黒電話のアリス

体育をさぼるために保健室に来た。保健室の先生は何も言わずわたしをベッドに休ませてくれた。
「ちょっと用事があるから、何かあったら森本さんに言ってね」
「はい先生」
この学校で先生と呼べる先生はこの人だけだった。昨日買った文庫本を開いてベッドに仰向けになっていると、隣のベッドを仕切っているレモン色のカーテンがごそごそと開かれた。いつもここで寝ている保健委員の森本スズカだ。
「真夜ちゃんおはよう」
スズカは一年中白い肌で、髪ぼさぼさで、左目の下にはよく近づかないと見えない小さな泣きぼくろがあった。
「おはよう。髪の毛たべてるよ」
「うええ。そうだ蕎麦食べに行こ」
「この前食べたばっかじゃないの」
おととい、今くらいの時間帯に学校を抜け出して神社を散歩した。その帰りに立ち寄ったそば屋をスズカはたいそう気に入っていた。
「いいじゃん。いこうよ」
「もう5時間目よ。わたしはお腹いっぱいだから、また今度ね」
今のわたしはスズカと会うためだけに学校へ来ているわけではないし、授業くらいはそろそろ普通に出たかった。
「……また今度にする」
「うん。じゃあね」
わたしは後ろに手を振って保健室を出た。誰もいない教室に一足先に戻って本の続きを読んでいると、着替え終わった生徒達がぞろぞろと教室に戻ってきた。わたしは鞄の中から教科書が見つからない振りをして誰とも目を合わせないように努めた。いつまでも治らない左目の怪我人として周囲に認知されているわたしは、さぼっても今さら何も言われなかった。次の授業が始まると空が急に暗くなり、雷が鳴った。放課後になると、窓が割れそうなくらいのどしゃぶりになっていた。傘を持ってきていなかったわたしは、もう一度保健室にきた。
「スズカは傘持ってないよね」
「持ってないよ。真夜ちゃんもうちにおいでよ」
「じゃあ、今日はお邪魔しようかな」
結局、『今日は友達の家に泊まります』と母親にメールした。
スズカは人がいないのを確認してから、倉庫しかない突き当たりの廊下の、埃だらけの壁に手を触れた。普通の人間にはただの壁にしか見えないのだが、スズカには壁の向こうに機関車が停車しているのが見えている。わたしも眼帯を外して左目を開放すると見える。
「向こうが空いてるよ」
スズカはわたしの手を引いて壁をすり抜け、真っ赤なビロードの座席に並んで座った。乗客の多くは人じゃないもの(たとえば人形や吸血鬼や幽霊)だが、たいていは人の姿を取っていた。窓の外は赤い霧がたちこめ、瓦礫の塔や骨の楼閣が並んでいた。
青い炎のような髪の少女たちが金色の荷車を押してお菓子を売りに来た。ここでは切符が無くても、売り子から割高なお菓子を買うか、自分の臓器を金貨に両替することで乗車賃を払うことができる。スズカはかぼちゃのシュークリーム(ハロウィンの顔になってる)、わたしは銀の砂糖のタルトを買った。それを頬張りながら話している間に、スズカの暮らしている集合住宅前の血の池みたいな噴水が見えてきた。
街の名は、砂机。
そこはトタン屋根と赤煉瓦がパフェのように危うく積み上げられた荒涼とした街だった。ありあわせの素材をはめ込んだ、一つ一つがちぐはぐな玄関の扉に共通して書かれている呪文なのか血痕なのか判らない模様が表札に相当するらしい。わたしたちを降ろした列車は、街の建物のあちこちに開いたトンネルを音もなく潜りぬけ、全体像を見せない大蛇のように消えた。住宅地の中央にあるドーナツ型の噴水から、ときおり水面下から大きな煙のリングがぶくぶくと湧き出て、形を保ったままゆっくり浮上する。集合住宅の住人が煙に腰掛けると、住んでいる階層まで運んでくれるのだ。わたし一人が腰掛けても煙はただの煙で、噴水の中に落っこちてしまうのだという。
「真夜ちゃんあがって。あがって」
煉瓦のパフェの4階層目。スズカの部屋は404号室だ(縁起が悪いから家賃安いんだよ。とスズカは言っていた。墓場近くの物件みたいなものかな)。
風の強い玄関を閉めると、スズカは暗い廊下をぺたりと走って奥の暖炉に豆炭をくべた。煙のエレベーターは共用なので、使った人が燃料を補給するのが礼儀なのだ。煉瓦のパフェには血管のようにパイプが縦横に張り巡らされていて、いろいろな仕掛けに繋がっている。スズカは両親を都会に残して、この辺境で一人暮らしをしている。人間界に近いほど辺境で、人間の常識に染まったものが多いのだという。最初にスズカに案内されたとき、わたしはすぐにこの街が好きになった。どうにかしてここに移り住みたいと今も考えている。

