ブルーブラック

辟易

途方もない罪悪感が、あの日から僕を取り巻いている。教え子にキスをされたくらいで、僕のすべてが動揺した。

 藍は僕の白衣の袖をぎゅっとつまんで、もたれかかるようにして唇を寄せてきた。
彼女に好意を持たれている事に気が付かなかったわけではない。そんな予感はいつもそばにあった。
 高校生が教師に恋心を抱く事なんて、そう珍しくもない。数学の田中先生も、新任時に受け持った生徒が今の奥さんだし、歓迎ムードはこそないものの、掘り起こせばそんなネタはごろごろしている。
それでも僕は、自分には関係のないことだと思っていた。卒業時にたまにもらう女子生徒の妄想のいっぱい詰まったラブレターだって、子供の戯れだと思ってほほえましく感じていた。
 二十八歳で大学院の同級生だった梨香と結婚して、その二年後、彼女の不貞で離婚した。職場も同じだったので彼女と顔を合わせるのも苦しくなって発作的に離職して、高校の生物の教師になった。今年で五年目になる。慣れない職場で四苦八苦しているうちに、傷は癒えると踏んでいた。確かに日々の業務に追われて梨香は過去に去って行ったが、教師と言う仕事に慣れた頃、僕は美術教師の祥子と恋仲になった。不倫だった。人妻の祥子との逢瀬は僕を蝕み、毎日を味気ないものに感じさせた。でもそれは僕にとって限りなく居心地の良い場所になってしまっていた。
 そんな薄汚れた僕の腕にしがみつき、藍は僕にキスをした後、
「タバコの味がするね、先生」
と言ってはにかんだ。僕はそれ以上彼女の目を見ることが出来ずに、眉間にしわを寄せて藍の腕を振り払って意味もなく机に広げたままの書類の角を整えた。
「ごめんなさい」
僕の耳にかすかに藍がそう言ったように聞こえた。
 そして、その日から僕は祥子を抱けなくなった。

 生物部の紅一点だった藍は、口数は少ないものの遠慮がちにもかいがいしく僕の世話を焼いてくれた。そして僕も彼女の好意を疎ましく感じたことはない。けれど、そういった少女特有の幼い恋愛感情が僕の心を侵食するとは夢にも思っていなかった。僕はその幼さに見え隠れする藍の女の部分を見過ごしていたのかもしれない。そしてその油断を藍は見逃さなかったのだろう。いや、もしかしたら僕の油断を故意に誘発したのかもしれない。
「岡島先生」
近寄ってくる藍に気づきながらも、僕はパソコンの画面から顔を上げることができない。
「文化祭の企画、まとめておいたので……」
「あとで目を通すから、そこに置いといて」
三十半ばの男が、女子高生相手に何、赤くなったり青くなったりしているのだ……そう僕の中の別の僕が冷やかに笑う。キーボードを打つ指先に思わず力が入る。
「はい」
抱いていた書類を机に伏せ、藍は戸惑いながらもすぐに生物室を後にした。パタパタと藍の上履きの音が遠ざかる。
 きっとそうだ。僕も藍に好意がある。それなのに、それを受け入れられずにいるのだ。歳の差か、教師と生徒だからか、祥子との汚れた逢瀬のせいか。違う。もっと強い何かがひっかかり、僕は藍を受け入れられないでいる。
 藍の置いて行った書類に目を落とした。右上がりのシャープペンシルの文字が行儀よく並んでいる。生物室の壁にどのように掲示物を張って目を引くかが図で描かれていた。かわいらしいイラストに思わず目じりが緩む。二ページまで読み進めると、最後の一枚がないことに気が付いた。あたりを見回しふと振り返ると、一枚の紙をひらめかせながら藍が立っていた。
「最後のページがノートに張り付いてて……」
硬い表情のままの藍は僕に近づくのもためらっている。
「良くできてるよ」
藍の頬はまだこわばっている。
「ひとりでまとめたの?」
藍は頷くだけだ。僕はゆっくり息を吐くと、立ち上がり藍に近づき最後のページを受け取った。藍はうつむいたまま、もう僕を見ようとはしなかった。嫌われたか、あきれられたか。でも、どこかほっとしたような気がした。藍の髪が西日を受けてオレンジ色に光っている。そのオレンジ色が僕の心を溶かし始め、フリーズした理性を避けて胸の奥から湧き出てくるようにして藍に触れてみたい衝動が溢れ、僕は藍の頭に手を伸ばした。藍は少しだけ首をすくめ、それでも僕の手のひらを黙って受け入れた。藍は僕の手から伝わる熱を感じているのか、ゆっくりと目を閉じた。藍のその無防備な様子に、僕はもう服従するしかなかった。僕がその感情に触れてから、徐々に理性が戻り始めてくすみを帯び始める。僕の心の小さな動きを感じたのか、藍は目を開けて僕を不安げに見上げた。この視線の先に自分がいると思うととてもくすぐったく思えて張りつめた糸がたわんだ。その瞬間に、どちらからともなく笑った。そうして僕は、長い長い鬱々としたトンネルからようやく光を得たのだ。




 

