セレンディピティマン

「ごめんくださいませ」
 今時あまり聞かない挨拶だなと思いながら、たまたま休日で家にいた福田はドアホンのモニターを見た。見たところ平凡な中年のセールスマンのようである。
「何の用だ?」
「福田幸男さまでいらっしゃいますね」
「そうだが」
「おめでとうございます。福田さまが今月のセレンディピティマンに選ばれました」
「はあ?今月の何だって?」
「よろしければ、詳しくご説明させていただきたいのですが」
 上目使いにモニターのカメラを覗き込む男に、福田の警戒心が呼び覚まされた。
「だめだだめだ。うまいこと言って、何か売り込むつもりだろう。帰ってくれ」
「そうおっしゃらずに。折角のチャンスをもったいないですよ」
「ふん。だまされるもんか。おいしい話と天気予報は信用しない主義なんだ。帰らないなら、警察に通報するぞ」
「そうですか。仕方ありません。ですが、今回の昇進が裏目に出たとしても、わたくしを恨まないでくださいね。それでは、失礼します」
「ちょ、ちょっと、待て」
 あまりのタイミングの良さに、福田は動揺していた。つい先日、課長から昇進の内示があったばかりなのだ。
「ありがとうございます。話を聞いていただけるんですね」
「その前に教えてくれ。何故、おれの昇進の話をあんたが知ってるんだ?」
「もちろん、ご説明します。しかし、ドアホン越しでは、ご近所に聞こえるかもしれませんねえ」
「あ、そうだな」
 一瞬、中に入れては危険かもしれないとの不安が頭をよぎったが、こんな真昼間から強盗でもないだろうと思い直し、福田はドアを開けた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 入って来た男は小柄で痩せており、学生時代ラガーマンだった福田に危害を加えられるとは思えない。それでも、福田は用心して充分な間合いを取っていた。
「家の中は散らかっている。玄関で話を聞こう」
「ええ、かまいませんとも。わたくしは、こういう者でございます」
 差し出された名刺には『セレンディピティ研究所 所長 海野大吉』とある。
「セレン何だって?」
「セレンディピティですよ。まあ、簡単に言えば、ちょっとした切っ掛けで、ツイてるとか、ラッキーとかいう状態になることですな。例えば、いつも何度も信号に引っかかる道で、たまたま少し早く家を出たらズーッと青信号が続いたとか、ふいに思い立って街に出たら、偶然再会した幼馴染みと意気投合して結婚したとか、そういう運が良かったとしか言いようのない状態のことです」
「それが、おれと何の関係があるんだ。言って置くが、今度の昇進は実力だぞ」
「もちろん、福田さまの努力の賜物と存じます。ですが、問題はこの先です」
「どういう意味だ?」
 福田は、海野という男の誘導にうまく乗せられて、相手が自分の昇進を何故知っているのかという、肝心の質問をするのを忘れてしまっていた。
「昇進というのは、もろ刃の剣です。そこから運命が開き、トントン拍子で出世する方もいれば、逆に、思わぬことでつまずいて、転落の憂き目を見る方もおられます」
「そりゃそうだろう」
「そういう運命の岐路に立たされた時、是非お使いいただきたいのが、こちらの機械でございます」
 海野がカバンから取り出したのは、福田も玄関に付けているドアホンに良く似た、いや、ドアホンそのものに見える機械だった。
 福田は苦笑した。
「ふん、やっぱり訪問販売か。しかも、いろいろ御託を並べたあげく、ドアホンかよ。あんたが見たとおり、ウチは間に合ってるよ」
「いえいえ、そうではありません。この機械はわが研究所の最高傑作、シンクロホンでございますよ。運というものには波があります。その波にうまく乗ればどんどん上昇できますし、逆らえば、真っ逆さまです。このシンクロホンは、ボタンを押す人間の運の波と、外界の運の波をシンクロさせるのです」
「シンクロだか新体操だか知らないが、もういいよ。帰ってくれ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。論より証拠です。このシンクロホンを、福田さまに一週間お貸しします。ここぞというタイミングで、このボタンを押してみてください。効果が実感できると思いますよ。もちろん、お試し期間なので無料ですし、何の義務も発生しません」
 しばらく押し問答が続いたが、福田は面倒になり、文面を確認した上でお試し契約書とかいうものにサインした。
「では、一週間後にお会いしましょう」
 にこやかに帰って行く男を見送りながら、たとえどんな効果があっても知らん顔してそのまま返してやるさと、福田は秘かにほくそ笑んだ。
 次の日の出勤前、福田は試しにシンクロホンを押してみた。ピンポンという間の抜けた音がするだけで、何の変化もない。さすがに、これはだまされたかもしれないと後悔した。よくよく考えると、多くの人間にシンクロホンを渡せば、そのうち何人かは偶然いいことがあるはずで、その人間に売り込めばいいわけだ。福田は、一週間も待たず、仕事が終わったら名刺の研究所に電話して、引き取りに来させようと決めた。
 昼休み、会社の休憩室でテレビを見ていた福田は、思わず「あっ!」と叫んだ。
《…自称海野大吉こと、海野末吉容疑者を指名手配しました。海野容疑者は勤めていた賃金計算委託会社から顧客企業の個人情報を盗み出し、その相手に言葉巧みに近付いて、ドアホン型の生体認証読み取り装置を使わせ…》
 福田は血の気が引いた。銀行口座は生体認証と暗証番号なのだが、暗証番号は社員番号をそのまま使っているのだ。すぐに近所のATMに走ったが、時すでに遅く、残高はゼロになっていた。
 だが、話はこれで終わらない。
 この事件で一念発起した福田は、『他人にだまされない秘訣』という本を書き、それがベストセラーになったのである。これぞセレンディピティ、と思ったか、どうか。
(おわり)

セレンディピティマン

セレンディピティマン

「ごめんくださいませ」今時あまり聞かない挨拶だなと思いながら、たまたま休日で家にいた福田はドアホンのモニターを見た。見たところ平凡な中年のセールスマンのようである。「何の用だ?」「福田幸男さまでいらっしゃいますね」「そうだが」「おめでとうござます...

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-03

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