輪転

 午前六時、私はいつものように目を覚ました。枕元の目覚まし時計を探して手を伸ばしたが、指先のざらざらとした感触に慣れないものを感じた。少しの間を置いて、いつもとは違う場所に眠っていたことに気付いた。
 ああ、そうだ。ここは東京の外れの粗末なマンションではなく、池の畔の小さな旅館なのだ。私はここ最近の出来事を寝ぼけた頭で思い返して、この場所に辿り着いたことを不思議に思わずにはいられなかった。カーテンを開けて眼下に広がる入鹿池を眺めながら、同じ時刻でも東京と愛知とでは随分と明るさが違うのだなと当たり前のことを考えた。生憎の曇り空でもあったので、余計にそう感じたのかもしれない。
 ふと、大学時代に一度だけロンドンに渡ったときのことを思い出した。あれは二十歳になったお祝いとして、両親からプレゼントされた旅行だった。言葉の通じない異国に旅行することは両親の望むところではなかったし、一週間という短くはない期間を共に過ごせるほど気の置けない友人はなかったし、ちょうど交際している女性もいなかったから、私は初めての海外旅行に一人で出かけたのだ。立ち寄ったCDショップでジャケ買いをしたり、広大なハイド・パークを散策したり、あの有名なアビイ・ロードの横断歩道を渡ってみたりした。それでも最も印象に残っているものといったら、いつも頭上に覆いかぶさっていたあの分厚い雲だ。その、濁った乳白色の曇天の下を這いずり回った経験は、私という容器を何かしらの形で変容させてしまった。
 今も私という容器は変形し続けている。その中に満たされているスープの風味は同一性を保っているけれども、社会人として生きていく上で容器の中身はさほど重要視されなかった。容器の口と口とを合わせてお互いの中身を交換し合うような関係は、今の時代にはあり得ないのかもしれない。その可能性が存在していたとしても、それはもう不可能になってしまったのだ……。
 ピンクのライン入りの黒いジャージを着た中学生くらいの女の子が、窓の下を駆け足で通り抜けていった。ここは朝も昼も静かな場所だが、夜中になると暴走族がうろうろしていて、なかなか穏やかに眠ることは叶わなかった。それに自分で思っていた以上に神経質なのか、慣れない場所では落ち着いて眠ることができなかった。
 大きな欠伸をした私は、カーテンを閉じて再び短い眠りに就くことにした。



 次に目覚めたときには午前九時を回っていた。その間に一度、旅館の主人が部屋を覗いていった気配があった。きっと朝食のことで用事があったのだろう。私も電話をかける用事があったので、電話のある一階に下りる準備を始めた。この部屋から電話をかけても良かったのだが、そう広くはない空間で大事な電話をかけるのは息が詰まるような感じがした。
 トイレを済ませ、洗面台に向かう。休暇中だというのに疲れきった男の顔が鏡に映った。最低限の身だしなみのために毎朝欠かさず鏡には向かっているが、いつもよりも惨めな顔をしているように見えた。それは時間の余裕があってまじまじと自分の顔を見たからなのか、それとも照明の関係なのか分からなかったが、鏡が映し出すものは全て真実だった。
 一階に下りると愛想の良い主人が朝食を準備しましょうかと尋ねてきた。私は起きたばかりで腹が減っていなかったし、早く用事を済ませてしまいたかったのでそれを断った。私はロビーの電話を借り、先日調べてもらった番号にかけることにした。ロビーのソファには客の老人が座っていて、難しい顔をして朝刊を読んでいた。聞かれて困るような話をするわけではないので、私は構わずに電話をかけた。三度のコールを経ても相手は出なかった。手近にカレンダーがあったので今日が日曜日であることを確認する。と、五度目のコールで女性が電話に出た。

「はい、中川です」
「えっと……、そちらに恵理さんという方はいらっしゃいますか?」

 私は番号を間違えてかけてしまったのかと思って、念の為に相手の名前を確認した。

「中川恵理は私ですが」

 時の流れとは残酷なものだ。私は思わず天を仰いだが、その間を怪しむ気配が相手にあった。
 私は唐突な話で申し訳ないが、と前置きをした上でこれまでに起こったことを彼女に説明した。とても熱心に言葉を繰り出したので彼女の感情を読み取る余裕はなかった。一通りの説明を終えた後で沈黙に突き当たったとき、私は恐るべき深淵を鼻先に感じた。

「もしもし?」

 しばらくの間があって、ようやく彼女が応えた。

「それで、そのことを私に伝えてどうするんですか?」
「今の話は理解していただけましたか?」
「何があったかは分かりました。でも、それでどうしろと言うんですか」
「あなたに渡したいものがあるんです」

 ひょっとしたら、彼女には思い当たる節があったのかもしれない。再び訪れた沈黙の中で、私はそんなことを考えた。

「あなたはそのためにわざわざ東京からやって来たんですか」
「そうです」
「そんな……、そんなことを聞いて、断るなんてこと出来るはずがないでしょう」
「受け取っていただけますか?」
「その前に一つだけ教えて下さい。どうしてあなたはそこまでする必要があるんですか」

 それは尤もな質問だった。私は独り言のように答えた。

「私が、彼を殺してしまったのかもしれないんです」

 ほんの一月前に同僚が自殺した。同僚の名は木村といって、痩せ型であまり目立たず成績も良くない、いわば社内のお荷物のような存在だった。念の為に言っておくと、お荷物というのは他の同僚や上司による評価で、私はその意見に与しなかった。たしかに成績は良くなかったかもしれないが、だからといって彼の人格を否定して良いはずはなかった。
 私と彼とは何度か仕事終わりに食事をしたことがあって、比較的親しかった。ただ、彼の遺した遺書に私の名が記されていたとき、正直に言うとどこか居心地の悪さを感じた。彼は、遺品の整理を私に頼みたいと記していた。
 程なくして木村の両親が愛知から上京してきた。私は彼らに付き添う形で初めて木村の家に上がった。室内は嘘のように整然としていて、そこに生活の臭いを感じる要素は何もなかった。小さめの冷蔵庫の中には調味料だけが入っていて、食材は何も入っていなかった。衣類も綺麗に整頓されていた。唯一の例外があるとすれば、様々な種類の本が並んだ本棚だった。小説や自然科学の本が綺麗に並べられていて、一目見たところではそこもやはり整然としていたのだが、試しにその中から本を抜き出して開いてみると、あちこちに線や注釈が書き込まれていた。
 私が偶然に手に取ったのは、キルケゴールの「死に至る病」だった。他にもニーチェやサルトルといった小難しい名前が並んでいた。それまで哲学というものに胡散臭さを感じていた私は、木村の死を妙な考えに取り憑かれた人間の末路だと片付けることもできた。だが、その哲学書に書き込まれた線や注釈を見ると、我々は何かとてつもない喪失をしたのではないかと恐ろしくなった。
 本棚の前に立ち尽くす私の傍らで、木村の両親は粛々と遺品の整理を続けていた。私は彼らの心中を想像するだけで悲痛な思いにとらわれた。
 遺品の整理があらかた終わったところで、彼らはそれまで手付かずだった本棚に手を触れた。彼らは本棚の中身を売却しようかと話し合っていた。そのとき、私は反射的にいくつかの本を譲り受けたいと口にしていた。彼らはどこかほっとしたような顔をして、それを了解してくれた。例えとしては相応しくないかもしれないが、まるで亡くなった人が臓器を提供するのと同じように、どこかで息子の意志が受け継がれることを望んでいたのかもしれない。
 その日、私はいくつかの哲学書を受け取って帰宅した。



 噂というのは恐ろしいもので、どこから流れ始めたのかは分からないが、木村が哲学に傾倒していたことが社内で話題になっていた。出先で上司と昼食を共にしたとき、彼はこんなことを言った。

「哲学バカっていうのは死なないと治らないみたいだね」

 元々、木村に対する風当たりは強かったので、上司はその延長線上でそんなことを言ったのかもしれなかった。だが、私としては死んだ人間のことを悪し様に言う権利が上司にあるとは思えなかった。その日の夜に慣れない哲学書を紐解いたのは、上司のそんな言葉がまだ頭の片隅に残っていたためだろう。私が開いたのは、言うまでもなく「死に至る病」だった。
 死に至る病とは絶望のことである。そんな一文が、私を回想の世界に引き込んだ。
 あるときのことだ。私は仕事終わりに木村と居酒屋に入った。私はとりあえず生ビールを、木村はウーロン茶を注文した。飲めないわけではないが飲まないのだ、というようなことを木村は以前言っていた。木村は酒も煙草もギャンブルも女も、全て嗜まなかった。その日、酔いが回った私はどうしてそれらのことに興味を持たないのかと、軽い気持ちで訊いた。

「僕は善く生きなければならないんです」

 そのときはその言葉の意味をよく理解できなかったが、その分だけ心に残るものがあった。きちんと理解できていたとしたなら、酩酊の中にその記憶を置き忘れてしまっていただろう。
 それから、私はやはり酔いに任せて愚痴をこぼした。その多くは仕事に関することで、私は上司や同僚のことを批判した。いつも虐げられているというのに、木村は彼らのことを悪くは言わなかった。私の愚痴に対してときどき頷くだけだった。
 終電間際になって私たちは店を出た。去り際に私は彼にあることを言った。

「今日はありがとう」

 愚痴を聞いてくれた礼として、私は軽い気持ちでそう言った。そのとき、木村は驚いたような顔をした。そして、何とも言えない微妙な表情をして彼は言った。

「善く生きることは、本当に難しいものですね」

 それから一週間後に彼は自殺した。
 私が彼の死に多少なりとも責任を感じたのは、そのときに彼の気持ちに気付くことができなかったためでもあるし、何か自分の言葉が彼が死を選んだことに影響したのではないかと考えたためでもある。他人と関係することの恐ろしい効能。私は自分を責めずにはいられなかった。
 ……私は我に返って頁をめくった。途中で栞のように挟まっているものがあった。それは随分とくたびれた封筒だった。宛先には女性の名が記されていた。
 投函されなかった手紙を届けること。それこそが、私が愛知までやって来た目的だった。私は木村の両親に彼女の連絡先を調べてもらうことにした。そして、今こうして電話をかけている。



 私が彼を殺してしまったのかもしれない。電話越しの告白に中川恵理は息を呑んだようだった。

「とにかく、一週間以内にそちらを訪ねます。それから、もうこの番号にはかけてこないで下さい」

 それが、彼女が苦しげに吐き出した言葉だった。
 私がそれを了承して電話を切ると、ロビーはほとんど静まり返っていて、新聞を読んでいた老人も姿が見えなくなっていた。コチコチという古時計の音と小さな水槽のポンプの音だけが聞こえてきた。
 私は二階の奥の自分の部屋に戻り、畳の上に寝転がった。少し、複雑な気分だった。彼女は中川恵理と名乗った。私は例の本を取り出し、その真中あたりの頁を開いた。十五年前に書かれた手紙が、今も変わらず挟まれていた。宛先の深田恵理という文字をなぞり、私はため息を吐いた。

「腹が減ったな……」

 私はそっと呟いた。

 客室で昼食を済ませた私は、重い窓を開け放った。外は相変わらずの曇り空だったが、入鹿池の周辺を散策するにはちょうど良い天気なのかもしれない。夏を前にして気温はじわじわと上昇してきていたから。
 しばらく畳の上に寝そべった後で一階に下りた。ロビーも相変わらず静かだった。私以外には朝見かけた老人が一人で泊まっているだけで、他には客がいないようだった。旅館の正面玄関には大友館と揮毫されていて、そのすぐ横には無造作に自転車が立てかけられている。あまり流行っていない旅館だった。
 旅館を出て、池の東側を歩いていくことにした。まだ冷たさを残した風に水面が大きく揺れている。どこからかキジバトの鳴き声が聞こえてきて、少し懐かしい気持ちになった。どこで鳴いているか確かめてやろうと思ったが、そう簡単に見つかるものではなかった。昼間は少なからず車が行き交っていて、それに混じって車道を行くロードバイクと何度もすれ違った。たしかに池の周辺を自転車で行くのは爽快だろうと呑気に考えたが、散歩をする人とはなかなかすれ違わなかった。せっかく散策する以上は池を一周してやろうと私は考えていたのだが、ひょっとすると歩いて一周するのはかなり時間がかかるのではないかと思われた。
 そこへ今朝見かけた黒いジャージの少女が反対側から走って来た。

