【最終章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~

【最終章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~

■第1話 足元に転がり落ちた約束の環

 
 
 
   『ユ・・・ユズル先生が・・・

    ユズル先生の意識が・・・ 戻りました・・・。』
 
 
 
普段は落ち着き払い冷静なはずの看護師長が、声を上ずらせせわしなく瞬きを
繰り返して言った。 白衣のズボンの横をキツく握り締める、シワが刻まれた
ベテランのその手がまるで新人のそれのように震えている。
 
 
その一言に、その場にいた一同の誰ひとりとして声を出すことが出来ない。

一切の動きを止め瞬きもせず、耳に響いたそれを暫し頭の中でリフレインしている。
 
 
 
『ュ・・・ユズル!!!』 愛しい息子の名を叫び目を見張って、真っ先に院長室を
飛び出したのは母マチコだった。 焦る気持ちに足はもつれ、突進するようにドアノブに
しがみ付くとガクガクと震えるその手は思うようにドアを開けられずにいる。
 
 
シオリの小刻みに震える足が、弾かれたように大きく一歩踏み出した。

強引に掴まれていたシオリの左手首は、聴こえた衝撃的な一言に力が抜けたコウの
指先から開放され自由になっていた。 シオリは慌てて母マチコの元へ駆け寄り、
その震える肩を抱いて立ち上がらせると、ふたりで重厚なドアを飛び出して行く。
 
 
それに続くように、ソウイチロウもコウの父母も急いで院長室を出て駆けて行った。
 
 
 
 
ひとり、その場に取り残されたコウ。
廊下に響く複数の駆ける足音が、遠く、小さくなってゆく。
 
 
 
クククと、哂った。
静寂に包まれた院長室内に、不気味なほどに可笑しそうな哂い声が響きそして消えた。
 
 
足元を眇め、ゆっくりゆっくりしゃがみ込んで目映く輝く環を指先で摘む。

シオリが母マチコの元へ駆け寄る際にコウの手を振り払ったとき、ぶつかった指先に
その輝く ”約束の環 ”はコウの指を離れ、足元に転がり落ちていた。
 
 
 
 
  何か月も前に特注した、その輝く環。

  シオリの喜ぶ顔だけを思い浮かべて出来上がりを待ち侘びた、その煌めく環。
 
 
 
 
それが、今。
無惨にも足元の、日々の土足で少し汚れた毛足の長い高級なカーペットに転がり
その輝きを失っている。 

コウの不器用な想いを ”形 ”にしたはずのその目映い結晶は、シオリと大切な
”約束 ”を交わすことが出来ないままに、見向きもされずに置き去りにされた。
 
 
お姫様のように美しいシオリにピッタリなはずの、それが。
王子様のように凛々しいコウがプレゼントするに相応しい、それが。
 
 
カーペットに膝を付いてしゃがみ込み、コウは泣き出しそうに顔を歪めた。

ブルブル震える程に力を込め手の中で握り締めた婚約指輪のハートの先端は、
コウのキレイな手の平に小さな傷を付け、微かに血の色を滲ませる。
 
 
 
 『なんで・・・ なんでなんだよ・・・。』
 
 
 
胸を穿つような苦しく切ない痛みが、コウに容赦なく襲いかかっていた。
 
 
 

■第2話 発せられた名前

 
 
 
ユズルが眠る院内の特別室に、母マチコとシオリ。ソウイチロウとコウ父母が慌てて
飛び込んだ。 みな息を切らして肩を上下させ、その顔は今にも泣いてしまいそうに
不安気で心許ない。 少し遅れて、ただ一人無表情な顔を向けるコウの姿があった。
 
 
ベッドの枕元に設置された数々の医療機器が、今日もひっきりなしに耳障りな電子音を
発する。 横たわるその体に繋がれた複数の管が、まるで命綱のように機械まで伸びている。

担当医や複数の看護師がユズルを取り囲み、せわしなく各種検査をしている慌ただしい
様子に室内の空気はピンと張りつめ、まるで酸欠になりそうなくらい息苦しい。
 
 
 
あの日、車の衝突事故で体の自由を奪われ意識不明のままだったユズル。

一向に目を覚ます気配がないその姿に、みな奇跡を信じる気持ち半分、しかしどこか
奇跡なんて神様なんていないのだと諦めの気持ち半分だった。
 
 
そんな中、母マチコだけはひとり、強く信じ続けていた。

毎日毎日欠かさずに母マチコはユズルに寄り添い見守り、段々落ちてゆく筋力を
なんとかしようとするかのように腕や足をさすって刺激を与え、そして祈り続けた。
 
 
 
 
  (ダメよ、ユズル・・・

   あなたは、また医者を続けるんでしょ・・・

   こんな細い腕じゃ患者さんを看れないわ。

   ・・・早く目を覚まして・・・。)
 
 
 
必死にさするこの手の温度でどうかいつも傍にいると、ユズルに伝わるように。

決してひとりにはしないと、強く強く念を込めて。
 
 
 
今朝もユズルに寄り添っていた母マチコ。

特別室の大きな窓からは朝の爽やかな日差しがやさしい。 生成色のカーテンが
細く開けた窓から入る風に微かに揺れて、穏やかな雰囲気をつくり出す。

いつも通りの変わらない風景だった、それ。
 
 
決して目を開けることなく人口呼吸器を通して胸を上下する息子を哀しげに見つめて
これから院長室で行われる娘シオリの婚約式を思い、更に泣き出しそうに目を落とした。
 
 
 
 
  (ねぇ、ユズル・・・ 

   シオリをどうしたら助けられるか、教えて・・・。)
 
 
 
 
シオリには内密に進められていた、その婚約式。

力無くため息を落としながらも、マチコは夫に言われた通り正装をして来ていた。
エレガントなツイードジャケットを羽織り、シフォン素材のプリーツスカートは、
ふんわり揺れる繊細なシルエットだった。
 
 
ユズルの微動だにしない手をマチコは両手で包んで、自分の額に押し当てた。
息子は意識が戻らず、娘は親の決めた相手と無理やり結婚させられようとしている。
 
 
マチコは、なにも出来ない情けない自分が嫌で嫌で仕方なかった。

夫ソウイチロウに反論することも出来ない、身を挺して娘を守る勇気もない。
すがるような娘の視線からバツが悪そうに目を逸らすことで、無力で弱い自分を
ズルくいっそのこと諦めてもらおうともした。
 
 
 
 
  (ユズル・・・ ねぇ、ユズル・・・

   シオリまで不幸にしちゃう・・・ 
 
 
   あの子、全然笑わなくなっちゃったのよ・・・

   あの頃、あんなに幸せそうに笑ってたあの子が・・・
 
 
   ユズル・・・ 早く目を覚ましてシオリを助けてあげて・・・。)
 
 
 
 
 
 
 『ユズルっ!!!』
 
 
母マチコがユズルの手を強く強く握って、揺さぶる。

医療機器の電子音を呆気なくかき消すほどのマチコの叫ぶようなその声が、室内に木霊する。
一同、身を乗り出してユズルのベッド脇に詰め寄り、その顔を固唾を呑んで見守った。
 
 
うっすら開いた目。

いつもやわらかい視線を向けていたその目が、眩しそうに小さく小さく瞬きをしている。
そのすっかり頬がこけた顔は、事故の際にメガネの縁で切った傷が額にクッキリと残り
困ったハの字の眉は更に下がって心許ない。
 
 
ユズルはそっと目線を移動して、今、必死の形相で自分を覗き込んでいる母マチコを
見つめた。 そしてその後方にいる父ソウイチロウや、叔父叔母、従兄弟のコウ。

最後に、妹シオリをぼんやりと捉える。
 
 
ゆっくりゆっくり瞬きをして、ユズルはなにか言いたげに口許に力を入れる。

口に挿管していた人工呼吸器を看護師が静かにはずすと、乾燥して皮がめくれた唇が
わずかに動いた。 それはほんの少し痙攣したような、わずかな動き。
思うように動かすことが出来ない事に、事態を把握出来ず戸惑った表情を作ったつもり
でいるも、その頬の筋肉の動きは殆ど傍目には分からなかった。
 
 
言葉を発しようと、何度も何度も口許の筋肉を動かすユズル。
 
 
『ユズル・・・。』 母マチコの目から涙が溢れ出して、握り締める手に雫が落ちる。

まるで一時停止ボタンを押したかのように微動だにせず、息を呑み見守る一同。
みな、呼吸の音すら我慢するように、ユズルの衰えた喉の奥から出る第一声を待つ。
 
 
 
すると、それは時間をかけて小さく小さく発せられた。
 
 
 
 『・・・・・・・・・・・・・・シオリ。』
 
 
 

■第3話 妹

 
 
 
それは、妹シオリの幼い頃の映像。
 
 
『お兄ちゃんっ!!』 幼稚園児くらいのシオリが、まっすぐユズルに駆け寄り
抱き付く。 ユズルの腰にも届かないようなその身長で、ぎゅっと腰に巻き付く
ように手を廻ししがみ付く。 そのツヤツヤな天使の環が目映い黒髪の頭をそっと
やさしく撫でてやると、ぷっくりと丸い頬を高揚させてシオリは嬉しそうに笑った。
 
 
歳の離れた兄妹であるユズルとシオリは、こどもの頃からケンカしたことがなかった。

”ケンカにならない ”というのが実際のところだったのだが。
ユズルがシオリをからかってわざと怒らせることはあっても、温厚でのんびり屋な
ユズルが怒ったことは一度もなかった。
 
 
ユズルはシオリをとても可愛がりシオリもやさしい兄に懐き、微笑ましい仲睦まじい
兄妹だった。

幼い頃のシオリは何処へでも兄ユズルの後をついて歩きたがった。
シオリの目を盗んでこっそり友達と遊びに行こうとするも、呆気なく見つかりシャツの
背中をその小さな手でぎゅっと引っ張り阻まれた。

そして、不満気に口を尖らすシオリ。 『シオリもお兄ちゃんと一緒に行くー!!』 

ハの字困り眉のユズルを、更に更に照れくさそうな困り眉にさせたのは一度や二度
ではなかった。
 
 
 
そんなシオリはどんどん大きくなるにつれ、愛らしいぷっくり頬がスッキリしはじめ
家族の贔屓目で見たとしても世に言う ”美人 ”になってゆき、それに比例するように
ユズルと距離を置くようになった。
 
 
それは思春期特有のものだという事はユズルはちゃんと分かっていたし、いい歳して
いつまでも兄にくっ付きたがっていてはそれはそれで問題がある。 もしシオリが
どうしてもこどもの頃のように後をついて歩きたいと言うのなら、勿論それは無理に
止めはしないし、むしろユズルも悪い気はしなかったのだけれど。
 
 
 
どんどんキレイになってゆく妹の横顔を見ながら、ユズルは言う。
長いまつ毛、スっと通った鼻筋、形のよい唇。 思わずうなる程の自慢の妹。
 
 
 
 『お前さ~・・・

  ・・・カレシの一人や二人、いないのかよぉ~?』
 
 
 
からかう感じのそれが出てしまった声色に、ちょっと肩をすくめながら頬を緩めて。
シオリに怒られることは見越したうえでの、敢えての、ちょっかい掛けたいが故のその問い。

すっかり自分に懐かなくなった中学生の妹に、テーブルに片肘ついてお茶を飲みながら
当時医大生だったユズルがニヤニヤと目を細めて。
 
 
ジロリ、思い切り白けた流し目でシオリは睨んだ。

そしてツンと顎を上げて、そのツヤツヤの陶器のような滑らかな頬をぷいっと背けると
リビングテーブルの席を乱暴に立って、無言で2階の自室へ戻って行った黒髪ロングの背中。
 
 
『こどもの頃は、あんっなによく笑ってたのになぁ~・・・?』 ユズルの呟きに一部始終を
目の前で眺めていた母マチコが、両手に湯呑を掴み少し顔をしかめて言う。
 
 
 
 『やめなさいよ!あの子をからかうのは・・・ 多感な年頃なんだから。

  ”お兄ちゃんキライ ”って、今に言われちゃうわよ。』
 
 
 
そう言いながらも、マチコも愉しそうに肩をすくめクスクス笑っていた。
母マチコと同じ顔をして、ユズルも顔を綻ばせていた。
 
 
 
美しく成長するにつれ、シオリはその美麗な容姿故に周りから ”勝手なイメージ ”を
植え付けられることが多くなっていた。
 
 
 
  ”ホヅミさんって、なんか澄ましてるよね ”

  ”全然、笑わないよね ”

  ”なんかバリア張ってるみたい ”
 
 
 
美しさ故のやっかみも多少なりともあったその陰口に、増々笑顔を見せられなく
なっていったシオリ。 どう笑えばいいのか忘れてしまいそうだった。
 
 
そんなすっかり笑わなくなっていたはずのシオリが、高校2年頃からよく笑うようになった。

眩しそうに目を細めほんのり頬を赤らめて、嬉しそうに愉しそうに。
まるで羽根でも生えたかのように軽やかなその背中は、こっそり萌葱色の青りんごを
白く細い手で大切そうに包んで見つめ、幸せそうに微笑んでいる。
 
 
 
 
  ”実は・・・ 体育の授業中に、好きな子に見惚れちゃって・・・
 
 
   はじめてっ! 

   ・・・はっじめて、手ぇ振ってくれたんスよぉ~・・・
 
 
   俺。 こんな腕のヒビとか、もぉ、どーでもいいっスもんっ!!

   手ぇ振ってもらえただけで、マジでもぉ、俺。ぜんっぜんいいっス!!”
 
 
 
 
あの日、はじめて整形外科の診察室にやって来た彼がユズルの脳裏に浮かんでいた。
シオリを心から幸せそうに笑わせることが出来る只唯一の、彼が。
 
 
 
   『・・・・・・・・・・・・・・シオリ。』
 
 
 
長い長い夢を見ていたような感覚だった。

ユズルは数年の時を経て、夢から覚めてこの現実世界に戻って来た。
 
 
 

■第4話 神様へ感謝

 
 
 
意識が戻ったユズルは、連日ありとあらゆる検査を受けた。
 
 
本人はイマイチその意味が分かっていない面持ちで、まるで自分の意思などない
人形のように、ぼんやりとされるがままに身を任せている。
 
 
 
結果、分かった事がふたつ。
 
 
事故当日の記憶だけ、すっぽり抜け落ちている。

そして、事故の際に下肢の神経が損傷した。
 
 
 
 
  それは。 

  一生、車イスでの生活になるという非情な現実。
 
 
 
 
まずは家族にのみ伝えられた担当医師からのその宣告に、母マチコは口許を両手で
押さえて立ち上がると弾かれたように診察室を飛び出した。 漏れそうになる嗚咽を
必死に封じ込めようとするその指先はブルブルと震え、涙の雫が頬を止めどなく伝う。

シオリも慌てて母の壊れそうな背中を追って診察室を出て行った。
 
 
そこに残された父ソウイチロウとコウ父母。

至極冷静に、父ソウイチロウがまっすぐ担当医師を見つめ訊ねる。 
冷静に冷静に、感情を抑えて。 ひとつ深く呼吸をして、ゆっくりと。

しかし、喉の奥から出たその声は小さく小さく震えて響いた。
 
 
 
 『もう・・・ どうにも、ならないのか・・・?』
 
 
 
ユズルの脚がどうにもならないのは、長年医師を務めるソウイチロウが分からない
はずはなかった。 そんな症例は腐る程見てきた、痛いほど分かっていた。 

しかし、そんなソウイチロウでも愛する息子の事となると、目には見えないもの、
科学で証明出来ないものにすがりたくなる。 ”神 ”や ”奇跡 ”を信じたくなる。

夢であってくれればと顔をしかめて目を閉じ、その威厳ある堂々と反っているはずの
大きな背中を、まるで哀しみが明けることない有明月のように弱々しく丸め縮めて
無意識のうちに祈るように両手を組んでこうべを垂れた。

重くじわじわと滲むような痛みを伴った深い深い溜息が、ソウイチロウの胸を震わせていた。
 
 
 
 
『お母さん・・・。』 病院廊下の長椅子に倒れるように座りこんだマチコの隣に
シオリが腰掛け、涙ぐむ目を向けて母の肩を抱く。

今日も外来患者や見舞客で騒々しいその廊下。 ひっきりなしに足早に通り過ぎる
看護師が院長夫人のマチコの泣き暮れる姿に、哀しげに小さく目線だけで会釈する。

小さなこどもが注射の恐怖に泣き叫んでいるのがサイレンのように遠く聞こえる。
 
 
マチコは両手で顔を覆って、すっかりやつれた細い肩を震わせている。
カールが掛かった髪の毛先が、哀しいすすり泣きに合わせて小刻みに揺れる。
 
 
 
 『分かってるの・・・

  命が助かっただけ、意識が戻っただけ充分有難いって・・・

  充分だって分かってるの・・・

  神様に感謝しなきゃいけないって、分かってるのよ・・・
 
  
  でも・・・ まだ、ユズル・・・ 

  あんなに・・・ まだ、あんなに若いのに・・・。』
 
 
 
シオリはその震える喉からはなにも言葉が出てこなかった。 まるで握り締められ
破裂寸前の風船のように、ギリギリで留まる心臓が痛いくらいに悲鳴を上げる。

遣り切れない思いに、母マチコの肩を抱く手にぎゅっと力がこもる。
 
 
どんな言葉を掛ければ、母マチコの心が癒されるのか。

どんな顔をして、もう一生自らの脚で立ちあがる事が出来ない兄ユズルの顔を
見ればいいのか。
 
 
 
 『神様に・・・ 感、  謝・・・・・・・・・・?』
 
 
 
シオリは小さく呟き、足元をじっと見つめていた。
几帳面なはずの母マチコのパンプスが、汚れが滲み疲れ果てたようにくたびれている。
 
 
神様なんて本当にいるのだろうか。

もし仮にいるのだとしたら、ユズルのような善人をこんな惨い事故に合わせたり
しないはずではないのか。 それは、守る側の存在なのではないのか。
何故、ユズルなのだ。 何故、ユズルでなければいけなかったのか。
もっと痛い目に合うべき人間はいるのではないのか。 
 
 
あの日の事故で、ユズルは一生車イス生活になった。
ユズルを思い、母マチコは壊れてしまいそうに泣き続けている。
病院を守ってゆく為に、シオリは最愛の人と別れを余儀なくされた。
 
 
いっぺんに色んな人の顔から笑顔を奪っておいて、なにが神様だ。
そんな無慈悲な存在を、どう敬い崇めればいいというのだ。
 
 
 
 『なにが・・・ なにが、神様よ・・・・・・・・。』
 
 
 
シオリの涙で滲む目に、怒りと憎しみが揺らいでいた。
握り締めた拳が、ブルブルと震え鬱血するように真っ赤になっていた。
 
 
 
 
 
その時、コウは特別室のベッドに横たわったままのユズルの元にいた。

ゆっくりゆっくり瞬きをして、ぼんやりとまだ夢の中のように然程反応しないユズル。
コウはそんな呆けた従兄弟の姿を目に、静かに口を開く。
 
 
 
 『ユズル君・・・ 大変な目に遭ったね・・・。』
 
 
 
その声色には感情の色がまるで無かった。 哀しみも寂しさも、同情すらも無い。

ユズルはまっすぐ天井を見たまま。
ただ規則的に目を閉じ、そして開く。 それをゆっくり機械的に繰り返している。
 
 
 
 『ユズル君が眠ってる間に、色んな事があったんだよ・・・

  でも、ユズル君が目覚めてくれて、良かったよ・・・
 
 
  ・・・神様に・・・ 感謝、しなきゃね・・・。』
 
 
 
コウが静かに頬に笑みをたたえて、目を細める。
その声色は繕ったようにやわらかく響いたが、その目の奥の真意ははかれない。
 
 
 
無音の室内。
痛いほどの静寂を破り、それは小さく小さく響いた。
 
 
 
 『目覚めても ”その状態 ”なら、

  やっぱり、シオリは・・・・・・ 俺と・・・・・・・・・。』
 
 
 
その一言に、ユズルの視線がほんの微かに動いた。
 
 
 

■第5話 聖なる人を崇めるように

 
 
 
そして数か月経ち、ユズルは電動車イスでの生活がはじまっていた。
 
 
暫く入院生活は続きまだまだ自宅に戻れる状態ではなかったが、少しずつリハビリを
して上半身は可動範囲が広がり、一時期やつれてこけた頬も固形食のお陰か少しだけ
ふっくらした。

下肢は当然動く気配はなく、それを隠すように車イスに座る時には常にひざ掛けで
足元を覆っていた。
 
 
しかし、ユズルはあまり自分の病室に留まらず、電動のスイッチレバーを右へ左へと
動かし院内をウロウロと動き回った。
やわらかく微笑んで、廊下に、病室に、待合室にいる人びとに声を掛けている。
 
 
その兄の姿にシオリも廊下ですれ違うと、嬉しそうに目を細め見つめて声を掛ける。
 
 
 
 『お兄ちゃん、どう・・・? 調子いい・・・??』
 
 
 『上々だよ。 なんなら立ち上がってダッシュ出来そうなくらいだ。』 
 
 
 
その口からは軽く冗談まで飛び出した。 口角を上げて上機嫌な面持ちで。
その兄妹の会話に、近くにいた看護師たちもどこか安心したような顔を向けクククと笑った。 
 
 
 
ユズルの姿をその目に捉えた長期入院患者もその名を呼びかけた。

ユズルの事故を知っているその人達は、ユズルの復活に嬉しそうに涙を堪えながら
まるで聖なる人を崇めるように、穏やかに微笑んでいる車イスの下半身不随のその肩に
腕に、しわがれた手を伸ばして触れてきた。
 
 
 
 『ユズル先生!!』 
 
 
 『無事で良かった!!』 
 
 
 『先生の幸運貰わなきゃ!!』
 
 
 
その度に、ユズルは頬に笑みをたたえ、やわらかくにこやかに微笑み返した。

自分に断りもなく触れてくる数々のその手を両手でやさしく包み、ぽんぽんと軽く
諭すように叩いて握り締める。
 
 
そしてユズルはいつも、こう言う。
 
 
 
 『僕は神様に感謝しているんですよ・・・

  こんな体になっても、まだ、生かされている事に・・・
 
 
  僕は、とてもツイてる。

  すべてのものに感謝して、日々生きていかなきゃ・・・。』
 
 
 
目を細めて眩しそうに、どこか遠くを見るでもなく見つめて。
車イス姿のユズルのその言葉に、一同、涙を堪えて感動している様子だった。
 
 
 
 『ユズル先生・・・ がんばってね!!』
 
 
 『応援してるからね!!』
 
 
 『ユズル先生なら、きっと大丈夫ですよ!!』
 
 
 
微笑みながら頷くと、まるで信者のような患者たちに軽く手を挙げてユズルは
車イスのレバーを動かし病院の騒がしい廊下を再びのんびり走り去った。

電動のタイヤが回転する音が小さく響くと、それを優先して通そうとするかのように
廊下の端にみなが避けてゆく。 ユズルは端に立ち自分を見つめる人波に穏やかな
顔を向けながら、ゆっくりゆっくり院内を進んだ。
 
 
その下半身不随の少し細くなった背中を見守る、涙で滲んだ複数の目線。
 
 
 
みなに背を向けたユズルの頬は上手に微笑みを作っていたが、メガネの奥の目は
白けて冷えきり、全く笑ってなどいなかった。
 
 
 

■第6話 母の杞憂

 
 
 
 『ねぇ、シオリ・・・。』
 
 
夜遅くに病院から自宅に戻ったシオリの玄関ドアを開閉する音に、母マチコがそれを
待ち侘びていたかのように、パタパタと駆け寄って出迎えた。
 
 
淡い色のパジャマ姿でシンプルなカーディガンを肩に羽織り、まるでこどもの様な
どこか不安気な表情を向けるマチコにシオリは、『どうしたの? なんかあった?』
玄関の上り框で靴を脱ぎながらそっと母を覗き込む。 
 
 
きっと兄ユズルのことだろうとは思ったシオリだったが、ここ最近のユズルは安定
していて院内でも以前と同様の周りの人間からの慕われる様子に、不安に思うこと
など無い気がしていたのだが。
 
 
リビングテーブルにつき、シオリは付けっ放しになっているテレビに目を向ける。

やたらと大袈裟な笑い声が流れる深夜の時間帯のバラエティ番組に、小さくしかめ面を
向けてシオリはリモコンで電源をオフにした。 途端に静寂に包まれる室内。

キッチンから味噌汁がガスの火に温まってゆく音が、わずかに聴こえる。
マチコはシオリの夕飯を温めつつ、リビングで熱いお茶を淹れながら目を落とした。
 
 
 
 『なんか・・・ ユズル、変だと思わない・・・?』
 
 
 
『変、って・・・?』 シオリにはマチコの言う意味が全く分からなかった。

ユズルは毎日積極的にリハビリを受けながら、色んな患者の元へ出向き声を掛け
笑わせ励まし、常にその頬には笑みをたたえて、まるで以前のユズルとなにも
変わらない雰囲気を醸し出していたのだ。
 
 
一時 ”イケメン外科医がいる ”というコウの黄色い噂で持ち切りだった病院が、
今は ”奇跡の復活を遂げた整形外科医がいる ”と、まだ医師に復帰もしていないと
いうのに病院内外ではユズルの評判で溢れていた。
 
 
『ユズル・・・ 無理してるんじゃないかしら・・・。』 マチコの思い詰めた
ようなか細いその一言が、静まり返ったリビングに小さく落ちる。

勿論、一生車イスでの生活という惨い現実をそんな簡単には受け入れられるとは
思えないが、それでも ”ユズル ”という人となりを一番近くで見てきた妹の
シオリはその姿を ”兄らしい ”という思いで見守っていた。

ユズルなりに、前向きに懸命に現実を受け止めようとしているのだと。
 
 
 
 『お兄ちゃんって、ああゆう人じゃない・・・?

  いっつもにこにこして、穏やかで、誰にでも親切で・・・

  きっと、ああやって前を向いて微笑んでいたいんだよ。
 
 
  だから、見守ってればいいんじゃない?私たち家族は・・・。』
 
 
 
シオリのやさしい声色。

押しつけがましさはまるで無いあたたかくてやわらかい娘の声に、まっすぐ育って
くれたことを有難く感じ胸がじんと熱くなる。

しかし、マチコはやはりどうしてもユズルが心配で仕方なかった。 納得したような
しないような顔で小さく頷いた。 
それと同時に、やはりどこか納得しきれない溜息が零れていた。
 
 
 
 
ユズルは各病室をまわり、微笑みながら患者に話し掛ける。

時に長い時間かけて愚痴を聞き、時に見舞う身内がない寂しい患者に寄り添って。
他人の話を親身になって聞いても、決して自分の感情はその表情には表さなかった。
 
 
 
 
  泣き言ひとつ言わない。

  負の感情は決して出さない。
 
 
 
 
ある日、ユズルの様子を毎日見舞う母マチコが、その異様にも感じる穏やか過ぎる
背中に思い切って訊いてみた。
 
 
 
 『ユズル・・・? 

  あなた、ムリしてるんじゃない・・・? ダイジョウブ・・・?』
 
 
 
泣き出しそうに哀しい目をしてまっすぐ見つめる母に、ユズルはやさしく笑う。

電動車イスのレバーを動かし、おもちゃで遊ぶこどもの様にちょこまかと前に後ろに
イスでわざとせわしなく動き回りながら、眩しそうに目を細めて。
 
 
 
 『ダイジョウブだよ、母さん。

  僕は ”奇跡の人 ”だからね・・・
 
 
  ・・・神様に感謝してるんだから・・・。』
 
 
 
 
 
その日の帰り際、シオリがユズルの病室を訪ねた。

小さく2回ノックして引き戸を開けると、窓辺でじっと外の景色を見つめている
ユズルの背中が目に入る。

『お兄ちゃ~ん?』 声を掛けるも、ドアが開閉された音にもシオリの呼ぶ声にも
ユズルは振り返らない。 聴こえていないはずはないのだけれど。
 
 
 
 『ねぇ、お兄ちゃん・・・?
 
 
  明日にでもさ、駅前のシュークリーム買って来てあげるねっ!

  ・・・お兄ちゃん、あそこの好きだったでしょ?』
 
 
 
すると、ユズルはゆっくりゆっくり振り返った。
そして嬉しそうにその頬を緩めて口角を上げる。 『ありがとう・・・ 嬉しいよ。』 
 
 
少し雑談をして笑い合い手を振って病室を出て行った妹の背中を、ユズルはじっと
見ていた。 日々の激務で疲れきった細い体で、毎日毎日ユズルを気遣う妹シオリ。

ユズルは奥歯を強く噛み締め、その頬は緊張して強張っている。
 
 
 
どうしようもなくイライラする気持ちが、その口許に顕著に表れていた。
 
 
 

■第7話 視線を移動した薬指に

 
 
 
シオリは勤務が休みのその日、兄ユズルにシュークリームを買うために駅前に来ていた。
 
 
ユズルがお気に入りのその店は、もうだいぶ長いこと駅前に店を構えている老舗の
ケーキ屋でこどもの頃から通い続けていた。 

カリカリサクサクのシュー生地にシンプルなカスタードクリームが入った、ごく普通の
シュークリームなはずなのだが、なにかというとその店でそれを買っていたユズル。
 
 
少しでもユズルを喜ばせたくて、シオリは夜勤明けの気怠い体を無理やり叩き起こし
平日の空いている駅前の通りを歩いていた。

午前の昼時には少し早いそこは、年配の女性が数人で歩く姿やこれから大学に行く
であろう学生らしき姿がチラホラと見て取れるだけだった。
 
 
 
ふと、駅前メイン通りの横断歩道に目を向けたシオリ。

思わず立ち止まり、車道を挟んだ向かいの通りを切なげにまっすぐ見つめる。
 
 
 
高校生のショウタとシオリが、クリスマスイブに待合せをしたあの夜を思い出す。

道路向かいのショウタが、シオリに向けて大きく千切れんばかりに手を振り、
ぴょこぴょこ飛び上がって微笑む姿。
人生の中で一番幸せを感じたあの夜から、一転、まるで急な坂を転がり落ちるように
ふたりは傷付き、傷つけ、離れざるを得なくなった。
 
 
ショウタの、バカみたいに呑気に朗らかに笑う顔が浮かぶ。
いつも、今でも、想い続ける只一人のその笑顔が。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・ 元気にしてるのかな・・・。)
 
 
 
 
逢いたくて堪らない気持ちが胸に迫り上げ、思わず俯いて目を閉じた。
 
 
 
 
 
すると、
 
 
 
 『ホヅミさん・・・?』 
 
 
 
背中から掛けられた声にシオリが驚いて振り返ると、そこにはマヒロが立っていた。

高校時代より髪が伸びていて、あの頃は少しキツい印象だったそのシャープな顔立ちが
どこか穏やかな女性らしいものになっている。
 
 
『セリザワさん・・・。』 シオリは小さくその人の名を呟くも、本当はあまり
会いたい人ではないマヒロから、どこか居場所無げにすぐさま目を逸らした。
 
 
なんとなく軽く当たり障りない会話を交わすふたり。
居心地の悪い空気が互いに纏わりつき息苦しいほどだった。
 
 
シオリを観察するように、視線を上に下にと見つめるマヒロ。

当時、背中でたゆたっていた長い黒髪は顎のラインまで短く切り、凛とした空気を
醸し出して美しさに磨きがかかっている。 同性のマヒロから見ても思わず目を惹く
その姿に、高校時代ショウタが嬉しそうに目を細めてシオリをうっとり見つめていた
光景を思い出していた。 込み上げるモヤモヤしたものに、心は不機嫌に尖ってゆく。
 
 
決して自分を見ようとしないシオリのその様子に、マヒロはなんだか苛立っていた。
マヒロだってシオリと仲睦まじく雑談を続けようなんて思っていなかった。
 
 
思ってなどいなかったの、だが・・・
 
 
 
ふと頭をかすめた ”それ ”を、どうしても確かめたい衝動にかられる。
確かめてどうするのか、どうしたいのかなんて分からないけれど、確かめずには
いられなかった。
 
 
そして、シオリの表情を盗み見るかのように、小さく小さく呟いてみた。
 
 
 
 『 ”ショウタ ”も、元気に八百屋やってるよ・・・。』
 
 
 
敢えて、”ショウタ ”と呼び捨てにしたマヒロ。

その固有名詞にどう化学反応が起きるのかを確かめたくて、今となっては呼び慣れない
下の名前をさり気なく口に出した。
 
 
すると、その真っ白い美しい頬が強張ったのがマヒロの目に留まった。
目を眇めシオリの緊張する横顔を睨むように見つめる。
 
 
そして、急に思い出したかのように慌ててシオリの左手の薬指に視線を移動する。
 
 
 
 
  (無い・・・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
そこには、婚約指輪も結婚指輪もなかった。
光輝く環は見当たらない。

ショウタとシオリを完全に引き離してくれるはずの、それが。
 
 
 
 
  (なんで・・・ なんで、まだ指輪してないのよ・・・。)
 
 
 
 
マヒロの胸を突き上げる焦燥感は、吐き気をもよおすくらいにモヤモヤと溢れだす。

体の横できつくきつく握り締めた拳。
イライラする気持ちが抑え切れず、呼吸は自然と荒くなり肩が上下する。
 
 
 
いまだシオリを想い続けるショウタの情けないしょぼくれた顔を思い出していた。
 
 
 

■第8話 呼び捨てにする下の名前

 
 
 
マヒロは駅前でシオリと別れた後、商店街に向かっていた。
 
 
苛立つような切迫感は、マヒロの本革スウェード素材の履き心地が良いはずの
お気に入りスニーカーをも、引き摺るようにその足取りを重く鈍くする。
 
 
”ショウタ ”とマヒロが口にした時の、シオリのあの顔。
 
 
 
 
  (まだ・・・ ホヅミさんもアイツのこと・・・。)
 
 
 
 
思わず立ち止まって、うな垂れる。

ショウタがいまだにシオリを忘れていないことなど、マヒロが気が付かないはずは
なかった。 じりじりと胸に込み上げる苦いものに、ひとりかぶりを振りぎゅっと
目をつぶる。 物理的に距離が出来れば、当然にショウタとシオリの想いなど呆気
なく時間と共にフェイドアウトし薄れゆくと思っていたのに、いまだに互いに想い
合う様子に、マヒロは夕暮れの迷子のこどもの様に哀しげに目を落とす。
 
 
 
 
  (ゼッタイ、渡さない・・・。)
 
 
 
 
すると、邪念を振り払うかのように突然駆け出したマヒロ。 唇を噛み締めて目を
眇めてそのデニムの細い足は、諦めの悪い情けない男へ向けてアスファルトを
蹴っていた。
 
 
 
 
『おばちゃ~ん、こんにちはっ!!』 慌てて駆け込んで来たマヒロが八百安の
店奥で段ボールを整理していたショウタ母ミヨコにどこか物寂しげな笑顔を向け
声を掛けた。 ダッシュで走ったため乱れた呼吸を整えながら手をひらひらと振って。
 
 
 
 『あら!マヒロちゃん、いらっしゃい。』
 
 
 
肉付きのいい頬を上機嫌に上げて、まるでこどもの様に元気に走ってやって来た
マヒロにミヨコは笑う。
 
 
 
 『部屋にいるから、あがりな。』
 
 
 
そう言って、自室2階のショウタの部屋を顎で指した。
 
 
マヒロはここ最近よくヤスムラ家に出入りしていた。

中学からの同級生でその当時からよく遊びに来ていたマヒロは、”ショウタ ”
”マヒロ ”と下の名前で呼び捨てにするくらい仲良かったのだが、高校に入学して
すぐの事、マヒロがどこか不機嫌そうに 『恥ずかしいから苗字呼びにしよう』 と
言い出しショウタもそれに特に反論もなく、今となってはすっかり苗字呼びで慣れて
いたのだが。
 
 
入り慣れた感じでヤスムラ家の裏玄関を通り、狭い三和土で靴を脱いで2階のショウタの
部屋へ向けて階段を静かに上がる。
 
 
『ショウター・・・?』 一声かけてドアを開けると、途端にマヒロの目に入った
着替え真っ最中のショウタの裸の上半身。 日々の八百屋の仕事にその日焼けした
背中はキレイに筋肉がつき男らしくて、思わず照れくさそうに咄嗟に目を逸らした。
 
 
 
 『おぉ、セリザワ・・・。』
 
 
 
上半身裸の姿をマヒロに見られたところで別段なんとも思わないショウタ。

真っ白なTシャツを乱雑に着込んでその上にパーカーを羽織ると、ジーンズの腰に
藍色の前掛けを当てがう。 そして、腰に前掛けの紐を巻き付け縛りながらマヒロに
目を向けた。
 
 
 
 『つか、なんで今更ナマエ呼び??』
 
 
 
”ショウタ ”と呼ばれたことに首を傾げる。
ここ何年も ”ヤスムラ ”と苗字で呼ばれていたので、なんだか違和感があった。
 
 
すると、マヒロはどこか言い訳めいた感じで早口で言う。
 
 
 
 『だって、ほら!

