ひとつ
青年の前に非現実が立っていた。
見てはいけないものが、そこに立っていた。
青年が気付いた頃には、非現実はいつの間にか消えてしまっていた。
青年の心に夢を植え付けて――
1
魔法使いが人間界にやってきて早一年。要玄武は未だにその事実を呑み込み切れないでいた。
昔に見た小人のせいで、要は非現実的なものを異常なまでに信じるようになってしまい、仕舞には中二病をこじらせるまでに悪化していた。
そんな折、世界は唐突に変貌を遂げる。魔法界へのゲートが開き、魔法使いが人間界に流れ込んできた。
このとき、要は衝撃を受けた。
割れた空間、クリスタルから放たれる魔法、空飛ぶ箒、あらゆる非現実に衝撃を受けた。
なぜなら――
「俺の、妄想と、違いすぎる」
要が想像していた妄想と、魔法使いがやってきた 現実では何倍もスケールが違い、魔法使いなんてチャチなものは全くの想定外だったのだ。
「そんとき俺は世界に絶望したね」
「またその話するのか」
要とバーのカウンターを挟んで向かい合っている スザクは口を尖らせる。
「まぁ聞いてくれよ」
「もう最初の部分十回は聞いたぞ」
要が行きつけにしている魔法界の隅にひっそりと建つ小さなバー『セカンドリーヴ』には、要とバーのマスターであり魔法使いのスザクの声しか響いていなかった。
「じゃあもう一回話すけどな」
「面倒な酔っ払いめ」スザクは諦めて話を聞くことにしたらしく、拭いていたグラスを置く。結局付き合ってくれるあたり、スザクは嫁の尻に敷かれるタイプだろうなと要は密かに思う。
「それで、どうしたのさ」
「想像はな、もっとこう、壮大だった」そう言って要は安い酒を呷る。注文してから一時間は経っているからか、氷が溶け切って酒を薄めていた。
「俺は想像したよ、魔法使いは色んな獣と住んでてさ、精霊とかをさ、従えていると思っていたんだ」
「まぁ、獣と話せる奴らもいるみたいだけどな」スザクが相槌程度に豆知識を披露する。
「そんなの一部の魔法使いだけだろ?俺はみんながみんな話せると思ってたんだよ」
スザクが何か言いかけたが、言葉を飲み込んだようなので話を続ける。
「しかもだ。昔小人を見たからな、魔法界にそれがいると思ったんだけどな、色々調べてみてもいないんだもんな」
「その話は初めて聞くな」スザクがカウンターから身を乗り出す。
「二、三年前事故に遭ってだな、意識が朦朧としてる中、目を凝らしてみるとそこには、小人が立ってたんだよ」
「小人」スザクが繰り返す。
「そう。もしかしたら幻覚かもしれないけどな、羽の生えた、こぉんな小さいのがいるわけな」そう言って大きさを手で示そうと、丁度スザクが拭いていたワイングラスと同じくらいの高さで手を止める。
「それって、もしかしたら妖精なんじゃないかな」
「妖精」要が繰り返す。
「そう。なんか人間界にいるって噂は聞いていたが、もし本当に見たのなら激レアだろうな」
それを聞いて要は悪い気がしなかった。何と言ったって激レアなのだから。
「もしかしてスザクも見たいのかァ~?」要がスザクの気持ちを煽るように指とグラスをスザク向けて指す。
スザクは一瞬ムッとした表情を浮かべたが「要らねぇよ、俺はそういうことに興味がないんでね」と言って冷めた視線とおかわりの酒を要に向けて注ぐ。
「その酒は奢りだ、それ飲んだら帰れよ、お前がいると片付けが進まないからな」
「お、ありがとよ、じゃあ遠慮なく頂くぜ」そう言って今日最後の酒をくいっと飲んだ。
要の脳内ににけたたましい機械音が鳴り響く。
要のストレスが満たされる頃には目が覚め、スマホのアラームを乱暴に止めていた。
頭も痛ければ腰も痛い。二日酔いに併せて、硬いソファに寝転がっていたことも相まって身体の節々が朝から悲鳴を上げている。
要が眠い目を擦りながら立ち上がる。日差しがブラインドの隙間から差し込み、ストライプ柄の影を作っていた。外はすっかり朝を迎えているようだ。
窓の端にぶら下がる紐を引っ張り、ブラインドを収納する。部屋が一気に夏の強い太陽光で満たされ、輝きを放つ。そのおかげで背の低いテーブルを挟むソファ、山積みになった資料、フカフカな社長椅子、そして狭い床と低い天井が露わになる。
そこで要は気が付いた。
「あぁ、また事務所で寝ちまった」
記憶を奪い、行動を操られてしまう酒は本当に怖いものだと思う要だった。