子は鎹

 僕と藍の関係を恋愛のくくりに入れるまでには、まだ少し時間がかかった。両端から火花が走るような恋愛ではなく、進むことをためらい、どちらかといえばその場にとどまっていたいような気持もあった。それは僕だけではなかったように思う。僕は単純に藍の卒業を待たないとどうにもなれない気持ちもあったし、祥子とのことも清算したかった。
 祥子は言葉では僕の選択を受け入れながら、僕との関係に執着した。細い身体と小さなそばかす、甘い鳴き声。自分の持っているすべてで僕を縛り付けた。湿気たホテルの一室で、僕は祥子と絡まりながら泣きたくなった。その翌日、何も知らない藍が、僕の白衣の胸ポケットから愛用の万年筆を取り上げては脱力するようなイラストをコピー用紙の裏に書いては僕を困らせて笑うのだ。
「私、達哉君がいるから夫となんとかやっていけてるんだよ」
不妊治療に疲れ果てている祥子は、僕との情事の後決まってそう言って涙ぐむ。そして僕の唇からタバコを奪い、匂いが付くからイヤだと眉をしかめる。祥子にとってその何物でもない僕と言う人間の居場所が今までは心地良かったのだが、今では外も見えない一室で見るのは時計ばかり。思うのは藍の事ばかりだった。祥子との別れ話は平行線のまま解決したとは言い難かったが、僕が頑なに拒んだので祥子も観念したのか、身体に触れ合うことはなくなった。少しずつ連絡を取ることも少なくなっていった。
 僕に気を許したような屈託のない笑顔を見せる一方で、藍は時々黙り込むことがあった。そんな時は決まって僕たちは窓の外の桜の木をぼんやりと眺めた。生物室の窓から見える桜の木は幹が主で、桜の季節には上の階の美術室からのほうが長めが良い。それでも僕らのことを覆うように生える桜に親近感を覚えていた。
「先生の万年筆って、黒じゃないんだね」
藍が自分の落書きを見ながらしみじみと言う。
「ブルーブラックって言うんだよ」
藍は万年筆を握り直し、自分の名前を一画一画丁寧に書いている。
「相澤藍……そうか、藍ってこの字か」
「ラブの方だと思ってた?よく言われる」
「藍色の藍か」
僕も藍から万年筆を受け取るついでに自分の名前も並べて書いてみた。
「岡島先生は、達哉君か」
生物室の脇にあるガス台で沸かしていたやかんが焼きもちでも焼くかのようにしゅんしゅんと蒸気を吐いている。火を止めに立ち上がろうとした僕の指から再び万年筆を奪い、藍が並んだ名前に相合傘を書き入れて笑った。僕はやかんを気にかけながらも、藍に顔を寄せてキスをしようとすると藍はとっさにうつむいて逃げた。僕はもう一度藍に顔を寄せる。
「先生、誰かに見られちゃうよ」
藍はそう言って僕の体を押しのけた。ああ、そうかと言いながらやかんの火を止める。我に返って、我を忘れていたことを知り動揺する。コの字型の校舎の窓際。リスクが高すぎる。ドリッパーにコーヒーの粉を入れてお湯を注いだ。湯気とともにコーヒーの香りが教室中に広まった。藍も鼻を近づけてはいい香りとしきりにつぶやいている。白衣のポケットに突っこんだままの左手を藍の冷たい指先がからみついてきた。視線は湯気を追ったままだ。
「寒い?」
藍は首を振る。そしてまた黙ってしまった。僕は藍を横目で見ながらどうしてもその唇を追ってしまう自分に笑えてきた。高校の頃だったか、初めてできたガールフレンドの唇をいつ奪おうかとタイミングを計りかねているあの時の自分と何にも変わっていない。焦る必要なんてないのに。ブラックのコーヒーをすする。藍はそこに牛乳を足してゆっくり口に含んだ。それからまた桜の木に目をやった。
 
 藍が重い口を開いたのは卒業式まであとわずかとなった三月初旬の事だった。僕らが恋愛関係を意識するのは相変わらず僕の白衣のポケットの中だけだったし、外で会うこともなければ電話で話したこともない。唯一進展があったとすれば寝る前の「おやすみメール」くらいだ。
「子は鎹って、嘘だよね」
唐突に藍が言った。
「急にどうしたの」
あいまいな笑みを浮かべたまま、藍はこう続けた。
「うちね、離婚するの。二年くらい別居してたんだけど、もうダメみたい」
「どうしてって、聞いていいのかな」
藍は笑って頷き、
「パパに女の人ができたんだよ、だから一度別れるってなったんだけど、ママが納得できないって言って硬直状態になっちゃってたんだけど、でも……」
藍は唇をかんだ。
「もう子供がいて、二歳になるんだって」
うつむいたまま、駆け抜けるように思いを吐露した。
「パパとママって大学の同級生で、私が出来ちゃったからの学生結婚なのね。別居する少し前に、パパがママに責任は果たしたって何度も言ってるのが聞こえて、それって今思うと私の事だったのかなあって」
それから藍はうるんだ目を振り切るようにして首を振り口角をあげた。
「離婚が嫌とか、私が産まれた経緯とかそれは良いんだ……それよりも、私、パパに愛情もらったって感じてるんだけど、男の人はそういう……またべつの思考があるのかなって思って混乱しちゃってるんだと思う。その子のだいたいの誕生日聞いたら、ああ、あの頃にパパは……って考えちゃったり。幼いのかな。でも、やっぱり、どういうつもりでって考えちゃうと、やっぱり、やだな」
僕は言葉に詰まり、苦笑いを誘った。
「罪悪感があるかないかで、ずいぶん違うんじゃないかな。された方はなかなか相手をすぐに許すことはできないだろうけど、その不貞が後々当事者を苦しめてるってこともあると思うから、それはようするに罪悪感があるかないかであって……」
「罪悪感か……あるのかな、パパにも」
「世の中にはそういうこと、無数にある。でも、藍はそれで良いんじゃない。幼くて良い。受け入れられないって思えば突っぱねれば良い。それで良いんだよ」
大人になることに躊躇している藍の背中を僕は無責任に押すことはできなかった。僕は深く息を吐いて腕を組み背もたれにもたれかかった。藍は滑り落ちてくる髪を耳にかけながら僕を見た。不安に笑顔のヴェールをまとわせたようなその表情は、大人になる覚悟を決めたかのようにも見えた。
「先生、祥子先生のこと好き?」
「え?」
僕は嘘がうまくない。みるみるうちに自分のの頬がこわばっていくのを感じた。藍の茶色味のかかった目に吸い込まれそうであわててコントロールを取り戻そうとするのだが、祥子の肌のぬくもりと苦い感傷が邪魔をする。順風満帆だったのだと失うまで気づかなかった幼稚な自分自身と、不貞をした梨花への恨み方さえ分からずにいたあの日のきつい西日の暑さ。そのすべてが、藍に露呈されてゆく。僕は覚悟を決めかねて眉を寄せうつむいた。そんな僕に、藍はもう一度たずねてきた。祥子が好きかと。
「好きなんだと思うよ」
そう言わないと僕の中で成立しない。
「今も?」
「ああ、たぶん」
「じゃあ……」
「何が言いんだよ」
僕は藍の言葉を遮った。そして空気が冷え固まり始めるのだ。僕は嘘が下手ではあるが、この空気に藍をさらしたままでいられるほど臆病ではないはずだ。そう自分を奮い立たせ、僕は勇気を振り絞って藍を見た。
「最初は奪ってやるような、そんな気持ちもあったんだよ。彼女、長いこと不妊治療してて疲れてる感じでもあったし。僕と一緒にいて彼女が救われるならそれでいいみたいな気持にもなったし。でも……」
僕は藍の表情を横目で確認しながら言葉を続けた。
「でも、ダメなんだよ。あの、匂いが」
「何の匂い?」
「ラブホテルの湿気た匂い。自分がカビていくようで、耐えられないんだ。選択肢がほかにもある関係ならそんな風にも思わなかったのかもしれないけど、相澤に……藍とキスしてから、藍の事しか考えられないでいるんだ。だから、今、祥子がどうのって聞かれても他のことが深く考えられないんだよ」
自分の言葉に僕は頭を抱えた。
「何を言ってんだ、僕は。生徒相手に……」
「不思議だね、先生が普通の男の子に見える」
藍はそう言って無邪気に笑い、僕の頭をぎこちなく撫でた。そうされてようやく僕は本音を漏らすことができた。
「藍、好きだよ」
藍は少し驚いたように見えたが、すぐに照れた様子でふにゃっと笑って見せた。

