偏愛文学

二岡


 一目見て、僕は彼女に心奪われた。
 初めて行った斜陽が差し込む夕暮れの図書室。
 腰まで伸びた艶のある黒髪に、透き通るような白い肌。伏せがちだが切れ長で、目を合わせれば何もかも見透かされそうな漆黒の瞳。
 思わず喉がごくりと鳴った。彼女はただ座って本を読んでいるだけだった。それなのに、そこから目が離せられない。
 気付けば、僕は彼女を前に立ち尽くしていた。
「いきなりすみません、失礼は承知です。名前を……お名前を、教えてもらえませんか」
 絞り出すような声でそう告げる。気を抜けば声が揺れそうだった。それくらいに彼女は神秘的だった。
「え、私かい?」
 彼女は驚いたように顔を上げた。読書の邪魔をしてしまったことに一抹の罪悪感が過ぎる。だが、それより、目が。彼女の目がこちらを向いた。こちらを向いているはずなのに、彼女の真っ黒な虹彩は眼前の僕すら映さない。
 吸い込まれるような錯覚と同時に、背筋がぞわりとした。
 このひとだ、という確信が頭を過ぎる。やっと、やっと見つけた、とも。
 今声を出せば確実に見っともなく震えるだろう。彼女の問いに、痺れる頭をやっとのことで縦に動かす。
 それを見て、彼女は「あぁ」と小さく呟いた。
「君、もしかして新入生?」
「はい」
「図書室は初めて?」
「はい」
「ふぅん」
 彼女は指を口元に当てた。何かを考えている風だった。そんなちょっとした仕草すら、様になっている。 
 図書室のどこかにあるらしい時計が秒針を刻む音が聞こえて、それがずいぶんと遅く感じた。彼女はなおもなにかを考えている風で、僕の目は彼女に釘付けだった。離せるわけがない。カチコチ、カチコチ。彼女はなおも何かを逡巡している。僕に名前を教えるか否かで迷っているのだろうか。ひょっとして、この沈黙はもう去れという意味なのかもしれない。そこまで考えて、後ろに一歩踏み出そうとした。
「よし、わかったよ!」
 突然彼女が手を打った。今までで一番大きな声に、下がろうとしていた足が止まる。
 彼女の真っ黒な虹彩が弓なりに湾曲する。笑っている、ということに一拍遅れて気が付いた。嘘くさい笑みの中で、真っ白な肌には不釣合いなほどに赤い唇がゆっくりと開く。

「君、文芸部に入らないかい。そしたら私の名前を教えてあげよう」

 どうかな? と彼女が首を傾げると、髪の毛が重力にならって肩からぱらりと落ちた。
 願ってもいない。僕の中では喜びがじわじわと広がり、表情をそのままに保つのに苦労するほどだった。まさか、こんなに体の良い一緒にいられる理由を向こうから提示してくれるだなんて、思ってもよらないことだ。
「もちろんです――こちらこそ、お願いします」
 堪え切れず、うっかり表情が不恰好に歪んでしまう。
「ふふふ、そうかい」
 僕の不気味な笑顔と差し出した手を見て、彼女は更に目を細める。
「じゃあ、これからよろしくね」
 彼女は言って、手元の本をぱたんと閉じ、差し出している僕の手にそれを乗せた。
「はい、こちらこそ!」
僕は手渡された本の表紙を見る。僕の家にもある、おどろおどろしい絵が表紙に描かれた、有名な作家の短編集だった。
 握手はしてくれないんだな、と思う。肌に触れられるのが嫌いなのかもしれない。だがまぁ、それはどうでもいいことだ。僕はもう片方の手で表紙を撫でた。



 ということで、僕は文芸部に入った。既存の部員は彼女――先輩だけだったらしく、放課後は図書室で二人きりという素晴らしい毎日を送れることになった。
 僕が放課後に図書室に着く頃には、大抵先輩が先に来ており、何か本を読んでいるのが常だった。

「行ってくるね」
 毎朝、僕はそう声を掛け、鍵をかけて家を後にする。一人暮らしで鍵をかけ忘れるとひどい目に逢う、と以前誰かが教えてくれて以来、僕はその教えを忠実に守っている。
 授業にも学校自体にもあまり興味はないが、放課後に先輩に会える。それだけで、僕はなんだって出来そうな気分になった。

