幾つもの物語
世界一のビル
どんぐりの背比べのように立ち並ぶ都心のビル。その中で一際高く聳え立つ高層ビルがある。
とてつもない高さ、下から最上階を見上げれば首を痛めること間違いなしの高層ビルだ。
ビルにつきもののビル風は時折、台風並みの突風がビル周辺に起こる。 しかし、この超巨大高層ビルに関して言えばその突風はほとんど見られない。
この巨大建造物には各階の壁際に扇風機を横にして取り付けたようなものが無数にせり出している。一つ一つの羽根が風を受けて勢い良く回っている。巨大なビルに比べればその扇風機様の装置は小さく見えるが、大きさにして二メートル四方の枠内に四つの羽根が取り付けてある代物だ。一片の羽根の長さだけでも子供の背丈ほどある。
四角い頑丈な枠は、それぞれ好き勝手な方向に向きを変えている。向きを変えると言っても、枠と壁を繋ぐ支柱が回転するだけなのだが。
コンピューター制御で吹き降ろす風の流れに対して、枠の角度を微妙に変え、回転する羽根の勢いを調節している。
勢いよく回る羽根が風のエネルギーを吸収し、地上へ向かう風の勢いをなくしているのだった。しかも、その吸収されたエネルギーはこのビルの発電に置き換えられている。このビルが使う電気の五分の一はこのビル風により賄われている。
ビルの高さは、約千メートル、尋常な高さではない。
富士山の三分の一の高さ。
このビルができた時は世界中が驚嘆した。
マジ?
二百階建ての巨大ビル。
ビルの名は、ソウルオブジャパン。ソウルは、あの都市の名前ではなく魂という意味で名づけられた。日本の魂、そんな感じで命名されたようだ。
しかし、世間ではもう一つの名で知られている。
「天国に一番近いビル」と。
最新の制震技術を駆使し、世界一高くそして世界一安全なビルと謳われているこの巨大建築物。ただ、世界を驚嘆させたのはただ単にビルの大きさ、高さ、耐震技術、安全性だけではない。
それ以上に、このビルにはとてつもないモノが備わっていた。
それは屋上にあった。
そこは緑が溢れている。
独自に開発された特殊な人工の土が屋上に敷き詰められ、松や桜、楓、銀杏、等の木々が整然と植えられている。
もちろん草花が咲き乱れる野原もごく自然に見る事ができる。
普通に田園風景が広がっているのだ。
小川も流れ、電気自動車が走れる舗装道路まで整備されている。その緑あふれる屋上は、敷地に換算すれば悠に四千坪以上はあるだろうか。ところどころに池が造られ,ジョギングができる遊歩道もある。
芝生が広がる場所にはゴルフの打ちっぱなしができる様にネットが張られ、そしてハーフコースのゴルフ場が設置されている。その横にはドーム型で格子状の強化ガラスで囲われた室内プール。
屋上の中心で一人佇めば森を切り開いたリゾート地にいるのかと誰もが錯覚するだろう。
しかしここは屋上。
二重に頑丈な特殊合金の柵に囲まれた屋上だ。そこから外を覗けば眼下に雲海が広がっている。
まさしくここは天国に一番近いビルだ。
その屋上の南端には平屋のペントハウスがある。
ペントハウスの上にはへリポートが備わり、そこに特注で作られたと思われる流線型のジェットヘリがゆっくりとプロペラを回転させていた。
二人の男女がペントハウスの一室に肩を揃え立っていた。
夫婦と思わしきその二人は、ガラス窓の向こうに見える壮大な夕日を眺めていた。
「涙が出そうな景色ね」女は呟いた。
「全くだ。心が洗われるな」男は言った。
男の名は、酒井次郎(さかいじろう)。 隣の女性は妻の恭子(きょうこ)。
五十代前半と思われる中年の二人は窓の外に見える深紅の夕日に見とれていた。
広い室内には舶来物らしい革バリの豪華なソファーが置かれ、床は赤い絨毯が敷き詰められていた。壁は総檜、木の香りが部屋中に充満し、周りは贅を尽くした調度品が置かれてある。
「やあ,よく来てくれた」突然、甲高い声が部屋に木霊した。
ドアの前に恰幅のいい白スーツの男が立っていた。年齢は六十代前半だろうか。
隣には、同じく白スーツ姿の女性が立っている。
「綺麗な夕焼け!久し振りに見るわ」とスーツの女性が感嘆の声を上げた。
「社長、入社以来いつもお目を掛けていただきありがとうございます。それにこの度は、私ごときに部長という大役を申せつかり、務まるかどうか戸惑っている次第です。なんてお礼を申していいのか」
酒井は、小走りに白スーツの男の前に出向き、そう言いながら深々と頭を下げた。
なんで酒井が部長に?
「酒井君、堅苦しい挨拶は抜きにしてくれ」
男は苦笑しながらネクタイを緩めソファーに座った。
「酒井さん、お座りになって。奥さんもどうぞ。今日はここを自分の家だと思ってくつろいでくださいね」
「家内の言うとおりだ。リラックスしてくれよ」男は、酒井夫婦に早く座れと言わんばかりにソファーを指さした。
酒井達は身を縮めるようにゆっくりとソファーに腰を沈めた。
どこからともなく心地いい鈴の音が鳴った。と、同時に青い漆で塗られた特注のドアが開いた。そのドアはエレベータの扉だった。
中から現れたのは、蝶ネクタイをした黒スーツの男だった。
男は手押しのワゴンを押し出しながら、ユックリと落ち着き払ったしぐさで、ワゴンの上に揃えてあるコーヒーカップをテーブルに置いた。
「さあ、飲もう。酒井君はコーヒーよりウィスキーの方がよかったかな」男は笑みを浮かべながら尋ねた。
「いえ、そんな滅相もない」
「欲しければ遠慮なくこの男に告げたまえ。彼は君たちの面倒を見てくれる執事の角田と言う男だ」
角田と呼ばれた赤い蝶ネクタイの男は酒井夫婦に一礼した。
「角田君、食事の用意は一時間後にできるんだよな」
「はい」
「じゃあ後は酒井君たちを宜しく頼むよ。我々は、そろそろ出発するから」
「明日の朝食は八時ごろでよろしいかしら」スーツの女性は酒井の妻に尋ねた。
「は、はい。何時でも」恭子は恐縮そうに畏まって答えた。
「恭子さん、自分の家と思って自由に使ってくださいね。この家の中で分からないことがあれば角田に何でも尋ねてね。遠慮はいらないから」女性はそう言いながらコーヒーを一口含んだ。
「ありがとうございます」酒井夫婦は揃って深々と頭を下げた。
「あの、社長、一つ質問してもよろしいでしょうか?」酒井は白スーツの男に尋ねた。
社長と呼ばれた男の名は神部浩二。年齢は六十二才。同じく白スーツの女性は神部昭子、五十八歳。神部浩二の妻だ。
神部は一代で巨大企業、神部コンツェルンを築き上げた男だ。
一介の不動産屋からメキメキと頭角をあらわし、三十代で不動産会社を一部上場に格上げしたやり手の男だった。
他にもコンビニエンスストアのチェーン店を全国に展開、宅急便会社を設立,引越し業界にも名乗りを上げ、悉く成功した。
もちろん先端産業でもあるIT業界にもいち早く進出し、いつも時代を先取りする経済界の風雲児と言われつづける男だった。
酒井はその神部の部下だ。
今年の春の人事移動で酒井を人事部長に昇格したのだった。
「なんだい?質問ってのは。ヘリを待たしてあるから手っ取り早く言ってくれよ」
「は、はい。あの、何故…このように私みたいな社員に眼をかけてくれるのでしょうか。それに何故、社長の御住いであるこの素晴らしいお部屋を私共夫婦だけに使わせてくれるのでしょうか」酒井は引きつったような恐縮顔で神部に尋ねた。
ゴルフ焼けの神部は鋭い大きな目でしばらくの間、酒井を見つめた。
「君はこの会社の設立、発展に多大な貢献をしてくれたからだよ」
「私が…ですか」酒井はそう言いながら、額から噴き出る汗をハンカチで拭った。
「そうさ」
「はあー」酒井は困ったような情けないような顔で首を傾げた。
「君は自分を過小評価しているよ。会社も君の能力をあまり認めていない。君がいなければ我々の会社はこのように発展はしなかった。もっと自信を持ち給え」
「私がいなければこの会社は発展しなかった…のですか?」酒井は信じられない顔で神部の言葉を復唱した。
酒井がこの会社に入社したのは昭和四十九年。四十年以上この会社で働いてきた。
そこそこの仕事はできるが取り分けて何か会社に際立った貢献をしたという事実はない。
ただ、ずば抜けた記憶力を持っていた。
しかし企画力はほとんどゼロだった。つまり創造性が乏しい。
与えられた仕事を愚直に黙々と地道に推し進めていく社員であるが、自ら企画発案して社の発展に貢献するような男ではなかった。
どちらかと言えば出世街道から遠く外れた社員と言ってもいいだろう。
他の企業ならよく出世して課長補佐がいいところである。
その事は酒井自身も承知していた。
それが人事部長という役職に抜擢されたのだ。
推薦したのは社長である神部だ、と直属の上司から聞かされた。
周りの幹部連は,酒井の部長昇進に首を傾げた。
会社に貢献した優秀な社員は他にも大勢いるのに、なぜ酒井なのか?
だが、誰も口答えできない。ワンマン社長である神部の言うことは絶対だ。
その決定に口を挟む者はいなかった。
確かに酒井は、入社当初から神部の覚えがいい。
酒井夫婦の仲人を買って出たのが神部、そしてその相手恭子を紹介したのは妻の昭子。
家族ぐるみの付き合いも始まった。
何のとりえもない酒井が社長に目を掛けられているのはなぜか?と、皆不思議に思った。
そのうち酒井は、社長の遠い親類縁者の一人なのだろうと影で言われるようになり、その噂が定着した。
酒井は噂を否定したが、神部自身が他の部下に「そんなところだ」と伝えたものだから親戚関係という噂が信憑性を増した。
もちろん、それは事実ではない。それを一番知っているのは酒井だ。
なぜ、神部がその噂を否定しないのかも疑問に思った。
自分を贔屓にする本当の理由が分からない。だから、すこし、不気味にも感じる。
それもそのはず、その理由は神部夫婦以外は誰も知らないのだから。
酒井が風呂場で倒れた
「僕等はこれから京都に飛ぶ。久しぶりの休養だ。今からここは君たちの家だ、自由に使えばいい。ただし、前もって話してあると思うが今から明日の朝まで、正確に言えば午前零時過ぎまで外出禁止だ。例えどんなことがあってもだ。分かってるね」
神部は少し強い口調で念を押すように言った。
酒井夫婦は返事の変わりに畏まった顔で一礼した。
「まあ、ゆっくり此処の生活を味わってくれたまえ。食事や、掃除、君たちの身の回りの世話は全て執事とメイドがやってくれる。このハウスを出ればゴルフ場もあるし、プールも備わっている。ちょっとした遊園地もね。この屋上でのんびり過ごしたまえ」
神部夫婦は、ドアに向かった。
「酒井君、明日は君の好きな競馬があるだろう。隣の部屋に最新鋭の大型3Dテレビがある。迫力あるよ」
「は、はい。ありがとうございます」
「とにかく、今度会う時まで元気でな」神部は、酒井の肩をしっかりと掴み、笑みを浮かべた。その笑みはなぜか物悲しい寂しさが漂っていた。まるで、永遠の別れを告げるように。
屋上で待機しているヘリは七、八人ゆったりと座れる広さがが確保されている。