要は魔法界へのゲートの近くで便利屋をたった一人で経営していた。しかし、奥まった立地のせいか稼ぎは少なく、常に経営難にさらされていた。それでも続けていられるのは、この事務所の貸し賃が破格なことだということと、便利屋で働くことが昔からの夢であるということがあるからだ。だからこそ、この職業をやめる気はないし、考えたこともない。むしろ死ぬまで続けてやると意気込んでいるほどだ。
要がそんなオンボロ事務所の社長椅子に座って目覚めのコーヒーを嗜んでいると、扉からノックの音が響いてきた。
はいはい、と何度も小さく返事をしつつ、身だしなみを整え扉へ向かう。締めに酒の臭いが残る服に消臭剤を吹きかけて、ノックした主を出迎えた。
「はい、どうぞ、いらしゃいませ」
「今大丈夫か」扉の前に立っていた大柄な男がぶっきらぼうに言う。風貌を見たところ、どうやら人間界の住人らしい。と言うのも、魔法使いと人間では、やはり多少の違いが存在し、なんとなく雰囲気で分かったりするのだ。
要が大丈夫だと返事しつつ、ソファのほうへ大柄な男を案内する。男が案内されるままソファに座ると、ソファが悲鳴のような軋む音を上げた。壊すなよ、と要は心の中で忠告する。
「今回はどのような用件で?」大柄な男の向かいのソファに移動しながら質問をする。これが基本の質問だ。一体どんな依頼が飛び出すのか期待してしまう。
「率直に言うと、ネズミ退治をしてほしい」
予想外な依頼に要は拍子抜けする。屈強な男が依頼することなのかというのもあるが、要が深く考えすぎたのも拍子抜けした原因だろう。
要は気を取り直して「家にネズミが出たんですか?」と質問する。こんな大柄な男が小さなネズミに恐がっている姿を想像すると、なかなかシュールな面白さがある。
そんな失礼なことを考えられているとはつゆ知らず、大柄な男が質問に答えた。
「いや、倉庫に出たんだ」
「倉庫」要が言葉を口の中で転がす。
「あぁ、食料品やらをかじられて困っているんだ。ホウ酸団子やネズミホイホイも試してみたが、まるで効果がないんでな」
どうやら飲食店の経営者かなにからしい。同業者の願いとあらば、断る理由があるはずがない。
それに――
「まぁ、ネズミ退治ぐらいならいくらでもやりますよ」要は一拍置いて「便利屋なんで」と付け足した。こういうことをするから二十三歳にもなって中二病だなんて言われるのだろうな、と心の中で反省した。
2
今後の予定もなかったので、早速大柄な男、一青に倉庫まで案内してもらうことにした。
見失い難い一青の背中を追いかけながら、要は街を見回す。魔法界との交流が盛んになり始めたおかげで街の雰囲気もどことなく変化を遂げていた。よくよく考えてみれば箒にまたがって空を行く魔法使いなんて常識外だが、いつの間にかこの街に馴染んでしまっていた。こういうところで人間の順応力はたくましいなと毎度感じる。
急に一青が歩を止めた。つられて要が意識を前に向ける。そこで信号による停止だと気付いた。見上げると箒専用の信号もチカチカと光っているのが見えた。こういったものがあるのも、魔法使いの多い街だからこその特色だろう。魔法使いが来てから交通法など、様々な法律の条文が改訂されてきた。ちなみに箒はバイクとほぼ同じ扱いだ。
信号が青になり、一青が前に進む。紐がついているかのように要が後を追う。
「もうすぐ到着だ」
要が相槌を打って、周辺の情報を思い出してみる。この辺には確か魔法界へのゲートがあったはずだ。
あれこれ考えている間に、到着したらしく、一青が「着いたぞ」と要のほうに振り返り言った。
「ここって――」
魔法界へのゲートの近くで、倉庫と言ったら――
「貿易倉庫だ」一青があっさりと答える。
そりゃホウ酸団子もネズミホイホイも効果がないわけだ。こんなデカいんだもの。要の前に立ちはだかる東京ドームもメではない貿易倉庫にただただ立ち尽くすことしかできなかった。
人間界と魔法界が繋がったことで、人間と魔法使いは友好な関係を築き交流を続けてきた。そのうちのひとつが貿易である。人間が魔法使いの道具に興味を持つように、魔法界にとっても人間界の技術は興味深いらしく、初めて自動車を見た魔法使いが「箱の中に小さなウマがいるのか」と言うほどには技術力は進歩していないようだった。そこで人間界は工業品を、一方の魔法界は作物や薬品を主に輸出し、あらゆる方面でお互いの難点を補い合っていた。