ホームグラウンド

 目を覚ますと見覚えのある天井のこげ茶色の染みが目に入ってきて、ここは実家なのだと実感する。離婚後の初めての帰省だった。大学に入り東京で暮らすことになるまで毎日使っていたベッドに藍が寝息を立てている光景がなんとも不思議で、ベッドの横に敷いた布団の上で僕はタバコをふかしながらそれをしばらく見つめていた。
 高校を卒業して藍は短大生になった。ほんの数か月の違いなのに髪を少し切っただけで藍の幼さは薄らぎ、五月の連休を迎えるころには僕自身も歳の差が気にならないようになっていた。それでも僕は藍に触れることが憚られた。いまだに僕のことを藍が「先生」と呼ぶこともその一因かもしれないが、お互いに今は居心地の良いポジションを探している最中なのだろう。
 僕の実家が千葉の館山だと知ると藍は目を輝かせて、行きたいと言った。海が見たいというのだ。僕は迷った。離婚以来、実家の両親に合わせる顔がなくて戻ることを避けていた。離婚のことで咎められることはないのだろうとわかってはいるのだが、小中高といわゆる優等生であった僕にとって、妻の不貞で離婚したという事実を両親と向き合って話すことなどできず、要するにつまらないプライドで不義理をしてきていたのだ。それは地元の友人たちにも同様で、僕が離婚して失ったものと言うのは妻というよりも家族・友人だろう。敷居が高くて迷っている僕に、藍は、
「館山の海が見たい」
と僕にせがんだのだ。藍を海を口実に僕は今ここにいる。
 僕の両親は再婚で、実の母ががんでなくなってから数年後に母の妹である叔母にすすめられて父はお見合いをして再婚に至った。僕の継母である慶子さんは明るい女性で家庭的だった。もともと口数の少ない父だったので、思春期の会話はもっぱら慶子さんだった。彼女に育てられたといっても過言ではない。僕が結婚を決めたとき、わずかに難色を示したのも慶子さんだけだった。
「達哉君の雰囲気と違う感じの娘ね」
そう言ってコーヒーをすすった慶子さんの横顔に僕は胸が少しだけざわついたのを覚えている。大学教授のひとり娘で利発で明るい梨花は僕の自慢だった。ファニーフェイスに鼻にかかった高い声。僕は梨花に夢中だった。梨花の趣味に服を合わせ、なんでも梨花の言いなりだった。そんな僕の様子に、慶子さんは何かを感じ取っていたのかもしれない。
 だからだろうか。僕は藍を実家に連れて行くことに不安を感じていた。女の勘が怖かった。慶子さんに、今の僕はどううつるのだろう。
 タバコをもみ消そうと腕を伸ばすと、藍が寝返りを打って目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃった?」
「今何時?」
僕は布団の脇に置いた腕時計を確認した。
「もうすぐ五時になる」
「もう少し寝ててもいい?」
朝の海が見たいと言っていた藍はそれが気になっているようだった。
「いいよ、まだ早いから」
「先生は?」
「僕は、もう眠れないから新聞でも取ってこようかな」
そう言って立ち上がると、藍がすかさず僕のスエットの裾を引っ張った。
「やだ、ここにいて」
「新聞持ってきたらまた上がってくるよ」
「やだ」
「すぐ戻るって」
「だめ」
仕方なく僕は布団に胡坐をかいて藍を見た。それに安心したのか、藍はゆっくりと目を閉じた。そのまま座っているだけなのもしゃくなので、僕は藍の額を撫でてみた。額から耳へ首へと指先動かすと、藍は首をすくめてキャッキャッと笑った。その唇を僕は自分の唇を押し当ててふさいだ。藍はうそみたいに静かになり僕を受け入れた。僕は藍の布団へもぐりこみ藍を抱きしめて首筋に何度もキスをした。シーツからは日向の香りがして、窓の外ではスズメが小さく騒いでいる。藍の押し殺した声から吐息が漏れて僕の耳にかかる。小さくきしむベッドの上で、僕は夢を見ているようだった。溶けてしまいそうな快楽の中で藍は僕を先生と呼んだ。思わず僕の眼元が緩み笑い声を立てた。
「先生って呼ばないでよ、今は」
藍は苦しそうに頷くだけで僕の胸に顔をうずめた。
 そのままどのくらい時間が過ぎたのだろう。気づくと僕らは絡まったまま眠っていた。台所から漂ってくるパンの香りが鼻をくすぐる。藍もこの香りに薄目を開ける。
「いい匂い」
「慶子さんがパン焼いたんだよ、昔から上手なんだ」
照れくささの残る中、僕たちは着替えを済ませ階段下のしあわせな香りに吸い込まれた行った。