  中学ん時はフツーに下の名前で呼んでたじゃん?

  やっぱそっちの方がしっくりくる、ってゆーかさ・・・。』
 
 
 
矢継ぎ早にどこか赤い顔をして必死なマヒロに、ショウタはボリボリとジーンズの
尻を掻きながら気怠そうに、『お前が苗字で呼べって言ったんじゃん?』 

更に突っ込む割りには然程気にもしていないショウタ。 正直言って、名前でも
苗字でもどっちでも良かった。
 
 
 
 『やっぱさ・・・ 昔みたいに下の名前でいこうよ!』 
 
 
 
なんだか慌ててまくし立てるマヒロに、ショウタは更に尻をぽりぽり掻きながら、
どうでも良さそうに、『んぁ~?』 と空返事した。
 
 
 
今日は仕事が休みだったマヒロ。

シフト勤務のため平日が休みになることが多く、学生時代の土日祝日休みの友達とは
中々予定を合わせる事が難しかった。
ショウタは店があり勿論マヒロに構っている暇はなかったが、それを知っての上で
マヒロは八百安を訪ねてきていた。
 
 
『暇だから、あたしも店番しよっかな・・・。』 ショウタの横顔を盗み見ながら
ぽつり呟くと、ショウタは少し呆れた感じで目線を流し笑う。
 
 
 
 『お前、せっかくの休みなのにドコも行くとこねーのかよ!』
 
 
 
休みだからこそ ”ココ ”に来たという事に気付かない鈍感なショウタに、不満気に
口を尖らせながらも、マヒロはそんな相変わらずの大きな背中が愛しかった。
 
 
あの頃と変わらずにショウタを想っているマヒロが、決して振り返らない鈍感な
背中を切なげにそっと見つめていた。
 
 
 

■第9話 しょうもない嘘

 
 
 
午前の殆ど客もこない八百安に、ショウタとマヒロの姿。
 
 
母ミヨコは『マヒロちゃんがいるなら丁度いいわ!』 と、自宅奥に引っ込み
帳簿付けをしているようだった。
 
 
ショウタはすっかり馴染んだ前掛け姿で野菜を並べたり、段ボールをつぶしたり、
午後に訪れる繁忙期に向けての準備をのんびりと始めている。

ショウタが小さくうたう鼻歌が音痴で音程がズレていて、中学の音楽の歌唱テストで
クラス中を爆笑させた思い出が瞬時に浮かび、マヒロは肩を震わせて小さく笑う。

黄色いビールケースを逆さにした腰掛けに座り、背中を丸めてぼんやりとショウタの
その姿を眺めていた。 中学の時は今より10センチは背が低かったその姿が今現在
どんどん男っぽくなっていき、マヒロの胸を切なく熱く焦がす。
 
 
 
ふと、店の壁にかかる古い時計に目を止めたマヒロ。
もうすぐ昼になる。
 
 
 
 『ねぇ、ショウター・・・

  ・・・昼ごはんってどうすんの?』
 
 
 
パーカーの袖を腕まくりした、日に焼けたたくましい腕で段ボールを束ねていた
ショウタが目を上げマヒロに視線を向ける。 
 
 
 
 『ん~・・・? 別に。家で、テキトーに。』
 
 
 『ねぇ、あたしさ。

  駅前のマックでも行って、買って来ようか~?』 
 
 
 
マヒロが口に出した固有名詞に、ショウタが一瞬固まった。

その横顔を見逃さなかったマヒロ。 『ん~?』 イエスかノーかの返事がない
ショウタを不思議そうに覗き込むようにじっと見つめる。
 
 
 
 『いや・・・ マックは、いいや。 やめとく・・・。』
 
 
 
『え??嫌いだったっけ? 昔はよく食べたじゃん?』 中学時代、学校帰りに
なけなしのお小遣いで100円バーガーを買って、互いにそれを頬張りながら
夕暮れの帰り道を歩いた記憶が甦っていた。

マヒロが突っ込むも、その顔は不思議と俯いたまま首を横に振って頑なに拒絶を
し続ける。 物寂しげな憂う表情で目を落とし、マヒロを決して見ようとしない。
 
 
その表情に、なにかを察したマヒロ。
 
 
 
 
  (なによ・・・ また、ホヅミさん絡み・・・?)
 
 
 
 
たかがマックひとつでこんなにも意固地になっているショウタの姿にイライラが
爆発した。 同時に先程のシオリの強張った横顔が頭をかすめ、マヒロは思わず
怒鳴るように声を荒げた。
 
 
 
 『さっき駅前でさ、ホヅミさんに会ったよ・・・
 
 
  薬指に、すっっっごいキレイな指輪してた。

  すっっっごい高そうな、大っきいダイヤ付いた指輪・・・
 
 
  髪の毛も切って、増々キレイになって・・・

  きっと、今、すごい幸せなんだろうなって思ったよ。
 
 
  お医者さんと結婚して、きっと、”今 ”が一番幸せなんだよ!!』
 
 
 
耳に響いたそれに、目を見張りショウタはまっすぐマヒロを見ている。

しかしその目はマヒロを通り越し、どこか別のなにかを見つめていた。
そこにはいない誰かを、遠く。
 
 
そして咄嗟に俯いたショウタ。 頬がどんどん赤く染まってゆく。
ぎゅっとつぐむ口許の横の筋肉が緊張して強張っている。
明らかに動揺しているその横顔。
 
 
マヒロはそんなショウタを見つめながら、涙を堪えていた。
 
 
 
 
  しょうもない嘘をついた。

  ショウタを傷つけるのを分かっていて、それでも嘘を。

  嘘をついたところで、ショウタの気持ちが自分に向くわけではないのを

  分かっていて、それでも尚。 
 
 
 
泣き出しそうなしかめ面をして、マヒロが立ち竦んでいた。
 
 
 

■第10話 憂う横顔

 
 
 
店先に立ちながらも、心此処に在らずといった面持ちの一日だったショウタ。
 
 
マヒロから聞かされた ”シオリの現状 ”が頭から離れず、無意識のうちに
ただただその口からは深い溜息が落ちるのみだった。
 
 
 
 
  (もういい加減、諦めなきゃ・・・

   ホヅミさんが幸せなら、それで・・・ それでいい・・・。)
 
 
 
 
ショウタを傷つけたことに傷付いたマヒロもまた、店先で俯きその不器用で
正直すぎる背中に小さく視線を向けていた。
 
 
その夜は、母ミヨコに誘われてヤスムラ家で夕飯をご馳走になったマヒロ。

正直気は進まなかったのだが、それでもショウタの傍にいたいという気持ちが
勝って狭い居間のこたつテーブルにヤスムラ一家と共に顔を並べた。
 
 
食後にはミヨコと並んで台所に立ち、食器洗いを手伝っていた。
 
 
 
 『ねぇ、おばちゃん・・・ 

  ・・・ショウタってさ・・・。』
 
 
 
シオリのことを言い掛けて止め、マヒロは口をつぐんだ。

お皿の水気を布巾で拭きながら、何か考え込むようにその手はピタリと止まる。
寂しそうに肩を落とし目を伏せるその横顔を、ミヨコはチラっと横目で見つめ
哀しげに微笑みかける。

息子ショウタがいまだにシオリのことを想っている事に気付いていたミヨコ。
そして、マヒロがショウタに想いを寄せてくれている事も切ない程感じていた。
 
 
 
 『・・・ありがとね、マヒロちゃん・・・。』
 
 
 
そう小さく呟いてマヒロの手から布巾と皿を受け取った。
ミヨコをじっと見つめるマヒロの切れ長の目が、ほんの少し滲んで揺らいだ。
 
 
 
 
マヒロは2階のショウタの自室へ向かう。

夕食後さっさとひとりで自分の部屋へ戻ってゆくショウタの背中を、マヒロは
じっと見つめていた。 
マヒロが一緒に食卓についている事にも気付いていなかった様な憂うその横顔。
 
 
階段を静かに上がりドア前で立ち止まると、呼び掛ける。『ショーター・・・』
 
 
その声に、『・・・ん。』
ショウタの手によりドアが開けられ、”入れば? ”という無言の視線が投げられる。

ベッドに横になってマンガを読んでいたようだ。 読んだ箇所で開きっ放しに
なって布団の上に置かれた週刊マンガ。 部屋着に着替えたその姿はくたくたの
スウェットを履きヨレヨレのTシャツを着て、飾る様子など全く見当たらない。
 
 
 
 『アンタさー・・・

  ”女性 ”がいるんだから、少しはマシな格好したら~?』
 
 
 
マヒロが自分を指さし ”女性 ”と、再度強調する。
 
 
 
 『なにが ”女性 ”だ。 ただのセリザワだろーが。』
 
 
 
ベッドに浅く腰掛け、再びマンガ本を開いて目を落とすショウタ。
マヒロを異性として意識などしていないことは火を見るよりも明らかな様子。

そして、分かり易く全くマンガに集中など出来ていないその横顔。 その証拠に
ページは一向に次に進もうとはしない。 ただただ虚ろな目で視線を落として
いるだけだった。
 
 
部屋の沓摺で留まっていたマヒロが少しムっとしてツカツカと部屋内に進む。
 
 
 
 
  (またホヅミさんのこと、考えてるんだ・・・。)
 
 
 
 
そして、人ひとり分の間隔を空けてショウタの隣に座る。
腰掛けたふたり分の重みでベッドが少し沈んで、軋む音が小さく部屋に響いた。
 
 
それでもショウタはそんなマヒロを気にもせず、そのページの端をゴツゴツした
指先で掴んだまま、それをめくる気配もない。

その時、マヒロの耳にショウタの哀しげな小さな小さな溜息が聴こえた。
 
 
 
 『・・・・・・。』
 
 
 
イライラした面持ちで、マヒロがショウタの手からマンガ本を取り上げた。
突然視界から消えたそれに、ショウタはパチパチと瞬きを繰り返し驚いた声色で言う。
 
 
 
 『な、なんだよ?』
 
 
 
すると、ぎゅっと口をつぐんだマヒロがショウタを鋭く睨む。
その目は、怒っているようで、哀しんでいるようで、駄々を捏ねるこどもの様で。
 
 
 
 
  (バカっ!!!!!)
 
 
 
 
マヒロは両手を伸ばし思い切り力を込め、ショウタのたくましい肩を叩き付ける
ように乱暴に後方に押した。
 
 
ショウタは、そのままベッドに押し倒され仰向けにされた。
 
 
 

■第11話 飛んだ理性

 
 
 
『な・・・』 ”なんだよ? ”と言い掛けたショウタの唇が、覆いかぶさってきた
マヒロのやわらかい唇に甘く塞がれ遮られた。 
 
 
口許には熱い息がかかり、はむように唇をついばまれショウタは目を見張って固まる。 

突然の衝撃に今現在なにが起こっているのか全く頭が追い付かない。 一瞬されるが
ままにマヒロの甘美な唇に陶酔しかけて、慌ててその細い体を引き離そうとするも
ショウタの背中に首にしっかり廻したその細い腕は、離れることを拒み続け離そうと
すればするほど更に更に力を込めしがみ付く。
 
 
『ちょ!!!』 なんとか唇を離し、困り果てた情けない顔でマヒロを見たショウタ。

不意の出来事に頭はショート寸前。 熱を帯びた心臓が超特急でバクバクと高鳴る。
思わずベッド脇の壁までズリズリと尻を擦って後退り、真っ赤な顔をして高速の瞬きを
繰り返す。
 
 
マヒロもまた泣きそうな真っ赤な顔を向けて、濡れた唇をぎゅっと物哀しげにつぐんだ。

そして、まっすぐショウタを潤んだ目で見眇めたまま、ベッドの布団の上を膝立ちで
ジリジリと進み、壁に背を預けそれ以上逃げられないショウタへ再び強く抱き付いた。
マヒロの細い体に、ショウタの広い胸から打つ高速の鼓動がいとも簡単に伝わる。
 
 
そして、小さく小さく震えながら呟いた。
 
 
 
 『・・・・・・・・・・あたしは、いいよ・・・。』
 
 
 
”ホヅミさんの代わりでも ”と言い掛けて、その部分はどうしても言えなかった。
 
 
 
 
  代わりで良い訳ない。

  良い訳なんかない。
 
 
 
 
でも、それでもどうしても、ショウタを独り占めにしたかった。

好きで好きでどうしようなく好きで仕方がない。
こんなに好きなのに、ショウタは決して自分を見てはくれない。
今ショウタの一番近くにいるのは、シオリではなく自分なのに。

どんどんマヒロの瞳に込み上げ溢れる涙。 ぎゅっと抱き付き顔をうずめられた
ショウタの首筋に雫の冷えた感覚を感じる。
 
 
 
 『アンタが・・・ 好きなんだってばぁ・・・。』
  
 
 
最初小さく震えていたマヒロの体は、次第にしゃくり上げ、遂に声を殺して泣きじゃくった。

愛しく想う人への届かない想いは、誰よりも痛いほどショウタには分かる。
小さなマヒロの体から伝わる同じ痛みをその胸に感じ、ショウタが苦しげに顔を歪めた。
 
 
 
 
  (ホヅミさん・・・ ホヅミさん・・・ ホヅミさん・・・。)
 
 
 
 
いまだ抱き付いたままのマヒロの華奢な体。 深く息を落とし目を閉じるとぎゅっと
抱きしめ返したショウタ。

間違っているのは分かっている。 
抱きしめ返したこの腕は、この心は、本当はマヒロではない別の人へ向けてのみ
想いを募らせているのは分かっている。
 
 
ショウタの腕にはじめて意思が芽生えた感覚に、マヒロが囁くようにもう一度言った。

それは、小さく小さく。
まるで吐息のように熱を帯びて、ショウタの赤い左耳に響いた。
 
 
 
 『・・・・・・・・・いいよ。』
 
 
 
 
 
その瞬間、ショウタの理性が飛んだ。
 
 
マヒロの細い体をベッドに押し倒すと、その大きな体で覆いかぶさる。

ショウタの熱をもった大きな手が、マヒロの手首をぎゅっと強く掴み押さえつけるも
マヒロはそれに抵抗などしない。 乱暴に唇を重ね、互いの燃えるような舌先の感触に
狂ったようにそれを絡め合う。 濡れた唇を離し、マヒロの健康的に日焼けした首筋に、
喉に、鎖骨に、何度も何度も唇を舌を這わせるショウタ。 
 
 
マヒロの甘い吐息にショウタの荒い呼吸が混ざって漂う。 ふたりの周りの空気だけ
不埒で湿ったものになり、遠慮がちだったベッドの軋む音は次第にタガが外れてゆく。
 
 
キスをしたままゆっくりと、ショウタの指先がマヒロのケープデザインのフェミニンな
シフォンブラウスの前ボタンをはずそうと静かに当てがった、その時。
 
 
 
 『ショウタァァァアアアアアア!!!』
 
 
 
階下から名を呼ぶ母ミヨコの声がした。

その地響きのような濁声に、まるで夢の中にいたような虚ろだったショウタの目が
一瞬のうちに正気に戻る。 
そして、慌てて体を起こしマヒロの体から離れるとバツが悪そうに目を逸らした。

呆然とベッド脇に立ち尽くしたまま決してマヒロを見ようとはしない、その情けなく
垂れたショウタの目。 後悔の色がありありと滲んでいるのが見て取れる。 
濡れた唇を手の甲で何度もぬぐい、その口許は真っ赤になってゆく。
 
 
『ご、ごめん・・・。』 まるで泣き出しそうな不安定な声色でそう呟き、階下の母の
元へ部屋を飛び出して行く心許ない背中。

その目は結局、一度もマヒロを振り返らなかった。
 
 
 
マヒロはベッドにひとり横たわったまま、呆然と天井の継ぎ目を見つめていた。

その首筋に残った、ショウタが付けたジンジンと熱をもつ赤い痕にそっと手を当てる。
ゆっくり瞬きをすると、瞳から溢れた透明な雫が目尻から幾筋も幾筋も流れる。
 
 
『 ”ごめん ”って、なによ・・・ バカ・・・。』 ふと顔を横に向けたマヒロ。
大粒の涙は目頭からも溢れ鼻根を伝って、ショウタのくたびれた枕に小さな跡を落とす。
 
 
 
トリコロールカラーの毛糸がほつれかかったヨレヨレのマフラーが、大切そうに宝物の
ように枕元に置かれていた。
  
 
 

■第12話 行き場のない色んな思い

 
 
 
ショウタとマヒロへお茶を準備した母ミヨコが、階段の下から2階を見上げ息子の
名を呼んだ。 その手に持つお盆には、熱いお茶が入った湯呑がふたつとスマイル
カットにされたみずみずしいオレンジが乗っている。
 
 
すると、なんだか慌てて部屋を飛び出して来たショウタ。

きまり悪そうに母ミヨコの顔から目を逸らすと、その直後マヒロが部屋を出て
小走りで階段を駆け下り、ミヨコに向けて小さくぎこちなく頬に笑みを作ると
『お邪魔しました・・・。』 と消え入るように呟いて、玄関を少し乱暴に出て行った。
 
 
ミヨコはお盆をその手に掴んだまま、もう見えはしないドア向こうのマヒロの背中を
いまだじっと見つめていた。 

一瞬向けたマヒロの目元は、泣いた後のように潤んで赤らんでいたように思える。
 
 
 
ゆっくりゆっくり、睨むように息子ショウタに目線を向ける。 

ミヨコとふたり台所に立って食器洗いをしていた時の、マヒロの物哀しげな横顔が
浮かんでいた。
 
 
 
 
  ”ねぇ、おばちゃん・・・ 

  ・・・ショウタってさ・・・。”
 
 
 
 
マヒロが言い掛けて止めたあの後に続く言葉は、きっと
 
 
 
 
  ”まだ、ホヅミさんのこと好きなんだよね・・・?”
 
 
 
 
ミヨコの胸がジリジリとやるせなく痛みを伴う。
行き場のない色んな思いが交差して、もつれて、もうがんじがらめの様で。
 
 
思わず責めるように眇めたその刺すようなミヨコの視線から逃げるように、ショウタは
2階の自室へ戻ろうと階段の踏面に足を掛けた。 その重みにギシっと軋む音が響く。
 
 
 
 『アンタ・・・

  マヒロちゃんに中途半端なことしたら・・・承知しないからね・・・。』
 
 
 
母ミヨコのうなる様な低い声色に、ショウタの背筋が一瞬強張って固まった。

そして、小さく小さく返した。 
それは自分を問いただす様に、自分に失望したような声色で足元に落ちる。
 
 
 『・・・わかってる。』
 
 
 
 
 
 
その時、病院の3階。
 
院長室があるその気味が悪いほど静まり返った廊下に、コウの姿があった。
 
 
あの日、シオリに婚約指輪を渡そうとしたその瞬間、突如舞い込んだユズルの報せに
婚約式はうやむやになり、そのまま指輪を渡すことも出来ないまま今に至っていた。

みな、口を開けば ”ユズル、ユズル ”と、渡せなかったコウの指輪を誰ひとり
気にも掛けない。
 
 
昔からそうだった。

昔からユズルはその穏やかな佇まいで皆から愛され、こども達の中でも長兄という
事もあり人一倍期待され気に掛けられ、なんでも ”一番 ”だった。
皆がユズルを当たり前に ”最優先 ”にしてきた。
 
 
院長室のドアに拳を当てようと、コウはドア前で佇む。

スっと伸びた背筋は今日もシワひとつない白衣を纏い、嫌味なくらいに爽やかな装い。
しかしその余裕を醸し出す佇まいに反して、内心はかなり焦っていた。

院長のソウイチロウに保留になったままのシオリとの婚約話を再度打診し
その了承を得て、なんとしてでもシオリの細い左指に約束させなければ。

決して離れられないよう、もう何処にも行けないよう、目を逸らしたくなる程
光り輝く眩しい環で、固い約束を。
 
 
すると重厚なそのドアにノックをする拳が触れるその瞬間、急にそれが開いた。

そして中から父であり副院長のコウジロウが出て来た。
凄いタイミングで開いたそれに驚いて少し仰け反ったコウ。 瞬時にコウに向け
不機嫌そうに顔を歪めた父をまっすぐ見つめる。
 
 
すると、コウジロウは低く呟いた。
 
 
 
 『ユズルの脚がなんとかならないか・・・ それしか考えてないぞ、今は。』
 
 
 
そう言って後ろ手でドアをパタンと閉めると、院長室内のソウイチロウに向けて
呆れ果てた顔で雑に顎を向ける。

そして、続けた。
それはゾっとするほど冷たい声色で。
 
 
 
 『お前がさっさとシオリぐらい手に入れておかないばかりに、

  院長の椅子が遠ざかったじゃないか・・・
 
 
  まったく、お前はいつもいつも、間が悪い・・・。』
 
 
 
シオリとの婚約が保留になり、息子コウが将来院長になる計画が頓挫している事に
誰よりイライラと気を揉んでいたのは、誰でもない野心家の父コウジロウだった。

兄にその件を匂わせようと院長室にやって来たものの、当のソウイチロウは不随に
なった脚の過去の症例を調べるのに必死で、それ以外の事など考える余裕は全くない
その様子。
 
 
軽く舌打ちするように息子コウに冷ややかな目を向け廊下を去ってゆく父コウジロウの
神経質な背中を黙って見つめていたコウ。 目を細め次第にそれは眇め、睨み付けて。

行き場のない思いが、コウの中でメラメラと燃え上がっていた。
 
 
 
行き場のない色んな思いが、各々の胸にくすぶっていた。
 
 
 

■第13話 現れた破天荒な女神

 
 
 
シオリはシュークリームの箱が入った紙袋を手に、病院へ向けてトボトボと歩いていた。

俯いた顔に黒髪の毛先が頬にかかり、物憂う歩くリズムに小さく揺れる。
 
 
無意識のうちに踵を擦って歩いているようで、アスファルトにそれが引き摺られる
耳障りな音を立てているというのに、それに気付かない程ぼんやりとしかしどこか
思い詰めた面持ちだった。
 
 
歩いても歩いても、足が前に進んでいる気がしない。
同じところをいつまでもグルグルと回っているような感覚だった。

マヒロが言った ”ショウタ ”という呼び名がグルグルと頭を巡っていた。
 
 
 
 
  (・・・付き合ってる・・・の、かな・・・。)
 
 
 
 
あの頃は苗字呼びだったそれが、下の名前で親しそうに呼び慣れた感じで発せられていた。

苗字から下の名前を呼ぶようになった過程を、考えたくなどないのに考えてしまう。
そればかり、考えてしまう。
 
 
シオリだってショウタには幸せになってほしかった。

いつまでもいつまでも高校生の時の気持ちのままでいるはずなどない。
ちゃんと明るく前を向いていてほしい。 笑っていてほしい。 幸せでいてほしい。
 
 
でも、心のどこかではショウタは変わらずにあの頃のままでいてくれるような
そんな身勝手で自己中心的な想いが無かったと言えば嘘になる。
 
 
やっと病院までもう少しという所で、シオリは立ち止まった。

そして、首元に手をやる。
白く細い指先で首に掛けたそれを引っ張り出し、小さなペンダントヘッドをぎゅっと
握り締めた。 
 
 
小さな小さな、それ。
シオリの青い誕生石がはめ込まれた、まるでおもちゃのようなベビーリング。
 
 
”一生幸せになって欲しい ”という願いが込められた、高校の卒業式にショウタ
から贈られた最後のプレゼントのそれ。 シオリはそれを鎖に通して大切に大切に
片時も離さずに首から下げていた。 
 
 
 
 
  (コレ・・・ もう、はずさなきゃダメなのかな・・・。)
 
 
 
 
シオリの手に包まれるあまりに小さくて心許ないベビーリングが、弱々しく震える。
 
 
 
 
  (もういい加減・・・はずした方が・・・いいの・・・?)
 
 
 
 
思わずその場にしゃがみ込んで、唇を噛み締め涙を堪えたシオリ。
卒業式のあの日、最後の最後にショウタが朗らかに微笑んだ顔を思い出していた。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
すると、その細い背中にほのかなぬくもりを感じた。

ふと顔を上げ涙で滲む視線を向けると、そこにはショートカットの女性がシオリの
背中に手を当て体を屈め心配そうに覗き込んでいる。 その片手はハンカチを差し出して。
 
 
 
 『ねぇ、アナタ・・・ ダイジョーブ? 具合悪いの??』
 
 
 
見上げる瞳でひとつ瞬きをした瞬間、シオリから大粒の涙がこぼれ落ちた。

その女性はそっとシオリの隣にしゃがみ込み、有無を言わず涙が伝うツヤツヤの頬を
ハンカチで軽く押さえると小さく微笑んで言った。
 
 
 
 『具合悪いのは ”体 ”じゃなくて、”心 ” みたいね。』
 
 
 
思わず初対面の誰かも分からないその目の前の女性に、シオリは泣き付いてしまい
そうになる。 

なにもかも洗いざらいひたすら隠し続ける本音を話して、楽になりたい。 

ショウタが今でも好きで好きで仕方がないと、逢いたくて逢いたくて堪らないと。
そして、誰にも取られたくない、自分以外の誰かと幸せになんかならないでほしいと。
 
 
途方に暮れ助けを求めるような視線を向けるシオリに、女性は言った。
 
 
 
 『そんなに大切なものなら、そのまま大切に持ってていいんじゃない?』
 
 
 
ベビーリングを握りしめるシオリの震える手を、その女性はキレイに爪を切り揃えた
細い指先でトントンと小さくノックして、太陽みたいにあたたかい目を向ける。
 
 
その声色はなんだかストレートにシオリの胸に飛び込んで来た。

まっすぐで嘘がない、この世に顔を出したばかりの眩しい朝陽のように。
広い広い夜空を切り裂いて、自由に流れ煌めく彗星のように。
 
 
 
突如目の前に現れたその女性、破天荒な女神レイがみんなの未来を変えてゆく事に
この時はまだ誰も気が付けないでいた。
 
 
 

■第14話 聞き取れないくらいの声色で

 
 
 
シオリが目の高さに上げ見せるシュークリームの紙袋に、ユズルは頬を緩め目を細めて
そっと微笑んだ。 
 
 
 
 『ありがとう、シオリ・・・

  ・・・せっかくの休みの日なのに、悪いな・・・。』
 
 
 
するとシオリは首を数回横に振って、『別に、ぜんぜん。』と口角を上げる。

車イスのユズルの脚の上にその紙袋を置くと、ひざ掛けが少しずれて筋肉がすっかり
落ちてか細くなった弱々しいズボンの脚が見え、シオリは慌ててそれを隠す。

『ごめんね。』 と申し訳なさそうに小さく呟いた妹の横顔を、一瞬ユズルは鋭い
視線で眇めた。 そして、ゆっくりゆっくり瞬きをすると冷たく目を逸らした。
 
 
ユズルへシュークリームを渡した後は、今日は勤務が休みのため自宅へ戻って行く
シオリを正面玄関まで見送ったユズル。 膝の上には紙袋を乗せたままで。
 
 
日々の激務で疲れている様子をどうしても隠しきれずにいるシオリの横顔。

表通りで振り返って小さく手を振る妹に、窓ガラス越しに軽く手を上げて返すと
細縁メガネの奥のユズルの目が途端に再び冷めたものに変わった。
 
 
 
電動車イスのレバーをゆっくり倒し、入院患者の病室がある棟へとタイヤの音を
響かせて静かに静かに進むユズル。 もうすっかり有名人のユズルのその姿に、
廊下をゆく人々が声を掛ける。
 
 
 
 『ユズル先生!!』 『元気ですか~?!』 『今日もご機嫌ですね~!!』
 
 
 
そっと微笑んで軽く手を上げ、ユズルは丁寧に返事を返す。

廊下の真ん中を進む車イス。 十戒のモーゼの如く海が割れるように潮が引くように
混雑していたはずの廊下は、ユズルの周りだけその姿を気遣う人々によりそっと避け
られた。
 
 
 
 
 
入院中のこども達がよく集まる賑やかな笑い声溢れる待合室にやって来たユズル。

『あ!ユズルせんせーぇい!!』 タイヤの電動音に、こども達が嬉しそうに
駆け寄って来てユズルを取り囲む。 車イスに腰掛けた状態のユズルより背が高く
なり目線が上のこども達がその小さな手を伸ばして、ユズルの腕に肩にタッチする。

ひとりのヤンチャな男の子が近付いてきた。 そして決して怒らないやさしいユズルの
頭をポンポンと、こどもをあやすようにからかって叩いた。
 
 
 
 『・・・・・・・。』
 
 
 
その瞬間、男児がビクっと身が竦むように体を強張らせた。

少し後退りして自分の病室に慌てて駆けて戻ってゆく。 その小さな背中をユズルは
じっと見つめる。 
 
 
至極冷酷な目でこどもを睨んだ。
 
 
ユズルが氷の様に冷たく向けたその目線だけで、こどもには充分すぎる程に恐怖
だったし、大好きな ”ユズル先生 ”のそんな意外な一面がどうしようもなく
悲しかったのだろう。 泣きそうな顔を向け男児の小さな背中が更に小さくなった。
 
 
瞬時にまるで好々爺の仮面をかぶったような穏やかな顔に戻すと、ユズルは膝の上の
紙袋からシュークリームの箱を取り出してこども達に見せた。 

『うわぁ~・・・!』 目をキラキラさせて箱にびっしり詰まったそれを羨ましそうに
見つめる幼い目。
 
 
『仲良く一個ずつ食べるんだよ~。』 ユズルが掛けた声に、一斉に小さい手が伸びる。

我先にと必死にシュークリームを掴むその様子に、ユズルはケラケラ笑う。
それを見守る看護師も、にこにこと嬉しそうに目を細めていた。
 
 
ひとりの女の子が心配そうに言う。
ユズルの腕のあたりの入院着を小さなその手でぎゅっと掴んで、揺らすようにしながら。
 
 
 
 『ユズル先生の分がなくなっちゃうよ?』
 
 
 
すると、メガネの奥の細めていた目が分かり易く色を失い、虚しいだけのそれになる。
そして小さく小さく誰も聞き取れないくらいの声色で言った。
 
 
 
 『食べたくもない、こんなもの・・・。』
 
 
 

■第15話 タキの孫娘

 
 
 
シュークリームをこども達に配り終わったユズルが、どこか満足気に日課となっている
病室巡りをはじめた。
 
 
結局シオリが休日に疲れた体で買いに行ってくれたシュークリームは一口も食べる事
なく全てこども達にあげてしまった。 可笑しそうにひとり、頬を緩めて病室が並ぶ
廊下へとユズルの車イスは低い電動音を響かせ進む。
 
 
とある、整形外科患者の6人部屋にやってきたユズル。

ユズルの医師時代など知らない短期入院中のその患者たちも、みなすっかり ”ユズル先生 ”と
親しげに呼び、ユズルの事故の経緯もすべて噂で聞いて知っているようだった。
  
 
『タキさ~ん、お加減いかがですか~?』 病室の引き戸を開けたユズルの目に入った
その人 高齢の小柄な女性タキが、その呼び掛けられた声に振り返り嬉しそうに頬を緩める。
 
 
 
 『ユズル先生! 今日も来てくれたのね~・・・。』
 
 
 
やわらかく目を細め微笑むタキ。

脚をケガしたタキはその脚をかばうように歩行器を使って、ゆっくりゆっくりユズルの
元へと向かって来た。
元々やわらかい表情のタキが、なんだか今日は増々やさしいそれになっている。
 
 
『あれ? タキさん、なんかいいことありました?』 ユズルが小首を傾げてタキの
顔を覗き込むように車イスから見上げる。

すると、タキはパっと明るい表情を向けて言った。
 
 
 
 『今日、孫娘が見舞いに来てくれるみたいなの!