「こんにちは」

 彼女は私の顔を見ると挨拶をしてすれ違った。私は挨拶をされるとは思わなかったので、咄嗟に会釈を返すことしかできなかった。私はまだ東京の人間なのだなと感じずにはいられなかった。都会を歩くと様々な人とすれ違う。子供から老人、白人から黒人まで。一日に何百人、何千人という他人とすれ違うというのに、互いに挨拶を交わすことはあり得ない。
 この犬山を訪れた目的はまず第一に木村の遺した手紙を届けるということだったが、第二に私自身が静かな場所で休養したかったのだ。死んだ人間のことを悪し様に言う上司や同僚のいる職場から、少しの間だけでも離れたかった。他人の死に無関心な都会から離れたかった。それで一ヶ月間の休暇をとったのだ。休暇とはいっても、もう戻れないかもしれないのだが。
 私がいなくなったところで困る人間はいない。友人も恋人もいない。職場の人間には迷惑をかけるかもしれないが、もうそんなことはどうでも良かった。私が昇進させてもらえるかもしれないという話が少し前から出ていたが、そんなこともどうでも良く思えた。
 しかし、池の周辺を散策しながらも仕事のことが頭から離れなかった。あの仕事は他の人間には任せられないなとか、前任者が退職して私が担当し始めたばかりの取引先からは良い印象を持たれないだろうなとか、そんなことばかり考えてしまうのだ。今の生活が仕事というものに支配されているのがよく分かった。そして、私がこの犬山にやって来たのも、同僚の木村の死がきっかけだった。どこまで行っても仕事からは離れられないのかもしれない。そう思うと暗澹たる気分になった。
 立ち止まって池のさざ波を見つめる。薄い雲に透けて見える陽の光が重い熱気を覆い被せてくるので、三十分も歩いたところで汗だくになってしまった。晴れやかな気分が暗転して、これ以上先へ進むのが億劫になった。私は、あの静かな部屋へ戻ることにした。



 大友館へ戻ると、ちょうど玄関前を主人が掃いていた。お帰りなさい、と主人は言った。今は他人と話す気分ではなかったので挨拶を返すと部屋に引っ込むつもりだったが、主人は手を止めて笑みを浮かべてこう言った。

「散歩に行かれたんですか」
「ええ、まあ。途中で飽きて帰ってきてしまいました。さすがに池を一周するのはきついと思って」
「それは良かった。徒歩で一周するとなると一時間や二時間では済みませんからね」
「そんなにかかりますか」

 私は素直に驚いた。主人はやはり笑みを浮かべたままだった。

「次からはあれを使って下さい。古いものですが、まだまだ使えます」

 主人は壁に立てかけられた自転車を指さして言った。チェーンの錆びかけた、くすんだ赤いフレームの自転車だった。

「いいんですか」
「ええ、ご自由にどうぞ」
「料金は?」

 主人はきょとんとした顔で口をつぐんだ。私の言葉が理解できないらしかった。

「東京では自転車を貸すのにもお金を取るんですか?」

 やはり、私はまだ都会の人間だった。



 部屋に戻って例の如く畳に寝そべり、さっきのことをまた考え始めた。
 私が木村の遺した手紙を見つけたのは全く偶然のことだった。たしかに木村は遺品の整理を私に頼んだし、彼の両親も私がいくつかの本を引き取ることを了承してくれた。だが、誰がそこにあの手紙が挟まっていることを想像しただろう。今ではもう分からないことだが、木村自身もあの手紙のことは忘れていたかもしれない。覚えていたとしても、あの手紙を私が届けることなど想像もしていなかっただろう。
 どうして、私はあの手紙を届けようとしているのだろう。誰かに頼まれたわけでもないのに。木村がそれを望んでいたかどうかも分からないのに。私のしようとしていることは完全なおせっかいだった。木村に対して勝手な友情を抱いていた。私は彼を救えなかった。その罪滅ぼしのために、ただ自分のためだけにこの地を訪れた。
 頭の中をぐるぐると駆け巡る考えに押し潰されそうだった。私はすがるようにして窓に駆け寄り、空を見上げた。曇り空は変わらず存在していて、夜の訪れる兆しはなかった。私の一日は、私の煩悶は、まだ終わりそうになかった。



 愛知県犬山市の入鹿池の畔に建つ大友館は、昭和初期から営業を始めてもうすぐ八十周年を迎える。小ぢんまりとした旅館は本当ならば風情や情緒があると言えるのかもしれないが、平成に入ってから一部を改装をしたためにその持ち味は薄れてしまった。改装は客室のある二階を中心に行われ、主人曰く使い勝手が良くなったということだったが、客足は伸びないどころかむしろ減ってしまったという話だった。客室の改装は失敗し、古き良き何かが失われた。私も部屋にいてもどこか落ち着かないので、古時計のあるロビーに下りて時間を過ごした。ロビーは改装を免れて古い時代の趣きを残していた。木村の本棚から貰い受けた哲学書を読んだり、ここに来る途中の駅で買った推理小説を読んだりした。元々、私の生活に読書をする時間はほとんどなかったので、何度も休憩をしながら読んだ。目を閉じて時計のコチコチという音を聞いていると心が安らいだ。
 午後九時を回ったところで私は大浴場に向かった。客室と違って、この大浴場の改装は成功したと言える。池に面した側がガラス張りになっていて、前景の木々が少し邪魔に思えたが、それが却って風情を感じさせて、池の様子が一望できた。入鹿池はため池としては珍しい大きさで、湖と呼んでしまっても構わないような気がした。池や湖の違いは広さや深さによるのだそうだが、やはり単純に大きいものは湖、小さなものは池と呼びたくなる。
 昼間のうちは池の向こうに山々が見えて、空を行く雲と一体になって壮大な景色を形成している。今朝目覚めたときに東京と比べて夜明けの遅いことに驚いたのを思い出して、その思い出が遠い昔のように感じられることに愕然とした。今日という日を私はどのように過ごしたのだろう。電話をかけて昼食をとって、一時間ばかり散歩をして夕食を食べて、そして風呂に入っている。たったそれだけのことしかしていない。だというのに、この時間の流れ方は何だろう。
 つい先月までは仕事をしていたせいもあったが、一日というものがひどく短く感じられて、まるで子供のように一日が何十時間もあればと考えることがあった。今、この入鹿池の畔で風呂に入っている私は、二十四時間という時間の本当の重みを知った。もしも一日が三十時間あったとしても、東京にいた頃はその時間を有効に使えなかっただろう。いや、もしも自由時間を全て建設的に使えたとしても、まだ足りないと考えたはずだ。何かに急かされるように何かに追われるようにして生きていたのだから。時間の大切さを知らなかったのだから。
 そんなことに気付いても、私はまだ都会の人間だった。壁の高いところにかけられた時計を見て、三十分も風呂に入っていたことを知って、落ち着いて湯船に浸かっていることができなくなった。そわそわした気分を抱えたまま、私は大浴場を出た。
 ロビーに戻ると、今朝電話をかけるときに朝刊を読んでいた老人が、ソファに身体を預けて眠っていた。私はそのまま二階に上がろうとしたが、階段を途中まで上がったところで思い直した。夏を間近に控えているとはいえ、あんな場所で眠っていては風邪を引くのではないか。そう思ったところで、私は老人にどんな言葉をかければ良いのか分からなかった。身を翻した状態で立ち止まっていると、ちょうど奥に下がっていた旅館の主人が出てきて老人の肩を叩いた。主人は私の存在に気付いて静かに微笑んだ。私は、会釈をして再び階段を上がった。



 静かな部屋に戻ってそのまま眠りに就こうかとも思ったが、時刻はまだ十時前だった。東京にいた頃は日付が変わる時間に眠っていたから、眠るには早すぎる。
 本当に静かなところだった。あと数時間もすればやはり暴走族が外を走り回るのだろうが、この時間はまだ静かなものだった。机に向かって緑茶を飲んでいると、あまりにも静かなので耳鳴りがしてくるようだった。窓辺に立つと入鹿池は暗闇の底に沈んでいた。東京といえども隅から隅まで高層ビルが建っているばかりではないから、同じような光景は探せば向こうでも見つかるかもしれないが、入鹿池の闇はどんよりとしていて特別で、どこか別の世界へと繋がっているように思えた。瞬間的にある記憶を思い出した。
 私は今でこそ都会の色に染まった人間だが、元々は北陸のとある田舎町で生まれ育った。三方を山に囲まれた何もないところだったが、子供の頃は何もなくても楽しく過ごした。何もないというのは物質的に裕福ではなかっただけのことで、家族や友人、近所の人や学校の先生など、多くの人々に囲まれて育った。出会ったのは必ずしも良い人ばかりではなかった。いつも機嫌が悪く他人に理不尽な怒りをぶつけるおっかないおじさんや、被害者面をして他人を恨み育児放棄をするおばさん、精神を病み汚れた格好で徘徊する男。そんな人々も少なからずいたが、総合的に見れば良い出会いに恵まれたと思う。
 中学に上がったばかりのあるとき、私は友人たちと肝試しをすることにした。それは山の麓にあって、本当にぽつんと建っている惨めな廃病院だった。そこには山姥が住み着いているとか、戦時中に人体実験が行われていたとか、とにかくでたらめな噂が流れていて、子供たちの間では有名なスポットだった。そこに忍び込むのは中学に上がった子供たちの伝統行事のようになっていて、私も内心ではびくびくしながら平気な顔で誘いに乗った。
 結局、その廃病院には何もなかったし、何も起こらなかった。世界中の穢れという穢れが集まったような場所だったことは覚えている。私が思い出すのはその後の、家に帰る道中のことだ。私は友人たちとは少し離れた海沿いに住んでいたから、途中で彼らと別れた。帰り道は幼い頃から知っている道で、大した距離でもなかった。だが、肝試しの後でおまけに日も暮れていたから、何だか落ち着かない気分で後ろを振り向きながら歩いた。私の後ろを暗闇が付いてくる。無限に奥行きのあるどす黒い空間。私はその暗闇が怖くなって駆け出した。駆け出した末にぶつかったのは、夜の海だった。
 それはついさっきまで感じていた暗闇とは比較にならないほど、とてつもなく大きな深淵だった。海の向こうにはあちらの世界があって、どこまでも私を引きずり込もうとしているのではないか。その恐怖は今でも鮮明に覚えている。そのどんよりとした暗闇の合間を私は家まで走り抜けた。そして、頼りないながらも温かい自宅の光を視界に収めたとき、私は無上の愛を知った……。
 私がこうして故人の手紙を届けるようなおせっかいなことをしているのは、今までに貰い受けてきたものを譲ろうとしているからではないだろうか? ふと、そんなことを考えた。人の生きてきた証、魂のようなもの。そんなものを、私は伝えようとしているのではないだろうか?
 結局、自分でも納得のいく答えは出なかった。少し蒸し暑さを感じたので窓を開けると、虫や蛙の鳴き声、車道を行く自動車の走行音が聞こえてきた。そのピンセット一つまみ分の喧騒に囲まれながら、私は徐々に都会の生き方から抜け出しつつあった。

 次の朝、私はやはり六時に目が覚めた。朝食をとるにはまだ早かったので、ロビーに行って朝刊でも読むことにした。
 一階に下りると先客がいた。例の老人だった。老人が指を舐めて朝刊をめくるのを見て、何だか急に気分が萎えるような思いがした。そこで私は外に出て朝の新鮮な空気を吸うことにした。
 玄関を出ると主人が掃除をしていた。そんなに落ち葉があるわけでもないし、特に汚れているというわけでもないのだが、几帳面なものだと感心した。主人は私の姿を認めると適切な大きさの声で挨拶をしてきた。

「おはようございます」
「おはようございます」

 私は久しぶりに朝の挨拶をしたような気がして、それだけで清々しい気持ちになった。

「昨日はよく眠れましたか」
「ぐっすりと眠れましたよ。別に疲れてるわけでもないんですけどね」
「それは良かった。ここらは暴走族が多くて、たまに苦情を言われることがあるんですよ」

 たしかに昨日も暴走族がこの辺を走ったはずだが、今度はまるで気付かなかった。ようやくこの土地に慣れたのかもしれない。

「昨日は気付きませんでしたね。たしかに最初は気になったけど」
「雨でも降ると静かなものですよ。雨が余計な雑音を遮ってくれるし、暴走族も真面目なんだか不真面目なんだか、雨の日には走らないんですよ」
「へえ、暴走族がね」
「ああ、すみません。散歩に行かれるんですよね、お邪魔しました」

