僕らのワールド・アイライン 5話
※他作品・創作キャラクターとのクロスオーバー表現有。
※クロスオーバーしているキャラクターの出演は事前に許可を得ています。
〇
その日の夜は、町中から灯りが消え去った。
目の奥を刺すようなネオンサインも、道を照らす街灯も、家の窓から零れる光もすべて、息をとめるように闇の中に立ち消えた。
春の薫風がそよぐ、まだ冷たさがわずかに爪を残す月明かりと星の輝きがひときわ眩しく、流星の群れがあめあられと漆黒の天幕に降り注ぐ。
一人の少女が、その景色を窓から見ていた。お城ほどもある大きなお屋敷のてっぺんの部屋で、一年に一度見る、空で砕け散り、目の奥で跳ねるいくつもの輝きは、耳でこそ聞き取ることのできない、歌声のようだった。
けれど、その日は何かが違った。ひときわ大きな金色の星が、身を投げうつように落ちてくるその様に、少女はどうしようもなく胸が騒いだ。
だだっ広い部屋の、お洒落なドレッサーも天蓋つきのベッドも、衣装箪笥や壁の絵たちも、みな音もなく溜息を零して、何かを待っているようだった。
少女は寝巻の上からカーディガンを羽織り、大きな窓の留め具を音もなく外した。目の前で腕を伸ばしてまっている樫の木にそっと爪先を乗せ、少女はひと思いに飛び移る。大きな樫の枝は優しく少女を抱きとめて、その身を案じるように梢が揺れた。少女はかぶりを振り、そろりそろりと幹のでっぱりや細い枝に足を添え、ゆっくりと地面を目指した。
靴はないが、少女には不要だった。柔らかな芝生が足裏をくすぐり、お行きよ、と急かす。少女は背をおされるままに足を速め、心臓が高鳴るテンポに任せるままに走りだした。
煌めく尻尾が夜空にラインを描くたび、星々がオゾン層を叩く高い音が聞こえた。
きいん、きいんと反響する成層圏の音の集合体は、やがてオーケストラとなって星座たちの歌を奏でる。
少女は走る。緑の芝生を横切り、門を超え、幾つもの家を尻目に、無人の駅を横切り、冷たいコンクリートを足で感じ、砂粒が敷き詰められた砂利道をひた走り、柔らかな雨上がりの土を踏み、風の背に乗って、金色の輝きめがけ、息を熱くして駆けた。
両足が泥と土と砂にまみれる頃、少女は小高い丘に辿り着いた。振り返れば町を一望でき、傍らにぽつねんと独り、老いた望遠鏡が立ちつくしていた。
星の雨はまだ降り続けていて、消えるいまわに歌声の残響が遠く木霊した。
少女は衝動で全身を火照らせ、次におこる、予測できない何かを待ち構えていた。この日は特別に、何かが起こる気がした。クリスマスにサンタさんが訪れて、一番のプレゼントをくれるかもしれない、あのときめきよりも、少女の心は忙しなかった。
ふいに、あの金色の星が、さまよう蛍が行き場所をなくしたようにふらふらと飛ぶさまをみた。
ながい空の旅路の果てに、止まり木を探す鳥と同じく、星もまた降り立って身を休める場所を探していた。
けれども地に足をつければ、溺れてしまうのではと慄いているようにも見えた。
「ここよ、こっちよ」
少女は声を張り上げて、両手をのばした。その声はどの星たちの響きにも負けないくらい澄んで、空じゅうを震わせた。
金色の星は一直線に、少女が広げた腕の中に飛び込んだ。ようやく母親を見つけた幼子のような無邪気さが、目が眩むほどの光となって、丘は白く染まり、東の空を朝と見紛うほどに照らした。
〇
「……足が痛い」
「我慢しろ」
朝日も顔を出さぬ静かな朝。
早起きの雀たちより早く、正太郎は寝間着姿のまま、修行僧のように身じろぎ一つせず床の上で座している。
いや、修行僧のようにという表現は適切ではない。彼は今、寺の見習いと同じように修行の真最中だ。
「あと何分?」
「二時間」
冗談きついよ、という言葉を唾と一緒に飲み込む。
修行させてくれ、と頼んだのは正太郎自身だ。甘いことは言えない。
先の「天道」と名乗る少年との戦いで、正太郎は目も当てられぬほどの惨敗を喫した。
父親の手がかりとなるかもしれない男に、正太郎はろくすっぽ刃先一つ当てられなかった。
天道の馬鹿にするような挑発的な表情を思い返す度、腸が煮えくり返る。
悔しい。競争心というものを元々あまり持たない正太郎がそう思うほどに、彼の強さが癪に障った。
「ふむ、正太郎。昨日も口を酸っぱくして説明したと思うが」
始まった、と正太郎は顔の筋肉を引き絞る。
ここで不服そうな顔色を少しでも見せれば、お仕置きの鬼火が飛んでくるからだ。
「感情はお前自身の力だ。脳は力の製造機、精神は力の調節器、魂が出力機となる」
正太郎は説明を聞かされる度、脳裏にイメージ図を描く。
脳は常に、何らかの手段でエネルギーを得て、様々な手段で発散する製造機だ。動物は常に最低限の力を吸収したり、発散し、この世界と持ちつ持たれつの関係を築いている。無論、人間とて例外ではない。
特に人間は脳の発達が異常なまでに速く、しかしエネルギーの吸収や発散はどんどん不器用になっていった。
だから脳は常に制御をかけ、より少ない量のエネルギーだけで生活している。だから人間はどの動物よりひ弱だが賢いのだ、とシンは語る。
正太郎は現在、脳のリミッターが常時はずれている状態だ。