  ・・・是非、先生に会わせたいわぁ・・・
 
 
  いい歳なのに仕事ばっかりして、色気もなんにも無いのよ、あの子ったら。』
 
 
 
そう言いながらも孫娘が可愛くて仕方がない様子は、タキが嬉しそうに頬を高揚させて
話す様子ですぐ分かる。 おっとりしたタキがほんの少し早口になっていた。
 
 
『ビジンなんですか~?』 ユズルがタキをからかうような声色で目を向けると

『私に似て美人よ!』 とタキが澄まして言った。
 
 
 
 『・・・それは愉しみですね~。』
 
 
 
上手に微笑んだユズル。
車イスのレバーを握る手に、その瞬間ぎゅっと嫌な力がこもった。
 
 
すると、そんなユズルも午後の検査の時間で看護師から病室に戻るように声が掛かる。

『じゃぁ、また!』 タキへと軽く手を上げて車イスを回転させるとユズルは自室へ
向けて戻って行った。
 
 
人波が廊下をゆくユズルの車イスに気付き、端へ避けてゆく。

再び虚無な目で、ゆっくりゆっくり瞬きをする。
車イスのレバーを握るその手にイライラが表れ、再び力がこもる。
奥歯を強く噛み締めるその力に、頬はわずかに歪んでいた。
 
 
 
 
  (僕に会わせてどうするってゆうんだよ・・・

   上から同情の目で見下ろして笑ってくれなくて結構だっての・・・。)
 
 
 
 
ユズルが長い廊下を車イスで過ぎたその直後、タキの孫娘が見舞いの花を抱えて
病室にやって来ていた。 飾らないスニーカーの靴底が廊下の床にキュっと鳴る。
 
 
『今、すれ違わなかった? 車イスの先生に・・・。』 祖母タキの言葉に、

『ん?』 と首を傾げたその孫娘。 
 
 
 
 『車イスの医者なの?』
 
 
 
その問いに、タキは噂話で聞いたユズルの話をした。
穏やかでいつもやわらかく微笑んでいる、下半身不随のユズルの話を。
 
 
 
 『へぇ~・・・。』
 
 
 
病室のベッドに行儀悪く腰掛けその長い足を投げ出すように伸ばすと、ぽつりと呟いた。
 
 
 
 『ねぇ、お祖母ちゃん・・・

  ・・・ずいぶん嘘くさいわね、その人・・・。』
 
 
 
ベッドに後ろ手を付き天井を仰ぐようにまっすぐ見つめると、ショートカットの毛先が
重力に従い小さく揺れてそよいだ。
 
 
 
まだ実際ユズルに会ったこともないタキの孫娘レイが、濁りひとつ無いその目で呟いた。
 
 
 

■第16話 シーちゃんとヒサちゃん

 
 
 
ベテラン看護師長であるヒサコは、シオリの細い背中を心配そうに見つめていた。
 
 
ホヅミの病院に勤めはじめたのは、もう30年も前のこと。

現院長ソウイチロウの祖父である先々代が院長を務めていた頃からこの病院に仕え、
当時ヒサコは看護学校を卒業したての新人で、ソウイチロウもまだ新米外科医の
一人として毎日を忙しく過ごしていた。
 
 
ソウイチロウが外科部長になった頃、長女であるシオリが生まれた。

長男のユズルが生まれた後、祖父が逝去したりホヅミ家には暫くめでたい話がなかった
だけにシオリの誕生はみなの心を明るく眩しく照らした。
 
 
当時、幼いシオリは毎日病院にやって来た。

父の後ろを覚束ない足取りでヨチヨチついて歩き、ソウイチロウは毎回困った顔を
して小さなシオリを抱きかかえ、看護師の休憩室のドアをノックする。
 
 
そして、決まって申し訳なさそうにモゴモゴと呟く。
 
 
 
 『悪いんだけど・・・ また、頼めるかな・・・?』
 
 
 
ヒサコは嬉しそうに頬を緩めると、ソウイチロウの腕からシオリを引き受け抱きしめる。

すると、シオリもすっかり懐いているヒサコの首元に顔をうずめ小さな小さな手で
ぎゅっと抱きついた。
 
 
 
 『ヒサちゃ~ぁん。』
 
 
 
可愛らしいソプラノの声がヒサコの耳元に響く。 ピアノの鍵盤が弾かれるかの
ような幼いシオリの眩く踊る声。

ヒサコはシオリを更にぎゅっと強く抱きしめ、そのぷっくりと丸いつやつやの頬に
思いっきり唇を押し付けてキスをする。 あまりに可愛くて食べてしまいたくなる程で
何度も何度も大袈裟にキスをすると、シオリはくすぐったそうにケラケラ笑って
ヒサコの腕の中で暴れた。 

『シーちゃん、食べちゃうわよぉ~!!』 シオリのほっぺにパクっと甘く齧り付く
ふりをすると、更にシオリは愉しそうに笑った。
 
 
 
思春期を迎えたシオリのことも、ずっと見てきたヒサコ。

多感な年頃になり父ソウイチロウとはあまり会話しなくなったシオリも、ヒサコに
だけは幼いこどもの頃のままなんでも話し、まるでもうひとりの母親のように接していた。
 
 
 
どんどん美しく成長するシオリを、そっと目を細め眩しそうにいつも見つめてきた。
あまり上手に笑えなくなったシオリが、次第に笑うようになったのも全て。

ある日、整形外科の診察室に朗らかに笑う青年がやって来たあたりから、シオリは
幼い頃のように嬉しそうに愉しそうに、心から幸せそうにクスクス笑った。
 
 
しかし、一転。
ユズルの事故により、その眩しい笑顔は嘘のように消えた。

正直なところヒサコがあまり好きになれないコウが、シオリと婚約するという噂を
耳にしたあたりから。
 
 
 
 
  (あの、ボーイフレンドとはもう会ってないのかしら・・・。)
 
 
 
 
医者になったシオリの背中を、いつもいつも心配そうに見つめていた。

あまりに頑張り過ぎで、切ない程に無理をしている、シオリのその背中。
シオリが笑う顔をどうしても見たくて仕方がなくて、ヒサコはなにかとシオリに
話し掛けた。 くだらない世間話やゴシップネタをなんだかやたらと必死に。

しかしその頬は無理やり小さな笑みを浮かべるだけで、余計にヒサコの不安を煽る。
 
 
胸が締め付けられて、たまらず訊いてみた。
 
 
 
 『ねぇ、シーちゃん・・・。』
 
 
 
普段は ”シオリ先生 ”と呼んでいたヒサコだが、誰も周りにいない時にはあの頃の
ままの呼び名で呼んだ。  『ん? なに?ヒサちゃん。』 シオリも ”師長 ”では
なく愛称で返す。
 
 
 
 『シーちゃん・・・ ダイジョウブなの・・・?』
 
 
 
その心配する思い詰めた声色に、瞬時にシオリの目に透明なものが浮かび上がる。

一瞬ヒサコにすがるような目を向け、しかしすぐさま俯いてかぶりを振ったシオリ。
そして、『ダイジョウブだよ!!』  頬に無理やり笑みを作った。 

それはあまりに疲れて心細い、哀しい笑みだった。
 
 
 
ある日、シオリの心と体は限界をむかえた。
真っ白な痩せた白衣が病院の廊下に崩れ落ちるように横たわり、その白に汚れを付ける。
 
 
 
遂にシオリが、倒れた。
 
 
 

■第17話 女学校の同級生

 
 
 
過労により病院で倒れたシオリは、すぐさま入院となりその細い腕からは
数本の点滴の管がつながれた。

元々血管が細いシオリの腕に刺さった針は薄い皮膚を盛り上げ、どうしても
いつも内出血してしまうそれが痛々しさを助長する。
 

青白い顔がつらそうに歪み、目を閉じて眠っているというのに全く楽になって
いるようには見えない。 長いまつ毛がかすかに震え、淡いピンク色のはずの
その唇も渇いて色味を失っていた。
 
 
看護師長のヒサコは、勤務の合間をぬってしばしばシオリの様子を見舞った。

ベッド横の丸イスに腰掛けて心配そうに眉根をひそめる母マチコに小さく
会釈してシオリの傍に近寄ると、そっとシオリのか細い手を握りしめ心の中で
呟いた。
 
 
 
 
 (頑張りすぎだって言ってるじゃない、シーちゃん・・・。)
 
 
 
 
ヒサコはその日の勤務終わり、暫くシオリの傍で心配そうに様子を見守って
いたのだが、後輩看護師に半ば強引に背中を押されるように病室を後にした。
 
 
気分も足取りも重かった。

そのままシオリの病室に張り付いていた方がずっと気は楽だったのだが、
看護師長たるもの立場的にそうはいかない事はヒサコが一番よく分かっていた。
 
 

ふと気付くと、ヒサコの足は何気なく近所の商店街を通っていた。

いつもは別のルートを通って帰宅するので、殆どこの商店街に寄った事は
無かった。 小さいが活気があって賑やかで、魚屋から肉屋から惣菜屋から
威勢の良い掛け声が矢継ぎ早に飛び交う。 
 
 
 
 『奥さん!安くするよ~!』
 
 
 
折角だから買い物でもして帰ろうかと肉屋で足を止ると、今日は牛すね肉が
安いのが目に入った。
 
 
 
 
  (ビーフカレーにでもしようかしら・・・。)
 
 
 
 
それを300g買ってビニール袋を片手に提げ、その次に八百屋へ向かった
ヒサコ。 目指す八百屋の店先からは野太い濁声が響いている。
 
 
 
 『そこの、お姉さんっ!! ウチの野菜、新鮮だよー!!』
 
 
 
そう大声で威勢よく息巻くその人を、ヒサコは一瞬足を止めじっと見つめた。

ほんの少し小首を傾げ、目を細めてまっすぐ。
一歩また一歩と、どんどんその濁声の女店主に近寄る。
 
 
そして、
 
 
 
 『ちょっと!!! あんた・・・ミヨコ???』
 
 
 
せり出た腹に八百安と書かれた藍色の前掛けをするミヨコを、ヒサコは
まじまじと見つめ呟いた。 すると、ミヨコも零れんばかりに目を見開き
パチパチとせわしなく瞬きをして、上げた声は完全に裏返った。
 
 
 
 『え??? もしかして・・・ヒサコ???』
 
 
 
 
 
ミヨコとヒサコは女学校の同級生だった。

互いにサバサバした男っぽい性格で気が合ったふたりは、学校を卒業しても
ずっと仲良くしていたのだが、ヒサコが看護学校へ進学し忙しくなって会う
機会も減ってしまい、気が付けば疎遠になっていた。 
互いに結婚し旧姓ではなくなり、30年以上ぶりに偶然会ったふたりだった。
 
 
店先で時間を忘れ互いの近況を話し合うふたり。

すると、ヒサコがシオリの病院で看護師長をしている事に、ミヨコは腰が抜け
そうな程に驚いた。 突然の事に、心臓はバクバクと早鐘の様に打ち付ける。
 
 
ふと、シオリの事が頭をよぎったミヨコ。 

勿論ヒサコに細かい話などしないけれど、ミヨコはシオリがどうしているのか
気になって仕方なくて、どこか探りを入れるように様子を伺う様に小さく呟く。
 
 
 
 『ウチの上の子がね、

  ホヅミさんトコの娘さんと・・・ 仲良かったのよ・・・。』
 
 
 
すると、ヒサコが仰け反って驚いた。 
ミヨコの先程の驚き具合を納得すると同時に、物寂しそうに眉根をひそめる。
 
 
 
 『シーちゃん、ムリしすぎて体壊しちゃって

  ・・・今、ちょっと療養してるのよ・・・』
 
 
 
ヒサコは思い詰めたように目を伏せ、低いトーンで続ける。

その手に握るビニール袋がヒサコの切ない胸の内を表すかの様に、カサカサと
乾いた音を立てなんだかそれはまるで泣いているように響いた。
 
 
 
 『あの子ね・・・

  いっとき花が咲いたように明るく笑ってたのよ・・・

  当時、凄くいいボーイフレンドがいてね・・・。
 
 
  でも・・・ また笑わなくなったの・・・

  まぁ、色々あって・・・ 今の状況じゃ難しいんだけどね・・・。』
 
 
 
その一言に、ミヨコの胸がぎゅっと締め付けられた。

店先の橙色のミムラスの花びらに指先でチョンと触れ、目を細め微笑んで
いたシオリの、眩しい程にやわらかい笑顔を思い出す。
しゃくり上げ涙で詰まりながら、ショウタの笑ってる顔が大好きだとミヨコに
抱き付いたあの日のシオリを。
 
  
思わず目の前のカゴに積まれたツヤツヤの萌葱色の青りんごをそっと掴んだ。
ミヨコの表情がどんどん翳り、泣き出しそうなそれに変わってゆく。
 
 
 
 
  (シオリちゃん・・・。)
 
 
 
 
すると、ヒサコがその姿をじっと見つめた。

ミヨコが手に包む青りんごに目をやり、そしてミヨコの顔をまっすぐ射る様に
見る。 寂しげで心許ないその表情が、どこかで見たことがあるような気が
してならない。 あれは、確か・・・。
 
 
 
 『ねぇ、ミヨコ・・・
 
 
  アンタのとこの上の子って・・・ 

  ・・・もしかして・・・ 男の子・・・?』
 
 
 
一瞬目を見張りそして涙が滲む目で哀しげに俯いたミヨコに、ヒサコが呟いた。
 
 
 
 『・・・こんな偶然って、あるの・・・?』
 
 
 

■第18話 一目だけでも 例え、遠くからでも

 
 
 
ミヨコはヒサコに息子ショウタとシオリの話をした。
淡くて胸を締め付けるような歯がゆいふたりの歴史を、大切そうに慈しむ様に。
 
 
ふたりのひたむきでまっすぐな想いに、思わず胸が詰まり涙が込み上げ、
前掛けからハンカチを取り出してそっと目頭の雫を押さえるミヨコ。

すると、ヒサコもまた同じように潤んだ目尻を指先で拭った。
 
 
 
 『・・・保留になったのよ、婚約・・・。』
 
 
 
ヒサコが話していいものかどうか迷いながら、静かに言葉を紡いだ。
 
 
その一言に、ミヨコは目を見張り言葉を失くす。 

シオリはもうとっくに従兄弟の彼と結婚して、ショウタの手の届かない所に
いるものと信じて、今の今まで疑いもしなかったのだから。
 
 
すると、ヒサコは続けた。 
伝える事をどこか憚るように、それは哀しい声色で。
 
 
 
 『実はね・・・ 

  ユズル先生の・・・ シーちゃんのお兄さんの意識が戻ったの・・・
 
 
  だから、今はみんなユズル先生のことに集中してて

  シーちゃんの婚約に関しては宙ぶらりんになってるのよ・・・。』
 
 
 
耳に聴こえたその言葉に、ミヨコがパっと明るい表情を作り顔を上げた。

まるですべての問題が解決出来たのではないかという顔をして、身を乗り出す
様にヒサコの二の腕に掴みかかる。
 
 
 
 『え・・・

  じゃぁ、シオリちゃんは従兄弟の彼と結婚しなくても・・・。』
 
 
 
『そうはいかないのよ・・・。』 哀しげな声を落とし見つめるヒサコ。
 
 
 
 『だ、だって・・・

  ・・・お、お兄さんが大丈夫だったんなら・・・。』 
 
 
 
急いた気持ちに追い付かない口が、普段滑舌よいミヨコのそれを覚束なくさせる。

それでも尚、ヒサコの二の腕にすがるように強く掴みかかるミヨコを、ヒサコが
やんわり遮った。
 
 
 
 『・・・一生、車イスなのよ・・・。』
 
 
 
耳に聴こえたそれに、ミヨコは絶句する。
キツく掴んでいたヒサコの腕から、力が抜けた指先がダラリと垂れる。
 
 
なんて神様は残酷なのだろう。

どれだけ色んな人を哀しませば気が済むのだろう。
 
 
ヒサコはそれ以上は語らなかったけれど、兄ユズルが一生車イス生活という
事は結局はシオリが病院を守ってゆくことに変わりはないという事を表して
いることなどミヨコに理解できないはずはなかった。
 
 
 
 『シオリちゃん・・・。』
 
 
 
シオリの心労を思うと、胸が張り裂けそうになるミヨコ。
無意識にぎゅっと握り締めた藍色の前掛けが、シワになってよれている。
 
 
シオリの顔が見たかった。

何もしてあげられないし、何と声を掛けてあげればいいのかも分からない
けれど、どうしてもどうしてもシオリの顔を見たかった。
もうひとりの娘のように思うシオリを、一目だけでも。 例え、遠くからでも。
 
 
 
 『ねぇ・・・ ヒサコ・・・

  ・・・ヒサコの名前、貸してくれない・・・?』
 
 
 
俯いていたミヨコが青りんごをその手に握って、ぽつり呟いた。
 
 
 

■第19話 青りんごの籐カゴ

 
 
 
ミヨコはヒサコの名前を借りて、シオリの病室まで見舞いを配達する
手筈を整えていた。
 
 
シオリの現状は息子ショウタに知らせるのは逆に酷だと感じていた。
 
 
保留になっていると言っても、今後シオリは従兄弟コウと結婚する事に
なるのだから下手に中途半端な期待を持たせたところで更に深手を負う
のは明白だ。

ショウタには内緒でこっそりシオリへ見舞いを渡しに行き、その顔を
一目だけでも見て来ようとヒサコに頼み込んだのだった。
 
 
 
 『明日の3時に、ヒサコの名前で配達するから。

  ・・・病室は、208号室で間違いないわね・・・?』
 
 
 
籐のカゴいっぱいの青りんごに、ミヨコは ”御見舞 ”と書かれた
短冊を添える。
どこか緊張の面持ちで、青りんごの籐カゴを店の奥に準備していた。
 
 
 
翌日。
 
 
『んぁ?コレ、配達??』 ショウタが目に入った籐カゴの青りんごに
目を向ける。

すると、品物に張り付けてあるメモ紙の届け先にショウタが目をやる前に
ミヨコはそのメモ紙をショウタの指先から奪う様に取り上げ、どこか挙動
不審にも思えるような早口で言う。
 
 
 
 『コレ、私の知り合いに頼まれたやつだから。

  私が行くから、アンタは気にしないでいいから・・・。』
 
 
 
『・・・あっそ。』 

普段は配達はすべて原付きに乗ってショウタが担当していた。

そこにシオリの病院名が記されていたとも知らず、アッサリと引き下がる。
母ミヨコの慌てる様子にどこか首を傾げながらも、然程気にせずショウタは
仕事に戻って行った。
 
 
ミヨコがそわそわと落ち着かない面持ちで、ショウタから目を逸らし俯いた。
 
 
 
 
 
午後2時30分。

そろそろ病院へ配達に行こうと、店の壁掛け時計を見上げ準備をはじめた
ミヨコの耳に店の奥の電話が鳴った。
 
 
『お父ちゃ~ん! 電話出て~~!!』 声を張り上げるも、別件で手が
塞がり電話には出られなそうなその背中。

『ショウタァァアア!!!』 息子の名を呼ぶも、同じタイミングで依頼が
あった配達の品を原付き後部のカゴにセッティングしていて、ミヨコの声は
届いていない。
 
 
渋々、ミヨコは電話に出た。

左手首に付けた腕時計に目を落とし、眉根をひそめて、
『はい!八百安っ!!』 少し不機嫌そうに、いまだ黒電話の受話器に声を
張りがなり立てる。
 
 
そんな母ミヨコの事など知る由もないショウタは、父が一か所にまとめて
準備していた配達の品をすべて原付きに積み込むと、最初の配達先へ向けて
エンジンを吹かせ原付きを走らせた。

3か所分の配達の品物を乗せた原付きは、客の姿がチラホラ増えはじめた
午後の商店街を軽快に走り抜けて、住宅街へ向かう。
 
 
最初の届け先へ品物を渡した後、次の配達先を確認するショウタの目に
それが飛び込んで来た。

それは、母ミヨコが届けると言っていた青りんごの籐カゴ。

父が誤ってひとまとめにしていたそれを、まとめて全部積んで来てしまった
ことに気付く。
 
 
そして、メモ紙に書かれた届け先に目を見張り息が止まるショウタ。
 
 
 
 
  (ホヅミさんの・・・病院だよな・・・ コレ。)
 
 
 
指先で掴んだメモ紙が、小さく震える。
 
 
今まで決して中には入らなかった、そこ。 
押し掛けてはいけない。シオリの迷惑になるだけだと諦めていた、そこ。
 
 
マヒロから、シオリはもう結婚して幸せになっていると聞いた。

逢ったところでもうどうにも出来ない今になって、変わらずに高く聳え
立つそこに青りんごを届けに行くというこの皮肉さに、ショウタは俯く。
 
 
しかしふと腕時計に目を落とすと、時間は2時45分。 配達指定時間は
3時だった。 躊躇いはあったが、もう時間が迫っていた。

心の何処かでは、病院内に入る大義名分が出来たと思わなかったといえば
嘘になる。
 
 
 
  たとえ、一目だけでも・・・

  シオリの元気な姿を見られたならば・・・
 
 
 
 『戻るより、届けたほうが早いよな・・・。』
 
 
ぽつりひとりごちると、ショウタは慌ててハーフヘルメットの顎ヒモの
バックルを止め、シオリの病院へ向けて原付きを急発進させた。
 
 
 

■第20話 病室のドア8センチの厚み

 
 
 
青りんごが山積みになった籐カゴを片手に、ショウタは病院の正面玄関の
自動ドアを強張った緊張の面持ちで通り抜けた。
 
一歩足を踏み入れた瞬間、心臓がバクバクと異常なくらいに激しく打ち付け
口の中がカラッカラに乾いて唾を飲み込もうとする喉も空回りする。
 
 
シオリが働いている、ここ。
シオリが確かにいるはずの、この場所。
 
 
『208号室・・・。』 キョロキョロと外来患者で混雑する午後の病院を歩く。

外来待合室のソファーにはマスクをして苦しそうに咳き込む人や、熱っぽい赤い顔を
した小さなこどもを抱きかかえる不安気な母親の姿。 
腕をアームリーダーで吊る人が目に入り、ショウタは高校の時に体育の授業でケガを
してここにやって来た事を思い出し、切なげにそっと目を伏せた。
 
 
外来患者で混み合うそこを抜け入院病棟へゆっくりと進み、2階へ向けて階段を
一段ずつ一段ずつのぼる。 やけに階段を進む自分の足音が耳につく。
 
 
ショウタの目は常に ”その姿 ”を求め、彷徨っていた。

マヒロからシオリが髪を切った話は聞いていた。 しかし、やはり無意識に
探してしまうのはあの頃と同じ美しい長い黒髪の、華奢な白衣の背中だった。
あの愉しそうにクスクス笑う愛おしい声が聴こえないか耳を澄ます。
”ヤスムラ君 ”と呼び掛け、目を細め見つめてくれた恋しい視線を探す。
 
 
今更会ったところでどうにもならないし、なんて声を掛けていいかも分から
ないその姿を求めて。 その視線は騒がしい廊下の先に、看護師のせわしない
詰所に、チラリ覗いた病室の奥にただひたすら泳がせる。 

逢いたくて逢いたくて堪らない、シオリの姿に。
 
 
 
  シオリは気付かなくてもいい・・・

  ただ一目でも、逢えるのならば・・・
 
 
 
看護師と入院患者の姿がひっきりなしに行き交うその廊下を、ショウタは緊張
して強張った顔でゆっくり進む。 肩に力が入り過ぎて痛い程だった。

気持ちはシオリにばかり向かっているけれど、仕事でここに来ているのだと
思い出して一度立ち止まり、かぶりを振って自分をいなす。 
ぎゅっと手に力を込めて、カゴの持ち手を握りしめ直した。 片手に持った
青りんごのカゴの透明フィルムが、ショウタのジーンズの脚に小さく擦れて
カサカサ鳴った。
 
 
斜め上方を指差し確認しながら、病室の番号プレートに目を向けていた。
 
 
 
 『206・・・ 207・・・。』
 
 
 
最近は個人情報の関係で患者名はプレートには表示されない。
病室番号しかないそれに、ショウタは真剣に番号違いがないよう目を向ける。
 
 
一歩ずつ一歩ずつ、その場所にショウタの足は近付いていた。
 
 
 
そして、それを見付けた。
 
 
 『208・・・ ここだ・・・。』
 
 
 
 
 
その時。

208号室の病室内ではシオリが眠りから覚めてそっと上半身を起こし、
自分の青白い腕から何本も繋がれている点滴の管をぼんやり見つめていた。

付き添ってくれている母マチコは丁度席を立ったようで居なかった。
静まり返った病室に、壁掛け時計の秒針が進む音だけが響いている。
 
 
シオリは小さく溜息をつき、点滴の管を気にしながら慎重に腕を伸ばすと
パイプイスの背に掛けてある自分の白衣を引き寄せた。 
そして、そのポケットに常に入れている暗記カードを取り出してパラパラと
めくると、哀しげに寂しげに目を細め微笑む。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・ どうしてるかな・・・。)
 
 
 
 
すると、
  
 
 
        コンコン・・・
 
 
 
 
ドアをノックする音に、シオリは目を向けた。

扉向こうでショウタが拳をつくり、引き戸に2回それをぶつけて中の様子を
聞き耳を立てて伺う。
 
 
 
病室のドア8センチの厚みを隔てたそこに、何も知らないショウタとシオリが
佇んでいた。
 
 
 

■第21話 勘付かれてはいけない背中

 
 
 
『はぃ・・・?』 シオリがドアを見つめノックの主に小さく返事をした、
その瞬間。
 
 
 
 
  『なにしてるの、ここで。』
 
 
たまたま廊下を通りかかったコウが、ショウタの元へ駆け寄りあからさまに
怪訝な顔を向け声を荒げる。 そして、病室の番号プレートを確認すると
目を見張り思い切り鋭く睨んで、ショウタの腕を乱暴に引っ張り病室から
遠ざけた。 
 
 
『な、なんですか・・・?』 ショウタも目を眇めコウを睨み返した。

配達で来ただけなのにまるで不審者のような扱いをされて、さすがの温厚な
ショウタも腹が立って怒りに頬が歪む。 唇を噛み締めコウに掴まれていた
腕を思い切り振り払った。
 
 
コウはショウタがその手に持つ見舞の青りんごを冷淡な目でじっと見つめる。

そして短冊に書かれた看護師長の名を確認すると苦々しく顔をしかめ、
低くうなるように言った。 
ショウタの手から、有無を言わせず強引に奪い取るようにカゴを引っ張って。
 
 
 
 『コレ、俺が渡しとくから・・・

  ”俺の ”患者だから・・・ どうもありがとう。』
 
 
 
そう早口で告げると白衣の胸ポケットから見るからに高級そうなペンを出し、
左手でそれを掴むと無言で ”サイン ”を書くポーズをする。

”サインを貰ってさっさと帰れ ”とばかりのそのコウの不躾な態度に、
ショウタはなんだか後味悪く腑に落ちない感じがありながらも、受け取りの
サインを貰い不機嫌そうに目を逸らして、軽く首だけペコリと前に出し会釈
すると正面玄関へ向けて帰って行った。
 
 
ショウタの大きな背中がイライラした感じを醸し出しながら廊下の先に小さく
なってゆく。 コウはそれをじっと見つめていた。見えなくなるまでじっと。
それは、完全に視野から消え失せるまでは安心出来ないとでも言うように。

睨むように、穴が開くほど、じっと・・・。
 
 
 
その時、208号室の引き戸が静かにスライドされ開かれ、点滴のスタンドを
片手に引いてシオリが弱々しい足取りで出て来た。
 
 
瞬時に、コウはシオリの目の前に立ちふさがり廊下の先が見えない様にする。
 
 
不思議そうに小首を傾げる青白い顔のシオリに、コウは慌てて取って付けた
ような笑顔を作ると、 『ちゃんと、寝てなきゃダメだよ!!』

まるで自分がシオリの病室を訪ねたような顔をして、その細い入院着の背中に
手をおき再び病室内に促した。
 
 
シオリを促しながら、もう一度振り返りコウは廊下向こうを慎重に見渡す。
 
 
 
  もう見えはしない、その背中を。

  決してシオリには勘付かれてはいけない、その背中を。
 
 
 
 
 
コウは青りんごの籐カゴを持って病院地下の暗い廃棄室に行くと、そのまま
籐カゴをゴミの山に放った。 
そして、まるで汚い物にでも触れたように手の平をパンパンと払う。

ショウタを連想させる物など、どんな些細なものでも全て排除したかった。
これ以上1秒たりともシオリがショウタを想わないよう、そのキッカケに
なるものは全て。
 
 
 
 『青りんごなんか、もう要らないんだよ・・・。』
 
 
 
低く冷酷な声色が、誰もいない薄暗い廃棄室に響いていた。
 
 
 

■第22話 奪い取ったコウの指に

 
 
 
 『ちょっと、あんたっ!!!』
 
 
ショウタが配達から戻ると、それを待ち構えていたかのように母ミヨコが
店先から飛び出して来て、原付きのハンドルにすがるように掴みかかった。

すごい勢いで掴まれたそれに、左右に不安定に揺れた原付きに跨ったままの
ショウタが慌てる。
 
 
『なん?』 母のその慌てように不思議そうな目を向けたショウタ。

しかし瞬時に、配達先がシオリの病院だったため気を揉んでくれていたの
だろうと気付く。
 
 
ミヨコがショウタの顔色を伺いながら、どう切り出していいものか考えあぐね
モゴモゴと言いよどんでいる。
そんな過剰に心配する母の様子に、有難い反面ショウタは少しイライラし
八つ当たりする様に低く呟いた。
 
 
 
 『・・・別に、ダイジョウブだから・・・。』
 
 
 
”ミヨコが杞憂しているような事は無かった ”という意味を込めたつもりの
ショウタ。

すると、その一言にミヨコは目を見張り、そして意を決して呟く。
 
 
 
 『ほ、本人に・・・ 渡したの・・・?』
 
 
 
どこか震えて響いたそのミヨコの声に、ぼそりとショウタが返す。

『んぁ・・? 母ちゃんの知り合いには会えなかったけど。』 
 
 
コウの先程の無礼な言動を思い出し、少し不機嫌そうに眉根をひそめる。
 
 
 
 『担当医がたまたま通り掛かって、”渡しておく ”って・・・。』
 
 
 
その一言に、ミヨコはホッとしたような落胆しているような、微妙な表情を
作り力が入り過ぎて上がっていた肩をそっと落とす。

決してショウタをシオリに逢わせようとした計画ではなかったはずなのに、
あと少しの所で逢えず仕舞いだったふたりを思うと、神様はとことんふたりを
引き離す考えなのだと無意識のうちに溜息が零れる。
 
 
 
 『運命・・・ なのかね、そうゆう・・・。』
 
 
 
『んぁ?』 ミヨコのひとり言に、ショウタが一瞬目を向け首を傾げた。
 
 
 
 
 
その夜。

ショウタは自室でひとり、病院でのコウとの遣り取りを思い返していた。
言葉では表せないモヤモヤしたものが、あれからずっと胸に痞えている。
目を眇めてあの時の映像を呼び起こそうと、頭を抱えるように背を丸める。
 
 
最初、コウの言動にただただ苛立っていたショウタだが、次第に考えるのは
”そこ ”ではないと気付く。
 
 
青りんごのカゴをショウタから奪い取ったコウの指に、それはあっただろうか。

受け取りサインを書くために握ったペンは、左手に持っていた。
”左利き ”なのだと、あの時一瞬頭をよぎったのだ。
 
 
 
 
   あの左手には、結婚指輪は・・・
 
 
 
 
しかし、まだ結婚していないというだけで、婚約はしたのだろう。

マヒロが言っていた ”すっごいダイヤの指輪 ”というのは婚約指輪を指す
のだろう。 以前、コウも婚約指輪を受け取りに行く前に、わざわざ店まで
やって来て嫌味っぽくそんなような事を言っていたのを思い出す。
 
 
そして、つくづく思う。 
そんな高価な指輪は、一生かかっても自分には買うことが出来ない。
 
 
無意識のうちに、溜息が落ちる。
 
 
 
『208号室・・・。』 そっと俯き、ぼんやりしたままポツリ呟いた。

もう一度なにか考え 『208・・・?』 と呟いてみる。
 
 
引っ掛かる。
今更ながら、それに引っ掛かっていた。
 
  
普通、届け先が病院だからといって病室番号だけで贈り物をするだろうか。
普通、病室番号の他に最低限名前ぐらい書くのではないのだろうか。
 
 
そして常に厭らしい程に冷静沈着なコウが、凄い剣幕で病室に入ることを
止めて掛かり、そこから慌てて乱暴に引き離された。
 
 
 
 208号室・・・ 
 
 
 それは、

 コウがショウタに会わせたくない人間がいるから・・・?
 
 
 
 あれは、

 母がショウタに会わせることに悩み苛む人間がいるから・・・?
 
 
 
 
  ”ほ、本人に・・・ 渡したの・・・?”
 
 
 
配達から戻ったショウタへ、しずしずと訊いたミヨコのあの引き攣った顔。
考え込み俯いていた情けない顔をガバっと上げて、目を見開く。
 
 
ショウタは、自室を飛び出して母ミヨコのいる居間へ向け階段を駆け下りた。

古い階段の踏面が、乱暴に踏みつけるショウタの足裏にギシギシと音を立てる。
居間のドアを粗雑に荒々しく開け放ち、ミヨコに詰め寄る勢いで身を乗り出した
ショウタにミヨコはなにかを察したように咄嗟に目を逸らす。
 
 
 
 『母ちゃん・・・

  ・・・今日の、あの・・・ 208号室って・・・。』
 
 
 

■第23話 本当に神様がいるのだとしたら

 
 
 
 『・・・そんな事、訊いてどうするんだよ。』
 
 
ミヨコは一瞬バツが悪そうに逸らした目を、再びショウタにまっすぐ向けた。
それは強い光が宿った、母の厳しい目だった。 息子を想うが故の厳しいそれ。
 
 
『もう・・・ お前も、いい加減・・・』 言い掛けたミヨコへ、ショウタは
身を乗り出し語尾が重なる勢いで問いただした。
 
 
 
 『なんで・・・?

  ど、どうしたの・・・??

  病気?? ホヅミさん・・・ どっか具合でも悪いの・・・??』
 
 
 
心配で不安で、その声はか細く震えて落ちた。
その息子の真剣で矢継ぎ早な一言に、ミヨコはハッと息を呑む。
 
 
ショウタはシオリに逢う逢わないではなく、シオリが病室にいた理由だけを
必死に慮っている。
母ミヨコが自分に内緒でシオリの元へ見舞いを届けようとした事でもなく、
コウにそれを邪険に阻まれた事でもなく、ただただシオリの心配を。
 
 
 
  ただただ、シオリの体だけを一途に・・・
 
 
 
まだこんなにも初恋の人を想い続けているその姿に、ミヨコの胸は張り裂け
そうに痛み、歪んでゆく顔を思わず両手で覆って肩を震わせはじめた。
 
 
 
 
  (神様・・・ どうにかしてくれないか・・・

   ふたりの歯車を、どうにか・・・ 神様・・・。)
 
 
 
 
突然涙をこぼした母ミヨコを目に、増々ショウタは不安気に詰め寄る。
ミヨコの肩に置いたショウタの手はえも言われぬ恐怖に震えていた。
 
 
 
 『え・・・ なに??

  ホヅミさん・・・ なにがあったの? どうしちゃったの・・・?』
 
 
 
暫くミヨコは俯いたままだった。

真実を言っていいのか、考えあぐねる。
伝えていいのか、伝えない方がいいのか。
シオリの現状をショウタに伝えたところで、それがどうなるのか。
 
 
 
 
  でも、もし。
  もし、本当に神様がいるのだとしたら、もしかしたら。

  もしかしたら、ふたりを・・・
 
 
 
 
そっと顔を上げた、ミヨコ。

頬に幾筋もついた哀しい涙の跡が、居間の照明に照らされ光ってやけに目立つ。
ショウタがなにかを覚悟するように、身を硬くして息を呑んだ。
 
 
 
 『シオリちゃんの・・・ お兄さん・・・

  意識が戻ったって・・・
 
   
  シオリちゃんは・・・

  まだ・・・ まだ、結婚はしてない

  従兄弟の彼と・・・ 婚約も、まだ・・・
 
 
  今、過労で倒れて療養してる、って・・・。』
 
 
 
耳に聴こえたそれにショウタが言葉を失くし、目を見張る。

呆然とした面持ちで暫く立ち竦み、そして腰が抜けたようにその場にゆっくり
スローモーションのように膝をつきしゃがみ込んだ。
 
 
そして、心の底から安心したようなやわらかい顔をして呟いた。
 
 
 
 『そっか・・・

  ユズル先生が・・・ 良かった・・・

  ほんとに、ほんとに・・・ 良かった・・・。』
 
 
 
それはやさしすぎる涙声で響いた。

そして、小さく小さくまるで泣いているようにひとりごちた。
 
 
 
 
   『ホヅミさん・・・ 

    ・・・喜んだだろうなぁ・・・・・・・・・。』
 
 
 
 
母ミヨコが思わず息子に駆け寄り、その肩をぎゅっと抱きしめた。

我が息子ながら、こんなにやさしいあたたかい子に育ってくれたことに
胸がいっぱいだった。 こんなに思いやりがある子に育ってくれたことに。
 
  
どれだけショウタはシオリに逢いたいのだろう。 どれだけ傍にいてそれを
一緒に喜びたかったろう。 ショウタの気持ちを考えると胸が痛くて苦しくて
止めどなく涙は流れ伝う。 なんとか出来るものならしてやりたいという親心が
込み上げジリジリとした歯がゆさに奥歯を食いしばった頬が強張る。
 
 
ミヨコの目から伝った涙が、大きくたくましい息子のTシャツの肩口に次々落ち
沁みて小さく滲んだ。
哀しい程にまっすぐで不器用なショウタの背中を、ミヨコの肉付きのよいシワが
刻み込まれた手で何度も何度もトントンと叩いた。 やさしくやさしく何度も。

まるでそれは、小さなこどもをあやすかのように。
大丈夫、大丈夫と、繰り返すかのように。
 
 
 
 『神様は・・・ どんだけ天邪鬼なんだろね・・・

  でも、でも・・・ 神様なんだから、きっと・・・。』
 
 
 
それは、ショウタに言い聞かせるように天に乞うように、ミヨコの震える喉から
発せられた。
 
 
 

■第24話 逢えなかったふたり、出逢ったふたり

 
 
 
ミヨコが涙で濡れた頬を向け、ショウタに言う。
 
 
その顔は訴えるように、真剣な眼差しでまっすぐ見つめて。
ショウタに言い聞かせるように、言いくるめるように、慎重に。
 
 
 
 『いいかい・・・?

