学校がセピアに染まる夜

ふわりと風にたなびく黒いプリーツのスカートと臙脂のスカーフ。さっきまでの僕だったらその感覚にうっとりしていただろうけど、今はそんな余裕もなくそれらを自分の息と一緒に抑えて隠れていた。サイズが少し小さ目だから肩などが張るし、なによりスカートだから思い切り走る訳にもいかない。もしも見つかって逃げるとなると、それらを犠牲にせざるを得ない。
苔が這う桜の木に縮めた背中をくっつけて、見つからないようにと祈る。
中学生の僕が、隠れるとちょっとだけ安心できるくらいに幹の太いソメイヨシノが何本も並んでいるのは、近所だと今はもう廃校になった、この小学校の校庭だけである。
今は夜で、電灯も少ない場所だからきっと大丈夫なはずだ。満月も今は、雲間に隠れて暗い。
なんで僕が夜中に廃校に来ているかといえばちょっとした不幸と答えるしかない。ただ、人通りの少ない道を歩いていたはずなのに人の気配がしただけである。人の気配がしたと気付いた時に近くに廃校があったためである。
男の僕がセーラー服を着るのは間違っている。男の僕が通販でセーラー服を買うのは間違っている。間違っているから、見つかってはならない。
同級生に比べて大柄な身体と低い声に“僕”という一人称と柔らかい喋り方が合ってないと無邪気に笑われた日から、人の前では“オレ”になってやや粗暴な口調になった。だけど、頭の中では未だに切り替わってないのと同じように、間違っているけど僕にはしっくりきたから。しっくりきたけど間違っているから、僕は僕を守る為に隠れなきゃいけなかった。縮こまって、足音が離れていくのをただ待っているしかない。

明かりが無いと、夜は一層静かに感じられる。廃校は、人のにおいが薄れていくばかりだから、寒々とした静寂だけがあった。
もう、この小学校は廃校になって久しい上に田舎なのでか防犯システムの類はない。不法侵入者としては安心だけど、他に浮浪者や動物なんかが潜んでる可能性だって当然あるのでやっぱり危ない。
校庭に昔あった遊具も、子どもが立ち入る原因になって不味いし、老朽化によって事故を引き起こしてはいけないとすべて撤去されてしまっていた。また、プールも水が溜まって子どもが落ちたら洒落にならないので同様に潰された。
校庭には草が生え放題荒れ放題である。
夜のまろい色に沈んだ二階建ての小さな校舎の佇まいと、校庭に立ち並ぶ桜の木を見比べると、じわりと寂しいとも懐かしいともつかない気持ちに襲われた。
僕がこの学校に通っていたのは3年前のことだった。学徒の減少が続いたので、僕が卒業した次の年に隣の学区の小学校に合併されたのだ。僕らの学校はその時に打ち捨てられてそのままである。
僕は立ち上がると、ふらふらと学校の昇降口の方へと吸い寄せられるように向かっていった。伸び放題の雑草がちくちく膝を刺すから、ハイソックスじゃなくてタイツを履いてればよかったかなって少しだけ後悔した。
辿り着いた玄関の扉に手を掛けようとしたが、ちゃんと南京錠がかかっている。築五十年の古びた校舎の外観に不釣り合いにも、真新しく壊れそうな気配はない。試しに扉を動かそうとしたけれど、南京錠の鎖がガチャガチャと音が鳴らすばかりでびくともしなかった。
雲が途切れたらしく、月の光が校舎を照らして俺の青い影を扉に落とした。奇妙なことにもう一つ、人の形の影がある。

「秋良くん?」

今度は懐かしい響の声がした。
どくんと心臓が鳴って、振り返った先には見知った顔がある。無視して走りさろうとしたが、奴はすかさず僕の手を掴んだ。僕は勢いに負けて、向こうは手を離さなかったものだからお互いにすっ転ぶ。
黒髪に鳶色の瞳の吊り目に人懐っこそうな表情。セーターとジーンズ、それからリュックサックを背負っていた。見知った顔だけど、しばらくぶりで記憶の中より少し体つきが逞しく、声も低くなっていた。彼は素っ頓狂な声を上げる。

