檸檬と愛を持って

黒瀬あや

古川本舗の楽曲をもとに紡ぐ物語
『親愛なる、』寄稿作品

「おはよう、エマ」

二人がはなればなれになったのも、今日みたいな春一番が季節の入り口を吹き抜けていくような、そんな時期だった。


君がいなくなった次の春、君の好きだった海の見える小高い丘に檸檬の木を植えた。その一番高い所に、ぽつりと存在するベンチに腰を下ろして静かに本のページを捲る君の姿を盗み見るのが好きだった。

何処までも、曇りなく澄んだ人だったと思う。


君の周りだけ時間がゆっくりと流れているみたいで、海風でさえ君の横だけは柔らかくすり抜けていくみたいで、確かに君と僕は一緒にいるはずなのに、まるで二人が違う世界を歩いているような錯覚に落ちることがあった。そして、いつだって僕を映す硝子のような双眸は儚く消えてしまいそうで、漠然とした恐怖を覚えることもあった。



――あれから気が付けば5年が過ぎていた。今年こそは、実をつけてくれるだろうか。


君はいなくなってしまう前に“貴方には無理よ”なんて言って、すっかり白くなってしまった眉尻を下げて笑い、庭の檸檬の木を全て刈り取ってしまったのだから酷い話だ。けれど、あながち間違ってはいないから、僕は中々実をつけない木を眺めながら苦笑いを浮かべるしかない。




少しだけ、昔話をしよう。


君が貿易業を営む父親に連れられてこの国に来たのは、確か21歳の頃だったかな。
当時は異国人を見る機会は滅多になかったため、街は途端に君の話題で騒がしくなった。対面する機会なんて皆無に等しいと分かり切ってはいるのに、噂に聞く度に掴み所のない焦燥と好奇心が胸の中で膨れ上がって渦巻いていた。


あの日、偶然にも友人と別れていつもと違う道で帰路へとついた。そして、街の建物が密集する区画を抜けて、田畑が広がる開放的な道へと差し掛かった。

と、すぐに視界の隅で撓わに実った檸檬を一つずつ丁寧に収穫しては、自分の着ている白いエプロンを寄せて作った臨時の収納場所へと入れていく姿を見つけたのだ。歩み寄る僕の存在に気付いた君は、驚いたように目を見開き、やがてあどけない微笑を浮かべてから控えめに“hello”と呟いた。光を沢山含んだ柔らかな髪の毛や、グーズベリーの色をした瞳、鼓膜を揺らした不確かな異国語は僕の胸にあらゆる感情を植え付けた。


君を好きになることに時間は要らなかった。きっと、これは出会った瞬間に決まっていたことなのだ。僕にとっては、最高に幸せな人生の始まりだった。



「Please smile at me for the rest of my life. Can you marry me?」
――これからの僕の人生に、どうかあなたの笑顔をください。結婚してくれませんか?


出会って3年目の春、僕たちは結婚した。

彼女と言葉を交わすために、存在すら忘れられて物置の奥底に眠っていた英和辞典を引っ張り出してきた埃っぽい薄紙を何度も何度も捲り、目星い単語を拾い上げていく。そうしてボロボロになった辞典とは裏腹に、紡いだプロポーズの言葉はロマンチックなものでも何でもなくて無難なものになってしまった。そのかわり、光をキラキラと反射する灰緑色の瞳を、初めて真っ直ぐに見つめた。



それから海の見える丘の下に、檸檬の庭のある家を建てた。その傍らには小さなカフェを開いて、二人でほそぼそと穏やかに切り盛りをしていた。君が収穫したての檸檬で焼くタルト・オ・シトロンは、本当に美味しかった。試しに僕が焼いてみても、君の足元にも及ばなかったね。甘いものはあまり得意ではない僕でも、君のそれだけは大好きだったんだ。