  これだけは言っとくけど、保留なんだ。

  今はただ、保留なだけ・・・ 意味、わかるね??』
 
 
 
ユズルは一生車イス生活で、結局はシオリが病院を守ってゆくことには
変わりないという話を、静かに静かにショウタに話して聞かせるミヨコ。
例え早まった行動を取ったところで、以前と状況はほぼ変わっていないのだ。
 
ショウタの筋肉で引き締まった二の腕のあたりを、ミヨコはその肉付きの
いい手でぎゅっと掴んでいた。 まるで、今すぐにでもシオリの元へ飛んで
行くのではないかと、大きなその体を引き留める様に。
 
 
しかし、ショウタは冷静だった。

少し乱暴に掴まれたその二の腕を振り払うこともなく、ミヨコの指先にも
ショウタからの拒絶感は感じない。

ただただ黙ってミヨコの話を聞いていた。
ただただ黙って物哀しげになにか考えているようだった。
 
 
 
ひとつコクリと頷くと、震えながら深く呼吸をして目を伏せるその横顔。
 

  
その横顔を見て、ミヨコは息子がすっかり大人になった事を痛感していた。

あの頃のショウタならミヨコの言うことなど聞く耳持たず、今すぐ玄関を
飛び出しシオリの元へ駆けて行っただろう。
”保留 ”という言葉を耳にしただけで、その頬には希望だけ満面にたたえて
何も深い事は考えず、一心不乱にただシオリへ向けてその脚はガムシャラに
アスファルトを駆けたはず。
 
 
 
 『そっか・・・

  ・・・ユズル先生は、一生・・・・・・・・。』
 
 
 
ぽつり呟いたショウタは、ユズルの無念さや家族の思いを想像し泣き出しそうに
顔を強張らせていた。 喉元に力が入り、ゴツい喉仏がかすかに震えている。
 
 
シオリが兄ユズルを思って、両手で顔を覆い細い肩を震わせ泣く姿を想像する。
また声を殺して、たったひとりで涙の雫をこぼす華奢なその背中を。
 
 
 
 
  シオリの傍にいられたら・・・

  シオリの涙が止まるまでずっと抱きしめていられたら・・・

  シオリの胸の痛みを、ツラさを、少しでも吸収出来たら・・・
 
 
 
 
 
ショウタはいまだ続けている早朝の新聞配達の帰り道は、必ずシオリの病院に
寄り朝靄けむるその巨大な建物をただただ見つめていた。

その無数の窓にはシオリの姿など一度も見付けることは出来なかったけれど、
それでも毎朝同じ場所に原付きを止め、雨の日も風の日もシオリを想って目を
細め遠く見つめていた。

それは時間にしてたった5分、10分くらいの事だった。
ショウタはもう何年も、それを続けていた。
 
 
車イスの背中が、病室の窓越しにその原付きの姿をじっと見詰めていた。
 
 
 
 
 
『お祖母ちゃ~ん?』 6人部屋の戸口で少し遠慮がちに発せられたその声に
ベッド脇に置かれたテレビにぼんやり向けていた目を慌てて戸口に移動させ、
タキは体を起こして嬉しそうに微笑む。
 
 
孫娘レイが再び見舞に来てくれたその日、タキはその再訪を事前に知らされて
いなかった為、驚きと嬉しさでこどもの様にクシャクシャに顔を綻ばせた。

嬉しくて仕方がないタキは、貴重品入れに入れた財布から千円札を出し渡すと
もういい大人のレイに、『好きなジュースでもお菓子でも買って来なさい!』
まるで小学生に接するように言う。
 
 
レイは ”こどもじゃないんだから ”と言い掛けて、やめた。

タキがレイになにか買ってあげたくて仕方ないという気持ちは伝わっていたし
いくらタキより背が高くなり大人になったと言っても、レイはいつまで経っても
タキにとっては小さい小さい孫なのだ。

『ありがとうっ!』 少し大袈裟に喜ぶ姿をタキに見せると、レイは千円札を
片手に握ったまま病室を出て1階の売店へ向けて歩き出した。
 
 
相変わらず引っ切り無しに人が行き交う、その廊下。

看護師が患者の背に手を置き声を掛けていたり、帰ってゆく見舞客との別れを
惜しむ入院着の姿があったり、歩行器で歩行練習をしている背中もある。

そんな騒がしい廊下を歩くレイの耳に、かすかに後方から他とは異種なタイヤが
回転する電動音がする。 それは遠くから、次第にどんどん近付いて。

ふと立ち止まってレイは振り返ると、電動車イスに乗った細縁メガネの男性が
横を通り過ぎる。
 
 
その瞬間、その車イスは言った。 『こんにちは~。』
 
 
 
レイは通り過ぎて行ったその車イスの背中をじっと見つめていた。
 
 
 

■第25話 頭に浮かんで離れなかったその一言

 
 
 
  ”こんにちは~ ” 
 
 
そう言ってその頬に穏やかに微笑みを作り通り過ぎた車イスの事を、
レイはずっと考えていた。 
 
 
タキの病室のベッドに相変わらず行儀悪く腰を掛け、長い足を投げ出して
後ろ手を付いて体重を支えながら。 こどもの様に落ち着きなくブラブラと
足を揺らし、ぼんやり天井を見つめポカンと口は開いたままになっている。
 
 
『・・・なにアレ。』 ぼそっとひとりごちたレイに、祖母タキは『ん?』と
ジュースを片手に掴んだまま一向に飲もうとしないその孫娘の横顔を覗き込む。
 
 
すると、タキは思い出したかのように嬉しそうに言った。

そのシワシワの両手を胸の前で合わせて、少し肩をすくめまるで乙女の様な
祖母のウキウキした様子。
 
 
 
 『そうそう!
 
  ほら、前に話した・・・ ユズル先生に会わせるから、

  ・・・あんた、今日はもう少しここにいなさい!!』
 
 
 
やけに浮かれている祖母をどこか冷静に横目で見ると、レイは小さく呟く。
 
 
 
 『もう会ったよ・・・

  ってゆーか、もう見掛けた・・・
 
 
  ねぇ。 なんで ”あんな顔 ”してんの?アノ人・・・。』
 
 
 
 
今日も車イスのユズルがにこやかに穏やかに、その頬にあたたかい笑みを
たたえて次々掛けられる声に応えながら病院の廊下を進んでいた。
 
 
 
 
 
 
それは、その日の夕暮れのことだった。
 
 
夕食の時間になり、配膳の担当者が次々と各病室にそれを運び入れる。

入院患者はみな自分の病室に気怠げに戻って行って、生ぬるい病院食を
ベッドの上で静かに食べていた。 決して美味しくはないそれに諦めの
溜息が零れ、ただ口の中に入れては数回咀嚼して飲み込む。
 
 
食事をしている姿をじっと真横で見られるのもタキが食べづらいかと、
レイは祖母に『待合室に行って来るね。』 と一声掛けてそっと席を立ち
患者がいない閑散とした待合室にやって来た。 付けっ放しのテレビが
無駄に明日の天気予報を流し続けていて、なんだか物寂しさを助長する。
 
 
大きな窓からは、眩しい橙色がやわらかく差し込んでいる。

レイは足元にまで伸びた夕陽にまっすぐ照らされて目を細めた。
逆光で眩しくて辺りはよく見えなかった。 手を翳して陽を遮りしかめ面を
してあまりに眩しすぎるそれに困り果てた、その時。
 
 
窓辺に車イスの背中のシルエットがぼんやり浮かんだ。
 
 
 
 
  (あ・・・ アノ人だ・・・。)
 
 
 
 
レイはなにも言わずその逆光で翳る車イスをじっと見ていた。

まるで電池が切れた様に微動だにしないその背中。 ただまっすぐ窓の外を
見ているようだった。
 
 
すると、その背中が不意に振り返った。

後方で佇むレイの姿を目に驚き慌ててその顔は微笑んで、『こんにちは~。』 
やわらかい声色を作って囁く。
 
 
『こんばんは。』 嫌味っぽくその挨拶を訂正したつもりはなかったのだけれど
レイのその返答に車イスは、どこか馬鹿にしたように肩をすくめ嗤った。
必死に嘲る声色を隠そうとしているけれど、レイにはそれが伝わっていた。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  なんで、アナタ・・・ そんな顔してんの??』
 
 
 
なんでも直球で投げかけるレイが、その人に向けて頭に浮かんで離れなかった
その一言を呟いた。 それはまるで小さなこどもが親に ”なんで?なんで? ”
と訊くような純粋な声色で。

まっすぐで嘘がない朝陽のように、自由に流れ煌めく彗星のように。
 
 
言われている意味がイマイチ分からないといった面持ちで、その車イスは小首を
傾げ困ったような呆れた顔を向け、それでも尚上手に微笑んでレイを見ている。
 
 
すると、レイは続けた。
 
 
 
 『嘘くさいわよ。 アナタの、その笑う顔・・・。』
 
 
 
その瞬間、車イスのその人がはじめてそっと俯いた。

レイに見えないように隠したその頬はギリギリと噛み締めた奥歯で強張り、
あきらかに不機嫌そうに目を眇めていた。
 
 
 

■第26話 逆光で翳るその姿

 
 
 
ユズルは、ただただゆっくり瞬きをしていた。
 
 
長い長い夢を見ていたような、夢から覚めたような感覚。 
なんだかぼんやりしてしまって、あまり頭の中の思考回路がハッキリしない。

しかし、茫っとしながらも自分はなにも変わり無いつもりでいるのに、
目に飛び込んだ父も母もそして妹も一目で分かるほどに年を重ねていた。

ふと、寝そべり続けている体に起き上がろうと力を入れるも巧くいかない。
 
 
 
 
  (あれ・・・? なんだ?どうしたんだ・・・?)
 
 
 
 
事情が全く分からず戸惑うユズルに、家族から口ごもりながら発せられた
”その理由 ”
 
 
そんな事故の夜の記憶など全くない。
まだ夢の続きを見ているのではないかと思う程、そんな感覚はないのだ。
 
 
 
 
  (僕の脚は・・・ 

   ・・・・・・・もう動かない・・・・・・・・?)
 
 
 
 
その瞬間、家族や周りの人間の態度が一変した。

ユズルを腫れ物に触るように遠巻きに眺めやたらと気を遣って接し、その二度と
動かない脚などまるで見えていないように振舞う人たち。
 
 
疲れているくせに疲れていない顔をし、哀しいくせに精一杯笑い、絶望している
くせにまるで希望がまだある様な目を向ける。
 
 
 
 
  (僕は・・・ 僕はもう、医者には戻れない・・・

   生きている意味なんてあるのか・・・

   ・・・なんで僕は、まだ生きているんだ・・・。)
 
 
 
 
ただまっすぐベッドに横たわり、天井をぼんやり見ていた。
何日も何日もぼんやりそれを見つめ続け、そしてユズルは思った。
 
 
 
 『それでも、やっぱり僕は・・・ 

  ・・・”ユズル先生 ”でいたい・・・。』
 
 
 
それからというものの、精力的にリハビリを受け電動車イスを乗りこなし、
ユズルは病院内を動き回るようになっていった。

満足だった。
みんなが自分に声を掛けてくれ、気に掛けてくれる、笑顔を向けてくれる。
変わらずに ”ユズル先生 ”と呼んでくれる。
 
 
しかし、次第にユズルは気付く。

”同情 ” ”あわれみ ” ”お情け”  皆、一様にその色を含んでいる。
それは家族でさえも。 家族だからこそ、それが強かったようにも感じた。
 
 
 
 『まだ若いのに。』 『せっかく医者になったのに。』 『気の毒だわ。』

 『もう結婚もムリね。』 『病院の長男だもんお金には困らないでしょ。』
 
 
 
陰でコソコソ話している他人の声。人の不幸話は容易に尾びれが付き伝染する。
多くは過敏になっているユズルの被害妄想だったが、実際ユズルのことを揶揄
するそれがあったのも事実だった。
 
 
哀しさ・失望・焦り・イライラが爆発しそうになり、穏やかな表情をつくるにも
限界がきそうになるもユズルはそれを堪えた。
 
 
 
 
  (僕が、腹ん中でなに考えてるか知りもしないで

   まるで崇めるみたいに近寄って来るバカな奴ら・・・。)
 
 
 
 
敢えて余裕を醸し出し、五体満足が当然とも思っているような他者を上から
見下して、動くのならば足蹴にしてやりたいほど心の中で嘲笑ってやった。 

誰もそんなユズルに気付かない。 それは、家族でさえも。
メガネの奥の目は色を失い笑ってなどいない事を、誰も気付かない。
 
 
でも、本心を言えば。
本音を言えば。
 
 
 
 苦しくて泣き叫び続けているこの心を、誰かに分かってほしかった・・・。
 
 
 
  (なんで・・・

   なんで僕の脚はもう動かないんだ・・・

   なんで僕なんだ・・・
 
    
   僕はまだ医者を続けたい・・・

   患者と向き合って、そのツラさを汲み取って、そして笑顔にしたい・・・
 
 
   なのにどうして・・・ 僕の脚はもう立ちあがれないんだ・・・。)
 
 
 
 
 
    ”嘘くさいわよ。 アナタの、その笑う顔・・・。”
 
 
どこの誰かも分からないショートカットのその人が、夕陽を背に逆光で翳る
その姿でぽつり呟いた。
 
 
無性に腹が立つ反面、ユズルはなぜかその人の事が頭から離れなくなっていた。
 
 
 

■第27話 無礼なショートカットの名前

 
 
 
ユズルがいつも通り待合室で入院患者に取り囲まれ和やかに談笑していると、
”その姿 ”が廊下の向こうに見えた。
 
 
ヒョロヒョロに痩せた背の高い、それ。

おおよそ女性らしさなど無い体つきで、大きな歩幅で長い足を前に出し
どこかせっかちに早足に進んでいる。
 
 
思わずぎゅっと口をつぐみ、顔を背けたユズル。

しかしその途端、向こうはユズルに気付いているのか気付いていないのか
分からなかったが自分だけ過剰に気にして俯くのはなんだかやけに癪に障った。

ユズルは胸を張って顔を上げ、敢えて大きな声で笑って取り巻きの様に群がる
患者たちにとびきりあたたかい微笑みを向けた。
 
 
待合室の前の廊下を、痩せたショートカットがアッサリ通り過ぎる。 

その目線は、一瞬もユズルに向けることは無い。
ユズルがそこにいるのかどうかさえ気付いていない様な、その飄々とした横顔。
 
 
 
 
  (なんだよ・・・

   ひとにあんな失礼な言葉掛けといて、挨拶も無しかよ・・・。)
 
 
 
 
ユズルが一際大きな声で笑って、再びチラリ。目線を流す。
しかし、その姿は結局一度もユズルを振り返ることはなかった。
 
 
 
 
 
その日の夕方。
入院患者のタキが、ユズルの元へやって来た。

だいぶ歩行器での歩行が上達してきたタキは、しわがれた手でそれを押しながら
微笑んで、片手はユズルへ向けてひらひらと上機嫌に振っている。
 
 
 
 『ユズル先生!

  うちの孫娘、どうせ先生にきちんと挨拶もしなかったんでしょ~?

  ごめんなさいね、ほんとあの子ったら愛想のひとつもなくて・・・。』
 
 
 
言われた言葉にユズルは首を傾げる。

毎日毎日色んな人に声を掛け微笑んでまわるユズルには、誰が誰だか全く分から
なかったし、正直なところ誰が誰かと判別しようとも思っていなかった。

”自分が微笑んで声を掛けてまわる穏やかな姿 ”を認識させる事にしか興味は
なかった。 色の失せた目で上手に微笑み、内心嘲笑うことにしか・・・
 
 
 
 『ヒョロヒョロに細長い、髪の短い子に会わなかった・・・?』
 
 
 
その一言に、ユズルは一瞬固まった。
 
 
 
 『うちの孫娘・・・ 

  ・・・レイが、失礼なことしなかったか心配で・・・。』
 
 
 
『レイ・・・。』 あの無礼なショートカットの名前をユズルが小さく呟いた。
 
 
 

■第28話 怯むことなく、まっすぐ

 
 
 
レイは、ちょくちょく病院を訪れるようになっていた。
 
 
仕事が終わると足早に病院へ向かい、まっすぐ祖母タキの病室へ駆け込む。

正直なところ、重病人でもないタキの見舞いは毎日ではなくても良かった為
タキ自身、レイの来訪が嬉しい反面少し不思議そうに小首を傾げる。
 
 
 
 『あんた、

  仕事忙しいからあんまりお見舞いには来られないって

  散々言ってたのに・・・ ムリしなくていいのよ・・・?』
 
 
 
『別にムリしてないってば・・・。』 レイはなんだか珍しく歯切れ悪く返す。
そっと前髪に隠れるおでこに手をやり、不貞腐れるこどもの様に俯いたレイ。

車イスの英雄 ”ユズル先生 ”が異様に気になっていた。
あの嘘くさい微笑みが癇に障って仕方がない。
 
 
 
 
  (なんなの・・・?

   なんであんな風に笑うの?アノ人・・・。)
 
 
 
 
病院の廊下で、待合室で、看護師の詰所で、常に人に囲まれて穏やかな表情を
その頬にゆったりとたたえているユズルを本当はいつも目の端で追っていた。

どこかイライラするのだから見たくなどないはずなのに、なぜか必ずその姿を
見付けてしまうし、無意識のうちに探してしまう。
 
 
 
 
 
それは、とある夕暮れ。

またしても夕飯時で、待合室が閑散とした時だった。
各病室から箸やスプーンが食器にぶつかる音や、あまり気乗りしない咀嚼音が
小さく流れて響く。
 
 
自分でもよく分からないうちにどうしても足が向いてしまうそこに、今夕も窓辺に
佇むその入院着の後ろ姿を見付けたレイ。
 
 
やはり黙ってはいられなくて、思わずその背中に唐突に声を掛けた。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  なんでアナタって、そんなにいっつもニコニコしてるの・・・?

  ・・・嘘くさいからやめたら??』
 
 
 
再び突然話し掛けられたユズルは、少し慌てて車イスごと振り返った。

窓の外をじっと眺めていた背中は不意を突かれ、驚いて小さく跳ねるように
肩があがり強張る。
 
 
 
 『どう考えたっておかしいじゃない、

  アナタのそんな状態で、にこやかな顔するの・・・
 
 
  目の奥が笑ってないことぐらい、すぐ分かるわよ・・・。』
 
 
 
レイは少し小首を傾げ、ユズルをまっすぐ見つめる。

その目はユズルの動かない脚にも、常に入院着の痩せた上半身にも、あの事故で
大きな傷を負った額にもまるで怯むことなく、まっすぐ見据える。
 
 
ユズルは一瞬、能面の様な表情の無い冷たい真顔になり、その刹那また穏やかな
笑みを頬に作った。 夕陽で光った細縁メガネの奥の目を細め、口許の筋肉を
過剰にきゅっと吊り上げて。
 
 
そして、ひとつ息をつく。
 
 
 
 『僕は、即死してもおかしくない事故に遭ったのに

  こうやってまだ生きてるんですよ・・・
 
 
  すべてのものに感謝して、生きていかなきゃいけないんです・・・。』
 
 
 
気味が悪いくらい穏やかなやわらかい口調でそう言った満足気なユズルに、
レイは言う。
 
 
 
 『人はそんな簡単に悟ったり出来ないでしょ。』
 
 
 
ユズルの目の奥が、鋭く光る。

なにを言っても厳然とした様で言い返してくるレイが不愉快で仕方がない。 
ユズルに向ける迷いが無いその眼差しも、その言葉ひとつひとつ、すべて。

しかもレイのそれは紛れもない正論だったので尚の事だった。
頬が苛立ちと緊張に少し強張るも、ひくひくとわずかに痙攣するその頬で
なんとかユズルは笑顔を作る。
 
 
ユズルは必死に次の言葉を考えていた。

どういう言葉なら彼女を言い負かせるのか。
”ユズル ”という人間が、どれだけ寛大で慈悲深いかを思い切り彼女に
知らしめる言葉を、懸命に。
 
 
すると、暫く黙ったままだったレイが哀しげに小さくかぶりを振った。
 
 
 
 
   『アナタが本気で泣いたり怒ったり嘆いたりするのを、

    誰が責めるってゆうのよ・・・
 
 
    誰も・・・ 神様だって・・・ アナタを責めたりしないのに・・・。』
  
 
 
 
レイのその声は泣いているのかと思うほど震えていて心許なくて、ダイレクトに
ユズルの胸に突き刺さった。

それは、他の人の同情や憐みを含むそれとは全く違った。
確かな温度をもって、冷たく凍り固まったユズルの胸の奥にじんわり沁みる。
 
 
唇を噛み締め、うな垂れて、ユズルがぎゅっと目をつぶった。
その目にはいまにも零れそうな涙が滲んでいた。
 
 
 

■第29話 ホヅミ ユズル

 
 
 
ユズルはそれでも ”穏やかなフリ ”を続けていた。
 
 
病院の廊下でレイとすれ違う時も、敢えて患者たちに聖人のような微笑みを向け
崇めるようなその人びとの目をレイに思い知らせようと躍起になった。
 
 
しかし、レイはそれを見もしなかった。

全く興味がない顔をして、しれっと通り過ぎる。
微かに眉根をひそめ不機嫌そうな顔になりかけ、慌てて頬に笑みを作るユズルを
目の端で確認しては心の中で小さく笑っていた。
 
 
 
 
  (なーにガムシャラになってんだか・・・ バっカみたい・・・。)
 
 
 
 
そして、夕飯時になるとふたりは決まって待合室にやって来た。

窓の外を見つめるユズルは、その景色になど全く集中出来ていなかった。
今か今かと、背後から掛けられる ”その声 ”を待つ。

そっと左手首の腕時計に目を落とすと、夕飯がはじまってもう5分経っていた。
 
 
 
 
  (なんだよ・・・ 遅いじゃないか・・・。)
 
 
 
 
待合室で決まった時間に待合せをしている訳でもないのに、その時間になっても
やって来ないレイに不満が募る。
 
 
 
 
  (もう、今日は帰ったのかな・・・

   タキさんの病室の前まで行ってみようか・・・。)
 
 
 
 
ジリジリと苛立つ気持ちが込み上げ我慢出来なくて、ユズルは車イスのレバーを
思い切り右に倒し回転すると、後方の待合室長椅子にレイが静かに佇んでいる
姿が目に入った。
 
 
『いっ・・・ いたのかよ・・・。』 思わず声が裏返る。

常に冷静に穏やかにいなければいけない自分の喉から変な声色が出たことに
ユズルは照れくさそうに慌てて咳払いをして誤魔化した。
 
 
『ずっといたけど。』 レイはクスっと笑って立ちあがる。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  いっつもなに見てんの? この窓から・・・。』
 
 
 
ユズルの隣に立ち、レイが待合室の大きな窓からそっと景色を眺める。
 
 
 
 『やっぱり、立って見てた時と・・・ 違う? 景色って・・・。』
 
 
 
レイは他の人が気を遣って決して訊かない事をズバズバ訊いてくる。
”オブラートに包む ”という言葉は習ってこなかったのかと思うほど。

しかし、なんだかユズルは嫌な気はしなかった。
レイのそのストレートな言葉が、まっすぐ胸に突き刺さる。
 
 
レイの嘘のないまっすぐな、その濁りひとつ無い言葉が。
 
 
 
 『あの道を通り過ぎる人を見てるんです・・・。』
 
 
 
ぽつりユズルが呟いた。

ゆっくり歩く姿、足早に駆ける姿、学生らしき数人で愉しそうに笑いながら
通り過ぎる姿、親子で手をつなぎ歩く姿、みな一様にさも当たり前みたいに
目の前の歩道をゆく。 片足を前に出し、他方の足を蹴り出して。
 
 
 
 『みんな・・・ 歩いてるんですよね・・・。』
 
 
 
それは患者たちを前に余裕を出し雄弁を振るう ”ユズル先生 ”とは全く
別人のそれだった。

”ホヅミ ユズル ” という人間から出た、小さな素直な響きだった。
 
 
 
『ねぇ、ホヅミ君・・・。』 窓の外を見続けるユズルを、レイがまっすぐ
見つめて静かに口を開いた。
 
 
 

■第30話 レイの手の温度

 
 
 
 『ねぇ、ホヅミ君・・・。』
 
 
はじめて呼び掛けられた名前に、ユズルは戸惑いながらレイに視線を向ける。

誰からも呼ばれる事がないその ”ホヅミ君 ”という呼称に、面映さを隠し
きれない。
 
 
レイは少し俯いて考えながら、しずしずと二の句を継いだ。
 
 
 
 『肩・・・。』 
 
 
 
遠慮がちに呟いたレイのその一言に、ユズルは首を傾げる。

『肩??』 自分の肩になにか付いているのかと、左右に首を動かしてそこに
なにかあるのか確認しようとした。
 
 
すると、小さく首を2回横に振ってレイは続けた。
 
 
 
 『肩・・・ 凝るでしょ?

  ずっと上半身だけ使って生活してると・・・。』
 
 
 
『ぇ。』 ユズルはそのレイの言葉に驚いていた。

実は車イスに乗り始めてから肩や首の凝りがひどかった。 たかがレバーを
握って倒すだけの動作なはずなのに、微動だにしない下肢を上肢すべてで
補おうとする行為は自分で思うよりもずっと負担が掛かり、それは肩や首、
利き腕に直接響いていた。
 
 
しかし、誰にもそんなこと言いたくなかったユズル。
誰にも弱い所を見せたくなかったし、誰にも肩も首も触れられたくなかった。

決してそれを悟られないようにしていた。 特に母親になど知られたら毎日毎日
うんざりするくらい過剰にマッサージされるのは目に見えていた。 
 
 
そしてきっと、母親ならこう言うだろう。
 
 
 
  ”可哀相に ” ”ツラいでしょ ” ”代われるのものなら代わりたい”
 
 
 
そんな言葉を掛けられ続けながら肩に触れられるなんて、考えただけでも
ゾっとする。 余計に体中が不調になりそうに思えた。

ユズルは人前ではさも平気な顔をして、夜に病室でひとりになった時にだけ
自分で肩や首や腕を揉んで硬く凝り固まったそれをマッサージしていたのだ。
 
 
『ぁ・・・ ぅん、えぇ。まぁ・・・。』 突然のレイの言葉になんだか
バツが悪そうに返したユズル。 咄嗟に小さく本音を漏らしてしまった。 
”別に。 ”と否定だって出来たはずなのに。
 
 
すると、レイはそっと車イスの後ろに立った。

ユズルの背中に、レイのどこか緊張しているような気配が伝わる。
そして、ユズルの痩せた肩に手を置くと、ゆっくりゆっくり石のように硬く
冷たいそれをやさしくほぐしてゆく。
 
 
 
 『・・・・・。』 
 
 
 
ユズルは言おうと思って準備していた言葉を、咄嗟に飲み込んでいた。

もし、レイが肩に触れる前に ”肩揉んであげようか? ”と訊いてきたら、
すぐさま間髪入れずに断ろうと思っていた。 

”別に大丈夫です。”と上手に微笑んで。
”自分でマッサージしてるので結構です。” とでも言おうかと。
 
 
しかし、レイはユズルになんの意思確認もせず、勝手に肩に手を置き勝手に
マッサージを始めた。
自分の片手で毎夜毎夜ぎこちなく肩を揉みほぐすのとは全く違う、その感触。
 
 
レイの手の温度に、ユズルの肩がゆっくりほぐされてゆく。
 
 
 
  心が、じんわりほぐされてゆく。
 
 
 
それは、時間にして5分くらいのものだったのかもしれない。

その間ずっと眉根をひそめユズルは俯いていた。
手をぎゅっと握りしめ、その拳を微動だにしない脚の上に置いて。
  
言葉では言い表せない感情が、じわじわ胸に込み上げる。
 
 
レイの手が離れた瞬間、思わずユズルは顔だけ振り返ってレイを見つめた。

ただちょっと見たつもりだったユズルのその目は、自分で思うよりもずっと
寂しそうな物足りなそうな色が濃かったようで。
 
 
 
 『なに? まだ足りない??』
 
 
 
レイが可笑しそうにクスクス笑う。
『お金取るわよっ!』 と愉しそうに笑いながら、再びユズルの肩に手を置いた。
 
 
触れる手の温度が、ユズルの頬にも伝染してそれを赤く染める。
 
 
 
 
  もっと、触れていてほしい・・・

  触れてみたい、レイの手に・・・
 
 
 
 
まるで思春期の中学生の様にユズルは肩をすくめて俯き、ジンジンと熱くなる
頬をどうすることも出来ずにいた。
 
 
 

■第31話 誤魔化しきれないその想い

 
 
 
 『明日もタキさんのお見舞いに来るんですか・・・?』
 
 
レイに肩を揉まれたまま、ユズルがどこか遠慮がちに後ろのレイへ訊く。

なるべく自然に問い掛けたつもりでいるが、どう誤魔化そうともその耳は
赤く染まってしまっている。
 
 
『明日は仕事で遅くなるから、どうかなぁ~・・・。』 斜め上方を見つめる
ように小首を傾げ少し考え、そう返したレイ。 その手は止まりユズルの肩に
やさしい温度を伝える。
 
 
『夜8時まで面会は出来ますよっ!!』 ユズルは語尾が重なる勢いで言った。
 
 
なんだか焦るようにやたらと早口で返されたそれに、少し驚いた顔をしたレイ。
『ん~・・・。』 自分の体重を、ユズルの肩に置く親指の指先にかけながら。
 
 
 
 『8時かぁ~・・・

  ん~・・・ 8時までここに来られるかどうか・・・。』
 
 
 
すると、ユズルが凄い勢いで顔だけ振り返った。
 
 
 
 『なんでそんなに遅くまで仕事するんですかっ?!』
 
 
 
そう言う顔は眉根をひそめて口を尖らせ、目も眇めている。

いつも患者の前で聖人のような穏やかな表情を上手に作り微笑んでいる人と
同じそれとは思えない程の、こどもっぽい顔にレイは吹き出して笑った。
 
 
 
 『なーに怒ってんのよっ??』 
 
 
 
思わずユズルの肩を揉むレイの手は止まり、ただそっとそこに手を置いた。 

そして、ポンポンと手の平で肩をやさしくノックするように2回打つと、ユズルの
入院着越しの肩に歯がゆく切ない振動が伝わり、それはいとも簡単に全身を
回り心臓まで達してぎゅっと締め付ける。
 
 
レイの笑う声が、手のぬくもりが、まっすぐな視線が、容赦なく。
 
 
 
からかう様に笑われて、急激に恥ずかしくなったユズル。

胸の鼓動を堪え慌てて前を向きしかめ面で俯いた。 手持無沙汰に自分の指先を
絡めたりほどいたり、無意味に爪を弾く。
 
 
 
 『べ、別に・・・ 怒ってないですけど・・・。』
 
 
 『変なの~・・・。』
 
 
 
そしてまた、レイがケラケラと可笑しそうに笑った。
薄暗い静かな病院待合室に、やわらかい笑い声がやさしく響いていた。
 
 
 
 
 
レイが帰って行ったその夜。
ユズルは自分の病室でひとり、窓から見える満月をぼんやりと見ていた。

今夜の月はあまりに澄み渡っていて、ユズルが必死に隠そうとする本音も
まるでお見通しだと言わんばかりに輝いてその光をまっすぐ差し込む。
 
 
手を伸ばしそっと自分の肩に触れてみる。

先程までレイが揉みほぐしてくれていた、その肩。
男らしさの欠片も無い、痩せて心許ないすっかり細い肩。

それを情けなく恥じるかの様に、レイの手のぬくもりを思い出すかの様に
手を置いて俯きぎゅっと目を閉じる。
 
 
 
 
  (レイさん・・・。)
 
 
 
 
切なげに閉じていた目をそっと開いたユズルに、一番最初に見えたもの。

それは、微動だにしない自分の脚だった。
 
 
入院着を着た、筋肉が落ち痩せ細ったその脚。
自分の脚という感覚すらない、触ってもなにも感じないその脚。
 
 
 
 
  (僕は、一生その脚で生きていかなきゃいけないんだ・・・。)
 
 
 
 
思わず握り拳を作って、思い切り脚に打ち付けた。

何度も何度も殴り付ける。
苦々しく顔を歪め、唇を噛み締めて何度も何度も。
しかしどんなに強く殴っても殴っても、痛みは感じない。 なにも感じない。
殴り続けた拳だけが、赤くなってジンジンと熱にも似た痛みを発した。

まるで他人のそれの様な、人形のそれの様な、わずかな感覚もない脚。
 
 
少しずつ少しずつ形を成してゆくレイへの淡い想いを、もう自分でも誤魔化し
きれなくなっていた。
 
 
レイともっと話がしたい、レイともっと笑い合いたい、レイに傍にいてほしい、
レイともっと、ずっとずっと・・・
 
 
 
しかし、目に入った痩せ細った脚にユズルはかぶりを振って小さく嘲笑った。
 
 
 
 
  (この脚で、なにをどうするってゆうんだ、僕は・・・。)
 
 
 
 
『くそっ・・・。』 ユズルの目に涙が滲んでいた。

持ちあがらないくらい首をもたげると、細い肩が小刻みに震え哀しい嗚咽が
静まり返ったひとりぼっちの病室に響く。
 
 
こんな体になった自分を心の底から呪いたくなった、静かな満月の夜だった。
 
 
 

■第32話 希望を見い出した表情

 
 
 
レイに少しずつ本当の顔を見せる様になったユズルは、次第に周りにも感情を
出すようになっていった。
 
 
毎日日課のように病室を巡っていたそれも、気分が乗らない時は自分の病室
から一歩も出なくなったり、母親や看護師に対してもどうしても堪え切れない
時はイライラをぶつけたり素っ気ない態度もした。

一言も口を利かない日があったり、にこりとも微笑まない日もあった。
そして次第に、ただの入院患者のひとりとして認識されはじめていた。
 
 
それは、ある日のこと。

母マチコが着替えが入った紙袋片手にユズルの元へやって来た、とある夕暮れ。
敢えて夕飯時間に目掛けて来たマチコは、ユズルの好物のおかずを密閉容器に
入れ自分の分の簡単な弁当も持参し、病室で一緒に夕飯をとろうとしていた。
 
 
すれ違う顔見知りの患者や付添家族に挨拶をしながら、マチコは夕暮れの
廊下を静かに進む。
 
 
すると、廊下向こうの待合室からユズルの愉しそうに笑う声が聴こえてきた。

穏やかに微笑むことはあっても、笑い声を上げてケラケラ笑うユズルのそれなど
暫く聴いていなかったマチコ。 あまりに愉しそうな笑い声に、慌ててそれが
響く方向へ嬉しそうに目を向けた。
 
 
すると、そこには夕陽に照らされながら眩しそうに目を細め笑い合うふたりの
影があった。 車イスのユズルの肩に手を置き、クスクス笑いながらマッサージ
している女性の姿。

ふたりのそのやわらかな距離感に、思わず息を殺してマチコは立ち竦む。

なにか声を掛けたって良かったはずなのに、なぜか喉の奥からは一言も発する
ことが出来なかった。 音を立てないように数歩あとずさると慌てて踵を返し
自宅へ向けてマチコは走り去った。
 
 
ユズルが久々に見せたあんな顔、あんな笑い声。
マチコは嬉しい反面、胸に渦巻く恐怖にも似た不安に顔を歪めた。
 
 
 
 
  (ユズルが、傷付くだけなんじゃないのかしら・・・。)
 
 
 
 
その夜。

過労により数日間療養しその後復帰していたシオリが、勤務が終わり帰宅した
気配にマチコはリビングテーブルの椅子から乱暴に立ち上がると玄関へ駆け出し
シオリにしがみ付くようにその二の腕を掴んだ。

『ど、どうしたの・・・?』 不安気に見つめ返すシオリに、マチコは待合室で
見掛けたユズルの話をする。
 
 
シオリは少し驚いた様子でマチコの話を黙って聞いていた。
そして、どこか嬉しそうに目を細め頬を緩める。
 
 
 
 『でも・・・

  お兄ちゃんが、その人がいてくれることで生きる希望にな・・・』
 
 
 
言い掛けたシオリへ、マチコがまくし立て遮る。

『でも、あの子は・・・ ユズルは一生車イスなのよっ?!』 
 
 
 
 『アカの他人が・・・ あの子を一生面倒みながら生きてくなんて・・・

  途中で投げ出されたりしたら・・・ ユズルが、余計にまた・・・。』
 
 
 
マチコの声が、涙が混ざった震えたものに変わる。
 
 
シオリはそんなマチコをやさしく、どこか寂しそうに見つめる。

マチコの気持ちは分かる。 自分にはなんの非も無い事故で一生車イス生活に
なった息子に、これ以上哀しい思いはさせたくない。 目の前に現れる障害は
全て取り払ってあげたい。 ユズルが転ばぬように痛い思いなどしないように。
 
 
マチコを諭すように、シオリはやわらかい声色で言う。
 
 
 
 『私たちは必死にお兄ちゃんを守ろう守ろうと囲うけど、

  その人は逆に外の世界へ引っ張り出してくれるのかも・・・
 
 
  身内じゃないからこそ・・・

  私たち家族には与えられないものを、あげられるのかもよ・・・。』
 
 
 
シオリの静かなあたたかい声に、マチコは尚も涙で滲んだ不安気な目を向ける。

指を絡め俯いて、それでもまだ心配で堪らないといった面持ちの母マチコに
シオリは続けた。
 
 
 
 『お兄ちゃんが誇りをもって、

  その人と生きていけるっていう ”なにか ”があればいいのにね・・・。』
 
 
 
 
 
その時レイは自宅の自室でひとり机に向かい、ノートパソコンの画面をまっすぐ
見つめていた。

その顔は真剣そのもので、細く眇めた目は画面に表示された長い文章を読み込み
引っ切り無しにその右手人差し指はマウスを動かしてスクロールをする。
 
 
そして、嬉しそうに思い切り口角を上げて笑った。
 
 
暗い部屋にぼんやり浮かび上がるディスプレイの明かりに、レイが希望を見い
出した表情が眩しい程に輝いていた。
 
 
 

■第33話 絡み合った視線

 
 
 
ユズルは毎日、レイが来るのを今か今かと待ち侘びるようになっていた。
 
 
自分の病室の窓から、待合室の大きな窓から、せわしない長い廊下の窓から。
時には1階の正面玄関まで下りて行って、ヒョロ長い痩せたその姿を探した。

ユズルの電動車イスは右往左往し病院の廊下を落ち着きなく動き回っていた。
 
 
レイもまた早くユズルの元に駆け付けたくて、仕事中にも関わらず何度も
何度も左手首の腕時計に目を落とした。 終業時間まであと数時間もある
その時計の文字盤に不貞腐れるように小さく溜息を零していた。
 
 
やっと夕方になり、ふたりはいつもの待合室でどこか照れくさそうに今日も
見事な橙色の夕陽を眺める。

互いに逢いたくてこの時間を心待ちにしていたくせに、顔を見合わせると
憎まれ口しか出てこない、まるで中身は小学生の様な図体だけ大きなふたり。
 
 
ユズルがチラっと横目でレイを確認しながら、大きく肩を廻す。

それはあきらかに肩が凝っている ”アピール ”で、大袈裟に首を左右に倒し 
『んぁあ・・・』 しかめ面で少し気怠いうめき声まで上げてみせる。
 
 
レイに少しでも触れてほしくて、レイの手の平の温度を少しでも感じたくて、
肩や首の凝りをほぐして欲しいだけではなくて。

決して言えはしないけれど、心の中をさらすならば・・・
 
 
 
  本当は、レイの手を握ってみたい

  本当は、レイを抱き締めてみたい

  本当は、レイの唇の温度を知りたい
 
 
 
肩をすくめてクスリ笑うレイ。 こどもの様なユズルが可笑しくて仕方ない。

『凝ってんの~・・・?』 口角を上げて、チラリ流し目をする。
あきらかに見抜かれている、その下手くそなユズルの ”アピール ”
 
 
『・・・いや、別に。 そうゆう訳じゃ・・・。』 ユズルは自分がしている
こどもっぽい行為が途端に恥ずかしくなり、慌てて否定した。
 
 
 
 『・・・あっそ。 凝ってる訳じゃないのね?』
 
 
 
ユズルに向けていた目線をレイはアッサリはずして窓の外を遠く眺める。
そして窓ガラスに映ったユズルの様子を、笑いを堪えながらこっそり見つめた。
 
 
レイから素っ気なく突き放され、なんだかそれはそれで面白くないユズル。
『・・・・。』 ムっとした面持ちで口をつぐんだ。
 
 
そして、ぽつり呟く。
 
 
 
 『やっぱ・・・ 少し凝ってる、かも・・・。』
 
 
 
こっそりクククと笑いながら、レイはわざとシレっと言う。
『あー・・・ まぁ、 ”少し ”なら平気じゃない?』
 
 
するとユズルは目を眇め駄々っ子のように口を尖らした。
 
 
 
 『もしかしたら・・・ 

  ・・・触ってみたら、結構凝ってるかもしれないよっ!!』
 
 
 
その一言にレイが腹を抱えて可笑しそうにケラケラ笑った。 体を屈めて
可笑しくて仕方ないといった風に、いつまでもいつまでも上機嫌に笑っている。
笑われ過ぎてユズルは増々こどもの様に不貞腐れる。 

しかし、そっと肩に当てがわれたレイの手の温度に途端に俯いて黙りこくった。
レイのぬくもりに、ユズルの心はじんわりあたたまり満たされていた。
 
 
レイはユズルのリハビリにも付き合うようになっていた。

それは療法士が行う本格的なものではなく、自分で日常的に行う軽いものだった
けれど自分ひとりでやるよりレイが傍にいてくれた方がヤル気が出た。
レイが傍にいて、ユズルを褒めたりわざとけなしたりして、ふたり笑いながら。
レイは決して手を出したり助たりはしなかった。ただただ傍で笑って見守った。
 
 
 
 
 
ふと待合室の壁にかかる時計を見ると、その短針は面会時間が終わる8時に
近付いていた。

見間違いで本当は7時だった、という限りなく低い可能性に賭けてもう一度
チラリ壁掛け時計に目を遣るも、やはり無情にも時計の針は8時を差していて
ユズルは眉根をひそめて不満気な顔を作る。
 
 
そして小さく呟く。
 
 
 
 『もう少し、リハビリ付き合ってよ・・・。』
 
 
 
レイも壁掛け時計は気にしていた。 しかし、もうそんな時間はあまり無い。

『今日はもう充分なんじゃない?』 言い聞かせるように返すも、ユズルは
何故か頑として引かない。
 
 
 
 『いや・・・ あの・・・

  ・・・あと15分でいいから・・・。』
 
 
 
『ん~・・・。』 渋っているレイに、 『じゃあ、あと5分でも!!』
 
 
なぜか今夜に限って聞き分けが無い、やたらと必死なユズルにレイは笑う。
 
 
 
 『5分じゃなんにも出来ないじゃない。』
 
 
 
口をつぐんで黙りこくったユズルを、レイはそっとやさしく見つめた。
眉間にシワを寄せほんの少し下唇を突き出して、まるで小さなこどもだ。
 
 
 
 
  (最初の頃の、あの聖人みたいな顔はどこにいったのよ・・・?)
 
