょっと落ち着きなさい」
「あ、見て見て先輩。俺こういうの好きだな」
忠告に耳を傾けない告春に促され、唯月は目の前のドレスに目をやった。それはショート丈のドレス。すっきりした上半身に対してスカート部分は大ボリュームのデザインだ。たくさんのフリルを含んだ布を何層も何層も重ねて腰部分には大きなリボンが結ばれている。
「こういうのが好きなんだ。なんか告春らしいね」
「ひらひらしててかわいい。女の子っぽい感じが好き」
かんなと唯月の仲介で来たはずなのに1番楽しんでいるのは告春だ。ついでとか面白そうだからとかいう理由ではなく本当に好きでついてきているのかもしれない。そうでなければこんなにはしゃがないだろうし第一唯月の返答も聞かずにここに来ることを決めたりはしていないだろう。自分が行きたかったブライダルショップに行く機会をずっと探していたのかもしれない。
「告春はよくこういうの見に来るの」
「来たのは初めてだよ。でもこういうの見るの好き。俺将来はお嫁さんが着るドレス自分でデザインしたいんだ」
「それはまた…お嫁さんも大変ね」
小物のデザインが多く、慣れるためにと色々な種類のコンクールに出している告春が実際どんなセンスを持っているのか、どんなものが得意なのかよくわからない。しかし先生が比較的締め切りの長い新しいコンクールを勧めているところや手がける作品が少ないところからは初心者がうかがえる。でもショート丈でフリルがたっぷりのドレスなんて女の子にとってはきっと嬉しいだろう。一生に一度の結婚式なのだから長いウエディングドレスを着たいとこだわる人もいるだろうけれどこの長さも唯月は嫌いではない。
「好みはあるだろうけど私は好きかな」
「ほんと?じゃあ那珂ちゃん先輩俺と結婚しようよ」
「冗談はやめなさい」
ひと通り見て回って2階の作業スペースを見せてもらった。いろいろな種類の布やレース、ビーズ、リボン…ひとつのウエディングドレスを作るためにこんなにたくさんの材料がある。マネキンに着せられたドレスはどれも綺麗で唯月は目を奪われた。部活の中ではデザインを考えることはあっても実際に材料を手にすることはまずない。初めて見る素材たちにイメージも膨らむ。
「熱心ですね。デザインのために本物見に来るって。美術部はみんなそうなんですか?」
「みんなじゃないけどわたしは結構いろいろ見るかな。その方がイメージできるし。1回始めると作品以外のことを考えてたらいいものはできない気がして熱中しちゃうんだよね。私の悪い癖」
冗談めいて唯月は話すけれどかんなは部活動に一生懸命なところに感心したらしい。そのせいで部活が恋人、作品が恋人とからかわれる日々なのだがそれも唯月は別にそう言われることも嫌いではなかった。
「どう?ドレスできそう?」
「うん。なんとなくイメージできた」
「よかった。頑張ってね」
無邪気に笑う告春はやっぱり1番楽しそうにしている。
「ね、那珂ちゃん先輩。せっかくだからデートしてこうよ!」
唐突に何を言い出すのかと思えばただでさえ追い込まれているというのにまだ連れまわすつもりらしい。かんなはそこで別れたが唯月はそれからさらにファミレスでお昼を食べたあとアクセサリーショップまで連れて行かれた。初めこそ渋っていたものの楽しんでいるようです本物の指輪や宝石が光るのネックレスなどは見ているだけで気分が上がる。
「結婚式前みたい。なんか楽しい」
「本当の結婚式前はやることいっぱいあって楽しむ余裕なんかないよ」
「でも好きな人と一緒なら大変でも絶対楽しいよ!」
どこまでもプラス思考で楽しそうな告春。きっと告春がウエディングドレスをデザインしたら少し変わってるけどかわいくていいものができるんだろうなと唯月は感じていた。思いついたことはそのうちにメモしてある。家に帰ってから紙にアイデアを描きだした。告春たちと本物を見に行ったおかげであらゆる角度からウエディングドレスをイメージできる。前から、後ろから、横から、アイデアはスラスラと浮かぶ。実物を見たことで今まで曖昧に描いていた部分も描きやすくなった。
「…出来た!」
熱が冷めぬうちに、夜のうちに描きあがったウエディングドレス。王道ともいうべき女の子らしさたっぷりのプリンセスラインを柔らかいシフォン生地でふんわりと仕上げた。とりあえずこれを明日先生に見せよう。
「お願いします」
完成したデザイン案を先生の前に差し出す。大きな自信はないけれど今の自分にできる最高傑作。告春も唯月の後ろから覗いて見守った。
「なんというか…あれだな。目新しさがない」
「はあ」
「ありがちなんだよな、こういうの。なんとなく定番すぎるっていうか」
ずけずけと指摘してくる先生。細かい欠点を指摘しているわけではなくデザインそのものを否定する。それはつまり修正ではなく描き直し。これではダメということだ。
「先生、そんなずけずけ言わないで!俺のライフなくなっちゃう」
「描いたのお前じゃないだろう」
まあそういうことだから、とデザイン案を戻された。そんな簡単に終わったら苦労しないだろう。これで白紙に戻ったわけだ。ありきたりではいけないことはわかった。けれどそれなら何を描けばいいのか。
「お前はそれを誰に着て欲しいと思う?」
「誰って…誰?」
「さあ」
唯月も告春もそこまで考えてはいなかった。でも入賞を目指すならそれくらいはできないとだめということだ。誰かを考えて着て欲しいドレスを創る。そのためにはモデルが必要だ。

Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---2

「つまりあれでしょ。誰かを具体的にイメージして作らなきゃいけないってことだよね」
美術準備室に2人。みんなが真剣に作業している隣で話しながらデザインを考えるのは迷惑になるかと思い、パソコンもあるのでこっちに場所を変えた。スケッチブックに向かって真っ赤なりんごを持った白雪姫の絵を描いている唯月の隣で告春はここまでの状況を頭の中で整理していた。白雪姫を描き終えると今度はシンデレラを描き始めた。童話に出てくるお姫様はどんなドレスを着ていたんだろう。
「ディズニーのプリンセス?」
「うん」
以前ありがちで目新しさのないドレスを先生に否定された際に「誰に着て欲しいと思う?」という問いかけを受けた。誰かのためにその人に似合うドレスをデザインすることでいいものができるはず、という考えはわからなくもない。でも具体的に誰を、と考えるといい人材は見当たらないのだ。
「告春はいつもドレス見るときとか誰がのこと考えたりしないの?」
「えっ?」
告春は一瞬言葉に詰まったが、少し考えてから切り出した。
「俺は自分が好きって思ったドレスを着て欲しいから具体的には誰って考えたことはないかな」
相手の意見は全無視か、と苦笑いしながら唯月はまた考える。ドレスが似合う人がいいのか、デザインがイメージしやすい人がいいのか。スタイルがいい人の方がいいけれど唯月の人脈の中でそんな都合のいい人はいるだろうか。
「一層の事自分用にデザインしちゃえば?自分が着たいやつ。好きなデザイン考える方が楽しいよ」
だんだん告春も頭が回らなくなってしたようで提案が雑になり始めた。自分のためにドレスをデザインするなんて他の誰よりも何を描いていいのかわからないしなんとなく気恥ずかしい。
「じゃあかんなちゃんは?かわいいしよくない?」
確かにかんなはかわいい。そのことは疑いようのない真実なのだが長い黒髪や小柄で華奢な体つき、未だ幼さの残る柔らかい雰囲気は唯月の考えるイメージとなんとなくそぐわないところがある。
「ウエディングドレスって感じではないんだよね。外見的に」
「そっか。言われてみればそうかも」
簡単に提案を取り下げる。かんなといえば、以前から唯月は1つ気になっていることがあった。
「告春はさ、あの子のこと好きなの?」
「え、違う違う!なんで?」
突然の問いかけに告春は顔を赤くして否定した。慌てているあたり怪しいけれどまだよくわからない。けれどブライダルショップを訪れた時からなんとなく怪しいと思っていたところだった。同じクラスに経営者の娘がいるなら活かさない手はないが、デザインを考える本人である唯月の了承を撮る前に告春は半ば食い気味にブライダルショップ行きを決めていた。唯月としては休日好きな人に会ういい口実を見つけた男の子にしか見えなかったのだ。
「あれはブライダルショップに行ってみたかっただけから。かんなちゃんは関係ないよ」
「でもあの子かわいいよね。告春のわがままも素直に聞いてくれて優しいし」
「それよりドレス。実際近くにいない人でもこの人のためっていう気持ちがあればイメージできるのかな」
「それなら…」
そう言われて唯月がひらめいたのは自分の親戚。タイムリーなことに来月結婚式を控えている。お嫁さんには唯月もあったことがある。唯月がデザインしたドレスを着てもらえるわけではないけれどイメージするだけならちょうどいい。
「どんなドレスがいいかな」
「ちょっと調べてみようか」
相手はスラリと背が高く美人で落ち着いた人だった。この間は「王道」を意識してドレスを創っていたが今回はさらに「大人っぽい」を意識する必要がある。より多くの情報を得るべく、パソコンを起動させた。
「先輩ってさ、どんなのが好き?」
「どんなのって?」
唯月は手先で器用にパスワードを打ち込みながら会話する。告春は絶え間なく移り変わる画面をただ眺めながら尋ねた。
「洋服とかファッションとか。俺はミリタリーが好きだな」
告春は天性のミリタリー好きで休みの日にはミリタリーショップを巡っている。私服や身の回りのものもミリタリー趣味を感じるものが多い。
「私は…ロリィタが好きかな」
「ロリィタってあのひらひらしたかわいいやつ?」
「そう、あのロリィタ」
「いい!那珂ちゃん先輩絶対似合う!」
「着ないよ!」
告春は似合うと言うけれど唯月にとってロリィタは見る専門なので別に着るわけではない。よくよく見ると唯月の身の回りの小物などはロリィタ趣味のかわいいもので揃えられている。
「筆箱とかシャーペンとか、クリアファイルも。那珂ちゃん先輩好きだよね、パステルカラーとか、フリルとか」
「好き。女の子だもん。かわいいって大事にしたいよね」
ニコッと微笑む唯月に告春も満点の笑顔を見せた。女の子らしい、かわいいものは告春もお気に入りだ。
「せっかくだからちょっと調べて見ようよ、ロリィタ」
「え、学校のパソコンで?」
「いいじゃん。必要資料」
ロリィタも奥が深いようで普通のロリィタファッションに加えて和ロリ、中華ロリなどと様々な種類がある。告春が見たことがあるのは普通のロリィタファッションだけだったが唯月は特に日本の和を取り入れた和風ロリィタを好んでいる。
「ジャパニーズかわいい!着物なのにひらひらしてる!ドレス浴衣みたい」
「かわいいよね」
最近日本のポップカルチャーにはまっている告春はロリィタファッションもお気に召したようだ。
「こっちの白いのもかわいいな」
「かわいいー!先輩絶対似合うよ!」
「だから着ないってば」
見る分にはかわいらしくていいけれど、着るとなるとかなり勇気がいる。あいにく唯月は持ち合わせていなかった。幼い子どもをイメージした作られているロリィタファッションはかわいげのない自分と相反しているようでその趣味さえも今までひた隠しにしてきた。
「気にすることないと思うけどな。那珂ちゃん先輩かわいいもん」
「からかわないで」
「からかってないよ。本当にそう思う」
笑いながら言う告春の言葉はいまいち信用できない。人生の半分くらいを嘘でごまかしてきたような軽いやつだから信用が薄いのかもしれない。どちらにせよ似合うというのはお世辞だろう。唯月は背もそれなりに高いし決してかわいらしい女の子ではない。そんな高校生がかわいらしいロリータファッションに身を包んでいたらどう思われるだろう。
「ここのブランド好きなんだ。今度行ってみたいな」
「行ったことないの?」
「うん。ネットで見るだけが多いから。私見る専だし」
今の時代、ネットを利用すれば家から出ずとも様々なものを見ることができる。唯月の場合だと実際に着る必要はないのだからネットで十分満足と家で見るだけに終わってしまう。だから実物を見たことも本当に数えるほどしかない。
「あ、ミリタリーロリィタだって!そんなのあるんだ!」
ミリタリーという言葉に素早く反応した告春は迷わず検索をかけた。そのスピードはさすがミリタリー好き。その軍人めいた衣装は告春の好奇心を見事にくすぐったようで画像が出た途端に見事に画面に食いついた。
「すごい!なんか軍人っぽいね!でもあんまりひらひらしてないのもあるよ」
「フリルばっかりがロリィタじゃないよ。ウエディングドレスもいろいろあるでしょ」
「そういえばそれを調べるためにパソコンつけたんだよね」
本来の目的を思い出してようやくウエディングドレスを検索した。スカート部分の長さや形だけでなく、袖、素材、装飾など様々な種類がある。実際に見に行ったときにはここまでたくさんのものは見られなかった。やっぱりいろいろ見るなら時代はネットだよね、と現代っ子・告春が零した。
「かんなちゃんとこのお店で見たのって本当に一部だったんだ」
「店頭に並べるのは限界があるもんね」
お店には並んでいなかった見たことのないドレスがたくさん映し出された。
「お姉ちゃんならビスチェよりもオフショルの方が似合う。スレンダーとかマーメイドで大人っぽくするのがいいよね」
「いいと思う。なんか面白くなってきた!」
形が決まるとすぐにペンを持ってアイデアスケッチをまとめた。以前のドレスとは打って変わってシンプルなドレスだ。生地は高級感のあるシルクやサテンを利用。フリルもビーズも使っていない。背中につけた長いリボンと流れるようなストレートラインのスカート。シンプルイズベストの名が似合うドレスに仕上がった。
「いい。こういうのも嫌いじゃない」
「告春に言われてもな。なんか自信持てないや」
早く先生とこ持って行こう、と唯月よりも張り切る告春に手を引かれて先生の元へ向かった。
「お願いします」
以前より確実に自信がある誰に来て欲しいという明確な目標がある。ウエディングドレスの形や素材についても調べた。ここまでしたのだからそろそろ及第点をくれてもいいはずだ。けれど先生の顔は明らかに曇っていた。
「これは誰かイメージした?」
「お姉ちゃん…親戚のお兄ちゃんのお嫁さんです」
「それはなんで?」
「もうすぐ結婚するから1番イメージしやすいかなって」
「そっか…」
先生は未だドレスとにらみ合ったまま曇った表情を浮かべている。何か隙を探しているように隅々までドレスをみている。
「…この人はこういうイメージ?」
「はい」
「那珂とは違うな。全然」
はい、とは答えるけれどドレスをみただけでそこまで違いがわかるだろうか。唯月も背が高い方ではないが、落ち着いたイメージは持っている。着るならこういうドレスもしっくりくるだろう。
「違うな。これは那珂のドレスじゃない」
「はい?」
「お前らしくない」
唯月らしくない。それが存在の不採用理由。また書き直しだ。
「自分らしさを前面に出していいと思う。これでは実践的にはいいかもだけどコンテスト的には違うだろ」
確かに実際ウエディングドレスをデザインするなら相手のイメージに合わせたり注文されたデザインに合わせて作るのが普通だ。そこに自分らしさや個性は必要とされない。けれどこれは誰が1番かと競い合うコンテストだ。自分が思うように作り、自分らしさを殺す必要はない。もっと魅せて構わない。
「那珂ちゃん先輩らしさってなんですか」
「それはお前の方がよくわかってんじゃないのか」
「らしさ…」
告春は今まで一緒にいた時間を考えた。唯月らしさ。それは長い間一緒にいた告春かよくわかっているはず。唯月といえば、何を見て唯月を思い出す、唯月の好きなものは…
「かわいい、とか?」

Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---3

『かわいい』
それが唯月らしさなのではないかと告春は提案した。普段から控えめで大人しい人だけれど考え込んだときに描くプリンセスのイラストや愛してやまないロリィタファッション、それを見る唯月のキラキラとした笑顔。これまで見てきた全てを見て告春は『かわいい』と判断した。告春の個人的な見解であるがゆえ、間違っているわけではないが他の人がそう思うかどうかはわからない。けれどそれが今1番近くにいる告春が述べる『唯月らしさ』だ。
「相手に合わせて自分が背伸びしなくてもいいんだよ。自分らしさを大事にすれば」
「はあ」
「先生注文多い…」
「告春は好きで手伝ってんだろ。なら文句言わずにやれ」
「はーい」
相手に合わせて自分が背伸びをしなくてもいい。けれどそれは自分らしさを出しつつ相手にも合うドレスを作らなければならない。そんな器用なこと唯月にはできない。相手を変えるところから始めなくてはならない。
「相手より先にデザイン考えようよ。那珂ちゃん先輩が描きたいデザイン」
「描きたいデザイン?」
「好きなものとか」
好きなもの。それはすなわち唯月らしいと言ってもいいだろう。
「ロリィタなウエディングドレスってなに」
「うーん…レースとかを使えばそれっぽくはなるかも」
レース素材の布を使ったり、フリルを段を変えて重ねていけばロリィタの要素は摑める。しかし唯月はそれを求めているわけではない。
「ウエディングドレスだもんね。やっぱり大人っぽくしたいよね」
「それかその発想がすでに私らしくない?」
「もうわかんない…」
唯月も告春もお手上げ状態だった。自分らしさとウエディングドレスがかみ合わない。うまくいかない。自分にはやはりウエディングドレスは無理だったのかもしれない。
「那珂ちゃん先輩、ちょっと出かけよう」
「出掛けるって、どこに?」
「いいとこ!」
言われるがまま告春に連れられて学校を飛び出した。制服のまま学生カバンを背負って。
「ねえ、どこ行くの?」
「いいとこ」
「さっきからそればっかり。教えて」
「いいから、ついてきて!」
休日とはいえ制服のまま乗り込んだバスの中では周りからの視線が痛かった。休みの日によく見る人気のなんちゃって制服とは違いかわいいリボンもなければオシャレなチェック柄のスカートもない唯月たちの地味な制服は確実に本物。しかも2人揃って学校指定のマークの入ったスクールバックを膝の上に抱えている。通学ラッシュの時間帯でも帰宅ラッシュの時間帯でもない。電車はかなり空いていて長時間乗っていられた。周りはちょっと街へ買い物に出かけるおばあちゃんや営業に行くサラリーマン、昼から授業の大学生など。決して自分たちがいて自然な場所ではない自覚がある。けれどわざわざ学校から出て告春が連れて行ってくれるというのだから少しは期待していい気もする。
「ちょっと強引だった?ごめんね」
「いいよ。準備室で考えてても仕方ないもん。いいとこ連れてってくれるんでしょ。楽しみ」
告春は珍しく少し心配そうな顔を見せていたが、唯月につられていつもの笑顔をに戻った。
「絶対いいとこだから。それだけは自信ある!次降りるよ」
告春について電車を降りて、駅から街に向けて少し歩いた。大きなお店が並ぶ商店街に入って行き、1つのお店の前で足を止めた。
「ここって…」
「先輩ここ来てみたいって言ってたよね。気分転換」
「すごい!すごいすごい!」
ALICEparty。唯月が以前から好きで行きたがっていたロリィタブランドのショップ。ロリィタファッションの洋服だけでなく文房具や小物、アクセサリーなど女の子が欲しがるほとんどがここで揃う。まるでウエディングドレスを見に行った時の告春のように楽しそうにお店を見て回る唯月。キラキラと目を輝かせる様子はいつもとはまるで違い、子どもに戻ったような笑顔が見られた。
「何か着てみたら?せっかくだし」
「いや、似合わないし!見てるだけで満足」
「勿体なくない?試着だけならタダだよ」
「でも…」
告春もそれなりに楽しそうに店内を眺めている。ネットで見たようなミリタリーロリィタは見つからないけれど普通のロリィタも悪くない。階段に沿って並んだ洋服を眺めていると後ろから制服の裾を引かれた。少し恥ずかしげに、でもまっすぐに告春を見つめた視線が何を意味するのか初めはわからなかった。しばらくきょとんとして唯月の目を見つめ返していると呟くような声が聞こえた。
「あれがいい」
唯月が指さした先には真紅のクラシカルワンピース。裾や袖には控えめにフリルが使われていて落ち着いたデザインだ。ところどころに入った白いラインと胸元のリボンがかわいらしい。
「和ロリじゃなくていいの?」
「うん」
早速試着室でワンピースに袖を通した。今まで着ることは避けてきたロリィタ服。実際に来てみてもまだ実感がなく夢のような気さえする。ずっと憧れていたロリィタ服。
「着れた?那珂ちゃん先輩!」
「うん」
「見せて見せて!」
ガラリとカーテンを開けると告春が好奇心たっぷりの顔で待ち受けていた。
「かわいい!やっぱり似合うよ、那珂ちゃん先輩!」
「そうかな…ちょっと身の丈にあってない気も」
「そんなことない。かわいいよ!」
「…ありがと」
ストレートにかわいいと褒めてくれる告春に照れながらお礼を告げた。お姫様が来ているような素敵なドレスではないけれどそのワンピースは唯月によく似合っていた。
「買わなくていいの?」
「着ることないもん。たんすのこやしなんてかわいそうでしょ」
「それもそっか」
ワンピースは買わなかったけれどいろいろなもの見られたに気晴らしができたし唯月としてはとても満足だ。このあとまたウエディングドレスが待ち受けていると思うと気が滅入るけれど今ならどんな苦難でも乗り越えられる気がする。
「やっぱり私らしいって好きなものを取り入れたほうがいいのかな」
「ひらひらのレース?」
「でもそれだけじゃダメなきがするな」
唯月らしさとウエディングらしさ。どちらも合わせもつもの。子どもっぽくなりすぎず、なおかつロリィタを取り入れて…一層のことロリィタから離れるべきなのかもしれない。でもそうしたら何で自分らしさを表現すればいいだろう。何が自分をよく表してくれるだろう。自分が今1番に思いつくことといえば。
「那珂ちゃんせんぱーいっ、帰ってきて」
「…告春」
「うん?」
「告春!」
「はい!?」
立て続けに名前を呼ばれて告春は混乱状態だが唯月はペンを手にとってスケッチブックに向かった。ペンを休まず動かして、今思いつくありったけのデザインを描き上げた。
「那珂ちゃん先輩…?大丈夫?」
告春が話しかけても描き続ける嘗て見ない集中力。唯月が何を思いついたのかわからない。
「どう?」
まだ混乱状態から抜け出せてないところにスケッチブックを突きつけられてさらに状況が掴めない様子の告春だったが落ち着いた上でちゃんと完成したドレスを見てこれならいけるかも、と笑って見せた。
「お願いします」
先生に提出したデザイン案。三度目の正直。これでダメなら本当にお手上げだ。今度のデザイン案はショート丈のカーテンドレス。袖口は女の子らしいパフスリーブを採用。全体は初めに使ったのと同じ柔らかいシフォン生地。斜めに広がるカーテン部分と裾にはフリルをあしらった。間から見える下地には桜の模様が浮き上がるペールピンクの素材を使用した。背中を飾るリボンもペールピンクで統一した。女の子らしさを出しながらも上品になるように工夫した唯月の傑作だ。
「考えたな。リボンもフリルもお前らしい。色使うのが禁止されてるわけじゃないし」
「先生がやっと否定しないで評価を!」
告春は大袈裟に感動した様子を見せたがこれでまた厳しい評価を食らったら告春だってライフはないだろう。フリルやカーテンドレスのデザインはロリィタからヒントを得た。けれど桜柄の布や白以外の色を入れること、ショート丈という発想は別の場所からひらめいたものだ。
「これも誰かに着せたいドレスか?」
「着せたいわけじゃないけど、イメージはして作りました」
「そうなの?だれだれ?」
告春も知らされる前にここに来たから誰なのかはわからない。
「告春だよ。告春のドレス」
「え、俺?このドレス俺?」
唯月が自分のことを考えてデザインしてくれたというのは嬉しい気もするけれどそれが女の子の夢であるウエディングドレスというのはなんとも複雑な気持ちだった。まあ最終的にはいいドレスに仕上がったし、先生も高く評価してくれたからいいか、とポジティブに捉えることにした。
「じゃあこれで出していいのな?」
「はい」
「やった、ミッションコンプリート!那珂ちゃん先輩お疲れ様」
「お疲れ告春」
やっとデザインを終えて肩の荷が下りた2人。あとは応募用紙を記入して提出するだけでやるべきことは全て終わる。
「あとは私1人でできるから。本当にありがとう」
心からの唯月の笑顔は全てを終えた安堵や最後まで支えてくれた告春への感謝を十分に表していた。ドレスのテーマ、込められた思い、工夫した点など。応募用紙はすらすらと埋められその日のうちに書き終えて、翌日には先生に提出できた。
「ね、先生。俺まだあのドレスの作品名知らないんだけど」
「聞いてないのか?まあ知らなくてもいいかもな」
「えー、なんでですか。俺も知りたいっす」
問い詰めても適当にはぐらかされる。そんなに聞きたいなら本人から聞けと言われたけれど当の唯月も知らなくてもいいかも、とか言って教えてはくれない。そこまで隠されると突き止めないと気が済まない。
「そこまで言うなら見せてやるよ、応募用紙」
粘った甲斐もあり、提出用の応募用紙のコピーを見せてもらえた。後ろから他にも数人集まってきて応募用紙を除きこんだ。
『テーマ:Coming Spring』
「こみんぐ…すぷりんぐ?」
「カミングな。カミングスプリング」
後ろから他の1年が訂正を入れている間も告春はピンとこないらしい。
「なに?どういう意味?」
「さすが留年候補トップだな」
『Coming Spring』意味は『春を告げる』告春をイメージしたドレスだからと告春の名前をそのままつけた。カーテンドレスの奥で控えめに桜が春の訪れを主張しているドレスにぴったりの名前だ。
「すげー!俺の名前だ!」
「良かったじゃん、告春」
アーティストの作品に自分の名前をつけてもらうことほど名誉なことはないだろう。しかも相手は我が校美術部の次期エース候補だ。
「那珂ちゃん先輩、ありがとう!」
「どういたしまして」
「おい告春、ここにもお前の名前」
「うん?」
指差されて見たのは言われた通り告春の名前。それは製作者の欄。
「これは?」
「製作者は1人じゃなくていいみたいだから。告春の名前も入れたの。いっぱい手伝ってもらったから」
「いいの?俺なんもやってないけど」
「もう出しちゃったもん」
自分の名前がついたドレスの製作者に名前が入るというのはなんとなく恥ずかしい気もする。これは唯月の策略だろうか。どちらにせよ出してしまった書類を取り消すことはできない。
「ありがと、那珂ちゃん先輩。入賞できるといいね」
「そうだね」

Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---4

秘められた狭い空間に閉じこもったままどれくらいの時間が経っただろう。外には自分とは不釣り合いな賑やかで煌びやかな空間が待ち受けている。
「那珂ちゃん先輩、早く出てきてよ」
「絶対出ないから!」
「文句言わないの」
白に包まれた空間の中でカーテン越しに繰り広げられる会話は控え室中に大きく響き渡る。白いタキシードに身を包んだ告春はずっとそこで待っているけれど唯月は一向にカーテンの外に姿を現さないで、中に閉じこもっているのだ。告春としてはすぐにでもカーテンを開けてやりたいけれどもし着替えていたらと思うととても開けられない。
「告くん、おまたせ!」
「あー、かんなちゃん!ちょうど良かった」
唯月が閉じこもっている間にかんなが到着してしまった。ドレスを着るのでそれなりのおめかしは必要だろうとメイクやその他諸々はかんなに任せてある。まだ勉強中といえど、ブライダルショップの時期後継者。簡単なメイクやアクセサリーのチョイスには十分の知識と腕を持っている。
「唯月先輩、時間ないですよ。出てきてください」
かんながカーテンを開けると真っ白いドレスに着せられた唯月が立っていた。外からの視線から逃げるように狭い個室の奥にただずんでいる。花も恥じらう乙女という言葉がぴったりだ。
「うわあ、那珂ちゃん先輩綺麗!めっちゃ綺麗!かわいいよ!」
「告春うるさい!」
コンテストで見事最優秀賞に入賞を遂げた2人は授賞式に招かれていた。ステージではそれぞれがデザインしたドレスを主催者側が製作し、それを着ることになっていた。完成したドレスとそれを着た唯月を見てテンションが上がりきっている告春は唯月を見て称賛の言葉を連呼する。唯月は恥ずかしさのあまりまたぴしゃりとカーテンを閉めてしまった。
「身長を書き込む欄があったからずっと気になってたんだよな…」
応募用紙の名前を記入する欄の横には身長を記入する欄が設けられていた。なんのためだろうと唯月は不審に思いながら書き込んでいたのだ。カーテン部分の間から見えるペールピンクの生地や桜の模様は告春の名前から連想したもの。丈の短いスカートはとにかく自由で元気な告春でも動きやすい工夫。生地を重ねてふんわり仕上げたのは告春と一緒にお店で見たあのドレスを思い出したからだ。こんなにも告春のためを思って作ったのだから本番でも告春には着せてやろうと思っていた。身長も唯月とそんなに変わらないし華奢な体つきに二重で童顔の告春ならそれを着ても違和感がないと思った。それでもやはり告春は男の子。広い肩幅としなやかさのない手足に乙女の象徴である白いウエディングドレスを着せるのはあまりにも酷に思えた。その他の受賞者は制作されたドレスを着る人も着ない人もみんな女の子。タキシードをきていることもあってか男の子の告春は周りから少しばかり浮いていた。
「似合ってるよ、那珂ちゃん先輩。時間ないからさっさと済ませよ」
そう言って告春は唯月に手を差し伸べた。この格好の2人が手を取り合うと本当に結婚式の前に見えてしまう。唯月は大人しく鏡の前の椅子に座らされた。手入れの整った髪の毛の毛先をくるんとカールさせていく。髪飾りはドレスに合わせて桜があしらわれたものを選んだ。
「那珂ちゃん先輩、手出して」
そう言われて手を差し出すとマニキュアを塗ってくれた。凝ったことはできないけれど塗るだけでも印象が大きく変わる。白ではなくかわいらしさを求めて告春はミルキーピンクをチョイスした。爪をあまり伸ばしていない唯月にはシンプルなネイルがよく似合っている。かんなもメイクを仕上げて花嫁の出来上がりだ。
「できた!どうですか?」
「なんか自分じゃないみたい…」
目の前の鏡には素敵なウエディングドレスをきた女の子。細かいところまで手入れの行き届いた花嫁は完璧なものでロリィタファッションを夢見る控えめで平凡な美術部員ではなく、綺麗に着飾ったお姫様だった。告春が自分もと言わんばかりに唯月の隣で鏡を覗き込む。
「ちゃんと那珂ちゃん先輩だよ!ほら立って!」
「変じゃない?おかしくない?」
「めっちゃ綺麗!」
両手を握って正面から目を見てくれた告春の言葉は迷いなく信じることができた。告春の言葉を素直に受け入れられたのはきっと初めてだった。自分の着ているドレスが今まで2人で一緒に頑張ってきた白い悪魔のゴールを表しているようで唯月は恥ずかしそうに笑った。
「もうちょっとだけ背が高かったらな…」
告春は鏡の中の並んだ自分たちを見て悔しそうに呟いた。唯月と2センチほどしか変わらない告春はウエディングドレスにの隣でタキシードを着るには少しばかり背が低い。
「ちょっとだけじゃ足りないかもね」
「いいもん。ちょっとだけど那珂ちゃん先輩より高いもん」
「ちょっとだけじゃん。本当に」
「いいの!ちょっとだけど高いの」
いつも通り軽く言いあうと唯月にも普段と変わらない素直な笑顔が咲いた。緊張も解けて授賞式がそろそろ始まる時間だ。受賞者たちがぞろぞろと集まり始めた。
「お手をどうぞ、花嫁」
「お言葉に甘えて」
花婿に手を引かれた花嫁は前を向いて一歩踏み出した。

