アンチェインド・ストーリー

アンチェインド・ストーリー

蒼居

後で書く予定です。

プロローグ

僕らの想いが報われますように。
プロローグ

海を見ていた。

規則正しく繰り返される潮騒も、波打ち際にキラキラと宿る光も
永遠を刻むようにいつまでも続くから、疲れてしまわないのかと
僕は少し心配したのだけど、海はそんなのはどこ吹く風で
惜しみなく、間断なく、止むことはない。
水平線の向こう側に巨大なポンプがあって
フル稼働で波を製造し、海岸線へとおくるようなそんなただひたすらの浪費を思い浮かべていた僕は
その向こう側に、実は哀しいほどに何もなく、ただ同じ海だけが続いていることを知って
少し安心し、そして、少しだけ泣いた。
重力に従いながらその営みを永遠に続けるこの自然というやつが教えてくれたのは
ただひたすら、そして少しずつ、たとえ立ち止まることがあったとしても、羽を休めた後、
また動きださなければならないということだった。

僕は疲れていた。どうかしていたのだ。
果てしなく続く日常の営みが、苦痛とか疲労とか死とかそんなものを暗示するように思えてならなかった。
だけどそれは違うんだ。本来の世界はもっと輝きに満ちていると多少なりとも感じられた時、僕らは変われる。

疲れること、傷つくこと、そして何も信じられないということ。
それらは僕たちが立ち止まる理由にはなるけれど、
いつまでも甘えてはいけないのだと、胸いっぱいに空気を吸い込んで
僕は再び歩きはじめたのだった。

きいてくれるかな?僕の臆病な夢を。荒唐無稽な希望を。
小さな可能性という名の窮屈な部屋の中で、僕や僕みたいな人が日々、何を思い、何を考えていたかなんて
人は笑い飛ばすかもしれないけれど、小さな窓がそのずっと先にある大きな海にさえ続くということ、
つまりは、僕らのちっぽけな想像力が、いつか大きな何かと出会うのだということを信じて
僕がいかにもがき、自分を鼓舞しながら生きてきたということを、僕はずっと誰かに語りたかった気がするんだ。

哀しみ

「ねえ、死にたいと思ったこと、ない?」
ただでさえ低気圧でだるい朝だというのに、メリーはそんなことを口にした。発言の意図がまるでわからない。
「ないよ」
僕は嘘をついた。意外と繊細なメリーのことだ。真実を語れば逃げて行くかも知れない。そんなことをぼんやりと考える。
いま下北沢に借りたワンルーム部屋のベッドを占領しているメリーとは半年の付き合いになる。付き合い。そんな回りくどい表現になるのは、恋人というには少し抵抗があるからだ。本名は目利加奈子という。
「本当に?」
どこかエキゾチックで黒目がちな瞳が僕の顔をのぞき込んでいる。真っ直ぐに眉間を射抜かれるようで少しずつ気分が覚醒してきた。台風が連れてくる生温かい風のせいか、肌がベタついている。
夏の雨に閉ざされた休日はどこか小学校低学年の教室を思いおこさせる。クレヨンの匂いとか給食の牛乳の匂いとか床にかけたワックスの匂いと同質なものを感じる。そんなことをいつまでも忘れないのはまだ僕が大人になりきれていないからに違いない。三十路を過ぎているというのに安定した職を持てていない。
「なんでだよ」
「うん、なんとなく」
そういえば最近のメリーは元気がない。時々激しく求めるくせにどうしたのだろうと思う。
「どうした?メリーはどうなんだよ」
「遼はひくかもな」
「大丈夫だよ」
話題が話題だけに怖い気もする。だがそれ以上に心配だという気持ちが勝った。
「私はね、死んでもいいと感じてる。で、思ったのね。今死ぬのが一番いいんじゃないかって。これって死にたいってことかな」
「違うよ。バカなこというなよ。」
台所で鍋がグツグツしはじめた。小走りでメリーが台所に向かう。
それを見て少し安心した。ゆっくりと流れる日常という名の時間があるいは僕たちを守っているのかもしれない。だが、この日溜まりのような時間が死ぬまで続くとはどうしても思えなかった。それが僕の若さの証でもあるのかもしれない。
モラトリアム。いつのまに僕はそのトンネルに入ったのだろう。若い頃には免罪符にしてきたその言葉をそろそろ捨てたいというのにうまく行かない。気がついた時には身に染み込んでしまった。
なかなか戻ってこないと思って台所をのぞき込むとメリーが背中を向けてじっとしている。一体どうしたのだろうと思って近寄ったのと、鼻をすすり目頭を拭ったメリーに気づくのが同時だった。泣くことないじゃないか。
「ほら、かき混ぜないと。うまそうなカレーじゃないか」
「カレーじゃなくてビーフシチュー」
少しふくれっ面になったメリーのことが今はひたすら愛おしい。でも僕はいつも核心に触れることを避けている。メリーはメリーでそのことに気づいてか、いつも言葉を選んでいるようだ。
「ねえ、幸せって怖いものね」
「当たり前じゃないか」

