めくるめくきりもり
一 立派な妄想力
冷たく冴えた空気が頬を引き締める。もりのは四輪駆動のSUV車を降りると、入り待ちのためにファンが待機している場所へ向かった。
もりのは大阪府北西部の宝石市に本拠地を置くタカライシ歌劇団の男役スターだった。スタイルのいいタカラジェンヌのなかでも顔の小ささと頭身バランスの良さが際立ち、パリコレモデルを思わせた。ミルクのように白い肌は光沢をおびて美しかった。眉のせまった、つぶらな瞳のエキゾチックな顔立ちは、写真や映像では魅力が伝わりにくい。実物のほうが威力を発揮する。もりのを実際に見た人はたいてい、好みの分かれる個性的な顔立ちを美しく感じ、スタイルの良さに驚嘆する。
濃紺のコートにライトグレーのニット、白のパンツという装いが、澄んだ冬の空に映えた。大きな歩幅で歩く。ファンの前で歩をゆるめ、一人ひとりに爽やかな笑顔であいさつする。平常心を心掛けていたが、この日ばかりは高揚をかくせなかった。大役を務める公演の集合日だった。
トップスターの主演男役が、中世ヨーロッパの小国を率いる男装の麗人を演じる珍しい作品で、その相手役に抜擢されたのだ。入団以来、懐の深い男役を目指してきたもりのにとって、それを体現するにふさわしい役柄だった。男役冥利に尽きる。
稽古場には数人の組子がいた。この公演がダイヤ組トップスターお披露目公演となるきりえに、真っ先にあいさつした。
「きりえさん、トップ就任おめでとうございます」
きりえは男役にしては小柄だった。十センチほど背が高い、長身のもりのを見上げた。
「ありがと。全然実感ないねんけどな」
二日ぶりに会うきりえに新鮮な美しさを感じ、もりのは見惚れた。
きりえはいつも微笑んでいるような顔をしていた。無垢の明るさとやさしさを浮かべる、大きな美しい目が印象的だった。細いあごのきれいなフェイスライン、高い鼻、形のいい唇をもつ美しい顔立ちをしていた。高い鼻は少し上を向いていて、チャーミングでコケティッシュな色をそえていた。
歌、ダンス、芝居の三拍子そろい、とくに歌とダンスの実力は圧倒的だった。歌劇団きっての大スターだが、ざっくばらんな大阪弁もあいまって親しみやすかった。天真爛漫な人柄が出会うものを魅了した。
五年後輩のもりのは、きりえの舞台人としての資質とプロとしてのストイックな姿勢、人間性に惹かれ敬いつつ、いつもかわいいと感じていた。トップの重責を担うきりえを心から支えたいと思う。
「いい作品にしましょうね」
「うん」
もりのはまっすぐきりえを見つめた。
「フレイを生き、ヴァイオラを愛し抜きます」
「なんや頼もしいやん」
きりえは照れ笑いを浮かべた。
公演は芝居とショーの二本立てで行う。芝居は、主演を務める男役トップスターの歌唱力、双子の兄と妹の二役を演じる芝居の巧さ、ダンスの技量を必要とするハイレベルな作品で、再演するのにきりえを待った。きりえはこの作品が大好きだった。トップスターお披露目公演でありプレッシャーは感じるが、端々にいたる理想的な配役に成功を確信していた。
とくに相手役のもりのに期待していた。演出家に配役が発表される前に教えてほしいと頼んだほど、相手役を重要視していた。
「フレイが一番似合うやつだ」と演出家は言った。フレイはエルフの血が混じった美丈夫の戦士で、人間離れしたスタイルのもりのに適役だった。
「怪我はもう心配なさそうです」きりえは念のため、かまをかけた。もりのはそのとき、怪我で休演していた。
「そうか、ならよかった」演出家は予想が当たっていることを認めた。
配役が発表されたのは、もりのが休演していた公演の最中だった。その半月前に、ダイヤ組の次期体制を支えるメンバーの親睦を深めようと、組長のりょうときりえが近郊への旅行を企画した。二人ともりの、ダンスリーダーのみそのが参加した。きりえはその道中、「今度は仲のええ役やと思うよ」ともりのにやんわり伝えた。
トップスター候補として瀬戸際のもりのだったが、新体制の二~四番手スターの中で、きりえは最も頼りにしていた。休演の試練を乗り越え、男役を楽しめる境地になり、組の要になってほしいと思っていた。
もりのはというと、休演していたときに、自身休演の経験のあるきりえが人一倍相談に乗り、力になってくれたことを深く感謝していた。きりえを支え、この公演を成功させ、この公演で退団してもいいと納得できるくらい、持てる力を尽くそうと決意した。
作品の主軸はヴァイオラとフレイの愛だった。
ヴァイオラには病弱の兄シャルルがいた。彼は小国の君主だった。君主が病に臥せっていては、他国に狙われる。そのため、ヴァイオラが男装してシャルルとなり、シャルルはヴァイオラとして養生していた。この秘密を知っているのは、ヴァイオラとシャルル、三人の家臣だけだった。若く高貴な双子は、中性的な美しい容姿だったため、秘密を見破る者はいなかった。
だが、一人例外がいた。傭兵フレイは、君主シャルルと対面したときに、その匂いで女だと見抜く。美しく高潔な君主に恋をした。
フレイはその国に傭兵として雇われたばかりだった。彼は傭兵だが高貴な風貌をしていた。青を基調とした装備は控えめで、白馬に乗っていた。超人的な身体能力で数々の武勲を挙げてきた。彼が超人的な能力を備えていたのは、エルフの血が混じっていたからだが、そのことは誰にも知られてはならない秘密だった。
稽古は、フレイが命の危険を冒して寝室の君主を訪問し、秘密を暴き、思いを遂げようとする場面に入っていた。
演出家はもりのときりえに、場面を説明する。
「フレイは命がけで抱きにきたんだ。純粋な愛情と熱い情熱と欲望を出してくれ。ヴァイオラはこの危険な男を殺そうとする。だが向き合って目を見ると、まっすぐな愛情が届く。理屈抜きに信頼できた。心惹かれる。ヴァイオラはフレイに手を差し出す。フレイは手を合わせ、抱きしめる。二人は接吻する。フレイはヴァイオラをベッドに導く。接吻から首筋の愛撫へと移ったところで暗転。暗転のあと、ベッドの中で永遠の愛を誓う。兄シャルルの病が癒えれば、ヴァイオラは城を出てフレイと一緒になると約束する」
演出家はもりのの目をとらえ、「フレイがリードするんだ。ヴァイオラはフレイに呼応してくれ。なんせ、フレイは初めての男だからな。もりの、後輩だからって遠慮するなよ。とことん情熱的にやってくれ。二人とも爽やかで品があるから、やりすぎても構わない」
「もりのちゃん、遠慮せんとバーンッときてや」
「はい、よろしくお願いします」
「それから」演出家はニヤリと笑う。「暗転のところで、どんな風に愛し合ったか、二人でリアルに想像してくれ。芝居にリアリティが出る」
「想像ですね」きりえは少し赤くなった。
「妄想ですね」もりのはしっかりとうなずいた。
二人は話し合った。
「もりのちゃんはどう思う?」
「きりえさんは?」
「フレイにリードしてもらいっておっしゃってたやん。もりのちゃんの意見を聞かせて」
もりのは男役としてかっこよく決まるしっかりしたあごを長い指でつまんで考えた。
「フレイはヴァイオラが初めてだとわかってるから、すごくやさしくします。ゆっくりやさしく慣れてもらい、気持ちよく感じてもらえるよう」
きりえはうなずきながら、赤くなった。
「一回愛し合っただけで、二人の心は長年の恋人のように通う。情熱に火がついて、何度も愛し合う。互いに命をこがして愛し合う。そんな妄想をしてみました」
もりのは最後、ちょっと照れ笑いを浮かべた。
「立派な妄想力やな」きりえは感心した。「それでいこ」
きりえの美しい目は、雄弁だった。ヴァイオラの心の変化を鮮やかに物語る。ヴァイオラは男への警戒をとき、ほのかな好意とともに、フレイに手を差し出す。
二人は初めて手と手を合わせた。手を合わせ、指をからめ、体温を感じ、男女の役柄で目と目を合わせた瞬間、もりのは宿命的な恋に落ちた。きりえの美しい目の虜になった。造形の美しさに、生き様が投影されていた。どこまでも美しく澄みわたり、慈しむようなやさしさをたたえている。その目に切ないような情熱が宿り、自分だけを見つめている。心がわしづかみにされた。自分より小さく体温の低い手に愛しさを感じた。
きりえもまた、もりのにときめきを感じた。すっと立っているだけで絵になる二枚目だった。競り合うことを避け、穏やかなやさしい微笑みを浮かべて「懐の深い男役」だけを頑なに目指すもりのは、小さすぎる顔とあいまって押し出しの弱さを感じさせることもあった。しかし、命を賭してヒロインの自分を得ようとする情熱は心を打つものがあり、自分を深く愛し、守ろうとする包容力が、もりの本来の持ち味によく合った。温かく大きな手、そこはかと漂う色気にも惹かれた。
もりのはきりえを抱き寄せる。身長差がちょうどよく、身体はフィットした。思っていた以上に華奢なきりえの身体がいじらしく、やさしい匂いに身体がうずいた。
きりえもまた、もりのの身体の大きさと温かさを実感し、胸が高鳴った。
二人は実際には唇を合わさず、舞台からそう見えるようにキスをした。ベッドに横たわると、深く口づけする。舞台正面から見えるきりえは顔のかしげかたで、もりのは頭の動かし方で、情熱的なキスを表現した。もりのはきりえの首筋に唇を触れずに愛撫した。
二人はそっと身体を離して立ち上がる。照れたような顔をした。組子はリアルなラブシーンにわいた。
「しょっぱなにしちゃ、上出来じゃないか」演出家は満足げだった。「もりの、惚れたろ」
もりのは言い当てられたことに動揺し、言葉を返せなかった。
「ヴァイオラも惚れましたよ」きりえは演出家に言うと、「もりのちゃん、この調子でいこ」
その夜、もりのはベッドの中できりえの美しい目と身体の感触を思い返していた。華奢な身体のつくりと、自分よりも低い体温に、太陽のように明るくパワフルな普段のきりえとのギャップを感じた。抱き心地はやさしく、かすかに甘い匂いがした。きりえのことを思いながら、口では言えないようなやらしいことを頭の中でした。
翌日、稽古場できりえと目と目が合うと、もりのはぽっと赤くなり、心のなかであやまった。清らかなあなたにあんなことやこんなことをしちゃいました、と。
きりえは笑顔で歩いてくる。
「お昼一緒に食べよ。もりのちゃんの分もお弁当つくってきてん」
「きりえさん、昨日も遅くまでお稽古だったのに、どこにそんな時間が?」
「ちゃちゃって作れるやん。口に合うかわからへんけど、栄養満点やで。もりのちゃん、自炊あんまりせえへんのやろ?」
「そうなんですよ」
「ちゃんとしたもん食べなあかんよ」
「ほんとに嬉しいです。ありがとうございます」
感激がこみあげる。同時に、こんなきりえを相手に、頭の中でやらしい妄想を繰り広げた自分を恥じる。
「あの、きりえさん、どうやってお返しすれば」
「身体で返して」
「え?」
「変な意味ちゃうよ」きりえは襟足を触り、笑う。「健康でいてってこと。元気に舞台を務めてくれたらええねん」
「絶対、風邪引きません」もりのは力強く言った。
自主稽古を含め、稽古は毎日夜遅くまで行われた。身体はきついが、もりのは稽古を楽しみにしていた。たいてい稽古場にはきりえの方が早く入っていて、もりのはあいさつすると、「今日も会えるのを楽しみにきました」「今日もかわいいですね」などと役作りの名目で積極的に本心を口にした。
もりのは、ロミオのような恋に輝く瞳できりえを見つめた。きりえはこのまなざしにふれるのが嬉しかった。このロミオはあのロミオとは違う。情熱的だが、大人の節度を身につけていて、包容力と安心感があった。賢く冷静で健全であり、ハッピーエンドを予感させた。
稽古の合間に、二人はよく話をした。芝居のこと、ショーのこと、きりえの愛犬のほっこりエピソード、好きな音楽や映画、旅行やドライブしたいところ、大笑いしたことなどを。
公演の話では、もりのは真面目で頭でっかちになるきらいがあり、きりえは「バーンッといこ。もりのちゃんがあげつらう課題、実は全部できてるねんから」と何度も励ました。他の話題では、感性の似ている部分や違う部分を見つけて楽しんだ。
稽古を重ねるごとに、二人の信頼は深まり、親密になっていった。もりのは男役の色気がまし、きりえはかわいくきれいになった。二人は絵になった。相性の良さに妄想をふくらませる組子もいた。
「私ら、デキてるって思われてるみたいやで」
「そうみたいですね。迷惑ですか?」
「全然。リアルに見えるんは、ええことやん」
「そうですね」もりのは目を伏せ、「リアルだったらいいのに」と小さくつぶやいた。
思いがけない言葉にドキッとして、きりえは見上げた。
もりのは情熱的なまなざしを一瞬向けたあと、そっと視線をそらした。
芝居の稽古はクライマックスの場面に入っていた。
敵国の一つと通じていた忠臣の一人が裏切り、本物のシャルルを暗殺した上で、双子の秘密を暴いた。これで落城かと思いきや、ヴァイオラは自分の正体を家臣に打ち明け、それでもついてきてくれるかと問う。君主が男装の麗人であったことに驚くか、固い絆で結ばれており、裏切者一人を除いて皆がついていく。敵国との戦いが始まる。
ヴァイオラ率いる小国の軍勢は、大国相手に善戦したが敗れた。忠臣たちの命を守ったヴァイオラは一人、火の手があがる城とともに散る覚悟をしていた。
そこにフレイが現れる。
フレイは、ヴァイオラがシャルルとして敵国の姫と政略結婚したときに、初夜の身代わりを命じられた。それ以来、ヴァイオラの前から姿を消し、影で守ってきた。
二人は生き抜くことを決意する。
フレイは自分が北の国からやってきた妖精エルフと人間の混血で、魔法を使えることを打ち明ける。炎の中でも苦しくならないのは魔法の力であり、脱出の道もあると。その方法は、相手と完全にひとつになったときに、望みの場所へ瞬間移動できるというものだった。二人は炎のなか愛し合った。そこで消息は途絶えた。
しばらくして、異国の船に運よく乗り込んだ二人の姿があった。口づけで幕が下りる。
「ラストのラブシーンが重要だぞ。観客がうっとりとため息をもらすような空間をつくりあげてほしい」と演出家は言った。
二人は演じてみる。きりえの表情ともりのの艶めかしく動くうしろ姿で情熱的なキスと抱擁を表現する。
ヴァイオラは浅い呼吸を繰り返しながら、自分を抱くフレイに幸せそうにかすかに微笑む。フレイも微笑む。ヴァイオラは身体をのけぞらせ、フレイもその上で果てる。
組子にどよめきがおこった。
「リアルじゃないか。グッとくるぞ」演出家は満足げに言った。
その夜、もりのはきりえを相手に、封印していたやらしい妄想を繰り広げた。
きりえの中にも、もりのに対して好感以上の感情が芽生えつつあった。相手役となり、あらためてもりのを眺めると、姿が美しかった。スタイルがよく、どんな衣裳もさらりと着こなす。知的で品がよく、誠実だった。やさしい話し方とあいまって、春の陽だまりのような空気をまとっていた。安心できる親しみやすさの奥に、秘めた何かを感じさせた。
並んで歩くとき、もりのはきりえより少しうしろに立ち、エスコートするような距離感をとった。敬われ、大切にされているのを感じた。
四人で旅行したときの運転の腕前に一目置いたときから、もりのを意識していたのかもしれない。山に接した狭い川沿いの道を慣れた感じでなめらかに運転した。きりえは心地よいハンドルさばきに惚れ惚れしたのだった。
きりえは男役を極めているからこそのヒロイン願望があった。男役は、女性の究極の理想の男性像だった。フレイはタイプだったし、その役が似合うもりのに惹かれた。こんな恋人がいたらいいのにとふと思うことがあった。
恋人になったとして、女性と付き合った経験のないきりえには、その先に待っていることがいまひとつ想像できなかった。
タカライシ歌劇団は、入学するのに高倍率の難関をくぐりぬけ、専門の音楽学校で歌・ダンス・芝居の技術を磨いた、容姿端麗な女性が男役と女役を演じる。そのため、女性同士の交際が、世間よりは身近だった。
きりえは男性にモテる上に、男役にもモテた。先輩に誘われたことも一度や二度ではない。軽いキスなら応えたこともある。しかし、その先には進めなかった。女同士のセックスでは指や口を使うのだろうが、指を入れられるのは好きじゃないし、口でしてもらうのは恥ずかしかった。自分には向いてなさそうだと思っていた。
もりのがショーの稽古の出番を終えて、ベンチに座ってタオルで汗を拭いていると、きりえが隣に座ってきた。
「今度の休み前の夜やねんけど、空いてる?」
「空いてます」もりのは即答した。
「よかった。まりちゃんの歓迎会を上級生でやろうと思ってん」
もりのは二人きりでないことにがっかりしながらも、「いいですね」と微笑んだ。
ダイヤ組トップ娘役就任のためにサファイヤ組から異動してきたまりの歓迎会には、きりえともりののほか、男役はきりえより一期下のまき、みその、女役はもりのと同期のあきとひかるが参加した。
店は宝石駅から歩いて数分ほどの閑静な住宅街にあった。静かな佇まいをした一軒家の隠れ家風の店だった。手入れの行き届いた庭をみながら奥へ進んで引き戸を開けた。
店内にはカウンター席と座敷があり、一行は掘りごたつのある座敷に案内された。落ち着いた清潔感のある店内だった。天ぷら専門店だが、冬場の名物はふぐ料理だった。
「素敵なお店ですね」もりのは店内をみわたす。
「素敵やろ」
「きりえさんセレクトですか?」
「うん」
「さすがですね」
「天ぷらもふぐも絶品やで」きりえは誇らしそうに言った。
「楽しみです」もりのは微笑んだ。
座敷は個室だった。座敷に先に入ったもりのは、左利きのため左端の席に座った。きりえはその右隣に座った。
「かばん、こっちにまとめて置きましょう」
「はい、よろしく」
きりえがもりのにかばんを手渡したとき、指先がもりのの手に触れた。きりえはその手をかるく握った。もりのは力を込めて握り返した。
きりえは鼓動が早く打つのを感じながら、
「もりのちゃんの手っていつもあったかいね。眠いん?」
「眠くないですよ」もりのは笑った。
「あやしいなぁ」
「ドキドキしてるんです」
二人は見つめ合った。座敷に他のメンバーが入ってくる気配がしたので、もりのはそっと手を離した。
冬季限定のてっちりコースを注文した。
「左利きやからか、よそいにくそうやな」きりえはもりのの不器用そうにみえる箸づかいをみて甘く笑い、「よそったるから、器かして」
「ありがとうございます」もりのは素直に器をわたした。きりえの面倒の見方は心地よく、気を遣うタイプのもりのでも素直に甘えられた。
きりえは、相手役のまりがきりえの世話を焼こうとすると「相手役やからってそんなんええよ」とやさしく退け、「もうすっかりダイヤ組になじんでるな」「一緒に組んでほんまにやりやすいわ」「バーンッと遠慮なくきいや」などど、気楽な感じで話しかけ、まりがリラックスして楽しめるようさりげない心遣いをした。
もりのはきりえのことを知るほどに、どんどん好きになる。きりえの食べっぷりは気持ちよく、お酒を飲む横顔には色気があった。心からの笑みを浮かべて会話を楽しんでいた。話の内容は知性と教養を感じさせながらもどこか庶民的で、浮世離れしがちなこの世界では珍しく“普通の感覚”を大切にしていることが伝わる。地に足のついた感じが、もりのには魅力的だった。
もりのはきりえがすすめるままに、飲んで食べた。もりのはアルコールに強い。静かにお酒を飲む姿は端正でクールだった。笑い上戸なところもあり、会話に加わって爆笑することもあるが、基本的には物静かで穏やかだった。
きりえはそんなもりのに甘えたくなった。肩の上にちょこんと頭を乗せるようにしてもたれた。もりのはきりえを抱き寄せたくなった。二人きりなら押し倒すのにと妄想した。
「きりえ先輩がもりのちゃんの肩にもたれちゃってる」みそのが冷やかした。
「どしたん、フレイちゃんに甘えてるんかいな」まきが照れたような顔をした。
「そんなにおおげさな反応せんといてや」きりえも照れる。
「ちょっと疲れたんでしょ、きりえさん」もりのは微笑む。
「うん、そやねん」
「もりのさんの肩が疲れたら、私の肩にどうぞ」まりがいたずらっぽく笑った。
その場の皆が笑う。
「娘役さんにそんなん言ってもらったん初めてやわ」きりえは笑う。「たしかにええ肩してるもんな。もりのちゃん、疲れたら言いや」
「はい、そうさせてもらいます」もりのは笑いの残る顔で言った。
シメの雑炊を食べるため、きりえは身を起こした。器を持つもりのの手に見惚れた。
「もりのちゃんの手って、ほんまきれいやね」
「タカラジェンヌってみんなきれいじゃないですか」
「みんなきれいやけど、もりのちゃんの手は最強ちゃうかな。手と体つきって似るんかな? スラッとしてエレガントやね。ブルジョワやわ」きりえは自分の手をしげしげ見る。「私の手はな、働き者の手って言われるねん。ちょっとごついみたい」
「きりえさんの手、好きですよ」
もりのは本心から言った。きりえの自分より小さなかわいい手に口づけしたいと思った。
「私も好きです」まりが言った。「私の手を見てくださいよ、大きくて筋張ってて。娘役として魅せるのが難しい手なんですから」
「私の手と系統が似てるね。男役に向いてるねんで」
「それっていいことなんでしょうか」まりは苦笑した。
「もりのの手は、働き者じゃないんですよ。全然家事しないよね」あきが暴露した。
「そんなことない、掃除も洗濯もするよ」
「料理はしないよね、全然」
「しますよ。凝ったものは作れないけど、生きるための料理なら」
「生きるための料理?」きりえは笑顔で食いつく。「なにそれ、どんな料理? 虫を食材にするとか?」
「違いますよ、最低限の栄養をとるための料理です。野菜炒めとかお刺身とか」
「お刺身? 魚捌けるん?」
「器に盛り付けるだけです」もりのは小さな声で言った。
「それは料理ちゃうなぁ」きりえは笑う。「具だくさんの味噌汁とか作るん?」
「もりのは味噌汁なんて作りませんよ、きりえさん」あきは冷静に言う。「味噌汁はすごい料理だと思ってるんですから。ね、もりの?」
もりのはうなずく。
「もりのは今でこそ野菜炒めとか簡単なものを作るようになりましたけど、入団した頃なんてもっとしなくて。料理したっていうから何を作ったのと尋ねたら、なんて言ったと思います?」
