牡丹
桃色のなだれ
卯月の晩靄に隠れて牡丹が色づき始めている。
「やめよう」
ふと、背徳感に駆られた声がした。それは確かに内懐から湧いてきた声で、理解の範疇を超えた戸惑いを感じる。鉄筋を隔てた先の目の前に、どうしようもなく強大な暗雲が立ち込めているような感覚だ。守られているはずなのに、完全な安寧はそこにない。
「なんで?」
抑揚のない、また、生気のない声が呟く。導かれた自問自答の答えは、あまりに単純で無慈悲で、少し曖昧だった。
朦朧とした意識の中で、ビジネスホテルのベッドは嫌いだ、などと思いながら朝日を感じていた。
目が覚めると、見慣れない寝顔が鼻の先にあった。
「…………びっくりした……」
私は小さく呟き、微睡みが残る目をこすった。幻覚だろうか。否、彼女は確かに目の前に存在し、無防備に涎を垂らして眠っている。思わず、官能的だと思った。
「あっ……ゆり……?」
とっさに思い浮かんだ名前を口にする。ゆり。この娘はゆりというのか。
「んー……」
返事をするように彼女は呻いた。私は慌てて半身を起こし、前髪で隠れた彼女の顔をのぞき込む。
「ごめん、起こした?」
彼女の目元にかかる髪をそっと梳かしてみたけれど、相変わらず静かに眠っている。白くてきれいな肌だ。
「ねぇ、ゆり」
もう一度呼びかけてみるも返事はなく、その代わりに彼女はぐるりと寝返りをうった。露になった彼女の首元の艶めかしさについ生唾を飲み込む。
「……ん……」
彼女は再び小さく呻いた。しかし耳をすませてみると、何か言っているように聞こえる。私は眠ったままの彼女に「何?」と尋ねてみた。すぐには返事はなく、ささやかな沈黙が流れた。そして、雪のような白い首元の向こうから声が聞こえた。
「り……ん……」
ああ。
私は思い出した。彼女にそう呼ばれていた記憶だ。りん。
そうして、ようやく私は気がついた。今の自分はまるで記憶喪失になっているみたいだ。たった数分の間に、一人の少女の寝顔を見つめている間に、私の失われた記憶が紐解かれているような感覚に包まれた。それは、味わったことこそないものの、確信の持てるものだった。
やがて彼女は目を覚まし、寝ぼけ眼で私の顔を見上げた。
「……あれ、りん。起きてたの」
「うん」
「やだ、りんったらもしかして私の寝顔ずっと見てたの?」
「……ええ。だって、気持ちよさそうに眠ってたんだもの」
ふと笑みがこぼれた私に、彼女も口元をほころばせる。そしておもむろに呟いた。
「昨日のこと、覚えてる?」
「……えっ?」
訊き返してしまい、慌てて「どうかしらね」とごまかした。気取った声で上手にはにかんで見せたつもりだったけれど、こんなに下手なごまかしかたがあるだろうかと恥ずかしささえ感じていた。
しかしそんなことよりも大きな問題がある。昨日のこと、それ以前のこと、私は覚えていないような気がしていた。
「忘れたの?」
彼女に尋ねられ、私は曖昧に首を振った。忘れた、という表現は間違っている。今の私には、そもそも忘れる記憶がないのだから。私は今までどうしていたのか、知らない。
「……ま、忘れたのかもね」
彼女は私と同じように半身を起こした。ベッドがギシっと音を立てる。彼女は私の隣に腰をかけ、じいっと私を見つめた。その大きな瞳は、たった今起きばかりの人のそれとは思えないほどに、強い意志を湛えていた。彼女の言いたいことはよくわかっていた。重たい沈黙が続く。
その静寂を切り裂いたのは、部屋に取り付けられた内線電話のけたたましい着信音だった。彼女はきまり悪そうに微妙な笑みを見せたが、私はうまく反応しきれず黙ったまま受話器を取った。
「はい」
「お時間です」
「……はい」
ノイズ混じりの声は、無機質な響きを持ちながら姿の見えない私たちを嘲笑しているようだった。それが何故かは思い出すまでもない。
「ゆり、行かなきゃ」
「うん」
頷く彼女の病弱そうな肩になぜか罪悪感を覚えた私は、床に落ちていた麻のシャツを拾い差し出した。