夢うつつ

夢かうつつか判然としない意識の中で、辛うじてあせた壁に視線を送る。窓から入る昼の光を浴びた時計は11時を指していた。もう少し眠ろうと布団を胸までたぐりよせ、寝返りをうつ。眠気に身を任せると、鈍い憂鬱は、次第に自分の温もりに入っていくような心地よい安息にかわった。
僕は再び眠りに落ちて行く。

まどろみの中で僕は学生時代に足しげく通ったジャズ喫茶の夢をみていた。
猫が低い楕円形のテーブルの上で丸くなっている。となりには当時の彼女がいて、コーヒーカップ片手に授業の資料にペンを走らせている。店は壁に囲まれた半地下にあるため、昼でも薄暗い。セピアに近い電球色の淡い光が店内を満たし、雰囲気を演出している。
僕がもぞもぞと動くのを横目で確認すると、夢の中の彼女は前をむいたまま言う。

「起きた?」
「ああ」
「私のこと、覚えてる?」
「1999年10月27日。君とここに来たのをはっきりと覚えているよ。…その後のことも、もちろん…」
無関心を装うように彼女は小さく相づちをうった。
「うん…」
「ここ、無くなったんだよな。5年前に。今じゃ線路の下になってる-」
そう言いながらどこかそわそわして、たばこに火をつけた。
「まだ吸ってるの?」
「ああ、これだけはやめられないんだ。」
「そうだったわね」
「元気か?」
「べつに…ふつうよ」

彼女の口癖だ。間をおかず、彼女は答えた。
「ありがとう。私も覚えてるわ。忘れるはずないじゃない。」

フラジャイル

心拍数があがるのが自分でもわかる。さっきまで繋いでいた手に残る温もりが、どうしようもなく彼女の唇に触れてみたいと思わせる。
僕は自分の傘をたたみ、隣に座る彼女に寄り添うと、そっとその体を抱き寄せた。
人もまばらな平日夕方の公園。音も無く沸き上がる噴水を視界におさめながら僕は気付いた。淡い感触だと想像していた恋が本当ははかりしれない重みをもっていることを。そして今正にそれが堰を切ったように迫るのがわかる。逃げられないと思った僕は、不安を抱きながらも両腕に力を込めた。そうすることで自らの想いを彼女に委ねた。
次の瞬間、僕は抽象的な観念ではなく、生身の人間の切ないくらいの温もりに直に達した喜びをかみしめたのだった。
視線を落とすと彼女のうなじのラインが細くなだらかに華奢な肩へと流れている。哀しい。切ない。危うい。脆い。弱い。心細い。儚い。
どれも近い気はするが、どれも当たっていない気がする。気持ちを抑えられない僕は思わず湿った吐息を漏らす。彼女の肩がびくんと緊張した気がした。体中に薄く拡散する興奮に気がつかれた気がして、少し恥ずかしい気持ちになった。
彼女はーいったいどうなのだろう?

僕は意を決して彼女をゆっくりと引き離した。
そして伏し目がちな彼女の目が、チラと俺をとらえた時、吸い込まれるように唇を近づけた。
当然のなりゆきだという言い訳は、一線を越えた瞬間を境に過去へと遠ざかってゆく。あとは2人だけの甘い痛みに浸るだけだった。

30秒は経過していたと思う。いつまでもそうしていたかったが、ダメになりそうな自分に戒める形で僕は彼女からそっと離れた。今度は彼女の方が、半ば潤んだ目で僕のことをみている。その口元に僅かに微笑みが浮かんでいるのを知ったとき、僕は心から幸せを感じたのだった。
この人とならどこまでも歩いていけると、朧げながら意識したのだ。それはかつて経験したことのない満ち足りた気持ちだった。