「素うどん?」ときりえ。
「はんぺんをフライパンで焼いたって、得意気に」あきは笑う。
「はんぺん? なにそれ、かわいいなぁ」きりえは爆笑する。
もりのは情けなさそうな顔をした。
「みそのだって料理するんやで」
「知ってます。麺でしょ」
「麺をバカにするな~」みそのは抗議した。
「そうや、麺をバカにしたらあかんよ。麺にやな、具をたくさん入れてみ。完全栄養食になるんやで」
「たしかに」もりのは納得する。
「よっしゃ、これぞ生きるための料理を教えたるわ」きりえは真剣な顔で、身振り手振りをまじえて説明する。「一押しは豚汁やね。簡単に作れる完全栄養食やから。お味噌汁と同じような作り方やねんけど、具材を煮る前に炒めるのがポイント。豚と根菜とか何でもバーッと炒めてから煮て、味噌を溶くだけやで。具材からだしが出るから、他にだしを入れなくてもええねん。ごま油で炒めるか、仕上げにごま油をたらすと、最高やで。酒かすを溶いて入れれば、粕汁になるし。めっちゃ簡単で、身体にええよ」
熱く語るきりえのことが、もりのはかわいくてしかたなかった。
歓迎会はお開きとなり、順々に個室を出た。
もりのは意を決して、まりに続こうとするきりえを呼び止めた。
きりえは戻ってくると、「どしたん?」ともりのを見上げた。
もりのの鼓動は激しく打つ。かがむと、きりえの口角の上がった形のいい唇にキスをした。
「もりのちゃん!」きりえは真っ赤になった。「どしたん急に?」
「きりえさんがかわいかったから」もりのはきりえと目を合わせると、赤くなる。「きりえさんの恋人は身が持たないですね、きりえさんがかわいすぎて」
「酔ってるん?」きりえはドキドキする。
「さあ、どうでしょう」
「もう、いくで」きりえは目を伏せ、座敷を出た。
もりのは同期と駅前に向かった。そのすぐ後ろをきりえとまりが歩いた。
もりののかっこよさに同期ながら惚れている様子のひかるは、「相変わらずお酒強いね、もりのちゃん」と甘い声で言った。「全然酔ってないでしょ」
「うん、全然」もりのは涼しい顔で応えた。
寒空の中、きりえの身体は冷えていた。胸だけ熱くなっていた。夜空を見上げると、消え入りそうなほどうすくなった下弦の月が浮かんでいた。そっと唇にふれる。もりののやわらかな唇の感触が残っていた。
二 ロマンスの冒険
歌劇団、愛車、きりえ――。本気で惚れ込んだとき、もりのは決断力と行動力の塊になる。歌劇団への進路も車の購入も「自分にはこれだ」と即断即決した。
普段は思慮深く、控えめでおとなしくみえるが、ここぞというときは大胆だった。
スポーティーな稽古着に身を包んだもりのは、きりえのもとに笑顔で向かう。動物の子どもを思わせる愛らしいつぶらな瞳は恋に輝いていた。
「きりえさん、お稽古のあとお時間いただけますか」
「ちょっとお仕事があって遅くなるねん」
「私は遅くても大丈夫です」
「う~ん」きりえは困った顔をした。
「迷惑ですか?」
「そんなんちゃうけど……」
「なら待ちます」もりのはそう言うと、自分の場所に戻った。
きりえはため息をついた。二人きりで会わないほうがいいと思っていた。だから仕事で遅くなると嘘をついた。それなのに会いたい気持ちもあり、中途半端なことを言った。
稽古を終えると、汗を流してきれいな素化粧をし、雑誌取材の仕事をこなした。劇団の食堂で食事をし、知り合いと談笑した。
夜遅く、稽古場に戻った。もりのがいないと寂しいし、いると困る。複雑な思いでドアを開けた。
もりのは一人、稽古場の片隅に背中を壁につけて座っていた。一人だけの稽古場は、暖房がついていても肌寒かった。きりえは胸をつかれて、もりのの元へ駆け寄った。
もりのは眠っていた。白シャツに胸元の開いたブルーのニット、オフホワイトのウールパンツというかっこうだった。傍らに黒のロングコートとかばん、ショッピングバッグ、読みかけの文庫本、ペットボトル入りの水が置いてあった。文庫本は、きりえが読みたいと思っていたジャック・ロンドンの動物小説『白い牙』だった。
きりえはあどけない寝顔を見る。もりのは長身のため大人っぽく見えるが、童顔だった。少し丸みのある短い顔にほのぼのする。仔犬のような愛らしさに微笑みがもれる。
太陽の光に負けてしまうミルク色の肌に、ふっくらとしたピンク色の唇が強調されて見えた。白く長い首筋が美しかった。大きな手に視線を落とす。驚くほど長い指だった。手の大きさのわりに細く繊細だが華奢ではない。皮膚はきめが細かくなめらかで、短く切りそろえられた清潔感のある爪は健康的な光沢をおびていた。きりえは性的魅力を感じた。この手に触ったり触られたりしたいと思う。
きりえは首をそっと振ってため息をつくと、寝顔に視線を戻す。かるく閉じられた口からすやすやと規則的な寝息がもれていた。あまりにも気持ち良さそうだったので、隣に座って、寝息に自分の呼吸を合わせてみた。きりえはいつしか眠っていた。
もりのはやわらかな感触と甘い匂い、そして胸元にかすかな湿り気を感じて、目を覚ました。至近距離にきりえの美しい顔があり、心臓が跳ね上がった。きりえはもりのの胸に抱かれるようにして眠っていた。心をふるわせながら、もりのはきりえの髪の毛にそっと触れる。職業柄茶色い髪は少し痛んでいた。あふれる思いが大胆にさせる。もりのはきりえの髪を何度もやさしく撫で、ときどき鼻を埋めるようにしてそこにキスをした。
きりえは髪を撫でるやさしい感触と、背中に感じる陽だまりのようなぬくもりにうっとりしながら目を覚ました。やさしいまなざしがそそがれていた。
「もりのちゃん」きりえは安心したように微笑んだ。
「きりえさん」もりのも微笑んだ。
「つられて寝ちゃったわ」
きりえはふと自分の口元が濡れていることに気づいた。シャツの胸元に目をやると、少し濡れていた。「うわ、よだれや!」きりえはあわてふためいた。
「え?」
「ごめん! どうしよ!」きりえはかばんの中からハンドタオルを取り出すと、もりのの服を大急ぎで拭く。「あかん、こんなんじゃとれへん!」
「気にしないでください」もりのはやさしい声で言うと、ペットボトルの水を飲んだ。
「最悪やぁ」きりえは自分の口元をタオルで拭い、しょんぼりする。
「きりえさんもどうです?」もりのは水を差しだす。
「ありがと」きりえは一口飲むと、「ほんま最悪や……」とつぶやき、座ったままくるりと背を向けてひざを抱える。
「私は嬉しいですよ。きりえさんのしるしつけてもらって」
「嬉しいって変なやっちゃなぁ」きりえはもりのを振り返って赤くなる。「やめてや、変なことするん。すぐに洗ってや」
「もちろん洗いますよ」もりのは笑った。
きりえは心配でたまらず、シャツに顔を寄せてにおいをかいだ。
「大丈夫みたい」きりえは安心して笑った。
もりのは無邪気なきりえの振る舞いに、心をわしづかみにされた。
「きりえさん、かわいすぎです」
「え? こんなんかわいいん? 変なもりのちゃん」きりえは照れ笑いした。
「ほんとにかわいくて困ります」
きりえはもりのの愛情が嬉しかった。だからこそ落ち込む。背を向け、ひざを抱えてしょんぼりする。
「よだれなんて垂らしたことないのに。よりによってもりのちゃんに。最悪やわ。どうせこんな風に思ってるんやろ。ペットと飼い主が似るってほんとだ。ハルオキと同じできりえさんもよだれっ子だって」
ハルオキはフレンチブルドッグで、口の構造上よだれをよく垂らすのだ。
「ほんまにこんなん初めてやねんから」きりえは情けなさそうにつぶやく。
「きりえさん、どれほど自分がかわいいかわかってます?」
もりのは切ない声で言うと、きりえをうしろから抱きしめた。
「どしたん、もりのちゃん?」
きりえの鼓動は高鳴る。自分の身体にしっかりとまわされた長い腕をほどこうとするが、もりのは離さない。それどころかいっそう力を込める。
「きりえさん、大好きです」
もりのはささやくと、きりえのピンク色に染まった耳に唇をそっとあてた。恥ずかしそうにうつむくきりえの、ショートヘアのため無防備にさらされるうなじに熱い吐息とともにやわらかな唇をはわせる。きりえから吐息がもれる。もりのの手を離すつもりが、やさしく撫でていた。
「恋人の役やからとちゃうん?」きりえはささやく。「この公演が終わったら、もりのちゃんの愛情も終わるんとちゃうん?」
「役柄として好きなのか、本気で好きなのかくらい、区別つきますよ」
もりのは髪に顔をうずめ、そっとキスをした。
きりえは気持ちよくて目をつむる。
「きりえさんに触れたかった……」
もりのはきりえのすべらかな頬に手をあてて自分の方へ向けると、唇にそっとキスをした。首筋をやさしく撫でながら、小さな音を立ててキスを繰り返す。きりえはもりのの身体を引き寄せる。
二人の身体は火照り、鼓動が早く打つ。もりのは熱をもった唇を押しあて、かるく開かれた口の中になめらかな舌を入れて、深くキスをした。互いに唇を何度もあわせ、静かな稽古場に湿った音を立てて、舌を吸ったり絡ませたりした。
とろけるような甘いうずきを感じ、手で触れてみなくても濡れているのがわかった。もりのはその先に進みたかったが、きりえはそっと身体を離して押しとどめた。
「また今度」きりえは恥らい、うつむく。
「今度……」
二人は顔を合わせてちょっと笑った。
「そろそろ帰ろっか」
「そうですね」
二人は立ち上がった。
「もりのちゃん、なんか用事あったんとちゃうん?」
「あ、大切なことを思い出しました」もりのはショッピングバッグをきりえに渡した。「日頃の感謝を込めて、プレゼントです。よかったら開けてみてください」
「サプライズやん! ええの?」
落ち着いたオレンジ色のカシミアストールだった。きりえは声をあげて喜んだ。
「ちょっと男役っぽくないけど、刺し色にいいかなと」もりのはそう言いながら、きりえにストールをまいてやった。モスグリーンのニットに映える。「きれいです。すごく似合ってます」
きりえは稽古場の鏡で確認し、「ほんまや、ありがと」と満面の笑みを浮かべた。
「喜んでくれて嬉しいです」もりのはきりえにそっとキスをした。
きりえはもりのとのロマンスの冒険に舵をとり、心を躍らせた。
三 もう我慢できません
翌日の稽古場で、もりのは裸足で激しく踊るきりえを食い入るように見つめていた。
スタミナのあるきりえでさえ、ときおり苦しげな表情をみせるほどハードな場面だった。眉根を寄せて息を荒げるきりえを見つめていると、悩ましい気分になる。やわらかな唇となめらかな舌の感触、吸ったり舐めたり絡めたりしたときの湿った音、熱くなる体温が生々しく思い出された。「また今度」ときりえが恥ずかしそうに言ったことをしっかり覚えている。きりえのことを早く知りたくてたまらない。
出番を終えたきりえは、もりのの隣に座った。汗にぬれた頬は紅潮し、呼吸は乱れていた。もりのは色気を感じ、目のやり場に困る。きりえは汗を拭き、「きつかった」と笑った。
「大変な場面ですね」
「ちゃんと踊れてたかなぁ」
「ばっちりですよ。さすがきりえさん」
「よかった」
きりえはペットボトルの水を飲んだ。もりのは官能的に動くのどにキスしたくなる。
「もりのちゃん、今度の休み前の夜って空いてる?」
「空いてます」もりのは即答した。
「よかったらうちにおいでや。鍋ごちそうするで」
「いいんですか?」
「うん、お酒も飲みたいし、泊まりできてな」
「二人だけですか?」
「うん、そうよ」きりえはちょっと赤くなる。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「ストールのお礼がしたくて」
「ストールがお礼なのに」
「あ、それもそやな。ほな、やめとく?」きりえはとぼけた顔で言う。
「行きます、行きたいです」
きりえは上機嫌なもりのから離れると、急に恥ずかしくなった。あからさまに誘ってしまったようで、少し後悔した。物欲しそうに思われるのはいやだった。
もりのならそんな風に受け取らないとも思っていた。もりのなら大丈夫と信頼できた。前トップスターのあさの言葉が思い出される。「もりのちゃんはいつも穏やかでやさしいの。人として尊敬する」
もりのは騎士のようだった。敬意とやさしさと包容力をもって寄り添ってくれる。恋人として理想的だった。エレガントな外見と立ち振る舞いが魅力的で、色気があり、雰囲気づくりが自然だった。官能的なアイテムも多く持ち合わせていた。きめの細かい真っ白な肌、ふっくらとやわらかい唇、なめらかな舌、長く繊細な指先――。
娘役をやさしくリードして踊るもりのを見つめる。とろけるようなキスの感触が思い出され、身体が火照った。
インターホンの音に、リビングで腹這いになって寛いでいたハルオキが顔を上げる。
「もりのちゃんきたで」きりえはハルオキの筋肉のつまった背中をやさしく撫でた。
ドアを開けると、襟の高いウール地の濃紺のジャケットにグレーのパンツ姿のもりのが立っていた。
吐く息と同じくらい白い歯をみせて、「こんばんは」と爽やかに笑う。
「いらっしゃい」きりえは眩しくて目を細める。
「おじゃまします。あ、ハルオキ、こんばんは」
きりえはジャケットを受け取りながら、白のシルクニット姿のもりのに見惚れた。自宅にもりの一人招き入れるのは初めてだ。日常過ごしている自分の部屋の生活感が吹っ飛び、一瞬にして華やぐ。
「なにかついてます?」
もりのは手土産のワインを渡しながら苦笑する。
「かっこええ人やなって」
「きりえさんこそきれいです。いつもそう思ってました」
もりのは恋する瞳で見つめた。
きりえは照れ笑いし、「鍋すぐに食べれるからね。そのおしゃれな服にハルオキの毛とか食べ物ついたらあかんから、この部屋着に着替えてな」と上質な部屋着を手渡した。
きりえはちゃきちゃき動いて、もりのをもてなしたり世話をやいたりした。ボリュームたっぷりのみぞれ鍋を、ワインとともに平らげた。薄味だったので、ハルオキに少しおすそ分けしてあげた。
寝る前に、きりえが温かいローズヒップティーをいれた。赤ワインのような色合いで、大さじ一杯分の小さな実が沈んでいた。
「こんなローズヒップティー初めてです」もりのは一口飲む。「うん、おいしい」
「ローズヒップティーはビタミンCの爆弾なんやって。実を食べるとええらしいよ」
「きりえさんは物知りですね」
「そう?」
きりえの得意気な顔がかわいくて、もりのは微笑んだ。
二人はパジャマに着替えた。きりえはベビーピンク、もりのは淡いブルーのシルクパジャマだった。
「新品じゃないですか。いいんですか、私が着て」
「もりのちゃんのパジャマやもん。私には大きくて着られへん」
「ありがとうございます」もりのはお揃いのパジャマだと心の中で喜んだ。
「パジャマって大事やもん。シルクはあったかくてええよ」
大きな洗面台の前に二人並んで歯を磨いた。もりのの歯磨きが丁寧なことにきりえは感心した。フロスをかけ、二つの歯ブラシを歯の形にあわせて使い分けている。
「だからそんなに歯ぐきがピンクで、つくりたてみたいな歯なんや。真珠みたいやもんね」
「子どもの頃から丈夫なんです。でも油断しちゃダメなんですよ。歯が丈夫でも歯ぐきのケアを怠ると、お年寄りになったときに歯が抜けちゃうらしいから」
「死ぬまで自分の歯で食べたいやんな」
「タカラジェンヌは歯が命ですしね」もりのは爽やかに笑った。
「ほんまに爽やかな人やな」
「きりえさんこそ」
きりえの水で口をすすぐ仕草に色気を感じ、もりのは早くキスしたいと思った。
寝室はひやりとしていた。
「のどに乾燥は大敵やから、暖房いれてないねん。ごめんな」
「そうですよね。私もそうしてます」
「寝るとこやねんけど、ベッドでもいい? 狭いねんけど」
きりえは木目調のセミダブルベッドを指差した。
「ベッドがいいです」
二人はちょっと赤くなる。
「じゃ、先に寝てて。枕用意するわ」
「ありがとうございます」
もりのは右の方に寝た。冷え切った寝具が、火照った体に心地よかった。
きりえは照明を消して常夜灯だけにした。枕を置いてポンポンと形を整える。もりのと目が合うと微笑んだ。
「きりえさん、こっちに寝てください。あっためておきました」
もりのは冷たい左側に移った。
「ありがと」きりえはベッドの中に入る。「あったかい」
布団にくるまるともりののぬくもりとやさしい匂いにつつまれる。きりえはうっとりと目を閉じる。
肩と腕が触れあう。
「やっぱり狭いね」きりえが笑いを含んだ声でささやく。
「大きくてすみません」
二人は小さな声を出して笑うが、互いの体温を感じて鼓動が高鳴る。
「あっためといてくれてありがと。冷えやすいからうれしい」
もりのはきりえの手に自分の手をそっと重ねる。
「少しひんやりしてますね。気持ちいい」
「もりのちゃんの手あったかいなぁ」
きりえはもりのの手に自分の手を絡めるようにして握る。
もりのは身を起こすと、きりえの身体にそっと腕をまわした。
「身体もあったかいですよ」
「ほんまや」
もりのがきりえの上になって抱き合うかっこうになった。二人ともパジャマの中は裸でショーツしかつけていない。互いの肉体を生々しく感じ、身体が熱くなる。
「もりのちゃん、熱いね。眠いん?」
「まったく眠くないです」もりのは腕に力を込めて、切ない声でささやく。「きりえさんは眠いですか?」
「ねむないよ」
きりえは首筋に頬をうずめるようにして、やわらかな肌に唇をあてた。肌に触れる唇をかすかに動かし、大きな骨組みやしなやかな筋肉をたしかめるように背中を撫でる。
もりのはきりえをそっと見つめる。きりえの美しい目は艶っぽい色をおびていた。
「きりえさんの目、間近で見るとやばいです」もりのは吐息をもらした。
「そうなん?」
「ほんとにきれい。目だけでイッてしまいそう」
「え?」きりえは赤くなる。
うっとりとした表情でやさしく首筋を撫でるもりのを、きりえはそっと見つめた。
「どうにかなっちゃいそう……もう我慢できません」もりのはかすれた声でささやいた。
「もりのちゃんは意外に率直やね」きりえは甘く笑った。
もりのは大きな手できりえの頬をすっぽりと包みこんでキスをした。やさしいキスを繰り返す。額から頬へと唇をすべらせ、小さな吐息とともに耳たぶを唇でくすぐった。
やわらかな髪を撫でながら首筋の匂いをかぎ、唇をはわせた。ふっくらとやわらかな唇をきりえの唇に重ねる。やさしく食べるようなキスをしながら、長い指先はなめらかなシルクの上をおりていった。手のひらで乳房をやさしく包みこみ、乳首を繊細に愛撫する。
きりえは感じたときの声を出してしまい、恥ずかしくなる。
「もりのちゃん、私、女の人とこんなことするの初めてやねん」
「そうなんですか?」
「めっちゃ驚いてるけど、こっちのほうが普通やで」きりえは苦笑した。
「そうですね。でも、きりえさん先輩にモテてらしたから」
「もりのちゃんが初めてよ」きりえは恥じらって目を伏せた。
「光栄です」
「光栄ってほどのものでも」きりえは笑う。
「抵抗感じますか?」
「ううん、ちょっと恥ずかしいだけ」
「恥ずかしがらせたりしません」もりのはやさしい声でささやいた。
「もう恥ずかしいんやけど」
「かわいすぎです」
もりのは安心させるように微笑むと、深く口づけをする。きれいな額からくっきりとした二重まぶた、高い鼻、形のいい唇、やわらかな頬へと、小さな音をたててキスをした。濃厚なキスをすると、きりえはもりののうなじに手をまわして情熱的に応える。もりのはシルクの上からいろいろなところを唇と指先で愛撫する。きりえは小さな声をもらす。下着はたっぷりと濡れていた。
もりのはパジャマのボタンをはずすと、やわらかな手をすべりこませ、乳房をそっと包んだ。すべらかな肌とやさしく吸いつくような乳首の感触に陶然とする。自分の身体になじんでもらうよう、しばらくそのままただ触れていた。
きりえは背中を撫でて先をうながす。もりのは唇にキスをすると、指のはらで乳首に繊細な刺激を加えた。きりえから小さな声がもれる。首筋から乳房へとふっくらとした唇をすべらせる。パジャマがするりとはだけ、量感のある形のいい乳房とやさしい色合いの乳首があらわになる。片方の手で乳房をやさしく愛撫しながら、なめらかな舌先で乳首をくすぐり、口の中に大事そうに含んだ。乳首をかるく吸うと、やさしく舐めたりころがしたり、ごく弱い力で噛んだりした。
きりえの感触とかわいらしいあえぎ声にどうしようもないほど感じる。もりのにとってきりえは入団したときから雲の上の人だった。男女含め付き合った経験はあるが、これほど恋い焦がれた人はいなかった。手の中にすっぽり収まる形のいい頭も、美しい瞳も、チャーミングなほくろも、ちょっと上を向いた高い鼻も、きれいな筋肉も、やわらかい部分も、すべてが狂おしいほど愛しかった。
「もりのちゃんも脱いで」きりえがささやいた。
「脱がせてください」もりのはかすれた声で言った。
きりえは艶めかしく横たわるもりのを裸にした。裸体は息をのむ美しさだった。広い肩に形のいい豊かな胸、小ぶりなうす桃色の乳首、華奢なおしりが、両性具有の美しい人のものにしか見えなかった。きりえは吸い込まれるような気分で、ふっくらとした唇と温かい舌を吸って舐めた。
「もりのちゃんの唇やわらかくて気持ちいい」
「きりえさんの唇もやわらかくて素敵です」
「女の人ってみんなやわらかいん?」
「さあ」もりのは感触をたしかめるようにキスをし、「きりえさんの唇は極上です」
「もりのちゃんの唇にやみつきになりそう」
きりえは色っぽい表情で濃厚なキスをした。もりのの長い首筋からしっかりした鎖骨と肩、わき腹にかけて唇をはわせた。しっとりと光沢のある肌はどこまでもなめらかで、自分の肌ととけあった。このとけあう皮膚感覚は初めての経験だった。乳房にキスをし、なめらかな舌で乳首をころがすと、かわいらしくかたくなった。その素直な反応がかわいくて、小さな音を立てて何度も吸って舐めた。
「もりのちゃんの身体が好き」きりえはささやいた。
もりのは至福だった。美しく淫らなきりえの表情と仕草を目にするだけで、深く感じる。その上、きりえの身体の感触と愛撫、少しハスキーな声がたまらなく素敵で、目がくらむような官能をおぼえた。あえぎながら、「最高に気持ちいいです」「きりえさん、エロ美しいです」などと感じるままにささやいた。