TV電話,冷蔵庫,テーブルはもちろん、ベッド兼用のソファー、シャワールーム、最後尾にはトイレも設置されている。
チョットした空飛ぶホテルだ。
「いよいよ今日ね」神部昭子は呟いた。
「ああ,ついに運命の日が来た」
神部浩二は神妙な顔で言った。
「もしすべてうまくいったら私達はどうなるのかしら」不安げな表情で昭子は訊いた。
「さあな、どうなるかな」そう言いながら神部は昭子の顔をのぞいた。
「怖いか?」
神部の問に昭子は小さく頷いた。
神部は昭子の手を握った。昭子の手はかすかに震えている。
「莫大な富を手に入れ身分不相応な生活をしてきた。うまいものを食べ、いい車に乗り、自家用飛行機や、ヘリコプター、豪華な邸宅を数え切れないほど持ち、全く贅沢三昧な生活をしてきた」神部はそう言ったあと昭子の顔を見つめた。
「しかし俺にとって最高の贅沢はお前が俺の傍にいてくれたことさ」
昭子の不安げな顔は、神部の言葉で和らいだ。
「そのきざな言葉,久しぶりに聞いた。その言葉で急に背筋が寒くなったわ」 昭子は上目遣いで微笑んだ。
「だろう、俺も言った後、歯が浮いちまったぜ。まあ浮いたついでだ。駄目押しでもう一つ、周りの世界が例え闇に包まれようとお前が傍にいれば何も恐くない。どうだ、全身凍り付いたろう…」
自家用ヘリはゆっくりと舞い上がり、星空を駆けた。
数時間が経った頃だろうか。
ジェットヘリは満天の星空の下を飛んでいた。
時間が午前零時になろうとしていた。神部は深呼吸を二回続け、モニター付き電話の受話器をとった。すぐさま直通で自宅に繋がるようになっている。
「私だ。夜分すまないが酒井君を呼び出してくれないか」
向こうで受話器を取った相手は、執事の角田であった。酒井夫婦達の世話を角田と三人のメイドに頼んである。
「かしこまりました。しばらく」そう言って角田はモニターから消えた。
昭子は不安そうな顔で夫を見守った。受話器からはエリーゼのためのメロデェイが無味乾燥に聞こえてくる。メロデェイが消え、慌てふためいた角田の顔がモニターに現れた。
受話器から震える声が聞こえた。
「……酒井が倒れた?」
「どうして外出させたんだ。あれほど外に出すなと言っておいたのに」神部は目の色を変え叫んだ。
「何、外出していない。じゃあ一体何処で…倒れたんだ」神部は瞬きを何度も繰り返した。
「露天風呂?風呂場で倒れた?」神部の目は宙を彷徨った。
「で、どうなんだ。医者を呼んだのか。救急車を呼んだ?馬鹿もん!そのビルには救急指定病院が入っているだろう。そこの医者を大至急呼び出せ。どんなことがあっても助けろ!私もすぐに引き返す」神部は、肩を落としながら受話器を置いた。
「あなたどうしたの」
「酒井が露天風呂で倒れた。」
「露天風呂で?」
「そうだ」
「どうして風呂場なの」
「こっちが聞きたい。とにかく引き返す」
神部はヘリの窓に目をやった。
突然、流れ星が暗い空を引き裂くようにまばゆいぐらいの銀色の光芒を描いた。
神部はその光景に目を奪われた。
突然過去の一場面が蘇った。
あの時と同じだ。
あの時と。
神部の目に流れ星の残像が鮮やかに残った。
1968年の…ある日
流れ星が夜空を駆けた。
一人の若者が偶然それを見つけ立ち止まった。若者は何かを呟きながら光芒を眼で追った。
昭和四十三年、今より舗装された道路が少なく、夜道が暗い時代、しかし今より未来に夢と希望が満ち溢れていた時代、そんなある暑い夏の夜。
そこは下町の裏通り。
午前二時。
薄暗いその通りを若者は一人口笛を吹きながら再び歩き始めた。
カッ、カッ、カッとヒールの音が遠くから聞こえてくる。
若者は立ち止まりその音のするほうに目を向けた。
花柄のワンピースの女性が長い髪を振り乱し走り寄ってくる。
暗闇に慣れた目はその女性が誰かすぐに識別できた。
「アキ」若者は呟いた。
女性の後ろを数人の男が追いかけている。
「アキ、どうした。血相を変えて」
「あっ、コウちゃん、助けて」アキと呼ばれた女は、若者の太い腕にしがみついた。
「わかった。任せろ」
若者は状況を全て把握したようだ。
女は若者の背中に隠れた。
四人の強面の男達が若者の周りを囲んだ。
「姉ちゃん、何も逃げなくてもいいだろう。家まで送ってやろうといってるんだ。人の行為は素直に受けるもんだよ」
背の高い顎がしゃくれた男が女の顔を覗き込んだ。そのしゃくれ顎は、女の腕を掴み引き寄せようとした。
と、同時にその男の顔が急に苦痛にゆがんだ。
若者がその男の指を捻ったのだ。
人差し指を折れんばかり反らされた男はその場に両膝をついた。
目にも留まらぬ鮮やかな動きに他の男たちはたじろいだ。
「な、なんだ、お、おまえ!」
少し小太りの男がドモリ口調で啖呵を切った。
「こういうもんだ」
若者は背広の内ポケットから分厚い黒手帳を出した。
その見慣れた一連の動作が男たちの動きを止めた。
「この紋所見りゃあわかるだろう。警視庁の者だ。今、張り込みの最中だ。邪魔すると公務執行妨害でしょっ引くぞ。なんだったら、お前等の上の者を代わりに署に呼んでもいいんだぜ。どこの組のモンだ」
若者のそのドスの効いた低い声は、四人のチンピラを一瞬に震え上がらせた。
「夜中の女性の一人歩きは物騒だと思い、チョッと声を掛けただけで…」男達の態度が一変した。
「お前等の方が物騒なんだよ、さっさとうせろ!」若者は大声で怒鳴った。
チンピラは腰をかがめ、逃げるように走り去った。
チンピラが見えなくなったのを確認し若者は女の方に体を向け言った。
「ざっとこんなもんさ」
女は助けてもらったお礼もそっちのけで
「いつから刑事になったの?」と、上目遣いで問いただした。
若者は警察手帳を内ポケットにしまい女性に敬礼した。
「はい、先ほど任務に就きそしてたった今、任を解かれました」若者は笑顔で答えた。
街灯の光に照らされた女性は若者の透き通る白い歯を見つめた。
「こんな夜遅く一人で歩くから、あんなチンピラに絡まれるんだ」
「…」
「もうやめたらどうだ。…夜の仕事…なんか」
「…」女は黙ったまま若者の胸元を見つめた。
分かってるよ。そんなこと分かってるさ。やめれるんだったらとっくの昔にやめてるよな。若者は女の心を読み取っていた。そして自分の今言った浅はかな言葉に腹が立った。
「さあ、豪華マンションまで送ってやるよ。お嬢さん」
「豪華マンションって、同じボロアパートじゃない」
「おい、ボロはよけいだろ… 」
「ボロは着てても心は錦って言わないでね」
「ハハハハ、言われちまった。案外するどいね」
女は、いつもの優しい笑顔を取り戻していた。
若い男女は少し遠慮がちに間合いを取って歩きはじめた。
午前零時で時計が止まる
「アキ、さっきデッカイ流れ星が夜空を横切ったの見た?」
「流れ星?」
「ああ、流星さ…」 若者は自慢げに夜空を仰いだ。
「知らない、夜空を見てるどころじゃなかったもん」
「それもそうだ。必死に逃げてる最中だったからな。すごくきれいな流れ星だったぞ」
「何ニヤニヤしてるの?」
「うん、願い事が叶うって言うだろう?」
「願い事?へえー、コウちゃん願い事したんだ」
「何笑うんだよ」
「だって、顔に似合わないことするんだもん」
「この顔は願い事する顔じゃないって事かい」
「そうは言ってないわ」
「そう聞こえたよ」
「案外ロマンチックなところがあるのねって感心したの」
「ロマンチックか」
「で、どんな願い事したの?」
「当ててみろよ」
「当てたら何かくれる?」
「おい、なんだよ。貧乏人に向かってよく言うね、そうやって客にオネダリしてるのかい」
「ねだらなくてもくれるわよ。わたし、高級クラブのナンバーワンホステスなのよ」
「はい、はい」
「願い事が分ったわ、お金持ちになりたいって願ったんじゃない?」
「ええ?何で分ったんだ」
「何でって?当たったわけ?フフフ、コウちゃんホントに単純なんだから」
「ただの金持ちじゃない、日本一、いや世界一、いいや宇宙一の金持ちだ」
「へえ、面白い」
「何が面白いんだ、真面目に祈ったんだ」
「きっと叶うわよ、コウちゃん真面目なんだから」
「真面目か、真面目な奴は金持ちになれるのかい?」
「そうね、もう一つ条件があるけどね」
「なんだい?その条件って」
「意地の汚さ…」
「意地の汚さ?じゃあ、俺は無理だ。汚いもきれいも意地自体どっかに落っことしてしまったから今持ち合わせが無いんだ」
ジェットヘリは猛スピードで目的地に向かっていた。
神部浩二は窓の外を黙って眺めていた。
「何を考えているの?」
ぼんやりと窓の外を眺め続ける神部に、心配そうな顔で昭子は尋ねた。
「いや、つい先、流れ星を見たんだ。それを見たとき、あの時のことを思い出したのさ」
「あの時の事?」
「ああ、四十年以上前の話さ。アキが夜中に帰宅する時、チンピラに絡まれた時があったろう」
「え?…チンピラに絡まれる…」
「ああ、俺がたまたまそこを通りかかったから、難を逃れたんだぜ。忘れちまったのか」
「そうだったかしら…でも、そんな昔のことよく覚えているわね」
「覚えてるさ。俺の人生のターニングポイントがあの時なんだから。しかし、アキが忘れているとは驚いたね?」
神部は苦笑しながら窓の下を見下ろした。
そこには街の灯りがキラキラと星のように輝いていた。
「おかしいわ」
「どうした?」
「時計が止まっているの」
「時計?」
「どこかでぶつけて壊れたんだろう」
「そんなことない。手首の内側に嵌めているものぶつけるはずが無いわ。まだ買って新しいのよ。一ヶ月も経ってないのに。故障するなんて」
「また買えばいいさ」
「私の時計だけでなく、ほら備え付けの時計も止まっている。壁時計も、電波時計も」
神部は自分の腕時計を確かめた。
「俺のは止まっていない」
「ほら見て、全ての時計が十二時で止まったままよ。長針も短針も全部十二をさしたまま」
神部は昭子の時計と室内の全ての時計を見比べた。
確かに12時で止まっていた。
「昭子、これは単なる偶然だよ」
「偶然?ホントに偶然なの。私達が未来を変えようとしたから何かが始まったんじゃないの」
「何かってナンダイ?」神部は尋ねた。
「分らない。でも…」
「アキ、心配するな。第一俺の時計は止まっていない。だから何も起こるものか。起こるんだったらもうとっくに起きてるはずさ」
二人が予想していた、世界が消滅するという最悪のシナリオはまだ起きていない。
「そうね」 昭子はユックリと頷いた。どうやら落ち着きを取り戻したようだ。
そんな昭子を見つめながら神部は思った。確かに、「車の事故」だと白木の爺さんは言った。この事は昭子も知っている。
なのになぜ、風呂場で倒れたのだ。
神部は頭の中で時間をまき戻し過去の出来事を一つづつ思い起こそうとした。
昭子は昭子で神部の言葉に違和感を覚え始めた。
私がチンピラに絡まれた?他の女性と勘違いしてるんじゃないの。それに私のことをアキ?何故、今頃その名前を言うの?