「やっぱり秋良くんだ! あ、ごめん、痛いよね?」
「人違いです」

差し出された手を無視して僕は立ち上がり、スカートについた汚れをはたいて軽く落とした。破れたりとかしなくてよかった……。

「ボクだよ、この小学校で一緒だった! あの……ほら、クラスメイトで前かとなりか後ろか斜めの席によく座ってた戸田」
「分かり辛いよ!」

そうだ、こいつはそういう奴だ。こめかみが痛むような思いがする。
今の恰好が他に吹聴されては……いや、一部を除いて噂話に興味の無い男だった。僕だとバレて、蔑まれたら……すでにバレてるらしいが平静そのものだ。
どうするか、どうしよう。

「ほら! 身長が秋良より高かった……今は低くなっちゃったけど」
「他に言いようがあるだろ! よく一緒に遊んでたとか、一緒に帰ってたとか給食の苦手なもん交換して食べ合ってたとか」

 観念して口をはさむと奴はニコニコ笑った。

「よかった、覚えてたんだ。忘れられてらどうしようって」
「それよりもさ、何か言うことあるだろ!」
「ひさしぶり!元気?」
「元気だよ! いや、そうじゃなくて今のオレの、こととか!」
「………………髪型、変わった? 伸びたよね」
「もういいよ、それで」

眉間に皺を寄せてしばらく考えて、僕を頭から爪先まで見てまた考えて、出した言葉がこれである。
セーラー服を身に纏った男の僕を前にして、特に驚きもしない。変だとも感じていない。そういう男なのだ、戸田修一郎は。苛々半分、安心半分。昔と変わってない。そんな彼の前にいると、男のくせに可愛いものが好きな自分に引け目も感じずに済んだのを思い出す。
おかしくないか、と尋ねたらキョトンとして、好きにおかしいなんて無いよと笑ってくれた。だから僕は嫌な顔する家族には内緒であれ、兎のヌイグルミやらを買うのを恐れなくなったのである。もっとも、当時はさすがに女の装いなんてしなかったが。
 彼は中学校に入る年に遠くに引っ越したので、それっきりだった。聞けば、春休みだからと生家につい先ほど帰ってきたという。高校入学の年には親の都合でもっと遠方へ引っ越すことになり、家族全員で帰ってこれる最後の長期休暇となるかもしれないと話した。

「来るなら連絡くらいよこせよ」
「びっくりさせようと思ってね、明日会いに行こうと。
サプライズってやつ?でも、秋良がここにいるもんだから、ボクの方が驚いちゃった」
「オレだって驚いたよ。なんで夜のガッコに来てんだよ」

じゃじゃーん、と自前で効果音を言いながら、修一郎はポケットから鍵を取り出した。

「学校の鍵~」
「なんで持ってんだよ」
「へっへっへっへ。ちゃんと管理してる人に話をつけて、合法的に借りたんだ。本当は、明日の昼間に行くって約束したんだけどさ。やっぱり、学校といったら夜だよね」
「いや、昼だろ。小学生なんて朝から夕方までしかいねえよ」
「いや、夜だよ。学校といったら怪談。怪談といったら、やっぱり夜でしょ?テケテケに十三階段に動く人体模型!朝日の中じゃ、出るものも出ないよ」

瞳を輝かせて、興奮した様子で一気にまくしたてると、鍵を南京錠に差し込んだ。こうなるともう止められない。
修一郎は怪談の類が好きな少年だった。休みの時間はいつも怪談やら都市伝説やらの本を読んでいて、時には僕に聞かせる日もあった。中でも学校にまつわる怪談を好んでいた覚えがある。僕はと言えば、低学年の頃は幽霊やらを信じていたので彼の話に本気で怯えていた反面、楽しんでもいた。一週間後には大概忘れていたが。
がちゃりと、鍵が開く音がする。

「秋良くんも来るよね?」

彼は口の端を上げて悪戯っぽい表情を見せた。既視感。昔、彼はよくこんな顔をしていた。僕はこの顔になんとなく弱い。修一郎と会わなくなって何年も経って僕も色々と変わったけれど、彼に弱いのは変わらなかったようで気付いたら頷いていた。
修一郎が硝子のはめ込んだ木製の引き戸に手を掛けると、立てつけが悪いらしくガッガッガと引っかかりながら少しずつ開いていく。
ここからまっすぐに伸びた廊下の先は暗く不明瞭だ。進もうとすると、修一郎に静止させられる。
なんだと修一郎を見やれば、リュックサックから懐中電灯を取り出してスイッチをオンにした。パッと局所的にだが明るくなる。