きりえはもりのに魅せられた。控えめな吐息も汗も素敵だった。白くやわらかな肌から甘い匂いがした。長い腕を上にやり、脇のくぼみを舐めた。もっと汗をかけばいいのにと思った。
二人は絡みつくようにして互いを求めた。もりのの指はきりえの身体をおりて、温かく濡れたところに触れる。とろとろにとろけ、ふくらんでいた。もりのは時間をかけて愛撫したかったけれど、きりえの身体は敏感になっていて、あまり長くはもたなさそうだった。
「きりえさん……いいですか?」
「もりのちゃん、早く入って」きりえは息を乱しながら、やさしい声でささやいた。
肌触りのいい長くしなやかな指を自分の中に受け入れたとき、きりえはもりのにやみつきになった。熱く浅い呼吸を繰り返し、意識が遠のきそうになりながら背中にしがみつく。
もりのもどうにかなってしまいそうなほど高まりながら、きりえの表情を目に焼き付け、感覚すべてがきりえでいっぱいになった。
きりえを抱き寄せると、やさしく髪を撫で、ほんのり汗ばんだ形のいい額にキスをした。きりえはとろんと放心したままキスを返す。潤んだ美しい瞳を間近に見るだけで、もりのは感じる。
「もうちょっと待ってね、落ち着いたらもりのちゃんも」
「一緒にイキましたよ。あんなきりえさん見たらもう……」もりのは思い出して悩ましくなる。なのに、「だるいでしょ、きりえさん。私は大丈夫、眠れます」と遠慮した。
「遠慮したらあかんよ」
きりえはもりのの下腹部にそっと触れる。もりのは小さく声をもらした。たっぷりとうるんでいて、脚のつけねから内腿まで濡らしていた。
「こんなになって、眠れるわけないやん」
きりえはもりのにキスをすると、濡れたところをやさしく愛撫する。「こんなところに色っぽいほくろがある」とささやき、鎖骨のあいだのうすいほくろを舐める。身悶えて深く感じるもりのに、きりえも感じる。眉根をよせ身をふるわせて昇りつめると、きりえも身をふるわせ、もりのの上で脱力した。
二人はしっとりとした汗をかき、浅い呼吸を繰り返す。
「きりえさん、最高です」もりのはうっとりとした表情を浮かべる。「歌って踊れるスーパースターは、ベッドの中でもエンターテイナーですね」
「そんなん初めて言われたわ」きりえは照れ隠しに爆笑したあと恥ずかしそうに、「もりのちゃんも最高やったよ」
「ほんとですか? 嬉しいです。でも、そう感じてくださるのは、私がきりえさんを心から愛してるからです」
もりのはきりえをギュッと抱きしめた。裸の抱き心地がよくて、またしたくなる。
「またしたくなっちゃいました」もりのは正直に言った。
「もりのちゃんって絶倫やねんね」きりえは甘く笑った。
「絶倫だなんて。あなたが素敵だからしたくなるんです」
二人はキスをかわすと、何度も求め合った。
ふんふんふんふん……ペロッ。
もりのが目を開けると、ハルオキの顔がごく近くにあった。ハルオキは穏やかなうれしそうな顔でもりのを見ていた。もりのは微笑んだ。
きりえの方へ顔を向けると、大きな美しい瞳がやさしく自分を見つめていた。冬の朝の澄んだ光のもとで間近に見る素顔は可憐だった。親密な温かさがあった。
「おはよう、もりのちゃん」
「おはようございます、きりえさん」もりのは笑顔を浮かべる。「いつ起きたんですか?」
「ついさっき。ハルオキがごはんいうねんけど、もう少しこうしてたくて」
「寝顔みられちゃった」
「お肌ほんとにきれいやね。うすいほくろが色っぽいし、見惚れててん。髪の毛は爆発してるけど」
二人は笑った。
「髪が硬くて多いから、毎朝こうですよ」
「けっこう好きよ。ロックスターみたいでかっこええやん」
「ありがとうございます」もりのは手を伸ばしてきりえの髪を撫でた。
「きりえさんの髪はやわらかい手触りで素敵ですね」
「もりのちゃんの手って気持ちいいね」
きりえはやさしくキスしてから起き上がった。
「ハルオキともりのにごはん作ったろ。ごはん食べたらハルオキの散歩に付き合ってな」
「ありがとうございます。散歩いいですね」
きりえの背中を見送るもりのは、これは夢なんじゃないかと疑ってみた。ハルオキのフレンチブルドッグらしい筋肉質の背中を撫で、犬らしい臭いを嗅いだ。朝の冷たく爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
四 全然穏やかじゃなかったですよ
休日明けの稽古場で、もりのはベンチに座り、歌い踊るきりえを熱っぽく見つめていた。声、目の表情、身体の動きに、初めてのセックスをなぞっていた。人前でそんな顔をしないでと止めたいほど、色気を感じた。きりえは一方で、トップスターとして圧倒的な存在感を放っていた。親密な時間を過ごしたことが現実に思えないほど、遠い人のように感じた。
稽古が終わるのを待っていたもりのは、きりえに声をかけた。
「どしたん?」きりえは笑顔を向けた。
「今夜予定はありますか?」
「ないよ、寝るだけ」きりえはちょっと照れた。
「少し部屋に行ってもいいですか」
「ええけど、今夜は穏やかに過ごしたいねん」
もりのはけん制されたことに動揺し、言葉を詰まらせる。
「ごめん、変な言い方して。うちに来てくれるのは嬉しいんよ。ただ、明日もお稽古ハードやから」
「そうですよね」
「今夜は遅いから、来るなら泊まりや」きりえは耳に少しかかる髪をさわった。
晩ごはんは劇団で軽くすませていたので、もりのは家にいったん帰ると、泊まり支度をしてきりえの家に向かった。入り出待ちがあるため、毎日服装に気を使う。きりえの部屋にそのまま向かって、翌日同じ服で劇団に行くわけにはいかないのだ。
「いらっしゃい」
パジャマ姿のきりえが親密な笑顔で迎えた。
「遅くにすみません」
「ええから、はよ入り」
もりのはリビングに寛いだ様子で寝そべっているハルオキにあいさつし、やさしく撫でた。
「もりのちゃんもお風呂はええの?」
きりえは黒のカシミアコートをハンガーにかけながらたずねた。
「はい、お稽古のあと入ってきました」
「昨日と同じパジャマでもええ? まだ洗ってなかってん」
きりえは少し照れる。もりのを感じたくてまだ洗ってなかったのだ。
「もちろんいいですよ」
もりのはその場でパジャマに着替える。裸の上半身が視界に入り、きりえの胸が高鳴る。
「なんか飲む?」
「お茶をいただけますか」
二人はテレビのニュースを見ながら、緑茶を飲んだ。珍しく、不幸な事件は起こってなかった。歯を磨き、他愛ないおしゃべりを少しした。もりのは昨日と同じようにベッドに入ると、きりえの場所を温めておいた。きりえは常夜灯だけにした。
「おやすみ、もりのちゃん」
「おやすみなさい、きりえさん」
もりのはきりえの体温や息遣いを感じて、鼓動が早く打ち、身体がうずいた。手を伸ばせば触れられる。でもそれはできない。ため息をつくと、きりえにくるりと背を向けた。目をつむってこらえた。
しばらくして、きりえが小さな声でたずねた。
「もりのちゃん、もう寝た?」
「起きてますよ。眠れないんです」もりのはかすれた声で応えた。
「私もやねん」
「目を閉じてればそのうち眠くなるはず」もりのはさらに強く目をつむった。
きりえはもりのに近寄る。もりのの背中にきりえの身体が触れる。
「ちょっと話してもええかな?」
「はい」もりのは仰向けになり、きりえの方を見る。
「私な、もりのちゃんとちゃんと付き合いたいねん」
「きりえさん……」
「もりのちゃんって、付き合ってる人いるん?」
「いるわけないじゃないですか、いたらここにいません」
「私と付き合ってくれる?」きりえはかわいい声でたずねた。
「もちろんというか、きりえさん、大好きです。私と付き合ってください」もりのは熱っぽく言った。
「ええよ」きりえはやさしく応えた。
「やった!」
きりえは笑った。「そんなに喜んでくれるん」
「だって、きりえさんと付き合えるんですよ。夢みたいです」
きりえは微笑むと、真面目な声で続ける。
「付き合うからには、ちゃんとしたいねん。これまでどおり舞台を最優先にしたいし、私は持病があるから、体調管理もしっかりしたい。でも、一緒にはいたいねん」
「わかります」
「じゃあ、寝よか」
「おやすみなさい」
もりのは自分の欲情を抑えるため、くるりと背を向けて、自分を抱きしめるように腕を胸の前で交差させた。
きりえはもりのの背中にそっと抱きつく。身体に腕をまわし、うなじに頬を寄せた。
「こうしててもええ?」
「はい」
もりのは、うなじにすべらかな頬と湿った吐息を、背中にやわらかな胸の感触を、身体中にぬくもりを感じ、甘い匂いに鼻腔がくすぐられ、どうしようもなくうずいた。
きりえはうなじから肩にかけて、きれいな鼻筋をうずめるようにして匂いをかぎ、しなやかな腕と手を撫でたり握ったりした。うなじから肩にかけてさまよっていた唇は耳のうしろにたどりつき、やさしくくすぐった。きりえのかすかな吐息が鼓膜をふるわせる。もりのは身動きせず、目をつむってこらえていたが、ごく小さく声が出てしまう。
きりえはため息をつくと、「もりのちゃん、こっち向いて」と切ない声でささやいた。
もりのはきりえの方に身体を向けた。うす灯りのもと、きりえの美しい瞳は妖艶な色をおびていて、見つめ合うだけでもりのの呼吸は乱れた。途方に暮れるほど身体がうずき、きりえが寝たら自慰したいと思った。
きりえはもりのの唇を愛しそうに見つめ、指先でそっと撫でた。唇は物欲しそうに半ば開かれた。
「キスしていい?」
もりのはうなずき、目を閉じた。きりえはソフトなキスを何度かしたあと、ふっくらとやわらかな唇となめらかな舌をゆっくり味わうように深くキスをした。二人は自然と互いの身体に腕を回していた。抱き合っていると、二人の鼓動が区別のつかないほど高鳴った。
きりえは少し目を伏せて恥ずかしそうに、「やっぱりしたい」とつぶやいた。
「私もしたいです」もりのはきりえを抱く腕に力を込めた。
きりえはうなじに両手をまわし、唇を貪るようにキスをした。首筋に吸いつくように唇をはわせ、パジャマのボタンを外して裸にした。自分もパジャマを脱いで裸になった。湿った音をたてながら、もりのの身体を唇で愛撫した。
もりのは自分を情熱的に愛撫するきりえを長い指でやさしく触れた。脚のつけねの奥は熱くとろとろに濡れていた。
きりえの上になると、唇と舌先、指先と指のはらでいろいろなところをやさしく愛撫した。きりえは声をあげて感じた。太腿から内腿のやわらかいところを愛撫しながら膝をそっと押し開くと、舐めたかったところをやさしく舐める。
きりえは息を飲み、「恥ずかしい……」とつぶやく。
もりのはやらしい音をたてながら愛撫する。きりえは舌づかいに陶然とする。
「きりえさんを舐めれるなんて夢みたい」
きりえは息を乱しながら、「舐めたかったん?」
「すごく舐めたかったです」もりのはくぐもった声でささやいた。
「もりのちゃん、エッチやわ」
身体の求めることに耳を澄ませ、もりのは心を込めて愛撫する。きりえはもりのをそっと見つめる。目をかるく閉じて愛撫するさまは端正で品があり、ロマンチックだった。大切にされているのを感じ、愛情がしみわたる。恥ずかしさはなくなり、愛しさと歓びがあふれる。
「もりのちゃん、気持ちよかった」きりえは呼吸が落ち着くと、頬を上気させ、艶やかな大きな目で見つめた。
「きりえさん、素敵でした」もりのは恋する瞳で見つめた。
「もりのちゃん、上手やね」
「上手とかじゃないです」
「今までたくさん泣かせてきたんやろ」きりえはかるくなじった。
「そんなんじゃないです。傷つきますよ」もりのはしょんぼりした。
「ほめてるねんよ」きりえは甘く笑った。
「そうなんですか?」
「当たり前やん」
きりえは甘く笑うと、もりのの上におおいかぶさった。舌触りのいい食べ物を口全体で味わうようにキスをした。もりのはキスだけで深く感じる。きりえは全身をくまなく愛撫する。
もりのがしたように脚をやさしく押し開くと、そっと唇をあてた。長いまつげを伏せ、高い鼻をうめるようにして情熱的に愛撫するきりえは、美しく艶めかしかった。身体の奥からとめどなくあふれる。きりえはやらしい音をたてながら、吸ったり舐めたり焦らしたりを繰り返した。色っぽく乱れる恋人を愛しく感じた。
もりのは気持ちよくて頭が変になりそうだった。
「きりえさん、気持ちよすぎておかしくなりそう」
きりえはもりのの唇にキスをすると、乳首をやさしく舐めたり噛んだりしながら、とろとろに濡れたところの望みに応えた。
「すごかったです、きりえさん」もりのは息を乱しながら、「なんですか、今のは……」
「なんやろね」きりえは照れる。
「なに、爽やかに照れてるんですか」もりのは甘く笑う。「きりえさん、全然穏やかじゃなかったですよ」
「うん」きりえは恥ずかしがる。「あかんな、私」
「あかんきりえさんが大好きです」
「でも、もりのちゃんがあかんねんよ、エッチな身体してるから」
「きりエッチさんこそ」もりのは小さく笑う。
「きりエッチさんってなんやねん」きりえは爆笑する。
「きりエッチさんが女性は私が初めてだなんて信じられません。すっごくエッチですね」
「もりのちゃんが先生やから」きりえは照れ笑いし、もりのの髪をくしゃくしゃにした。
「先生って……」もりのは苦笑する。「きりえさんはどの道でも究めちゃいそうですね。楽しみ」
「先生はベッドの中もすごいけど、稽古場のエッチな目つきもすごいんやで」
「バレてましたか」もりのは照れる。「きりえさんとの夜を思い返してたんです」
「もりののスケベ。もりののMはむっつりのMやな」きりえは笑った。
「むっつりって。せめて、淫らのMとでも言ってくれませんか」もりのも笑う。
きりえは突然、「今、何時?」
「知らないほうがいいと思いますよ」
「あ~あ、こうなるなら、最初からすればよかったわ」
「今度からそうしましょ。その方が結局早く眠れますよ」
「ほんまやな。でも、私たち、そのうち落ち着くやんな」
「たぶん」
きりえはふわっとあくびをした。「よう眠れそうやわ」
もりのはきりえのあくびが好きだった。人間離れした、かわいい生き物のあくびのようで、愛しかった。
「おやすみ、もりのちゃん」
「おやすみなさい、きりえさん」
深い眠りに落ちた。
五 私がいる間はおってね
名古屋市内の劇場で幕を開けたトップ就任お披露目公演は大入りだった。中日にさしかかったところで、前トップスターのあさが観劇にきた。
翌日は休演日だった。きりえともりのはあさを招き、食事に行った。予約していたのは栄にある老舗ドイツ料理店だ。レンガ造りの重厚感が年月を経てこなれた感じになっている。店主の趣味でレコードからジャズが流れている。
店は客でほどよくうまっていた。テーブルは大きく、それぞれ余裕をもって配置されている。三人は暖炉そばのテーブル席に案内された。薪があかあかと燃えている。三人は店の雰囲気が気に入り、ひとしきりはしゃいだあと、くつろいだ。
樽生のピルスナービール、自家製ソーセージ、ザワークラウト、この店の冬の名物であるラクレットを注文した。
ピルスナービールとザワークラウトがまず運ばれてきた。
乾杯するなり、あさが目を輝かせながら言った。
「ほんと、よかったよ、お芝居もショーも」
「ほんまですか、よかったなぁ」きりえは嬉しくてもりのを見る。
「うれしいですね」もりのもきりえを笑顔で見る。
「ヴァイオラはかわいいし、フレイはかっこいいしね。ほんと、リアルだったよ」
きりえはそわそわと耳元の髪を触った。
もりのは長い指で襟足を触った。
「なんか動揺してない?」あさはめざとい。「やっぱりね」したり顔でうなずき、「二人、付き合ってるでしょ」と核心をついた。「舞台をみたらわかるんだよ」
動揺する二人をバシッとみて、あさは続ける。歌劇団専門のCS放送で、公演中の舞台の見どころを紹介する「いまステ」という番組と、幕が開けたばかりの舞台レポートをみたのだという。
「きりえは舞台の見所はラブシーンだと嬉しそうに言うし、もりのは舞台レポートで『愛してます』って堂々と告白するし。きりえもさ、『公共の電波で言っちゃったね』とか照れ喜んでさ。ちょいちょい目を合わせたりしてさ。やらしいんだよ、二人は」あさは一気に言い、「楽しくてリピートしちゃったよ」とニヤッと笑った。
「よぉ見てはりますねぇ」きりえは感心した。
「そりゃ見ますとも」あさは胸を張った。
自家製ソーセージが運ばれてきた。きりえが数種類のソーセージをナイフで食べやすいようカットして取り分ける。本格的な味わいを堪能した。
「いまステでさ、きりえ、もりのに妬かせようとしたでしょ」
「そんなんしてました?」
「してたよ、してたよ」とあさ。忠臣エンリケ役のみりに、ヴァイオラに対して愛が芽生えたのはいつだと楽しげにいじり、もりのの反応を楽しんでいたと言うのだ。
「みりちゃんにヴァイオラへの愛情をたっぷり語らせて、もりのをいじめてたでしょ。もりのもがまんできずに、きりえの肩をポンポンしてさ」
「ちゃいますよ。エンリケもええ役やし、必死なみりちゃんがかわいかっただけですって」
「私も妬いてません。きりえさんがはしゃぎすぎだったから、どうどうといなしたんです」
「人を馬みたいに言わんといて」きりえはむくれた。
「すみません」もりのは頭を下げた。
「いちゃいちゃしちゃって」とあさ。「やっぱり付き合ってんだ」
「あささんにはなんでもお見通しですわ」きりえは認めた。
もりのもうなずいた。
「キャー」あさは顔を手でおおてってからニヤニヤ笑い、「いいね、なんかいいね」
もりのは自分の顔や首や髪をさわり、困っている。ビールに口をつけた。
「いいんじゃない。趣味がいいよ。二人とも私が素敵だなって思う人だもん」
「ほんまですか?」きりえは照れる。「なんやうれしいなぁ」
「すごくうれしいです」もりのはきりえに微笑みかける。
「それで、いつからなの、どっちからなの」あさは興奮気味にたずねた。
ラクレットが運ばれてきたため、三人ともその料理にくぎ付けになった。店員はチーズの表面を熱し、とろりとしたチーズをこそぎとってじゃがいもとパン、いんげんにかける。
待望のラクレットに、きりえがはしゃぐ。もりのはきりえを愛しそうに見る。あさはラクレットを一口味わうと、先ほどの質問の答えを求めた。
もりのはビールを一口飲むと、爽やかな笑顔を浮かべる。
「ご想像にお任せします」
きりえはラクレットに夢中だった。
「じゃ、こっちで当てるね」あさはいたずらっぽく笑い、もりのを見た。「稽古場だね。それも、もりのから」
きりえともりのは驚いて目を合わせた。
「当たってんだ」あさは興奮し、「もりのちゃんも隅に置けないね。きりえはノンケなんだよ。どうやって落としたの?」
ノンケとは“その気”がない人のことを指す。
「あささん、もうやめてくだいよ~」きりえは顔を真っ赤にした。
「きりえさんもそうおっしゃるんですが、先輩にモテてらしたから意外でした」
あさはニヤッと笑う。
「まあ、キスならいっぱいしたことあるよね。あ、聞いた話ね、きりえを狙ってた人たちから。狙ってた人がいっぱいいたの。軽いキスならふざけた感じでさせてくれるけど、そこから先は進ませてくれなかったっていう証言がいくつもあったのよ」
「も~」きりえはさらに赤くなる。
「いくつも」もりのは複雑な顔をする。
「ないないないない」きりえはあわてる。「あささん、盛らんといてくださいよ」
「もりのちゃん、こんなことで妬くんだ、かわいいね。もりのちゃんだってノンケっぽい雰囲気なのに。ノンケじゃないなら言ってよ」
在団中、あさは究極の男役として人気を博した。真偽のほどは不明だが、数々の男役、娘役と噂されたことがあった。
きりえは冗談とわかっていてもあわてる。
「ノンケやなかったら、なんなんですか。あささん、こわいわぁ」
「ともかくさ、すごいって話だよ、もりの」
「あ、はあ」もりのは耳元をかいた。
あさはひとしきり二人をいじると、「ここからは真面目な話」と表情を引き締めた。
「いいお芝居だったよ。すごくよかった。きりえはもちろんだけど、もりのも大きくなったね。一皮むけたと思うよ」
「あささんにそう言ってもらえてうれしいです」
「きりえさんを支えてあげてね」あさは真っ直ぐもりのを見つめる。「きりえさんはすごい人だけどさ、パワーのある強い人だけどさ、支えてくれる人がいるのといないのとじゃ全然違うんだよ。トップは孤独だからさ」
もりのはあさの言葉を心に刻みつける。
「きりえ、最近体の調子はどう?」
あさは、いたわるようにきりえを見る。
「めっちゃ元気ですよ」きりえは明るく応えた。
「そっか。よかった」あさはうなずく。「どんな病気でもそうだけどさ、ストレスが大敵だから。ハルオキもいいけど、もりのがそばにいてくれるともっと安心だよ。だって、もりのは癒してくれるからね。そばにいるだけで、森林浴してるみたいな、安らいだ清々しい気分にしてくれるの」
「そうなんですか?」もりのは髪をさわる。
「ね、きりえ」
「ほんまそうですね」きりえは微笑む。
「何か役に立てたらなって思います。私って何もできなくて。料理もできなくて、きりえさんにいつも作ってもらってるし」
「そこはどうでもいいんだよ」あさは笑った。「もりのがいなくても、自分とハルオキの栄養満点ごはんを作るんだから」
きりえも笑ってうなずく。
「あ」ともりの。「私、怪我のリハビリで体のメンテナンスに興味もったんです。きりえさんの身体の役に立ちたいなって思います」
「きりえさんの身体の役に立つ……いいね」あさはやらしく笑い、もりのは赤らんだ。
「もりのって、かわいいね。一途でまぶしいよ」
きりえも愛しそうにもりのを見る。
「もりのの寝起きとかどんな? すっごくかわいいでしょ。くまさんみたい?」
「わりとぼーっとしてますね」
あさときりえが笑い、もりのもつられて笑った。
三人はビールとドイツ料理を堪能した。話は尽きなかった。
最後の方であさが言った。
「きりえ、今からこんなこと言うのもなんだけどさ。トップになるのって、タカライシ人生の終わりの始まりじゃない」
「そうですね」
「退団するときにね、もりのを一緒に連れてってほしくないの。これからどんどん開花していくから」
「連れて行くも何も、決めるのは全部もりの自身やから。私は何も口出ししませんよ」