だからこそ通常の何十倍もの力を自分自身で製造できるし、それを変身したり不思議な力を発現することもできる。
通常は視えない、人間が視ないようにしている存在達を視ることだってできる。
人間に視認されない存在達は、薄皮一枚――しかし強固な障壁の向こう側で生きている。人間達の側にいながら、介入することを許されていない。
しかし例外もいる。障壁をやぶるほどの強い力を持ったり、人間側が彼らを認識することで、不可視の住民たちは人間達と同じ世界に存在することが出来る。
正太郎はいつぞやのショッピングモールでの事件を思い出す。彼が戦った、モールの屋上から転落した生霊の怪物、彼もまた正太郎に認識されることで、現実に強制的に干渉しようとした。
シンは、脳のリミッターとフィルターを必要に応じてかけたり外す能力を身につけるべきだ、と判断した。
正太郎がこの先、父親を探すというのであれば、やはりライターの力は必要になる。
それには、治療の合間に修行という形で制御するのが一番なのだ。
「お前に必要な素養は感情を操作することだ。常に冷静に、毛一本心乱す事なく、しかし要する時と場所を選び力を発現するのだ」
「……心に毛は生えてないよ」
「物の例えだ、口減らず。その生意気な唇、抓るぞ」
「やってみろ、スケスケ野郎」
しかし悲しいかな、正太郎はもうすぐ小学五年生を迎える、ただの子供。安い挑発でもすぐ乗ってしまう。
こうなったが最後、シンの仕置き用の鬼火が飛び、尻に火をつけられたことでまた怒り、殴る、蹴る、抓る、ぶつの大喧嘩に発展するのだ。
そして大抵はシンに一方的な私刑を受け、長い説教と修行を続行し、朝の修行は終わり。
「最近、早起きだね。正太郎くん」
「そう……ですか?」
真向かいに座る公太郎の質問をはぐらかしつつ、熱々の鮭の塩焼きを丸かじり。朝の座禅の後は異常なまでに空腹になる。
いわく、感情の操作は力の製造機たる脳を酷使する。
脳を使うだけエネルギーは量産されるが、同時に生活に必要な別エネルギーを消費することにも繋がるのだ。
「でも、ここに来た時より顔色もよくなったし、よく外で遊ぶようになったし。うん、良いことだ」
「は、はは」
公太郎は呑気な笑顔で感慨深く頷き、味噌汁を啜る。ふと、正太郎は、公太郎も摩訶不思議な力の持ち主であることを思い出す。
彼は悪魔を体内で従わせ、必要に応じて使い分ける芸当を見せた。
シンの語る所によれば、公太郎も相当の実力の持ち主であることには違いあるまいよ、とのことだ。
そういえば、と正太郎はさりげなく、ひとつの空席に目を向けた。
「今日はいないんですね。フユキ先生」
ぴくりと公太郎の眉が顰められる。
「……仕事が忙しいんだろうね。食事に誘っても良い返事は貰えないし」
嘘だな、と正太郎はすぐ見抜いた。公太郎が七条に声をかける図など、到底想像できない。
彼女――七条冬雪の話題となると、公太郎はすぐ不機嫌になる。
彼女とは反りが合わなくてね、と前に少しだけ語っていたが、果たして本当にそれだけなのだろうか。
正太郎は、以前、七条に手渡された名刺のことをまだ切り出せずにいた。
血のつながりのない叔父は、どこか正太郎に対し過保護が過ぎる一面がある。好まない人物との接触について口にすれば、彼がまた心配をかけると正太郎は予見していた。
なにより、七条もまた、父親のてがかりとなる人物かもしれない。
父を探すなどといおうものなら、公太郎の過保護はさらに暴走しかねないな、と薄々感じ取っていた。
「そうだ、正太郎くん。今日は一緒にお出かけでもしようかと思ってるんだけど」
公太郎の突然の提案に、正太郎はしばし迷った。
彼は大抵仕事に追われているので、こうやって朝から共に食事をすることすら難しい。
その彼から遊びの誘いを受けるのはレアな事に違いない。
叔父のことは好きだし、一緒に遊びたい気持ちはある。でも今は――
「ごめんなさい、おじさん。今日は約束があって」
「……そうか。友達かい?」
少し寂しげに微笑むも、喜ばしそうに尋ねた。
正太郎を相手にする時の公太郎は、まるで我が身のことのように一喜一憂する。
だからこそ、彼に嘘をつく時は胸が痛むし、隠し事をするのは気が引けた。
「そうだよ」
今、うまく笑えただろうか。鮭の最後の一切れをどうにか飲み下す正太郎の頭上で、シンは意味ありげな視線を送るのだった。
〇
十二件。
これは、今年度から現時点で発生している、ある「自殺」の発生件数である。しかし、その全ての実態は、立証不可能と判断され、表向きは自殺として処理された殺人事件だ。どの事件も死因は同一。たった数ミリの二つの穴から、体内の血液を根こそぎ奪われて死亡する。猟奇的かつ異常な事件だ。そのデータの詳細の全てが、ある部署に回され、再調査の任務を受けていた。
「吸血鬼なんて、これまたレトロな代物が出てきたね」
物憂げな碧眼が、資料を流し読みする。被害者にこれといった共通点はなく、詳細な殺害方法は一切不明、凶器も同様の理由で不明。一切の情報が闇に投じられたかのような内容ばかりだ。さらりと揺れる金糸の髪を指で弄びつつ、鍔本刑事は奥垣内を一瞥する。