そう思いながら昭子は、神部の横顔を見つめたのだった。
白木の爺さんがおかしくなった
神部は昔の自分を思い巡らした。
そしてある記憶の一場面を、思い起こした。
場所は城南撮影所。
その場所を俯瞰すれば、体育館程の建物が十個並んでも余りある巨大な敷地だ。
時代劇用のオープンセットは敷地内の北側に位置し商家や武家屋敷等が連なっている。その東側には、現代劇用のオープンセット。ビルや道路、バスストップ、駅や公園、交番等が実際の街並みの一角として再現されている。そして中央には、巨大なドーム様の建物が一つ聳え立っていた。
屋内用のスタジオだ。
そのドームの周りを数多くの人が忙しそうに出入りしている。
建物の中では撮影用のセットを組建てている最中だ。
背の高い、無精ひげが生え、度のきつい丸眼鏡を嵌めた男がスタッフ達に声をかけている。
助監督の森信三と言う男だ。
眉間に二本の縦皺をつくりスタッフに細かい指示を出していた。
「そこのカーテン、もう少し派手目のもので頼むよ。それと、その応接室の壁、もうちょっと白っぽい色にしてくれないか。その壁に血が飛び散るのを鮮明に写したい。そんな暗い壁じゃあ迫力が出ないぜ」
森の甲高い声は、撮影所に響き渡った。
「助監督」
森は背後で呼びかける声に気づかず、次から次へと指示を出していた。
「助監督!」
一際大きな叫びに似たような声で森は気づいた。
「やあ、こうちゃん」
そこには真っ黒に日焼けした若者が立っていた。
「張りきってますね。相変わらず」
部屋の内装にいそがしく走り回るスタッフの間を縫って若者は森の方に歩み寄った。
「明日がクランクインだよ。てんてこ舞いさ。そうだ、以前頼んだもの、できあがった?」
「ええ、今日はそれを持ってきたんです」
若者はジャケットの内ポケットから重厚な黒い革手帳を差し出した。
その手帳には五角形の日章と警視庁という金文字が輝いている。
森は、その手帳を穴の開くほど丹念に眺めた。
「こうちゃん、これモノホン以上だぜ」森は感心した。
「これなら監督、文句は言わないだろう。こうちゃんが以前作ったパスポート、あの出来も相当なもんだったよ。なにせあの監督、小物をドアップにしてスクリーンに出すだろう。ちょっとでも手抜きや、不自然なところがあると撮影中断ださ。OKが出るまで俺達冷や汗もんだよ」
「こんなことならお安い御用ですよ。用があったらいつでも言ってください」
「ありがとう。明日、事務所に来てくれ。お礼のお金払うからね」
「いつもすみません」
「礼を言うのはこっちのほうさ。…ところで、こうちゃん今何してんの?」
「何って?」
「仕事のほうさ」
「アー。昼はパチンコ屋でバイト、夜は飲み屋のバーテンやってます」
「そうか、なんだったらうちで働かないか。こうちゃんの器用さ監督買ってるからさ。それにその精悍な風貌ひょっとしたらチョイ役で銀幕に出れるかもしれないよ」
「エー、俺が銀幕に」若者は豪快な笑いで答えた。
「こうちゃん、俺本気で言ってるんだぜ」
森は、若者の二重の大きな眼を食い入るように見つめた。
「こうちゃん、なんだったら、俺がスターにしてやるぜ。マジで」森は半ば真剣な表情で若者に伝えた。
アパートの外にある共同トイレで声をかけられた。
「おはよう、こうちゃん」
振り向けばアパートの住人の一人、鈴木が立っていた。四十前後のトラックの運転手で、今日はどうやら非番のようだ。
二十歳前の若い奥さんを貰い、最近子供が生まれ愛想がよくなった鈴木だった。
「スーさん、おはようございます。今日も暑くなりそうですね」
浩二は、元気よく挨拶した。
「知ってるかい?」鈴木は小声で話しかけた。
「何をですか」
「ここだけの話だぜっ。て、言ってもすぐ知れ渡るけどよ」
「ははあ、ヒョットしてスーさんに隠し子がいるってこと?へへへへ」
「おいおい、何言うんだよ。母ちゃんが聞いたら本気にするだろう」鈴木は浩二の言葉にうろたえた。
「そうじゃなくてさ。このアパートの大家。強欲爺さんの白木の事さ。ここがいかれたらしいぜ」
鈴木は自分の頭に人差し指を当てた。
「え、脳溢血でもなって倒れたんですか?」
「いや、体はぴんぴんしているんだが、頭がいかれたらしいんだ」
「頭が?どういうことですか」鈴木の要領の得ない話に浩二は首を傾げた。
「白木の爺さん、訳のわからないこと言い始めてね」
「へえ、訳の分からない事ですか」
スーさんの話はこうだった。
白木の爺さんは、あの歳でソープランドに出向いたと言う事だ。
確か、七十歳は過ぎていたと聞いていたが・・・。
そこでクライマックス、今にも絶頂と言うときに卒倒したらしい。
そこのマッサージ嬢は慌てふためき、大声で店長に知らせ、店長は店長で救急車を呼ぶところをパトカーを呼びつけてしまい客は逃げなくてもいいのになぜか蜘蛛の子散らすようにいなくなり、もうその日は爺さんのおかげで商売にならなかったと言う事だ。
ところが、病院に着くや白木の爺さんは意識を取り戻し、大声で訳の分からない事を言い始めた。
たぶん記憶喪失を起こしたのだろう、身内がほとんどいない爺さんだから、アパートに住む店子に連絡をして引き取ってもらう事にした。たまたま、その身元引受人がスーさんと言う事になったようだ。
今のところ、爺さんすこし、落ち着いてはきているようだが、まだ訳の分からない事を言っているらしい。
「病院の先生に聞いたら、脳の半分が駄目らしいんだよ。なのに体に障害が出てないんだ。訳の分からない事を言ってるんだが頭はもそれほどボケちゃいない。先生、ビックリしてたぜ。こんなことはありえないってね。普通半身不随になってもおかしくないらしいんだよ」
白木爺さんは、アパートから三分ほどの距離に住んでいる。
浩二は爺さんの家を訪れた。
その家は、二年前に建てたという鉄筋コンクリートの三階建て。
周りはほとんど木造つくりの家が立ち並び、その中でひときわ目立つ建物だ。
浩二は玄関のブザーを押した。と、突然ドアが開き若い女性が飛び出てきた。
「何なのよ。あの糞爺!心配して来てやったのに、お前は誰だって、私には孫などいないって?あの強欲爺」
すごい剣幕で怒鳴り散らし浩二を押しのけ赤いスポーツカーに飛び乗った。
確かあれは爺さんの孫娘、いつも金をねだりに来るフーテン娘だって言ってたな。
爺さんは連れ合いを十年前に亡くし今は一人暮らし。一人娘は偏屈な爺さんとは折り合いが悪くよそへ嫁いでからほとんど家には寄り付かない。
その代わりに孫娘が爺さんにまとわり付いて来たと言う話だ。
自動車事故
「白木さん、邪魔するよ」
浩二は家に上がった。
今日は今まで溜まった三か月分のアパート代を払う約束の日だった。
今日払わなければ、あの爺さんの事だ。それを理由に追い出されるかもしれない。
今にも崩れそうなボロアパートだが、それに見合った家賃は浩二にとってありがたい。
それにもうひとつ、爺さんが所有している小屋を格安の値段で貸してもらっている。
浩二はその小屋を自分の作業場として使っていた。
趣味の域を出ないが映画、芝居、演劇で使う小道具などをそこでこしらえている。森に渡したあの警察手帳もそこでこしらえた物だった。
最近はその副収入もバカにならない。いい稼ぎになってきた。
浩二は応接室のドアを開けた。
「邪魔するよ、白木さん」
頭頂部の禿げた老人がテレビの前で座っていた。
画面には今人気絶頂の二人組みのコンビが舞台を汗だくで駆け回り観客の笑いを取っていた。
「白木さん」
その声に気づき老人はゆっくりと振り向いた。
老人の顔色は悪く、生気を失っている様相だ。
「大丈夫かい。顔色悪いよ」
爺さんはうつろな目で浩二を見つめた。
「あんた誰だい?」
「誰?かわいい店子を忘れちゃダメだよ。神部だよ」
「神部?」
「ところで白木さん、とんでもないトコで気を失ったんだってね。近所の噂になってるよ」
浩二は皮肉な笑みを浮かべた。
老人、白木は急に早口で話をしはじめた。
「私は、自動車に乗っていたんだ。高速道路を走っていた。そしたら突然、進路変更してきたダンプカーと接触した。車がスピンして、後は何がなんだか分からないまま、そのまま気を失ってしまった。そして、気がついたらこんな身形、風貌に変わってしまった」
「へえー。自動車事故ね。自動車に乗ってたわけだ。おねえちゃんじゃなくてね」
浩二は笑みを浮かべた。
全くスーさんの言うとおりだ。どうやら白木の爺ちゃん相当、頭に変調きたしたらしい、と神戸は思った。
「今日は約束の三か月分の家賃を払いに来たんだ。受け取ってくれ」
浩二は茶封筒に入れた金を爺さんに差し出した。
爺さんはその茶封筒を見向きもせず、
「一体どうなってるんだ」と呟き、両手で頭を抱え込んだ。
ジェットヘリがポートに降り立った。
神部はエレベーターを使わずに外階段を駆け降りペントハウスに入った。
執事の角田は恐縮そうな顔で待っていた。
「酒井は?」
「このビルのオリエント救急病院に入院されています。」
「容態は?」
「入浴中に脳梗塞で倒れられまして今意識不明の重体だそうです」
「奥さんは?」
「病院のほうにいらしています」
昭子は遅れて、エレベータを使い部屋に入ってきた。
「私、奥さんに付いててあげるわ」
「ああ、そうしてくれ」
昭子は執事の角田と共に階下の病院に向かった。
神部はソファーに倒れるように横たわった。
天井にぶら下がるシャンデリアの細かなガラス細工が空調の風で、小さく揺らいでいる。
「しかしなぜ?どうしてなんだ?自動車事故だったはずなのに。俺の聞き違いか?いや、そんなことはない。はっきり白木の爺さんは言っていた。それにあのノートにも書かれてある」神部は天井を睨み腕を組んだ。
あのノートにはこう書かれてあった。
この日、酒井は出張で秋田に行く予定だった。飛行機で行くはずの酒井は車で出発した。理由は競馬好きの仲間達で共同購入した馬を見に行くためだ。
しかも今日はその馬のデビュー戦。秋田での会議は明後日だから、今日、そのデビュー戦を観戦したとしても時間的にも、距離的にも十分に余裕がある。ただ、酒井の誤算はこの日の午前零時に自動車事故が起きるという事だ。ノートの中ではそのように書かれてあった。
夢の中の謎の男
ソファーの背もたれに体を預け神部は首をユックリと回した。
一昨日からほとんど睡眠を取っていない神部だった。
壁にかかっている時計に神部の目が止まった。
「止まっている。十二時で止まっている」神部は辺りを見渡した。
時刻を刻む全ての時計に目をやった。
掛け時計、置時計、時計と言う時計が全て止まっていた。
「この部屋の時計までもが止まっている。どういうことだ」
角田が戻ってきた。
「奥様は今日一晩、酒井様の奥様に付き添われるとのことです」
「分った、で、酒井君の容態は変化なしか」
「はい、集中治療室で完全看護の状態です。一週間がヤマかということです」
「一週間か」 神部は大きくため息をして立ち上がった。
「時計が止まっている。直しておいてくれ」
「えっ、あっはい。分りました。直ぐに、でも、どういうことでしょうかね」
「何が」 神部は首を傾げる角田に問うた。
「はい、さきほど病院の待合室で、時計を見ましたらやはり、十二時で止まっていたんです。しかも私の時計もです。どういうことでしょうか」
何か得体の知れないものが忍び寄ってくる、神部はそんな不安な気持ちになった。
ぼんやりとした朝。まだ朝日が顔を出さない空が少し青みを帯びた早い時間。
ここは、川沿いの土手の道。
車一台分の道幅はあるが舗装されていないため、地面はところどころ凹凸に波打っている。
真昼でもめったに人も車も通らない。
土手の近辺は田畑らしき土地が広がっているが誰も耕す者はいない。荒れ放題で子供の背丈程の雑草が生い茂っている。
そして今にも朽ちそうな小屋がポツンポツンと見えるだけの寂しい場所だ。
ただ、川のせせらぎが心地よい音を奏でている。
浩二はいつものように口笛を吹きながら自転車を漕いでいた。
白木爺さんから借りている小屋に向かうところだった。
つい先日、助監督の森からある小道具を造ってくれと頼まれた。
今回頼まれた物は銃だった。ワルサーP38と、ルガー。年式も注文に入っていた。
わざわざ銃を網羅した分厚い本を森から渡された。
それを参考にしろという事だ。
今回は鋳物技術が決めてになる。時間も限られているので早めに着手しなければ間に合わない。
しかも今度の成功報酬は今までとは桁が違う。
自然と口笛が出る報酬なのだ。
電信柱に取り付けられた粗末な蛍光灯の灯りがパカパカと点滅しているのが見えてきた。
その電柱のすぐ側、草が伸び放題の畑が白木爺さんの土地だ。その畑のほぼ中央に、草で半分隠れた小屋が浩二の仕事場だ。
畑の中には、人一人分が通れるぐらいの草を刈り取った道がある。浩二はその通り道を自転車を引きながら進んだ。
浩二はフト足を止めた。
「あれ、明かりが点いている。誰かいるのかな」
窓のカーテンの隙間から明かりが漏れていた。
「泥棒?それとも白木の爺さんか?」
首を捻りながら浩二は小屋にユックリ近づいた。自転車を置き、ドアの鍵穴にキーを差し込み回した。抵抗なく鍵が回る。
鍵はかかっていない。
浩二はユックリとノブを回しドアを開いた。
白いシャツを着た男が後ろ向きで何か作業している。
「ここで、何やってるのだ」浩二は小さく呟いた。
白いシャツの男は夢中で作業を続けている。
小屋の中を見渡せば 今まで神部が使っていた作業場の風景じゃない。
しかも揮発性の溶剤のような臭いが、部屋の中に充満していた。
男は黒い車体のバイクを白に塗り替えようとしているのだ。
俺の仕事場で何をやっているんだ。