あさはもりのを見る。「もりの、頼むね」
「先のことはまだ何も。今は舞台に立てる喜びをかみしめてます」
「そっか」あさはやさしく微笑む。「ごめんね、変なこと言って。あまりにも二人がお似合いだから、ちょっと心配になったの」
それから、とあさ。「まりちゃんもいいね。きりえと舞台相性いいよ。私と似てるって思った」
「あささんに?」きりえは驚くが、ちょっと考えて納得する。
「まりちゃん、男前ですもんね」もりのが微笑む。
「きりえの隣には、男前が似合うのさ。私やもりのもそうじゃない?」
三人は笑った。
「まりちゃんみたいな男前な娘役は貴重だよ」あさはしみじみ言う。
きりえともりのは大きくうなずく。
「きりまり、きりもり、いいね」あさはニヤッと笑った。
あさと別れた二人は、きりえが滞在するホテルの部屋に戻ってきた。公演中、二人は毎日のように寝た。ホテル住まいのため、会いたくなればすぐに会えた。
その夜もセックスしておいて、もりのは心配になった。
「きりえさんを疲れさせてませんか?」
「さみしいこと言わんといて」きりえは汗ばんだもりのの背中を撫でた。「私もしたいからしてるんやんか」
もりのは横になり、天井を見た。
「いろいろ考えさせられました」
「そやなぁ」
「きりえさんを支えさせてくださいね」もりのはきりえの手をやさしく握った。
「十分支えになってるよ」きりえは手を握り返した。「なあ、もりのちゃん、自分の道は自分で決めるんやで」
「わかってます」
「でも、わがまま言うけど、私がいる間はおってね」
もりのはきりえを愛しそうに見つめる。
「当たり前じゃないですか」
「ありがと」きりえは安心して微笑む。
「きりえさん、愛してます」
「いつも直球やねんから」きりえは照れて笑う。
「かわいい」もりのは悶える。「こんなかわいい人と付き合えるなんて、果報者です」
「そう?」きりえは甘く笑う。
「だけど、きりえさん……あささんのあの話どういうことですか?」
「どの話?」
「キスの話」もりのは軽くにらむ。「女の人の唇、とっくに知ってたじゃないですか」
「もりのちゃん、ほんまに妬いてるん? かわいいなぁ」
きりえはもりのの奥行のある頭をよしよしと撫でる。
「軽いキスってなんですか」
「したかどうかも覚えてへんようなキス」きりえは笑う。
「どんなキスか、やってみてください」
きりえは甘く微笑み、ふっくらとした唇にチュッとキスをした。
「こんなこともしてたりして」もりのは舌先をかるく触れ合わせるようなキスをした。
「あるかもね」きりえは舌を絡めた。
「相手さん、よくとめられましたね」もりのは吐息をもらし、深く口づけをする。
「だって、こっちにその気がないし、向こうも真剣やないもん」
「私は無理」もりのはうなじに手をあてキスをする。
「知ってる」きりえは濃厚なキスを返した。
とまらなくなりますよ、ええよ、とささやき、二人はまた愛し合った。
六 洗濯機
もりのはこの日、「ファンミ」というファンイベントがあった。きりえ主演大劇場公演二作目の公演期間中のことだ。
普段の終演後はたいてい、汗を流したあと楽屋入りのときと同じ服を着て、すっぴんにハットとサングラスで帰る。シンプルな服を好むため、上質なシャツにパンツを合わせることが多かった。Tシャツならジャケットをはおる。
ファンミのときは、公演にちなんだ格好をする。軍人役だったので、きれいな素化粧をし、入りのときの服と違う、胸ポケットに勲章モチーフの飾りのついた黒のスーツにネクタイという、カチッとした装いをした。スタイルのよさを生かし、さらりと着こなした。
もりのが楽屋を出ようとすると、きりえが呼び止め、小声で言った。
「ファンミが終わったら、気が向いたらうちに来て」
もりのは休演日前日でもないのに珍しいと思ったが、「行きます」と即答した。「泊まってもいいですか」
「うん」きりえはもじもじし、「その格好で来てほしいねん」
「え」もりのはちょっと考えてから、「わかりました」と微笑んだ。
ファンミを終えたもりのは、自分の車にファンクラブの代表とスタッフを乗せて自宅へ帰った。歌劇団のスターともなれば、代表の車で送り迎えされるのが一般的だが、もりのの代表は別に本業をもっており、この仕事が専業ではなかった。
それもあって、もりのは自分の車を運転して通った。その方が性にも合った。代表がいるときは、劇団の行き帰りを代表が運転したが、シート位置を合わせ直す手間や、運転技術を考えると、合理的じゃない決まり事だと思っていた。
代表とスタッフに、ファンからもらったプレゼントや手紙を部屋へ運ぶのを手伝ってもらった。彼女たちが引き上げると、急いで翌日の準備をし、きりえの家へ向かった。
マンションのエントランスは合鍵で入り、玄関前でインターホンを鳴らした。「おかえり」ときりえの声が言った。鍵が開くまでの間に、もりのはソフト帽を目深にかぶった。
ドアを開けたきりえは、もりのを見るなり、わあっと歓声を上げた。ショーの一場面から抜け出たようなスタイリッシュな佇まいでもりのが立っていた。目深にかぶったソフト帽からはほんの少し目が覗いている。
「ファンミの登場を再現してみました」
もりのはソフト帽を手にとると、髪の毛をかきあげて照れた。
「めっちゃかっこええやん」
きりえは鍵を閉めると、もりのを見上げて唇にキスをした。
もりのはきりえの背中に腕をまわして、何度もキスをした。
「もりのちゃん、おなかすいたやろ?」
「そうですね」
「ポトフ作っといたよ」
「わあ、ありがとうございます!」
もりのはハルオキにあいさつしてからリビングに入り、ソファに座った。きりえのリクエストでソフト帽を脱いだほかは、先ほどの格好のままだった。ネクタイだけちょっとゆるめた。部屋は普段よりクーラーが効いていた。きりえもTシャツの上に薄手のジャケットをはおっている。
もりのはきりえの部屋が好きだった。明るいナチュラルテイストのインテリアにハルオキもいて、心地よい生活感があった。
もりのはポトフとフランスパンと、白ワインを楽しんだ。ポトフは大きめの野菜がごろごろ入っていた。先に食事をとっていたきりえは、塩漬けオリーブ、キュウリのピクルスをあてに、白ワインを楽しんだ。隣に座るもりのをときどき見て、うっとりした。
「そろそろ着替えてもいいですか。食器の後片付けしたいですし」
「そんなん私がやるし、まだダメ」
きりえは手際よく片付けた。
「シャワーでちょっと汗を流したいんですが、服を脱いでもいいですか」
「そりゃ着たまま浴びられへんわな」きりえは笑って服を脱ぐのをもちろん認めた。「でも」と耳を赤く染めながら続けた。「お風呂から出て、寝る準備ができたら、さっきと同じ格好して。その、シャツの中は何もつけずに」
「ほんまでっか?」もりのは大阪弁で驚いてみた。
「ほんまです」
「あーもう、きりえさんの言いなりだなぁ」もりのはまんざらでもない顔をした。
二人はソファに座った。きりえはベビーピンクのシルクパジャマを着て、もりのは先ほどの格好をした。ジャケットとソフト帽まで身に着けた。
「明日公演あるけど、ええよね?」
「私はいつでも歓迎です。というか、今さらですよね」
部屋の灯りは間接照明だけにしてある。きりえはもりののジャケットを脱がすと、ソファにそっと押し倒した。後ろの方から前へずれた帽子が小さな顔をほとんど隠し、半開きの唇と形のいいあごだけをのぞかせる。
きりえは温かく濡れた舌をさし入れ、もりのと深くキスをした。ネクタイをはずし、のけぞらせた長い首筋に熱い吐息とともに唇をはわせた。
シャツのボタンをはずすと、もりのの白い光沢のある肌があらわになる。シャツをはだけたままにさせておいて、スーツのパンツのボタンをはずし、ファスナーをおろした。引き締まったおなかに唇をあてた。もりのはあえぎながら、きりえのやわらかな髪と首筋を撫でる。
パンツを脱がせ、下着だけにした。すべすべの太ももに指をはわせながら、下着の濡れたところに唇をつけた。
「私たち、やばくないですか?」
「もりのちゃん」きりえはもりのの耳元でささやく。「めっちゃエロくてきれい」
「ベッドに行きませんか」もりのは切ない声でささやいた。
きりえは先にもりのをベッドに行かせた。服がしわにならないようにハンガーにかけ、ソフト帽も小物掛けにかけて、ベッドの上に飛び乗った。
「きりエッチさん」もりのがやらしい微笑みを浮かべた。「こういうの、好きなんですか?」
「もりのちゃんやから」
二人は微笑み合った。
もりのはきりえの上になり、首筋に唇をはわせながら、シルク生地の上から胸のふくらみを長い指で愛撫した。パジャマと下着をやさしく脱がすと、きりえの華奢だが筋肉質のきれいな体を、ふっくらとした唇と長くやわらかな指先で愛撫した。
きりえの膝をやさしく押し開いて脚のつけねに唇をはわせ、情熱的なキスをした。
「とろっとろ……」もりのはくぐもった声で続ける。「たまんない……」
きりえは形のいい頭を撫でながら、そのゆったりとリズミカルな動きに合わせて、あえぎ声を繰り返した。
「もりのちゃん、私もう……」
もりのは顔を上げ、濡れた唇をペロリと舐めた。
「顔中、私ので汚れちゃったやんか」
きりえはやさしい声でつぶやき、自分の体液に濡れた小さな顔を手で拭ってやった。
「どんどんあふれてくるから、夢中になっちゃいました」
もりのはきりえの首筋に顔をうずめるようにして唇をすべらせた。左手はきりえの濡れたところを愛撫する。
もりのは甘い声で、「やっぱりお急ぎコースですよね?」
きりえはうなずいた。
きりえの口から“お急ぎで”という言葉を初めて聞いたのは、大劇場トップお披露目公演中のことだ。休演日でもなければ、なかなかゆっくり愛し合うことができない。きりえは公演前夜のセックスの最中に、今夜はお急ぎでと思い切ってもりのに言ってみた。
「洗濯機みたい」もりのは少しショックを受けた。「私がしつこく時間をかけるからですか?」
「もりのちゃんは時間をかけて丁寧にしてくれるやん。すごくうれしいんやけど、時間があっというまにたっちゃって、正直、翌日に響くことがあるねん」きりえは打ち明けた。「それに、恋人役ならまだしも、今は親友役やんか。親友に色気を出したらあかんやん? いっぱいしすぎると、知らんうちに出そうやねん」
「私のやり方がいやなわけじゃないと思っていいですか?」
「当たり前やん。大好きやから、私も夢中になっちゃうねん。自制しないとあかんやろ?」
もりのは納得した。トップスターは激務な上に、きりえには持病がある。それなのに、きりえの力量から、歌劇団はハードな公演をあてる。セックスをがまんし、添い寝するくらいの配慮が恋人としている。役柄のことも理解できる。
「洗濯機方式」にもりのは慣れた。明日は公演日だけど一公演しかないから“しっかりコース”、今夜は休演日前だから“毛布コース”といった具合に。
二人はその夜、言葉とは裏腹に“標準おまかせコース”で昇りつめ、より添って眠った。
七 あかんよ、そんなん一人でやったら
秋が訪れ、きりえはひとつ年を重ねた。
楽屋できりえは組子に誕生日を祝ってもらった。天真爛漫な笑顔で喜び、ときどきもりのを振り返った。もりのはやさしい笑顔を返した。
「これからお客さんとのお食事があるからもう行くね。みんなありがとね」
きりえは楽屋を出た。
「きりえさん、ちょっといいですか」もりのはきりえを呼び止めた。
「なに?」
「ちょっとこっちにきて」もりのはきりえの腕をとり、人目のつかない場所に誘う。
「どしたん?」
もりのはきりえをそっと抱き寄せた。
「あかんって、今は」
「なんでこんな日に」もりのはすねる。
「ごめんな。どうしても今日しかないねんて」
マネージャーを務めるファンクラブの代表に指定されたのだという。大口の後援者との食事会だった。
「野暮なことする」もりのはふくれっ面をする。「なにも誕生日に」
「変な虫がつかんようにするためやろ」きりえは笑った。
「もうついてるのにね」もりのも笑った。
きりえは背中に腕をまわした。もりのは胸を熱くし、唇にキスしようとする。
「もう行かな」きりえはもりのの腕から器用にすりぬけ、またねと手を振った。
「あ、ごめんやけど、ここで降ろしてくれる」きりえは車を運転するマネージャーに言った。
マネージャーはいぶかしそうな顔で車を停めた。
「ここってもりのさんのマンション」
「あ、うん、ちょっと用事があって」きりえはなにげない風を装って言った。
「待ってますよ」
「そんなんされたら気い遣うから、タクシーで帰るわ」
きりえはエントランスの向こうへ足早に消えた。
食事会が早く終わったため、突然訪れてもりのを驚かそうと思ったのだ。
合鍵を使った。幸いチェーンはされてなかった。短い廊下を歩くと、「生きていくことができればそれで十分」と言わんばかりの簡潔な部屋があった。
寝室から歌が流れてきた。きりえの歌のようだ。寝室に入ると、ベッドの上で艶めかしく動く背中が目に入った。白いシャツに、部屋着のパンツを履いていた。悩ましい空気がただよい、小さな吐息がもれ聞こえた。もりののほかに誰かいるのではないかと一瞬動揺した。でも、それはなさそうだった。
何に没頭しているのか不思議に思いながら、もりのの背中を抱きしめた。
もりのがびっくりして振り返った。「きりえさん?」
「きりえさんだよ、こんばんは」きりえは笑った。
もりのは真っ赤になった。
「私の歌聴いてくれてたんや」
「好きなんです、このきりえさんの声」
きりえはやわらかな声でジャズの名曲を歌っていた。
「部屋入ってきたのわからへんってすごいな。なにやってたん?」
「え、あ、ただ聴いてただけですよ」
「そんなんであんなに色っぽくなれるん」きりえは首をかしげた。
もりのはますます顔を赤らめた。
「まさか……」きりえも顔を赤らめた。
もりのはうなずいた。
「あかんよ、そんなん一人でやったら」きりえはもりのを抱きしめた。「ごめんな、私のせいやわ」
「色っぽい情感のこもった歌声を聴いてたら、こうしないではいられなくなったんです」
もりのは恥じらい、うつむく。
「色っぽく聴こえたら本望やけど、そんなにええかな?」きりえも歌に耳を傾けた。
「ここからがとくにいいんです!」もりのは声を弾ませた。
もりのはうっとりしたあと、「フウッ」と男役らしい気合の声を出した。
「なんでこの曲にその掛け声なん」きりえは爆笑しながら突っ込む。
録音されたきりえの声がセクシーに歌い上げる。
もりのはイッてしまいそうなほど感じた。
「ここ、大好きなんです。人前でこんな声出さないでくださいね。ほんとに」
「マニアックやねんから、もりのちゃんは」きりえは照れ笑いした。
「大好きなんだから、仕方ないでしょ」もりのは恋する瞳できりえを見つめた。
きりえは起き上がってオーディオプレーヤーから流れる音楽をとめた。
「だから公演中は会いたないねん」
きりえはもりのにおおいかぶさり、首筋にキスをする。
「会うと歯止めがきかなくなるやん」
「きりえさん……」
「もりのちゃん、劇団であんなことせんといてよ。会いたくなるやんか」
「いつでも会いたいです」
「そやな」きりえはもりのの下着の中に手を入れ、濡れたところに触れた。もりのは身体をふるわせる。
「一人でこんなになって」きりえは甘く笑う。
「きりえさんの声のせいですから」もりのは恥ずかしがる。
きりえは自分の服を脱ぎ、もりのを裸にした。身体のすみずみを動物的な感じで舐めていった。もりのは舌づかいに陶然とし、昇りつめた。
「きりえさん、すごいです」もりのは満ち足りた表情を浮かべる。「ますます好きになりました」
「このスケベ」きりえは笑った。
もりのもきりえを求めた。ベッドが軋む音を立て、激しい息づかいと、唇と舌をからめる音、濡れ擦れる音が静かな部屋で強調された。
このまま眠りたかったけれど、マネージャーが自宅に迎えにくる手前、何より愛犬の世話のために帰らなければならなかった。
深夜、もりのは愛車できりえを送った。二人はずっと互いの手にふれていた。
八 決断
三月十一日は、きりえ大劇場三作品目の初日だった。
公演が始まる十数分前に、東北地方太平洋沖地震が発生し、震源地から遠く離れた劇場を揺らした。軽いめまいのような揺れだったので、敏感な人をのぞく大半の人は地震と気づかなかった。そのまま第一部の芝居が上演され、幕間のアナウンスで地震の発生が伝えられた。観客は騒然とし、第二部のショーに備える組子にも動揺が走ったが、舞台は続行された。
終演後のファンクラブによる楽屋出待ちも行われた。ちなみに歌劇団公認のファンクラブというものは存在せず、すべて私設ファンクラブだ。歌劇団には黙認されている。ファンクラブの会員たちは、それぞれの会ごとに指定の場所に整然と待機し、目当てのタカラジェンヌを待った。タカラジェンヌは自分のファンクラブの前で歩をゆるめ、ファンから手紙をもらい、手を振って帰る。きりえももりのもいつもどおりそうした。
その夜、二人は予定を変更してきりえの部屋で過ごした。離れていられなかった。大震災による現実とは受け入れられないニュース映像を、言葉を失ったままただただ見ていた。きりえはハルオキの頑丈な背中をひたすら撫でた。
早めに就寝した。
「私ら、こんなときに公演してて、ええんやろか」きりえがつぶやいた。
「私もさっきから同じことを考えてました」もりのは言葉を選ぶ間をおいて、「でも、私たちが一番できることをやるしかないと思います。精いっぱい目の前のお客様にエネルギーを届けられるよう、舞台を務めましょう」
「そやな」きりえはもりのの手にそっと触れた。
手に手を取って眠った。様々な思いや考えが浮かんでは消え、二人とも眠りは浅かった。
きりえにとってこの公演は、特別な公演となった。ショーにおいて、男役の集大成にふさわしい場面がいくつかあり、こみあげてくるものがあった。退団公演のようだとファンや組子から言われた。
大劇場公演の千秋楽を終えた夜、もりのはきりえの部屋にやってきた。食事は外ですませ、ワインを飲みながら『シャーロック・ホームズの冒険』のDVDを見た。
一話見終わると、もりのがおもむろにたずねた。
「きりえさん、何か大きな決断したんじゃないですか?」
きりえは驚いてもりのを見た。まっすぐ見つめるもりのに、ふっと表情をゆるめる。
「やっぱりわかってしまうんやな」きりえは清々しい表情で、「そろそろ退団しようと思うねん」
「いつですか?」
「来年。機が熟したみたい」
「やっぱりそうでしたか」
「まりにしか言ってないから、口外せんといてな。もりのちゃんのことやから大丈夫と思うけど」
「まりちゃんには言ってるんだ」もりのは傷ついた。
「そりゃ、コンビやもん」
「まりちゃんはどうするって?」
「同時退団するって言ってはった」
「添い遂げるんだ」そう言うもりのの声はこわばっていた。
「うん、添い遂げてくれはるみたい」
もりのはワイングラスを手に持つと、立ち上がった。
「どしたん? 続き始まるで」
「見ててくれていいですよ。ちょっと外の空気を吸いたいんで」
もりのは振り向きもせず、ベランダに出た。初夏の気配をはらんだ空気が頬を撫でる。心を鎮めようと思うが、なかなかうまくいかない。
きりえは隣に立ち、もりのの顔をのぞきこんだ。
「どしたん、もりのちゃん?」
もりのは怒った顔できりえを一瞬みてから目を背けた。
「ちょっと、もりのちゃん」きりえは困った顔で、もりのの背中をそっと触った。
もりのは離れようとしたが、背中に感じるきりえの手の感触から逃れられなかった。
「もりのちゃん、なんで? 怒ってるん?」
もりのはきりえの方を向いた。
「こんなことを言うと情けないけど、私より先にまりちゃんに話してたことに妬けたんです」
「なんや、やきもちか」きりえは笑い、手を伸ばしてもりのの頭をよしよしと撫でた。「かわいいなぁ」
「私にとって、きりえさんの決断は大事なことなんだから、真っ先に言ってください」もりのはにらんだ。
「ごめんごめん、わかったから、おっかない顔せんといてや」きりえはやさしく微笑む。
もりのはうなずき、ちょっと笑った。
きりえは表情を引き締め、先輩の顔をつくる。
「もりのちゃんは、自分の道は自分で決めるんやで。男役としてめきめき力をつけてるし、純粋に自分の道を考えるんやで」
もりのは決断を言うのを控え、「考えてみます」と応えた。
「よっしゃ、じゃ、続きみるで」きりえは部屋に入った。
もりのも部屋に入り、窓を閉めた。
リモコンのプレイボタンを押そうとするきりえの手を、もりのは大きな手で包みこむ。
「今夜はもう寝ようよ」
「もう一話だけ」きりえはプレイボタンを押した。
もりのはワインをリビングテーブルに置いて立ち上がり、きりえの後ろに回った。ドラマの世界に入り込んだきりえを後ろから抱きしめ、無防備なうなじから耳たぶにかけて、やわらかい果実を食べるようにキスをした。
「ちょっと、もりのちゃん」きりえは甘く笑い、もりのの長い腕から逃れようとする。
もりのはきりえの鎖骨に唇をはわせ、くぐもった声で言う。
「きりえさんはそのまま続きを見てて。勝手にやってるから」
「ながら見なんてできるわけないやん、ひどい人やわ」
もりのは頬にキスをし、Tシャツの上から柔らかな胸を右手で包み込んだ。下着はつけてなかった。やさしく揉むと、きりえは吐息をもらした。もりのは裾から左手を滑り込ませ、すべすべの肌を撫でた。
「強引やねんから」きりえはなめらかに動く右手に自分の手を重ねた。
「すみませんね」もりのは熱くなった指先で乳房を愛撫しながら、唇にキスをした。小さな音を立てながら互いの唇を求め合った。
「しゃあないなぁ」きりえはもりのの上半身をつかみ、ソファに引きずり込んだ。すばやくもりのの上になると、ソファにドンと組み伏せ、甘くにらんだ。
「すごい怪力」もりのは身動きできない。
きりえはもりのを不敵な目でじっと見た。
「すごい目力」もりのは赤くなる。
「もりのちゃん、何したいん?」きりえは色っぽい目でじっと見た。
「セックスに決まってるでしょ」もりのはため息をつく。「目だけでイッちゃいそう」
「じゃ、今夜は目だけで」きりえは甘く笑う。
「お願いだからもうベッドに行きましょう」
「しゃあないなぁ」きりえは鼻にやさしくキスをした。
九 インム?
