山羊の島

忘れ物をとってきてほしい。
3日振りに意識を回復した祖母は僕にそう告げた。
「どこに?なにを忘れたの?」
祖母は僕の手に痩せ細った自身の手を重ね、かすれた声で絞り出すように言った。
「山羊の島」
 祖母の最期の頼みになるかもしれない。そう判断した親戚一同は最も時間を持て余している僕に白羽の矢をたてた。
 山羊の島とは祖母が幼少期を過ごした島だという。もちろん、山羊の島とは俗称だ。
 船で40分ほど揺られ、僕は山羊の島へと到着した。小さい島で、中心部が丘のようにこんもりと盛り上がっている。船を附けた港の周辺は無人の廃墟が点在しているが、それ以外は背の低い草で島全体が緑に覆われている。
「わあ、すごい山羊がいっぱいいますね」
僕は今回の小旅行の同行者に向き直った。従姉妹で僕と同い年だという。会うのは今回が初めてだが、卒業論文作成のために同行を申し出てきたのだ。
「確かにそうですね、こんなに山羊がいっぱいいるなんて」
「家畜用だった山羊たちが繁殖したんですね。無人島というより有山羊島」
従姉妹は興味深げに辺りを眺め、首からぶら下げたカメラを切り続けた。
「夕方までにふたりとも戻ってこいよ」
船を持つ叔父さんが声を張る。
 従姉妹の資料集めを兼ねてまずは港周辺を探索する。まだ正午前で天気もよく、散歩のようで清々しい。あちらこちらをうろつく山羊たちも島ののどかな雰囲気にぴったりだ。
 廃墟と化した家に入ってみる。ひやりとした空気が肌をなでる。椅子があり机があり、座布団もある。どうやら島の住人たちは発つ鳥跡を濁さず、とは考えなかったようだ。特に面白くもないので家を出る。
「あ、見てください。お地蔵様がありますよ」 
従姉妹がお地蔵様の前で腰を下ろす。家に入るときは気づかなかったが、確かに玄関脇にひっそりとたっている。膝の高さにも満たない小さなそれに視線を落とす。
 ふと、針先程の違和感がよぎる。
角だ。このお地蔵様には角が生えている。丸められた頭に2本の角が生えている。
従姉妹もそれに気付いたらしく眉をひそめていた。
「こんなお地蔵様なんて見たことないですね。角なんて」
恐る恐るながら従姉妹が角に触れる。
 くちゃくちゃ。
いつの間にか一頭の山羊か側に来ていた。モゴモゴと口をうごかし、咀嚼音をたて、感情のうかがえない濁った瞳で僕たちを見る。じいっと。まばたきもせず。
「行きましょう」
従姉妹を促し、その場を離れる。小走りで歩を進める際、あることに気づいた。
お地蔵様は各民家の前に必ずあるのだ。そしてそのどれにも角が生えている。
「あの角は、山羊の角なのかしら」
従姉妹の呟きに僕は答えなかった。
 山羊の島の中心部。その近くに祖母は住んでいたらしい。
僕と従姉妹は港をあとにし、緩やかな坂道を島の中心部を目指して黙々と進んだ。その間も山羊たちはまるで風景の一部であるかのように、当たり前に見受けられた。
 日が真上に来る頃、僕たちは丘の上、つまり中央部にたどり着いた。
「おばあちゃんの家はどこでしょうか」
「島の中央付近にあるとしか聞いてないんです」
手分けして探しますか。そう言いかけて止めた。先程の地蔵と山羊のことが泥のように頭にこびりついている。
ふたりで固まって祖母のかつての家を探す。視界を遮る物がない島だ、それらしきものはすぐに見つかった。
ぽつんと建つ民家、というよりは小屋に近い印象だ。釘一本でかろうじて掛けられた表札には祖母の旧姓の名が刻まれていた。
 小屋に入る。
「なにか、匂いますね」従姉妹が言う。
土足のままあがり、居間を歩く。
強烈な腐敗臭が鼻につく。これまで見た民家と同じく椅子や机があり、生活感が残っているだけに、臭いの異常さが際立つ。
「忘れ物を探しましょう」
祖母の忘れ物さえ見つければ臭いの原因などどうでもいい。
 机の上、タンスの中、流し台の下。それらしきものはどこにもない。
「ありましたか?」
「いえ」従姉妹は首をふる。「でも、この臭いはなんなんでしょうか」
「さあ、何かが腐った臭いでしょうけど」
「わたしが気になるのは、その『何か』です。この家のなかには『何も』ないのに」
居間の中心に据えられた机を挟んで従姉妹と僕とは向き合った。
確かに、そうだ。僕は思った。確かにそうだ。この家には何もない。腐った臭いを発するようなものは何もない。
一体何が、そしてどこで腐っているんだ。
「きゃっ!」
従姉妹が飛び上がる。足元には一匹のゴキブリ。
「虫、嫌いなんですね」
「急に出てきたのでびっくりしちゃって」
従姉妹が足元に視線を落とす。僕もつられて床をみる。
床はあちらこちらが痛んでおり、ゴキブリは床下から這い出してきていた。わらわらと。
どうやら僕たちが歩き回ったことに驚いて出てきたようだ。
 意識を床に向けたことで、僕は気づいた。臭いの元は床下だ。
 くちゃくちゃ。  
粘っこい、咀嚼音。聞こえてくるのは、床下からだ。音とともに臭いもまた強烈になってくる。
山羊が。床下に。なぜ。
 ガツン。
床が揺れる。床下にいる『山羊』がぶつけたのか。
 くちゃくちゃ。
耳を塞ぎたくなるような咀嚼音が大きくなる。臭いもますますひどくなる。
 逃げよう。
もう忘れ物などどうでもいい。僕は従姉妹の手を引いて家を出た。
転がるように坂を駆け降りる。
 くちゃくちゃ。くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、、、。
 山羊たちがこちらを見る。濁った目で。
 そういえば。こんなときに僕は思った。あの山羊たちは常に何かを食べている。でも、草を食べている姿を見ていない。これだけ大量の山羊がいるのに、この山羊の島は緑に覆われている。
 船に乗り込み、僕たちは山羊の島をあとにした。

 僕は祖母の病室にいた。
うっすらと目を開け、祖母が僕の名を呼ぶ。
「ばあちゃん。どうしてあの島に僕を遣ったの」
山羊の島に本当に祖母はなにかを忘れたのか。
祖母はぼろぼろの唇を微かに開ける。僕は口元に耳を近づける。
「『あれ』を、みたかい」
「『あれ』がいることを知ってて僕をあの島に」
祖母が僕の手をつかむ。老人とは思えない力で。
くわっと開かれた瞳は、尋常ではない光が宿っていた。
「覚えておくんだよ。山羊の島のことを、『あれ』がいることを。そして語り継ぐんだ。忘れちゃいけない、忘れたら『あれ』が、くる」
生暖かい息が僕にかかる。その臭いはあの腐敗臭とそっくりだった。
祖母は役目を果たしたかのように目を閉じた。そして二度と目覚めることはなかった。
 葬儀の時、従姉妹と再開した。従姉妹は黙って僕に写真を渡してきた。山羊の島で撮ったものだという。
そこには地蔵が写っていた。普通の地蔵だ。角など生えていない。
従姉妹はカメラを処分したという。僕も写真はその日のうちに燃やしてしまった。

 山羊の島。その島はいまもまだある。

山羊の島

山羊の島

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-07

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