蒸気譚

三日月通りのパン屋は少しだけ有名だった。
良心的な値段で美味しいパンを焼いてくれる店としてそこそこの評判はあったが、噂になる理由は他にもあった。
「ここのご主人、亡くなったらしいな」
「あのときの列車事故でしょう? お気の毒だわ」
去年の冬、この町で大きな脱線事故があった。店主のバルトは買い物から帰る途中、横転した炭水車の下敷きになって命を落としたのだった。
独り身だったバルトのパン屋には後継者がいなかったが、当時店番に雇っていた若い娘が経営を引き継いだ。
彼女もまた身寄りが無くて、あやうく屑鉄にされる運命だったところをバルトに引き取られたのである。
パン屋の経営が軌道に乗るまで、彼女には名前がなかった。シェリーというのは、町の常連客がいつのまにか呼ぶようになった名前だった。
シェ リーは古い型なので最新の機械人形に比べると少し不器用だが、それでも彼女の華奢な手は真っ赤に焼けたオーブンから素手で天板を取り出すことができるし、 洋服をやさしくなでるだけで蒸気アイロンをかけることができた。それと同じ手で三日月パンの生地を丸めて、お客にパンの入った紙袋をそっと手渡すこともで きた。
町の人々は、用事がなくても毎朝彼女に声をかけた。シェリーはいつも長い黒髪をわずかに揺らして振り向き、軽く会釈をする。
それ が、店主を亡くしてからは、シェリーのけなげな姿を見るのがつらいと人々は囁いた。だが実際彼女が悲しんでいるのかどうか、誰も本当のことはわからなかっ た。シェリーはどこからみても人間の姿をしているが、その身体には蒸気で動く心臓と、水銀と油圧パイプの血管が通っているのだ。
人々は、店主が死 んで居なくなったあともシェリーが仕事を続けていることを不思議がった。シェリーは果たして、主人に与えられた指令に従って動いているだけなのか、それと も、機械人形にも心と呼べるものが存在し、彼女自身の意思でパン屋の後を継ごうと決めたのか。誰も本当のことはわからなかった。

今日も シェリーは時計台の鐘より早起きをして、軒先の前を掃いた。向かい側に住むおばあさんが挨拶をしたので、シェリーもエプロンの前に手を添えて会釈を返し た。店内に戻って床を拭きあげ、昨日仕込みを終えた生地をオーブンに入れ、焼きあがったパンを順番にかごに盛る作業を続けていると、そのうち扉にくくり付 けてある鈴が鳴った。
「おひさしぶり」
本日最初のお客さんは、子供連れの主婦だった。
工房から出てきたシェリーは、二人のほうへ向き直った。
「いらっしゃいませ。お元気でしたか、アリエル……」
アリエルは常連と呼べるほど頻繁に足を運ぶ客ではないが、彼女は学生のころからシェリーのことを知っている友人だった。
「ええ。あなたこそ元気にしてた?」
母親の手を振りほどいて、娘が店内の探険をはじめた。細長い三つ編みをさげた白いセーターの少女は、色とりどりのパンを一つ一つ注視しようと、かごの中を背伸びして覗き込んでいる。シェリーはその様子を興味深げに眺めていたが、ほどなくして少女の母親が娘に声をかけた。
「ほら、かごにさわらないの。もどって来なさい」
「いえ、別に構いません。ごゆっくりどうぞ……」
シェリーが平淡な口調でそう言うと、アリエルは微笑みをうかべた。
「あの子はここが気に入ってるみたいなの。可笑しいでしょう? おもちゃや縫いぐるみには全然興味を示さないのに」
親子二人はしばらく店内をうろついて、かごいっぱいのパンを購入した。注文されたパンをひとつずつ紙袋に包んでいたシェリーは、背後に違和感を感じて振り返った。すると身につけていたエプロンがはらりとほどけた。
「メア! シェリーさんにいたずらしないの!」
母親が娘を叱った。背後の気配の正体は、三つ編みの少女だった。娘はシェリーのエプロンの紐をひっぱって解いたのだった。メアと呼ばれた少女はまだエプロンの紐をにぎったまま無表情でそこに立っている。
「ごめんなさいね。もう、この子ったら。メア、どうしてそんなことするの?」
母 親に訊かれても、メアは動じずにシェリーの足や手を引っ張り続けた。やがて、その行動の意味が大人たちにもわかった。メアはシェリーを連れて行こうとした のだった。寡黙なメアは、「こっちに来て」と言うことができず、相手の手や足を引っ張って直接目的地へ連れて行こうとしたのである。
シェリーは引っ張られる方向へそのままついて行くと、そこは工房の奥だった。木造の柱や梁がそのまま露出していて、赤レンガの壁の中央をくりぬいた大きな鉄の扉の中がオーブンになっている。
「ここでパンをやくの?」
しばらく室内を見渡したあと、メアは始めて言葉を発した。
「ええ……」
シェリーの答えを聞くと、メアは少しだけ口元をゆるめた。
「わたしにもおしえて」
どうやらメアは、店に置かれたパンを見て、それを作ってみたくなったらしい。
シェリーはメアの碧い瞳をじっと見てから言った。
「わかりました。ただし休みの日にしてくれますか?」
「うん」
それからというもの、メアは毎週のように母親を連れてシェリーの元を訪れるようになった。
メ アはまだ小さかったが、その情熱と独創性にかけては優秀な生徒であり続けた。彼女は自分の好きなことを見つけてとても生き生きとしているのが母親のアリエ ルにはよくわかった。相変わらず口数が少なく無表情だったが、シェリーと打ち解けるにはむしろその性格はぴったりなのかもしれなかった。しかし一人でパン を焼き経営までこなしている今のシェリーの休日を奪ってもいいのだろうかと思っていた。
「ごめんねシェリー。大切な休みを使わせてしまって……。疲れてるなら別にいいのよ」
「いえ、問題ありません」
シェリーには疲れるということがよく理解できなかった。自分がこなせる仕事量の限度は知っていたが、そもそも彼女は家事全般をこなすために作られており、生身の人間が行う仕事なら、いくら反復しても許容量を超えることはまずあり得なかった。
「そう? ああ、でも来週は仕事で来れないのよ。しっかり休んで」
「わかりました。いつでも来てください」
「ええ、それじゃあまたね。ばいばい」
アリエルは娘の手をとって勝手に手を振るしぐさをおこなった。
メアは少し寂しそうな表情を浮かべていたが、シェリーも同じ気持ちだった。