「すごいね!那珂ちゃん先輩!人いっぱいだったね!」
「なんか本当にすごい賞もらっちゃったね」
授賞式を終えた後。2人はしばらくそのまま控え室で拍手喝采の余韻に浸っていた。ウエディングドレスと輝くスポットライト。2人は結婚式を終えた夫婦のようになんとなく甘い気分の中にいた。
「那珂ちゃん先輩は自分の結婚式でもそんなドレスが着たい?」
「私はやっぱり長いドレスがいいかな」
「それがいいかもね」
告春は今回白いタキシードだった。周りがほとんど白いウエディングドレスだからその方が浮かないだろうとチョイスしたが実際は黒や紺、グレーがオーソドックスだろう。唯月も告春もまだ結婚できる年齢ではないし今回は自分が結婚するときには選ばないであろうものを着られるいい機会になったのかもしれない。
「告春は似合ってるよ。白のタキシード」
「本当?」
「うん」
唯月に褒められて告春も嬉しそうだった。自分で褒めることは多いけれど褒められることはあまりない。嬉しくて思わず顔がにやけた。
「告春はお嫁さんにどんなの着てほしい?」
「うーん。俺的にはかわいいって思ったらなんでもいいかな。本人に似合ってれば、あんまりこだわりはない」
以前から将来はお嫁さんが着るドレス自分でデザインしたいと言っていたからどんなドレスがいいのかなんとなくのイメージは持っているのではないかと思っていたけれど、想像以上に感覚的だった。この様子だとお嫁さんは結構苦労するだろうなと唯月は苦笑する。そろそろ帰ろうか、と唯月は立ち上がった。十分に余韻には浸った。そろそろ着替えて帰る準備をしなくては、会場も閉められてしまう。
「着替えるの?」
告春は名残惜しそうに尋ねた。
「帰らないと。いつまでここにいるつもり?」
「もうちょっとだけ、このままでいよう」
告春は子どものように唯月の手を引いた。唯月は仕方ないな、と告春の隣に座りなおした。刹那、告春は唯月の体を抱き寄せた。
「…告春?」
「那珂ちゃん先輩はさ、どんな人と結婚したい?」
「まだわからないな。でも特別何が必要ってこともないから普通の人がいいかも」
今はまだ未来のことなんてわからない。けれど特別なことは望んでいない。頭が良くなくてもいい。収入が低くても構わない。ただそれなりに幸せな生活さえできていれば特別なことはいらない気がする。
「告春はどんな人と結婚したい?」
告春は少しだけ黙りこんだけれど迷わずに答えを告げた。
「俺、那珂ちゃん先輩がいい」
「…私?」
「那珂ちゃん先輩が好き。振りまわしてもついてきてくれるし、俺わがままだけど那珂ちゃん先輩優しくしてくれるし」
「そっか…」
唯月を抱き寄せる告春の手に自然と力が入った。ドレスなんて着せようとしていたけれどやっぱり男の子だな、と改めて思う。
『じゃあ那珂ちゃん先輩俺と結婚しようよ』
『那珂ちゃん先輩かわいいもん』
『お手をどうぞ、花嫁』
告春が言っていた言葉は全て冗談でもからかいでもなかった。本当に純粋に告春が思っていた言葉だったのだ。なんで今まで気づいてあげられなかったんだろう。告春は必死だったのに。ずっと唯月のことが好きだったのに。
「ごめんね、ずっと気づいてなくて」
いつも言い回しが軽いから気付かなかったけれど告春が褒めてくれた言葉は全部本物。唯月を思って言っていた本当の気持ちだった。告春はずっと俯いたまま顔を上げられないでいた。自分のわがままで引き留めて、やっと思いを告げたのに。謝らせてしまった自分が、俯くことしかできない自分が情けない。
「俺、18になったら那珂ちゃん先輩のこと迎えに行く。それまでに絶対落としてみせるから、待ってて」
宣戦布告。婚約宣言。顔は見られなかった。目を見ればきっと恥ずかしくていうのをやめてしまう。だからお互いの顔を見ることもできなかったけれどそれは間違いなく告春の精一杯の気持ち。
「…それってさ、愛の告白?」
「そのつもり」
幼い顔をしていてもちゃんと男の子。所詮年下だと思っていたけれど自分よりずっと先が見えてて、勇気があって、行動できるまっすぐな子。自分の気持ちに嘘をつかない素直な告春の気持ちは十二分に唯月にも伝わった。
「わかった。じゃあ告春が高校卒業するまでは待つ。告春のものでいてあげる。そのあとは自分で決めるからね」
「うん」
期限付きで行く当てもわからない恋だけれど唯月は告春の気持ちに応えたかった。自分のことを真剣に思ってくれて支えてくれた告春への恩返しのつもりで。告春ならきっと期限以内に自分を幸せにしてくれると思った。告春になら自分の身を任せられる。信じられる。そう思えた。
「じゃあさ、名前で呼んでもいい?」
「名前?」
「うん。結婚したら那珂ちゃん先輩じゃなくなるかもしれないでしょ」
すでに結婚する気でいるあたりが自信家の告春らしい。でも付き合うなら少しくらいの変化はあったほうがいい。
「そっか。いいよ名前で」
「やった」
告春は笑って立ち上がった。そろそろ着替えなければ本当に会場に閉じ込められてしまう。
「じゃあまたあとでね、唯月ちゃん先輩」
告春は笑顔でそう告げて控え室をあとにした。

Tsuguharu MAMIYA〈始まりの日と今〉---Extra edition

始まりは4月。まだ桜も満開に咲いていて、春日和という言葉がぴったりな良く晴れた暖かい日だった。告春は必死に勉強して補欠合格も危ういと言われた高校に見事合格した。勉強が壊滅的に苦手な告春にとって地元の公立高校に合格できたことは両親だけでなく祖父母も望んでいたことでバスで片道1時間以上かかる私立に通わせなくて済むと涙を流して喜んだ。告春としては対して偏差値が高いわけでもない地元の高校に落ちるなんて笑い事にもならないからと受験を決めてからは死に物狂いで机に向かっていたから合格した時は安堵の胸をなでおろした。だからといって気を抜いて勉強をおろそかにはしていられない。中学まで続けていたテニスはやめて何か忙しくない文化部にでも入ろうかと検討していたそのとき、不意に目の前にチラシが差し出された。反射的にそれを受け取り、目を通す。しかし、たかが勧誘。そこに自分に入って欲しいという思いはなく、ただそこを通りかかったからチラシを渡しただけのことだ。他の部活に捕まらないうちに帰ろう。そう思って避けようとしたとき、遅れながら勧誘の声がした。
「あの、美術部です。よろしくお願いします…」
控えめで儚く消えてしまいそうな声。けれど目はそらさずにちゃんとこちらを見ていた。嘘をついても見透かされてしまいそうなほどまっすぐな視線に告春は一瞬で引き込まれた。一目惚れだったと思う。恥ずかしがり屋で引っ込み思案そうな人だったけれど、その一生懸命さがかわいいと思ってしまった。名札の色から察するに2年生。名前は見えなかった。けれど他の部活のように強引な勧誘ではなく、ちゃんと自分の顔を見て誘ってくれた。自分のことを誘ってくれた。そのことが妙に嬉しかった。
「美術室でやってます。そこの教棟の…入ってすぐ。よかったら、見に来て」
それだけいうと走って行ってしまった。本当に短い時間で、告春自身はしゃべりもしなかったけれど、自分を誘ってくれた美術部の先輩に恋をした。もう1度会いたい。会って話がしたい。自分のことを知ってほしい。今まで美術なんて興味もなかったけれど急に始めたくなった。あの人と同じことがしたい。そんな衝動に駆られて後ろを追いかけた。すぐ近くの教棟の入ってすぐ。そこがあの人がいるアトリエ。美術室に入る直前、あの人を手を捕まえた。急に手を掴まれた方は驚くし、怖がって固まった。けれど告春はすぐに口を開いた。
「1年3組の、真宮告春です。俺、美術の経験とかないんですけど、大丈夫ですか?」
息があがってうまくしゃべれなかったけれど伝えられた。そして笑ってくれた。
「2年の那珂唯月です。初心者でも一から教えるので、是非」
唯月は美術室のドアを開け、告春を那珂に招き入れた。告春の知らない世界が広がっていた。それはとても眩しくて思わず後ずさった。
「新入部員、1人確保です」
「やるじゃん那珂ちゃん!」
「これでまた1人増えたな!」
自分の入部を喜んでくれる人がいる。初心者なのに受け入れてくれる。新入部員の確保を喜ぶのはどの部活も同じだけれどこのときの告春には美術部が何か特別なものに見えていた。それは唯月が隣にいたからなのかもしれない。