浩二はだんだん腹が立ってきた。俺が借りている仕事場を勝手に模様替えして使用するなんて普通じゃない。
神部はそっと小屋の中に入った。
男は気づくこともなく刷毛でバイクを白く塗り替えていた。
神部は机の上に置いてある金属のバールのような物を掴んだ。
これで少し心強くなった。
「おまえはだれだ!」
浩二は大声で叫んだ。
途端 作業中の白シャツの男が動きを止めた。
そしてユックリと後ろを振り返り始めた。
神部は、男の顔を見て思わずバールを落とし大声を上げた。
神部はソファーから飛び起きた。
いつの間にかソファーで横になり眠ってしまったようだ。
大きく深呼吸をし、息を整え額の汗をぬぐった。
「夢か・・・」
その白シャツの男の顔を見たが、夢から覚めるとその顔の記憶が消えてしまう。
この夢は最近よく見る。
だが一体あいつは誰だったんだろうか。
そう思いながら、神部は苦笑した。
「所詮、夢の中の出来事なんだ」と呟いた。
特上の江戸前寿司
浩二は白木の爺さんが金を断固として受け取らない事に辟易していた。
全く信じられない話だ。 あの強欲爺さんが家賃を受け取らないなんて。
受け取る理由がないと、意味不明なことを言っていた。
アパートの住民の中にはそれをいい事に家賃を踏み倒そうとする者もいたが, ひょっとしてこれは爺さんの企みかもしれないと勘ぐ者もいた。
家賃をもらっていないという事を理由にアパートから住民を追い払う魂胆じゃないかと。
老い先短い爺さんが身辺整理のため、このアパートを叩き売るつもりではないかという噂がまともしやかに広まっていた。
噂がどうであれとにかく浩二は再度、爺さんの家に出向く事にした。
家賃を貰ってもらわないと、浩二の気持ちが落ち着かない。
浩二の実直すぎる性格は、多少強引過ぎる部分もあった。
玄関のドアには鍵がかかってなかった。
全く物騒だな。鍵ぐらい掛けたらどうだ。
そんな事を思いながら浩二は家に入った。
「白木さん邪魔するよ」
浩二は、勝手に上り込み、応接間に向かった。
白木の爺さんは相変わらずのテッペン禿げを見せながら、テレビを見ていた。
どうやら食事の最中のようだ。
しかも、けちな爺さんにしては珍しく出前の寿司を食べている。
寿司桶の色からにしてどうやら特上のようだ。
信じられん、浩二は首を捻った。
「いやあ、白木さん。食事の最中にごめんよ」
爺さんの前に寿司桶が二つ置いてある。
二つも食べるつもりかい。
浩二はあきれた顔で爺さんの食べっぷりを眺めた。
「いやあ、あんたも食べないかい。腹が減ったんで二人前頼んだらどうも食べきれない。残すのももったいないしね」
「いいのかい、食べた後でお金請求するんじゃないだろうね」
「ハハハハ、そんな、ミミッチイことするかい」
「いやあ、あんたならするよ」
「しないよ、遠慮なく食べればいい」
白木の爺さんは少し不機嫌な顔で寿司桶を浩二の前に差し出した。
「じゃあ,お言葉に甘えて、御相伴に預かりましょうか」
浩二は遠慮なく脂ののったトロを口にほうばった、次にうに、そしていくら、エビと値の高い順から次々と平らげていった。
いつ白木の爺さんが心変わりするか知れないので、めったに口に入れることのないネタから素早く食べ始めたのだった。
「そう慌てなさんな、誰も取りゃあしないさ。ユックリ味わってたべなさい」
白木の言葉と、その顔色を伺った浩二は安心したかのように食べるスピードを落とした。
白木の爺さんは浩二の顔を穴のあくほど見つめながら尋ねた。
「あんたの名前は、・・・・確か、神部浩二って言うんだよね」
「ああそうだよ。俺の名前もわすれたのかい。店子は金の成る木だよ。忘れちゃダメだよ。白木さん」
「そうか。そして今年は昭和四十三年。一九六八年。なんだよね」
「ええ?何を当たり前の事聞くんだい。そうさ明日は昭和四十三年十月十二日、メキシコオリンピックが始まる日さ」
「メキシコオリンピック?と言う事は今日は十月十一日か」
「ああ、12の前は11だよ。世界共通だと思うよ」
「そうか、今日は一九六八年十月十一日なんだ」
「なにを感心してるんだい」そう言いながら浩二は舌鼓をさせながら寿司を平らげた。
「神部さん!すぐ名古屋に行こう!いますぐ」
白木は人が変わったように大声で言い放った。
勢いよく立ち上がった白木を浩二は呆然と見上げた。
今日はパチンコ屋の定休日。浩二にとって一日暇な日だ。
有無を言わせない白木の迫力に負け浩二は、付き従うことにした。
「名古屋ね。一体そこに何があるんだい」と、呟きながら身支度を急ぐする白木を眺めた。
白木爺さんの秘密
新幹線で名古屋駅を降りた白木は付き物がついたようにある場所に突き進んだ。地下鉄を乗り継ぎ、とある駅で降りた。
「白木さん、あんた名古屋の出身かい? 詳しいね」
神部はサッサと歩く白木爺さんの後を必死に追った。
白木は途中何を思ったのか売店で傘を買った。
「爺さん,こんなに晴れてるのに傘なんかもったいないよ」
白木は神部の忠告を無視し、傘を片手に駅近くの公園に入った。
「神部さん、これから私の言う事をよく聞いてほしい。そしてこれから起こる事実をよく見てほしい。いいかい」白木は懇願するように神部に言った。
今まで白木のこんな真剣な表情を見たことがない。
神部は、改まった顔で頷いた。
「今何時だい」白木は尋ねた。
神部は腕時計を見た。
「もうすぐ三時になるよ」
「そろそろ、高校生風の若者がこの公園に入ってくる。学生服の色は、ネズミ色。独特の色だからすぐ分かる。学生は黒縁のメガネを掛け、ズボンのポケットに両手を入れてやって来るはずだ・・・・」
白木がそう話し終わるや否やその学生が公園内に現れた。
学生服はくすんだグレー、確かにねずみ色だ。
黒ぶちのメガネを掛けている。両手をズボンのポケットに忍ばせていた。
「どうして…」神部は呟いた。
「もう直ぐ反対側の入り口からチンピラ風の男が三人入ってくる」
「えっ?」
そう言った、まもなくその風体の男が三人、別の入り口から公園に入ってきた。
「三人の内の赤いジャケットの男とあの学生の肩が触れる。それを因縁に学生はけんかを吹っかけられるんだ」
白木は下唇を噛みその学生を見つめた。
ナレーションを読むような口調で話す白木。
まるでドラマのワンシーンを見てるようだと、神部は錯覚した。
ヒョッとするとこれは映画の撮影で白木爺さんはこの撮影のエキストラとして出ているのかと疑い始めた。
遠めで映写機が我々を狙っているのではないかと神部は周りを見渡した。
赤いジャケットを着たサングラスの男は肩を揺らしながら学生に向かっていた。
男の肩が学生の肩に触れた。
突然、公園内で大声が響いた。
「おい,なにするんだよ!肩が脱臼したじゃねえかよ。いてエー」
「ひでえなあ。こりゃあ全治一ヶ月の重傷だぜ。お兄ちゃん、どうするんだよ。ダチが痛がってるじゃねえか」
仲間の一人が大袈裟に喚いた。
学生は横目でそれをチラッと見、無視して通りすぎようとした。
すると、頭を丸坊主にした男が学生の両肩を掴み振り向かせようとした。
学生はそれを振り払い足早にその場を去ろうとした。
赤いジャケットの男は素早く学生の前に立ちはだかり脱臼したと言い張った右の腕で学生の胸倉を掴んだ。
「てめえ,学生の分際で!礼儀って言うのをしらねえのか」
学生とほとんど歳は変わらないようなその男は左手の拳で学生のみぞおちを突き上げた。
学生は体を折り曲げ地面に膝をついた。
突然今まで晴れわたっていた空が黒雲に覆われた。
そして大粒の雨がかわいた地面に土埃を上げながらポツ、ポツと落ち始めた。
白木は傘をさし、神部の方に寄った。
季節はずれの夕立が雷を伴って襲ってきたのだ。
雨の中を三人のチンピラは寄ってたかって学生を痛めつけた。
サンドバック代わりに、サッカーボール代わりに拳と足が学生の全身を襲った。
「一体いつまでやりゃあ気がすむんだ」神部は舌打ちをした。
「大丈夫だ。もう直ぐ誰かが助けてくれる」白木は言った。
「誰かってそんなの待ってたらあいつ死んじまうぜ」と、言うが早いか神部はチンピラの方に向かった。
白木は神部の走る後姿を見つめて言った。
「助けてくれたのはあんただったのか」
神部は勢いをつけ飛び上がり、赤いジャケットの後頭部めがけ、思いっきり右肘を打ちつけた。
鈍い音と共に赤いジャケットの体は宙に飛び地面に叩きつけられた。
すかさず神部はもう一人、坊主頭の両目に右手の指を突き刺した。
指は第二関節まで眼窩にめり込んだ。
坊主頭はのけぞりながら仰向けに倒れた。
もう一人の男は神部の目にも止まらぬ攻撃を見て腰を抜かしていた。
雨は周りの視界を遮っていた。
神部は素早く体を移動し尖った革靴の先で勢いよく、腰を抜かした男の米神を蹴り上げた。
それは一瞬の出来事だった。
三人のチンピラは地面で倒れたままだった。
雨が少しづつ止みはじめた。
神部は、びしょぬれの高校生を助け起こそうとしたが、高校生はその手を振り切りよろけながら自力で立ちあがった。
「大丈夫か?」
学生は俯いたまま無言でお辞儀をし、回れ右をして片足を引き擦りながらその場を立ち去った。
神部はその学生を暫く眺め、白木の元に駆け寄った。
「あいつ大丈夫だろうか」
「大丈夫。少し顔面は腫れるが二週間で治るさ」
「なんで分かるんだ。・・・・あんたの言ったことが眼の前で事実になっていく、一体どうして?白木さん一体これはどういう事なんだ」
白木は神部の顔を見つめボソリと言った。
「実を言うとあの学生は私なんだ」
「はあ?あの学生があんた。何言ってるの。意味不明だよ。じゃあ、あんたは一体誰なんだ?」
「さあ、私にもよく分からん」
アキ
翌日、アキ(昭子)は浩二の部屋で、朝食の用意をしていた。
浩二はせんべい布団にくるまって震えていた。
どうやら昨日の夕立の太刀周りで風邪を引いたようだ。
たまたま昨夜、屋台のラーメン屋でアキ(昭子)と浩二は出会った。
元気のない青白い顔の神部を見てアキは心配になり朝早く、浩二の部屋を訪れたのだった。
「はい」アキは、欠けた茶碗にアツアツのおかゆを満たし、差し出した。
「悪いね」
浩二は、虚ろな目で昭子を見つめた。
「あの時助けてくれたお礼よ」アキは、チンピラから助けられた礼をまだ浩二に言ってなかった。
「あんなのどうってことねえさ」
「私,今から出かけなきゃ行けないの。おかゆが鍋に一杯こしらえてあるから。それ食べてね。帰ったらまた寄るから」
「今日は非番じゃないのかい」
浩二の問いかけにアキは寂しい笑みを返しただけだった。
男臭い部屋に,甘い香りを残してアキは部屋を出ていった。
パトロンか。
浩二の頭にある人物の顔がよぎった。
ずいぶん前にタクシー帰りの昭子をたまたま見かけたのだ。
後部座席の隣には、年配の男性がいた。
品のいい感じの老人だった。
確か歳は七十前と昭子から聞いた。
全く最近の爺さんは元気溌剌だ。
繊維会社の会長さんだと言ってたなあ。
死んだ孫がいてその孫をアキに投影させているらしい。
男と女の関係じゃないってアキは言ってたが…どうなのかな…。
昭子は長野の出身、透き通る肌の白さは空から落ちる純真無垢な白雪を彷彿させる。
昭子には弟が一人いる。
父親を早く亡くし母親が二人の面倒を見てきた。
その母親が交通事故で不自由な体になった。その時から、一家の生計は全て昭子にのしかかった。
中学に入学した弟と車椅子生活の母親二人を養わなければならない身の上となった。
高校を卒業し直ぐ東京に働きに出てきた。
会社に勤めるが、妻子持ちの上司にしっつこく言い寄られ結局その会社を辞めざる終えなくなった。まだセクハラ、パワハラ等ない時代だ。
再就職するにも、途中で勤め口を辞めた女性には就職口の門戸は厳しい。
しかも、家族を養わなければいけない。それ相応の身入りのいい職場など皆無に等しい。
右も左も分からない、うら若い女性がこの東京で見入りのいい職場といったら当然、答えは決まってる。
高級クラブに籍を置いたのは数年前、器量の良さと心づかいの細かさで、今ではナンバーワンのホステスになった。
普通だったら高級マンションで暮らせる収入のはずだが、金はほとんど実家の方へ仕送りしているらしい。
だから、このぼろアパートで甘んじている。
もちろんそのおかげで浩二は昭子と出会えたのだが。
気さくな昭子は独り身の浩二にとって唯一気軽に話し合える異性の一人だ。
浩二は黒いシミが浮き出た天井を見ながら思った。
この世の中、どんなにきれいごとを言っても金がなければどうしようもない。
きれい事を言える身分になるにはまず金が必要だ。
金がないから金の汚さを知る、金がないからその力、傲慢さにひれ伏してしまう。
そして愛でさえ、全ては金…金なんだ。
浩二はふっと昨日の白木爺さんとの会話を思い出した。
自分が一体誰だかわからない白木の爺さん。
今から四十年以上先の未来で自動車事故を起こし、気付いたら過去に逆戻り。
しかも、どこの馬の骨か知らない爺さんの体に乗り移ってしまったという事らしい。
にわかに信じられない話だが昨日の名古屋の一件で マジか?と思った浩二だった。
「あの事故で私の魂が時空を飛び越え過去に舞い戻った」そう言った白木の言葉が本当だとしたら。
もし事実なら… 浩二は、ふと思いを巡らした。
予言の書
昭子の看病のおかげで体調も良くなった浩二だった。
浩二はもう一度白木爺さんに会いに行こうと思った。
まだ、家賃を渡していない。というよりも、名古屋のあの件で渡すのをスッカリ忘れてしまったのだ。
今日は、なにが何でも金を受け取ってもらうわなければと心に決めた浩二だった。
白木爺さんの部屋に入るやいなや
「いやあ、神部さん。待ってたよ」と、元気のいい声が部屋に響き渡った。
今日の白木爺さんはなぜか御機嫌だった。