ジャズ喫茶

僕らは新宿近くのジャズ喫茶でよく待ち合わせをした。

壁沿いにはレコードがぎっしりと詰まった棚があり、来る度に違う曲が流れるのが楽しみのひとつでもあった。

僕はその頃、いささかせっかちで、彼女はいささかマイペースだったようだ。待ち合わせ場所には大抵僕が先について、しばらく経過して、入り口ドアの鈴が鳴った。時々、鈴を鳴らして入ってくるのが同じく入り浸りの学生であったりして、僕はその度にイラついたりした。テーブルの上で丸くなる店の飼い猫がつまらなそうにあくびをすると、つられてこっちもあくびが出たりした。
喫茶の裏手には僕らが、「休憩所」と呼ぶ安いラブホテルがあり、その気になると利用した。女性にも男に負けないほどの性欲があることを僕はそこで学んだ。
肝心な自分の方がうまくいかないこともたまにあり、そういうときは二人で泣いたりした。今だから分かるが、二人ともかなり精神的に追い込まれていたのだ。
恋愛ごっこを繰り返しながら僕は確実に彼女を愛し始めていたのだが、それが確かめられないことに弱く、弱く傷ついていく感じがあった。他方で自分に魅力が無いのかと悩む彼女も同じように傷ついたようだ。

ただ、彼女がしきりに口にしていた夢という言葉が、僕の心の中で少しずつ存在感を増していった。

異国情緒

休日午前中の喫茶はのんびりとした空気に包まれていた。
記念すべき初の待ち合わせ場所もここだった。僕は奥の喫煙席で本を読みながら彼女を待つ。
ついさっき家で親につかまったという連絡が入り、1時間ほど遅れるということだった。
待つのには慣れていたが、こういうパターンがあまりにも頻繁にあり、彼女に対する猜疑心がくすぶりはじめたのも事実である。果たして彼女は本当のことを言っているのだろうか?

お昼を迎える頃になると、歩き回るカフェ店員たちの慌ただしさと人いきれに、店内にはぐっと熱気が漂いはじめる。
「待った?…わよね。」
しばらくして、近寄った影がそう尋ねた。
「ああ。あしびきのやまどりのおのしだりおのー長々し間…首をながーくして待ったよ」
「何それ?ああ、ひとりかもねむ。か。そうそう、そんなことはどうでもいいの」
次の瞬間には話をそらすのは分かっていた。
ハンドバッグを脇に置き、彼女はステンと向かいの椅子に腰掛ける。
店員が注文をとりにきて
「アイスカフェラテを一つ」
と告げると、彼女は身を乗り出して話しはじめた。
「 ねえ、私達、一緒になったら坂の多い港町に棲んでみない?函館とか、長崎とか。すごい憧れるの。海も山も楽しめるなんて素敵よね。遼もいつかそんなこと言ってたじゃない。」
「そうだな、確かに移動は大変になるけども、毎日が新鮮そうだ。」

「あーあ、どこか遠くに行きたいな。」
「異国情緒という点では横浜もいいぞ。近いし、今度行ってみるか。予行演習に。坂はないかもしれないけどな」

それからというもの僕らは何度となく横浜をデートコースに選んだ。

最後の夜

あかりと歩く夜の馬車道が好きだった。

蒼い街灯に照らされるあかりの横顔は記憶の中でいつも濡れている。それは夜露でもなんでもなく、彼女の涙のせいに外ならない。
あまりにも突然結末を迎えた僕らの恋。
思い出の大部分を洪水のように呑み込んでしまった最後の夜の出来事を、僕はまだ引きずっている。
湧き上がる想いは、すぐ葬り去るようにしているが、時々失敗する。
繰り返し、繰り返し。

瀟洒な街並みを2人で迷い込むように進んでゆく。気分は高揚し、まるでタイムスリップでもしたかのようだ。街全体が、まるで僕らをネイビーブルーの薄い膜で包んでくれているようだった。

まちかどで振り返るあかりは僕の未来だった。はしゃいだ後ろ姿はいつも微笑みかけて僕を導いた。他方で、彼女が振り返らずに夜霧に消えることを僕はいつも怖れていた気がする。いつしか彼女を失う不安から彼女を試すようなことばかりした。
きっとそれが彼女を痛めつけたのだ

時折、奇妙な感覚にとらわれた。いつもメールや電話の向こう側にいた彼女が、本当に今、目の前にいる彼女なのかと。艶めかしい息づかい、小さく柔らかな指の温もり。その存在感は、文字や音声には表れないしっとりとした空気を運んでいた。
愛してる、
愛してる。
そうやって僕はどうしようもなく、あかりのことが欲しくなるのだ。

あの日、あかりは、ショーウィンドウごしにウェディングドレスを眺めながら切り出した。
あるいはショーウィンドウに映る自分たちを眺めていたのかもしれない。
「私たち、いつもこうじゃない?夜になって会い、朝になって別れなきゃならないなんて。なんだかそれだけのための逢瀬みたい。」
「しょうがないだろ、お互い忙しいんだから。」