「暗い方が雰囲気出るとか言うと思ってた」

途端に修一郎はごく真面目な顔をして僕を見た。

「転んだりしたら危ないし、夜目にも限度があるからね。もしかしたらガラスとかが落ちてたり、床板が腐ってたりもするかもしれないから、秋良くんはボクが通って大丈夫だったところを歩いてね。たった三年前の建物ったって油断は禁物だよ」

意外なほどに地に足がついた忠告である。妙に手馴れているように見えるし、廃墟めぐりとかしてんじゃあるまいな……。

「こういうの初めてだからドキドキする」
「あ、初めてなんだ。何回も行ってそうに見えたのに」
「そんな怖いもの知らずでも無いよ」

修一郎は少し困ったように笑った。その様子になんだか引っ掛かりを覚えたけれど、まあ、深刻なことにはつながらないだろうって、僕は違和感をすぐに廊下の端っこに捨てた。
そして、探索が始まった。

「まずは昇降口! さっそく何かいそう! この下駄箱のうちの一つが人食いロッカーになっていそうじゃない? 近くにきた人がうっかり手をつっけめば、手をバクっと引きちぎる」
「いきなりエグすぎる」
「怪談って、命の危険がつきものだからね」

校舎は埃とワックスの剥げた木の独特の甘い匂いがした。懐中電灯の明かりが下駄箱を照らす。小さい学校だから、数もスペースも少ない。ついでに田舎の築ウン十年の木造建築なので蓋のついたロッカーじゃなくて、一人分ずつ仕切りがついただけの木の棚である。六年の場所には僕の名前のシールが貼られたままだった。近くにはもちろん修一郎の名前もある。ほんの数人で六年は終わって、他の学年も似たような具合だ。
使っていないスペースが多かった。かといって所詮は下駄箱なので使い放題とはいかないが。
教室に置いてあった方のロッカーは結構みんなで広く使っていた。体育館も音楽室も理科室も。みんな、僕らには広すぎた。中学校の入学式の日は人の多さに驚き、人口密度に慣れずにしばらく苦労した。
この小学校には、今いるのは俺と修一郎だけで、通っていたあの頃よりも少ない人数しかいない。なんだか不思議だ。
昇降口を上がって、廊下に入ってすぐある一年生の教室に入ると、これまたがらんとしていた。使う人もいないのに残された机と椅子はどこか哀れだった。ロッカーや本棚には当然何もない。
ここで修一郎ははっとして、急ぎ足で隣の音楽室へ入るなり叫んだ。

「ピアノがない!」
「楽器類を置きっぱにして腐らせちゃうのは勿体ないからなあ」

音楽室は中に詰めしこまれてた木琴鉄琴、太鼓にオルガンという思い出せる限りの楽器が全部なくなって非常にすっきりとした空間になっていた。
硝子の棚にしまわれていたものも見る限りは残っていない。

「ボクはね、ボクはね! ここにあったグランドピアノが人食いピアノだと信じていたんだよ。だから今日確かめたかったのに」
「また人食いか!」
「さっきのロッカーは即興! 今は昔からの話。あ、ベートベンさんたち残ってら」

修一郎が指差す方向を見やれば、ベートーベンにバッハといった音楽家たちの黄色く褪せた肖像がこちらを見つめていた。流石にどきりとする。
自分の今の恰好を見られているようでなんだか居心地が悪い。

「目、動いたりしてな」
「ひさしぶりの来客だから珍しがって動かしてくれるかもね」
「お前はあんまり怖がってないな……」
「そりゃあ、“動くのはありえない”という前提で動くかもしれないと考えるから怖いの。動くという前提を持って見れば恐ろしいということはない」
「祟られるとか思わないの……」
「六年間ここに通ってたけど、そんな恐ろしいものはいなかったよ」

肝が太いのやらなんやら。

「お、ピアノが置いてあった場所に日焼けの跡が残ってる」

声を上げた修一郎が懐中電灯の光を照らすと、床の色の抜けた部分と残った濃い部分がはっきり見て取れた。

「本当だ。本当にピアノ、ここにあったんだ」
「六年も通ったのに忘れたはないでしょ」
「そりゃそーだけど。様変わりしすぎてて、知ってるのに知らないみたいでさ。やっと実感が持てたというか」