 
 
 
『ねぇ、素直に言ってみたら・・・?』 少し体を屈めてユズルに目線を
合わせまっすぐ見つめる。 突然のその熱を持った視線に、驚き所在無げに
慌てて目を逸らすユズル。 それでもモゴモゴと何か言いたげに要領を得ない
ユズルに尚もレイは追い打ちを掛ける。
 
 
 
 『ん~・・・? 

  ・・・なんか言いたい事があるんじゃないのぉ~・・・?』
 
 
 
レイにからかう様に指先でツンツンと二の腕をつつかれ、ユズルが睨む様に
どこかすがる様に目を眇めてレイを見た。
 
 
そして、小さく小さく心許ない声色で呟いた。
 
 
 
 『ま、まだ・・・

  もう少し帰らないで・・・ ここに、いてよ・・・。』
 
 
 
レイが愛おしそうにユズルを見つめ返して、微笑む。
 
 
 
 『まどろっこしいのはキライ。

  ・・・最初っから、そう言いなさいよね~・・・。』
 
 
 
そして、両手を伸ばしてそっとユズルの手を握った。

動かない脚の上で駄々っ子のようにキツく握り締めていたユズルの拳が、
レイの指先の温度にビクっと跳ねる。
 
 
 
  その指先があたたか過ぎて、心が震える
 
 
 
ユズルのその意外に繊細な指先と、レイの細くて長い指が愛おしそうに絡まる。

ユズルは震える手でレイのあたたかいそれをしっかり握り返した。
両手で包むように、しがみ付くように、全力ですがるように。
自分の額に、頬に、擦り寄せるようにレイの手を大切に大切に包み込む。
 
 
 
  目を上げたその瞬間、ふたりの視線が絡み合った
 
 
 
すると、ユズルがしっかり掴むレイの手をぎゅっと引っ張った。

突然のそれに少しよろけ前屈みになったレイ。 ユズルはその頬に片手を当て
渾身の力を込めて精一杯上半身を乗り出し、顎を上げる。
 
 
 
 
そして、そっと短くキスをした。
 
 
 
  はじめて、手を繋ぎ指を絡め

  そしてはじめて、唇がふれた
 
 
 
 
まるで初めてキスしたの時ように、心臓は壊れそうに早く打ち付ける。
 
 
 
  どきん どきん どきん どきん ・・・

  ドキン ドキン ドキン ドキン ・・・
 
 
 
切なくて愛しくて恋しくて、そして苦しい。
 
 
レイが驚いてせわしなく瞬きを繰り返しながら、照れくさそうに目を伏せ
そっと唇を離し、そしてユズルを見つめ微笑む。

それはどこか哀しげな瞳で、寂しさに震えているようで。
 
 
 
 『ホヅミ君・・・

  ウチのお祖母ちゃんね、明日で退院するの・・・。』
 
 
 

■第34話 ポケットから出て来たメモ紙

 
 
 
 『ぇ・・・ 聞いてないよ・・・。』 
 
 
静まり返った待合室に、ユズルの震える声だけ小さく落ちた。
突然聞かされたタキの退院に、ユズルは目を見張る。
 
 
入院していた患者が退院するなんて、そんなの当たり前な事なのにユズルの
頭の中は一度もそれを考えたことがなかった。 ずっとタキはこのままあの
病室にいて、そしてレイは病院に見舞いにやってくるのだと。
 
 
レイは夕暮れになると待合室にやって来るのだと・・・
 
 
タキが退院するということは、それはもうレイは病院に通わない事を意味する
訳で。 しかも、それが明日だという。 もう今は面会時間が終わり間際で、
今日という日も終わろうとしているというのに。
 
 
『・・・言ってなかったっけ?』 ユズルに中々言い出せなかったレイが隠し
きれない寂しさをまるでおどけるように明るい声色で繕うも、それは逆に虚しく
床に落ちる。 レイのそれも微かに震えていた。
 
 
 
 『聞いてないよっ!!!』
 
 
 
すっかり感情を剥き出しにするようになったユズルが、車イスのレバーを慌てて
倒し回転して、どうしても堪え切れず歪んでいく顔を隠すように背を向けた。
 
 
なぜちゃんと言ってくれなかったのか、どうせ短い間だけの関係ならわざわざ
言う必要ないとでも思ったのか、やっぱり車イスの自分の事など真剣に考えて
いなかったということか、そもそも自分のことなどなんとも思っていなかった
のかレイの心中を疑り猜疑心でいっぱいのユズルの目は、耳は、痛々しい程に
どんどん真っ赤に染まってゆく。
 
 
『・・・なに怒ってんのよ・・・。』 レイが哀しげに俯いてそっとユズルの
肩に手を置いた。 するとその手を払うように肩を揺らし拒絶するとユズルは
低く呟く。
 
 
『別に・・・ 怒ってないけど・・・。』 そう言いながらもユズルの手は
ガタガタ震えていた。 裏切られた様な気持ちになり、レバーを握る手に
イライラに似たどうしようもない寂しさが込み上げ募る。
 
 
 
 
  (明日で終わりなんだ・・・

   もう、肩を揉んでもらうことも、リハビリに付き合ってもらうことも
 
 
   もう・・・

   もう・・・ レイさんには、逢えないんだ・・・。)
 
 
 
 
そんなユズルの震える背中を、レイは目を細めて見つめた。

『ねぇ・・・。』 レイが静かにユズルの後ろに立って、再びその痩せた肩に
そっと手を置く。 しかしユズルは強張った顔で俯いたまま返事をしない。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  ・・・ケータイ、持ってるんでしょ・・・?』
 
 
 
レイはいまだ哀しげな仏頂面のユズルを後ろから覗き込み返事を待つと、
暫し無言だったそのキツくつぐんだ口は、『ん。』 と不機嫌そうに返した。
 
 
すると、レイは小さく笑って言った。
 
 
 
 『・・・肩凝ったら電話して。 すぐ、来るから。』
 
 
 
その一言に、ユズルが思い切り顔を後ろに向け振り返る。

目は見開いて、今耳に響いたそれが嘘ではないか、聞き間違いではないか
確かめる様にレイを射る程にまっすぐ見つめる。
 
 
『私、チマチマとメール打つの面倒だから。 電話にしてね。』 そう言うと
レイは上着のポケットから電話番号を書いたメモ紙を取り出し、差し出した。
 
 
その細い指先が掴んでいる、レイらしい飾りっ気のないメモ紙。
 
 
ユズルは自分の動かない脚を睨んで、やはりもう誰かを恋しく想うなんて無駄な
事なんだと、傍にいたいと傍にいてほしいと思うことなど無意味なんだと自分に
言い聞かせようと俯いていたその耳に聴こえた、レイのその一言。
 
 
 
 
  (また・・・ 

   逢おうと思ってくれてる、って・・・ことだよな・・・?)
 
 
 
 
ユズルはポケットから出て来たメモ紙にじっと目を落としていた。

はじめて見たレイの字。
大雑把で豪快なレイらしい、勢いのある小気味よい字。

なんだか可笑しくて歯がゆくて、ほんの少し笑える。 
笑えて、そしてなんだか、泣ける。
 
 
それは今思い付きで書いたのではなく、ちゃんと準備されていた。
 
 
 
  ちゃんと、渡すつもりで

  今夜、番号を教えるつもりで・・・
 
 
 
涙が滲む赤らむ目元を見られまいと、必死に深く呼吸をして胸にこみ上げる
それを鎮めようとユズルは必死になっていた。

言いたくて言いたくて仕方ないその一言が、心の中に溢れだす。
 
 
 
 
  (僕は・・・ 

   僕は、レイさんと・・・ ずっと一緒に、いたい・・・。)
 
 
 
 
するとレイは涙を堪えるユズルに気付かないフリをして、明るく言った。
 
 
 
 『取り敢えず、今日は帰るね。 また明日来るから・・・。』
 
 
 
軽く手を上げて、静まり返った待合室にユズルを残しレイは廊下の先に消えた。

ユズルはその背中を何も言えずに見守っていた。 その背中が遠く消えても尚
愛しいその残像を想い見つめ続けていた。
 
 
その手にはレイからのメモ紙が強く強く握り締められている。
ユズルの震える手の平の熱で、それは少しクッタリよれていた。
 
 
 
 
すっかり照明も落ちた暗い正面玄関を抜け、レイは表通りに歩みを進めた。

自分の落とすスニーカーの靴音だけがアスファルトに小さく響き、通り向こうの
車道を走る車の走行音がせわしなく遠く聴こえる。
 
 
レイは一度振り返って、ユズルがいつも佇む待合室の窓を切なげに見つめる。

ユズルの前では気丈に振舞っていたレイの目元も少し潤んで赤らんでいた。
そして、すぐ向き直って前を向き再び歩き出した。
 
 
その時。
 
 
 
  ♪~♪♫・・・♪・・♪♪♪~♪♫・・・♪・・♪♪
 
 
 
 
 『も・・・もしもし??』 

レイのケータイが知らぬ携帯番号からの着信を受けて鳴った。
 
 
 

■第35話 ガラス一枚挟んで

 
 
 
 『も・・・もしもし??』 
 
 
すぐに掛かって来たその電話。 

ケータイ画面に表示されたそれは知らない11桁の数字。
それはレイの電話番号は知っているけれど、レイは登録をしていない電話番号と
いう事を意味する訳で。 掛けて来た相手が誰か分からないはずもなく。
 
 
『なによ・・・ もう肩凝ったの~?』 レイが第一声、可笑しそうにケラケラ
笑う。 すぐに電話を掛けてきたユズルが愛しくて恋しくて堪らなくてその頬は
ほんのり桜色に赤らむ。

ユズルの真っ赤に染まる耳に当てたケータイ越しには、恋しいその人の上機嫌な
笑い声が響いてじんわり熱い。
 
 
なにも返事出来ずにただ呼吸の音のみ流れるそれに、レイは愛おしそうに目を
細め微笑んだ。
 
 
 
 『さっきまで肩揉んでたのに~・・・。』
 
  
 
それでも尚、なにも言えずにいるユズル。

互い、愛しさと切なさが込み上げてどうしようもなくて、でもなんて言って
いいか分からない。
 
 
レイもそっと目を伏せて口をつぐんだ。
 
  
 
 『やめてよねぇ~・・・ もう・・・

  来た道、引き返して戻りたくなっちゃうじゃない・・・。』
 
  
 
すると、
 
『戻って来ればいいじゃん・・・。』 やっとユズルの喉から絞り出すように
声が出た。
 
  
 
 『面会時間、8時迄でしょ~』
 
  
 『僕が看護師長に言えばなんとでもなるよっ!!』
 
  
 
矢継ぎ早に返って来たどこか高慢に感じるそのユズルらしくない一言に、レイは
目を閉じてかぶりを振った。

 
そして、静かに諭すように言う。 

 

 『そーゆーの、よくないよ・・・

  ・・・ホヅミ君には、そんなの似合わない・・・。』
 
 
 
『じゃぁ、どうすればいいんだよ・・・。』 まるで泣き出しそうに不安定な
声色で呟くユズルに、レイは小さく笑う。
 
  
まるで溜息を落とすように、募る想いのやり場に困って呟いた。
 
 
 
 『・・・そうねぇ・・・ どうしよっか~・・・?』 
 
 
 
すると、暫くレイからの反応がなく無音だったユズルのケータイを当てる耳に
スニーカーの靴底がアスファルトを蹴り上げる音が聴こえた。
 
全速力で走っている為に乱れる呼吸でどこか苦しげに、レイは言う。 
 
 
 
 『正面玄関まで来てっ!!』 
 
 
 
その突然の一言にたじろぐユルズに、 『いいから早くっ!!』
 
 
ユズルは慌てて自分の病室の引き戸を乱暴に開けると、車イスのレバーを大きく
前に倒して進み、廊下奥にあるエレベーターへ乗り込む。 ”1 ”という階数
ボタンを連打し ”閉 ”のボタンも震える指先で押し続けた。 中々閉まらない
エレベーターの扉と、ゆっくりしか降下しないそれにジリジリ苛立ちを感じる。
 
そして1階フロアに到着すると、再びレバーを前傾し急いでレイが指定する正面
玄関へと車イスを走らせた。
 
 
もう施錠され自動ドアのセンサーは反応しない、その暗く静まり返った正面玄関
のガラス戸。 そこにレイが息を切らして飛び込んで来た。 ユズルも慌てて
車イスでそのレイの前に着く。 ふたりの間には決して開かない自動ドアが立ち
塞がっている。
 
 
 
ふたり、ただただまっすぐ見つめ合っていた。
その目には、愛おしく想う互い以外なにも映っていない。
 
 
 
レイはそっと手を伸ばして、ガラス戸に手を付きやわらかくユズルに微笑む。
ユズルも同じように手を伸ばすと、ガラス一枚挟んでふたりの手が重なった。
 
 
ケータイを耳に当てたままのふたり。
なにか言いたげに、しかし言いよどんでただただ切なげに見つめ合っていた。
 
 
ユズルが小さく溜息を落とした。
 
 
 

■第36話 そのもどかしい、じれったい数秒

 
 
 
泣き出しそうな顔でレイを見つめるユズル。

一番言いたくてでも言えない言葉に、口許が歯がゆく引き攣る。
 
 
 
 
  (言ったらどうなるのかな・・・

   ・・・やっぱり、レイさんを困らせるだけかな・・・。)
 
 
 
 
誰も通らない静かな薄暗い病院前の通り。

街灯の心許ない灯りだけ等間隔にぼんやりともり、そこに羽虫が集まって
小さく音を立てている。
 
 
 
  なんだか、この世にふたりだけの様な気になる。

  いっそ、ふたりだけならいいのに。
 
 
 
『なんて顔してんのよ・・・。』 レイが目を細めて微笑んだ、その時。
 
 
 
 『僕の脚、が・・・

  ・・・・・・・・・・・動い、たら、な・・・。』
 
 
 
それは、あまりに心細い声色で震えて落ちた。
 
 
はじめて言葉に出して言った、誰にも言えなかった心からのその願い。

弱音なんて吐けなくて吐きたくなくて、決して口にはしてこなかったそれ。
代わりに、一番言いたい言葉はぐっと飲み込んで鎮めた。
 
 
するとレイはやわらかく目を伏せ、口許を緩める。
 
 
 
 『ホヅミ君の脚が動いてたら、私たちは出逢ってないかもよ~・・・?』
 
 
 『でも・・・

  脚が、動けば・・・ 

  僕の脚が、動いたら・・・
 
  
  ・・・走って、そっちに・・・ 行けるのに・・・。』
 
 
 
それは涙声になって、レイの胸に響いた。

ユズルのツラさ、苦しさ、葛藤、すべてがその一言に集約されている気がして
まるで波紋のようにレイの心に繰り返し繰り返し反響する。
 
 
レイが静かに静かに深呼吸をすると、長いまつ毛が瞬きに合わせ上下した。
そして、溜息をひとつ落とすように囁いた。
 
 
 
 『私が走れるから、別にいいじゃない・・・。』
 
 
 
『でも・・・ でもさ・・・。』 今にも涙が零れそうに目を眇めるユズルを
抱きしめたい気持ちが溢れるレイ。 強く強く抱きすくめてユズルのツラさを
少しでも吸収してあげたい。 ”ダイジョウブ ”と言ってあげたい。

しかし目の前のガラス戸が呆気なくそれを阻む。
 
 
 
 
  (・・・こんな僕じゃ・・・ 迷惑になるだけだよな・・・。)
 
 
 
 
するとそれは小さくあたたかく、強張る顔を必死に隠すユズルの耳に響いた。
 
 
 
 『私ね・・・
 
 
  ホヅミ君が、車イスのストッパーをカチってはずして・・・

  レバーを前に倒して・・・ グィイーンて音が鳴って・・・

  まっすぐ私の方に向かって来てくれる時の、
 
 
  そのもどかしい、じれったい数秒がね・・・ 
 
 
  ・・・堪らなく、好きなんだ・・・。』
 
 
 
レイの口から出た思ってもいなかった一言に、ユズルは言葉を失う。

何気ない些細な日常の行動を、見てくれている人がいた。
ただの日常を、日々繰り返すなんてことない行動を、自分でも意識しない
それを見てくれている人がいた。 
 
 
 
  こんな自分を、見つめてくれている人が

  この世にひとり、いた
 
 
 
 
  (レイさん・・・ 僕は、レイさんと・・・・・・・・・。)
 
 
 
再度ガラス越しに手と手を合わせる、ふたり。
 
 
熱をもった視線が絡み合い、頬が耳が、あつくなる。
こんなガラス戸など突き破り、飛び越えて、直接その手に触れたいのに。
 
 
 
  直接、その震える体を抱きしめたいのに
 
 
 
ユズルの言いたくてでも決して言えない一言が、喉の奥で震えた。

ぎゅっと口をつぐみそれを堪え、自分の脚を憎々しく睨みつける。 その視線は
じわじわ込み上げる不甲斐ない自分への苛立ちに滲んで霞んだ。
 
 
すると、レイが微笑んだ。

まるで躊躇っていた自分をいなす様に小さくかぶりを振る。
ユズルに切り出そうかどうしようか数日間迷っていた ”それ ”を伝えるべき
だと決心していた。
 
 
 
 
  (ホヅミ君なら・・・ きっと、ダイジョウブ・・・。)
 
 
 
 
『明日、ちょっと見せたいものがあるから・・・。』 レイのその言葉に
ユズルが涙で滲んだ目を上げる。 
 
 
 
 『また明日・・・ 

  ・・・明日、また逢おうね・・・ 逢いに来るからね・・・。』
 
 
 
『・・・待ってる。』 ユズルはコクリと頷くと、もう一度ガラスに手の平を
強く強く押しあてた。
 
 
 
ふたりが重ね合っていたそのガラス面だけ、熱を持って曇っていた。
 
 
 

■第37話 どのタイミングに戻れば

 
 
 
コウは自宅の自室でひとり、シオリが眠る病室でそっとその美しい寝顔を
見つめて立ち竦んだ日のことを思い返していた。
 
 
年代物のオーディオ機器から小さく流れるピアノインストゥルメンタル曲が
高級バルセロナチェアーに深く腰掛け、体ごと包み込まれるコウにやさしく
沁みわたる。
 
 
シオリがもう何年も過剰に無理をして疲れ切っているのは分かっていた。
その繊細な心も華奢な体も、もうクタクタだと。

コウはそんなシオリを癒したかった。 自分がやさしくシオリの全てを包み
込んであたたかく守りたいと、シオリを思い悩ます全ての厄介を排除したいと
思っていたけれど、コウの不器用で拙劣な愛情は決してシオリには届かない。
シオリはまるでコウから逃げるように顔を背けた。
 
 
騙し討ちのように婚約をしようとした事で増々シオリの不信感は募り、たまに
休憩室などでふたりきりになりそうになると、慌ててシオリは部屋から飛び出
して行った。

コウの目すら見なくなっていた。
”コウちゃん ”と呼ばれなくなって、もう何年経つのだろう。
 
 
ただ、シオリが好きだった。

完璧なシオリが自慢で、シオリの隣に似合う男になろうとそれだけ考えた。
ふたり白衣姿で病院に佇む姿をこどもの頃から想像していた。
みんなが羨む完璧なカップルになりたかった、ただそれだけだった。
 
 
 
 
 (たとえ今はまだ、

  青りんご君のことを忘れていなくても、いつかはきっと・・・)
 
 
 
 
ベッドの上の潔癖にも思える程のシミひとつない真っ新な布団から覗くシオリの
か細い手をそっと握った。 やさしくやさしく、壊れてしまわないようにやさしく。
ひんやり冷たいその手、細い指先、キレイに切り揃えられたツヤツヤの爪。

全てが完璧なシオリ。
シオリのそれを握る自分の手も完璧だった。
 
 
 
 『なんでこんなに、こじれちゃったんだろう・・・。』
 
 
 
コウが哀しそうに目を伏せシオリの傍らにしゃがみ込むと、両手で包み込んだ
その白い手を頬に当てた。 シオリのひんやりしたそれがコウの頬に冷たい。
 
 
 
 『どのタイミングに戻れば、

  シオリとの関係を元に戻せるんだろう・・・。』
 
 
 
その時、シオリのその折れてしまいそうな心許ない細い手に一瞬力が入りコウの
それを握り返す。 コウは顔を上げ、嬉しそうに握る指先に更に力を込めた。
 
 
 
 『シオリ・・・?』
 
 
 
愛しいその名を呼び掛けたコウに、それは小さく小さく囁かれた。
 
 
 
 
      『・・・ァ く、ん・・・・・・・。』
 
 
 
 
眠っているはずのその閉じた瞳から、哀しい透明な雫が静かに目尻を伝って
枕を濡らす。 わずかに震えるまぶた、長いまつ毛が濡れて揺れて。

コウはその確かに聴こえた、眠るシオリの一言に泣き出しそうな顔を向けた。
ぎゅっと口をつぐみ、その美しい顔を見る影ない程に歪めて。
 
 
シオリがいつも呼ぶのは、”お父さん ” ”お母さん ” ”お兄ちゃん ”
そして、”コウちゃん”
 
 
”君 ”と付けるのは、只一人だけだった。
 
 
 
 
  (・・・夢に見て、泣くほどシオリは・・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
ショウタには敵わないかもしれないという思いが頭をかすめて、慌ててコウは
大きくかぶりを振る。 シオリへの想いは誰にも負けない自信はある。
こどもの頃からシオリを想い続けているのだ、年数ならショウタにも負けない。
 
 
 
  では何が足りないのか。
 
  ショウタに有って自分に無いものはなんなのか。
 
 
 
今日もシワひとつ無い清潔な白衣を身にまとい、髪の毛一本も乱れていない
完璧な容姿のコウが、そっと手を伸ばしてシオリの閉じた目に掛かる窮屈そうな
前髪をやさしく均した。 
 
 
 
シオリの前髪の奥にわずかに覗いていたハの字の困り眉が、再び隠れた。
 
 
 

■第38話 検索ワード

 
 
 
正面玄関前でレイと別れ病室があるフロアに戻ったユズルは、自分の病室ドアの
取っ手に手を伸ばし指先を掛け、その瞬間止まった。
 
 
クルリと回れ右すると、再びレバーを倒して車イスを走らせる。

もう入院患者たちは大人しく自室にこもっている時間で、廊下は昼間のそれとは
違い静かなものだった。 ユズルの車イスは煌々と蛍光灯が明るく照らす看護師
詰所へ向かっていた。
 
 
『どうしました~? ユズル先生』 詰所の出入口で車イスを止めたユズルに、
ひとりの看護師が声を掛けた。
 
 
 
 『紙とペンと・・・ あと、ハサミ貸してくれない・・・?』
 
 
 
ユズルは膝の上に看護師から借りた文房具一式を乗せると、嬉しそうに大急ぎで
自分の病室に戻って行った。 そして広い一人部屋の、見舞客がいつも座る応接
セットのテーブルに文房具を広げる。 ユズルに合わせ特別に部屋に入れたその
テーブルはそのまま車イスに座った状態で丁度良い高さだった。
 
 
まるで画用紙に思いのまま色鉛筆を走らせる小さなこどもの様に、ユズルは少し
前傾し背を丸めてペンを握り懸命にそれを書いた。 ちゃんと文字を書くなんて
久しぶりで少し手が震える。 それでも丁寧に丁寧に一文字ずつ書いた。

途中、看護師が消灯時間だと釘を刺しに来たが、今日だけはと手を合わせて頼み
込みこっそり内緒でユズルの病室だけ深夜遅くまで照明が煌々とついていた。
 
 
完成まであと少しというところで、ユズルの手がピタリと止まる。

” 年 月 日まで有効 ”と書き込んだそれに、最後、日付を入れる直前で。
有効期限を書き加える直前で、ユズルは静かにペンをテーブルに置いた。
 
 
哀しげに寂しげに目を伏せ、不安の色を濃く滲ませて小さく呟いた。
 
 
 
 『レイさんは・・・ 

  ・・・僕と、 いつまで・・・・・・・・。』
 
 
 
 
 
 
そして、翌日。

約束通りレイは病院にやって来た。
仕事が休みだった為、朝から祖母タキの退院手続きに付き添い、そして先に
タキを自宅まで送り届けると、再びユズルを訪ねて来ていた。
 
 
病室フロアまでやって来るのを待ちきれなくて、1階正面玄関の自動ドア前で
待つユズル。 ぎりぎりガラス戸に近付いて手を付き、愛しいその姿を探す。

すると、表通り向こうから見えたその姿は、ヒョロ長い足を蹴り出し走って
こちらに向かっていた。 頬を染めて懸命に走りユズルの元へ向かっていた。
 
 
 
 
  (来た・・・・・・・。)
 
 
 
 
嬉しそうに目を細めるユズルの手の平の熱が一気に上がり、ガラスが切なく曇った。
 
 
いつもは夕暮れの時間帯にしか逢うことがなかったレイが、今日はまだ陽も明るい
午後の昼下がりに病院にいる。 それだけでユズルの心は色とりどりのスーパー
ボールの様に跳ね踊った。 思わず潤んだ目でじっとレイの顔を見つめてしまい
レイはキョトンとして見つめ返し、そして可笑しそうにその痩せた体を屈めてケラ
ケラ小気味よい声色で笑った。
 
 
普段はふたり、ひと気のない待合室で話していたが今日はユズルの病室に行きたいと
言い出したレイ。

よく分からないままユズルはそれに頷き、ふたりは病室へ向けて廊下を進む。
車イスの電動音とスニーカーのゴム底音が交わり、廊下にやさしいメロディを奏でる。
ユズルの車イスが進むスピードは、少しせっかちなレイが歩くそれと同じだった。
 
 
『はじめて入るねぇ~。』 なんだか愉しそうにレイは室内を見渡してにこやかに
口角を上げる。 わざとからかう様にベッドの布団をめくったりして、クスクスと
上機嫌に笑っている。 ユズルは、まるではじめて女の子を自宅に招いた時の様な
気分で、照れくさそうに勝手に緩んでゆく頬を隠すのに必死だった。
 
 
『ここ、借りていい?』 レイは片手に持っていたカバンを応接セットのテーブルに
置くとソファーに浅く腰掛ける。 ユズルもその隣に車イスをつけた。
 
 
レイが少し重そうなカバンのチャックをジジジと開け、中からそれを取り出した。

それはノートパソコン。 病室の壁の差込口にコンセントを差すと、電源スイッチを
指先で押してパソコンを立ち上げる。 立ち上げメロディーが結構なボリュームで
鳴り響きレイは慌てて音量スイッチを押しミュートにした。
 
 
ユズルはじっとそれを見ていた。
今から何が行われるのか、何を見せようとしているのか全く見当もつかない。
 
 
すると、レイは細い指先でくるくるとタッチパッドを触りクリックした。
保存しているブックマークからとあるページを開く。

その顔は少し不安そうで。しかし希望に満ちて、願いが届くように祈るようなそれで。
 
 
ノートパソコンの画面を、そっとユズルの方へ差し向けるレイ。
 
 
 
 『これ・・・。』
 
 
 
その画面に表示されていたもの。

それは ”車イス 医者 ”で検索をかけ調べた数々の現役車イス医師のページだった。
 
 
 

■第39話 誰にも負けない、それ

 
 
 
 『ホヅミ君・・・

  あなたは ”恵まれてる ”って、気付いてる・・・?』 
 
 
 
唐突にレイからそんな事を言われ、ユズルは耳を疑いたじろいだ。

車イスで二度と立ちあがることの出来ない自分が、”恵まれている ”理由など
まったく見当たらないし、相手がレイでなければ本気で憤ってもいい場面だ。
 
 
しかし、その声色はいつものケラケラ愉しそうに上機嫌に笑うそれとは全く違った。

”誰も、神様だって、アナタを責めたりしないのに。” と言ってくれた、
あの夕暮れ時の真剣なそれと同じで。
 
 
 
 『普通は、こうゆう状況になった人は居場所がなくなるのよ。
 
 
  戻る仕事も無い、

  家族にも迷惑かけるばかりで家の中にいても居場所が無い、

  周りに気を遣われるばかりで誰にも本音が言えない。

  八つ当たりと自己嫌悪の連続で、心がひとりぼっちになっていく。

  どんどん殻に閉じこもっていく。
 
 
  でも、あなたには・・・

  ホヅミ君には、ご両親のこの病院があるじゃない。

  今でも ”ユズル先生 ”って呼んで慕ってくれる人たちがたくさんいる。
 
   
  私、いっぱい調べたの・・・

  車イスで医者やってる人が、この世の中にはちゃんといるわ。
 
 
  例え、前までと同じにとはいかなくても・・・

  例え手術室に立てなくたって、診察は出来るでしょ・・・?

  患者さんの声に耳を傾けることは出来るでしょ・・・?
 
   
  患者さんの気持ちに寄り添える、痛みを知ってるあなたなら、

  この先もずっと ”ユズル先生 ”としてここでやっていけるわ。
 
 
  あなたは ”本当の痛みを知る医者 ”として、

  神様に選ばれた人間なのかもしれないわよ・・・。』
 
 
 
ユズルは、なにも言えずに呆然とレイの言葉を聞いていた。
わずかに開いた唇の隙間からは、早鐘の様に打ち付ける鼓動に浅い呼吸をするのみで。
 
 
パソコンのそのブックマークは ”ユズル ”とタイトルが付けられ、日本だけに
留まらず海外の車イスの医者のページまでもが翻訳され保存されていた。

それは、何ページも何ページも。 

レイは毎晩のように病院から戻るとパソコンを立ち上げて、懸命に調べていた。
メリット・デメリット、出来ること・出来ないこと、復帰することで起こり得る
様々な問題を調べそしてそれをページに記した。
 
 
レイは、ユズルにどうしても医者に復帰してほしかった。
居場所を確立して、再び誇りをもって生きてほしかった。
ユズルは医者に戻るべき人間だと思って疑わなかった。
 
 
そして、思い出してほしかった。 誰にも負けない ”その思い ”を・・・
 
 
 
  ”患者と向き合って、

      そのツラさを汲み取って、

         ・・・そして、笑顔にしたい・・・ ”
 
 
 
暫く呆然としていたユズルの目に、じわじわと涙が込み上げていた。

もう戻れないと思っていた。
あの頃には戻れない。

白衣を羽織ることも、院内連絡用の携帯電話を首に提げることも、
痛みに泣き叫ぶこどもを懸命になだめることも、しょんぼり落ち込むお年寄りを
やさしく励ますことも。

あの頃の様に立ちあがれない自分には、もう二度とないことだと思っていた。
 
 
『ホヅミ君・・・?』 レイは震えるユズルの背中に、そっと手を置いて覗き込む。

俯いて隠す暇もない程、それは急速に溢れユズルの頬に次々と伝う。
片手でメガネをはずし、入院着の腕で目をこすって涙を拭う。
肩が震えて胸はしゃくり上げ、レイになにか言おうとするもその涙で詰まる
喉からはたったの一言さえも絞り出せない。
 
 
レイは微笑んでいた。
まるで女神のようなやわらかいあたたかい笑みで、ユズルを見つめる。
 
 
すると、そっと目を閉じ自分で自分に納得するようにひとつ大きな息をついた。
そして目を開けると、破天荒な女神は眩しいほどの笑顔を向け自信満々に言い放った。
 
 
 
 『ねぇ、ホヅミ君・・・

  ホヅミ君には、私が必要でしょ・・・?
 