彼女の言いたかったことは明白だ。
僕たちは会うたびに愛を交わし、その後に夜の散歩をした。
あるいは散歩は、彼女にしてみればとってつけたような儀式に思えたのかもしれない。確かに僕は、用意されたシナリオを、ただ辿っていただけだ。おまけに彼女は楽しんでいるのだと高をくくっていた。
すれ違いというのはいつも後で明らかになる。僕らは今を楽しみつつも、未来に怯えていなければならないのかもしれない。

共有した思い出は山ほどある。でもそれがなんだというのだ?
終わったことは何度も振り返ってはならないという暗黙のルールが大人の関係であるならば、それはあながち間違ってはいない。
路地裏でみた猫の喧嘩や、山下公園に佇むカップルの観察、何より、一つ一つの出来事に一喜一憂するあかりの横顔。そんなひと続きの思い出はあの夜を境に崩壊し、哀しい記憶に上書きされたのだから。

「私たち、別れましょう。」
「ん?悪いジョークだな。」
「ジョークでもなんでもない」

凛と構え、まっすぐに僕を見据え、月明かりに浮かびあがる彼女は哀しいほどに綺麗だった。
僕はどんな顔をして彼女の顔をのぞきこんだのか?

不意にぽろぽろと彼女の頬に涙が伝いはじめた。
胸に去来する「なぜ」をもてあまし、僕は明らかに狼狽していた。

「ごめん、泣いちゃったりして。でもね、最後は笑顔でさよならがいいと思うの。」
「意味が分からない。どういうことなんだ…」
「…」
「なんだよ」
「私たちには未来がないじゃない。」

僕はその瞬間、未来に思い描いていたあかりとの幸福な生活をすべて反古にし、新しい何かに備えるべきだったというのか。それができれば少しは傷も浅かったのだろうか?
しゃがみこむあかりに視線を向けると、彼女はおもむろに僕の靴に手をのばし、ほどけていた靴ひもを結んだ。
それが僕に対してできる、最後の心遣いだと言っているようだった。
彼女の優しさが鋭利な刃物のように胸に突き刺さる。

「ちょっとまってくれ。お金がないからか?言ったじゃないか。幸せは自分たちで作り上げるものだって。いまは忙しいけどなんとかなるって」
「ごめん」
「それにひどいじゃないか、未来がないって、どういう意味だよ。」
「ごめん」
「あきれる。ちょっと頭冷やしてくれないか?」
「ごめん、でももう限界だから…」
「何が…?」
「ごめんね、私はあなたを幸せにできない。でもあなたのことを幸せにできる人は絶対にいる。私がその人ではないだけ。ごめん。他に好きな人ができたの。」

あかりは決してチャラチャラとした尻軽女ではない。無論、かまととぶった悪女でも決してない。
が、すぐにはわからなかった。
彼女の真意がどこにあるのかを。
彼女の最後の嘘が、どれだけ彼女自身を追い込んだのかも。

若さ故と片付けるのはきっと違う。傷つけ合うことで求めあう恋愛ごっこを僕らは楽しんでおり、それは僕らを繋ぐ唯一の絆のようなものだった。時に乱暴に引き合っては千切れそうになり、僕らは疲弊していった。だが、最後には笑顔で別れようね、なんて付き合いはじめから言う彼女はどこか儚く、どこか美しかったのだ。

こうして大学時代から続いていた僕らの短い恋物語は幕を閉じた。得るものがあった分、失ったものもあった。愛した分だけ愛された。

きっと男女なんてそんなものなのだろう。僕はいつしか人に何かを求めるのを止めるようになった。絶望を呼ぶのが希望だとしたらプラマイゼロだ。どうせプラマイゼロなのであれば、求めない方が楽だ。

そうやって僕はある意味で苦しみから解放されたのだった。

喪失

どこまで人を好きになれば人は人を愛したことになるのだろう。
胸のうちにある彼への想いは確かなものだと思う。
けれど例えばその想いが自分の命と引き替えに成就するものだとしたらきっと躊躇ってしまう。
そんな自分がたまらなく卑小だと感じる。

遼。どうすればいいのよ。
私には赤ちゃんができたわ。3ヶ月。もちろんあなたの子よ。
産みたいわ。あなたもそれを望むに違いない。
だけどね、お医者さんが言うの。
つまり、私の命の方が危ないって。
きっとこの子は産まれてきた暁にあなたへの想いを代弁してくれる。
でもやっぱり死ぬのは怖いの。
ここまで自分を責めたことは私にはあまり経験がない。
免疫がないのかしら。いい子ぶりっこだと言われても仕方がないわね。