修一郎は少しだけ思案して、それもそうかーと染みいるように頷いていた。
修一郎は別の教室に行くたびにおあつらえの怪談や即興で作った怪談を話し、その合間に僕との思い出話に花を開かせたりした。
 廊下にはてけてけが出るという。十二段の階段が夜に十三階段になるといったが、試しに数えたら当たり前のように十二段しかない。理科室の骨格標本は動くと言ったが、人体模型も骨格標本も無くなっていた。
体育館に図書室なんかの特別教室見て、二階に登って二年から順繰りに教室を除いて最後に六年生の教室に辿りついた。教室の机と椅子はそのまま残されていた。僕たちが最後の六年生だったから、自然、僕たちが座っていた席のままである。

「確か、オレは最後はこの席だったな」

黒板の真ん前の位置。修一郎は右隣だった。
机に触れようとしたら、思いの外低い。木目の浮き出た表面を撫でると指に埃がついた。

「今、座ったら足とかはみ出ちゃうな。昔はぴったりだったのに」
「うん。秋良くんはずいぶん大きくなったよね。ボクはあんまり変わんないけど、これからだから」
「六年の頃はお前のが背、高かったのになー」

今は普通に立ってるだけで、修一郎のつむじが目に入る。六年生の頃は、彼の方が見上げるくらいに高かった。

「だから、これからは分かんないって。秋良くんは止まって、ボクが追い抜かすかもよ?」
「どうだか」

そうなるといいな。と心の中では素直に思った。
これ以上に伸びたら、今でさえサイズの噛み合わないこのセーラー服だって着れなくなってしまう。修一郎くらいの体格だったら難なく着れるだろうか。サイズを合わせて仕立てれば着れはするのだろうけど、僕は小さいサイズを着たかった。いいや、こんなサイズがぴったりの子になりたかったのだ。
伸びるな伸びるな止まれ止まれと鏡の前で呪文のように繰り返したけど効果はない。
セーラー服だけじゃない。ふわふわりのフリルにレース、リボンだらけの人形みたいな可愛い服。僕には似合わない。未来の僕にはきっともっと似合わない。
大人になって一人暮らしをするようになったら、好きな装いをしようと決めていた。でも、朝夕に鏡を見るたびに胸の奥のほうから、諦めが黒い染みのようにじんわりと滲んでいった。
僕は、僕の着たい服が似合わない姿に成長しようとしている。本当は、小さい頃からそうだった。ただ、気付かないようにしていた。将来はもっといいようにできているって漠然と思い込んでいたのだ。
春休み前に学校の先生に髪を切れと指導された。女子だったら全然問題にならないありふれた長さだった。そんなこと言っても仕方ないし。仕方ないけど。髪を切る前に、大人に、男に、なる前にせめて憧れていたセーラー服を着て歩いてみたいと思った。そして両親が不在の今晩ここまできてしまった。

「修一郎。オレ……身長はもう伸ばしたくないんだ」

他の人に言ったら嫌味にも取られそうなことだったけど、修一郎になら言っても大丈夫な気がしていた。
椅子の埃を払って、無理矢理に座ってみる。視界はひどく低くて、以前はその高さにいたはずなのに新鮮にすら思える光景だった。足も腕も余って窮屈だ。

「伸びたくないのに伸びちゃうから、朝、起きるのも怖い。体中軋んで痛いのも嫌だ。ゴハンを食べるのも、寝るのも、身長が伸びるのにつながるって思うと全部が怖くて怖くて堪らないんだ」

怖いなあ、嫌だなあ、ともう一回呟くとそこからさきは言いあぐねて俺は口を軽く開いたままでいた。

「……こことか痛いの?」

修一郎は懐中電灯を教卓に置いて、僕の手に触れた。懐中電灯の光は通路側に向けられて、暗くなった目の前の男の表情は分かり辛い。

「もっと下、手首が痛い」

僕の指示を受けて指が緩やかに肌の上を滑り、僕の手首を撫でた。あんまりにも優しい調子なものだからこそばゆい。くすぐったいのに心が落ち着くのが不思議だった。

「身長が縮む怪談とかないの」
「テケテケとか。捕まると鋏や鎌で足を切り落としてくれる」
「歩けなくなるからやだ。というか死ぬし」
「うん、ボクも嫌だ」
「だったら伸びた方がまし! なんて言うのは癪だけど、きっと他のものだって秤にかけたら大抵はそういう結論になっちゃうんだと思う。だから、うだうだ悩むのは今日で止めにしようと決めたんだ」

身長が伸びて、生え始めた髭と体毛ももっと濃くなっていく。そんな未来に絶望して、世を儚んだりはしないくらいに僕は繊細じゃなくて情熱もなかった。
立ち上がろうとすると、修一郎が指を絡み合わせるようにして僕の手を握ってきた。

