受動意識仮説

僕は見ているだけで、何もしない。みんなが仲良く会話しているのを、少し離れたところから眺めているのが好き。僕は何もしない。
 何故って、そのほうが楽しいから。
 幼稚園の頃、保母さんが積み木を床にバラまいたら、園児達が我先にと集まって、すぐに5、6人ずつの仲良しグループに別れて、お城や庭を作り始めたんだ。

 僕はどのグループにも入るタイミングを失って、仕方なく一人で、おこぼれの積み木を集めて遊ぼうとしたんだ。でも4つしか手に入らなかった。
 すぐに気の強い女の子から、「それ、ちょうだい!」と強引に奪われてしまった。僕は積み木を取られたことより、どうしてグールプに誘ってくれなかったのか、それがわからなくて胸の奥が痛みを訴えた。

 似たようなことは何度か起きて、そのうち僕は、みんなが遊ぶのを眺めるほうが楽しいと気付いた。
 子供の頃は「協調性が無い」「引っ込み思案」と大人達に非難された。
 でも中学生になった今なら、大人にも理屈で説明出来る。

 きみたち大人だって、テレビなんかで、芸能人が料理を美味しそうに食べるのを、自分が食べているわけでもないのに楽しそうに眺めているだろう? どの野球チームが勝ったかどうか、オリンピックで日本が何個メダルを取ったかどうかで、多くの人々が一喜一憂しているだろう?自分が努力して勝利を達成したわけでもないのに。他人の喜びを、じぶんのことのように喜べるって、素晴らしいことだと思うんだ。
 だから、僕は協調性が無くても、引っ込み思案でも、いいじゃないか。僕はみんなの幸せを喜べる。みんながそうであるように。同じことだよ。

 僕は放課後、野球部の練習を見るのが楽しみの一つだったのだ。僕が女の子だったらマネージャーに立候補したと思う。でもその日は、ちょっと運が悪かった。ファウルボールが僕の顔面に当たって、僕は気絶した。
 気がつくと白い天井が見えた。野球部の顧問の先生が現れて、「あんなところに立っていたら邪魔だ。こっちの責任問題なんだぞ」と言って、その場を去った。
 次に普段は保健室いる先生が現れて、「CTに異常はなかったけど、念のため一日だけ入院することになったからね」と優しく言った。ここは学校最寄りの病院なのだと説明した。
「それにしてもひどいよね。あんな奴の言葉、気にしなくていいからね」保健室の先生が僕に言った。
「何を気にするんですか?」
 僕は自分に興味が無かったので、保健室の先生と何度か会話のやりとりをして、野球部の顧問の先生は、僕の安否ではなく、先生自身の心配をしに来たのだとようやく理解した。

 野球部の先生は、僕が怪我をしたから、僕を責めたのだということはわかる。でも、僕の最初の解釈とは違っていた。
 他者が怪我をしたら、僕は我がことのようにつらくなる。
 他者の幸福が僕の幸福であるということは、他者の痛みは僕の痛みなのだ。
 だから顧問の先生も、僕が怪我をしたことで痛みを感じたのだろう。痛みの原因は僕なのだから、次にそういうことが起こる確率を少しでも下げるために、僕が今後怪我をしないように言い聞かせたのだろうと、自然にそう思っていた。
 他人の喜びも悲しみも、僕のもの。顧問の先生も同じだろうと、自然に自己投影して思い過ごしてしまったんだ。

 でも世の中の人と、僕が少し違うことは、十代後半にもなるとわかってきた。
 みんな、じぶんの意志で自分を動かしているらしいのだ。だから他人のことより、自分のことを優先するらしいのだ。

 僕にとって、その発想は斬新すぎて、到底受け入れられなかった。
 僕にとって、世界は映画だ。物語だ。
 見ているだけで良い。味わえば良い。そういうものと思っていままで生きてきた。いや、たまたま生き延びてきた。
 自分で自分を動かすなんて、変じゃないかな?
 池に落ちた自分の足を掴んで引っ張り上げれば、池から這い上がれる?そんなことありえないよ。
僕はただ、大雑把に言えば、世界がどうなるかの行く末をただ見守っているだけなんだ。
もちろん、ぼくが見守らなくても世界は回り続けるし、それでいいんだ。こんなに多様で複雑で、めまいがするほど奇跡的なこの世界が、いまここにある、ということが僕には泣きたくなるほどうれしいんだ。
 誰だって、せっかく面白い小説を読んでいる途中で、読み終わりもせずに、内容をペンで修正したりしないだろ?
 僕が世界に影響を与えることすらもったいないから、引っ込み思案でいたいのに、さらにそのうえ、自分で自分を動かすだなんて。そもそも、自分の意志なんて僕にあるのかな?
 自由意志なんて言葉、誰が作ったかしらないけれど、僕は信じないし実感出来ない。
 時間は一本のレールの上を一方通行で流れるというのに。取り返しのつくことなんてないというのに、みんな、自分で自分を動かせると思ってる。ひどいときには、自分で世界を動かせると思ってる。そうじゃないよ、世界が僕たちを動かしているんだよ。と言っても、今では僕の言葉に耳を傾ける人もいなくなってしまった。

 そう、世界とは時間なんだ。映画も音楽も、時間軸の上に成り立つように、僕の書いているこの文章だって、文というのは順番に読まないと意味をなさないのだから、やっぱり時間軸の上にしか成り立たない。文章は枝分かれしないからね。

 運命は信じようと信じまいと、時間は誰もが信じてる。神を信じていない僕も、運命も信じていないあなたも、時間だけは信じている。いつか、終わりが来ることも。

受動意識仮説

受動意識仮説

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-14

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