真実を知ったとき、あなたの気持ちが揺らいでしまうのが怖い。
たとえ愛してると言ってくれてもきっと辛い。
それはきっと別れの辛さに匹敵するもの。
私は弱い人間です。
だからあなたを愛する権利はないの。
あなたのもとをそっと離れようと思う。
それがたぶん、一番だと思うから。

バイバイ、遼。
馬車道ってとてもいいところよね。
不器用だけど、そういうところにはとても気の利くあなたが今、たまらなく愛おしいの。
いつかおじいちゃんおばあちゃんになったらどこかであなたに会ってみたい。それを楽しみに、私は生きてゆこうと思う。
子供の産めない私はきっと独りぼっちになるから、せめてその時には優しくしてね。

ノイズ

新緑の眩しい季節も架橋を迎え、梅雨入り前の湿気を含んだ空が、横切る航空機の轟音を鈍く響かせている。初夏の兆しが郊外のケヤキ並木から街なかにかけて溢れ、漏れてくるようだ。俺は軽いめまいをおこして、ビジネスバッグを握る手に力をこめた。
蝉はまだ鳴かない。


30歳までのカウントダウンが始まっている。長いこと独りで生きてきた。
孤独感はとっくの昔に体に染み込み、当初はどうしようもなく疼いていた痛みも消えた。
あるいは鈍麻しているのかもしれない。とはいえ、時折よぎるのは大学時代の彼女の面影だ。

くだらないのは分かっている。
初夏になると浮かぶのはつきあい始めの頃の日比谷公園を思い出すからだろう。記憶の中でじっとりと肌にまとわりつくのが、この季節特有の湿気なのか、交わりあう俺と彼女の汗なのか判然としない。それくらい、遠く離れている。潜水をしている間の息苦しさにも似ている。
おまけに、もうどう考えたって会えないではないか。

万が一、街で見かけたとして、向こうから声をかけてくるかどうかも疑わしい。
今となっては過去の亡霊をわざわざ呼び出すようでなんの生産性もないことだった。

彼女は、大学卒業のタイミングで、アメリカへ発ったようだ。別れという、日本土産を胸に抱いて。
きっと、俺の気持ちとは裏腹に、それはアクセサリーのようにキラキラと彼女の胸に飾られているに違いない。ー私はどうしようもない男と大恋愛をした。そして磨き上げられた恋愛センスで、次に進む。胸の勲章はそう語るに違いない。

得意先に書類を届けた際、ガラス張りのオフィスに自分の姿が映った。
抜いても、抜いても生えてくる白髪に難儀する歳頃になったが、改めて全身を見ても、自分に貫禄があるとは思えない。冴えない顔をして頭を下げている。自分を俯瞰する視線は大学時代からまとわりつきはじめた、邪魔な癖である。
クライアントである若づくりの男が、無言で書類を受け取り、秘書とおぼしき女性に渡すと、二言三言、言葉を交わして笑った。

あかり。
俺はもしかしたら、今でも君のことを人知れず愛してしまっているのかもしれない。
君が恋のスパイスと名付けた刺激的な営み。その中に隠されてこそいたが、確かにそこにあった平凡な一瞬一瞬が俺の胸の中に沈殿しては固まっている。いつも上ばかりを見てあの時を過ごした君はしかし、透明でキラキラとした青臭い上澄みだけを掬い満足したのではないか?

すれ違いを怖れた俺たちが、どう考えてもすれ違っていたことをいやがおうにも認めた時、終わりは訪れた。以来、俺は奴隷のように律儀に君のことを想っているようだ。
耳に張り付く真夏の蝉の声が、いつまでも終わろうとしないように。

そして―夏が来る。

静かな生活

体調を崩してからというもの、いつも隣にあるのはまるで冷たい金属でも抱いているかのような感覚で、それは時に不安という名の鋭利な刃物になって私を切り刻もうとする。そんな時、私はアルマジロみたいに心を丸めて自分を守る。

自分が抜け殻になってしまったような感覚は、生きている意味さえも問いかけてくるようだった。
お医者さんの説明によれば、一時的なもので、きっかけさえあれば以前と同じ生活に戻れるとのことだ。ただ、軽いストレス障害に見舞われているという。
「そのことで自分を追い込んではいけないよ」
と結び、笑顔を見せたドクターは、カルテにドイツ語らしき文字で何か走り書きをしている。診察室の窓からは秋の鈍い光が遊んでいるのが見える。裏腹に私の胸の不安はなかなか消えてくれない。