不義理

 台所で寄り添う二人の影。僕はそれをおやじの夕刊の隙間から盗み見ている。立ち止まり何かを話したと思ったら、
「あー、だめだめ」
と慶子さん。
「ごめんなさーい」
と藍。
そして何かをささやき合っては笑う。夕方のニュースは耳に入らないし、手持無沙汰でキョロキョロとしていると、おやじがにやにやと瓶ビールを持ちコップを持てと促す。
「かわいい子じゃないか、素直で」
「ああ、まあ。あ、僕は良いよ、出かけるかもしれないし」
「そうか」
何年ぶりかでおやじの顔を見た。薄くなったなと目線を上げると、すかさず、
「もうおっさんだな」
と言って僕を笑った。
 もこもことした鉤針編みの小物たちの中で、おやじは藍の切った不揃いなきゅうりに目を細めている。
 慶子さんが藍をどう思うんだろう……そんな不安はすでに払拭された。台所ではできそこないの藍が、かわいくて仕方ないらしい。
「藍ちゃん、こう持つの包丁は」
「えー、怖い」
「そんなもち方してる方が見てるこっちが怖いわよ」
そんな二人のやり取りを聞きながら、もうすぐ六時を示す時計を見てずっと心に残っていた気がかりについてぼんやりと考えていた。チェックインが落ち着いた頃だろうか、連休中日だから旅館は書き入れ時だろう。そのあとは夕飯になるだろうから、まだ忙しさのピークは続くだろうか。いや、夕飯の支度は仲居さんたちだろうからかえって夕飯時のほうが良いのかもしれない。
「大輔のとこには行ったのか?心配してたぞ、あいつ」
急に黙った僕の心を見透かしたかのように、おやじが大輔の名前を口にした。
「ああ……」
藍は真剣なまなざしでじゃがいもの皮剥きに挑んでいる様子で、代わりに慶子さんが、
「まだ夕飯できるには時間かかりそうだし、ちょっとでも顔だしてきたら」
僕はそう背中を押されようやく重い腰を上げて、大輔の継いだ旅館まで車を走らせた。
 大輔とは中学からの付き合いで、実家はこのあたりではわりと大きな旅館の跡取りだった。大輔は高校を卒業すると大学へは行かず、すぐに実家の旅館の調理場へ入った。いよいよというその前日、本当は車に関わる仕事がしたかったと言って悔しそうに唇をかんだ。単車を乗り回しては親に叱られ、二人でバイクの免許を取りに行き、僕が中古で買ったバイクでガードレールに激突して骨折したこともあった。そんなやつだったから、まさかこのままおとなしく旅館を継ぐとは思ってもいなかった。大輔の悔しそうな顔はあれ以来見たことはないが、だからこそ、あれが本音だったのだろう。
 離婚しただけなら、こんなに僕の心は重くないはずだった。離婚の理由を、僕はまだうまく語れない気がしている。つまらないプライドがそうさせているのだろうけど、教師を続けていると毎日のように思い出すのだ、大輔や仲間たちと過ごした生活を。そんな毎日を浪費するように過ごしていると、たまらなく大輔に会いたくなるのだ。
 薄暗くなった駐車場へ車を止め、宿泊客に混じり玄関に立った。いつも裏口から出入りしていたせいか、緊張を隠せない僕の背中に女性が声をかけた。
「達哉君、だよね?」
振り返ると大きなおなかの仲居姿の女性が立っていた。見覚えのあるえくぼだ。
「かすみちゃん?」
僕たちのひとつ下の学年で、高校のころから大輔と付き合っていて結婚した。大輔に付き合っている子がいるかどうかを聞くために僕は彼女に呼び出された。当時の大輔はとにかくよくモテた。色白で緩めの天然パーマの伸びた色素の薄い茶色い髪。ハーフに間違えられたこともある。そんな見てくれだったので女性の方からアプローチをかけられることは多かったが、大輔の中身と言えば色恋よりも車やバイクのことで頭がいっぱいだった。表だって自分をアピールできないタイプのかすみちゃんはいつも僕の後ろに隠れて大輔に熱い視線をおくっていた。そんな彼女に無神経な大輔は、
「付き合っちゃえば」
と僕とかすみちゃんに向かって笑いながら言い放った。かすみちゃんの眉がみるみるゆがんでゆく。たまらなくなって本音を言いかけた僕をかすみちゃんは止めた。僕はいたたまれなかった。そのあたりからだったろうか。かすみちゃんは僕らのグループに加わらずに一人で帰るようになった。
「あいつは?」
「なんで来ないの」
「休み?」
大輔はかすみちゃんの事ばかり僕に聞く。
「知らねえよ」
それからほどなく、かすみちゃんと野球部のピッチャーが付き合ってるらしいという噂がたった。かすみちゃんは図書館ですれ違った僕に言った。
「ごめんね、達哉君にいやな思いさせちゃって」
「そんなことより、良いの?これで」
かすみちゃんの目がうるんでいる。それでも首をかしげたまま、
「つらいもん」
とつぶやいた。僕はかすみちゃんの腕をとり階段を駆け上がった。教室につくやいなや、僕は大輔を見つけて言った。
「気がないんならないって言ってやれよ、違うならなんとかしてやれよ。見てらんないよ」
「達哉君、もういいってば」
涙声のかすみちゃんが消え入るように言う。教室中の視線が集まる中、大輔は直立してうなだれていた。そして、長い沈黙の後、
「……野球部のアレ、なんなんだよ、お前の」
大輔が口をとがらせてぼそっと言った。
「付き合って欲しいって言われたんだけど、断ったら、友達になってほしいって言われて」
「じゃあ、俺はなんなんだよ、お前の」
「え……」
「だいたい何なんだよ、俺のことが好きとかいいながら達哉のとこばっかり行きやがって」
「だって」
「本当は達哉のことが好きなんだろ」
「違う」
「違うと思うよ、僕も」
僕も思わず口をはさむ。すると周りで聞いていた連中も口々に言いだした。
「違うよ、大輔がその子のこと好きなんだろ」
「俺らにはそうにしか見えねえよ」
「うるせえな」
「じゃあ、嫌いなのー?」
奥にいた女子が間の抜けた感じで問いかける。そうして、大輔はポケットに手を突っ込んだまま、不満そうに小さく首を横に振った。

「何人目?」
「三人目」
かすみちゃんは大きなおなかをさすりながら微笑んだ。口角の脇にきゅっとえくぼができる。
「すげえな、三人目か」
「大輔君、探してくるよ。さっきそのあたりにいたから」
「ああ、いいよ。明日までこっちにいるからまたのぞきに来るよ」
「え、待って。すぐ探すから」
かすみちゃんは大きなおなかで駆け出そうとするので僕はあわてて引き留めた。
「いいよ、いいよ」
「でも……あのね、うちもいろいろあってね。その時も達哉と話したいってずっと言ってたから、絶対会いたいと思うんだよ」
「何かあったの?」
「うん……だからちょっと待ってて、すぐ見つかると思うから……あ」
かすみちゃんの視線の先に、旅館の法被を着た大輔がちょうど奥のエレベーターから降りてきた。
「大ちゃん!」
大輔は携帯電話を耳に当てたまま振り向いた。法被の背中が丸みを帯びたように感じる。ビジネスモードのままこちらに近づいてくる。時折立ち止まり、電話の相手にお辞儀をする姿はおやじさんそっくりだ。ようやく電話を終え、大輔が改めて僕を見た。照れくささではにかむ僕に大輔は、
「おいおいおい、何しちゃってんの。達哉ちゃん」
そう言って両腕を広げておどけて見せたが、大輔の目じりが小さく光っていた。
「久しぶり」
「何が久しぶりだよ、何年経ってると思ってんだよ」
へらっと笑った僕の肩にこぶしをぶつけた。
「時間あるの」
「お前は?」
「大丈夫、もうやることないから。どこか行ってきなよ」
かすみちゃんがすかさず答える。
「じゃあ、どっか行くべ」
「行くべ」