そして、そんな輸出されてきた商品を一旦保管しておく倉庫には、当たり前だが様々な物で溢れていた。そのくせしてなんとなく全体の雰囲気が暗いから不思議だと思う。
一青はネズミの被害が多発する食料品倉庫の青果コーナーに要を置いて、仕事に戻っていってしまった。 途方に暮れる中、ちらほらと人が通っていき、要に一瞥くれていったが、留まることなくせかせかと仕事に戻っていった。なんだか自分が場違いな気がしてならない。
要は気を取り直してネズミのいそうな隙間や箱の中を調べていくことにした。
それから三時間ほど経ち、色々見て回ったが、ネズミの影は一つも見当たらなかった。
要はとうとう集中力が切れてしまったので、一度休憩を挟むことにしようと倉庫の中にあった台に座る。
気付けばお昼時のようで、従業員も休憩を挟もうと倉庫の出口へ向かっていた。
要はなんとなく従業員の会話に耳を傾ける。こんな珍しい職場だ、ネズミのこと以外にも、もしかしたら何か良い情報が聞けるかもしれない。タダで帰らないのが、要のルールだ。
丁度二人の従業員がなにか話しているので聞いてみる。
「リゴリンのコンテナ、重量が表示より足りていないようだったが」
「あれな、まぁ、ちょっと足りなくても大して変わらないし、一個や二個なんとかなるだろ」
「それもそうだな」
本当にそれでいいのか貿易倉庫、と要は心の中で突っ込んだが、ネズミに食品を駄目にされているのだ。今頃重量不足を気にしても仕方ないのかもしれない。
改めて次に通っていく従業員二人の会話を聞く。
「そういえばネズミってどうなったんだろうな」
「あぁ、アイツな。冷蔵庫にも出で来るらしいし、本当迷惑な奴だよ」
仕組まれていたのではと思ってしまう程のタイミングと、出された情報に、要は呆気にとられた。
休憩がてらの情報収集を切り上げ、早速青果コーナーの端にある冷蔵庫の重厚な扉の前に要は立つ。倉庫の中を散々探し回ったが、冷蔵庫の中はまだ一度も見ていない。可能性があるとしたら、ここしかないだろう。
要は根拠のない確信めいた自信を胸に、扉の取っ手に手を掛け思いっきり引っ張る。
その刹那、黒い一迅の影が一陣の風の如く飛び出した。
要が小さく声を上げ、反射的に影を追う。
間違いない、あのネズミだ。
今考えてみれば捕まえるものもなければ、仕留める道具も持ち合わせていない。といってもこのまま道具を取りに行けば、ネズミを見逃してしまうだろう。 使えるのは、己の肉体のみ。
このまま追いついて、掴むしかない。
影は何かに指示されているかのように道をくねくねと進む。それに負けじと要が追いかける。幸運なことに、ここには物が少ないので、見失う確率は低くなっている。
影はスピードを落とすことなく開きっぱなしになっているトラックの常用口から飛び出す。追い出せば充分だということも忘れて要も飛び出す。
異種間おいかけっこは遂に外へステージを移した。
見失わないように気を付けながらひたすら走る。苦労もあってか、だんだん距離が近くなってきていた。
そこで要はある違和感に気付く。
――何か、乗っているのか?
太陽の下に出た影は明らかにネズミと何かが合わさっているもののようだった。
考えても仕方ない。捕まえれば全てがわかる。
じりじりと距離を詰める。
この道は人通りも車通りも少ないようで、道は思い切り開けている。距離も手を思い切り伸ばせば届くほどだ。さぁ観念しやがれ。
そのとき、不思議なことが起こった。
「サムソン、次を右に!」
ネズミのほうから声が、と思った瞬間、ネズミは右へ急カーブをした。
やはり、なにか乗っている――
勢いをそのままに右へ曲がる。
さすがに息が上がってきた。このまま長丁場に持ち込まれると困る。
「サムソン、頑張って!」
今もなお不思議な声は止まらない。
要は追いかけながら、なんとなく「サムソン、待ちやがれ!」と口調を真似してみた。本当に、なんの意識もないまま。
すると、どうしたことか、ネズミはぴたりと走るのをやめてしまった。
その勢いで、乗っていた何かが投げ飛ばされる。
要はネズミそっちのけで飛び出した何かを追う。
だが、要はそこであることに気付いた。
この先は、川――
時すでに遅し、何かは勢い余って川のほうへ転がって行ってしまった。
このままでは落ちてしまう――
気付けば要は川へ飛び出していた。
そして、空中で川に落ちそうな何かを掴んでいた。
空中で手に包んだ何かを見て、要は驚愕した。
この姿は――?
