一時間作品 「目覚まし」
三時間かかった……。
一時間の制約とは何だったのか。
微ホラーです。
対して大きくもない、かといって住むのに苦心するほどでもない部屋に男は一人で暮らしていた。
内装は、平均的な独り身の男そうする程度の装飾と、マメではない人間がほったらかしにする程度のゴミと、文明人に近づける程度の低い机、本棚、男が寝転がっているベッドで創られている。
しかしその中には、これと言って特色のない彼の部屋をわざわざ紹介するに至った、その意義たり得る異質なモノがあった。
カーテンの隙間から冷たい朝の陽ざしが差し込み、一番鶏が鳴く前に彼は静かに目を開いた。
室内には、ぐきき、ごりりという怪音が響いていて、彼はこれによって毎朝を知る。彼のベッドの右横には白装束の女らしきものが、長く艶のない黒髪を振り乱していた。奇怪な音の正体はこれであり、それは、ベッドから一段低くなったところに正座し首をあり得ない方向に捻じ曲げ、かつ左右に上下にと、忙しく振り回している。
古い時代の怪談絵巻にでも出てきそうなこの異常な光景に男は「チッ」と一つ吐き捨てると、その右手で女らしきモノの頭を捉えて、ぐり、と本来あるべき位置へ乱暴に戻した。
彼がそんな恐れを知らない行動ができたのは、この得体のしれないものが、幼少の時分からずっと延々と付きまとっていて、いつだか知らぬうちにその対処法を身に着けていたためである。
それゆえ彼にとってこれは幼いころから続く、いわば習慣であり彼が特別勇ましい性格であるわけではない。
もっとも、ヒトの性格というものがそういった出来事の後からついてくるものだとすれば、豪胆な人間であると言えるかもしれない。
どちらにせよ彼は毎朝起きるこの怪現象以外については、そういった強気な対応ができず、むしろ好まない性格であることは間違いなかった。
部屋に響いていた、ぐき、ごりという音は消え、ほとんど同時に女らしきものは薄く透き通るようにして消えていった。
男は感触のなくなった手に一瞥もくれずに、カーテンを開いた。男にとっては冬の寒空から降りてきて、街を照らし出す陽光の方がはるかに迷惑に思えていた。
男は勤める会社の社員食堂にいた。午前中に片付けるべき仕事が一段落し、残業までの空腹感を感じずに済むように昼食を頼む。一品390円のこの食堂一安いコロッケ定食をカウンターの中のおばちゃんに頼む。小太りのおばちゃんは返事もせず、さっさと奥の方で準備をし始めた。
男がその様子を何の気なしに見ていると、その肩に手が置かれた。そちらを向くと立っていたのは社内で唯一気を許せる同僚だった。
「なぁ。この社屋、出るんだってよ」
席に着くなり向かい側の同僚が言った。
「出るって、なにが?」
一口大に切ったコロッケを口に運びながら男が尋ねると、同僚は呆れたような憐れむような視線を男に向けた。
「おいおい。出るって言ったら、幽霊に決まっているだろう」
と大仰な身ぶりで同僚は答えた。男の脳裏には、当然あの女らしきモノが思い浮かんだ。
「隣の課の女の子が見たんだってさ、廊下を歩く長い髪の女」
同僚もコロッケに齧り付きながら、片方の手首を曲げて、恨めしそうな顔をした。
「ふ~ん。そうかい。世の中、不思議なこともあるもんだね」
男は夜遅い残業のことを考えて、内心不安になったが、表情では、どうでもいいことだと言うように、極めて平静を装った。
「しかしもっと不思議なのは、そういうモノのほとんどが女で、白装束で、長い黒髪で……、というように同じような特徴ばかりなことだな」
男は頭に女のようなモノが振り乱す髪の毛が、チラチラと当たっているように感じながら同僚に言った。
同僚は持っていた箸を教鞭のように振るって、
「それが世に言うステレオタイプっていうものじゃないか。ヒトっていうものは物事を、嫌に型にはめて考えたがるからね」
と偉そうにのたまった。男はそれを、確かにそんな気もするような、腑に落ちないような、そんな気持ちで聴いていた。スイートコーンの甘ったるい味が口の中に広がる。
興味のなさそうに振る舞う男の表情に気付かないのか、同僚は続ける。
「それにしてもああいうモノは果たして何者なのだろうな」
付け合わせのサラダを食べながら呟いた同僚の言葉には答えなかったが、男の頭は普段は考えることもなくなってしまった、女のようなモノのおぞましい姿がちらついていた。
男は自宅に帰りドアを開けると、ギョッとした。あの聞きなれたごりごりという怪音が部屋中に響いていたためである。
部屋の明かりをつけると、そこには案の定あの女のようなモノが髪を振り乱している。男がこの怪異と付き合ってから、起床前以外にそれが現れたことは一度もなかった。
タダならぬものを感じながら、とりあえずこの不快な音を止めようと毎朝のごとく女の髪をつかんで動きを止める。しかしそこで何かを思い立った男は、それの顔を覗き込んだ。
落ち窪んだ眼窩に瞳は無く、真っ暗な深淵が蠢いている。口も同様に唇の無いただの暗闇である。白いというよりも青いという方が近いくらいに、血の巡りを感じさせない冷たい肌。髪の毛はそれより冷たく、一本一本が凍り付いているように感じられる。なんともおぞましい顔とも呼べない顔に、しかし男はそれから目を離せなくなっていた。
徐々に眼の暗闇が大きく広がっていくように感じる。女のようなモノの頭部を抑えている手が、それを見ている目が、その暗闇に飲まれるような感覚に男は今までなく恐怖し、震えだした。
自分ではどうしようもなく顔が近づいていく。暗闇が近づく。近づく。
ついに男は口を開いた。
「オマエは、なんだ」
問うた瞬間、男は暗黒に飲まれた。
二日後の朝。男の借りていた部屋の前には数人の警官と野次馬が集まっていた。男の死体を見ながら一人の警官が言った。
「いやぁ、これは無残な表情だな。相当な目にあったようだ」
隣で机の上を見ていた新米と思われる警官は、死体の方をおっかなびっくり振り返る。
「そりゃあそうでしょう、なんたって目を抉られてるんですからね。これ以上恐ろしいこともないでしょう」
見たところ男の部屋には争った形跡もなく、窓もドアも空いていなかった。そのことを思い出したのか、新米警官はぶるりと震える。
「やっぱり幽霊でもないとこんなこと考えられませんよ。密室だったわけですから―」
大柄の警官は新米の頭を一発殴ると大声で言った。
「バカ言え。とっとと聞き込みでもして来い、幽霊なんて居っこないんだから」
一時間作品 「目覚まし」