もやもやを抱えたまま、診察室を出た私は、待合室の椅子で手を組んで座っている母に目で合図を送った。母は口もとを軽く緩ませると何も聞かずに隣の椅子をトントンと叩いた。
何も聞かずに平和な日常を提供してくれる家族はどこか痛々しく、切なくもある。自分が何者なのか分からない状態で人と接するのは申し訳ない気がして、このままの状態で生きていくのかもしれないと考えた時、底知れぬ闇に包まれる。むろん、すぐに気持ちを切り替えるようにはしている。その繰り返しだ。
これが、人生を棒にふるということなのだろうか。時間だけが無為に過ぎ去ってゆく。
私の人生はきっと、あの時に終わったのかもしれない。今は生かされているだけで贅沢なのかもしれない。

あの人のことを思うほどに会いたいと思う。
でも同じだけ、逢えないのだという現実を突きつけられる。
「それはきっと思い残しというやつだ」と、次の恋人が言った。
ありがたいメッセージだった。すぐに別れた人だったけど、ただひたすら優しかったその背中がいまでも私を安心させてくれている。以来、私は自分の想いに終止符をうち、納得しながら、辛うじて静かな日常に戻ることができている。
周囲にはアメリカに行ったことにしていることを思い出す時も、笑い話に思えて苦笑する時もあれば、自分の現状が滑稽に思えて落ち込む時もある。
今はただ、何もせず、何も考えず、時を送るしかない。

嘘と日常

寒い冬がようやく終わり、心地よい春の日差しが窓からこぼれ落ちてくる。

昼下がりのオフィスにカタカタとキーボードを叩く音が響きわたり僕は思わずあくびをする。隣を見ると僕より10歳年上の山田さんもやはり眠そうな目をこすっている。

それにしても。だだっ広い四角い空間の中に、よくもこれだけの人数を集めたものだ。その中のほとんどは派遣社員。自社のオフィスとはいえ、実質は派遣元であるクライアント、オデコム株式会社のものだと言って良い。

この会社で働いている殆どは非正規雇用者だと、松田が言っていた。そういうのって、産業の空洞化っていうんじゃないのと言うと、それは労働力を海外の低賃金の現地人に頼ってる企業のことだから正確には違うな、というもっともな返事が返ってきた。そんなことは分かっている。

人を大切にする通信会社という謳い文句の真偽は入社1年目て明らかになった。むしろいま、派遣の人達が隔絶された空間で奴隷のように働かされている光景は、賽の河原を思わせる。だとしたらこれは地獄絵図ではないか。

ふと山田さんのことを考える。彼はリーダー的役割を担っているとはいえ、やはり派遣社員だ。こうなると雇用形態は能力を表しているわけではないのは明らかだ。正社員の僕は彼には敵わないと感じている。彼は隣で何を考えながら仕事をしているのだろうか?絶望とか希望とか、そういうことを考えたりしてるのだろうか?そんなことが頭をよぎった矢先、タイミングよく山田さんが話しかけてきた。
「遼さんは昨日何か嘘をついたの?」
「え?」
「昨日。エイプリルフールだったでしょ?」
「ああ」
そうだ。そんなこと長い間意識していなかった。
なんとなく浮かんだ言葉を口にした。
「自分に嘘をつきました。」
即座に正面のパソコンの陰から顔をのぞかせた佐山さんが笑みを浮かべる。彼女は契約社員。
「うまい」
確かにハマった気がして自尊心が少しだけ癒えた気がする。
隣の山田さんも、ははっと笑って口を揃えた。
「確かに」
そうだ。僕たちはどこかで自分の気持ちをごまかしながら、働いたり、遊んだりして生きているのではないか?誰にでもできる仕事に誇りを持てるはずもないから、せめてもの救いは夢を持つことだ。夢でなくても希望を持つことだ。
こんなところで終わりにしたくない。
その気持ちを否定したとき、崩れ落ちる何かがあるのだと思う。
自分に嘘をつきながら長い間、そうやって生かされている。