考えを巡らせる暇もなく、要は「サムソン、掴め!」と叫んでそれを岸のほうへ投げ返す。
「あ、死んだかも」そう呟いたときには冷たい感覚が全身を覆っていた。
死ぬときは決め台詞を言って、格好良く死のうと思っていたが、その願いも叶わないらしい――
そんなことを考えていたら、腰に何かがぶつかる感覚を覚え、そこに足をつけて立つ。
川は思ったより浅く、要の腰ほどの高さだったので、普通に立てた。
要は昔から困っている人を放っておけない性格と、人を助けて不幸な目に遭う運命を背負っていた。道案内をすれば待ち合わせに遅れ怒られたり、友人を助けた代わりに財布を落としたり。
今回もそうだ。何かを助けた代わりにずぶ濡れになってしまった。まぁ死ななかっただけましだと思う。
要が岸まで上がってくると「あの、大丈夫ですか?」と恐る恐る訊ねてくる声がした。
そこでさっきのことを思い出した。掴んだのは確かに何か小さな生き物だった。
思い切って振り返るとそこには小汚いネズミと、非現実的なものがそこにいた。
白いワンピースの外にはみ出た小さな羽が四枚あることを確認し、妖精と確信した。
その瞬間、要は胸のざわめきを覚えた。
昔見た、妖精が、確かに目の前にいる――
その事実が信じられなくて、何度も妖精の姿を確認する。白くて緩くウェーブする髪、ルビーのような赤い目、何もかもが非現実的で信じられない。
「あの、本当に、ごめんなさい」
非現実が話している――
耳でも確認できる非現実の存在。
こみ上げてくる何かに耐え切れず、両腕と顔を空に向ける。
「本当にいた、やっぱり現実だったんだ」そう言ってもう一度妖精のほうを見る。どうやら状況を飲み込めず困惑しているようだった。
「お前、妖精か?」
「そうで、あっ、違います」今明らかに認めたではないか。
「そっちのネズミは何だ」
「友達のサムソンです、ってあなたには関係ないじゃないですか」今明らかに言ったではないか。
「何で倉庫にいたんだ」
「実は木に丁度いい穴が空いていたもので、そこで居眠りしていたらいつの間に、って何でもないです」そこまで言っておいてまだ誤魔化す気なのか。
要は妖精と話しているうちにだんだん気持ちに整理がついてきた。だが驚きは色濃く残ったままだ。
整理がついたところで、要がふと依頼のことを思い出す。元はと言えば依頼のせいでずぶ濡れになったのだ。そう思うと関係のない一青にまで怒りを覚える。だが、妖精を見れたので同時に感謝もしていた。
「とりあえず、そこの倉庫の食べ物は他人のものなんだ、困っている人もいるし、あんまりかじらないようにしてくれよな。サムソンも頼むぞ」
「そうだったんですね、それは悪いことをしました、すいません」そう言って妖精は小さい頭を下げ、サムソンにも頭を下げるように指示する。
「俺に謝られてもな」要はこめかみを掻く。
「謝るなら倉庫の中の人に謝ってくれ」
そう言うと、妖精は困った表情を浮かべ、ワンピースの裾を掴みもじもじし始める。
「何だよ」
「実は、私たち妖精は人間や魔法使いの前に姿を現すのはあまり好ましい事ではないのです」もう妖精と認めるのか。だが、それよりも気になる点がある。
「俺も人間なんだが、それはいいのか」
それを聞いて、妖精ははっとした後慌ただしくサムソンに乗り「忘れてください!」と叫んだかと思うと、そのままサムソンを走らせて、どこかへ行ってしまった。
要は過ぎ去ってゆく妖精の姿を見届け、何か惜しい気持ちにもなったが、妖精を見ることができただけで充分満足していた。昔見たものは確かに本物だったと実感できたのだ。むしろ清々しい気分だ。
要は上着であるずぶ濡れの真っ黒なスーツを脱ぎ、肩に背負ったまま夏の焼かれそうな道を歩き出――
「ちょっと待ってください」
その声に要はズッコケそうになる。振り返ると、そこにはサムソンと妖精が立っていた。なんだか見慣れてきている自分がいることに要は恐怖を覚えた。人間の順応力は本当に侮れない。
「今度は何だよ」半ばイライラした調子で訊く。
すると、妖精がサムソンの茶色い毛をいじりながら「実は、今身寄りが無くてですね、もし良ければ、匿っていただけると嬉しいのですが」と恥ずかしそうに言った。
匿う、という表現に違和感を覚えつつ「人間に見られるのは好ましくないんだろ?」と問うた。
「いや、良い人間のようだったので、あなたなら大丈夫かな、と」妖精はだんだん声を小さくして自信がなさそうに視線を下げる。悪い人間ではないと思われているのなら別に悪くはない気がした。それに要は便利屋である。
「まぁいいぜ、便利屋だし」と応える。断る理由は一切ない。
すると、妖精は目を喜びに輝かせ、笑顔を見せる。
どうやら、やっと緊張を解いてくれたようだ。
3
要は一青にネズミ退治の報告をして、貿易倉庫を後にする。報酬として一万円と、慰め程度のクリーニング代をもらった。たしかにクリーニングが必要なほど生臭かった。いくら綺麗な川とはいえ、やっぱり臭うものは臭うらしい。
妖精のシロトラとネズミのサムソンは背負われたスーツのポケットの中に隠れている。シロトラに生臭いと言われたが、元はシロトラが悪いので我慢してもらった。
最初は面白がってシトロラとサムソンを匿ったが、しばらくすると、面倒くささが優先して現れるようになってきた。
妖精は何を食べる?青果コーナーにいたから野菜か?妖精は食べられないものとかあるのか?必要なものとかはあるのか?