 そうして今日も、図書室に向かう。
 書道室や茶道室が並んでいる文化棟の廊下を抜け、そこの突き当たりに我らが図書室は存在していた。
 文化棟廊下の窓は西に面していて、斜陽がちょうど差し込むようになっている。眼球に突き刺さってくるかのような眩しさに目を細めながら、僕は足早に廊下を抜け、図書室の扉に手をかけた。
 図書室内の温度や湿度を一定に保つために、扉は分厚く重く出来ている。そのため、どんなに静かに開けようと思っても、軋むような音が鳴ってしまう。
 僕が入って来た時のその音に気付いたのか、真ん中くらいの席に座っていた先輩がぴくりと肩を揺らしたのが見えた。
「やぁ、君か。よく来たね」
 こちらを一瞥すらしないで先輩はそう言う。
 僕が知っている限り、今まで先輩と僕の他に生徒が来たことはない。そんな図書室だから出来ることだろう。
「こんにちは、先輩」
 僕は軽めに会釈をする。もっとも、見えてはいないだろうが。
「うん、こんにちは」
 先輩は手元に視線を向けたまま、ノールックで自分が座っている隣の椅子の背を引いた。広めの図書室にパイプと床が擦れる音が反響する。
「……あれ」
 引いてくれた椅子に座ろうと近づいてわかったのだが、今日の先輩は本を読んではいなかった。手元には、紙とペン。
「珍しいですね、本を読んでいないのは。勉強ですか?」
 腰掛けながらそう尋ねる。本を読んでいない時の先輩を、あるいは僕は初めて見たかもしれない。
「んん、いや、違うよ」
 相も変わらず、こちらをちらりとも見ずに先輩はそう答える。そう言って、直後、猛烈な勢いで紙に何事かを書き始めた。
 人の書いているものをあまりじろじろと見るのも無作法かなと思ったので、僕は頬杖をついて、現在読んでいる途中の本のことを考え始めた。
 アイスランド人の作者が原作を書いたミステリー。湿地にある建物の地下で、死体が発見される。そんな話だ。
 まだまだ途中なのでわからないことだらけだが、とても気に入った作品だった。続きが気になってきたが、あいにく家に置いて来てしまったので帰るまでは読むことが出来ない。しかたなしに、続きの展開を想像し始めた。
 死体の死因に思いをはべらせながら、先輩が字を書く音を聞く。カリカリ、カリカリ。だが、良いリズムを刻んでいたそれは唐突に止まった。
 ちらりと隣を見ると、気のせいか、先輩は少し嬉しそうに見えた。
「完成したよ」
「おめでとうございます」
「なにが、とは聞いてくれないのかい?」
 今日初めて、先輩が僕のほうを向いてくれた。微かに湾曲している漆黒の瞳が、僕を見据える。
「聞いて欲しいんですか、なら聞きますよ。先輩、それはなんですか?」
「まったく君は最高の後輩だね」
 先輩の唇が、かろうじて笑みに見えなくもない、という形に曲がった。相も変わらずな嘘くさい笑顔だ。
「小説だよ。小説を書いたんだ――読んでくれるかい? 読者募集中でね」
 ――驚いた。表情が揺らいでしまったかもしれない。
 先輩には伝えていなかったが、僕は無類の小説好きだった。自分の部屋にある蔵書は数知れない。
 さらに、今書き上げたということは、おそらく僕が読者一号だろう。なんたる幸運。先輩に初めて会った時と同じ、背筋がぞわぞわする感覚を僕は覚えた。
「読みます、読ませてください、ぜひ」
「うん、はい。まだ冒頭というか、第一章だけだけどね」
 嘘くさい笑みを貼り付けたまま、先輩は手元の紙束を僕の方へ押しやってきた。
「読み終わったらぜひ感想をくれよ」
「もちろんです」
 返事もそこそこに、僕は紙束を手に取った。最初のページを開いて、読み進めていく。
 読む、読む。

 文章が上手だな、というのが第一印象だった。このまま作家にもなれそうなくらいに巧みな文章だが、どこか日本語離れしたような言い回しがところどころにあるような気がした。
 次に覚えたのは既視感だった。どこかで見たような文章だということに気付いて、誰か作家の書き方を真似たのかと思った。
 そして、すぐに、書き方どころではなく、最初から最後の文に至るまで、僕には見覚えがあることに気付いた。
 先輩の小説。
 その内容は、湿地にある建物の地下で死体が発見される。そんな話だった。