 主人は芝居がかった頭の下げ方をして、旅館の中に引っ込んで行った。それが彼なりのコミュニケーションなのだろうと、私は特に気を悪くすることもなかった。ただ、ちょっと外の空気を吸うつもりが戻りにくくなってしまったので、そのまま池の方に歩いていくことにした。
 入鹿池はワカサギ釣りで有名らしく、その季節になると釣り客で賑わうらしかった。今はその時季ではないが、それでもブラックバスを目当てに訪れた釣り客の姿が見えた。個人的には釣りというものにさして関心はなかったが、いずれ余裕ができたならやってみるのも良いかもしれないと思えた。私の未来は、まだ暗雲の彼方にあった。
 後ろから人が迫ってくる気配があった。私が何となく振り返ると、あの黒ジャージの少女と目が合った。彼女は今日もランニングをしていたのだ。

「おはようございます」
「おはようございます」

 今度は私もしっかりと挨拶を返した。それで少女に追い抜かれるのかと思ったが、彼女は速度を落として私の歩みに合わせてきた。不審に思うその前に彼女が口を開いた。

「あの、大友館のお客さんですよね?」
「ん、まあ、そうだけど。君は?」
「わたし、大友館の孫娘なんです。よろしくお願いします」
「そうか、なるほど」

 早朝に旅館のところで彼女を見かけたのも、昨日私に挨拶をしてきたのも、ちゃんとした理由があったのだ。私は合点がいって反射的にそう言っていた。

「驚かせちゃいました?」
「うん、少しだけ」
「お兄さんは、……あっ、お兄さんって呼んでいいですか?」
「おじさんじゃなければ何でもいいよ」
「じゃあ、お兄さんで。お兄さんは何かスポーツをされてるんですか?」
「今はやってないけど、学生時代はバスケをやってた」

 彼女は私の頭の方を見上げると、うんうんと一人で頷いた。

「うん、予想通りです。かなり背が高いから」
「君は陸上競技でもやってるの?」
「わたしは違うんです。吹奏楽部なんです」

 一瞬、虚を衝かれたようになったが、今度は私がうんうんと頷いた。

「なるほど。吹奏楽部も運動が必要だからね」
「そうなんです! なかなか分かってもらえないけど、吹奏楽部も結構キツいんですよ」

 彼女は目をキラキラとさせながら、はきはきと答えた。
 私はふと感じた疑問をさらりと言葉にした。彼女がそれに答えたところによると、彼女の名前は吉田愛、十五歳の中学三年生だ。吹奏楽部は今度の夏で引退するが、高校に入っても吹奏楽を続けるつもりだと、質問していないことも答えてくれた。私は続けて質問した。

「君はあの旅館で暮らしてるの?」

 それは素朴な疑問だったはずだが、彼女はわずかに目を泳がせて、どう答えれば良いのか迷ったようだった。

「今はおじいちゃんのところに預けられているんです。ちょっと、事情があって」

 私は思わず口をつぐんだ。中学生の言う事情というものの重さを量りかねたからだ。私も彼女も口を閉ざして、何となく居心地の悪さを感じた。

「たいした事情じゃないんですよ、別に――」
「いや、答えたくないのなら構わないよ」
「……ごめんなさい」

 私たちは黙って歩いた。

「あっ、今何時か分かりますか?」

 私は休暇の間も変わらず着け続けている腕時計を見て答えた。

「六時半だ」
「もう戻らなきゃ。今日は学校があるから、おじいちゃんに送ってもらうんです」
「そうか。そろそろ腹が減ったから私も戻るよ」

 彼女は何となく変な表情をしたが、すぐに頷き、二人で歩いて大友館に戻ることにした。



 旅館に戻ると、愛は汗を流したいからと女湯の方に入って行った。私は部屋に戻るのが何となく寂しく思えて、ソファに座って朝刊を読むことにした。初めて聞く名前の地方新聞だった。地域の天気予報の欄を眺めていると、学生服に着替えた愛と旅館の主人とが奥の方から出てきた。

「ちょっと留守にします。孫娘を学校に送らなければならないので」
「ええ、お孫さんから聞きました」
「朝食は厨房の方で用意させているところですから、いつでもお好きなときに召し上がって下さい」

 私は何となく奥の方を眺めてから頷いた。この旅館に着いて三日目になるが、主人以外に従業員を見たことがなかった。もちろん一人で切り盛りしているとまでは思わなかったが、この静かな旅館の中には意外に人がいるのだと今更のように感じた。愛は私の方に軽く手を振ると、玄関前に停まっていた軽トラックに乗り込んだ。二人の乗った軽トラックの走行音が離れていくに従って、旅館はいよいよ静寂さを深めていった。
 朝刊を一通り読み終えたところで私は厨房の方に声をかけた。五十代くらいの小柄で平凡な女性が出て来たので、私はここで朝食をとりたいと言った。女性は笑顔を作ってそれに応えたが、さすがに主人ほどの愛想の良さはなかった。五分ほどして二人分の朝食が運ばれてきたので怪訝に思った。すると焼き魚や味噌汁の匂いに誘われてきたのか、二階から老人が下りてきた。老人の分の朝食は私の向かい側に置かれていたので、私と老人とは向かい合う形になった。

「おはようございます」
「どうも、おはようございます」

 老人はベージュを基調にした落ち着いた服装をしていたので、勝手に物静かな印象を持っていたのだが、私の挨拶にはきはきと応えてくれた。おそらくは六十代の後半に差し掛かった老人の顔を、初めてまじまじと見た。頬のたるみや深く刻まれた皺が老人としての印象を生み出している。しかし一方で視線を下げると、肩幅が広く背筋はしっかりと伸びていて、焼き魚を解体する手はこの上なく正確に動いている。
 あまりまじまじと見つめていては失礼に当たるので、私は自分の食事に集中することにした。しばらくの沈黙の後で老人が口を開いた。

「こちらへ来るのは初めてですか?」
「移動で通過したことがあるくらいで、ちゃんとした滞在は今回が初めてです。えっと……」
「大浦です、大浦清隆。貴方のお名前は?」
「岡崎耀司です」

 良い名前ですね、と過不足ない感情を込めて大浦さんは言った。

「この歳になって一人旅をしているんですが、誰かとご飯を食べる機会なんてなかなかありませんから、つい話しかけてしまいました」
「私も一人で食事をするのは寂しかったんです。ちょうどよかったですよ」

 大浦さんは生まれつき穏やかな性格をしていて、生まれつき老人の落ち着きを持っていたのではないかと思われるほど、好々爺という言葉がぴったりだった。
 魚を食べるのが苦手な私はつい汚らしい食べ方をしてしまった。それはカップ麺や弁当ばかり食べている普段の生活のせいでもあったし、そもそも他人と食事をすることなどほとんどなかったせいでもある。一人きりで生活をしていると何もかもがだらしなくなってしまうのだ。

「この辺りはもう散策し終えましたか」
「昨日は池を一周するつもりで散歩に出たんです。でも、途中で疲れてしまってすぐに帰ってきました。今度は自転車を借りようかなと」
「私は山口の片田舎から旅行で来たんですがね、田舎の方に住んでいるとつい車に頼ってしまって歩くということをしないんですよ」
「そういうものですか」
「そういうものです。見たところ、貴方は都会の人だから歩き慣れているようにも思えたけど、池を一周するのは無謀かもしれませんね」

 たしかに都会の人間はよく歩く。私も車を持っていないから、自宅から駅、駅から職場までは必ず歩く。しかも徒歩で移動できる範囲に様々な店があって寄り道をしたりするから、一日の移動距離を合計すれば、かなりの距離になるかもしれない。

「次は自転車で行ってみようかと思います。早ければ今日の午後にでも」
「週の後半は天気が崩れるらしいから、それが良いでしょうね」
「大浦さんはいつまでこちらに滞在されるんですか」
「一人旅だから気ままなものでね、まだ決めていませんが、今週中には発つつもりですよ。そちらは?」
「私も似たようなものです。待ち合わせの用事があって、それが済むまでは滞在します」
「そうですか。ううん……」

 大浦さんは急に考え込むような顔をした。私はちらりと大浦さんの顔を見てから、焼き魚の小骨を取り除く作業にとりかかった。口に一欠片を運んだとき、不意に大浦さんが咳払いをした。

「失礼だが、貴方は休暇でこちらに滞在されているんでしょう」
「まあ、そうですが」
「だったら肩の力を抜いて、堅苦しい言葉はよして、自分の思うままに過ごしなさい。そうしないと、いつまでたっても気持ちが休まらないでしょう」

 私はいつもの調子で過ごしているつもりだったから、大浦さんの言葉にあまり納得がいかなかった。だから、当然のように私はこう尋ねた。

「これが私の普段通りの生活ですよ」
「無理強いはしないが、休暇だったら腕時計なんか外してもだれも怒らないし、私、だなんてお堅い一人称は使わくてもいいんですよ」
「……」
「失礼、休暇の過ごし方は人それぞれですから、私も余計なことを言ってしまいました。許して下さい」

 大浦さんはそう言って頭を軽く下げると立ち上がった。そのまま行ってしまうのかと思われたが、すぐにこちらを振り向いてこんなことを言った。

「久しぶりに若い方と話せて今朝の食事は楽しかった。迷惑でなければ、またご一緒させて下さい。私は一人旅の哀れな老人なんです」

 二階への階段を上がっていく様子は、とても老人のそれとは思われないほど、足取りがしっかりとしていた。私はその背中を見つめながら、自分の心に没入していった。古時計の音がまるで探針音のようになって、自分自身の心を探る私の手を助けた。大浦さんの言葉を反芻する。
 ……再び食事に手を伸ばし、冷めた味噌汁を飲み干す。そして、これからの時間をどのように過ごそうかと考えた。反射的に腕時計で時間を確認した。都会の生き方を捨てるのは私にはまだ難しいことのように思われた。

 その日は夕方まで部屋に閉じこもって読書をした。少しばかり日差しが強すぎるように思えたし、頭の中に巡る考えを外に逃がしてしまいたくなかったのだ。このタイミングで考えを煮詰めてしまわなければ、何か重大な喪失をしてしまうかもしれない、そう思ったのだ。私を内省へと駆り立てたのは、大浦老人の言葉だ。最初は自分自身の今後について考えてみたが、それはよく考えがまとまらなかった。次に中川恵理のこと。彼女は果たして手紙を受け取ってくれるだろうか?
 そして、最後に木村のこと。どうして彼は死を選ばなければならなかったのだろうか。重い病気に罹っていたわけでもないし、借金があったわけでもなく、恋愛関係でのいざこざがあったわけでもない。それはかねてからの疑問だったが、そんなことが分かるはずがないからと、考えることを放棄してきた。これまで近親者や友人に自殺をした者はなかったから、手がかりになるようなものもない。精神を病んでいたと考えればそれで片付けられるが、あまりにも短絡的なように思われた。職場の環境の劣悪さが引き金を引いたのだろうが、そこに至るまでに何かしら積み上げられていたものがあったのではないか。
 そこで思い出したのは、上司の言った「哲学バカは死ななきゃ治らない」という言葉だった。上司には無意識に自分の責任を哲学というものに押し付けようとした感があって、私はそれに強い反感を覚えた。だが、今となってはその言葉ですら足がかりに動員しなければならなかった。何か深い思索の果てに絶望を悟った人間が自殺を選んだのだとすれば、その絶望が木村をして死に至らしめたのだとすれば。しかし、哲学というものに全ての責任を押し付けるのは片手落ちであるように思える。何故なら、哲学によって絶望したのか、絶望したから哲学したのか、その因果関係がはっきりしないからだ。木村がどの時点で絶望したか、それがはっきりしない。
 あるいはその絶望の根源には、中川恵理への手紙があるのかもしれなかった。あまり褒められたことではないが、私はその手紙の内容を把握していた。封がされていなかったから、つい手紙を読んでしまったのだ。それに、中身を知らずに十五年前の手紙を渡そうとするような道化ではない。ここへ来る道中に何度も読み返したその手紙の内容を、私はごろりと寝転がって諳んじた。
 それは、恋の手紙だった。恋慕の情を打ち明けることによる照れと若い思い切りの良さとが同居している、でこぼこした筆致。それでも中学生にしてはよく書けていると思えた。自分の気持ちを伝えるには申し分ない文章だった。この手紙はここに在るべきものではない、その確信は日増しに強くなってくる。在るべきところは、この手紙に記された感情が在るべきところは、おそらく中川恵理の胸の中だ。