 僕の車に二人で乗り込むと、一気に昔に引き戻された。大輔は勝手にダッシュボードをひっくり返し目についたCDをかけまくった。そしてひとりで
「だっせー」
だの、
「うわー、懐かしー」
だのとぼそぼそとつぶやいた。僕は聞いているのかいないのか、ぼんやりとした表情で運転を続けている。そうしているうちに、大輔は本題に入るのだ。
「かすみん家の父ちゃん、認知症って言われてさ、なんか変だとは思ってたんだけどさ」
「寿司屋だったよな」
「ああ」
「建て替えなかったっけ、店」
「建て替えた、三年前に。まだ働くつもりだったからさ。今も調子のいい時は店に出てんだけどさ、いつどうなるかわかんないじゃん。だからって人雇う余裕もないし、そもそも続けられるのかって話でさ」
「そうだよな」
「うちのおふくろもきっついからさ、かすみにあれやこれや言うんだよ。店売って借金減らしたらどうなんだとかさ、でもさ、おやじがそういう状態になったってだけでもあいつにとってはショックなことだろうし、でもおふくろの言ってることもわかるしさ。うちも従業員抱えてるからさ、そっちの心配だったするし」
「かすみちゃん、なんて言っての」
「離婚して欲しいって」
「えっ!」
「迷惑かけられないって」
「何、お前それ承諾したの」
「するわけねえじゃん、ちびもいるし……でもさ、一瞬よぎったよ。おやじはもう完全に経営に関してはノータッチだからさ、俺の代でどうかするわけにいかねえじゃん。かすみがそれで良いって言うならちびたちだけ引き取ってって……もうさ、そういう発想した時点で俺やばいじゃん」
信号の赤に唇を噛む大輔の顔が照らされている。
「言えねえじゃん、こんなこと誰にも。それなのに、お前はいないし。俺、うっかりお前の父ちゃんに愚痴りそうにまでなったんだぜ」
「病んでるよ」
「病んだよ」
「で、結論は?」
「まあ、もうやるしかねえなってだけだよ。だからの三人目なわけよ」
「だからの?」
「一緒にやってこうなっていう」
僕らは何度か目当ての店の前まで来ては、話の区切りが悪く、何度も近所をぐるぐる回っていた。車を止めると大輔の口も閉じてしまう。でも、さすがに腹も減ってきた。結局、僕の実家によって何か食べることにした。大輔の目的は、食事より藍の方だとは分かっていたが僕は実家に向けて車を滑らせた。その道すがら、大輔は今だからと前置きしたうえでこんなことを言った。
「俺さ、梨花、嫌いだった」
「なんだよ、唐突に」
「男同士でつるむのって、いくつまでやるんだと思う?大輔君?って小首かしげて言うんだよ。こうして」
そう言って梨花の真似をして見せた。確かに彼女が不満を表す時によくするしぐさだった。
「だからさ、知らねえ、墓場までじゃねえのって言ったら、真顔でさ、大輔君って私みたいなタイプ嫌いでしょって言うから嫌いだって言ってやった」
「なんだそれ」
「自分の男の親友に小首なんかかしげるかよ、、普通。変だよあいつ」
僕はもう笑うしかなかった。車が完全に止まる前に、大輔は玄関へと駆け出した。
「さて、藍ちゃんとやらを拝見するか」
そして、当たり前のように僕の実家の玄関を開け、当たり前のようにずかずかとあがりこみ僕の家族から歓迎を受けていた。
「藍は?」
「お風呂、もうすぐ出てくるんじゃないかしら」
「じゃあそれまで軽く飲んで酔うぜ、俺もうのどがからから」
大輔は勝手に冷蔵庫を開け、勝手にグラスを出し、まあまあなどと言いながら調子良く僕にすすめてきた。
「なんでお前なんだよ」
「あれ、知らないの?俺ここの次男坊だよ、ね、慶子さん」
「そうそう、良く働く次男坊なのよね」
 僕が東京でささくれだった心でいる時間、このふたりを和ませていたのは大輔だったのだ。僕は大切なものを失うところだったのだ。一息にグラスのビールを飲み干したせいか、身体が温かくなってきた。そこへ、毛先の湿ったままの藍が顔をのぞかせた。
「藍ちゃんだ!」
大輔のあまりの大声に一瞬、藍は首をすくめたが、その中に僕の顔を見つけて遠慮がちに輪に加わり、僕の隣に腰を下ろした。
「風呂上りで大丈夫?寒くない?」
「うん、先生、いつ帰ってきたの?」
僕らのやり取りを見ていた大輔がすかさず突っ込む。
「先生って呼ばせてんの?」
「呼ばせてるってより、名残だよ」
「藍ちゃん、僕の事も大輔先生って呼んでくれる?よろしく」
藍は戸惑った様子を見せながらもそう言ってふざける大輔に笑顔を見せた。

 大輔は仲良くしているバイトに電話をかけ迎えに来させていた。その車を玄関先で待っている間、
「藍ちゃんは良い子だ、うん」
酔っぱらった大輔は半分眠りながらそう繰り返していた。そして、
「違和感ないなー、うん、全くない」
そうとも繰り返した。
「なんだよ、違和感って」
「達哉はさ、優しいからすぐに相手に合わせようとするんだよ。特に女には甘い。かすみも言ってたけど、おまえみたいなタイプには藍ちゃんみたいな年下が合うんだよ。それもちょっとファザコンかってくらいの」
「ファザコン?」
「藍ちゃんってさ、家庭的に問題ありってとこない?」
僕は思わず大輔を見る。
「何で、何でそう思うの?」
「お前にすごく従順じゃない?」
従順と言われて首をかしげる。
「家庭にあんまり居場所がなくて、お前にだけ認められたとか……」
「認める?」
「そもそもさ、なんでお前なの。他にもいるんだろ、独身の教師」
「まあ……」
「何もさ、十五も違うバツイチじゃなくったって良くねえか」
「……」
僕は酔いのまわった頭をフル回転させて考えてみる。
「お、来た来た」
大輔はふらふらと立ち上がり右手を挙げた。運転席の若い男性は僕に向かって何度も頭を下げた。助手席に腰を下ろした大輔は僕を手招きする。
「何?」
「お前さ、戻って来いよ。俺、何でもするからさ。本当に何でもやるからさ。こっちにいろよ……」
心細いんだよ、最後の言葉はろれつが回らずによく聞き取れなかったが、そういったように聞こえた。
「考えとくよ」
僕はそう濁して答えたが、本当のところ、もう東京に戻りたくはない。でも、大人だからそれは言わない。砂利を踏みしめながらそう思った。今夜は藍と一緒に眠れる最後の夜だ。何か、楽しい話でもしながら眠ることにしよう。僕の足がそう急かしてくる。