「秋良くん、ボクは怪談を本当だと信じていた」
「はあ?」
「しかし、いつからか嘘だと疑いはじめていた。だから、真実だと証明するためにカシマさんの話を聞いた時は三日間徹夜して彼女を待った。メリーさんのような展開を狙ってゴミ捨て場から人形を入手し、可愛がった後に再び捨てたこともあるし、夜には積極的に口笛を吹いた」
「……作り話と思いたいくらいの行動力だな。初めて聞いたぞ」
「うん。他人を巻き込んではいけないと思って努めて隠していたからね」
「じゃあ、なんで今日はオレを誘ったの?」
「もしかしたらボクには壊滅的に霊感が無いのではと疑い、きみなら見えるんじゃないか? という可能性の誘惑に負けてしまった。ホントにごめんね……」
「いや、うん……。いいけどさ」

オレは内心では真実だと確信していた。この男は冗談でも嘘の類を言わないし、今夜の行いを見れば疑うべくもない。

「コーヒーと栄養ドリンクを飲んで耐えた夜“足いるか”なんて尋ねる女の子は来なかったし、人形は捨てたら音沙汰なし。夜口笛を吹いても煩いと婆ちゃんにはたかれるだけだった。他の怪談や都市伝説だって似たような結果だった」
「それは残念だったな。本当だったら、今ここにいないだろうから良かったと言うべきか」
「どっちもかな……。毎回、ボクはガッカリする以上にひどく安心してたから。怪談は本当は一個だって実在していてほしくなかった。その癖、やっぱり実在してるとも信じていたくて、何回も探して試して……未練がましくて嫌だから」

修一郎はその先の言葉を手繰り寄せるように視線を迷わせる。けれど、数秒の後に決心したようにこちらをまっすぐ見据えた。つないだ手に力がこもる。

「だから、これで最後にしようと決めて今夜来たんだ」

言い切ると真面目な瞳はどこにやったのやら、いつもの調子でへにゃりと笑った。こんな呑気な面をしている癖に、彼は僕と同じく諦める為にここに来ていたのだ。
修一郎は僕とつないでた手をほどいて、教卓に置いていた懐中電灯を再び手に取った。

「本当は今回試した怪談のほとんどは、ここに通ってた頃に何度も試していた。でも、せいぜい夕方が精一杯だったから真夜中が活動時間のやつもきちんと確かめようと思って……それに、まだ一回も試せてないところがあるんだ。秋良くん、付き合ってくれる?」

僕が返事をして了承したと確認するなり、彼は安心と嬉しさの混ざった顔をした。彼に頼まれたら僕は頷かざるをえないと、彼自身は多分知らない。

「うん。で、その怪談ってなに?」
「トイレの花子さん」
「……」
「ボクが信じていたこの学校の七不思議の一つだよ! きみにだって昔、沢山話したじゃないか」

異次元につながる大鏡。曲を奏で人をおびき寄せる音楽室の人食いピアノに踏んだら死んじゃう十三階段。踊る骨格標本に家庭科室の空飛ぶ包丁……それにトイレの花子さんを加えたのがこの学校の怪談(だと当時の修一郎が信じていたもの)だったなあと僕は廊下を歩きながら思い出した。

「むしろ、なんで今まで試したことなかったんだよ。怪談でいったらメジャー級じゃん」
「女子トイレに入るなんて犯罪行為じゃないか! 流石に無理だよ」
「そんな理由で!? 変なとこで律儀だよな?」
「法律を守るのは律儀と言わない」

今はいいのかと聞けば、もう誰も使う人はいないし水道も止められているのだからトイレとしての機能は失せているので、それはもはやトイレでは無い……よって問題ないだろうとのことだった。
現在進行形で犯してる不法侵入についてツッコむのを僕が諦めてる間に、女子トイレの入口の扉を修一郎は躊躇わずに開けた。トイレは性質上大きく窓を作れないし、全部曇り窓だからか学校のどの場所よりも暗くこもった感じがする。洗面台の鏡、排水溝、入口からは確かめられない個室の中にはいかにも何かいそうである。水道は止まっているがカビの匂いが漂っている。
異次元に続くはずの大鏡は無数のひびが入っていた。十三階段は十二段で、ピアノも骨格標本も包丁も失せていた。花子さんは、どうだろう?