 トントン、と扉を叩く音がした。いつの間にか微睡んでいた私は身を起こして扉を開けた。夕食を載せた御盆を持った愛がいた。

「ご飯、ここで食べます?」

 私は頷いて愛を招じ入れた。卓の上に置かれた山盛りのご飯を見て、私は正直なところ、少しばかりげんなりしてしまった。

「食べないんですか?」
「起きたばかりだから、後でゆっくり食べるよ」

 私は愛にそう答えて再び寝転がった。窓の方を向いて空の深いところを見上げると、眠っていた時間が案外短かったことに気付いた。
 愛が部屋を出ていく気配がないので振り向くと、愛はちょうど見下げる形になるのを避けるために畳の上に座って、覗きこむようにしてこう言った。

「わたしもここで一緒に食べてもいいですか?」

 私としては断る理由もなかったし、大浦老人の誘いに応じて愛の頼みを断るのは不公平な気がした。私が頷くのを見ると、愛はぱっと華やかな表情を浮かべて一階に下りて行った。愛が運んできた夕食は、私のものよりも大分少なめだった。私も一応卓に向かったが、刺身をちまちまと食べるとそれだけで満足した。愛は刺身にはあまり手を付けなかったので、私の茶碗蒸しと交換してもらった。やはり、育ち盛りの中学生にはあの量は少なかったようだ。
 刺身を食べていると必然的に酒が飲みたくなった。愛に頼んで持ってきてもらおうかとも思ったが、中学生と向い合って酒を飲むのは何となく気が引けた。酒の代わりにはならないが、冷蔵庫に冷やしてあったビンのコーラを取り出して、愛にはオレンジジュースを注いでやって、それで乾杯した。私たちはそれまで黙々と食事をしていたが、乾杯を契機に会話が弾んだ。

「スポーツの経験は?」

 私は会話の中で何気なくそんなことを訊いた。そこで初めて愛が沈黙したので、私は何か一線を越えてしまったような気がした。

「小学生の頃はソフトボールをやっていました」

 愛は短髪がよく似合っていて、よく日に焼けているから、ソフトボールをやっている姿は容易に想像できた。だが、彼女はそれだけのことを言うのにどうして沈黙したのだろう?

「そうか、ソフトボールか。君なら結構いいところまでいけたんじゃないかな」
「でも、もう辞めちゃいました。こんな風に言うと頑固に思われるかもしれないけど、色々と気に食わなかったんです」
「気に食わなかった?」
「はい。監督のヒイキが酷かったり、チームの中でいじめがあったり、個性を無視したチームプレーを強要されたり……」

 愛の表情が強張った。快活なばかりの少女かと思っていたが、その小さな胸に色々なものを抱えている。たとえ相手が子供であれ、ある一面だけを見てその人物を判断してはいけないのだ。
 そんな当たり前のことを私はこの少女に気付かされた。私は愛のことが気に入った。何より、気に食わないという言い方が。

「それで、吹奏楽を始めたきっかけは?」
「中学に入った頃、新入生を歓迎するために吹奏楽部が演奏をしたんです」
「それが胸に響いた?」
「いや、それが全然。素人のわたしからしても下手だったし、選曲も悪くて私たちが生まれる前のアニメソング。でも……」

 愛は次に吐き出す言葉を整理して、こう言った。

「とても楽しそうだったんです。嘘っぱちのチームプレーじゃなくて、一人一人の個性を活かして一つの音を作り上げること。それがとても素敵に思えて」
「それが君が感じたこと?」
「……半分は顧問の先生の受け売りです。でも、わたしもその通りだと思いました」

 これは単なる推測だが、彼女の学校での成績は可もなく不可もなく、といったところだろう。部活動に情熱を燃やす以上は勉学は二の次になるだろうし、彼女も勉強はあまり得意ではないというようなことを言っていた。しかし、それはあくまでも学校の成績の話で、実は一度物事を考え始めると核心を突いた発言をする、頭の良い子なのではないかと思えてきた。
 そんなことを考えていると、愛が私の顔をじっと見つめてきた。

「今度はお兄さんのこと、教えて下さい」
「ん、そうだね……」

 何から話すべきか、どこまで話すべきか、私はちょっと迷った。そこに生まれた間を愛はどのように受け止めたのか分からなかったけれども、茶碗蒸しを黙々と食べていた。

「友人、と言っていいのかな、とにかくそんな人がいてね。その人にあることを頼まれて、この犬山までやって来たんだ」
「あまり詳しく話せないことですか?」
「うん、まあ、ちょっと事情が複雑なんだ。手紙を渡すだけなんだけど」

 ふと、愛に中川恵理の姿が重なった。あの手紙を受け取るべきだった十五年前の中川恵理に。もしもあの手紙が投函されていたなら、そして木村と中川恵理が結ばれていたなら。少なくとも木村が自殺するようなことにはならなかったのではないか。私はどうしてもそう考えずにはいられなかった。
 愛がぽつりと呟く。

「手紙かあ、わたしは手紙なんて書いたことないです。電話かメールで済んじゃいますからね」

 瞬間、観念上の硝子がどこかで砕け散る音を聞いた。木村という男の遺したあの手紙が、瞬く間に否定されてしまったような思いがした。
 そしてあの言葉がしつこく浮上してくる。私はどうしてこんなところにいるんだ? 今更こんなことをして、何になるというのだ?



 夢を見た。深く深く、暗い闇の底をさまよう夢を。海藻が身体にびっしりと巻き付いていて、思うように前に進むことができなかった。この息苦しさには覚えがあったが、それが何だかよく思い出せなかった。標識も何もない闇の中をひたすら歩く。時間の感覚が曖昧になって、映像が断片的になった。どこまでも同じ光景が広がっていたが、少しずつ前に進んでいるという実感があった。
 そうかと思うと、次の瞬間には私は会社にいて、いつものように仕事をしていた。ずぼらな性格のせいで自分のデスクを散らかしていることを上司に叱責されて、頭に血が上る。こんな風に他人と罵り合ったことはないというくらい、激しく口論をした。音すらも断片的なので、私は自分自身が何を言っているのか分からなかったが、汚い言葉をぶつけていることだけは分かった。夢の中であるというのに、その言葉が自分自身に跳ね返ってきて、胸の奥に黒々としたものが沈殿していった。そのとき、誰かに肩を叩かれた。笑っているのか悲しんでいるのか、曖昧な表情で木村が佇んでいた……

「木村!」

 布団を蹴飛ばして起き上がった私は、しばらくの間、ここが大友館であるということが分からなかった。真綿で首を絞められるように、じわじわと現実が脳を浸していく。木村がもうどこにもいないという苦しい現実。夢の中で罵り合った後の気持ち悪さ。私は狭いながらも清潔なトイレに入り、便座に座って小窓から見える月を呆けた顔で見上げた。じわりじわりと事実に近づいていく感覚があった。
 私は何者でもない! 死者の手紙を口実に仕事から逃げ、都会から逃げ、そして自分自身から逃げようとしている。私はこの三十年の人生で何を成し遂げた? この先五十年生きるとして、何を成し遂げられる? きっと何も残すことはできないだろう。金も名誉も女も子供も、全ては私を避けるようにして流れていく。今の私は、ただ生きているというだけだ。特別な人生を生きるだけの能力は私にはない。ただ群衆の中の一人として、ようやく生きることを許されているのだ。
 私は初めて木村のことを羨ましく思った。彼もまた特別な人間ではなかったが、自分だけの人生を生きようと必死にもがいていた。若い頃は恋に情熱を燃やしていた。いつかどこかで挫折を知り、自分が特別な人間ではないことに気付いた。もしかしたら、それが自殺を選んだ動機かもしれない。この苦しみは、この苦しみは……。
 私は自分が何者でもないこと、特別な人間でないことを、何度も思い知らされてきた。第一志望の大学には行けなかったし、就職活動も失敗続きだった。けれども、その現実を直視せずに生きてきた。そのツケが回ってきたのだ。そう、この苦しみは、後に回せば回すだけ重みが増す。そして、決して逃れることはできない。死の間際まで逃れたとしても、最後の瞬間、天頂から降り注ぐ柔らかな光が全ての事実を詳らかにする。彼はもだえ苦しみながら死の淵に立たねばならない。
 小便すら出なかったが、水を流してトイレを出た。一度、思考を流してしまわなければ、重圧に押し潰されてしまいそうだった。
 時刻を見れば、午前二時だった。私は木村という男に感情移入し過ぎているのかもしれない。寝不足の頭であれこれと考えても悲観的なことしか浮かばない。さっさと寝よう、そう思って布団に潜り込んだが、容易に眠れるものではなかった。再び醜い夢を見るのが恐ろしくて、眠りに引き込まれるのを無自覚に避けようとしていたのかもしれない。無理に目を瞑って瞼の裏の光彩を眺めた。やがて透明な眠りが押し寄せる予感がして、私はようやく身を委ねることができた。

 窓を開けたままにしていたので、軽トラックが発進する音で目が覚めた。きっと旅館の主人が愛を学校まで送って行くところなのだろう。となると、時刻は七時前。どのくらい眠ったのかは分からないが、長くても三時間くらいだろうか。ここ数日はよく眠れていたので、睡眠不足がより強く感じられた。散歩をする気分にはならなかったし、ましてや朝食をとる気分にもならなかった。大浦老人は今日もロビーで食事を済ませるのだろう。行ってやらなければ、という優越的な気分にはならないが、ひょっとすると待ってくれているのではないかと申し訳なく思わないではなかった。が、やはり気分は向かなかった。
 哲学書を繙こうとして、伸ばした手を止めた。寝不足の頭で理解できるとは思えず、今は例の問題から離れていたかった。――どうして、こんなことをしているのか。
 立ち上がって網戸を開ける。空が白く濁っていた。つい二日前にはロンドンの空を想起したが、今となっては日本の空とは別物のように思われた。それは実際的な問題でもあったけれども、どこかに若かりし頃の海外旅行を美化しようという意識が働いているのが自分でも分かった。あの頃は今のような悩みもなく、ただ与えられたものを与えられた通りに消化していた。自分が特別な人間であると思い込んでいた。
 しかし、実際にそうだろうか? あの頃も若いなりに悩みがあったし、自分が特別な人間でないことに気付かなかったわけでもないだろう。結局、人というものは簡単には変わらないのだ。十年経っても同じように自分に嘘を吐き続け、同じようにびくびくと怯えている。焦りと後悔とで汗まみれになりながら。

「ああ、もうだめだ!」

 私は足かせでも厭うかのように大声で叫んだ。今になって後悔したところで、もう行動に移してしまったのだ。ここまで来てしまった以上、もう引き返すことはできない。後ろを振り向いても、背中を押してくれる者などどこにもいないのだ。
 いつの間にか三十分が経過していた。これ以上の思索は無意味だ。私は思い切り良く立ち上がって、扉を開けた。朝方にしては暗い廊下を、私は静かに歩いて行った。
 一階に降りるとちょうど古時計が鳴り、七時半であることを告げた。ロビーに大浦老人の姿はなかった。厨房の方に尋ねてみると、三十分前に食事を終えて部屋に戻って行ったと教えてくれた。あまり腹の減っていなかった私は、それでも何かを食べなければと思い、おにぎりをいくつか作ってもらうことにした。そして余ったおにぎりを持って、今度は自転車に乗って池を一周しようと思った。ロビーにはテレビがあったが、私は新聞を手にして天気予報を確認した。終日曇りではあるが降水確率は低く、気温も大して上がらないようだった。
 私は六つのおにぎりのうち半分を食べ、残った三つを弁当箱に入れてもらった。厨房の女性が弁当箱を風呂敷で包んでくれたが、それが妙に懐かしい感覚を思い出させてくれた。弁当箱を、それも風呂敷包みの弁当箱を持って、どこかへ出かけるなんてことは久しくないことだ。幼い頃には両親も色んなところへ連れて行ってくれたけれども、長じてくるにつれてその機会もなくなった。
 木村は、どうだったのだろう。愛情のある両親の元に生まれ、温かい家庭に育っただろうか。それとも、両親は冷酷で荒んだ環境だっただろうか。先日見た限りでは、木村の両親はどこまでも平凡な存在だった。優しさも冷たさも喜びも悲しみも、どこまでも平凡にしか表さなかった。高齢出産だったのだろう、私の両親よりも一回り年上に見えたが、特異な点はそのくらいのものだ。木村はその平凡な両親に連れられて、例えばこの入鹿池に遠足に来たことがあったかもしれない。覚えたばかりの自転車の乗り方で、どこか自慢気に池を一周したかもしれない。私は入鹿池に木村の記憶を問いかけたが、漫々と広がる水面は皮下の黒々とした記憶を呼び覚ますことをしなかった。