次 の休日は何もすることがなくなった。シェリーは退屈をもてあまして手首の油圧バルブをいじっていた。メイドとして作られた彼女は仕事が無いと落ち着かな かった。バルトが生きていたころも似たようなことがよくあった。バルトはたびたび、根を詰めすぎないようにとシェリーに休暇を出した。しかしその間、シェ リーは何もすることがなくなるのだ。
シェリーは誰かに必要とされなくてはならない。バルトが生きていた頃は、それが満たされていた。店主を亡くしてさぞ悲しかろうという町の人々の思慮はほぼ当たっていた。シェリーは誰に命令されなくても活動できるが、一人では何をやっても空気を掴むように味気なかった。
 工房の掃除もすませてしまい、今日はいよいよすることがなくなった。日も高くなってきたので、彼女は街中を出歩くことにした。
パンの材料は契約した業者が定期的に配達してくれるが、ときには新しいメニューを生み出すために食材を探すことも必要だと考えた。
シェリーの移動手段はもっぱら自転車だった。彼女がペダルを漕げばそれは蒸気機関になった。
楕円交差点前の商店街には、ひしめき合う軒先どうしを三角形の旗を連ねたロープが縦横にかけめぐり、線路のぎりぎりまで色鮮やかな屋台やジプシーの馬車までが場所を取っていた。
「さあさあ!チケットはまだあるよ!そこのあんた、目の黒いうちに焼き付けておかないと死んでから後悔するよ!」
見 世物小屋には自動人形の姿もあった。廃棄処分になるところをサーカス団に拾われたのだろうか。最低限の修繕だけをほどこされ、奇妙に派手な踊り子の衣装を 着せられ、ひたすらアコーディオンやらダンスやらを昼夜繰り返している彼女達の日常は、少なくとも退屈ではないのだろう。だがシェリーはどういうわけか、 舞台の上で生きる彼女たちの目を覗き込むことができなかった。
自転車を押して人ごみをくぐり抜けると、懇意にしている粉屋に向かった。
「面白い粉が入ったの。アーモンドという木の実の粉よ」
店番のコレットは以前と変わらない明るい笑顔をみせた。噂好きの彼女は相変わらず新しいニュースを話したくてうずうずしているようだった。
「田舎の店には置いてないでしょう? あんたも客商売なんだからたまには都会の流行を知らないとダメよ」
「そうでしょうか」
「ほんとよ。ねえ、最近はどう?上手くやれてる?」
シェリーは最近起きたことを淡々と話した。コレットは商売柄多弁なように見えるが実際は寡黙で、どちらかというと聞き上手なタイプなのだ。
「後継者ができてよかったじゃん。小さいのに感心だわ」
「今日はメアが来ないのでここへやってきました」
「メアって、もしかしてアリエルさんところのメアちゃん?」
「彼女を知っているのですか。なぜあなたが?」
「あたしは顔だけは広いからね。あの子学校行って無いそうだけど、元気そうでよかったわ」
「何かあったのですか?」
「それはあたしの口からはなんとも」

蒸気譚

蒸気譚

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-14

Copyrighted
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