「で、進展は?」
「ガイシャの傷口から唾液の成分が検出された。マルヒはAB型と特定されたそうだ」
「エエッ、たったそれだけ?」
鍔本の真向かいのデスクから掬川が素っ頓狂な声をあげた。
「ああ、もう一つある。ガイシャは人間なのか、動物なのかも分かってない。両方の結果が検出されたそうだ」
掬川は明らかに落胆したようだった。目元の隈が、ここ二週間でより一層ひどくなっている。彼はこの事件で聞き込み調査を担当していたが、なかなか成果をあげられず、もどかしさを覚えていた。だのに、やっとつかんだ情報が血液型のみとは、あんまりにあんまりではないのか。
「血液型なんて、動物にだって山ほどいるじゃないか……どうしろってんの」
ウワーッ、と赤髪がデスクに突っ伏す様を、鍔本はハン、と鼻で笑い伏せた。
「掬川クン、自然界においてもAB型は稀だよ。それとも君はわざわざ動物園まで赴いて、DNA検査をするつもりかな?」
「物の例えだ」
掬川は不愉快を露わにし、珈琲の缶を投げつけた。鍔本は涼しい顔でそれを受けとめ、すらりと細い指でプルタブを小気味よく鳴らし、開ける。
「犯人は頭のおかしい人間と怪物かな。例えば、どこぞの三流術師が怪物と契約して……なんてオーソドックスなパターンだと思うけど」
「外れ。周りには何らかの魔術を使用した形跡なんてなかった」
「残留粒子もなし?」
「無い。まず、犯行現場で術を行使していたら、他の魑魅魍魎どもがこぞって群がるだろうよ。そういった形跡もまるでなかったな」
ふうん、と鍔本は珈琲を奥垣内に押し付ける。上司の言いたげな赤目に対し、僕、紅茶派だから、と切り捨てた。
「そうだ、DNA鑑定ではどうなっているんだい。もう結果は出たと思っていたがね」
「そのことだが」奥垣内は渋い色を浮かべた。だがその横顔に、もう一つの……形容するのであれば、愉快と言いたげな色を浮かべていた。
「さじ、お前の勘、案外ハズレというわけでもないみたいだぞ」
鍔本と掬川は目を瞬かせ、お互いを見やった。遂に寝不足で頭がイッたか。否、糖分の摂りすぎで頭がイカれたんじゃないの。二人が目で会話するのを睨めつけ、奥垣内は切り出した。
「今回の相手。人間じゃないことは確かだ」
「ああ、それ、例の妙なオバサンも言ってたね。吸血鬼がどうとか」
「ああ。だが……吸血鬼でも、人ではない吸血鬼がいない、という道理がないわけでもないだろう?」
奥垣内が意味ありげに眉を吊り上げる。それに対し、鍔本がまったをかけた。
「妖怪や怪異に血液型なんてあるわけない。DNA鑑定が二つ出たなら、尚更だ」
鍔本は鑑定結果のシートを突きつける。果たしてそこにあるのは、人間と動物のDNAを詳細に検査したものだ。と鍔本は切り返す。しかし……奥垣内は呆れたように肩を竦めた。
「がく、お前もそろそろこの世界に慣れたと思ったんだがな。今まで色んな奴を見てきただろ、ちったあ頭を働かせな。分かるだろう、人間じゃない生き物に、俺たちの常識は通用しない」
しばらくの沈黙が室内に満ちた。しばらくし、掬川がふとこんな言葉を漏らす。
「人間と生き物の融合体……キメラみたいなタイプ。とか」
奥垣内は頷いた。
「例の七条博士について少し調べたんだ。彼女は以前、非合法な人体実験で逮捕歴があった。証拠不十分で釈放されたがな」
「もったいぶらないで教えたまえよ、君の悪癖だぞ」
鍔本は焦れったそうにせっつく。掬川は先日邂逅した、底知れぬ鼠のような女の笑みを思い出し、身震いした。
奥垣内が持ちだしてきた記録には、七条冬雪のかつての実験記録が記されていた。
人体と動物の組織を融合した際の反応、及び合成生物の製造についてのレポート。
「キメラの研究ってことかい……例の女、すぐ事件現場に駆け付けたっていってたよね」
「俄然、きな臭くなってきたな。俺は前から怪しいと思ってたけど」
「どうだか」
言い合いを繰り返す二人の言葉を制し、奥垣内はハンガーにかけていた自身のコートを手に取る。
「目的は決まったな。二人とも、聞き込みに向かうぞ」
〇
「うわ、居た」
正太郎は公園に赴いていた。先日、天道と出会い、怪物犬の騒ぎで大混乱が起きた、あの公園だ。
この時間帯は誰かしら子供が遊んでいるはずだが、昨日の今日だからか、遊びに興じる子供の姿はない。
代わりに、公園を堂々と占拠し、ビニールシートを堂々と敷いて食事に興ずる男が一人。
語るまでもなく、天道だ。缶詰をむしゃむしゃと食べ漁っている。
先日の騒動で彼は拠点を変えたとばかり思っていたが、まさか手がかりを探しに来て本人に出会えるとは予想外であった。
その隣ではちょこん、と少女が二人、水筒と弁当を手に談笑していた。それも、片方は芙美その人だ。
「……いや。いやいや、なんでいるの」
たまらずに歩み寄り、疑問が思わず口をついて出た。
芙美はあら、正太郎くん、と呑気に頬を綻ばせる。
「私、この時間はいつもここでお茶を飲むことにしてるの」
「あ、そうなの。いやそうじゃなくて。なんで天道と一緒に?」
「一緒だったら、ダメなの?私たち、お友達よ」
芙美は大きな黒い目をぱちくりさせ、小首をかしげる。