 僕は表情が揺らがないように努力した。訳無いことだ、無表情を装うのは慣れている。
 心の中だけで深呼吸をして、僕は先輩に向き直る。
「とても面白い話ですね! それに、文章もとても上手です。続きが気になります!」
 少しだけ、声が上ずってしまったかもしれない。先輩は僕をじっと見つめる。僕も先輩を見つめ返す。相も変わらず、眼前の僕すら映さない漆黒は、深淵のごとくずぶずぶと僕を飲み込んでいくように思えた。
「……本当か
 今まで聞いた中で一番低い声で、先輩は僕に問いかけた。
「本当ですよ」
 こんな時、上手に笑いかけたり出来たなら、発言の信憑性が増すのだろうか。だがそれは、生憎僕には出来ない。
「本当に、面白いと思います」
 駄目押しのようにそう繰り返して、仕方なしに口角を少しだけ持ち上げた。先輩からはさぞかし気持ち悪い不気味な表情に見えるだろうが、少しでも、笑っていると認識してもらえればそれでよかった。
「……そうかい」
 先輩が息を吐く音が聞こえた。
「そうかい、そうかい……。うん」
 先輩はそう繰り返して、唐突にくつくつと笑い始めた。
「うふふ、よかった、よかった……。じゃあ、これからも、私が何かを書いたら、読んでくれるかい?」
「もちろんです!」
 条件反射のように、咄嗟に僕はそう答えた。
「もちろんです、ぜひ、読ませてください」
 それを聞いてか、先輩は嬉しそうにゆらゆらと揺れた。
「うふふふ、そうまで言われちゃあ仕方ないね。いいよ。楽しみにしていてね」
 そう言って、先輩は紙束の高さをトントンと揃えた。
「それじゃあ、今日は疲れたし、私はもう帰るよ。また明日ね――。あ、そうだ」
 鞄を手にとって立ち上がり、帰ろうとした先輩がこちらを振り向いた。
「君、本はたくさん読む方かい?」
「いいえ、あまり」
 即答した。僕が先輩に吐いた、最初で最後の嘘だった。
「そうかい。じゃあね、感想ありがとう」
 そう言って、先輩は帰って行った。
 僕は頭の中で、先輩の肌の白さ、髪の黒さ、唇の赤さ、それに漆黒の瞳を再認識して、再実感する。
 なんて完璧なんだ、と。
 先輩のパーツを脳裏に描くたびに背筋がぞわぞわと疼く。やっと見つけたのだ。
 先輩をこのまま間近で見続けることが出来るのなら、僕はなんだってしよう。そう決意して、僕はただ一人になった図書室で不気味に口角を歪ませた。



 その後も、先輩は定期的に書いたものを僕に見せてくれるようになった。
 殺人許可証を持った、国家公認の殺し屋が存在している世界 のお話。精神障害を患ったいとことなんとか仲良くしようとする主人公のお話。老練で辛辣な悪魔が、小娘に手玉に取られるお話。他にもいろいろ。
 半分ほどは一度はどこかで読んだことのある作品だったが、僕はそのたびにその作品を褒めた。文体が作品によって全然違うということと、あまりにも執筆速度が速すぎる、という事実は僕の胸の中に留められていた。
 ある日、先輩は僕に語ってくれた。
「知ってるかい? 昔の外国の本はね、風景描写がとても多かったんだよ」
 ひざの上にヨーロッパ系の写真集を乗せながら、先輩は呟くようにそう言った。
「昔はそもそも旅に出るような人が少なかったからね。そもそもそんなに風景を見たことがある人自体が少ないわけだ。そういう人でも想像できるように、ってね」
「そうなんですか、博識ですね」
 感嘆したように僕は言う。実際感嘆はしている。「それもどこかの受け売りですか?」うっかり口に出さないように、僕は無表情を保つことを努めて意識する。
「そういえば」
 僕は意識して話題を変えた。
「先輩の名前、まだ伺っていないです。文芸部に入れば教えてくれるという約束だったのでは?」
 最近気付いたのだが、先輩は僕の不恰好な笑顔を見ると機嫌が良くなるらしい。あまり他人に見せたくないのだが、僕はほんの少しだけ口角を持ち上げた。
「ふん……そんなに知りたいのかい?」
 思ったとおり、心なしか機嫌良さげに目を細めた先輩は、僕を覗き込んでそう聞いた。
 僕は少しだけ考えてから「いいえ」と答える。名前なんて所詮は記号だ。僕には先輩は先輩だけなのだし、無理に聞きだす必要もないだろう。
「そうかい。じゃあ、今のままで良いじゃないか」
 嬉しそうに、先輩は唇を横に薄く伸ばした。
「そうですね」
「でもまぁ、約束は約束だし、特別に教えてあげようか。耳を貸してごらん?」
 先輩のほうからこんなことを言い出してくれるのは意外だったが、断る理由もない。喜んで、僕は耳を先輩のほうへ向ける。先輩の吐息と声が、同時に耳に流れ込んでくる。
「エドガー・アラン・ポォ、だよ」
 とっさに思わず先輩の顔を覗き込むと、よろしくね、とでも言わんばかりにいつもの笑顔を向けられる。
 あぁ、これでこそ、僕の先輩だ! 僕の背筋を、喜びがぞわりと駆け上がり、思わず顔が歪んでしまう。
 そこでふと、僕は何故か先日の出来事を思い出した。
 不愉快な出来事だった。休み時間に廊下を歩いていると、見知らぬ生徒に呼び止められたのだ。
 気分が悪くなるほどに不愉快な顔をしたそれは、「あなた、文芸部ってほんとう?」と唐突に問いかけてきた。
「本当だよ」
 僕は手短にそう答えて、その場を去ろうとしたが、続いた言葉がそれを止めた。
「大丈夫なの? 先輩に聞いたんだけどね、図書室には変な先輩が入り浸っているんだって。無表情なのに笑っているみたいな変な表情の人で、先輩方にも気持ち悪がられてるんだって。文芸部の活動場所って図書室でしょう? ……そういえば、四月に配られた部活動のパンフレットには文芸部って載っていなかったけど――」
「うるさいな、お前」
 その続きを、僕は覚えていない。
 ただ、酷く不愉快な気分になった。そもそも図書室には、彼女が言っていたような特徴の人はいない。僕の先輩はいつも真っ黒な瞳を弓なりに湾曲させ、にこやかに笑っている。
 思い出すたび腹が立ってくるような出来事だったが、それ以降、その生徒の姿を目にすることはなかった。
 僕もきっと、そのうち自然に忘れるだろう。
 早く忘れてしまいたいな、と思いつつ、僕は先輩が今日書き上げたと言う小説の束を手に取った。