 新聞を読みながら食後の休憩を済ませると、私はいよいよ自転車に乗って小さな旅に出た。旅館の主人が私のために手入れをしてくれたのか、錆びついていたはずの赤い自転車は陽光をきらりと弾いていた。弁当箱を前方のカゴに乗せると、私は勢い良くペダルを漕いだ。大友館の前の坂を下るところでブレーキを確認したが、これも私の思い通りに素直な反応をしてくれた。思えば、自転車に乗るのも実に久しぶりのことだった。
 池の南からどちらへ向かうか迷ったが、直感的に東側から北上する道を選んだ。車道の端をのんびりと走る。最初は木々に遮られて何も見えなかったけれども、しばらく走ると視界が開けて、池とその向こう側の山の稜線までもがはっきりと見えた。私は自転車に乗りながら音楽を聞くという行為に疑問を感じていたが、いざこのように走ってみるとなるほど、自分の好きな音楽を聞きながら走るのも悪くはないかもしれないと思った。流行の音楽を頭の中で再生させながら、あるいは口ずさみながら走るので、犬山に来てからの答えの見えない苦悩から開放された気分になった。何をうじうじと考えていたのだ、俺は?
 しばらく走った後、車道の脇に自販機が見えたので少し休憩することにした。喉が渇いたので財布を取り出そうとしたが、旅館に置いてきてしまったらしく、いつからかズボンのポケットに入っていた小銭をかき集めてお茶を買った。財布だけでなく、携帯電話も忘れてきたようだった。今朝は意識して腕時計を外したのだが、財布や携帯電話のことは全く頭に浮かばなかった。ただ、風呂敷包みだけを大事に抱えてここまで来たのだ。ここまで来たと言っても、たかが十五分か二十分ほど自転車で走っただけなのだが、息は切れ切れになり、太ももが熱い悲鳴を上げている。ペットボトルのお茶を一気に半分も飲んだ。
 そのときだった、雷鳴が低い唸り声を轟かせたのは。灰色の厚い雲が急速に入鹿池の上空に流れてくるように見えた。雨具などは何も持っていないので、私は慌ててペットボトルを自転車のカゴに投げ込むと、すぐに来た道を引き返すことにした。その判断も虚しい結果に終わった。五分後にはずぶ濡れになり、大友館に戻った頃には雨雲はどこかへ流れてしまっていた。通り雨だった。



 ロビーに下りてきた大浦さんは、私の姿を認めると率直な笑みを浮かべた。
 私が厨房の方へ声をかけると、例の女性と旅館の主人が二人分の昼食を運んできた。私が大浦さんを誘って昼食を共にすることにしたのだ。昼食は丼物だった。

「誘って頂いてありがとうございます」

 過不足のない丁寧な態度で大浦さんが礼を言ったので、私も下手に恐縮せずに受けることができた。大浦さんは親子丼、私の方はカツ丼だった。
 私が今朝の顛末を話すと、大浦さんは笑みを湛えて静かにそれを聞き、最後には快活な笑い声を上げた。

「それにしても貴方はこれからも苦労しそうだ。私は苦労知らずでここまで来てしまったものだから、何も忠告できないのが残念ですよ」
「そんなことはないでしょう。僕の……三十年の人生でも色々ありましたからね」
「まあ、短くはない人生でしたが、私は妻に支えられてなんとか生きてこられた、そう思います。」

 私は大浦老人の顔に刻み込まれた皺をまじまじと見つめた。見る度に印象が違って見える、不思議な顔だった。それは、人間としての深みが尋常ではなく、多彩な一面を持っていることを示しているのかもしれない。それに比べて私は、この三十歳の若造は、なんと平坦な顔をしていることだろう。

「妻は旅行が好きでね、私が定年退職したなら日本中を飛び回ろうと約束したんです。でも、その約束を果たす前に妻は逝ってしまいました。それだけが唯一の、いや――」

 大浦さんは急に口ごもってしまった。私はその沈黙に踏み込むことはせず、次の言葉が出てくるのを待った。

「とにかくそれが、私の後悔なんです。今の私を動かしているのは、その強い感情です。私は未だに妻のおかげで生きていられるのかもしれません。いや、失礼、こんなつまらない話ばかりして」
「いえ、そんなことはないです。……聞いてばかりでは悪いですから、僕も一つ話をしていいですか」

 大浦さんは箸を止めて頷いた。

「独り言のようなものですから、どうぞ食べながら聞いて下さい。その方が僕も楽に話せます」
「ええ、分かりました」

 ぽつりぽつりと、この犬山に来た理由を大浦さんに打ち明けた。私の中に未だわだかまる迷いが話の進む先を曖昧にさせたが、大浦さんは静かに聞いてくれた。私も大浦さんに話すことで、次第に頭の中が整理されていくのを感じた。あらかた話し終えて丼を手にすると、もうすっかりご飯が冷めてしまっていた。

「おせっかいをしているのは分かっているんです。それにもう後戻りはできないことも。でも、自分の踏み出した一歩に自信が持てないんです」
「貴方のやろうとしていることは間違いではないと思いますよ。私に言えることはそれだけです。それ以上の言葉は必要ないように見えますからね」
「……ありがとうございます」

 大浦さんの言う通りだった。他人の言葉に決断を委ねるほど幼くはないつもりだし、もう後戻りはできないと自分でも分かっているから、少し背中を押してもらうだけで良かった。それにしても何という察しの良さだろう。

「貴方はまだ道半ばにいるのでしょう。この池を一周できたときには、きっと環は閉じている。貴方がここに来たのも偶然ではないかもしれませんね。……そうだ、後で私の部屋に来ませんか。ちょっとお見せしたいものがあるんです」

 早くも食事を終えた大浦さんが言った。私が箸を止めて大浦さんの顔を見つめると、

「もちろん、すぐにとは言いません。そうですね、夕方にでも来て下さい。待っていますよ」

 大浦さんはゆっくりと席を立つのだった。その動作が逸る気持ちを抑えるためにわざと緩慢に行われるように見えた。



 その日は通り雨の鬱陶しい日だった。雨が止むと蒸し暑くなって窓を開けるのだが、しばらくするとまた雨が降り込んでくるので窓を閉めなければならなかった。その繰り返しをするうちに時間が過ぎ、私は午後四時を過ぎた頃に大浦さんの部屋に向かった。数日前にここへやって来たばかりの私の部屋でさえ、まるで私の頭の中を投影したように雑然としているのだから、それよりも前から宿泊している大浦さんの部屋を訪ねるのは、まるで知人の家を訪ねるのと同じような緊張感があった。狭い部屋である分だけ、内面の反映は濃度を増すように思えたから。
 扉をノックすると、間を置かずに返事があった。私は自分の部屋と同じ造りの大浦さんの部屋に入った。畳の上に足を崩して座っている大浦さんの姿があった。

「どうぞ、楽にして下さい」

 大浦さんはそう言うと自分が向かっている卓の反対側を指し示した。卓の上にはスケッチブックや鉛筆などが置かれていた。どうやらそれが、大浦さんの見せたいものであるらしかった。
 私が座ると、大浦さんはやはり緩慢な動作でスケッチブックを手に取った。表紙をめくって鉛筆を手に取ったので、私は狼狽した。

「僕を描くんですか?」
「ええ。これが私の数少ない趣味ですよ。老人のわがままに付き合って下さい」

 写真を撮られることはあっても似顔絵を描かれるような経験はなかったから、私はどうも落ち着かなかった。
 少しの間沈黙が続き、顔の輪郭を描き終わったのだろう、大浦さんが口を開いた。

「またつまらない話をしますが、これもわがままだと思って聞いて下さい。その方が、貴方も楽だろうから」

 この状況を押し付けておいてそんなことを言うものだから、私としては理不尽だと思いもしたが、不思議と不快な気持ちにはならなかった。大浦さんの手は滑らかに動いたが、口から吐き出される言葉には苦しみの色が浮かんでいた。

「どこから話すべきかは思案のしどころですが……、まあゆっくり話しましょう。高校を卒業した私は東京の大学に入り、在学中に妻と出会いました。妻とは学外で知り合ったのですが、同じ大学の誰よりも聡明でした。もちろん学問に関しては学内の人間には及びませんが、頭の回転が速く、話していても退屈がしませんでした。今でこそ大学という場所は広く開かれていますが、その当時はまだ閉鎖的なところで学生の側にも選民思想的な考えがありましたから、大学の連中と話していてもどこかキザな感じがして、正直に言うと心地の良いものではありませんでした。私が大学を卒業する前に結婚したものだから、あちらのご両親には随分と叱られました。私が彼らの立場だったとしても、自分の娘がまだ自立できていない田舎者の大学生と結婚するとなれば、きっと反対することでしょう。だからまあ、そのことは仕方のないことです。それからある商社に勤めることになって、安定した収入が入るようになった頃に子供が生まれました。男の子でした」

 いざ話し始めると言葉は淀みない奔流を見せたが、その地点で急に大浦さんが口をつぐんだ。絵の方が難所を迎えたのかとも思ったが、そうではなく、どう話すべきかを迷っているように見えた。

「それが私たちの間に生まれた、たった一人の子供でした。さっき、私は妻との約束を果たせなかったことを悔やんでいると言いましたが、……いや、このことを悔やんではいないのです。ただ、どうしようもないことなんです」
「どうしようもないというと?」
「私の不倫が原因でした。たった一度の過ちが、たった一人の子供の心を傷つけたんです。私がそうと知ったのは息子と疎遠になってからでした。息子は思春期を経て自立し、それから次第に連絡が取れなくなっていきました。妻とは定期的に連絡を取り合っているようでしたが、私はそうと知りながら何もできなかった、いや、何もしなかった。結局、妻が急逝したために今では息子の居場所も分からず、どうしているのかさえ分からない。私は本当に、本当に独りになってしまったんです」

 大浦さんは噴出しようとする感情を必死に抑えているようだった。それは間違いなく、悲しみであるはずだった。私は口にできる言葉を持ち合わせていなかった。
 いつの間にか降り始めていた雨が窓を叩いたので、私たちの間に横たわる気まずい沈黙を無視することができた。私は置物のようになって卓の細かい傷を見つめた。

「……こんなはずじゃなかった」

 不意に漏れた大浦さんの言葉に私はぎょっとした。七十歳になんなんとする老人の悲しみを、受け止められる自信がなかったからだ。しかしその言葉は、私の予想した意味とは少し違っていたようだ。

「こんなに暗い話をするつもりではなかったんです。少し驚かせてしまいましたね、申し訳ない」
「いえ」
「私はこういうことを言いたかったんですよ。私の息子は今どこで何をしているのか分からないが、他人様に迷惑をかけずに生きていてくれさえすればそれで良い。ただそれだけで良いんです。貴方の経験した別れはもう取り返しのつかないことですが、その人がこの世界に生きたこと、そこに何かがあったこと、それを覚えておいてほしいんです。もしできることならそれを分かち合ってほしい、そう思うんです」

 さらりと撫でられた心の内面が、じんわりと温かみのある潤いを得たような感じがした。

「私は風景画が上手く描けないんです。それでも下手の横好きで若い頃はがむしゃらにやったけれど、暇つぶしの余興でやった似顔絵を妻が褒めてくれましてね。そのときの喜びを忘れられず、その喜びを再現しようとして、この歳になっても描き続けているんです。そうやって培ったものがあって、少しは人を見る目があると自負しているんですよ」

 大浦さんはそれ以上のことは口にしなかったが、その言わんとしていることは何となく分かった。私にしかできないことがあるのだ。
 そんなことを考えていると、大浦さんはいつの間にか鉛筆を置いていた。

