メリクリ

メリクリ

 デジタルの体温計は、三十八度ちょっとを表示していた。
 なんだかだるいし、頭はズキズキと痛む。四枚も着込んでいるのに背筋がぞくぞくする。でもそのくせに、冷たくてじっとりとした嫌な汗は、湧き水のように粒を成して浮かんでは、皮膚(ひふ)をくすぐるように(つた)って流れるのだった。
 頭までかぶっていた布団から目だけ出して、千尋(ちひろ)は部屋のカレンダーを眺めた。
 十二月二十五日。クリスマスというやつだ。街中が色とりどりのネオンでライトアップされて、本来ならば、千尋は今ごろそのネオンの洪水のただ中にいるはずだった。友達とわけもなくはしゃいで、格好いいお兄さんにナンパされて、でも断って、「わたし、今ナンパされちゃったあ」なんて騒ぎながら、また友達と星の中を練り歩く。そんな予定を立てていた。
 でも、今の千尋は自室のベッドで熱に苦しみながら、うんうん唸っている。お父さんは今日も残業だし、お母さんは回覧板を回しに行ったまま、もう数時間戻ってこない。おとなりのおばさんと仲良しだから、きっといつもみたいに時間を忘れて世間話をしているのだろう。そして弟はというと、下の階でテレビゲームと格闘中だ。こんなに苦しんでいるのに、誰もそばにいてくれないというのは、精神的にけっこうキツいものがあった。
 ひょっとしたら、以前どこかで知らずに悪いことをしてしまって、そのバチが当たっているのかもしれない。じゃあ、いつ、わたしは悪いことをしたのだろう。
 そんなことを考えながら、意味もなく「神様、ごめんなさい。もう悪いことはしません」なんて心の中で叫んでいると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
「はい、どーぞ……」
 弟が様子を見に来たのかな――力なく返事をすると、ドアが開き、その向こうから男の子がひょっこりと顔を出した。
 (つや)やかな黒髪、大きな瞳、鼻筋の通った、まるで女の子のような男の子だった。
「あ、綾瀬(あやせ)くんっ?」
 男の子は、千尋のクラスで女の子にとても人気のある、綾瀬くんだった。
 思いもよらない訪問者に、千尋はびっくりした。慌てて起き上がろうとするけれど、身体がうまく言うことをきかない。上半身がふわっと少しだけ浮いて、すぐにまた倒れこんでしまった。
「よう、安静にしてるか?」
 綾瀬くんが言った。顔とぜんぜん合っていない、低い声だった。男の子はもう、クラスの半分以上が変声期を迎えていた。こんなきれいな顔をしていても、綾瀬くんはやっぱり男の子だった。
「安静に、してる、よ」
 口の中でもごもごしながら、なんとか返事をすると、綾瀬くんは「大いに結構」と、なんだか大人みたいなことを言って、にかっと笑った。
「オレ、クラス委員だからさ」
「うん」
「お前の分のプリントを持ってきたんだ」
 袈裟(けさ)がけにした大きな白い学生カバンをごそごそして、何枚かの藁半紙(わらばんし)を取り出すと、「ここに置いとくからな」と言って、机の上に置く。千尋は相変わらず頭がぼーっとしていたけれど、それでも何回もお気に入りのちいさな時計を眺めていたので、すぐに気が付いた。
「もう八時だよ?」
 午後八時――二十時。自分たちのような中学生が平気で外を歩ける時間ではない。部活だってこんな時間までやっていないだろうし、彼が塾に通っているという話も聞かない。じゃあなんで今ごろ持ってくるんだろう、とちょっと不思議に思う。でも、綾瀬くんの理由はじつに明快なものだった。
「忘れてたから」
「あ、ああ、そう……」
 忘れられていたことに、ちょっぴりショックを受ける。ついでに、「どうせ、わたしなんて」と自虐(じぎゃく)的になってみたりした。悲劇のヒロインを気取ろうにも、どれだけ悲劇的ではあっても、自分は主役を張れる器ではないのだ。ちょっと悲しい気持ちになる。