う、と正太郎はたじろいだ。彼女は天道の裏の顔をしらない。
不思議な力を使うことも、初対面の正太郎のことをあれこれ知っていた理由も。
言っても信じてもらえないだろうし、正面切って事実を口にするのも躊躇われる。
それにしても、どういった経緯でこの二人が交友関係を築いたかはさておき、二人の会話にまるで興味を示さない天道の態度が気に食わなかった。
「貴方も飲む?お茶」
すっ。と、コップに注がれた、まだ湯気の立つ良い香りの紅茶を差し出される。
自然な所作に流され、ついコップに手を伸ばす。だがそれより早く天道の手がコップを奪い取り、躊躇なく飲み干した。
唖然とし、我が目を疑う正太郎をよそに、天道は次々缶詰を開けては飲むようにすべて平らげていく。
「んで?何しにきたよ。悪いけど、俺は忙しいんだ。遊びたいなら他所いきな」
「……お、お前こそ。大人なら働けよ。昼間から子供にご飯なんか貰ってないでさ」
「馬鹿言うな、俺は十四だぜ。蟻も雇っちゃくれねえよ」
十四!正太郎は目を丸くする。筋肉質でがっしりした体つきと、公太郎と同じくらいの背丈のせいで、成人しているとばかり思っていた。自分もあと三年すればこんな男になってしまうのだろうか……と未来の自分に邪推してしまう。
虫を追い払うような素振りで、邪魔、と言わんばかりの表情を浮かべる天道。
相変わらずの傍若無人な態度。茶をとられた怒りも相まって、正太郎の堪忍袋を刺激した。
「あのさ、ずいぶん余裕だね。この場で僕に返り討ちにされるって思わないわけ?」
「ハッ、手持ちの鏡も無い癖に、誰に向かって言ってんだ。チビスケ」
殺気が二人の間を張り詰める。しかしその緊張を先に破ったのは、はい、と差し出された紙の皿。
「どーぞっ」
あどけない笑顔で、もう一人の少女がクッキーの乗った皿をずい、と押し付ける。
空気を読めないというよりも、あえてその空気を壊しにかかるタイミングだった。
「き、君、あの時の……」
はたと正太郎は気づく。この少女は、先の怪物犬事件に巻き込まれた童女だ。見た目からして、まだ小学校低学年だろうか。長い前髪が、端正な顔の左半分を隠してしまっている。
「あ、覚えててくれたんだ?」
「う、うん。まさかこんな時に会えるとは思わなかったけど……」
チラ、と天道を見る。
「キミも天道の……友達なの?」
「うん、汐っていうの。あなたは?」
えっ、と一瞬言葉に詰まる。
少女の眩い笑みから目をそらしつつ、短く「正太郎だよ」とだけ返す。
「正太郎くんね!ねえ、クッキー食べる?」
またも正太郎は流されてその皿を受け取り、クッキーを食した。とても美味だ。
「私が作ったんだよ。上手にできてるでしょ?」
「う、うん。すごいね」
「天道君、いっぱい食べるから、沢山作ってきたの。もっと食べてもいいよ」
その光景を、いらだたしそうに見る男が一人。
「キサマ、菓子を食べている場合ではないだろう!」
シンに叱咤された拍子に、クッキーが喉に詰まって噎せた。
ゲホゲホと咳き込む正太郎をよそに、シンは身構えた。
一方で、天道の態度はまるでそよぐ風に対するかのように大様としている。一瞥すらしない。
「やめときなよオッサン、たかだかヘボユーレイに出来ることなんざ限られてるだろ」
「…………」
「大方、チビスケにくっついてるお目付け役って所か。今のアンタじゃそこらの雑魚にすら勝てないんじゃねえの」
鼻で笑う天道に、シンは図り難い表情を浮かべる。図星なのか、それとも彼に何か思惑があるのか、いずれにせよシンは言葉を発さない。
少女二人は不思議そうに天道を見ている。最後の一缶を食べ終えると、さてと立ち上がった。
「待てよ」
正太郎が厳しい声をあげる。
その刹那、天道は振り向きざまに、正太郎が振り下ろした炎の剣を指二本で容易く止めた。
「へえ、刃をすぐ出し入れできるようになったのか。子猫にランクアップだな」
「その口を裂いてでも……お前には色々喋ってもらう!」
炎の刃先がかき消えるも、すぐ次の刃が天道を狙う。
「よせ、正太郎!今のお前では……」
勝負は一瞬だった。
正太郎の腕の動きを軽やかにいなし、天道の手刀がまっすぐ正太郎の細い手首に叩きつけられた。
刀が乾いた音を立てて地面におち、只のライターに戻る。
天道はそれを拾い上げた。
「あ……」
サッと正太郎は蒼褪める。ここで唯一の武器を奪われたら、もう戦うための術がない。
天道はチラ、と正太郎を見た。
読めない無表情を顔に貼り付けたまま、正太郎にゆっくりと近づく。
咄嗟に固く目を閉じて身構えるが……首に金属製の冷たい感触を覚える。恐る恐る目を開くと、首元にライターがかけられていた。
「お前の大事な武器なら、はたかれた位で落としてんじゃねえ」
天道の金色の目が、正太郎を射貫く。
「やっぱりガキだな、お前。戦る価値もねえ」
静かな声だったが、その一言は正太郎の胸を深々と刺し貫いた。
少女二人は、その光景に何も口を挟むことなく、あどけない表情を打ち消して静かに見守っている。
天道は興が醒めたと言わんばかりの表情で踵を返す。芙美はにこりと笑って「じゃあ、また明日」と手を振って去っていく。