  
  ・・・どうせだからさ・・・ ケッコンしようよ。』
 
 
 

■第40話 空欄の有効期限

 
 
 
『ぇえ・・・?』 耳に聴こえたそれに、涙に詰まって声が出せないでいた
ユズルもさすがに声を発した。 あまりの驚きに声が変に裏返って響く。
 
 
 
 『ケッコンしようよ、って言ったの。』
 
 
 
『で、でも・・・。』 突然の、衝撃すら憶える一言に目を白黒させ今現在何が
起こっているのか、まったく頭が追い付かず把握できないユズル。 

あんなにも悩み苦しんだ ”言いたくて言えなかったその一言 ”がいとも簡単に
レイの口からなんの予告も無くアッサリ飛び出した。
 
 
すると、愉しそうにレイは尚も続ける。
その顔はまるで明日の天気の話でもするかのように、呆気らかんと飄々として。
 
 
 
 『これでも結構考えたのよ~・・・
 
 
  でも、いっくら考えてもね

  ホヅミ君がいない毎日は愉しくないって思ったの。
 
 
  ふたりでいると、なんてゆーか・・・ 強くなれる様な気がしない?

  怖いものなんか無い、ってゆーか・・・
 
 
  だからケッコンしよう?

  ホヅミ君も私と一緒にいたいでしょ? いたいよね?? ねっ??』
 
 
 
思い切り戸惑いまくってパチパチとせわしなく瞬きを繰り返し、口はぽかんと
半開きになっていたユズルが、やっとまともに口を開く。 

顔も耳も真っ赤に染まり、その声は自信なげにか細く震えて落ちた。
 
 
 
 『で、でも・・・

  僕は・・・ 一生、迷惑かけるよ・・・ 

  ・・・レイさんに、 迷惑しか、かけないよ・・・。』
 
 
 
そう呟きながら俯き、涙で滲む目で自分の脚を見つめた。

一気に込み上げる切ない胸の内が透明な雫となり、やせ細った入院着の脚に
ポトポト落ちてはその跡を付ける。
 
 
 
 『面倒かけないお利口なロボットなんか要らないよ・・・

  ってゆーか、大なり小なり人間はみんな、ひとに迷惑かけるでしょ。
 
 
  ふたり足して、5にも10にもなるのが ”幸せ ”な訳じゃないと思うの。
 

  だって不完全な者同士だもん、

  足して1になれば、それで御の字だと思わない?

  足して1になる相手が、”ほんと ”の相手なのかも・・・
 
 
  それに、なにより私はホヅミ君が好きだもん。

  それ以上も以下もないでしょ?
 

  必要なのは好きかどうか。

  一緒に寄り添って生きたいと思うかどうかじゃない? 』
 
 
 
再び、暫く声を出せずに俯いていたユズル。

握り締めた拳が力が入り過ぎて脚の上でブルブルと震える。 再びメガネを
はずすとそのレンズには切なげな雫がいく粒も落ちてそれを濡らしていた。
短く鼻をすする音が、ユズルの痛い程の胸の高鳴りが、静かな病室に響き渡る。 
 
 
 
 『・・・ありがとう・・・・・・・・・・。』 
 
 
 
ユズルが顔をクシャクシャに歪めて泣いた。
 
 
こんな脚になった事を恨み呪うことしかなかったはずが、この瞬間はじめて
神様に感謝をした。 

即死してもおかしくない状況で生かされた自分を、レイと出逢えたことを、
神様に心の底から感謝した。
 
 
 
 
 
ユズルがそっと入院着のポケットに手を入れて、それを掴み静かに取り出す。
 
 
『昨日の夜、あの後に・・・作ったんだ・・・。』 そうレイに差し出した手に
紙で出来た手作りの ”肩もみ券 ”が小さく震える。

少しぎこちないそのサインペンの文字。 本来のユズルという人間がよく表れた
几帳面で丁寧な文字と線、懸命にはさみでまっすぐカットしたであろうそれ。
 
 
レイが嬉しそうに微笑んでそれを掴み、目の高さに上げてまっすぐ見つめた。
 
 
 
 『ってゆうか・・・

  私が揉むんだから、”肩もみ権利券 ”じゃない・・・?』
 
 
 
『ぁ、そっか・・・。』 涙でぐっしょりの顔で、レイに言われてたった今
それに気付いたユズルが照れくさそうに笑う。
 
 
『それに、コレ・・・。』 レイが指先で ”それ ”を指した。
 
 
 
 『 ”有効期限 ”が空欄のままじゃない?』 
 
 
 
完成間際で有効期限を書き加える事が出来ずに、ペンを置いた昨夜を思い出す。
  
 
 
   ”レイさんは・・・ 

   ・・・僕と、 いつまで・・・・・・・・。”
 
 
 
哀しげに寂しげに濃く滲ませた不安の色は、もうその目には無い。
まっすぐ、ふたりの輝かしい未来だけ見つめる、ユズルのその目。
 
 
すると、ユズルは応接テーブルの隅に置きっ放しにしていたペンを掴むと、
空欄の ” 年 月 日まで有効 ”という箇所を二重線で消した。
 
 
そして、ユズルの手によりゆっくり、しかし確かなペン先で堂々と書き込まれた
期限に、レイが嬉しそうに上機嫌に口角を上げた。
 
 
 
       ”永  久 ”
 
 
 

■第41話 ちゃんと、自分で

 
 
 
ユズルの病室のドアを2回ノックし、静かに引き戸を開けたシオリの目に
飛び込んで来たのは、痩せたショートカットの女性の姿だった。
 
 
ベッドに腰かけて少し前傾し、その細くて長いデニムの脚をこどもの様に
ブラブラと揺らし鼻歌まじりで、なんだか上機嫌な様子。
 
 
 
 『え・・・? 

  ・・・あなたが、お兄ちゃんの・・・??』 
 
 
 
シオリは目を見張って言葉を失くす。

ユズルの ”想う人 ”がどんな女性なのか勿論興味があった。 学生時代など
オープンに彼女を家に連れて来るタイプだったユズルだが、シオリの覚えている
限りそのどのタイプの女性とも違う様な気がする。 今までのタイプとは全く。
 
 
それは、以前シオリが病院前でしゃがみ込み泣き出した時にハンカチを差し
出してくれた、どこか少年のような彼女だったのだ。
 
 
『ぁ、あの・・・ 妹のシオリ、です・・・。』 暫し穴が開くほど凝視して
しまってから慌ててそう自己紹介したシオリに、 『すっごい偶然ねっ!!』 
レイも名乗り返して、愉しそうにケラケラ笑う。 

ベッドからぴょこんと飛び跳ね降りて立ちあがると、やはり痩せて背が高く
デニムの脚が細くて長いが、まるでそれはモデルのようなそれではなく、
なんだかヒョロヒョロに痩せた小学生のようだった。
 
 
シオリは母マチコからレイの噂は聞いていたし、レイは妹の話をユズルから
聞いていた。
 
 
ここ最近の兄ユズルのどこか落ち着きない背中の理由が、この太陽のように
眩しく笑うレイのせいなのだと、シオリは嬉しくて照れくさくて緩んでゆく頬を
どうすることも出来ない。
 
どうしてもニヤけてしまう白くてツヤツヤの頬に力を入れ、
『あれ? ところで、お兄ちゃんは・・・?』 病室内を見渡したシオリに、
レイは肩をすくめ上機嫌に笑いながら、人差し指を伸ばして上方3階をツンツンと
差した。
 
 
 『ちょっと・・・ ”所用 ”で。』
 
 
 
 
なにか話し掛けようかと思いつつも、兄との事を不躾に訊いていいものか他は何を
話せばいいのか言いよどんでいたシオリを、レイは目を逸らさずまっすぐ見つめ
小首を傾げて微笑みかける。
 
 
 
 『ねぇ・・・ 好きな人、いるでしょ??』
 
 
 
その目は、シオリの胸元にチラリと覗いたネックレスの華奢なシルバーチェーンに
やさしく目を細めて。
 
なんだか、なにもかも見透かされている様なそのまっすぐな視線に戸惑う。
 
 
シオリははじめてレイに会ったあの日、ネックレスのベビーリングを握り締めて
泣いてしまった事を思い出し、バツが悪そうにそれを隠すようにシャツの胸元を
ぎゅっと掴む。
 
 
すると瞬時に俯き、そして抑揚ない声色で言った。
 
 
 
 『婚約者は・・・

  ・・・・・・います・・・。』
 
 
 
その諦めたような覇気のない横顔に、レイは可笑しそうに笑い出した。
 
 
 
 『 ”好きな人 ”は、イコール ”婚約者 ”じゃないんだぁ~??』
 
 
 
その時、病室のドアが小さくノックされ静かにスライドして開かれた。
 
 
 
 『ユズルく~ん・・・ シオリ、いる・・・?』
 
 
 
今日も完璧な出で立ちの白衣姿のコウが顔を覗かせる。 コウの背後に今日も
ファンの様に熱い視線を送る患者や見舞客の黄色い声が小さく聴こえた。

コウはそこにいると思っていなかったレイの姿に一瞬驚いた顔を向け、取り敢えず
小さく目線だけで会釈すると、シオリへ言った。
 
 
 
 『今夜、早く終わりそうなんだ。 食事でも行こうよ。』
 
 
 
すると、すぐさまシオリは顔を背け素っ気なく返す。『今夜はちょっと・・・。』
 
 
『・・・あっそ。』 コウは、まるで最初から答えは分かっていたみたいに
小さくバカにする様な色を込めて肩をすくめると、アッサリと引き戸を閉めて
スっと伸びた美しい背を翻し去って行った。
 
 
病室内になんとなく気まずい空気が流れ、シオリが強張る頬で目を逸らす。
俯いて手持ち無沙汰に指先を絡めたり、ほどいたりを繰り返す。

するとレイが小さく笑った。 その笑声は決してバカにしているそれではなく、
どこか寂しそうな色を落として。
 
 
 
 『今のイケメンドクターが ”婚約者 ”なんだね・・・。』
 
 
 
そして、その返事も待たずにレイはやわらかい表情を作りシオリを見つめ呟いた。
 
 
 
 『私ね・・・ まどろっこしいのキライなのよ、基本的に。』
 
 
 
突然レイから言われたその言葉の意味が分からず、シオリはまっすぐ見つめ返す。

するとレイはシオリの真正面に立つ。 シオリより背が高いレイは少し背を屈め
その居場所無げな美しい顔を覗き込むようにして言った。
 
 
 
 『親の言う通り、頑張って頑張って医者になったんでしょ~?

  ストレートで医大入って、それでちゃんと医者になって・・・

  それって並大抵の努力で出来るもんじゃないよ・・・
 
 
  な~ぁんで全部言うとおりに受け入れちゃうの~?

  親の一番の願いは ”医者 ”でしょ?
 
 
  それ、ちゃんと叶えたんだから、結婚ぐらいはさぁ~・・・

  自分の好きにするって、勝手にするって言い切ればいいじゃんっ!』
 
 
 
ユズルから軽くシオリの話を聞いていたレイは、先程の ”婚約者 ”との
明らかに微妙な空気感を目に、胸に痞えたモヤモヤを目の前の本人にいとも
簡単に告げる。
 
   
シオリは唇をぎゅっと噛み締め、今にも泣き出しそうな瞳でレイを見つめた。
 
 
誰にも話してこなかった、皆が分かっていて触れずに避けてきた ”その件 ”を
急に切り出され、あの、初めてレイにハンカチを差し出された時も、洗いざらい
本音をぶちまけたくなって寸でのところで堪えた事を思い出していた。
 
 
シオリの胸に一気に切なく熱いものが込み上げ、溺れそうに苦しくなる。

今まで誰にも言えずにいた、必死に隠してきた本当の気持ちを小さく小さく呟いた。
 
 
 
 『もう・・・ 遅いの・・・
 
   
  私は・・・ いまだに、彼を好きなまま・・・

  ・・・忘れられずにいる、けど・・・
 
 
  でも。 彼は、もう・・・ ちゃんと、別の・・・

  ・・・ちゃんと付き合ってる人が、いるみたい、だ、から・・・。』
 
 
 
遂にこぼれ落ちた涙でシオリのツヤツヤの頬が濡れてゆく。

頬のカーブに合わせ流れるその哀しい雫は、長年堰き止めてきたものが決壊したかの
ように次から次へと顎に伝って、磨き上げられた病室の床に零れた。

両手で顔を覆いうな垂れたシオリの胸元から、青い石のベビーリングが表れ揺れる。
 
 
 
 
  ( ”いるみたいだから ”、って・・・。)
 
 
 
 
 『ねぇ・・・ それ、ってさ・・・

  ちゃんと ”自分で ”確かめたの??

  ヒトからの情報だったら、そんなの私なら信用しないな。
 
 
  ちゃんと自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で確かめなさい。』
 
 
 
そう言うと、レイは長い指先でペンダントヘッドをチョンとつついて微笑んだ。

そして呆気らかんと言ってのけた。
 
 
 
 『ちなみに。

  ・・・私たち、ケッコンすることにしたよ。』
 
 
 
シオリが目を見張り、『えええ??』 涙が伝い続ける頬をガバっと上げた。
 
 
 

■第42話 希望

 
 
 
 
ユズルはレイとの結婚を決意した後すぐ、病室を飛び出して院長室がある
3階へ向かっていた。 
 
 
『ぇ、もう? 今、すぐ行くの??』 背中でレイの可笑しそうにケラケラ
笑う声が聴こえ、まるでそれに後押しされる様に少し乱暴に引き戸を開け、
廊下へ出た。
 
 
電動車イスのレバーを握る手は緊張で少し汗ばんでいたが、その頬はやっと
見つけた輝かしい ”未来 ”へ向け、高揚しほんのり赤らんでいた。

突然、赤い顔をして興奮気味にやって来たユズルに、父ソウイチロウは何事か
と不安気に眉根をひそめる。 車イスになってから、ユズルが院長室にやって
来た事など今まで一度だって無かったのだから。 
 
 
『ユズル・・・ どうした・・・?』 高級な革張りの院長椅子から身を乗り
出しどこか怖々と発したソウイチロウ。
 
 
すると、ユズルは院長席の真ん前に車イスをつけ、一度背を正して座り直し
まっすぐソウイチロウへ向けて顔を上げた。
 
 
 
 『父さん・・・

  ぁ、いや。 院長・・・
 
 
  僕に・・・

  ・・・復帰プログラムを受けさせてくれませんか・・・?』
 
 
 
ユズルは、この動かない脚のままもう一度医師に復帰したいという事を必死に
父であり院長であるソウイチロウに懇願する。

レイが毎夜時間を掛けて調べてくれた車イスの医師の件を、唯一動く上半身を
乗り出さんばかりの勢いで大きく身振り手振りを付け、真剣に、懸命に。
 
 
 
 『僕は、脚はもうまったく動かないけど

  その代わり、幸か不幸か上半身には然程問題はない・・・

  手術室には立てなくても、診察室で患者に向き合うことは出来る。
 
 
  僕は、やっぱり医者でいたいし、医者しか出来ない・・・

  何年掛かっても、どれだけ苦労したっていいから、医者に復帰する・・・
 
 
  父さん・・・ 

  僕がこの病院を守っていってみせるから、だから・・・

  ・・・僕を信じて、任せてもらえませんか・・・?』
 
 
 
思いもよらないユズルのまっすぐな熱いその思いを耳に、父ソウイチロウは
目を見張りそっと俯きかぶりを振る。 ぎゅっと口をつぐみ、わずかに震える
指先で摘むように目頭を押さえた。
 
 
ユズルの意識が戻ってから、寝る間も惜しんで下半身不随の症例を調べて
いた父。 同じ医師であるソウイチロウ自身、それがどうにもならない事は
分かっていたけれどどうしてもユズルに希望を与えたくて、どうしても親と
してなんとかしてあげたくて必死に策を探していたのだ。
 
 
ソウイチロウ自身、ユズルの医師への復帰は考えなかった訳ではなかった。

しかし、それを切り出す事で更にユズルが傷付かないか、逆に追い込む事に
なるのではないかと、復帰が一番の得策とは思えず触れずにいたのだった。
 
 
『お前、ひとりで考えて決めたのか・・・?』 ソウイチロウのどこか涙を
堪えるような喉に力が入ったその声色に、ユズルは小さく笑う。
 
 
そして、やわらかいあの頃の ”ユズル先生 ”の声色で言った。
 
 
 
 『あと、もうひとつ。

  ・・・父さんに、許可を貰いたい事があるんだ・・・。』
 
 
 
陽だまりのように微笑むユズルに、レイの愉しそうに笑う顔が浮かんでいた。
 
 
 
 
 
ユズルはレイに永久期限の ”肩もみ権利券 ”を渡したあと、レイの名前を
書き込もうとして、いまだ苗字を知らない事に気が付いた。

『あのさ・・・ 今更なんだけど・・・。』 なんだか笑いが込み上げ肩を
震わせながらそれを訊ねたユズルに、レイはカバンから身分証を取り出して
見せた。 ユズルの顔の真ん前にまるで印籠の様にどうだと言わんばかりに
突き出されたそれを見て、目を見開き驚くユズル。
 
 
 
  ”身分証明書  ○○大学病院 理学療法士  ソノダ レイ ”
 
 
 
『理学・・・療法、士・・・?』 ユズルはせわしなく瞬きを繰り返し、
少し乱暴にどこか慌ててレイの手から身分証を奪って見つめる。

それは隣街の大学病院が発行している職員身分証で、レイはその病院で理学
療法士として働いていたのだ。
 
 
 
 『・・・き、き聞いて、ないよ・・・。』
 
 
 
いまだ身分証をまじまじと凝視しているユズルが驚き過ぎてどもりながら呟くと
『訊かれてないし。』 至極呆気らかんと返し、悪びれずに笑うレイ。

わざとではないと分かっていてもどうしても騙し討ちの様に感じ、ユズルは
こんな大事なことを聞かされていなかった事にどこか不満気に口を尖らせる。
 
 
 
 『最初からゆってくれれば・・・

  僕のリハビリだって、レイさんに頼んだのにさぁ・・・。』
 
 
 
脚が動いたとしたら石ころでもコツンと蹴り飛ばしたい気分の、拗ねたユズル。

レイが療法士として、常に常に朝も、昼も、夕暮れも、傍にいてくれたならと
沸き起こる完璧な理想風景に遠く目を細めた。
 
 
 
 『私はここにお祖母ちゃんの見舞として来てただけでしょ~!』
 
 
 
レイのその呆れたような一言に、”そりゃ、そうだけど ”と内心思いつつも
まだ諦めきれず、その刹那、ユズルの脳裏はなにか小さな違和感を覚えていた。
 
 
 
  (なら、どうして・・・

   ・・・タキさんは、わざわざウチの病院まで・・・。)
 
 
 
 
レイはケラケラといつまでも愉しそうに笑っていた。

いつ ”この事 ”を打ち明けようか実は結構考えていた。
これを言ったらユズルがする反応は目に見えていたし拗ねるのも分かっていた。
それを申し訳なく思う反面、そのこどもっぽく足掻く姿を見たかったというのが
レイの本音で。 肩をすくめて、愛おしそうにそのふくれっ面を見つめる。
 
 
すると、もう一度身分証を見つめるユズルの目に、互いに今まで知らずにいた
年齢が映る。 実はふたり、同い年だった。
 
 
『同い年じゃん!!! ゼッタイ、僕より少し年上だと思ってた・・・。』 
身分証とレイに交互にせわしなく目線を遣るユズルに、
 
 
 
 『そうなのっ??

  私もゼッッッタイ、甘ったれなホヅミ君は年下だと思ってた!』 
 
 
 
レイは尚も眩しそうに目を細め、ケラケラ笑い続ける。
 
 
『 ”甘ったれ ”はヨケーだろっ!!』 口を尖らせつつも、その顔はどんどん
幸せそうに綻んでゆくユズル。
 
 
そしてふたり、上機嫌に頬筋を上げて言った。
 
 
 
 『同い年だから、もう ”君 ”も ”さん ”も、要らないね?』
 
 
 

■第43話 運命

 

 
 『その前に、レイさん・・・ レ、レイのご両親が・・・

  僕のこと、許してくれるかが・・・ 最大の問題、だよな・・・。』

 

散々ふたり幸せそうに笑い合った後、自信なげに俯いて呟いたユズル。
先程までの笑い声が嘘かのように、病室は静まり返りその声色だけ落ちる。

当人同士がいくら大丈夫と言ったところで、大切な娘を嫁に出す親の気持ちを
考えると ”この結婚 ”が、そうそう簡単な問題ではないと今更ながら気付く。 

 
すると、レイが両手を伸ばしユズルの手をそっと包んで微笑んだ。

 

 『それはダイジョーブよ。

  だって、私より先に惚れこんでたのは、ウチの ”家族 ”だし。』

 

『ん??』 言われている意味が分からず、ユズルはレイをまっすぐ見上げた。

 

 『私、お祖母ちゃんとふたりなの。

  お祖母ちゃんは私より先に ”ユズル先生 ”にゾッコンだったでしょ~?』

 

ケラケラ愉しげなその横顔に、『ふたり・・・?』 思わず訊き返したユズル。

 

 『そう、お祖母ちゃんとふたり。

  ウチの両親、私が小学生のときに交通事故で、ね・・・

 
  ・・・私だけ、助かったの・・・

  私、一人っ子なのにさぁ~・・・

    
  私だけ・・・ 両親に置いてかれちゃったの・・・。』

 

レイはユズルの病室のベッドに腰掛けて、こどもの様に足をブラブラ揺らす。

どこか遠くを見るように目を細め、その瞬間、さっきまでの上機嫌に笑う顔が
寂しげな幼い少女の様なそれに変わる。

 

 『警察の人とお医者さんがね、

  ”打ちどころが悪かった ”って話してるのが聴こえたんだ・・・

  ”あと数センチずれてたら、軽傷で済んだのに ”、って・・・

 
  きっと、ウチの両親は ”死神 ”に選ばれちゃったんだよ・・・

 
  でもね!!

  ユズルは ”神様 ”に選ばれた人なんだよ!!

 
  あなたは生かされたの。

  即死でもおかしくない事故で生還した・・・

 
  だから、ユズルは医者を続けなきゃダメ!!

  ゼッタイ、ゼッタイ・・・ 医者に戻らなきゃダメなのよ・・・。』

 

ユズルは今にも泣き出しそうな顔を向けて、レイをまっすぐ見つめる。
レイのこの強さとやさしさの背景をはじめて知り、一気に胸が熱く苦しい。

 
『なんて顔してんのよ~ぉ?』 レイはやわらかく微笑み返した。

 
震える喉元に力を入れ鎮めて、ユズルが目を眇める。

 

 『じゃぁレイも・・・

  レイも、僕と同じ ”神様 ”に選ばれて生き残った人間だろ・・・?

 
  僕は、レイに逢えなかったら、今頃どうなってたか分からない・・・

  レイは僕を救い出すために生き残ってくれたんだ・・・

 
  僕たちは・・・ 出逢うべくして出逢ったんだよ・・・。』

 

ユズルは潤んだ目でレイをまっすぐ見つめ、懸命に上半身を乗り出して両腕を
広げる。 レイはそっと目を伏せ、前屈みになってその腕の中に包まれた。

 

 『きっと、運命ね・・・。』 

 

そう言うと、レイは片手でそっと自分の前髪を上げおでこを見せる。
その額には、小学生の時の交通事故で負った大きな傷痕があった。

 
奇しくもそれは、ユズルが事故の際にメガネの縁で切った額のそれと全く
同じ傷だった。

 
 

■第44話 ベビーリングのネックレス

 
 
 
ぎゅっと握りしめたレイの手をやんわり解くと、ユズルは静かに左手を見つめ
そっと指に触れた。
 
 
レイらしい細い指、短く切り揃えられた爪。 勿論、ネイルなんてものはして
いない。 長くしなやかなそれは、柳のようにたおやかで脆く見えるが実の所
強く芯がある。 レイという人間そのものが表れている気がした。
 
 
 
 『ちゃんと・・・ 指輪も渡したいなぁ・・・。』 
 
 
 
ユズルは、婚約をした証をレイの指にどうしても記したかった。

生まれてはじめて結婚したいと思った只ひとりの相手に、男としてそれくらいの
甲斐性は示したいところだったが、入院患者である今のユズルにはそんな力は
無いのが正直なところだった。
 
 
しょんぼりと情けなく背中を丸め、自分の不甲斐なさに落ち込んでいるような
その姿を目に、レイが愛おしそうにそっと微笑む。
 
 
 
 『ねぇ・・・ 

  復職したら最初のお給料で、私もベビーリング欲しいなっ!!

  指輪してると仕事しづらいから、ネックレスに通して首から提げたいの!』
 
 
 
その言葉に、ユズルが不思議そうに首を傾げる。 『私 ”も ”、って??』 
 
 
すると、レイが言う。

静かにその場面を思い出そうと、少し目を細めて。 その頬にはほんの少しの
羨ましさと、そしてどこか不安と心配の温度を含んだ。
 
 
 
 『ちょっと前に、ここの病院の近くで見掛けた子がね・・・

  大切そーうに、ベビーリングのネックレスを首から提げてたの。
 
 
  宝物みたいに両手で包んで、涙こぼしてて・・・
 
 
  失恋しちゃったのか分かんないけど・・・

  きっと、すっごい好きな人からのプレゼントだったんだろうなぁ・・・。』
 
 
 
その一言に、ユズルが動きを止める。
 
 
 
 『ベビーリングって・・・

  ・・・あの、なんてゆーか、

  おもちゃみたいに、凄っい小さい指輪だよね・・・?』
 
 
 
どこかで ”それ ”を見たことがある様な気がする。
ユズルの曖昧な記憶の中のそれも、確かに鎖にぶら下がり小さく心許なく揺れる。
 
 
 
 
  (誰だっけ・・・?

   どこで見たんだっけ・・・? 

   患者か・・・? 見舞客か・・・? 
 
 
   ・・・でも確かに、見た気が・・・。)
 
 
 
 
 
そして、 ユズルの胸をモヤモヤさせるその ”謎 ”は解けぬまま・・・

その直後に、ユズルは父ソウイチロウに復職と結婚の許可を貰いに院長室へ向かい
ユズル不在の病室に不意にシオリがやって来て、レイと偶然の再会した。 
 
 
 
 
 
   ひとつずつ、ひとつずつ、

         運命の歯車が噛み合ってゆく・・・
 
 
 
 
 
それは数日後。
ユズルがレイとの結婚を決めてすぐの、とある夜の事だった。
 
 
あれ以来、ユズルは復帰に向け少しずつ準備をはじめ、レイは毎日仕事後に
病院にやって来てはそれに付き合った。 ユズルの目には希望しかなく、
それに寄り添うレイもまた、いつにも増して上機嫌に口角をあげていた。
 
 
レイが帰って行った直後、なんとなくユズルの病室を訪ねた夜勤のシオリ。

小さくノックをして引き戸をスライドさせると、応接セットに車イスをつけ
なにやら資料に真剣に目を落としているユズル。 そのヤル気に満ちた横顔。
 
 
ユズルは明らかに活気に満ち、にこにこと心から朗らかな笑顔を見せるように
なっていた。 ”レイのお陰だ ”と家族みんなが嬉しそうに口を揃える。

当初、最も心配していた母マチコが ”レイ ”という人間を誰より一番気に入り
今では口を開けばレイの名を連呼する程。 父ソウイチロウはなんとか理学
療法士として引き抜き出来ないかと、ここの所そればかりに躍起になっていた。
 
 
ドアから覗き込んだシオリが静かに病室に足を踏み入れると、目線だけで小さく
それを確認したユズル。 そして、その姿に ”待ってました ”とばかりに資料を
テーブル上にバサっと放る。
 
 
 
 『あのさ~・・・ 

  ・・・あの・・・ ちょっとお前に、頼みがあるんだけど・・・。』
 
 
 
ユズルから掛けられたどこか遠慮がちな声に、シオリが『なに?』 目線を向ける。
 
 
『あのさ・・・ また、シュークリーム買って来てくれないか?』 どこか照れ
臭そうに呟く兄の横顔。 シオリは思わず吹き出した。
 
 
 
 『ちょっと前に食べたばっかりじゃない? どんだけ好きなのよ~?』 
 
 
 
あのシュークリームにどれだけの魅力があるのかイマイチ分からず、シオリは可笑し
そうにクスクスと少し呆れ気味に笑い声を上げる。

すると、モゴモゴと言いよどんだユズル。
 
 
 
 『いや・・・ あの、

  レイが・・・ 

  ・・・レイは、食べたことないから、あそこの・・・。』
 
 
 
照れ臭さを最大限隠そうと必死になっている兄の耳がどんどん赤くなってゆく。

明らかに手持無沙汰に再びテーブルの上の資料を手に取り、慌ててめくっているが
ただ闇雲にめくっているだけで、その目は一文字も追ってはいないのが明白だった。
 
 
そんなユズルを見ていたら、シオリの目にじんわりと熱いものが滲んだ。
 
 
 
 
  (レイさんに、どうしても食べさせてあげたいんだね・・・。)
 
 
 
 
『分かった! 次の休みに買って来るね。』 そう言って背中を向けると、シオリは
そっと目尻に溢れた雫を指先で拭った。
 
 
やさしい気持ちが込み上げていた。

やさしくて、あたたかくて、どこか切ない。
 
 
 
 
 
そして、運命の ”その日 ”がやって来る・・・
 
 
 

■第45話 信号待ちをするその姿

 
 
 
その朝、店先に立つショウタの尻ポケットに入れたケータイにツカサからの
着信があった。
 
 
初期設定のままの着信音が尻ポケットの中でくぐもって響く。 頻繁にでは
ないものの、たまに顔は合わせていたツカサ。 挨拶などすべてすっ飛ばし
突然本題に入る。
 
 
 
 『草野球の監督、ついに引退すんだってよ~

  取り敢えずOB一同でナンカお祝いでも、って話になってさ~

  でも、なにがいーのかサッパリ分からん~
 
 
  今日、ちょっとお前、時間ねぇーか?

  ナニにすっか、お前も一緒に考えてくれよ。』
 
 
 
ショウタはケータイを耳に当てたまま、店奥で作業している母ミヨコへ視線を
流し少し店を抜けていいか打診するとアッサリ快諾が返って来た。

『駅前行くならついでに銀行行って来て。』 とミヨコからお使いも頼まれ
ショウタはツカサとの待合せ時間より少し早目に家を出ていた。
 
 
 
その頃シオリも勤務が休みのその日、先日ユズルから頼まれたシュークリーム
を買いに駅前へ向かう準備をしていた。

清々しいほど気持ちよく晴れ渡った空。 自室の窓辺に置かれたミムラスは
あの日枯れてしまったが、それでも大切に大切にいまだそこに佇んでいた。
 
 
窓から差し込む太陽の光に照らされ、眩しさに目を細めたシオリ。

あまりの強い逆光に視界はぼやけ、目が通常の状態に戻るまで少し時間が
かかる。 ドアを開け部屋を出たシオリは、その枯れたはずの橙色の蕾が
ひとつ小さく膨らんでいた事に、この時は気付けずにいた。
 
 
 
 
 
シオリは駅前に立ち、横断歩道の赤信号が変わるのを待っていた。

土曜の昼前のそこは通行人も行き交う車も多い。 雑踏の中、そんな事は
なにも気にせず仲良さそうに手を繋いで通り過ぎる初々しいカップルの姿が
嫌でも目に入る。 からかう様に顔を覗き込み、嬉しくて仕方がない感じで
微笑み合っている。 きっとこの先も当たり前にふたりでいられると思って
いる様で。 この先の未来に突然哀しい出来事が起こるかもしれない可能性
など露ほども考えずにいた幼いあの日の自分を思ってシオリは小さく微笑み
しかしどこか寂しげに目を伏せる。
 
 
いつ来ても、何年経っても胸がきゅっと締め付けられるこの場所。
 
 
無意識のうちに、あの頃のショウタの面影を求め探してしまう。

道路向かいでシオリに向けて大きく千切れんばかりに手を振る、ショウタを。
黒色のダウンジャケットを羽織り、トリコロールカラーのマフラーに嬉しそうに
満面の笑みを浮かべる、ショウタを。 
 
 
渋滞した車道に、右折してきた路線バスが目の前に立ちはだかった。
 
向こうの車道で身勝手に右折しようとしている車に、対向車が苛立ち気味に
けたたましくクラクションを鳴らしている。
シオリはその耳障りな警音にしかめ面を向け、不愉快そうに顔を背けた。

横断歩道の信号が青に変わったのかどうかも、目の前のバスが邪魔をしてよく
見えなかったが、音響式信号から流れ出した鳴き交わし音のピヨピヨという音が
耳に聴こえ、シオリは横断歩道を渡ろうと足を一歩前に出した。

それは、バスがやっと通り過ぎた瞬間だった。
 
 
 
道路を挟んで向かいに、同じように信号待ちをするその姿が目に飛び込んだ。
 
 
 

■第46話 再会

 
 
 
互いの姿に気付き、青信号に変わったというのに一歩も動けずにいるふたり。
 
 
呼吸すら忘れた様に一切の動きを止め、道路向こうのその姿を見つめる。
猛スピードで脈打つ心拍数の打音が、耳の辺りでうるさいくらいに鳴り響く。
 
 
どのくらい、そこで佇んでいただろう。
 
 
ふたり以外、世界は通常どおりに動いている。
ふたりだけ、そこに立ち止まったまま息も出来ず瞬きも出来ず一歩も動けず。
 
 
青信号なのに渡ろうとしない互いの横を、邪魔くさそうに通行人が避けて先へ
進む。 混雑したそこで無駄に立ち止まっている姿に、急いでいる通行人の肩が
ぶつかり苛立ちの舌打ちが小さく聴こえ、慌ててペコリと会釈する。
 
 
ショウタは、ゆっくりゆっくり震える足を踏みだした。

心臓が尋常じゃないくらい早く強く打ち付け、息苦しい。
シオリも目を見張り、急激に胸にこみ上げる熱く苦しいものを必死に堪えて、
一歩ずつ進む。
 
 
両側の道路から互いに向かって歩みを進めたふたりは、横断歩道の真ん中で
立ち止まった。 そして再びなにも言えずに、ただまっすぐ見つめ合う。
 
 
互いのその目には、互いしか映っていない。
しかしその顔は、嬉しさよりもずっと哀しいものが色濃かった。
 
 
逢いたくて逢いたくて、でも運命の悪戯に邪魔されてあれから一度も逢えずに
いたふたり。 何度泣いたことだろう、何度声を聞きたくてケータイを掴んだ
ことだろう、何度ぬくもりを確かめたくて眠れない夜を過ごしただろう。

話したいことは溢れるほどあるのに、中々言葉を発せられずにただただ泣きそう
な顔をして見つめ合う。
 
 
どのくらい立ち竦んだままでいただろう。
ショウタが意を決して、小さく小さくぽつり呟いた。
 
 
 
 『・・・久しぶり。』
 
 
 
シオリの耳に響いた、大好きなやわらかいその声。
明らかに震えて落ちたその一言に、慌ててショウタはひとつ咳払いをする。

シオリは、哀しげに微笑むショウタの顔から慌てて目を逸らし俯く。
一度涙が毀れたら止まらなくなりそうだった。 胸が痛くて苦しくてまるで
水中で溺れているみたいで、まともに息が出来ない。
 
 
『ぅん・・・ 久しぶり。』 小さく涙声でシオリが返した瞬間、横断歩道の
信号が赤に変わる直前のせわしない鳴き交わし音が響き出した。 信号は点滅を
はじめ、左折しようと交差点に進入していた車が中々横断歩道を渡ろうとしない
ふたりに小さくクラクションを鳴らす。
 
 
気忙しく小走りで通行人が進むそこを、ショウタも咄嗟にシオリの手を掴み
慌てて向かいの道路へ渡った。
 
 
無意識で掴んだシオリの手。

久々に触れたそれ。
相変わらず華奢でひんやり冷たいその指先。
 
 
道路を渡ると、横断歩道の信号は再び煌々と赤色を呈する。

もう走行する車の邪魔にならない安全な歩道に移動したのに、ショウタは掴んだ
その手を離せずにいた。
シオリも掴まれたその手を、確かな意思を込めしっかり握り返していた。
 