東京公演前の稽古期間中も、東京公演中も、もりのは自分の進路について話をしなかった。そのことが、きりえを少し落ち着かなくさせていた。
公演中、歌劇団を退団することを実感し、さみしくなることがあった。それに輪をかけていたのがもりのの存在だった。
トップに就任してからというもの、もりのの温かなまなざしに見守られてきた。それを当たり前のこととして、うれしく受け取ってきた。退団すると、このまなざしが自分に注がれなくなる可能性もあるのだ。そう思うと、心が騒いだ。
もりのはまた、きりえの身体のケアに熱心だった。時間を見つけてはスポーツマッサージを本格的に学び、きりえに施術した。激務だが身体の調子が良いのはそのためでもあった。
きりえはあらゆる面でもりのなしでいられなくなっていることを自覚し、ナーバスになっていた。
ある夜、きりえがふと目を開けると、もりのが誰かを抱いていた。薄明りに、透き通るように白い身体が重なり合い、お互いを貪っていた。
いつものもりのの吐息と、聞きなれない誰かの吐息が、きりえの鼓膜をふるわせる。もりのは誰かの上におおいかぶさり、時間をかけて愛撫していた。
もりのが下に降りていく。色素のうすい端正な横顔が確認できた。絵のように美しい顔がもりのを切なそうに見つめ、官能に身をふるわせる。きりえの息が止まる。相手はエメラルド組のちぎりだった。
二人の接点は、ちぎり主演の小劇場公演にあった。作家オスカー・ワイルドをもりのが、その恋人のアルフレッド・ダグラスをちぎりが演じた。
オールバックにタキシード姿のもりのは、ひげをつけて中年男性の貫録を出そうとしたが、少し渋い、色気の漂う貴公子にしか見えなかった。顔が若々しく、小さすぎるのだ。
もりのは甘い微笑みを浮かべて、深紅のベッドに奔放な感じで横たわるちぎりを見下ろしていた。誘うような微笑みを浮かべるちぎりは、繊細な美しさのなかに毒をひそめていた。
ちぎりはシルクの蝶ネクタイをゆるめる。もりのは何か熱い言葉をささやきながら、ベッドにゆったりと歩き、ちぎりの隣に身を投げ出した。
ちぎりは甘えるような顔でもりのの首のうしろに手をまわして顔を引き寄せる。もりのは深くキスをする。絡めあう舌の動きがわかるようなディープキスだった。
互いに蝶ネクタイを荒々しくとり、シャツのボタンをはずして裸になった。美しい裸体だった。大好きなもりののスマートで厚みのある身体が、ちぎりの華奢で痩せた身体を覆い隠す。
もりのは行為に没頭していた。何かの気配を感じ取ったように、少し後ろを向き、きりえの目をとらえた。きりえの目を見ながら、ちぎりを愛撫しつづけた。
きりえは金縛りのような息苦しさから必死で抜け出し、目を開けた。ホテルの室内には、薄い闇が広がっていた。
心を鎮めると、規則正しいもりのの呼吸が耳に届いた。もりのは少し幼さの残る、やすらかな顔で眠っていた。
きりえは安堵の吐息をもらした。もりのに抱きつき、首筋の甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。やわらかな唇にそっとキスをした。もりのは無意識にきりえをギュッと抱きしめた。
きりえはもりのの腕の中で静かに涙を流した。なぜか、涙があふれた。
「きりえさん?」もりのが眠そうな声で言った。
「ごめん、起こしちゃった」
「どうしたの?」もりのはきりえの背中を撫でた。
「いやな夢みてん」
「おばけ?」
「おばけよりもいややった」
「かわいそうに」もりのはきりえをやさしく抱く。
「もりのちゃん、ちぎりちゃんのことどう思う?」
「なんですか、突然」もりのは少し考える。「ちぎりちゃんって、エメラルド組の?」
「うん」
「素敵な男役だと思いますよ。演技が素晴らしいですよね」
「それだけ?」
「う~ん、ちぎりちゃんとまともに会ったことないんですよね」
「なら、ええねん」
「ちぎりちゃんがどうかしました?」
「もりのちゃん、ちぎりちゃんとエッチしててん」きりえは夢の内容を打ち明けた。
もりのの眠気は吹っ飛んだ。
「ちぎりちゃん、もりのちゃんのタイプやろ?」
もりのは首を振り、きりえを甘いまなざしで見つめる。
「私のタイプはきりえさんですよ。こんなに素敵な人はこの世にあなたしかいません」
「ほんま?」
「私は思ったことしか言いません」
きりえはもりのに抱きついた。
「きりえさん、大好きです。ほんと、かわいいな」もりのはきりえを抱きしめる。
「あんな、もりのちゃん」きりえがもじもじする。
「ん?」
「変態っぽくていややねんけど、夢に体が反応してしまってん」
「え」もりのは思わず、下着に触れた。うるんでいた。
きりえは感じてしまい、もりのの手を両腿ではさむ。
「淫夢じゃないですか。いいなぁ」もりのは羨ましそうな声を出した。
「インム? なにそれ?」
「淫らな夢って書いて淫夢です」もりのは甘く笑う。「一度も見たことないんです」
「もりのちゃんはエッチすぎて見ないんじゃないの」
「どういうこと? きりエッチさんだって見るのに」
「きりエッチさんとかもうええの……」きりえはもりのの手を撫でる。
「きりえさん……」
もりのは脚のつけねから、下着のなかに手を入れた。
十 見せちゃいたい気もする
公演スケジュールはタイトだ。一つの公演が終わり、次の公演の稽古が始まるまでの休暇はだいたい一週間程度だった。その間に旅行や日頃手が回らないことをする。
大劇場四作目の稽古直前に、二人はそれぞれ行きつけの美容院で髪を切った。
梅雨の晴れ間の昼下がり、きりえは足取り軽く、もりのの部屋を訪ねた。
「わあ、きりえさん、かわいい!」
もりのはきりえを見るなり、珍しく大きな声を出した。
「もりのちゃんもさっぱりして、めっちゃ爽やかやん。かっこええよ」
「私は伸びた分を切っただけですけど、きりえさん、髪型変えましたね!」
きりえは髪にゆるくパーマをかけていた。トップを長めに残し、耳まわりはごく短くカットしていた。
「イギリス人の男の子みたい」もりのはきりえの頭をポンポンさわった。
「イギリス人の男の子かぁ」きりえはちょっとがっかりした。「役作りで、野心あふれる青年をイメージしてんけどなぁ」
「うん、それもわかるよ」
「ほんまに?」
「ええ」
「ありがと」
きりえは『あらいぐまラスカル』のテーマソングを口ずさみながら、ペーパードリップでコーヒーをいれた。コーヒーの入ったマグカップをテーブルに置き、もりのの隣のクッションに座った。
「きりえさんのいれてくれるコーヒーはほんとにおいしいですね」もりのは目を閉じて味わった。
「豆からこだわってるねんで。焙煎も挽き方もね」きりえは得意気だった。
「豆といれ方でこんなにおいしくなるんだ」
きりえは自分の髪型になじんでないようで、短い襟足や耳元をちょこちょこさわった。
「あーもう、ほんとにかわいい。死にそう」
「かわいいやろ」きりえは照れた顔で言った。
「そこのかわいい生き物さん、ちょっとこっちにおいで」もりのは長い脚の間に手招きした。
「犬ちゃうねんから」きりえはそう言いながらも、素直にもりのの脚の間に座った。
もりのはきりえの髪をやさしく撫でた。
「パーマのところはふわっふわっ、耳回りはジョリジョリ一歩手前の絶妙な塩梅ですわ。触ってて気持ちいい」
きりえは目を閉じて、おとなしく撫でられる。
「もりのちゃんの手、気持ちいい。おっきいし、あったかい」
もりのは髪を撫でながら、顔をのぞきこむ。「きりえさんはどんな髪型でも似合いますね。きれいな卵型で、頭の形もいいから」
「もりのちゃんだって似合うやん。ドレッドヘアとか腰までのロングヘアとか。衣裳もなんでも似合うもんな。スーツも軍服も甲冑も、派手派手しい服も」
「まあ、このスタイルですから」もりのは得意気に言ってみた。
「背高いし、顔ちっちゃいし、手脚がめっちゃ長くてうらやましいわ」きりえは右手でもりのの腿をつねった。
「いたいいたい」もりのは痛がり、つねられた右脚をバタバタした。
「きりえさんだって顔ちっちゃいじゃないですか」もりのはきりえの細いあごを長い指でつまんだ。「なんならこうしてつまんでキスしちゃいますよ」
もりのは軽くキスをした。
「あーもう、ほんとかわいい」もりのはきりえの髪をくしゃくしゃにした。
「ちょっと、せっかくセットしてもうてんで」
「もう、食べたいくらいかわいいです」もりのは無防備にのぞく耳にパクッとキスをした。
「ちょっとペットになった気分やわ」
もりのはきりえの耳まわりに唇をあて、短い髪の新鮮な感触を楽しんだ。「ここも好き」
きりえはくすぐったがる。「マニアックやなぁ、もりのちゃんは」
もりのはきりえの横顔をのぞきこむ。
「マニアックとかじゃないですよ。誰だって、あなたにやられちゃうから」
「そうかなぁ」
「そうですよ」
二人は至福をかみしめた。
「きりえさん、もりのさんと半年ほど前に大分に旅行しました?」夜道を運転していたマネージャーが突然たずねた。
きりえは自分の膝の上に乗せていたハルオキと戯れていた。びっくりして目を丸くする。
「大分? 大分なんて行ってへんよ」
「ネットに書かれてたんですよ」マネージャーは言いにくそうに続ける。「その、二人が空港で手をつないでいちゃいちゃしてたって」
「あることないこと適当に書いてるやつやろ。もりのとそんなんするわけないやん」
きりえはわざと豪快に笑った。
「もりのさんと旅行してない?」
「旅行くらいしてるけど? 旅行したんはロンドンやけどね」きりえは正直に話した。
「もりのさんと付き合ってます? 車がよくマンションに停まってますよね」マネージャーは核心をついた。
「ないないないない」きりえは顔を真っ赤にして全力で否定する。「もりのだけはない。なあ、ハルオキ?」
きりえは愛犬に同意を求めた。愛犬は笑ったような顔できりえを見上げた。
「ほら、ないって言ってるで」きりえはマネージャーの目を見ずに言った。
マネージャーは腑に落ちてなさそうな顔で、「いずれにしても、気を付けてくださいね」
その夜、きりえともりのはノートパソコンでネットをチェックした。
「お、これやな」きりえは該当箇所を見つけた。二人は驚いたり、大笑いしたり、茶々を入れたりしながらスクロールした。
ななしA:大分空港発伊丹空港着の飛行機できりえさんに会いました。一緒にいた背のおっきな人に頭ぽんぽんって帽子かぶせてもらってた。手もつないでたよ。
ななし:女性と手を繋いでたきりえに驚き。
ななし:頭ぽんぽん気になるw
ななし:えーーっバイっぽいけど、デレデレしてるのは想像できない。
ななし:きりえに彼女いたら彼女の前ではデレデレしたり甘えたりしててほしい。ギャップ萌えw
ななしA:きりえさんは女の子って感じで、帽子かぶせてもらって嬉しそうでした。
ななし:うひょっ! それいつ頃の話ですか?
ななしA:半年ぐらい前です。
ななし:きりえってヒロイン願望強そうだもんね。もしそっちなら女の子でしょ。ノンケだと思ってたけど。
ななし:イメージ変わる! 相手は誰なんだろう。OG?
ななし:もしかしても〇の?
ななし:「君主ヴァイオラ」のとき、もりのとあやしい雰囲気あったけど、やっぱりそうなん?