残されたのは、正太郎と汐のみであった。
一瞬の空白の後、正太郎は固く拳を握ってしまっていた。
胸に、情けをかけられた悔しさと、安堵してしまった自身への情けなさが募る。もし天道が本気で殺す気でいたとしたら……やられていたのは自分の方だ。
またも負けた。加えて、当たり前のことを諭されてしまった。……とにかく、悔しかった。
その正太郎の拳に触れる、小さな手があった。俯いていた面を上げると、汐が不思議そうにその手を握っている。
「私、天道君ときみがどんなお話をしていたか分からないけど……あれはきっと、天道君なりの挑発ってやつなんじゃないかな」
「ちょう、はつ?」
正太郎は鼻の奥がツンと熱くなるのを抑え、復唱する。
「これくらいでビビるな、追いかけて来い……私にはそう聞こえたよ」
汐は、その幼い佇まいには似つかわしくない、嫋やかな視線を正太郎に向け、頬を綻ばせる。
正太郎は、不覚にも一瞬、心を奪われた。
その言葉には不思議なあたたかみと説得力があり、正太郎の背を押してくれる、そんな力を感じた。
「正太郎」とシンが言葉を発した。「今のお前では天道に勝てんぞ。今ここで挑発に乗る気か?」
正太郎は振り返りもせず、天道が去っていった道を見据えた。
「まだ、アイツの顔に一発お見舞いしてないじゃないか」
力強い返答に、シンは呆れつつも笑みを浮かべていた。汐もニコリと微笑む。
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「え、どこに?」
「天道君のところ。用があるんでしょ?」
汐はまっすぐ指さした先には、この町のシンボルである高い時計台がある。
だが彼女の指し示す先は、もっと遠い場所であるらしい。
「知ってるの?アイツがどこに行くのか」
「うん。今日は凄いものを盗んでやるんだって教えてくれたの。面白いよね、あの子」
「い、いやそれ、犯罪じゃない!何を盗む気なの?」
すると、汐は面白おかしそうに目を細めた。
「神様」
〇
「おお、正太郎。電車とは早いな!」
新みらいが丘から駅で十数分。
都会的な街並みがみるみる過ぎ去り、緑豊かで牧歌的な光景が広がっている。
都心から、それも子供だけで離れたのは初めての出来事で、正太郎も緊張して拳を膝の上に置いたまま。
一方で汐はのんびり外の景色を楽しんでいる。シンも電車の内部を駆けずり回り、新しい玩具を手にいれたかのようにはしゃぎっぱなしだ。
人の姿はほぼ皆無と言っていいほどだった。そも、あまり電車を利用する者がいないのかもしれない。老人や疲れきった様相のサラリーマン、くたびれた女性、私服の男女がまばらに座り、誰もがこの電車の緩やかで穏やかな時間を共有していた。
ふと、通路を挟んだ、四人掛けの座席に座る人間に、思わず目がいった。
外国人観光者だろうか。鮮やかなレモン色の髪が、一際目立っていた。トレンチコートを羽織り、長い睫毛が憂うように俯いて、手元の手帳に視線を落としている。一目見て、きれいな女性だ、と正太郎は素直に感じた。
「ねえ、ここ、いい?」
不意に声をかけられる。一人の少女が、空いた席を指さして小首をかしげる。これもまた、美しい少女だった。正太郎と同い年か、少し年上程だろうか、銀のウルフカットがふわふわと獣の尾のように揺れている。あまり見慣れないフリルだらけの洋装が新鮮だ。前髪で片方の顔を隠すのは、今のトレンドなのだろうか。日本語で話しかけられなければ、外国製の人形が話しかけてきたのでは、と錯覚するほどだった。
「あ、ああ、どうぞ」
少女はまばたき一つせず「ありがとう」とだけ返し、正太郎の隣に座る。
会話は無かった。汐は少女を一瞥だけすると、興味なさげに窓の景色を眺めるだけに徹していたし、少女も一貫して無言のままだった。ただ時折、お洒落な巾着を揺らし、カラコロと軽やかな音を立てると、飴を取り出しては舐めていた。それを正太郎が横目で見ていると、少女は視線に気づいてか一つ、「いる?」と、パイン飴を差し出してくれた。妙な乗り合わせではあったが、不快ではなく、むしろ安らかな、長いようで短いひとときが流れた。口の中で、甘いパイナップルの味が、眠気と共にひろがった。
「……正太郎くん、起きて。ついたよ」
数分ほど、正太郎はまどろんでいたようだ。汐にゆり起こされ、正太郎は眠い目を擦って頭をもたげる。気づけば隣の少女はどこかの駅で降車したらしく、金髪の麗人も姿を消していた。少しもったいなかったように思う。だが、何がであろう。惜しいと思った自分が何故だかおかしく思えた。
終点の「四ノ宮グループ別邸前」に降り立つと、電車は車庫に向かって緩やかに走り出す。
それを見送ると、正太郎達は改札口を出て……絶句した。
巨大な黒い鉄柵で周囲は完全に包囲されており、更に塀の上には有刺鉄線や見張り台らしきものまである。
「妙だ、正太郎」
先程まで電車を心ゆくまで楽しんでいた様相とは一変し、シンは空を睨む。
「この先は強大な結界だ。それも規模がそこらの術師とは比べものにならん。少なくとも……公太郎か、それより強い術師が百人単位はいるとみていいな」