父親

 藍の父親に指定された喫茶店で二杯目のコーヒーをすすった。土曜日の日本橋。窓の外は買い物客でにぎわっている。五月の連休から四か月経ち、九月になったといえどもまだまだ暑さは容赦しない。
 藍の父親、卓史さんに呼び出された理由はわかっている。
あの日、藍は東京へ帰ることを頑なに拒んだ。僕は授業があるから休みを延長することができず、藍を慶子さんに任せひとりで東京へ帰ってきたのだ。それから何度か実家へ戻り藍を説得したのだが、藍は譲らず今に至る。短大に休学届は出したものの、一向に戻る気配のない娘を見かねて藍の母親の由美子さんが卓史さんに連絡を取り僕はここへ呼び出されたのだ。
 卓史さんと僕はもちろん初対面だったが、先に着い方が連絡するという取り決めで最初に店に入ったのは僕の方だった。電話にでた卓史さんはあわてた様子で、
「すみません、ちょっと出掛けに来客があったものであと、十五分ほどで着くと思うのですが」
と言って丁寧に謝った。
「いえいえ、ではこのままお待ちしておりますので」
 それから二十分ほどたっている。もうすぐだろうか。そう思ってふと顔を上げるとちょうど電話が鳴った。あたりを見渡すと、ずんぐりとした小柄な男性が人のよさそうな笑みを浮かべてこちらに頭を下げた。
「いや、すいません。呼び出しておいて」
「いえ、こちらこそ」
卓史さんは名刺を差し出し、僕も合わせて差し出した。
「日本橋に事務所があるとは聞いていたのですが、お近くなんですか?」
「ええ、事務所はすぐそこの角を曲がったところで……走ってきたもので、ちょっとお水を一杯……」
タオルで額をぬぐった。眼元が藍似ている。大輔が言っていた、ファザコンな藍ならば卓史さんと僕も似ているのではないかと思っていたのだが、今のところ似ているところは見つけられない。
「……で、どんな様子ですか、藍は」
卓史さんは、運ばれてきたアイスコーヒーに何も入れないまま一気に半分ほど吸い上げてから僕を見た。
「ええ……」
僕は一呼吸おいてから、実家での藍の様子をできるだけ具体的に話して聞かせた。それから、
「悲観的な、現実逃避っていうよりも僕の実家での暮らしが藍さんにとても合っていたっていうことだと思うんです。僕の母が料理とか手芸とか家庭菜園とかそういうものが好きで、そんなものにも魅力を感じたんじゃないですかね。実家に戻るたびに藍さんの腕が上がってきてるのがわかるんですよ。パンなんかも上手に焼くんです。もともとそういうことが好きだったんですかね。僕も最初は田舎の暮らしが物珍しいだけかと思っていたのですが、これだけの時間楽しく過ごしているんだと思うと、僕もそこから引きはがすように無理に東京へ連れて帰る気持にもなれなくて」
卓史さんは腕を組んだままじっと僕の話を聞いていた。アイスコーヒーの氷がカランと音を立ててグラスの中で崩れた。その音につられて、卓史さんはそれを飲み干した。僕もカップのふちにこびりついている冷め切ったコーヒーに口を付けようとしたとき、卓史さんが口を開いた。
「藍の母親は外資系で働いていて、小さいころは本当に時間がなくて、保育園なんかも、私が送り迎えしていたくらいで。私は事務所っていってもおやじの後を継いだだけで大きくすることよりもどれだけ細く長く生き残れるかが指名みたいなもんですから、彼女とはまた違うスタンスなんですけどね。それでも藍が小学校にあがるころなんかはほとんどあいつはひとりで夜を過ごすことが多くて、今先生からうかがうような暮らし方なんさせてこなかったですからね、今一つピンとこないところがあるんですけど、でも……わかるような気もするんです」
卓史の白い歯を見せて柔らかく笑った。
「あいつの母親は今話した通り外資系でしてね、成果主義というか、まあ、厳しいところもあって、彼女から見たら藍はどうも欲のない、悪く言えばどんくさいそんなふうに映ることもあるみたいなんですよね。でも、今の藍の様子を聞いて、そこがあいつのフィールドっていう気持ちもしますね。無理に連れて帰れない、先生のそのお気持ちもわかりますよ」
卓史が一定の理解を示してくれたことで、僕の肩がふっと軽くなったように感じた。そこへ、実はね先生、と話を続けた。
「藍の相手の男性が高校の先生だって聞いてから、私はよからぬことしか想像できなくて、良く三面記事にあるようなあきれた教師の話。そんな類の人物だったら明日にでも藍を連れ戻しに行かなくてはいけないと、ついさっきも由美子と話していたところだったんですよ」
卓史は笑いながら軽く言ったが、僕は少し傷ついた。そういう見方をされても仕方ないことだと理解はしていたものの面と向かって言われるとやはりいい気持ちはしない。
「ご心配おかけしてしまって、すみません」
「いやいや、こちらこそ、娘をどうぞよろしくお願いします」
卓史は立ち上がり、僕に深々と頭を下げ僕は思わずぎょっとしながらもよろよろと立ち上がり、卓史に合わせて頭を下げた。客の数人がちらちらと視線を送る中、僕たちは頭を下げ合っている。