二人の間に子供はいなかったけれど、街の人々や犬のジョン、猫のハナに囲まれて賑やかで幸せな毎日だったと思う。



何年、一緒にいたのだろうか。決して短くはないはずだ。それなのに駆け抜けるように過ぎ去ってしまった。お互いいつの間にか皺が増えて、髪の毛だって白くなって。それでも君の綺麗に澄んだ淡い翠色の瞳は出会った頃、そのままだった。


僕は君がいなくなってから、君の隣にいることができたから溢れんばかりの幸福を得ていたのだと気付いた。


君がいつも読んでいた此処よりもずっと西の国の本。僕にはその横文字は到底読めなかった。ページを覗き込む度に、君一人をこの国に取り残してしまったことを少し申し訳なく思った。けれど君は、この国も西の国のことも好きだからいいの。と目元の皺を深くして。二つの国に大切な家族ができた私は幸せだと言って、檸檬の花のように可憐に笑った。


出会った頃は想いが伝わらないことが歯痒くて、慣れない英語を必死に勉強しては下手糞な発音や文法で何度も愛の告白をしたし、感謝の言葉だって伝えた。照れくさそうに目を逸らす僕をからかうように笑う君が好きだった。



君が最期に残した言葉 “大好きでした。”

君が何度も読んでいた青い本に挟まれた短い短い、ラブレター。

きっと君のことだから、この手紙だっていつものように変わらない笑顔で綴ったのだろう。



( “I wanted to be with you.”)

それなのに、どうして手紙の隅に涙の跡が滲んでいるのか。

消されているはずなのに、曖昧な輪郭でぼんやりと浮かび上がる一文があるのか。


胸の中から溢れた想いが、温かい一粒になって流れ落ちた。やがて、くたびれた茶色のシャツにいくつかの濃い模様を作っていく。春の風は存外優しく吹いて、何処からかあるはずのない檸檬の仄かな酸味と甘さを含む香りを運んでくる。


もっと、君と話をしたかった。言葉を交わさなくてもお互いの心中が理解できるなんて、ただの傲慢だった。すっかりと日本語が上手になった君に、僕は安心して甘えていたのかもしれない。


長い間一緒に隣を歩いていたとしても言葉は音にして紡がなければ伝わらないことばかりで、思い返せば後悔だらけだった。君は幸せだった?なんて聞いたら、勿論と言っていつものように柔く笑むかもしれないけれど。



――それでも、もっと幸せにしたかったよ。明日も僕の隣で笑っていて欲しかったよ。




君と初めて出会ったのは、そう。今日みたいな、街が冷気と寂寥を孕んだ秋の終わりだった。

7年目の秋、漸く一つの檸檬が実をつけた。随分と長い時間がかかってしまった。君は待ち草臥れただろうか。


いつも君が読んでいた本は、今日も静かにベンチに置いてある。ふわり、と風がそれを煽ってページが進んで行く。その隣に軋む膝を庇いながらそっと腰を下ろすと、とても心地の良い眠気に襲われた。

……きっと、これも始めから決まっていたことだった。此処が二人の終着点、そして始まりの場所。

落ちる瞼に抗おうと目を擦るが、次第にその腕からも力が抜けていく。そして、訪れた波一つ立たない海のような穏やかさに、嗚呼君もこんな気分だったのかな、と思うと少しだけ満たされた。


ふ、と鼻腔をくすぐった檸檬の瑞々しさと甘くて香ばしいタルトの匂い。

もう、毎日魔法のピンクのドアが欲しいなんて思わなくて良さそうだ。


君に届け損なった本。冷たい風が、最後のページを捲った。あの時の走書きはすっかりと色褪せてしまった、君に最期まで伝えられなかった言葉。
今度こそ、心からの思慕と本に綴ったささやかなラブレターを持って会いに行くから。


君に逢ったらまずは何を伝えようか。
……そうだな、まずは。



「ありがとう」


そして


「これからも、愛している」 と。

檸檬と愛を持って

檸檬と愛を持って

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-13

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