「百人?」汐に怪しまれぬよう、小声で返す。
「こんな場所に、どうしてそんなに沢山の魔術師がいるの。絶対変だよ」
「うむ……だが心しておけ、この中にいる連中は只者ではないぞ」
しかし正太郎は心ここにあらずで、少し離れた位置に立つ、金髪の麗人に視線を注いでいた。どうやら同じ駅で降りたということは、目的地は同じだろうか。時計を見やり、誰かを待っている様子でもある。
もう少し、女性を見ていたいという気持ちにかられた。美しい美術品に心を奪われる観客と似た心持ちだ。だが目的はこの先にある。後ろ髪を引かれる思い出、駅からでてすぐ目の前に看板へと向かった。
「この先、四ノ宮グループの敷地内となります。入園の際は近くの警備員にお申し出ください」……とある。しかし、入口と思われる門に、警備員の姿はない。警備室にも人影は見当たらない。勝手に入園したら、見つかった時に言い訳しようがない。
「こんな時に、警備員さんがいないなんて」
汐も弱った、とばかりの声をあげる。
「ここ、とても広いのよ。車で行かないと、歩くだけで日が暮れちゃうよ」
徒歩で一日が潰れる!そんな悠長に歩き回っている暇はない。一刻も早く、天道たちを見つけなければならないというのに。
どうしたものか、と悩んでいると、一台の車が目の前に止まった。そして、意外な人物がひょっこり顔を出した。
「お前さん、もしかして正太郎か?なんでこんな所にいるんだ」
「あっ……た、高雄、さん?」
運転していたのは、以前引っ越しを手伝ってくれた高雄という男性だった。公太郎の知り合い、という程度の認識しかないが、これで会うのは二度目だ。どうもこの冴えない巨漢の男と巨大な施設との結びつきに納得がいかず、疑問符を浮かべていると、後部座席のウインドウが開く。
「やあ、正太郎くん」
七条冬雪だ。相変わらず血色の悪い笑みをたたえ、正太郎を頭のてっぺんから足の爪先までじろじろと見回すと、汐を視界に入れた。
「おや、お友達とデートかな。しかし、ここはデートスポットには適さないと思うがねえ」
咄嗟に反論しようとすると、冗談だよとケタケタ耳障りな笑い声をあげ、後部座席の扉が開かれる。冬雪博士は傍らのシンを見上げ、顎でしゃくった。
「しかし、君たちがここにきた、ということは、何かあるのだろうね。乗りなさい、話を聞こうじゃないか」
正太郎たちを乗せたワンボックスは、約九十万平方キロメートルという敷地の一角を走っている。四ノ宮グループ別邸の敷地は、三重の塀に囲まれ、四方に見張り台のような鉄塔が存在する。七条は、ここはかつて日本で有数の、脱出不可能と謳われた刑務所だったのさ、と語った。
窓の外から見える、赤と灰色の建物たち。大小それぞれある建築物は、この敷地に住み込みで働く者たちのための施設であったり、日常生活を送るにあたっての必要な物資を売買する場所でもある。この敷地ひとつが、町として機能しているに等しいらしい。確かに、遠目から見ても、正太郎がよく知る町並みとそう変わらない光景が広がっていた。
「ふむ、神を盗む。ね」
ククッ、と喉を鳴らし、至極愉しそうに七条博士は目を細める。抽象的かつ大それた天道の計画を、心の底から期待している――そう受け取れる挙動であった。
そんな冬雪を、汐は幼いながらも直勘で感じ取ってか、あからさまに警戒心を露わにし、睨みつけていた。嫌い、と顔いっぱいに嫌悪を貼り付け、不機嫌そうに目をそらす。どうやらこの女性に好感を持てないのは、何も自分だけではないようだ。一方で、七条は勝手にカーナビを操作すると、ここに向かってくれ、と言った。お願いではなく、明らかに命令口調で、だ。
「ラボに行くんじゃなかったのか」
「たった今用が出来たからね。君もおいでよ」
「俺は嫌だ」
「つれないねえ。娘さんに顔を出していかないのかい?」
高雄が舌打ちする。触れられたくない部分だったのだろうか。彼に娘がいるのか……正太郎は少し意外だ、と高雄の横顔を盗み見る。妻帯者にしては、その鋭い目つきに、群れない一匹狼の印象を帯びているからかもしれない。
その後、約数分は重苦しい無言が支配した。いたたまれず、咄嗟に正太郎が口を開く。
「あの、どこに行くんですか?」
「ああ。せっかくの機会だから、会わせてやろうと思ってね」
「誰にだ?」
質問したのはシンだ。聞こえているのか、それとも否か、その一言に続けるように、七条はふと唇の端を歪める。
「神に」
着いた先は、やはり巨大な屋敷だ。一度、神奈川の赤煉瓦屋敷に連れて行ってもらったことがあるが、あれよりもやや大きめの西洋屋敷だ。入るのが少し躊躇われたが、七条が先導し肩で風を切って進む。高雄も苦い表情のまま、「はぐれるなよ。迷ったら最後、言葉通り出られないぞ」と物騒な注意を零し、七条の後に続く。
正太郎も後に続こうとし、汐を振り返った。七条と顔を合わせて以降、彼女の機嫌は芳しくない。単に嫌悪しているというより、もっと根深い嫌悪のようなものを漂わせている。
「大丈夫?」
「……うん。私、あのオバサン、嫌いだな、と思って」