わたしは去年の冬までアーチェリー部に入っていた。いつの間にか村八分になり、もう部活は辞めようと思ったが、わたしは決断が遅かった。もしかすると自分が誰かを傷つけるようなことを言ったのかもしれない、と。そうでなくても自分が標的になった原因さえ分からないまま逃げ出すのは、どうしても嫌だった。
弓が暴発して、左目を損傷したのはそんなときだった。わたしは手入れを欠かす事は無かったし、第一アーチェリーは簡単に壊れるような作りではない。
わたしが病院から戻ってきたとき、破損したアーチェリーは、教師達によってすでにゴミとして処分されていた。
これは事故だった。事件だと考えるのは、わたしの身勝手な妄想なのかもしれない。気を失いかけてうずくまるわたしを遠巻きに笑っていた部員達のことは、弓の暴発とは何の関係も無いのかも知れない。
ガーゼが取れてからも眼帯は外したくなかった。教室に行くのが嫌になり、保健室に通う割合が増えた。そこに居着いていた奇妙な先住人と顔見知りになるまでに時間はかからなかった。
「わたし魔女だよ!」
「そう」
「本当だよ。治してあげる」
ここまでは、変わり者のスズカとのいつもの噛み合わない会話のはずだった。
ベッドで仰向けのわたしから本を奪ったスズカは、突然わたしに覆い被さり、眼帯越しのまま口づけをした。
そこまでは覚えているが、その後どうやって保健室を出て、家に帰りついたのか今でも思い出せない。
それ以来、目の疼きは嘘のようにおさまり、小さな白い点しか見えなかった左側の闇に、ときどき、火花のように一瞬だけ光が見えるようになった。でもそれはわたしの目がじつは元々回復途中にあっただけで、あの行為とは何の関係もないはず。しばらくはそう思っていた。眼科では難しいことを医者にいろいろ言われたが、要するに、右目で見たものまで左目で見たと錯覚しているのだろうと診断された。手を切断した人が、無いはずの手先の痛みを訴えるように。つまり医学的に見てどこも治っていなかった。それでも左目の火花は日に日に無視できなくなってきた。左目に火花が走るとき、右目では何が起こっているかを見ているので、比較しながらようやく、左目が何を見ているのか、私には分かってきた。それは蛍光灯やテレビ、横断歩道の信号などに反応していた。なので最初は、強い光なら見えるのだろうと思って、太陽を見たのだが、左目はまったく反応しない。そしてある朝、 お母さんが電子レンジのスイッチを入れるとき、必ず火花が走るということに気づいた。そう、わたしの左目は、電気を見ていたのだ。
そうと分かってからの、左目の成長は早かった。登下校の際、交差点の信号が切り替わっていくタイミングが手に取るように把握できるし、授業中、誰の携帯が何回受信したのか、マナーモードになっていても分かる。左目は、光線を見ているのではないから、電波なら、背後の出来事も「見える」ことに気づいた。
私の感覚では、これは目よりも耳に近い。耳なら、背後の音だって、回り込んで聞こえるのだから、イメージとしては近いと思う。
そして、電気の強弱や明滅の具合によって、このチカチカうるさい光点は携帯電話だとか、雪が降り積もるような静かな電場は冷蔵庫だとか、薄く広がっていたらそれは当然液晶テレビだったり、電気製品によって明らかにパターンがあって、それはある種のボキャブラリーとして私の左目に登録されていった。
この能力は、失くした携帯電話を探す以外、何の役にも立たない暇つぶしと考えていたが、空き巣にはうってつけかもしれない。何しろ住宅地を練り歩いているだけで、どの家のストーブやエアコン、テレビやパソコンが点いているかどうかが一目で分かるので、留守の家を見つけるのも簡単だろう。
「すごいね真夜ちゃん、サメみたい!」
保健室で、誰もいないときを見計らって、スズカに一連の出来事を問いただしたら、このような返事が返ってきた。
「あんたには言いたいことが山ほどあるけど、いまは最優先のことだけ聞くわ」
誰もいない保健室で、グラウンドから喧噪がわずかに聞こえる。
「わたしに、何をした?」
そう問い掛けると、スズカは顔を赤らめ、わたしも反射的に顔が熱くなった。スズカはおずおずとうつむき加減で、こう言った。
「……おまじないだよ。真夜ちゃんと、ずっと一緒にいたいから、ずっといられるようにって」
「それはこの変な能力と、どう関係があるのかしら」
「あの契約で、真夜ちゃんをわたし達と同じにしたの。そしたら、わたしの暮らしてる世界にも行けるし、わたしの師匠が目を治してくれるから。たぶん」
そうして、そのときスズカははじめて、わたしの手をとってあの列車に乗せ、スズカの家まで連れて行った。
「真夜ちゃんの視力はすごいんだよ。ほら、わたしみたいな人って近眼が多いし。」
スズカの口づけで、わたしの中に得体の知れない能力が目覚めてしまった。小さい頃から洋弓をやっていたわたしの視力はそれなりによかったのは確かだ。目は、私にとって、一番大切な臓器だった。
「そういうスズカは何が見えるのよ」
「わたしは普通のものしか見えないよ。わたしの場合は視力じゃないから」
魔女に口づけをされると、魔女になる。