 そんな千尋を眺めながら、綾瀬くんは言った。
「嘘だよっ」
「……え、嘘?」
「ほんとは学校が終わったらすぐ来るつもりだったんだよ。でも、もし寝てたらって思ってたら、ついつい遅くなっちゃったんだ」
 きょとんとする千尋に、綾瀬くんはさっきから笑ってばかりだ。
「病人をからかうなんて、ひどいよ」
 千尋がほっぺたをぷうっと膨らますと、綾瀬くんは素直に「ごめんな」と謝った。
 教室ではまったくしゃべったことがないのに、今こうして普通に話せているのは、ひょっとしてすごいことじゃないのか、と千尋は思う。いつもなら、遠くから彼を眺めているだけなのに。もしかしたら、意識がはっきりしないせいで、緊張しない身体になっているのかもしれない。だとしたら、これは千載一遇のチャンスというやつではないだろうか。今なら、好きです、って言えるかもしれない。
「あ、あ、綾瀬くん」
 つっかえながら名前を呼ぶ。やっぱりちょっとは緊張してるのかも。
「ん、何?」
「ど、どうして、明日にしないで、今日来てくれた、の?」
 もし、ここで彼が「クリスマスだから」って答えてくれたら、それはきっと自分に脈アリのサインだ。千尋はそう思う。そうしたら、言ってしまおう。密かに決心を固めていると、綾瀬くんが口を開いた。
「平日だからな」
「……は?」
 せっかく固めた決心は、「くしゅん!」と、くしゃみと一緒に飛んでいってしまった。
「おいおい、オレにうつすなよ?」
 綾瀬くんが一歩さがった。
「へ、平日、だから?」
 なんとか訊き返すと、綾瀬くんは「そうだよ」とまた笑った。
「オレ、土日は部活のあと、クラブチームにも顔出してるんだ。だから土日は夜までずっと時間が空かなくてさ」
 それを聞いて、千尋は身体じゅうの力がしおしおと引いていった。
「あれ、どうした?」
「なんでもない……。プリント、ありがとね」
「おう。じゃあ、早く元気になれよ」
 脱力しきった千尋に気付かず、綾瀬くんはさっさと出ていってしまった。
 部屋には、なんともいえない沈黙が訪れた。
「……ま、そんなもんだよね」
 はあー、と長くて重いためいきをついて、机の卓上カレンダーを眺める。何回見ても、今日はクリスマスだ。
 なんだか泣きたい気持ちになったけれど、さすがにそれは我慢した。男の子より、女の子のほうが我慢強いのだ。
 ふらふらする身体をよいしょ、と起こして、机に置かれたプリントを見ようと手を伸ばす。
 そこで、気が付いた。
「なに、これ?」
 そこには、プリントと、その上に重し代わりに乗せられた、小さな箱があった。つやつやした紙できれいに包装されている。ラッピングの上に、小さくて可愛らしいシールが貼ってあった。
 ――メリークリスマス
 綾瀬くんだ! 千尋は目を大きく見開いた。男の子より我慢強いはずの女の子は、嬉しくてぽろぽろと泣いてしまった。
 どきどきしながら、丁寧に包装紙をはがしていく。
 中から現れたのは、風邪薬だった。テレビのCMとかで、よく見かけるやつだ。
「これは……喜んでいいのかな」
 ちょっと微妙なプレゼントだったけど、それでも千尋は嬉しかった。
 これは、脈アリ、というやつではないだろうか。
「ありがとね、綾瀬くん」
 綾瀬くんの出ていったドアを見つめながら、千尋はつぶやいた。
 なんだか、さらに頭がぼーっとしてきたような気がする。でもそれは、けして嫌な感じではなくて。
 こんど学校で会ったら、なんてお礼を言おうかな、なんて、そんなことを考えるのだった。

メリクリ

メリクリ

「ど、どうして、明日にしないで、今日来てくれた、の?」

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-24

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