でも本当はどうなのだろう?
僕は本当は何がしたいのか。抑えつけた感情が、関を切ったように溢れ出そうな気がする。
でも、それにさえ僕は怯えている。

恢復

風呂上がりの上気した肌が4月初旬の心地よい夜風に触れ、気持ちが次第に晴れていくのを感じる。最近になって当たり前のように訪れたこの高揚がたまらなく愛おしく、私は僅かに湿気をはらんだ髪の毛を弄んでいる。確固とした日々を築けていけている。
とはいえ、初春だというのにまだ寒さが残っているものだから、どこか違和感があった。
あるいはそれは、今日の昼間、渋谷のスクランブル交差点で見かけたあの人の面影のせいかもしれない。もう忘れて何年も経っているというのに、体だけは嘘をつけないようだ。
考えてみればとっくの昔に終わったことだ。だが、ほんの昨日まで、夢の中のできごとのように色あせていた記憶が、再び息を吹き返した。交差点でみた人があの人だなんてそんな偶然ってあるのかしら。にもかかわらず、否応にも蘇る懐かしくも狂おしい胸騒ぎが私を少し不安にさせているようだった。
蛇のような執念であなたにしがみついていた私は、蛇のように素早く、あなたから去っていった。でもーもしあなたがこの街にいるのだとしたら。押し寄せる感情がまた私を飲み込んでしまうのかもしれない。ただ、それをどこか期待している自分がいる。

再会

こんなことをしているのは自分でもどうかと思う。

気がつくと彼のことをつけていた。いつも彼は渋谷の交差点を午前8時40分に横断する。もちろん少し誤差はある。が、きっといつも同じ電車に乗って通勤しているに違いない。
そういえば。デートの時、いつも遅刻するのは私の方だった。
別にルーズとかそういうことじゃない。家族が荒れているからどうしても好きな時間に外出できないのだった。そんなこと彼には言っていないけど、彼は気がついてくれていただろうか?
もちろん、彼に話した記憶はないのでそれは求め過ぎかもしれない。
だけど逢瀬を重ねる度に求めあう心は時に相手の気持ちを束縛する。どんどん欲張りになる。
こうやって少しずつすれ違っていったのだなと、懐かしいような、少し面はゆい気持ちになった。自分の頬がほころんでいるのが分かる気がして表情を改める。だが、少なくともそういう気持ちになれたことがわかり、なんだかとても嬉しい。
次の瞬間、露地へと続く道へ彼は左折した。
おかしい。そっちは行き止まりだ。
それが何を意味するかはすぐには気づけなかったのは、笑みがこぼれた後とはいえ、緊張していたからに違いない。

自分も左折しようとしたところ。彼と鉢合わせになった。
正確にいえば彼は尾行されているのに気づき、待ち伏せしたのだった。
不意に向き合う形になった彼は静かにこちらを見ていた。
「やっぱり、あかりか。」
低い声が妙に懐かしく感じる。
低くて少し甘えるような声。
不器用に構える表情。
例えば空間をさまようように時間をさまようことができるのなら、私たちはきっと昔の場所に戻ったのだと思う。
輪廻とかよくわからないけれど、過去にタイムスリップしたとかそんな大げさな説明よりも、例えば子供の頃に遊んだ公園を訪れたような懐かしさにも似た感覚。そんな表現の方がしっくりくる。

だから、ただいま。

彼の長いまつげが少し湿っている気がした。が、それはもしかしたら私の視界の方が曇っていたからかもしれない。

「仕事までまだ少し時間があるから、喫茶店にでも入るか。」

そういう彼はもう社会人としての風格を身につけており、昔よりも遠くにいるような気がした。
刹那、私は埋まらない時間を空間で埋めようと彼に近づく。
自分でもびっくりしたけれど、ごく自然に私は彼の首に腕をまわし、キスした。彼は微動だにせずにただ身を任せたが、顔を遠ざけた私が見つめると口元に笑みを浮かべてくれた。
ただ、その笑みに滲んでいたのは、夕暮れを見るような、はかなさと寂しさ、そして失われたものに対する諦観に思えてならなかった。

1999年10月27日

君はまだ覚えているだろうか?
1999年10月27日。初めて口づけを交わした記念すべき日だ。僕らは言葉少なに歩き、それでいて繋いだ手を握りしめ合い、いつものジャズ喫茶に向かった。レポートを書かなければならないという君を、僕が強引に誘ったのだった。
少し重いドアを開けると2人の急展開をよそに、ジャズ喫茶にはいつもと同じ空気が流れていた。ソファのあるテーブル席に腰掛けるなり、君は教科書を取り出し、資料を読みふけり、やがてペンを走らせた。
この子は仕事のできる子になりそうだな、と朧気ながらに思ったのを覚えている。でも、さっきのキスを覚えていてくれているのか、わからない。こっちまで、あれは夢とか幻想の類いだったのではないかと思えてくる。

不意に、ペンが止まった。
店内に流れる曲がボサノバに変わっている。
彼女が「アントニオズソング」に耳を傾けているのは明白だった。
「この歌…知ってる?」
僕が聞くと君は黙って口元に笑みを浮かべながら首を縦にふる。