「これをあんたに渡すよ」
白木は藁半紙の束を神部に差し出した。
「なに?これ」
「まあ,読んで見なさい」
その色褪せた粗末な半紙にはボールペンでびっしりと文字が書かれてある。
「何が書いてあるんだ?」
「これから起こる事さ」
「これから起こること?」
「未来が記してある。昨日はそれを書くため徹夜したよ」
「未来?」
「言っただろう。私は、未来からやってきたんだ」
「最初は面食らっちまったよ。なにせ、気付いたらこの白木という爺さんの体に置き換わっているんだからね。全く、信じられん」
「…どうやら、このままこの体で終わるのかもしれないと思ったら、少し気が楽になってね」
白木はタバコを口にくわえ火をつけた。
煙を吸い込んだ途端、激しく咳き込んだ。
「白木の爺さんはタバコは吸わなかったよ」激しく咳き込む白木を見て、浩二は心配そうに告げた。
「どおりで、気持ちわるーい。うぇー。久しぶりだよ。タバコでこんなに咳き込むなんて」
白木は粗末な波を打ったようなアルミの灰皿に吸いかけの煙草をもみ消した後、お茶を一気に口に流し込んだ。
「神部さん、あんたは将来、会社を起こす。その会社は日本で、いや世界に知られるトップ企業になる。実を言うと私はあんたの部下だったんだ。あまり役には立たなかったがね。ホントに世話になった。と言ってもこれから先の話だが。で、恩返しと言っちゃなんだが、これから未来に起こる全ての出来事を私の知る限り詳しく書いた。このわら半紙にね。参考にするがいい」
浩二はそのわら半紙の塊を受け取りざっと目を通した。
「携帯電話?ポケットに入れられる電話?コンピューターが子供でも扱える?簡単に誰でも買う事ができるパソコン?空前の土地ブーム、バブル景気?コンビニ?歩行ロボット?ナビゲーションシステム… 」
浩二は思わず苦笑した。
「なんだい、これ?まるでマンガだ。SFの世界だな」
「そうだ,今考えればね。しかしそれは確実に現実となる」
「ふーん、…もしこの書いてある事が本当なら…白木さんの言ってることが本当なら」
「本当なら?」
「白木さんじゃなくて、酒井さん…だったよね」
白木はゆっくりと頷いた。
「四十数年後に自動車事故に遭うんだよね。そして爺さんは、いや酒井さんの魂がこの過去に蘇る。なんか複雑で頭がこんがらがっちゃうけど……とんだ災難が起きたわけだ」
「しょうがないさ。これも運命だ」
「助けてやるよ。あんたが将来、その自動車事故に合わないようにしてやる」
白木は驚いた顔で浩二の顔を見つめ、そして軽いタメ息を吐いた。
「なるほど、嬉しいね、だがどうかな。これは現実に起こる事だ。これが私の運命。もしその事故に会わず、私が生き延びられたとしたら、未来が変わって行くんじゃないかな。時の流れに狂いが生じおかしな事になりはしないか。事故に遭ったから今、私と君はこうやって話し合えてる。そうは思わないかい。私が事故に遭わなければ、神部さん、あんたのバラ色の未来はヒョッとすると無くなるかもしれないんだよ。それどころか、今のこの世界が消滅するかもしれない。そうは思わないかい」
白木は腕を組み神妙な顔で神戸に話したのだった。
酒井が風呂場で意識を失い一週間が過ぎた。
神部は、酒井を助けてくれ、と院長に土下座して懇願した。
完全看護で、金に糸目をつけずありとあらゆる最先端医療の処置が酒井に施されている。
しかし、容態は芳しくなかった。
「なぜ、風呂場なんだ?…自動車事故で意識不明になるはずなのに」 神部は何度も自問した。
事故にあわないようにと、神部は酒井をこのペントハウスで軟禁状態にした。
車に乗せなければ事故にあうことはない。
あの時、白木の爺さん、つまり酒井と交わした約束、『酒井を助ける』という誓いを果たそうと神部は実行した。
ただ、酒井が事故に遭わずこの世界で生き残れば、神部が体験した過去は存在しなかったことになる。
だとすれば、この現実は存在しなくなるか、それとも変わるかもしれない、と神部は考えていた。
それを覚悟の上で昭子の同意を得て酒井を助けることにしたのだ。
元々、あのわら半紙に書かれた予言書を参考に神部は人生を勝ち続けてきた。
全ては酒井のおかげなのだ。
その酒井が自動車事故に遭うと分っているのに見過ごすわけにはいかない。
今まで酒井のおかげで幸せな人生を過ごさせてもらった。
せめてもの恩返しという、そんな気持ちから思いを実行したのだった。
あの事件
青ざめた表情で昭子が部屋に入ってきた。
その顔色を見て神部の心に嫌な予感がよぎった。
「どうした、慌てて」
昭子は声を震わせながら言った。
「酒井さんが亡くなられた」
神部はそれを聞いて崩れるようにソファーに座りこんだ。
「結局、酒井の運命を変えられなかった」
神部は肩を落とし大きなため息を吐いた。
酒井の葬式はこのビルの中にある葬祭場で行われる事になった。
揺り籠から墓場までという謳い文句のこの巨大ビルにはすべてが備わっている。
このビル自体が一つの都市を形成していた。
葬式は社葬にすると神部は妻に告げた。
「社葬?どうしてまた」昭子は尋ねた。
「酒井はこの会社の第一の功労者だからさ。俺の部下にどれだけ酒井がこの会社の発展に寄与したかを話してやるつもりだ」
「酒井さんが残したあのわら半紙を皆に見せるわけ」
「まさか」
「だったら、私達が過去に酒井さんに会って未来の全てを教えてもらった、なんて言うの?」
「そんなことは言わないよ。酒井はいかに能力があったかを部下に知らしめてやるのさ。全てのアイデアは酒井が発案したものだと知らせてやるんだ。会社の連中は酒井の事を無能呼ばわりしてたからな。酒井が有能な社員だったという事を彼らに教えてやるのさ。それが俺にできる最後の恩返しだ」
「だったら、酒井さんが生きていた時に言ってあげればよかったのに」
「そんな事、まず酒井自身が信じないだろう。自分が有能で、この会社の貢献者だって言ったら目を丸くして、あいつの事だ。登社拒否するぜ」
そう言った後、神部は居間を出た。
特別な場所、隠し扉のある部屋に向かった。
そこには鋼鉄の隠し金庫がある。
神戸夫婦しか知らない秘密の金庫だ。
神戸は書棚に向かった。何百冊ある本棚から秘密の扉という分厚い本を取り出し、本を開くこともせず再び本棚に押し込んだ。次に未来への鍵という本を取り出し、そしてこれも同じように棚に再び入れた。数秒経ったころに本棚の中心棚が回転し半円状の金庫が現れた。
金庫の指紋暗唱のタッチキーに人差し指をかざした。
金庫の扉が開いた。
金庫の中には、手垢で薄汚れ、ところどころテープで修復してあるわら半紙の束が一冊だけ置いてあった。
神部はそのわら半紙の束を大事そうに手に取った。
その表紙には予言の書と書かれてある。
「この予言の書が俺の成功の秘密。今となってはただの紙屑になってしまったが」
神部が住む巨大ビルの四十四階に葬儀場、ひかり会館はある。
四十四階の全フロアーが、葬議場となっていて、酒井の葬儀は明後日に行われることになった。
社葬と言う連絡を受け光会館の重役達が神部の下に急遽集まった。
元々、ひかり会館の創業者は神部自身だ。彼の一声は、神託が下るに等しい。
重役連は一時間内で神部の下に集まった。
「酒井の葬儀を社葬にする」と、神部は皆が集まった席で告げた。
誰もその意見に反論はしない。
その場ですぐ段取りが始まった。
全国のおもだった神部の部下がこの葬儀場に集まるのだ。部下だけではない、政治や経済界の国内外の中心人物も出席する。
総勢何人集まるのか想像すらできない。
光会館の幹部連は、葬儀の準備のため慌ただしく神部の部屋を後にした。
そんな部下を尻目に神部は、一人ソファーに座り古ぼけたわら半紙を取り出した。
手垢で汚れたその紙はボールペンの文字が多少読みづらくなってきている。
酒井が自動車事故を起こした日付までの出来事が事細かに記されている。
神部は改めて酒井の記憶力のすごさに舌を巻いた。
最初は半信半疑だった。
この予言の書が事実であると確信したのは、ところどころに書いてある予言だった。
ほとんど、暗記するぐらい読み込んだ予言の書の一ページを神部は開いた。
まず最初に書かれてあるのは、あの有名な事件だ。
昭和四十三年十二月十日。午前九時半。三億円事件が起きる。
たったその一行。
その事件からこの書は始まっている。
確か、爺さんからこの未来の書を受け取った二か月後に実際に起きた事件だ。
この事件は日本中で話題になった。
この事件が起きてからだ、あの夢を見始めたのは。
自分が借りている小屋で見ず知らずの男が、黒バイクを白に塗り替えている。その男に声をかけ、振り向いた男の目と目が合った途端、夢から覚める。
そして目覚めた途端その男の顔の記憶が消えてしまう。
精神科に診てもらったが、ストレスによるものでよくあることだ。気にするなという答えだ。
出される薬は睡眠導入剤と精神安定剤。
三億円事件が起きた時から始まった悪夢。
きっかけは三億円事件、この事件と、夢のあの男、何か関連があるのではないか、と思ってもみたが、その関連性が何なのか見当もつかない。
三億円事件は確かに日本中を騒がせた事件だ。強奪犯をヒーロー扱いでマスコミは取り上げた。
誰も人を殺さず、鮮やかな手口で犯行が行われた。
あるメンタルクリニックのドクターは、俺自身がその事件に特に興味、関心があるのではないかと尋ねられた。
関心が嵩じて夢の中で犯人をヒーローに作り上げてしまった。
要するに、自己逃避なのだと、言うのだ。
仕事へのプレッシャーからくるものだとも。
じゃあ、あの小屋にいた見知らぬ男は俺が勝手につくりあげた三億円犯人なのか・・・、?
だが、俺にとって三億円事件はただの事件だ。
興味は多少あるが、なんて言ったらいいか、うまくやったな!って思うぐらいの事件に過ぎない。しかもすでに遠い過去の事件だ。
忘れったっていいぐらいの過去の出来事に過ぎない。
なのに今でも時折、いや、頻繁にみるようになるのは何故だ。
何かおかしい。と、神部は思うのだが…。
ショウ?
神部は『予言の書』の次のページを開いた。
このページに書いてある、ある言葉が俺の人生を変えたのだ。
神部の人生を変えた予言の言葉の一つ。
神部はそのページを見渡した。
神部の顔色が少しづつ変わり始めた。
「おかしい…」
神部は次のページを開いた。
「なんで…だろう?」
次のページもめくった。
「どうなってんだ」神部は思わず呟き、早めくりで次々と頁をめくった。
「ない、書いてない。どうなってるんだ」
神部は茫然として天井を仰いだ。
「どうしたの?」
昭子は、ソファーにもたれ天井を見上げたままの神部に尋ねた。
「この、『予言の書』を今見ていたんだ」
昭子は神部の隣に座り、皺だらけのわら半紙を見つめた。
「おかしいんだよ。書いてないんだ」
神部は『予言の書』を昭子に渡した。
「何が書いてないの?」
そのぶ厚いわら半紙の束をめくりながら昭子は訊いた。
「酒井は大の馬好きだったろう、無類の競馬ファンだった。昭和四十四年から競馬の勝ち馬をこの予言の書に書き記していた。一着から三着までの勝ち馬の名前をね。それが消えてるんだ」
「へえ、そんなこと初めて聞くわ。酒井さん、馬好きだったの?」
「何言ってるんだ。忘れたのか。馬券で大穴を開け奥さんを泣かせたことがあったじゃないか。その為に会社の給料を前借したことも」
「前借?そんなことまでしていたの?」
「何を言ってる。恭子さんがお前に泣きついてきて、競馬で生活費を使い込んでしまった、と言って離婚話まで持ち上がっただろう。見かねて俺達のポケットマネーで生活費を渡した事、忘れたのか…」
「初めてよ、そんなこと聞くのは」
「アキ、どうしたんだ。健忘症にでもかかったのか」
「あなた、逆に尋ねていい?」
「なんだ」
「アキ、アキって私の事言うけど…そのアキって誰の事?」
「アキって言うのはお前の事じゃないか。昭子のアキだろう。何を言ってるんだ」
神部はアキが健忘症ではなく痴呆症にかかっているのかと疑い始めた。
神部の脳裏にその不安がよぎり血の気が引きはじめた。
酒井の葬儀をおえたら直ぐアキを病院に連れて行こう。
神部はアキの顔をやさしく見つめなおした。
「あなた、私は昭子。し、よ、う、こ。亜紀子は、私の姉さんの名前よ。亜紀子姉さんは、三十年以上前に亡くなっているわ。私は妹の昭子よ。自分の妻の名前を忘れたの?」
「何を言ってるんだ。アキしっかりしてくれよ。アキに姉がいたなんて聞いたことがない。弟はいたが姉がいたなんて…」
「あなたこそしっかりしてよ。亜紀子姉さんと私は一卵性双生児。姉の亜紀子姉さんとあなたが付き合っていたのは知っているけど。でも、自動車事故で全身に大やけどを負いそれを苦に自殺したの。忘れたの…。初めて私たちが出合ったのは姉が入院してた病院…」
神部は信じられない気持ちになった。
アキは自分が昭子(ショウコ)、と思い込んでしまっているようだ。しかも物語まで作ってしまうなんて。痴呆症の一つの症状なのだろうか。とにかくこの場はあまりアキを興奮させない方がい いかもしれない。
「そうだったね。確かにそうだった。ショウコ。僕の勘違いだった」
「ホントに大丈夫なの」
「もちろん、少し疲れたんだ。今日は早めに休むよ」
昭子は神部の様子を心配そうに見つめながら言った。
「主治医の先生に一度診てもらったら」
「ああ、明日にでも診てもらうよ」
「今から、予約の電話を入れましょうか」
「いや、自分で連絡するよ。ショウコはもういいから休みなさい」
昭子は部屋を出ようとしたとき振り返り神部に言った。
「ショウコじゃなく、いつもの呼び名で言ってよ」
「いつもの呼び名?」
「ええ」昭子の眼に笑みはなかった。