「早く服着て」
「りんだって……」
「今着ようとしてたのよ」
化粧台の前の椅子にかかっていた下着を、もたついた手で身に付ける。後ろでふふっと笑う声が聞こえて、私は振り向きながら「もう」と言った。
無言のエレベーターを経て質素なロビーへ降りると、無愛想な受付嬢が頬杖をついて座っていた。彼女もまた、見たことのある顔をしていた。
「またのご利用お待ちしてます」
私たちに気づいた受付嬢は姿勢を正し、とってつけたような笑顔で見送ってくれた。軽く会釈を返し、ホテルをあとにする。そこはビジネスホテルの看板を持つ愛の巣窟だった。去り際にちらほら見えた男女を、気づかないうちに睨んでいる自分がいた。自動ドアを抜け、一歩後ろを歩く彼女を振り返ると、降り注ぐ朝日を浴びて眩しそうに目を細めていた。ホテルの目の前を走る私道は少し湿っていて、心なしか空気もじっとりしているような気がした。
「昨日の夜かしら、雨が降ったみたいね。嫌な空気」
何気ないつもりの言葉を彼女にかけてみる。
「りんったら。昨日は嫌というほど晴れてたじゃない。これは打ち水でしょう?」
そう言われてみると、やっぱりからっと晴れているように思われた。朝の南風は気持ちがいい。
「ねぇ、ゆり。私おかしいの」
私道を抜けた先に佇む喫茶店に入り、席について早々私は訴えた。
「私もそう思ってた」
困ったように笑う彼女に、緊張感で張り詰めていた私の心は途端にどっと安心したようだった。注文したアイスコーヒを待ちながらで私は続けた。
「違和感は目が覚めた時からずっとあるんだけど」
「具体的に言うと?」
「……目の前にあなたがいて、そしたら私、見慣れない顔だなって思った。ここがどことか私は誰とかよりも先に、この娘は誰、って」
「あら」
「だけどね、すぐにあなたの名前を思い出したの。いいえ、思い出したって言うより……ぱっと頭に浮かんできたの。ゆり、って」
「……あら」
「それに私、自分の名前まで忘れてたみたい。私の名前はりんであってるの?」
「あなたはりんよ。それ以外の名前はあんまり似合わないと思うわ」
「……そう。ありがとう。どうして忘れていられたのかしら。あなたに呼ばれなくちゃ思い出せないままだった」
「それなら感謝してもらわなくちゃ」
彼女の言葉にそうね、と返事をし、運ばれてきたアイスコーヒーにミルクを注いでマドラーを回す。カランコロンと氷の心地よい音がしたので、私はもう少し話してみようと思った。
「ゆり、私たちは昨日何をしていたの?」
他愛ない問いのつもりだったのだけれど、彼女はグラスの向こうで一瞬頬を赤らめた。私は急に申し訳なくなり、「きっと何か特別な思い出作りでもしてたのよね」と言い微笑もうとした。彼女は少し俯いて口を開いた。
「覚えていないならそれでもいいようなことよ。私だっていつかは忘れることだもの」
私はとっさに応えることが出来ずに、自分の短絡的な考えを恥じた。水増しされたコーヒーに目を落としてみても正解は見つからないのだ。
想像すればいいだけだ。
仲のいい友人同士、ホテルで一夜を共にするのは決して不思議なことではない。不思議なのは、あの部屋の散らかりようやベッドの乱れよう、そして、目覚めた時、何も身に付けていなかった私たちの姿。いくら心を許した友人であっても、この身一つでシングルベッドを共有するのはおかしな話だ。ツインルームで、なぜ二人で一つのベッドを? 不埒な妄想が脳内を駆け巡り、ますます彼女の顔を直視できなくなる。
「りん、私を見て」
居心地が悪くなり始めていた矢先、彼女が動いた。
「……っ」
「どうしたの?」
「ゆり……あなた、何か知ってる?」
「何かって?」
「……何でも。私のこと、私たちのこと」
彼女は頬杖をつき、目を瞑った。
「あなたは私の大切な人よ。私も、あなたにとって大切な人だったらいいなあ、なんて思ってる」
「……大切な人に決まってるわ」
ありがと、とはにかんだ彼女の瞳は潤んでいるように見えた。
牡丹