信仰について
「信仰」という言葉の本来の意味は、ギリシャ語でpistis、つまり「信頼」である。目には見えない神への信頼こそ信仰の根幹を為すと言っても過言ではない。本稿では、主に新約聖書を取り上げてキリスト教における信仰とは如何なるものであるのかを考察したいと思う。
信仰においては疑問や迷いといった心理的な葛藤が生じる。そうでなければ信仰とは呼べない。狂信である。自分の信仰の仕方に100%自信が持てるのであれば、神はもはや存在ではなく、道具と化すのである。新約聖書ルカによる福音書18章9節からではファリサイ派と徴税人の喩え話が取り上げられている。自らの品行に絶対的な自信を持つファリサイ派と胸を打ちながら神の憐れみを乞う徴税人の姿が対比されているが、ここに信仰と狂信の違いが見える。
「狂信」を意味するラテン語のfanaticusは、fanum(神殿)に凝り固まっている状態を指す。ファリサイ派は ― おそらく実情とは異なるであろうが ― 福音書の中ではモーセの律法を重視するあまり律法の本質を見失った人々として描かれる。元来はユダヤ教の一派で、律法と彼ら独自の伝統を重んじていた集団である。彼らは新約聖書の中では、概してイエス・キリストを理解しない。それどころか如何にして彼を殺すかという策略すら行う。なお悪いことに、それが正義であると信じ込んでいる。
それでは、逆に対比された徴税人はどうか。現代で言えば税務署の職員に当たるこの職業の人々は、一般のユダヤ教徒達からは軽蔑と憎悪の念で見られていたらしい。当時のパレスチナの住民であるユダヤ人たちは二つの支配勢力 ― ローマ帝国とその支配に甘んじて権勢を振るっていた領主ヘロデ・アンティパス ― に対して二重に税を納める義務があった。当然ユダヤ人としては納得できるはずがない。同じユダヤ人でありながらも税を取り立てる徴税人たちにその皺寄せが来るのは容易に想像のつくことではないだろうか。彼らは裏切り者、罪人として見られていたのである。
話をもとに戻そう。イエス・キリストはこのファリサイ派と徴税人の二人を比較した上で、神に正しいとされたのが後者であるとしている。私が思うに、徴税人こそが信仰者だったからである。ファリサイ派の人は確かに日常の生活において欠点は無かった。それはそれで素晴らしいことのように思われる。正しい行いに対しては相応の報いがあると期待するのは決して間違ってはいない。しかし、イエス・キリストの宣べ伝える神は結果よりもプロセスを重んじている。件のファリサイ派は「私はこの徴税人とは違う」とはっきり述べている。ここに彼の傲慢さが見える。信仰心が度を越して他者への侮蔑に転化してしまっている。まさに狂信であると言える。狂信の何が正しくないか。神に対する「信頼」の純粋さに問題があるのではないかと私は考える。このファリサイ派のケースに見られるように、狂信者は傲慢である。自信の塊とも言える。しかし本来信仰とは、冒頭に述べた通り「神への信頼」である。極端な話だが、傲慢であるということは自分への信頼が強すぎて信頼すべき対象である神を忘れていることに他ならない。神すら自己正当化の道具に使うような印象すら受ける。イエス・キリストはこれを批判したのである。
では、何をしなければならないか。イエス・キリストは先ほどのたとえ話を、「誰でも自ら高ぶる者は下げられ、誰でもへりくだる者は上げられる」と述べて締めくくっているが、同様の話は福音書の中で幾つも見られる。それだけ謙遜が徳であるということを彼が示したかったのだと思えるが、それが単なる謙遜ではないという点に留意しなければならない。先ほどの「ファリサイ派と徴税人の例え話」にも見られたように、あるべき姿としての信仰者は、一切を神に委ねる。この徴税人は自己弁護をするわけでなく、ただただ「罪深い私を憐れんで下さい」と言っている。虚栄心をも捨て去った境地なのではないか。そしてそれは、本当に神を信頼しなければ出来ない。これは並大抵のことではない。イエス・キリストはルカによる福音書18章28節から、弟子達に向かって「よく言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、良心、子供を捨てた者は誰でも、この世でその幾倍もの報いを受け、そして来るべきよでは永遠のいのちを受ける。」と言っている。これはとても極端な教えではあるが、それだけの覚悟を持つべしということを彼は示唆しているのである。その覚悟が謙遜に繋がり、その謙遜が神への信頼に繋がり、その神への信頼こそ信仰である。イエス・キリストの伝える徳とは、根底において全て繋がっているのである。そのような意識で福音書に向かわなければ、個々のエピソードの中にある一貫性を見落とすことになってしまう。
信仰の実践は非常に困難である。ともするとそれは狂信に陥る危険を孕んでいる。人間は自らの信仰を1から10まで全うできる程に強くは無い。だからこそ信仰が信仰足り得るのである。人間は自らの弱さにもがく。衆生一切苦というのは的を得ている。誰にでも苦しみは付き物である。しかし、その苦しみの中にこそ希望を見出し、信仰に入ることが出来る。ルカによる福音書8章40節から、12年間も出血病に苦しんでいた女の話がある。この女は群衆の中でイエス・キリストを見つけ、彼の上着に触れることで癒される。彼は彼女に言う。「娘よ、あなたの信仰が、あなたを救った。安心して行きなさい。」 個人的に私はこの話を好んでいる。絶望の内にある者への希望としてのイエス・キリストの姿が描かれているからだ。信仰とは、先ほどの徴税人の話も含めてこのようにあるべきだと読むたびに強く感じる。この出血病を患っていた女はきっと絶望していたはずだ。12年間も誰にも病を治してもらえずにいたからだ。それを誰かに治してもらおうともがいて掴み取ったのがイエス・キリストの服の袖であった。理屈も何もなく、ただイエス・キリストという人への信頼の心だけで掴んだ。おそらく彼はその心を顧みて言ったのであろう。「あなたの信仰が、あなたを救った」と。
このように書くと、苦しみの内にしか信仰が見出されないという非常にネガティブな印象を与えるかもしれない。そうではない。喜びの内に感謝をする信仰の形も、もちろんある。ただ残念ながら「喜びだけ」というのは、それは必ずしも本質的ではないと思ってしまう。旧約聖書におけるイスラエル民族(ユダヤ人と同義と考えて差し支えは無い)の信仰の歩みを見ると、そこには必ず苦しみや痛みが伴っているのが分かる。だからこそ、来るべきメシア(救い主)を待ち望んでいたのである。
苦悩や葛藤の中に希望がある。そしてそれは、信仰という形で表れるのである。
信仰について
最後まで読んで頂いてありがとうございます。あまり上手くまとまり切らなくて読み辛いと思うのですが、ご容赦頂けたら幸いです。
自分の中でのキリスト教観を、エッセイとして何回かに分けて書きたいと思います。初回は「信仰について」というテーマでしたが、神そのものというより、自分の中の能動的な態度としての信仰を、自分なりの言葉で説明してみました。次回は「キリストについて」を書こうと考えています。