 
あの頃は、当たり前にいつも繋いでいたその手と手。

すべてが当たり前だった。 隣にいて当たり前で、手を触れて当たり前で、
言葉を交わして当たり前で。
 
 
しかし、今そっと手を繋ぎ合うふたりには、この温度が怖くて仕方なかった。
 
 
 
  再び離さなければいけない、この温度。

  思い出さない方が楽だった、この温度。
 
 
 
ふとショウタがシオリのそれに気付く。
握ったその手は左手だった。 その指には、硬く冷たい環の感覚はない。
 
 
 
 
  (まだ・・・ 婚約、してないんだな・・・。)
 
 
 
 
思わず掴んだこの手に更に力を入れて、ぐっと引き寄せこのままシオリを
抱き締めたくなる気持ちが溢れる。
このままどこか誰も知らない遠くへ連れ去りたい、奪い去ってしまいたい。
 
 
シオリもまた、ショウタの胸に飛び込みたい衝動をギリギリのところで
抑えて繋がれたその手に潤んだ目を落とす。
 
 
 
 
  (このまま、離さないで・・・ 

   ・・・ヤスムラ君と、手・・・ 繋いでたいよ・・・。)
 
 
 
 
互いに溢れる想いを必死に隠し、再び泣き出しそうな顔で見つめ合った。

切なく震える胸をなんとか鎮め、大きく肩で息をした。
 
 
 

■第47話 苦しい沈黙

 
 
 
 『今日、休み・・・?』 
 
 
ショウタはそっとシオリを覗き込むように見つめた。
 
 
まるで手なんか繋いでいない様に、いまだ握り続けている事に気付いていない
様に、どうしても離したくないそれを、やさしくやわらかくそのままに。
 
 
『・・・うん。ヤスムラ君は・・・?』 物寂しげな目を上げてシオリが返す。

潤んだその目は、あの頃と同じ大きくて澄んでいて長いまつ毛が瞬きに合わせ
揺れる。
 
 
”ヤスムラ君 ”とただ名前を呼ばれただけなのに、ショウタは一気に込み上げ
胸を熱くするその愛しい声に、心臓が壊れそうだった。

シオリの薄くて形のいい唇から小さく発せられたそれ。 自分の名前とは思え
ないくらい、それは激しく熱く津波のように押し寄せ耳の中で繰り返し響く。

シオリが呼んでくれるその名前の響きが懐かしくて嬉しくて、そして切ない。
 
 
深く胸で息をして、ショウタがぎこちなく微笑みを作る。
 
 
 
 『ぁ、ちょっとこれから待合せで。 店、抜けて来たんだ・・・。』
 
 
 
”待合せ ”という単語が耳に響き、目を見開きハっとしてシオリが再び
哀しげに俯く。 繋いだ手を慌てて離した。
 
 
 
 
  (・・・セリザワさんと、かな・・・。)
 
 
 
 
ショウタのこのぬくもりを繋ぎとめてはいけないのだと、この時痛いほど
感じていたシオリ。

分かってはいたつもりなのに、実際その手に触れてしまったら離したくないと
心は叫び脳からの信号など無視して握り返してしまっていた。

もうそんな権利は自分にはないのだ。
繋ぎ返してはいけなかったのに。
 
 
そっと顔を伏せた瞬間、耳に掛けていた肩までの黒髪がサラリと揺れた。

陽の光に照らされて、今も変わらずに美しいそれが目映く光り反射する。
思わずショウタは手を伸ばし、相変わらずツヤツヤの毛先に触れた。
あの頃は背中まであった長い黒髪は、今は肩の長さで揃えられ流れる水の様に
美しくたゆたっている。
 
 
 
 『切ったんだな、髪・・・

  ・・・すげぇ、似合うね・・・。』
 
 
 
そうは言ったものの、ショウタの中のシオリはいまだに黒髪ロングヘアの
ままで変わってしまったそれに、本音を言えば寂しさを隠しきれない。

指先でつまんだ艶めく毛先に、ショウタは物哀しげにそっと目を落とした。
 
 
そっと触れられたそのショウタの指の感触に、シオリは泣き出しそうにコクリ
頷く。 髪の毛に触れられただけなのに、その熱はダイレクトに心臓に届く。
 
シオリも、あの頃よりガッチリしてたくましくなったショウタにどこか自分が
知らぬ間に変わってしまっているそれが悔しくて歯がゆい。
 
 
『・・・お父さんもお母さんも、元気・・・?』 暫く二の句を継げずにいた
シオリがそっとショウタを潤んだ目で見上げる。
 
 
すると、 『元気元気! 母ちゃんとか、更にパワーアップしてる!』 
ショウタは小さく微笑んだ。 

その笑顔は、やさしいショウタ父にそっくりで、その口調は豪快なショウタ母に
そっくりだった。
 
 
 
  (会いたいな・・・

   おじさんもおばさんも、私のこと覚えてるかな・・・
 
 
   ・・・もう、とっくに・・・忘れちゃったかな・・・。)
 
 
 
シオリが、そっと泣き出しそうに目を伏せた。

そして、ひとつ息をつくと安らかな表情を向け、ほんの少し口許を緩ませた。
 
 
 
 『ウチのお兄ちゃんね・・・ 意識が戻ったの・・・

  ・・・今、元気にリハビリしてる・・・。』
 
 
 
ユズルが ”一生車イス ”という部分は言わなかった。

せっかくショウタに再会出来たのに、ほんの少しだとしても影を落としたく
ない。 ショウタに哀しい顔はさせたくなかった、笑っていてほしかった。
 
 
ショウタは母ミヨコからシオリの現状は聞いていた為、知っていたそれ。

敢えて ”ユズルの真実 ”を告げないシオリに気付いていた。 しかしそれでも
心から安堵するその表情を見ていたら、ショウタは一気に涙が込み上げた。

シオリ本人に言いたくて言いたくて仕方なかった一言を、やっと伝えられる。
 
 
 
 『良かったな・・・
 
 
  ほんと、命が助かっただけでもすごいのに、

  意識もちゃんと戻って、元気にリハビリしてるなんて、

  奇跡が起こったみたいだな・・・
 
 
  ほんと、ほんっと・・・ 良かった・・・  良かったぁ・・・。』
 
 
 
目に涙を浮かべ、心から安心した顔をして喜ぶショウタ。
シオリはそのやさしすぎる顔を見ていられなくて、思わず目を逸らす。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・・・・・。)
 
 
 
 
その後はふたり、言葉を紡ぐことが出来ず苦しい沈黙が続いた。
 
 
 

■第48話 また明日 

 
 
 
  言いたくない

  言いたくない
 
 
次の言葉を言ったら、再び離ればなれになってしまう。
 
 
でもいつまでも道路でふたり立ち竦んでいる訳にはいかなかった。

そんなの分かってはいるけれど、それでも諦めきれずまだこうやって一緒に
いられる理由を、ふたりは必死に探していた。
 
 
 
  離れたくない

  このまま、傍にいたい
 
 
 
しかし互いに胸に秘めた本音を言うことなど出来ないまま、横断歩道の信号は
何度色を変えただろう。 信号の鳴き交わし音、雑踏、車のクラクション、
街頭テレビから流れるやかましい音楽。 土曜の街はふたりだけを取り残して
どんどんその喧騒を増してゆく。 
 
 
 
 
   ”ぁ、ちょっとこれから待合せで。”
 
 
ふと、先程のショウタの言葉を思い出したシオリ。

ショウタは ”待つ人 ”の元へと向かわなければならない。
あの頃自分にのみ向いていた陽だまりの様なショウタの笑顔は、今は別の人に
向けられているのだ。
 
 
自分から言い出さねばと、シオリは覚悟を決める。

ひとつ息を呑むと、白く細い喉元が小さく上下した。 耳の奥がキーンと鳴り
全神経が集中しているかの様に、体の中で急速に脈打つ鼓動が耳障りな程で。
 
 
それは抑揚のない感情を押し殺した声色で、アスファルトにぽとり落ちた。
 
 
 
 『・・・じゃぁ。』
 
 
 
すると、ショウタは咄嗟に泣き出しそうな顔を向けじっとシオリを見つめた。
その視線は、訴える様なすがる様な胸を締め付ける熱を帯びて射る。
 
 
”また明日な! ”と帰り道で大きく手を振って別れていた、あの頃。

”明日 ”と言いながらも何度も何度も名残惜しげに振り返り、夕陽に翳る
互いに向かっていつまでも手を振り合ったオレンジ色の放課後の景色が甦る。
 
 
もう ”明日 ”は無い。
 
 
今別れたら、次はいつ逢えるのか、次逢うときはどんな状況になっているのか
怖くて哀しくて寂しくて、本当はそんな挨拶などしたくない。
 
 
 
 
  ”今はただ、保留なだけ・・・ 意味、わかるね??”
 
 
母ミヨコからしつこいくらいに念押しされた ”シオリの婚約話 ”

シオリはコウと結婚する。 今はまだしていなくても、この先必ず結婚する。
自分以外の人と結婚して、医者を続けながら幸せに生きてゆくのだ。
これ以上追い掛けたってどうにもならない、シオリの迷惑にしかならない。
 
 
 
 
  (ホヅミさんの顔が見れただけで、もう充分だ・・・。)
 
 
 
 
ショウタが震える喉でその一言を返した。 

『・・・ぅん。 じゃあ・・・。』 小さく手を上げ、シオリへ背を向けた。
 
 
シオリに顔が見えなくなった途端、ショウタはぎゅっと目をつぶり唇を噛み
締めた。 肩が震え、一気に込み上げ頬を伝う熱を帯びた涙がとめどない。
それをシオリに悟られぬよう、迷惑にならぬよう、その大きな背中はただただ
必死だった。
 
 
背を向けたまま、中々踏み出せないその一歩。

ただ片足を前に出すだけなはずなのに、苦しくて苦しくて1ミリだって動かない。
脳が出す信号に、ギリギリのところで感情がそれを抗う。
 
 
 
 
  (いいのか・・・?

   このまま・・・ ほんとに、離れていいのか・・・。)
 
 
 
 
その時、シオリの言葉が胸の中に雷鳴のように哀しく響き渡った。
今まで生きていてはじめて感じたあの日の絶望を呼び起こす、それ。
 
 
 
 
  ”もう、ほんとに・・・ 迷惑だからやめてほしいのっ!!!”
 
 
 
 
ショウタは俯いていた顔を上げると、大きくひとつ深呼吸をした。
 
そして頬を伝う涙の雫を大きな手の甲で乱暴に拭うと、アスファルトを大きく
蹴って歩みはじめる。 シオリに向けた背は、早足に通り向こうへと消えた。
 
 
 
 
シオリは遠ざかってゆくその大きな背中を見つめ続けていた。
 
どんどん小さくなってゆく、誰より愛しいその背中。 どんな雑踏の中でも
見付けられる、誰より不器用でやさしくてあたたかいその背中。
 
 
次に逢う約束などなにもせず、至極当たり前に毎日一緒にいたあの頃を想う。

 
”またね ”と言いたい。
”また明日ね ”と叫びたい。
 
 
 
  ”明日 ”など、もうふたりには無いのに・・・
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・
 
   お願い・・・ 行かないで・・・ 

   ・・・次はいつ逢えるか、分からないのに・・・。)
 
 
 
 
その場から一歩も動けなくなったシオリが、崩れる様にしゃがみ込んで両手で
顔を覆った。 しゃくり上げ泣きじゃくり、ガクガクと震える肩。
 
 
その時、涙をこらえ哀しく顔を歪ませたショウタのスニーカーが立ち止まる。

そして、もう一度だけ振り返った。
その目は今でも誰より恋しく想うシオリを求め、人波の中を必死に彷徨う。
 
 
 
しかし、その姿を見付けることは出来なかった。
 
 
 
道路の真ん中でしゃがみ込み泣きじゃくる震える背中はあまりに小さすぎて
心許なすぎて、せわしなく行き過ぎる通行人の波に呆気なく掻き消された。
 
 
嗚咽を堪え息苦しそうな胸元から、今日も哀しいほど輝く青い石のベビー
リングが揺れていた。
 
 
 

■第49話 原チャリの鍵

 
 
 
ツカサは待合せ時間より少し遅れて、ショウタが待つ駅前に向かっていた。
 
 
遅刻癖があるツカサにとっては、ショウタを多少待たせること等なんでも
ない事だった為、然程慌てる様子もなくのんびりと賑わう駅前を進む。
 
するとふと何気なく向けた視線の先、泣きはらしたような顔をしたシオリを
道路向こうに見付けた。
 
 
 
 『ホヅミ・・・ だよな・・・?』 
 
  
 
何事かとツカサは慌てて駆け寄り、その顔を覗き込むように心配そうに
見つめる。 数年ぶりに会ったシオリを目に、ツカサはその様子に驚いた
顔を向け、しかし事情を訊いていいものかどうか言いよどんだ。
 
  
『ワタベ君・・・。』 慌てて細い指先で目元を拭ったシオリ。 
 
しかし何をどうしたって真っ赤なそれは隠しようが無かった。
その後はなにも言えず黙り俯いたシオリ。 ツカサもこのままシオリを
置いて立ち去ることも出来ず、困り果てた情けない顔を向け立ち竦んだ。
 
  
するとシオリの頭に、先日レイから言われた言葉が浮かぶ。
 
  
 
  
  ”ちゃんと自分で確かめたの??
 
   ヒトからの情報だったら、そんなの私は信用しないな。”
 
  
 
  
結局ショウタ本人には怖くて確かめられなかった、”それ ”。
 
確かめたところで今更どうなるというのだという気持ちと裏腹に、
本音を言えば確かめたくて仕方ない気持ちが込み上げる。
 
  
暫く哀しげに俯いて言いよどみ、やっと静かに口を開いた。
 
  
 
 『ねぇ・・・
 
  
  ヤスムラ君て・・・
 
  ・・・セリザワさんと、付き合ってるんでしょ・・・?』
 
  
 
シオリが真っ赤な目でツカサを見上げる。
ツカサの返事を待たず、まるで答えに怯えるようにシオリは早口で続けた。
 
  
 
 『ちゃんと幸せそうに笑ってる・・・?
 
  あの頃みたいに、バカみたいに呑気な顔で笑ってる・・・?』
 
  
 
突然矢継ぎ早に発せられたシオリのその言葉に、ツカサは言葉を失った。
 
ショウタがいまだにシオリを想い続けている事に気付いていたツカサ。
しかし、シオリが従兄弟と結婚をするらしいという事も知っていたし、
今更そんな話をしてどうするのかと訝しがった瞬間、ツカサの目にシオリの
左手が目に入る。
 
  
在るはずのそれがない、薬指が。
 
  
 
  (まだ、結婚・・・ してない、のか・・・?)
 
  
 
  
ツカサは無責任に ”それ ”を言っていいものか悩んでいた。
 
シオリが泣きはらした真っ赤な目で訊いた、その意味を考えあぐねる。
なにがどうなって、今現在どんな状況なのかサッパリ分からない。
 
  
しかし、嘘をつく必要なんてない。
間違いだけは正していいはずだと、ツカサは確信していた。
 
  
そして、ひとつ息をつく。
瞬時に頭の中で言葉を選び、言うべきこと言わなくていいことを考える。
 
  
 
 『んな訳ないじゃん・・・
 
  アイツはそんなに器用じゃないよ・・・
 
  
  他の奴と付き合えるほど、あのバカは器用じゃない・・・。』
 
  
 
『え・・・?』 マヒロと付き合っていると思い込んで疑わずにいたシオリが
目を見張る。 シオリの心臓は早鐘の様に猛スピードで打ち付ける。
 
  
 
 『あの頃みたいには笑わないよ・・・
 
  
  ホヅミの前じゃなきゃ、アイツ・・・
 
  ・・・あんな風には、笑わない・・・。』
 
  
 
耳に聴こえたその言葉に暫し呆然と立ち尽くし、再び崩れ落ちるようにしゃがみ
込んだシオリ。 地面の小砂が付いた膝とハンプスが、小さく擦れてすっかり
汚れてしまっているのも気付かぬままに。
 
  
あの頃、呆れるほど朗らかににこやかに毎日毎日情けない顔で笑ってくれた
ショウタの笑顔を想い出していた。
 
”ホヅミさぁぁああん ”と教室戸口で叫ぶ、やさしい低い声。
溢れそうな想いがこもった様な、やたらと温度の高い大きな手。
 
  
 
  
  (好き・・・
 
   ヤスムラ君が、今でも大好きだよ・・・。)
 
  
 
  
再び、とめどなく涙が頬を伝う。
涙腺が崩壊したかの様に、感情は溢れて止めることが出来なかった。
 
  
その時、力が抜けたその細い指から離れたカバンがストンとアスファルトに
転がり中に入っていたキーホルダーが飛び出した。
 
  
泣きじゃくるシオリをどうする事も出来ずに見つめていたツカサが、そっと
体を屈めてそれを拾い上げる。
 
そして目の高さに上げ、まじまじとそれを見つめた。
 
  
 
 『コレ・・・
 
  アイツの原チャリの鍵に付いてるやつと同じだ・・・。』
 
  
 
いまだに大切に宝物のように持ち続ける情けない顔をした生物のキーホルダーが
ツカサの指先で揺れていた。
 
  
修学旅行のあの日、”おそろい ”とそれを目の高さに上げてえへへと笑った
高校生のショウタがシオリの脳裏に浮かんでいた。
 
  
  

■第50話 窓の外に見掛ける原付きの姿

 
 
 
ユズルは、どこか元気がない思い詰めたような妹シオリの横顔をそっと
見つめていた。
 
 
その日、頼んでおいたシュークリームを駅前で買って来てくれたシオリは
どこか潤んだ目元で心此処に在らずといった面持ち。 ぼんやりとなにか
考え込み、なにかあったのか訊いても哀しげにその頬に小さく笑みを作り
首を横に振るだけだった。
 
 
 
 『それ・・・ 転んだのか・・・?』
 
 
 
シオリの膝が擦れて少し血が滲んでいるのが目に入ったユズル。

看護師に一応消毒でもしてもらった方がいいのではと思ったが、シオリは
それにも首を横に振る。 そっと伏せた長いまつ毛が先程まで濡れていた
のが窓から差し込んだ陽の光に反射して、それを誤魔化し切れない。

ユズルに指摘されるまでそれに気付いていなかったシオリが、少し体を屈め
膝を指先でそっと押さえた瞬間、首元からそれが表れ小さく揺れた。
 
 
 
  それは、小さい小さいおもちゃの様な指輪が煌めく、ネックレス。
 
 
 
ユズルはそれを目に、一瞬息を呑む。 
ここ数日モヤモヤしていたそれの謎がやっと解けた。
 
 
 
 
  (そうか・・・ シオリだったのか・・・。)
 
 
 
 
  ”宝物みたいに両手で包んで、涙こぼしてて・・・

  失恋しちゃったのか分かんないけど・・・

  きっと、すっごい好きな人からのプレゼントだったんだろうなぁ・・・。”
 
 
 
 
レイが言っていたベビーリングの話。

自分もどこかでそれを見た朧げな記憶が確かにあった。 しかし思い出せずに
いたそれ。 患者でも見舞客でも職員でもない、どこで見たのか全く分からず
仕舞いだったそれが、妹シオリだったのだと気付く。
 
 
そして、もうひとつ。 大切な真実にユズルが気付いた。
 
 
 
  シオリには、ずっと想い続ける相手がいる。

  それは、婚約者のコウではない気配。
 
 
 
 
すると瞬時に、毎早朝に窓の外に見掛ける原付きの姿を思い出した。

遠目でよく分からずにいたそれは、あの日の整形外科にやって来ていた彼
ではないのかと。 妹シオリに見惚れてケガをした、あの彼では・・・
 
 
 
 
  ”俺。 こんな腕のヒビとか、もぉ、どーでもいいっスもんっ!!

  手ぇ振ってもらえただけで、マジでもぉ、俺。ぜんっぜんいいっス!!”
 
 
 
 
只一人、シオリを心から幸せそうに笑わせることが出来るショウタの事を
ユズルは思い出していた。
 
 
 
 
  (そうか・・・

   ・・・ふたりは、いまだに・・・。)
 
 
 
 
ユズルがシオリをそっと見つめた。

妹の胸の内を思い一気に迫る熱いものを必死に鎮め、やわらかく言葉を紡ぐ。
 
 
 
 『悪いんだけどさ・・・

  明日、朝5時前にちょっとココに来てくれないか・・・?
 
 
  ・・・ちょっと、見せたいものがあるからさ・・・。』
 
 
 
『・・・え?』 言われている意味がよく分からないシオリが、いまだ潤んだ
目を向けて首を傾げる。
 
 
 
 『来れば分かるから。』
 
 
 
ユズルはそう一言告げると、どこかスッキリしたような清々しい顔で微笑んだ。
 
 
 

■第51話 バカみたいなノーテンキな顔

 
 
 
突然のシオリとの再会に、まるでいまだ夢の中の様に呆然としていたショウタの
前になんだかやけに真剣な顔をしてツカサが足早にやって来た。
 
 
ツカサはどこか睨み付けるように目を眇め、ショウタを見る。
遅れて来たくせにそれを謝りもしないツカサと、待たされたくせにそれにも気付
いていないような呆けたショウタ。
 
 
『ん?』 その射るような視線にさすがにショウタが首を傾げた。
 
 
すると、開口一番でツカサが言う。
その声色は低く、極めて真剣なそれで。
 
 
 
 『お前さ・・・

  ホヅミのこと、まだ諦めてないんだろ・・・?』
 
 
 
普段、いい大人の男同士で余程でなければ恋愛話などしない。
急に切り出された突拍子もないそれに、呆けていたショウタもさすがに戸惑った。

『な、なんだよ・・・ 急に。』 困っているような戸惑うような顔で思い切り
眉根をひそめる。 バツが悪そうに目を逸らし、首の後ろを痒くもないくせに
無意味に掻き毟ると、その部分だけ赤くなってヒリヒリした。
 
 
すると、ツカサはショウタの肩を乱暴に掴んで揺らす。
 
 
 
 『外野が簡単に言うことじゃないけど・・・

  簡単に言えることじゃないのは分かってっけどさ・・・
 
 
  お前・・・ 諦めんなよ・・・

  ゼッタイ、諦めんなよホヅミのこと・・・
 
 
  お前とホヅミって、やっぱ、なんか・・・

  なんつーか・・・ 

  ・・・ゼッタイ、一緒にいるべきだと思うんだよ・・・。』
 
 
 
ツカサの必死な言葉がショウタの胸に突き刺さる。
決してからかったり冷やかしでそんな事を言い出したのではないのがよく分かる、
その声色。
 
 
高校時代からショウタとシオリを見てきたツカサは、歯がゆいくらいスロー
スピードでゆっくりゆっくり距離を縮めるふたりに半ば呆れながらも、口には
出さないけれど本当は心から応援していた。

ふたりが別れた気配にもショウタは多くは口を開かず、それでもきっとふたり
ならまた元に戻れるはずだと、全く根拠はないけれどツカサには確信にも似た
思いがあった。

しかし風の噂で聞いたシオリの結婚話に、さすがに応援し続けるのはショウタに
酷だと感じ、それ以来一切シオリの名を出すことは無かったのだが。
  
 
 
 
  ”ちゃんと幸せそうに笑ってる・・・?

   あの頃みたいに、バカみたいに呑気な顔で笑ってる・・・?”
 
 
 
 
先程の、シオリのあの一言。
心配で心配で仕方ないようなシオリのあの表情。

それはまるで、あの頃ショウタが体調を崩して早退した時にシオリがツカサに
見せた放課後のそれと全く同じだった。
黒髪ロングヘアで制服をまとった、17才のそれと。
 
 
なんだか泣きそうな顔をして真剣に詰め寄るツカサに、ショウタはどうしていいか
分からず困った顔をして哀しげに笑った。 眉尻が下がった情けない顔は普段通り
なはずなのに、それには何故かただただ寂しさだけが際立つ。
 
 
するとツカサは呟いた。
 
 
 
 『お前・・・ 笑わなくなったよな・・・

  あの、バカみたいなノーテンキな顔で笑わなくなった・・・
 
 
  ・・・今みたいなのばっかだ。
 
 
  お前の笑ってる顔、笑うってより泣いてるみたいだ・・・

  ホヅミがいないと、お前、笑うことすら出来ねーんだろ・・・。』
 
 
 
 
 
 
ツカサと別れショウタはぼんやりと俯いたまま、自宅に戻った。

どこをどう通って帰宅したのかイマイチ思い出せないくらい、思考回路はそれに
支配されている。
シオリとの再会に心がパンク寸前で、ツカサに言われた言葉が頭をグルグル巡る。

次から次へと起こった出来事に、なんだか頭が付いていかない。
 
 
すると、ぼんやりした息子の姿を目に、店先に立つ母ミヨコが顎で自宅2階を指す。
 
 
 
 『マヒロちゃんが来てるよ・・・。』
 
 
 
小さく溜息をついたショウタ。 
なんだか一気に肩が重く感じ、無意識にかぶりを振る。

そして、力無くぽつり呟いた。
 
 
 
 『なんだよ・・・

  ・・・同窓会か、今日は・・・。』
 
 
 

■第52話 再び灯った小さな火

 
 
 
気が重いまま、2階への階段を上がったショウタ。
 
 
古い階段の踏面が、ギシギシと気が進まないそれを表すようにゆっくり鈍い
音を立てる。

自室ドア前で一瞬立ち止まり小さく息を吐きそっとドアノブに手を掛けると
同時にそれが開いた。 ショウタがやって来た気配に、マヒロがドアを開け
そこに立ち竦み、そして深々と頭を下げた。
 
 
『な、なんだよ・・・?』 マヒロの姿に驚き、取り敢えず下げている頭を
上げさせようとショウタは少し屈んでその細い肩にそっと手を当てると、
マヒロは震える声で言った。 
 
 
 
 『ごめん・・・

  ・・・あたし、嘘ついたの・・・。』
 
 
 
『え?』 ショウタが、いまだ頑なに頭を下げ続けるマヒロを覗き込む。

マヒロが自分に嘘なんかつく必要性を全く感じず、ショウタには思い当たる
節がひとつも見当たらなかった。
 
 
 
 『あたし・・・

  ショウタに嘘ついた・・・
 
 
  前に・・・ ホヅミさんと偶然会った時、

  ホヅミさん、ほんとは指輪なんかしてなかった・・・
 
 
  ・・・婚約も結婚も、してなかった・・・。』
 
 
 
マヒロの前下がりショートボブの毛先が、下げた頭に連動して小さく揺れている。

『ごめん。』 と繰り返すいまだ頭を下げたままのその細い背中が、あまりに
脆くて覚束なくて、逆にショウタの方が申し訳なくなってくる。
 
 
 
 『あぁ・・・ 

  ・・・うん、 知ってる・・・。』 
 
 
 
ショウタはマヒロからどんな話が飛び出すのかと思ったが、もう既に母ミヨコ
から聞いて知っていたそれに、どこかホっとした様に小さく笑った。

そして、『別に、いいよ・・・。』 それは、やさしく低くマヒロに響く。
 
 
すると、そのショウタの反応にマヒロは驚きガバっと顔を上げた。

目を見開いてまじまじと見つめるも、ショウタはそっと目を伏せ静かにドア沓摺
から部屋に進み勉強机に浅く腰掛ける。 なんだか疲れたような面持ちで首を
左右に倒し片手で肩を揉んで、気怠いような息を吐いた。
 
 
既に ”それ ”を知っているなんて思いもしなかったマヒロ。 
あの頃のショウタなら、それを知った途端に後先考えず突っ走るに違いないのに。 

それをしないショウタ。
ただ黙って見守っているようなショウタ。

シオリを深く強く想うが故に、そうしないで必死に堪えているのだと気付く。
 
 
 
 
  (そこまでして、ホヅミさんのこと・・・。)
 
 
 
 
酷い嘘をついた事も決して責め立てたりしないショウタのやさしさがマヒロの
胸に鋭く突き刺さる。 逆にツラかった、強く罵ってくれたほうがマシだった。
 
 
 
  言おうか言うまいか悩んでいた。

  それを言ったらどうなるのか。
 
 
  でももし、本当にふたりが運命の絆で結ばれているのなら・・・
 
 
 
マヒロが意を決して小さく呟いた。
 
 
 
 『もうひとつ、アンタに隠してたことがあるの・・・

  ホヅミさんと会った時、少しだけあたし、アンタの話したの・・・
 
 
  そしたら、あきらかにホヅミさん・・・ 動揺してた・・・

  アンタの名前が出ただけで、強張って泣きそうな顔して・・・
 
 
  まだ好きなんだなぁ・・・、って思ったよ、その時・・・
 
 
  ホヅミさんも、アンタの・・・

  ・・・アンタの、こと・・・ まだ・・・ 

  まだ、あの頃のまま・・・ きっと、好きで、いるよ・・・。』
 
 
 
ぽろぽろとマヒロの目から雫が落ちる。

涙に詰まって途切れた言葉。 しかしその顔はどこか清々しいそれだった。 
胸に痞えていた鈍く重いものがやっと無くなり苦しみが解け、それと同時に
ショウタへの想いを諦めた瞬間だった。
 
 
ショウタは暫し呆然と机の前に立ち尽くしていた。

その目はどこか遠くを見るように切なげに瞬きを繰り返し、途端に腰が抜けた
ようにその場に座り込む。
そして両腕で頭を抱え、そこから動かなくなった。 
 
 
目を閉じて深く深く息を吐く。 その呼吸はまるで震えているかの様に途切れる。

諦めようと必死になっていたこの数年を思い返していた。 結局は諦め切れず、
いまだ思い続ける誰より愛しいその人も、もしかしたら変わらずに自分を想って
いてくれているかもしれない。
 
 
 
 
  (どうしたらいい・・・?

   ・・・俺は、どうしたらいい・・・?)
 
 
 
 
ショウタの胸に、再び小さな火が灯っていた。
 
 
 

■第53話 雨の日も、風の日も

 
 
 
翌日、早朝。
 
シオリは兄ユズルに言われた通り、まだ薄暗い中いまいち状況が掴めないまま
病院にやって来た。
 
 
職員玄関を静かに通り、いまだ入院患者がひっそりと寝静まる廊下を進んで
ユズルの病室のドア前で立ち止まると、遠慮がちに小さく2回ノックする。
すると、中から車イスが動く電動音が聴こえ、そのドアがユズルの手により
スライドされ開かれた。
 
 
『朝早くに悪いな。』 そう口では言うも、ユズルは然程悪びれもせずどこか
その顔は嬉々として上機嫌に見える。

シオリはそんなユズルを困った様な面持ちで少し眉根をひそめ見ていた。
いまだ不審がって戸口で佇むシオリを病室の中へ促すと、その背中は窓辺へと
向かいまっすぐ車イスを進め、どこか自信満々に目を輝かせ振り返った。
 
 
 
 『ちょっと、こっち来て。』
 
 
 
ユズルの声に、『ん?』 シオリはなんだかよく分からないまま窓辺へ近寄る。
 
 
ユズルは少し身を乗り出して窓の外を見つめた。 顔を大きく左右に向けて、
いまだ薄暗い朝靄けむる病院前の表通りをキョロキョロと遠く見澄ましている。 
それは、なにかを探している風で。
 
 
すると、瞬時にパっとユズルの表情が明るくなった。
その探していた ”なにか ”を見付けた事をそれが物語る。
 
 
ユズルがなにも言わずに、まっすぐ腕を伸ばし指をさす。
その指先は窓ガラスの厚みをすり抜けて、表通りに ”それ ”を示した。
 
 
シオリは小首を傾げ見つめていた兄の横顔から、その視線をユズルの指先へと
静かに移動する。 指の先に目を凝らすと、そこに見えたものにシオリが目を
見張り声を失った。 咄嗟に、ガラスに顔がくっ付くほど近付いて見つめる。
 
 
静かに病院の正面玄関脇に滑り込んできた原付き。

早朝のその姿は、エンジン音が近所迷惑にならない様にとでも思っている風に
慌ててエンジンを切って跨っていたそれを降りる。
そのガタイのいい姿はそっとハーフヘルメットをはずすと、座席後部のカゴに
置いた。 その首元には白い布、なにか印字されているのが見える。
 
 
あれは、きっと ”八百安 ”と書かれた手ぬぐいに違いない。
 
 
  
そして、ただまっすぐ病院を見つめていた。

ただただまっすぐ ”その姿 ”を探して。

いつ来たって見えはしない誰より愛しい ”その姿 ”を闇雲に探して。
 
 

  
ユズルがぽつりと呟いた。
 
 
 
 『少なくとも、僕の意識が戻った時にはああしてたよ・・・。』
 
 
 
シオリはまだ窓に張り付いてその姿を呆然と見つめている。

ガラス窓に押し当てた手の平の熱でそれはじんわり曇り、指先は小刻みに
震える。
 
 
 
 『あの感じなら、きっと・・・ もっと、前から・・・。』
 
 
 
そのユズルの一言にシオリが遂に声を上げて泣き出した。

涙の雫が次から次へと白くてツヤツヤの頬をこぼれ落ちる。
両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだシオリは、まるでこどもの様に
泣きじゃくる。 
 
 
その華奢な震える背にそっと手を当て、ユズルは言った。
 
 
 
 『あれ・・・ 青りんご君だろ・・・?
 
 
  毎朝、毎朝・・・

  雨の日も、風の日も・・・ 青りんご君は病院を見上げてたよ・・・。』
 
 
 
たったの一言すら言葉が出ないシオリ。
痙攣するように胸は震え、思うように呼吸が出来ない。
 
 
 
ショウタはあの頃のまま、変わらずにいてくれた。

一方通行だと思って疑わなかった ”ベクトル ”は、あの頃のまま。
あの頃のまま、なにも変わらずに互いだけに切ない程に向き合っていた。
 
 
 
思わずユズルに抱き付いて泣きじゃくるシオリ。

ユズルはまるで幼いこどもを安心させる様に、震えながら泣き続けるシオリの
頭をやさしくやさしく撫でてやわらかく言った。
 
 
 
 『ごめんな・・・

  僕のせいで、お前が一番ツラい思いしてきたんだよな・・・
 
 
  もう心配しなくていいから。

  お前は、青りんご君のところに行きなさい・・・
 
 
  僕が父さんを説得するから、もう、ダイジョウブだから・・・。』
 
 
 

■第54話 目に見えないもの

 
 
 
シオリはその夜、コウの元を訪ねていた。
 
 
決して自分からやって来たりしないはずのシオリのその姿に、コウは瞬時に
それを悟る。

『ちょっと時間ある?』 シオリの真剣な眼差しに、コウは ”その話 ”を
聞きたくないと直感で感じていた。 聞いてはいけない、何か適当な理由を
こじつけて拒否しなければいけない。
 
 
しかし、コウは極めて冷静に余裕あるいつもの能面の様なキレイな微笑みで
コクリと頷いた。
 
 
もう誰もいない静まり返った外来待合室に、ふたり。

照明も落とされて辺りは廊下に灯る非常灯のわずかな明かりと、数台並んだ
自動販売機のそれがぼんやりと光っているだけだった。
 
 
コウはゆったりと待合室の長椅子に腰掛けた。

スっと鼻筋の通った美しい横顔、適度に細いしなやかな指、白衣の奥に覗く
長い脚、今日もモデル雑誌から抜け出て来たような完璧なその佇まい。
 
 
シオリも座ることをやわらかく促すも、首を横に振り立ったままどこか緊張
して強張るそのツヤツヤの白い頬は、不安気に指を絡めたり解いたりを繰り
返している。

自動販売機のコンプレッサー音だけが辺りにやけに大きく響き、耳につく。

中々話を切り出せずにいまだ立ち尽くすシオリに、コウは肩をすくめどこか
馬鹿にする様にクククと嗤った。
 
 
 
 『シオリはもっと現実主義だと思ってたのになぁ~・・・

  くっだらない ”目に見えないもの ”なんかに、

  そこまで左右されるとは ・・・俺としては、心底ガッカリだよ。』
 
 
 
シオリがそっとコウに視線を向ける。
何をどう言われようともシオリは今夜、コウに決意を伝えようと思っていた。
 
 
コウが半笑いでチラリと横目で見るも、シオリは目を逸らさず射るように
見返してくる。 シオリのいつもの、言いたい事を言えずに口をつぐむ感じ
とは全く違う、揺るぎない確かな気配にコウが少し慌ててたじろいだ。
 
 
 
 『い、言っとくけど・・・

  約束破って裏切ったのはシオリなんだからな・・・。』
 
 
 
急に変わったどこか焦ったようなコウの声色に、シオリがせわしなく瞬きを
する。  『約束って、なんのこと・・・?』
 
 
すると、コウは途端に顔を真っ赤にして立ちあがった。
いつもの冷静沈着なコウとは違う、今まで見たこともない様な取り乱す姿。
 
 
 
 『俺の・・・
 
  俺のお嫁さんになるって・・・

  ・・・結婚するって、あんなに言ってたくせにっ!!』
 
 
 
コウらしくないその興奮した矢継ぎ早な口調に、シオリが狼狽え仰け反って
思わず数歩後退りした。
 
 
 
 『こどもの頃でしょ・・・?』
 
 
 
『こどもだってなんだって、約束は約束だっ!!!』 コウの怒号が待合室に
廊下に響き渡った。 反響する自分の声にハっとした顔をしてまるで泣き出し
そうにうな垂れたコウ。 きつく握り締めた拳が震えているのが目に入る。
 
 
 
 『俺は・・・ ずっとシオリのことだけ見てきたのに・・・
 
 
  俺・・・ こどもの頃から純粋にシオリが好きだったよ・・・

  だから、これは本心で、結婚出来たらいいと思ってた・・・
 
 
  シオリの隣に並ぶのは俺だと思ってたのに・・・

  その為に常に格好良くあろうと努力してきたのに・・・
 
 
  あんな・・・ 無様な・・・

  あんな格好悪い奴に惹かれるとはね・・・。』
 
 
 
すると、コウの声色が嘲笑う冷たいそれに瞬時に変わる。
シオリを繋ぎ止めるその一言を見付けたように、厭らしく光る目で眇めて。
 
 
 
 『今更・・・

  あれだけ青りんご君を傷つけといて、
 
 
  今更どんな顔して会いに行くんだよ・・・?

