ダムナティオ・メモリアエ
PLESS-PALLAS 3話
甘い記憶を貪っていると、うっかり苦い記憶にまで触れてしまう。
甘い罠に誘導されて、潜む闇に飲まれていく。
貶められたとなると、次には「この黒歴史をどうにか消し去ることはできないのか」と思考を廻らせるのだが、結局は海馬の中にある「記憶」でしかなく
虚空の肩透かしを得(う)るう。
記憶は時として何かの鍵となって人を導く。
少女、沖谷那最(おくがや なゆた)。
不眠気味により意識朦朧、記憶曖昧。足下覚束ない上に嘔気あり。
ベッドに潜り、手を握る感触を確かめるだけで一日が終わりそうだった。
「・・・」
ふと、この弱々しさは赤ん坊に同じだと思い当たる。
半開きの小さな手の中に人差し指一本、そっと滑り込ませると、可愛らしくぎゅっと握る。
ああそうだ、これが大人の面白がることなのだ。
何の生産性もないというのに、赤ん坊が呆れるほど繰り返した大人――那最の母親である。
那最は裕福な家庭に生まれた一人娘であった。
プールやテニスコート付きの豪邸、リムジン、グランドピアノ・・・。
母親は心配性の美人、父親は葉巻が似合うダンディ。
そう、絵に描いたような憧憬の家庭。
そんな両親から大事に大事に育てられた那最は、当然不自由など感じたことはなく、何事も思い通りになるものだと信じていた。
両親も、彼女が一流の学校へ通い、一流の企業に就職し、そして申し分ない男性と結婚して、同じように幸せな家庭を築いていくのだと信じていた。
しかし、那最には欠点があった。「他人への思いやり」や「共感」という、人間関係を構築していく上で最も重要な部品が。
少女は小学校に入学して、初めてひとりになった。
なかなかの名門であるからして、周囲ももちろん富裕層。
育ちの良いお嬢様たちは最初こそ健気に、この冷酷な沖谷家の一人娘の相手をしていたが、やがて我慢ならなくなって見切りをつけた。
那最には今まで平等とか、対等といった概念を持ち合わせていなかった。
家では優先され、彼女の気分次第で物事が動く。
大切に育てられたと言えば聞こえはいいが蝶よ花よと愛でられただけの、所詮は「愛玩娘」でしかなかったのだ。
学校での評判がよろしくないと聞いて、両親は心配し、彼女を慰め、さらに甘やかす。
こうして、那最は完全に孤立していった。
顔からは表情を覗かせず、いつも背中を丸めた姿勢に、もはや誰も気に留めることなどない。
やがて両親との会話も減り、ひとり部屋に閉じこもる時間で一日が占められた。
黙々とベッドの中で蹲りながらひたすら空想をするだけ。
世間体は、両親の心をかき乱していった。
悩んだ末に思いついたのは「今までとは真逆の扱いをすれば変わるのでは」という暴挙であった。
彼らにとっては、ほんのショック療法のつもりであった。
年も暮れる師走の頃、「今年中には」と決行される。
突如として那最の部屋は押し開けられ、彼女は床に正座させられ、叱咤と罵倒で何時間もこき下ろされた。
泣いたり足が痺れて座りなおしをすると、その怒号は荒いで勢いを増す。
カーペットが敷いてあるとはいえ、床はひんやりと冷えていた。
大人2人、10歳にも満たない子供を囲って自らの声が枯れるまで責め続けた。
「あのね」
一通り終わったあと、母親が深呼吸をする。
「那最が立派に立ち直ってくれることを願って、私たちは敢えて厳しくしたの。
これはあなたの為なのよ。わかってね」
そして、いつものように優しく微笑むと、それを合図に父親も元に戻った。
辛気な空気を吹き飛ばすかのような、まぶしい、やりきったとでも言いたげな笑顔。
彼らは項垂れた那最の頭を撫でると、満足気に部屋を出た。
残された那最は、確かにショックを受けた。ただし治療なんかではない。
心の深層に鋭いメスが刺さり、めくり上げられた傷口からは大量出血のようにドス黒い怨念と・・・憎悪が噴き上げられた。
幼い頭の中ではひたすら、物心がついてから今までの記憶が眩暈を引き起こすほどの超スピードでめぐるめぐる。
そうして彼女は
「こうなったのは全て両親の躾が原因」
という結論を導き出した。
「何が、立派に立ち直ることを願って、だ。
今更何が、敢えて厳しく、だ。
これはあなたの為?振り返れば、今の今まで為になったことなんてひとつもなかった。
わかってね、とは何だ。お前たちが自分の無能さをわかれ」
「自分は間違っている?いや両親が間違っている。
自分のせいじゃない。上手く育てられなかった両親の責任だ。
こうなったのは、全て両親のせいなんだ」
煮えくり返ったはらわたは、他の臓器までをも黒く焼き尽くした。
許さない。子育ての失敗を子どもに押し付けるなんて――
この名門校は、普通の小学校ではまだ習わない理科の授業を早めに教えてくれた。
すなわち、ガスという知識を。
那最は両親が仕事で不在の隙を狙い、煙突に大量の薪を詰まらせ、ガス栓を臭気に気付かれないギリギリ最小限に開放した。
準備が完了したのち、彼女は近くの公園へ暇を潰しに出かけた。
やがて、両親が帰宅した。
彼らは仕事の疲れから一刻も早くくつろぎたく、リビングのソファに腰掛け、
母親は暖炉に、父親は葉巻に火をつけた。
バン!!!
景気の良い爆発音に続き、煤と共に黒煙が昇る。
那最はその様子をジャングルジムのてっぺんから凝視した。
あたりの住人はパニックに陥り、消防車もサイレンを響かせて・・・とにかく大騒ぎ。
頃合を見計らって、那最は何もわからない風を装い野次馬へと歩いていった。
彼女は保護され、施設へと預けられる。
学校では「両親を事故で亡くした子」として一抹の同情を得ることとなった。
ただ相変らず、那最は一切口をきかないし誰も話しかけてはこない。
でもそれでも良かった。
諸悪の根源である両親の存在が消えたことで、いくばくか気持ちが楽になったから。
ハッ!と目が覚める。
いつの間にか眠っていたらしい。弱々しかった握力も、睡眠補給のお陰で強く握り締められるように回復した。
「ほら見て、可愛い。那最の手に指を滑り込ませるとね、ぎゅって、握ってくれるの」
母親は那最が小学校に上がる年齢になってもそれをやめなかった。本当に、呆れるまで繰り返していた。
さっきの夢を思い返して、両親の死という甘い記憶を堪能する。そして甘やかされた苦い記憶に渋くなる。
ベッドから身を起こして、何故今まで思いつかなかったのだろうと、アルバムをめくった。
亡き両親は今やこの写真の中にしか存在しない。
少女はハサミを持ち出すと、その2人の部分だけ丁寧に切り取り、シュレッダーにかけた。
「海馬に蓄積された記憶なんか、ただの電気信号。放っておけばレセプターも神経伝達物質量も衰えて、自然消滅してくれるさ」
粉々になったもと写真に火をつけて燃やし、足で踏みにじって鎮火を確認すると、
最初から存在しなかったことに、いつかなりますようにと願いをこめて
再びベッドに潜り込んだ。
ダムナティオ・メモリアエ