持たざる幸せ
その日、仕事で帰りが遅くなった政夫は、近道をするため、すっかりシャッターの降りた商店街を通ることにした。
みぞれ混じりの冷たい雨が降る大通りから商店街に入ると、心もち暖かい。そのせいだろう、最近ではあまり見かけなくなったホームレスがいた。さすがに直に寝るのはつらいのだろう、ダンボールを何枚も下にしいているようだ。その上で、ボロボロの服をたくさん重ね着して寝ている。その周辺には、すえたような臭いが漂っていた。
政夫はなるべくそちらを見ないようにしながら、通路の反対側に寄って歩いた。
(ご苦労さまだな。この寒空に野宿するくらいなら、働く方がうんと楽だろうに。それとも、働けない理由があるのかな。あるんだろうな。それにしても、臭うな。何日ぐらい風呂に入ってないんだろう。いや、何か月か。野生の動物は別に風呂なんか入らなくても臭わないのに、人間は何故臭うんだろう。ああ、そうか。人間が臭うというより、服が臭うんだな)
「おい、政夫じゃねえか」
最初、その声がホームレスの発したものと思わず、政夫は周囲を見回してしまった。
「なにキョロキョロしてやがる。おれだおれだ」
(何だこいつ。新手のオレオレ詐欺か。いや、確かに名前を呼ばれたぞ。まさか、知り合いなのか)
「あの、どちらさまでしょう?」
「ずいぶん他人行儀だな。おれだよ。八郎だ」
「えっ、八郎先輩なんですか?」
八郎というのは政夫の出身高校の先輩で、大手のIT企業に勤めていたはずである。
「もちろんだ。久しぶりだな。どうだ景気は?」
「はあ、まあ、ぼちぼちで、っていうか、どうしたんですか、その姿は?」
八郎は、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
「会社が倒産してな。なんとか再就職したんだが、つまらないことで上司とケンカして、すぐにやめちまった。それと同時に、働くのがすっかりイヤになってな。アッという間にこの有様さ」
「えっ、でも、ご家族は…」
「会社が倒産してすぐに離婚したんだ。家は女房と子供にやっちまった。今や、天涯孤独の自由人さ」
「はあ、それはまた」
「いやいや、同情なんかいらねえ。おれは今、幸せなんだよ。まあ、言ってみりゃ、究極のミニマリストってとこだな」
自分のジョークに、八郎は笑った。政夫も愛想笑いをした。
「なるほど。さすがに先輩ですね。それじゃ」
そろそろ帰った方がいいだろうと、政夫が話を切り上げようとした、その時。八郎が申し訳なさそうに、こう言った。
「なあ、政夫。今晩、おまえんちに泊めてくれないかなあ。とにかく、風呂に入りたくてさ。自分の臭いに耐えられないんだ。自分で思っていた程、おれはナルシストじゃなかったみたいだよ」
あなたなら、どうしますか?
(おわり)
持たざる幸せ