心配になり声をかけると、汐ははっと我に返り、再び笑みを取り戻した。しかしぎこちなさはまだ残っている。正太郎は少し逡巡したが、汐の小さな手を取った。白くて細くて、すこし冷たい。
「迷子にならないように、手。繋いどこうよ。ほら、僕、これでも五年生だし」
ね、と自分と手を交互に指さし、半ば強引に歩き出す。照れ臭かったが、見栄っ張りでもいいから、少しは頼り甲斐のある姿を見せたかった。
汐は目を大きく見開いて、正太郎のうなじを見、少しだけ素の笑みが零れた。そんな二人を、シンは頭上から見下ろし、フン、と面白くなさげに短い嘆息を零した。
内装はとにかく広く、廊下と沢山のドアが連なっている、という印象だ。内装も豪華絢爛の一言につきる。赤くて柔らかなカーペットの上を歩く度、異世界に飛び込んだような気分だ。この屋敷ひとつで高級ホテルを名乗れるのではなかろうか……まだ幼い正太郎ではそんな想像力が精々だが、それほどまでにこの屋敷に圧倒されていた。
だがそれ以上に圧倒するものは、この屋敷内ですれ違う者達だ。見間違いでなければ、先程横を正太郎より小さな少年がすました顔で空を浮遊して去っていったし、鰐やトカゲや犬の顔の巨漢が通路を闊歩する。漫画の世界からそのまま飛び出してきたかのような外見の者から、当然のように近未来的な道具を駆使する者、明らかに手足が多すぎる者、まるでハロウィンの仮装大会だ……尤も、今は春がようやく来ようという時期なのだが……どうも自分が今いる世界が本当に正しいのか、感覚を疑いたくなる。
加えて、右目だ。どれだけ制御しようとしても、無理矢理瞼の中から、視力自体を視えない手でこじ開けられるかのような、言葉にするにも矛盾を抱える奇妙な感覚が支配している。普段なら視えないものたちが、あまりにくっきりと映り、視界の上下左右を悠々と跳梁跋扈する。先程シンは、百人単位もの術師がいると言っていた。だが。それ以上だ。あまりに、力の濃度が濃すぎるのだ。
「想像以上だ……正太郎、貴様が人間であることがむしろ浮いているように思えるな」
シンは、今しがた天井を這って去っていく八つ手の男を見送りながら、どうにか言葉を絞り出した。七条も、高雄も、汐も何も言わない。すれ違っても軽い挨拶を返すだけで、取り乱したり硬直したりもしない。たとえシャンデリアに頭だけが引っかかっていようが「頑張れ」と返すだけだ。助けてやればいいのに、と思うが声には出さない。
「し、汐ちゃん。何とも思わないの?」
自分の感性が間違っているのだろうか。思わず汐に尋ねる。
「え、なにが?」
汐はきょとんとして聞き返す。後頭部に柔らかい空気玉が当たったような感触の後、正太郎の頭部をピンク色の球体が通過していく。何でもない、と会話を打ち切り、きもち足早に進む。何故なのか。誰もこの異常な空間に異を唱えない。どうもこの右目におかしなものが映るようになってから、自分の常識は驚くほど容易く覆される日々だ。早く慣れてしまった方が身の為なのだとは思う。でなければ……天道に勝つことすら、ままならない。
そうだ、天道はもう、この場に来ているのだろうか。彼が来れば何らかの騒ぎになるのではないか、と密かに予感していたのだが、そもそもこの場で何かしらの騒ぎが起きても、軽くいなされて終わってしまいそうだ。
「あれっ」
曲がり角に差し掛かったその時、不意に七条と高雄の姿が消える。見失ってしまったか、と別の通路へ目を走らせるが、居ない。誰もいない。慌てて引き返そうとするが、握っていたはずの手の感触もない。振り返れば、正太郎以外、シンすらも、先程まであれほど存在感を放っていた有象無象の一切が姿を消していた。
「汐ちゃん、高雄さん、フユキ先生、シン?」
おそるおそる、声をかける。返事はない。雪の降る夜のような静けさ。窓の景色は白く、輝きこそあれど、なにも映さない。ぴんと背筋に糸を張り詰める緊張感を覚え、正太郎は身構える。今までの経験から鑑みるに、異常な現象が起こった場合、攻撃されることが大半だからだ。
今は進むしかなさそうだ。正太郎は再び歩き出す。どうしてだか、足の運びは困惑する自分の心と反してスムーズに動く。まるで初めから決められた一本道を歩くがごとく。一切の音がしないが、不安を駆り立てられることはない。そうだ、ここは……歩みを進めるにつれ、正太郎から闘争心も消える……この場は、攻撃的な気配が一切ない。むしろ、招かれている。背筋の糸を手繰り寄せられるように、引き寄せられている。手を引いて遊びに誘わんとする、無邪気な心が、自分を呼びよせているのだ。
正太郎が辿り着いた先は、観音開きの大きな扉だった。純銀の取っ手がついた二枚の扉が、勝手に開かれる。一瞬たじろいて目を背けるが、なんのことはない、少女趣味の可愛らしい桜色の部屋があるだけだ。
日当たりが良いように設置された沢山の窓に、少女が一人、こちらに背を向け、外の景色を眺めている。肩までしかない、まんまるな亜麻色の後頭部が、こちらに気づいて振り返る。
「あら、お客さま?」
青く、くりっとした目が正太郎を見た。彼女だ。自分を引き寄せた張本人が、今、目の前にいる。空から色を吸い取ったような輝く瞳が、新しい客人を前にして一際きらめいている。