とっさに神部は思いつきの呼び名を言った。
「おやすみ、ショウ」
神部のその言葉を聞き昭子は一安心したかのように笑みを浮かべ部屋を去った。
「アキ、一体どうなっちゃたんだ」
もう一つの世界
翌日、神部は主治医の桜井を呼んだ。
「神部さん、お久しぶりです」
元気のよい声が応接間に響いた。
「いやあ、桜井先生。すみませんねえ、お忙しいところお呼び立てしまして」
「いいえ、神部さんのためなら地の果てまでもお邪魔しますよ」
桜井は医者というよりも、見た目、元気のいいやり手の猛烈セールスマンって感じだ。
神部はこの桜井を気に入っていた。
実際、自分の会社に引き抜こうか、と声をかけたぐらいだ。
高い給料を条件に掛け合ったがあっさり断られた。
もちろん冗談半分のつもりだったが、真剣さが見え隠れする神部の勧誘に桜井は少し鼻白んだのだった。
「ところで、神部さん、どこか体の調子がお悪いのですか」
桜井は聴診器を首にかけ神部の顔色を見た。
「いや先生、実は私じゃないんです。妻の事でお聞きしたいとおもってね」
「奥さん?」
神部は小さく頷いた。
「まさか、奥さんが妊娠したとか?」
「先生、冗談はやめましょう」
桜井は神部が冗談で返事を返さないことに、ただ事ではないとすぐに笑みを消し去った。
「単刀直入に言いますが、うちの家内が少し痴呆にかかってしまったようなんです」
「痴呆?先ほど奥さんにお会いしましたが、そのようにお見受けしませんでしたが」
「普通の会話では、そんな感じは見られないんですが。ただ、自分の名前を忘れてしまっているんです。いや、忘れたというより自分を誰か別の人間と思い込んでいるのです」
「別の人間?」
「はい」
「ふーん、ちょっとカルテつくりますので。奥さん呼んでもらえますでしょうか」
「先生、今はちょっと…妻には内密でお願いしたいんです」
「はあ、…なるほど、分かりました」
桜井は神部の思いを察した。
三十過ぎほどの髪を茶色に染めた看護士は、薄いノートパソコンをバッグから取り出した。
「今は電子カルテと言って、全てキーボードがペン変わりなんですよ。僕はいまだに、このパソコン操作が苦手でしてね」
桜井は苦笑交じりで赤い薄っぺらなノートパソコンを見つめた。
「神部さん、奥様のお名前は神部…」看護士は神部に尋ねた。
「たしか、ショウコ(昭子)さんでしたね」桜井は言った。
「ショウコ?先生まで何を言うんですか。妻の名前はアキコ(昭子)ですよ」
「え?アキコさん?奥さん、お名前を変えられたんですか?」
「変えちゃいません」
神部の表情は強ばった。
酒井のお通夜は、多くの弔問客でごったがえしていた。ほとんどは、故人のために来ているわけではなく、葬儀委員長、神部浩二という名前で集まった人々だ。
経済界はもちろん政界の重鎮や、マスコミ関係、芸能関係者もこぞって顔を出している。
神戸は妻とともに弔問の客に頭を下げまくっていた。
元々、腰の低い神戸は深々と頭を下げながら一人一人に丁寧にあいさつを交わしていく。
延々と続く弔問客の列が途切れ途切れになったのは、午前零時に近づこうとしている時だった。
「少し、疲れた。先に横にならしてもらうよ」
昭子にそう告げ、神部は式場を後にした。
式場のある部屋に世界最速の特別エレベーターがある、つまり神部やその身内しか乗ることができないエレベーターだ。
そのエレベータを使えば直に行きたいフロアーにいつでも行ける。もちろんエレベーターの待ち時間数秒だ。
神部は二分もかからずペントハウスの居間に着いた。
自室に入りパソコンのスィッチをオンにした。
主治医の桜井が妻の名前をショウコと呼んだことで眼の前が真っ白になった。
桜井はよく冗談を言うが、嘘はつかない誠実な男だ。
桜井まで自分の妻をショウコと呼ぶのはどういう事だ、と首を傾げた。
まさかと思い、念のためにウィキペディアで自分の事を調べることにした。
自分を調べる事自体、案外勇気がいる事を初めて知った。
全て正確に書かれているとは思えないが、しかし、大まかな事実を知ることができるだろう。
開いてみればモニターには自分の事が膨大な情報量で載っていた。
よくもここまで調べ上げたものだ、というぐらいに。
そこには妻の名前も載っていた。
神部昭子、ショウコ…しかもご丁寧に俺がいつも言う妻の呼び名まで載っていた。
ショウ…。
そして、アキコの事も。
現在の妻、ショウと付き合うまではショウの双子の姉アキコと付き合っていた。
自動車事故に遭い大やけどを負いその事を悲観し、病院の屋上から飛び降り自殺。
飛び降り自殺?
しばらく神部は言葉を失った。
アキが死んでいた。
アキの言った事、いや、ショウの言った事が事実…か。
どういう事なんだろう?
一体何がどうなってしまったんだ。
どこで、こんな事になってしまったんだ。
神部は思いめぐらした。
そういえば時計が止まったんだ。
俺が、ヘリから執事の角田に電話をかけた時だ。
午前零時になる少し前…そして角田から酒井が風呂場で倒れたと言う連絡を受けた時、いや多分酒井が風呂場で倒れたその時だろう、つまり午前零時になった時に周りの時計が全て止まったのだ。
だが、俺の時計だけは止まらなかった。つまり、俺だけは変わらず周りが変わったということか。
俺以外はすべて入れ替わってしまった…?
そんな馬鹿な?
それとも、俺自身が違う時空に入り込んだのか…どっちにしても、あの十二時に何かが起こったのだ。
やはり、酒井を助けようとした俺の行為が引き金になったのだろうか。
そして、アキが交通事故を起こし犠牲になってしまった。
神部は両手で顔を覆った。
「俺は、なんてことをしてしまったんだ」
神部は力なく嘆いた。
過去が入れ替わる
神部は気を取り直し、両手をしっかり握りそのコブシを見つめた。
「受け入れるしかない。これが現実なんだ」神部はそう自分に呟き、言い聞かせた。
神部は、『予言の書』を手に取りもう一度その中身を見直した。
「俺が今まで事業者として成功できたのはこの予言書のおかげだ。土地の高騰が始まるという予言から、まず不動産会社を立ち上げることに着手した」
神部は一人呟きながら、それを確認するように頷いた。
当時、金に縁のなかった神部に金を恵んでくれる人物や、銀行などありはしない。
神部が不動産会社を立ち上げるのに得た軍資金は、酒井が記した競馬の予言からだ。
酒井は正確に記していた。
どこの競馬場で、その開催年月日、何レースでそして勝ち馬の名前が、こと細かく書いてあった。
酒井は自分が参加した競馬場のレース全てを記したのだった。
半信半疑で、神部は持ち金全部はたいて最初に書かれていた競馬場に出向き、予言書に記されていた馬に賭けてみた。
ものの見事に当たった。
元手が少なかったために、手に入れた金は大金とまではとはいかなかったが、しかし勝ったことは確かだ。
神部は、それに味を占めた。
仕事で稼いだ金を持って次から次へと競馬場に通うことになった。
アキにも金を融通してもらった。
どのレースも勝った。
そうやって軍資金は順調に貯まりはじめた。貯まった金を銀行に預け信用を作っていく。
神部の軍資金は競馬の馬券によって得たカネだったのだ。
ところが、今、持っている『予言の書』には競馬の勝ち馬の情報が載っていない。
「なぜ載っていないのだ。じゃあ、俺はどうやって軍資金を稼いだのだ?」
神部はそんな素朴な疑問を抱いた。
そんな思いで何気なく予言の書の最後の行をめくった。
神部はその行で目が留まった。
「そんな…嘘だろう」
神部はその書かれている言葉を復唱した。
「私はその日の午前零時に、風呂場で意識不明となる。
それが私のタイム・アウトということだ」
神部は『予言の書』の最後の行を何度も何度も繰り返し読み直した。
この行には自動車事故に遭ったという事が書かれてあったのに…。
いつの間にか風呂場で意識不明と書かれてある。
通夜から帰ってきた昭子に俺は聞いてみた。
「ショウ、おかしなこと聞くようだが…つまり、ここに書かれていた酒井が亡くなったのは、自動車事故だったよな?」
昭子は、妙な表情で俺の顔を見つめた。
「違うわよ、あの『未来の書』に風呂場で倒れると書かれてあったから、あなたは酒井さんを名古屋へ出張させたのよ。」
「そうか、やっぱり…」
「飛行機でてっきり行ってると思ったのに、まさか自動車で行くなんて」
「なるほど」浩二は何か目の前の不透明な視界が少し開けてきたように思えた。
「あなた大丈夫、顔色が変よ」
「ちょっと、疲れているんだ。いや、大分疲れているらしい」
「早く横になった方がいいわ。今日の11時には告別式があるのよ。始まったら休んでる時間はないわよ」
「そうだな」
ベッドで横になり俺は思った。
俺はノートに記されたもう一人の俺と入れ替わったみたいだ。いや、それとも周りが入れ替わったのか…。
ヒョッとするとこれは夢なのかもしれない。目が覚めれば元に戻るのじゃないか。そんな淡い期待を望んだ。
元に戻らなければ、俺はたぶん重度の健忘症か痴呆症にかかっているんだ。
そうさ、どうってことはない。酒井に置き換わった白木爺さんが運命を受け入れた時の心境がいま理解できた。
なるようにしかならない。
半分あきらめの気持ちで神部は夢の中に入り込んだ。
もう一つの過去
自転車の錆び付いた車輪のきしむ音が聞こえる。
どうやら、またあの夢を見ているようだ。
真っ暗なでこぼこの夜道を走るにはこれぐらい錆び付いている自転車がちょうどいいかもしれない。
勢いよく走ったら窪みにはまり自転車ごと横転するのがオチだ。
ペダルを回すたびに出てくる、猫が産気づいたような軋み音には少し閉口するが。
ふと、浩二は思った。
またあの男に会うのだろうか。
もし奴がいたら、いったい誰なのか、今度こそ見極めてやろう。
もし三億円犯人なら、とっ捕まえて分け前をふんだくってやろうか。
という、セコイ考えも湧いてきた。
そんな思いで神部は小屋に向かった。
今まで見た夢よりも、もっと慎重に小屋に近づいた。
自転車を地面に置きドアノブに手をかけた。
ユックリと回す。
案の定 鍵がかかっていない。
なんて不用心な奴だ、って思う浩二だった。
夢の中だと分り切っているのに緊張が頂点に達している。
そうだ、何か武器を持って入ろう。そう思ってみても
周りは伸び放題の草ばかり。
ユックリとドアを開け中を見渡す。
男はしゃがんで刷毛を必死に動かしている。
塗っているのはバイクだ。
しかも白いペンキで。
これはもう間違いない。
三億円犯人だ。
ふと右を見れば作業机の上に長い金属の棒が置いてある。
「これだ」
俺は思わず声が出てしまった。
しかし、相手は気づかず夢中でペンキをバイクに塗りたくっている。
俺はその鉄の棒を握りしめた。
今日こそお前の正体を突き止めてやる。
そっと、男の背後に近づいた。
「おい!お前そこで何をしている」
神部は大声を出しながら鉄の棒を振り上げた。
刷毛を持った男は手を止めた。
声が聞こえた。叫びのような声だ。
男は思わず刷毛を落とし、慌てて後ろを振り向いた。
突然、ドスンという鈍い音が床を響かせた。
男は腰を抜かし、周りを何度も見渡した。
床には金属棒が転がっている。
しかもドアが開いている。
男は立ち上がり、まずドアの方に向かった。
風もない、外を見渡せば誰もいない。
人の気配がない。
男はユックリとドアを閉めた。
「どうして、開いたんだ?」
男は一人呟き、床に落ちている鉄の棒を机に置いた。
「なぜ…落ちたんだ?」
男は今までの作業を止め、道具類を片づけ始めた。
「今日はここまでにしよう」
そう呟き、男は椅子に座り天井を見上げた。
腕を組みながら考えた。
白木爺さんからもらった『予言の書』の第一行目には、こう書かれてあった。
昭和43年12月10日午前9時半三億円事件が起こる、
今まで自分が練りに練った構想があと、数か月で起こるというのだ。
実行日、時間、場所まで正確に、あの藁半紙に記されている。
俺の頭の中で描いていた計画と同じだ。
信じられない。
決行すれば成功するかもしれないという気持ちガ沸々と男の心に湧いてきた。
バイクを盗んだのは一週間前。このバイクを白バイに衣替えする、白バイの警官服を作り上げるのにある程度時間がかかる。
当分これから徹夜が続くかもしれないナ。
そう思いながら男は目を瞑った。
男の脳裏に、昨日起きた気になる出来事が浮かんだ。
「コウちゃん、私、もうすぐこのアパートを出るの」
突然、アキは俺に言った。
「出るって、引っ越すってことかい?」
アキは頷いた。
「どこへ引っ越すの?…ああ、そうか実家に行くのか」
アキは首を横に振り、寂しそうな顔で言った。
「コウちゃん、長い間ありがとう。いろいろ世話になって、迷惑ばかりかけちゃって」
「なに言ってるんだ、世話したなんて思っちゃいないよ。引っ越した後もいつでもいいからこのぼろアパートに来なよ。歓迎するぜ」
「うん、じゃあ、さようなら」
アキは、踵を返した。
最近、アキと会う機会がなかった。同じアパートにいながらすれ違う毎日が多くなった。
たまに会っても、他人行儀の挨拶だけの時がある。
まるで俺を避けているかのようだった。
俺も積極的に話しかけなかったのが悪かったのかもしれない、しかし、どうもそんな雰囲気にはなれないアキの素振りなのだ。
ヒョッとすると、終わったのかな。
そんな気持ちが心をよぎったりもした。
そしてついにこの日が来た。
アキの引っ越しの話を聞いて全てを悟った。
やはり終わったのだ。
俺は、アキの事が気になり、引越しの当日その後を距離を置いて追いて尾行した。
遠くの方で、シルバーカラーの車が止まっていた。
スポーツカーだ。外車だろうか?