疑問は上げだしたら尽きないだろう。
とりあえず、まずは事務所に戻ってから全て質問することにしようと思う。
要の影はだんだん中心街から離れ、歩く道の人通りも少なくなっていく。人通りがなくなった頃には事務所に到着していた。
「ほら、着いたぞ、俺の城だ」
それを聞いて、シロトラが要の肩までよじ登ってくる。
「これは、本当にお城ですか?」
「真に受けるな、冗談だよ」
そう言われるのも無理はないだろう。ヒビの入ったコンクリート打ちっぱなしの二階建てのビルを城と言われれば、誰でも疑うだろう。だから冗談と思えるのではないだろうか。シロトラにはもっと疑う心を身に着けてほしい。
要は二階への階段を上りながらずっと疑問に思っていたことをシロトラに訊く。
「お前、元々どこに住んでいたんだ?」
その質問を聞いて、シロトラは少々困った表情を浮かべた後に決意したように口に出した。
「私は妖精界から来ました」
「妖精界?」魔法界と同じようなものだろうか。要には持ち合わせていない知識に困惑していると、シロトラが説明をしてくれた。
「人間界には、妖精界へのゲートも存在するんです。妖精界は私たち妖精が住んでいて、その世界の中で平和に暮らしていたんです」
「妖精界のことはなんとなくわかった。だが何故そんな安全な場所を抜け出してまで、この危険な世界に何の用があって来たんだ?観光?」要がふざけた調子で言ってみる。
「妖精界を守るためです」
「守る」予想より遙かに大きな使命に、要は聞く態度を改めた。
「魔法界の人たちは遙か昔に私たちを利用しようと近づいてきたんです」
その事実に要は驚愕した。
「魔法使いがか?そんな悪い奴らには見えないけどな」そう言って要はスザクの姿を思い浮かべる。あんなお人よしは人間の中にも、そうはいないのではないだろうか。
「きっと要さんは良い魔法使いとしか会っていないんですよ」
確かに、人間でも性格は十人十色だ。良い魔法使いもいれば悪い魔法使いがいてもおかしくはない。
そう思うと同時に、こんな健気な子が恨むほど、妖精にとって魔法使いは脅威だということがわかった。
「今も妖精界を利用してやろうと考えている魔法使いがいるに違いありません。妖精界へのゲートが見つかってしまうのも時間の問題なんです」
要が話を聞きながら事務所の扉を開ける。
「まぁ気張ってても仕方ないだろ、コーヒーでも飲んで落ち着こうぜ」要がシロトラとサムソンをソファの上に降ろしてマグカップを用意しようと水場スペースへ向かう。
「こぉひぃ」シロトラが首を傾げながら言葉を確かめるように発する。
「そう、コォ~ヒィ~ッ」要はわざとらしく、分かりやすく、それでいて馬鹿にした感じでシトロラに聞かせる。
そんな台詞につられてシトロラも「こぉ~ひぃ~~」と続け、久しぶりに笑顔を見せる。
その笑顔を見て、要も安心したように笑みを零す。やはりシロトラには無邪気な笑顔が一番似合っていると思う要だった。
それからしばらく、要とシロトラは、お互いの世界について飽きるまで話し合った。シロトラの口から飛び出す言葉たちはどれも非現実的で、要にとって信じ難いことばかりだったが、それもおあいこさまでシロトラにとっても、要が話すことが信じられない様子だった。無理もないだろう。これは別世界の話なのだ。小説の内容を聞いているかのような気分になっても仕方ない。
気付けば太陽が傾き、事務所に差す光も頼りなくなってきていた。
シロトラから虫の鳴くような音がした。
「妖精でも腹減るんだな」
「当たり前じゃないですか、私だって生き物なんですよ」と、シロトラが頬を赤らめる。
「分かったよ、今なんか持ってきてやる」と言って、要が席を立つ。とは言ったものの、何か食べるものはあっただろうか。
戸棚を漁ってみると、来客用に買っておいたプレーンビスケットが出てきた。賞味期限が切れていないことを確認して、シロトラのところへ持っていく。
「ビスケットがあったぞ」
「びすけと」
要は既視感を抱きながらも、シロトラに正しい発音でビスケットと言う。すると、シロトラは、また楽しそうに要の真似をした。
4
要の脳内ににけたたましいノック音が鳴り響く。
要のストレスが満たされる頃には目が覚め、扉の方へ向かっていた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。昨日のままのスーツは生臭さを保ったままだった。せめて着替えをしとけば良かったと後悔しながら、消臭剤を吹きかける。