ボサノバの歴史はそれほど古くない。
アントニオ・カルロス・ジョビンというブラジル人が、1950年代に生み出した楽曲が初めだと言われている。彼は文明が発展する中で人の心がいかに乾いてしまうか、そして自然や歌や踊りがいかに人の心を癒してくれるかを歌い続けた。それに敬意を表してマイケル・フランクスが作曲したのがアントニオズソングである。

口づけを交わしてから途切れていた会話が再開し、僕らは饒舌に語りあった。
物質的なものがいかに味気ないものか、そしてそれにより乾いてしまった人の心を自然や歌や踊りがいかに癒してくれるか。

中でも2人が口を揃えて好きな部分だと言ったのが、

“アントニオは喜びが痛みから生まれることを知っている”

というくだりだ。
それは僕らの境遇を正当化してくれるものにも思えた。
僕らはいつも拠り所となるものをさがしていたのだ。
気だるくて緩めのメロディと静かな情熱を秘めるギターのアルペジオ。歌詞に込められた暗喩が琴線に触れるのだった。
ボサノバの話をしているうちに音楽全般に話題が及んだ。
二人とも暗くて哀しい曲が好きだという点で意気投合する。たとえばアントニオズソングもそんな感じだよね、と。
印象に残ってる洋楽の話になり、その中でエリッカルメンの名が出た。彼の代表曲である"All By Myself"の歌詞は極端に思えるほど哀しい。ーでも、本当に一生独りだなんてありえるのかな?
そういうと君の声が震え始めたんだ。
「怖いよ、独りになってしまうのが」
そう言う君は本当に孤独を怖れているようだった。”All by myself ってその…自慰行為も含めてということだろ?確かにそう考えると深い絶望感に苛まれる。とはいえ、どうしてそこまで絶望しなければならないのか、その時の僕には想像もできなかった。
君がそんなことよりももっと深いところで傷ついていることはその後、裏手にあるラブホテルに行った時に分かったんだ。

暗闇

ホテルの薄暗い受付で部屋を適当に選ぶと、あかりは体を密着させてきて離そうとしない。セーターの裾を強く引っ張り続けるから、ほつれないか心配なくらいだ。むろん、喜びと切なさを浮かべる瞼に強烈な性欲がせりあがってくる。
オートロックのドアを開け、部屋に入り、それが自然に閉まるか閉まらないかのうちに堰を切ったように服を脱いだ二人は、布団に潜り込む余裕さえもなく唇を重ね、互いの体を愛撫し、熱くなるものを持て余しながらも放出した。
結局、人間はこの快感を失った時、生きる意味さえをも失うのではないかと思うような時間だった。
そのあと二人でベッドに腰かけ、身を寄せ合ってボーっとしていた。
ピチュピチュとスズメたちの鳴くのがどこかアンバランスな世界を思わせた。

しかし、次の瞬間にあかりが告白したことが何を意味するか、僕はしばらく考えなければならなかったし、それは実はこの後もずっと理解できないでいたことだった。
彼女は言ったのだ…

「私、子供って嫌い」

愛し合った後だったし、なんの脈絡のない内容に思え、スルーすることにした。子供が嫌いだという彼女に少しがっかりしたのも事実だ。
だが。僕はその意味を彼女に追及すべきだったのだ。これから先ずっとあかりが背負っていく現実の半分を僕が肩代わりするべきだった。

エピローグ

海をみている。

潮騒。海鳥の声。どこまでも青い空。
そして…波打ち際ではあかり達がはしゃいでいるのが見える。

「コウタロウ、こっちおいで」
大きく声を張り上げ、全速力で走ってきたコウタロウを抱きかかえた。
「くすぐったいよ、コウタロウ。」

はしゃぎ疲れたあかりも砂に足をとられながら歩いてくると、
僕の前で座り込み、少しの間、天を仰いだ。

「ねえ、幸せっていいものね」
しばらくして独り言みたいに呟いたあかりが、気が付くと僕を見つめている。
歳のわりにはあどけない顔が少し滲んでみえた。
コウタロウも嬉しそうに尻尾を振っている。

僕は言う。
「当たり前じゃないか」

アンチェインド・ストーリー

後で書く予定です。

アンチェインド・ストーリー

結末が楽しみな恋愛小説

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 哀しみ
  3. 夢うつつ
  4. フラジャイル
  5. ジャズ喫茶
  6. 異国情緒
  7. 最後の夜
  8. 喪失
  9. ノイズ
  10. 静かな生活
  11. 嘘と日常
  12. 恢復
  13. 再会
  14. 1999年10月27日
  15. 暗闇
  16. エピローグ