  今更 ”やっぱり好き ”とでも言うつもり・・・?
 
 
  格好悪いにも程があるだろ・・・
 
 
  そんなの最低だよ、最っ悪に格好悪い・・・

  ダサくて、格好悪くて、目も当てられないよ・・・
 
 
  シオリはもっとスマートでいなきゃダメだろ!!』
 
 
 
歪んだ顔でシオリに向け罵声を吐くコウは、こんな時でさえ髪の毛1本の乱れも
なくマネキンのように整っていた。 
 
 
  
  完璧な、コウ。
 
  完璧すぎる、コウ。
 
 
 
シオリが俯いていた顔をそっと上げる。
それはまるで長い間探していたものを見付けた様な、顔で。
 
 
 
 『そう・・・

  格好悪いの・・・
 
 
  ヤスムラ君は、格好悪いトコも全部、

  全部全部・・・ 隠さずに私に見せてくれるの・・・
 
 
  私の格好悪いトコも、全部受け止めてくれる・・・
 
 
  だから私も・・・

  ダメなトコも、悪いトコも、情けないトコも全部全部

  隠さずに、ヤスムラ君だけには見せられる・・・。』
 
 
 
 
 
 ”その、情けないまゆ毛見えてたほうがゼッタイかわいいってのー!”
 
 
夕暮れの帰り道で強引に前髪を上げられ、情けないハの字の眉毛を見られて
格好悪いくらい憤慨したあの日を思い出していた。
 
 
 
 
       ”(*´▽`*)Ф~~~”
 
 
 
うちわで扇がれ、教科書に落書きされ、半紙に描かれ、いつもいつもシオリに
向けて情けない顔で笑ってくれたショウタ。
 
 
シオリの頬に涙が零れる。
そして、まっすぐ射るようにもう一度コウを見つめてシオリは言った。
 
 
 
   『私は、ヤスムラ君が好き。

    だから、ヤスムラ君以外の人とはゼッタイ結婚しない。』
 
 
 
すると、コウは暫し電池が切れたおもちゃの様に微動だにしなくなった。

そして黙り込んだまま深い深い溜息をつく。
耳に響いたシオリのそれを、何度も何度も頭の中で確かめるように目を瞑って。
 
 
遠く、廊下の先から看護師詰所の内線がけたたましく鳴る音が小さくそよぐ。
外来待合室にはコウの静かな呼吸の音と、シオリの息を詰めたようなそれ。
 
 
コウは正していた姿勢から、だらしなく長椅子の背に体を沈め足を投げ出して
首を反り天井をぼんやり眺めた。
 
 
 
 『やっと・・・ ちゃんと断ってくれたね・・・。』
 
 
 
それはどこか懐かしくシオリの胸の奥に響いた。
冷たく抑揚ない声色が急に昔のやさしいコウに戻ったような、そんな気がした。
 
 
コウが小さく笑って、呟く。
 
 
 
 『それ言われないと、こっちも前に進めない・・・

  まぁ、切り出せずにいるシオリに俺もつけ込んでたってのもあるけど
 
 
  ”目に見えないもの ”に一番すがってたのは、きっと俺だ・・・
 
 
  幼い約束を、信じたかった・・・

  シオリとふたりで白衣姿で並びたかった・・・。』
 
 
 
すると、コウはやわらかく目を上げて、そっとシオリを見つめた。
 
 
 
 『もういいよ、シオリ・・・

  ・・・これでやっと、俺も・・・・・・・・。』
 
 
 
『ありがとう。 コウちゃん・・・。』 シオリが肩を震わせて涙声で呟く。

コウは、嬉しそうにでもどこか哀しそうに切なげに微笑んだ。
 
 
 
 『やっと ”コウちゃん ”て呼んでくれたね・・・。』
 
 
 
コウは両腕で顔を隠すようにして背を丸めた。
その腕の奥で、クシャクシャに顔を歪めて漏れそうになる泣き声を堪えていた。
 
 
 

■第55話 あの子

 
 
 
  ”ホヅミさんも、アンタの・・・

   ・・・アンタの、こと・・・ まだ・・・ 
 
   
   まだ、あの頃のまま・・・ きっと、好きで、いるよ・・・。”
 
 
 
マヒロが言った一言が頭をグルグル巡り、ショウタは心此処に在らずといった
面持ちで暫し呆然としていた。

毎朝の新聞配達の帰りに必ず見つめるシオリの病院も、いつものそれとなにも
変わらずその愛しい姿を見付けることなど出来ないのに、見つめるだけで何故
だかやたらと切なく歯がゆく胸を打つ。
 
店に立っても家にいてもショウタはただただ呆けた感じで立ち竦み、そうかと
思うと突然その場にしゃがみ込み頭を抱え深く深く溜息をついた。
 
 
 
 
  (どうする・・・

   でも、どうしたらいい・・・?

   ・・・今、俺に、なにが出来る・・・?)
 
 
 
 
するとある夜、部屋のドアを2回ノックする音が聴こえた。

ショウタが顔を上げそっと目線を移動すると、そこには父親が立っていた。
『ん?』 滅多に部屋になどやって来ないその姿にショウタは首を傾げる。

『・・・いいか?』 部屋に入ることを小さくひと言確認し、静かに足を
踏み入れた父。 まるではじめて入ったかの様に少し微笑みながら部屋を
見渡すと、ふと勉強机に目をやった。
 
 
そして、机の前に立つとそっと手を伸ばしそれを掴んで1冊引き抜いた。
 
 
 
 『お前・・・ 新聞配達、何年続いてる・・・?

  ・・・資格とる為に、随分がんばったなぁ・・・。』
 
 
 
口数の少ない父が、ぽつりと低く呟く。

その手に掴んでいたのは、ショウタが取得した資格試験の参考書だった。
高校生の頃から新聞配達を続け、貯めたお金で夜間の学校に通い数々の
資格を取得していたショウタ。
 
 
 
 『栄養士・・・ 食学士・・・ 野菜ソムリエ・・・

  食育マイスター・・・ フードコーディネーター・・・。』
 
 
 
本立てに並ぶ参考書のタイトルをひとつずつ読み上げる父。
指先でそれらの背文字をなぞり、やわらかい微笑みを浮かべながら。
 
 
 
 『あれだけ勉強嫌いだったお前が、

  こんなに勉強して資格なんか取って・・・
 
 
  コレ、八百屋で活かす為じゃないんだろ・・・?
 
 
  ・・・あの子の為なんだろ・・・?』
 
 
 
ショウタはなにも言えず黙って父を見つめていた。

普段会話らしい会話もしない寡黙な父が、実はこんなに自分を見てくれて
いたのだとはじめて気付く。
 
 
 
 『昔・・・

  お前が倒れて、あの子が見舞いに来た時・・・
 
 
  あの子、母ちゃんに抱き付いて大声あげて泣いてたんだぞ・・・

  お前と離れたくない、一緒にいたい、って・・・
 
 
  あんまりの大声なもんだから、店にまで聴こえてた・・・
 
 
  あの時、一番ツラかったのは・・・
 
  ・・・きっと、 ・・・あの子だ。』
 
 
 
その父の言葉にショウタが目を見張り息を呑む。
今も胸を深くえぐる、あの日のシオリのあの言葉。
 
 
 
 
  ”勉強の邪魔なのっ!! 

   もう、ほんとに・・・ 迷惑だからやめてほしいのっ!!!”
 
 
 
 
  (あれは・・・

   ・・・俺を突き放すために、わざと・・・。)
 
 
 
すると、父はそっと窓の外に目をやって嬉しそうに微笑んだ。
情けない下がり眉で目尻には無数のシワが刻み込まれた、朗らかなそれで。
 
 
 
 『医療で人の命を救うのと、

  栄養で人の体を守るのと、
 
 
  ・・・向いている方向は、同じなんじゃないのか・・・?』
 
 
 
そして、父がやわらかい声色で弾むように言った。
 
 
 
 『ほら、急いで外行ってこい!!』
 
 
 
『え?』 ショウタがその意味が分からず、父を見つめる。
 
 
 
 『たった今、あの子が走ってやって来たぞ。』
 
 
 
そう言って再び窓辺に向けた父の目に、橙色のミムラスがたったひとつ
蕾を膨らませ花が咲いているのが映っていた。
 
 
 

■第56話 花言葉

 
 
 
シオリは、夜道を全速力で駆けていた。
 
 
暗い住宅街は、夕飯が終わり少しのんびりした穏やかな雰囲気の静けさに
包まれ、シオリの立てるパンプスのヒール音だけが硬く短く響く。

途中足がもつれ転びそうになりつつも、なんとか体勢を整える。 
肺が壊れそうに苦しいけれど、決してその足を止めることはしない。
 
 
 
  1秒でも早く、ショウタに逢いたかった

  1秒でも早く、ショウタに伝えたかった
 
 
 
その目には強く確かな光が宿り、もうわずかな迷いも無い。

駆けるリズムに、片肩に掛けたトートバッグの揺れが気になり少し心配そう
に目を遣りつつも、シオリの心と足は必死にショウタへのみ向かっていた。
 
 
 
懐かしい商店街の八百安の店前へ飛び込んだシオリ。

もうどの店もシャッターは閉まり、等間隔に並ぶ街灯だけがぼんやり辺りを
灯している。 店舗兼住宅が多いそこは、2階自宅部分の窓からあたたかな
明かりが覗きなんだか言葉では言い表せないやさしい気持ちが込み上げた。
 
 
息があがって苦しくて、背を丸めてゼェゼェと全身で息をするシオリ。
喉の辺りが痞える様に苦しい、心臓がバクバクと高らかに音を立てる。
顔にかかった髪の毛を手で払い、そっと片耳に掛けた。
 
 
苦しげに目を細めそっと視線を流した先に、それを見付けた。

店先の脇に、花の鉢植えが並ぶスタンドラックがあの頃と変わらずに佇んで
いる。 3段のラックには、所狭しと色とりどりの花が今日も見事に咲き
誇り、急激に胸に込み上げる熱いものにシオリは大きく深呼吸をした。 
 
 
 
  大好きなこの場所

  大好きな人たちがいる、この場所・・・
 
 
 
 
すると物凄い勢いで裏口の玄関ドアが大きな音を立てて開き、中からショウタ
が突っかけを履いて飛び出して来た。
 
 
 
 『ど、どうしたの・・・?』
 
 
 
突然やって来たシオリに、何事かとショウタは不安気に慌てて駆け寄り、
そっと見つめる。

その顔はいつもの情けなさよりも、迷子のこどもの様なうら寂しさが強くて
息苦しそうに屈めたシオリの背中をやさしくさするその大きな手は、得体の
知れない恐怖に少し震えているのが伝わった。
 
 
すると、シオリが言った。
 
 
 
   『逢いたいから・・・

    ヤスムラ君に・・・ 逢いたかったから・・・。』
 
 
 
その大きな澄んだ瞳は涙の雫をいっぱいたたえて、今にも零れ落ちそうで。

シオリがゆっくり、ひとつ、瞬きをする。
長い下まつ毛は大きな粒を支えきれずに、その透明な雫を白くツヤツヤの頬に
落として伝い転がった。
 
 
シオリは、まっすぐショウタを見つめる。

まるで眩しい朝の陽の光に目を細めるように、やわらかくあたたかく。
そして、10年分のありったけの想いを込めて。
 
 
 
   『ヤスムラ君・・・

    ・・・ヤスムラ君の、傍にいさせて・・・。』
  
 
 
そう言ってシオリは肩に掛けていたトートバッグの持ち手を下ろすと、そっと
両手でそれを握り直して、しずしずとショウタに向けて差し出した。
 
 
ショウタは、たった今耳に聴こえたそれに呆然とするしかなかった。

なにが起こったのか、頭がまったく追い付かない。
誰より愛しいシオリが目の前にいて、そして自分に向けて発せられた言葉は
この長い長い10年もの間、夢にも見ることが出来ないくらいに夢のまた夢
だった事で。
 
 
耳元で自分の心臓がバクバクと高速で高鳴っている。
まるで水中にいるように、耳の中で荒い呼吸がやけに際立つ。
次第に視界はぼやけて滲んでゆく。
 
 
 
 
  (夢・・・ なのかなぁ・・・。)
 
 
 
 
中々トートバッグを受け取れずに呆然と立ち竦むショウタの大きな手を、
シオリはその華奢な細い両手でやさしく包んだ。

今夜もひんやりと冷たいシオリの手。
間違いなく確かに感じる、その温度。
ショウタは、手渡されたバッグにいまだ訳も分からないままに目を落とした。
その震えるノドからは、たったのひと言すら声が出せない。
 
 
そっと見つめたバッグの中にあったもの、それは。
 
 
 
 
 
   蕾ひとつだけ大きく花開いた、橙色のミムラスだった。
 
 
 
 
 
バッグの持ち手を掴むショウタの手が、まるで幼いこどものそれのように
覚束なく心許なく小刻みに震える。
 
シオリは再び両手でそれを包み込んだ。
美しい透明な雫をぽろぽろ零しながら、目元も頬も鼻も真っ赤に染めて見つめ
るその顔は、あの頃の17才の少女のそれで。
 
 
そして、あの頃のように情けない顔で朗らかに笑わなくなったショウタへ言う。
 
 
 
 
   『この花は、ミムラス・・・

    ・・・ちなみに、花言葉はね・・・ 
 
 
 
            ”笑顔を見せて ”
 
 
 
    私が・・・ 一生・・・

    一生・・・ ヤスムラ君を、笑わせるから・・・。』
 
 
 

■第57話 夢

 
 
 
 『また・・・ ゆ、夢・・・?』
 
ショウタの見開いた目から次々と涙が落ちる。
 
 
すると、すぐさまいい歳をした大人の男がクシャクシャに顔を歪めた。 
溢れる涙の雫を隠そうともせずに、強く噛み締める奥歯で頬は引き攣らせて。

崩れるようにアスファルトにしゃがみ込み膝をつくショウタを、その横に膝立ち
になり寄り添って、そっとシオリが抱きすくめた。
 
 
 
 『そうね、夢かもね・・・
 
 
  ごめんね・・・ 
 
  ”私にまかせて ”って言ったくせに、

  ・・・こんなに時間かかっちゃって・・・。』
 
 
 
シオリの髪の毛がサラリ揺れて、やさしいシャンプーの香りがショウタの
鼻先を霞める。

あの頃となにも変わらない、その胸を熱くするシオリの香り。
大きなショウタは、シオリの華奢な両の腕にスッポリくるまれた。
 
 
シオリも流れ続ける涙で頬はすっかり濡れていた。
しかし幸せそうに、やわらかいあたたかい微笑みでショウタを見つめる。
 
 
ショウタが思わず膝立ちのままシオリに抱き付いた。

強く強く、壊れるほどに強く。 細いその腰を抱きすくめるように腕を絡める。
そして、幼いこどもの様にしゃくり上げながら呟いた。 
 
 
 
 『もう・・・ 頼むから、

  ・・・どこにも・・・行か、な、いで・・・。』
 
 
 
シオリも泣きじゃくりながら、何度も何度も頷く。
 
 
 
 『ダイジョウブ・・・

  ダイジョウブよ・・・ もう、一生離れないから・・・。』
 
 
 
すると、もう一度ぎゅぅううっと思い切り抱き締めそしてそっと体を離し
ショウタが真っ赤に滲む目でシオリをまっすぐ見つめた。

あの頃の、情けない朗らかな微笑みのそれで。
 
 
 
 『高校んとき・・・ 夢、見たんだ・・・
 
 
  ホヅミさんがすっげぇ笑ってんだ、俺に向かって・・・

  めちゃめちゃ愉しそうに、ケラケラ笑い声上げてさ・・・
 
 
 
  なんか・・・ 太陽みたいに眩しかった・・・

  俺だけの太陽だって、なんか、そん時思ったんだ・・・
 
 
 
  その夢では、クリスマスに付き合うことが出来て、

  27の春に、ケッコンすんだ・・・
 
 
 
  俺、目ぇ覚めたとき、自分でもビックリするくらい心臓バクバクしてて

  顔とかすげぇ熱くて、手とか震えてて、

  もうとにかく1秒でも早く学校行って、ホヅミさんに言わなきゃって、
 
 
 
  そんで・・・ 

  ・・・そんであの時、俺・・・。』
 
 
 
あの日。

朝のホームルームが今まさに始まろうとしている、シオリの2-Cの
教室で殆どのクラスメイトが見ている中で、堂々と考えなしに為された
”突拍子もない告白 ”。
 
頬を高揚させシオリの前に立つ情けないショウタの顔が、昨日の事の様に
浮かぶ。
 
 
すると、懐かしむようにやさしく目を細めシオリが微笑んだ。
 
 
 
 『・・・予知夢をみる力があるのね?』
 
 
 
ショウタが泣きじゃくる痙攣した頬を向け、シオリを見つめる。

伸ばした大きな手はいまだ震えて心許ないが、強く握り締めたシオリの
細い手を決して離さなさいという気持ちがその温度で伝わる。
 
 
 
 『好きなんだ・・・
 
 
  ずっと、忘れたりなんか出来なかった・・・

  ずっとずっと、あん時のまま・・・ 好きなままだった・・・
 
 
  どうしても、どうしても・・・

  ・・・ホヅミさんじゃなきゃダメなんだ、俺・・・。』
 
 
 
シオリが前髪の奥にハの字の困った眉を覗かせて、そっと目を伏せる。
 
 
愛しい愛しい只一人の、ショウタ。

シオリもまた、この10年の間ショウタを忘れたことなど無かった。
あの頃のまま、なにも変わらずにショウタの笑顔だけを想って生きてきた。
 
 
忘れようとした日々、忘れられず泣き暮れた日々。
諦めようと必死になって、諦められなくて幾粒も涙を流した。
 
 
その声に、手に、温度に、情けない笑顔に、
ショウタのすべてに、どうしようもないほど心は奪われている。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君じゃなきゃダメ・・・。)
 
 
 
 
すると、ショウタの熱のこもった涙声は、真っ赤に染まるシオリの耳に
やさしくまっすぐ響いた。
 
 
 
 
 
    『・・・ケッコンしよう・・・  

               ・・・シオリ・・・。』
 
 
 

■第58話 結婚の条件

 
 
 
ホヅミ家のリビングに、土下座をして頭をさげるショウタの姿があった。
 
 
その目の前には、ソファーに腰掛け神妙な面持ちで睨み付けるシオリの父
ソウイチロウ。 はじめて実際に見た ”その姿 ”に、顔を合わせたく
なかったというのが本音だった。 
 
 
腕組みをしてソファーに深く沈み、不機嫌そうにただじっと見眇めていた。
まるで値踏みをする様に、ギラギラと光る目でゆっくりゆっくり瞬きをする。
 
 
朗らかなやわらかい感じが滲み出てはいるが、それはただ情けなく頼りない
だけなのではないのか。
まっすぐで実直な感じも、それは向こう見ずで無鉄砲なだけでは。

残念ながらどう頑張っても利発そうには見えない。 ガッチリした体から
察するにやはり八百屋での肉体労働が向いているタイプなのだろう。
ホヅミ家にはいない系統だし、その前に ”医者ではない人間 ”がいない。

もし ”今から医者を目指す ”などと非現実的なことでも言い出したら、
どんな辛辣な言葉で ”現実の厳しさ ”を説いてやろうかと、もう決して
若いとは言えない青年を前に、どこか意地悪く頭の中で考えていた。
 
 
小さくかぶりを振り溜息を落としたソウイチロウに、ショウタは下げていた
頭を上げまっすぐ射るように見つめて言った。
 
 
 
 『お願いしますっ!!
 
 
  どう逆立ちしてもやっぱり俺は医者にはなれないし、

  このまま家業の八百屋は続けていかなきゃいけない・・・
 
 
 
  でも、俺・・・

  高校から新聞配達して、金貯めて、

  勉強して、栄養士とかいっぱい資格取ったんです・・・
 
 
  いっぱい、考えました・・・

  どうしたらいいのか、寝れなくなるくらい、必死に・・・
 
 
  で、やっぱり俺は八百屋でいたいって思ってます

  人にとって一番大事なのは ”食 ”だから・・・

  食の方向から、俺なりに・・・

  俺が思う ”人の健康 ”をちゃんと考えていこうと思ってます!』
 
 
 
その真剣な声色と自信に満ちた言葉に、ソウイチロウは内心驚いていた。

ショウタの顔をそっと真正面から見つめる。
緊張で引き攣るだけ引き攣った頬は痛々しいほどだが、その濁りない純粋な
思いがよく表れたそれに、ソウイチロウは体勢を整えソファーに座り直す。
 
 
 
 『俺・・・ 医者にはなれない代わりに、

  栄養で、食で、人の体を守っていこうと思ってます!』
 
 
 
すると、涙でぐっしょり濡れた頬を向けシオリもショウタの隣に座り込み
父へ向けて深く深く頭を下げた。 黒い艶めいた髪の毛がラグに広がり、
小さく震えて細い指をついている。 涙の雫はシオリの膝にも跡を残す。

はじめて見る娘のそんな姿に、ソウイチロウは言葉に表せない感情が胸に
渦巻いていた。 咄嗟に母マチコも涙ぐみながら同じように頭を下げた。
 
 
 
 
    『お願いしますっ!!

     シオリさんと・・・ 

     ・・・シオリさんと、結婚させて下さいっ!!』
 
 
 
 
ジリジリと息が詰まるような重い沈黙が流れた。

壁に掛かった時計の秒針が1秒ずつ進む音だけが、やけに大きく響き渡る。
みな呼吸すら止めたように、その次のひと言を待っていた。
 
 
すると、ソウイチロウが大きく深く息をついた。

『顔を上げなさい。』 低く呟き、ショウタの横に片膝をついてその震える
背にそっと手を置く。
 
 
 
 『まったく・・・ 今日はなんて日だ・・・

  ・・・次から次へと、 ・・・お前たちは・・・。』
 
 
 
 
その日、まずユズルが院長室を訪ね、シオリとショウタの結婚を認めるように
散々長い時間かけて説得されていたソウイチロウ。

それが終わったかと思いきや、立て続けにコウがやって来てシオリとは結婚
出来ないと言ってきた。 シオリがどれだけショウタを想い続けていたかを
コウの口からも長々と聞かされ、もういい加減うんざりした所へ、仕舞いには
レイが院長室を訪ねて来た。 ソウイチロウに対しても言いたい事は遠慮せず
ズバズバ言うレイは、半ば脅すように目を眇めてシオリを擁護した。

やっとレイを追い出した後、看護師長のヒサコが凄い剣幕で訪ねてきた時には
ソウイチロウは話も聞かずに頭を垂れ、”分かったから ”と困り果てた顔を
向けた。 ヒサコがキョトンとしてソウイチロウを見つめていた。
 
 
ソウイチロウが根負けした様に、呆れた様に、小さく笑う。
その顔は寂しさが滲んでいたが、しかしどこか納得したようなそれで。
 
 
 
 『その、君が言うところの ”栄養 ”で

  まずは、身近な人間を守りなさい・・・
 
 
 
  風邪ひとつ引かせず娘を守ることが、結婚の条件だ。』
  
 
 

■第59話 幸せそうに照れくさそうに

 
 
 
それから数か月後、ユズルとレイは結婚式を挙げた。
 
 
歴史あるチャペルの壁に目映く輝くステンドグラスは、季節や時間帯に応じて
その美しい表情を変える。 礼拝堂に響き渡るパイプオルガンの音色、聖歌隊
の歌声は耳にやさしく、厳かな挙式が粛々と行われていた。
 
 
”式なんかやらない ”と頑なに言い張るレイと、なんとしてでもレイに純白
ドレスを着せたいユズル。 何度も何度もケンカして、結局はレイが折れた。
 
 
 
 『ケッコーォ、頑固だよね・・・。』 
 
 
 
満足気にツンと澄まして微笑むユズルを、レイはジロリと横目で一瞥する。
 
 
車イスに乗った白いタキシード姿のユズルの隣に、レイらしいシンプルな
Aラインの純白ウエディングドレスを纏った花嫁の姿。 
しかし、腰にあしらわれた大きな大きなふわふわのリボンに、どこか照れ
くさそうに不満気に口を尖らせている。
 
 
”リボンなんか付いたのは着ない! ”と本人は断固拒否したのだが、レイが
選ぶドレスはシンプル過ぎて慎ましやか過ぎて、それではユズルがなんだか
物足りなかった。

人生最良の日に、とびきり可愛らしいのを着てほしいというユズルの願いを
結局は最後の最後にレイが受け入れ、今日のこの日を迎えていたのだった。
 
 
真紅の絨毯を敷き詰めたヴァージンロードをゆっくりゆっくり進む、ふたり。

レイは厳かに挙式のはじまりを告げるプロテスタントの牧師だけをまっすぐ
見ているフリをして、口許を極力動かさないようにしつつその隣を車イスで
静かに進むユズルへ言う。
 
 
 
 『もう、この先はゼッタイ折れないからね!』
 
 
 
すると、ユズルは頬に満面の笑みをたたえて聴こえないフリをした。

どうしても緩んでしまう口許がふるふると震えてしまうが、憎らしい程の
澄まし顔で車イスのレバーを倒している。
 
 
 
 『ほんっとに、ほんっっっとに ・・・もう折れないからねっ!!』 
 
 
 
思い切り眉根をひそめるレイ。
不満気に下唇を突き出しながらも、幸せそうに照れくさそうに微笑んだ。
 
 
その細い首元には、煌めくネックレスが提げられている。

揺れるペンダントヘッドは、レイの誕生石が埋め込まれたベビーリング。
そしてレイの左手の薬指には、ユズルとお揃いの結婚指輪が光っていた。

ユズルの左手とレイの右手は決して離れないようしっかり繋がれていた。
 
 
 
 
 
『いつ行くの?』 挙式終わりに、シオリがコウの背中へ声を掛けた。
 
 
ブラックフォーマルを身に纏い白色ネクタイを締めるコウが、チャペルを
後にしようとして掛けられた声に振り返る。 すると淡い色のバルーン
ドレスにシフォンボレロを羽織った、見惚れるほど美しい従姉妹の姿が
目に入った。

シオリはそっと手を伸ばし、コウの肩に付いたフラワーシャワーの薔薇の
花びらをつまんで微笑む。 そして、フっと息をかけてピンク色のそれを
風に飛ばした。
 
 
 
 『ん~・・・ 取り敢えず、病院に出るのは今週いっぱいかな。』
 
 
 
コウはホヅミの病院を離れ、新しい医療技術の開発の研究をするために
大学に戻ることを決意していた。

シオリにそう言ったコウの顔はどこか清々しくて、輝いて見える。
 
 
コウはまっすぐ前を向いていた。

今まで自分でも気付かないうちに、がんじがらめになっていた父コウジロウ
からの呪縛。 父に認められようと今まで必死にもがいていたが、そんな事は
無意味だとやっと気付いた。 何かとユズルと比べられ、その背中を追い越そ
うとしていた事も全てなんの意味も無い、もうコウには必要ないのだと。
 
 
 
 
  ”カッコ悪くたっていい ”
 
 
 
 
自分らしく、自分の好きなように生きようと決めたコウは、髪の毛1本の
乱れもない潔癖にすらとれたそれが、今ではだいぶ無造作ヘアになっていた。
 
 
『似合うよ、コウちゃん。』 シオリがそのヘアスタイルに、小さく笑う。
 
 
 
 『だろ~ぉ? 

  ・・・まぁ、元がイイからなにやっても似合うんだよね。』 
 
 
 
コウが顔をクシャクシャにして大口を開けて笑った。

眩しく差し込む日差しに、その顔はまるでこどもの様に無邪気だった。
 
 
 

■最終話 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~

 
 
 
キッチンから小さく響く音に、ショウタはしばしばと瞬きを繰り返し
いまだ眠そうに細く目を開けた。
 
 
 
アパートの一室。
 
決して広くはないがキレイに片付けられ、居心地の良い空間が広がる。
ベッド脇の窓はまだカーテンが閉め切られたままになっていて、眩しい
朝陽が眠っていたショウタには届かないように配慮がされていた。
 
 
横たわっていたシングルベッドにのっそりと体を起こす。 どこか窮屈
そうにしかし幸せそうに、ベッドの右端に寄って寝ていたショウタ。
左腕を少し気怠げに上下して、その重みが確かにあった事を小さく微笑
んで確認する。 

ベッドの左端に寝て腕枕をされていたはずのその姿は、既に起き上がって
今キッチンに立っている。
 
 
まっすぐ視界に入った花柄エプロンの後ろ姿は、味噌汁のおたまを片手に
上機嫌に鼻歌を歌っている。 少し調子がはずれたその音程に、ショウタは
肩をすくめこっそり笑いながら愛しそうに見つめていた。

大きな窓から差し込んだ陽の光が、その美しい長い黒髪を照らしている。
 
 
 
そっとベッドを抜けて、足音を忍ばせキッチンへ向かう。

そしてこっそりシオリの後ろに立ち思い切りぎゅっと抱き締めたショウタ。
その突然のぬくもりにビックリして少し体を跳ね上げ、顔だけ後ろに向けて
シオリは眩しそうに目を細め笑う。 『おはよ。』
 
 
 
 『おはよう・・・。』 
 
 
 
ショウタはシオリの首の後ろに顔をうずめて、深く深く呼吸をした。

目をつぶり、確かにここにあるシオリの温度を感じる。 
夢なんじゃないかと、どこかまだ不安気に何度も何度も確かめる。
 
  
シオリのやさしいにおいがする。
ショウタの耳に、シオリのやわらかい頬の感触。
 
 
もう一度、ぎゅっと抱き締める腕に力を入れてそっと呼び掛けた。
 
 
 
 『シオリ・・・。』 
 
 
 
『ん~?』 首元に顔をうずめられ、シオリはくすぐったそうに微笑み
ながら味噌汁のガスの火を止め、小皿の上におたまを置いた。 
朝ごはんの味噌汁が完成したようだ。 

後ろから抱き付くそのショウタの腕に自分の細い腕を絡めて、シオリは
肩をすくめて嬉しそうに微笑んでいる。
 
 
 
 『今朝・・・ 夢、見たんだ・・・。』
 
 
 
ショウタは囁くように小さく小さく呟く。
いまだシオリに顔をうずめたままの声は、くぐもって響く。
 
 
シオリが可笑しそうにクスクス笑った。
 
 
 
 『私たちはもう一緒にいるんだから・・・

  ・・・もう、ショウタの夢の話はいいわよ・・・。』
 
 
 
すると一瞬その言葉に小さく驚き動きを止めて、そして照れくさそうに
ショウタは微笑んだ。 『それもそーだなっ。』
 
 
ショウタはそっと後ろから手をまわし、シオリのお腹に触れた。

やさしくやさしく、撫でるように手を置く。
その手のぬくもりを、お腹の中に伝える様に。
 
 
そして、もう一度目を閉じ深く深呼吸をした。
  
   
  
    『正夢だといいなぁ~・・・。』
 
  
 
ぽつり呟いたそれに、聞き取れなかったシオリが『ん??』 聞き返す。
なんでもないという風にショウタは思い切り笑って首を横に振った。
 
 
情けない朗らかな顔で、上機嫌に笑っていた。
 
 
 
小さな食卓テーブルの上には、籐カゴの青りんごが輝いている。

窓辺に飾られ陽を浴びた橙色のミムラスが、微笑むように咲き誇っていた。
 
 
 
 
             橙色のミムラスを、笑わない君に。【おわり】
 
 
 

【最終章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~

【最終章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~

シオリが無理やりコウと婚約させられようとしたその瞬間、交通事故により意識不明だった兄ユズルの意識が戻った。 ショウタとシオリの前から完全に姿を消したと思っていた天邪鬼な神様が遂に振り返る。 枯れた橙色のミムラスが再び鮮やかに花開く最終章。 【橙色のミムラスを、笑わない君に。】 【続章 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~ 】 の続編 ≪全60話≫

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-18

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ■第1話 足元に転がり落ちた約束の環
  2. ■第2話 発せられた名前
  3. ■第3話 妹
  4. ■第4話 神様へ感謝
  5. ■第5話 聖なる人を崇めるように
  6. ■第6話 母の杞憂
  7. ■第7話 視線を移動した薬指に
  8. ■第8話 呼び捨てにする下の名前
  9. ■第9話 しょうもない嘘
  10. ■第10話 憂う横顔
  11. ■第11話 飛んだ理性
  12. ■第12話 行き場のない色んな思い
  13. ■第13話 現れた破天荒な女神
  14. ■第14話 聞き取れないくらいの声色で
  15. ■第15話 タキの孫娘
  16. ■第16話 シーちゃんとヒサちゃん
  17. ■第17話 女学校の同級生
  18. ■第18話 一目だけでも 例え、遠くからでも
  19. ■第19話 青りんごの籐カゴ
  20. ■第20話 病室のドア8センチの厚み
  21. ■第21話 勘付かれてはいけない背中
  22. ■第22話 奪い取ったコウの指に
  23. ■第23話 本当に神様がいるのだとしたら
  24. ■第24話 逢えなかったふたり、出逢ったふたり
  25. ■第25話 頭に浮かんで離れなかったその一言
  26. ■第26話 逆光で翳るその姿
  27. ■第27話 無礼なショートカットの名前
  28. ■第28話 怯むことなく、まっすぐ
  29. ■第29話 ホヅミ ユズル
  30. ■第30話 レイの手の温度
  31. ■第31話 誤魔化しきれないその想い
  32. ■第32話 希望を見い出した表情
  33. ■第33話 絡み合った視線
  34. ■第34話 ポケットから出て来たメモ紙
  35. ■第35話 ガラス一枚挟んで
  36. ■第36話 そのもどかしい、じれったい数秒
  37. ■第37話 どのタイミングに戻れば
  38. ■第38話 検索ワード
  39. ■第39話 誰にも負けない、それ
  40. ■第40話 空欄の有効期限
  41. ■第41話 ちゃんと、自分で
  42. ■第42話 希望
  43. ■第43話 運命
  44. ■第44話 ベビーリングのネックレス
  45. ■第45話 信号待ちをするその姿
  46. ■第46話 再会
  47. ■第47話 苦しい沈黙
  48. ■第48話 また明日 
  49. ■第49話 原チャリの鍵
  50. ■第50話 窓の外に見掛ける原付きの姿
  51. ■第51話 バカみたいなノーテンキな顔
  52. ■第52話 再び灯った小さな火
  53. ■第53話 雨の日も、風の日も
  54. ■第54話 目に見えないもの
  55. ■第55話 あの子
  56. ■第56話 花言葉
  57. ■第57話 夢
  58. ■第58話 結婚の条件
  59. ■第59話 幸せそうに照れくさそうに
  60. ■最終話 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~