それから、要は鳴りやまないノックを止めようと「まだ開店時間じゃないですよ」と、扉を開けながら注意した。
だが雰囲気からしてどうやら依頼人ではないらしい。扉の前に立っている男は魔法使いのようだ。
要は気付かれない程度に後ろを向く。ここからはシロトラはサムソンの影になって見えない。お前は本当に有能なネズミだと要は心の中で称賛した。
「玄武要だな?」その質問で一気に意識は来客のほうに引き戻される。
「そうですが」
嫌な予感に要の頭が支配され始めていた。ただ事ではない空気が漂っているのが伝わる。そんな空気に眠気などとうに忘れてしまっていた。
緊張する胸を抑えるようになるべく落ち着いた様子で「何か用ですか?」と尋ねる。
「妖精について、詳しく話を聞かせて欲しい」
刹那、要は手元にあった消臭剤を魔法使いの目元狙って吹きかける。
魔法使いが怯んだ隙にタックルをお見舞いし、相手を押し倒す。そしてそのまま上着を脱ぎ、それで無理矢理身体を縛りつけ、腕の自由を利かないようにする。縛り付けた魔法使いが何か叫んでいるようだったが、全く耳に入ってこなかった。それほど要は切羽詰まっていたのだ。
「シロトラ!サムソン!逃げるぞ!」
シロトラはまだ眠い目を擦っているようだが、サムソンは指示にいち早く反応し、シロトラの襟を噛んで走り出した。
サムソンが要の腕にしがみついたことを確認し階段を駆け下りる。
一体どこから情報が漏れた、何故魔法使いが自分に妖精の話を聞きに来る、ともかくこれは、絶体絶命の大ピンチらしい。
考えている暇はない。ただ今は、安全な場所へ逃げなくては。
「何?今どういう状況ですか?」シロトラがいつもと同じ調子で訊いてくる。
「魔法使いが来た」要がいつもと違う調子で答える。
それを聞いて、シロトラが驚いた顔をした後、申し訳なさそうな顔になる。
「すいません、私情に巻き込んでしまって」
「問題ない、お前とサムソンを匿うのが俺の仕事だからな」要は息を切らしながらも格好つけて言った。
気付けば中心街からさらに離れ、名も知らぬ森のほうへ走っていた。本能的に中心街へ向かうのは、何か危険な気がしていたのだ。
「とりあえず、森に隠れるぞ」
「森、ですか」
あの森には思い出があった。
結論から言えば、そこで一度目の妖精を見たのだ。
三年ほど前、なんとなく興味を惹かれて入った森の中で、要は足を滑らせて川の中に落ちてしまった。
運良く岸辺に打ち上げられたが、意識は朦朧として足取りも覚束ないまま歩いていたが、とうとう限界を迎え、倒れてしまう。消えゆく意識の中、目の前にいたのが、妖精だったのだ。
あのあとどうなったのだっただろうか。結局意識が飛んで、気付いた頃には病院のベッドの上にいたはずだ。確か、親が便利屋に捜索依頼を出してくれて、助かった覚えが――
「ちょっとストップ!」シロトラの声で現実に引き戻される。
気付けば、もう森の入口まで来ていた。
「隠れてください!」
シロトラの声に驚きつつも近くの茂みに身を隠す。
「今度は何だ」半ばヒヤヒヤした気持ちで訊く。
シロトラは視線を前に向けたまま「あれを見てください」と冷静に言った。
言われた通り、シロトラと同じ場所に目をやると、地面が光を放った、と思ったら、いつの間にか何人もの魔法使いが姿を現していた。どうやら集団でテレポート魔法を使ったらしい。専門知識のない要でもわかった。それほどその魔法はシンプルで強大だった。
「ここにまで魔法使いが――」
要がシロトラのほうを振り返る。
シロトラは絶望の色を顔に浮かべていた。顔色は悪く、息も荒い。
「なんで、この森に、魔法使いが――」
「おい、どうした」要が突いてやると、シロトラはハッと我に返り、要にこう言った。
「妖精界へのゲートが危ないです」
「危ない?」
「妖精界のゲートは、ここにあるんです」
言葉が、事実が要に突き刺さる。
きっとシロトラにはもっと大きな衝撃で刺さっているのだろう。冷や汗をあふれんばかりにかいていた。
「止めなくちゃ」シロトラがふらっと要の肩から、飛び立つ。それを要の手が制した。
「俺が止める」
「でも――」
「忘れたか?俺はお前とサムソンを匿わなくちゃいけないんだ。ただし報酬はそれなりに貰うぞ」