ななし:えーーっ! もりのだったら萌えるんだけどーーw
きりえの相手候補として、OGを含むきりえの先輩の名前が複数挙がったが、目撃談により最終的にもりのだと確定した。
ななしA:もりのって方はきりえさんがかわいくて仕方ないって感じでした。
ななし:ありがとう。まさかのツンデレw
その後、トップなのに公の場でこんな姿をさらすのはいかがなものかとの指摘があり、きりえをかばうような発言が相次ぎ、この目撃談はガセという方向で決着していた。
きりえはパソコンを閉じ、苦笑した。
「みんな想像力たくましいなぁ。大したもんやわ」
「喜んでくれてるみたいで何よりですね」もりのも苦笑した。
「もりのやったら萌えるやって」きりえはうふふと笑った。「でも、ほんまに見られたんかな」
「いや、そもそも行ってないんですよ」
「それもそうやな」
「でも」もりのは半年前を思い返す。「ロンドン旅行したとき、人目から解放されて、いちゃいちゃしちゃいましたね」
「うん」
「楽しかったですね」
「めっちゃ楽しかった」
「また行こうね」もりのはにっこり微笑む。
「行こな」きりえは甘く微笑む。
「あ」ともりの。「まさか、あのときの飛行機だったりして」
「ほんまや。気いゆるんでたから」
「目撃者という人、事実を巧妙に変えてネタを落としはったんやろか」もりのは大阪弁で言ってみた。
「だいぶ大阪弁が板についてきたやん」
「やった」ともりの。「それにしても、どこに目があるかわかりませんね」
「うん、気いつけよな」
もりのは甘く笑う。「まあ、私としては見せちゃいたい気もするな。自慢の恋人だし。みんなもなぜか喜んでくれるみたいだし」
「こら、あかんよ、もりの」
「すみません。部屋の中ではいちゃいちゃしましょうね」もりのはきりえの髪を撫でる。
「部屋の中ならええよ」きりえはうっとりした。
十一 ごめん、ついちゃった
きりえはもりのとまりが絡むラテンのダンス場面を複雑な心境で見ていた。
もりのが色っぽい目線を注ぎながらまりに迫り、腿をやらしく撫でる。爽やかな笑顔のあと、何度も狙う目線を繰り出し、まりの腰に手を回してセクシーな表情で決めポーズをとる。
きりえは「ええやん」と余裕ぶりながらも、心の中は穏やかではなかった。
その夜、きりえの自宅で鶏白湯鍋を食べた。梅雨であろうと、鍋が好きだった。
食後、ジャスミンティーを飲みながら『シャーロック・ホームズの冒険』を見た。きりえにしては珍しく、内容に集中できない。脈絡もなく稽古の感想を言いだした。
「中詰のラテンの場面、ええな」
「大人っぽくていいですよね。私も大好きなんです」
「もりのちゃんとまりちゃんの絡み、ええやん」
「まりちゃん、お借りしちゃって」もりのは髪をちょっと触り、「私も気に入ってるんです。身長差もちょうどよくて」
きりえのにらむような視線を感じ、もりのは「あ」と口を手で押さえた。
「どうせ私は小さくて、まりと身長差ないですよ」
「すみません、そんなつもりじゃ」
「別にそれはええねん。まりは娘役にしては身長があるから、かえって私と舞台相性いいねんから」
「ほんまですね」
「もりのちゃん、まりにめっちゃええ顔してるやん」
「もしかして妬いてくれてます?」
きりえはぷいっとあらぬ方へ顔を向けた。もりのは嬉しくて顔をのぞきこむ。
「それではクイズです。きりえさんが妬いた理由は次のうちどれ? Aもりのがまりにいい顔をするから、Bもりのが相手役に手を出すから」
「どっちも」
「正解です」
「もりのめ」きりえはそう言いながら笑ってしまった。
「なんだかうれしいです。妬けるほどいい感じでした?」
「目つきも手つきもめっちゃエッチやった」
もりのはきりえを熱っぽく見つめ、「叶うことなら、きりえさんとあの場面をやりたいです。きりえさんとも身長差ちょうどいいし」
「うん」きりえは顔を輝かせる。「素敵なドレス着るねん」
「いいですね!」
「なあ、もりのちゃん」きりえがもじもじする。「あの顔してほしいねん」
「あの顔?」
「あの狙ってる顔。ショーでするやつ。あれ、普段もしてほしい」
「あれかぁ」もりのは笑う。「あれは、音楽のせいで自然としちゃう顔だから」
「そうなん? じゃ、音楽かけよか」
「きりえさんったら、そんなにあの顔いいですか?」
「めっちゃかっこええねんもん」きりえはもじもじする。「あの顔で強引に迫ってほしいねん」
「参ったなぁ」もりのは照れる。のんびりくつろいでいるハルオキに話しかける。「きりえさん、けっこうお好きだね。ハルオキ、知ってた?」
ハルオキはもりのを一瞬見たが、両足にあごをのせて穏やかな顔をした。
「わかりました」もりのは心を決める。「絶対に笑ったりしないでくださいよ。スイッチ入れてから笑われると切ないから」
「笑わへんよ」きりえは甘く微笑む。
もりのはきりっとした顔で、「始めますよ。きりえさんは、私を突っぱねるようなつれない態度をとってくださいね」
「その方が征服欲わくん?」
「征服欲なんてもったことないけど、たまにはいいかもしれないね」
二人は色気を含んだ目線をかわした。
もりのは高慢さを感じさせるほどクールな目できりえを見る。目の奥にほしくてたまらないという欲情をほのめかせた。きりえはかっこよさにしびれながらも、余裕の笑みを浮かべて受け流す。
もりのは細いあごをつまんで上に向かせ、キスしようとした。きりえは顔をそむけて拒む。二人は不敵な微笑みを浮かべる。
きりえの隙をつくと後ろから羽がいじめするように抱きしめた。きりえは逃れようとするが、熱い身体に包まれるのが心地よくて、つい身をゆだねてしまう。
「もっと抵抗して」もりのがささやく。
「うん」きりえは力を入れてみるが、やはり逃げる気が起きない。
もりのはカットソーの中に片方の手をもぐりこませる。下着の上からきりえの乳房をまさぐり、うなじに唇をあてる。きりえの感触と甘い吐息に、もりのも感じる。脱力するきりえをベッドに押し付けると、深く何度も貪るようにキスをした。
カットソーをめくりあげると、下着を白い歯でくわえて、そっと引きおろした。乳房のふくらみが強調される。
もりのは戸惑いながらも興奮する。乳首を指先と唇と舌で愛撫する。
「こんな風にして大丈夫ですか?」
「そんなん聞かんでええのに」きりえはやさしく笑う。「ほんまもう、そういうとこがもりのちゃんなんやから」
「乱暴に扱ってるみたいで」
「もりのちゃんは何をしても、やさしいよ。だから、こういうのも楽しいねんよ」
もりのは濃密にきりえを愛撫した。汗にまみれ、皮膚も粘膜もとろとろに溶け合うようだった。
「もりのちゃん、よかった」きりえは呼吸が整うと、もりのを抱きしめた。
「最高でした」もりのは汗ばんだきりえの背中を撫でる。
きりえは胸の下に唇をあてると、やわらかな皮膚を何度も強く吸った。情熱的な表情と皮膚がひっぱられる感触に、もりのの心はふるえた。小さな赤いあとがついた。
「ごめん、ついちゃった」
「どうしよう、うれしいです」もりのはささやいた。
「もりのちゃんにも、つけてほしいな」
「つけていいんですか?」もりのの声はかすれる。
「つけてほしいねん」きりえはささやいた。
もりのも胸の下に唇をあてた。強く音をたてて吸うが、なかなかつかない。
「もりのにも、慣れてないことあるねんな」きりえは甘く笑う。
「こんなことしたいと思ったことないから」
「私も同じやで」きりえは形のいい頭をやさしく撫でる。
何度目かでやっとかすかなあとがつく。すぐに消えてしまいそうなあとだった。もりのはそこを指先で愛おしむ。
「きりえさんを私だけのものにしたい」もりのは切ない声でささやいた。
「独占欲わいちゃったん?」きりえはもりのの唇をさわる。
「離したくない」
そうささやくもりのの唇に、きりえはやさしく口づけをした。
もりのは首筋のかわいた汗を舐めた。
きりえはまた感じるが爽やかに笑う。
「今夜はおしまい」
「きりえさんって小悪魔さんですね」もりのは切ない吐息をもらした。
「そう?」きりえはとぼけると、「明日から、まりちゃんとの絡み見ても大丈夫そうやわ」と笑った。
十二 進路
きりえの目に、稽古場でも舞台の上でも、もりのは輝いていた。自由にのびのびと男役を楽しんでいた。
稽古場では、もりのが長い脚を無造作に開いて座ると娘役が喜ぶので、たまにサービスしていた。上品に脚を閉じて座るもりのにしては珍しいことだった。
舞台の上ではどこにいてもキラキラ輝いていた。芝居で非の打ちどころのない二枚目役を演じている影響かもしれないが、本人の持ち味が本来そうだった。ショーでドラキュラ伯爵を演じるときは、人間離れしたスタイルを生かし、妖しい魅力を放っていた。
もりのはファンからの手紙も熱心に読み、日々向上させようと舞台に励んでいた。
「舞台に立つのが幸せで、楽しくて仕方ないんです。それもこれも、きりえさんのおかげです」もりのは折にふれ感謝した。
「自由になれたんやね、もりのちゃん」
目を細めて微笑むきりえの心は、どこかさみしかった。もりのは自分の退団後も歌劇団に残るのだろうと思った。
大劇場公演が終わったあとのつかの間の休暇に、二人はハルオキを伴い、淡路島をドライブした。シーサイドロードを走り、ドッグランやカフェに立ち寄った。
自分の顔と同じくらいありそうな淡路島オニオンビーフバーガーをきれいに食べるもりのを、きりえは感心して見つめる。
「もりのちゃんって、大きなハンバーガーまできれいに食べるねんな」
「口が大きく開くんですよ」もりのは口を大きく開けて一口食べた。
「ほんまや! 猫みたい」
「だから、パクパク食べれちゃうんです」もりのは微笑んだ。
シーサイドロードを再び走った。夏の終わりの平日の海は、観光客の姿もまばらだった。ハルオキを散歩するのに適当な海岸を見つけると、車を停めた。
きりえはハルオキと車を降りて、もりのを待った。
こなれたブルーの麻シャツに白パンツ、ストローハットにサングラス姿のもりのが、白い歯をのぞかせ笑顔で歩いてくる。神戸から車で半時間の身近な海が、ニースかカンヌのように見える。
「ほんま、眩しいやつ」きりえは見惚れた。
「きりえさんだって、眩しいですよ。レモンイエローのシャツがよく似合いますね」
ハルオキのリードを受け取る。もりのはリード扱いがうまかった。ハルオキは元々落ち着きがあり散歩しやすい犬だ。もりのと歩くとさらに穏やかで、平和な空気が流れる。きりえは愛するものたちのそんな眺めが好きだった。
もりのは歩をゆるめ、きりえと肩を並べて歩いた。
立ち止まると、サングラスを外した。きりえをやさしく見つめる。
「これからもずっとこうしてきりえさんとハルオキと歩いていきたいな」
「うん」きりえはやさしい顔でうなずく。
「私、きりえさんと同時退団します」もりのはさらっと言った。
「うん? なんやって?」きりえは大きな目を見開く。
「もう退団届け出しましたから」もりのはにっこり笑う。
「いつ決めたんよ。なんも相談してくれへんかったな」
「相談するわけないじゃないですか。自分の進む道だから、自分で決めますよ」
「もりのちゃんは、役作りとかではあれこれ思い悩むのに、こういうのは妙に決断力あるねんな」きりえは感心した。
「その時が来れば見えるんですよ、進むべき道が。それだけです」
「でも、もったいないなぁ」きりえは本心から言う。「もりのちゃん、今、すっごく輝いてるし、これからも伸び代があるのに」
もりのは海を見て目を細める。
「輝いてるとしたら、退団を決意したことも大きいかもしれません。毎日が愛しくて、毎日に感謝してるんです」
「その気持ちはわかる気がする」きりえも海を見る。
二人はたたずんだ。ハルオキが舌を出してせわしなく呼吸する音と、波の音が響く。
「退団後はどうするん? まだ何も考えてないかもしれへんけど」
「車に戻りましょうか」もりのはハルオキと歩き出す。
「けっこう先のことまで考えてるんですよ」もりのは話し始めた。「女優のきりえさんを支えます。そのために、今の興味を生かして堅実な職に就きたいと思います」しゃがんでハルオキを撫で、「ハルオキのお世話もしたいし」
「芸能活動せえへんの?」きりえは驚く。「モデルとか、けっこうスカウトされてたやん」
「芸能活動は考えてません。人気稼業は向いてないと思うんです。目立つの苦手だし、メンタルそんなに強くないんで」
「だったらなんで、今この仕事やってるん」きりえはあきれて突っ込む。
車に乗り込むと、もりのはなめらかに運転する。
「あの舞台に立ちたかっただけです。理想の男役を追求し、そんな私に目を止めてくれる人がいたらいいなと思ってました」
「全然野心ないんや」
「野心は苦手です」
「芸能活動には向かへんかもな」きりえはため息まじりに言う。「容姿に恵まれてるのに、もったいない」
「芸能界で成功するには、きりえさんのような実力者か、ハートがよほど強いか、ネジがいい意味でいくつか外れてないと無理だと思います。私は常識人すぎて」
「そうかもしれへんな。でも、気が向いたら芸能活動しいや。ファンが悲しむやん」
「ファンのためにも、これからも美学を追求しますよ。ファンにどこかでばったり会っても、がっかりさせないように」
「やっぱりもりのはファン泣かせやな」きりえはため息をついた。
「すみません」
「私にあやまってもしゃあないやん」きりえは笑う。「それで、堅実な職って何なん?」
「リハビリとか、身体のメンテナンス系です。いろいろ候補があって、資料を集めて検討してるところですが」
「ほんまにけっこう先のことまで考えてるねんね」
「堅実なんです」もりのは得意気に言った。「芸能界は浮沈が激しいからね。私がいざというときに支えますよ」
「ふうっ」きりえの胸はキュンとした。
車は明石海峡大橋にさしかかった。高いところからの眺めが好きなもりのは満面の笑みを浮かべていた。
「ねえ、もりのちゃん」
「はい、きりえさん」
「さっき、きりえさんを支えてくれるって言ってたやん? そのために退団するん?」
「ざっくりいうと、そうですね。でも、それだけじゃなくて、いろいろあるんです」
「いろいろ?」
「それでは問題です。もりのが退団に踏み切った理由は次のうちどれ」もりのはゆっくり考えながら続ける。「①きりえさんと遠距離恋愛するのが耐えられない、②きりえさんがモテるから心配、③きりえさんと新しい冒険がしたい、④きりえさんと同じ舞台に立つ今が幸せすぎる、⑤退団するまでに男役を極められる、⑥自分のポジションに後輩が上がるチャンスを作りたい。さて、どれでしょう」
「最初の方忘れてもうたけど、全部」きりえは笑った。
「正解」もりのも笑った。「私も忘れちゃった」
「一つ忘れてるんちゃうん」きりえは甘く笑う。「きりえさんがいないと、性欲を持て余して他のかわいこちゃんに手を出してしまいそうだから」
「それはない」もりのは言い切る。「きりえさんを知ってしまったら、誰にも興味なんて持てないよ。性欲持て余したら、一人で処理します」
「もりのは案外恥ずかしいことをさらっと言うなぁ」きりえは赤くなった。
二人はきりえの家に戻ってきた。もりのがシャワーを浴びる間に、きりえはハルオキの晩ごはんをつくり、自分たちの食事の準備をあらかた済ませた。
シンプルな部屋着に着替えたもりのは、きりえをシャワーにやり、残りの作業を受け持った。
淡路島産のレタスともち豚のしゃぶしゃぶを、シャンパンとともに味わった。
もりのは後片付けをすますと、プレゼントをきりえに贈った。
「あら、誕生日プレゼント? ちょっと早いんちゃう?」
「ちょっと目を閉じて」もりのはささやいた。
きりえは目をつむる。もりのがうしろからきりえの首にふれた。ネックレスだとわかった。手を取りどこかに連れて行く。
「はい、目を開けてください」
ベッドだと思っていたら、姿見の前だった。白い肌に一粒ダイヤの華奢なゴールドネックレスが上品に輝いていた。
「めっちゃ素敵やん!」きりえは感激し、ネックレスにふれた。「こんな高そうなん、もらってええの?」
「きりえさんとお揃いで買ったんです」もりのは同じデザインのプラチナネックレスをつけていた。「もらってくれないと、さみしいじゃないですか」
「ありがと、もりのちゃん」
「どういたしまして。プラチナにしようと思ったけど、やっぱりゴールドが似合いますね」
「そうかな?」きりえは照れる。
「ゴージャスな人だから」
「お揃いのネックレスやって」きりえは甘く微笑む。「私を束縛する気やな?」
「そんなことしませんよ。きりえさんは自由なまま、私から離れられないんです」
「ふうん」きりえは目を細める。「こういうことは、やけに自信にあふれてるねんな」
「自信ありますよ。少なくとも自分の気持ちには。全人類の中できりえさんを一番愛してるから」
「大きくでたな」きりえは笑い、「なんや、めっちゃ嬉しい」
翌朝、二人は激しいワークアウトをやった。もりのは汗をかいたまま、ストレッチポールに身を横たえた。リラックスして眠ってしまいそうだった。
ふと気づくと、きりえのやさしいまなざしが注がれていた。
「もう終わり?」
「うん」
「じゃ、私も」もりのはストレッチポールから横に滑り降りた。「シャワー浴びますね」立ち上がって歩こうとするもりのの腕を、きりえはそっとつかんだ。
「そのままがいい」きりえは汗で湿ったTシャツの上から、もりのの背中に抱きついた。「もりのちゃんの汗、好きやねん」
「こんなに汗かいてるのにいいの?」
「私もかいたもん」
もりのは自分の身体にまわされたきりえの手をやさしく取り、ベッドに行った。
やさしい陽ざしの中で身体を重ねあわせた。爽やかな朝の光のもとでセックスするのは、健康的でエロティックだった。
もりのは、きりえの長いまつげに縁どられた瞳を見つめ、キュートにとがった高い鼻と適度に厚みのある唇にキスをした。やさしい胸のふくらみと、深いピンク色の乳首を指先と唇でやさしく愛撫した。白くやわらかな肌の感触と匂い、体温にうっとりと包まれた。
きりえはもりのの光沢のある白い肌に見惚れた。湿り気のある肌に口づけし、甘い匂いを胸いっぱいに吸い込む。真珠色の歯とピンク色の舌を舐めた。鎖骨の間のうすいほくろにキスをした。形のいい胸に頬を寄せ、うす桃色の乳首をやさしく舐めたり吸ったりした。
お互いの身体が立てるやらしい音と、さまざまな感触にあおられ、たまらなく感じた。丁寧な愛撫を重ね、昇りつめた。
もりのがシャワーを浴びていると、きりえが入ってきた。
「どうしたの、今日はずいぶん甘えん坊さんだね」
もりのは濡れた髪をかきあげて爽やかに笑った。広く形のいい額がのぞく。体温に近い温度に設定したシャワーのお湯をかけてやった。
スタンドにシャワーを置いて、お湯をとめる。ボディーソープをたっぷりと泡立て、きりえの身体をやさしく洗った。きりえは頬をピンク色にそめてうつむき、ときどきもりのを見上げた。もりのはスタンドからシャワーをとると、きりえの身体の泡を洗い流していった。全体を流すと、脚のつけねにお湯をかけながら、その奥をしなやかな指で丁寧に洗った。洗うほどに、うるんでくるのを感じる。
もりのはシャワーのお湯をとめると、スタンドに置いた。
「またしたくなってきちゃいました」もりのは熱をおびた声でささやいた。
「私も」きりえも切なく吐息をもらす。
「知ってます。だって、こんなにうるんでるんだもん」もりのはきりえの目を見ながら、うるんだところを長い指でやさしく刺激する。
「もりのだって」きりえは艶っぽい目でもりのを見ながら、そっとふれる。たっぷりとうるんでいた。もりのは感じたときの声を小さくもらした。
「私ら、濡れ場好きやね」きりえが微笑む。
もりのは耳のしずくを舌で舐めとる。
「仕方ないよ。きりえさんは、こんな耳をしてるんだから」
「耳?」きりえは不思議そうにもりのを見る。
もりのは耳の溝に舌をはわせる。
「耳の形で感度の良さがわかるって聞いたことがあります」
「そうなん?」
「きりえさんの溝はすごく狭くて、感度抜群みたいですよ」
もりのは耳を唇で愛撫する。
「そうなん? なんで?」きりえは感じながらも理由を追及する。
「えっと、ヴァイオリンで言うと、アマティ、ストラディバリウス、グァルネリみたいな」
「ふんふんふん、あ、名器ってこと?」きりえは恥ずかしくなる。「その知識どこで仕入れたん。ちょっと破廉恥な知識やな」
「すみません」
「で、もりのちゃんは?」きりえはもりのの耳をのぞく。「わりと狭いんとちゃう?」そう言って、ペロリと舐める。
「だから私たち、仕方ないんですよ」もりのはきりえを抱き寄せた。
きりえが髪を洗っている間にお風呂から出たもりのは、髪をドライヤーで乾かし、身支度を整えた。白のTシャツの上から着なれた白のコットンシャツをルーズに着た。それに茶色のカジュアルなチノパンを合わせた。セックスの直後とは誰も想像できない爽やかさだった。
「シンプルな格好がやたら似合うね。もりのは自分の身体がブランドやな」
「最高のほめ言葉じゃないですか」
「ほんまのことやもん。でも私は、テレビも入るし、ちょっと着飾るねん」きりえは前身頃に同色のスパンコールの装飾が施された黒のシャツに、黒のパンツを合わせた。
「とっても似合ってます」もりのは白い歯をみせて笑った。
「もりのちゃん、キラキラしすぎ」きりえは眩しくて目を細めた。
十三 あれをしすぎ
冬が訪れ、全国ツアーが大阪を皮切りにスタートした。十一都市を二十日強で巡る強行スケジュールだった。
初日の前夜、もりのは突然、退団のさみしさを感じた。そのせいで眠りは浅く、寝不足で舞台に立った。客席降りから戻るときに階段を一瞬踏み外し、ひやっとした。
動揺したのは初日だけで、その後はきりえと全国ツアーを満喫した。ショーではたくさんの客席降りがあり、遠征しているファンや各地のファン、地元客との触れ合いを楽しんだ。もりのが近づくと、かっこよさと遠近感がくるう頭身バランスとスタイルの良さに歓声が上がった。
舞台を降りると、きりえともりのは二人の時間を楽しんだ。二人の仲は公然の秘密となっていた。組子の前でいちゃついていたわけではない。目線や空気からそれと知れた。地方公演ということで開放的になっていたため、自分たちの仲をそれほど隠すでもなく、ほとんどの時間を一緒に過ごした。組長のりょうの采配で、二人は一緒の部屋をとり、温泉付き宿のときは、貸切風呂を使わせてもらった。
“アダルトチーム”と称して、きりえともりの、りょうとで終演後の食事をよくともにした。りょうは二人の仲も、同時退団することも知っていたので、ビデオカメラで思い出を残すのを手伝ったりした。