「違う、そこは100かけるの!」
「唯月ちゃん先輩厳しー」
運命の出会いから4ヶ月。あの頃の儚くて恥ずかしがり屋の可愛らしい唯月はどこへやら。唯月は随分印象が変わっていた。今日も8月に入っても宿題を始める兆しがない告春を昼から残して勉強を見ている。唯月も自分のことがあるだろうに顧問に止められて美術室で2人居残り。勉強は難しいし、昼からも残って宿題なんて面倒だけれどけれどこういうのもたまには悪くない。
「違うってば。パーセント濃度はこれで割るの」
秀才な唯月の教え方はスパルタ。告春にはちょっと難しいけれど唯月は手加減なく厳しく指導する。
「でもそういうとこも好き」
「バカなこと言ってないでmol濃度求めてください」
「はい…」
唯月は美術系の進路を目指しているので、来年からは芸術が履修できるコースを選択するのが妥当である。デザイン系の学部には物理や数学が必要になることが多いため、2年生のうちは理系コースを取っている。そのおかげか理科は唯月の1番得意な科目だ。
「でも唯月ちゃん先輩が取ってるのって物理でしょ?化学は違くない?」
「化学もやってるよ。一応理系コースだからね」
まだ1年生の告春はコース分けや文理選択をしていないが告春の学力なら就職向きの商業コースが限界だとどこにいっても言われる。唯月には進級も危ういと言われる始末だ。暑さは増していくばかり。告春の頭の回転は徐々に速さを失っていく。
「もう頭回んないよ」
「じゃあここまで解けたら休憩にしよ」
休憩が待っているのなら、と告春は気合を入れてペンを取り直す。必死でわけも分からずペンを走らせる姿は入試を控えた受験生よりもテストを控えたクラスメイトよりも一生懸命で思わず笑みがこぼれた。
「終わった!終わったよ!」
「うーん、ここは後でもう1回復習しようか。じゃあちょっと休憩」
ゴミ捨ててくるね、と空になったペットボトルを持って立ち上がる。ここは真摯に告春が捨てに行くべきなのかもしれないが、残念なことに今の告春にそんな余裕はない。勉強を教えてもらっている身分だ。そんな暇があるのなら公式の1つでも覚えてくれと一蹴されてしまいそうだ。情けないけれど勉強もできない、スポーツもイマイチ、部活も中途半端。どこを取ってもいいところがない告春はかっこつけたところでボロが出るのがオチだ。冒険せずに大人しく唯月に甘えているのが安泰と言える。
「唯月ちゃん先輩遅いなー」
ゴミを捨てに行ったきりなかなか戻ってこない唯月。先に勉強始めてたら褒めてくれるかな、などと考えたが唯月がいなければわからないところから進めない。化学反応式を眺めているとだんだんと眠くなり、うとうととし始めた。

「……」
「いつまで寝てるの?続きやるよ」
耳元で囁く声が聞こえた気がする。まだ半分くらい夢の中にいた告春は頬に冷たい缶ジュースを当てられて飛び起きた。
「びっくりした!帰ってきたんだ」
「うん。ゴミ捨てるついでにちょっとコンビニ。告春もお昼まだでしょ」
「ゴミのついでにしては遠出だね」
告春は起き上がってジュースと菓子パンを受け取った。
「唯月ちゃん先輩は自分の宿題とかいいの?」
「したいんだけどね?誰かさんの勉強に付き合わされてるもので」
「ごめんなさい…」
唯月はなんだかんだで優しい。2年生の進学クラスなら告春より当然やらないといけないことが多いはずなのにずっと告春につきっきりで勉強を教えてくれている。勉強も部活も好成績で先生からの信頼も厚いし告春とは正反対とも言えるほど出来上がっている。
「ねえ唯月ちゃん先輩」
「何?どこがわからない?」
「…唯月ちゃん先輩は俺のこと好き?」
突然の問いかけに戸惑い一瞬だけ固まった。
「急にどうしたの?」
「俺は唯月ちゃん先輩と違ってあんまいいとこないし、ぱっとしないし、俺と一緒にいて楽しいかなって」
「そうだなあ。告春が最初に美術部に来た日のこと覚えてる?」
桜が咲いたと暖かい日。2人が最初に出会った日。告春が唯月に一目惚れしたあの日。忘れるはずもない。
「私ね、1年生に声かけるの怖かったの。どうせ私がこんなことしても向こうは気にもせず帰ってちらしを捨てるんだろうなって。でも告春は私を追いかけてくれたでしょ。嬉しかったんだ。告春が告白してくれたのも嬉しかったよ。こんな私のこと見てくれる人がいるんだって思った。告春はいつも私を見てくれる。だから私は告春が好きだよ」
心臓が高鳴った。唯月が告春を好きと言ったのは初めてだった。
「ずっと見てたよ。あの日からずっと」
「告春は私が好き?」
「うん。まっすぐで苦手なことも一生懸命ですごいなって思う」
「ありがと」
ずっと怖かった。自分は唯月が好きだけど、唯月はどうなんだろう。自分の思いばかりが空回りしていないだろうかと。けれど大丈夫だった。唯月もちゃんと自分を見てくれていた。それだけでもう何もいらない。
「一区切りついたし今日はもう終わりにしよう」
「うん…唯月ちゃん先輩帰るの?」
「帰るよ」
「じゃあ…一緒に、帰りませんか?」
告春が普通に照れているのがなんだか珍しくて、唯月はくすりと笑った。
「じゃあ帰ろうか」
告春は机のうえのものをカバンに片付けて走り出した。
「いこう!」
「うん」

Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---1

「軍艦の写真?」
「そう。県美術館の特別展示でやってるみたいなの。告春そういうの好きかなって」
「好き好き!連れてってくれるの?」
「うん。遅くなっちゃったけど前にALICEparty連れてってくれたお礼。今度の土曜日空いてる?」
「うん!」
夏休み気分も明けきらない8月末。唯月は告春を美術館で行われる展示に誘った。展示があることは担任の口から聞かされていた。割引券とやらも配られていたが、HRから常時寝ている告春の耳には入っていないらしい。
「軍事車両、軍艦、軍用機か…なんかわくわくするね」
「告春って主戦派?」
「違う違う。そうじゃないけど!」
美術室前に張り出された大きなチラシを見て告春はどんな時よりも生き生きした笑顔を見せる。ゲームやアニメ、漫画、コスプレなど日本のポップカルチャーに強い興味をしめす告春だが、ミリタリーへの愛情はそれをはるかに超えている。デザインする作品も描く絵もカーキ色や迷彩柄がどこかに隠れていることが多い。
来る土曜日、バス停で待ち合わせて2人は遠方の美術館に向かった。
「バスで出かけるのって中学校の総体以来だ」
「そっか。中学ではスポーツやってたんだよね」
「そう。一応テニス部。試合あんまり出てないけど」
唯月はあまり意識していなかったけれど、付き合っている2人で出かけるなら、デートと言えなくもない。初デートが美術館のミリタリー展示というところが2人らしい。制服を脱いで長めのクラシカルワンピースを身にまとったいつもと違う唯月に告春の心臓が高鳴った。
「告春はショップ巡りとかするんだよね。展示は言ったことあるの?」
「ないよ。今までこういうのなかったし」
「そっか。ミリタリーショップって何が置いてるの?」
「普通に服とか…防弾チョッキとか、戦車のプラモとか。軍人っぽいものいろいろ」
「そっか。軍艦の古い写真とかも見たことあるかもしれないね」
唯月がたまに見せるいつもと変わらない笑顔が今日はやけにドキドキする。意識しすぎているのかもしれないが、一度デートだと思ってしまったらもう戻れない。
「唯月ちゃん先輩、かわいいね」
「えっ、何?どうしたの?」
「そう思ったの。私服だからかな。いつもよりかわいいかも…」
「やめてよ!急にそういうこと言うの…」
「照れた?」
「うるさい!」
バスを降りて少し歩けば美術館はすぐ。いつもと違う雰囲気の街並み。少し目を離せばはぐれてしまいそうな人混み。
「離れないでね、先輩」
「そんな子どもじゃないんだから」
「いや…」
直接いうのは恥ずかしいから遠回しに言ったけれど、うまく伝わらなかったらしい。告春が唯月の手を控えめに引く。
「離れないように…手」
「あ…うん」
手を取り合って人混みを抜けると学校で見たのと同じポスターが見えた。会場はこの近くらしい。看板をたどって美術館にたどり着くとたくさんの人が入っていく様子が見えた。手をつないだまま2人は道を駆け出した。
「広いねー。ここ始めてきたよ」
「私も。あそこから入るのかな」
ポスターの指示に従って階段を上がり、受付の人にチケットを渡した。もう目の前には大きな戦艦の写真が見えている。告春は目を光らせている。
「早く、早く行こう!」
「待って、写真は逃げないよ!」
1度張り切った告春はどうしても止められない。目の前には大好きな戦艦の写真があるのに止められるわけがない。
「金剛だ!比叡もある!」
「金剛、比叡、榛名、霧島…山の名前?」
「うん。金剛型には山の名前付けられてるんだ」
いつになく楽しそうな告春。いつもよく笑うとは思っていたが、今日は特にそうだ。半年も一緒にいるけれどやはりまだまだ知らない顔ばかりだ。
「満足した?そろそろ帰ろうか」
「やだ…帰りたくない」
「わがまま言わないで。バスなくなっちゃうでしょ」
「じゃあ先輩とこいっていい?父さんと母さんあんまり家いないんだよね」
「そうだけど、週末だからお母さんいるかも…」
唯月の両親は共に会社勤めで忙しく、家に帰ってこないことも多いが、母親は週末に1回は休みがあるので家に帰ってくる。
「お願い、帰りたくないんだ」
「なんで?帰らなくていいの?」
「いいから。もうちょっとだけ」
そう断言できるところも、帰りたくない理由もわからない。いつもはそんなことなかったのに。部活の時でも定時になったらいつも素直に帰っていたのに今日は一体どうしたんだろう。
「けんかでもしたの?」
「ちょっと…家出」
「家出?」
「母さんに会いに行ったの父さんにばれて怒られたんだ。出ていけって言われた」
「そっか…告春のとこ、再婚家庭だっけ」
告春は12歳の時に両親が離婚し父親に引き取られた。お母さんっ子だった告春はお母さんといたいと言い張ったが、そのころ手に職をつけていなかった告春の母親は1人では告春を養えないと判断し、父親に親権を譲った。
「父さんに母さんのとこにはいかないようにって言われてたんだけど、たまにこっそり行ってたんだ。でもこないだそれがばれて」
「大変だったね」
父親は別れたあとすぐに再婚。そして妹の結衣花が生まれた。けれど4年経った今、新しい家庭が築かれた父とまだ大好きな母を忘れられない告春では気の持ちようが違う。告春は今でも新しい家、新しい母に慣れなくて居心地の悪い日々を過ごしているというのに母親に会うことは禁止され、もう前の家には戻れない事実を強く思い知らされている。それが辛くてばれないように母親に会いに行っていたことが今回の火種らしい。告春は帰りたがらないけれど、そろそろバスが来てしまう。これを逃したら次は2時間後。帰るのが遅くなってしまうので次のバスには乗りたいところだ。
「とりあえずバスに乗ろうよ。家に帰るかどうかは向こうに着いてから考えればいいじゃん」
「置いてかない?一緒にいてくれる?」
「わかった。置いてかない」
程なくして現れたバスに乗り込み、空いている席に座った。
「会いたいな。母さん…」
「どこに住んでるの、お母さん」
「市役所の近く。青い屋根のアパート」
「学校の近くか。そんなに遠くないんだ」
「でも行ったら母さんにも怒られるんだろうな。父さん母さんに電話してたし」
告春が窓の外を見て静かに呟く。今までも告春のわがままは散々聞いてきたつもりだったが、今回のわがままはいつもとはわけが違う。お金足んないから絵の具買ってとか、夏休みの宿題手伝ってとか、そんなわがままなら自分にもできることがあった。でも今回はどうにもならない。帰りたくない、お母さんに会いたい。そんなこと唯月にはできない。
「ほら、降りるよ」
「まだ帰らないからね」
「わかってる」
いつまでもバスに乗っているわけにもいかない。バスは降りて、それから考えよう。唯月は母から「いつ頃帰る?」という連絡を受け取った。素直に言ってしまえば帰らないと怪しまれるから「次のバスで帰る。あと2時間くらい」と嘘を吐いた。タイムリミットは2時間。その間に告春をなんとか説得しなければ。すでに辺りは暗い。2時間経てば時刻は8時頃。その前に誰かに見つかってしまう気さえした。
「帰らないでどうするつもり。何かあてがあるの?」
「ないけど、帰りたくないし…」
だからと言っていつまでもここにいるわけにはいかない。唯月は女の子だし、遅くまで付き合わせるのは危ない。できるだけ早く帰したいけれど、告春も1人にはなりたくない。わがままだとわかっているけれど、自分1人でなんとかできるほど賢くはないのだ。
「誰か泊めてくれないかな…もっちーか虎太郎か」
「虎太は無理でしょ。家遠いし。持田は家近いの?」
「まあまあかな。でもあそこは家が厳しいから…」
「美術部でいいならもっと近い人いるよ。多分ここから1番近いのは…」
今連絡の取れる美術部員の中でバスセンターから1番近くに住んでいるのは3年生で部長の坂木透。上下関係などない美術部だからこんな時でも気軽に3年生に声をかけられる。ただ、坂木もちゃらんぽらんの告春に手を焼いている1人であり、仲が悪いわけではないのだが、ハブとマングースのような2人を一緒にしていいのだろうかと心配になる部分はある。
「家出してるっていったらバカなことしてないで帰れって追い出されるんだろうな」
「そこはごまかすしかないよ」
告春をため息をつきながら恐る恐る坂木家のインターホンに手を掛けた。
「はあ?なんだって?」
「だから、1日泊めてくださいってば」
「なんでだよ、家帰ればいいじゃん。近いだろ」
「なんでって…親睦会?」
うまい言い訳は出てこない。とっさに口からでまかせをいってもどうにもならない。
「お願い、何も聞かないで泊めてよ。1日だけだから」
「私からもお願い」
「那珂が頼むならなんかあるんだろうな…わかった、1日だけだぞ。ただしあとで事情は聞かせてもらうからな」
「うん!ありがとう」
なんだかんだ言っていつも了承してくれる。口は悪いけれど、坂木は根は優しい。ちゃんと頼まれれば断ったりせずに受け入れてくれるのだ。
「じゃあ私は帰るね」
「おう、気をつけて帰れよ」
「はーい」
とりあえず今夜はなんとかなりそうだ。けれど告春が帰らなければ親から心配して連絡が来るだろう。それに正直に答えたとして、そのあとはどうしよう。告春は家に帰らなければならない。今帰らなければ明日帰りづらくなるだけではないだろうか。本当にこれで良かったのだろうか。
「考えても仕方ないか」
今日はまっすぐ帰ろう。告春が美術館に行ったことを親が知らなかったら自分に連絡も来ない。細かいことは明日考えるとする。

Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---2

翌朝。一晩経ったが告春のケータイにも唯月のケータイにも新しい連絡は入っていなかった。以前県展の準備で遅くまで学校に残った時に告春に通じないからと唯月の母を経由して唯月のケータイに告春の継母から連絡が入ったことがあった。あの時のことを考えれば一晩経てば連絡くらいあるかと思っていたのだが、特に何もない。唯月といることを知っていて任せられているのか、もう子どもではないからと放っているのか。
「いいから話せ。一晩泊めてやって朝食もつけてやったんだぞ」
「朝ごはんは頼んでないじゃん。俺いらないって言ったよね」
「お前はいつも食わねえから体力ないんだよ」
「関係ねえし」
一方の告春は一晩泊めた条件として坂木に事情の質問攻めにあっていた。唯月に聞いてくれと頼んでいるのだが、本人の口から聞くまで開放してくれなさそうだ。
「帰りたくなかっただけ。本当にそれだけ」
「だから帰りたくない理由を聞いてんだよ」
「そんなのその日の気分だし」
「それでも帰るのが普通だろうが。自分の家なんだから」
何を言ってもダメだ。本当のことを言うまで離してくれそうにない。でも本当のことを喋ったらきっと喋らないより怒られる気もする
「もう放っといてよ。坂木さんには関係ないじゃん」
「関係あるよ。こちとらお前のために一晩部屋を空けてやったんだぞ」
向こうの言い分は正しいのだ。だから反抗もできない。どうすればここから解放されるのだろう。開放されたところで行くあてもないけれど。
「あ、唯月ちゃん先輩からなんかきた」
渡りに船。ちょうどいいタイミングで唯月から連絡が入った。両親からなんの連絡もなかったという報告と、出かける旨を伝えてあるのかという問いかけ。そのことについては伝えていない、と一応返信。きっと告春のことだから父親が起きても来ない朝早くにこっそりと家を出たんだろう。
「なんて?」
「親から何も連絡来なかったって」
「親は那珂と出かけたの知らねーの?」
「うん、言ってない」
「なにそれ家出?喧嘩でもしてんの?」
一から説明するのも面倒。でも言わなければ解放してはくれないだろうか。
「知りたいなら唯月ちゃん先輩から聞いてよ。俺は話したくない」
「那珂は知ってんの?」
「知ってる。大体のことは」
これで解放してくれると思ったが、じゃあ那珂を呼べ、と結局告春は捉えられたままだった。坂木さんとこ来て、と連絡を入れるとケータイを閉じてあとは黙りこくっていた。しばらくすると昨日とはまた違う私服姿の唯月が姿を現した。
「今どうなってるの」
「泊めてやったんだから一晩親に黙って人の家に転がり込む理由くらいは聞く権利があると思って問い詰めてる」
唯月は困った様子で告春を見つめた。いつまでも意地を張っていないで素直に話せばいいのに。けどこのままここにいさせたところで告春は何も喋ろうとはしないだろう。
「今日は帰してくれないかな。今度ちゃんと話すから」
帰ると言っても帰るとこなんてないけれど、ここにいて問い詰められていてもことは解決しない。坂木には後日きちんと説明する約束をして1度唯月の家に連れ帰った。
「どうするの?いつまでも帰らないわけには行かないでしょ」
「でも連絡なかったんでしょ。今帰っても一緒だよ」
「告春はどうしたいの?」
どうしたいかと聞かれてもわからない。ただ、帰りたくないというだけで先輩たちに迷惑をかけてしまった。今帰っても仕方ない。けれどいつかは帰らなければならない。明日には学校に行かなければいけないし、あと数時間後には帰らざるをえない状況に追い込まれる。
「帰らないと…ダメかな」
「お父さんいるの?」
「今日は日曜だからずっと」
今まで日曜日は部活が自由参加だったので唯月や告春を初め、希望者は部活に出ていた。 けれど体育祭の時期に入ってからは放課後延長で部活をすることもあり、日曜は極力休むようにしているのだ。唯月にはもうどうにもできない。助けてあげたいとは思うけれど、どうにもならないことはある。
「1回帰って来なよ。ダメだったらまた出ておいで。その時は泊めてあげるから」
今夜なら家には唯月1人。告春を泊めることはできる。でもいつまでもそういうわけにもいかない。告春にだって家族がいる。いつまでも家出していれば血の繋がりがないとはいえ継母も心配するだろう。
「なにかされてるわけじゃないんだから大丈夫。そんなに怖がることないよ」
「うん」
告春はまだ不安げだが、1度家に帰るという決意はできた様子。唯月としては上手く告春が家での居場所を見つけてくれればと祈ることしかできない。何か自分にできることがあれば。

「教科書102ページ開いて」
あの後告春から連絡はなかった。今日は学校に来ているのだろうか。一晩帰らなかったのだから、普通はそれなりに怒られるだろうけれど、告春の家庭ならわからない。
「じゃあ12行目から…那珂、読んで」
「はい」
父親とすぐに和解できれば1番いいんだけれど、そう簡単にはいかない。そもそも父親に怒られることなんて初めてではないだろう。なんでこんなにも意地になって帰りたがらないのか。この場合なにが最善なんだろう。放課後美術室に来ると告春はただただ机で寝ていた。部活は休みのはずなのに鍵が借りられているのを見つけて様子を見に来たのだ。美術部員が美術室で寝るなど、なんたる愚行かと思われるかもしれないが、昨日何かあったのかもしれない。
「告春、起きてる?」
「うん」
「坂木さんまだ来てないね、来たら問い詰められるかな」
「そうだね」
まるで抜け殻のようだ。心ここに在らず。そんな感じがした。冷たくて、脆くて、触れば壊れてしまいそうだ。
「何かあった?また怒られちゃった?」
「怒られた…俺もう高校生だし、どこ行こうが俺の勝手じゃん」
不貞腐れる告春。きっと一昨晩帰らなかったことも含めてまた怒鳴られたのだろう。
「真宮、いるのか?」
「はい」
顔を見せたのは坂木。また質問攻めにあう。唯月は大きなため息をついた。
「まだ聞かせてもらってないからな、いろいろと」
「ねえ、それってどうしても聞かないとだめ?」
隣の美術準備室で尋問は始まった。向かい合ったソファに座らされて、尋問というより面談のようだ。
「だめだ。後輩指導も部長の役目だからな」
「大したことじゃないし。もう放っといてよ」
「大したことねーなら話せよ」
唯月と美術館に行ったくだりから、バスセンターで聞いたことまで。告春が自分の口から全てを話した。唯月も坂木も黙ってそれを聞いていた。
「この歳になって家出かよ。お前はガキか」
言われると思った。だからずっと黙っていたのに。
「ガキじゃないから家出したんだよ」
「でも昨日は帰ったんだろ。解決じゃん」
「納得いかない。俺は悪くないのに。自分の母さんに会いにいって何が悪いんだよ」
「ダメって言われてたんだろ。止められてることをわざわざするからそうなるんだよ。お前はどうしたいんだ」
「…俺は母さんと住みたい。本当はずっと母さんと住みたかったんだ」
告春が職につくまで養えるほどのまとまったお金ができたら迎えに来ると約束した母はまた迎えに来ない。自分は今の状態に満足はしていない。自分気持ちを伝えればうまくいくかもしれない。
「あのな、真宮。お前もいつまでも子どもじゃないんだ。くだらねえこと言ってないでさっさと父さんに謝ればいいだろ。約束破ったのは事実なんだから」
「やだよ。いい機会だし母さんに親権変更してもらう」
「親権者の変更っていうのは結構難しいんだ。お前の親がギャンブルしてて育児をしてないだとか虐待してくるとかそういう理由がない限り基本認められてない」
「そんな…母さんも親なのに?」
通常は離婚時に話し合いの末、親権者を父親に決めているので、変更するということはないはずなのだ。
「でも相互が合意してるなら養育環境とかお前の状況によって親権を変更できる場合もある」
「本当!」
「落ち着け。あくまでも場合があるって話だ。詳しくは家庭裁判所で調停することになる。お前今いくつだ?」
「俺?15だけど」
「それならお前の意見も聞いてもらえる。養育費が払えないなら相手に請求することもできる。手続きがうまくいけば母親と住めるかもな」
「手続きって、難しい?」
「理由さえちゃんとあれば簡単だ。双方合意してるなら大丈夫じゃね?」
告春は息を呑んだ。お母さんと住めるかもしれない。ずっと望んでいたことが叶うかもしれないのだ。
「まあ調停は親がやることだし、金もかかる。まずは両親と相談するべきだな」
「父さんと…?」
「そうだな。父親の意思を確認しておかないと書類を送りつけても無駄になるだろうからな」
ここまで話すとだいぶ現実味が出てきた。告春の表情もだんだんと明るさを取り戻してきた。ここで唯月が坂木に疑問を投げかけた。
「坂木さん、詳しいね。法律家にでもなるの?」
「別にそういうわけじゃねえよ。昔調べたんだ」
「そっか。坂木さんも…」
「え、なに?」
告春は知らないようだ。坂木も数年前両親が離婚しているのだ。今は母親と再婚相手の継父と暮らしているが、2人との間に溝を感じていた。別に恋に溺れて育児を放棄しているとか、継父から虐待されているとか、そういうことではなかった。ただ、まるで他所の新婚家庭に放り込まれたような居心地の悪さを常々感じていた。だから今だけでも父親に親権変更できないものかと調べたが、自分の状況は親権をうつすには理由が不十分だと諦めたのだ。
「坂木さんは今もお父さんと暮らしたい?」
「そんなことねえよ。新婚ムードはすぐ落ち着いたしあの2人と暮らして不自由はしてねえからな」
とりあえずは父親に相談しなければならない。それから母親にも連絡して、問題なければ戸籍謄本や申立書をもらってくる。
「ありがとう、坂木さん」
「おう、頑張れよ」

Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---3

「ここ?」
「ここ」
「綺麗なとこだね」
後日。告春は市内のとあるアパートを訪れていた。市役所の近く。青い屋根のアパート。告春の実の母親が住んでいるアパートだ。1人じゃ不安という告春に連れられて部活帰りの唯月も一緒に来ていた。
「行くって言ってあるよね?」
「うん」
「じゃあ行こうか」
玄関でインターホンを鳴らすと家の奥から澄んだ声が聞こえた。
「いらっしゃい、告春。こっちがお友達の唯月ちゃんね」
「こんにちは」
確かに顔立ちがよく似ている。街で見かけても一目で親子だとわかるだろう。
「持ってきたの?申立書」
「うん」
坂木に言われてまずは父親に相談することにしていた。けれど、話があると伝えてもお前から聞く話などないと取り合ってもらえず、本題入ることすらできなかった。そのため実際に申立書を送りつけるのが早いと母親のもとを訪れたのだ。
「お金かかったでしょ?謄本も収入印紙も」
「平気だよ」
「ごめんね、唯月ちゃんも付き合わせて。この子のことだからいつもわがまま言ってるんじゃない?」
「それは、まあ…」
いつもの告春を思い出すと否定はできなくて曖昧に笑った。やはり息子のことはなんでもお見通しらしい。本当に仲の良い母子だ。
「書類はこれだけね」
「うん。あとは俺がやっとくから」
謄本と申立書を封筒に入れて口を閉めた。あとは父親に渡すだけだ。
「ねえ告春、本当にいいの?」
「なにが?」
「本当にお母さんのところに来たら、告春は幸せ?」
「当たり前じゃん。ずっと望んでたんだし」
「でも妹がいるでしょ。結衣花ちゃん。急にお兄ちゃんがいなくなったら驚くでしょうね」
「そうだけど…」
「家に帰ってもう1度よく考えなさい。父さんだって告春がいなくなったら寂しがると思う。ちゃんと帰って話しなさい」
「うん」
ここに来て、告春にも一縷の迷いが生まれた。母親と住みたいという気持ちだけでここまで来たけれど、残された家族のこと、妹の気持ちまでは考えていなかった。結衣花は今年で4歳になる。今告春が家からいなくなったとして、結衣花はどう思うだろうか。大きくなった時、結衣花は兄のことを覚えているだろうか。もし覚えていたら不審がるだろうか。
「唯月ちゃん先輩は3歳の頃のこととか覚えてる?」
「うーん。私割と昔のこと覚えてる方でさ。ちらほらとなら覚えてるけど3歳なんてそんなに鮮明にじゃないし結衣花ちゃんもはっきりとは覚えてないんじゃないかな」
「俺がいなくなっても大丈夫かな」
「それは結衣花ちゃんに聞いてみないとわかんないよ。今日は帰ろう」
結衣花は人懐っこい性格ゆえ、兄である告春にも保育園であったことや、友達と遊んだことなどを楽しそうに話す。きっと告春も結衣花の生活の一部。いなくなれば変化に違和感を感じるかもしれない。
「ただいま」
「お兄ちゃん、おかえり!」
きらきらと笑顔を輝かせて、可愛い妹が出迎えてくれた。
「今日ね、保育園でお絵かきしたよ。お花の絵描いたの」
「保育園に咲いてるお花?」
「うん!」
この妹は本当に自分がいなくなったら数年後一緒に住んでいたことを忘れてしまうだろうか。結衣花は年の割によくしゃべるし、発達が早いのかもしれない。大きくなってそのことを思い出した時、両親は自分のことを妹に何と説明するだろう。仮に自分が母親と暮らすことになった時、結衣花とは自由に会えるのだろうか。半分だけれど、血の繋がった兄妹。面会に規制などされたくない。
「結衣花…」
「なあに?」
お兄ちゃんがいなくなっても平気?そんな酷な質問、3歳の幼児にできるはずもない。
「保育園楽しい?」
「うん、楽しい!」
屈託のない笑顔。きっとこの子は目の前の人が家を出ようか出まいかの狭間で迷っているいることなんて微塵も思わないんだろう。
「告春、告春!水あふれてるよ」
「あ、ごめん…」
「大丈夫?なんかあった?」
「うーん、特には…」
筆を洗うバケツから水が溢れそうになっていることに気づいて慌てて蛇口をしめる。部活中もずっと上の空でいる告春。ずっと前から描いている絵はまだ告春の前に鎮座している。理由は聞かなくても本当はわかっている。告春がずっと母親と住むかどうか悩んでいることを。準備は整っているのに未だに封書を父親に渡せないでいるのは、それだけ告春の中で結衣花が大きな存在だからだろう。
「疲れてるならもう帰ったら?」
「いいよ。唯月ちゃん先輩定時までいるでしょ」
「そうだけど…」
「今日はもうやめとく。奥で待ってるから、帰るとき呼んでね」
「うん」
ずっと1人で悩んでいるのだろう。告春にとってお母さんと妹はどちらも大切な存在なのだ。どちらも自分に笑顔を向けてくれる愛すべき存在。天秤になどかけられない。
「余計なことしたか?」
坂木が背後から声をかけてきた。唯月は黙って首を横に振った。坂木が悪いわけじゃない。ムキになっていただけかもしれないけれど母と住めるかもしれないと考えることは告春にとって希望だ。どちらと住むにせよ、今までと何も変わらない状態よりは気持ちが楽になるだろう。
「大丈夫。すぐ答え見つけると思うから」
「1度父親にも話してみたらどうだ?これでもし認められないとか言ったら無駄だぞ」
「そうだね。帰りに話してみる」
告春の父が母との同居を認めないと言えば一気に親権変更は難しくなる。もともと何かされているわけではないのだから、明確な理由はない。離婚してから母に会ってはいけないと言っていたくらいだから。何か会ってはいけない理由があるかもしれない。
「だから、1回お父さんに相談してみなよ。双方の合意がないとできないんだから」
「父さんはいいって言うよ。もともと俺のこと邪魔なんだから」
「そんなことないの。とりあえず聞いてみて」
「うん…」
「告春の意志だけで片付く問題じゃないんだからね」
長いこと話していない父と話をするというのは告春にとって一大決心だった。高校生になってからは父の部屋に入ったことなんてなかったけれど、思い切ってドアを叩いた。
「俺だよ。入っていい?」
「何か用か」
告春が開けるより前に中からドアが開いた。
「話があるんだ。親権のことで」
「親権?」
「母さんと暮らしたい。親権を変更してほしい」
告春は書類の入った封筒を差し出した。父は中身を取り出して丁寧に確認した。
「母さんは同意しているんだな」
「うん」
「わかった。考えておく」
よかった、と思うと同時にズキリと心が痛んだ。実の父であるにもかかわらず、こんなにも簡単に息子を切り捨てることができるのだ。自分はここでは必要とされていない。そう確信した。でもこれで家を出られるかもしれない。望んでいたことだ。そう思っているのに、なぜか胸のわだかまりが解けなかった。血の繋がった家族に必要とされないことが苦しかった。

Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---4

「そっか。お父さんに渡したんだ」
「うん。ごめんね。いつも連れ出してもらって」
あまり深く悩まないためにも、父親のいるいないに関わらず告春は休日は朝から夕方まで唯月に誘われて出かけるよになった。一緒に勉強するとか、学校で絵を描くとか、何かと理由をつけて外出すれば両親はもそれ以上には干渉しない。唯月は唯月で悩み多き告春がすこしでも息抜きできればと足を伸ばして告春が好きそうなところへ連れて行ったり楽しめそうなことを考えたりした。
「お父さん、許してくれそう?」
「考えとくって。多分OKだよ」
告春は軽く笑うけれど目の奥はどこか寂しそうだった。
「告春はお父さんもお母さんも大好きなんだね」
「お父さんも?」
「うん。子ともは親を選べないっていうけど、やっぱりどこか憧れてたり好きだったりするものだよ。告春は特に顕著だね」
唯月は優しく笑った。
「唯月ちゃん先輩は、父さんと母さん好き?」
「うん。尊敬してるよ。私のお父さんはデザイナーなんだ」
唯月の父はデザイン会社を経営する社長で母も結婚してから前の仕事を辞めて同じ会社で秘書をしている。唯月も大学を卒業したらその会社に入り、いずれは社長の座につくことになるのだろう。
「唯月って名前もお父さんがつけれくれたの」
「唯月…」
「唯一つの月のようにみんなから注目される存在になりますようにって。名月の季節の生まれだからね」
告春も思い出した。自分に名前をくれたのも父親だ。3月、桜の蕾が膨らんだ咲くか咲かないかという季節。春の訪れを告げるように産まれた『告春』。確かそういう意味だった。
「でも俺は母さんがいいよ。名前以外は全部母さんがくれたもん。俺は母さんみたいになりたい」
「ならそうしな。告春が好きなようにしていいんだから」
「うん」
唯月はいつも優しい。告春の気持ちを1番に考えている。無償の優しさというのは存在するのかもしれない。家族に愛されるように唯月は告春に接してくれる。それはきっと将来家族になるであろう人だから。その日帰ると父親に部屋に来るように言われた。書き終わった書類でも渡してくれるのだろうか。引越しの話だろうか。これで近いうちに母さんと住めるのだろうか。そう思って部屋の扉を開いた。父親は黙って封筒を差し出した。
「俺は承諾できない。諦めろ」
予想外の答えだった。平和に、冷淡に調停は進むと思っていた。あっけなく自分は捨てられるのだと思っていた。それなのに父親から承諾は得られなかった。
「なんで邪魔すんだよ!俺は母さんと住みたいんだ!どうせ俺のこといらないんだろ。なんでだめなんだよ!」
自分で発している言葉に心が痛くなり、告春はおもわず涙ぐんだ。自分は捨てられないんだと言う安心よりも母と一緒になりたい気持ちが上回って告春を支配した。
「どうしてお前を菜津子と合わせなかったかわかるか」
「わかんねえ…」
「お前が今みたいなことを言い出さないためだ。会わせたらお前は菜津子住みたくなるだろう」
「なんでだよ。母さんと住んだ方がいいじゃん。母さんといていいじゃん」
ポロポロと涙をこぼす告春の頭に父はそっと手をのせた。
「お前がなんと言おうとお前は俺の息子だ。俺はまだお前とやりたいことを何1つできてないから菜津子は渡せなかったんだ」
「だったらそう言えよ…母さんもそんなこと言ってなかったのに」
「中学生になってからは部活も忙しかったし、なかなか付き合ってくれんかっただろう。すぐ結衣花が生まれてあまり話さなくなったしな」
「俺のこと嫌いなんじゃないの。突き放してよ。追い出してよ…」
「誰がそんなこと言った。自分の子が嫌いな親なんてあるか」
次から次へと涙があふれた。父は母と同じで自分を大切に思ってくれていた。愛されていた。嫌われているだなんて全部自分のひとりよがりだったのだ。
「母さんも結衣花も、父さんも、みんなお前のことが大事だよ。お前には辛い思いをさせていたみたいだな。悪かった。もう菜津子と会うなとは言わないから」
「母さんと会ってもいいの?」
「どうせもう何度も会ってたんだろ。お前にはここにいて貰わないと困るんだ。縛りはしないけど夜はちゃんと帰ってこいよ」
「うん…」
連れ子だなんて関係ない。告春の居場所はここにある。家族がここにいる。どこにも行かなくていい。これからもここにいることが許されるのだ。
「結局親権変更できなかったのか」
「うん。でもこれでよかった。やっぱ俺も結衣花いないのは寂しいし」
「人騒がせなやつ」
坂木さんは相変わらず毒を吐いていたけれど顔は笑っていた。
「あとね、母さんに会ってもいいって。連絡したら今度唯月ちゃんと遊びにおいでって」
「本当?」
「品定めだな」
「お嫁さんにふさわしいかどうか?」
「やだよ!普通に遊びに行かせてよ」
告春が元に戻ると美術部はまた賑やかになる。いつまでもこの賑やかな平穏が続くように、唯月は祈っていた。

Tohru SAKAKI〈変化と相乗〉---Extra edition

「坂木さん、まだ残る?」
もう外も薄暗くなり始めた頃、唯月が荷物をまとめて立ち上がった。美術部室内にはもう唯月と坂木と告春しか残っていない。
「ああ。これ仕上げて帰るから」
坂木は記入しかけのコンクールの応募用紙を唯月に見せた。締め切りが近いから今日中に出しに来いと顧問に言われているのだ。
「そっか。じゃあ先に帰るね」
「真宮、まだいるのか?」
「うん、準備室に。勉強させてるんだ」
唯月と一緒に帰りたいから、と唯月に合わせて帰宅する告春は定時を過ぎると準備室に篭る。もともと飽き性であまり長く集中力が続かない。だからある程度の時間になると絵を描くのをやめてしまう。待っている間に宿題でも終わらせろと顧問や同じクラスの鞠奈に言われて帰るまで勉強しているのだ。
「よく待つよな。こんな遅くまでまあ」
「いいでしょ。好きで待ってるんだから。告春、帰ろう」
奥から告春も荷物をもって顔を出した。
「坂木さんまだ帰らないの?」
「ああ。もう暗いんだからちゃんと那珂送っていけよ」
「坂木さんまで!それ虎太郎と圭ちゃん先輩にも言われた」
「そうかそうか」
2人が付き合い始めて、その姿を1番目にするのが部活の時だ。だからだろうか。2人が変わっていくのがよく分かる。告春は明るいようで問題を抱えてしまう奴。成績が悪いことも家族のことも深刻な問題を1人で抱えていた。けれど干渉されることを嫌がり誰にも話さなかった。最近は唯月には解決してくれることを期待して打ちあけるようになった。唯月は1年の頃もっと人見知りで控えめだった。常に人の後ろに立つタイプ。ずっと影に隠れるようにしてきた。2年生になってからは告春に感化されたのか格段に明るくなった。部活でもいろいろな作品に挑戦したり、どんなことにも前向きに取り組むようになった。
「変わったよな。本当に…」
「おーい、坂木。まだ帰んねえのか」
「うわ!急に開けんなよ」
「なに思春期の子どもみたいな反応してんだ。俺はお前のおかんか」
突然ドアを開けて美術室に入ってきたのは顧問の渡利先生。実力主義を行い上下関係を問わない部活を作り上げただけあって本人も敬語や謙譲を強制せず、部員とフランクに付き合っている。特に部長で坂木とはクラスメイトのような関係にある。
「書けたか?」
「書けたよ。ほら」
坂木は書きあがったばかりの応募用紙を渡利先生に押し付けた。その場で記入漏れがないか確認しバインダーにしまった。
「遅くまでご苦労だったな」
「今日中ならもっと早く言ってくれよ」
「まあいいだろ。夕方日の沈んだ教室で1人静かに感傷に浸るかなって」
「なんのだよ」
「那珂と真宮。坂木は特に去年からずっと那珂のこと気にしてたからさ」
確かに唯月のことを考えていたのは間違いないし感傷に浸っていたことは否めない。
1年前、唯月が美術部に入部してきたときから思っていたことがある。気が利いて同じ学年の子とも仲が良くて先生からの信頼も厚い。成績も優秀。それゆえに大人しくてあまり喋らないことが気になっていた。多くの才能を持っていてもコミュニケーション能力が欠如していればそれを十分に発揮できない。唯月もそうなってしまうのではないかと心配だった。坂木が部長を任されたとき、渡利先生が那珂を使い物にできたらいいなあと言われたことが今でも思い出される。
「最近あいつ変わったなあって。やっぱ真宮と会ってからか?」
「だろうな。真宮と無理矢理でも喋ってたらコミュ力上がりそうだし」
「まさか那珂があんなに喋るなんてな」
「喋るだけじゃないよ。明るいしよく笑う性格が丸ごと変わったみたいだ」
「もともと面倒見はいい奴だからな。いいように真宮に感化されたんだろ」
相乗効果。ある要素が他の要素と合わさる事によって単体で得られる以上の結果を上げること。あの2人にまさにそれが起きている。2人が一緒にいることでお互いが良い方向に変化している。あいつらはなるべくしてああなったんだろう。唯月が告春にチラシを渡したのも何かの運命だった。チラシ配りを頑なに断る唯月を無理矢理行かせた日を思い出す。やはりあれは間違ってなかったのだろう。
「あいつら正反対だからかな。なんかぴったりはまり合ってる感じがする。貝合わせみたいに」
告春が勉強ができないのも絵画の基礎がわからないのも唯月に教わるため。唯月がひらめきやコミュニケーションが苦手なのは告春を頼るため。お互い補い合えるようにできているのだろう。よくできた2人だ。
「先生いた!」
「あ、坂木さんもまだいたんだね」
ガラリとドアを開けて姿を見せたのは唯月と告春。帰ったはずの2人が戻ってきたのだ。
「どうしたんだよ。帰ったんじゃなかったのか?」
「これ、先生のでしょ。恭子さんの応募用紙。廊下で落としてたよ」
「俺ら職員室まで探しに行ったのにさ!」
「悪い悪い、すれ違いになってたんだな」
「危ねー。こいつらが見つけてなかったら恭子に怒られてたな」
唯月が差し出した書き込み済みの応募用紙。今日の部活の時に恭子から渡されたものだ。そのまま無くしていたら大事になるところだった。
「さんきゅーな。助かったよ」
「坂木さんはもう帰れるの?」
「ああ。応募用紙も出したしな」
「じゃあ一緒に帰ろう。もう暗いし」
「俺は子どもかよ」
渋々、といった感じではあるが、坂木も素直に立ち上がって荷物をまとめた。
「ばいばい、先生」
「ばいばーい」
「さようなら、な」
「じゃあな」
「おい!」
3人は親子のように横並びになり、楽しそうに話しながら帰路に着いた。

美術室の僕等

美術室の僕等

美術室で活動している僕等の話。主人公は変わったり変わらなかったり。キャンバスに絵筆で描かれる恋の予感。短いお話をたくさん書いています。仲原日向編は「美術部の僕等2」に移行しました。「未来の美術部」で未来編も書いています。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---1
  2. Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---2
  3. Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---3
  4. Yuduki NAKA〈ウエディングドレス〉---4
  5. Tsuguharu MAMIYA〈始まりの日と今〉---Extra edition
  6. Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---1
  7. Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---2
  8. Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---3
  9. Tsuguharu MAMIYA〈鉛色の気持ち〉---4
  10. Tohru SAKAKI〈変化と相乗〉---Extra edition