一時間作品 「メロン」
雨を受けて光る窓ガラスから外を見ると、外の景色は夕焼けから薄曇りの夜空へ変わっていた。
向かい側に建つバーのこじんまりしたネオンの看板がぼんやりと光って、もうそこそこの時間なのだということを教えてくれる。
しかしながら、通りはむしろ昼間より賑わっていて、既に酔っぱらっているのかフラフラとスーツ姿や小洒落たロングドレスが行きかって、ここが眠りとは縁遠い街であることを思い出させた。
私は文庫本の表紙を重々しく閉じると、木組みの椅子に背中をもたれかからせた。水底から水面へザバリと起き出るように顔を上げると、頭にクラクラする痛みがじりじりと広がった。
この”眠らない街”に来て3年半。一等変わったこともなく、ただただ平穏無事に毎日を送る私には、これといった趣味もなく、たまの休みにこうして通いなれたカフェで日がな一日本を読むのが日課となっていた。目に入った本を2、3冊、近くの本やで買い込んで、読む。傍から見たら「よくもまぁ退屈しないものだ」と思われるくらい、変わるのは本の題だけである。
そんな”変わらないこと”が、日常であるということに何も疑問を抱かなくなっていた。
ただ、今日は少しだけいつもとは違っていた。
お客様、と店の給仕係から声がかかる。何事かと肩越しにそちらを向くと、ウェイトレスが給仕用の盆をもって立っていた。
お客様、当店主からのサービスです、と器用に指先で持っていた盆から皿を取り出す。
コーヒーでも差し入れてくれたのかと思えば、そこに乗っているのは半月型に切り出されたメロンだった。
どうしてメロンなのか、それを聴く前にウェイトレスは、では、と頭を下げて奥へと引っ込んでしまった。
しょうがないので文庫本を手から放して、例の半月を見る。それは如何にも高級そうなオレンジ色の果肉ではなく、薄緑色の小さなものだった。
ここに通ってきた私でもこのようなサービスは初めてだった。しかも「こんなに貧相なものを、よく客に出せたな」と思ってしまうほど貧相だ。
反感を覚えつつ店の中を見渡すが、さっきの給仕係も問題の店主もいない。カウンター席に座る男女がなにか語らっている様子で、時折笑い声が聞こえるぐらいだった。
行き場のない困惑を改めて薄緑の半月に向ける。至って貧相に見えるが、まさか食えないものは出さないだろう。
「一般に、サービスなんて言うのはこんなものかもしれないな」と思い直して、ついてきた銀色のフォークを指先で掴む。
このフォークも飾りっ気のない銀色の三叉で、何杯目かに頼んだコーヒーについてきたマドラーとは何かが違う気がした。
三叉の背の部分を使って、取り残された白い種を皿の上に落とす。そのまま切り分けてある果肉を一つ、口に運ぶ。
じゅわりと果汁が湧き出て口の中を満たす。見た目通り特別甘くもなく、しかしあの独特の甘い香りが鼻に抜けた。
その瞬間私はこれがメロンではないことを、思い出した。
田舎の、夏休みに祖母に切ってもらった甜瓜だ。
高く高く、澄んだ青空に浮かぶ白羊。じりりと焼け付く肌。のどが渇いて、身体中の水分が出て行っていることを自覚しながら、頬を伝って滴り落ちる汗をぬぐう。
私は数十年前の幼い記憶の中にいた。それは半月の一欠片を平らげるごとに、碧く、より鮮明に色付いていく。
蝉取りに夢中になって野山を駆けずり回り、神社の大幹に自分の小ささを感じた。田んぼ水の中に、無数の命を感じた。コンクリートの長い坂に沈んで行く夕焼けに、言い知れぬ切なさと恐怖を感じた。
家に帰って縁側に座り、汗と泥でベトベトになった身体を気にも留めず、祖母の切り分けた月に噛り付く。月光にきらりと光る銀のフォークも使わないまま―。
幼い記憶の懐かしさを胸いっぱいに感じながら、最期の欠片まで食べ終えると、さっきまでは居なかった店主にコーヒー代を支払ってカフェを出た。
素晴らしいサービスだった、と言うと店主は、笑ってうなずくだけだった。
街はまだ明るかった。薄雲に地上の光が反射して、月光を遮ろうとしているカーテンのようだ。次の休みに田舎に帰ってみることにしようと思った。
月の光が見えなくなる前に―。
一時間作品 「メロン」