もりのより一期下のゆりも二期下のまさも本来ならアダルトチームに入ってもいいのだが、誘わなかった。きりえ退団後は彼女たちが組を引っ張っていかなければならず、組子と親睦をはかってもらうことも組長の狙いだった。
博多公演の前夜、寒空のもと、中洲川端駅から港方面に歩いて十分程度の落ち着いた場所にある、水炊きの人気店にやってきた。三階建ての大きな店だった。二階奥の座敷に案内された。
週末とあってほぼ満席だった。隣の席との間に仕切りがあるため、人目はそれほど気にならない。予約していたため、テーブルにあらかじめ鍋がセットされていた。白濁した鶏ガラスープとぶつ切りの骨付き鶏が入っている。
この店では、仲居が各テーブルについて鍋の一切を取り仕切る。若い仲居はまずスープだけを湯呑に入れて、飲むようにすすめた。
三人は旨味とコクのあるやさしい味わいに感激した。
鶏肉、野菜、雑炊の順番で鍋を食べ進める。鶏は、ぶつ切りにした骨付き鶏とつくねを注文した。飲み物は瓶ビールにした。
仲居がすすめる絶妙なタイミングで骨付き鶏を食べた。甘めの特製ポン酢とねぎで味わう。骨のまわりの肉はやわらかく、口の中でほろほろくずれ、肉の旨味が広がる。箸で食べてもいいが、手づかみでかぶりつく方が食べやすい。
きりえとりょうは横に並んで座り、もりのはその前に座った。もりのは左手で骨付き鶏をつかみ、肉を口に運んだ。長く白い指とふっくらと赤い唇が脂で光る。歯と舌と唇を器用に使って肉をきれいに食べた。
「いい食べっぷりだねぇ」ファンの間で“色気だだ漏れ”として知られるりょうは、目尻を下げてもりのを見る。
もりのは唇についた脂を舌で舐めとり、照れる。「おいしすぎて夢中になっちゃいました」
「へえ~夢中になるとそうなるの」りょうは目を細めて独特のにやけた微笑を浮かべる。「心ゆくまでしゃぶるんだねぇ」
「もりのちゃんをやらしい目でみるのやめてくれます」きりえは赤くなってたしなめる。
りょうはやらしい顔できりえを見る。
「きりここそ、やらしい目で見てたんじゃないの」りょうはきりえをきりこと呼ぶ。「夜のこと思い出してたんじゃないの」
「何言うてはるんですか」きりえは図星をさされ、ごまかすために骨付き鶏にかぶりつく。
もりのは困った顔で仲居をちらっと見た。仲居は三人の会話を気にするでもなく、自分の仕事に集中していた。もりのはほっとした。
仲居がさらによそってくれた食べごろの骨付き鶏を食べる。
「食べ方を見てると、夜のことが連想されるねぇ」りょうは一人うなずく。
「りょうさんだからでしょ」もりのはあきれ顔で指摘した。
りょうは構わず続ける。「きりこは食べ物に集中してひたむきに食べるんだよね。すっごくおいしそうな顔で。何度でもおいしいものを食べさせたくなるねぇ」りょうは目を細め、きりえの夜を想像するような間を刻む。
もりのを見て、やらしい顔をする。「もりのは食べ方がきれいなんだよね。丁寧で上品。左利きだから、物を書くときはたどたどしいし、箸使いもかわいいけど、指使いと口の使い方が秀逸だねえ」
もりのときりえは赤くなる。鍋作りに徹していた仲居まで、もりのの唇と指を盗み見て、ちょっと赤くなった。
「そんな目で見られたら、食べづらいんですけど」もりのは困った顔をした。
「ごめんごめん、おっさんの言葉は気にしない気にしない」おじさん役を演じることが多いりょうは、豪快なおじさん笑いをした。
肉、野菜、雑炊をきれいに平らげた。仲居が感心する見事な食べっぷりだった。
「きりこももりのも全国ツアーで痩せちゃったからさ、もっと食べなさいよ」
りょうは席を離れる仲居に、酢モツと手羽元の甘辛煮とからあげを追加注文した。
もりのは熱々の手羽元をあますところなくきれいに食べた。
りょうはにやにやしながら一人うなずく。
「全国ツアー食の旅で、確信したよ、私は。もりのはエロい」
「エロくないですよ。ね、きりえさん」もりのは自分の唇を長い指でさわった。
アルコールのせいで頬をピンク色に染めたきりえはもりのを見て、さらに赤くなった。
「いや~今日はいいもの見せてもらったわ」りょうは好き者の顔をする。「デザートに、桃かいちじくがあれば最高だけど、旬じゃないしねぇ」
「いちいちやらしく聞こえるんわ、りょうさんやから?」
きりえはそれらの果実を丁寧に味わうもりのを想像して、身体が熱くなる。いつか食べさせようと思った。
「この人、手に負えませんよ、きりえさん」もりのはため息をついた。
「ほんまや」
「手に負えないついでに。今夜は三人でどう?」りょうは自分で言っておいて、爆笑した。
「何を言うてはるんですか」きりえはりょうのわき腹にエルボーをくらわせた。
「はあ」もりのはあからさまにため息をつき、頭を抱えた。「困った組長さん」
りょうはやらしい顔で笑いながら、「二人ともいっぱい食べるてるのに痩せてしまうのは、あれをしすぎ……」きりえはりょうの口をふさいで最後まで言わせなかった。あながち見当はずれでもなかった。
「もう、なんでも好きに思ってください」もりのはため息をついた。
「今夜のりょうさん、エロ発言しすぎやわ」きりえは苦情を言うが、そんなりょうが憎めなかった。
「ごめんごめん」りょうは半笑いでわびる。「だって、二人が組からいなくなるの、さみしいんだよ。若者ばかりを相手に、どうすりゃいいの」
りょうは本当にさみしそうな顔をして、大きな肩を落とす。「きりこともりのが添い遂げるなんて」
「りょうさん、ごめんね。でも、しっかりしてくださいよ」きりえはさみしさをごまかし、りょうの肩をポンポンとたたいた。
大分で迎えた千秋楽を終えると、有名な温泉付きのホテルで疲れを癒した。組子と打ち上げの宴会をした後、きりえともりのは貸切露天に入った。貸切ではあるが公衆浴場だったので、いちゃつくことはなかった。
ツインルームに宿泊したが、セミダブルのベッドで一緒に寝た。りょうが何度も二人の夜をビデオカメラで撮ると申し出たが、固辞した。
抱き合ってぐっすり眠った。目覚めるとすぐに、このホテルの目玉である朝食ブッフェに行った。朝いちばんの客だった。部屋に戻ると、長い時間をかけてセックスした。
アダルトチームは、搭乗時間ぎりぎりに現れた。
りょうはうしろ歩きで、きりえともりのをビデオ撮りした。きりえは満ち足りた笑みを浮かべていた。もりのはきりえの少しうしろを、自分たちの荷物を持って歩いていた。セックスのあとの甘いけだるさをまとっていた。
伊丹空港では、きりえともりのは少し慎重になった。どこにファンがいるかわからないからだ。もりのは気の利く後輩の顔できりえの隣に立ち、ベルトコンベアーから流れる二人の荷物をすばやく引き上げた。
「ハルオキ、ハルオキ」きりえはうきうきした声で実家に預けてある愛犬の名前を呼んだ。
もりのは微笑み、誰にも聞かれないようにささやいた。「いったん家に帰って、車で早く迎えに行きましょうね」
「うん、もりのちゃんもハルオキに会えるの楽しみやろ?」きりえは誰にでも聞こえてしまいそうな声で無邪気に言った。
「声が大きいですよ」もりのは小声でたしなめながらも、天真爛漫なきりえを愛しそうに見つめ、「すごく楽しみですよ」
「そうや、今日はそのまま実家に泊まろっか。うちの親、もりのちゃんのこと気に入ってるから、喜ぶで」
「泊まっていいなら、ぜひ」もりのは微笑んだ。
十四 愛に生きちゃいけませんか
きりえの退団発表は、東京公演千秋楽から数日後のことだった。ファンの間では、次の大劇場公演の演目が発表されたときから、憶測が飛び交っていた。そのため、きりえを見送る覚悟のようなものが醸成されていた。
退団発表が行われた日、ネットにはきりえを惜しむ声とともに、「きりえさん、もりのを連れていかないで」といった声もあった。その日を境に、周りの人からも尋ねられるようになった。もりのは小さな嘘を重ねつづけた。
全国ツアーを終えてすぐに、各組の選抜メンバーが勢ぞろいする公演の稽古に入った。
きりえの夢以来、もりのはエメラルド組のちぎりのことが少し気になっていた。稽古場でもりのはちぎりを目だけで探してみた。
「ちぎりちゃん探してるんやろ」きりえはもりのの前を通りすぎざま、おしりをポンとたたいて軽くにらんだ。「ちぎりちゃん、メンバーちゃうよ」
「へえ、そうなんだ」もりのはばつが悪くて自分の顔をちょいちょいと触った。
もりのは、足早に自分の持ち場に向かうきりえを小走りで追いかけ、「きりえさん、今夜、部屋に行ってもいいですか?」
きりえはもりのを冷たい目で振り返ると、「ダメ」と言った。
「そんなぁ」もりのはしおれる。
きりえは少しかわいそうになって、「お稽古のあと気が向いたらええよ」
「じゃ、また後で聞きますね」もりのは元気になり、持ち場に戻った。
結局、きりえはもりのを部屋に迎えた。ソファの端に座った。もりのが近づくと、「よらんといて」と拒んだ。
「もしかして、妬いてくれたんですか?」
「妬いてなんかないもん」きりえはぷいっとそっぽを向く。
「絶対妬いてる」もりのは嬉しがる。「きりえさん、かわいい」
「なに、余裕かましてんねん」きりえはもりのの長い脚をペシンッとたたいた。
「ありえないことでやきもちをやいてくれる、きりえさんがかわいくてたまりません」
「ありえないって言い切れるん?」きりえは疑わしそうな顔をした。「ちぎりちゃん美形やし、性格もすごくよさそうやし、絶対に好みやもん」
「きりえさんが宇宙で一番タイプなんです。やきもちやいて、これ以上私を喜ばせないでください」
きりえはもりのの言葉に嬉しくなりながらも、「もりのちゃんは、私のこと心配ちゃうん?」
「きりえさんがモテるの当たり前じゃないですか。そんなの気にしてちゃ、きりえさんの恋人はつとまりませんよ」もりのは甘く笑った。「きりえさんに惚れ続けてもらうために、やることがいっぱいあるんです。嫉妬なんてしてる暇ないですよ」
「こういうときのもりのちゃんって、堂々としてるね」きりえは感心した。
コラボ公演の千秋楽から三日後は、きりえ退団公演の集合日だった。その日の午後、トップコンビに加えて、新たな退団者としてもりのら複数の名前が発表された。
ネットでは、もりのの退団を惜しむ声が相次いだ。一通り残念がった後は、「添い遂げの予感はあった」「残念だけど、添い遂げでよかったと思う自分もいる」などという声も出てきた。
もりののコアなファン、たとえばファンクラブの会員は、悲嘆にくれた。出待ちでファンと接したとき、それが伝わってきた。気丈に明るく振る舞う人、放心状態の人、泣き笑いの人、完全に泣いている人もいた。もりのは申し訳なく思ったが、どうすることもできなかった。
退団を発表したもりのに対し、組の仲間の言葉や、他組の同期や先輩、OG、演出家といった関係者から電話やメールがあった。その多くは「もったいない」というものだった。
あさからは半分怒ったような電話がきた。「どこまでももったいないやつだね、もりのは。最後の公演で集大成みせないと承知しないよ」
もりのは多くの人が自分を惜しんでくれることに驚くと同時に、感謝した。男役として自分の目指してきた集大成を必ずみせると心に誓った。
「きりえさん」
きりえが稽古場をあとにしようとしたとき、まりに呼び止められた。
「もりのさん、退団されるんですね」
「うん」
「納得です」まりは自分の言葉をかみしめるようにうなずいた。
「納得?」
「ムコとも、添い遂げるんですね」
「ムコってなんやねん」きりえは顔を赤らめる。「私が添い遂げるんは、ヨメのあんたとやろ」
まりはいたずら好きの女の子のような笑顔を浮かべ、快活に言う。
「身近で見ていれば、もりのさんがきりえさんの大事なムコだってわかりますよ。ヨメともムコとも添い遂げるなんて、素敵じゃないですか。人徳ですね」
きりえは自分の髪を困ったようにさわると、「ごめんな、まり。公私混同してたかな?」
「何をおっしゃるんですか」まりはやさしく笑う。「きりえさんももりのさんもプロフェッショナルでしたよ。舞台の上では、きりえさんは私と真摯に向き合ってくださいました。もりのさんも、きりえさんごと私を見守ってくださってましたよ」
「そう思ってくれてるなら、よかったわ」きりえはほっとした。
「私はきりえさんのヨメになれて光栄でした。芸事に妥協しないストイックなきりえさんのもとで成長できたと思います。ありがとうございます」
「私もまりがヨメでよかった。自分の足で立って、のびのびついてきてくれて、ありがと」
「こちらこそありがとうございます」
「いや、こちらこそ」きりえは笑う。「きりないな」
まりはうなずき、笑う。
「でも、ちょっと切ないこともありました。舞台を降りると、きりえさんの視線の先にはいつももりのさんがいましたから。いくら私がきりえさんを見つめても、気づいてくださらなかった」
「え、ほんま? 私ってそんなんなん?」きりえは情けなさそうな顔をして、心からわびる。「ほんまにごめんやで」
「冗談ですよ」まりは笑うと、明るくつづける。「最後までよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね」きりえは明るい笑顔を返した。
「あっ」閑静な住宅街の静かな佇まいをした一軒家の隠れ家風の店を見て、もりのは小さく声をあげた。「この店なつかしい……」
石畳のエントランスを抜け、手入れの行き届いた庭をみながら奥へ進んだ。
「ふぐ食べたよね」きりえはにっこり笑う。
「ここで初めてキスしたんですよ」もりのは甘く微笑む。
「唇を奪ったんやろ」きりえはわき腹をこづく。
「そうでしたね」もりのは照れる。
「今日はこの店の真骨頂、天ぷら食べるで」きりえは引き戸を開けた。
公演の中日を過ぎた休演日前夜、二人は久しぶりにゆっくり食事することにした。
退団公演が始まると同時にディナーショーの稽古が始まり、多忙を極めていた。二人の時間を満足にもてないため、劇団で遅くまで稽古したあと、人目につかないところで抱き合ったりキスしたりした。誰にも見られないよう細心の注意を払っていたが、一度だけひやりとしたことがあった。
深夜近かったため、自分たちしか残っていないだろうと油断していた。身体を密着させて抱き合い、互いの身体を撫でながら、深くキスしていた。
ふと人の気配を感じた。二人は唇と身体をとっさに離し、反射的に振り向いた。
涼やかな美しい顔立ちの小柄な男役が立ち尽くしていた。「およよよよ……」と動揺の声を小さくもらしていた。次の大劇場公演の稽古に入っていたエメラルド組のちぎりだった。
「およよよよって、ひょうきんな間投詞やなぁ」きりえは思わず噴き出した。
もりのも大笑いしている。
「いややや、間投詞とか突っ込む前に、びっくりさせないでください」ちぎりは笑顔をつくり汗をふく手振りをした。
「いやややって」もりのは笑う。「顔に似合わずひょうきんだね」
「ご両人のせいでしょ」ちぎりは襟足をちょいちょいっと触ると、「秘密基地に忘れ物を取りに来たんです。ここ、私の秘密基地なんですよ」と言って、棚に置いてあった本をひょいと取り上げた。ボイストレーニングについての本だった。ちぎりは神妙な顔できりえを見た。
「あの、こんなときにすみません。よろしければ、歌が上達するコツを教えてほしいんです。きりえさんとは天と地獄ほどのレベルの差があるのはわかってるんですが……」
「天と地獄って。言葉のセンスおもろいなぁ」きりえは笑いながら感心した。それから真面目な顔をして、「とくによくしたいポイントは?」
「締め上げるような声をなんとかできればと」
「歌に苦手意識を持たず、喉を解放してみ。普段笑ってるときとか、楽しく盛り上がってるときは、自然とよく通るええ声が出るんちゃう? リラックスしてるとええ声がでるよ。お風呂で歌うときとか、みんなええ声やん。エコーだけのせいとちゃうねんで。リラックスするには、ストレッチもええよ。肩まわりや首筋をほぐすねん。私もいつもやってる」
「はあ、ありがとうございます」ちぎりは感激した顔をする。「的確に教えてくださり、わかりやすかったです。地上に這い上がれるよう励みます」
きりえともりのはやさしい笑顔を浮かべた。
「お邪魔しました」ちぎりは深々と頭を下げると、「えっと、私はお二人のこと、何も見てませんから」と言い残し、走るようなスピードで歩き去ったのだった。
店は閉店間際ということもあり、客はまばらだった。歌劇団のスターだと承知している店主は、気を利かせて二人を客のいない座敷に案内した。
旬の素材を楽しめる天ぷらコースを頼んだ。
「おいしいですね!」もりのは海老の天ぷらに感激した。
「衣はカラッとサクサク、海老はぷりっぷりで最高やねぇ」きりえは尻尾まできれいに食べた。
もりのも尻尾まできれいに食べた。
「もりのちゃんも尻尾まで食べる派やんな。尻尾がおいしんよね」
「そうそう」
天ぷらはひらめ、わかさぎ、丹波篠山産の山の芋の順に、揚げたてがタイミングよくサーブされた。塩や天つゆで楽しんだ。
もりのは食欲が満たされてきたところで、店内をしみじみ見渡した。
「なんだか不思議な気分です。二年前にこの店に来たときはきりえさんのお披露目公演のお稽古中だったんですよね」
「そやな」きりえもしみじみする。
「あき、ひかる、みそのさん、そしてこの春にはきりえさん、まりちゃん、まきさん、私もいなくなる」
「そして誰もいなくなった」きりえは冗談めかして言った。「寂しい?」
「寂しいのとは違いますね。しみじみします」
「退団するの後悔してるんちゃうん?」
「してませんよ」もりのはふっと笑った。
「まあ、新陳代謝よね。この繰り返しで新しい血が入り、活性化されてきた」
「そうしてこの先も続いていくんですね」
もりのはウーロン茶を一口飲んだ。「諸行無常ですね。全て変化しつづけるんです。きりえさんも、私も。だから、変化の歩調が合うよう、自分に誠実に今を生きて成長しますよ」
「かっこええこと言うやん」
「でしょ」
しいたけ、金時にんじん、穴子、ふきのとうで天ぷらのコースは終了し、後味をさっぱりさせるための茶粥と赤だしが運ばれてきた。
「きりえさん、サヨナラショーありがとうございます」もりのは感謝を込めて言った。「フレイをまたやれて幸せです」
「大劇場でやりたかった作品やから。少しでも実現できて私も嬉しい」
「花道セリ上がりのあとヴァイオラと絡んで、セリ下がりまでさせてもらえるなんて。今日、演出を知って驚きました」
「うん、なかなかいい演出やろ」きりえはふふっと笑った。
「こんな素敵なサヨナラショーをご一緒できるなんて、幸せです」
きりえはちょっと渋い顔をする。
「喜んでくれるのは嬉しいけど、なんか複雑やわ。もりのちゃんは、ほんとは自分のサヨナラショーやれるくらいの人やのに」
もりのは耳元の髪を手でさわった。
きりえはもりのを真面目な顔で見つめ、胸の内に溜めていた言葉を吐く。
「トップになるにはタイミングも運もあるよ。でも、一番は気持ちやねん。自分でも言ってたけど、もりのには気持ちがなかってん。欲とか野心とかが。ある程度のスターなら、誰がトップになってもおかしくない。もりのは無欲なのにここまで来れてんで。気持ちがあればトップになれたかもしれへん。そう思うと悔しくなることがある」
「きりえさんには欲や野心があったんですか? トップになりたいと思ってたんですか?」
「高みを目指すうちに、トップになりたいと自然と思うようになったよ」
もりのは自分の心を見つめて言う。「私には理想の男役像があるし、それを真摯に目指してきました。ここで吸収した全てのことが人生の糧にもなってます。でも、トップになりたいという野心は芽生えませんでした。もちろん、やりがいのある役や場面を経験したいとは常に思ってましたけど」
きりえはうなずく。
もりのはきりえを真っ直ぐ見つめる。
「私はここで、生涯で大切なものを見つけました。きりえさん、あなたですよ。愛に生きちゃいけませんか。人生、あれもこれもとはいかないんです。あなたと今後もやっていくなら、ここに残るわけにはいかない」
きりえは胸を打たれ、目を伏せる。茶粥を一口食べ、赤だしを飲んだ。ふうっとため息をつく。
「複雑やわ。そんなん恋人に言われて嬉しくないわけないやん。でも私は舞台の上のもりのちゃんも好きやねん。男役を見れなくなるの、寂しいねんから」
「そんな風に言ってもらえたら、思い残すことはありません。これからはきりえさんだけの男役でいます。ときどきは軍服も着ますよ」
「ええね」きりえはふふっと笑う。「ヴォーグ風に裸に軍服とか?」
「そんなんありました?」もりのは苦笑する。
「あ、裸にジャケットやわ。それもやってね」
「きりえさんって、わりとそういうのお好きですよね」もりのは甘く笑う。
「もりのを恋人にもった特典やん」
「髪伸ばしちゃうかも」
「ええやん。ショートも好きやけど、髪長いのも似合うと思うで。かっこいい女って感じで」
「退団して男役を引きずるのが嫌なんです」
「元々もりのちゃんってナチュラルにかっこええから、まったく心配せんでええと思うよ。そのままでええねん」
「きりえさんがそう言ってくれると、大丈夫な気がしてきました」もりのは微笑む。
「これからは私のトップ男役になってくれるんよね。私はヒロインで」きりえはかわいらしく微笑んだ。
「はい。ヒロイン願望を満たしましょう」もりのは貴族風に会釈した。「女優のきりえさんも楽しみだなぁ」
「ラブシーンに妬くかもしれへんよ」
「ラブシーンのお稽古相手になりますよ」
「ほんまにもりのもお好きやね」きりえは照れ笑いを浮かべた。
きりえはあがりを一口飲むと、もりのを見つめた。
「もりのちゃん、ありがとう。私と一緒に退団してくれて。新しい世界に踏み出す勇気をいっぱいもらえる」
「私も同じです」もりのはそう返すと、ちょっと笑った。「退団同期っていいですよ。しょっちゅう一緒にいても誰にもおかしいと思われない。隠れ蓑になりますね」
「案外ちゃっかりしてるなぁ」きりえは感心した。
十五 すっぽん食べなくても私は元気ですよ
もりのはマンションのエントランスロータリーに車を停めるとヘッドライトを落とし、きりえを電話で呼び出した。
「ロータリーにいます」
「ありがと、すぐ行く」
きりえの姿を見つけると、車を降りて爽やかな笑顔を浮かべた。
きりえはキャメルのトレンチコートにオレンジに近い赤を基調としたタータンチェックのシャツ、チャコールグレーのニット、黒パンツというカジュアルな装いだった。
