グローバルな判断基準ってなんだろう?~東奔西走の日々の中で。
3月に久しぶりに日本へ行って花粉症と時差を土産に帰って来てからも、日本からアメリカへの桜寄贈100周年を迎えたワシントンをはじめ、既に夏を感じるヒューストンまで飛び回ってあっという間に4月も走り去ろうとしている。おまけにニューヨークへ引っ越してから1年が経っても毎月ロサンゼルスへは行っているから、グローバルというべきか相変わらず東奔西走が続いている。そんな中で1年前に拠点をニューヨークへロサンゼルスから移したのに、ロサンゼルスの方で陪審員の招請が届いていたので少し驚いた。結果的に拠点をニューヨークへ移しているということで免除されたが、正直なところ国民の義務ではあるものの、陪審員に選ばれることには躊躇してしまう。
日本でも裁判員制度が数年前より導入されているが、アメリカの陪審員制度ともかなり違う。アメリカやイギリスの陪審員制度、フランスやドイツの参審員制度、そしてそれをミクスしたのが、日本の裁判員制度と僕は捉えている。アメリカでは、陪審員に選ばれて裁判に参加しても審理の途中で陪審員として不適正となると交替されてしまう。また、審議されている事件に関する情報を裁判より前に見たり聞いたり読んだりもしてはいけない。実際、O.J.シンプソン事件でマスコミの予想とは逆の判決が下されたのは陪審員の交代劇があった。つまり、陪審員は映像や活字で伝えられたマスコミの情報ではなく、法廷で直接見て聞いた証言や証拠で判断しないといけないからだ。
でも、人としてのグローバルな判断基準ってなんだろう?
僕の半生を振り返っても、ヨーロッパでも日本でもアメリカでも何処の国でも判断基準って違うとも言えるし、人としてはグローバルに世界どこでも一つでしょうとも言いたい。しかし、ユーモアやエスプリというような感覚の違いは時に大きい。実際、フランスの知性は明晰を尊び、誰が?なにを?どうして?と問い続けるし、法律もナポレオン法典が今でも基礎にある。しかし、イギリスは全く違う。憲法も持たない国だから、要するにリーズナブルであればいい。その伝統を受け継ぐアメリカは建国時からの憲法があるが、その後何度もの重要な修正条項が付け足され、法制度も社会の仕組みもやはりリーズナブルということが大前提にある。
日本人は日常の生活感覚においては、かなりアメリカやイギリスに近いと感じるものの、ドイツやフランスから法律関係を明治時代に学んで作っているために両者の影響を受けている。このようなアメリカやイギリスとの共通する感覚、一方でフランスやドイツからの影響を受けた日本人の心にとって、リーズナブルとはなんだろう?英語で「reasonable」と言う場合、日本人が日本語で言う「リーズナブル」よりも重い。商品の値段が手頃だとかと言う場合だけでなく、ビジネスやいろんな重要なシーンで合理的だとか正当だとかという強さがある。いったい何がリーズナブルで、何がそうでないのか、考えれば考えるほど迷路に迷いこんでしまう。
今のところ、東奔西走の日々の中でも、グローバルに生きてユニバーサルに自分自身を常に見つめいく。これしかないと思っている。
グローバルな判断基準ってなんだろう?~東奔西走の日々の中で。