「どうです、こんなものですが」

 大浦さんが描いた私の顔は、正面を向いているわけではなく少し角度がついていた。鼻筋に隠れた顔の右側あたりに影があって、それが陰鬱な印象を生み出しているけれども、その暗い感じが適度に抑えられているのは私に気兼ねをしたのではなく、的確に私の表情を描いてこうなったのだということが分かった。ふと英国の空が脳裏に浮かんだ。誰かが英国人は静謐な絶望を抱えていると言っていたような気がするけれども、私の場合はその絶望には程遠い。現代の日本に暮らす者としての軽さが、私の顔にはあるらしかった。
 いつの間にか通り雨が止んでいて、にわかに太陽の光線が入鹿池を貫き、水面下の黒々とした深淵を暴こうとしているように見えた。啓示を受けたような気がした。不思議な全能感が身体を満たしていくようだった。

 不思議に満たされた気分になり、それが手助けをしてくれて、私は夕食の時間までに「死に至る病」を読み終えた。何かが分かったような気がしたし、何も分からなかったような気がした。今回の場合は内容を理解する必要はなかった。何故なら、私は哲学するためにこの本を読んだのではなく、木村という一人の人間の死を探るために読んだのだから。しかし、その目論見も上手くいかず、要するに読んだところで木村の死に繋がるものは何も見つからなかった。ただ例の一文、「死に至る病とは絶望のことである」という言葉に強く惹かれた。傍線が引かれたその部分は、木村の心に何かを植え付けたのだろう。
 きっとその一文も含めた様々なものを積み重ねた末に、木村は絞首台に上ってしまったのだろう。そして私という存在も、その足場を構築した要素の一つであるのだ。
 様々な逡巡を経てきた私は、最早そのことに動揺することはなかった。むしろこの哲学書を読み終えた達成感のようなものが、私の勇気を支えているように思われた。そこまでの過程を無事に乗り越えた私は、その先にまたしても深淵を見ることになった。十五年前の手紙を渡すことについて思い悩むことはしない。しかし、その先に何を求めているのか? 何を目指しているのか?
 答えはまだ、見つからなかった。



 その日の夜も愛と食事を共にすることになっていた。私は部屋で食事が運ばれてくるのを考え事をしながら待っていたのだが、午後七時を過ぎた頃に愛がやって来たとき、彼女は食事の代わりにある提案を持ち込んできた。

「大浦さんと一緒に下のロビーで食べませんか?」

 私は愛と二人きりで食べることにこだわっていなかったから、三人で食事をすることに同意した。ただ、何となくいそいそと一階に下りて行く気分でもなかったので、少ししてから行くと伝えた。
 愛の足音が遠ざかるのを聞きながら、私はこの大友館に来てからの四日間の出来事を思い返した。二日目に中川恵理に電話をかけ、三日目に愛や大浦さんと出会った。そして四日目、つまり今日の夜はその二人と食事を共にすることになる。その間に何度か入鹿池を一周しようと試みたが、全て失敗に終わった。私は道に迷った一人の哀れな人間のようだった。そう、私はまさに道に迷ったちっぽけな男なのだ。そんな私に光明を与えてくれたのが、この大友館で出会った人々だった。
 私は、知らず知らずのうちに人生の岐路に立たされているような思いがした。それは単純に今の仕事には復帰できないだろうという見通しのせいでもあったし、もっと広い意味で、このちょっとした冒険が私の人生を変えるのではないかという根拠のない予感のせいでもあった。ふと、部屋の片隅に鎮座している全身鏡に目が行った。今まではまるで気にしていなかった全身鏡の前に、少しずつ老いていく自分の姿を晒してみようと思った。自分の容姿に自信があるわけではないが、そう悪くないものだと感じてもいる。しかし、久しぶりに見た自分の姿は、その予想を外れてくたびれていた。
 瞬間的に大浦さんと愛のことを思い返した。私は大浦さんのような歳の重ね方ができるだろうか? いや、それはできないだろう。あの人とは過ごした時代が違うのだ。かと言って、愛のように活き活きとした少年時代を過ごしたかといえば、そういうわけでもなかった。つまりは谷間なのだ、と私は口ずさんだ。絶対性の時代が過ぎ、相対性の時代が始まる前の谷間の世代。それが私たちだった。その思考の果ての究極的なところに木村が立っている。木村は絶対性と相対性との板挟みになって死んでいったのだ。絶対とされた価値観が崩壊していく中で、新しく生まれた相対的な価値観に順応することができずに。それは私も同じことだった。それは、大浦さんや愛や木村がいなければまず間違いなく気づかなかったことだった。
 しかし、知ってしまうことの地獄というものもまた存在する。もしも、良い大学を出て良い企業に入りより多く金を稼ぐことに疑問を感じなければ、私はきっとそのレールの上を歩き続けたことだろう。かといって、そのような価値観を否定する新しい価値観、曖昧な形の幸福を信奉する価値観にも順応できないだろう。それこそがまさに地獄だった。知ってしまった後でどこにも身を置くこともできず、それでも私はどこかへ向かって歩き続けなければならないのだから。
 そこまで考えたところで私はようやく腰を上げた。いつまでも二人を待たせるわけにはいかない。電灯が灯っているというのに相変わらず暗い廊下を一人進みながら、私はその先に待つものに興奮をし恐怖もした。



 思っていたよりも時間は経っていなかったらしく、ちょうど私が一階に下りたところで食事が運ばれてきた。私と大浦さんは生ビールで、愛はコーラで乾杯した。狭い部屋に女子中学生と二人で飲むのとはわけが違うので、大っぴらに酒を飲むことができた。旅館の主人が気を利かせてくれたのか、唐揚げや天ぷらやフライドポテトや刺身など、少しずつつまめるようなものが並んだ。それを見た愛が、

「わあ、揚げ物ばっかり」

 と呟いたのに大浦さんは気付かなかったらしく、私は一人で笑いを噛み殺すはめになった。愛は刺身には手を伸ばさず、唐揚げやフライドポテトなどを受け皿に取って食べたが、大浦さんはその反対に唐揚げなどには手を出さず、刺身をゆっくりとしたペースで食べた。大浦さん曰く、

「老い先短い身ですから好きに食べたいものですが、身体を労るように妻と約束してしまったのでね」

 ということらしかった。ただ、それまでは酒を酌み交わす機会がなかったので気付かなかったが、大浦さんはかなりの酒豪らしかった。私は中ジョッキの生ビールを二杯飲んだところで今日はそろそろ加減をしなければなと考えたのだが、大浦さんは三杯目を飲み終えてもまだ勢いが衰えなかった。終いには主人が持ってきた日本酒を飲み始め、私にも勧めてくれたのだが、ちゃんぽんに酒を飲むとかならず気分が悪くなるので断った。大浦さんはさすがに赤ら顔になりながらも意識は明朗なままで話し続けた。
 さて、三人は食べて飲んでに大忙しではあったが、会話も間断なく続いた。私はその会話に参加しながら、まるで素潜りをしているような気分になった。つまり、会話をするときは水に潜った状態のようなもので、飲食をするときは疲れて呼吸を整えるために浮き上がるようなもの、とでも言えば良いだろうか。とにかく三人ともよく喋った。

「君は朝早くからよく運動しているね」
「おじさん、わたしは何部だと思います?」
「何部……、ああ、部活動か。そうだね、吹奏楽部かもしれないな」
「すごい! よく分かりましたね」
「大浦さん、もしかして知ってたんじゃないですか」
「ああ、ばれましたか。こちらのご主人に聞いたことがあるんですよ」
「愛ちゃん、こういう大人に騙されるんじゃないぞ」

 とまあ、こんな具合に会話が始まった。そこから愛の学校の話に発展し、私の見立て通りに愛が勉強が苦手なことを告白し、私と大浦さんとで今から遅くはないから勉強をしておきなさいと口を揃えて忠告した。やはり大浦さんも私と同じ印象を持ったらしく、愛は努力の方向を間違えなければよく伸びる子だと言っていた。その言葉に愛は勇気づけられ、私も人間を見る力が養われてきたのかなとしみじみと感じたりした。
 やがて大浦さんを中心とした話題に流れていった。大浦さんは主に奥さんとの思い出を語り、必要最低限ながらも息子のことを話した。ほとんどは私も大浦さんに聞いたことばかりだったが、初めて聞かされた話もいくつかあった。

「勤めていた会社は東京にあって、妻と出会ったのも東京でした。今でも東京のあちらこちらの情景が心に浮かびますが、それでもやはり生まれ育った土地のことは忘れられないものです。妻は山口に移り住むことにはあまり乗り気ではなかったようでしたがね、偶然にも独り身になってしまったものだから、これ幸いとばかりに地元に帰ったんです」
「となると、大浦さんの生まれは山口なんですか」
「ええ。そういえば、貴方は東京の生まれですか?」

 そこで私は北陸の田舎町で生まれたことを話した。そうなると話題の軸足が完全に私の方に移って、愛も大浦さんも私の話を楽しげに聞いてくれた。そうやって嬉しそうに聞いてくれる相手がいるだけで、何だか自分の生まれ故郷に対する印象が変わってきた。言うなれば、私は会話という手段で自分の頭の中の情景を二人に投影なり共有なりしているのだが、フィードバックというか循環とでも言えば良いのか、二人の受け取り方が肯定的なものだから、私は素晴らしいところで育ったような気分になる。それは言うまでもなく一種の幻想で、私が育ったのは寂れた田舎町であることに変わりはないのだが、心は間違いなく揺り動かされていった。

「就職してからは全く帰郷していないんです」

 私が口走ったその言葉に、二人は口を揃えてそれは良くないと言った。一人息子と生き別れになった大浦さんが真剣な顔をしているのは当然として、愛までもが少し強張った表情をしていることが不思議に思えた。私はなんとなくその疑問を口にした。返ってきたのは、思いがけない答えだった。

「話しても困るようなことじゃないから話します。わたしのお母さん、心臓が弱くて入院しているんです。この旅館に預けられているのも、それが原因で」
「……そんなに悪いの?」

 私は軽々しく疑問を口にしたことを後悔しながら訊いた。

「この前手術してもらって、それが上手くいったから、早ければ明日にでも退院できるみたいです」
「それは……、良かった」

 大浦さんは言葉を詰まらせながらそう言った。私はそのことを頭の片隅で疑問に思いながら、まずはほっとした。しかし次の瞬間には、大浦さんが言葉を詰まらせた意味を理解した。
 愛は私たちの心中を察する余裕もなかったらしく、率直な瞳で私を見つめてきた。

「だから、たまには家族の待つところへ戻ってあげて下さい。いつ離れ離れになったとしても後悔しないように」

 城外に鬨の声を聞いたような不穏さがまとわりついて離れなかったが、愛のあまりにも、あまりにも率直な言葉のおかげで沈痛な雰囲気に陥ることはなかった。
 たとえ三人がこうして顔を合わせることが二度とないとしても、後悔しないだけの濃密な時間を過ごせば良いのだから。私と大浦さんは一瞬だけ顔を見合わせ、今日という日をせめて愛のためにだけでも楽しく過ごそうと誓い合った。



 愛は明日も学校があるので、午後十時にはお開きになった。二階の廊下の奥の静かな部屋に戻ったところで、私は今日という日をきっと忘れないだろうと思った。
 考えてみれば、酒を飲むのは本当に久しぶりのことだった。最後に飲んだのは、ひょっとすると木村の死の直前に居酒屋に入ったあのときかもしれない。それから今日までの間に痛切な別れと大切な出会いを経験した。次に出会うことになるのは中川恵理だ。彼女との出会いが何を生み出すか、それはそうなってみなければ分からない。ただ、最悪の結果にはならないだろうという根拠のない予感はあった。
 ……それにしても、愛が発したあの言葉は、喜びと悲しみの入り混じった矛盾したものだった。母親の手術が無事に成功して退院する、それは実に素晴らしいことだ。ただ、それは愛との別れを意味してもいた。愛は自宅に帰って日常に戻る。そうして私たちが会う機会は二度とないかもしれない。だからこそ、離れ離れになったとしても後悔しないように、私と大浦さんは楽しい時間を過ごそうと誓い合ったのだ。
 久しぶりの酒が頭をぼんやりとさせるようだった。残りの思考を布団の中に持ち込もう、そう思って明かりを消そうとしたところへ扉を叩く音がした。不審に思いながらも扉を開けると、暗い廊下に大浦さんが立っていた。