もりのはきりえのリクエストで、大劇場千秋楽のときに着たファッションに身を包んだ。スリーピースのスーツ、シャツ、ソフト帽まで白づくめだった。ソフト帽のリボンだけ黒が入っていた。ファンやギャラリーから歓声があがった装いだ。
きりえが遠目にも大喜びしているのがわかった。
「めっちゃかっこいい!」きりえはうっとりともりのを見つめた。「ヨーロッパのリゾートでバカンスしてる気分になるわ」
「でも、きりえさんと全然調和がとれませんね」もりのは苦笑した。
「そんなん気にせんでええやん」
「この格好ですっぽん料理というのも落ち着かないので、宿に着いたら着替えますよ」
「え~もったいないなぁ」
「じゃ、行きましょう」もりのはソフト帽を脱いで、髪をかきあげた。
車に乗り込むと、京都の壬生方面に向けて出発した。
「京都久しぶりですね」
「ハルオキと初詣に行ったとき以来やな」
もりのはうなずく。「大劇場公演、ディナーショー。密度が濃かったですね。終わった実感がまだありません」
「うん、一昨日まで東京でディナーショーやったなんて信じられへん」
「お稽古までつかの間の休暇ですが、充電しましょうね」
きりえは運転するもりのの凛々しく穏やかな横顔を見つめ、細く長い脚を触った。
「もりのちゃん、痩せたね。私はもっと痩せちゃったけど」
「きりえさん、欲張りすぎだから。大劇場公演もサヨナラショーもディナーショーも、クオリティ半端なかったです。そりゃ、痩せますよ」
「うん。でも、やりたいこと全部やり切ったで」
「私も全てご一緒できて幸せでした。ディナーショーでいっぱい絡めたし」
「もりのちゃん、大胆に絡んでくるからドキドキしたわ」きりえは思い出し、赤くなる。「そういう振付やったけど、いちいち官能的でリアルすぎやったわ」
「公開できりえさんと絡めて、気持ちよかったな」
「うん」きりえはうふふと笑った。
高速道路を快走し、一時間足らずで島原の温泉旅館に着いた。丹波口駅から徒歩すぐ、京都駅からも徒歩圏内だ。そこに素泊まりし、宿からほど近いすっぽん料理専門店でフルコースを楽しむことにしていた。
もりのは宿の駐車場に車を停めた。
「まさかすっぽん料理のために、京都に一泊するとはね」もりのは甘く笑う。
「生き血を飲むときに焼酎で割るみたいやから、車で帰られへんやん」
「生き血」もりのはつぶやいた。「私、すっぽん料理初めてなんですよね。きりえさんは食べたことありますか?」
「懐石で少し食べたことあるけど、フルコースは初めてやねん。生き血も初めて」
「精がつきそうですね」もりのは甘い目線を送る。「でも、すっぽん食べなくても私は元気ですよ」
きりえは頬を赤らめる。
「そういう意味やないの。ほんまは公演中に食べてパワーつけたかってんけど、時間がなかったから。それに休暇中の今こそ、油断して風邪引きそうやん。東京公演までに滋養をつけたかってん」
「そうなんだ。私にもっと元気になってほしいのかなって、期待してたのに」
「これ以上元気になったら、身がもたへんわ」きりえは照れ笑いした。
新館の和室に案内された。新築されたばかりで清潔感があった。畳のいい匂いがした。仲居が下がると、二人は抱き合い、やさしくキスを交わした。
身体を離すと、もりのはさっそく着替えにかかった。
「手伝ったるよ」きりえはそう言うと、もりののジャケットとベストを脱がせた。もりのはきりえに身を委ねた。
「シャツも脱ぐ?」きりえがたずねると、もりのはうなずいた。シャツのボタンを外しながらもりのの顔をのぞき見ると、感じたときの顔をしていた。
「受け受けしい顔してる」きりえはつぶやいた。
「そんな言葉、どこで覚えたの?」
「ネットで」
「もりのが受け受けしいって、書かれてたの?」もりのはきりえの髪を撫でた。
「うん」きりえはシャツを脱がすと、首筋にそっと唇をあてた。
「どの場面?」
「私がもりのちゃんの脚を撫でおろす振りのとこ」きりえは照れる。
「仕方ないよ、気持ちよかったんだから」
もりのがきりえを抱き寄せようとすると、するりと身をかわした。
「ズボンも履きかえる?」
「はい」
きりえはベルトをカチャカチャいわせてとり、ボタンを外してジッパーをおろした。
「やらしい音ですね」もりのの身体がうずく。
「もりのちゃんは敏感やねんから」
「そりゃ敏感にもなりますよ。一週間もしてないんだから」
「公演始まってからあまりゆっくりできてないもんね」
きりえは白く光る太ももから下着にかけてキスした。
「あらら、もう濡れてる」きりえは甘く笑った。
もりのをやさしく押し倒す。脚を開き、下着の上からそっとキスをし、じわじわ刺激を強めていった。もりのは小さなあえぎ声を出して、軽くイッた。
そんな恋人が愛しくて、きりえは抱きしめる。
「早すぎですよね」もりのは恥ずかしがる。
「もりのちゃん、かわいい」
「ところで、予約の時間は大丈夫ですか?」
きりえはあわてて時計を見た。
「ぎりぎり間に合うわ。行こっ!」
もりのはネイビーのニットとジーンズ、白のジャケットを急いでまとった。
気さくな小料理屋の風情のある店だった。移転して数年しか経ってないとのことで、新しく、小ぎれいで、清潔感があった。二人は座敷に案内された。
生ビールで乾杯し、つきだしの肝煮と、身、肝、心臓、たまひものお造りを生姜醤油で味わった。
「あ、全然クセがなくておいしいですね」
「うん、やみつきになりそう」
生き血の焼酎割りは、ほのかに甘みがついていて飲みやすかった。猪口一杯分ぐらいのその飲み物をちびちび味わった。
「身体が熱くなってきました」もりのの頬はピンク色に染まっていた。
「私も」きりえはニットを脱いだ。
メインの丸鍋は、すっぽんの食べられる全ての部位をぶつ切りにしてじっくり煮込んだものだ。だしは濃厚で深みのある旨味があり、ひと口飲むだけで力がみなぎるようだった。そのままの姿をした部位もあって少し気が引けることもあったが、きれいに食べた。野菜、湯葉、豆腐、シメのラーメンと雑炊に旨味がたっぷり吸いこんでいて、美味だった。
宿に戻ると、布団が二組、少し間隔を開けて敷かれていた。きりえはしゃがんで布団をくっつけ、もりのを見上げて笑った。
「かわいい」もりのはしゃがんでキスをした。そのまま押し倒そうとすると、「先にお風呂入ろ」と照れたきりえに制された。
平日の夜遅かったので、温泉は貸切状態だった。心からリラックスできた。
寝支度を整えた二人は、熱っぽい視線を絡ませた。もりのはきりえを布団の上にそっと横たえた。きりえの手を自分の胸にあてる。「ドキドキしてるでしょ」
「うん」きりえは目を伏せる。
もりのはきりえの胸に耳をあてる。「きりえさんもドキドキしてる」
二人は抱き合った。
「もりのちゃん熱い」きりえがささやいた。
「きりえさんも」もりのはきりえを甘く見つめた。「浴衣姿そそりますね」
もりのはきりえの頬から首筋、浴衣の襟元にかけて温かくやわらかな手をすべらせた。濃厚なキスをしながら、浴衣の上から胸をやさしく愛撫した。
互いの身体を触りながら、何度も濃厚なキスを交わした。
「きりえさん、私の中のすっぽんが大暴れしそうです」もりのは吐息をもらした。「あなたをめちゃくちゃにしそう」
「どうしよう」きりえは淫らな笑みを浮かべた。
もりのは浴衣の帯をゆるめて、きりえを愛撫した。浴衣がはだけ、艶やかな肌が露わになっていく。ほのかな灯りのもと、乱れていくきりえから目が離せなかった。
「もりのちゃんの目つき、やらしい」
「やらしいことしてるんだから、当然ですよ」もりのはささやくと、きりえのはだけた乳房を愛撫し、深いピンク色の乳首を口のなかに含んでやさしく舐めた。
「もりのちゃんの舐めかた……エッチできれい」
ふっくらとした唇と健康的なピンク色の舌で愛撫するもりのをそっと見つめる。
「気に入ってくれてるの?」もりのは甘く微笑んだ。
「めっちゃ好き」
愛撫をつづけると、きりえの腰がもりのを求めてゆっくり小さな円を描き、そうするたびに浴衣がはだけ、ほとんど裸になってしまう。
「すっごく淫らで美しいんですけど」もりのは乱れるきりえを見つめ、吐息をもらす。
「この格好、めっちゃ恥ずかしい」きりえは甘くにらんだ。
「きりえさんを見てるだけでイッちゃいそう」もりのの声はかすれる。
「もう裸になりたい」きりえは小さな声で言うと、恥ずかしくて目を伏せた。
もりのは浴衣を脱がせ、自分も裸になった。濡れたところを指で愛撫した。
「やらしい音がしますね」もりのは湿った音に感じながらささやいた。「くちゅくちゅくちゅくちゅって」
「言葉責めしてる」きりえはもりののすべすべのおしりを軽くつねった。
「いたいいたいいたい、ほんとにいたいです」もりのは痛がりながらも、やわらかな指で愛撫しつづけ、きりえの形のいい耳から首筋に唇をはわせた。
もりのは焦らすように愛撫しつづけた。
「早く中に……」きりえは待ちきれず、もりのに訴えた。
「好きにしてください」
もりのはきりえの手を自分の手にあてがった。どうしようもなく濡れているのを自分の手で感じ、きりえは恥ずかしくなる。もりのの驚くほど長い指に自分の指を重ねると、鼓動が一段と早くなる。きりえはこらえきれずにもりのの指を自分の中に入れ、待ち望んでいた感触に吐息をもらした。
「きりえさんの好きなように動かして」もりのはささやいた。
「恥ずかしい」
「じゃ、ずっとこのままで……私はこのままでも気持ちいいから」
もりのは唇にやさしくキスした。キスに合わせて指が自然と動く。きりえは白い首筋をみせてのけぞる。もりのはかみつくようにキスした。
「もりのちゃん、ほんとのドラキュラみたい」
「忍耐強いドラキュラですね」もりのは甘く微笑む。
「がまんしないでええよ。一緒にドラキュラになるわ」
もりのは感動して、きりえを見つめた。
「今がまんできないのは私やけど」きりえは手に力を込めた。
「好きなようにして」もりのはささやいた。
もりのの手をゆっくりと動かし、指を奥まで入れると、かきまわすようにした。眉根を切なそうに寄せ、目をきつくつぶってあえいだ。
もりのはきりえを抱きしめ、「きりえさん……」とかすれた声でささやき、自分の身体を呼応させた。きりえはすぐにイキ、もりのも同じようにあえぎ、身をふるわせ、大きく息をついた。
きりえは呼吸が落ち着くと、「もりのちゃんに辱められたわ」となじって、もりののわき腹をつねった。
「すみません、そんなつもりじゃなかったんですが、怒っちゃいました?」
「あほやなぁ。楽しんでるに決まってるやん」きりえは色っぽい顔でもりのを見る。「たっぷり愛してくれたから、きりえさんにしかできないやり方で抱いてあげる」もりのの耳元でささやいた。
もりのはつぶらな瞳を輝かせる。
「めっちゃわくわくしてるやろ」きりえは笑った。
もりのは素直にうなずいた。
きりえはもりのの髪をやさしく撫でた。耳元に唇を寄せて、やわらかな声でゆったりとしたテンポで歌いだした。もりのの好きなジャズの名曲だった。
「すっごくうれしい。ありがとう」
きりえは愛撫しながら、やわらかに抑揚をつけてゆったりと歌う。
Fly me to the moon
今宵君を抱き あのそらのかなた飛んで行こう
甘い吐息 ささやく調べ とろけそうな……
きりえはもりのを見つめる。感じてるときの顔を見るのが好きだった。
「そんなきれいな目でみられると、もうどうにかなっちゃいそう」もりのは切ない吐息をもらした。
もりのの乳首をやさしく愛撫する。なめらかな舌でころがし、やさしく噛んだり舐めたりした。
濡れたところを愛撫し、もりのの中に入った。乱れるもりのを見つめ、唇にキスをし、耳元でやさしく情熱的に歌った。きりえの腕のなかで、もりのは昇りつめた。
「きりえさんの歌声、たまりません」もりのはぐったりと横たわった。
「全部感じやすいんやなぁ」きりえは汗ばんだ額にキスをした。
「きりえさんだから感じるんです」もりのは上気した顔に微笑みを浮かべた。
力が戻ると、もりのはきりえを背中から抱きしめた。きりえの乳房を温かく柔らかな手のひらでやさしく包んだ。
「もりのちゃんの手、気持ちいい。あったかくてやさしくて癒される」
もりのはうなじにやさしく唇をあてる。
「その唇も……全部やさしい」きりえはもりのの腕を撫でる。
「癒されて、もう眠い?」もりのは髪に唇をつけて匂いをかぎ、乳房を愛撫する。「きりえさんの身体、熱くなってるような気もするけど」
「そやな」きりえはもりのの手をとり、触ってほしいところにあてがった。
十六 あなたと初めてこうなったときから決めてました
東京公演が始まって一週間後の休演日前夜、きりえのファンミが行われた。いつもと変わらぬ自然体でチャーミングな魅力を発揮し、大勢のファンを魅了した。しめっぽくならないようにしたが、泣き出すファンもいた。集まり、支えてくれた人に心から感謝した。
滞在しているホテルに戻ると、スタッフの差し入れの夜食を頬張った。たまたま同じ日にファンミを行っているもりのの分も取っておいた。
シャワーブースで身体を洗うと、バスタブのお湯につかった。リラックスして、セクシーなジャズの名曲を歌った。気密性の高いホテルだったので、遠慮なく歌えた。
首筋にやわらかな唇が触れた。びっくりして目を開ける。いつの間に帰ってきたのか、もりのがバスタブに手をかけてひざまずくようにして屈んでいた。普段はベビーフェイスだったが、静かな熱情をたたえている今は大人の色気にあふれていた。
「おかえり」きりえはドキドキしながら言った。
「ただいま」もりのは唇にキスし、そのまま頬と首筋のしずくを唇ですくいとった。立ち上がると、「素敵な歌声に聞き惚れてました」と微笑んだ。
「その格好、めっちゃかっこいい!」きりえはもりのの全身に見惚れた。
もりのは、袖口に特徴のある変わり燕尾風のジャケットの胸ポケットに深紅のバラをさし、ベスト、シャツ、パンツと黒ずくめだった。それをさらっとシックに着こなしていた。
「めっちゃかっこいいけど、退団仕様やなぁ。もりのちゃんのファン、泣いちゃったんちゃう?」
「泣いてくれた人もいました。私も今夜は胸に迫るものがあって、うるっときちゃいました」
「そっかぁ」きりえはやさしく微笑む。
「きりえさんの方はどうだった?」
「うん、楽しかったよ」きりえはにっこりした。
もりのは微笑む。
「ちゃんと集まってくれた人にお礼言えた?」
「ちゃんと伝えられたと思います。私にしてはファンサービスもがんばったんですよ」
「へえ、たとえば?」
「ツーショット写真のときにおしり触られましたけど、こらえました」
「それ、あかんやつやん」きりえは焦って身を乗り出す。
もりのはきりえの胸をみてわざとやらしい表情を浮かべた。きりえは温まったせいで紅潮した頬をさらに赤くして、ちゃぷんとお湯に沈んだ。
「当惑したけど、最後だからいいかなって。すごく小柄な女性で、たぶん腰か背中に手をあてるつもりが、おしりに行っちゃったんだと思う」
「確信犯やけどな」きりえは笑うと、「はあ、のぼせたわ。そこのタオルとってもらえる?」
もりのがやわらかなバスタオルをもって近寄ると、きりえはバスタブの外に出た。もりのは包み込むようにして拭いてあげた。
「上等な服着てんのに、ありがとう」きりえは目を伏せた。
もりのは湿ったタオルを置くと、裸のきりえを抱きしめた。きりえのすべすべの背中からおしりにかけて長い指をすべらせた。きりえの身体が反応する。「もりのちゃんもお風呂入り」とささやき、もりのの服を脱がした。
「刺激強すぎ」もりのは吐息をもらした。「きりえさん裸なんだもん」
きりえはもりのの着ていたもので自分の裸を隠すと、うす桃色の乳首にやさしくキスをした。「あとでね、バイバイ」といたずらっぽく言い、浴室から出ていった。
もりのは高速でお風呂から出ると、バスローブを着て、いそいそと寝室に向かった。バスローブ姿のきりえは長椅子に脚を投げ出して座り、白ワインを飲んでいた。
「早かったね」頬を健康的なピンク色に染めたきりえが言った。
「待ちきれなくて」もりのは隣に座った。
「もりのちゃん、ご飯食べたん?」
「かるく」
「夜食あるから食べや」きりえはやさしく言う。
「何もいりません。きりえさんがいれば」もりのは熱っぽくささやく。
「あかんあかん、しっかり食べな。身体が資本やねんから」きりえははやるもりのを制する。「今夜は時間がたっぷりあるんやし」
もりのは素直にきりえに従い、夜食をワインとともに平らげた。
「じゃ、歯を磨いて寝よか」きりえが甘く笑った。
上質なシーリー社のダブルベッドの中に入ると、きりえは素早くもりのの上になり、妖しく微笑んだ。唇で耳たぶに触れ、「もりのちゃんの好きなことしてあげる」とささやいた。
きりえはやさしく愛撫しながら、やわらかい声で歌う。九十年代の終わりに流行ったポップスだった。
「意外!」もりのは喜ぶ。
「ドライブしてたときに、好きやって言ってたやん」きりえは甘く微笑む。「とくにここからが……」
からまってく つながってく
あたたまる ちょっとだけ
あなたのこと 考えるだけで
胸が この胸を
じゃれてるだけでも 時間がすごくたってる
やさしい指先 耳にキスして
こんな午後は そのまま服脱がせて
天国につれていって 一緒につれていって……
もりのは満ち足りた表情で横たわっていた。
きりえはもりのを自分の腕のなかに閉じ込めるようにして抱きしめた。美しい目でもりのを見つめる。
「その目がやばい。じっと見られたら誰だって虜になるよ」もりのはため息をついた。
「私な……」きりえは真剣な表情だった。「最初からもりのちゃんを連れてく気やった」
「ふうっ」もりのはキュンとする。「セクシー」
「劇団でもっと活躍してほしい思いもあったけど、ほんまは連れていきたかってん」
「わかってたよ」もりのは微笑んだ。きりえの形のいい頭をやさしく撫でる。「ううん、そうだったらいいなって思ってた」
「私のせいで退団するん?」
もりのはきりえを見つめる。愛情があふれていた。
「あなたと初めてこうなったときから決めてました」
きりえはもりのを慈しむようなまなざしで見つめた。
「もりのちゃん、愛してる」
二人は唇をあわせた。
十七 きりえたん、私のパンツどこにやったの?
やわらかな日差しとひやりと爽やかな冷気を頬に感じて、きりえは目覚めた。生成りのリネンカーテンをとおしてやさしい太陽の光が降り注いでいた。陽気で明るい音色の鳥のさえずりに、耳を澄ませた。目をやわらかく閉じ、唇に微笑みを浮かべた。
再び目を開けると、ハルオキの丸い目に出合った。ハルオキはキングサイズベッドの近くにあるソファをベッド代わりにしていた。きりえが起きた気配にいち早く反応し、笑ったような顔でやさしく見ていた。きりえは満面の笑みを返した。
ハルオキはソファから降りると、尻尾をふりながら歩いてきた。ハルオキが愛しくてたまらず、丸い頭をもみくちゃにするようにして撫でた。
満足したハルオキが離れると、きりえは横になった。隣で眠るもりのを見つめた。あどけなさの残る顔は穏やかで、安らかな寝息を立てていた。
ハルオキを撫でるときに布団を自分の身体に巻き込んでいたせいで、裸体があらわになっていた。天井も窓もすべてが開放的なログハウスに朝の光が満ちあふれ、裸体をひときわ輝かせていた。退団公演の千秋楽から一ヵ月半経ち、スマートだがしっかりとした身体に戻っていた。きりえは見惚れた。
そっとベッドを抜け出すと、もりのに布団をかけてやった。きりえは新しい下着をつけると、運動しやすい服を着た。
滋賀県の比良山麓の別荘地にあるオーベルジュにハルオキとともにやってきた。二泊三日の小旅行で、初めて迎えた朝だった。ログハウスはアメリカ人が数十年前に北米の建材を持ち込んで建てたもので、それを利用してコテージにしていた。
窓を開け、ハルオキに新鮮な水とフードをあげた。清冽な水で顔を洗い、歯を磨いた。温かい紅茶をいれてソファに座ると、窓から入る新鮮な森の空気と目にしみる緑を楽しんだ。森とハルオキともりのを見て、愛するものに囲まれている幸せをかみしめた。
もりのがそっと目を開けた。
きりえのやさしい瞳に出合うと、おはよう、と笑顔を浮かべた。
「気持ちいい風が入ってくるね」もりのは新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだ。
「最高の目覚めよね」きりえは微笑む。
「何時?」
「さあ、六時くらいちゃう?」
「時間なんてどうでもいいか」もりのは笑った。
「うん」きりえも笑った。
もりのも起きる。ミルクのように白く、均整のとれた美しい裸体をおしげもなくさらし、「きりえたん、私のパンツどこにやったの?」と笑いながら、布団をめくって探す。しばらくして見つけたが、ちょっと悩んで新しい下着をつけた。
動きやすい服を着ると、冷たい水で顔を洗って歯を磨いた。ウッドデッキに出ると、きりえと並んで紅茶を飲んだ。ハルオキもウッドデッキの上に腹ばいになって気持ちよさそうにしている。木漏れ日の差し込む緑深い森に、鳥のかわいらしいさえずりが飛び交っていた。
「こんなところに住みたいな」もりのは目を閉じて空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「私も今思っててん」
もりのは退団後に行った信州の旅を思い出す。
「信州も素晴らしかったけど、身近にこんなにも素敵なところがあるなんて」
「関西ってええよね」
「でも、東京に行かないとね」
「東京に稼ぎに行かんとな」きりえは明るく笑い、「いつか、こんなところで暮らそうな」
「きりえさんの好きな宝石でもいいよ」もりのは甘く笑う。
「ええよね。近くに山も川もあって、都会にも適度に近くて」
「自然が近くにあるっていいよね」
きりえは紅茶の最後の一口を飲むと、「もりのちゃん、散歩しよっか」
もりののティーカップを受け取ると、きりえはキッチンで洗った。
もりのはハルオキに服を着せると、首輪とリードをつけた。「よろしくね、ハルオキ」頑丈な背中をやさしくたたいた。
「湖畔まで行っちゃう?」きりえは意気揚々とする。
「往復一時間、行っちゃいますか」もりのは明るい笑顔で応える。
「朝ごはんなんやと思う? 近江野菜のポトフとポーチドエッグやで」
「おいしそう!」
「朝ごはん目指して、みっちり散歩するで」きりえは元気よく言った。
もりのは端正な横顔を愛しそうに見つめる。リードをもつ反対側の手をきりえに差し出した。きりえは温かな手に、少し冷えた自分の手を重ねる。しっかりと手をつないで、やさしい木漏れ日の中をハルオキとともに歩き出した。
めくるめくきりもり