スズカの家の中は驚くほど普通の一人暮らしの部屋だ。黒い机、赤いランプシェード、カッティングボード、黒いソファーベッド、メタルラック、はさみ、ラジオペンチ、彫刻刀、冷蔵庫、洗濯乾燥機、アクセサリーケース、黒電話。ハンガー、鉱石ラジオ、半田ごて、漫画、スーパーファミコン、ブラウン管式テレビ、段ボール箱入りのカップヌードル、牛乳石鹸。
これが砂机での一般的な暮らしなのかどうか、わたしにはわからない。スズカが持っているゲーム機はスーパーファミコンだけなので、わたしはスズカと知り合ってから、生まれて初めて、ネットの中古ショップで専用カセットを買い漁るという経験をした。目を悪くするとアーチェリーが出来なくなるし、そもそも遊ぶ時間もないので、子供の頃からゲームというもの自体と無縁だった。しかしそれも、今となってはどうでもよかった。わたしはスズカの家に泊まりこんで、暖炉で沸かしたお湯でカップヌードルを食べながら、二人で徹夜してゲームを遊んだ(そりゃスズカは近眼にもなるだろう)。こんなに胸の躍る経験は、もしかすると生まれて初めてかもしれなかった。
スズカが休憩と言って押入れをがさごそやっている間、わたしはおもむろに冷蔵庫を開けた。カロリーゼロのコーラとペット緑茶がたくさん入っている以外は、めぼしいものは見当たらない。
「あんた普段何食べてるの」
「え?カップヌードルとか」
それの段ボール箱が4箱分くらい積み重なっている。
「全然栄養足りないでしょ」
「列車でお菓子食べたよ」
「余計身体に悪いよ。野菜ジュースとか買おう。ほんとはサラダのほうがよさそうだけど」
なにしろスズカの部屋にキッチンらしき場所が無いのだ。洗面所とトイレがあるだけで、この部屋で電気が流れているのはブラウン管テレビとスーファミ、冷蔵庫、赤いランプシェード、ぐらいのもので、電子レンジやましてIHヒーターなどは一切存在しない。つまりスズカは自炊するつもりがまったく無い。というかこの街の住人たちに料理の習慣があるかどうかもあやしい。
「ジュースは最近見かけないけど、そうだ、缶詰があったよ」
そう言ってスズカは押し入れに頭から潜り込み、しばらくもごもごやってから大きめの缶詰を4つ取り出してきた。
「ポテトサラダに、ひよこ豆のトマト煮、芽キャベツのシチューと、これは何かな」
「英語、いやフランス語か。どれどれ。アマンド……アーモンドケーキ?ケーキなんて缶詰になるの?」
「開けてみよう」
「だめ。お菓子はもう食べたでしょ」
「いいもん。真夜ちゃんが帰ってから開けるよ」
「あー、じゃあ一口だけ。残りは冷蔵庫」
「やったー」
「まったく……お惣菜はどれにするの?」
スズカはもうひよこ豆の缶を掴んで暖炉のやかんに向かっていた。まあ、わたしとしても、キャンプみたいな食事にわくわくしないと言えば嘘になるが。

黒電話のアリス

黒電話のアリス

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-14

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