「貴方にだけは伝えておきたくて」
「発ちますか」

 私は反射的にそう言った。言った後で自分で自分の言葉にびっくりしたが、それ以上に大浦さんは驚いた顔をしていた。そして、頷いた。

「明日は雨です。雨が別れの悲しみを洗い流してくれるような気がするんです」
「山口に帰るんですか」
「いえ、この足で一度東京に行ってみます。奇跡を信じるような歳でもないが、絶望に甘んじる歳でもありませんからね。ふらりふらりと、息子を探してみますよ」

 では、と言って大浦さんは暗い廊下を戻って行った。あれだけの酒を飲みながらしっかりとした足取りで歩いて行く老人の背中を見つめていると、奇跡とやらは起こり得るのではないかと私には思えた。

 翌朝は午前六時に目が覚めた。窓を叩く雨の音に目覚めたというよりも、愛との別れを惜しんで自然と目覚めたと言った方が正しいかもしれない。おそらく、今日は愛との別れの日になるだろう。そして大浦さんとの別れの日でもある。大浦さんは雨が別れの悲しみを洗い流してくれると言ったが、目覚めたばかりの今はまだ二人と別れるということに実感がなく、従って悲しみを感じているというわけではなかった。
 一階に下りると愛が早くも朝食をとっていた。いつもならジョギングをしている時間だが、今日は雨なのでそういうわけにもいかないのだろう。私は愛の向かい側に座った。

「おはよう」
「おはようございます」

 愛はどこかよそよそしい調子で挨拶を返してきた。それを聞いた私は、ああやっぱり今日が別れの日なのだと、ようやく実感することができた。愛もそれが分かっていて、いつもの調子ではいられないのだろう。
 この歳になると、死別に限らず色々な意味での別れを経験してきたものだが、愛はまだ別れというものに慣れていない。慣れているということは一種の鈍麻した状態で、慣れていないということはまだ感覚が瑞々しい証拠なのだが、やはり初めのうちは別れというものが耐え難く感じられる。感覚としては覚えていないのだが、記憶として私にもそういう覚えがある。
 そういうわけで愛の心中を想像すると、私もずっとこのままでいられたらと思わずにはいられないのだが、何にしても永遠というものはあり得ないもので、私はやはり後悔のないように行動するしかなかった。

「例の約束はどうなったんですか?」

 と、先に口を開いたのは愛の方だった。私はもちろん忘れていたわけではないのだが、目前の別れにばかり注意を向けていて、木村の手紙を中川恵理に渡すことが自分の目的であるという実感が薄まっていた。

「待ち人現れず、ってところかな。まだ時間がかかりそうだ」
「そう、ですか。だったらずっとここにいればいいのに」

 最後の方はほとんど呟くような形で愛は言った。私は昨日まで目的を果たした末に何をするべきか分かっていなかったが、今では明確に自分のすべきことが見えていた。それはもちろん、愛と大浦さんのおかげだった。

「それが終わったら、どうするんですか?」
「休暇の間に一度故郷に帰ろうかと思ってる。その先のことは、まだ分からないけどね」

 愛は口で返事をせず、ただ頷いた。私がここにいてほしいという気持ちと、昨夜の自分の言葉、家族の待つところへ戻ってあげてくれという言葉とが、彼女の中でせめぎ合っているのだろう。
 いつかのように、愛と十五年前の中川恵理の姿が重なった。まだ実際に会ったこともない中川恵理の姿を重ねるのは不思議なことだけれども、とにかく私の中ではそうなった。そうして、私はあることを訊きたくなった。

「今、好きな人はいるの?」
「えっ」

 肯定でも否定でもない、単純な驚きを愛は声に出した。

「もしも好きな人がいるなら、もしもその気持ちを抑えきれないのだとしたら、迷わず相手に伝えるんだよ」
「どうして急にそんなことを言うんですか」

 今度もまた、色のない言葉を愛は口にした。

「さあ、どうしてだろう。離れ離れになってしまった後だと、もうどうにもできないからね」
「……バカだって思われるかもしれないけど、離れ離れになってしまっても気持ちはきっとどこかでつながってるものだとわたしは思います」

 愛は私の目をじっと見つめながらそう言った。

「でも人はバカだから、そのことを忘れてしまう。だから、忘れないようにきちんと気持ちを……って、あれ?」
「そう、だからきちんと気持ちを伝えておかないといけない」
「そっか、そうですね。でもわたしは、きっとお兄さんのこと、忘れませんよ」
「ありがとう。僕も君のことは忘れないよ」

 そこまで話したところで旅館の主人が出てきて、学校に行く時間だと教えてくれた。愛は味噌汁を飲み干すと、かばんを持って玄関のところまで走り、そこで一度立ち止まった。振り返って私に深くお辞儀をすると、可愛らしく手を振って、扉の向こうへ消えて行った。
 それが、第一の別れだった。



 第二の別れはすぐにやって来た。
 七時前に荷物を抱えた大浦さんが一階に下りてきて、この旅館での最後の食事を共にしたいと言ってきた。私は元よりそのつもりでいたので、厨房にいる従業員の女性に二人分の食事を頼んだ。

「あの子はもう、行ってしまいましたか」
「ええ、行ってしまいました」

 きっと旅館の主人も大浦さんも私たちの会話を邪魔するまいとして、ぎりぎりまで姿を見せなかったのだろう。それはただの直感に過ぎなかったが、往々にして直感が正しいということもあるものだ。
 食事が来るまでの間、大浦さんは例のスケッチブックのことを話題に上げた。

「貴方の絵を書かせてもらいましたよね。一つの記念というか思い出に残るようなものとして貴方にその絵を贈るつもりでいたのですが、それでは私の手元に何も残らなくなる」
「まあ、そうですね」
「だからその代わりになるかどうかは分かりませんが、この絵を貴方に贈りたいと思います」

 そう言って大浦さんが私に手渡してきたのは、二階の大浦さんの部屋から見える入鹿池の風景だった。大浦さんは風景画が苦手だと言っていたので、私はちょっと驚かされた。

「若い人たちに触発されて、新しいことに挑戦してみようと思いましてね。大したものではないですが、どうぞ受け取って下さい」

 大したものではないと大浦さんは言ったが、鉛筆で描かれた入鹿池は一つの完成された風景として私の前に現前している。雲間から光の筋が伸びて水面に光の粒が踊っているのが印象的で、そこには希望的な予感を感じさせる何かがあった。それはもう何かとしか言いようがないもので、言葉を尽くしていけば説明することはできるかもしれないが、それでは総和としての希望が損なわれてしまうように思えた。

「ありがとうございます」

 ここまで率直なお礼を言ったことは記憶にはなく、ここまで温かみのある贈り物を貰ったのも久しぶりのことだった。
 やはり、大浦さんには風景画に対する苦手意識のようなものがあったらしく、私が素直に喜びを表すのを見るとどこかほっとしたような表情をした。

「気まぐれにこの愛知まで来て、偶然この旅館に泊まって、そして貴方に出会えて本当に良かった。もしも貴方がその絵に希望を見出しているのだとすれば、それは私の心の希望が表現できているのだと思います」
「ええ、これは本当に希望ですよ」

 大浦さんは出発までにまだ時間の余裕があると言ったので、二人でゆっくりと朝食をとった。食事を終えた頃に旅館の主人が戻って来て、そのまま大浦さんを駅まで送って行きましょうかと提案した。
 私たちはもう大人だから、愛のときのようにわざわざ言葉で確認しなくても相手の気持ちをある程度は理解できた。だから、第二の別れは静かに進行していった。そして最後に別れの言葉を交わした。

「ありがとう。では、またいつか」
「ええ、またどこかで会いましょう」

 それこそはまさに希望だった。いつかどこかでまた会える、そんな根拠のない予感がしていた。
 愛が日常に戻り、大浦さんが去って行った後のロビーは、相変わらず古時計の音が響くだけの静かな空間だった。私はどうしても寂しい気持ちを感じてしまって、二階の部屋に戻った。
 雨音を聞きながら畳の上に寝転がったまさにそのとき、部屋の扉を叩く音がした。従業員の女性が、中川恵理と名乗る女性から私に電話がかかってきたことを告げた。別れの後にやって来たのは、新たな出会いだった。

「連絡が直前になってしまってすみませんでした」

 中川恵理が発した第一声がそれだった。彼女は午前九時にこの旅館を訪れ、まだ幼い息子を旅館の主人に預け、そして二階の私の部屋の卓に私と向い合って座っている。彼女一人であったならば下のロビーで話しても良かったのだが、彼女が二人きりで話すことを希望したので、このような形になった。私と彼女は不思議な関係だった。これまでに築きあげてきた何かがあるわけでもなく、これから続いていく何かがあるかどうかも分からない。私たちを繋いだものはただ一つ、木村という男の手紙だった。
 階段を上ってこの卓に向い合って座るまでの間に考えたことだが、彼女は想像していた中川恵理という形にぴったりと当てはまる存在だっただろうか。一見すると平凡な母親であり、三十歳という年齢から良くも悪くもはみ出すものはなかった。私が無意識のうちに築いてきた理想像とは異なっていたのだが、その理想を押し付けるのは私のわがまま以外の何物でもなかった。きっと、誰がこの場に座っていたとしても、期待を裏切られたという気持ちに変わりはないだろう。

「お子さんはお一人ですか」
「ええ。今年で三歳になります」

 私は尋常な話題を選んでそう尋ねた。彼女も当たり前のように返答した。それだけだった。
 いざ彼女を前にすると、それまで自分に投げかけてきた苦悩が一瞬にして蘇ってくるようだった。だから半ばは頭を垂れてどのように話を展開していくか迷っていたが、ふと目を上げると彼女の力強い視線とぶつかった。私は彼女を恐れている! そのことが明白に理解できた。私は彼女を通して一つの暗い未来を恐れている。つまり、木村という男の人生を否定されてしまうことを。
 ただ、どうも不思議なもので、彼女を恐れていると理解した瞬間に迷いが吹き飛んでしまった。血が騒ぐ、とでも言えば良いのだろうか。バスケットをやっていた頃の高みを目指してコート内を動きまわっていたあの瞬間、あの険しく崇高な高みを目指していたときの気分を思い出したのだ。どうせならとことんまでやってやろうじゃないか、と。

「中川さんはキルケゴールやニーチェを知っていますか」
「哲学ですか? まあ、名前くらいなら」
「木村が死んだ後に彼の暮らしていた部屋へ入ったことがあるんです、東京のね。清潔というよりは淡白と言う言葉がよく合う、生活感のない部屋でした。ただ一つだけ雑然としている箇所があって、それはキルケゴールだとかニーチェだとか、そんな哲学書の並んだ本棚でした。あなたに渡したい手紙は哲学書の中に挟まっていたんですよ」

 そう言って私は例の手紙の入った封筒を卓に置いた。彼女が受け取るのを待ったが、彼女は私の顔から視線を外そうとさえしなかった。

「一つだけ教えて下さい。貴方を動かしているものは何ですか、誰なんですか」
「どういう意味ですか?」
「何か、善意のような気持ちで貴方が自発的にやっていることなのか、それとも……、例えば木村くんのご遺族が望んでいることなのか、それを教えてほしいんです」
「善意……と言って良いのかは分かりませんが、僕が自発的にやっていることです。彼のご両親には少しばかり協力して頂きましたが、この手紙のことを知っているのは僕とあなただけです」
「そのまま手紙を捨て去るという選択肢はなかったんですか」

 私はここに至ってようやく彼女が苛立っていることに気付いた。怒りや拒絶についてはある程度は予想していたが、どうもその怒りの方向が違うらしいことに私は困惑した。

「そんなことは考えもしませんでした。木村の遺したものを、彼の意志を踏みにじってしまうような気がして」
「貴方は木村、木村と、軽々しく口に出しますが、彼とはどういう関係だったんですか。会社の同僚だって仰ってましたけど」
「彼がどう思っていたかは知りませんが、僕は彼のことを友人だと思っていました」
「そんな曖昧な関係の相手のために、貴方はわざわざここまで来たっていうんですか。それって自己満足じゃないんですか」

 自己満足。それこそはまさに核心を突く言葉だった。

「木村くんが手紙を投函しなかったということは、それが彼の意志なんでしょう? 貴方の行動こそ、彼の意志を踏みにじる行為なんじゃないですか」
「そうかもしれません。でも、だからこそ僕はあなたにこの手紙を渡したかった。読むのも読まないのも、あなたの自由なんですから」
「……」