晩餐

 翌年、僕の再就職が決まった。地元の県立高校の物理教師だった。そこは、僕の母校でもあった。以前いた高校と違い進学校であるせいか生徒を比べると淡白に感じることもあったが、僕が卒業生だと知ると皆屈託のない笑顔を浮かべて東京の様子を聞いてきた。そして赴任初年度から担任を持つことになり、水泳部の顧問も任された。在学時に水泳部ったという安易な理由からだたが、僕にとってはそれも新鮮で心地よかった。ただ、休みが減ってしまうことは難点ではあったが、潮風の漂うこの校舎で白衣をまとってせかせかと歩いている自分は好きだった。僕は人生でこんなにも自分に肯定感を持ったことはない。
 仕事を終え自宅に帰ると、風呂上がりの藍が僕の食事を温めなおしてくれる。二十歳を迎えた藍はふざけて僕の缶ビールに口を付け、
「うえっ」
と言う。その時間にはおやじも慶子さんも気を利かせてその場には来ない。僕らは声を潜めながら今日の報告をしあうのだ。
「今日はね、小西さんが漬物くれたの、これ。おいしいおいしいって言われるからって、樽いっぱい作るんだって。すごいよね。プロみたい」
「へえ」
藍は観光協会で日中アルバイトをこなしながら、慶子さんの家事の手伝いをしている。パートのおばちゃんに混じりうまくやっているようで、こんなふうにいろいろもらってくる。藍は僕にそれを勧めながら自分も指でつまんで口に放り込んだ。藍が奥歯で漬物を噛んでいる音だけが台所に響いている。
 正直に言うと、僕は迷っている。この暮らしは僕に幸せを与えてくれているが、それは僕の歳だから感じられるものであって、藍はまだ二十歳。僕のバツの付いた戸籍に縛り付けていいものだろうか、なかなか答えが出せないでいる。
「先生って独身?」
今日もまたませた生徒の一人がそう言って僕をみた。そして僕はいつものように言葉に詰まる。そのたびに思うのだ。きちんとしなくては、と。
「藍」
グラスに注いだ牛乳を飲みながら藍は視線をこちらに向ける。藍の前髪がパラリと額に落ちてきて、僕はそれを手のひらで戻した。瞼を伏せたまま、藍がはにかんでいるのがわかる。授業での程よい疲労感と、缶ビールと夕飯がもたらした満腹感。近づいてくる眠気の中で、僕は充足感に満たされている。もういっそ、このままでいいんじゃないかという僕の心を必死に追いやって、僕は言葉を探す。その時、藍がふっと笑った。
「先生、白髪があるよ」
僕のこめかみあたりの一本を引っ張り、ぷつんと音を立ててそれを引き抜いた。
「もう、おっさんだな」
そう言って笑った僕と一緒に藍も笑う。
「こんなおっさんのどこがいいの?」
藍の心のどこに僕は触れたのだろう。大輔の言うとおり、僕よりもっと若くて離婚歴もない男など五万といるだろうに。そんな僕の心の声にこたえるかのように、藍が口を開く。
「先生、覚えてる?二次試験での時のこと」
僕は記憶をたどる。藍の二次試験のときの記憶など、僕には残っていない。咎められることを覚悟で僕は、はて、と首をかしげる。
「やっぱり、覚えてないよね」
力なく微笑んだが不快な様子ではないようだ。
「私ね、第一志望に落ちて、滑り止めの日に高熱出しちゃって受けられなくてもう後がない状態であそこの高校受けたんだ。想定外だったから、一度も見学に来たこともないまま。朝、出かけにねママとけんかして第一志望がダメだったこと、咎められたんだ。ママはね、もう一つ受けておきなさいってママの母校を勧めたんだけど私が意地張っていやがったの。だから、ママはひとこと言わずにはいられなかったんだと思うんだけど、私、自分でもどうしたらいいのかわからないくらい緊張しちゃって……」
僕の記憶がストロボのようによみがえる。
「あの時の……」
青白く震える少女の右手が、試験官をしていた僕の目に入った。教室の一番後ろ。窓側から二列目。机の間をゆっくりと歩く。二次募集で受けに来る生徒の大半はどこか開き直っていてそう深刻に映ることもないのだが、あの時の藍は違っていた。その時、震える藍の指から消しゴムが転げ落ち前方の生徒の足元で止まった。しかし、藍はいつまで経ってもその消しゴムを見つめるだけで僕に合図をくれるわけでもなくただじっと座っていた。見かねて僕はそれを拾い、藍のもとへと運んだ。うつむいていてもその顔が不安で曇っているのがわかったので、僕はその消しゴムを握ったままのこぶしを藍のテスト用紙の上に差出し、それをひっくり返して広げ、手のひらの上から藍にそれを拾い上げさせた。そして藍の手に無事消しゴムが届いてから、僕は藍の耳元で小さく、
「大丈夫、大丈夫」
とつぶやいた。藍の髪が小さく揺れて頷いたのがわかったので、僕は安心した。
「あの時、先生が緊張を解いてくれなかったら、私、無理だったと思う。だからね、あの時の先生の袖からちらっと見えた腕時計を頼りにどの先生か入学してから探したんだけど、なかなか見つからなくて、もしかしたら退職しちゃったのかとも思った。でもね、五月になって急に暑くなった日に先生がいつも着てる白衣を脱いで袖をまくってチョークを持って、あ!って思ったんだ。この人だったんだって。それからもっと先生のこと知りたくて慌てて生物部に入って、男子ばっかりだったからちょっと勇気がいったけど。でも先生は私が感じたとおりの人で、ますます、いいなあって思ったんだけど……」
藍が口ごもる。祥子の事だろうと思った。
「その頃もうパパ達が別居しててね、私は月一でパパと食事だけしてたんだけどその帰りに、祥子先生といるところを見たんだ。その時はもうただただ胸が痛くて仕方がなかったんだけど、私にはなんだか先生も苦しそうに見えたのね。楽しそうじゃないなって。でも、大人の事情は私にはわからないから何度もあきらめようって思ったんだけど、先生と生物室で他愛のない会話をしてる放課後まで無くなっちゃうのはやっぱりできなくて。先生、あの時も進路で悩んで元気がない私に、大丈夫大丈夫って入試の時と同じように言ったの。だから……」
雨が降ってきたのだろうか。雨粒が音も立てずに曇りガラスを濡らしている。いつまにか今から小さく聞こえていたテレビの音もしなくなっていた。
「先生が好きなんだ、私」
胸の奥の、一点だけが熱くなる。藍は、僕は、恋愛をしているのだと今更ながら実感した。
「僕と結婚してくれる?」
そう言いかけて、僕はすぐに言い直した。
「僕は、藍と、結婚がしたい」
藍は黙ってうつむいた。藍はまだ二十歳だ。いくら好きだと思う男性からでも、結婚はすぐには考えられないのかもしれない。もしかしたら、好きと結婚は藍にとって別物なのかもしれない。それでも、僕の気持ちは揺らがなかった。藍が待ってほしいというなら待ったって構わないと思った。だって、
「僕は藍といるとしあわせなんだよ」
それなのに、藍はつぎつぎと零れ落ちる涙をぬぐっては、絞り出すようにこう言った。
「先生、責任感じてるとかじゃなくて?」
「責任?」
「私が先生の実家にこうしているから、責任取らなきゃって思ったり……」
「そんなこと、そんなことくらいで結婚までししなくちゃって思うようなお人よしじゃないよ、僕」
「でも、こういうの……」
「何?」
「押しかけ女房っていうんでしょ、パートの人に言われたもん」
僕は一気に脱力した。それからたまらなくおかしくなっておなかを抱えて笑ってしまった。藍も泣きながら、でも笑っている。
「なんでそんなに笑うの?」
「だって、久しぶりに聞いたよ、そんな言葉。確かに、押しかけ女房だよな……」
「もう」
むくれた藍を、僕は笑いをこらえながらなだめた。
「ごめんな、笑って。でもね、僕はね、ここにいることが藍のためにならないって思ったら、すぐに東京に戻していたと思うよ。でも、正直に言えば、返したくなかったんだよ、僕も。藍はまだ若いから、結婚、結婚って言って視野を狭めさせたくなかったんだ。それは慶子さんも同じだと思うよ。でも、僕の正直な気持ちは伝えておきたいんだ。藍の選択肢のひとつにして欲しい。だから藍も自分の進みたい道をゆっくり良く考えて結論を……」
「なんだか、進路相談みたい」
「しょうがないでしょう、高校教師なんだから」
「ロマンチックじゃない」
「藍、そもそも台所でロマンチックもなにもないでしょう」
「だって」
「だって?」
「だって、プロポーズなんでしょ?今の」
「……ああ、まあ」
「わかった。よく考える」
僕の済ませた食器を下げながら藍はそう言って洗い物を始めた。ロマンチックか……。僕はそうひとりつぶやいて冷蔵庫にもたれかかり藍の背中を見ていた。そうはいっても僕らが急に夜景の見える絶景ポイントに行ったところできっとそう変わるものでもあるまい。だったらこの台所でも良いじゃないか。僕は藍を後ろから抱きしめた。洗い立てのシャンプーの香りに顔をうずめる。
「藍、結婚しようよ」
「もう、今よく考えてるんだってば」
「良く考えなくちゃわかんないの?」
「先生、さっきそう言っでしょ」
「そうだけど」
僕が自分に都合のいい矛盾を並べても藍は怒るどころか、嬉しそうに身をよじらせた。僕は自分がこんなに無防備に自分をさらけ出していることに驚きはしたが、もうそんなことどうでもよくて僕の腕の中の藍がただただ愛おしかった。
「不安?」
僕が藍を覗き込むようにしてみると、藍はゆっくり頷いた。
「僕がちゃんとするから」
藍は僕の胸に頬を押し付けた。
「大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫」
ああ、そうか。こんな風にそのセリフを僕は言ってたのか、そう思うと急に照れくさくなってきて、慌てて藍にキスをした。藍が僕の体に腕を回したころには雨が音を立てて振っていた。