 先輩は、本を読んでいる日は学校が閉まるギリギリまで図書室にいるが、なにかを書き上げた日は、それを僕が読み終わったタイミングで帰ってしまう。先輩がいなければ僕も図書室に用はないので、作品を読んだ日は、必然的に僕も早めに帰路に着くことになる。

 帰宅して、鍵を開け、僕は自分の部屋に入った。所狭しとうずたかく積まれた蔵書が真っ先に目に入る。
 椅子に座って、はぁ……、と無意識に息を吐いた。図書室も居心地が良いが、やはり自分の部屋が一番落ち着く。
 そうして、いつもの習慣で、机の上に向かって「ただいま」と声をかけた。

 僕には秘密が二つある。
 僕は本好きで、部屋には大量の蔵書がある、というのは先輩に秘密にしていることだが、それとは別に、他の誰に対しても隠していることがあるのだ。
 僕の部屋には、誰よりも可愛い――先輩と出会ってからは、先輩の次にかわいい、女の子がいる。
 黒髪に、白い肌。不自然なまでに赤い唇に、硝子球の目。それらを併せ持った、可愛い可愛い球体関節人形が、僕の机の上で、毎日僕の帰りを待っていてくれているのだ。
 ある本によれば、僕のような嗜好ははピグマリオンコンプレックス、人形偏愛と呼ぶらしい。そのせいなのかは知らないが、僕は人間の作る表情が、気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がない。無表情こそが美徳である。そのせいか、僕は漫画もアニメも現実も大抵のものは受け付けられない。
 ところが、入学早々に図書室で出会った彼女、先輩。あの人の作る表情、パーツに至るまでの全ては、人形のように美しく、完璧だった。
 そうして、なにより、彼女は僕を映さない、
「あぁ……。いつ見ても君は完璧だよ、先輩の次にね」
 僕は机の上に座っている人形の髪を優しく梳いて、その頬に口付けを落とした。
 僕が先輩に抱いているこの感情は、恋愛感情ではないだろう。僕と先輩が続けているこの行為も、傍から見たら滑稽極まりないのかもしれない。先輩が僕のことなんかまるで見ちゃいないということも知ってるし、僕だって先輩の内面なんかどうだっていい。
 僕は、彼女を、彼女のパーツを傍で見ていられればそれで満足なのだから。
 誰にも邪魔はさせないぞ、と喉の奥で笑う。
僕が模範的な読者である限り、先輩は僕だけの作家でいてくれる。最高な関係だ。いつまでだって続けてあげよう。それが僕の為であり、先輩の為でもあるのだから。
「先輩、次はどんな作品を読ませてくれるのかなぁ……」
 呟いて、僕は人形を抱き寄せた。球体関節人形の硝子の目が、僕を映して、こちらをじっと見つめていた。

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  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-07

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