橙色の17時
先生の部屋は周りがぐるりと本棚で覆われていて、ひどく狭い印象を受ける。
その部屋に入ってすぐサンダルを脱いで、畳に横たわると先生は立ち上がって、扇風機をわたしの前に置いてくれた。
「せんせー。高校生って若いねえ、超可愛い」
「君もつい二年前はああだったでしょうに。先輩ぶって」
「そういや二年前のオープンキャンパス、先生すごくスベってたね」
「君は本当、嫌なことしか覚えませんね。それと学食のメニュー」
「学食のメニュー少ないじゃん。あー、ラーメン食べたくなってきた」
そうぼやく私を無視して、私の枕元に立った先生は、背伸びをして本棚の一番上の棚から赤い表紙の分厚い本を取り出した。
埃が降ってきて、急いで起き上がる。
「失礼」
先生はそう言って、窓を開けてくれた。
「先生、靴下がださいよ」
「姪が買ってくれたんです」
「それはとんだご無礼を、 その本はなに?」
先生の機嫌を損ねない内に話を反らすと、それに気づいたのか、先生は呆れたように笑ってから
「アルバムですよ。この大学が短大だった頃の写真たちです」
と教えてくれた。
傍に寄っていって、覗き込む。
先生は手を伸ばして、誰も居なくなった場所に風を送る扇風機のスイッチを消した。
「今より小さかったんだ」
「学食のメニューはもっと豊富でしたけどね」
「あ、これ先生?もさい!あ、でもこうしたら……」
そう言って、写真の中の先生の髪型と口から下を手で覆うと、先生は
「ほとんど隠してるじゃないですか」
と吹き出した。
「横の人、彼女?」
「馬鹿言わないでください そんな見るからに尻軽な女性」
初めて聞く先生の悪意のこもった口調に、吃驚して何も言えずにいると、
先生はそんな様子のわたしに驚いた素振りを見せたあと、
「君は僕以外の人間を、悪く言わないから僕もあまり悪態をつかないようにしていたんですが、ボロがでちゃいました。すいません」
「……嫌いだったの?」
「好きではありませんね」
その感情が過去形ではないことに気づいて、それ以上聞くのをやめた。
「そういや、今年のオープンキャンパスはスタンプラリーがあったんでしょ?此処にも高校生来たの?」
「ええ。教授は住みこみなのかと何人からも聞かれました」
「住んでるもんね、先生」
冷蔵庫や小さな台所やまであるこの部屋は、他人の私ですらとても居心地が良くてつい長居してしまう。
だから、雨が降ったり、駅まで直行の大学から出るバスを乗り過ごしたりしたとき、何度も泊らせてくれるよう駄々をこねたりするが、先生は頑としてそれを断り、わたしの家まで、毎回自分の車で送ってくれる。
「ね、先生。あたしも泊まりたい」
「またそれですか」
そう言って先生はポケットに手を入れて、キーケースを取り出した。
先生のキーケースには、原色の糸が使われた変な刺繍が施してあり、以前それも姪からのプレゼントだと言っていたので、先生のセンスの悪さはもしかしたら血筋なのかもなあと余計なことを考えていると、
「途中でラーメンでも食べますか」
と提案された。
「食べたい。でもあたしまだ外出たくない」
「だから電車に乗り遅れるんですよ」
「あたし、電車に乗り遅れたから、泊まりたいって言ってる訳じゃないよ?」
先生の目線が、一瞬だけ揺れるのが分かった。
「君、もしかしてモテます?」
「まさか」
「……同世代の男性にそういう言い回しをしたらいけませんからね、誤解しますよ」
「え、もしかして先生、今のにときめいた?」
「馬鹿言わないでください……ああ、出前とりますか?」
アルバムの最後のページに挟んであった、茶色い紙を見て、先生がそう尋ねた。
「それいつの時代のメニュー?」
「此処、まだやってますよ。一昨日も行きました。さすがにメニュー表は変わりましたけど」
そういって先生は電話の下に敷いてある、ラミネートされた綺麗なメニュー表を私に差し出した。
「先生はいつも何頼むの?」
「ホタテラーメンとにんにくチャーハンです」
美味しそうなネーミングに惹かれて、それを注文すると先生も同じものを頼んだ。メニューを畳んで、電話の下に戻す。
そのとき、先生の肩にわたしの肩がぶつかって、バランスが崩れた。先生に雪崩かかる。
「わ、すいません」
「それが君のテクニックですか」
「先生、自意識過剰すぎ。なんであたしが30近く離れたおじさんに色目使うの」
そういうと、先生は酷く傷ついた顔をして私から目を逸らした。
起き上がって
「ごめんなさい。言い過ぎました」と謝ると先生はいえいえと手を振った。
「君と話すと学生時代に戻った気がします。僕も此処の生徒でしたから、余計」
「同級生だったら良かったね。ださい格好直してあげられたし。」
「……ええ、本当に。けれど同級生だったら君は僕と接点がなくて仲良くならなかったかもしれませんね。教授でないから部屋もありませんし」
先生の、枝みたいな指がわたしの頭に触れた。その手をそっと押し退けて、先生の肩にもたれ掛かる。
このまま溶け込めたらいいのに。
強く願いながら、洗剤と先生の匂いでいっぱいのシャツを鼻と唇に押しつける。泣きたくなるほど安心した。
「唇が当たってます」
「……先生、すき」
「養女にでもなりますか」
「悪くないかも」
一番先生の年齢を感じさせる先生の首から目をそらして、そろっと目を閉じる。
「口紅が肩につきました」
「ほんとだ、不倫ドラマみたいだね」
「ちょっと、笑えませんよ、それ」
窓から見える橙色の夕暮れが、とても淡くて綺麗だった。
輪郭と空の境目がわからないほどで、ぼやけた光ははうっすらと湿った目頭に優しく染みた。
「お腹空いた」
「出前がそろそろ来る頃ですよ」
「ね、先生」
そう切り出して
「キスして」
と繋げるつもりだったのに、先生は返事をしてくれなかった。
ちらりと先生の顔に目をやると、先生は瞼を閉じていた。
その顔は、外から流れてきた風に額が晒されて、少しだけ若く見える。
「お腹すいた」
「もう来ますよ」
そう言って先生は、するりと自然にわたしから離れて、立ち上がり、窓を閉めた。こちらに向けられた背中は広いけれどもくすんでいて、なんだか胸が苦しくなった。
わたしが口を開こうとした瞬間、電話が鳴った。それに出た先生は、目だけでわたしにサンダルを履くよう促す。
サンダルのストラップを結ぶのにてこずりながら、電話を切った先生に尋ねる。
「出前ってどこに取りに行くの?」
先生はこれまた悪趣味なスリッポンに足を入れてから、正門です、と答える。
部屋までの距離の長さに、ラーメンが伸びないか心配すると、
先生は
「食べながら部屋に戻れば良いんです」
とそんな心配を撒き散らした。
キャミソール一枚じゃ、外を歩くのは少し肌寒かったけれど、冷えた体にラーメンはさぞかし染みるだろうと想いを馳せて、わたしは先生を置き去りにして正門まで走った。
先生が
「食い意地張りすぎでしょう」
と呟いたのが聞こえた。
橙色の17時