「あの、ごめんなさい。僕、迷子になっちゃったみたいで。誰もいないし、気づいたらここにいて……」
「あら、そうなの?でも大丈夫、それって私も同じだから。お客さんが来るなんて本当に久しぶり!ねえ貴方、お名前は?私はね、紗良っていうの、糸へんに、少ないに、良いって書くのよ」
少女・紗良は人に会ったことがよほど嬉しいようで、投げかけられた問いにさして答える様子もなく、喜々として正太郎の手を握る。暖かくて柔らかい、正太郎より少し大きな手。紗良から薫る花の香りに、一瞬自分の目的すら忘れそうになる。
「ぼ、僕は正太郎です。それより、七条博士を知りませんか?」
七条と聞くと、紗良は少しだけ訝るような顔をした。拗ねるような目をしている。
「先生なら……午前にお会いしたわ。でも私、午後も会うつもりはないのよ。だって先生、難しいドリルばっかり用意するんですもの。お外に出たいって言っても、駄目の一点張りだし、私、そろそろ数字ばっかりで頭がパンクしちゃいそう!」
ぶうっと頬を膨らませて紗良は腕を組む。話の長いタイプの人だ、母に少し似ている。と、正太郎は苦笑する。七条と知り合いということは、彼女は少なくとも普通の人間のようだと分かり、安堵を覚える。けれども――彼女の言葉を信じるのであれば、尚更、七条達はどこへ消えてしまったというのだろう。彼女は、私も同じと返した。であれば、ここは閉鎖された特殊な空間なのだろうか。
「ねえ、紗良……さん。僕、どうしても先生に会いたくて……今、ここでとんでもないことが起きようとしているんだ。どうにかならないかな」
正太郎が必死にそう訴えると、紗良は首を傾げ、ああ、とこれまた嬉しそうに手をパン、と鳴らす。
「それならきっと大丈夫よ。今日ね、私の友達が会いに来るの。多分もうすぐよ。そしたら一緒に、ここから出られるわ」
それならば安心だ。どうやら絶対的に出られない場所というわけでもなさそうだ。大方、公太郎がよく結界を張るように、この空間も何かしらの不思議な力が関わっているだけの場所なのかもしれない――
『この先は強大な結界だ』
『それも規模がそこらの術師とは比べものにならん。少なくとも……公太郎か、それより強い術師が百人単位はいるとみていいな』
この敷地に訪れた時の、シンの言葉を思い出す。彼が言っていた結界は今まさに……ここではないのか?そんな予感が脳裏を走る。紗良はいそいそと、ベッドの下から大きなリュックサックを引っ張りだした。
「なに、それ?」正太郎は反射的に尋ねた。細腕の少女には不釣り合いな大荷物だ。紗良は隠していたテストを見つけられたように、ぺろ、と舌を出す。
「えへへ、荷物よ。私、今日から家出するの」
「い、家出?大変じゃないの?」
いきなり重い話を突きつけられ、正太郎は動揺してしまう。だが紗良は構わず、うんしょ、とリュックサックを背負った。足もとがぷるぷると震える。
「だって、今日の今日まで我慢したの。でも私だって、もう十四よ。何にも縛られずに、自由に外で、一人で生きてみたいのよ!」
羨望と希望に満ちた笑顔で、あまりにあっけらかんと少女は無謀を語る。でも、と正太郎は咄嗟にその腕を引き留めた。でなければ、彼女は今にもその窓から飛び出してしまいそうだったからだ。そしてまさにその直後、耳をつんざくばかりの、何かが硝子を叩きつけるような高い音が響く。何度も、何度も、厚い壁を叩き割る勢いが空気じゅうにビリビリと響いた。
次にこの衝撃が襲ってきたら、自分達は吹き飛ばされる。――――今だ!正太郎は胸のライターを握りしめ、力任せに、心の中に描く刃を引き抜いた。叩きつけられる衝撃と、正太郎が放った炎の刃の一撃が、目と鼻の先でぶつかり合った。正太郎は咄嗟に紗良に覆いかぶさり、甲高い悲鳴が上がる。熱風と衝撃波が炎の刃で真っ二つに裂け、部屋じゅうをしっちゃかめっちゃかに掻き回した。
……砂埃と風が落ち着いた。白い景色は屋根の一角もろとも消え、代わりに、今までに聞いたこともないような騒音が階下から聞こえてくる。壁もきれいさっぱり消えてしまい、人間や人間でない者達が空中で白熱した戦いを繰り広げている。なんなのだ、この混沌は。
状況が変わってなお、一層混線する異常な光景に言葉を失っていると、部屋のすぐそばに聳え立つ樫の木から、のっそりと男が現れる。
「なんだあ、今の!お前の仕業かよ、大山正太郎」
そこには、天道が居た。巨大な槍斧を構え、朝方の退屈そうな雰囲気はどこへやら、目を爛々と輝かせて対峙する。
「……天道!」
「どきな、チビスケ。……そいつを迎えに来たんでな」
天道が指さす先には、気絶してしまった紗良がいる。友達が来る、ここを出ていく、家出、神様を盗む……様々な言葉が、一本の筋となった。
今こそ、少年は構えた。強い闘争心と、対抗心と、正義感が形となって、手甲となり、鎧となり、化粧となり、刃となる。
「やだね!」
正太郎が舌を突きだしたその直後。二つの刃が互いを穿ち、閃光を放つ――!
僕らのワールド・アイライン 5話
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