ディナーショーの夜
『おおのゆずるウィンターディナーショー』との看板が出ている、某ホテルの大宴会場の中。
「おおの先生は、まだ起きて来ないのか!」
宴会担当支配人の島田は苛立った様子で、シフトリーダーの青山に訊いた。先ほどから何往復もしている青山は、すでに汗だくだった。
「すみません。叩き起こしたいくらいなんですが、マネージャーが元々おおの先生の弟子だとかで、指一本触れさせてくれません。それどころか、大きな声を出すのさえ遠慮してくれと」
「ふざけるなと言ってやれ!開宴一時間前だぞ!リハーサルどころか、音合わせする時間もない。気の早い客は、もうホワイエ(=宴会場前のロビー)にチラホラ来始めてる。ドタキャンなんて、できる状況じゃない。金額的な損失も莫大だが、ホテルの信用も失墜してしまう。だいたい、必要もないのに前日から前乗りして来て、ゴルフコースを回った後、歓楽街で明け方まで豪遊してたらしいじゃないか」
「申し訳ありません」
「バカ。おまえが謝る必要なんかない。二日酔いでも、寝不足でもかまわん。とにかく起こして、客前に出させろ。どうせ本業は演歌の作詞作曲で、歌は素人のど自慢並みなんだ。客だって歌唱力なんか期待してない。ステージに立ってくれさえすりゃ、客は納得するんだ」
「わ、わかりました。もう一度、部屋に行ってきます」
青山が気の毒だとは島田も思うのだが、今この場を離れることはできなかった。開演前に準備すべきことが、ほとんど手付かずなのだ。とりあえず、裏の調理場を覗いた。大勢のコックたちが最後の準備に大わらわだ。
ふと、戦場のようなその現場で、ぼんやり立っている中年の男が目に入った。島田は名前まで知らないが、確か皿洗いのパートだ。食事が始まって皿が下がって来るまでは、特に仕事はないはずである。
(何故こんなに早い時間に現場に入っているのだろう。そういえば…)
島田がツカツカと近づいて来たため、男は怯えた表情でペコペコ頭を下げた。
「すいやせん。サボってるわけじゃねえんです。まだ就業時間前なんです。もしかしたら、おおの先生のリハーサルのお声でも聞こえねえかなあと思って」
「あんた、以前、洗い場で歌ってたな」
「ああ、ホントにすいやせん。あんまりヒマで、ちょっと眠気覚ましに」
「いや、怒ってるわけじゃない。あんた、おおのゆずるの歌は知ってるのか?」
「知ってるも何も、大好きで、いつもカラオケで歌ってまさあ」
「よし。いいか、これからおれの言うことをよく聞いてくれ」
泣きそうな顔で宴会場に戻って来た青山は、ステージにおおのゆずるが立ってリハーサルをしているのを見て、「な、なんで」と声を上げてしまった。だが、すぐに異変に気付いた。
「そんな、ムチャな」
「ムチャは承知だ」
いつの間にか横に島田が立っていた。
「あれは、洗い場のオッチャンじゃないですか。何考えてるんですか」
「見てのとおりさ。影武者を出す。幸い背格好も似てる。馬子にも衣裳だ。ゴーストシンガーというのは、昔は結構あったらしいぞ」
「バレたらどうするんです」
「その時は、腹を切るさ。辞める覚悟だ。だが、運のいいことに、おおのゆずるはステージではサングラスをかける。なんとか誤魔化せるだろう」
「でも、でも、本人が知ったら」
「ふん。おれに文句を言うなら、起きて歌え、と言い返してやる」
青山の不安をよそに、準備は着々と進み、開演時間となった。客が続々と会場内に案内される。まず、フルコースのディナーが供され、デザートまで出たところで、いよいよショーの開始となった。
ステージの袖では、青山が祈るように影武者を見つめていた。
「大丈夫でしょうか?」
尋ねられた島田も、今や顔面蒼白であった。
「ここまで来たら、やるしかない」
ステージ上の影武者の男も、ブルブルと細かく震えていたが、バンドがイントロを演奏し始めた途端、ピタリと震えが止まった。普段からよほど歌いこんでいるのであろう、その美声が会場に響き渡った。
「うまいじゃないですか!」
感動している青山とは裏腹に、ますます島田の顔色は悪くなった。
「しまった。うますぎる…」
会場も、水を打ったようにシーンと静まり返った。
だが、次の瞬間。
「おおーっ!」
ものすごいどよめきが起こり、会場は一気に熱気に包まれた。
その後はもう独壇場である。
曲の合い間には、軽妙なトークさえこなした。
予定の曲をすべて歌い終わっても、なかなかアンコールの拍手が鳴り止まなかった。
「島田支配人、おおの先生が話があるそうです」
「わかった」
島田は、たとえ何を言われようと、厳しく反論してやろうと身構えておおのの部屋に入った。
「失礼します。今回の件につきましては…」
だが、途中でおおのから話をさえぎられた。
「支配人。ぼくの代わりに歌ってくれた人を、ぜひ紹介してくれたまえ。すぐに専属契約を結びたい!」
(おわり)
ディナーショーの夜