「で、実際に花子さんがいたらどうするのさ」
「そしたら首絞め遊びに付き合うしかない。花子さんがいたということは秋良くんが語り継いでくれ」

不安がほんの少し混じった顔だけど、本気で怯えてはいない。ホントかどうか確かめると口では言ってるが、彼はもう、花子さんなんて信じてない。あんなに怪談の好きだった奴なのに。彼よりも僕の方が本当はいるかもしれないと怯えてるし、怖がっていた。それが何故だか僕を無性に腹立たしいような寂しいような心持にさせる。

「ヤだよ。妖怪とかお化けとか抜きにしたら単なる殺害現場の目撃者だし、話す気にならない」
「一説によれば、首絞め遊びに参加したら数年は付き合う羽目になるらしいからどちらかと言えば誘拐現場に近い」
「だとしても後味の悪さは1ミリも変わんねえよ」
「じゃあ、きみが知ってるだけで我慢しよう」

修一郎は手前から三番目の個室の扉の前にするすると歩いていった。手前から三番目は古いタイプの洋式便所だから、扉は鍵をかけて無くても最初から閉まっている。
――手前から三番目の個室に三回ノック、三回名前を呼びかけ、遊びに誘う。花子さんが呼びかけに応じたらトイレに引きずり込まれる。遊びの内容は首絞め遊び。というのが俺らの学校ではポピュラーだった。
僕が追いかけて行って、手を掴むと彼は少しだけ驚いた顔をした。でもすぐに柔らかく笑い、手を握り返してくれた。
そして、一呼吸おいてから扉をノックした。



校舎の外に出ると、白い月が僕たちを迎えた。

「秋良くん、ありがとう。多分、一人じゃ踏ん切りつかなかった」

月の光に照らされた修一郎のは残念そうだったけど、晴れ晴れとした面立ちをしていた。
結局、女子トイレの個室には何もいなかった。そして、僕たちは帰りも何かに遭うこともなく悠々と昇降口から出てきたのだった。入口の南京錠に入る前と同じように鍵をかけると、修一郎は大きく伸びをした。

「ボクはやっぱり怪談が好きだなあ」
「え。どうしてそうなるんだ」
「だって、嘘と分かっていても、あの頃と同じように楽しいんだ」

そっか。
締まらないな、修一郎は照れて笑うけど、僕はなぜか泣きたい気分になっていた。
ざあっと風が吹いて、木々や雑草が音をたてて揺れる。セーラー服がふわりとはためいて、臙脂色のスカーフが眼の端に映った。夜の色を吸い込んだ深い赤は綺麗だった。
ああ、そうだ。
綺麗だと僕は思うんだ。
なりたかった姿になれなくても、関係なく思ってしまうんだ……。それって、一生そう思い続けるってことなんだろう。

「修一郎、オレ……」

疑問形にしてしまいそうになって口をつぐむ。彼に尋ねたら、きっと“いいと思う”とかそんなように言ってくれる。でも、これは僕がちゃんと決断しなきゃいけないことだ。

「オレ! 髪の毛伸ばそうと思う。今は校則とかで無理だけど、何年かしたら絶対に伸ばす」

 修一郎は特に驚いた様子もなく相槌を打ってくれた。だから、明日も明後日も、きっと十年後だって生きていけるような気がした。

「ふうん。どこまで伸ばすの、背中まで?」
「うん。できればそこまで伸ばしたい……いや、そうする」
「髪の毛といえば、確かこんな怪談があった」
「今する話題か、それ! 少しは選べよ!」
「怪談はやっぱり、その時々で身近で想像しやすいやつが一番いいんだよ」

さくさくと雑草を踏みしめる音だけが大きく聞こえる。帰りも誰にも見つからないように注意しないとなあ、いや、念のため隣の友にも口裏を合わせてもらえるように相談をすべきかと思案をしたところで、当人から声がかかった。

「ねえ、秋良くん」
「なんだよ」
「今晩はよく眠れそう?」
「お前の語らんとしてる怪談が怖くなきゃね」

僕たちは振り返ることなく、校門を出た。春の夜は心地よくて、撫でるようにして風が穏やかに吹いている。

学校がセピアに染まる夜

学校がセピアに染まる夜

中学二年の秋良は男でありながら、少女が好むような可愛らしい服に憧れていた。世間と自分の趣向のずれに苦しんでいた時、幼馴染だった戸田修一郎に再会する。怪談が好きであった修一郎に強引に誘われ、秋良は廃校になった小学校を探索する羽目になるが……。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-21

Copyrighted
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