 彼女は一気にまくし立てた後で黙ってしまった。私の言葉に納得したというよりも、自分の荒ぶる感情を抑えんがための沈黙のように思えた。しばらくして、彼女はゆっくりと口を開いた。

「ごめんなさい、私もずっと迷っていたんです。貴方のことを無視してしまおうかとも思いました。でもそれは良くないと主人が諭してくれて」
「ご主人に今回のことを話したんですか」
「ええ。……失礼ですけどご結婚は?」
「独身です」
「そうですか。とにかく、世の中には色々な形の夫婦がいるんです。私たちは何でも悩みをぶつけ合う、そういう夫婦なんです」

 驚かされてしまったが、そういうものなのかと、私のような独り者は納得するしかなかった。彼女もまた、何かを呑み込んだように感情を落ち着かさせたようだった。

「もう一つ訊かせて下さい。貴方は木村くんのご両親のこと、そしてこの手紙のことをどこまで知っているんですか?」
「彼のご両親とは何度か会っただけで――」
「木村くんのご両親はもうここにはいないんです」
「えっ」

 私は今度こそ驚きを口に出さずにはいられなかった。僕が木村の両親だと思っていたのは、誰だったのだろう。そして、木村の本当の両親は何故亡くなったのだろうと。
 ただ、私が瞬時に想像した事情は、事実とは多少異なっているようだった。

「ここにいないと言ったのは、亡くなったとかそういうことじゃないんです。いえ、正確にはそれすらも分からなくて。死別したのか生き別れになったのか、それは私には分かりません。きっと貴方が会ったのは、木村くんの育ての親でしょう、私たちの親よりも上の世代に見えませんでしたか?」
「ええ、たしかに」
「でも、それで良かったんだと思います。幼い子供を残してどこかへ行ってしまう親なんて、責任を果たせない親なんて、私には許せません」

 再び彼女の感情が高揚してくるのを感じたが、それは低いところで何とか抑えられたようだった。
 これは私の直感による推測だが、両親という象徴的な存在によって彼らは結びついたのではないか。木村は本当の両親と別れた。彼女も同じような境遇か、あるいは両親を恨まなければならないような環境に育ったか。しかし、これは私の事情で歪められた推測だと言えた。木村と彼女の間に流れる通奏低音が存在していてほしいという考え、そしてそれを突き詰めた先にある、私自身の苦悩や苦労が報われてほしいという無意識的な思考。私は橋渡し役を自任しながら、いつの間にかそれ以上のものを期待してしまっていた。

「……多分、貴方は手紙のことも知らないんでしょうね」
「何のことですか?」

 次に彼女が発した言葉は、そんな私の期待を完全に裏切るものだった。

「私と木村くんの関係が自然消滅するまでの間、一度として手紙が途切れたことはありませんでした。この意味が分かりますか。貴方が持ってきたその手紙は、本来は存在しないはずなんです」

 彼女の発した言葉が難しいわけではなかったが、頭がそれを理解することを拒んだ。それでも潮が満ちてくるのと同じように、ゆっくりとその言葉の意味が浸透してくるのが分かった。

「存在しない、そんなはずはないでしょう。だって現にここには投函されなかった手紙がある、あなたの受け取っていない手紙が――」
「私がここに来た以上、貴方が嘘を吐いていると疑っているわけではありません。そんなことなら、最初から無視すればいいだけの話ですからね。でも、手紙が途切れたことはない、それも事実なんです」
「じゃあ、木村はどこかで翻意したんでしょう、本当の気持ちを呑み込んで嘘の手紙を書いたんだ」
「きっとそれが真実なのかもしれませんね。でも、そうやって決めつけることは木村くんの決断を蔑ろにすることになりませんか? そしてこの手紙を持ち出したのは、やはり木村くんの意志を踏みにじる行為なんじゃないですか?」

 彼女の口調は静かでありながら、私の喉元にナイフを閃かせるような鋭さを含んでいた。
 私は何のためにここに来たのだ? その疑問が、今度は鈍い痛みとなって再び私の頭に拡がった。

「……雨が上がりましたね」

 不意に彼女が言った。喉元のナイフが離れていくような思いがして、心持ちが楽になるようだったけれども、あの空のように心が明るくなることはなかった。
 これまた突然、彼女が卓上の封筒を手に取った。私にはもう、希望を感じるような余裕さえなかった。
 彼女は私の手を取ると、部屋を出て廊下を通り、一階のロビーへ下りた。彼女は私を引っ張ったまま玄関を出て、池の方に通じる階段を下りていった。雨が孕んでいた濃厚な土の匂いがまだ漂っていた。雨の中でどこに隠れていたのか、小鳥たちが空中を駆け抜けて行った。
 彼女と私はまるで導かれるかのように入鹿池の岸辺にたどり着いた。そこでようやく手を離すと、彼女はここまで持ってきたあの封筒の宛先を見つめてこう言った。

「深田、恵理。懐かしい名前だわ」

 これまでの苦悩が嘘だったかのように、彼女は封筒から便箋を取り出して内容を読み始めた。私は呆然と彼女の傍に立っていることしかできなかった。手紙がぽたぽたと濡れるのが見えた。また雨が降り始めたのかと思ったが、そうではなかった。読み終わるのに時間のかかる分量ではなかったが、彼女は何度も何度も読み返しているのだろう、私たちはしばらくの間、言葉を発することもなく、ただその岸辺に立っていた。
 ようやく満足したのか、彼女はハンカチで目のあたりを拭うと、私に向き直った。

「読みました、これで貴方も満足でしょう」

 その言葉に棘がなかったので、私は少しばかり意外な感じがした。彼女の感じているものが、その白い肌に透けて見えた。

「でも、この手紙はここに在るべきものじゃない。私のためにも、……木村くんのためにも」

 彼女はそう言うと、またしても唐突にその場に座り込んだ。地面が濡れているのに何をするのかと思えば、膝の上でその便箋を折り始めた。瞬く間に紙の船が出来上がり、彼女はそれを私に手渡してきた。

「さあ、これが貴方の最後の仕事です。誰も知らない池の向こう岸まで、これを流してあげて下さい」

 私は言われるがままに紙の船を受け取った。水面にそっと浮かべると、紙の船が弱々しくも前進し始めた。紙で作られた船だからすぐに沈んでしまうだろう、そんな予測は見事に裏切られて、私がこの犬山で過ごした時間のように、ゆっくりゆっくりと漸進していった。私たちは紙の船が見えなくなるまで、岸辺から静かに見つめ続けた。私は木村が遺したもう一つの手紙、遺書のある一節を思い出していた。木村はこの世界のどこかでまだ生きている、そんな不思議な予感がした。
 ……それから、中川恵理は昔の木村のことを話してくれた。昔はどちらかというと太っていて、勉強のよくできる子供だった。それは、痩せ型で会社のお荷物と呼ばれる、私の知っている木村とは大きく異なっていた。昔の話を聞くばかりになったので私の知る木村のことを話してあげようとも思ったが、今の彼女にはそんなことは重要ではないというのが分かった。見識のある夫がいて可愛い盛りの息子がいる、今の中川恵理には。

「恥ずかしながら、僕は木村の友人としてあなたに語るべきものを何も持っていません。それにただの自己満足で行動したかもしれません。でも、一つだけ言えることは、あなたに出会えて良かった」

 彼女はかすかな笑みを浮かべた。そして、

「本当ですね」

 と言った。
 それが何に対しての「本当ですね」なのかは、結局分からなかった。



 私と中川恵理が旅館に戻ると、旅館の主人が彼女の息子を抱きかかえて待っていた。まるで未来の希望を手にしたかのような和やかな顔をして。
 彼女が自分の息子を腕に受け取ると、ちょうど眠りかけていたのを起こされて不満そうな仕草をしてみせた。彼女は甘い声でこう囁いた。

「了、そろそろ帰ろうか」

 私はその言葉を聞き逃さなかった。それこそは、十五年前と今とを繋ぐ架け橋のような言葉だった。
 私は呆然として彼女の顔を見つめていたが、彼女は私の方をちらりと見て軽く会釈をして、そのまま車に乗り込んだ。

「……帰るとするか」

 私はそう呟いたが、とうとう入鹿池を一周できなかったのが悔やまれた。
 玄関先で二人を見送った主人は、私の顔を見るなりこう言った。

「いつの間にか雨が上がって晴れ間が見えてきましたよ。今日は絶好のサイクリング日和ですね」

 私は夜の海を眺めていた。入鹿池の周辺で起こった全ての出来事が私をここへ導き、そして環が閉じた。
 風に飛ばされないように強く握っていた手紙が、海に向かって鳴き声を上げている。それは木村が遺したもう一つの手紙、即ち遺書だった。手元にあるのは遺族に許可を得てコピーしたものではあるが、とにかく、その遺書を読みながら、私は入鹿池の岸辺から大友館へ戻って行くときに、中川恵理がこんなことを話していたのを思い出した。

 「若い頃の情熱は映画のようなもの。狭い世界の中で何かを遂げたような気分になるけれど、それは小さな箱の中の出来事であって、現実には何も起こっていないし変わってもいない。ただ、そこに気持ちがある。揺れ動く感情が、要約できない何かがそこにある。人の本質は、本質とでも呼ぶべきものがあるのだとすれば、その何かこそが本質なのではないか」

 ……木村の遺書のコピーを途中まで読んだところで、私はふう、と息を吐きだした。私を愛してくれた全ての人に謝りたい、そんな言葉から始まった遺書には何者の介在も許さないという強固な意志があった。
 果たしてこの遺書は、何のために残されたのだろうか。さすがに育ての親や周囲の人間のことなどを考えたのだろう、この続きには遺品の整理についてなど最低限のことが記してある。しかし、あえて他者の言葉を引用して読み手を混乱させるあたりを見ると、木村には自分がいなくなった世界への関心がなかったかのようにも思えてくる。では、どうして?
 真実は木村の書いたように謎という暗闇の中に沈んでいる。それを暴くことはもう不可能なのだ。私は沈黙しなければならない、それは語りえぬものだから。
 ふと、視線を上げて夜の海を眺めた。いつかのように恐ろしい深淵が視界いっぱいに広がっている。私は急に泣き出したいような気分になった。荒波の険しい海のどこかに、木村という存在は溶けてしまった。いつか私もそこへ還っていかねばならない、いつかここを去らねばならないのだと思うと、とてつもなく寂しい感情が湧き上がってきたのだ。
 家の中から私を呼ぶ声が聞こえた。海に面した玄関先の椅子に腰掛けていた私は、家庭という温かなものに守られて暮らしていきたいと思った。玄関を開けたとき、背後から私のことを呼ぶ声がした。振り返れば、夜の日本海が相変わらず横たわっている。私はどちらへ行くべきか迷った。
 木村一の遺書から始まった旅は、愛や大浦さんや中川恵理といった人々との出会いを通じて、私という容器を大きく変容させた。この旅で辿ってきた道の先に何が待っているか、それは分からなかった。答えはまだ何も出ていないのだから。



「私を愛してくれた全ての人に謝りたい。今の私には自殺という選択肢しか残っていないのだ。最初にこれだけは明言しておきたいが、こうなってしまったことで誰かに責任があるわけではない。そのように考えることは特定の人物に迷惑をかけてしまうことになるし、何よりも私自身に対して失礼である。何故ならば、これは誰かに押し付けられた死ではなく、私が自分で選び取った死だからである。そこで、どうして私が死を選ぶしかなかったのかと、きっと疑問に思われるであろう。それは先に書いたように誰かのせいではない。何かに理由や原因を求めることは容易いかもしれないが、そうやって抽出されたものは全てが正しく全てが間違いである。真実を知る特権は私にしかない。真実を知る私はこの空やあの海に溶けてしまい、それは永遠に謎という風呂敷に包まれてしまうだろう。真実だけは誰にも渡さない。それでも遺書を残す以上は納得させる言葉が必要なのかもしれない。あえて言うとするなら、太陽が眩しかったのだ。……」

輪転

輪転

亡き友人の遺した手紙を届けるために犬山を訪れた私は、漸進していく時間の中でいくつかの出会いを体験する。それらの出会いは私という容器を大きく変容させ、そして一つの場所へと導いていく。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-02

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