アキはその車の助手席にに乗り込んだ。
遠目のため運転手の顔がはっきりしない。
前に見た老人ではなさそうだ。
スポーツカーを乗り回す男だから俺とそう齢は変わらないかもしれない。
新しいパトロンか、それとも恋人なのだろうか。
浩二は走り去って行く車を視界から消えるまで見送っていた。
クラッシュ
浩二は目をユックリ開いて天井のシミを再び眺めた。
人の顔のように見えるそのシミに呟いた。
「さようなら、アキ」
浩二は椅子から立ち上がり、小屋を後にした。
アキが自動車事故で入院したという話を聞かされたのはそれから一ヶ月ほど経った頃だった。
情報源は、同じアパートの住民、スーさんこと鈴木からだった。
それより前、たまたま鈴木はトラックの運転中、銀色に輝くスポーツカーを発見した。
人目を引くめったに見ない高級車だ、しかもオープンカー。昭和四十年代の初めの話だ。
こんな車を運転するのは、芸能人か、あの男しかいない、と鈴木は思った。
その助手席にどこかで見たような女性が乗っていた。後姿だけだから判然としないが、でもあの女性は俺の知っている人物だと、鈴木は確信した。
アキの今度の相手は運送会社の社長だった。
年齢は二十代後半、父親の会社を引き継いだ若社長だ。会社の運営は、専務や役員達 にまかせっきり。
ただ社長という肩書きを引き継いだだけの遊び人だ。
その若社長が、最近高級ホステスに入れ込んでいるとの噂が立った。
従業員の内の数人がそのホステスは何者なのかと詮索し始めた。
詮索好きの鈴木も興味を持っていた。
鈴木にとって相手がアキだと分かったのは一週間もかからなかった。
「アキは確か浩二といい仲なのに、まさか、アキの奴、乗り換えたのか」信じられねえ。
浩二は知っているのだろうか?
そう思いながら、浩二にこの事を知らせようか知らせまいか迷っている間に、
アキが引越しの挨拶に来た。
その後の憔悴しきった浩二の姿に鈴木は憐れみを感じた。
いつものように砂利トラックを走らせていた鈴木は再び、目の前にシルバーのスポーツカーが走っているのを見た。
そして、その車の助手席にアキがいるのを確認した。
「でね、その銀ピカのスポーツカーが前のタクシーを追い越そうとしたとき、運悪く対向車線からトラックが来ちまったのさ。ガッシャーンさ。すごい音だったよ、火花が散ったね。ひどかったねえ。あっという間に車は火だるまよ」
鈴木は事故の様子を浩二に事細かに教えようとしていた。
浩二は鈴木の話を黙って聞き入った。
「運転席の男は、幸か不幸か衝突の衝撃で車の外に投げ出されてね、肋骨二本折っただけで済んだんだ。でも、…」
鈴木は浩二の暗い表情を見て、シマッタと思った。
こんな話するんじゃなかった。と、一瞬後悔した。
いくら振られた相手と言っても、元カノが事故で大やけどを負ったという事を話したら、しかも人一倍思いやりの強いこの男にこんな話をしたらもっと、落ち込むんじゃないかと心配になった。
「まあ、二人とも命は助かったんだ。めでたしめでたしさ」
鈴木は、話をそらすため別の話題に切り替えようとした。
「ところで、今度、本町にできたソープランド、いい子いるよ。あずさちゃんって言う子でさ…」
「スーさん、アキはどこの病院に入院してるんだ?」
「えっ?病院。ああ、アキの入院先ね」
「一度見舞いに行きたい」
「ああ、そうだな。たしか、新町の宝病院だったはずだ。一命は取り留めたがひどい火傷を負っているらしい。特に顔なんか相当ひどいらしいよ。そっとしておいた方がいいんじゃないかと俺は思うんだが」
「でも、行ってやらないと。俺に何かできることがあればしてやりたい」
その返答に鈴木はこう言おうとしたが押し黙った。
何もする必要はないよ、お前、アキに捨てられたんだろ?アキは自業自得なのさ。
三○四号室
「社長は記憶喪失になってね、アキのことは知らぬ存ぜぬを決め込んで見舞いにも来やしない。全く酷い男だよ。ホントに記憶喪失かどうかも怪しいもんだ」 鈴木は、浩二をトラックに乗せ宝病院に向かっていた。
トラックは小高い丘に立つ巨大な白いビルの道路沿いに止まった。
「ここだ、俺はこれから仕事場に向かわないと。それにどうも病院のあの臭いが苦手でね。帰りは自分で帰ってくれ」
「ああ、ありがとう。スーさん」
「ほら、花束だ。俺からもアキによろしくと言ってくれ」
「言ってくよ。じゃあ、気をつけて」
浩二はバラの花束を持って病院の玄関に向かった。
バラの花が病院の見舞いに適当かどうか分らないが昨日のうちに花屋で買っておいたモノだ。店員に見舞い用と告げたらこのバラを用意してくれた。考えてみれば、閉店ぎりぎりだったため、他の花は売り切れでこの花しかなかった。
花など買ったこともない浩二にとって、バラの花束がこんなに値の張るものだとは思わなかった。
確か、スーさん、アキが入っている病室は三階の三〇三号室だと言っていたな。
浩二は念のために受付でアキが入室している部屋を確認した。
三〇四号室だった。
確かめてみるものだ。と、浩二は思った。
304号室の前に来た。
個室だった。
普通に振舞おう。
顔に火傷をしたと言う話だが俺はアキの顔をまともに見れるだろうか。
とにかく、見舞いなんだ。
アキを元気付けなければ。
そう、思いながらノックをしようとすると女性に声を掛けられた。
「あの、どちら様ですか」
浩二は思わず手を止めその声の方へ振り向いた。
アキがいた。
私服で目の前に立っていた。
「アキ…」モウ治ったのだろうか。顔のやけどはきれいに無くなっている。
そんなに大した火傷ではなかったのか。
スーさんの言い分ではまるでまともに見る事ができないような火傷だといっていたが。
「アキ、もう大丈夫なの」
「お姉さんの知り合いの方ですか」
「お姉さん?」
「わたし、妹の昭子といいます」
「ショウコさん?」
「姉のアキ子とは双子なんです」
「ああ、そうか。君は妹さんだったのか」
浩二は昭子に以前アキとは同じアパートの住人で、色々お世話になったと言う事を告げた。
もちろん、元彼とは言わずに。
「こちらこそ姉がお世話になりまして。どうぞお入りください」
浩二は、部屋に入った。
その部屋は異様な雰囲気が漂っていた。
何とも言えない重苦しい空間と言った方が良いだろうか。
バラの香りさえ消え入り、しぼんで行くそんな暗い陰鬱な空気が覆っている
そんな感じだ。
「お姉さん、浩二さんと言う方がお見舞いに来てくれたわよ」
アキはベッドに横たわっていた。
幸いかどうかアキの全身は包帯で包まれその火傷の程度は見る事はできなかった。
アキは微動だにせず天井を見上げたままだった。
「眠っているところを起こしちゃ申し訳ないからまたの機会に来ます」
浩二は、包帯の隙間から見て取れるアキの充血した眼を垣間見たが、わざと見ない素振りでその場を去ろうとした。
その時急にアキの上半身が動いた。
浩二の全身をなめるように赤い充血した目が動く。
アキは口篭るような声で言った。
「わたしの醜い姿を見に来たの」
白バイ
「姉さん、なんてこと言うの」
「昭子(ショウコ)、この人はコウちゃんって言うの。私達、友達以上の恋人未満の関係だったの。でも私、この人を振ったの。なぜなら、私、他にいい人ができたから…だから、この人を振ったの」
アキの見舞いでこんな展開になるなんて浩二は思っても見なかった。
「ごめん、前もってここに来ることを連絡するべきだった。アキ、いや亜希子(アキコ)さんの心を乱してしまったようだ。ごめん」
「見舞いなんか来る必要ないのに。振られた女のところにノコノコと現れるなんて人がよすぎるのもほどがあるわ、そんな事だから何も手に入れることができないのよ」
「チョッと、これ」いたたまれなくなった浩二はバラの花を昭子に押し付けるように渡した。
「またの機会に、少し亜紀子さんが落ち着いたら…」そう言って浩二は部屋を出た。
「待ってください」
昭子は、足早に出て行った浩二を追い掛けた。
「すみません、せっかくお見舞いに来ていただいて」
昭子は深々と頭を下げた。
「いや、突然来た俺も悪いし。それより、亜紀子さんの傷の治りはどうですか?」
「包帯は取ってもいいと先生から言われているんですけど、火傷の痕がひどくて、自分の顔を見てからは姉は未だに包帯を付けたままなんです」
「そう…」
浩二は後に続く言葉が出なかった。
天上にミラーボールが回っている。
スポットライトの光を反射させ薄暗い空間に煌めいている。
気の利いたバックミュージックが流れ、時にステージで歌手が美声を奏で、芸人が笑いを振りまく夜の盛り場。
ドレスを着た若い女性がボックス席で男達の横で話題を広げ、蝶ネクタイのウェイターがおつまみやアルコールをトレイに乗せボックス席を忙しく縫って行く。
ここは会員制のクラブ。
この街の歓楽街で一際華やいだ豪奢な造りのクラブだ。、
席に座るだけで席料と言う途方もない金額をぼったくるいわゆる高給居酒屋より格が一つ上の酒場というところか。
金に糸目をつけない、ような今で言うセレブ、ビップ、そして名士、成金達が集まるユートピア。
「川田社長、よろしいでしょうか」
黒のスーツに黒の蝶ネクタイの四十前後の男が声を掛けた。
声を掛けられたのは二十代半ばの髪をオールバックにしたにやけた風貌の男だった。
男は横にはべらしたホステスに耳打ちをしていた。
派手な色のタイトなチャイナドレスをはいたその女性はドレスのスリットから太ももを露に、足を組み、揺らせながら黄色い声で笑っている。
「社長、ちょっとよろしいですか」
低い鼻からずれ落ちた金縁めがねを指で元に戻し男は不機嫌な顔になった。
「何だよ、無粋な奴だな」
「いま、白バイの警官が玄関に止めてある車の所有者を呼んで来いと告げられまして」
「玄関に止めてある車?ああ、僕の車のことか」
「はい、歩道に止めてあるシルバーの車です。駐車違反ということです」
「駐車違反ぐらいで僕が行かなくても、支配人の君が代理で済ましてくれよ」
「それがどうしても、本人を呼べということで。でなければ車をレッカー車で没収すると言ってるんです」
それを聞いて川田は仕方なく、出入り口のほうへ向かった。
寒い夜空の中、自分の車を丹念に見回している警官がいた。
川田は舌打ちしその警官の方へ向かった。
「僕の車に相当興味があるようだね。その車はイギリス製の車でね。名前はアストンマーチン。知ってるだろう、スパイ映画の007に出てきた車さ。これは僕用に特別にあつらえた物だよ」
白バイの警官は川田を一瞥し、再び車を眺め始めた。
「私は川田運送会社の社長、川田正太と言う者だ。私の亡き父親は警察署長とは、昵懇の間柄でね。私もつい最近署長と酒の席に付合わされてね、…」自分の話しに何の興味も示さない警官に、川田は顔をしかめた。
「署長」という名前を出せば大抵の警察官は態度を一変し、言葉遣いも敬語にかわる。
なのにこの警官は、川田を無視し車を舐め回すように観察しているだけだった。
警官の中には少し毛色の変わった奴もいるのだろう。そう思いながら川田は背広の内ポケットから財布を出した。分厚い財布には札束がはち切れんばかりに押し込まれている。
川田はその警官の腕を掴み半ば強引に、人気のないビルとビルの間に引き入れた。
札入れから二、三枚取り出し警官の手に掴ませた。
「気は心さ、取っとくがいい。なーに、全て内緒の話。だからさ、ここは、眼を瞑ってくれ。あんたの名前を署長に言っておくからさあ。この季節、バイクじゃあ外は辛いだろう。せめてパトカー勤務か、内勤になるよう頼んでやるよ」
桜の紋章をつけた白いヘルメットの警官は鼻から下を白いマフラーで覆っていた。
鋭い眼が異様に光っている。
何も語らない警官に不気味さを覚えた川田は、その警官にもう一つの条件を出した。
「なんだったら、女を紹介してやってもいいよ。ここはキャバレー、高級ホステスが一杯さ。そうだ、ここのナンバーワンホステスを紹介するよ。といっても以前のナンバーワンは交通事故で全身火傷で二目とみられない顔になってしまってね。もちろん、そうなる前に僕が思う存分かわいがってやったけどね。だから次のを…」
その話を聞き、警官の眼が一瞬暗くなったと同時に、川田の体がくの字に折れた。
警官の右手の拳が川田のみぞおちを襲ったのだ。
一発で十分なぐらい、川田にダメージを与えたが、川田の体は折れ曲がったまま地面に崩れることはなかった。
なぜなら倒れる間を与えず警官の拳が川田のみぞおちを繰り返し繰り返し襲っていたからだ。
一分以上続いた後、川田は拳の洗礼から解放され地面に崩れ落ちた。
警官は左手に握らされた三枚のお札を丸め、泡を吹いている川田の口の中に押し込んだ。
警官は一言も語らず、そして何事もなかったように白バイに乗り走り去った。
ケロイド
12月に入り街ではクリスマスソングが流れ始めた。
浩二は着々と準備を整えていた。
先日、白バイ警察官の制服を仕上げた時、試しにその格好で街の中を走った。
もちろん白塗りのバイクでだ。誰も、怪しむ者はいなかった。
交番の前を走った時たまたまそこに立っていた警察官と目が合った。しまったと思ったが、その警察官が浩二に向かって敬礼をした。
慌てて、浩二も敬礼を返したが、その場面で浩二はこれは完璧だと確信した。
町の歓楽街を走り抜けようとした時、シルバーメタリックの車を見つけた。
スーさんが言っていた車にそっくりだ。
ヒョッとするとこの車はあの男のものか?