要がシロトラとサムソンを茂みに残し、飛び出す。シロトラはそれを制することはできなかった。
「待て!」要が魔法使い集団の背中に怒声を飛ばす。
叫びを食らった魔法使い集団は振り返り、こちらを警戒するように睨み付けた。
「お前ら、何の用があってここに来た」要が威勢よく怒鳴りつける。
「それは俺の方が訊きたいね」
その声に奇妙な違和感を覚えた。妙に聞き慣れた声だったからだ。
声の主を見て、要は驚愕した。
信じたくはないが、そこに立っていたのは――
「スザク」
「ごめんな、要。妖精に興味はないが、金には興味があるんだ」
魔法使い集団をかき分けて出てきたのは、要の行きつけのバー「セカンドリーヴ」のマスター、スザクだった。スザクの顔からは、いつもの暖かそうな雰囲気は、一切感じられなかった。
「要のおかげで妖精界へのゲートの座標が随分絞れた。妖精の目撃情報は激レアだからな、高く売れるんだ」スザクが表情を一つも変えずに言う。
「この野郎ッッ」
要が掴みかかろうとしたが、周りの魔法使い集団がクリスタルを構えたことで怯む。
スザクだけが歩を進め要の目の前まで来ると「すまないことをしたとは思っている。だが仕方なかったんだ、許してくれ」そう言って山の中へ進んでいってしまった。
要は何も出来ずに、ただ見送ることしかできなかった。
要の中で様々な感情が渦巻く。
心の器は、辛うじて形を保ったままブクブクと音を立てて沈んでいく。
妖精界の場所が割れたのは、俺が間抜けだったからだ。一昨日だ。一昨日酔っぱらった勢いでスザクに全て話してしまったんだ。俺のせいで、俺のせいで、俺のせいで、俺のせいで、俺のせいで――
「要さん!」不意にシトロラの声が飛び込んでくる。
「あなたは何も悪くないんです!自分を責めないでください!」シロトラの言葉は怒鳴っているのに優しくて、少し要の心の器をほんの少しだけ上へ押し上げてくれた。
シロトラのおかげで落ち着いてきた要が、口を動かす。
「何か方法はないのか?」要が消えそうな声で最後の希望に縋る。
「何か、妖精界を助ける方法は、ないのか?」
「一つだけ、最終手段が残っています」
5
要はこの世界に疑問を抱き始めていた。
この三つの世界が繋がったちぐはぐな世界で、様々な種類の生き物がひしめき合っている。
それが何故、仲良く出来ずに問題だらけで回っているのだろうか、と疑問を抱き始めていた。
要は、教えてもらった作戦通り、妖精界へのゲートの前に立っていた。
妖精界へのゲートは、魔法界へのゲートよりも何倍も小さくて、人がひとり通ることができるかの幅しか開けられていなかった。
もうすぐ姿を隠しながら移動するサムソンとシロトラが、あるものを持って帰ってくる頃だろうか。
そう考えながら、要は作戦の内容を思い出していた。
意を決して、要は最終手段の内容を聞く。
「どうすればいい」
「妖精界へのゲートを、見つからないうちに閉じます」
「閉じるって、そんな簡単なことなのか?」魔法界へのゲートは常に開きっ放しだ。閉まった姿なんて今の一度も見たことがない。
「普通は時間が掛かりますし、ほんの気休めにしかなりません。ですが、吸魂石を使えば一生ゲートを封じることができます」
聞いたことのない石が出てきて、要は困惑する。
その様子を悟ったのかシロトラが「吸魂石は、ありとあらゆる力を吸い取ってしまう石です。魔法使いの魔法も、人間が使っているといっていた、でんりょくというエネルギーも恐らく吸い込んでしまいます」と補足してくれた。
「これを使えば、ゲートの力も吸い込んでしまうでしょう」
「末恐ろしい石だな」要が率直な感想を述べた。
「最初は魔法界へのゲートを閉じてしまおうと考えていたのですが、人間も魔法使いとの交流をよく思っているようで、迷っていたんです」
シロトラがポツポツと語ることに、要は頷くことしかできなかった。
必要なのは吸魂石。シロトラは、それをゲートの近くに隠して置いておいたらしい。
そうこうしているうちに、茂みからガサガサと音がした。
「誰だ」要が言う。
「私です」シロトラが言う。
良かった、無傷で戻ってきてくれた。
要がシロトラとサムソンに駆け寄っ――
その瞬間、あたりが雷が落ちたかのように光る。
何事かわからなかったが、要が反射的にシロトラとサムソンに覆い被さり、盾になる。