 東京の街はクリスマスカラーで溢れていた。イルミネーションを窓越しにぼんやりと眺めているだけで、僕はもう飽きてきてしまっていて帰りたくなっていた。こんな雰囲気が一年に一回くらいあっても良いとは思うけれど、僕はどちらかと言えばクリスマス後から大晦日までの数日間のほうが好きだ。食卓に和食が並ぶから。飲みつけないワインなど飲んだせいで、ガラスに映る僕の顔が珍しく赤らんでいる。
 こんな時期にわざわざ東京まで出てきたのは、藍の母、由美子に会いに来たからだ。僕と藍は年内に籍を入れることに決め、卓史に電話をすると、
「僕よりも、まずは由美子に直接話してやってくれないか、その方がスムーズに話が進むと思うんだ」
電話越しに周りのざわつきが聞こえる。事務所の忘年会なんだ、と卓史が言う。
「息子が出来て嬉しいんだけど、そんなに歳も違わないんだよな、複雑だなあ」
返答に困ったが、卓史の笑い声が受話器から漏れ出して藍の笑いを誘っていた。
 由美子は少し遅れて指定したレストランに来たが、僕の心配をよそに終始上機嫌だった。それには緊張した面持ちだった藍も拍子抜けしたようだったが、
「私、やっぱり仕事命なんだなーってつくづく思ったわ。そりゃね、藍がちょっと旅行に出かけるって言ったのにそのまま帰ってこなくなったときには私は藍にも夫にも捨てられたんだって落ち込んだわよ。でもね、仕事行って家の中しっちゃかめっちゃかでも、誰の目も気にすることなんかないじゃない。夕飯だって私の都合で勝手にできるしね。あ、これは仕事好きの私に神様が与えてくれたご褒美なのかもしれないとまで思ったわよ。だって、元旦那だってあんたたちだって、結構幸せにやってるじゃない。母親になると仕事好きってだけで悪者扱いじゃない。ようやく、今になって非難されることなくなったんだから、謳歌するわよ」
由美子はするすると赤ワインをのどに流し込み、ゴールドとベージュ色のネイルの施された指先をひらひらとさせながら休む間もなくしゃべっていた。セミロングの黒い巻き髪を書き上げると耳たぶの際にに小さなダイアモンドのピアスが光った。そして、テーブルの上に置かれたアイフォンが振動して、由美子は、
「ジュンちゃーん、終わった?」
と言った。藍は僕にだけしか聞こえないような小さな声で、
「ママの彼氏、美容師なんだ」
そう言ってオレンジジュースに口を付けた。
「ごめんね、藍。ジュンちゃん思ったよりも早く仕事終わったみたい」
「いいよ、気にしなくて。クリスマスだもんね」
「そうなのよ、ここを逃すともう年内会えないかもしれないから」
「うん、気にしないで。早く行って」
「ごめんなさい、先生、ばたばたしちゃって。藍をよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「入口まで送ってくるね」
藍は小走りで由美子に駆け寄る。その藍に巻き髪を揺らして由美子が何かを耳打ちした。藍が数回頷く。二人のやり取りは僕には聞こえなかったが、お互いに良い距離を保っているように思えた。
「やっぱりママの方が趣味が合う」
藍は席に戻るなりそう言った。
「趣味?」
「ママがね、かわいいじゃないって言ってた」
かわいい?僕は耳を疑った。
「いい歳のおっさんつかまえてかわいいって……」
「だって、ママから見れば六歳下の男の子って見えるんじゃない?」

ブルーブラック

ブルーブラック

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 辟易
  2. 子は鎹
  3. ホームグラウンド
  4. 不義理
  5. 父親
  6. 晩餐
  7. 7