しかし、事故で車は廃車になったはず、と浩二は思った。
いや、まてよ。
道楽社長は三台、同じ車を買ったという話だ。
一台はオープンカーでもう一台は屋根つきの車、そして三代目が内装を特注であつらえた車だと言っていた。
確か、三台ともイギリスのアストンマーチン社製という事だ。
色は三台ともシルバー。
もしあいつの車だとしたら、
あんな事故を起こしたというのに堂々と歩道の真ん中で車を止めている。
一体どういうつもりだ。
浩二は、この車の持ち主を見てやろうと思った。
出てきた男は、背の高いずんぐりした男だ。まさか、コンナ男をアキが好きになるわけはない。
別の人間か。そう思ったら目の前の男に何の興味も湧かなくなった。
それより、始めて見る外車に気を取られた。
思う存分目に焼付けこの場を去ろうとした時、あの男が絡んできた。
金を握らして全て、事を収めようとする。
そして、発した次の言葉がアキの事だった。
まさかとは思ったが、やはりこいつがアキの相手だったのか。
アキをぼろきれのように扱い、捨て去ったこの男に浩二の腹は一瞬で煮えくり返った。
いやというほど、あの男の腹に鉄拳を食らわした。
当分の間、口も聞けない状態で病院で横たわっているだろう。
数日後、浩二は再びアキの見舞いに病院へ出向いた。
アキの妹、昭子から連絡があったのだ。
アキが、以前の非を詫びたいという事だった。
少し落ち着いたのかな。
と、浩二は思った。
あんな事故の後でしかも死ぬまで消えない火傷の痕。
精神的に不安定になるのは当然だ。
それに、何より一番頼りにしていた恋人からも見捨てられてたのだから。
絶望のどん底に突き落とされたのだ。
俺に対して八つ当たり的な言葉が出たとしても十分すぎるぐらい理解できる。
浩二はそう考えながらアキの入院先に向かった。
病院の受付ロビーで昭子(ショウコ)は浩二を待っていた。
二人は簡単な挨拶を交わし、アキの病室に向かった。
エレベーターの中で浩二は尋ねた。
「アキ子さんは少し落ち着いた?」
アキと瓜二つの昭子を前になぜか以前のアキへの思いが蘇る。
「ええ、現実を少しづつ受け入れているみたいです」
「現実…」浩二は小さくつぶやいた。
浩二はアキの病室に入った。
以前最初に入った時のあの重苦しいい空気が無くなったような気がする。もちろん、気のせいかもしれない。晴れ渡った太陽の光が窓から注いでいるのも影響しているのだろう。それとも、アキが、自分を受け入れたという事が浩二の気持ちを軽くしているのだろうか。
アキは窓際の椅子に座って外を眺めていた。
「お姉さん、浩二さんがいらしたわよ」
アキは振り向くことなくユックリ頷いた。
黒い髪を肩まで伸ばしたアキはしばらくそのまま窓の外を眺めていた。
今日は包帯を外している。
アキが現実を受け入れている、という昭子の言葉は包帯を外したという事からも察することができる。
「今日は天気がいい」
浩二はアキに声をかけた。
「もうすぐクリスマスね」
アキの声は少し内にこもるような口調だった。
アキは顔を浩二に向けた。
浩二の体は硬直した。
窓から入る外の光がアキの顔に影をなしたが、でもはっきりと顔の様子は分かる。
顔中、火傷でケロイド化していた。引きつったように口元は歪み、かつての形の良い鼻筋は溶けたように鼻腔だけが目立つ。ただ大きな目は以前の面影を残していた。
浩二は目を背けなかった。
アキの崩れた顔を食い入るように見つめ、そして、涙が溢れた。
涙はとめどなく頬を伝い床に落ちた。
熱かったろう、痛かったろう…そんな言葉が小さく浩二の口から出た。
自分を信じるしかない…未来へ
今日は決行の日だ。
うまくいくだろうか、失敗すれば臭い飯を食う羽目になる。
しかし成功すれば三億円という大金が手に入る。
流れ星に願いもかけた。
急に震えが起き、体中に悪寒が走った。極度の緊張が解け,気が緩んだのか。
歯と歯がかち合わない状態になっている。
これは武者震いだ。
神部は自分に言い聞かせた。
神部に決心をつけさせたのはあの予言の書だった。白木爺さん、いや正確に言えば酒井という男が書いたあの文章だ。
最初の一ページの文章。
日付、時間、場所、方法、全て俺が計画を立てたものと同じだ。
まるで俺の頭を覗き込んだように正確に書かれてある。
あれが本当なら間違いなく成功する。心配する事はないわけだ。
しかも、未解決で時効を迎える事になる。、と言う事だ。
神部は腕を組み椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げれば黒ずんだ木の梁から蛍光灯が一本ぶら下がっている。
蛍光管の両ふちが黒く変色し、光がわずかに震えている。
以前、酒井が言った言葉を思い出した。
俺は世界一の企業家になる・・・・。未来の自分をもう少し知ろうと思ったがその酒井は三日前に心臓発作で倒れ、あっけなくこの世を去ってしまった。
死んだ酒井に、後数年たったらまた会えるのだ。
不思議な話だ。
神部は使い古した木作りの机に呑みかけの缶コーヒーを置いた。
「帰ったら、また飲もう」そう呟き椅子から立ち上がった。
机の上においてある桜の紋章がついたヘルメットをかぶった。
時間が来た。
神部は完璧に白バイの警察官に変身した。
これが成功すればアキ達姉妹に、金の苦労をかけずに済む。
当分の間だけだが。
後は俺の運次第だ。
今日手に入れる金を元手に予言の書に賭けてみよう。
神部は慎重に周りを確かめバイクを小屋の外に出した。
チッチッチッチッチ、クアークアー、その泣き声の方に目をやると烏が雀を追っているのが目に入った。
思わず、、神部は呟いた。
「逃げろ!」
必死に逃げる雀とそれを追いかける烏、一分ほど続いたその追跡劇は、結局力尽きた雀によってあっけなく幕を閉じた。
「弱肉強食・・・・か」
気を取り直しバイクにまたがりエンジンをかけた。
心地よい振動が体に伝わる。
助監督の森信さんの言葉を思い出した。
「そのうち銀幕に出られるかもしれないよ」
シナリオとセリフは頭に入っている。
小道具、大道具もすべて揃った。主人公はこの俺。銀幕じゃないが俺にとって一世一代の大舞台だ。
神部は白いマフラーで口と鼻を覆った。
「さあ、全国の観客が俺を待っている」
マフラーに隠れた口元は不敵な笑みに変わっていた。
白バイはゆっくり、目的の場所へと動き出した。
「ショウちゃん、お願い」
アキは昭子に言った。
「チョッと外の新鮮な空気を味わいたいの。屋上に連れてってくれない」
「屋上?外は寒いわよ」
昭子は心配そうに言った。
「大丈夫。直ぐ戻るから。ここにいつまでもいると息が詰まるの」
少し元気が出た姉には、外の空気は気分転換になるだろうと昭子は考えた。
アキはまだ、しっかりと歩く事はできない。足のケロイドが酷く皮膚が突っ張り思うように歩けないのだった。
昭子は車椅子をもって来て、アキを座らせた。
「男の人があんなに涙を流して泣くのを始めて見たわ」
昭子は、浩二が大粒の涙を流す姿を思い出した。
「私も始めて見たわ。涙もろいところがあることは分っていたけどね。あれは酷かったわね」
そう言いながらアキは、顔面に包帯を巻き始めた。
包帯の留め金を付けるのを手助けした昭子は、車椅子を押しエレベーターに向かった。
「お金のことは心配するなって浩二さん言ってたわね」
「そうね」
「何かお金が入る予定でもあるのかしら、宝くじに当ったとか」
「たぶん、予言の書の事言ってるんだわ」
「予言の書?」
「未来の事が事細かく書いてある本を渡されたらしいの。その本を信じきっているようなの」
「そんな本をもらったの?誰から」
「でたらめに決まってるじゃない。そんな本あるわけないわ。あの人お人好しなのよ。そんな本でお金持ちになれるわけないのに」
「そうかしら、私は浩二さんの自信に満ちた目に嘘はないと信じるわ。困った事があったら俺に何でも相談してくれってそう私達に言った時、すごいオーラーを感じたわ」
「世の中はそんなに単純じゃない。頭のおかしい人が書いた本で夢や希望を抱いて食べていけれるなら世話はないわ。人を押しのけ、踏み台にするぐらいの気迫がなければ駄目なのよ。あの人にはそれがない」
「だから、浩二さんを捨てたって言うの」
昭子は、アキの冷たい言葉に一瞬眼が雲った。
二人は屋上に出た。
冷気でひんやりとするが、風がないので寒気はさほど感じない。
「あそこの手摺まで押して行って」
昭子はアキの指差す方へ車椅子を押した。
雲ひとつなく青空が広がっている。
「暖かい缶コーヒーを飲みたい。買ってきてくれる」
「全く人使いが荒いわね」
「病人なのよ、いいじゃないそれぐらい」
昭子は苦笑交じりで仕方なく一階の自販機へと、屋上を後にした。
アキは周りに誰もいない事を確認し車椅子から立ち上がった。
スリッパをきれいに揃え手摺に手を伸ばした。
「ショウちゃん、今までありがとうね」
そう言いながら、アキは手摺を跨ぎ始めた。
はるか下はコンクリートの地面。
誰もいない。
アキは朝日を見つめながら呟いた。
「コウちゃん、ごめんね。ほんとうは、コウちゃんのことが…」
アキはぎこちなく何もない空間へ一歩足を踏み出した。
幾つもの物語
「おーい、いい加減起きたらどうだ」
揺り動かされた女は、目覚めた。
まどろむ眼で女は周りを見渡した。
「ここはどこ?」
「ここはどこって、どうしたい?急に記憶喪失かい」
男は女の顔を覗き、額と額を合わせた。
女は目の前の男を見て驚いた。
「コウちゃん…」
「アキ、起きて朝飯作ってくれよ」
「朝飯?コウちゃんどうしてここにいるの?ここはどこ?」
「何言ってるんだい。昨日結婚式挙げただろう。身内だけでこじんまりとだけど。ほら、これ」
男は女の左手の薬指を指さした。
銀色に光る指輪が嵌っていた。
「俺も」
男の左手にも同じ指輪が輝いていた。
「私たち結婚したの?」
「ああ、そうだよ。今になって解消なんて言わないでくれよ。で、ここは俺たちの新居。3LDKの粗末なアパートだけど」
「でも、私…やけどで顔が醜くなっているのに」
「火傷?夢の中でテンプラでもあげて、滴でもひっかけたか?」
女は手で自分の顔に恐る恐る触れた。
波を打ったような顔の凹凸が無くなっている。すべすべの皮膚だ。
「これはどういうこと」
「アキ、どうした。目を点にして、何を驚いている?」
女は、自分が今まで体験した事を男に話した。
「自殺したって?屋上から飛び降りた人間がどうしてここにいるんだい」
「私にもわからない」
「アキ、しっかりしてくれよ。そうだ、いいものみせてやるよ」
男は重そうなボストンバックをベッドの上に二つ置いた。
そのバックの鍵を外し中を見せた。
中には一万円札がぎっしりと詰まっていた。
「アキ、二つのボストンバック合わせて三億円ある。俺達の金だ。俺はこの金をどんどん増やしていく。そして、事業を立ち上げ成長させ大金持ちになるんだ」
「強盗でもしたの?」
「何言ってるんだ。酒井から貰った予言の書に書かれてあった、競馬の勝ち馬に賭けたんだよ。全て、勝ったんだ。言っただろう。この予言の書は俺達の未来をバラ色にしてくれる魔法の手引書なんだ」
女は男が持つその手引書をジッと見つめた。
「全てはその本から始まるのよ。そしてその本通りに動いていく」
「アキ、何を言ってる」
「その本の内容は少しづつ変化し、幾通りもの物語を作っていくのよ。たぶん、私たちはこの予言の書から、永遠に逃げられない」
「おかしなことを言う奴だ。さあ、腹ごしらえしたら、今日も、競馬場で運試しだ。って言っても結果はわかってるけどね」
浩二はタバコをくわえ、テレビをつけた。
画面には数日前に起きた三億円強奪犯のニュースの続報が流れ始めた。
幾つもの物語