「やっと見つけた」
その声は、聞き慣れていて、二度と聞きたくない声。
「またお前か、スザク」
「まだ二回目だぞ」
スザクは薄く笑い、クリスタルを手に持っていた。いつものバーで見るスザクとは何か違う、闇を背に立っているスザクを見て、要は戦慄した。
「お前、妖精とも仲良くなってるみたいじゃないか」スザクが冷えた声を出す。
「うるさい、お前には関係ないことだ」要が熱を込めた声を出す。
このままでは作戦が進められない。
ならば――
「サムソン!シロトラを乗せて走れ!」
要がそう叫ぶと、サムソンは腕の隙間から吸魂石を抱えたシロトラを乗せて走り出した。
「捕まえてやる」スザクがクリスタルを振り上げ「痺れろ」と冷酷な声で告げる。
すると、クリスタルは雷を放ち、シトロラのほうへ一直線に走った。
しかし、雷はくんと方向を変え、吸魂石に吸い取られていく。
「妙な石だな」スザクは魔法が効かないことを見出し、ゲートに向かって走り出した。シロトラをゲートに到着する前に捕まえる算段らしい。
しかし、それを要が許さない。
要は走った勢いのままスザクに掴みかかり、投げ飛ばした。スザクはよろめき、体制を崩す。
「今だ!行け!」
心配そうに見ていたシロトラが口を引き締めて頷く。見ると、もうゲートの寸前まで来ていた。
「させるかァ!」スザクが体制を整え、もう一度走り出す。
要はこのままスザクを押さえても無駄だと悟りゲートへ走る。お互いゲートまでの距離はほぼ同じ。
このまま追い抜かれたら、シロトラに危機が生じてしまう。匿うと約束したんだ、絶対に守るッ!
しかし、それをスザクが許さない。
「邪魔だ」スザクが呪文を唱え、要に光を放つクリスタルを投げつける。
「放射」
クリスタルは割れながら要の懐で強力な雷撃を放った。堪らず要は吹き飛ばされ、近くの木に叩きつけられる。
「要さん!」シロトラが叫ぶ声が聞こえた。
「シロトラ、俺に構わず行けェ」力を振り絞り声を出す。
「残念だったな」スザクはもうゲートの前まで来ていた。スザクが走ってきたサムソンを軽い力で蹴り上げる。上に乗っていたシロトラも地面へ落ちてしまった。
「すまんな、お前は多分力ずくで止めないといけないからな」
スザクがシロトラに手を伸ばす。
だが、最初に手に触れたのはサムソンだった。
サムソンはスザクの腕を駆け上がり、スザクの鼻筋に咬みつく。
不意を突かれたスザクがよろめいた。
「お前は本当に有能だな」
要がスザクにタックルをしてその場に倒れ込んだ。
「要さん、どうして」シロトラが要のほうへ駆け寄ろうとする。
「早く行け!俺のことは良い!お前の使命を全うしろ!」
シロトラは、泣きそうな目を擦り、吸魂石を拾い、ゲートの中へ突っ込んだ。
そうすると、激しい光を放ちながらゲートが焼け石に水をかけたような音を発する。
シロトラがこちらへ歩み寄ろうとしてきたので、要はそれを最後の力で押し返す。
シロトラは、消えかかったゲートの中へ吸い込まれていった。
「お前は幸せになってくれよ」
光の筋が完全に消え失せた。
シロトラ、きちんと依頼はこなしたぞ。
「今度会ったらたんまり報酬もらうからな」
「一つ訊きたい」スザクが落ち着いた様子で、こう問うた。
「何がお前をそうさせる?」
その質問に、要は不敵に笑い、こう言った。
「俺が便利屋だからだ」
6
妖精界と人間界のゲートが完全に絶たれてしまってから半年が経った。人間界からは妖精界へ行く術がなくなっていた。
それでいいと要は思う。
世界はひとつだから不器用ながらも綺麗に回るのだ。それが疑問の答えだ。
要がふと昔見た詩を思い出す。
ひとつとひとつがひとつずつ
そのままそれだけ愛したい
ひとつとひとつがひとつずつ
それでいいそれがいい
――言い得て妙だと思う。
妖精界はシロトラを乗せて、ひとつだけで不器用に回り始めているだろう。
それだけで充分だった。
今度は人間界の番だ。
要はダッフルコートのフードを被り魔法界へのゲートの前に立つ。
今回は誰の依頼でもない。
自分の意志だ。
要は決意を固めて、魔法界へのゲートをくぐった。
青年の前に非現実が立っていた。
見馴れてしまったものが、そこに立っていた。
青年が気付いた頃には、大事な非現実を消してしまっていた。
青年の記憶に夢を残して――
おしまい
ひとつ